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神の存否-517 定理四一 たとえ我々が我々の精神の永遠であることを知らないとしても、我々はやはり道義心および宗教心を、一般的に言えば我々が第四部において勇気および寛仁(*寛大で慈悲深いこと。心が広く、思いやりのあること。また、そのさま。)に属するものとして示したすべての事柄を、何より重要なものと見なすであろう。 証明 徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は自己の利益を求めることである(第四部定理二二の系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず、またこの原理なしには、いかなる徳も考えられえないからである。および、定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する(この三つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)。しかし理性が何を有益として命ずるかを決定するのに我々は精神の永遠性ということには何の考慮も払わなかった。精神の永遠性ということを、我々はこの第五部においてはじめて識ったのである。このようにして、あの当時はまだ精神の永遠であることを知らなかったけれども、我々はそれでも、勇気と寛仁に属するものとして示した事柄を何よりも重要なものと見なした。だからたとえ我々が今なおそのことを知らないとしても、我々はやはり、理性のそうした命令を重要なものと見なすであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 民衆の一般の信念はこれと異なるように見える。なぜなら大抵の人々は快楽に耽りうる限りにおいて自由であると思い、神の法則の命令に従って生活するように拘束される限りにおいて自己の権利を放棄するものと信じているように見えるからである。そこで彼らは道義心と宗教心を、一般的に言えば精神の強さに帰せられるすべての事柄を、負担であると信じ、死後にはこの負担から逃れて、彼らの隷属、つまり彼らの道義心と宗教心に対して報酬を受けることを希望している。だがこの希望によるばかりでなく、特にまた死後に恐るべき責苦をもって罰せられるという恐怖によって、彼らは、その微力とその無能な精神との許す限り、神の法則の命令に従って生活するように導かれている。もしこの希望と恐怖とが人間にそなわらなかったら、そして反対に、精神は身体とともに消滅し、道義心の負担のもとに仆(たお)れた不幸な人々にとって未来の生活が存しないと信ぜられるのであったら、彼らはその本来の考え方に立ちもどってすべてを官能欲によって律し、自分自身によりもむしろ運命に服従しようと欲するであろう。こうしたことは、人が良い食料によっても身体を永遠に保ちうるとは信じないがゆえに、むしろ毒や致命的な食物を飽食しようと欲したり、精神を永遠ないし不死でないと見るがゆえに、むしろ正気を失い理性なしに生活しようと欲したりする。これらのことはほとんど検討に価しないほど不条理なことであるのにも劣らない不条理なことであると私には思われる。 (堕落論)哲学・思想ランキング
2022年08月31日
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神の存否-516 定理四〇 おのおのの物はより多くの完全性を有するに従って働きをなすことがそれだけ多く、働きを受けることがそれだけ少ない。反対におのおのの物は働きをなすことがより多いに従ってそれだけ完全である。 証明 おのおのの物はより多く完全であるに従ってそれだけ多くの実在性を有し(第二部定義六 実在性と完全性とは同一のものであると解する。により)、したがって(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。ならびに、その備考 そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえないことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにある。により)働きをなすことがそれだけ多く、働きを受けることがそれだけ少ない。この証明は順序を逆にしてやってもあてはまるのであり、その結果として逆に、物は働きをなすことがより多いに従ってそれだけ完全であることになる。Q・E・D・これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、精神の残存する部分は、それがどの程度の大いさのものであるにしても、その他の部分よりも完全であることになる。なぜなら、精神の永遠の部分は知性であり(この部第五部の定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。および、同第五部の定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識する。により)、そして我々が働きをなすと言われるのはもっばらこの知性によるのである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。これに反してその消滅することを我々が示した部分は表象力そのものであり(この部第五部の定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。により)、そして我々が働きを受けると言われるのはもっばらこの表象力によるのである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。および感情の総括的定義 精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。により)。したがって(前定理第五部三九 きわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その最大部分が永遠であるような精神を有する。により)前者はそれがどの程度の大いさのものであっても後者よりも完全である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 以上は身体の存在に対する関係を離れて考察される限りにおける精神について、私の示そうと企てた事柄である。このことから、また同時に第一部定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。および、その他の神についての諸定理から、我々の精神は物を知性的に認識する限り思惟の永遠なる様態であり、これは思惟の他の永遠なる様態によって決定され、後者はさらに他のものによって決定され、こうして無限に進み、このようにしてこれらすべての様態は合して神の永遠・無限なる知性を構成するということが分かるのである。 (大乗哲学の空観)哲学・思想ランキング
2022年08月30日
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神の存否-515 定理三九 きわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その最大部分が永遠であるような精神を有する。 証明 きわめて多くのことをなすのに適する身体を有する者は、悪しき感情に捉われることがきわめて少ない(第四部定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。により)。言いかえれば(第四部定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。により)我々の本性と相反する感情に捉われることがきわめて少ない。ゆえに彼は(この部第五部の定理二〇 神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだけ多くはぐくまれる。により)身体の諸変状を知性に相応した秩序において秩序づけ・連結する力を、したがってまた(この部第五部の定理二四 我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)。により)身体のすべての変状を神の観念に関係させる力を有する。この結果として彼は(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。により)神に対して愛に刺激される。そしてこの愛は(この部第五部の定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。により)精神の最大部分を占有ないし構成しなければならぬ。このゆえに彼は(この部第五部の定理三三 第三種の認識から生ずる神に対する知的愛は永遠である。により)、その最大部分が永遠であるような精神を有する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 人間身体はきわめて多くのことに有能である。だから人間身体は、きわめてすぐれた精神に関係するような自己および神について大なる認識を有し、その最大部分あるいは主要部分が永遠であり、したがって死をほとんど恐れないし、そうした精神に関係するような本性を有しうるものであることは疑いない。 しかしこれをいっそう明瞭に理解するためにここで注意しなければならぬのは、我々はたえざる変化の中に生きており、そして我々はより善きものあるいはより悪しきものに変化するに従って幸福あるいは不幸と言われるということである。例えば、幼児あるいは少年のままで死骸に化する者は不幸と言われ、これに反して健全な身体に健全な精神を宿して全生涯を過しうるのは幸福とされる。実際また、幼児や少年のように、きわめて僅(わず)かなことにしか有能でない身体、外部の原因に最も多く依存する身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限り、自己・神および物についてほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体に変化させるように努める。そのように変化すれば、私がすでに前定理の備考において言ったように、精神における記憶ないし表象力に属する一切は、知性に比べてほとんど取るに足りぬものになるであろう。 (永遠の精霊)哲学・思想ランキング
2022年08月29日
