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神の存否-487 定理一〇の備考前半 備考 身体の変状を正しく秩序づけ・連結するこの力によって我々は、容易に悪しき感情に刺激されないようにすることができる。なぜなら(この部第五部の定理七 理性から生じあるいは理性によって喚起される感情は、時間(*持続)という点から見れば、不在として観想される個物に関する感情よりも強力である。により)知性と一致した秩序に従って秩序づけられ・連結された感情を阻止するには、不確実で漠然たる感情を阻止するよりもいっそう大なる力を要するからである。ゆえに、我々の感情について完全な認識を有しない間に我我のなしうる最善のことは、正しい生活法あるいは一定の生活律(*カントの実践倫理)を立て、これを我々の記憶に留め、人生において屡々起こる個々の場合に絶えずそれを適用することである。このようにして我々の表象力はそうした生活律から広汎な影響を受け、その生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。 例えば、我々は憎しみを愛もしくは寛仁によって征服すべきであって憎み返しによって報いてはならぬこと(*キリスト教的世界観)を生活律の中にとり入れた(第四部定理四六 理性の導きに従って生活する人は、できるだけ、自分に対する他人の憎しみ、怒り、軽蔑などを逆に愛あるいは寛仁で報いるように努める。及びその備考 自分の受けた不法を憎み返しによって復讐しようと思う人はたしかに惨めな生活をするものである。これに反して憎しみを愛で克服しようとつとめる人は、実に喜びと確信とをもって戦い、多くの人に対しても一人に対するのと同様にやすやすと対抗し、運命の援助をほとんどまったく要しない。一方、彼に征服された人々は喜んで彼に服従するが、しかもそれは力の欠乏のためではなくて力の増大のためである。これらすべては単に愛および知性の定義のみからきわめて明瞭に帰結されるのであって、これを一々証明することは必要でない。を見よ)。しかし理性のこの指図が必要ある場合に常に我々の眼前にあるためには、人間が通常加える諸々の不法を思い浮かべ、これを再三熟慮し、且つ寛仁によってそれが最もよく除去されうる方法と経路とを考えておかなくてはならぬ。このようにすれば我々は不法の表象像をこの生活律の表象と結合することになり、そして(第二部定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。により)我々に不法が加えられた場合に、この生活律は常に我々の眼前にあることになるであろう。そのうえ、我々が我々の真の利益について、また相互の友情と共同社会から生ずる善について、たえず考慮するならば、そしてさらに、正しい生活法から精神の最高の満足が生ずること(第四部定理五二 自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、存在しうる最高の満足である。により)、また、人間は存在する他のすべてのものと同様に自然の必然性によってしか行動しえないものであることをたえず念頭に置くならば、不法あるいは不法から生ずるのを常とする憎しみは、単に我々の表象力の極小部分のみを占め、容易に征服されるであろう。たとえ極めて大なる不法から生ずるのを常とする怒りはそう容易には征服されないとしても、心情の動揺を経てではあっても、こうしたことをあらかじめ熟慮しなかった場合よりもはるかに短期間に征服されるであろう。これはこの部第五部の定理六 精神はすべての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有しあるいは感情から働きを受けることがより少い。(定理七 理性から生じあるいは理性によって喚起される感情は、時間(*持続)という点から見れば、不在として観想される個物に関する感情よりも強力である。及び、定理八 感情は共にはたらくより多くの原因から同時に喚起されるに従ってそれだけ大である。)から明らかである。哲学・思想ランキング
2022年07月31日
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神の存否-486 定理一〇 我々は、我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、知性と一致した秩序に従って身体の変状(刺激状態)を秩序づけ・連結する力を有する。 証明 我々の本性と相反する感情、言いかえれば(第四部定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。により)悪しき感情は、精神の認識する働きを妨げる限りにおいて悪なのである(第四部定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)。したがって我々が我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、物を認識しようと努める精神の能力(第四部定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。により)は妨げられないのである。ゆえにその間は、精神は明瞭かつ判然たる観念を形成し、一の観念を他の観念から導出する力を有する(第二部定理四〇の備考二 要項:我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的概念を形成する手段の明白な例。一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物からの知覚。を漠然たる経験による認識。二 我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それについて物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成する事物を観想するこの二様式を私はこれから第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナティオ)。三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することからの理性(ラティオ)あるいは第二種の認識。私が示す第三種のものがある。我々はこれを直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。及び、第二部定理四七の備考 骨子:神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることを見よ)。従いてまた(この部の定理一 思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体の中で秩序づけられ・連結される。により)その間は、我々は知性に一致した秩序に従って身体の変状を秩序づけ・連結する力を有するのである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:人間の内精神における認識、その因果の秩序づけ・連結する力を有する力が第三種の認識が直観知(*直覚知)である。極言すれば、「世界の法」との共鳴に、生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと「生老病死(しょうろう-びょうし)」への人間の救済がある。哲学・思想ランキング
2022年07月30日
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神の存否-485 定理九 精神が同時に観想する多くの異なった原因に関係する感情は、ただ一つの原因あるいは少数の原因に関係する等しい大いさの他の感情の場合に比し、害がより少なく、我々はそれから働きを受けることがより少なく、また我々はその原因のおのおのに対して刺激を感ずることがより少ない。 証明 感情は精神の思惟する能力を妨げる限りにおいてのみ悪あるいは有害である(第四部定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。及び、同第四部定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)。したがって精神を同時に多くの対象を観想するように決定する感情は、精神をただ一つだけのあるいは少数の対象のみの観想に拘束しておいて他のことを思惟しえないようにさせる等しい大いさの他の感情よりも害がより少ない。これが第一の点であった。次に精神の本質すなわち(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)精神の能力はただ思惟にのみ存するのであるから(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。により)、このゆえに精神は、多くの物を同時に観想するように自分を決定する感情からは、ただ一つあるいは少数の対象のみの観想に自分を拘束しておく等しい大いさの他の感情からよりも働きを受けることがより少ない。これが第二の点であった。最後にこうした感情は(第三部定理四八 愛および憎しみ、例えば、(*パウロの)ペテロに対する愛および憎しみの感情は、憎しみが含む悲しみおよび愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。また両者、愛および憎しみは、ペテロがそのどちらかの感情、喜びあるいは悲しみ、の唯一の原因でなかったことを我々が表象する限りにおいて減少する。により)、外部の多数の原因に関係する限り、その原因のおのおのに対してもより小さい。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:ペテロはいわばイエスの一番弟子で、初代教皇と称されています。パウロは元は、戒律を重視するパリサイ派のユダヤ教徒でした。ところが、イエスの復活に立ち会い回心して、彼は精力的にキリスト教を伝道していきます。ペテロは12使徒の一人ですが、パウロは含まれてはいません。哲学・思想ランキング
2022年07月29日
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神の存否-484 定理八 感情は共にはたらくより多くの原因から同時に喚起されるに従ってそれだけ大である。 証明 同時に存在する多くの原因は少数の原因よりも多くの能力を有する(第三部定理七 定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。したがって(第四部定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)感情はより多くの原因から喚起されるに従ってそれだけ強力である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 この定理はこの部第五部の公理二 結果の本質がその原因の本質によって説明され・規定される限り、結果の力はその原因の力によって規定される。からも明らかである。 記:人間の精神感情は喜怒哀楽、悲喜こもごもというように、ひとそれぞれ其の原因に其の原因は同様であっても其の表象するものに対しての精神感情の受け止め方にも相違があります。定理八の感情は共にはたらくより多くの原因から同時に喚起されるに従ってそれだけ大であるとの言は、推し量るに、同一性向の感情を想定しているのでしょう。然し乍ら、通常の人間の精神感情の受動的感情は正邪を超越した聖者・覚者・悟人と相違します。感情は共にはたらくより多くの原因に反応する精神感情は喜怒哀楽、悲喜こもごもは輻輳して顕れます。従いて、定理八の感情は共にはたらくより多くの原因から同時に喚起されるに従ってそれだけ大であるとの言は一定の目的のために精神感情の常恒性を保持する人間を想定したものと想われます。つまりは、自己の精神感情をある程度は認識し得る人間です。哲学・思想ランキング
2022年07月28日
