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神の存否-155 定理三二の意志は自由なる原因とは呼ばれ得ずして、ただ必然的な原因とのみとする論は、スピノザが神存在を絶対無二の「有」存在と認識するところから生じます。つまりは、意志とは原因を要することになります。此れではすべての規制原因である「神」が存在することは矛盾に陥ります。 系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。 系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物が(定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。)により、神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために、というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まったく同様な関係に立っているのである。 此処で新たに再確認したいのは「神の本性」とは何かでしょう。哲学・思想ランキング
2021年08月31日
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神の存否-154 スピノザは定理三二において、当時の西洋の思想・宗教にあって主流を占めていた人間の「意志の自由原因」説に果敢に挑みます。我々人類の思考とは神の内にあり、其の「意思」というもの、其れを実体化若しくは認識化する「意志」たるものが自由だとするのは人類の思い込みだとするのがスピノザの論理的判断です。 定理三二 意志は自由なる原因とは呼ばれ得ずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。 証明 意志は知性と同様に思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二八により)個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限に進む。もし意志を無限であると仮定しても、それはやはり神から存在および作用に決定されなくてはならぬ。そしてこれは神が絶対に無限な実体である限りにおいてではなくて、神が思惟の無限・永遠なる本質を表現する一属性を有する限りにおいてである(定理二三により)。ゆえに意志はどのように考えられても、つまり有限であると考えられても無限であると考えられても、それを存在および作用に決定する原因を要する。したがってそれは(定義七により)自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的なあるいは強制された原因とのみ呼ばれうる。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。 此の定理三二の意志は自由なる原因とは呼ばれ得ずして、ただ必然的な原因とのみとする論は、スピノザの「倫理」思想の根本であり、他の哲学や諸々の思考分野、特に唯一神教からは攻撃の矢面にされることは承知していた筈です。此れを紐解けば、神存在其のものも其の遺志のあり方は完璧故に変更の要素はなく、知性と同様に思惟のある様態にすぎない人間の意志たるや、自由原因でないのは理の当然でしょう。哲学・思想ランキング
2021年08月30日
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神の存否-153 スピノザ「エチカ」定理三二では「意志」なるものが遡上します。此の「意志」と「意思」という漢字は、どちらも内面を表す言葉。それぞれの意味もなんとなく似ているような気がして、違いを理解するのは難解です。「意思」と「意志」、前者の「意思」は思考及び気持ちの意味を持つ。頭若しくは心の中で考えていることであり、出どころが曖昧模糊なものもあれば、クリア解析分析が可能な思考も含みます。「思」の文字は、「田」と「心」でつくられる漢字。漢語的には心の在りどころが、脳の中という意味「田」に考えが浮かんでいる状態を「思」というと説明されます。従いて、「意思」は頭の中に考えがぼんやりと浮かんでいる状態、願望の段階に留まるものだとも云えます。片や、後者の「意志」は思考よりも対象へ、より矢印が向いている様子を指し示します。文字通り、「志」の漢字は「士」と「心」でつくられています。漢語的には「士」は「之」の簡略化で「足跡」のかたちを示すとあります。足で対象へ向かっていることを表し、つまり方向性があるということ。従いて、「意志」とは「積極的ではっきりとした意向」を云い、「意志」とは「積極的ではっきりとした意向」をい意味合いに持ちますが、漢語を離れた西欧の思考家においては訳語として用いられる漢語が適切でないこと屡々です。哲学・思想ランキング
2021年08月29日
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神の存否-152 スピノザ「エチカ」定理三一での証明の備考では「知性/intellect」に関しての捉え方が述べられています。精選版 日本国語大辞典「知性」の解説では、物事を知り、考え、判断する能力。特に心理学で、人間の精神の三作用のうち、感情・意志に対して、いっさいの知的作用を営む能力をいう。感覚・知覚から受け取った材料に働きかけて、抽象的・概念的・総合的認識を作りあげる精神的能力。理性、悟性もこの中に含められるとあります。広義では感覚的な知覚作用をも含めた人間の認識能力を指しますが、狭義では知情意のうちの知の能力が知性で、感情や意志と違って、事柄を概念によって思考したり認識したりする悟性的な能力を指し示します。また中世や17乃至8世紀の西洋哲学では、全てを一瞬のうちに直覚的に洞察する神の無限的な知性、此れこそが、古代インド発祥の伝統的な宗教的行法であり、瞑想を主とする瑜伽(ゆが)、悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う行法自体と、その世界をトータルに表す言葉であるのですが、此の悟りは「神の知」を直覚するに能いすると想われます。此の頃には、神の知性によって計画され、創造された自然の秩序に、人間の有限的知性が合致することを意味していたようです。スピノザの知性論は定理三一の備考に述べられます。 備考 ここで私が現実的知性について語る理由は、何らかの可能的知性が存在することを認めているからではない。私はただ、一切の混乱を避けるため、我々のきわめて明瞭に知覚するもの、すなわち知性作用それ自身についてのみ語ることを欲したからである。知性作用は我々が何ものにもまして明瞭に知覚するものである。というのは我々が認識するすべてのものはみな知性作用についての我々の認識をより完全なものにするのに役立っているからである。 此の備考でスピノザが可能的知性を認めないのは全ての知性が神を起因とするからなのです。神は量子重力理論のに基づくAIコンピューターではなく其の情報の源であり、決定因子なのです。哲学・思想ランキング
2021年08月28日