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神の存否-514 定理三八 精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。 証明 精神の本質は認識に存する(第二部定理一一人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。により)。ゆえに精神がより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するにつれて精神のそれだけ大なる部分が残存し(この部第五部の定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。および第五部定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識する。により)、したがってまた(前定理三七 自然の中にはこの知的愛に対立的であったりあるいはこれを消滅させたりしうるようないかなる物も存しない。により)精神のそれだけ大なる部分が我々の本性と相反する感情から、言いかえれば(第四部定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。により)悪しき感情から冒(おか)されなくなる。ゆえに精神がより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するにつれて精神のそれだけ大なる部分が害されずに残り、したがって精神はそれだけ感情から働きを受けることが少ない、云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 このことから、第四部定理三九の備考(*死の本相)において触れ、この部において説明すると約束した事柄が明らかになる。それはすなわち、精神のもつ明瞭判然たる認識が大になればなるほど、したがってまた精神が神を愛することの多ければ多いほど、それだけ死が有害でなくなるということである。さらに、第三種の認識からおよそ存在しうる最高の満足が生ずるのだから(この部第五部の定理二七 この第三種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる。により)、この帰結として、人間精神はその中で身体とともに滅びることを我々が示した部分が(この部第五部の定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。を見よ)その残存する部分と比べてまるで取るに足りぬといったような本性を有しうるものであるということになる。しかしこれについては今にもっと詳しく述べる。 (死の本相)哲学・思想ランキング
2022年08月28日
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神の存否-513 定理三七 自然の中にはこの知的愛に対立的であったりあるいはこれを消滅させたりしうるようないかなる物も存しない。 証明 この知的愛は、精神が神の本性を通して永遠の真理として見られる限りにおいて、精神の本性から必然的に生ずる(この部第五部の定理三三 第三種の認識から生ずる神に対する知的愛は永遠である。および、第五部の定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識する。により)。ゆえにもしこの愛に対立するある物が存するとしたら、それは真なるものに対立することになるであろう。したがってまたこの愛を消滅させうるものは真なるものを偽なるものとならしめることになるであろう。これは、それ自体で明らかなように不条理である。ゆえに自然の中には云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 第四部の公理、自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在するは、一定の時間と場所に関係して考察される限りにおける個物を念頭に置いたものであって、そのことは誰にも明瞭なことと信ずる。 記:宇宙はビッグバンによって膨張を開始したとされているが、宇宙全体に含まれる質量(エネルギー)がある値よりも大きい場合には、自身の持つ重力によっていずれ膨張から収縮に転じ、宇宙にある全ての物質と時空は無次元の特異点に収束すると考えられるビッグクランチ(Big Crunch)をスピノザは知る由もない。哲学・思想ランキング
2022年08月27日
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神の存否-512 第五部定理定理三六の後半部の系及びその系 系 この帰結として、神は自分自身を愛する限りにおいて人間を愛し、したがってまた人間に対する神の愛と神に対する精神の知的愛とは同一である、ということになる。 備考 以上によって我々の幸福あるいは至福または自由が何に存するかを我々は明瞭に理解する。すなわちそれは神に対する恒常・永遠の愛に、あるいは人間に対する神の愛に存するのである。この愛ないし至福は聖書においては名誉(グロリア)と呼ばれているがそれは不当ではない。なぜなら、この愛は、神に関すると人間に関するとを問わず、まさしく心の満足(アニミ・アクイエスケンティア)と呼ばれうるのであり、そして心の満足は実際には(感情の定義二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。および感情の定義三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。により)名誉と異ならないからである。なぜ心の満足と呼ばれうるかと言えば、この愛は、神に関する限り、神自身の親念を伴った喜び、神について今なお喜びという言葉を用いることが許されるならばであって(この部第五部の定理三五 神は無限の知的愛をもって自己自身を愛する。により)、その点この愛が精神に関する場合(この部第五部の定理二七 この第三種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる。により)と同じだからである。次に我々の精神の本質は認識のみに存し、そして神はこの認識の始源であり基礎であるから(第一部定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。および、第二部定理四七の備考 抜粋:人間が神については共通概念によってほど明瞭な認識を有しないのはなぜかといえば、それは人間が神を物体のように表象することができないということ、また人間が神という名前を自分らの通常見慣れている諸物の表象像に結合してきたということによる。これは人間が絶えず外部の物体から刺激されている関係上ほとんど避けがたい事柄である。により)、前に述べたことから、我々の精神は本質ならびに存在に関していかなる仕方、いかなる様式で神の本性から起こり、そしてたえず神に依存するかが我々にきわめて明瞭になる。このことを私はここで注意した方がよいと思った。これによって私は直観的認識あるいは第三種の認識と名づけた個物の認識(第二部定理四〇の備考二 要項:第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナティオ)。第二種の認識、事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有する理性(ラティオ)。第三種の認識、この認識は神のいくつかの属性の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)と呼ぶ認識の概念。を見よ)がいかに多くのことをなしうるかまたそれが第二種の認識と名づけた普遍的認識よりどれだけ有力であるかを明らかにしようとしたのである。というのは私は、第一部において、一切が、したがって人間精神もまた本質ならびに存在に関して神に依存することを一般的に示したけれども、その証明は、たとえ正当であって何ら疑惑の余地がないとはいえ、神に依存すると我々が言った個物各自の本質そのものからこのことが結論される場合のようには我々の精神を感銘させないからである。哲学・思想ランキング
2022年08月26日
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神の存否-511 定理三六 神に対する精神の知的愛は、神が無限である限りにおいてではなく、神が永遠の相のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて、神が自己自身を愛する神の愛そのものである。言いかえれば、神に対する精神の知的愛は、神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である。 証明 精神のこの愛は精神の働きに数えられなければならぬ(この部第五部の定理三二の系 第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。なぜならこの認識からは(前定理により)原因としての神の観念を伴った喜び、言いかえれば(感情の定義六により)神に対する愛が生ずる。しかも現在するものとして表象される限りにおける神に対する愛ではなくて(この部の定理二九により)、永遠であると認識される限りにおける神に対する愛である。そして、これこそ私が神に対する知的愛と呼ぶところのものである。および、第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。つまりこの愛は精神が原因としての神の観念を伴いながら自己自身を観想する働きである(この部第五部の定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。およびその系 第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。なぜならこの認識からは(前定理により)原因としての神の観念を伴った喜び、言いかえれば(感情の定義六により)神に対する愛が生ずる。しかも現在するものとして表象される限りにおける神に対する愛ではなくて(この部の定理二九により)、永遠であると認識される限りにおける神に対する愛である。そして、これこそ私が神に対する知的愛と呼ぶところのものである。により)。言いかえればこの愛は(第一部定理二五の系 抜粋: 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)にほかならぬ。および、第二部定理一一の系 抜粋:人間精神は神の無限な知性の一部である。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。により)人間精神によって説明されうる限りにおける神が*原因としての、自己の観念を伴いながら自己自身を観想する働きである。ゆえに(前定理三五 神は無限の知的愛をもって自己自身を愛する。により)精神のこの愛は神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年08月25日
