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神の存否-426 定理三六 徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって、すべての人が等しくこれを楽しむことができる。 証明 有徳的に働くとは理性の導きに従って行動することである(この部第四部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する「*この三つ理性的行動・理性的生活・自己の生命身体的・精神的有に努める」は同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)。そして理性に従って我々のなすすべての努力は認識ということに向けられる(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。により)。それゆえ(この部第四部の定理二八 精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。により)、徳に従う人々の最高の善は神を認識することである。そしてこれは(第二部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。およびその備考 抜粋:神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる。ところで、ありとあらゆるものは神の中に在りかつ神によって考えられるのであるから、この結果として、我々はこの神の認識からきわめて多くの妥当な認識を導き出し、このようにしてかの第三種の認識を形成しうる、ということになる。により)すべての人々に共通である善、かつすべての人間が本性を同じくする限り等しく所有しうる善である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。。 備考 だが、あるいは次のように尋ねる人があるかもしれない。徳に従う人々の最高の善がもしすべての人に共通でなかったとしたらどうであろう。その場合にはそれから、前の場合のように(この部第四部の定理三四 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。を見よ)、理性の導きに従って生活する人間、言いかえれば(この部第四部の定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。により)、本性上一致する限りにおける人間が、相互に対立的であるというようなことが起こりはしないだろうかと。こうした人に対しては次のことが答えとなるであろう。人間の最高の善がすべての人に共通であるということは偶然によるのではなくて、理性の本性そのものから生ずるのである。なぜなら、この最高の善は理性によって規定される限りにおける人間の本質そのものから導き出されるからである。そして人間は、この最高の善を楽しむ力を有しないとしたら、存在することも考えられることもできないであろう。神の永遠・無限なる本質について妥当な認識を有することは人間精神の本質に属するのであるから(第二部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。により)。 記:スピノザによれば理性の導きに従って生活する人間、言いかえれば人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて徳ある人間となり、人間の最高の善としての徳が本性上一致する限りにおける人間が、相互に対立的であるというようなことは起こり得ないとの結論に行き当たります。彼が「有徳の人」の好例とする人間はどの様な人物像なのでしょう。記者には人間の肉体を持つ限りにあっては、ナザレのイエスと釈迦族シッダールタの会話が頭骨を揺らします。哲学・思想ランキング
2022年05月31日
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神の存否-425 第四部定理三五の系一及び系二、其の備考 系一 人間にとっては、理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中に存しない。なぜなら、人間にとっては、自己の本性と最も多く一致するもの(この部第四部の定理三一の系 結論:物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ有益である。そしてその逆も真である。により) 、言い換えれば、それ自体、自己の本性と最も多く一致するもので明らかなように、理性の導きに従って生活する人間人間が最も有益である。ところが人間は理性の導きに従って生活する時に真に自己の本性の法則に従って行動し(第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば、我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と云う。により)、またその限りにおいてのみ他の人間の本性と必然的に常に一致する(前定理 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。により)。ゆえに人間にとっては、個物の中で、理性の導きに従って生活する人間ほど有益なものはない。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系二 おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求める時に、人間は相互に最も有益である。なぜなら、各人が、自己の利益をより多く求め・自己の維持により多く努力するにつれて、彼はそれだけ有徳であり(この部第四部の定理二〇 各人は自己の利益を追求することに、言いかえれば自己の有を維持することに、より多く努め、且つ、より多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である。また反対に、各人は自己の利益を、言いかえれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である。により)、あるいは同じことだが(この部第四部の定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば(第三部定理七(おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。)により、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)、自己の本性の法則に従って行動する能力、言いかえれば(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)、理性の導きに従って生活する能力がそれだけ大である。ところが人間は理性の導きに従って生活する時に本性上最も多く一致する(前定理により)。ゆえに(前の系 人間にとっては、理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中に存しない云々。により)、各人が自己に有益なものを最も多く求める時に、人間は相互に最も有益であるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 我々が今しがた示した事柄は、経験自身も毎日多数のかつきわめて明白な証拠によって立証しているものであって、その結果、「人間は人間にとって神である」という諺がほとんどすべての人の口にのぼっているほどである。しかし人間が理性の導きに従って生活するということは稀である。むしろ彼らはおおむね妬み深く、相互に不快の種になっているというのがその実情である。しかしそれにもかかわらず彼らは孤独の生活にほとんど耐えきることができない。こうして「人間は社交的動物である」というあの定義が多くの人々から多大の賛成をかち得たのである。そしてまた実際、人間の共同社会からは損害よりもはるかに多くの利益が生ずるような事情になっている。だから諷刺家は欲するままに人事を嘲笑するがよい。神学者はそれを呪詛するがよい。また憂鬱家は未開な、野蛮な生活をできるだけ謳歌し、人間を軽蔑して野獣を讃美するがよい。しかも彼らは、人間がその必需品を相互扶助によってはるかに容易に調達しうること、また諸方から迫ってくる危険を避けるには結合した力によるほかないことを経験するであろう。人間の行為を考察するのが野獣の行動を考察するよりもはるかに価値ありかつ我々の認識にいっそう多く価することは今は言わないとしても。しかしこれらのことどもについては他のところでもっと詳しく述べるであろう。 (相互扶助)哲学・思想ランキング
2022年05月30日
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神の存否-424 定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。 証明 人間は受動という感情に捉われる限り本性上異なりうるし(この部第四部の定理三三 人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である。により)、また互いに対立的でありうる(前定理三四 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。により)。しかし人間は理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて働きをなすと言われる(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。したがって理性によって規定される限りにおける人間本性から生ずる一切は、その最近原因としての人間本性のみによって理解されなければならぬ(第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と云う。により)。ところで各人は自己の本性の法則に従って自分が善と判断するものを欲求し、自分が悪と判断するものを遠ざけようと努めるのであるから(この部第四部の定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する。により)、なおまた我々が理性の指図に従って善あるいは悪と判断するものは必然的に善あるいは悪なのであるから(第二部定理四一 第一種の認識は虚偽〔誤謬〕の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である。により)、この結果として、人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限り、人間本性にとって必然的に善なることを、したがってまた、おのおのの人間にとって必然的に善なることを、言いかえれば(この部第四部の定理三一の系抜粋: 各人は自分の愛するものを人々も愛するように、また自分の憎むものを人々も憎むようにできるだけ努めるということになる。こんなところから詩人のあの言葉も出ている云々。 我ら愛する者はかつ望みかつ恐れようよ 他人の捨てるものを愛するなんて野暮なことだ (オヴィディウス)により)おのおのの人間の本性と一致することを、必然的になすことになる。したがって人間は理性の導きに従って生活する限り相互間においても必然的に常に一致する。Q・E・D・=此れが証明すべきことだった。哲学・思想ランキング
2022年05月29日
