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神の存否-124 スピノザの当時の世界では、近代西洋思想史に他国と比較しては自由だといえた海洋貿易・商業都市としての形成を整えたネーデルランドの自由都市群も、ネーデルラントのオレンジ公ウィリアムは(オラニエ公ウィレム(ヴィレム)の英語名に基づく、「沈黙公」として知られている、但しこれは反乱直前の時期の旗幟を鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりであったウィレム1世(Willem I/1533年 - 1584年)、オラニエ公。八十年戦争勃発時の中心人物で、オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主を経て、ウィレム2世となり、偉大なる革命(Glorious Revolution)とも呼ばれる英国の名誉革命、事実はオランダ主導によるイギリス侵略という側面を強調する歴史解釈もあり、現在では、名誉革命は内乱と外国の侵略が併存した「革命」であり、イギリス人の誇り及び介入したオランダ政府の政治的思惑などから、外国の介入の要素が意図的に無視されてきたとされている記述もありますが、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)が血縁的なこともありイングランド国王に即位、其の宗教統制にはオランダも巻き込まれます。其の最中のスピノザの云う「神」存在の思考は当然に危険思想となります。予想するに彼の存在論的神学態度は、自己の属する民族の旧約の偏重を認識した上での尊重と解釈、新約によるユダヤ民族への人身供犠の罪過の偏重を、両者ともに解消する試みであった可能性があります。 定理二七 神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにすることができない。 証明 この定理は(公理三 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。)から明白である。 此のことは当然に当時の西洋神学の「精神の自由」論からの反撃があることをスピノザも承知していたでしょう。哲学・思想ランキング
2021年07月31日
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神の存否-123 一般に二つの物体の間に力が働いているとき、その力によって一方が他方に及ぼす影響、またはそれによって生ずる変動のことを作用といいます。広義には物体に限らず物質や波動の構成成分間、若しくは、物理現象のみならず化学反応現象に関しても、更には、心理現象や社会現象においても相互の間に働く力の結果という意味で作用という言葉が用いられますが、スピノザの著「エチカ」定理二六は、二つの物体の間に力が働いているとき、その力によって一方が他方に及ぼす影響を想定していると思われますが、絶対意思・絶低意識から性状をも意識してる可能性があります。 定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。 証明 物がある作用をするように決定されていると言われるのは必然的に積極的なあるもの、言い換えれば神の意志作用のためである(それ自体が持つ本質からして明らかなように)。したがって神は自己の本性の必然性からそうしたものの本質ならびに存在の起成原因である(定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。および、定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。)により。これが第一の点であった。これからまたこの定理の第二の部分がきわめて明瞭に帰結される。なぜなら、神から決定されない物が自己自身を決定しうるとしたら、この定理の第一の部分が誤りとなるであろう。しかしそれが不条理であることは我々の示した通りである。 此れは、物質的であれ精神的であれ、神を基とする作用因には全てに「自由原因」が無いことになります。スピノザ批判が起こる由縁となる筈です。哲学・思想ランキング
2021年07月30日
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神の存否-122 スピノザは定理二五の神を物の存在の起成原因、且つ、物の本質の起成原因としての証明を用意しますが、人間が物理科学的に表象する限りにしても、目にすることが出来得る証拠は望めない以上、神を物の存在の起成原因、且つ、物の本質の起成原因を証明するには、否定する論法で否定の否定は肯定だろうと逆説的に証拠を指し示します。 証明 此れ(神を物の存在の起成原因、且つ、物の本質の起成原因)を否定するなら、神は物の本質の原因でないことになる。したがって(公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。)により、物の本質は神なしに考えられ得ることになる。しかしこれは(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により不条理である。ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと結びます。 更には、自己原因たるものの存在、即ち、永遠の「有」を「備考」にて説きます。 備考 この定理二五は(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ)からいっそう明瞭に帰結される。というのは、神の本性が与えられると、それから物の本質ならびに存在が必然的に結論されなければならぬということが定理一六、言い換えれば神の絶対存在・絶対意思・絶低意識から帰結されるからである。一言で言えば、神が自己原因と言われるその意味において、神はまたすべてのものの原因であると言われなければならぬ。このことはなお次の系からいっそう明白になるであろう。と更に「系」なるもの、ある定理を導く段階で,証明などのため必要な定理の補助定理として、 系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)にほかならぬ。この証明は定理一五(すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)および定義五(様態とは実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解する。)から明らかである。と締め括ります。 神を物の存在の起成原因、且つ、物の本質の起成原因とするスピノザの定理二五は神の絶対「存在・意思・意識」を物質物理科学的なものとは捉えず、神の見得ざる情報因子と捉えているのかも知れません。此のことを肯定すれば、最先端の量子重力理論に置ける質量ゼロに対する対応が見極められるかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年07月29日
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神の存否-121 スピノザにしろ、大乗哲学の祖である龍樹にしろ、将又、量子重力理論にしろ、言わずもがなキリスト教を始めとする唯一神教も、世界が虚無から生まれたことには否定的です。「神」の意味するところの語彙を問わなければ、神を些か異にする小乗・大乗を除いては、絶対存在と捉える思考自体は近似します。 定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。 証明 これを否定するなら、神は物の本質の原因でないことになる。したがって(公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。により)により、物の本質は神なしに考えられうることになる。しかしこれは(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により不条理である。ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。 物の本質とは何か、哲学では、一時的偶然的に事物に付着するような偶性に対して、当の事物そのものの基本的性質。そのものが何であるかという問いに対する定義によって表わされる内容。論理学では、定義を構成する類、種などの普遍を一般的に指すとされますが、其れ等は全て「モノ」の永久遡及の共通する起成原因を究めんとするものです。 起成原因とは「起成原因」:何らかの結果(effectus)を生ずる動力となる原因のこと。成果的原因・動力原因・期成原因・活動原因・作用原因などとも訳される。スピノザにあっては原因=起成原因であってこれ以外の原因を彼は認めていない。哲学・思想ランキング
2021年07月28日