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神の存否-510 定理三五 神は無限の知的愛をもって自己自身を愛する。 証明 神は絶対に無限である(第一部定義六神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。により)。言いかえれば(第二部定義六 実在性と完全性とは同一のものであると解する。により)神の本性は無限の完全性を楽しんでいる。しかもそれは(第二部定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。により)自己自身の観念を伴っている、言いかえれば(第一部定理一一 実体は本性上その変状に先立つ。および定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。により)原因としての自己自身の観念を伴っている。そしてこれが、この部第五部の定理三二の系において知的愛であると我々が述べたものである。第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。なぜならこの認識からは(前定理により)原因としての神の観念を伴った喜び、言いかえれば(感情の定義六により)神に対する愛が生ずる。しかも現在するものとして表象される限りにおける神に対する愛ではなくて(この部の定理二九により)、永遠であると認識される限りにおける神に対する愛である。そして、これこそ私が神に対する知的愛と呼ぶところのものである。 (神への 知的愛) 記:神は無限の愛を持って自己自身を愛する。即ち、現代物理学理論の我々人間とは異次元・異相のマルチバース宇宙、人間原理の対応に成功したやユニバース宇宙の世界全てを愛する。それ故に、人間はその認識によって神を愛することが最高の喜びに達することが出来得るのです。哲学・思想ランキング
2022年08月24日
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神の存否-509 定理三四 精神は身体が持続する間だけしか受動に属する感情に従属しない。 証明 表象はある観念。精神がそれによって物を現在するとして観想するある観念である(第二部定理一七の備考におけるその定義 抜粋:人間身体の変状(アフェクティオ)*刺激状態、我々はこの変状の観念によって外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべるのである。精神は物の形状を再現しないけれども我々はこれを物の表象像(イマゴ)と呼ぶであろう。そして精神がこのような仕方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象(イマギナリ)すると言うであろう。を見よ)。しかしこの観念は外部の物の本性よりも人間身体の現在的状態をより多く表示する(第二部定理一六の系二 第二:我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録の中で多くの例を挙げて説明したところである。により)。ゆえに感情は(感情の総括的定義 精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。 説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである(この部第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。を見よ)。 次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが(第二部定理一六の系二 抜粋:我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録の中で多くの例を挙げて説明したところである。により)、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。により)身体の現在的状態を表示する限りにおいての表象である。したがって(この部第五部の定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。により)精神は身体が持続する間だけしか受動に属する感情に従属しない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、知的愛以外のいかなる愛も永遠でないということになる。 備考 もし我々が人々の共通の意見に注意するなら、彼らは自己の精神の永遠性を意識してはいるが永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶に永遠性を賦与し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じているのを我々は見いだすであろう。 記:我々人間一般の共通認識は、自己の精神の永遠性を意識してはいるが永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶に永遠性を賦与し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じているむきが多くを占めます。然し乍ら、精神は身体の持続する間だけしかその身体の現実的存在を表現しないし、またその間だけしか身体の変状を現実的なものとして把握しない。したがって精神は、その身体の持続する間だけしかいかなる物体をも現実に存在するものとして把握することがない。このゆえに精神は身体の持続する間だけしか物を表象したりすることができない。然し乍らそうだとしても、神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。神はこのまた、彼の人間身体の存在の原因であるばかりでなく、またその本質でもある。人間精神は身体とともには完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。 (霊魂の不滅性・神への帰還)哲学・思想ランキング
2022年08月23日
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神の存否-508 定理三三 第三種の認識から生ずる神に対する知的愛は永遠である。 証明 なぜなら、第三種の認識は永遠である(この部第五部の定理三一 第三種の認識は、永遠である限りにおいての精神をその形相的原因とする。および、第一部公理三 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。により)。したがって(第一部の同じ公理*仏教説くところの縁起に相当か、結果は原因を含む、により)それから生ずる愛もまた必然的に永遠である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 神に対するこの愛は始まりを有しないけれども(前定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。により)、しかしそれは、あたかもそれが生じた場合、我々が前定理の系 第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。で仮定したようにとまったく同様に、愛のあらゆる完全性を有している。ただ一つの相違点は、精神は、今はじめて獲得すると我々の仮定したその完全性を永遠この方所有しており、しかもそれは永遠なる原因としての神の観念を伴っている、ということだけである。そしてもし喜びがより大なる完全性への移行に存するとしたら、至福は実に精神が完全性そのものを所有することに存しなければならぬ。 記:至福は実に精神が完全性そのものを所有するとは、世界そのものの法理を究める頂点に達した状況「覚り」を意味するものと解釈、仏法の「随喜」が此れを表す精神感情を意味します。哲学・思想ランキング
2022年08月22日
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神の存否-507 定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。 証明 この種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる(この部第五部の定理二七 この第三種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる。により)。言いかえれば(感情の定義二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。により)最高の喜び、しかもその原因としての精神自身の観念を伴った最高の喜びが生ずる。したがってこの喜びは(この部第五部の定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。により)その原因としての神の観念をも伴っている。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。なぜならこの認識からは(前定理三一 第三種の認識は、永遠である限りにおいての精神をその形相的原因とする。により)原因としての神の観念を伴った喜び、言いかえれば(感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。により)神に対する愛が生ずる。しかも現在するものとして表象される限りにおける神に対する愛ではなくて(この部第五部の定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識する。により)、永遠であると認識される限りにおける神に対する愛である。そして、これこそ私が神に対する知的愛と呼ぶところのものである。 (神への知的愛)哲学・思想ランキング
2022年08月21日
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神の存否-506 定理三一 第三種の認識は、永遠である限りにおいての精神をその形相的原因とする。 証明 精神はその身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに老える(この部第五部の定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識する。により)。言いかえれば精神は(この部第五部の定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。および、この部第五部の定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。により)永遠である限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに考える。したがって精神は(前定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。により)永遠である限り神の認識を有する。そしてこの認識は必然的に妥当である(第二部定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。により)。ゆえに精神は永遠である限り、与えられた神のこの認識から生じうる一切のことを認識することができる(第二部定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。により)。言いかえれば物を第三種の認識において認識することができる(第二部定理四〇の備考二におけるその定義 抜粋:我々はこれを直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。を見よ)。したがって精神は永遠である限りこの種の認識の妥当な原因(第三部定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。