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神の存否-456 記:本能と欲望と欲求の違い 欲求には「生理的欲求」と「精神的欲求」があり、本能というのは「生理的欲求を発生する機能」であり、それを「精神的欲求に変換する機能」が情動ととされます。そして欲望とは情動を通して「精神的欲求が生み出す感情」です。其の大いさは人間精神の感情に付随するものであり、夫々その人間の精神的欲求の不足に比例します。スピノザは理性を感情を超越した異相のものとは定義せず精神感情の一形態と捉えています。スピノザの理性の概念は、アリストテレスの徳論の中心概念、理性によって欲望と行動を統制し、過大と過小との両極端の正しい中間に身をおく中庸を意識しているのかも知れません。 定理六一 理性から生ずる欲望は過度になることができない。 証明 欲望は、一般的に見れば、人間の本質が何らかの仕方であることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである(感情の定義一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。により)。ゆえに理性から生ずる欲望、言いかえれば(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)働きをなす限りにおいて我々の中に生ずる欲望は、人間の本質が単に人間の本質のみから妥当に考えられる事柄をなすように決定されると考えられる限りにおいて人間の本質ないし本性そのものである(第三部定義二我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば、我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「受動」と言う。により)。だから、もしこういう欲望が過度になりうるとしたら、それ自体で見られた人間本性が自己自身を超脱しうることになるであろう。すなわち人間本性がその能力にあることよりももっと多くのことをなしうることになるであろう。これは明白な矛盾である。したがってこういう欲望は過度になることができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年06月30日
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神の存否-455 定理六〇 身体のすべての部分にでなくその一部分あるいは若干部分にのみ関係する喜びあるいは悲しみから生ずる欲望は人間全体の利益を顧慮しない。 証明 例えば身体のAという部分がある外部の原因の力によって強められて他の諸部分より優勢になると仮定すると(この部第四部定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。により)、この部分は、それだからといって、身体のその他の部分にその機能を果させるために自分の力を失おうと努めるようなことはしないであろう。何故なら、そうしたことをするには、その部分は自己の力を失う力、乃至、能力を持たなければならぬであろうが、そうしたことは(第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)不条理だからである。ゆえにその部分、したがって(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。及び、第三部定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。により)精神もまた、その状態を維持することに努めるであろう。このゆえに、そうした喜びの感情から生ずる欲望は全体を顧慮しない。また反対に、Aという部分の働きが阻害されて他の部分がそれより優勢になる場合を仮定すれば、こういう悲しみから生ずる欲望もまた全体を顧慮しないということが同じ仕方で証明される。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 ところで喜びは大抵身体の一部分のみに関係するのだから(この部第四部の定理四四の備考抜粋: 人間がただ一つの対象から強く刺激されて、その結果それが現在していない場合にもそれを自分の前にあるように信ずるのを我々はしばしば見かける。により)、この故に、我々は多くの場合、我々の有の推持を欲しながら全身の健康を顧慮していないことになる。これに加えて我々を最も強く拘束する諸欲望は(この部第四部の定理九の系 未来あるいは過去の物の表象像、言いかえれば現在のことは度外視して未来あるいは過去の時に関連させて観想する物の表象像は、その他の事情が等しければ、現在の物の表象像よりも弱い。したがって未来あるいは過去の物に対する感情は、その他の事情が等しければ、現在の物に対する感情よりも弱い。により)現在のみを顧慮して未来を考慮しないのである。 (悲観・楽観主義≒ニーチェ)哲学・思想ランキング
2022年06月29日
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神の存否-454 定理五九(我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によって決定されることができる。)の別の証明 別の証明 おのおのの活動は、我々が憎しみその他の悪しき感情に刺激されたという事実から発する限りにおいて悪と言われる(この部第四部の定理四五の系一 ねたみ、嘲弄、軽蔑、怒り、復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情は、悪である。このことは第三部定理三九およびこの部の定理三七からも明らかである。を見よ)。しかしそれ自体だけで見れば(*鑑みれば)いかなる活動も善でも悪でもない(この部第四部の序言 抜粋: 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。で示したように)。寧ろ、同表動(*同じ表現行為)が時には善であり時には悪である。ゆえに現充着(*精神的不満足の現実的充足)であるような活動、すなわちある悪しき感情から生じている活動、その同じ活動へ我々は理性によって導かれることができる(この部第四部の定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 このことは例を挙げることによっていっそう明瞭に説明される。