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神の存否-151 スピノザ「エチカ」定理三一での証明では、神の絶対知 (absolutes Wissen) を絶対的思惟と同列視しているようにの憶えます。言い換えれば神は「絶対知」である限りに於いて「思惟」は無用だからです。人間的に捉えればスピノザの神概念の特徴は「知ること能わず、思うこと能わず」の作用体以前の完璧な「有」です。此のことは定理三一での証明で解ります。 証明 何故なら、我々はそれ自体で明らかなように、知性を絶対的思惟とは解せず、単に思惟のある様態、欲望・愛などのごとき思惟の他の諸様態とは異なるある様態と解するのが一般です。したがってそれは(定義五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により、絶対的思惟によって考えられなければならぬ。すなわち(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。および、定義六 一の実体は他の実体から産出されることができない。)により、思惟の永遠・無限な本質を表現する神のある属性によって考えられなければならず、しかもその属性なしには在ることも考えられることもできないようなふうに考えられなければならぬ。このゆえにそれは(定理二九の備考 先へ進む前にここで、能産的自然(ナトゥラ・ナトゥランス)及び所産的自然(ナトゥラ・ナトゥラタ)をどう解すべきかを説明しようというよりはむしろ注意しよう)により、思惟のその他の諸様態と同様に、能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。哲学・思想ランキング
2021年08月27日
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神の存否-150 スピノザ「エチカ」定理三一で、有限なものであろうと無限なものであろうとも現実的知性は、意志・欲望・愛などと同様に能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬとします。能産的自然とは生み出された結果としてある自然界である所産的自然を生み出す力としての自然をいうのですが、此れはB.スピノザの主要概念としての一つの要素であり、スピノザの倫理観にも反映されています。但し、人間精神特有の意志を除く欲望・愛などとは「知性」とは異なる意味合いを持たせています。スピノザの観念としての「知性」とは、人間に固有の思考力、認識力であり、思考一般認識では知性(ntellect)は理性とも呼ばれ、古来より規則に従って分析し論証する「悟性(understanding)、原理・始元を直覚・洞察して総観し統括する「理性(reason)」の二面を含むとされるのですが、多少はそれに近似しています。本能・感覚・記憶・想像・意志とは区別されており、啓示や信仰に対置されてきた「知性」に果敢にスピノザはスポット(spot)を当てます。また、「知性」と「知能」という語句を同一視する傾向がありますが、この二つの能力は、まったく逆の能力です。実は、この二つの能力は、まったく逆の能力である。まず、「知能」とは、「答えの有る問い」が与えられたとき、いかに早く、正しい答えを見出せるかという能力のことです。此のことは、世に「知能検査」というものがあることからも理解できるでしょう。この検査においては、被験者に、様々な「答えの有る問題」を与え、制限時間内に何問「正解」にたどり着けるかという能力を検査するものです。片や、「知性」とは、知能とは全くの逆の能力で、「知性」とは、通常では「答えの無い問い」が与えられたとき、容易に答えなど得られないと分かっていて、なお、その「問い」を粘り強く考え続ける能力のことです。其のこと故に、知性に帰納法を用いることなく演繹を以て解明する手法を用いています。デカルト的には「我思う故に我あり」が「神あり故に我思う」がスピノザ思考の信教を離れた認識論の特異な面でしょう。哲学・思想ランキング
2021年08月26日
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神の存否-149 定理三一の現実的知性は、「思惟」のその他の諸様態と同様に、能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ。では「思惟(しい・しゆい)」とは如何なるものなのでしょう。単純には思う・考えるの「思考」と同義かとも捉えられますが、スピノザ哲学では分析、総合、推理、判断などの精神作用を伴う認識作用を意味します。アリストテレスの有名な言葉でノエシス・ノエセオス(その思惟は思惟の思惟/noēsis noēseōs)がありますが、おそらくは、スピノザは神が思惟することを肯んじないでしょう。なぜなら完全現実態を本性とする神の思惟はみずからが不被動の動者として究極の存在であるゆえに思惟の対象を自分の外にもつことができないからであるとするも、完全体である神は自らを思惟の対象とすることさえ超えた存在だからです。当然に、定理三一の現実的知性は、「思惟」のその他の諸様態と同様に扱われる以上、「神の知」は無辜完璧の故に自らに知らすことさえ無用の絶対知だと云えます。とは云え我々人類は神の恩寵か知性を獲得しています。神そのものが絶対知を認識しようがしまいが、人間の「思惟」は人間感覚器官の刺激を媒介として「神の思惟」、世界の情報変異の在りどころを追求します。哲学・思想ランキング
2021年08月25日
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神の存否-148 スピノザは現実的知性、即ち人間的思考を基とする知性を「有限」と断じてはいません。「無限」なる知性も人類は獲得する可能性を否定しません。人類の知性は可能性に富んでおり、たとえ高度な観測物理科学が捉え切れられないものをも、理知的判断を以て解明する可能性を秘めています。此れは現在急速度で開発されようとしているAI技術を用いた量子コンピュータも同様の可能性を持ち得ると云うことになります。神に帰趨する能産の全知は見ること能わずは永遠の人類の問です。 定理三一 現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ。 此の定理三一は、認識論至上のスピノザの真の知性に対する至高の哲学の本音が吐露(とろ)されています。哲学・思想ランキング
2021年08月24日
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神の存否-147 スピノザは「知性」に能産的知性、即ち神の知性の意味合いを与えてはいません。神には受動的意味合いの濃い知性は不要だからです。此の点はスピノザの神存在の根本概念に基づきます。神は全知であり人間がどの様な思惑や行動を使用が無関心、というよりは神の絶対的本性に組み込まれています。其れ故に「神存在」は絶対認識を持ちはすれ、受動的性状の知性は不要です。知性は人間に神から賦与された最高の恩情だともいえます。スピノザは人間の知性から神に帰納的に遡及し、印度大陸を源とする「瑜伽」は自己を力切り離し「無」とすることで、演繹的に西洋的な神ではなく真理としての存在、西洋的には絶対存在若しくは天の理を求めます。所産的知性はまさに人間に賦与された宝玉です。哲学・思想ランキング