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神の存否-120 情報因子たる世界の波が、神の絶対意思の属性であれば、量子重力理論科学の宇宙論及び大乗仏教の祖である龍樹の「空観」なるものが浮かび上がります。何れの思想にも「(零=無)≒虚」」の概念は存在しません。両者共に世界を幾ら切り刻んでみても、真実在のない「零=無」は顕れては来ません。 定理二四 神から産出された物の本質は存在を含まない。 証明 定義一 自己原因とはその本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないものと解するから明白である。なぜならその本性(それ自体で考察された)が存在を含むような物は自己原因であって、単に自己の本性の必然性のみによって存在するからである。 系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること、あるいはスコラ学派(スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、暇な人が集まるところが「スコラ」だった。)其の用語を用いれば)神は物の「有ることの原因」でもあることになる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯一者たる神(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考備考 これから分かるのは、たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それどころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってまた、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実有(我々が定義六で述べたように)と定義しなければならぬことほど明瞭なこともないのである。 だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろうで暗示したことであるにより)のみがこれをなしうるのである。哲学・思想ランキング
2021年07月27日
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神の存否-119 スピノザの著作「エチカ(倫理学)」の題名に多少関係するのが、定理二三の必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するがあります。 証明 何故なら、様態は他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられなければならぬ(定義五により)。言いかえれば(定理一五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。)により、神のうちにのみ在りかつ神によってのみ考えられ得る。ゆえにもし様態が必然的に存在しかつ無限であると考えられるなら、この二つ、同一本性あるいは同一属性のことは、必然的に、無限性と存在の必然性、すなわち(定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する)により同じことだが、永遠性を表現すると考えられる限りにおいての、言いかえれば(定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。および定理一九 神あるいは神のすべての属性は永遠である。)により、絶対的に考察される限りにおいての、神のある属性によって結論ないし知覚されなければならぬ。ゆえに必然的にかつ無限に存在する様態は、神のある属性の絶対的本性から生起しなければならぬ。そしてこのことは直接的に起こるか(これについては定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。)、それともその絶対的本性から生起するような、言いかえれば、(前定理定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。)により、必然的にかつ無限に存在するような、ある種の様態的変状を媒介として起こるかでなければならぬ。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと結びます。 此れは、何様に捉えても印度の大乗仏教の祖である龍樹の著「空論」を想起させます。スピノザは詰まるところ、ものの様態的変状を縁起の如く捉え、其れを大乗の「空」ではなく、神に帰しています。然し乍ら、其の神たるものにも神格性を縁起の根本「空」たるもののように、世界の全てが或る「一点」帰す存在を示唆しています。私見では其れこそが情報因子たる世界の波(重力子/graviton)のように覚えます。哲学・思想ランキング
2021年07月26日
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神の存否-118 スピノザの定理二三の必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬに登場する様態とは、事物の在り方についての諸規定を意味する。ただしこのような諸規定のうちでもその事物にとって不可欠な基本的性質である本質が属性とよばれるのに対し、様態はその事物にとって付帯的、することもしないこともありうるものの在り方であるような諸性質・諸規定、即ち変化要素を意味する偶有的存在です。ところでこの属性(本質)と様態(偶有性)との区別はアリストテレスにまでさかのぼるが、中世、近世の哲学でもさまざまに議論されているところです。例えばデカルトでは精神と物体が実体とされ、思惟(しい/しゆい)と延長がおのおのの属性と看做されるとともに、情意、判断、欲求が精神の様態として、また位置、形、運動が物体の様態として考えられている。またスピノザでは神が唯一の実体であり、思惟と延長がその属性であり、それらの変容したもの、すなわち個々の人の心や個々の物体が様態とされている。さらにロックでは、様態は印象や単純観念から合成された複合観念の一種とされている[清水義夫]。とされます。 デカルト・スピノザ以来、事物の本質にかかわる属性とは区別された。事物の偶然的な属性・様・様状・状態・偶有性の語彙から変化を捉えた運動や時間の変異を伴うものを意味するとも捉えられます。 定理二三 必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬ。 つまりは、事物の本質にかかわる属性と区別された事物の偶然的な属性・様・様状・状態・偶有性の語彙から変化を捉えた運動や時間の変異も思考上にて遡及すれば神の全体性に呑み込まれています。哲学・思想ランキング
2021年07月25日
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神の存否-117 神の属性とは神話や宗教及び哲学、はたまた科学的論理学の其れ々が問いますが、全てその主張が相違するのは属性の基礎に置くものの基状が異なるのですからが当然です。其々の立ち位置から「神の属性」其のものの語彙の解釈も相違するからです。「神」そのものも、神話は人格の投影であり、宗教は神格性の顕れであり、哲学では虚無主義を除いては絶対存在若しくは絶対意思として表現され、科学的論理学の其れは世界の汎ゆる物質・情報の顕れである変化の根本、量子重力理論では暗黒物質たるダークマターまでもが登場します。何れにしろ「神の属性」とは、時事転々変化する世界の性状を神に帰することから生じます。言い換えれば「神の属性」とは人間精神が捉える絶対者の性状のことだとも云えます。 定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。 証明 この定理の証明は前定理の証明と同様の仕方、否定論法で進められる。 此の論考はスピノザが多分に人間精神が捉える世界の実体を模索しているように憶えます。簡略化すれば、可能性として人間精神の思考が神に遡及する可能性を仄めかしているともとれます。哲学・思想ランキング
2021年07月25日