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神の存否-423 記:スピノザがエチカにおいて或る人間として喩える「ペテロとパウロ」を取り上げるのにはスピノザ自身の思考に両者でなければならないとする根拠がある筈です。キリスト教徒でもないスピノザが何故に、使徒の殉教者「ペテロとパウロ 」を敢えて登場させるのでしょう。 定理三四 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。 証明 ある人間、例えばペテロはパウロが悲しむ原因となりうる。それはペテロがパウロの憎むのと何らかの類似点を有するか(第三部定理一六 ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。により)、あるいはパウロ自身も愛するものをペテロが一人で所有しているためか(第三部定理三二 ただ一人だけしか所有しえぬようなものをある人が享受するのを我々が表象するなら、我々はその人にそのものを所有させないように努めるであろう。およびその備考を見よ)、あるいはその他の諸原因(その主なるものは第三部定理五五の備考について見よ)のためである。こうしてその結果(感情の定義七により)パウロはペテロを憎むことになり、したがってまた容易に(第三部定理四〇およびその備考により)ペテロがパウロを憎み返すことにもなって、ひいては(第二部定理三九により)両者が相互に害悪を加えようと努めることになるであろう。 言いかえれば(この部第四部の定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。により)両者が相互に対立的であることになるであろう。ところが悲しみの感情は常に受動である(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。ゆえに人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 パウロは自分自身も愛するものをペテロが所有していると表象するためにペテロを憎むと私は言った。このことからして一見、この両者は同じものを愛するがゆえに、したがってまた本性上一致するがゆえに、相互に有害であるということになるように見える。そしてこのことが真なら、この部第四部の定理三〇同上および定理三一は虚偽であることになろう。しかし、事態を公平に検討するならば、これらすべてがまったく調和することを我々は見いだすであろう。なぜなら、この両者は本性上一致する限りにおいて、すなわち両者のおのおのが同じものを愛する限りにおいて相互に不快の種になるのではなくて、両者がたがいに相違する限りにおいて不快の種になるのだからである。というのは、両者のおのおのが同じものを愛する限りまさにそのことによって両者おのおのの愛は強められるから(第三部定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)、言いかえれば(諸感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。により)まさにこのことによって両者のおのおのの喜びは強められるからである。だから両者が同じ物を愛しかつ本性上一致するという限りにおいて相互に不快の種になるというようなことは決してないのである。寧ろ、このことの原因は、今言ったように、両者が本性上たがいに相違しているということが仮定されているためにほかならない。なぜなら、ペテロは愛するものの現実的所有の観念を有し、これに反してパウロは愛するものの現実的喪失の観念を有していることを我々は仮定しているのだから。この結果としてパウロは悲しみに、またペテロは喜びに刺激されるごとになり、そしてその限りにおいて両者は相互に対立的であることになるのである。この仕方で我々は、憎しみを引き起こす他の諸原因も、人間が本性上たがいに相違するということにのみ由来し、その一致する点に由来しないことを容易に示すことができる。哲学・思想ランキング
2022年05月28日
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神の存否-422 定理三三 人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である。 証明 感情の本性ないし本質は単に我々の本質ないし本性のみによっては説明されえない(第三部定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。および定義二により)。寧ろ、それは我々の能力と比較された外部の原因の力、言いかえれば(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)外部の原因の本性によって規定されなければならぬ。この結果として、すべて感情には我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類があるということになるし(第三部定理五六を見よ)、また人間が同一の対象から異なった仕方で刺激され(第三部定理五一 喜び、悲しみ、および欲望には、したがってまたそれらから合成されたすペての感情(例えば心情の動揺のごとき)、あるいはそれらから導き出されたすべての感情(例えば、愛・憎しみ・希望・恐怖など)には、我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類がある。を見よ)、その限りにおいて本性上たがいに相違するということにもなり、最後にまた同一の人間が同じ対象に対して異なった仕方で刺激され(同じく第三部の定理五一同上により)、その限りにおいて変りやすくかつ云々。であるということにもなるのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年05月27日
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神の存否-421 定理三二 人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致すると言われえない。 証明 ある物が本性上たがいに一致すると言われる場合、それはそれらの物が能力の点で一致するという意味であって(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)、無能力あるいは否定の点で、したがってまた(第三部定理三の備考 そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえないことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにある。を見よ)受動の点で一致するという意味ではない。このゆえに人間は受動に従属する限り本性上一致するとは言われえない。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 このことはそれ自体においても明らかである。なぜなら、白と黒とはその両者とも赤でないという点においてのみ一致すると言う者があれば、それは白と黒とはいかなる点においてもー致しないことを絶対に肯定する者である。同様にまた石と人間とはその両者とも有限で無力である、あるいはその両者とも自己の本性の必然性によって存在するものでない、あるいは最後にその両者とも外部の原因の力によって無限に凌駕される、という点においてのみ一致すると言う者があるとしたら、それは石と人間とはいかなる点においても一致しないことをまったく肯定する者である。なぜなら、単に否定においてのみ、すなわち自らの有せざるものにおいてのみ一致する物は、実はいかなる点においても一致していないのだから。哲学・思想ランキング
2022年05月26日
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神の存否-420 記:スピノザは人間の本性の奥底を善と認識し、人間が神を思惟する限り神の延長としての本性を持つと解きます。此れにはスピノザが如何に実践倫理の権威とは云え、人間認識に余りにも善性に重きを置くきらい無きにしも非ずです。例えば、人類の生命基盤である地球は何者にも害悪を加えない調和がとれた青い水の惑星ではありません。地球に生命なるものが発生して以来、自己の種族の保存と繁殖のためには、植物の多くの系統(*寄生植物や食虫植物は例外)、有用寄生を除いては、他生命の命を奪う殺伐世界です。我々人類は、其の殺伐者の頂点に立つ生き物でしょう。スピノザの性善説に立ち位置を認証すれば、畢竟、人間は自己の保存のためには、他の生命を奪うことは神から与えられた本性であり、人間の善性とは何ら矛盾は生じない「生命与奪天授説」に陥ります。豚・牛・鶏は人間に食われることを本性としているのでしょうか。象やライオン・虎は人間のハンティング対象になることを本性としているのでしょうか。此れ等を人間の本性からして善とはいえないと憶えます。此処に、スピノザの放牧社会・民俗学的な西洋肉食民族の自惚れと限界があります。我々人間は、大きく区分けすれば狩猟民族と農耕民族に別れます。ここから、生命観そのものの相違が生じています。 定理三一 物は我々の本性と一致する限り必然的に善である。 証明 何となれば、物は我々の本性と一致する限り悪でありえない(前定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。により)。ゆえにそれは必然的に善であるか、それとも善悪いずれにも属さない中間物であるかであろう。後者すなわち善でも悪でもない場合は、その物の本性から(この部第四部の公理三により *不明→第一部公理三 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能であるか?)我々の本性の維持に役立つ何ものも、言いかえれば、仮定によりその物自身の本性の維持に役立つ何ものも生じないことになろう。しかしこれは不条理である(第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)。ゆえに物は我々の本性と一致する限り必然的に善であるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として、物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益あるいは善であり、また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多く一致する、ということになる。なぜなら、物は我々の本性と一致しない限り必然的に我々の本性と異なり、あるいは我々の本性と対立的であるであろう。もし我々の本性と異なるなら、それは(この部第四部の定理二九 その本性が我々の本性とまったく異なる個物は我々の活動能力を促進することも阻害することもできない。また一般に、いかなる物も、もしそれが我々とある共通点を有しなければ我々にとって善でも悪でもありえない。により)善でも悪でもありえないであろう。もし対立的であるなら、それは我々の本性と一致するものにも対立的であり、言いかえれば(前定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。により)善と対立的であり、すなわち悪であるであろう。ゆえに何ものも我々の本性と一致する限りにおいてでなくては善であることができない。したがって物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ有益である。そしてその逆も真である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年05月25日
