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「神秘学概論」概説6 人間の本質1~10 2:エーテル体-2 エーテル体の特徴② 新しい力というのは記憶 人間の発育段階で6歳~7歳ごろになると文字を覚えたり、九九を覚えたりすることができるような準備が成されます。仮に、このようなことが6~7歳以前に行われると子どもから体を作るためのエーテル体を奪ってしまうことになります。早期教育の弊害といわれる現象です。但し、例外があることも事実として認識すべきでしょう。 シュタイナーは、過去の記憶を人間のエーテル体の中に持っているだけではなく地球そのものもエーテル体を持っていると明かしています。地球には植物、動物、人間生命だけでなく地球を取り巻いている何らかのものがあるのです。それをエーテル界と呼び、それは地球を取り巻いている大気を表象させます。アカシックレコード(Akashic Records )は、宇宙や人類の過去から未来までの歴史全てがデータバンク的に記されているという一種の記録をさす概念通り、地球のエーテル体は地球で起こったそれまでの事を記録しており、こういったことを観想・観相することができ得る人間はこの記録を読むことができ得ます。そのような能力を持つ人間はごく僅かですがシュタイナーはそういう力を持つ一人でした。そして様々なことを私たちに教唆します。③ エーテル体は習慣とも関係しています。 たとえば、人間の幼児は歩くことが最初は簡単ではありません。何度も転び失敗を繰り返して歩けるようになります。やがて歩くことは習慣となり今の私たちにとって歩くことは難しくなくなります。頭で考えるのではなく筋肉或いは延髄がどうやって歩くのかを記憶しているのです。小さいころ自転車に乗れた経験は、しばらく自転車に乗らなくても乗り方を忘れていません。これも同じ原理です。④ エーテル体は気質にも関係しています。 気質とは生まれつき備わったもので、次の4つに分類できます。様々な特徴がありますが、大まかに分類すると、1 胆汁質:リーダー的。強引なところがある。2 多血質:社交的。色々なことに気が散りやすい。3 憂鬱質:こまかな気配りができる。最後までやりぬく。神経質。4 粘液質:静かで穏やか。忍耐力がある。食べることが好き。動作がゆっくりしている。 我々人間は大凡二つや三つの気質を併せ持っていますが、一般的にはその中の一つが優勢を占めます。私たちのエーテル体の中に気質は住みついています。気質は目には見えないけれど物質体に働きかけた結果として見えるようになります。哲学・思想ランキング
2022年11月30日
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「神秘学概論」概説6 人間の本質1~10 2:エーテル体-1 エーテル体の特徴 物質的な肉体は通常の五感で認識できますが、物質体以外のものは目には見えません。人間には目には見えないものが内在しているとシュタイナーは言います。人間の鉱物的なものを生命あるものに維持しているものがあります。抑々(そもそも)が、この力がなければ私たちは死んでしまいます。石は生命は感じられません。エーテル体は生命のないものに命を与えます。それで生命体とも呼ばれます。もしエーテル体がなければ物質体は壊れていきます。エーテル体が離れると物質体の形が変わっていくということを実感します。 エーテル体の特徴としては①形成する力 ②新しい力というのは記憶です。 ③エーテル体は習慣との関係 ④エーテル体は気質との関係 ④ エーテル体は気質との関係があります。① 形成する力 エーテル体の特徴としてエーテル体とは形成する力だとシュタイナーは説きます。エーテル体が形姿を維持し、生命を維持するようなエネルギー(エネルギー保存則は熱力学第一法則の力)なのです。シュタイナーはエーテル体を表現するのに建築家(*魂の建築家 Antonio Gaudi/アントニ・ガウディー)といいました。家を建てるときには設計士がいます。設計士はどんな外観にしようかと考える人物像です。エーテル体はその外観にしようというイメージ(*各種の表像)をもって肉体を作り上げていくのです。エーテル体は物質体に浸透しています。心臓から手足、手足から心臓へというエネルギーの流れがあるのです。東洋でいう「気」のようなものだといえます。人間の体の中を流れているエネルギーです。それはただ動いているだけではなく肉体を常に変化・変様させるものです。今の科学でも「体の中に7年前に存在していたものはもう存在しない。7年のサイクルで変わっていく。」と云われる通りです。幼年期の子供のエーテル体はとても活動的です。特に5歳から7歳ごろに重要な変化があります。歯が抜け変わります。これは、父母から遺伝された肉体から自分自身の肉体に作り変える最初の出来事です。歯の生え変わりは、今まで肉体を作ることに懸命だったエーテル体が新しいことを行う準備ができたことを知らせてくれているのです。哲学・思想ランキング
2022年11月29日
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「神秘学概論」概説6 人間の本質1~10 人間の本質は、「神秘学概論」(ルドルフ・シュタイナー著)の第2章人間性の本質……57「人間に於ける体の三分肢と、魂の三分肢。四つの人間本性」に書かれています。人間よ、汝自身を知れ 私は話すことを考える 私は話す 私は話した 私は自分自身を精神の中に捜し求める 私は自分自身を自分の中に見出す 私は真実の自分に至る精神への道の途上にあるとし、シュタイナーは通常の人間の感覚を超えた「神秘的感覚」を持っていたようです。それ故に、シュタイナーは生涯その能力を発展させ人間をより深く見るこが可能であったと思えます。 シュタイナーの人間の本質の区分は1:物質体(肉体)、2:エーテル体、3:アストラル体、4:自我、5:感覚魂、6:悟性魂、7:意識魂、8:霊我、9:生命霊、10:霊人です。 1:物質体 物質体(肉体)は1~10までの中では唯一目に見えるものです。肉体は母親の体(胎盤)内に宿ったときから、死ぬまでずっと存在します。逆に云えば、死ねば肉体は各々の構成体が分解変化することになります。人間の身体は3つの部分からなっています、ひとつは頭の領域、そして胸の領域、三つ目が手と横隔膜から下の部分と足です。頭の領域は脳の部分で、目覚めた意識を持っています。胸の領域は、肺と心臓があり、呼吸とリズムの領域で感情を担う組織です。感情は大きく分けて、共感と反感があり、夢を見ているような意識です。手足の領域は意志の領域です。新陳代謝や消化器系を担っている組織で、眠っている状態、無意識の領域です。私たちの体は、鉱物界に属しています。手も足も胸も頭も鉱物によって作られています。人生を終えるとき肉体は分解され土(鉱物界)に戻ります。哲学・思想ランキング
2022年11月28日
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「神秘学概論」概説5 睡眠や死を紐解く四つの超感覚的構成要素 シュタイナーの著作には「エ―テル体」「アストラル体」といった言葉が多く登場する。これは、「物質的な肉体」とは別次元の「体」なのである。シュタイナーの言う「人間本性の超感覚的構成要素」は四つである。「物質体」「エーテル体」「アストラル体」「自我(私)」。 「エーテル体」とは有機体をひと纏まりに保つ生命の力。すべての生命は、それ独自のエーテル体を持つと言う。しかし、エーテル体は意識を持つことがない。では、「アストラル体」とは何かといえば、意識を持つ力。植物にはアストラル体がないが、動物にはあると言う。しかし、動物はアストラル体を持っても、「自我」は持たない。その「自我 /Ich」とは何か。それは、物質体・エーテル体・アストラル体に対して働きかける位置にある。それは、もはや「体」ではない。超感覚的な実体。霊的実体であると言う。 シュタイナーは、人間の体験する生理的現象を、この組み合わせから説明しています。たとえば、睡眠である。眠っている時、ベッドに横たわっている人間は、物質体とエーテル体を含んでいるが、アストラル体と自我(私)とは含んでいない。そう解釈する。また、「死」とは、「物質体」から、「エーテル体十アストラル体十自我(私)」が離れてしまう現象である。「臨死体験」といわれる現象は、いわぱ、一時的にこの状態を体験したものであると説き明かします。 エーテル体(etheric body)は肉体と密接に関わっており、生存や活動するために使う機能のバランスを保ち「気(プラーナ)」と言われている宇宙エネルギーを体内に取り込む役割も果たしています。つまり、生命力に関係しているということになります。哲学・思想ランキング
2022年11月27日
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「神秘学概論」概説4 懐疑の視線 世の事物の明らかな事柄の中に隠された意味を認識する人、若しくはそれを推測し、将亦、予感する人ならば、誰彼なく神秘学への道を、その人に相応しい時点が来れば其の道を見い出すことができる。そのような人は、認識の力が進化しう得ることを知っており、いつかは隠された意味が自分にも開示されるであろうと感じている。そのような魂の体験を通して神秘学に導かれる人は、神秘学が自分の認識衝動の問いに答えを与えてくれると思えるだけでなく、生命を弱め妨げるすべてを神秘学によって克服することも期待できるようになる。人間が超感覚的なものから離れたり、それを拒 否したりせざるをえなくなるとすれば、それは高次の意味で、生命を弱め、魂を死に至らしめる。 世間的には人間は騙されやすい存在なのだ。隠された意味など存在せず、感覚と悟性の及ぶ範囲内に、そもそも存在しうるもののすべてが含まれていると信じさせられている。しかしこの思い違いは、意識の表面では可能であっても、意識の深みにおいては存在しえない。人間の感情と願望とは、この思い違いに従おうとしないで、繰り返して隠された意味を求め続ける。そしてそれを見出せなかったときには、懐疑的になり、人生を不確かなものと感じ、絶望へ駆り立てられる。隠された意味を開示する認識は、希望のない不確かな絶望的な状態を、つまりは、生命を弱め世界のために役立つ力を失わせるすべてを克服することができるのである。 霊学の認識は、知的な好奇心を満足させるだけではなく、生きる上での強さと確かさを与えてくれる。このことは、霊学の実らせる甘露で美しい果実なのだ。この認識が労働の力と人生への信頼とを汲み上げる泉は、尽きることがない。一度この泉を見い出した人は、そこへ戻る度に、必ず慰めと力づけとを受けとるであろう。(P48-51) 現代人は、疑心暗鬼の塊で、騙されやしないかといつも不安である、そのわりには、その不安が逆転して、いちど信じ込んだら、その洗脳の影響を脱しがたいという状態にもなるとは我々が知るところである。