2021年08月23日
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神の存否-146 スピノザの云う「真の観念」は西田幾多郎の「真の直観」に近似します。密教における直観更には仏教哲学が説く「正覚」、釈迦の「覚り」が其れに該当するようにも覚えます。 定理三〇の証明 真の観念はその対象と一致しなければならぬ(公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。)により。言いかえれば、それ自体で明らかなように、知性のうちに想念的(オブエクティヴェ)に、すなわち観念として含まれているものは必然的に自然のうちに存在しなければならぬ。ところが自然のうちには(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六により)自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考で暗示したことである。)により、一つの実体しか、すなわち神しか存在しない。また神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないもの(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により、それ以外のいかなる変状も存在しない。すべて在るものは神のうちに在る同定理により。ゆえに現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の属性と神の変状を把握しなければならぬ。そして他の何ものをも把握することがない。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 スピノザの云う「真の観念」とは神のうちにある観念の概念だとも云えます。神の属性と神の変状に観念を捉え把握すれば、それから遡及すれば神そのものの観念に到達可能だとするのです。量子重力理論の究極の情報因子、其れが有り得ないとは云えず、神の絶対的本性が見つかる術(すべ)、AI量子コンピューターに期待が高まる所以です。哲学・思想ランキング
2021年08月22日
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神の存否-145 アリストテレス哲学における「不動の動者」としての神の存在は、物体や物質は別の形に変化することができるが、根本的な性質は変化しない,、量子コンピュータのヒエラルキー(hierarchy)の頂点の原則だとも云えます。アリストテレスは、自らが存在するのにほかのいかなる存在のことも必要とせず、ほかのいかなる存在によっても作用を受けることがない「能動知性」としての純粋形相において存在する純粋現実態として捉えることができる存在として位置づけられることになると考えられる「不動の動者」が、量子重力理論の「宇宙の波理論」を連想させます。宇宙は一つの無限に変化する情報因子の発露なのかも知れませんから。 定理三〇 現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の属性と神の変状を把握しなければならぬ。そして他の何ものをも把握することがない。 此の項で述べられた、現実に有限な知性も・現実に無限な知性ですが、現実を前提にしている以上、両者とも人間の知性を想定してると想われます。前者の「現実に有限な知性」とは人間が社会生活に於いて獲得した理知を指すのでしょう。片や、「現実に無限な知性」とは禅宗に心得がある西田幾多郎が主著「善の研究」で説くところの真の「直観」を意味しているようです。スピノザ≒西田幾多郎が実感されます。哲学・思想ランキング
2021年08月21日
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神の存否-144 スピノザは主著「エチカ」定理三〇では知性、おそらくは人間の知性を念頭に神との関連付けを試みます。一般に、「知性」とは、人間が知ったり、考えたり、判断したりする能力を云います。スコラ哲学では、真理または存在を対象とする精神の上級能力をさし、下級能力とされる意志や感情に上位に対置されています。「理性」と対置されるときは、推理によらない直接的な、云わば、「直観的認識能力」を指しています。なお、能動知性・受動知性が区別されているのには注意が肝要です。「理知」と捉えるべきなのでしょうが、スピノザが想定する「知性」とは神の属性と神の変状を想定しており、単なる知識ではなく「知恵」の要素、「ソロモンの知恵」的な意味合いがあります。人間の知性とは単なる知識の応用ではなく、もっと奥深い要素から発せれれるものだと云うことです。「理性」は現実的認識を纏め正当な判断をする能力であり、スピノザが想定する「知性」とは、「直観的認識能力」即ち神を直角する可能性を秘めます。「理性」は現実的認識を纏め正当な判断をする能力です。哲学・思想ランキング
2021年08月20日
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神の存否-143 スピノザの主著「エチカ」は定理二九の備考では、能産的自然と所産的自然を取り上げます。能産的自然(natura naturans)とは、通常我々が思う自然は人間を含めての天地間の万物或いは宇宙を指しますが、此の自然界を哲学的に区分けしたのが、イブン・ルシュドに発し、スピノザなどにより展開された生み出された結果としてある自然界概念の所産的自然に対し、所産的自然を生み出す力としての自然を概念として設けたのが、ドゥンス・スコツス、エリウゲナに発し、イブン・ルシュドが展開し、コペルニクスの地動説に同調して汎神論をとり異端とされたG・ブルーノ(Giordano Bruno/1548―1600)、B・スピノザが主要概念としたほか、F.シェリングもその自然哲学に用いた語句です。多くの場合は、神や絶対者に等しいとされますが、M.デュフレンヌのようにこれをただ自然の有機的生産力の意味で用いる学者もいることも頭に留め置きたいものです。 備考 先へ進む前にここで、能産的自然および所産的自然をどう解すべきかを説明しようというよりはむしろ注意しよう。というのは、前に述べたことどもからすでに次のことが判明すると信ずるからである。すなわち我々は能産的自然を、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、あるいは永遠・無限の本質を表現する実体の属性、言いかえれば(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに(定理一〇の備考 たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことであるで暗示したことである。および定理一七の系二 第二に、ひとり神のみが自由原因であることになる。なぜなら、ひとり神のみが、単に自己の本性の必然性のみによって存在しかつ単に自己の本性の必然性のみによって働く。したがってひとり神のみが自由原因である。)自由なる原因として見られる限りにおいての神と解さなければならぬ。これにたいして所産的自然を私は、神の本性あるいは神の各属性の必然性から生起する一切のもの、言いかえれば神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすペての様態と解すると述べます。 上記の「エチカ」定理二九の備考能産的自然と所産的自然を解するに、神存在は完璧なものでは有るけれども、凝り固まった個物などではなく、内相は絶対意識・絶対意思・絶対存在として成り立ったものではなく内在的に変化を具有していることもあり得るかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年08月19日