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神の存否-419 記:スピノザの善悪の立場は善悪一元論なのか二元論なのか。スピノザの一元論は思惟(しい・しゆい)と延長を実体の二つの属性としており、この物心平行論は相対的二元論と看做すことができる。(*思惟:哲学で、感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用。スピノザに於ける延長:物体の本性として延長) 定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。 証明 我々が悪と呼んでいるのは悲しみの原因であるもの(この部第四部の定理八善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。により)、言いかえれば我々の活動能力を減少ないし阻害するもの(悲しみの定義による第三部定理一一の備考におけるその定義 我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる云々。を見よ)のことである。ゆえにもしある物が、我々と共通に有するものによって我々にとって悪であるとしたら、その物はまさに我々と共通に有するものを減少ないし阻害しうることになろう。これは(第三部定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。により)不条理である。ゆえにいかなる物もそれが我々と共通に有するものによって我々に悪であることはできない。むしろ逆に、それが悪である限り、言いかえれば、いま我々が示したように、それが我々の活動能力を減少ないし阻害しうる限り、その限りにおいてそれは(第三部定理五 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。により)我々と対立的である。Q・E・D・ 記:スピノザの悪の観念は、所謂、悪の概念、一般的な意味での善の反対または欠如、日常的な使い方では、より狭い範囲で深い邪悪さを表現することが多い。それは一般的に、複数の可能な形をとると考えられている。例えば、悪と一般的に関連している個人的な道徳的悪、または非個人的な自然災害または病気の場合のよう自然的悪や、宗教的思想においては悪魔的または超自然的、永遠的な形などが意味付けされているのですが、其れ等とは意図を事にし、1. 善によって、人々にとって有用であると人々が当然知っているものを私が理解できるようになる。2. 反対に悪によって、人々が善いものを持とうとするのを妨げると人々が当然知っているものを私は理解する。スピノザは自己の論理を数学の演繹法をもって、此の第四部で定義から証明・説明できると自分が主張しているさらなる命題について述べています。 *命題8 「善や悪の知識は私たちが意識する限りでの喜びあるいは悲しみの気持ちでしかない。」 *命題30 「私たちの本性において共有されているものを持つことを通じて悪であるものはあり得ないが、 あるものが私たちにとって悪である限りではそのあるものは私たちと相いれない。」 *命題64 「悪の知識は不適切な知識である。」 *推論「それゆえに人の心の中に適切な知識しかなければ、悪い考えが形成されることはないであろう。」 *命題65 「理性の導きに従えば、二つの善い物のうちより善い物を選ぶことになるし、二つの悪いもののうちより悪くない方を選ぶ。」 *命題68 「人間が自由に生まれたら、自由である限りその人間はよい考えも悪い考えも持たない。 ニーチェとランドは無神論者あるのですが、スピノザの思考は現代の物理学的世界観による世界>宇宙=法則>=神の論に立場を置くならば、信教論ではなく、大きな枠組みでは神学論者なのでしょう。彼の認識論的哲学は彼の本性・本質・精神活動を反映しており、到底、性悪説、此れは彼の民族的・宗教的艱難の克服からの立場が顕著です。哲学・思想ランキング
2022年05月24日
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神の存否-418 定理二九 その本性が我々の本性とまったく異なる個物は我々の活動能力を促進することも阻害することもできない。また一般に、いかなる物も、もしそれが我々とある共通点を有しなければ我々にとって善でも悪でもありえない。 証明 おのおのの個物の能力、したがって(第二部定理一〇の系 人間の本質は神の属性のある様態的変状(モディフィカティオ)から構成されていることになる。により)人間が存在し・作用する人間の能力もまた、他の個物によってのみ決定されるのであるが(第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。により)、しかしその個物の本性は人間の本性が考えられるのと同一の属性によって考えられるものでなければならぬ(第二部定理六おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。により)。ゆえに我々の活動能力は、これをどのように解しても、我々とある共通点を有する他の個物の力によって決定され、したがってまた促進あるいは阻害されうるのであって、その本性が我々の本性とまったく異なるような物の力によっては促進あるいは阻害されることができない。次に我々が善あるいは悪と呼ぶのは喜びあるいは悲しみの原因であるもの(この部第四部の定理八善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。により)、言いかえれば(第三部定理一一の備考 抜粋:我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。により)我々の活動能力を増大あるいは減少し、促進あるいは阻害するもののことであるから、したがってその本性が我々の本性とまったく異なるような物は我々にとって善でも悪でもありえないのである。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 記:スピノザが此の章で述べる「個物」とは如何なるものを想定しているのか、エチカ全文からみれば此の世界に人間とは無縁のものがあるとは解釈しにくい。此処では人間の「精神感情」に因果関係を齎さないものを想定したと考えざるをえない。人間は無機物・有機物の電解質で構成され、全ての構成物質が此の我々の宇宙活動の成果です。人類に恵みをもたらす至宝の宝の多くが超新星爆発で想像されたとみられます。此の生命が存する世界は人間身体そのものであり、人間の「精神感情」さえも其の例外では有り得ません。現代人は折り畳まれた「三次元+時間(時空)」+六次元を知らなくとも其の影響下にあります。それらと我々の「精神感情」とに因果関係があるかは、新たなる精神物理科学部門を待つしかありません。哲学・思想ランキング
2022年05月23日
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神の存否-417 定理二八 精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。 (善、認識、徳) 証明 精神が認識しうる最高のものは神、言いかえればそれなしには何ものも在りえず、また、考えられえない(第一部定理一五により)絶対に無限なる実有(第一部定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。により)である。したがって(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。および、この部第四部の定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)精神の最高の利益すなわち(この部第四部の定義一 善とは、それが我々に有益であることを我々が確知するものと解する。により)最高の善は神の認識である。次に精神は認識する限りにおいてのみ働きをなし(第三部定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。および第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)、また精神はもともと、その限りにおいてのみ(この部第四部の定理二三 人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは、有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識「*妥当な認識」することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる。により)有徳的に働くと言われうる。したがって精神の本来の徳は認識することである。ところが精神が認識しうる最高のものは神である(我々が今示したように)。ゆえに精神の最高の徳は神を理解することあるいは認識することである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:スピノザ「エチカ(倫理学)」の人間の幸福概念とは、善・認識・徳に始まり理性・倫理へ、そして直感知としての神の認識に至ること、そこに限りある人間の寿命をも無視出来得る人類至宝の幸福があるとします。確かに神を覚知(確知)認識した人間は、神そのものと一体化するとも憶え、永遠を手中に収めるのかも知れません。我々の思考では、仮に何の様な手段、哲学・信仰・物理科学をもってしても自己が納得し得る手段があれば嬉しくなります。哲学・思想ランキング
2022年05月22日
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神の存否-416 定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する。 証明 精神は理性的に思惟する限り認識以外のことを追求せずまた認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない(前定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。により)。ところが精神は妥当な観念を有する限りにおいてのみ、言いかえれば(第二部定理四〇の備考 抜粋:我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有する)ことから。そしてこれを私は理性(ラティオ)あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。これら二種の認識のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれを直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。によって同じことだが理性的に思惟する限りにおいてのみ物について確実でありうる(第二部定理四一 第一種の認識は虚偽〔誤謬〕の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である。および、第二部定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。)による。なお、後者第二部定理四三の(備考 要項:精神の有する明瞭判然たる観念が神の有する観念と同様に真であることは必然である。も見よ)。ゆえに我々は真に認識に役立つもののみが善であることを確知し、また反対に我々の認識を妨害しうるもののみが悪であることを確知する。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。(*確知:真の認識効能=善 真の認識の妨害=悪、であることのの知悉)哲学・思想ランキング
2022年05月21日