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神の存否-116 スピノザは定理定理二一の証明の後半部で、「思惟の中に神の観念が生ずると考えてみよ。さて思惟は神の属性と仮定されているのだから、その本性上必然的に無限である」と述べています。此の「思惟(しい・しゆいに同じ)」の語句ですが、哲学では感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用をいうとありますが、スピノザの云う「思惟」はどの様な意味合いが与えられているのでしょう。スピノザは仏教にも造詣が深かったと推定されており、「思惟」は単に思い巡らす思考ではなく、世界のありとあらゆるものを対象とする思考、仏教の覚りを「思惟」の本意としているように憶えます。 次に、ある属性の本性の必然性からこのようにして生起するものは定まった存在ないし持続を有することができない。なぜというに、これを否定しようと思う者は、ある属性の本性の必然性から生ずる物が神のある属性の中に在る、例えば神の観念が思惟の中に在ると仮定し、なおまたこの観念がかつて存在しなかったあるいは将来存在しなくなるであろうと仮定せよ。ところで思惟は神の属性と仮定されているがゆえに必然的にかつ不変的に存在しなければならぬ(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。および定理二〇の系二系二 第二に、神あるいは神のすべての属性は不変であることになる。なぜなら、もしそれが存在に関して変化するなら、本質に関しても変化しなければならないであろう(前定理により)。言いかえれば(それ自体で明らかなように)異なるものが偽なるものになることになるであろう。これは不条理である。)により。ゆえに神の観念の持続する限界の外では(というのは神の観念はかつて存在しなかった、あるいは将来存在しなくなるであろうと仮定されているのだから)思惟は神の観念なしに存在しなければならないであろう。ところがこのことは仮定に反する。なぜなら、思惟が与えられればそれから必然的に神の観念が生ずると仮定されているのだから。このゆえに、思惟の中における神の観念、または、神のある属性の絶対的本性から必然的に生起するある物は、定まった持続を有することができ、むしろその属性によって永遠である。これが証明すべき第二の点であったと、神の絶対的本性から神のある属性の中に必然的に生起するすべてのものについても同じことが当て嵌まるとに注意されたいと念を押します。哲学・思想ランキング
2021年07月24日
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神の存否-115 スピノザが神のある属性の絶対的本性、言い換えれば、人間である場合は身体的・精神的な制約を持つ本性ですが、其の制約がなく無限の自由を持つ神は、此の属性により世界の有りと有らゆる属性が「実体」に属することになります。 証明 この定理二一を否定しようとする者は、もし出来得るなら、神のある属性の絶対的本性からして、その属性の中に有限で、且つ、定まった存在ないし持続を有するあるものが生ずる。例えば思惟の中に神の観念が生ずると考えてみよ。さて思惟は神の属性と仮定されているのだから、その本性上必然的に無限である(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により。しかし思惟は神の観念を有する限り有限であると仮定されている。ところが(定義二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。)により、思惟が有限と考えられるのはそれが思惟自身によって限定される場合のみである。だが思惟は神の観念を構成する限りにおいての思惟そのものによっては限定されない、なぜならその限りにおいて思惟は有限であると仮定されているのだから。ゆえにそれは神の観念を構成しない限りにおいての思惟によって限定されるのである、そしてそうした思惟もまた必然的に存在しなければならぬ(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により。これで見れば神の観念を構成しない思惟が存在することになる。したがって神の観念は絶対的なものである限りにおいての思惟の本性から必然的に生ずるのではないということになる(なぜなら神の観念を構成する思惟と構成しない思惟とが考えられるのであるから)。このことは仮定に反する。ゆえにもし神の観念が思惟の中に、またはあるものが神のある属性の中に、この証明は普遍的なものであるから何をとろうとも同様であることを踏まえて、その属性の絶対的本性の必然性から生ずるとしたら、それは必然的に無限でなければならぬ。これが第一の点であった。即ち、定理二一の前半部分、神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬとの記述を追認します。哲学・思想ランキング
2021年07月23日
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神の存否-114 スピノザが問う世界の起原は、定理二一の前半部分、神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬとの記述から、現代物理科学理論の最先端を走ると目される量子論と相対論の矛盾点を解消しようとする量子重力論の、宇宙が素粒子さえもが呑み込んだ、究極の情報因子、限りなく零に近いが無ではない情報の量子の海を連想させます。定理21の後半部分の言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限であるとの記述は、宇宙が「実体」の顕れと取るならば生成消滅を繰り返すのではなく、膨張収縮を繰り返す、若しくは、宇宙を祭り屋台の細工風船の如くに連鎖した膨張収縮を反復しているのかもしれません。 定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。 その証明としては、現代の宇宙観測物理科学の恩恵がない以上、持ち前のレンズ磨きの職人として観測すべき観測装置の影響下にありますが、此れを踏まえてスピノザは彼一流の数学的演繹法を以って、定理二一の神の属性の絶対的本性を証明することを試みます。哲学・思想ランキング
2021年07月22日
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いっぷ句-65天上破れ豪雨荒ぶる我が大地 愚通人気ブログランキング
2021年07月21日
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神の存否-113 量子重力論の情報の波が原子等の組成を持った物質であれば、当然に質量があり、日本の朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受賞した事でお馴染みの素粒子、今現在の2021年では6種類、「物質を構成する粒子」・「力を媒介する粒子」・「質量の起源となる 粒子」の 3 タイプあるとされ、クォークはアップ(u)、ダウン(d)、チャーム(c)、ストレンジ(s)、トップ(t)、ボトム(b)の 6 種類、「物質を構成する粒子」・「力を媒介する粒子」・「質量の起源となる 粒子」の 3 タイプに分別されます。更に、強い力を感じない素粒子であるレプトン(軽粒子)である、電子、ミューオン、タウとそれと対をなす電子ニュートリノ、ミューオン・ニュートリノとタウ・ニュートリノがあります。加えて此処に新たなるものとして、21世紀の量子重力理論は宇宙を充たす情報の波を齎す、液晶画面の粒子のような性質を持つ、光学的には、何ものにも見えざる・聞かせず・言うこと能わずの隠された情報因子なるものがあるとの仮説もあります。仮にでも此れを物理科学的に論理的な説明が出来得るならば、宇宙は此の情報の波に充たされた情報因子なるものの海における属性の顕れであり、神の本質「絶対意思」が世界の情報み関与した根拠となります。此の論考に従えば、宇宙は神の絶対意思から成り、見掛け上は生成消滅を繰り返すも、永遠を基にすることから本質は継続することがが予期されます。哲学・思想ランキング
2021年07月20日
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神の存否-112 スピノザの「エチカ」定理二一には「絶対的本性」なる語句が登場します。此の本性(ほんせい、亦は、ほんしょう/ Human Nature)は、本来は人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念ですが、スピノザの神の本性を絶対とした絶対永遠の意を加味します。此のことから、仮にスピノザが世界を支配しているものを「絶対的本性」とするならば、宇宙の実体には神の本質である「絶対的本性」があります。本来は人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念に神なる「実体の本性」を持ち込めば、宇宙内物質は神の本性の顕れであり、宇宙は神の本質が関与した情報により成り立っていることになります。世界のありとあらゆるものは、神の本質が関与しており、物質化したものだと云うことです。其の意味合いでは、神が宇宙に生まれたのではなく、宇宙を神が本質的な意思「絶対意思」、言い換えれば神自身の絶対情報の具現だとも云えます。百歩進めて考察すれば、我々人間が「世界を観相」しているのは「神の観想」、量子重力論の情報の波の世界かもしれません。哲学・思想ランキング
2021年07月19日