其の本当のところは何かを真に認識しようとしているのではなく、只々、騙されまいとだけしているために、その疑心暗鬼の城門の錠のロックが一度外れると、その姿勢が単に顕わになるというだけのことかもしれないそれゆえに、世間の皆んながしていると自分もそうしたくなり、一極集中のブームなども起こり易い。つまりは、安心して目を瞑って(つむって・つぶって)手を引いてもらいたいということです。 懐疑は必要不可欠であるが、その懐疑の底には認識への欲求がなければならない。そうでなけrば、信じたいけれど信じられないというに過ぎなくなる。信じたくないし信じてもいないけれどもそうであると考えざる得ない、というのが懐疑から導き出されるものでなければならないだろう。そのためにも、懐疑はより多面的なものである必要がある。水が幾重ものフィルターにかけられて濾過されるように、懐疑は幾重もの異なったフィルターが必要なのである。そういった意味でのニヒリズム( 虚無主義/Nihilism)は積極的な生の肯定にもなり得ることが可能となる。逆にいえば、ニヒリズムというフィルターを経ない生は他律的なものになってしまいかねない。最初から生に対して目を瞑ったまま肯定していると、それに対して絶望せざるをえない状況に陥ったときには生そのものを吟味しないままその絶対否定に陥ってしまってもおかしくない状況が生じる「明らかな事柄の中に隠された意味を認識」しようとするならば、先ずは、その「明らか」であるということに対して懐疑の視線を向けなければならない。そうでないと、最初から「隠された意味」が否定されてしまっていることになる。それは認識そのものの否定にもなりかねない。まず目を開けて、今の自分が「明らか」だと思っていることを信じないようにすること「懐疑」から始める必要があるのではないだろうか。哲学・思想ランキング
2022年11月26日
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「神秘学概論」概説3 「主義」というもの 旧来は科学が「科学万能主義」になってしまうのは、科学という研究方法に即することではなく、研究対象を限定しその限定されたなかで現われてくることだけを研究しようとするからではないだろうか。とも云われていたが、現代物理科学理論は、我々人間存在が認識する世界を物理的には捉えきれないマルチバース宇宙論・因果律(*量子力学では不成立)の異なる異相世界など、我々現世宇宙の人類には「不可視・不可触」の世界にまで現代物理科学理論は世界の真相を究明する傾向が見えます。旧来の科学、なかでも物理科学が、科学主義、更には「物理教」ともいえる「主義」というのは、おそらくそうした傾向を持ち、自分の見たいもの、考えたいことだけのなかで、独善的とでもいえる一貫性やそれに都合のいい論理を求めることしかしないことにあるのかもしれない。学問が、専門領域に閉じてしまうことが多いのもそれに似ている。医療が人間を各種専門分野に分断し、病名に応じたところでしか治療を受けられないような状態になっているのも、様々な集団・組織内部の各部署が互いに協力し合うことなく、自分たちが保持する権限や利害にこだわり、外部からの干渉を排除しようとする排他的傾向のセクショナリズムの支配する役所的な在り方も、対象を限定することのほうに力点を置くがゆえに、そういう方向にならざるをえないのだろう。科学に限らず、対象にばかり目を奪われて、そこで自分が何をしようとしているのかには目が向けられなくなってしまっていることは多い。すでに量子力学などにおいても、観察行為が対象に影響しているというか、観察と対象が切り離されていないということは語られ続けているにもかかわらず、それは多くの場合お題目にしかなっており、科学主義という船に乗る者は、みずからの乗っている船のことを知らずにいる。まして船の航行している海のことなど気にもとめない。自分がそこで何をしているのか。自分がどういう乗り物にのって、今どこにいるのか、そしてどこに向かおうとしてそうしているのか(記:コロンブスの航海/Voyage of Columbus)。そうした態度というのが最も重要視されるのが「神秘学」であり神秘主義なのだ。 そうした態度が求められるなかにおいて、「神秘学論」が霊や魂、エーテル体・アストラル体といった言葉を使わないで済ませることを、如何にも積極的な態度であるかのように思っている態度というのは、「さまざまな事情で、偏見にさらされても、公正さを失わないでいられる」そうした態度とはかけ離れている。「精神世界」関係の多くにともすればそれが欠けているのも、先の科学主義と同様である。シュタイナーの神秘学に向けた態度は、特別の人びとにのみ許された「神秘の知識」が問題なのではない「神秘の認識」への態度が問題なのだ。哲学・思想ランキング
2022年11月25日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー「神秘学概論」概説2 神秘を学ぶ 本書「神秘学概論」が求めている読者は、一の言葉が、様々な事情で、偏見に晒されても公正さを失わないでいられる読者である。運命の恩寵を受けた、特別の人びとにのみ許された「神秘の」知識が問題なのではない。本書が扱うのは、ゲーテが宇宙現象の中に「開示されている秘密」があると述べたときの「秘密」である。感覚並びに感覚に結びついた悟性だけで認識するとき、宇宙現象の中に「神秘のもの」、外感覚世界のみでは開示されぬものが残る。この残されたものが、超感覚的認識の内容となるのである。 感覚とその感覚に仕える悟性とが明示しうるものだけを「学」と見なす人にとって、本書の意味での「神秘学」は当然、科学たりえないだろうが、よくよく考えてみれば、その立場は根拠あるものではなく、個人的な感情に発する独断に従っているにすぎないことが分かる。科学がどのようにして生じ、それが人生にとってどのような意味をもつのか考えてみよう。 科学の成立は、本質的には、科学の研究対象に即してではなく、科学の研究方法に即して、認識されねばならない。科学を研究するときの魂がどのような在り方を示しているのかに眼を向けなければならない。感覚的に把握されうるものだけを考察する態度に慣れてしまうと、この感覚の開示こそが本質的なのだと考えてしまう。そして、人間の魂が、その際、まさに感覚の開示だけに向けられているという事実を意識できなくなる。しかし、そういう魂の自己規制から脱け出して、研究対象を特定の領域に限定しなくなれば、この特別の場合以外のところにも、科学研究の可能性を見出すことができるようになる。本書が非感覚的な宇宙内容の認識のために、「学」という言葉を用いる理由は、まさにここにある。人間の思考は、この宇宙内容に対しても、自然科学が対象とする宇宙内容に対するときと同じ態度で、研究活動を行なうことができる。(P38-40)記:現代の物理科学の研究対象は、量子論に始まりアインシュタインの重力理論を踏まえ、量子重力理論の世界に踏み込みつつある状況です。更には、現代物理科学技術では認識不可能な宇宙組成のバリオンと呼称される通常の物質を構成する粒子が約4%、ダ ークマター(暗黒物質)が約23%、ダークエネルギー (暗黒エネルギー)が約73%であると認識される通り新たなる物理認識科学方法の発現を待つのみです。此の中で、一部の宗教観を除き、宇宙生成物質からのみ人間が成り立っているとすれば、人間は宇宙の生成物質であるのは勿論、宇宙の「こだま」だとも云えます。哲学・思想ランキング
2022年11月24日
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「神秘学概論」概説1 霊的認識-1 此の宇宙が単一のユニバース(universe)、若しくはマルチバース宇宙(multiverse)であれ、我々人間がそのの一員に属しなくとも、森羅万象あらゆるものへの理解を、我々人間自身がそれを妨げてしまえば、凡そ其の認識が可能にならないのは歴史が示すところです。なかでも特に、誤った自然観に基づく「認識の限界」という時代の偏見に囚われれば尚更のことです。霊的認識はすべて、人間精神の奥底に眠る内密な魂の体験の中で生じる。霊的直観そのものがそうであるのではなく、顯現・見霊的でない通常の意識が霊視者の体験に向き合う際の理解力もまたそうなのである。その理解力のことを、ただ自分でそう思いこんでいるだけだと安易に断定する人は、魂のこの内密さをまったく知らないでいる。事実、物質界については、概念的にその理解の真偽を論じることができるが、霊界の場合には、もっぱら体験するしかない。霊視は、未だ見霊能力のない通常の意識によっては理解できないという主張に影響されてしまえば、その気分が暗雲のように理解力を曇らせ、理解することが本当にできなくなる。然し乍ら、見霊能力がなくても、囚われぬ意識を持つ者にとって、見霊者の思考形式を通して表現された霊視内容は、完全に理解可能なのである。画家でない人が、芸術の域に達した画家の完成した作品を理解するのと同じように、理解できるのである。しかも霊界の理解は、芸術作品のように、芸術的、 感情的な理解を必要とするのではなく、自然認識の場合と同じように、もっぱら思考の働きによってなされる。「「神秘学概論」十六版から二十版までの序章」P30要項) つまりは、初読ではなかなかに困難です読みにくいし、分からないことが多いかもしれないけれど、それはずっとわからないままだということではないということ。「慎重で平静な思考作業」を続けていくことが、理解のための前提条件になるということである。逆にいえば、そういう作業なしでは、なにも始まらないということでもある。ノウハウ本のようなものとの違いがそこにはある。知識を与えてもらう、というような単純なものではなく、読むということそのものが、自らが自らがを育てていくことでもあるということ。だから、教えてもらうのではなく、まさに「神秘学概論」は「自己教育」の人間精神の手引き書のなのです。哲学・思想ランキング
2022年11月23日