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神の存否-415 定理二六についての記者の付記:人間の「理性」とは、一般解釈上は、感情に走らず、物事のそうあるべき当然のすじみち。正しい論理「道理」に基づいて考えたり判断したりする能力。哲学的な解釈ではプラトンの概念的な推理能力の悟性に対して、真実在を直覚する能力とされるのが代表的です。人間の心は、 精神分析学の創始者として知られるオーストリアの心理学者で精神科医。 神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究を行ったジークムント・フロイト(独: Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日)や実験心理学の父と称されるヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt、1832年8月16日 - 1920年8月31日)の時代からそうですが、無意識の状態でいつも意識の中に入ってくるものを自我が留めていて、そうしないと人間が知覚する外界と内的な欲求と理性の整合性が取れない。その整合性を取るために自我が何とかしようとしている。その中の一つの構成要素が理性だと解析されます。生理学的には大脳皮質の前頭葉の「大脳新皮質」発達に伴うところが大きいと生理学的には云われます。脳の一つの働きとして、 人間の脳には理性がある。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の如く人間だから自分を内的に知覚して言葉で共有できる。然し乍ら、現代世界の最先端の生物学では、実は動物に意識や理性がないことを誰も証明はしていなくて、我々人間が人間は特別だと思い込んでいる可能性もあるります。更には、人間の「理性」の役割は「社会性」にあるとも云われます。人間の脳の構造を分解すれば、米国の神経科学者ポール・D・マクリーンが提唱する「三位一体の脳仮説」、人間の脳は、進化的に最も古い反射脳(延髄・脳幹)、次に古い情動脳(大脳辺縁系)、最も新しい理性脳(大脳新皮質)に分類される。この中で古い部分である、反射脳と情動脳は、合わせて「生存脳」と呼ばれ、生命の生存にとってはなくてはならない機関とされる。生存にとっては、外界からの刺激に対する何らかの反射(反応)と、情動(感性)による外界からの刺激の認識が欠かせないのである。つまり、外界からの刺激を受けて、感性を研ぎ澄ませないと、生存本能すらも危うくなると解釈できる。加えて、最も新しい理性脳(大脳新皮質)は「社会脳」とも呼ばれており、外界と自己との関係を表現することで、豊かな社会性を作り出している。例えば、社会脳において「運動」を司る部位である運動野において「ミラーニューロン」というものが見つかっている。これは、例えば、自分が手を動かす場合に反応するニューロン(神経細胞)が、他人が手を動かしているのを見ただけで反応する、という現象である。すなわち、自分の行動と、他人の行動を、同じこと(或いは違うこと)と認識することによって、他人への共感や、自己と他人とを区別していると考えられる。そしてこの「社会脳」は「生存脳」とも強くリンクしていることが知られている。すなわち、外界からの刺激を受けて、感性を研ぎ澄ませることなしには、生存本能はおろか、社会性すら維持できなくなるということである。このように、理性を司るとされる大脳新皮質は、生存脳とリンクすることで、豊かな社会性を作り出している。そして、こうした豊かな社会性というものは、脳が「だまされる」ことではじめて外界との関係を作り出し、それによって作り出されるものであるということである。以上はスピノザの理性は自己保存能力の精神の対応を示します。哲学・思想ランキング
2022年05月20日
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神の存否-414 定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。 証明 自己保存の努力は物自身の本質にほかならない(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。そして物はこのようなものとして存在する限り、存在に固執する力(第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)、ならびにその与えられた本性から必然的に生ずることをなす力を有すると考えられる(第三部定理九の備考における衝動の定 努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。を見よ)。ところで理性の本質は明瞭判然と認識する限りにおける我々の精神にほかならない(第二部定理四〇備考二におけるその定義 我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有する。そしてこれを私は理性(ラティオ)あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。を見よ)。ゆえに(第二部定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。により)我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。次に精神のこの努力、云々。理性的に思惟する限りにおける精神が自己の有を維持しようと努めるこの努力は、認識することにのみ向けられるのであるからには(この定理の始めの部分 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。)により、認識しようとするこの努力は(この部第四部の定理二二の系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(前定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。)により、また、この原理なしにはいかなる徳も考えられえないからである。)により、徳の第一かつ唯一の基礎である。そして我々は何か他の目的のために物を認識しようと努めはしないであろう(この部第四部の定理二五 何びとも他の物(*事物・者etc)のために自己の有(*哲学的な恒常有ではなく人間本性の欲性的有)を維持しようと努めはしない。により)。むしろ反対に、精神は理性的に思惟する限り、認識に役立つものしか自己に善であると考えることができないであろう(この部第四部の定義一一 善とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。により)。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 記:人間の定義に「人間は理性的動物である。」と云うものがあります。人間の「理性」の役割は「社会性」にあります。例えば、屡々、野生動物に見られる共喰い、人類に最も近接するチンパンジーの共喰いは、人間の脳において特に肥大化が見られる、「理性」を司るとされる「大脳新皮質」の未発達だと言われています。しかし其れも極限状態に陥ったときには表面化した事実から、理性とは人間の本質かと問えば疑問が残ります。本能>理性・理性<本能は史的事実からも少なからず怪しくなります。(あなたは、クジで食われる側になりますか?。)哲学・思想ランキング
2022年05月19日
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神の存否-413 定理二五 何びとも他の物(*事物・者etc)のために自己の有(*哲学的な恒常有ではなく人間本性の欲性的有)を維持しようと努めはしない。 証明 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は単にその物自身の本質によって規定される(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。この本質が与えられただけでそれから各自が自己の有の維持に努力するということが必然的に起こるのであり(第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)、それは他の物の本質に促されて起こるのではない。その上、この定理はこの部第四部の定理二二の系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(前定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。により)、また、この原理なしにはいかなる徳も考えられえないからである。からも明らかである。なぜなら、もし人間が他の物のために自己の有を維持しようと努めるとしたら、その他の物こそ徳の第一の基礎となるであろう。それ自体で明白なように。このことは(今引用した定理二二の系により)不条理である。ゆえに何びとも他の物のために云々。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 記一:スピノザは屡々コナトゥス(conatus)、存在者に内在してそのものを動かす原動力、傾向。スピノザでは、意志や衝動などを持ち出します。スピノザは自己保存の欲求を基底にするために「利他的行為」の可能性は存在しないように見えます。しかし他方でスピノザは,「理性の導き(徳)に従って生きる人間」は「自己のために求める善を自己以外の人々のためにも (reliuis hominibus etiam)欲するであろう」 とも、「理性によっても憐憫によっても他の人々を助けるように動かされないような者は、非人間的と呼ばれてしかるべきである」とも述べています。これら二つは一見すると矛盾しているかのようですが、スピノザの真意は果たしてどうなのでしょう。各人は自己の「現実的」あるいは「与えられた」本質に基づいて、「自己利益」を求めて行動しながらも「利他的」でありうるということを意味しているのでしょうか。スピノザの人間本性への善的願望が読み取れます。 記二:スピノザは人間が世界に存在することを、かつて科学者の大反発を浴びた異端の考え方、この宇宙は人間が存在するようにできているという一見宗教のような見方「人間原理」。この宇宙は人間が存在するようにできているという一見宗教のような見方、21世紀に入った今、理論物理学者のあいだで確実に支持を広げている宇宙世界論の先駆者かも知れません。哲学・思想ランキング
2022年05月18日
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神の存否-412 記:スピノザにおける「徳と理性」の概念は、和訳をそのままに読み込めば、亜細亜圏・オリエンタル (Oriental)文明は勿論のこと、更には、ギリシァに始まる古典哲学とも意味合いが異なるように憶えます。然し乍ら、「徳と理性」を実践倫理の要としたことに大いなる功績があるのは疑いをはさみ得ないでしょう。 定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する「*この三つ理性的行動・理性的生活・自己の生命身体的・精神的有に努める」は同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。 証明 真に有徳的に働くとは自己固有の本性の法則に従って働くことにほかならない(この部の定義八により)。ところが我々は認識「*妥当な認識」する限りにおいてのみ働きをなす(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。ゆえに有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持すること、しかもそれを(この部第四部の定理二二の系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(この第四部定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。により)、また、この原理なしにはいかなる徳も考えられえないからである。により)自己の利益を求める原理に基づいてすること、にほかならない。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 追記:「徳と理性」に関しては20世紀の南アフリカ出身の哲学者ジョン・マクダウェル(John Henry McDowell/1942年-)は心の哲学と言語哲学の領域における功績で最もよく知られている。哲学を「治療的」なものとして捉えており、「徳と理性」を独創的に捉えている部分ではスピノザに共通します。但し、スピノザにはナザレのイエスの出現以来の、旧約ユダヤ教信者であるユダヤ教信者への迫害とユダヤ民族そのものへの偏見への挑戦、ユダヤ民族の精神的救済を目指していたことが根底にあったことは間違いないところです。哲学・思想ランキング
2022年05月17日