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神の存否-483 定理七 理性から生じあるいは理性によって喚起される感情は、時間(*持続)という点から見れば、不在として観想される個物に関する感情よりも強力である。 証明 我々が物を不在として観想するのはその物自身から受ける刺激によってではなく、その物の存在を排除する他の刺激を身体が受けることによるのである(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。により)。ゆえに、我々が不在として観想する物に関する感情は、その本性上、人間のその他の活動や能力を凌駕するようなものではなく(これについては第四部定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。を見よ)、寧ろ反対に、その外部の原因の存在を排除する諸刺激によって多かれ少なかれ阻害され得るようなものである(第四部定理九 感情は、その原因が現在我々の前にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である。により)。ところが、理性から生ずる感情は必然的に物の共通の諸特質に関係し(第二部定理四〇の備考二 要項:第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナティオ)、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有する第二種の認識における理性の定義)により、この共通の諸特質を我々は常に現在するものとして観想し、何故なら、そうしたものの現在的存在を排除する何ものも存しえないから、そして我々はこれを常に同じ仕方で表象する(第二部定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。により)。故に、こうした感情は常に同一にとどまる。従って、また(この部の公理一 もし同じ主体の中におのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力ならば、両者が相反することを止めるまでは、両者の中にか両者の一方の中にか必ずある変化が起こらざるをえないであろう。により)そうした感情に相反するしかも外部の原因から支えられない感情は、次第次第に、そうした感情に順応して、ついにはそれと相反しなくなるところまで来ざるを得ないであろう。こうした限りにおいて、理性から生ずる感情の方がより強力である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 参照:ベルクソンの持続と自由に時間(*持続とは、一般に、長く保ち続けること、長く続いていることを意味する。また、ベルクソン哲学の主要概念の一つであり、間断なき意識の流れを意味する。)。純粋持続と真の時間、たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れを感じる。その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるものである。これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。この純粋持続は、空間的に表現できるものではない。というのも、空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって、古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。したがって、真の実在認識は、もちろんカントのいう感性的直観や悟性によってではなく超知性的な直観によって可能となる。 持続と自由 ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。通常、自由といえば、選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、「現在」において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。 他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。物質は「自らを破壊する」のに対して、生命は「自らを形成する」。つまり、生命には、「物質が降りていく坂を登ろうとする努力」をみることができる。宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開なのである。そして、緊張の極にあるのが、エラン・ビタール(生の躍動)である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』哲学・思想ランキング
2022年07月27日
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神の存否-482 定理六 精神はすべての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有しあるいは感情から働きを受けることがより少い。 証明 精神はすべてのものが必然的であること(第一部定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。により)、また原因の無限な連結によって存在および作用へ決定されること(第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。により)を認識する。したがって(前定理五 我々が単純に表象するのみで必然的とも可能的とも偶然的とも表象しない物に対する感情は、その他の事情が等しければ、すべての感情のうちで最大のものである。により)そのことによって精神は、そうした物から生ずる感情から働きを受けることがより少ないように、また(第三部定理四八 愛および憎しみ、例えばペテロに対する感情は、憎しみが含む悲しみおよび愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。また両者、愛および憎しみは、ペテロがそのどちらかの感情、喜びあるいは悲しみの唯一の原因でなかったことを我々が表象する限りにおいて減少する。により)そうした物に対して刺激を感ずることがより少ないようにすることができる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 物が必然的であるというこの認識が、我々のより判然とまたより生き生きと表象する個物の上により多く及ぶに従って、感情に対する精神のこの能力はそれだけ大である。このことは経験によっても実証される。なぜなら、失われた善に対する悲しみは、その善を失った人間がいかなる仕方でもその善を保持することができなかったと考える場合、ただちに軽減されるのを我々は知っているからである。同様にまた、幼児が話すことも散歩することも推理することもできず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐まないことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐むであろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。こうしたことについて我々は、なお他に多くの例を挙げることができる。哲学・思想ランキング
2022年07月26日
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神の存否-481 定理五 我々が単純に表象するのみで必然的とも可能的とも偶然的とも表象しない物に対する感情は、その他の事情が等しければ、すべての感情のうちで最大のものである。 証明 我々が自由なものとして表象する物に対する感情は、必然的な物に対する感情よりも大であり(第三部定理四九 自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは、原因が等しい場合には、必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ。により)、したがって我々が可能的あるいは偶然的と表象する物に対する感情よりもさらにいっそう大である(第四部定理一一 我々が必然的として表象する物に対する感情は、その他の事情が等しければ、可能的あるいは偶然的なもの、すなわち必然的でないものに対する感情よりも強い。により)。ところが何らかの物を自由なものとして表象するとは、その物が行動に決定された原因を我々が知らないで、その物をただ単純に表象するということにほかならない(第二部定理三五の備考 要点:非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏、自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。において示したところにより)。ゆえに我々が単純にのみ表象する物に対する感情は、その他の事情が等しければ、必然的・可能的あるいは偶然的な物に対する感情よりも大であり、したがってまたそれは最大のものである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 注:スピノザが定理五に述べる、我々が単純に表象するのみで必然的とも可能的とも偶然的とも表象しない物に対する感情は表象するのみ、自由なものとして表象する物とは何を指すのか。察するところ、直感・直覚で捉えるところの精神感情(直感知・直覚知)、自然世界に於ける基本意思の表象なのでしょう。 記:スピノザの世界の構図は、神=世界=宇宙=自然=数学・幾何学・法則=自由なものとして表象する何者か?)と問えば、所謂、信教・唯一神教の神を除いて、世界>宇宙=自然=数学・幾何学・法則=(神の自由意思)なのでしょうか。尚更、現代物理論の神存在を持ち出さないで世界を解明する物理科学の姿勢とも些か異なるようにも思えます。スピノザ哲学が唯神・唯物・認識論何れなのかの結論は未だに決定づけるのかは難題です。哲学・思想ランキング
2022年07月25日
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神の存否-480 定理四 我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成し得ないようないかなる身体的変状も存しない。 証明 すべての物に共通したものは妥当にしか概念され得ない(第二部定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。により)。したがって(第二部定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような〈あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起こりえないであろう。、および定理一三の備考のあとにある補助定理二 すべての物体はいくつかの点において一致する。により)我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる感情も存しないことになる。なぜなら、感情は身体の変状の観念であり(感情の総括的定義 骨子: 精神の受動状態と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。により)、したがって(前定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。により)その中には何らかの明瞭判然たる概念が含まれていなければならぬからである。 備考 存在するすべてのものは必ず何らかの結果を生ずるのであり(第一部定理三六 その本性からある結果が生じないようなものは一として存在しない。により)、また我々は我々の中における妥当な観念から生ずるすべてのものを明瞭判然と認識するのであるから(第二部定理四〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられる。により)、この帰結として、各人は自己ならびに自己の諸感情を、たとえ絶対的にでないまでも、少なくとも部分的には、明瞭判然と認識する力を、したがってまたそれらの感情から働きを受けることをより少なくする力を有するということになる。ゆえに我々が特につとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、このようにして精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。 これによってただ愛・憎しみなどが破壊されるばかりでなく(この部第五部の定理二 もし我々が精神の動きあるいは感情を外部の原因の思想から分離して他の思想と結合するならば、外部の原因に対する愛あるいは憎しみ、ならびにそうした感情から生ずる精神の動揺は破壊されるであろう。により)、さらにまたそうした感情から生ずるのを常とする衝動ないし欲望も過度になりえないことになろう(第四部定理六一 理性から生ずる欲望は過度になることができない。により)。というのは、人間が働きをなす「*能動する」と言われるのも働きを受ける「*受動する」と言われるのも同一の衝動によるのであることを我々は何よりも注意しなくてはならない。例えば、前に示したように、人間はその本性上他の人々が己れの意向通りに生活することを欲求「*衝動」するものであるが(第三部定理三一の備考 抜粋:各人は生来他の人々を自分の意向に従って生活するようにしたがるものであるということが分かる。を見よ)、この衝動は、理性によって導かれない人間にあっては受動であって、この受動は名誉欲と呼ばれ、高慢とあまり違わないのであり、これに反して理性の指図によって生活する人間にあってはそれは能動ないし徳であって、これは道義心と呼ばれる(第四部定理三七の備考一 結論:真の徳と無能力との差別、すなわち真の徳とは理性の導きのみに従って生活することにほかならない。及び、その定理の第二の証明*別の証明 人間は自分のために欲求しかつ愛する何らかの善を他人もまた愛するのを見るとしたらいっそう強くそれを愛するであろう。だから彼は他人もそれを愛するように努めるであろう。を見よ)。このようにしてすべての衝動ないし欲望は非妥当な観念から生ずる限りにおいてのみ受動であり、その同じ衝動ないし欲望が妥当な観念によって喚起されあるいは生じさせられる時には徳に数えられるのである。なぜなら、我々をある行動に決定するすべての欲望は、妥当な観念からも非妥当な観念からも生じうるからである(第四部定理五九 我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によって決定されることができる。を見よ)。 さて、再び出発点に立ちもどって、感情に対しては、感情を真に認識することに存するこの療法を措(お)いては我々の力の中に存するこれよりいっそうすぐれた他の療法は考えられ得ないのである。実に精神の能力と言っても、上に示したように(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)、思惟しかつ妥当な観念を形成する以外のいかなる能力も存しないのであるから。 (参照:アリストテレスの徳論の中心概念。理性によって欲望と行動を統制し、過大と過小との両極端の正しい中間に身をおくこと。たとえば、勇気は、理性によって明らかにされた具体的な事情を考えた上で、卑怯と粗暴との中間であるとすること。)哲学・思想ランキング