により)、すなわち形相的原因である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 このようにして各人はこの種の認識においてよりすぐれているに従ってそれだけ良く自己および神を意識する。言いかえればその人はそれだけ完全でありそれだけ幸福である。このことは以下のことからさらにいっそう明瞭になるであろう。しかしここで注意しなければならぬことがある。それは精神が物を永遠の相のもとに考える限り永遠であることは我々のすでに確知しているところであるけれども、しかし我々の叙述したい事柄がいっそう容易に説明され、いっそうよく理解されるために、我々はこれまでしてきた通り、精神をあたかも今存在し始めたかのように、またあたかも今物を永遠の相のもとに認識し始めたかのように考察するであろう、ということである。我々は何ごともきわめて明白な諸前提からでなくては結論しないように用心しさえすれば、このことを何ら誤謬の危険なしにやっていける。 記:スピノザ「知性改善論」を読むその二:想念的本質と形相的本質 「知性改善論」の本論に入る前にスピノザは、この小論の最終目的である人間精神と自然との合一の認識に至るために必要な最良の知覚がどのようなものか、についての考察をする。ここでスピノザが知覚と言っているのは、認識というほどの意味である。だから最良の知覚とは最も信頼できる(正しい)認識というような意味に用いられている。その正しい認識を得るための条件を確認したうえで、知性改善のための方法を論じようというのである。 そこで知覚が問題となるが、スピノザはすべての知覚の様式を次の四つに分類している。①伝え聞き、あるいは何らかの、いわゆる約束上の記号から得られる知覚、②あやふやな経験、いいかえれば知性によって規定されていない経験から得られる知覚、③事物の本質が他の事物から結論されはするが、ただし十全な仕方ではないような場合の知覚、④事物がその本質だけによって、もしくはその最近原因の認識をつうじて知覚される場合のそれ。 これらのうちスピノザが最良の知覚として、知性改善のためにもっぱら依拠すべきだとするのは第四のものである。このものに限り、「事物の十全な本質を掌握し、しかも誤謬の危険がない。だから何よりもこの様式が採用されなくてはならない」とスピノザは言うのである。 知覚の第四の様式によって得られるものは、堅固でゆるぎのない真理である。それは知性の本有の力によってもたらされるのであるから、なにひとつ不純なものを含まない。だからわれわれの認識の基礎となりうる。これを基礎として、その論理的な帰結としてもたらされる知覚は、それもまた堅固でゆるぎのない真理といえる。何故なら論理的な因果関係にあるものは、原因となるものが真理ならば、その結果もまた真理であるからである。スピノザは、世界についての認識を、それは人間と自然との双方にわたる認識なわけだが、その認識を堅固な前提の上に構築したいと考えた。それにはまず、それ自体が真理であるような明確な観念を獲得し、その観念を原因として、その論理的な帰結を得るようにする。そうすれば得られた論理的な帰結も真であることが保障される。さらにそれを基にしてさらに別の論理的帰結を得る。その帰結もまた真であることが保障される。この手続きを次々と繰り返していけば、やがては世界についての十全な認識に達することができるはずだというのが、スピノザの基本的な考え方だったのである。 このような考え方を、スピノザは次のように表現している。「知性もまた、まず自らの本有的な力によって知性的な道具を自分のために作り出し、これによって別な力を獲得して別の知的作業に向かい、この作業からまた別の道具、つまり探索の歩みをもっと先までおし進める能力、を獲得していく。このように一歩一歩前進していって、ついには知の絶頂に達することになるのである」 スピノザは、こうしたやり方を縦横に駆使して、人間と世界との究極の姿を認識し、それを「エチカ」という書物の中で展開して見せたわけである。ここでスピノザは、真の観念とはどのようなものか、について踏み入った考察を行っている。真理とは真の観念と別のものではない、というのがスピノザの考えである。正しい世界認識が真理によって支えられねばならないとすれば、真の観念についての正しい認識を持つことが必要だ、そうスピノザは考えて、真の観念とはどのようなものか、あらためて取り上げるのである。 スピノザは、真の観念は、観念される当のもの(対象)とは異なったあるものである、という。たとえていえば、円と円の観念とは全く別のものということだ。この場合、円と呼ばれるものは、円そのものとしてわれわれが思い浮かべる表象であったり、あるいは目前に実際に円として現前しているもののことを言う。それに対して円の観念とは、円の本質についての定義のようなものである。 スピノザはまた、想念的本質と形相的本質という区別をする。両者とも「本質」という言葉がついているから、いずれも観念を意味する言葉だ。円についていえば、円そのものと円の観念とがあり、その円の観念に想念的本質と形相的本質があるということだろう。しかしそう言われても、この二つの観念の区別は、かならずしも明らかではない。スピノザは、「確実性とは想念的本質そのものにほかならない」と言い、「想念的本質を感知するその仕方が確実性なのである」といっているから、想念的本質とはなにか具体的な表象を伴なったものであり、形相的本質は想念的本質をもとに形成された抽象的な定義のようなものと考えているふうに伝わってくる。 このことは、「観念が想定的にあるあり方は、その観念される当のもの(対象)が実在的にあるあり方と同じである」といわれていることからも裏付けられる。また、想念的本質は形相的本質に全面的に合致するともいっているが、このことは、具体的な対象の表象からそのものの形相的本質、つまり抽象的な定義が生じるということを意味しているのであろう。 そこでもう一度「真の観念」という言葉に戻れば、これはどうも想定的本質と同じだと考えてよいようである。想定的本質は具体的な表象を伴なう。ということは、対象が現前しているということだ。対象の現前は、そのものの実在性を基礎づけるものであるから、真の観念とは実在的な観念ということになる。つまり実在する世界にその基礎を持つような観念のことである。スピノザの世界像は、真の観念によって基礎づけられるから、あくまでも実在的な世界であるということができる。 一方、形相的な本質には、かならずしも実在性を伴なわないものもある。たとえばフェニックスという生き物について、それの形相的な本質は認識されるけれども、しかしその本質には実在性はともなわない。我々はフェニックスが空想の所産であって、実在しないことをよく知っているのである。だから、形相的な本質だけを、世界認識の基礎とするわけにはいかない。たしかに世界認識は、人間の認識のあり方からして、形相的本質の連鎖として理解されるのであるが、その形相的本質は、それ自身では実在性の根拠を持っていないから、それが有意味であるためには、想念的本質によって基礎づけられなければならない、そうスピノザは考えたのだろう。かれが観念に想定的本質と形相的本質の区別を持ち込んだのは、そういう事情によるものだと考えられる。 以上:知の快楽 「哲学の森に遊ぶ」参照 作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2020哲学・思想ランキング
2022年08月20日
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神の存否-505 定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。 証明 永遠性とは神の本質が必然的存在を含む限り神の本質そのものである(第一部定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。により)。ゆえに物を永遠の相のもとに考えるとは、物を神の本質を通して実在的有として考えること、すなわち物をその存在が神の本質の中に含まれているとして考えることである。したがって我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに考える限り必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記一:我々が認識する存在の概念は、思想学的には単一概念としては確立していません。存在・実存・実在・実体・有にしても古今東西諸説があり、まして、人間精神の本体的概念は夢想(*フロイトの夢判断)・実存の域を超えた実在(*霊魂不滅)との断言は未だに確立されてはていません。人類はかりそめにも地球の覇者として進化し動植物の汎ゆるものを支配下に置き捕食者と君臨していますが、生命ないし非生命(*合成蛋白)ともつかないウイルスに苦しめられています。此れからの人類はより原生的なミクロな敵との戦いが待ち構えます。 記二:現代物理科学は単一宇宙論(ユニバース)から多元宇宙論(マルチバース)へと大きく舵をきろうとしています。当然に、世界や宇宙及び神の概念の背景にも変化が強要されます。古今東西の主要な思想史では世界や宇宙及び神は等記号で結ばれていました。いまはもはや、絶対真理としての神>世界>宇宙・・・人間原理の世界と変遷しています。哲学・思想ランキング
2022年08月19日
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神の存否-504 定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識する。 証明 精神は、その身体の現在的存在を考える限り、時間によって決定されうる持続を考え、またその限りにおいてのみ物を時間と関係して考える能力を有する(この部第五部の定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。および、第二部定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフェクトゥス)〔刺激状態〕の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する。により)。ところが永遠性は持続によって説明されることができない(第一部定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。および、その説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されないからである、たとえその持続を始めも終わりもないものと考えようとも。により)。ゆえに精神はその限りにおいては物を永遠の相のもとに考える力を有しない。しかし物を永遠の相のもとに考えることが理性の本性に属し(第二部定理四四の系二により)、また身体の本質を永遠の相のもとに考えることも精神の本性に属するから(この部第五部の定理二三に 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。より)、そして以上二様の〔身体の考え方、我々は物を一定の時間および場所に関係して存在するとして考えるか、それとも物を神の中に含まれ、神の本性の必然性から生ずるとして考えるかそのどちらかである。