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神の存否-111 従来の量子理論と相対性理論の相互に情報を対照すれば必ず矛盾が生じました。量子論は名称の如く全ては量子(quantum)、物理学において用いられる様々な物理現象における物理量の最小単位で、主に巨視的な物理を取り扱う古典力学では、物理量は実数で表される連続量だが、量子力学では、量子を数え上げたものとして扱われる。たとえば電気量は、電気素量の整数倍の値となる。亦、量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれまれ、其の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っているとの説が有力です。即ち、無限小の単位は零にはならないということです。片や、相対論 ( theory of relativity)は特殊相対性理論と一般相対性理論の総称で、物理史的には、古典論に分類される物理の分野としては、物理法則はあらゆる座標系に対し同じ形式で表されるニュートン力学の絶対空間・絶対時間(時間)の考えを否定し、ニュートン力学と光の電磁気理論との矛盾を時間・空間の考え方に新概念を導入して解決したもので、1905年に発表されています。この理論は電磁気の理論の基礎を明らかにしたばかりでなく、その後に発展した原子核・素粒子の研究の手段として活躍したのですが、一般相対性理論は、1916年に完成された理論で、重力の相対論的理論の一つであり、特殊相対性理論と異なり、まだ完全に実証された理論ではなく、ブラックホールの特異点の重力崩壊を解決できない課題を残していました。つまりは、宇宙の特異点とは零でも無く虚でも無い矛盾点だということです。此のことに、現代の宇宙(観測)物理科学の最先端を走る量子重力理論が双方の物理科学理論の入れ子構造で解決を図りました。此処から宇宙は虚無に陥ることも無く、無限地獄を脱出します。哲学・思想ランキング
2021年07月18日
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神の存否-110 スピノザは定理二〇に置いては、神の存在とその本質とは同一であると掲げます。信教などでは人間の属性とされる性癖や偏執は人間特有のものであり、神を起因とするものではないと判断しがちですが、スピノザの云う実体としての神の存在と原理的性質である其本質に於ては同一に帰すとします。そしてプラトンはこの本質をイデアと呼び、アリストテレスやトマス・アクイナスはこれを形相(エイドス)と呼んだのですが、スピノザは人間の属性とされる性癖や偏執さえも神を起因としており、人間の在り方次第で人間精神の悲喜哀楽が生じるとし、倫理学を問い、人間の真の幸福を説きます。 証明 神ならびに神のすべての属性は永遠である(前定理一九 神あるいは神のすべての属性は永遠である。)により。言いかえれば(定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。 説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されないからである、たとえその持続を始めも終わりもないものと考えようとも。により)おのおのの属性は存在を表現する。ゆえに神の永遠なる本質を表わすその属性(定義四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するものと解する。)により神の永遠なる本質を表わすその属性が同時に神の永遠なる存在を表わしている。言いかえれば神の本質を構成するもの自体が同時に神の存在を構成している。したがって神の存在とその本質とは同一である。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。 系一 この帰結として第一に、神の存在はその本質と同様に永遠の真理であることになる。 系二 第二に、神あるいは神のすべての属性は不変であることになる。なぜなら、もしそれが存在に関して変化するなら、本質に関しても変化しなければならないであろう(前定理一九 神あるいは神のすべての属性は永遠である。)により。言いかえれば、それ自体で明らかなように異なるものが偽なるものになることになるであろう。これは不条理であると結びます。 此のことからも、神の本質には人間が勧善懲悪を求めるのにも神の本質が関与しており、此の場合には人間自らの幸福を求める洞察と論理と倫理が要請されます。哲学・思想ランキング
2021年07月17日
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神の存否-109 スピノザの定理一九の神あるいは神のすべての属性は永遠であるとした「神の属性」とは如何様に解釈すべきなのでしょうか。理解り易く対象を置き換えて見てみましょう。例えば、人間では何を属性と指し示すのでしょう。公開辞書では人間的属性(human attributes)とは、人間を人間以外の存在者から区別する種差のうち根源的なものをいうとあります。たとえば、古代ギリシアにおける最も有名な人間の定義は「ロゴスをもつ動物」でしたが、その場合であれば人間の第一の属性は「ロゴスをもつ」が第一の属性です。また言語も動物の直接的な合図とは次元を異にする種差であり、言語の存在は理性の存在と密接に連関するから、言語も属性の一つとしてもさしつかえないとされます。 (出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典→人間性 )。ところが、此れが「神の属性」ともなると、事体は一変します。先ず、人間が表象する限りに於いては、一部の神秘的奇蹟に基づく体験があります。真偽は別にしろ、永遠なる「神の属性」を審美眼的に体験しても一般的な通所生活を送る世間の人間には「神の属性」の物質世界の変幻や、神たる精神世界の内奥は通常世界での生活には以ての外の問題ですが、人生を過ごすときに、いつかは行き当たる疑問でもあります。インド大陸に置ける釈迦にも繋がる古代インド発祥の伝統的な宗教的行法であり、瞑想を主とする瑜伽(ゆが)。仏教とヒンドゥー教の修行法の源流として現代に繋がるのですが、深奥の奥義は精神で「神の属性」に触れて、其の属性から其の根元を極めることにあると思います。此れは正に禅宗の「花一輪落ちて世界を知る」状況であり、世界のあり方の状況を一片の「情報」をもって、世界の奥底を体験することであり、宇宙は物的にも情報的にも充たされた世界であることを暗示します。哲学・思想ランキング
2021年07月16日
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神の存否-108 物体はすべて空間上に位置し、ある形と大きさをもって空間の一部を占めている。物体の此の様な拡がりが延長といわれ、物体の基本的な性格として、屡々、哲学的議論に登場します。とくにデカルトでは、延長は心とともに実体とされた物体の本性と規定され、物体の世界の現象はすべてこの延長とその運動としてとらえられています。スピノザにおいては、物体は実体である神の属性の一つとされているが、そうした物体の本性としては、やはり延長を思考します。亦、イギリス経験論の父と呼ばれたジョン・ロック(John Locke/1632年 - 1704年)、ロックにおいては、延長は第一性質として固体性などとともに実在性をもったものとして表明されています。然し乍ら、カントになると、延長は物自体の属性とはされず、純粋直観の形式とされ、「直観の公理」によって経験の対象となる限りの物体の性格とされる。すなわちカントでは、延長はその実在性が否定され、ただ経験的な実在性をもつものとされています。スピノザは実体そのものを物質的に捉えた属性としての法則面と、神の延長としての思惟の精神的性格を両者共に属性としているように憶えます。 定理一九 神あるいは神のすべての属性は永遠である。 証明 なぜなら、神は(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。)により実体であり、そしてそれは(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。)により必然的に存在する。言いかえれば(定理七 実体の本性には存在することが属する。)により、その本性には存在することが属する。或いは同様に、その定義から存在することそのことが生起する。ゆえに神は(定義八 すべての実体は必然的に無限である。)により永遠である。次に、神の属性とは的実体の本質を表現するもの(定義四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するものと解する。)により、言いかえれば実体に属するものと解されるべきである。したがって実体に属するすべてのものは属性の中に含まれていなければならぬ。ところが実体の本性には(すでに、定理七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。)で証明したように永遠性が属する。ゆえにおのおのの属性は永遠性を含んでいなければならぬ。したがってすべての属性は永遠である。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。 備考 この定理は私が神の存在を証明した仕方(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)からもきわめて明瞭に分かる。つまりその証明から、神の存在はその本質と同様に永遠の真理であることが確立されるのである。さらに私は神の永遠性を他の仕方、「デカルトの哲学原理」定理一九で示した。「デカルトの哲学原理」はラテン語を学び、数学・自然科学・スコラ哲学およびルネサンス以後の新哲学に通暁し、とくにデカルト哲学から決定的な影響をうけたスピノザ。「神、人間および人間の幸福に関する短論文」及び「知性改善論」を書き、友人たちの求めに応じて、生前彼の名を付して公刊された唯一の書であるのは特筆に値します。その定理一九でも証明したと回答していますが、これをここでくりかえすことは必要ないであろうとの蛇足扱いをしています。哲学・思想ランキング