2022年07月24日
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神の存否-479 定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。 証明 受動という感情は混乱した観念である(感情の総括的定義により)。 感情の総括的定義 精神の受動状態と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。 説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである。 次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。 しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言っているのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むようなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体の現実的存在を肯定する点に存するし、また我々は完全性ということを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能力は、対象の価値によって評価されるからである。最後に私が「精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。 ゆえにもし我々がその感情について明瞭判然たる観念を形成するならば、この観念と、精神のみに関係する限りにおいての感情そのものとの間には、ただ見方の相違以外のいかなる柑違もないであろう(第二部定理二一 精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。及び、その備考 抜粋:精神の観念と精神自身とは同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずるのである。なぜなら、精神の観念すなわち観念の観念というものは実は観念、その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいての形相にほかならないからである。これは、ある人があることを知ればその人はそれによって同時に自分がそれを知ることを知り、また同時に自分は自分がそれを知ることを知ることを知り、このようにして無限に進む、ということから明らかである。)により。したがって(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。)により、感情は受動であることを止めるであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 ゆえに我々が感情をよりよく認識するに従って感情はそれだけ多く我々の力の中に在り、また精神は感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。哲学・思想ランキング
2022年07月23日
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神の存否-478 定理二 もし我々が精神の動きあるいは感情を外部の原因の思想から分離して他の思想と結合するならば、外部の原因に対する愛あるいは憎しみ、ならびにそうした感情から生ずる精神の動揺は破壊されるであろう。 証明 なぜなら、愛あるいは憎しみの形相を構成するものは外部の原因の観念を伴った喜びあるいは悲しみである(感情の諸定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。及び、諸定義七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。により)。ゆえに、この観念が除去されれば愛あるいは憎しみの形相も同時に除去される。したがってそうした感情ならびにそれから生ずる諸感情は破壊される。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:定理二はインドのヒンズー教永遠の修行者、「サドゥー」と呼ばれる人々を思い起こさせます。彼らはあらゆる物質的・世俗的所有を放棄し、肉体に様々な苦行を課すことや、瞑想により第四かつ最終的な解脱を得ることを人生の目標としています。サドゥ―が服を着る場合は、俗世を放棄したことを示す枯葉色の衣服を身につけて数珠を首に巻く。「ナーガ」と呼ばれるサドゥーは衣服さえ放棄し、ふんどし一枚きりか、あるいは全裸で生活し、髪を剪らず髭も剃らず、灰を体に塗っている。サドゥーの名前は10種類しかない。サドゥーは入門時に俗名を捨て、10種の名前のうち一つを与えられて以後それを名乗るのです。サドゥーはヒンズー教で、独特で重要な地位を占めている。サドゥーは苦行により人々のカルマを打ち破るとされているため、今なお呪術や魔法を信じる人が少なくないインド社会で聖者として一定の尊敬を受ける存在である。また恐れられる場合もあるが、これは彼らを冷遇した者には、呪術で報復することがあると思われているためである。また、インドではサドゥーは法的に死亡者とみなされる。入門時に、自身の葬儀を行う者もいる。3年毎に、ガンジス河畔の4箇所の聖地のうちいずれか1つで、インドのすべての地域のサドゥーが集まる大集会が開催される。彼らは一般に、列車に無料で便乗することが黙認されている。彼らは外部の原因に対する愛あるいは憎しみ、ならびにそうした感情から生ずる精神の動揺は破壊されているのであろうか、若しくは、外部の原因に対する愛あるいは憎しみを分離する超越的な術(すべ)を心得ているのかは定かではないが、現在、インド全域とネパールに400万人から500万人のサドゥーが存在すると言われています。私事ですが、子供の頃に有名な乞食として繁華街の飲食店で店舗の端で飲み食いしていた人物が、某有名大学の大学院の人物と聞き及んで驚愕した経験があります。彼もまたサドゥーだったのでしょうか。哲学・思想ランキング
2022年07月22日
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いっぷ句-73入道が異常気象に泣き叫び 愚通にほんブログ村
2022年07月21日
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神の存否-477 定理一 思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体の中で秩序づけられ・連結される。 証明 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であり(第二部定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。により)、また逆に物の秩序および連結は観念の秩序および連結と同一である(第二部定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。及び、定理七の系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的(フォルマリテル)に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的(オブエクティヴェ)に〔すなわち観念として〕起こるのである。により)。ゆえに観念の秩序および連結が精神の中で身体の変状の秩序および連結に相応して行なわれるように(第二部定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。により)、逆に(第三部定理二 身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない。により)身体の変状の秩序および連結は思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのに相応して行なわれる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 (*仏教の十二因縁、及び、大乗の祖である龍樹/ナーガールジュナの著「中論」空観・縁起との比較対照。)哲学・思想ランキング
2022年07月21日
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神の存否-476 エチカ 第五部 公 理 一 もし同じ主体の中におのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力ならば、両者が相反することを止めるまでは、両者の中にか両者の一方の中にか必ずある変化が起こらざるをえないであろう。 二 結果の本質がその原因の本質によって説明され・規定される限り、結果の力はその原因の力によって規定される。 この公理は第三部定理七(おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。)から明らかである。 記:おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、人間の生得のものであり、神の延長・様態としての個物としての人間の誕生の意義並びにその意味、其の生涯を生き尽くす意味並びに意義、それぞれに、おのおのに自己の有に固執しようと努める努力は、最先端物理学理論のマルチバースである無尽、然らずんば無限の宇宙が破滅を目指すのか、はたまた、スピノザが定義する神存在(常有)の世界である宇宙(我々が認識でき得る世界)である自然を意味するものかで、取り扱いは、偶然、必然として意味合いが異なります。人間原理(anthropic principle)の登場です。*人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈はできるが、これを自然科学的な説明に用いることについては混乱と論争があります。哲学・思想ランキング
2022年07月20日