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神の存否-142 スピノザは定理二九の証明後半部分では、時事変化するものである様態の変状に焦点を合わせます。 さらに、神はそれらの様態が単に存在する限りにおいてばかりでなく(定理二四の系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること、あるいは、スコラ学派の用語を用いれば、神は物の「有る(注:有るとは私、記述者は常有即ち不変不朽の常住と考える)ことの原因」でもあることになる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯一者たる神(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考で暗示した属性の捉え方)により、神のみがこれをなしうるのである。その上またそれらが(定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。)により、ある作用をなすように決定されたと見られる限りにおいても、それらの原因なのである。もしそれらの様態が神から決定されなかったとすれば、それが自己自身を決定するということは不可能であって、偶然そうなるなどということはない。また反対に、神から決定されたとしたら、それが自己自身を決定されていないようにすることは不可能であって、やはり偶然そうなるなどいうことはない(定理二七 神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにすることができない。)により。ゆえに一切は、単に存在するようにだけではなく、さらにまた一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されているのであり、そして一として偶然なものはないのである。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。 以上、定理二九の証明後半部分は、神が物質や時間や変化からは自己自らが生成した由縁の世界にしろ、そのものの世界の影響は受けないとも取れます。神とは物質存在ではなく量子重力論の物質的存在を持たない情報の源の「因」と捉えるべきなのでしょうか。哲学・思想ランキング
2021年08月18日
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神の存否-141 定理二九の証明は「神の絶対的本性」を明らかにしてくれるのか。 証明 在るものはすべて神のうちに在る(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により。しかし神を偶然なものと呼ぶことはできない。なぜなら神は偶然的に存在するのではなく必然的に存在するからである(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。)により。次に神の本性の様態は、やはり神の本性から偶然的にではなく必然的に生起している(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。)により。そしてこれは神の本性が絶対的に働くように決定されたと見られる限りにおいても(定理二ー 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。)により、あるいは神の本性が一定の仕方で働くように決定されたと見られる限りにおいても(定理二七 神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにすることができない。)により同様である。=以上は証明前半部哲学・思想ランキング
2021年08月17日
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神の存否-140 定理二九の自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されているのを、其の儘に受け止めれば、世界には一切の偶発的要素はなく必然で構成されていると解釈するのか。将又、人類が現代に齎した地球温暖化から起きる異常気象までもが必然性をもっていたのか。スピノザの云う神に発する必然性は、作用面での必然、一定の法則性を指すものと捉えます。仮に宇宙がインフレーション理論の通りに経過したものとすれば、現在に存する物質は当初の宇宙にはなく、究極の宇宙に遡及すれば「神の絶対的本性」が有るのかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年08月16日
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神の存否-139 定理二九に遡上する「偶然性」と「必然性」、現在よく使われるのは物理科学を別として、「必然」と「偶然」という言葉をを忌避するかの人間思考の危うさに重きを置いた「想定外」。変動(Volatility)、不確実(Uncertainty)、複雑(Complexity)、曖昧(Ambiguity)の頭文字をとった「VUCA」。社会のヒエラルキーや旧来的秩序が崩れ、高度な技術が普及してきた90年代以降にVUCAの進行が顕著になったとされます。仮にも物理科学や哲学は「想定外」を口にすることは厳禁です。昨今の災害や病害の蔓延は「想定外」という言葉を免罪符として人間が使うようになったら絶望的です。「偶然」事象を色眼鏡付きでみるようになったら、真実を隠蔽し、事実を歪曲する誘惑がその先に待っていると知るべきでしょう。 定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し、作用するように神の本性の必然性から決定されている。 この世の中は、必然で構成されているのか、偶然が支配するのか。「必然」の本質は、「予見可能性」のある状態でしょう。自然法則が典型だと云えます。水は高きから低きに流れる、太陽は東から昇り西に沈む、速度は距離を時間で割って得られる。将又、人間の社会的な現象に目を向けると、法制度、確立した慣行、年中行事、世の中一般に通用する常識、道理と言われるものなどが「必然」の顔をして紛れ込んでくる。「偶然」事象に対処するため、確率論的に事象を把握するアプローチもあるが、今現在は観測物理学にしても「偶然事象」を持ち出すこと度々であり屡々の状況は変わりません。 スピノザの定理二九の「必然性」とは神が自らを必然として存在せしめ、自らの意思、乃至は意志に於いて決め置き、完全させた世界だといえます。全ての存在、人間の究明すべき目的は神を知ること。此れには哲学や信教、更には神を実相と見る物理科学ならば、求めるものは一致することも儚き夢ではない時代が来るかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年08月15日