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第3章 眠りと死(31節/31)31 輪廻転生を考慮しなくては人生を理解できない 自分が先祖からの遺伝的要素の総和以上であることを、自ら観察した学者もいる。霊的存在である人間個性が身体以前にあり、それが身体を形成したとさえ考える人もいる。しかし、彼らの多くも輪廻転生やカルマ(*善い行いも悪い行いも、寸分の狂いもなく強烈な力で因果応報に従い報いを引き起こす。)ということまでは見通していない。その一例が、ドイツの神学者・哲学者で、ドイツ観念論を代表する哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテ(Immanuel Hermann Fichte, 1797年(or1796年) - 1879年)であり、「人間学」で、次のように考察している。 「親とは、完全な意味での生産者ではない。親が提供するのは生命的素材、並びに感覚的・心情的素地であり、後者は、気質、個的色彩を持つ心情、その人なりの衝動の組み合わせとして現れる。これらの共通の源泉は、以前の考察の通り広義の「ファンタジー( fantasy )」、超自然的・幻想的・空想的な事象」であるが、これらすべてに両親の魂に由来するものを見て取れる。したがってこれらの魂の経過も、確かな根拠をもって、単なる生殖作用の産物であると考えられる。しかしこれだけでは本来の人格的核心は見つからない。さらに深く観察すると、こうした心情的なものは外皮であり、そこに人間本来の霊的素質を宿し、その霊的素質を促進あるいは妨害する道具に過ぎないことがわかる」。さらには、次のように述べている。「すべての人間は、自己の霊的基本形姿に沿って誕生前から存在している。霊的に考察すれば、人は誰とも同じではないからである。それはちょうど動物の種同士が同じではないのと同様である」。この考え方では、物質的身体に霊的存在が宿るという点までしか捉えていない。この場合、霊的存在はその形成力をどこから得ているのだろうか。その由来が前生であるという考えはないのだから、一人ひとりの霊的存在は、常に神的根源から現れてくる筈である。しかし、人間の内的素質と人生の外的物質環境との親和性はこれでは説明できない。神的根源から個々の人間の内面が作られるなら、その人間はすべての地上的なものといわばまったくの初対面である。別な可能性があるとすると、こちらが事実なのだが、人間の内的部分は、すでに外界を生きたことがあり、そこに結びつきができていなくてはならない。囚われなく見られる教育者なら、生徒の遺伝的資質には異質な事柄であっても、それを提示したときに、生徒がその成果を生じさせる際の作業をすでに経験していたかのように感じさせられることがあるのを知っている筈である。霊学研究では、死後から再受肉までの霊界の諸事実と関連して、輪廻転生を説いている。そしてこれだけが、現在の人生をあらゆる角度から考察する際の納得のいく説明を与えてくれる。ここで《現在の》人間と明示したが、それは以前の人間の霊的存在は現在とは違っていたからである。霊学では、人間が現在とは別の状態で存在し、地上生の循環が始まる以前までも探求している。次章では、人間存在をこの太古の状態まで遡り、地球進化との関連の中で人間存在が現在の状態を獲得した様子を霊学の成果として示す。人間の核心である霊的存在が超感覚的世界から身体的な外被に入り込む様子や、霊的因果法則である「人間の運命」が形成される様子がさらに正確に述べられている。哲学・思想ランキング
2022年11月22日
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第3章 眠りと死(31節/30)30 教育が可能という事実は霊的人間存在の証明 適切なイメージが内的な力を生み出す、という前述の証明は、論理的に公正に考えれば、直接の超感覚的観察には劣るにしろ、間違いなく最も確実な証明である。他の証明にしても、確かに重要ではあるが、そこには反論の隙がある。また、「人間は教育の可能性を内に持ち、また実際に教育される。」という事実そのものが、霊的人格が身体に受肉することの論理的証明であることは、真に、囚われなく見れば了解できるだろう。それぞれの動物に特有な特性や能力とは、誕生と共に遺伝によって方向づけられ、環境に応じて展開する。ヒヨコの生き方は誕生時から決定されている。それに対し人間では、遺伝ではない教育などで内面の営みを豊かにしうる可能性がある。内面の力が外からの働きかけに応じ、それを自分のものにする能力が人間にはあるし、それは教育者にとっては自明である。そうでなければ、あらゆる教育や修行は無意味である。見る目を持つ教育者には、遺伝的素質と、その素質を介して輝き出る前世に由来するあの内的な力との違いがわかる。こうした事柄では、天秤で計るような重みのある正当な証明はできない。しかし、重みがないがゆえに、まさに人間の営みの最も深い部分にかかわっているのである。これを感じ取れれば、この手では掴めない証拠の方が掴める現実よりも明確な証明であることがわかる。「動物も、調教、つまり教育によって能力を身につける。」という反論は、本質が見えれば無意味である。なぜなら、動物から人間への移行過程が随所で見られるにしろ、能力が個的本質と一体になる人間の場合と、動物における調教の成果とは別だからである。ダーウィンによれば、猟犬は教えられなくても、また見なくても、獲物をくわえて戻ってくるという。このように、家畜が人間との暮らしで身につけた能力は遺伝するが、これはその能力が個にではなく、種に影響することを示している。人間の教育では、これは不可能である。哲学・思想ランキング
2022年11月21日
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第3章 眠りと死(31節/29) 29 霊的事実の正しい認識には実効がある 自分で超感覚界を経験する意思はなくても真実に対する誠意を持つ人が「説明のつかない事柄を説明できるからと言って、それだけの理由ではその考えは受け入れられない。」と反論するかもしれないし、これは重要な反論である。もちろん超感覚的世界を経験していれば、こうした反論は無意味であるし、本書の後半では霊的諸事実や霊的因果法則を体験する道筋を示している。しかし、この道を歩む気のない人に対しては、上述の反論に丁寧に答えておくことは意味があるし、正しい理解は最上の出発点なので、修行の道を歩む決心した人にとっても価値はある。 説明のつかない事柄が超感覚的認識では説明できる、という理由だけでは、そうした認識を受け入れる根拠にはならないというのは正しい。しかし、霊的諸事実では事情が少し違う。その結果は、人生がより理解できるという単なる知的なものではなく、人生での体験そのものが変わるのである。非常に辛(つら)い体験に対しては二通りの対応があり得る。そのつらさを受けとめ、辛さに身を委ね、さらには苦しみに打ち沈んでしまうのが第一の可能性である。しかし、前世において私自身がこの辛い出来事と出会う力を作り出した、つまり、自分で自分にこの苦しみを与えたと考える第二の態度も可能である。そして、この考えをきわめて真剣にすべての力を総動員して体験し、そこで生じるあらゆる感情を実感と共に体験するのである。これをやり遂げた結果を比喩で表現しよう。誰かがエボナイト棒の「内的性質」を知的に説明する。その説明がどんなに上手でも、その「内的性質」を具体的に示さなければ、空論の誹(そし)りは免れない。別な人はエボナイト棒を布で擦り、それで紙片を吸い付ける。前者は考察を展開したが具体的な結果は伴っていない。後者では、考えを受け取り、隠れていた性質を事実として引き出している。 今生である出来事と出会う力とは、前世の行為の結果として、自らが自分に植え付けたものであるというイメージを持てる人の場合も同じである。このイメージが彼の中に実際に力を生み、それなしの場合とは事柄に対しまったく違った対応ができる。かつては偶然と見なしていた出来事に必然性を見出すのである。こうして、事実を解明する鍵となるこのイメージの正しさを認識する。こうした内的経過が源となり、魂に内的な力を与え、豊かな実りをもたらす。それがその正しさの証明にもなり、益々その力を発揮する。こうした内的経過によって人は、霊的にも、魂的にも、そして物質的にもより健全に、あらゆる面で人生を高めていく。そして人は、自分の人生に正しくかかわっていることを知る。視野が地上生だけに限られると人は誤りに陥るが、正しいイメージを持つと魂はより強められる。 もちろん、霊的な原因は、個々人の内面営みでしか証明できないにしろ、それは誰にでも可能である。証明ができないうちは、与えられる力について何もわからないが、証明できれば、その力への疑いや不審感は払拭される。なぜなら、人間の最奥の構成要素である人格にかかわる事柄は、当然ながら最奥の体験によってのみ証明され得るからである。 この問題は、人間の最奥の体験にかかわる、いわば個々人の問題であり、霊学が扱うべきではないという反論はあり得る。確かにこの問題は、数学の証明は各自が理解する必要があるのと同じで、各自が体験しなければならないが、証明への道筋が万人にあてはまる点は、数学もこの体験も同じなのである。記:イメージ(image) 語義 ギリシア語のエイコンeikōnやファンタスマphantasmaに対応するラテン語のイマゴimagoに由来し,もともとは視覚的にとらえられたものの「かたち」を意味し、転じて諸感覚によって捉えられたものの心的表象を意味するようになった。また,写真や版画のように心的表象の物質化されたもの、想像の産物、夢想、白昼夢のように新しくつくり出された心的表象をも指す。イメージは視覚イメージだけにとどまらず、聴覚イメージ、嗅覚イメージ、味覚イメージ、触覚イメージというものもあるが、中心をなすのは統合力のつよい二つの感覚に関した視覚イメージと聴覚イメージである。(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)哲学・思想ランキング
2022年11月20日
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第3章 眠りと死(31節/27-28)27 非論理的神秘学者の問題 さて、人生の諸原因を霊的なものに求める側にも混乱の種はある。霊的なことを曖昧に語り過ぎるのである。遺伝的特性が蓄積して人格が生じるという主張は、確かに部品がひとりでに集まって時計になるというのと同列である。しかし、多くの霊界擁護派は、部品がひとりでに集まるのでないのと同様、針の駆動力も霊的であるといった言い方をする。これよりも、時計の針の駆動には神秘的ものは不用で、そのメカニズムを知れば充分とする方がはるかに説得力を持つ。重要なのは、時計の背後に霊的存在(*時計職人)が存在する点ではなく、事前に時計職人の精神内にあり時計そのもので確認できる「時計という思考」を知る点なのである。28 霊学の認識が正しいと仮定すると 夢想的、乃至、空想的超感覚論は混乱の元凶で、「そのような空論は日常的事実の理解の助けにはならない」という反論に対抗することもでき得ない。そして、同じ反論は正当な霊学にも向けられる。それに対しては、原因が霊的で目に見えなくても、その結果は可視的な営みに顕現している点を指摘しておく。たとえば、次のように言える。魂は、死後の浄化を通過し、前世の特定の行為が人格の発展を妨げとなることを体験する。これは確たる霊的観察事項であるが、とりあえずはこれが正しいと仮定すると、この体験によって、その行為の結果を善きものに導きたい、という衝動が生れる。人はこの衝動を持って新しい人生に向かい、この衝動ゆえに、その改善を可能にする場に身を置こうとする。このような衝動全体を見れば、誕生に際した運命的な環境について、その原因がわかるはずである。 他の仮定についても同じである。前世の果実は死後の霊界で霊的萌芽になり、そこで熟し、新たな人生での素質や能力に変化するし、前世で獲得したもの結果となるような形で人格が形成されると仮定してみよう。 この仮定をもとに人生を囚われなく観察すると、この世での体験はすべて真実で有意義であると思えるだろう。また、霊界に目を向けるなら、感覚的諸事実だけでは判断しづらい事柄も理解できるようになる。「優れた人物は血統の最後に現れる、というのは素質の遺伝の証明である」といった非論理的な主張もなくなるだろう。霊学の超感覚的事実認識によって、人生を論理的に理解できるようになるのである。哲学・思想ランキング