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神の存否-475 知性の能力あるいは人間の自由について 序 言(後半) これ、デカルトは「情念論」によって彼は、いかなる精神も、適当に指導されるならば、自己の感情である受動感情に対して絶対権を得られないほど薄弱なものではないと結論する。なぜなら、感情は彼の定義に従えば「知覚あるいは感覚あるいは精神の動きであって、これらはもっばら精神の領域に属し、そしてこれらは精気のある運動によって産出され、維持され、強化される」のである。ところが我々は松果腺の各運動を、したがってまた動物精気の各運動を、任意の意志と結合することができるのであり、また意志の決定は我々の力にのみ依存するのであるから、このゆえにもし我々が自分の生活活動の規準としている一定の確実な判断によって自分の意志を決定し、そして自分の持とうと欲する感情の動きをこれらの判断と結合するならば、我々は自分の感情に対して絶対的権力をかち得ることになるであろう。 これが(私が彼の言葉から推知する限り)かの有名な人の見解である。もしこの見解がこれほど尖鋭なものでなかったとしたら、私はそれがこのように偉大な人から出たとはほとんど信じなかったであろう。それ自体で明白な諸原理からでなくては何ごとも導出せぬことを、また明瞭判然と知覚したことがら以外の何ごとも肯定しないことを断乎と主張し、スコラ学派が不明瞭な物を隠れた性質によって説明しようと欲したことをあれほどしばしば非難した哲学者その人が、あらゆる隠れた性質よりもいっそう隠微な仮説を立てるとは実に不思議にたえないのである。 いったい彼は、精神と身体との結合をいかに解しているのか。またいったい彼は、延長のある小部分〔松果腺〕と最も密接に結合した思惟についていかなる明瞭判然たる概念を有しているのか。 実に私は彼がこの結合をその最近原因によって説明してほしかったのである。ところが彼は精神を身体から截然(せつぜん*物事の区別がはっきりしているさま)と区別して考えていたので、この結合についても、また精神自身についても、何ら特別な原因を示すことができないで、全宇宙の原因へ、すなわち神へ、避難所を求めざるをえなかったのである。それから私は、精神がいかなる程度の動きをかの松果腺に与えうるのか、またどれだけの力で精神は松果腺をある状態に保ちうるのかを知りたい。なぜならこの腺は、精神によって動かされる場合、動物精気によって動かされる場合よりもより遅く動くのかそれともより速く動くのか、また我々が確実な判断と密接に結合させた感情の動きが物体的原因によって再びこれらの判断から分離するということがありえないかどうか、そうしたことについて私は何も聞いていないからである。もしそういうことがありうるとしたら、たとえ精神が断乎と危難に赴こうと企て、この決意に大胆という心の動きを結合するとしても、危難を目撃するや否や松果腺がある状態を呈してそのため精神が逃亡しか思惟しないというようなことにもなるであろう。しかし実際のところは、意志と運動との間には何の関係もないのだから、精神の能力ないし力と身体の能力ないし力との間には何の比較もありえないのである。したがってまた身体の力は決して精神の力によって決定されえないのである。その上に、この腺が脳の中央に懸っていて、そのように容易にまたそのように多くの仕方で動かされうるということはないのであり、またすべての神経がみな脳窩(のうか)にまで続いているわけではないのである。 最後に彼が意志およびその自由について主張したすべての事柄はこれを省略する。なぜなら、それらが誤りであることは私の十二分に明らかにしたところであるから。 ところで、精神の能力は、さきに私の示したように、もっぱら妥当な認識作用にのみあるのであるから、感情に対する療法、私の信ずるところではそうしたものを誰でもみな経験して知っているのであって、ただそれを正確に観察したり判然と識別したりしていないだけなのである。---我々はただ精神の認識によって決定し、精神の至福に関するすべてのことをこの認識から導き出すであろう。哲学・思想ランキング
2022年07月19日
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神の存否-474 第 五 部 構成序言、公理、一、二、定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、 知性の能力あるいは人間の自由について 序 言(前半) 最後に私は自由に達する方法ないし道程に関する倫理学(エチカ)の他の部分に移る。私はこの部で理性の能力について論ずるであろう。すなわち理性そのものが感情に対して何をなしうるかを示し、次に精神の自由ないし至福とは何であるかを示すであろう。これによって我々は賢者が無知者よりどれだけ有能であるかを見るであろう。しかし知性はいかなる方法、いかなる道程で完成されなければならぬか、さらにまた身体はその機能を正しく果しうるためにはいかなる技術で養護されなければならぬかはここには関係しない。なぜなら後者は医学に属し、前者は論理学「logic/ロジック(ギリシア語の形容詞 λογικ, logica))」に属するからである。ゆえにここでは、今も言ったように、精神ないし理性の能力だけについて論ずるであろう。特に、それが感情を抑制し統御するために、感情に対してどれだけ大きなまたどのような種類の権力を有するかを示すであろう。なぜなら、我々が感情に対して絶対的権力を有しないことはすでに前に証明したからである。 ストア学派では感情が絶対に我々の意志に依存して我々は感情を絶対に支配しうると信じていた。けれども彼らは、経験の抗議により、彼ら自身の原理に反して、「感情を抑制し統御するには少なからぬ訓練と労力を要する」ということを容認せざるをえなくなった。ある人はこれを(私の記憶に誤りがなければ)二匹の犬、一は家犬、他は猟犬、の例によって示そうと試みた。すなわちその人は訓練によってついに、家犬が猟をするように、また反対に猟犬が野兎を追うことを止めるように、慣らすことができたというのである。 デカルトも少なからずこの意見に傾いている。なぜなら彼は、魂つまり精神は松果腺と呼ばれる脳の一定部分と特別に結合していること、この腺を介して精神は身体内に起こるすべての運動ならびに外部の対象を感覚すること、そして精神は単に意志するだけでこの腺を種々さまざまに動かしうること、そうしたことを主張しているからである。 彼の主張によれば、この腺は脳の中央に懸(かか)っていて動物精気のごく微細な運動によっても動かされうるようになっている。なお、動物精気が多くの異なった仕方でこの腺を衝くのに応じてこの腺は脳の中央においてそれだけ多くの異なった状態を呈すること、さらにまた動物精気をこの腺に向かって推進せしめる外部の対象が種々異なるのに応じてそれだけ多くの異なった痕跡がこの腺に刻印されることを彼は主張している。したがって、もし松果腺があとで、これを多種多様に動かしうる精神の意志によって、かつてさまざまに刺激された精気の活動のもとに呈したことのあるこのあるいはかの状態を呈すると、今度はこの腺自身が、以前にこれと類似の腺状態において動物精気を体内に押し戻したのと同じ仕方で、精気を推進せしめかつ指導するようになる。 なおまた彼は精神のそれぞれの意志が自然的に一定の腺運動と結合していると主張する。例えばある人が遠方の対象を見ようとする意志を持つなら、この意志は瞳孔の拡大をひき起こすであろう。しかし単に瞳孔を拡大しようと思う場合、その意志を持っても瞳孔は拡大しないであろうなぜなら自然は、瞳孔の拡大ないし縮小をきたすように精気を視神経へ推進せしめる役目をなす腺運動を、瞳孔を拡大ないし縮小しようとする意志とは連結しないで、遠くのあるいは近くの対象を見ようとする意志にのみ連結したからである。 最後に彼は、この腺のそれぞれの運動は我々が生まれた時以来自然的に我々のそれぞれの思想と連絡されているように見えるけれども、それにもかかわらずこの運動を習慣によって他の思想と連結することもできると主張し、これを彼は『感情論』第一部第五〇節で証明しようと試みている。 (デカルト「情念論」)哲学・思想ランキング
2022年07月18日
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神の存否-473 エチカ第四部 人間の隷属あるいは感情の力について(第一項 ー 第三二項) 付 録 第二六項から第三二項 第二六項 自然の中で我々は人間のほかに、その物の精神を我々が楽しみうるような、また、我々がその物と友情あるいはその他の種類の交際を結びうるような、そうしたいかなる個物も知らない。ゆえに我々の利益というものを顧慮すれば、人間以外に自然に存するものをすべて保存するようなことは必要でない。むしろそれらをその種々多様な用途に従って保存したり、破壊したり、あるいはあらゆる方法でこれを我々の用に順応させたりするように我々の利益への顧慮は要求するのである。 第二七項 我々が我々以外の物から引き出す利益は、まず我々がそれらの物を観察したり、それらの物の形相をさまざまに変化させたりすることによって得られる経験と認識とであるが、そのほかには何といっても身体の維持ということである。この点から見れば、身体のすべての部分がその機能を正しく果しうるようなふうに身体を養いはぐくみうるものが何より有益である。なぜなら、身体が多くの仕方で刺激されうることに、また多くの仕方で外部の物体を刺激しうることにより適するのに従って、精神は思惟することにそれだけ適するからである(第四部定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。及び、第四部定理三九 人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。を見よ)。しかしそうした種類のものは自然の中にきわめて僅(わず)かしかないように見える。ゆえに身体を必要なだけ養うためには、本性を異にする多様の養分を取らなければならぬ。実際、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されていて、これらの部分は、全身がその本性上なしうるすべてのことに対して等しく適するためには、したがってまた精神が多くの事柄を把握することに等しく適するためには、たえず種々の養分を必要とするからである。 第二八項 しかしこれを調達するには、人間が相互に助け合わない限り、個々人の力だけではほとんど十分でないであろう。ところですべての物が簡単に貨幣で代表されるようになった。この結果として通常貨幣の表象像が大衆の精神を最も多く占めるようになっている。人々は、金銭がその原因と見られないような喜びの種類をほとんど表象することができないからである。 第二九項 しかしこうしたことは、欠乏や生活の必要から金銭を求める人々についてではなく、貨殖の術を学んでこれを誇りとするがゆえに金銭を求めるような人々についてのみ非難されるべきである。もともとこうした人々は習慣上身体を養ってはいるが身体の維持についやすものを財産の損失と信ずるがゆえに出し吝(お)しみしながら身体を養っている。これに反して金銭の真の用途を知り富の程度を必要によってのみ量る人々は、わずかなもので満足して生活する。 第三〇項 このように、身体の諸部分をその機能の遂行に関して促進するものが善であり、また喜びは人間の精神的および身体的能力が促進され増大されることに存するのだから、このゆえに、すべて喜びをもたらすものは善である。しかし一方、物は我々を喜びに刺激する目的ではたらいているのでなく、また物の活動能力は我々の利益に従って調整されるものでなく、最後にまた喜びは大抵の場合主として身体の一部分にのみ関係するのであるから、このゆえにおおむね喜びの感情は(もし理性と用心とを欠くならば)過度になり、したがってそれから生ずる欲望もまた過度になる。これに加えて、我々は現在において快適なものを感情に基づいて最も重要なものと思い、そして未来のものを精神の等しい感情をもって評価することができない。第四部定理四四の備考および定理六〇の備考を見よ。 第三一項 迷信はこれと反対に悲しみをもたらすものを善、喜びをもたらすものを悪と認めているように見える。だが、すでに述べたように(第四部定理四五の備考 を見よ)、妬み屋以外の如何なる人間も私の無能力や苦悩を喜びはしない。なぜなら、我々はより大なる喜びに刺激されるに従ってそれだけ大なる完全性に移行し、したがってまたそれだけ多く神の本性を分有するからである。その上喜びは、我々の利益への正当な顧慮によって統御される限り、決して悪でありえない。これに反して、恐怖に導かれて悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていないのである。 第三二項 しかし人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々は自分の義務を果したこと、我々の有する能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう。もし我々がこのことを明瞭判然と認識するなら、妥当な認識作用を本領とする我々自身のかの部分、すなわち我々自身のよりよき部分はそれにまったく満足し、かつその満足を固執することに努めるであろう。なぜなら、我々は妥当に認識する限りにおいて、必然的なもの以外の何ものも欲求しえず、また一般に、真なるもの以外の何ものにも満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力(人間本性の欲望)」は全自然の秩序と一致する。 記:スピノザの定義する人間本性の欲望とは、敢くまで人間の精神の秩序を理法に従う限りにおいて、善性にあるとの性善説をとる思想だと云えましょう。 第四部 終り哲学・思想ランキング
2022年07月17日