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神の存否-411 定理二三 人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは、有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識「*妥当な認識」することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる。 証明 人間が非妥当な観念を有することによって行動するように決定される限り、その限り彼は働きを受ける(第三部定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。により)、言いかえれば、その限り彼は自己の本質のみによって知覚されえないある事(第三部定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な「*十全な」原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な「*非十全な」原因あるいは部分的原因と呼ぶ。および、第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「*能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「*受動」と言う。により)、すなわち(この部第四部の定義八により)自己の徳から起こらないある事をなすのである。これに反して彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りその限り彼は働きをなす(同じく第三部定理二により)、言いかえればその限り彼は(第三部定義二により)自己の本質のみによって知覚されうるある事、すなわち(この部の定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)自己の徳から妥当に起こるある事をなすのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:スピノザの徳が単に自己保存の努力を指すものであれば、人類社会には精神の正邪の分別無く徳の人で埋まります。たとえ妥当な観念を持った自己保存の努力を指すものとしても不足感は否めません。スピノザ哲学が人間の本性に理性があることを前提にした性善説と捉えられる所以です。哲学・思想ランキング
2022年05月16日
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神の存否-410 定理二二 いかなる徳もこれ(すなわち自己保存の努力)よりさきに考えられることができない。 証明 自己保存の努力は物の本質そのものである(第三部定理七おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。そこでもし何らかの徳がこれ、すなわちこの努力よりさきに考えられうるとしたら、その結果(この部第四部の定義八徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば第三部定理七(おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。)により、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)、物の本質がその本質自身よりもさきに考えられることになるであろう。このことは(それ自体で明らかなように)不条理である。ゆえにいかなる徳も云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(前定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。により)、また、この原理なしにはいかなる徳も考えられえないからである。 記:徳とは哲学・宗教の中心的課題の一つであり、世俗的な意味でも重要な概念です。一般的にいえば,人間が単なる動物的存在から脱して、動物的でもあるが同時に理性的でもあるという真の人間らしさ、人間としての優秀性を体得している状態が徳であると言えますが、スピノザの徳の概念は此れとは相当に離れたところにあるように思えます。ギリシァ三哲の祖ソクラテスによれば、「人間の徳(アレテー)」とは魂をできるだけよいものにすること、即ち魂への配慮であると考えます。また、自分の魂を優れたものにするためには、何が善であり何が悪であるか、何が美しくて何が醜いかについての正しい「知」(真相知識)が必要であるとし、この「知」を他の「知」より重視します。ソクラテスは魂をすぐれたものにするためには、善悪についての「知」が必要であるが、逆に善悪についての「知」を実現すれば魂は優れたたものになり、徳は実現されると考えました。このことを「知徳合一」とか「徳は知である」といいます。つまり、善悪を判断できる「知」を持つことが、「徳」を持つことだと考えたのです。ソクラテスの知徳合一の立場で考えると、「悪い」ということを知りながら悪いことをする人はおらず、悪いことをするのは本当の意味でそれを「悪いこと」だと知らないからだということになります。またソクラテスは、善悪を判断する「知」を持つということは善く生きられること、すなわち、正しく徳を知っていれば正しく行動することができる(知行合一)とし、こうした徳を持つことは人間としての幸福につながる(福徳一致)と考えます。然し乍ら、スピノザの徳の概念は単純化されます。一言「自己保存の努力」だというのです。此れは驚くべき発言です。然し乍ら、其の奥底にはスピノザの民族に対する問題への苦悩と宗教問題への救済への道への模索が読み取れます。哲学・思想ランキング
2022年05月15日
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神の存否-409 定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。 証明 この定理の証明、あるいはむしろこの事実そのものはそれ自体で明白であり、また欲望の定義:「*欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。」からも明らかである。なぜなら、幸福にあるいは善く生活し・行動しなどなどの欲望は(感情の定義:「感情とは、身体そのものの活動力を増大させたり減少させたり、あるいは促したり抑えたりするような身体の変様であると同時に、これらの変様の観念であると私は理解する。」により)人間の本質そのもの、言いかえれば(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)各人が自己の有を維持しようと努める努力そのものだからである。ゆえに何びとも生存し行動し云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:スピノザの云う「欲望」とは、我々世俗の人間が解する欲望よりも、多分に人間精神の世界が当時の世界観である絶対宇宙としての「有」を根底に「神」を世界に、そして法則に、其の法則に従う人間に眼が注がれます。心的世界と物理学的世界との思考の矢面に立つ彼の心情が慮(おもんばか)れます。スピノザの云う世界には現代世界の最先端の物理化学理論、量子力学における不確定性原理や相対論どころか物理重力理論は無く、認識世界を絶対視することは認証主義の立場に立つスピノザには限界があります。但し、神即ち、世界にあらゆる事柄に指向性があるのか、はたして、無限を受け入れて確率は混沌なのか、我々の世界の真相が心待たれます。 追記:三位一体論は、キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理ですが、神と人間の祖アダムとエバ(Adam and Eve)との最初の契約の離反・逸脱行為により、人間は罪深き子として扱われます。其れが神からの契約違反への温情として再契約の機会を人間、拡張解釈すれば、人類に与えられたのが「父なる子」として誕生するナザレのイエスです。イエスは神が神格の聖霊として人間の生なるものを生身をもって産まれ出てきたものです。それ故、人間の肉体を有するイエスは人間の悲しみ・喜び・欲望を人の身体と精神をもって追体験します。人間の身体と精神を神格性と併せ持つイエスは当然に磔刑には、人間本性の定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲するのは勿論のこと、人間性の特質である苦痛と悲哀を訴えます。神が人間の苦痛と悲哀を認証し、人間の原罪を許し、後楽園、天国への階段を登る機会を人間に与えます。スピノザは三位一体論を如何様に解釈したのでしょう。哲学・思想ランキング
2022年05月14日
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神の存否-408 スピノザの次の第四部定理二〇の思考論理は非常に意味深です。「自己の有を維持すること」を至上の徳としているその表現です。例えば、仏教の開祖たるシッダールタ(Siddhartha)やナザレのイエス(Jesus of Nazareth)は自己の有に、例えば自己の身体及び精神感情の平安をを維持することに固執したのでしょうか。両者が人間の肉体をもって生まれてきた以上、スピノザの論理に従えば、シッダールタに関して言えば、自己の世俗の満足を全て放棄し、身を捨てての人類すべての生命の尊厳の尊さに対する姿勢。ナザレのイエスではユダヤ旧約の神が決してアブラハム(Abraham)に始まる部族の守護神なのではなく、旧約・新約・イスラーム及び全ての人間の生命の救済への身体及び人間的精神への罪への贄を暗示させます。スピノザ哲学に唯物論的思考が囁かれるのは此の事ゆえでしょう。 定理二〇 各人は自己の利益を追求することに、言いかえれば自己の有を維持することに、より多く努め、且つ、より多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である。また反対に、各人は自己の利益を、言いかえれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である。 証明 徳とは人間の能力そのものであり、そしてそれは人間の本質にほかならない(この部第四部の定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば)、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)、言いかえればそれは人間が自己の有に固執しようと努める努力にのみ存する(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。ゆえに各人は自己の有を維持することにより多く努めかつより多くこれをなしうるに従ってそれだけ有徳であり、したがってまた(第三部定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。および、第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)人は自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 それゆえに何びとも自己の本性に反する外部の原因に強制されるのでなくては自己の利益の追求を、すなわち自己の有の維持を放棄しはしない。あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。この自殺は種々の仕方で起こりうる。例えばある人は、偶然剣を握ったその手を、他人からねじ返されて自分自身の心臓にその剣を向けるように強制されて自殺する。あるいはセネカのように暴君の命令によって自らの血管を切開するように強制されて、すなわち、より大なる害悪をより小なる害悪によって避けようと欲して自殺する。最後にあるいはまた、隠れた外部の原因が彼の表象力を狂わせ彼の身体を変化させてその身体が前とは反対な別種の本性を。それについて精神の中に何の観念も存しえないような(第三部定理一〇 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。により)、そうした本性を帯びるようにさせられることによって自殺する。これに反して人間が自己の本性の必然性によって自分が存在しないように努めたり、他の形相に変ずるように努めたりすることは、無から有が生ずるのと同様に不可能である。これは誰でも少しく考えれば分かることである。 記:「人間が自己の本性の必然性によって、他の形相に変ずるように努めたりすることは、無から有が生ずるのと同様に不可能である。」のスピノザの言は、何の様に見積もってもナザレのイエスの生涯を肯定したのか、将又、否定するのか。其の真意は実のところ真相は見究めている訳ではありません。哲学・思想ランキング
2022年05月13日