2022年11月19日
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第3章 眠りと死(31節/26)26 家系と霊的人格の関係 神秘学的事実に対して曖昧な考えからは混乱が生じ得るし、第二の立場は「確かな事実」の敵であるという考え方は極めて最悪である。第二の立場は決して「確かな事実」を否定してはいない。精神的素質や傾向が家系内で遺伝し、ある子どもの中で特定の素質が統合され、偉大な人格を生む、という事実は了解している。偉大な人格が、血統の初期にはあまり現れず、しばしば最後に現れるという主張も完全に認める。けれども、そうした事実の解釈が、感覚的な事柄にしか信を置かない人たちとは違うのである。それゆえ第一の立場には次のように反論する。ある人に祖先の諸特徴が現れるのは確かである。しかし、その理由は、霊的魂的存在が地上に誕生するにあたり、遺伝から与えられた身体を借用するからである。その諸特性は霊的魂的存在のものではなく、それが受肉した媒体が持つものである。月並みな喩えではあるが、水に落ちて濡れても、「濡れた」という属性はその人物の内的本性とは無関係である。それと同様、祖先からの諸特性という性質は、その人物の人格的特質に由来するものではない。さらに、偉大な人格がしばしば血統の末期に現れるという事実を考えてみよう。これは、自分の人格発展のために必要な身体をその家系を利用して作り上げたとも言える。したがって、肉体的遺伝だけでは人格そのものの「遺伝」は説明できない。論理的に考えると、この事実からは正反対の結論が得られる。つまり、人格的資質が遺伝するとしたら、それは血族の初めに現れ、子孫へ遺伝する筈である。しかし実際にはそれが終りに現れるのだから、それが遺伝ではないことを証明している。哲学・思想ランキング
2022年11月18日
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第3章 眠りと死(31節/24-25)24 感覚的観察から誕生前の霊的原因を知るには 感覚的な観察では、死から再受肉までの経過は地上生での背景にある霊的経過に比べ見ることが困難である。感覚的観察によって霊的なものを見るには、結果としての物質への顕現を見るしかないので、この場合には、生前の霊界体験がどのように地上生に現れているかを見ることになる。物質的な力だけでは作り出しえない形態、たとえば死んだ蝸牛の殻にかつての命の働きを認めるのと同じである。今生に由来するとは考えにくい人生の何かが、超感覚的には解明されるとしたら、理性的な判断の元で、その超感覚的認識は正しいとされるだろう。この場合、可視的な結果を合理的に考察することで、不可視な原因を見つける。このように人生を囚われなく公正に考察すれば、新たな観察が蓄積される毎に、超感覚的認識の正しさを確信するはずである。人生で現れるさまざまな結果を考察する際には、正しい観点が重要である。たとえば、浄化の時の諸経過は人生にどのような結果として現れているだろうか。また、浄化の時を経て、純粋に霊的な領域で人間が獲得する体験の成果は、人生のどこに現れているだろうか。25 才能や境遇の差は何に由来するか 人生を深く真剣に考えると、どうしてもさまざまな疑問が生じる。貧困と悲惨な境遇に生まれ、才能も僅かで惨めな一生を送る定めの人がいる一方で、申し分のない環境に輝くような才能と共に生まれ、大切に育てられ、充実した満足のいく人生を送る人もいる。この事情には両極端の見方がある。第一は、知覚と感覚に依拠する知性とに留まる立場である。すべてを「偶然」と見なす極論ではないにしろ、人の幸不幸を疑問に感じることもなく、不平等の法則的関連などは想定すらしないし素質や才能は単に「遺伝」と考えている。第二は、特定の場所や環境で可視的な何かが生じるなら、たとえ原因究明が困難であっても、そこには必ず何らかの原因があると考える立場である。アルプスの花が低地では育たないのは、その花の本性がアルプスの何かと結びついているからである。それと同様に、ある人間が特定の環境に生まれるのは、そう仕向ける何かが存在するからだと考える。しかし、物質界だけではその原因は見つからず、将亦、説明もつかない。物質的原因だけしか想定しないのは、人に対する暴力という事実を、加害者の感情などは無視し、手の力学的運動だけを問題にしているのと同じである。 第二の立場では、素質や才能を「遺伝」だけで説明しようとはしない。しかし、特定の素質がある家系に受け継がれている事実から、遺伝の重要性を主張する人も多い。バッハ家には250年にわたって音楽的才能が受け継がれ、ベルヌーイ家からは8人の数学者が輩出した。中には子どもの頃には別の職業を定められていたにもかかわらず、「遺伝的」才能が数学者という仕事に導いたのである。才能が祖先を起源とする遺伝的素質の総和のように見える、という事実もある。 第二の立場でも、そうした遺伝的事実は否定しない。しかし、そうした事実の原因が感覚界にあるとは必ずしも考えない。時計の部品がひとりでに時計にはならないように、遺伝的素質もそれらがひとりでに人格に統合されることはないという立場である。それには反論もある。両親が時計職人の役割を果し、両親が素質を統合しているという立場である。しかし、両親にはまったくない、両親由来ではありえない性質をどの子も持っている事実は説明できない。哲学・思想ランキング
2022年11月17日
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第3章 眠りと死(31節/22-23)22 物質界で生じた霊的なものは霊界でも残る 人間は、霊界から物質界に働きかけるだけでなく、地上生にあっての物質界での活動を通して霊界に働きかけてもいる。その例を挙げよう。母子間の愛の絆は、まず感覚界の諸力を基盤とする結びつきから生じ、時と共にその絆から霊的な絆が生じてくる。この霊的な絆は、物質界のみならず、霊界でも保たれる。他の関係も同様で、物質界における霊的な営みの成果は、霊界でも存続する。この世で深く結ばれ合った友人たちは、霊界でも互いに親密な関係を保つ。そして身体を脱ぎ捨てた後は、物質界におけるよりも大いに深く結び付く。前述の通り、霊的存在は、他の霊的存在の内側から其の姿を現すが、霊となった友人同士も互に相手の内部から繋がりを表現する。そして、両者の絆は、次の人生においても両者を結びつける。したがって、死後は、言葉の真の意味で再会するのである。23 現在の人間存在形式の以前と以後 誕生、死、そして再誕生の経過は繰り返される。地上生で獲得した果実が霊界で成熟すると、人間は再び地上に戻ってくる。しかし、この繰り返しは始まりも終わりもないわけではない。かつて人間は幾つかの異なる存在形式を経て、現在の存在形式に至り、将来はまた別の存在形式へ移っていく。次節以降で超感覚的に見た宇宙進化を、人間との関連を述べる中で、それらの移行段階を展望する。哲学・思想ランキング
2022年11月16日
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第3章 眠りと死(31節/21)21 死者による霊界から地上への働きかけ 死から再受肉までに人間は、三つの体の新たな構成以外のことも行う。身体形成に際し人間が物質界を離れている間も、物質界は進化し続け、比較的短期間のうちにその容貌は変化し、数百年を経れば別世界になっているとすら云える。死後の人間が霊界にいる間に生じる地上界の変化には、霊界からの隠れた諸力も作用していて、そこには死後の人間自身の働きもある。ただし、人間は生命霊や霊人を生み出しうるほどには成熟しておらず、霊とその物質的表現との関連を意識できない状態なので、高次の霊的存在の指導の元でそれを行っている。死から再受肉の間の人間は、人間自身の内的進化に見合った状態に地球を造り変える。長い時を隔てた二つの時代では地上の様子はすっかり変化しているが、その違いは、死者たちの働きの結果である。物質的観察では、太陽光や気候変化などが地球を変化させるように見えるが、超感覚的観察では、太陽から植物に降り注ぐ光の中に、死者たちの作用が見える。また、人間の魂が植物の周囲を漂い地上を変化させている。死後の人間は、来るべき地上生活のために自分自身を準備するだけではなく、外界に対し霊的にも作用している。哲学・思想ランキング
2022年11月15日
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第3章 眠りと死(31節/20)20 次の受肉に向けて:前半部 霊的諸存在の協働 人間の地上における営みの果実は、今や霊界において萌芽となり、それにこれらの霊的諸存在が協働することで、人間が霊的存在として新たに作り上げられる。睡眠では、地上に留まる肉体とエーテル体から、アストラル体と自我がそれらとの結びつきを保ちつつも離れ、霊界から力を受けとり、覚醒時に消耗した諸力を再び活性化する。ところが死後には、肉体、エーテル体が離れ、さらには物質界の欲望にまみれたアストラル体部分が浄化によって離れる。すると、霊界から自我への働きは、再活性化にとどまらず、新たな形成作用にまで高まる。後述する特定の時期を経て、自我の周辺でアストラル体が新たに形成され、次の人生でのエーテル体と肉体を纏う準備をする。そして前世の果実を担った存在として、人間は再び地上に誕生する。こうしたアストラル体の新形成に人間は立ち合っている。地上での自我は魂の最奥から自己意識として現れたが、それと同様に霊的諸力も、外的諸器官は介さず内部から現れる。それゆえ、人間の目が外界を向くまではこの開示を知覚できる。しかしアストラル体の新形成の瞬間から、感覚は外へ向けられる。このときアストラル体は、再び外的エーテル体と肉体を求め始め、それによって内からの開示を見なくなる。そのため、この中間状態で人間は意識を失う。意識が再度目覚めるのは、物質的知覚のための器官が形成されたときである。内的知覚による意識が失われるこの時期、アストラル体は新たなエーテル体と結びつき始める。