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神の存否-472 エチカ第四部 人間の隷属あるいは感情の力について(第一項 ー 第三二項) 付 録 第一〇項から第二五項 第二一項 阿訣(あゆ)もまた和合を生ずるがそれは醜悪な屈従もしくは背信によってである。だが阿訣に最も多く捉えられるのは、第一人者たらんと欲してそうではない高慢な人間である。 (注:「阿諛」は阿諛り・阿り(おもねり)、諂う(へつらう)意で、屡々、阿諛追従(あゆついしょう)と合成語して使用されます。「追従(ついしょう)」はこびへつらうこと。また、その言葉。おべっかといえましょう。*漢字は同じ追従(ついじゅう)ついて行くこと。また、他人などの言う事なす事に(そのまま)従うことの読み方とは相違します。 第二二項 自卑には道義心および宗教心という虚偽の外観がつきまとっている。そして、自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間に最も近い。第四部定理五七の備考(抜粋:自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間にもっとも近い。実際彼の悲しみは自己の無能力を他の人々の能力ないし徳に照して判断することから生ずるのであるから、彼の表象力が他人の欠点の観想に専心する時に彼の悲しみは軽減するであろう。言いかえれば彼は喜びを感ずるであろう。「不幸な者にとっては不幸な仲間を持ったことが慰安である」というあの諺はここから来ている。反対に彼は自分が他の人々に劣ると信ずれば信ずるだけますます多く悲しみを感ずるであろう。この結果として、自卑者ほど多くねたみに傾く者はないこと、彼らは是正してやるためによりも、とがめだてをするために熱心に人々の行為を観察することに努めること、最後にまた彼らは自卑のみを賞讃し、己れの目卑を誇り、しかも自卑の外観を失わないようにしてそれをやるということになる。こうしたことどもはこの感情から必然的に起こるのであって、それはあたかも三角形の本性からその三角の和が二直角に等しいということが起こるのと同様である。)を見よ。 第二三項 恥辱もまた和合に寄与するところがある。しかしこれは匿(かく)すことのできぬ事柄についてだけである。それに、恥辱そのものは悲しみの一種だから理性にとっては無用である。 第二四項 他人に対して向けられたその他の悲しみの感情は正義、公平、端正心、道義心および宗教心の正反対である。憤慨のごときは公平の外観を帯びているけれども、もし他人の行為について審判して自己もしくは他人の権利を擁護することが各人に許されるとしたら、人間は無法律で生活することになる。 第二五項 礼譲、言いかえれば人々の気に入ろうとする欲望は、それが理性によって決定される場合は道義心に属し(第四部定理三七の備考一 抜粋: 我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。で述べたように)、これに反してそれが感情から生ずる場合は名誉欲、すなわち人間が道義心の仮面のもとにしばしば不和と争闘をひき起こす欲望となる。なぜなら、理性によって決定される人、すなわち、他の人々が自分とともに最高の善を享受するように助言ないし実践をもって彼らを助けようと欲する人は、特に彼らの愛をかち得ようとつとめはするであろうが、彼らに驚嘆されて自分の教えが自分の名前によって呼ばれるようにしようとは努めないであろうし、また一般に、妬み(ねたみ)を招くようないかなる機縁をも作らないようにするであろう。また普通の会話においても人の短所を挙げることを慎み、人の無能力については僅か(わずか)しか語らないように注意し、これと反対に、人間の徳ないし能力について、またそれを完成する方法については大いに語るようにするであろう。このようにして彼は、人々が恐怖や嫌悪からでなく、ただ喜びの感情のみに動かされてできるだけ理性の指図による生活をしようと努めるようにさせるであろう。哲学・思想ランキング
2022年07月16日
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神の存否-471 エチカ第四部 人間の隷属あるいは感情の力について(第一項 ー 第三二項) 付 録 第一〇項から第二〇項 第一〇項 人間は相互に対してねたみあるいは何らかの憎しみの感情に駆られる限りその限りにおいて相互に対立的である。したがってまた、人間は自然の他の個体よりいっそう有能であるだけにそれだけ相互にいっそう恐るべき敵なのである。 (人間、恐るべき敵) 第一一項 しかし人間の心は武器によってでなく愛と寛仁とによって征服される。 第一二項 人間にとっては、たがいに交わりを結び、そして自分たちすべてを一体となすのに最も適するような紐帯(ちゅうたい)によって相互に結束すること、一般的に言えば、友情の強化に役立つような事柄を行なうこと、これが何より有益である。 (*走れメロス:ギリシャ・ローマ世界で広く流布した友情物語 注:太宰治・ピタゴラス派) 第一三項 しかしこれをなすには技倆と注意が必要である。なぜなら、人間というものは種々多様であり(理性の指図に従って生活する者は稀であるから)、しかも一般に妬み深く、同情によりも復讐に傾いている。ゆえに彼らすべての意向に順応し、それでいて彼らの感情の模倣に陥らないように自制するには、特別な精神の能力を要する。一方、人間を非難し、徳を教えるよりは欠点を咎(とが)め、人間の心を強固にするよりはこれを打ち砕くことしか知らない人は、自分でも不快であり他人にも不快を与える。このような次第で多くの人は、過度の性急さと誤った宗教熱との故に、人間の間に生活するよりも野獣の間に生活することを欲した。これは親の叱責を平気で堪えることができない少年もしくは青年が家を捨てて軍隊に走り、家庭の安楽と父の訓戒との代りに戦争の労苦と暴君の命令とを選び、ただ親に復讐しようとするためにありとあらゆる負担を身に引受けるのにも似ている。 (軍隊) 第一四項 このように人間は大抵自己の欲望に従って一切を処理するものであるけれども、人間の共同社会からは損害よりも便利がはるかに多く生ずる。ゆえに彼らの不法を平気で堪え、和合および友情をもたらすのに役立つことに力を至すのがより得策である。 第一五項 この和合を生むものは正義、公平、端正心に属する事柄である。なぜなら人間は不正義なこと、不公平なことばかりでなく非礼と思われること、すなわち国家で認められている風習が何びとかに犯されるようなことも堪えがたく感ずるからである。さらに進んで愛を得るには宗教心および道義心に属することが最も必要である。これらのことについては第四部の定理三七の備考一(骨子:友愛的と国家の基礎)、備考二(骨子:自然状態)、定理四六の備考(自分の受けた不法を憎み返しによって復讐しようと思う人はたしかに惨めな生活をするものである。これに反して憎しみを愛で克服しようとつとめる人は、実に喜びと確信とをもって戦い、多くの人に対しても一人に対するのと同様にやすやすと対抗し、運命の援助をほとんどまったく要しない。一方、彼に征服された人々は喜んで彼に服従するが、しかもそれは力の欠乏のためではなくて力の増大のためである。これらすべては単に愛および知性の定義のみからきわめて明瞭に帰結されるのであって、これを一々証明することは必要でない。)および定理七三の備考(骨子:「正しく行ないて自ら楽しむ」ことに努める。)を見よ。 第一六項 そのほかに和合はしばしば恐怖から生まれるのが常である。しかしこれは信義の裏づけのない和合である。これに加えて、恐怖は精神の無能力から生ずるものであり、したがって理性にとっては無用である。あたかも憐憫が道義心の外観を帯びているにもかかわらず理性にとって無用であるのと同様に。 第一七項 なおまた人間は施与によっても征服される。特に生活を支える必需品を調達するすべを持たない人々はそうである。しかしすべての困窮者に援助を与えることは一私人の力と利害をはるかに凌駕する。一私人の富はこれをなすのに到底及ばないからである。それにまたただ一人の人間の能力はすべての人と友情を結びうるにはあまりに制限されている。ゆえに貧者に対する配慮は社会全体の義務であり、もっぱら公共の福祉の問題である。 (福祉) 第一八項 親切を受け容れまた感謝を表わすにあたってはこれとまったく異なった配慮がなされなくてはならぬ。これについては第四部定理七〇の備考(骨子:親切を避けるにあたっては、何が利益であるか何が端正であるかを考慮しなければならぬ。)および定理七一 :抜粋 人間の贈物によって動かされない人はなおさら忘恩的とは言われない。いかなる贈物によっても自己あるいは社会の破滅になるような行ないへ誘惑されない人は、確固たる精神の所有者であることを示しているの備考を見よ。 第一九項 なおまた肉的愛、言いかえれば外的美から生ずる生殖欲、また一般的には精神の自由以外の他の原因を持つすべての愛は容易に憎しみに移行する(ただしその愛が狂気の一種にまでなっている〜〜省略、これはもっとしまつの悪い場合であるが〜〜云々ならこの限りでない)。こうした場合には和合よりも不和がいっそう多くはぐくまれる。第三部定理三一の備考 自分の愛するものや自分の憎むものを人々に是認させようとするこの努力は実は名誉欲である(この部の定理二九の備考を見よ)。このようにして各人は生来他の人々を自分の意向に従って生活するようにしたがるものであるということが分かる。ところで、このことをすべての人が等しく欲するゆえに、すべての人が等しくたがいに障害になり、またすべての人がすべての人から賞讃されよう愛されようと欲するゆえに、すべての人が相互に憎み合うことになるのである。を見よ。 第二〇項 結婚に関して一言えば、もし性交への欲望が外的美からのみでなく、子を生んで賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら、その上もし両者の愛が外的美のみでなく特に精神の自由にも基づくとしたら、それは理性と一致することが確実である。 (結婚)哲学・思想ランキング
2022年07月15日
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神の存否-470 エチカ第四部 人間の隷属あるいは感情の力について (第一項 ー 第三二項) 付 録 第一項から第八項 この部第四部で正しい生活法について述べたことは一覧して見通せるようなふうには配列されていない。私は、一を他からより容易に導き出しえたところに従って分散的にこれを証明しているのである。だから私はここでそれを総括して主要項目に還元してみることにした。 第一項 我々のすべての努力ないし欲望は我々の本性の必然性から生ずるのであるが、それは、その最近原因としての我々の本性のみによって理解されるような仕方で生ずるか、それとも我々が他の個体なしに自身だけでは妥当に考えられないような自然の一部分である限りにおいて生ずるか、そのどちらかである。 第二項 我々の本性のみによって理解されるような仕方で我々の本性から生ずる欲望は、妥当な観念から成ると考えられる限りにおける精神に帰せられる欲望である。これに反してその他の欲望は、物を非妥当に考える限りにおける精神にのみ帰せられる。そして後者のような欲望の力および発展は、人間の能力によってではなく、我々の外部にある諸物の力によって規定されなければならぬ。ゆえに前者のごとき欲望は能動と呼ばれ、後者のごとき欲望は受動と呼ばれるべきである。なぜなら、前者は常に我々の能力を表示し、反対に後者は我々の無能力および毀損した認識を表示するからである。 第三項 我々の能動の精神感情・・省略、言いかえれば人間の能力ないし理性によって規定されるような欲望〜〜云々は、常に善であり、これに反してその他の欲望は、善でも悪でもありうる。 第四項 だから人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することであり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存する。なぜなら、至福とは神の直観的認識から生ずる精神の満足そのものにほかならないのであり、他方、知性を完成するとはこれまた神、神の諸属性、および神の本性の必然性から生ずる諸活動を認識することにほかならないからである。ゆえに理性に導かれる人間の究極目的、言いかえれば、彼が他のすべての欲望を統御するにあたって規準となる最高欲望は、彼自身ならびに彼の認識の対象となりうる一切の物を妥当に理解するように彼を駆る欲望である。 (至福・知性・欲望) 第五項 だから妥当な認識なしには理性的な生活というものはありえない。そして物は、妥当な認識作用を本領とする精神生活を享受することにおいて人間を促進する限り、その限りにおいてのみ善である。これに反して人間が理性を完成して理性的な生活を享受するのに妨げとなるもの、そうしたもののみを我々は悪と呼ぶのである。 第六項 しかし人間自身を起成原因として生ずるすべてのものは必然的に善なのであるから、したがって悪は人間にとってただ外部の原因からのみ起こりうる。すなわち人間が全自然の一部分であってその諸法則に人間本性は服従するように迫られ、ほとんど無限に多くの仕方で人間本性は全自然に順応するように強いられる、ということからのみ悪は人間に起こりうるのである。 第七項 しかも人間が自然の一部分でないということ、また人間が自然の共通の秩序に従わないということは不可能である。だがもし人間が自己自身の本性と一致するような個体の間に生活するなら、まさにそのことによって人間の活動能力は促され、養われるであろう。これに反してもし自己の本性と全然一致しないような個体の間に在るなら、彼は自己自身を大いに変化させることなしには彼らに順応することがほとんど不可能であろう。 第八項 自然の中に存在するもので我々がそれを悪である、あるいは我々の存在ならびに理性的な生活の享受に妨害となりうる、と判断するもの、そうしたすべてのものを我々は最も確実と思える方法で我々から遠ざけてよい。これに反してそれは善である、あるいは我々の有の維持ならびに理性的な生活の享受に有益である、と我々の判断するものが存するなら、我々はそうしたすべてのものを我々の用に供し、あらゆる仕方でこれを利用してよい。一般的に言えば、各人は自己の利益に寄与すると判断する事柄を最高の自然権によって遂行することが許されるのである。 第九項 ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって(第七項 要項:自然と人間の本性との一致により)人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の技倆と才能を証明することができる。 (実践倫理)哲学・思想ランキング