2021年07月15日
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神の存否-107 我々の常識は宇宙を構成する宇宙空間に漂う、重力的にまとまりをもった宇宙塵や星間ガスなどから成る天体等の星雲(nebula)、お互いの重力によってつくられた恒星の集団である星団(star cluster)、恒星やコンパクト星、ガス状の星間物質や宇宙塵、そして重要な働きをするが正体が詳しく分かっていない暗黒物質(ダークマター)などが重力によって拘束された巨大な天体である銀河( galaxy)の生成消滅が必定であることは一応に理解します。然し乍ら、宇宙そのものの生成消滅には理解し難いものがあります。何故なら、宇宙ない物質は消滅とは云え、其れは物質的変化に過ぎないからです。ところが、其れ等を包含する宇宙の生成消滅は殊更い話が相違します。宇宙に誕生があれば消滅があることは現代のIT技術をともなった高度観測物理科学は事実であろうことを予測させますが、人間精神は、人間が物質的生命体である以上、宇宙が「零」でもない「虚」若しくは「無」から生成され、「虚」若しくは「無」に帰すとは想像し得ないからです。「無」からの宇宙誕生はインフレーション理論にも明確には表現されていません。我々のどちらかと云えば合理的人間と呼ばれる人物は、物事には起生原因が在ること、消滅には滅亡原因が在ることを求めます。スピノザは定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではないとの言により、現世界の宇宙に関しては回答を用意しますが、世界である宇宙そのものの生成必滅の存在論には触れてはいません。仮に宇宙の生成消滅が常道であって、再起動する宇宙があれば此れは「神の死」若しくは「神の睡眠からの目覚め」なのでしょうか。将又、宇宙も虚空に幾つもが存在し其れ等全てが「一の実体」なのでしょうか。哲学・思想ランキング
2021年07月14日
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神の存否-106 スピノザは更に、一般的に神格性を神に賦与する知性および意志についてここでなお少しく語りたいと続けます。 さらに我々が一般に神に帰している知性および意志についてここでなお少しく語りたい。もしこの知性および意志が神の永遠なる本質に属するとしたら、この両属性はたしかに、人々が通常解しているのとは異なって解されるべきである。すなわち神の本質を構成するような知性および意志なら、我々の知性および意志とは天地の相違がなければならぬのであって、それはただ名前において一致しうるのみで他のいかなる点においても一致し得ないことは、あたかも星座の犬と吠える動物の犬との相互の間におけるごとくであろう。このことを私は次のように証明するであろう。もし知性が神の本性に属するとしたら、その知性は本性上、我々の知性のごとく、大抵の人々が主張するように、その対象があってあとからこれを認識したり、あるいはその対象と同時にあったりすることができないであろう。神は原因として万物に先立つからである(定理一六の系一 この帰結として、神は無限の知性によって把握されうるすべての物の起成原因であることになる。)による。寧ろ反対に、真理ならびに物の形相的本質(Essentia Formalis/エッセンティア・フォルマリス)は、それが神の知性の中に想念的にすなわち観念として、その通りに存在するがゆえにこそそのようにあるのである。だから神の知性は、神の本質を構成すると考えられる限り、実際に物の原因であり、物の本質ならびに存在の原因なのである。このことは神の知性・意志および能力が同一であると主張した人々も認めていたように思われる。このようにして神の知性は物の唯一の原因、すなわち、物の本質ならびに存在の唯一の原因であるから、それ自身は、本質に関しても存在に関しても、物とは必然的に異ならなければならぬ。なぜなら、ある原因から生ぜられたものは、まさに原因から受けたものにおいてその原因と異なるのであり、このゆえにこそ、それはそうした原因の結果と呼ばれるのであるから。例えば人間は他の人間の存在の原因ではあるがその本質の原因ではない。この本質は永遠の真理だからである。そしてこのゆえに、人間は本質に関してはまったく一致しうるが、存在においては異ならなければならぬ。したがって一人の人間の存在が滅びたとてそのゆえに他の人間の存在が滅びるということはないであろう。しかしもし一人の人間の本質が破壊されて虚偽のものになるということがありうるとしたら、他の人間の本質もまた破壊されるであろう。このようなわけで、ある結果の本質ならびに存在の原因である物は、そうした結果とは本質に関しても存在に関しても異ならなければならぬ。ところが今、神の知性は我々の知性の本質ならびに存在の原因なのである。ゆえに神の知性は、神の本質を構成すると考えられる限り、我々の知性とは本質に関しても存在に関しても異なり、我々が主張したごとく、それは人間の知性とは名前において一致しうるだけで他のいかなる点においてもー致しないのである。 意志に関しても同じぐあいに議論を進めていけることは誰にも容易に分かるであろう。と締め括ります。 神には物質的にも精神的にも相対的にと云う語句は全く無く、全てが絶対であり全うしています。人類の古今東西、信仰は神に絶対性を賦与しているかにみえて、人格性を神に投影させてきました。此の事実が「信仰」と呼称されています。哲学・思想ランキング
2021年07月13日
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神の存否-105 定理一七の神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがないの備考の前半では、神を現実に最高の認識者と考えながらも、彼らは、神が現実に認識することをすべて存在するようにさせることができるとは信じないとの主張を取り上げ、其の不条理を定理一七の備考の後半に問います。 定理一七の備考の後半 これに反して私は、神の最高能力あるいは神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、即ちありとあらゆるものが、必然的に流出したこと。あるいは常に同一の必然性をもって生起すること。そしてこれは三角形の本性からその三つの角の和が二直角に等しいことが永遠から永遠にわたって生起するのと同じ次第であること。そうしたことを十分明瞭に示したと信ずる(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。)を見よ。ゆえに神の全能は現実に、永遠から存し、且つ、永遠にわたって同一現実性にとどまるであろう。そしてこの仕方で神の全能は、少なくとも私の判断によれば、あなた方の思考の論理よりは、遥かに完全に確立される。あからさまに言ってよいならば、そればかりでなく反対者たちは神の全能を否定するように見える。というのは彼らは、神が無限に多くの創造可能なものを認識しながら、しかもそれを決して創造しえないことを認めないわけにはいかないからである。なぜなら、もしそうではなくて、神がその認識するものをすべて創造したとしたら、神は、彼らの見解によれば、自己の全能を使い果して不完全なものになるからである。ゆえに彼らは、神を完全な者として立てるためには、同時に、神は自己の能力の及びうることをことごとくは成し得ないと主張しなければならぬ結果になるのであるが、およそいかなる仮定にしても、これ以上不条理なあるいはこれ以上神の全能に矛盾するものを私は知らないのである。哲学・思想ランキング
2021年07月12日