そして、再度、肉体に受肉しうるまでになる。進化した自我はエーテル体や肉体の隠された創造的諸力である生命霊と霊人を内から産み出しうるが、そこまで発達した自我なら、エーテル体や肉体との結びつきの際に意識を失うことなくそこに参与できる。しかし、現状の未熟な人間自我にそれはできないので、人間よりもはるかに進化した諸存在がこの結びつきを導かねばならない。そうした諸存在は、アストラル体を両親となる者のところへ導き、ふさわしいエーテル体と肉体を受け取らせる。20 次の受肉に向けて:後半部 次の人生で解決すべき障害の絵 人間が再び地上に生まれようとエーテル体と結びつくその前に、非常に重要なことが起きる。死後、人生の遡行の際に、人間は前世において成長を妨げる諸力を作り出したことが明らかになった。前述の例では、四十歳のときに、怒りから他人に苦痛を与えた。死後、この人物に与えた苦痛が、自己の自我進化を妨げる力となって向かってくる。前世のあらゆる出来事について、同じことが言える。さて、地上に再度生まれてくる際にも、この進化を妨げる働きが、自我の前に現れる。死後には一種の思い出の絵が自我の前に立ち現れたが、今度は、来るべき人生を予見する中で、自己進化のためにどうしても解決すべきすべての障害が示された絵を見る。そして、それこそが新しい人生に携えていくべき諸力の出発点になる。他者に与えた苦痛の像が、次の誕生に際して、この苦痛を償おうとする力を自我に与える。このようにして、以前の人生の諸行為が特定の仕方で新しい人生の諸行為を規定し、新たな人生に決定的な影響を与える。以前の人生と次の人生とにはこうした運命の法則があり、東洋の叡智ではそれを「カルマ」と表現する。哲学・思想ランキング
2022年11月14日
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第3章 眠りと死(31節/19)19 霊界諸領域 で浄化された人間が受け取るもの 死後の神智学の体系では、精神活動における感情を主に司る、身体の精妙なる部分であるアストラル体には二つの部分があった。生前からの物質界に向かった感覚界での欲望を持ち続け、死後の浄化によって自我から離れる部分と、浄化後も自我と結びつき続ける部分である。自我は、感覚界での営みで得た成果を死後の霊界に持ち込むが、この成果は後者のアストラル部分と結びついている。自我が霊界に成果を持ち込む事実は、肥沃な大地への種まきに準(なずら・なぞら)えられる。種子が周囲から栄養を取り込み新たな植物に生長するように、霊界に植えられた自我の本性も成長し、発展する。 ある器官が知覚するものの中には、その器官を形成する力が隠されている。眼は光を知覚するが、眼は光の力で形成された。闇に生きる生物には見るための器官は育たない。同様に、すべての器官は、それが知覚するものに隠された諸力によって形成された。肉体は物質界の諸力により、エーテル体は生命界の諸力により、そしてアストラル体はアストラル界の諸力によって形成される。自我が霊界に移ると、物質的には見えない諸力が自我に歩み寄る。霊界の第一領域では、地上的人間を絶えず包み囲み、肉体を形成してきた霊的諸本性が見える。人間が地上存在であるときは、肉体形成の元となるその霊的諸力そのものは見えず、その顕現しか見えなかった。しかし死後は、この形成的霊的諸力の中に生き、以前は見えなかったそれらの諸力の真の姿が見えるようになる。同様に第二領域では、エーテル体を形成する諸力の中に生き、第三領域では、アストラル体を構成する諸力が人間の中に流れ込む。霊界のより高次の諸領域においても、地上生を送る人間を作り上げてきた諸力が人間に流れ込む。哲学・思想ランキング
2022年11月13日
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第3章 眠りと死(31節/18) 18 霊界の第四・第五領域 霊界には物質界の熱や光に相当するものなども存在する。熱は地上のすべての事物や存在を貫くが、霊界ではそれに相応して、思考世界そのものがすべてを貫いている。その思考内容とは、独立し生きた存在であり、可視界で人間が受けとる思考内容とは、この霊界に生きる思考存在の影にすぎない。人間内の思考内容を人間から抜き出し、独自の内的活動を営む生きた存在と考えれば、霊界の第四領域を満たす諸存在を若干でも想像できる。地上生を送る人間が思考として知覚するものとは、霊界に生きる思考内容が身体器官を介して顕現したものである。物質世界を豊かにすべく考え出されたものの起源は、すべてこの霊界第四領域である。そうした物質界における思考内容とは、偉大な発明家や天才の着想だけとは限らない。誰でも外界から思考内容を取り出すだけでなく、外界を作りかえることを思いつく。外的印象によって喚起される感情などは第三領域に対応するが、環境に創造的・生産的に働きかけ、それを改変するための魂内での活動は、すべて第四領域に由来する。 第五領域は物質世界の光に相応する。それは叡智であり、本来の姿を開示する。地上に光を注ぐ太陽のように、周囲に叡智を注ぎ出す存在がこの領域に属する。この叡智に照らし出される存在は、みずからの真の意味と価値を霊界に対して示す。さらに高次の諸領域については後述する。哲学・思想ランキング
2022年11月12日
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第3章 眠りと死(31節/17)17 霊界の陸海空 感覚的物質界の陸地、水圏、大気圏に相当する三つの霊界領域が、超感覚的に現れる。第一は霊界の「陸地」であり、第二は「海と河川の領域」であり、第三は「大気圏」である。 地上の物質的存在、つまり肉体感覚器官で知覚できるものの霊的本性は、霊界の第一領域に見られる。たとえば、水晶のフォルム(*空間を形づくる要素の一つ。形態)を造り出す力が見える。しかし、その現れは感覚界の現象とは正反対である。岩石が占める感覚空間は霊眼では虚空間に見え、逆に岩石フォルムを生じさせる力はその霊的虚空間の周囲に現れる。石の色は、感覚界と霊界では反対色として体験される。赤い石は霊界から見ると緑であり、緑の石は赤く体験される。他の諸性質も正反対の現れ方をする。岩石や土壌が感覚界の陸地を成すように、上述の構成体は霊界の「陸地」を成している。 感覚界のすべての生命存在は霊界の海を成す。感覚的な眼には、植物、動物、人間の中に生命作用が見えるが、霊眼で見た生命は、霊界を浸透する海や河川のような流動する存在である。感覚界での海や河は不規則に分布するが、霊界における流動する生命は規則的に区分されており、血液循環に準(なぞら)える方がより適切だろう。この「流動する生命」は、同時に霊的音響としても知覚される。 霊界の第三領域は「大気圏」である。感覚界における知覚活動は、霊界においては知覚の奔流のようであり、物質界の大気と同様にすべてに浸透している。また、悩み、苦しみ、喜び、楽しみは、大気圏の風や嵐のように霊界を流れている。地上での戦闘場面では、身体を持った人間がぶつかり合うだけでなく、感情と感情、情熱と情熱もぶつかり合っている。戦場には人間の姿だけでなく、興奮、苦悩、勝利の喜びといった感情も存在し、それらの作用は感覚的に知覚可能なだけではなく、霊界における大気圏での嵐として存在している。さらにその知覚体験は、物質界における言葉の聴覚体験に似ている。大気が地上の諸存在を包み込み、吹き抜けていくように、「吹き抜ける霊言の響き」が霊界の諸存在や諸事象を貫いている。哲学・思想ランキング
2022年11月11日
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第3章 眠りと死(31節/16-四項)16 第一項 死後の霊界に至った自我にとっての外界 人間が死後通過するこの世界は、霊的に成り立ち、霊的にのみ充足しうる欲求を生じさせる世界である。しかし人間はまだ、自我に属するものと、自我にとっての周囲、言い換えれば自我の霊的外界を別のものと体験している。周囲からの流入体験が、受肉中の知覚を介した流入体験と同じようなのである。受肉中は周囲が身体器官を介し外から語りかけてきたが、すべての体から離れたこの新しい環境では、周囲の霊的な言葉が自我の「最奥の聖域」に直接語り込まれる。周囲全体が自我と同質で、自我に直接入り込むことのできる自我存在たちに充たされている。鉱物、植物、動物が感覚世界を成し、人間を取り巻く環境となっているように、死後の人間は、霊的諸存在から成る環境に取り巻かれている。16 第二項 死後の霊界に至った自我にとっての内界 それでも人間は、この霊的環境にはない、感覚世界内において自我が体験した事柄を持ち込む。まず死の直後は、まだエーテル体が自我に結びつき、感覚世界における自我の体験内容が包括的な記憶像として現れた。その後、エーテル体そのものは脱ぎ捨てられるが、記憶像の一部は、自我の不滅の所有物として残る。それは、「地上生」でのあらゆる体験の抽出物(エキス)であり、人生の霊的成果であり、霊的果実である。感覚を通して開示する霊的なものすべて、感覚界での営みがなければ生じえなかったすべてが、そこに含まれている。感覚界におけるこの霊的果実を、死後の自我は、自分の内界と感じる。16 第三項 地上生の成果は霊界で芽吹く こうして生前の自我が魂の最奥に開示するのと同じ仕方で開示する諸存在からなる世界に、死後の自我は果実を持って参入するのである。植物全体のエキスである種子は、大地という外界に抱かれ、その作用で成長するが、自我が感覚界から持ち込んだエキスは、この霊的環境に抱かれ、その作用で成長する。超感覚的学問は「霊界」の出来事を現像ではなく彫像・画像・映像・心像を含むイメージでしか語れないにしろ、ここでのイメージは超感覚的な現実を真に表現している。16 第四項 霊界で内から伝わる色彩・音・言葉 いかなる霊的事象も、ある意味では感覚界のそれと似ているので、感覚界との対比で霊界の現実を生き生きと捉えることができる。たとえば、感覚界の物体には色が伴うが、霊界諸存在による自我への作用にも色が伴う。この体験は、地上生での内なる自我知覚と似ている。霊的諸存在の光は、外からではなく、直接自我に働きかけ、そして自我はその作用を色彩像として体験する。したがって、自我を取り巻く霊的諸存在は、光り輝く色彩として、感覚的色彩とは異なり、自我内部から現れる。感覚界での他の知覚についても同様なことが言える。霊界の音は、感覚界の印象に最もよく似ている。霊界にさらに深く参入すると、霊界は内的に活動する生命として現れるが、その生命の在り方が、感覚界における音やハーモニーとよく似ているのである。とはいえ、霊界での生命は、外からの響きではなく、内なる自我を経由して世界に力強く流れ出る活動と感じられる。そして人間は、自分から流れ出るこれらの音が、他の霊的諸存在が自分を介して世界へ流れ出た音であることも知っている。「霊の国」で、霊的な音が「霊的言葉」に変ると、さらに高次のものが霊界に告知される。そのとき、他の霊的諸存在の活動する生命が自我を通して流れ出るだけでなく、その存在自身の内面が自我に伝えられる。自我が「霊的言葉」に貫かれるとき、二つの存在(死後の霊界に至った自我にとっての外界と内界)が互に浸透し合う。感覚界における二つの存在は、互いに区別されるが、ここでは一体なのである。死後の自我と霊的諸存在は、こうした形で共に存在し合っている。哲学・思想ランキング