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神の存否-407 定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する。 証明 善および悪の認識は(この部第四部の定理八喜びから生ずる欲望は、その他の事情が等しければ、悲しみから生ずる欲望よりも強力である。により)我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情そのものである。したがって(第三部定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)各人はその善と判断するものを必然的に欲求し、反対に悪と判断するものを必然的に忌避する。ところがこの衝動(欲求)は人間の本質ないし本性そのものにほかならない(衝動の定義による。それについては第三部定理九の備考要約 この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのものにほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである。ならびに感情の定義一 要項:スピノ ザにとって、全ての感情が受動ではない。 つまり感情は理性や意志によって、抑え られたり支配されたりすることに甘んじるばかりのものではない。 それどころか、理性の働きを助けながら、我々を解放する力を持つのが感情である。)。ゆえに各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則のみに従って必然的に云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:スピノザ哲学は古典哲学、なかでも、形而上哲学には属さず、神存在に関しても能くまでも実存・実在の観点からの認識論の立場が濃厚です。勿論のこと「神格性」なる自由なる意思は完全なる神には、十全の意思を全うする意思を伴う神には必要能わずです。それ故を持って、神の道理に従う直感知の実践倫理の方法論が人間本性の幸福として「エチカ」を書き上げさせるのです。哲学・思想ランキング
2022年05月12日
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神の存否-406 第四部定理一八備考の後半:追記 さらに第二部要請四から分かるとおり、我々は自己の有を維持するのに我々の外部にある何ものも必要としないというようなわけにはいかぬし、また我々は我々の外部にある物と何の交渉も持たないで生活するというようなわけにもいかない。なおまた我々の精神を顧みると、もし精神が単独で存在し自己自身以外の何ものも認識しないとしたら、我々の知性はたしかにより不完全なものになっていたであろう。これで見ると、我々の外部には、我々に有益なもの、そのゆえに我々の追求に値するものが沢山存するわけである。そのうちで我々の本性とまったく一致するものほど価値あるものは考えられることができない。なぜなら、例えばまったく本性を同じくする二つの個体が相互に結合するなら、単独の個体よりも二倍の能力を有する一個体が構成されるからである。 このゆえに、人間にとっては人間ほど有益なものはない。あえて言うが、人間が自己の有を維持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、すなわちすべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の推持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。 この結論として、理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。 以上は私がもっと詳細な秩序で証明し始める前にここに簡単に示そうとした理性の指図である。これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私に引きつけたいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私はこれをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。 記:理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間が一卵性双生児・双子や三つ子・・であれば、相互に結合するなら、単独の個体よりも二倍の能力を有する一個体が構成されるとしたら、世界は理性に支配されるであろうことに成りかねない。スピノザの時代背景にはクローンは未だ登場していない。仏陀の遺骨や、仮にキリストに遺骨あればだが、クローン技術で復活させれば世界には理想が支配することになるのだが、如何なものでしょう。哲学・思想ランキング
2022年05月11日
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神の存否-405 第四部定理一八備考の後半:徳について 次に徳は(この部第四部の定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば(第三部定理七(おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。)により、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)自己固有の本性の法則に従って行動することにほかならないし、また各人は自己固有の本性の法則に従ってのみ自己の有を維持しようと努めるのであるから(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)、この帰結として 第一に、徳の基礎は自己固有の有を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が自己の有を継持しうることに存する、ということになる。 (幸福論) 第二に、徳はそれ自身のために求められるべきであって徳よりも価値あるもの、徳よりも我々に有益なもの、それのために徳が追求されなければならぬようなもの、そうしたものは決して存在しない、ということになる。 最後に第三に、自殺する人々は無力な精神の持ち主であって自己の本性と矛盾する外部の諸原因にまったく征服されるものである、ということになる。 記:此処最後の第三で気になるのが、戦後のベトナム戦争時の平和を唱えた僧侶の抗議の焼身自殺であるが、スピノザの観点からはどう捉えるのであろうか。肉体を武器としての外部への戦闘手段であって自殺ではないと解釈するのであろうか。人間の自殺とは哲学は勿論のこと、精神医療や心理学をもって総合判断すべき課題でしょう。医療技術の発達に伴い延命治療は向上するも「尊厳死」をはじめ多くの課題は現代も解消はされていません。哲学・思想ランキング
2022年05月10日
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神の存否-404 定理一八 喜びから生ずる欲望は、その他の事情が等しければ、悲しみから生ずる欲望よりも強力である。 証明 欲望は人間の本質そのものである(感情の定義一 要項:精神感情の三要素喜び・悲しみ・欲望により)。言いかえればそれは(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)人間が自己の有に固執しようと努める努力である。ゆえに喜びから生ずる欲望は喜びの感情自身によって促進されあるいは増大される(喜びの定義による。第三部定理一一の備考におけるその定義 要項:〔喜び・悲しみ・欲望〕のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。を見よ)。しかしこれに反して悲しみから生ずる欲望は悲しみの感情自身によって減少されあるいは阻害される(同じ第三部定理一一の備考により)。したがって喜びから生ずる欲望の力は人間のカと同時に外部の原因のカによって規定され、これに反して悲しみから生ずる欲望のカは人間の力のみによって規定されなければならぬ。このゆえに前者は後者よりも強力である。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考前半 以上少数の命題をもって私は人間の無能力および無常の原因、ならびに人間が理性の命令に従わないことの原因を説明した。今や残るのは、理性が我々に何を命ずるか、またいかなる感情が人間理性の規則と一致し、いかなる感情がこれと反対するかを示すことである。しかしこれを詳細にわが幾何学的秩序に従って証明し始める前に、私は理性の指図そのものをここにあらかじめ簡単に示しておきたい。私の考えるところをより容易に人々に理解してもらえるように。 理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること。一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めることを要求する。これは実に全体がその部分よりも大であるというのと同様に必然的に真である(第三部定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。を見よ)。 記:理性とは物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある。それだけが人間を人間たらしめ、動物から分かつところのものであり、ここに「人間は理性的動物である(Aristoteles)」という人間に関する古典的定義が成立する。然し乍ら、理性は、屡々、悟性と対立する意味でも使われる。古くから、概念的・論証的な認識能力としての理性に対して、真実在を直観的に認識する、より高次の認識能力として悟性、スピノザによれば「直感知」が浮上します。哲学・思想ランキング
2022年05月09日
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神の存否-403 定理一七 善および悪の真の認識が偶然的な物に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在の物に対する欲望によってさらにいっそう抑制されうる。 証明 この定理は前定理と同じ仕方でこの部の定理一二の系(現在に存在しないことが知られているがなお偶然的として表象される物に対する感情は、我々がその物を現在我々の前に在ると表象する場合よりもはるかに弱い。)から証明される。 備考 これでもって私は、なぜ人間が真の理性によってよりもむしろ意見(オビニオ)によって動かされるか、またなぜ善および悪の真の認識が心情の動揺を惹き起こしかつしばしばあらゆる種類の官能欲に征服されるかの原因を示したと信ずる。かの詩人の言葉はここから来ている、「我はより善きものを見てこれを可とす、されど我はより悪しきものに従う」。伝道者ソロモンが「知識を増す者は憂患を増す」と言っているのも同じことを念頭に置いたものと思われる。 (オヴィディウス、ソロモン) 記:エチオピアの故ハイレ・セラシエ皇帝がソロモン王とシバの女王の子孫と主張していたのは興味深いことす。 しかし私がこうしたことを言うのは、それから無知が知にまさるとか、感情の制御において愚者と智者の間に差別がないとかいうようなことを結論しようと思ってではない。むしろ、理性が感情の制御において何をなしえ、また何をなしえざるかを決定しうるには、我々の本性の能力とともにその無能力をも知ることが必要だからである。それに私はこの部では単に人間の無能力のみについて論ずることにすると言っておいた。なぜなら、感情に対する理性の能力については、別に論ずる予定なのであるから。哲学・思想ランキング
2022年05月08日