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神の存否-104 スピノザの本意は自由原因は物事の起生原因である神のみが持ち得るもので、仮に世界の創造に他者を立ち上げても無駄な想念だと定理一七の神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがないで示しますが、過去の宗教的な神格性の既成観念に囚われた者の抵抗を予期してて定理一七に備考の前半では彼等の言い分を後半では彼等の思考の論理への反論を用意しています。 備考 他の人々はこう思っている云々。神は、神の本性から生ずると我々の言ったことがら、言いかえれば神の力の中に在ることがら、そうした事柄を生じないようにしたり、或いはそれを神自身が産出しないようにしたりすることができる。彼らはそう信ずるがゆえに自由原因なのであると。しかしこれは、神は、三角形の本性からその三つの角の和が二直角に等しいことが起こらないようにしたり、あるいは与えられた原因から何の結果も生じないようにしたりすることができると言うのと同然であって、不条理である。 なお私は以下において、この定理の助けを借りずに、神の本性には知性も意志も属さないことを示すであろう。 たしかに私は、神の本性に最高の知性と自由な意志とが属することを証明しうると信じている多くの人々がいることを知っている。なぜなら彼らは、我々のうちにおいて最高完全性を意味するもの以外には、神に帰しうるより完全な何ものをも知らないと言っているからである。しかし、神を現実に最高の認識者と考えながらも、彼らは、神が現実に認識することをすべて存在するようにさせることができるとは信じない。なぜなら、もし仮にそうなれば、彼らは、神の能力を破壊すると思うからである。彼らは言う、神がその知性のうちに存することをすべて創造したとすれば、もうそれ以上何ものをも創造することができないであろうと。そしてこれは彼らの信念によれば神の全能と矛盾するのである。ゆえに彼らは、神が一切のことにたいして無関心であって、ただある絶対的な意志によって創造しようと決意したもの以外には何ものも創造しないという意見に傾いたのである。哲学・思想ランキング
2021年07月11日
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神の存否-103 人類は宇宙を構成する空間に生命胞子が育まれていたとの仮説は格別として、通常には物理科学や地質学及び考古学などの所論どおり、太陽系は現在から約50億年前、宇宙空間に漂っていたちりやガスが円盤状に集まり、中心に原始太陽生まれ、その後に惑星系が生じた訳ですが、同じ分子雲の中で太陽と同時期に誕生した恒星はまだ見つかっていない比較的古い恒星系です。地球のそれは今から46億年前のことです。 宇宙の始まりからすでに100億年あまりが経ってはいますが、古い恒星系だと云えます。此の太陽系第三惑星に生命が登場します。此れは物質的宇宙でも極めて稀であることは、未だに、高能力観測装置をもってしても他の星系に生命が見つからないことから奇跡であると云えます。何れにしろ、此の太陽系第三惑星の奇跡は起こるべくして起きたと解釈されます。其れは「世界の法則」言い換えれば情報に組み入れられていたに違いないという事実です。其の法則に関してのスピノザの答えが、 定理一七 神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。 証明 単に神の本性の必然性のみから、あるいは(同じことだが)単に神の本性の諸法則のみから、無限に多くのものが絶対的に生ずることを私は今しがた(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ)で示した。また定理一五では、いかなるものも神なしには在りえずまた考えられえず、一切は神のうちに在ることを証明した。ゆえに神の外には神を働くように決定しあるいは強制するいかなるものも存しえない。したがって神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。 系一 この帰結として第一に、神の本性の完全性以外には神を外部あるいは内部から駆って働かせるいかなる原因も存在しない、寧ろ、神は自己の完全性の力のみによって起成原因であるということになる。 系二 第二に、ひとり神のみが自由原因であることになる。なぜなら、ひとり神のみが、単に自己の本性の必然性のみによって存在し(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。および、定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考 これから分かるのは、たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それどころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってまた、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実有、我々が定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解するで述べたようにと定義しなければならぬことほど明瞭なこともないのである。 だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろう。で暗示したことである。)により、かつ単に自己の本性の必然性のみによって働く(前定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬによるにより。したがって(定義七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。)によりひとり神のみが自由原因である。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。 スピノザの本意は自由原因は物事の起生原因である神のみが持ち得るもので、仮に世界の創造に他者を立ち上げても張子の虎だという訳です。哲学・思想ランキング
2021年07月10日
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神の存否-102 スピノザの定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬの三つの系 系一 この帰結として、神は無限の知性によって把握されうるすべての物の起成原因であることになる。 系二 第二に、神はそれ自身による原因であって偶然による原因ではないことになる。 系三 第三に、神は絶対に第一の原因であることになる。先ずは、系一の神は無限の知性によって把握されうるとは、世界に起こる全ての物事を掌握しているということです。観測物理科学が存在を観測的に可視可能とする、物質を究極にまで細分化すると現れる物質要素とされるものを素粒子とします。観測物理科学が存在を観測的に可視可能とする前提に立てば、物を構成する一番小さい単位のことで、宇宙内存在である人間の身体も、白色矮星も、此処では一応、時空間の条件を充たすものを除いて、皆々が素粒子の集まりと云えます。時空間を除くのは、宇宙空間において時間粒子は観測されたことはなく、理論的にも無いとされるからです。同様に、物理科学的に空間粒子は予期されてはおらず、時空間を齎すものは宇宙を構成する他者の変形の状態と見るのが妥当でしょう。系二の神はそれ自身による原因であって偶然による原因ではないとは、他者そのものが無い、自己自身が起生因たるものには偶然性は有り得ないということを述べます。系三は第三に神は絶対に第一の原因であると述べますが、其処には、神への人間の影響を考慮する必要はなく、其れを人生の究極目標にしても見返しがない、此の一点がスピノザを自由国家ネーデルランドのスピノザを窮地に貶めます。ところがぎっちょん、スピノザは驚くなかれ、其れまでの信教の史的流れの「神の恩寵」の信仰的期待の方向を逆転し、「人間の至高の幸福」が神を受け入れることにあるとしたのです。哲学・思想ランキング
2021年07月09日
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神の存否-101 今や21世紀の物理科学は物質そのものは勿論のこと、宇宙の情報の起承転結までも観測対象に含めんとしているように思えます。言い換えれば「物質宇宙」に対して同等或いは並行的な「精神宇宙」即ち人間精神が感応可能な世界があるようにも憶えます。 それがスピノザの定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。 証明 この定理は次のことに注意しさえすれば誰にも明白でなければならぬ。それはおよそ物の定義が与えられると、そこから知性は多数の特質をーー実際にその定義(言いかえれば物の本質そのもの)から必然的に生ずるもろもろの特質をーー結論すること、そして物の定義がより多くの実在性を表現するにつれて、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むにつれて、それだけ多くの特質を結論すること、これである。ところで神の本性は、おのおのが自己の類において無限の本質を表現する絶対無限数の属性を有するから(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、このゆえに、神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)必然的に生じなければならぬ。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。哲学・思想ランキング