すなわち殴打という行動は、我々がこれを物理的に見て、人間が腕を上げ、拳を固め、力をこめて全腕を振り下すということのみを眼中に置く限り、人間身体の機構から考えられる一個の徳である。そこでもしある人間が怒りもしくは憎しみから挙を固め、あるいは腕を振り下すように決定されるとしたら、そうしたことは、我々が第二部で示したように、同一の行動がありとあらゆる物の表象像と結合されうるがゆえに起こるのである。したがって我々は混乱して認識する物の表象像によっても、また明瞭判然と認識する物の表象像によっても、同一の行動へ決定されうるのである。だからもし人間が理性によって導かれうるとしたら、受動という感情から生ずるすべての欲望はまったく無用であることは明白である。今や我々は受動という感情から生ずる欲望がなぜ我々によって盲目的と呼ばれるかの理由を見ることにしよう。 記:家庭内の躾や、教育における躾にてなされる行為は、現代では殴打は全く評価されないことに注意。柳生十兵衛の片目の失明(父である宗矩の行為は現代ではどのように評価されるでしょうか。) 注:十兵衛が隻眼を恨み、怒りに震えたという文献は見かけません。哲学・思想ランキング
2022年06月28日
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神の存否-453 定理五九 我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によって決定されることができる。 証明 理性に従って働くとは(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。及び、第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(第三部前定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。により)、我々の本性、単にそれ自体で観られた我々の本性、の必然性に由来する活動をなすことにほかならない。 ところでまず悲しみはこの活動能力を減少しあるいは阻害する限りにおいて悪なのである(この部の定理四一により)。ゆえに我々は悲しみの感情からは、理性によって導かれる場合になしえないようないかなる活動へも決定されることができない。 次に喜びは人間の活動能力を妨げる限りにおいて悪である(この部第四部の定理四一 喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。及び、第四部の定理四三 快感は過度になりうるしまた悪でありうる。しかし苦痛は快感あるいは喜びが悪である限りにおいて善でありうる。により)。したがって我々はそうした喜びからもまた、理性によって導かれる場合になしえないようないかなる活動へも決定されることができない。 最後に、善である限りにおける喜びは理性と一致する(なぜならそれは人間の活動能力が増大されあるいは促進される点に存するのだから)。そしてこういう喜びは人間が自己および自己の活動を妥当に認識するに足るまでに人間の活動能力を増大しえない限りにおいてのみ受動なのである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。及び、その備考受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえないことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにある。により)。ゆえにもし喜びを感じている人間が自己および自己の活動を妥当に認識するほどの完全性にまで達しえたとしたら、彼は、いま受動という感情によって決定されるのと同一の活動をなすことができるであろう。否いっそう多くできるであろう。 ところがすべての感情は喜び、悲しみあるいは欲望に還元されるのであり(感情の定義四の説明 要旨:喜び、悲しみ、欲望の三つの根本的感情の認識を見よ)、そして欲望は(感情の定義一により)活動をなそうとする努力そのものにほかならない。このゆえに我々は、受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも単に理性のみによって導かれることができる。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年06月27日
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神の存否-452 定理五八 名誉は理性に矛盾せず、理性から生ずることができる。 証明 (第三部付録)感情の諸定義三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。及び、端正の定義(*後述)から明らかである。端正の定義についてはこの部の定理三七の備考一(抜粋:神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。しかし我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。次に理性の導きに従って生活する人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導きに従って生活する人々が賞讃するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げとなるようなことを非礼と呼ぶ。)を見よ。 備考 いわゆる虚名(*虚しき名誉)とは単に民衆の意見によってはぐくまれる自己満足であって、この意見が終熄(しゅうそく)すれば満足そのもの、言いかえれば(この部第四部の定理五二の備考 まことに自己満足は我々の望みうる最高のものである。なぜなら自己の有を維持しようと努めはしない。において我々が示したように、何びとも自己の有を何らかの他の目的のために維持しようとは努めないからである。そしてこの満足は賞讃によってますます養われ強められ、第三部定理五三の系 この喜びびは人間がより多く他人から賞讃されることを表象するに従ってますます強められる。なぜなら彼がより多く他人から賞讃されることを表象するに従って、彼は他人が彼からそれだけ大なる喜びに、しかも彼自身の観念を伴った喜びに刺激されることを表象する。したがって彼自身は彼自身の観念を伴ったそれだけ大なる喜びに刺激される。また反対に、第三部定理五五の系 何びとも自分と同等でない者をその徳のゆえにねたみはしない。により)非難によってますますかき乱されるから、このゆえに我々は、名誉に最も多く支配され、そして恥辱の生活はほとんど耐えることができないのである。