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神の存否-402 定理一六 善および悪の認識が未来に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在において快を与える物に対する欲望によっていっそう容易に抑制あるいは圧倒されうる。 証明 我々が未来的として表象する物に対する感情は、現在の物に対する感情よりも弱い(この部第四部の定理九の系 未来あるいは過去の物の表象像、言いかえれば現在のことは度外視して未来あるいは過去の時に関連させて観想する物の表象像は、その他の事情が等しければ、現在の物の表象像よりも弱い。したがって未来あるいは過去の物に対する感情は、その他の事情が等しければ、現在の物に対する感情よりも弱い。により)。ところが善および悪の真の認識から生ずる欲望は、たとえその認識が現在善なる物に関する場合でさえも、何らかの激しい欲望によって圧倒あるいは抑制されうる(前定理一五 善および悪の真の認識から生ずる欲望は、我々の捉われる諸感情から生ずる多くの他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されることができる。による。その定理の証明は普遍的なものであるから。)。ゆえにこうした認識が未来に関する限り、その認識から生ずる欲望は、現在において快を与える物に対する欲望によっていっそう容易に抑制あるいは圧倒されうるであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 記:人間は自己の欲望を今現在に充たされれば、未来時に起こるべくして起こる結果には、夢幻のごとく軽んじていまいがちです。ギリシア中から集まった多数の求婚者の中から、ミュケナイ王アガメムノンの弟メネラオスを夫に選んだ彼女は,スパルタ王妃となって一女ヘルミオネをもうけた。しかし夫の留守中にトロイアの王子パリスに誘惑されて館を出奔したためトロイア戦争が起き、パリスはこの戦争で弓の名手フィロクテテスに射殺された。パリスの死後,彼女はその弟デイフォボスの妻とされたが、トロイア陥落の際、彼はメネラオスに殺され、ヘレネはメネラオスに伴われて8年かかってスパルタに帰国したという。人間の愛・恋は善悪を超えた感情を誘発させます。哲学・思想ランキング
2022年05月07日
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神の存否-401 定理一四 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。 証明 感情とはある観念を想起するところの精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である(感情の総括的定義 精神の受動状態と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。 説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである。 次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。 しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言っているのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むようなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体の現実的存在を肯定する点に存するし、また我々は完全性ということを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能力は、対象の価値によって評価されるからである。 最後に私が「精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。。このゆえに(この部第四部の定理一 誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない。により)感情は真なるものの現在によって除去されうるいかなる積極的なものも有しない。したがって善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。しかしそれが感情である限り(この部第四部の定理八 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。を見よ)、その限りにおいてのみそれは感情を抑制しうるであろう、もしそれが抑制されるべき感情よりも強力であるならば、(この部第四部の定理七 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。により)抑制し得るあろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:スピノザの世界の構図は、神=世界=宇宙=自然=数学・幾何学・法則=(何者か?)と問えば、所謂、信教・唯一神教の神>世界>宇宙=自然=数学・幾何学・法則=(神の自由意思)では成り立ちません。尚更、現代物理論の神存在を持ち出さないで世界を解明する物理科学の姿勢とも些か異なります。スピノザ哲学が唯神・唯物・認識論何れなのかの結論は未だに決定づけるものがないと云えます。哲学・思想ランキング
2022年05月06日
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神の存否-400 定理一三 現在に存在しないことが知られている偶然的な物に対する感情は、その他の事情が等しければ、過去の物に対する感情よりも弱い。 証明 我々はある物を偶然的として表象する限り、その物の存在を定立する他の物の表象像に刺激されることがない(この部第四部の定義三 我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。により)。むしろ反対に(その表象の仮定に従い)、その物の現在的存在を排除するあるものを表象する。ところが我々がその物を過去の時と関連させて表象する限り、その限りにおいて我々は、その物を想起させるあるもの、すなわちその物の表象像を喚起するあるもの(第二部定理二八 人間身体の変状の観念は、単に人間精神に関連している限り、明瞭判然たるものではなく、混乱したものである。ならびにその備考 人間精神の本性を構成する観念は単にそれ自体のみにおいて考察すれば明瞭判然たるものでないということは同様の仕方で証明される。人間精神の観念および人間身体の変状の観念の観念も、それが単に精神にのみ関連している限りそうである。*すなわち混乱したものである。これは各人の容易に知りうるところである。を見よ)を表象するものと想定される。したがってその限りにおいて我々はその物をあたかも現在的であるかのごとく観想するようにさせられる(第二部定理一七の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。により)。ゆえに(この部第四部の定理九 感情は、その原因が現在我々の前(*面前)にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である。により)現在に存在しないことが知られている偶然的な物に対する感情は、その他の事情が等しければ、過去の物に対する感情よりも弱いであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年05月05日
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神の存否-399 定理一二 現在に存在しないことが知られているがなお可能的として表象される物に対する感情は、その他の事情が等しければ、偶然的なものに対する感情よりも強い。 証明 我々は、ある物を偶然的として表象する限り、その物の存在を定立する他の物の表象像に刺激されることがない(この部第四部の定義三 我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。により)。むしろ反対に(其れが想起させる仮定に従い)、その現在的存在を排除するあるものを表象する。ところが我々は物を未来において可能的であると表象する限り、その物の存在を定立するあるものを(この部第四部の定義四 その個物が産出されなければならぬ原因に我々が注意する場合に、その原因がそれを産出するように決定されているか否かを我々が知らぬ限り、私はその同じ個物を可能的と呼ぶ。により)、言いかえれば(第三部定理一八 人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。により)希望あるいは恐怖をあおるあるものを表象する。したがって可能的な物に対する感情の方がより強いのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 現在に存在しないことが知られているがなお偶然的として表象される物に対する感情は、我々がその物を現在我々の前に在ると表象する場合よりもはるかに弱い。 証明 現在に存在すると我々の表象する物に対する感情は、我々がその物を未来的として表象する場合よりも強いし(この部第四部の定理九の系 未来あるいは過去の物の表象像、言いかえれば現在のことは度外視して未来あるいは過去の時に関連させて観想する物の表象像は、その他の事情が等しければ、現在の物の表象像よりも弱い。したがって未来あるいは過去の物に対する感情は、その他の事情が等しければ、現在の物に対する感情よりも弱い。により)、また我々がその未来の時を現在からはるかに遠く隔たっていると表象する場合よりはさらにいっそう強い(この部第四部の定理一〇 我々は、速やかに出現するだろうと表象する未来の物に対しては、その出現の時が現在からより遠く隔たっていると表象する場合よりもより強く刺激される。また我々は、まだ遠く過ぎ去らないと表象する物の想起によっては、それがすでに遠く過ぎ去ったと表象する場合よりもより強く刺激される。により)。このように、その存在する時が現在から遠く隔たっていると我々の表象する物に対する感情は我々がその物を現在的として表象する場合よりもはるかに弱いのであるが、それにもかかわらずその感情は(前定理第四部 我々が必然的として表象する物に対する感情は、その他の事情が等しければ、可能的あるいは偶然的なもの、すなわち必然的でないものに対する感情よりも強い。により)我々がその物を偶然的として表象する場合よりも強い。したがって偶然的な物に対する感情は、我々がその物を現在我々の前に在ると表象する場合よりもはるかに弱いのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:スピノザの認識世界の構図の必然・可能・偶然は個物の存在のみならず人間の精神感情にも同様に影響を及ぼす。哲学・思想ランキング
2022年05月04日
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神の存否-398 定理一一 我々が必然的として表象する物に対する感情は、その他の事情が等しければ、可能的あるいは偶然的なもの、すなわち必然的でないものに対する感情よりも強い。 証明 我々はある物を必然的であると表象する限り、その物の存在を肯定し、これに反してある物を必然的でないと表象する限り、その物の存在を否定する(第一部定理三三の備考により)。 参照:第一部定理三三の備考 備考一 私はこれで、物自身の中にはその物を偶然であると言わしめるような何ものも絶対に存在しないことを十二分に明白に示したから、ここに私は、偶然ということをどう解すべきかを手短かに説明しよう。しかしその前に、必然および不可能ということをどう解すべきかを語ろう。ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質に関してか、それとも原因に関してかである。何となれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必然的に生起するからである。次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からである。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すなわち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。 備考二 前述のことからして、物は与えられた最も完全な本性から必然的に生起したのだから最高の完全性において神から産出されたのだということが明瞭に帰結される。このことは神に何の不完全性をも負わせるものではない。なぜならまさに神の完全性がこのことを我々に主張するように迫るのだから。のみならずもし逆ならば、神が最高完全でないということが明瞭に帰結されるであろう。なぜならもし物が他の仕方で産出されたとしたら我々が最高完全な実有の考察に基づいて神に帰せざるをえなかった本性とは異なる他の本性を神に帰することになるからである(先ほど示したように)。