2022年11月10日
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第3章 眠りと死(31節/15) 15 自我を低次の欲望に誘惑する存在 浄化の後、自我は、まったく新しい意識状態に入る。生前には、明るい意識を持つためには外界からの知覚内容が必要であったが、今度は、謂(い)わば意識の内部から世界が現れ出る。生前も、自我はこの世界に生きている。しかし、この世界は知覚内容という衣を纏(まと)っている。自我がすべての感覚知覚を消し、自らの「最奥の聖域」を知覚するときにのみ、通常は感覚というヴェールを纏ってしか現れないものが、真の姿で現れる。生前は、自我が魂の最奥で知覚されたように、死後の浄化の後では、内側から霊界がその真の姿を現す。本来この霊界の開示は、エーテル体を脱ぎ捨てるとただちに生じるが、外界に向いた欲望が暗雲となり、それを閉ざしていた。それはあたかも、「業火に焼き尽くされるべき」欲望から悪霊が生じ、それが影のように至福である霊的体験に入り込んでいるように見える。それどころか、この欲望は今や単なる影ではなく、実効ある存在である。このことは、自我が身体器官から離れ、霊界を知覚できるようになった瞬間に明らかになる。この実効ある存在は、かつての感覚的知覚像の歪曲物に見える。超感覚的に見た業火の世界は、苦痛すら生じさせる不気味な存在の世界、破壊癖に満ち、凄まじい悪への情熱に燃える魑魅魍魎の世界のようである。人間がこの世界に持ち込む欲望とは、あたかもこれらの魔物への養分である。動物界のある面を囚われなく見るなら、感覚知覚できないこの世界の情景も、それほど信じがたいとは思えなくなるだろう。恐ろしげに徘徊する狼は、霊眼の前には、欲望にまみれ、欲望によって行動する魂そのものとして開示する。それゆえ狼の外見は、受肉した欲望の姿と言える。たとえば狼が持つこの欲望が、目に見えない暴力として行使されたら、この不可視な存在を認めざるをえないだろう。さて、この業火にさらされる存在は超感覚的であるが、その作用は可視的にも現れていて、そこに自我が養分を与えると、自我を破壊する結果を招く。そうした作用は、本来は根拠ある楽しみであったものが、節度を失い、度を超すことで現れる。感覚知覚が自我にとっての適切な刺激であるのは、それが自我の本質に沿って受け取られているときだけである。動物の外的欲求は三つの体からの要求に沿って満たされる。自我が働く人間ではより高次の楽しみを求める。ところが自我が、自己存在の維持・促進ではない自己破壊的な満足を求めるとき、その要求はどこに由来するのだろうか。それは、三つの体にも、自我にも由来せず、高次の自我本性に接触できる不可視な存在であるに違いない。この存在は、自我を唆(そそのか)し、本来、感覚とは無縁だが、感覚界でのみ充足されうる欲望へと自我を駆り立てる。動物の欲望は感覚界で充足しうるが、霊的なものを感覚界に引き摺り下ろす、という動物の欲望よりはるかに悪質な欲望を養分とする存在がいる。其れゆえ、彼らの霊的形姿は、感覚界に対する欲望を具現している野獣よりもはるかに醜く悍(おぞ)ましい。彼らの破壊的な力は、あらゆる動物の破壊衝動をはるかに凌駕している。したがって、破壊的である動物界のさらに低次にあるこの存在世界にまで、超感覚的認識の光を拡げねばならない。哲学・思想ランキング
2022年11月09日
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第3章 眠りと死(31節/14)14 死後の人生遡行体験とアストラル体の離脱 死後のその先には、生前とはさらに異なった体験が待っている。浄化中の人間は、誕生から死までの経験を、もう一度、死の直前から幼児期まですべて逆向きに辿(たど)る。そこでは、自我の霊的本性に由来しないものすべてが、霊的に現れ、逆の立場で体験される。六十歳で死んだ人が、四十歳の時に激怒から相手に身体的、ないし精神的苦痛を与えたとしよう。その人は死後、人生を逆に遡(さかのぼ)り、四十歳に達するとこの事件を再度体験しなおす。然し乍ら、それは相手への攻撃による満足感ではなく、相手の受けた苦痛を体験する。上述のことから、外的物質界に由来する自我の欲望が、死後の経過で痛みとして体験される理由もわかる。実際、こうした欲望の満足は、相手を損なうだけでなく、自分自身をも損なっている。ただ生前、自我にはその害が見えない。しかし死後、自我は有害である欲望界全体を見る。そのとき自我は、欲望を「業火」で焼き尽くすために、そうした欲望を喚起したすべての人や事物に引き寄せられる。誕生時にまで時間をさかのぼったとき、その種の欲望はすべて「浄化の火」で焼き尽くされている。この時点で霊界への完全なる帰依を妨げるものはなくなる。人は新しい存在段階に入る。死後の人間は、肉体を脱ぎすて、さらにエーテル体も脱ぎすて、そして今、物質界的意識でしか存在しえないアストラル体部分が解消する。超感覚的に見ると、肉体、エーテル体、アストラル体の「三つの死体」が後に残っている。アストラル体を脱ぎ捨てるまでに要する時間は、生前の一生のほぼ三分の一である。霊学的考察からはその必然性がわかるが、それについては後述する。超感覚的に観察すると、周囲のいたる処に浄化を終えた、より高次の段階に至った人間が脱ぎ捨てたアストラル体の死体が絶えず生み出されている。物質的レベルにおいて、死者が脱ぎすてた肉体的死骸が生じ続けるのと同じである。哲学・思想ランキング
2022年11月08日
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第3章 眠りと死(31節/13)13 エーテル体分離後の死後の浄化 死後、まず生前の体験が記憶像として現れる。その後、アストラル体はエーテル体から離れ、単独で先に進む。このとき、生前アストラル体が肉体と結びついていた頃に身に着けたものが、すべてアストラル体内に残っている。自我は、身体的諸器官とのかかわり抜きで、霊我、生命霊、霊人を形成し、育て、それを維持する。さらに、まさに此の 自我こそは、外的器官なしで自己知覚ができ、また自分と一体になったものを維持できる。ここで、「睡眠中の自我は、なぜ発展した霊我、生命霊、霊人を知覚できないのか」、という問いが生じうる。そしてその答えは、地上「生体」では自我が肉体に拘束されているからである。睡眠中の自我は、アストラル体と共に肉体から離れるが、それでもアストラル体の活動が肉体を向いているので、肉体と密に結びついている。それゆえ自我も感覚界の知覚に向いていて、霊の直接的開示を受け取れない。自我が霊の直接的開示を見るのは、肉体・エーテル体から解放される死後である。魂は、生前に自らを束縛していた物質界から離れた瞬間に輝く別世界を見る。… ところで、この時点でも外的感覚界との結びつきがすべて解消したわけではなく、物質的欲望が残っている。この欲望は、自我を意識する人間自らが作り出している。低次の三構成要素に由来する欲望や願望は、外界でしか作用し得ず、この三体の消滅と共に消える。たとえば、肉体によって生じる空腹は、自我が肉体から離れればなくなる。自我が自らの霊的本性に由来する欲望しか持たず、他の欲望を持たなかったなら、死と同時に、新たな居場所である霊界だけですべてが充足される筈である。ところが自我は生存中に、肉体器官由来ではないが肉体器官によってしか充足され得ない別種の享楽を持つようになる。霊界には存在しえない享楽を、自我自身が物質界で満足させる。つまり、生涯を経る中で、自我は二種類の願望を持つ。第一は体に由来する願望で、体なしでは充足しえないが、体が崩壊すれば消滅する。第二は、自我の霊的本性に由来し、自我が体に宿っているときには体的諸器官を介して満たされる願望である。第二の願望が存在するのは、体的諸器官には隠れた霊的作用も開示し、感覚体験が同時に霊的体験でもあるからである。この霊的体験は、やや変形はするも死後も存続する。感覚がまったく消えた後でも、自我が感覚界で求めた霊的なものはすべて残る。ここで、自我が地上生において感覚世界で作り出した第三の願望が加わらなければ、死とは、感覚によって充足されうる欲望から、霊界の開示によって充足されうる欲望へ移行に過ぎなかった筈である。しかし、霊的開示を伴わない感覚界の事柄にも、自我は享楽を見出してしまうのである。… 最低次の楽しみ、たとえば空腹時の食事から受ける充足も霊的開示のひとつでありうる。食事によってのみ霊的に満たされるなら、食べることによって霊ははじめて進化できる。しかし自我は、栄養摂取による霊的充足以外の楽しみ、たとえば美食への欲求を持つこともあるし、同様な欲求は他の感覚的事柄でも生じる。その結果、自我が感覚界に巻き込まれなかったなら決して生じ得ない、しかも自我の霊的本質に由来しない願望が生じる。 自我は霊的であるにしろ、身体内で生きるがゆえに必然的に感覚的な楽しみを持つ。なぜなら、霊は感覚的なものに開示するからである。感覚界にあっても、自我が霊的な光に満たされたものだけを求めていれば、霊的なものを享受している。したがって、その霊的な光の仲介者である感覚物がなくなっても、自我はその霊的な光を享受できる。しかし、前述のような、感覚界にあって霊とは無縁の享楽は、霊界では満足されようがなく、死後はそれに浸る可能性は失われる。美食の楽しみは口や舌などがなければ生じ得ない。肉体がなくなるとこれらの器官は失われ、自我が求めるそうした享楽は満たされることがない。霊に相応しい楽しみも、身体器官がなければ満たされ得ない。霊に相応しくない、単なる享楽を自我が求めていると、その享楽は死後も願望として残り、その充足を激しく求める。そうした死者の様子は、水がまったくない砂漠で焼け付く喉の渇きに苦しむ様子に喩えることができる。これが、死後も外界の享楽を追い求め続けながら、それを満足させる器官を失った自我の様子である。当然ながら、死後の自我が経験する灼熱の渇望は、この世のどのような渇きより激しいものであり、また、この比喩は他の満たされえない享楽すべてに当てはまる。自我は次の段階で、外界へのこの執着を断ち切る。自我は自らの内でこの執着を浄化し、そこから離れなくてはいけない。身体内で自我によって生じた非霊的願望は、すべて消されなくてはならない。… 物体が火で焼き尽くされるように、上述の欲望は死後、解消され、破壊される。この時、超感覚的認識が「霊の業火」と呼ぶ世界に入っている。