〕ほかには何ものも精神の本質に属さないのであるから(第二部定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)、このゆえに物を永遠の相のもとに考えるこの能力は、精神が身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ精神に属する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 (参考 「時間と自由」持続と時間の関係:ベルグソン) 備考 物は我々によって二様の仕方で現実として考えられる。すなわち我々は物を一定の時間および場所に関係して存在するとして考えるか、それとも物を神の中に含まれ、神の本性の必然性から生ずるとして考えるかそのどちらかである。ところでこの第二の仕方で真あるいは実在として考えられるすべての物を我々は永遠の相のもとに考えているのであり、そしてそうした物の観念の中には、第二部定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。で示したように(なおその備考 私がここで存在というのは持続のことではない。すなわち、抽象的に考えられる限りの存在、いわば一種の量として考えられる限りの存在のことではない。なぜなら私は、存在の本性そのものについて、神の本性の永遠なる必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生ずるがゆえに個物に付与される存在の本性そのものについて語っているのだから。つまり私は、神の中に存する限りにおける個物の存在そのものについて語っているのである。というのは、おのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ、各個物が存在に固執する力はやはり神の本性の永遠なる必然性から生ずるからである。以下省略も見よ)、神の永遠・無限なる本質が含まれているのである。 記:スピノザの哲学論法を鑑みるに、一部解析論者の云う無神論・唯物主義論者と決めつけるには疑問が残ります。人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるもの(*人間原理を成さしめる或る相)が残存する。スピノザは人間身体即ち肉体は滅しても何ものかの残存を示唆しているからです。哲学・思想ランキング
2022年08月18日
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神の存否-503 定理二八 物を第三種の認識において認識しようとする努力ないし欲望は、第一種の認識から生ずることはできないが、第二種の認識からは生ずることができる。 証明 この定理はそれ自体で明らかである。なぜなら、明瞭判然と我々が認識するすべてのものを、我々はそれ自体によって認識するか、それともそれ自体で明らかな他の物によって認識するかである。言いかえれば、我々の中に在る明瞭判然たる観念、あるいは第三種の認識に属する観念(第二部定理四〇の備考二 抜粋: 一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物から(この部の定理二九の系を見よ)。このゆえに私は通常こうした知覚を漠然たる経験による認識と呼び慣れている。 二 もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それについて物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成することから(この部の定理一八の備考を見よ)。 事物を観想するこの二様式を私はこれから第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナティオ)と呼ぶであろう。 三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この部の定理三八の系、定理三九およびその系ならびに定理四〇を見よ)。そしてこれを私は理性(ラティオ)あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。 これら二種の認識のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれを直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。 これらすべてを私は一つの例で説明しよう。例えばここに三つの数が与えられていて第二数が第一数に対するのと等しい関係を第三数に対して有する第四数を得ようとする。商人は躊躇なく第二数に第三数を乗じ、その結果を第一数で除する。これは彼が先生から何の証明もなしに聞いたことをまだ忘れずにいたためであるか、あるいは彼がごく簡単な数でそれをしばしば経験したためか、あるいはまたユークリッド第七巻の定理一九の証明すなわち比例数の共通の特質に基づいたかである。しかしごく簡単な数ではこうしたことは必要でない。例えば一、二、三の数が与えられた場合第四の比例数が六であることは誰にも分かるであろう。そしてこの場合は、第一数が第二数に対して有する関係そのものを直観の一瞥(べつ)をもって見てとってそれから第四数自身を帰結するのであるから、はるかに明瞭である。を見よ)は、第一種の認識に属する毀損し混乱した観念(同じ第二部定理四〇の備考二により)から生じえずに、妥当な観念から、すなわち(同じ備考二により)第二種および第三種の認識からのみ生じうる。したがって(感情の定義一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。により)物を第三種の認識において認識しようとする欲望は、第一種の認識からは生じえないが、第二種の認識からは生ずることができる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:スピノザの哲学論法は数学的演繹法を無理強いする傾向が見られ、数学に精通しないものには却って解り辛くすることがあります。哲学・思想ランキング
2022年08月17日
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神の存否-502 定理二七 この第三種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる。 証明 精神の最高の徳は神を認識することにある(第四部定理二八精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。により)。すなわち物を第三種の認識において認識することにある(この部第五部の定理二五 精神の最高の努力および最高の徳は、物を第三種の認識において認識することにある。により)。そしてこの徳は精神が物をこの種の認識においてより多く認識するに従ってそれだけ大である(この部第五部の定理二四 我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)。により)。ゆえに物をこの種の認識において認識する者は人間の最高の完全性に達し、したがってまた(感情の定義二 喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである。により)最高の喜びに刺激される。しかもこの喜びは(第二部定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。により)自己および自己の徳の観念を伴ったものである。したがって(感情の定義二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。により)この種の認識から、存在しうる限りの最高の満足が生ずる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:スピノザの紐解く神が世界そのものとは、神=世界(*全く因果関係のないマルチバース宇宙を含む。) ≧ 宇宙(*我々人間が物理的に認識出来得るユニバース)=物理法則=人間精神の最高の善である神の認識(*スピノザ及び西田幾多郎、乃至、姓はゴータマ/Gotama釈迦族全体の姓、名はシッダールタ(悉達多/Siddhārthaのゴウタマシッダルタ/GautamaSiddhartha)の究めんとするところに、大きな乖離はありません。彼は人間原理の全てが物理法則に従うように人間精神が神の摂理・真理を究めることに存在しうる限りの最高の精神の最高の喜び・満足が生ずるとするのです。哲学・思想ランキング
2022年08月16日
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神の存否-501 記:スピノザの紐解く「もの」の認識とは、個物としての物の認識のみならず、その形質が人間の精神感情に齎す身体的変状、その内部認識の連関からくる観相の変遷が「実体としての有」を捉え得る道であり、その段階が第一種の認識・第二種の認識・第三種の認識であると説きます。此れを勘ぐるならば、其の経緯は仏教哲学、なかでも大乗仏教の「縁起」を思い起こされます。然し乍ら、其の方法論はかけ離れたものであるようにもとれます。西洋哲学は「我」を中心に物事の本質に精神を究明するのに対して、インド・アーリヤ民族を中心としたインド哲学では「我」を離れたところに「無我」物事の本質があるとします。スピノザの目指したものは「直感知」であり、大乗哲学の目指したものは「正覚」だということです。 (インド仏教中観学派・大乗哲学の祖 「龍樹/梵語名Nāgārjuna/Nagarjuna 」《竜樹菩薩》) 定理二六 精神は、物を第三種の認識において認識することにより多く適するに従って、まさにこの種の認識において物を認識することをそれだけ多く欲する。 証明 明白である。なぜなら我々は、精神をこの種の認識において物を認識するのに適すると考える限り、その精神をまさにこの種の認識において物を認識するように決定されていると考えているのである。したがって(感情の定義一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。により)精神はこのことにより多く適するに従ってそれだけ多くこのことを欲する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年08月15日
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神の存否-500 定理二五 精神の最高の努力および最高の徳は、物を第三種の認識において認識することにある。 証明 第三種の認識は神のいくつかの属性の妥当な観念から物の本質の妥当な認識へ進む(第二部定理四〇の備考二 これら二種の認識(表象と理性)のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれを直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。におけるその定義を見よ)。そして我々はこの仕方で物をより多く認識するに従ってそれだけ多く(前定理二四 我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有するにより)神を認識する。このゆえに(第四部定理二八 精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。により)精神の最高の徳、言いかえれば(第四部定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。により)精神の能力ないし本性、すなわち(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)精神の最高の努力は、物を第三種の認識において認識することにある。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:人間精神の認識能力の表象・理性・直感知(*直覚知=記者は正覚者を意識して此方を採用したい。)の三種の精神の最高の徳は第三種の認識である直感知であることの確認。「神」を神格性・人格性を帯びたもの捉えず、現代物理学の宇宙理論「量子重力理論」の超弦理論の背景と捉えた場合、その振動は第三種の認識である直感知を獲得した人間に共鳴を齎すのであろうか。哲学・思想ランキング