2021年07月08日
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神の存否-100 スピノザの定理一五は、「実体」の物体的実体たる全体性を捉えた論理を中心に展開しています。つまは、世界である宇宙を実際に、二分割・三分割・・・してみろという訳です。此れは、人間は物質等の空間が表象にては可能だと云えますが、ブラックホールやワームホール及びフォワイトホールを人類の物理科学が世界の創造に関わることが条件です。此の時点の地球人は信教で神格性を与えられた「神」其ものです。我々人間が世界の深奥に「神性」を感じるのは、何も物質的なものだけではありません。否、最も大きなもう一つの世界、其れが「精神世界」です。「精神世界」とは我々人間の精神が知性が世界から受け取る情報といえます。「精神世界」そのものは「量子重力理論」の学説の一つにある通り、宇宙の最小単位がそれぞれには情報の波であり、液晶の粒子のように宇宙に敷き詰められたものは、相互に情報を交換しながら伝搬する原子や素粒子をも超えた原初的なものが宇宙を充たしており、無限に極小化しても「零ないし無」とはなり得ない存在です。現代の最先端の観測物理科学は宇宙空間において、多くの「有から無」及び「無から有」の現象を観測から論じていますが、此れは物質的側面から見たものであり、質量ゼロの「情報波の静止」を無と捉え、「波動」を「有」と捉えれば、世界は無とは成り得ても、虚に取り込まれません。大乗の「空観」を連想させます。哲学・思想ランキング
2021年07月07日
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神の存否-99 スピノザは定理一五の備考にて、更に反対者たちの第一の論拠に次いで第二の論拠を提示し、加えて第二の論拠を提示します。定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。このことは明晰な推理が誤りないものであることを知るすべての人々、ことに空虚の存在を否定する人々が容認しなければならぬことである。なぜなら、もし物体的実体はその諸部分が実在的に区別されうるようなふうに分割されうるものとしたら、その一部分が消滅して他の部分は依然として前のように相互に結合しているということも不可能ではなくなるであろう。また空虚ができないようなふうにすべての部分が接合しなければならぬという理由もなくなるであろう。まったくのところ、相互に実在的に区別される物にあっては、一が他なしに在りうるしまたその状態にとどまりうるのである。しかし自然の中には空虚なるものが存せず(これについては他の個所で述べる)、すべての部分は空虚ができないようなふうにたがいに協力し合わなければならぬのであるから、このことからしてもまた、部分は実在的には区別されえぬこと、すなわち物体的実体はそれが実体である限り分割されえぬことが帰結されるのである。しかし今もし誰かが、なぜ我々は生まれつき量を分割する傾向を有するのかと尋ねるなら、私はその人にこう答える。我々は量を二様の仕方で考える。一は抽象的にあるいは皮相的にであり、これは量を〈普通に〉表象する場合である。他は量を実体として考える場合であり、これは単に知性のみによって〈表象の助けを借りずに〉行なわれる。ゆえにもし我々が表象においてあるままの量に心を留める(これはしばしばそしてより容易に我々のするところだが)なら、量は有限で可分的で部分から成るものとして現われるであろう。これに反してもし知性においてあるままの量に心を留め、そしてこれを実体である限りにおいて考える(これはきわめて困難なことだが)なら、それは、我々がすでに十分示したように、無限で唯一で不可分なものとして現われるであろう。このことは表象と知性とを区別することを知っているすべての人に十分明白であろう。ことに物質はいたるところで同一であってその部分は物質がいろいろなふうに変状すると考えられる限りにおいてのみ区別されるのであり、したがってその部分は様態的にのみ区別されて実在的には区別されないということにも注意するならば、いっそう明らかであろう。例えば水は水である限りにおいて分割されまたその部分は相互に分離されると我々は考える。しかしそれが物体的実体たる限りにおいてはそうでない。その限りにおいては水は分離されも分割されもしない。さらに水は水としては生じかつ滅する。しかし「実体」は生ずることも滅することもない。 これをもって私は第二の論拠にも答弁したと信ずる。なぜなら、それもまた、物質は実体として可分的でありかつ部分から成っているということに基づいているからである。そして仮にこの答弁でまだ十分でないとしても、なぜ物質が神の本性に価しないかは私の解しえないところである。なぜなら(定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。)により、神のほかには神の本性が働きを受けるいかなる実体も有りえないからである。あえて言うが、すべてのものは神のうちに在る。そして生起する一切のことは神の無限なる本性の諸法則によってのみ生起しかつ神の本質の必然性から生ずる(私がまもなく示すように)。ゆえに神が他のものから働きを受けるとか延長的実体が神の本性に価しないとかいうことは、いかなる理由をもってしても言うことができない。ーーたとえ延長的実体を可分的であると仮定してもただそれが永遠かつ無限であることを容認しさえするならば。しかし今のところこのことについてはこれで十分である。哲学・思想ランキング
2021年07月06日
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神の存否-98 スピノザは、彼が反論者たちの論拠を不条理だとして反証したのにもかかわらず、更に加えて、この不条理な仮定から、尚、延長的実体は有限でなければならぬと結論しようと欲するのなら、それはある人が、円は四角形の諸特質を有すると想像して、それから、円は円周に向かって引かれたすべての直線の等しいような中点を有しないと結論するのとまったく異なるところがない。何故なら、無限で唯一で不可分であるとしか考えることのできない物体的実体(定理八 すべての実体は必然的に無限である。定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。および定理一二 ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかなる属性についてもあてはまらない。)について、彼らはそれが有限であることを結論付けるために、それは有限な部分から成り、多様であり、可分的であると考えているのだからである。同様にまた他の人々は、線が点から成ると想像した上で、線が無限に分割されえないことを示す多くの論拠を発見することを心得ている。そして実に、物体的実体が物体あるいは部分から成るという仮定は、物体が面から成り面が線から成り最後に線は点から成るという仮定に劣らず不条理なのであるとユークリッド幾何学の定義を引用します。哲学・思想ランキング
2021年07月05日
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神の存否-97 スピノザは定理一五の備考では、更に反対者たちの第一の論拠に次いで第二の論拠を提示します。彼らは同様に、神の最高完全性からとっている。彼らは言う。神は最高完全な実有であるから働き受けることができぬ、ところが物体的実体は分割可能であるから働きを受けることができる、ゆえに物体的実体は神の本質に属さないと。 このようなものが著作家たちの間に見られる論拠である。彼らはこれによって、物体的実体は神の本性に価せずまた神の本性に属さないこと示そうと試みている。しかし正当に注意する者は、私がこれにたいしてすでに答弁していること見いだすであろう。なぜなら、これらの論拠は物体的実体が部分から成るという仮定の上にのみ立っているのであるが、そうした仮定が不条理なことは私のすでに(定理一二 ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかなる属性についてもあてはまらない。および定理一三の系 これらの帰結として、いかなる実体も、したがってまたいかなる物体的実体も、それが実体である限り、分割されないことになる。)で示したところであるから。さらにまた事態を正常に熟考しようとする者は、次のことを、すなわち、延長的実体が有限であるという彼らの結論の基礎となっているこれらすべての不条理、それについては今の私は論争しないが、もしそれがみな不条理なものとしては決して無限なる量を仮定することから生ずるのではなく、むしろ無限なる量が測定可能でありかつ有限な部分から成ると仮定することから生ずるということを認めるであろう。ゆえにこの仮定から生ずるもろもろの不条理から彼らの結論し得ることは、無限なる量は測定可能ではなく、且つ有限な部分から成りえないということだけである。そしてこれは我々が(定理一二 ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかなる属性についてもあてはまらない--云々。)で既にに証明したことと同じである。だから、彼らが我々を狙った投槍は、実は彼ら自身に向かって投げられているのである。哲学・思想ランキング