感覚的欲望が霊に相応しくない場合、「火(火炎・業火・劫火のいずれかにしろ)」に包まれる。この経過は無慈悲で恐ろしいものと思われるかも知れない。充足のために感覚器官を要する願望はすべて、死後には絶望に変わり、物質界でしか充足されない望みは、焼けるような渇望になるというのは確かに恐ろしく聞こえる。しかし、これら願望や欲望が高次の意味では望ましくなく、人生における破滅的力であることを理解すれば、その思いはなくなる。自我は感覚界から役立つものも受けとるが、この破壊的な力によって自我が必要以上に強く感覚界と結びついてしまうのである。自我が感覚界における霊的な開示を受け取ろうとしなければ、身体感覚を介して開示する霊性は受け取ることもできない。霊の声を聞かずに感覚界を求めてしまうがために、自我はこの世において真の霊的現実から遠ざかってしまう。感覚的享楽を霊の表現として受け取るなら、自我を高め進化させるが、そうでなければ自我を貧しくし、荒廃へと導く。それゆえ、感覚界でその種の欲望を充足させていると、自我荒廃化の作用は死後も残る。ただ、生きているうちはこの破壊的な働きが自我には見ること能わず、同じ欲望を繰り返し求めることで、自らを自分自身でますます深く「業火」に投げ込んでいることに気づかない。死後、生前に自分が投げ込まれた場の本質が明らかになり、それによってさらに、業火の後に救済と安らぎがもたらされることを知る。人を愛するときには、身体器官の感覚だけを介して惹きつけられているわけではないにしろ、身体的感覚は死後のは確実に失われる。しかし、身体器官をあるものを見るための手段としてだけ用いていたなら、死後にはそのあるものが見えてくる。その出現を妨げているのが、身体器官だけで満足されうる欲望である。この欲望が浄化されなければ、死後、愛する人を意識的に知覚することはできない。こう考えれば、超感覚的認識が伝える死後の体験に対する印象は、無慈悲で恐ろしいものから、深い満足感と慰めに満ちたものに変るだろう。哲学・思想ランキング
2022年11月07日
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第3章 眠りと死(31節/12)12 肉体離脱後のエーテル体・アストラル体 肉体を持つ間、外界はありのままの姿で意識に現れる。肉体離脱後、アストラル体は感覚器官を介した外界との結びつきから解放され、それ自身の体験を知覚できるようになるが、当面はエーテル体との結びつきのために、新しい体験はできない。アストラル体に残った過去の人生の記憶を、エーテル体が包括的で生き生きとした絵(タブロー・活人映し絵)に蘇らせる。生前の生活を眼前の一連の像として知覚することが、死後の最初の体験である。地上の「生(生身)」では、思い出すことができるのは、アストラル体が肉体と結びついた覚醒時だけであり、どれくらい思い出せるかは肉体によって決められていた。それでも、人生で受け取った印象は、すべて何ひとつ失われず魂内に残っている。もしも肉体器官が想起の道具として完全であれば、いつでもあらゆる経験を思い出せるはずである。その障害となっていた肉体は死と共になくなるし、エーテル体がしっかり結びついているので記憶も完全である。エーテル体は地上生において肉体と似たフォルムになっていて、そのエーテル体が肉体から離れれば離れるほど、記憶も消えていく。これは、しばらく後に起きる、アストラル体からのエーテル体離脱とも関連する。アストラル体は、エーテル体が肉体相応のフォルムを保っている間しかエーテル体と結びついていられない。… 地上の「生」においても、例外的にエーテル体が短時間、肉体から離れることがある。たとえば、身体の圧迫部位ではエーテル体の一部が肉体から離れることがあり、このとき人は「痺れ(しびれ)が切れた」と言う。その時の独特な感覚はエーテル体の分離が原因である。唯物論では、可視的なものにおける不可視的なものの顕現は否定するので、「痺れとは圧迫によって生じた物質的障害が原因である」と言うだろう。しかし、超感覚的観察では、実際に該当部のエーテル体が肉体から押し出される様子が見える。 極度の恐怖の場合も、ごく短時間、身体の多くの部分でそうしたエーテル体の分離が生じることがある。たとえば溺れそうになったり、山で転落しそうになったりして、突然、死を身近に感じる場合である。そうした体験者が「その瞬間、全生涯が大きな記憶像(タブロー・映し絵)として現れる」というのは、超感覚的に見れば真実である。ここでは、神秘学を擁護するはずなど絶対にない否定派の人物の例を挙げる。神秘学などナンセンスと考える人びとからであっても、神秘学者は多くを学びうる。彼らの無理解に苛立つ必要はない。当然ながら、超感覚的観察の真実性を証明するために彼らの言葉を必要とすることはない。説明のために必要なだけではあるが。優れた犯罪人類学者で、他の科学分野でも多くの業績をあげているモーリッツ・ベネディクトの回想録である。彼は風呂場で溺れそうになったとき、自分の全生涯が一つの記憶像として見えたという体験を語っている。… 似たような状況に陥っても、別人では表現が違ったり、過去の想起ではない体験を語っていたりしても、ベネディクトの言葉と矛盾しているわけではない。肉体からのエーテル体の異常分離で生じる像は、必ずしも人生との関係を表現するわけではないからである。しかし正しく考えれば、ここでの論理的関係は明らかだろう。たとえば、溺れかかった人が別な体験をしたとしても、それは反証ではない。上述の体験には、エーテル体が肉体から分離し、しかもエーテル体がアストラル体と結合している必要があるからである。この点は重要であり、恐怖の際にエーテル体がアストラル体とも離れてしまうと、この体験は生じない。このときは、夢なき眠りと同様、完全に意識を喪失する。哲学・思想ランキング
2022年11月06日
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第3章 眠りと死(31節/08-11)08 夢状態・熟睡状態でのアストラル体、感覚知覚による自我の意識 感覚の活動が止むと、覚醒時とは対極にある魂的状態に入り、何らかの創造的活動が活性化するが、これは夢なき眠りでも同様である。アストラル体は、夢なき眠りでは肉体・エーテル体から完全に離れ、夢状態では、感覚器官にかかわらないという意味で肉体からは離れているが、エーテル体とはまだ何らかの関係を保っている。エーテル体と結びついているので、アストラル体の諸経過が形象として知覚される。この結びつきが解けた瞬間、形象も無意識の闇に沈み、夢なき眠りに落ちる。夢の形象は制御できず、しばしば現実と矛盾するが、それはアストラル体が感覚器官から離れ、外界の成り行きと関連した形象を作れないからである。このことは、自己分裂的な夢では明らかである。たとえば、生徒である自分が先生の質問に答えられないでいると、先生自身が即座に解答してしまった、といった夢である。知覚器官が使えないために、二つの出来事を統一的自己ときちんと関係づけられない。つまり、自己を持続的自我として体験するために、人間は外的な知覚器官を必要とする。知覚器官に依存せずに自我体験できる能力を獲得すれば、肉体から離れても自我を意識できるだろう。超感覚的意識によってそうした能力を得られるが、その手段は後述する。09 死について 死も、構成要素の相互関係の変化である。死の超感覚的な経過も感覚界に顕現しているので、囚われなく判断すれば、死についての超感覚的認識も可視界で確認できる。しかし、死の経過では、不可視的なものが明確には可視化されていないので、可視的経過を頼りに超感覚的認識を知るのはさらに難しい。感覚界における超感覚界の顕現を認めないなら、睡眠以上に、死についての記述は絵空事に過ぎないだろう。10 死ではエーテル体が肉体から離れる 眠りでは、アストラル体は肉体・エーテル体から離れるにしろ、エーテル体と肉体は結びついている。死ではエーテル体も肉体から離れ、肉体は自らが持つ物質的な作用力によって死体となって崩壊する。しかしエーテル体は、後述する例外的状態は除き、死と同時に、生前にはあり得なかった状態、つまり肉体なしでアストラル体と結びつく状態に置かれる。死後しばらくは、エーテル体とアストラル体がある力によって結びついている。その力が存在しなければ、エーテル体は、しっかり結びついた肉体から離れられないはずなので、その存在は明らかだろう。また、睡眠中の状態を見れば明らかなように、エーテル体と肉体は、アストラル体・エーテル体間の力だけでは切り離せないくらい強く結びついている。このアストラル体・エーテル体間の力は、死をもってその作用を表し、エーテル体をアストラル体と結びついたまま肉体から切り離す。超感覚的に観察すると、このアストラル体とエーテル体の結びつきは、個人差はあるにしろ、死後数日間続くが、その長さについてはここでは詳述しない。… その後アストラル体はエーテル体から離れ、単体で先に進む。両者が結びついている間、人間は自分のアストラル体の体験を知覚できる状態にある。肉体が生きている間、アストラル体は肉体から離れると、日中の活動で消耗した諸器官に活力を与えるために外から作用する。肉体がなくなればこの働きもなくなるが、その睡眠中の作用は死後も残り、アストラル体自身の体験を知覚可能にする。11 認識上のコメント これらはすべて超感覚的直観能力を持つ者にだけ関係し、自分で見えない者は検証すらできない、と考えるのは間違っている。高次な超感覚的認識であっても、一旦発見されれば、可視界に顕現した諸関連を通常の判断力で正しく捉えれば理解できる。しかし、見える結果を見えぬものの顕現と見なければ、思考、感情、意志の領域でそれぞれに外界を体験するにしろ、これは理解できない。逆にそう見れば、通常の判断力で理解できる。超感覚的認識を参考にせずに顕現した結果を捉えようとしても、それは暗闇に居るのと同じである。光によって初めて周りの物体が見えるのと同様に、超感覚的認識によって初めて人間の魂にかかわる営みが解明されうる。記:現代の認証物理科学は今までは、理論的には明らかとはされるものの、人間には見得ざるものとされていた存在を科学技術の飛躍的発展により我々の眼前に機器を駆使して披露してみせます。ところが然り、我々が認識・認証できる宇宙構成物質は僅か5%、光子・重力を応用した先端観測技術をもってしても、今は闇の見ること能わずの実証・推論理論世界のダークマター・ダークエネルギーに注目が向かっています。見ることが得ざる世界、此の問題を解くのは物理科学・神秘科学・宗教科学の何れであれ解答を期待します。哲学・思想ランキング
2022年11月05日