2022年07月14日
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神の存否-469 定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。 (国家) 証明 理性に導かれる人間は恐怖によって服従に導かれることがない(この部第四部の定理六三 恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない。により)。むしろ彼は、理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて、言いかえれば(この部第四部の定理六六の備考 感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違、前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。により)自由に生活しようと努める限りにおいて、共同の生活および共同の利益を考慮し(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)、したがってまた(この部第四部の定理三七の備考二 要項:人間の自然権の真の認識で示したように)国家の共同の決定に従って生活することを欲するのである。ゆえに理性に導かれる人間は、より自由に生活するために、国家の共通の法律を守ることを欲する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 このことおよび我々が人間の真の自由について示したこれと類似のことどもは精神の強さに、言いかえれば(第三部定理五九の備考 抜粋:当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を、私は精神の強さに帰する。により)勇気と寛仁とに帰せられる。しかし私は精神の強さのすべての特質をここで一々証明することを必要とは思わない。ましてや毅然とした精神の人間が何びとをも憎まず、何びとをも怒らず、妬(ね)たまず、憤慨せず、何びとをも軽蔑せずまた決して高慢でないことを証明するのはなおさら必要であるまい。なぜならこのことおよび真の生活や宗教に関するすべてのことは、この部の定理三七および四六から容易に理解されうるからである。すなわち憎しみは愛によって征服されなければならぬということ、および理性に導かれる各人は自分のために欲求する善を他の人々のためにも欲するということから容易に理解されるのである。これに加えて、我々がこの部第四の定理五〇の備考 偶然によって希望あるいは恐怖の原因たる物は善い前兆あるいは悪い前兆と呼ばれる云々、および、その他の諸個所で注意したことがある。それによれば、毅然とした精神の人間は、一切が神の本性の必然性から生ずることを特に念頭に置き、したがってすべて不快に、邪悪に思われるもの、さらにすべて不敬に、嫌悪的に、不正に、非礼に見えるものは、事物をまったく顛倒し、毀損し、混乱して考えることから起こることを知っている。そこで彼は事物をそのあるがままに把握しようとし、また真の認識の障害になるもの・・・省略。例えば憎しみ、怒り、ねたみ、嘲笑、高慢その他我々が前に注意したこの種のことども云々、を除去することに最も努める。それゆえまた彼は、すでに述べたように、できるだけ「正しく行ないて自ら楽しむ」ことに努めるのである。しかしこれを達成するにあたって人間の徳はどの程度まで及び、そしてまた何をなしうるかは次の部で証明するであろう。 (マハトマ・ガンディー/Mahatma Gandhi)哲学・思想ランキング
2022年07月13日
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神の存否-468 記:スピノザは「物心二元論」を唱えたデカルトの批判者として現われ、その主張は「実体的に存在(常有)しているのは神だけであり、精神や物体は神に帰属するものだ」という一元論、人間に関して云えば心身一元論」です。スピノザが物心二元論を批判したのは、人間を精神と物体に二分する考え方が間違っていると考え、人間たる実在とは、それ単一で存在することが可能であって、他に依存することはないのとの言です。実体は常に単一です。したがってスピノザの思想からすれば、実体を二分する心身二元論は批判の対象となります。その単一の唯一の実体は、スピノザは「神」だと解きます。あらゆる存在はこの神に属する部分、様態・延長です。然し乍ら、神は世界の創造を自由意思を自身意識・認識した創造者ではありません。神そのものが、完全体としての世界全体であり、自然界なのです。デカルトが二元論的であるのに対して、スピノザは一元論的であると言えるでしょう。スピノザは神への絶対的な服従を誓う宗教家なのではないのかと疑うかもしれません。しかし、スピノザが論じる神とは、世界の創造者ではなく、世界そのものです。キリスト教とは全く別個の思想を築き上げたとも云え非難は当然にあるべくしてあるといえます。あらゆる存在が神の部分であると説くスピノザは、人間の自由意思を否定していると評価されます。しかし、彼のエチカ第四部の感情に関する考察を知れば、これは誤りであることがわかります。スピノザの定義によれば、感情には「欲望」、「喜び」、そして「悲しみ」があります。「欲望」とは、人間個体が自己の同一性を維持し続けようとする力です。「喜び」は、この「欲望」における力が増幅することで生じます。一方、この力が低減する時に生じるのが「悲しみ」です。此れ等全ての感情を制御する超越的性存在が理性です。目的意識の精神の自由を認めないスピノザですが、受動的精神感情三種の「欲望」・「喜び」・「悲しみ」から、より能動的な「徳と知」を基礎とする自然観念「理性」へと昇華すれば感情の受動状態からより放たれ、拘束受動感情から解放され、より精神の解放が得られるとします。更にスピノザの目指すのは「自らの神の認識」である永遠の瞬間「直感知」へと進みます。哲学・思想ランキング
2022年07月12日
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神の存否-467 定理七二 自由の人は決して詐(いつわ)りの行動をせず常に信義をもって行動する。 証明 もし自由の人が自由である限りにおいて何らかの詐りの行動をするとしたら、彼はそれを理性の指図に従ってなしたであろう(なぜなら理性の指図に従って行動する限りにおいてのみ人は自由であると呼ばれるのだから)。ゆえに詐りの行動をなすことが徳であることになろう(この部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する。この三つは同じことを意味すること、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)。したがってまた(同定理により)各人にとって、自己の有を維持するためには詐りの行動をすることがより得策であることになろう。言いかえれば、それ自体で明らかなように、人々にとっては単に言葉においてのみ一致して事実においては相互に対立的であることがより得策であることになろう。これは(この部の定理三一の系物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益あるいは善であり、また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多く一致する、ということになる。なぜなら、物は我々の本性と一致しない限り必然的に我々の本性と異なり、あるいは我々の本性と対立的であるであろう。もし我々の本性と異なるなら、それは(この部の定理二九により)善でも悪でもありえないであろう。もし対立的であるなら、それは我々の本性と一致するものにも対立的であり、言いかえれば(前定理により)善と対立的であり、すなわち悪であるであろう。ゆえに何ものも我々の本性と一致する限りにおいてでなくては善であることができない。したがって物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ有益である。そしてその逆も真である。により)不条理である。ゆえに自由の人は・・・云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 ここに次のような問いがなされるかもしれぬ。もし人間が背信によって現在の死の危難から救われうるとしたらどうであろう。その場合、自己の有の維持をたてまえとする理性は無条件で人間に背信的であるように教えるのではないかと。これに対しては上にならって次のような答えがなされるであろう。もし理性がそうしたことを教えるとしたら理性はそれをすべての人々に教えることになる。したがって理性は一般に人々に、相互の協力および共通の法律の遵守への約束を、常に詐(いつわ)って結ぶように教えることになる。言いかえれば結局共通の法律を有しないように教えることになる。しかしこれは不条理である。 記:無知の知を認識=徳の人=理性的人間=自由の人。「悪法もまた法なり」救出が保証されているにも関わらず毒杯を自らに仰ぐソクラテス。哲学・思想ランキング
2022年07月11日
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神の存否-466 記:精神の中には絶対的な意志、すなわち全き自由な意志は存しない。当然に、人間精神が醸す目的的精神は絶対的自由は持ち得ないし、自然法を超えることは出来得ない。それでは人間は拘束されて解放がないのかと云えばそうとも言えないとスピノザは言う。汎ゆる宗教的・政治的・世俗的・学術的圧力からの解放を目指した人間の「道」を究明します。スピノザの定義する「自由人」とは、社会生活を送る上での精神の自由を意味しています。「内心の自由」を筆頭とした人間の内世界の自由です。 定理七一 自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。 証明 自由の人々のみが相互に最も有益であり、かつ最も固い友情の絆をもって相互に結合する(この部第四部の定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。および、その系一 人間にとっては、理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中に存しない。なぜなら、人間にとっては、自己の本性と最も多く一致するもの(この部の定理三一の系により)、言いかえれば(それ自体で明らかなように)人間、が最も有益である。ところが人間は理性の導きに従って生活する時に真に自己の本性の法則に従って行動し(第三部定義二により)、またその限りにおいてのみ他の人間の本性と必然的に常に一致する(前定理により)。ゆえに人間にとっては、個物の中で、理性の導きに従って生活する人間ほど有益なものはない。により)。そして同様な愛の欲求をもって相互に親切をなそうと努める(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)。したがって(付録:感情の諸定義 諸感情の定義三四 感謝あるいは謝恩とは我々に対して愛の感情から親切をなした人に対して親切を報いようと努める欲望あるいは同様な愛の情熱である。により)自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。(*竹林の七賢人) 備考 盲目的な欲望に支配される人々が相互に示すような感謝は、多くは感謝というよりもむしろ取引あるいは計略(アウクビウム)である。 次に忘恩は感情でない。しかし忘恩は非礼なことである。なぜなら、それは多くは人間が過度の憎しみ、怒り、高慢、食欲などに据われていることを示すものだからである。というのは愚かであるために贈与に報いることを知らない者は忘恩的と言われない。ましてや情婦の贈物によって彼女の情欲(または色情)に奉仕するように動かされない人、あるいは盗賊の贈物によって盗賊の盗品を隠匿(いんとく)するように動かされない人、その他この種の人間の贈物によって動かされない人はなおさら忘恩的とは言われない。いかなる贈物によっても自己あるいは社会の破滅になるような行ないへ誘惑されない人は、確固たる精神の所有者であることを示しているからである。哲学・思想ランキング
2022年07月10日