2022年08月14日
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神の存否-499 定理二四 我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)。 証明 第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。この証明は第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。、および、同じく第一部定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。から明らかである。から明白である。 記:我々人間が、世界の個物の森羅万象の形質・形相・法理を極めることは神を認識することに神を理解することに繋がります。スピノザ哲学は神存在を現代物理学の量子重力理論の宇宙論を知らないにしても、仮に量子重力理論の確率論を知れば驚愕したでしょう。スピノザの解く神とは世界そのものであり「実有・完全体」であり「可能性」は考慮されていないからです。 (シュレディンガーの猫)哲学・思想ランキング
2022年08月13日
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神の存否-498 定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。 証明 神の中には人間身体の本質を表現する概念ないし観念が必然的に存する(前定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。により)。この概念ないし観念は、それゆえ必然的に、人間精神の本質に属するあるものである(第二部定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)。ところが我々は人間精神に対して、人間精神が身体の現実的存在、それは持続によって説明され、時間によって規定されうるものであるを表現する限りにおいてしか持続、すなわち、時間によって規定されうるようなものを賦与しない。言いかえれば我々は人間精神に対して(第二部定理八の系 抜粋:個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。により)身体の持続する間だけしか持続を賦与しない。しかしそれにもかかわらず今言ったあるものは神の本質そのものを通してある永遠なる必然性によって考えられるものなのであるから(前定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。により)、精神の本質に属するこのあるものは必然的に永遠であるであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 身体の本質を永遠の相のもとに表現するこの観念は、今言ったように、精神の本質に属する必然的に永遠なる一定の思惟様態である。しかし我々は、我々が身体以前にすでに存在していたことを想起することはできない。というのは身体の中にそれについての痕跡は何も存しえないし、また永遠性は時間によって規定されえず、時間とは何の関係も有しえないからである。しかしそれにもかかわらず我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視、かつ観察する精神の眼がとりもなおさず[我々が永遠である]ことの証明なのである。 (精神の眼) このように、我々が身体以前に存在したということを我々は想起しないけれども、しかし我々の精神が身体の本質を永遠の相のもとに含む限りにおいてそれ「我々の精神は永遠」であるということ、そして精神のこの存在は時間によって規定されえず持続によって説明されえないということ、そうしたことを我々は感ずる。ゆえに我々の精神は、身体の現実的存在を含む限りにおいてのみ持続すると言われうるし、またその限りにおいてのみ我々の精神の存在は一定の時間によって規定されうるのである。そしてその限りにおいてのみ我々の精神は物の存在を時間によって決定する能力、物を持続のもとに把握する能力を有するのである。 (永遠の瞬間)哲学・思想ランキング
2022年08月12日
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神の存否-497 定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。 証明 神はこのまたはかの人間身体の存在の原因であるばかりでなく、またその本質でもある(第一部定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。により)。ゆえにその本質は必然的に神の本質そのものを通して考えられなければならぬ(第一部公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。により)。しかもある永遠なる必然性によって考えられなければならぬ(第一部定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。により)。こうしてその概念は必然的に神の中に存しなければならぬ(第二部定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:現代宇宙理論の人間原理、神存在が宇宙だとしても、さらには、宇宙がマルチバース(multi-verse)、ユニバース(宇宙)のユニ(単一)をマルチ(多重、多数)に置き換えた造語。宇宙は我々が存在する宇宙だけでなく、別に、または無数に存在するかもしれないという仮説に基づく。インフレーション宇宙論から導かれる無数の泡宇宙や量子力学の多世界解釈による多元宇宙など、さまざまな仮説が提唱されている。いずれも原理的に観測可能な宇宙ではなく、行くことも見ることもできない理論上の存在と考えられている世界にしろ、実は人間認識なしには実存は確認できない。世界は人間認識により実在するとも云えます。スピノザの認識哲学の神概念の認識には此れが基底にあるとも云えます。極論すれば神存在は人間存在なしには砂上の楼閣どころか神を認識するものは無乃至は虚と化します。神は人間在っての実在であり、人間は神在ってこその実存だと云えます。哲学・思想ランキング
2022年08月11日
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神の存否-496 定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。 証明 精神は身体の持続する間だけしかその身体の現実的存在を表現しないし、またその間だけしか身体の変状を現実的なものとして把握しない(第二部定理八の系 この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。により)。したがって精神は(第二部定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフェクトゥス)〔刺激状態〕の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する。により)その身体の持続する間だけしかいかなる物体をも現実に存在するものとして把握することがない。このゆえに精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり(第二部定理一七の備考における表象の定義 抜粋・要約:我々は普通に用いられている言葉を保存するために、人間身体の変状(アフェクティオ)〔刺激状態〕、この変状の観念によって外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべるのである。我々は物の形状を再現しないけれども我々はこれを物の表象像(イマゴ)と呼ぶであろう。そして精神がこのような仕方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象(イマギナリ)すると言うであろう。を見よ)、過去の事柄を想起したり(第二部定理一八の備考における記憶〔想起〕の定義 抜粋:記憶は、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状(アフェクティオ)〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずる。を見よ)することができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:人間精神は身体の変状を離れては現実存在は夢想に化す。人間身体は精神の持続なしには実存性を欠く、即ち「心身一元論」をスピノザは説きます。スピノザ思想が「無神論」若しくは「唯物主観」と問われるゆえんです。哲学・思想ランキング
2022年08月10日