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第3章 眠りと死(31節/07)07 夢について 覚醒と睡眠の中間に夢がある。夢では、覚醒時の秩序ある感覚知覚や判断などの意識法則はなく、とりあえずは多様な形象が無秩序に現れては消えるが、そこにはある種の法則も潜んでいる。それでも、不思議な法則があって、素晴らしい予感を与えてくれるので、芸術的感覚の基盤にある自由な想像力の飛翔を「夢」に準えることも多い。 特徴的な夢の例:夢の中で、飛びかかってくる犬を追い払ったが、そのときには、自分を不自然に圧迫する掛け布団を無意識にはねのけていた。 このとき、夢の中では何が感覚知覚的経過から作り出されただろうか。覚醒時に知覚できる事柄も、睡眠時にはとりあえずはまったく意識されない。しかし、「何かから身を守ろうとする」という本質的事実は存在する。この事実を元に、一連の形象が織りなされる。覚醒時の営みからの余韻である形象は、コントロールして作り出すことはできない。誰もが同じに感じる外的刺激が元になっても、夢ではまったく違った形象が紡ぎ出される。それでもそこには、身を守るという感情が象徴的に表現されている。 体内経過が夢の中で象徴に変わる例:近くで炎が燃えさかる夢から目覚めると、布団が多すぎて暑かったとわかる。暑いという感情が象徴的に炎という形象で表現されている。 劇的な夢の例:崖の上の子どもが走り出し、私は「崖だ!落ちるな!」と気を揉む。ところが、その子は落下し、下方から物がぶつかる鈍い音が聞こえる。目覚めてみると、壁の額が落ちて鈍い音をたてたことがわかる。このように、単純な出来事が緊迫した情景に変わる夢もある。… 最後の例で、瞬間的な音が、時間の経過を伴う一連の出来事に変った理由は、今のところ考えない。ここでは、覚醒時には感覚的知覚されるものが、夢では形象に変わる点に着目したい。哲学・思想ランキング
2022年11月04日
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第3章 眠りと死(31節/04-06)04 肉体は物質界に支えられている 肉体は自分と同質の養分を摂取するが、アストラル体も同様である。外界から隔離されれば、肉体は直ちに崩壊する。肉体存続のためには、地球だけでなく宇宙全体が現状の姿で存在していなくてはならない。この関係は、手から切り離されたら指が存続できない事情と似ている。肉体も、それが属する世界から隔離されれば崩壊する。05 アストラル体がエーテル体に与える身体の手本 アストラル体はアストラル界に属する。ただ覚醒時には、アストラル体はアストラル界から離れている。これは、容器内で一体となった水と、スポンジに吸い込まれた一滴の独立した水の関係に準えることができる。睡眠中、アストラル体は自分と同質のアストラル界にいるが、覚醒とともに肉体・エーテル体に取り込まれる。アストラル体は、外界知覚に当たって肉体・エーテル体から感覚諸器官を提供され、それと同時にアストラル界から切り離される。こうしてエーテル体に手本を与えることができなくなる。… 肉体が周囲から養分を受け取るように、睡眠中のアストラル体はアストラル界から形象を受け取る。睡眠中、アストラル体は肉体・エーテル体から離れ、人類全体の母体である宇宙の中に生き、人間形姿の源泉となる形象を受け取る。この宇宙とアストラル体が調和するのである。覚醒時、アストラル体は外界知覚のためにこの調和から離れ、睡眠時、宇宙調和に戻る。覚醒に際し、宇宙調和に由来する力を肉体・エーテル体・アストラル体内に流し込み、しばらくそこから離れていられるようにする。アストラル体は、睡眠中、故郷に帰り、覚醒に際し新たに強められた力を生命内に持ち込み、それが目覚めの際の爽快感として現れる。人間は、物質存在としては地球の一部分にすぎないが、アストラル存在としては地球以外の天体を含む宇宙全体というはるかに広大な故郷に属している。睡眠中のアストラル体は地上とは違う宇宙に在る。06 物質科学は間違っていないが視点が不足 ここで一つ補足しておく。唯物論的科学では、睡眠の原因に諸説はあるものの、それを身体の物質的な経過と考える点はどれも同じで、純粋に物質的条件を研究することだけが科学的であると誤解している。これを建築に喩えれば、それを物質的に見て、それをレンガの積み重ねと見なし、完成した家の形態や構造を純粋に物理的法則で説明することに相当する。またその説明は超感覚的認識から見ても正当である。しかし建築には、物質法則ではない、建築家の設計思想が不可欠である。建築において、力学法則の背景に建築家の設計思想があるように、物事の物理学的説明の背景には超感覚的事実がある。この比喩はありきたりに思われる可能性はあるが、それが示す事柄は重要である。それを感じ取れないのは、物質主義で判断が曇っているからだろう。(*魂の建築家アントニ・ガウディ)哲学・思想ランキング
2022年11月03日
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第3章 眠りと死(31節/02-03)02 睡眠中のアストラル体は超感覚的に認識される 睡眠中、人間の諸構成要素の関係は変る。横たわっているのは肉体とエーテル体であり、アストラル体と自我はそこには居ない。肉体は、単体になると瞬時に壊れ始めるが、睡眠中もエーテル体のおかげで生命を維持している。しかし睡眠中には、思考、快や苦、喜怒哀楽、意識的意志行為などは消えている。それでも、これらの担い手であるアストラル体が、睡眠中に消滅しているとは考えられない。存在形態を変えているだけである。快や苦などのすべての担い手は、自我とアストラル体であり、またそれが意識されるためにはアストラル体がエーテル体や肉体と結びついていなくてはならない。肉体・エーテル体と結びついているか否かでアストラル体の在り方は違う。この在り方の違いは超感覚的認識によって観察される。外的観察では見えない睡眠中のアストラル体を、超感覚的には再び肉体とエーテル体に戻るまで観察できるのである。隠された諸事象の認識では常にそうであるが、睡眠状態の実情も超感覚的観察でなくてはわからない。こうした観察の内容は、囚われなく考えればすぐに理解できる。不可視界からの作用は、可視界に顕れるからである。超感覚的観察が感覚界の諸経過を説明できれば、地上の人生そのものが超感覚界の証明になる。超感覚的認識のための修行は望まぬとも、超感覚的認識からの報告を自らの経験に照らして検討することはできる。それによって、人生をよりよく見通し、よりよく理解し、より深く考察できるようになる。03 睡眠中のアストラル体の活動 睡眠中のアストラル体は、意識もなく、快や苦も経験していないが、休眠しているわけではなく、むしろより活発に活動している。アストラル体とその中の自我は、覚醒中、肉体・エーテル体内で活動し、睡眠時にはそこから離れて魂的及び霊的環境内で活動する。この自我・アストラル体が肉体・エーテル体から離れた状態では意識がなく、結びついた状態では意識が覚醒し、これを対極として振れ動いている。この意識喪失が必要になると疲れを感じる。肉体・エーテル体は、霊的魂的なものが離れると生命的・無意識的・形成活動を行い、次の覚醒を準備する。アストラル体や自我がそこに向かうときに疲労感が生じるのである。そして「無意識での生命活動」と「意識や意識的活動」を対極として規則的な交代が必要なのである。… 人体形姿を維持できるのは人間的エーテル体だけであるが、人体形姿維持力はアストラル体から受け取っている。エーテル体は、アストラル体から形成への刺激や、肉体形成に必要な手本を受け取って、いわば建築職人として肉体を正しく形成している。しかし、覚醒時のアストラル体は、魂が活動することで得られる像によって満たされているので、不完全な人体形姿の手本しか供給できない。外界の知覚から作り出される外界の模像は、とりあえずは肉体維持に必要な形象を妨害する。もしもアストラル体内でエーテル体のための形象を生むことができれば、そうした妨害はなくなるだろう。しかし、人間にとっては、まさにこの妨害が重要な意味を持つ。それが妨害であることは、覚醒時にはエーテル体のための手本が十分な力を発揮しないことを見ればわかる。アストラル体は、覚醒中は肉体内で活動し、睡眠中は肉体外から作用する。(*注:疲労の本質については、本書の巻末に附された「霊学で用いられる諸概念を参照」のこと)哲学・思想ランキング
2022年11月02日
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第3章 眠りと死(31節/01)01 可視界認識から不可視界認識への拡張 覚醒意識の本質は睡眠の考察、命の本質は死の考察から洞察できる。超感覚的認識の意義を知らなければ、睡眠や死の考察は当然ながら不可解な筈である。人生にとっては覚醒時の活動が重要で、生きていなければ創造もできないのだから、睡眠や死は無意味だし、それについての勝手な妄言は虚しいという意見は理解できる。健全な魂は「幻想」は受け入れられないし、無意味な夢想にふける人々は「真の創造行為」とは無縁で、活力や人生の喜びに乏しい人々だというのである。しかし、この判断を安易に不当と決めつけるのは正しくない。この判断は一定の真実を含んでいる。たとえその真実が四分の一に過ぎず、四分の三が補われる必要があるにしろ、この正しい四分の一を否定してしまったら、この四分の一を金科玉条とする人びとは残りの四分の三には気づかず納得もしないだろう。… 眠りや死の秘密を考察が、生活活力の弱体化や厭世化につながるなら、不健全なものと思われても当然だし、古来のいわゆる神秘学は実際その通りで不健全であった。しかし、以下に示す真の超感覚的認識そのものが不健全な訳ではない。睡眠中は意識を失うが、その睡眠が人間には不可欠であるように、通常は意識されない超感覚的な事柄が実生活においても不可欠なのである。睡眠中も人間の命は継続していて、眠りから活力を汲み取り、覚醒時の営みを維持している。意識化できる事柄だけを見ても、これは理解できる。しかし、可視界での認識を不可視界の認識で補完すべき事柄は他にも多くある。死についても同様である。新しい生命の発生のために、生命は死ぬのである。「自然は、多くの生を得るために、死を作り出した」というゲーテの言葉は超感覚的な認識によって初めて理解しうる。一般に、死のない生が存在しえないように、超感覚的洞察のない可視界認識も存在しえない。ただ、可視界を認識するには、繰り返し不可視界に入り込み、認識能力を発展させる必要がある。この学問は、真の在り方であれば、生命力を弱めることはなく、むしろその力を強め、それが消耗し弱まるたびに力を与えてくれる。記:地球上のあらゆる生命、生命体の定義では物議を醸すウィルスを含め、生態系で眠りと死を全てが持つわけではありません。生態系が高度に進化するほど「眠りと死」が生命活動に顕著になります。なに故か。シュタイナーの神秘学に興味がある所以です。哲学・思想ランキング
2022年11月01日
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