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神の存否-138 最新観測物理学は超高度の観測機器とスーパーコンピューターの扶けを得て、宇宙の果どころか、人類の感覚器官で捉えられる光の類いの発生当時の宇宙までをも、今までの物理学が表象する宇宙ではなく、世界の実像を究めんとしています。然し乍ら、残念なことに人間の感覚器官は五感に頼る故に、光子や其の類の粒子しか観測し得ません。此の制限を突破するのには、観測物理学は新たなる思考を以って物理科学を推進させるか、宗教や哲学史に屡々登場する人間に付与させられているかも知れない「心眼」に頼るしかすべがないかも知れません。スピノザの主著「エチカ」は演繹法を以って世界を知る論法を選択しますが、現代では帰納法を持って世界を知るすべを用意しています。其のためには人類には多くの時間が費やされるでしょうが、世界が人類に微笑むならば可能となります。但し人類が自らを知らず滅びに至ったときは不可能となります。此れお踏まえてスピノザの、定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されているを紐解きましょう。哲学・思想ランキング
2021年08月14日
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神の存否-137 スピノザの定理二八の備考では、ある種の物(法則及び理)は神から直接的に産出されなければならぬと示します。其れは恐らくはアインシュタインの世界の美学に通じるものがあるやに知れません。相対性理論も量子論、将又、量子重力理論も論理の破綻を忌避します。神を一定の理論物理学者が絶対否定しない姿勢がそこから伺われます。 備考 ある種の物は神から直接的に産出されなければならぬ。神の絶対的本性から必然的に生起するものがすなわちそれである。また他の種の物はこの前者の媒介によって生起しなければならぬ。しかしこれとても神なしには存在することも考えられることもできない。この帰結として第一に、神は神自身が直接的に産出した物の絶対的な最近原因であることになる。私は(絶対的な最近原因と言う)、そしていわゆる自己の類における最近原因とは言わない。なぜなら、神の結果は原因としての神なしには存在することも考えられることもできないからである(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。および定理二四の系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること、あるいは(スコラ学派の用語を用いれば)神は物の「有ることの原因」でもあることになる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯一者たる神(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考 たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのであるで暗示したことである。)の要約によりのみがこれをなしうるのである。第二に、神を個物の遠隔原因と名づけるのは、神が直接的に産出したもの・あるいはむしろ神の絶対的本性から生起するものと普通の個物とを区別するためになら別だが、本来的意味においては適当でないということになる。なぜなら、遠隔原因とは結果と何の関連もないものと我々は解するが、およそ存在する一切の物は神のうちに在り、かつ神なしには存在することも考えられることもできないように神に依存しているからである。哲学・思想ランキング
2021年08月13日
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神の存否-136 スピノザの云う神の存在が、絶対存在、且つ、絶対意思と絶対意識を併せ持つ存在であれば、中国の語句「完璧」そのものの世界の創造因であり、結末も神に由来します。神が永遠の存在であれば、量子重力論の宇宙の実体の虚への変遷、零なる無は回避され、並行宇宙論や多元的宇宙論、更には循環宇宙論及び現在の無限の宇宙が更なる広大無辺の無限の世界の粒子状の単位でしかないかもしれません。量子重力理論によれば、世界の極小は零には近づけど「0」其のものには成り得ず、究極の極大も無限の拡がりを意味していることを暗示させます。現在に存する人間はどの世界に属しているのかには、スピノザは解答を得ていないようです。只、シッダールタたる釈迦は「三千世界」を説くことから、宇宙の理を認知していた可能性をば敢えて否定はしません。 スピノザの定理二八の証明の後半部は、実体としての神が、何故に様々な宇宙世界を、就中(なかんずく)我々が認識可能性を持った在する世界に変状を齎す意図が期待されますが、其れには回答がありません。 以下は定理二八の証明の後半部 ところが有限で定まった存在を有する物は神のある属性の絶対的本性から産出されることができない。神のある属性の絶対的本性から生起するすべてのものは無限かつ永遠だからである(定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。)により。ゆえにそれは神のある属性がある様態に変状したと見られる限りにおいて神ないし神の属性から生起しなければならぬ。なぜなら実体と様態のほかには何ものも存在せず(公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。並びに定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないものと解すると、定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解する。)により、そして様態は(定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。この証明は定理一五および定義五から明らかである。)により、神の属性の変状にほかならないからである。しかしそれはまた神のある属性が永遠かつ無限なる様態的変状(モディフィカティオ)に変状(アフェクトゥス)した限りにおいては神ないし神の属性から生起することができない(定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。)により。ゆえにそれは神のある属性が定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した限りにおいて神ないし神の属性から生起し、あるいは存在ないし作用に決定されなくてはならない。これが第一の点であった。次にこの原因あるいはこの様態もまた(我々がこの定理の第一の部分を証明したと同じ理由により)、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から決定されなければならぬ、そしてこの後者もまた(同じ理由により)他の原因から決定され、このようにして常に(同じ理由により)無限に進む。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。哲学・思想ランキング