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神の存否-495 第五部定理二〇の備考 記:神存在そのものに愛があるならば、それは世界の法としての必然的形相であり完璧である筈とスピノザは捉えます。それ故に、神は存在そのものに愛があるならば人間の精神感情や行動には干渉しません。対して人間が神を愛することには大いなる意味合いと「随喜」が待つと云うのです。 備考 この愛に直接的に相反していてこの愛を破壊させうるようないかなる感情も存しないことは同様の仕方で明らかにすることができる。したがって我々は神に対するこの愛がすべての感情のうちで最も恒久的なものであること、またこの愛が身体と結合する限りにおいては身体自身とともにでなくては破壊されえないことを結論することができる。しかしそれが単に精神のみと結合する限りにおいていかなる本性を有するかはあとで見るであろう。 これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。一 感情の認識そのものに。 二 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。 三 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(*持続)という点でまさっているその時間という点に。 四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに。 五 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ・相互に連結しうるその秩序に。 しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。なぜなら(第四部定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)おのおのの感情の力は、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定されるからである。ところが精神の能力は認識のみによって規定され、これに反して精神の無能力ないし受動は単に認識の欠乏によって、言いかえれば非妥当な観念を非妥当と呼ばしめるものによって、測られる。この帰結として、その最大部分が非妥当な観念から成っている精神、すなわちその能動性においてよりもその受動性においていっそう多く識別される精神は、最も受動的な精神であることになり、これに反してその最大部分が妥当な観念から成っている精神、すなわちたとえ他の精神と同様に多くの非妥当な観念を含んでいてもなおかつ人間の無能力を表わす非妥当な観念によってよりも人間の徳に属する妥当な観念によっていっそう多く識別される精神は、最も能動的な精神であるということになるのである。 第二に次のことを注意しなければならぬ。心の病気や不幸は、主として、多くの変転に従属する物、我々の決して確実に所有しえない物に対する過度の愛から起こるのである。なぜなら、何びとも自分の愛さない物のためには不安や心配に悩まされることがないし、また、もろもろの不法・疑惑・敵意などは何びとも真に確実に所有しえない物に対する愛からのみ生ずるからである。我々は以上から、明瞭判然たる認識、特に、神の認識そのものを基礎とするあの第三種の認識(これについては第二部定理四七の備考 骨子:「第一種の認識」若しくは「表象」(十全乃至不十全の可能性)。「第二種の認識」(理性)。第三種の認識(直観による認識)を形成しうる可能性を見よ)が感情に対して何をなしうるかを容易に理解する。すなわちこの認識は、受動である限りにおいての諸感情を絶対的には除去しないまでも(この第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。と定理四の備考 抜粋:精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。とを見よ)、少なくともそれらの感情が精神の極小部分を構成するようにさせうる(この部第五部の定理一四 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。を見よ)。次にこの認識は、不変にして永遠なる物(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。を見よ)、我々が真に確実に所有しうる物(第二部定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。を見よ)に対する愛を生ずる。そのゆえにこの愛は通常の愛に潜(ひそ)むもろもろの欠点に汚されえずして、かえって常にますます大となることができ(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。により)、そして精神の最大部分を占有して(この部第五部の定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。により)、広汎な影響を精神に与えうるのである。 これで私はこの現在の生活に関する一切の事柄を終了した。なぜなら、私がこの備考の冒頭に述べたように、これら若干の定理の中に感情に対するすべての療法が総括されていることは、この備考の内容に、同時にまた、精神およびその諸感情の定義に、そして最後に、第三部定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。および、第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。に、注意する者には誰にも容易に分かるであろう。 ゆえに今や身体に対する関係を離れた精神の持続に関する問題に移る時である。哲学・思想ランキング
2022年08月09日
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神の存否-494 記:スピノザが解する神とは完全体であり、そこには不足不充は無く、何かを求めると思考するのは不条理であると示します。それ故に人間に対してその精神感情や行動に対して何等かの干渉をするのは不合理となります。丁度、世界の法一切を覚り正覚者「仏陀」と成った紀元前6世紀のインドのガウタマ・シッダールタが「法」の慈悲の心を説いたのとは一線を画するかもしれません。スピノザの解く神の愛は他者はなく全てであり、意識することすらからも無縁です。神を説いたスピノザ、法を説いた仏陀、その接点は深淵に架かる吊り橋の如しです。 定理二〇 神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだけ多くはぐくまれる。 証明 神に対するこの愛は我々が理性の指図に従って徴求(ちょうきゅう)しうる最高の善である(第四部定理二八により)、そしてこの最高の善はすべての人に共通であって(第四部定理三六 徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって、すべての人が等しくこれを楽しむことができる。により)、我々はすべての人がそれを楽しむことを欲する(第四部定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)。したがってこの愛はねたみの感情に汚されることができないし(感情の定義二三 ねたみとは他人の幸福を悲しみまた反対に他人の不幸を喜ぶように人間を動かす限りにおける憎しみである。により)、また嫉妬の感情に汚されることもできない(この部第五部の定理一八 何びとも神を憎むことができない。および、嫉妬の定義による。嫉妬の定義は第三部定理三五の備考ねたみと結合した、愛するものに対するこの憎しみは、嫉妬と呼ばれる。したがって嫉妬とは、同時的な愛と憎しみから生じかつそれにねたまれる第三者の観念を伴った心情の動揺にほかならない。について見よ)。 むしろ反対にこの愛は(第三部定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)より多くの人間がこれを楽しむことを我々が表象するに従って、それだけ多くはぐくまれざるをえない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年08月08日
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神の存否-493 定理一九 神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない。 (*ゲーテ) 証明 もし人間がこのことに努めるとしたら、彼は(この部第五部の定理一七の系 神は本来的な意味では何びとをも愛さずまた何びとをも憎まない。なぜなら、神はいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされず、したがって神は何びとをも愛さずまた何びとをも憎まないのである。により)自分の愛する神が神でないことを欲することになるであろう。したがってまた彼は(第三部定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)悲しみを感ずることを欲することになるであろう。これは(第三部定理二八 ある人がその愛するものを憎み始めてついに愛がまったく消滅するに至る場合、彼は、それを全然愛していなかった場合よりも、もしその憎む原因が両方の場合相等しいとしたら、より大なる憎しみに捉われるであろう。そしてこの憎しみは以前の愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。により)不条理である。ゆえに神を愛する者は云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:報償論 スピノザにおいては神が人間精神感情やその行為に干渉するのは、人格性を付与された「神格」だと解き、絶対的存在はそれらとは相違し、一切の受動は無く「能動」のみの存在であり人間の精神感情や行為からの影響からは隔絶されています。然し乍ら、人間が神の存在を認識「直感知」すれば、そこには随喜が生じるものであり、インド大陸の正覚者「仏陀」の悟り、一切の煩悩(ぼんのう)から解脱した、不生不滅の高い仏教の究極的な実践目的の境地「生前涅槃(随喜)」を連想させます。哲学・思想ランキング
2022年08月06日
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神の存否-492 定理一八 何びとも神を憎むことができない。 証明 我々の中における神の観念は妥当かつ完全である(第二部定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。および、同部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。により)。 ゆえに我々は神を観想する限り、その限りにおいて働きをなすものである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。 したがってまた、(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)神の観念を伴ったいかなる悲しみもありえない。言いかえれば(感情の定義七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。により)何びとも神を憎むことができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 神に対する愛は憎しみに変ずることができない。 備考 しかし次のような駁論がなされるかもしれぬ。我々は神をすべての物の原因として認識するのだから、まさにそのことによって我々はまた神を悲しみの原因と見るものである、と。だがこれに対して私は次のごとく答える、我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて悲しみは受動であることをやめる(この部第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。により)。言いかえればその限りにおいてそれは悲しみであることをやめる(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。したがって我々が神を悲しみの原因として認識する限り、我々は喜びを感ずるのである、と。 参照:慈悲は仏教で重視する用語。「慈」はサンスクリット語のマイトリー(maitrī/友情)にあたり、深い慈しみの心をさし、「悲」はカルナー(karunā/同情)にあたり、深い憐(あわれ)みの心をさす。仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える(与楽)のが慈であり、不幸を抜き去る(抜苦)のが悲であるというが、慈と悲はほとんど同じ心情を表し、マイトリーまたはカルナーという原語だけで「慈悲」と訳されることも多い。大慈、大悲、大慈悲というときは、仏や菩薩の慈悲を表す。仏の慈悲は、生ける者の苦しみを自己の苦しみとするので「同体(どうたい)の大悲」といい、上を覆いかぶせるものがない広大なものであるので「無蓋(むがい)の大悲」ともいう。諸経論には、慈悲に(1)生きとし生ける者に対して起こすもの(衆生縁)、(2)すべての存在は実体がないと悟り執着を離れて起こすもの(法縁)、(3)なんらの対象なくして起こすもの(無縁))の3種があり(三縁の慈悲)、このうち無縁の慈悲が無条件の絶対平等の慈悲であり、空(くう)の悟りに裏づけられた最上のもので、ただ仏にのみあるという。 日本大百科全書(ニッポニカ)「慈悲」の解説 記:神教と仏教は同義語の「宗教」とはいえ、その宗旨には、はかりり知れない隔たりがあります。スピノザの認識哲学はどちらの宗旨に近似するのか、世界(神)→人間、若しくは世界←人間(仏)の方向性から検討すべき課題が浮かび上がります。哲学・思想ランキング