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神の存否-465 記:通俗的解釈では「自由の人」とは、何ものにも強制されず自らの運命を自分で決めることができ、思いのままに生きる人とあります。然し乍ら、スピノザの云う自由人は厳密に述べるならばスピノザの定義するところの神「大宇宙の法則」さえ、自ら自由なる意思を意識しない存在と定義しています。まして、人間は自らに自由なる目的意識を存し得ないと断言します。此の章で述べるところのスピノザの「自由人」とは、スピノザの精神の全き目的意識の自由を意味するのではなく「徳(理性)をもって目的意識の精神の拘束にさえ対応し得るものとして認識する人間」と捉えるべきなのでしょう。万物創造の神ではない釈尊は、人間の外世界を変えるのではなく、人間の内世界に平安と自由を呼び込みました。 定理七〇 無知の人々の間に生活する自由の人はできるだけ彼らの親切を避けようとつとめる。 証明 各人は自己の意向に従って何が善であるかを判断する(第三部定理三九の備考 骨子:各人は、自己の感情に基づいて、あるものが善か悪か、有用か無用かを判断するのである。を見よ)。ゆえに誰かに親切をなした無知の人はそれを自己の意向に従って評価するであろう。そして彼はそれを受けた人からそれがより小さく評価されるのを見るとしたら悲しみを感ずるであろう(第三部定理四二 愛に基づいて、あるいは名誉を期待して、ある人に親切をなした人は、その親切が感謝をもって受け取られないことを見るなら悲しみを感ずるであろう。により)。ところが自由の人は他の人々と交友を結ぶことにはつとめるが(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)、しかし彼らに対して彼らの感情から判断して同等とされるような親切を報いることにはつとめないでむしろ自己ならびに他の人々を自由な理性の判断によって導こうとし、彼自身が最も重要として認識する事柄のみをなそうとつとめる。ゆえに自由の人は、無知の人々から憎しみを受けぬために、そしてまた彼らの衝動にでなく単に理性のみに従うために、彼らの親切をできるだけ避けようと努めるであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 私は「できるだけ」という。なぜなら彼らは無知な人間であってもやはり人間であって危急な場合には、何より貴重な人間的援助をなしうる。このゆえに彼らから親切を受け、したがってまた彼らに対し彼らの意向に従って感謝を示すことの必要な場合がしばしば起こるのである。これに加えて、親切を避けるにあたっても、我々が彼らを軽蔑するかに見えぬように、あるいは我々が貧欲のゆえに報酬を恐れるかに見えぬように、慎重にしなくてはならぬ。すなわち彼らの憎しみを逃れようとしてかえって彼らを憤らせるようなことがあってはならぬ。ゆえに親切を避けるにあたっては、何が利益であるか何が端正であるかを考慮しなければならぬ。 注:此の章から如何にスピノザが外界からの圧力と危険を身近に受け止めていたか読み取れます。哲学・思想ランキング
2022年07月09日
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神の存否-464 スピノザが人間の精神感情の高みの極みに目指すのは「人間身体と精神」の全き自由を目指した、全ての苦渋からの解放です。此れは多分にスピノザの影響を受けたと想われる日本の西田幾多郎の「善の研究」の最終章にも顕れます。 定理六九 自由の人の徳は危難を回避するにあたっても危難を克服するにあたってと同様にその偉大さが示される。 証明 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない(この部第四部の定理七 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。により)。ところが盲目的大胆と盲目的恐怖とは等しい大いさのものと考えられうる感情である(この部第四部の定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。および定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌駕される。により)。ゆえに大胆を抑制するには恐怖を抑制するのと等しい大いさの精神の徳すなわち精神の強さ(その定義は第三部定理五九の備考 抜粋:妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を、私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する。かくのごとく私は、行為者の利益のみを意図する行革を勇気に帰し、他人の利益をも意図する行為を寛仁に帰する。ゆえに節制、禁酒、危難の際の沈着などは勇気の種類であり、これに反して礼譲、温和などは寛仁の種類である。について見よ)を必要とする。言いかえれば(諸感情の定義四〇 大胆とは同輩が立ち向かうことを恐れるような危険を冒してある事をなすようにある人を駆る欲望である。及び、諸感情の定義四一 小心とは同輩があえて立ち向かうこと辞さないような危険を恐れて、自己の欲望を阻まれる人間について言われる。により)自由の人は危難を克服しようと試みる時と同じ精神の徳をもって危難を回避する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 このゆえに、自由の人にあっては、適時における逃避は戦闘と同様に大なる勇気の証明である。すなわち自由の人は戦闘を選ぶ時と同じ勇気ないし沈着をもって逃避を選ぶ。(*Michel Ney:ナポレオンにも「全く何と言う男だ!フランス軍には勇者が揃っているが、ミシェル・ネイこそ真に勇者の中の勇者だ!」と言わしめている。ロシア遠征退却時に陣頭指揮を執る) 備考 勇気とは何か、あるいは勇気ということを私がいかに解するかは第三部定理五九の備考 抜粋:勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。において説明した。これに対して危難とは何らかの害悪すなわち悲しみ、憎しみ、不和などなどの原因となりうる一切のものと私は解する。哲学・思想ランキング
2022年07月08日
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神の存否-463 記:仮に人が、スピノザが捉える、自由意思なるものを認識するものが生まれるとしたら、神の子は神の身体「形而学上の形態」とり、佛の子は仏の肉体(大日如来即ち大宇宙・阿弥陀仏・弥勒菩薩)と精神を携え顕現し此の世に顕現した筈である。ところが然り、ナザレのイエスは自由なる意思を父なる神に一定の目的(人間の贖罪による再契約)の制約を受けて誕生し、釈迦族皇太子シッダールタは小王国の両親を持つ肉体を受け継いでいます。将又、スピノザは理性のみによって導かれる人を自由であると言った。ところが、人間が生まれながらに理性を持ったという史実は、信仰をおいては確認されてはいない。スピノザは生まれながらの自由人には懐疑的であったことには間違いない。(*天上天下唯我独尊) 定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。 証明 私は理性のみに導かれる人を自由であると言った。そこで自由なものとして生まれかつ自由なものにとどまる人は妥当な観念しか有しない。またそのゆえに何ら悪の概念を有しない(この部第四部の定理六四の系要略:人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる。により)。したがってまた善の概念をも有しない(善と悪とは相関的概念であるから)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 この定理の仮定が誤りであること、そしてそれは人間本性だけを眼中に置く限りにおいてのみ、あるいはむしろ、無限なものとしての神ではなく、単に人間の存在の原因にすぎない神を眼中に置く限りにおいてのみ、考えられるのだということは、(この部第四部の定理四 人間が自然の一部分でないということは、不可能であり、また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化、自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である。)から明らかである。 このことや我々のすでに証明したその他のことどもは、モーゼが最初の人間に関するあの物語の中で暗示しているように見える。すなわちその物語の中では、人間を創造したあの能力、言いかえれば人間の利益のみを考慮したあの能力、以外のいかなる神の能力も考えられていない。そしてこの考え方にそって次のことが物語られている。すなわち神は自由な人間に対して善悪の認識の木の実を食うことを禁じた、そして人間はそれを食うや否や生を欲するよりもむしろ死を恐れた、それから人間は自己の本性とまったく一致する女性を発見した時、自然の中に自分にとって彼女より有益な何ものも存しえないことを認めた、しかし彼は動物が自分と同類であると思ってからはただちに動物の感情を模倣(第三部定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。を見よ)して自分の自由を失い始めた。この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念*神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である本質・・・云々、に導かれて再び回復したのであった。哲学・思想ランキング
2022年07月07日
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神の存否-462 記:釈迦が出家を志すに至る過程を説明する。 なぜ私は、みずから生の法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、みずから老の法を有する者でありながら老いるものを求め、みずから病の法を有する者でありながら病めるものを求め、みずから死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、みずから憂の法を有する者でありながら憂いを求め、みずから煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。諸行無常の真理を求め、老い、病、死といった人を苦しめるものからの解放を探し求めたことにあります。これらを、釈迦は苦について四つの教え(四諦説)にまとめています。それは、「人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦である」という真実に向き合うことです。 四門出遊の故事:釈迦が初めてピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会い、この身には老いも病も死もある、との避けられない苦しみを感じた(四苦)。4回目の外出では一人の沙門に出会い、老いと病と死にとらわれない違った生き方を知り、出家の意志を持つようになった。 定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。 証明 自由の人すなわち理性の指図のみに従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されない(この部第四部の定理六三 恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない。により)。むしろ彼は直接に善を欲する(同定理六三の系 理性から生ずる欲望によって我々は直接に善に就き、間接に悪を逃れる。により)。言いかえれば彼は(この部第四部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する(この三つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすること、にほかならない。により)自己自身の利益を求める原則に基づいて、行動し、生活し、自己の有を維持しようと欲する。したがって彼は何についてよりも死について思惟することが最も少なく、彼の知恵は生についての省察である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年07月06日