2021年08月12日
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神の存否-135 スピノザの定理二八の証明は、正直なところ難解です。極高度の量子&AIコンピューターを世界に例えれば其の世界の全ての判断が入力者(神)の規制のもとに働くのか、将又、新たなる判断を下す神を創造するのかにはスピノザは解答を与えてくれてはいません。 証明 存在または作用に決定されているすべてのものは神からそのように決定されたのである(定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。及び定理二四の系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること、あるいは(スコラ学派の用語を用いれば)神は物の「有ることの原因」でもあることになる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯一者たる神(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 一の実体は他の実体から産出されることができない。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに(定理一〇の備考 これから分かるのは、たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それどころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってまた、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実有(我々が定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解するで述べたように)定義しなければならぬことほど明瞭なこともないのである。 だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろう。で暗示したことである。)従って神のみがこれをなしうるのである。以上は証明の前半部。哲学・思想ランキング
2021年08月11日
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神の存否-134 スピノザは定理二八の証明で、神のある属性がある様態に変状したと見られる限りにおいて神ないし神の属性から生起するものとして、我々人間が存在を感覚的に捉えられるものを、神のある属性がある様態に変状したと見られる限りにおいての限界的存在だと看做します。我々人類に託された感覚器官は余りにも心細く、其れを補うのは頭脳の理性的判断ですが、更には、スピノザは人間の理知を高めるすべを用意しています。其れが論理学的認識論の実践、印度大陸では世界を知る悟法であるサンスクリット語で「つながり」を意味する瑜伽(ヨーガ)です。何れも感応の世界ですが、人間の感覚反応を度外視した「こころ」の範疇に属します。此の人間の心がスピノザの頭を悩ませます。哲学・思想ランキング
2021年08月10日
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神の存否-133 量子重力理論の宇宙には全くの虚空間は存しない。全て物質存在を含めて零点ではない量子、簡略して喩えれば液晶画面の粒子のようなもので埋め尽くされており、其れ其れが情報因子としての波として仂き、ビリヤードの玉のように相互に情報を伝搬し、変化を齎しているとの説があります。此れを大乗哲学の龍樹の「空論」に説かれる「縁起」に当て込めて思考すれば如何なる結果が導かれるのか。スピノザは印度大陸の大乗にも造詣(ぞうけい)が深かったことが推量されますから、「空論」に説かれる「縁起」は承知していたに違いありません。其れ故にスピノザの主著「エチカ」でも「空論」に説かれる「縁起」が屡々頭上をかすめます。 定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。 此の無限作用論は無限に遡及すれば、大乗の空観の縁起論によれば「空」なるものに達し、スピノザによれば、世の全ての起生因たる「神」に帰すことになります。仏教はゴータマ・シッダールタの正覚を見極めての神の認容から「空」なるものの最終到達の縁起に関連付け、スピノザは汎ゆる作用因を「神」に置き換えても矛盾がないような論理を吐露しています。哲学・思想ランキング
2021年08月09日
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神の存否-132 現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、死後に日の目を見た出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されています。ました。その理由は、当時の西欧世界では幼児より習俗にまで食い込んだ基督教の影響は、神学どころか鳥類の雛の刷り込みとも云えるものであり、社会生活には欠くべきものとされています。その信教の常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法。此の我々人類が属する世界の全ての「もの・物・者」は神の顕現であり、神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。スピノザは其の「汎神論敵認識論」をベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、それ迄の西欧世界の常識とは全く異なる考え方に導かれて表現されています。 定理二七 神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにすることができない。 証明 この定理は、公理三の与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能であるから明白である。 スピノザは当然に全てのものの起生原因が神を起因としており、我々人類の思考と云えども神を起因としており、其の思考は神が齎す範囲を超えることは不可能です。「否、俺の意思は自由そのものだ。」と叫んでも、あなたが世界内存在での精神作用を持つ者として在る限りは、神の作用因としての善や喜び・悪の虚しさ等々を自らに持ち込むことになります。哲学・思想ランキング
2021年08月08日