2022年08月05日
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神の存否-491 定理一七 神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。 証明 すべての観念は神に関係する限り真である(第二部定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。により)。言いかえれば(第二部定義四 無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない。により)妥当である。ゆえに(感情の総括的定義 抜粋:我々は完全性ということを物の本質そのものと解する。により)神はいかなる受動にもあずからない。次に神はより大なる完全性へ移行することも、またより小なる完全性へ移行することもありえない(第一部定理二〇の系二 神あるいは神のすべての属性は不変であることになる。なぜなら、もしそれが存在に関して変化するなら、本質に関しても変化しなければならないであろう。言いかえれば、それ自体で明らかなように、異なるものが偽なるものになることになるであろう。これは不条理である。により)。したがって神は(感情の定義二 喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである。および、感情の定義三悲しみとは人間がより大なる完全性からより小なる完全性へ移行することである。により)いかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 神は本来的な意味では何びとをも愛さずまた何びとをも憎まない。なぜなら、神は(前定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。により)いかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされず、したがって神は(感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。および、感情の定義七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。により)何びとをも愛さずまた何びとをも憎まないのである。哲学・思想ランキング
2022年08月04日
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神の存否-490 定理一四 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。 証明 精神が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない(この部第五部の定理四 我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない。により)。したがって精神はすべての身体的変状を神の観念に関係させることができる(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。 証明 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は喜びを感ずる(第三部定理五三 定理五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。により)。しかもその喜びは神の観念を伴っている(上記前定理一四により)。したがって彼は(感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。により)神を愛する。そして(同じ感情の定義六の理由により)彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年08月03日
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神の存否-489 定理一一 表象像はより多くの物に関係するに従ってそれだけ頻繁である。言いかえればそれだけ繁く現われる。そしてそれだけ多く精神を占有する。 証明 なぜなら表象像あるいは感情がより多くの物に関係するに従ってそれを喚起し養いうる原因がそれだけ多くなり、この原因のすべてを精神は、仮定により、その感情と同時に観想する。したがってその感情はそれだけ頻繁である。言いかえればそれだけ繁く(しげく)現われる。そして(この部第五部の定理八 感情は共にはたらくより多くの原因から同時に喚起されるに従ってそれだけ大である。により)それだけ多く精神を占有する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 定理一二 物の表象像は、他の表象像とよりも、我々が明瞭判然と認識する物に関する表象像と、より容易に結合する。 証明 我々が明瞭判然と認識する物は、物の共通の特質であるか、それとも、共通の特質から導き出されたものである(第二部定理四〇の備考二における理性の定義 我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから)。そしてこれを私は理性(ラティオ)あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。を見よ)。したがってそれはよりしばしば(上記前定理一一により)我々の中に喚起される。このゆえに、我々が物を表象する時、それと同時に今言ったような物を観想することの方が他の物を観想することよりもより容易に起こりうる。したがって、また(第二部定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。により)物の表象像は、他の表象像とよりも、今言ったような物の表象像と、より容易に結合することになる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 定理一三 表象像はより多くの他の表象像と結合するに従ってそれだけ繁く現われる。 証明 なぜなら、表象像がより多くの他の表象像と結合するに従って、それを喚起する原因がそれだけ多くなるからである(第二部定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 記:ドミノ倒し/Domino effect・波紋/Ripplesを連想させます。哲学・思想ランキング
2022年08月02日
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神の存否-488 定理一〇の備考後半 定理一〇の備考前半身体の変状を正しく秩序づけ・連結する理性の力に続く 同様に我々は、恐怖を脱するためには勇気について思惟しなくてはならぬ。すなわち人生において普通に起こる諸々の危難を数え上げ、再三これを表象し、そして沈着と精神の強さとによってそれを最もよく回避し・征服しうる方法を考えておかなくてはならぬ。 しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から行動へ決定されるようにしなければならぬことである(第四部定理六三の系 理性から生ずる欲望によって我々は直接に善に就き、間接に悪を逃れる。及び、第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。例えばある人が、自分はあまりに名誉に熱中しすぎることに気づいたなら、彼は名誉の正しい利用について思惟し、なぜ人は名誉を求めなければならぬかまたいかなる手段で人はそれを獲得しうるかを思惟しなければならぬ。だが名誉の悪用〔弊害〕とか、その虚妄とか、人間の無定見とか、その他そうした種類のことは思わないほうがよい。そうしたことは病的な精神からでなくては何びとも思惟しない事柄である。というのは、最も多く名誉欲に囚われた者は、自分の求める名誉を獲得することについて絶望する時に、そうした思想をもって最も多く自らを苦しめるものである。そして彼は、怒りを吐き出しつつもなお自分が賢明であるように見られようと欲するのである。これで見ても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのであることが確かである。 しかしこれは名誉欲に囚われている者にだけ特有なことでなく、すべて恵まれぬ運命をにないかつ無力な精神を有する者に共通な現象である。なぜなら、貧乏でしかも食欲な者もまた金銭の悪用や富者の罪悪を口にすることを止めないが、これによって彼は自分自身を苦しめ、かつ自分の真のみならず他人の富もが彼の忿懣(ふんまん)の種であることを人に示す結果にしかなっていない。これと同様に、愛する女からひどく取り扱われた者もまた、女の移り気や、その不実な心や、その他歌の文句にある女の欠点などのことしか考えない。しかも愛する女から再び迎えられると、これらすべてのことをただちに忘れてしまうのである。(*尾崎紅葉著「 金色夜叉」) ゆえに自己の感情および衝動を自由に対する愛のみによって統御しようとする者は、できるだけ徳および徳の原因を認識し、徳の真の認識から生ずる歓喜をもって心を充たすように努力するであろう。だが彼は人間の欠点を観想して人間を罵倒したり偽わりの自由の外観を喜んだりするようなことは決してしないであろう。そしてこれらのことを注意深く観察し、なぜならそれは困難なことではないから、且つ、それについて修練を積む者は、たしかに短期間のうちに自己の活動を大部分理性の命令に従って導くことができるようになるであろう。哲学・思想ランキング
2022年08月01日
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