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神の存否-461 定理六六 理性の導きに従って我々は、より小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりはより小なる現在の悪を欲求するであろう。 証明 もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう(この部第四部の定理六二 精神は、理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける。により)。ゆえに我々が理性そのものを念頭に置く限りにおいて、省略〜〜この定理六六で我々はそうした場合を仮定しているのである。省略〜〜より大なる善ないし悪が未来のものと仮定されようと現在のものと仮定されようとそれは同じことである。このゆえに(この部第四部の定理六五 理性の導きに従って我々は、二つの善のうちより大なるものに、また二つの悪のうちより小なるものに就くであろう。により)我々はより小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりは云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 理性の導きに従って我々は、より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し、またより大なる未来の悪の原因たるより小なる現在の善を断念するであろう。この系は前定理に対して、定理六五の系が定理六五に対するのと同一の関係にある。 備考 そこでもしこれらのことをこの部第四部の定理一八までに感情の力について述べたことどもと比較するなら、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境および生活法について以下に若干の注意をしてみたい。 記:スピノザの言う感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との区分の背景には、信仰と狂信、精神のモチベーション( 目的意識/motivation)の自由認識批判が見え隠れします。哲学・思想ランキング
2022年07月05日
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神の存否-460 定理六五 理性の導きに従って我々は、二つの善のうちより大なるものに、また二つの悪のうちより小なるものに就(つ)くであろう。 証明 我々がより大なる善を享受することを妨げるような善は、実は悪である。なぜなら(この部の序言 骨子:完全性と不完全性、および善と悪で示したように)物は我々がそれを相互に比較する限りにおいてのみ悪あるいは善と言われるからである。また(同じ理由 完全性と不完全性、および善と悪の比較衡量判断により)より小なる悪は実は(記:暫定的)善である。ゆえに理性の導きに従って我々は(この部の定理六三の系 理性から生ずる欲望によって我々は直接に善に就き、間接に悪を逃れる。により)より大なる善およびより小なる悪のみを欲求するであろう、あるいはそれのみに就くであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 理性の導きに従って我々は、より大なる善のためにより小なる悪に就き、またより大なる悪の原因たるより小なる善を断念するであろう。なぜなら、ここでより小と言われる悪は実は善であり、これに反してより小と言われる善は実は悪である。ゆえに我々は(この部第四部の定理六三の系の同上により)前者を欲求し後者を断念するであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:ソクラテス「悪法もまた法なり(Bad law is also law)」。仏法補注:この成句の起源については、「法華経‐譬喩品」の「三車火宅」のたとえ話に見る説が有力である。→三車火宅(さんしゃかたく)。「嘘も方便」嘘は罪悪ではあるが、よい結果を得る手段として時には必要である。「方便」は、仏教で仏が衆生を悟りに導くために用いる手だてをいいます。仏教の五戒に「不ふ妄もう語ご戒かい」があるように、うそをつくことはよくないことですが、相手や将来のことを考えて、物事を円滑に運ぶためには、時と場合によって許されるとする考え方です。哲学・思想ランキング
2022年07月04日
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神の存否-459 定理六四 悪の認識は非妥当な認識である。 証明 悪の認識は(この部の定理八により)我々に意識された限りにおける悲しみそのものである。ところが悲しみはより小なる完全性への移行であり(感情の定義三 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。により)、したがって悲しみは人間の本質自身によっては理解されえない(第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。及び、同部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。ゆえに悲しみは(第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(同部前定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当なで十全な原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当で非十全な原因あるいは部分的原因と呼ぶ。により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「受動」と言う。により)受動であって非妥当な観念に依存するものである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。したがって(第二部定理二九 人間身体のおのおのの変状の観念の観念は人間精神の妥当な認識を含んでいない。により)悲しみの認識、ひいては悪の認識は非妥当な認識である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる。 記:人の子として肉体と精神を携えもって生まれたナザレのイエスも神の子を自覚するまでは当然に非妥当な観念を認識していただろうし、釈迦族の皇太子であるガウタマ・シッダールタ、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)も悪を認識したらこそ沙弥となり、共に修行中は悪(魔)と戦っています。哲学・思想ランキング
2022年07月03日
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神の存否-458 定理六三 恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない。 証明 働きをなす限りにおいての精神に関係する感情、言いかえれば(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)理性に関係する感情は、すべて喜びの感情と欲望の感情だけである(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。したがって(諸感情の定義一三 恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな悲しみである。により)恐怖に導かれて悪に対する危惧(きぐ)から善をなす者は理性に導かれていないわけである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 徳を教えるよりも欠点を非難することを心得、また人々を理性によって導く代りに恐怖によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは、他の人々を自分たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない。それで彼らが多くの場合人々の不快の種となり、人々に憎まれるというのも怪しむに足りないのである。 系 理性から生ずる欲望によって我々は直接に善に就き、間接に悪を逃れる。 証明 なぜなら、理性から生ずる欲望は受動でない喜びの感情のみから生じうる(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけであるにより)。言いかえれば過度になりえない喜びから生じうる(この部の定理六一 理性から生ずる欲望は過度になることができない。により)。そして悲しみからは生じない。ゆえにこの欲望は(この部の定理八により)善の認識から生じ、悪の認識からは生じない。それゆえ我々は理性の導きに従って直接に善を欲求しまたその限りにおいてのみ悪を逃れる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 この系は病人と健康者の例によって説明される。病人は自分の嫌いなものを死に対する恐れのゆえに食べる。これに反して健康者は食物を楽しみ、そして死を恐れて死を直接に避けようと欲する場合よりもいっそうよく生を享受する。同様に、憎しみや怒りなどからでなく単に公共の安寧を愛するために罪人に死を宣告する裁判官は、理性のみによって導かれる者である。哲学・思想ランキング
2022年07月02日
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神の存否-457 定理六二 精神は、理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける。 証明 精神は理性の導きのもとに考えるすべてのものを同じく永遠ないし必然の相のもとに考え(第二部定理四四の系二 物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する。により)、かつそれについて同じ確実性を有する(第二部定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。及び、その備考 抜粋:真理の規範として役立つのに真の観念よりいっそう明白でいっそう確実なものがありえようか。実に、光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。により)。ゆえに観念が未来あるいは過去の物に閲しようとも現在の物に関しようとも、精神は同じく必然的なものとしてその物を考えかつそれについて同じ確実性を有する。そしてその観念は、未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようともそのいずれの場合でも同等に真であろう(第二部定理四一 第一種の認識は虚偽の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である。により)。言いかえればその観念は(第二部定義四 妥当な観念〔十全な観念〕とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。により)そのいずれの場合でも常に妥当な観念の持つ同一の特質を有するであろう。したがって精神は、理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも、同様の刺激を受ける。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 もし我々が物の持続について妥当な認識を有し、物の存在の時を理性によって決定しうるとしたら、我々は未来の物を現在の物と同一の感情で観想したであろう。そして精神は未来のものとして考える善を現在の善と同様に欲求したであろう。したがってまた精神はより小なる現在の善をより大なる未来の善のために必ずや断念し、また現在において善であるが未来の悪の原因となるような物を決して欲求しなかったであろう。我々が間もなく証明するであろうように。ところが我々は物の持続についてきわめて非妥当な認識しか持つことができぬし( 第二部定理三一 我々は我々の外部に在る個物の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。により)、また物の存在の時を単に表象力のみによって決定する( 第二部定理四四の備考 骨子:我々は、ある物体が他の物体と比べてより緩やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって時間を表象するのである。 により)。そしてこの表象力なるものは現在の物の表象像と未来の物の表象像とからでは同様な刺激は受けない。この結果として、我々の有する善および悪の真の認識は抽象的ないし一般的なものにすぎず、また現在我々にとって、何が善であり悪であるかを決定しうるために物の秩序および原因の連結について我々の下す判断は、実際に合致したものであるよりもむしろ表象的なものにすぎぬということになる。ゆえに、善および悪の認識が未来に関する限り、その認識から生ずる欲望が、現在において快を与える物への欲望によって容易に抑制されうることも怪しむに足りない。これについてはこの部の定理一六を見よ。(ベルグソン:純粋持続 持続には2種類ある。ひとつは純粋持続であり、もうひとつは空間の観念が入り込んでいる持続だ。純粋持続を簡単に定義すると、それは自我が現在の状態と先行する状態を分離することを差し控えるときに、私たちの意識状態が取る形態のことを指している。意識は、純粋持続としては、「区別のない継起」として存在している。つまり純粋持続としての意識は質的な諸変化の継起であって、絶対的な異質性、諸要素の相互浸透と考えることができる。)哲学・思想ランキング
2022年07月01日
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