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神の存否-131 量子重力理論の「相対性理論と量子理論」の理論相互の対立点の整合性はブラックホールの特異点の解消という結果を齎します。云わば、無限・瞬間の時間と無限・極点の空間を特異点ではなく、説明可能なものとしたところに特徴があります。特異点とは世界に有り得ない虚の世界と捉えれば、我々が存在する世界は虚世界に陥ることはありません。言い換えれば、宇宙の実体には「虚」が入り込む余地がないということです。宇宙、言い換えれば、我々人間の在する世界は在る種の目的論的法則に従って変異していることが想定されます。 定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。 証明 物がある作用をするように決定されていると言われるのは必然的に積極的なあるもののためである(それ自体で明らかなように、此の言葉が語るのは神の意思としての法則を指すものと解きます。)。したがって神は自己の本性の必然性からそうしたものの本質ならびに存在の起成原因である(定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。および定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。)により。これが第一の点であった。これからまたこの定理の第二の部分、神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができないがきわめて明瞭に帰結される。なぜなら、神から決定されない物が自己自身を決定しうるとしたら、この定理の第一の部分が誤りとなるであろう。しかしそれが不条理であることは我々の示した通りである。 スピノザの神は定理二六のとおり、行き当りばったりの作用因ではなく全ての存在としてありと有らゆる作用因となり、起生因であり、唯一無二の存在因となります。哲学・思想ランキング
2021年08月07日
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神の存否-130 スピノザの云う「存在」は、主著「存在と時間」(Sein und Zeit/1927年)で知られる、ドイツの哲学マルティン・ハイデッガーはアリストテレスの読解を通した古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、何らかの本質によって制作されて存在するという宇宙・自然という見方、人間以外の存在者、宇宙・自然界の存在者すべてを「道具」とみる人間中心的な「閉存」の立場とは異なり、まさに、彼の思考論理の演繹法を用いて、全ての存在と本質が神を起因とすると解きます。定理二五の神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもあるとして、外縁からも備考を持って追尾します。 備考 この定理は定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬからいっそう明瞭に帰結される。というのは、神の本性が与えられると、それから物の本質ならびに存在が必然的に結論されなければならぬということが定理一六の神の本性の必然性から帰結されるからである。一言で言えば、神が自己原因と言われるその意味において、神はまたすべてのものの原因であると言われなければならぬ。このことはなお次の系からいっそう明白になるであろうと追記しています。 系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)にほかならぬ。この証明は定理一五、すべて在るものは神のうちに在る。そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。および定義五、様態とは、実体の変状すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解するから明らかであると断言します。 此の系の個物の捉え方は世界存在そのものから物質の崩壊や滅する観測がなされても、真実在には「零存在」乃至「虚無」はないと訴える言とも云えましょう。勘ぐれば、宇宙には虛空は存在しないし、空間は全てが何らかの因子に充たされたものとなります。 此の思考を発展せしめれば、宇宙の実体の外縁の正体が、あわよくば、人類が目にすることが出来なくても、確信の領域に可能性があり得るやも知れません。哲学・思想ランキング
2021年08月06日
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神の存否-129 スピノザの云う「物の存在」と「物の本質」を踏まえて、彼の主著「エチカ」の中で、物の本質と存在が説かれます。 定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。 証明 これを否定するなら、神は物の本質の原因でないことになる。したがって(公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。)により、物の本質は神なしに考えられ得ることになる。しかしこれは(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により不条理である。ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。 此れは物の存在とは全てが神存在を起成原因とし、其の本質を究めんとすれば、高度な思考と科学力による論理的判断に人間が誠心誠意努力を惜しむこと無く傾ければ神存在に近付くことが可能だと捉えることも、仮に人間生命が永きに亘って在るならば不可能事ではないでしょう。但し、其の時の人類の様態は神の存在と本質を標榜したものに成っている可能性があります。哲学・思想ランキング
2021年08月05日
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神の存否-128 スピノザは「物の存在」と「物の本質」を区分して捉えています。「存在」は通常にては、 何か「がある」、「何か」がある、 何かは何か「である」ような 内的規定)の三様の意に用いられますが、スピノザの「物の存在」とは形態的実体を指し示します。「物の本質」は一般哲学用語では、存在するものの基底・本性をなすもの。偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質。実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するものとされ、スピノザの「物の存在」は、我々人間が見ようとすれば、象徴であれ表象でき得るものを指し示すのでしょう。時代時代の物理科学の高度化に伴って過去に見えざるものも現在では、過去には見得ざるものとされたものも存在が確認されるように成りました。一方、「物の本質」とは、特徴に目的や価値と結び付いたときにはじめて、それは本質と呼ばれる。若しくは、物を此れ以上に細分化出来得ない特質、性状が情報を帯びるときに「物の本質」と捉えています。哲学・思想ランキング
2021年08月04日