だが多くの人々がこの見解を不条理なものとして排斥しこれを熟考する気にならないことを私は疑わない。それというのも彼らは我々が述べたもの(定義七)とはまるで異なる他の自由を、〜〜すなわち絶対的意志を、神に帰するのに慣れているからにほかならない。しかし彼らが事態を瞑想し・我々の諸証明の系列をよく熟慮しようとするならば、ついに彼らは、いま神に帰しているような種類の自由を単に愚かしいものとしてだけではなく、さらにまた知識の大きな障害としてまったく放棄するだろうこと、これまた私の疑わないところである。 ここに定理一七の備考で述べたことを再び繰りかえすことは必要ないであろう。しかし仮に意志が神の本質に属することを認めたとしても、やはり神の完全性からして、物はいかなる他の仕方、他の秩序においても神から創られることができなかったという帰結になることを私は彼らのために改めて示したい。これは我々が次のことを考察するなら容易に明らかになるであろう。それはまず彼ら自身の容認していること、すなわちすべての物がその現に在るところのものであるのは神の決意および意志のみに依存する(そうでなければ神は万物の原因ではなくなるから)ということである。次に神のすべての決意は永遠このかた神自身によって定められた(そうでなければ神に不完全性と不恒常性とを負わせることになるから)ということである。ところで永遠の中にはいつということがなくまた以前ということも以後ということもないのであるから、このことから、すなわち神の完全性だけからして、神は決して他の決意をなしえないしまたなしえなかったこと、あるいは神はその決意の以前には存在しなかったしまたその決意なしには存在しえないことが帰結されるのである。 ところが彼らは言うであろう、たとえ神が異なった自然を創造したと仮定しても、あるいは神が永遠このかた自然ならびにその秩序に関して異なった決意をしたと仮定しても、そのために神には何の不完全性も生じないであろうと。だがこういうならば彼らは同時に神が〔今なお〕その決意を変更しうることを容認するものである。なぜなら、もし神が自然およびその秩序に関して決意したのとは異なった決意をしたなら、すなわち自然に関して他のことを意志したり概念したりするなら、必然的に神は現に有するのとは異なった知性・現に有するのとは異なった意志をもったであろう。そしてもし神の本質と完全性とを少しも変更することなしに神に他の知性・他の意志を帰しうるとすれば、神が被造物に関するその決意を今なお変更してしかも依然として等しく完全にとどまることができない理由はないからである。被造物およびその秩序に関する神の知性と意志がどんなふうに考えられようとも、それは神の本質および完全性に何の影響も及ぼさないと言うのであるからには。 さらにまた私の知るすべての哲学者は、神の中には可能的知性は存在せずただ現実的知性のみが存在することを容認する。ところで神の知性と意志は神の本質と区別されないことと、これもまたすべての哲学者の容認するところであるから、このことからまた、もし神が他の現実的知性および他の意志を持つとしたら、神の本質もまた必然的に異なるものであるべきこと、したがって(私が始めから主張したように)もし物が現に在るのと異なったふうに神から産出されたとしたら、神の知性および意志、言いかえれば(人々の容認するように)神の本質は異なったものでなければならぬこと、になる。これは不条理である。 このように、物はいかなる他の仕方・いかなる他の秩序においても神から産出されえなかったのであり、そしてこの定理の真理は神の最高完全性からの帰結なのであるから、神が自己の知性の中にあるすべてのものを認識したのと同一の完全性をもってそれを創造することを欲しなかったと我々を信じさせるようないかなる根拠ある理由もまったく存在しえないのである。 しかし彼らは言うであろう、物それ自身の中には完全性も不完全性もなく、物の中にあってそのため物が完全とか不完全とか善とか悪とか呼ばれるところのものは神の意志にのみ依存する、したがって神は、もし欲したなら、現に完全であるものをきわめて不完全なものであるようにすることができたろうし、また反対に(現に物の中にあって不完全性を意味するものをきわめて完全なものであるようにすることが)できたであろうと。しかしこれは、その意志することを必然的に認識する神が、自らの意志によって、物をその認識するのとは異なった仕方で認識するようにすることができると公然と主張するのに異ならない。これは(今しがた示したように)はなはだしい不条理である。ゆえに私は彼らの論証を彼ら自身に投げ返して次のように言うことができる。一切は神の力に依存する、だから物が異なったようにありうるためには神の意志もまた必然的に異なっていなければならぬ、ところが神の意志は異なったようにあることができない(我々が今しがた神の完全性に基づいてきわめて明瞭に示したように)、ゆえに物は異なってあることができないと。 一切を神の勝手な意志に従属させ、すべては神の裁量に依存すると主張するこの意見は、神がすべてを善の考慮のもとになすと主張する人々の意見ほどは真理から遠ざかっていないと私も認める。なぜなら後者は、神に依存しないある物、神が行動に際して理想と目し・あるいは一定の目的としてそれに向かって努力するようなある物、そうしたある物を神の外に立てているように見えるからである。これはまったく神を運命に従属させるのにほかならぬのであって、我々が示したように万物の本質ならびに存在の第一にして唯一の自由原因たる神についてこれ以上不条理な主張はありえない。ゆえに私はこうした不条理を反駁するのに時間を費やすことはないのである。により)。 それゆえ(この部第四部の定理九 感情は、その原因が現在我々の前(*面前)にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である。により)必然的な物に対する感情は、その他の事情が等しければ、必然的でない物に対する感情よりも強い。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年05月03日
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神の存否-397 定理一〇 我々は、速やかに出現するだろうと表象する未来の物に対しては、その出現の時が現在からより遠く隔たっていると表象する場合よりもより強く刺激される。また我々は、まだ遠く過ぎ去らないと表象する物の想起によっては、それがすでに遠く過ぎ去ったと表象する場合よりもより強く刺激される。 証明 なぜなら、物が速やかに出現するであろう、あるいはまだ遠く過ぎ去っていない、と表象する限り、我々はまさにそのことによってその物の未来における出現の時間が現在からより遠く隔たっている、あるいはその物がすでに遠く過ぎ去ったと表象する場合よりも、その物の現在を排除することのより少ないあるものを表象する。それ自体で明らかなように。したがって(この部第四部の前定理九 感情は、その原因が現在我々の前(*面前)にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である。により)我々はその限りにおいてその物に対してより強く刺激されるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 この部第四部の定義六 要約:未来・現在・および過去の物に対する感情ということを私がどう解するかは第三部定理一八の備考一および二において説明した注意しなければならぬこと。(我々は、時間的距離を、空間的距離の場合と同様、ある一定の限界までしか判然と表象しえないことである。すなわち、我々から二百フィート以上も離れているすべての対象、あるいはその距離が我々の判然と表象する距離以上に我々の居る場所から隔たっているすべての対象を、我々は我々から等しい距離で隔たりかつ同一の平面にあるかのように表象するのを常とするが、これと同様に、その出現の時間が我々の通常判然と表象する間隔よりもいっそう長い間隔で現在から隔たっていると表象されるすべての対象を、我々は現在から等しい時間的距離で隔たっているように表象し、これをいわば一時点に帰するのである。)に対してなした注意からの帰結として、我々は、表象によって決定しえないほど長い時間的間隔で現在から隔たっている対象に対しては、たとえそれらの対象が相互同士長い時間的間隔で隔たっていることを知る場合でも、同程度の弱い感情に刺激されるということになる。 記:人間の精神感情における距離感覚及び時間感覚は万有引力の祖ニュートンの運動方程式、即ち絶対空間と絶対時間とは相違して、人間精神の空間観想と持続観念に負うところが大きいと云わざるをえない。此れが人間としての精神を在らしめる法則の優位性なのか、劣位性なのか問うところ大である。哲学・思想ランキング
2022年05月02日
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神の存否-396 定理九 感情は、その原因が現在我々の前(*面前)にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である。 証明 表象とはある観念、能動的であれ受動的であれ、実相であれ仮相であれ、精神がそれによって物を現在するとして観想するある観念である(第二部定理一七の備考におけるその定義 抜粋:我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。そしてこのことは他の原因からも起こることが可能である。しかしここでは真の原因によってそれを説明したと同様の効果のある一つの原因を示しただけで私にとっては十分である。それにまた私は真の原因からそれほど遠ざかっているとは信じない。なぜなら、私が採用したあのすべての要請は経験によって裏付けられないことをほとんど含んでいないのであり、そして人間身体が我々の感ずるとおりに存在していることを示した今では、経験について疑うことは我々にとって許されないからである。)。この観念はしかし外部の物の本性よりもより多く人間身体の状態を表示する(第二部定理一六の系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録(要項:本性と様態)の中で多くの例を挙げて説明したところである。 ゆえに感情は(感情の総括的定義 要項:喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性により)身体の状態を表示する限りにおける表象である。ところが表象は(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして観想するであろう。により)外部の物の現在的存在を排除する何ものも我々が表象しない間はより活撥である。ゆえに感情もまた、その原因が現在我々の前にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象される場合に比べより活撥である。あるいはより強力である、。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 私がさきに、第三部定理一八(人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。)において、我々は未来あるいは過去の物の表象像によって、あたかも、我々の表象する物が現在している場合と同じ感情に刺激されると言った時に、単にその物の表象像を眼中に置く限りにおいてそのことが真であることを私は特に注意した。表象像は我々がその物を現在するとして表象しようとしまいと、同一本性を有するからである。しかし未来の物の現実的存在を排除する他の物が現在するとして観想される場合には、その表象像がより弱くなることを私は否定したわけではなかった。そのことを私があの時注意することをしなかったのは、感情の力についてはこの部に入ってから論ずることに決めていたからである。 系 未来あるいは過去の物の表象像、言いかえれば現在のことは度外視して未来あるいは過去の時に関連させて観想する物の表象像は、その他の事情が等しければ、現在の物の表象像よりも弱い。したがって未来あるいは過去の物に対する感情は、その他の事情が等しければ、現在の物に対する感情よりも弱い。哲学・思想ランキング
2022年05月01日
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