2021年07月04日
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神の存否-96 スピノザが定理一五の備考で神の実体を「完全体」であることを殊更に強調するのは、彼等の民族のかっての宗主国ユダヤ民族が打ち立てたユダヤ王国の民族宗教が、その後に、新たに神の子として、其のユダヤに直接的には無いにしても実質的には殺戮される運命を定められたナザレのイエスを始まりとする新教、時代を経て民族宗教の棄却を強制され、新教に改宗させられるも、信教の自由を求めて家族が海洋商業国家であって当時の自由国家と云われたネーデルランドに移住した家族。しかし、スピノザには此の地も安住の地ではなかった。スピノザは我が血脈の旧教への迫害からの悲嘆、新教への強制改宗圧力からの救出と自己自身の体験を持ち、その克服に確信をもってエチカで論述します。 スピノザは定理一五の備考で、神の実体が何ものにも因らない「完全体」であることを詳しく説明するため、反対者たちの論拠を反駁します。彼らの論拠はすべて次の点に帰着すると述べます。 第一に彼らは、物体的実体が実体として部分から成っていると思っている。そのゆえに彼らはそれが無限でありうることを、したがってまた神に属しうることを否定する。彼らはこれを多数の例で説明する。その一・二を私は引用してみよう。第一の論拠で彼らはこう言う。もし物体的実体が無限であるなら、それが二つの部分に分割されると考えてみよ、そうすればその各部分は有限であるか無限であるかであろう、もし前の場合なら無限のものが二つの有限なる部分から成ることになるが、これは不条理である。もし後の場合、すなわち各部分が無限であるならある無限のものより二倍の大きさの無限のものが存することになるがこれも不条理である。次に、もし無限の量をフィート単位で測るならそれは無限に多くのフィートから成るに相違ない。またインチ単位で測るなら同様に、それは無限に多くのインチから成るに違いない。したがって一の無限なる数より三倍大きいことになり、これも前のことに劣らず不条理である。最後に、もしある無限の量の中の一点から発するAB、ACのような二線が初めはある一定の距離をもって遠ざかりつつ無限に延長されると考えるならばBとCの間の距離はたえず増大して、ついには限定された距離から限定されえぬものになるであろう。こうしたもろもろの不条理は、彼らの考えによれば、無限の量を仮定することから生ずるのであるから、彼らはこのことから、物体的実体は有限でなければならぬこと。したがってまたそれは神の本質には属さないことを結論するのである。哲学・思想ランキング
2021年07月03日
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神の存否-95 スピノザの定理一五の備考で彼は、神の実体が何ものにも因らない「完全体」であることを強調します。 備考 神が人間のように身体と精神、神の場合は物体と精神から成り、感情に支配されると想像する人々がある。しかし彼らが神の真の認識からどんなに遠ざかっているかはすでに証明されたことどもから十分明白である。私はこうした人々のことを問題にせずにおこう。神の本性についていやしくも考察したほどの人なら誰でもみな神が物体的であることを否定するからである。このことを彼らは云々。物体とは長さ・幅・深さを有しある一定の形状に限定された量をいうのであるが、神すなわち絶対に無限な実体についてそうしたことを言うほど不条理なことはあり得ないということから、最も神が物体的であることの否定を証明している。 しかし一方彼らは、このことを証明するのに用いた他の諸理由によって、彼らが物体的実体そのものあるいは延長的実体そのものをも神の本性からまったく遠ざけていることを明らかにし、そして物体的実体は神から創造されたものであると主張する。しかしそれがどんな神の能力によって創造されえたのかを彼らは全然知ってはいない。これは彼らが自分自らの言うところを理解していない明白な証拠である。私はいかなる実体も他のものから産出ないし創造されえないこと、少なくも自分の判断では、十分明瞭に証明した(定理六の系 この帰結として、実体は他の物から産出されることができないことになる。なぜなら、公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。および定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないものと解する。定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解する。定義五から明白なように、自然のうちには、実体とその変状とのほか何ものも存在しない。ところが実体は実体から産出されることができない(前定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。)により。ゆえに実体は絶対に他の物から産出されることができ得ない。および定理八の備考二 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないすべての人々にとって、定理七の証明 実体は他の物から産出されることができないを理解することは疑いもなく困難であろう。なぜなら彼らは実体の様態的変状と実体自身とを区別せず、また事物がいかにして生ずるかを知らないからである。この結果として彼らは、自然の事物に始めがあるのを見て実体にも始めがあると思うようになっているのである。私はいかなる実体も他のものから産出ないし創造されえないことを、少なくも自分の判断では、十分明瞭に証明した。我々はまた定理一四で神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえないことを示し、このことからこの部の同定理の系二の第二に、延長した物および思惟する物は神の属性であるか、そうでなければ(公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。)により、神の属性の変状であるということになるの中で延長的実体が神の無限に多くの属性の一であることを結論した。哲学・思想ランキング
2021年07月02日
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神の存否-94 仮に、宇宙が我々人間が存している唯一の世界であるならば、此の宇宙の実態は、スピノザの云う「実体」の反映、実体の様体の延長と属性が我々人間が物理科学や精神科学を通して観念できるものとなります。何しろ、スピノザの云う「実体としての神」は「有(常有)」であって世界に在する「モノ」として表現出来るしろものではるありません。其れ故に、宇宙=世界=実体とは成りません。スピノザの云う「実体としての神」は、物理科学的には宇宙とその世界の基盤にして、精神科学的には思惟の根本だと云えます。仮に、量子重力論の宇宙を充たすもの無限小のものが情報の波としてあるならば、此れを踏まえて情報科学的に分析すれば、実体の解析に一歩近づくかも知れません。 定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。 証明 神のほかにはいかなる実体も存せずまた考えられえない(定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。により)により。言いかえれば(定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないものと解する。)により、神のほかにはそれ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられる物は何もない。一方、様態は(定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解する。)により、実体なしには在り得ず、且つ亦、考えられ得ない。詰まり、様態は神の本性のうちにのみ在り得るし、且つ、これによってのみ考えられうる。ところが実体と様態のほかには何物も存しない(公理一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないものと解する)により。ゆえに何物も神なしには在りえずまた考えられえない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。 此処で重要なのは「何物も神なしには在りえずまた考えられえない。」の語句です。並行宇宙説、多極宇宙論は認めるにしても、宇宙の生成消滅論は神としての「実体」の消滅を予感させ、ニーチェの「神は死んだ」の語句を思い出させて無限の虚無の恐怖を抱かせます。スピノザは神の実体の本性を如何様に捉えているのでしょう。哲学・思想ランキング
2021年07月01日
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