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神の存否-127 スピノザの云う、神のある属性が定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した限りにおいて神ないし神の属性から生起し、あるいは存在ないし作用に決定されなくてはならない、第二にこの原因あるいはこの様態もまた他の原因から決定されなければならぬ。そしてこの後者もまた他の原因から決定され、このようにして常に無限に進むとする彼の世界は、量子重力理論の並行宇宙論や多重宇宙理論及び「再生と消滅」を繰り返すサイクリック宇宙としての宇宙再生論を勿論のこと想定したものではなく、無限の時間と空間を想定していることは、認識・認証哲学を標榜する以上、当時の世界では物理科学の制限が仂きます。此れが大乗哲学の物には囚われない態度との決定的な相違です。 備考 ある種の物は神から直接的に産出されなければならぬ。神の絶対的本性から必然的に生起するものがすなわちそれである。また他の種の物はこの前者の媒介によって生起しなければならぬ。しかしこれとても神なしには存在することも考えられることもできない。この帰結として第一に、神は神自身が直接的に産出した物の絶対的な最近原因であることになる。私は絶対的な最近原因と言う。そして、いわゆる自己の類における最近原因とは言わない。なぜなら、神の結果は原因としての神なしには存在することも考えられることもできないからである(定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。および定理二四の系 神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること)により。第二に神を個物の遠隔原因と名づけるのは、神が直接的に産出したもの・あるいはむしろ神の絶対的本性から生起するものと普通の個物とを区別するためになら別だが、本来的意味においては適当でないということになる。なぜなら、遠隔原因とは結果と何の関連もないものと我々は解するが、およそ存在する一切の物は神のうちに在り、かつ神なしには存在することも考えられることもできないように神に依存しているからである。 此の思考の成因には当時の、数学的・物理学的科学を世界的な基礎として受け入れていたことが伺えます。彼の真意は「神」を疑問の余地なく信仰の対象から、事実上の世界に顕せることにあったのです。哲学・思想ランキング
2021年08月03日
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神の存否-126 大乗哲学の「空観」なるものは、 一切のものは、尽く因縁によって生じたものであって、永遠不変の自我や実体といったものはなく、すべて空であると観じることとありますが、此の観念は人間の精神作用を想定したものと捉えます。此れを踏まえて、スピノザの云う「実体」なるものに当て嵌めて考察すれば、「実体」なる「神」、絶対存在としての意識や意思は形体を持たずしてあるものとなります。量子重力理論(Quantum Theory of Gravity)の限りなく零に近づくとも無とは成りえないものの要素が此れに当て嵌まるでしょう。即ち、スピノザの云う「実体」なるものは、物質的に在る物ではなく形体を持たずしてある絶対存在としての意識や意思を指すものと解きます。 定理二八の作用因に対する証明は全ての作用が遡及すれば起生因たる神に帰すことを証明してみせます。 証明 存在または作用に決定されているすべてのものは神からそのように決定されたのである(定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。および定理二四の系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること、あるいは、スコラ学派(The Ancients and the Scholastics)の用語を用いれば、神は物の「有ることの原因」でもあることになる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯一者たる神(定理一四の系一により)のみがこれをなしうるのである。)により。ところが有限で定まった存在を有する物は神のある属性の絶対的本性から産出されることができない。神のある属性の絶対的本性から生起するすべてのものは無限かつ永遠だからである(定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。)により。ゆえにそれは神のある属性がある様態に変状したと見られる限りにおいて神ないし神の属性から生起しなければならぬ。なぜなら実体と様態のほかには何ものも存在せず(公理一ならびに定義三と五により)、そして様態は(定理二五の系により)神の属性の変状にほかならないからである。しかしそれはまた神のある属性が永遠かつ無限なる様態的変状(モディフィカティオ)に変状(アフェクトゥス)した限りにおいては神ないし神の属性から生起することができない(定理二二により)。ゆえにそれは神のある属性が定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した限りにおいて神ないし神の属性から生起し、あるいは存在ないし作用に決定されなくてはならない。これが第一の点であった。次にこの原因あるいはこの様態もまた(我々がこの定理の第一の部分を証明したと同じ理由により)、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から決定されなければならぬ、そしてこの後者もまた(同じ理由により)他の原因から決定され、このようにして常に(同じ理由により)無限に進む。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと示します。哲学・思想ランキング
2021年08月02日
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神の存否-125 スピノザ哲学の根本思考は「神」なるものは「有」としての「実体」とはいえ、我々人間が表象する物質的なあり方のみを指示していないのは言わずもがなです。此処に世界の起生原因が形態を持たずしてあるものが、宇宙が物質化される以前のインフレーション理論や量子重力理論の世界を充たす重力子や情報因子が関与します。 定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもでき得ない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。 此の定理二八の作用因は、 仏語の一切のものは、尽く因縁によって生じたものであって、永遠不変の自我や実体といったものはなく、すべて空であると観じることを想起させます。物質や運動、将又、人間精神の作用因を遡及すれば、其の究極には龍樹著「空論」によれば、無でもなく虚ではない、因縁なるものの解釈によって生じた「空」を観じる思考を呼び起こさせます。スピノザの云う「有」としての「実体」なる「神」とは、大乗の空観を置き換えたものとも取れます。逆説的に捉えればスピノザの神の「実体」なるものは「形態的実体」を持たない情報因子なるものだとも云えましょう。哲学・思想ランキング
2021年08月01日
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