により)各人の愛する最高の善も終熄する。それで、民衆の意見の裡に名誉を求める者は、名声を維持するために日日心配と不安の中に努力し、行動し、企てることになる。実に民衆は移り気で無定見であって、名声はうまく維持しなければたちまち消失するからである。のみならずすべての人間が民衆の喝采を博そうと欲するがゆえに、各人は好んで他人の名声を阻止する。そこで、最高と評価される善を得ようと争うのであるから、あらゆる方法で仲間を圧倒しようとする激しい情熱が生ずる。そして最後に勝利者となる者は、自己を益したことによりも他人を害したことにより多く名誉を見いだす。このようにしてこの名誉ないし満足は何の満足でもないのだから、実は空虚なものなのである。 (民衆、名誉) 恥辱について注意すべきことは同情および後悔について述べたことから容易に推知される。ただここに付け加えたいのは、恥辱もまた、憐情と同様に、徳ではないけれども、それは、恥辱を感ずる人間には端正な生活を営もうとする欲望が存している証拠である限りにおいて善であるということである。あたかも苦痛が身体の損傷部分のまだ腐敗しない証拠である限りにおいて善と言われるのと同様に。ゆえにある行為を恥じる人間は実際は悲しみを感ずるけれども、端正な生活を営もうとする欲望を有しない無恥の人よりも完全なのである。 以上が喜びおよび悲しみの感情について私の注意しようと思ったことである。ところで欲望に関して言えば、それはたしかに善き感情あるいは悪しき感情から生ずるに従って善きものあるいは悪しきものである。しかし欲望は受動という感情から我々の中に生ずる限り実はすべて盲目的である(この部第四部の定理四四の備考 要旨:食欲、名誉欲、情欲などは、一般には〔精神〕病に数えられていないにしても、実際はやはり狂気の一種である。で述べたことから容易に推知されるように)。そしてもし人間が単に理性の指図のみに従って生活するようにたやすく導かれうるとしたら、そうした欲望はまったく無用なものであろう。私が次に簡単に示すだろうように。 記:本能的な食欲、名誉欲、情欲は誰しもがあるもので、無ければかえって異常であろう。但し、これが精神を超常的に満たせば狂気と目せることが出来るかもしれない。私的には名誉欲は日本思想史では、寧ろ、称賛されるべきものとされ、武士の報恩報禄への倫理の根幹を成します。哲学・思想ランキング
2022年06月26日
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神の存否-451 前記:「高慢」と「傲慢」の違いは行動にある「高慢」と似た言葉に「傲慢(ごうまん)」があります。「傲慢」とは「おごりたかぶり、相手を見下す態度であること」を意味する言葉です。「高慢」と「傲慢」は「おごりたかぶり、相手を見下す」という意味が共通していますが、二つの違いは行動にあります。「高慢」は自分が優れていると思いあがり相手を見下しますが、それをあからさまな態度で示すことはありません。一方で「傲慢」は相手を見下すことに加えて、自分本位に行動することを表します。相手を見下した後の行動によって、「傲慢」は社会生活上はより危険度が高く、「高慢」と「傲慢」を使い分けましょう。 定理五七 高慢な人間は追従の徒あるいは阿訣(あゆ)の徒の現在することを愛し、反対に寛仁の人の現在することを憎む。(*参照:阿訣の徒・阿諛追従(あゆついしょう)の徒 「阿」は「おもねる」、「諛」は「へつらう」。「追従」も機嫌を取ることで、つまり「阿諛追従」は、上位者にへつらうことを硬く言った表現です。 <コトバンク>) 証明 高慢は人間が自己について正当以上に感ずることから生ずる喜びである(感情の定義二八および六により)。この謬見を高慢な人間はできるだけはやくむことに努めるであろう(第三部定理一三の備考を見よ)。したがって彼らは追従の徒あるいは阿訣の徒(これらについての定義は略した。それはきわめて明白だから)の現在することを愛するであろう。そして彼らをその正当の価値において判断する寛仁の人の現在することを忌避するであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった 備考 ここで高慢の弊害のすべてを列挙するとしたらあまりに長くなるであろう。なぜなら高慢な人間はあらゆる感情に支配され、ただ愛および同情の感情から最も縁遠いだけだからである。 しかしここに言わずにいられないのは、他人について正当以下に感ずる者もまた高慢と呼ばれるということである。したがってこの意味において高慢は、人間が自己を他の人々よりすぐれていると思う謬見から生ずる喜びであると定義される。そしてこの高慢の反対である自卑は、人間が自己を他の人々よりも劣ると信ずる謬見から生ずる悲しみとして定義されるであろう。このことが明らかにされた上は、高慢な人間が必然的に妬み(ねたみ)深いこと(第三部定理五五の備考 要項:人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。を見よ)、そして彼は、徳について最も多く賞讃されるような人々を最も多く憎み、これらの人々に対する彼の憎しみは愛や親切によって容易に征服されないこと(第三部定理四一の備考 憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。を見よ)、また彼の無能な精神に迎合して彼を愚者から狂者たらしめるような人々の現在することのみを彼は喜ぶこと、そうしたことを我々は容易に了解しうるのである。 自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間にもっとも近い。実際彼の悲しみは自己の無能力を他の人々の能力ないし徳に照して判断することから生ずるのであるから、彼の表象力が他人の欠点の観想に専心する時に彼の悲しみは軽減するであろう。言いかえれば彼は喜びを感ずるであろう。「不幸な者にとっては不幸な仲間を持ったことが慰安である」というあの諺はここから来ている。反対に彼は自分が他の人々に劣ると信ずれば信ずるだけますます多く悲しみを感ずるであろう。この結果として、自卑者ほど多くねたみに傾く者はないこと、彼らは是正してやるためによりも、とがめだてをするために熱心に人々の行為を観察することに努めること、最後にまた彼らは自卑のみを賞讃し、己れの目卑を誇り、しかも自卑の外観を失わないようにしてそれをやるということになる。こうしたことどもはこの感情から必然的に起こるのであって、それはあたかも三角形の本性からその三角の和が二直角に等しいということが起こるのと同様である。 私がこれらの感情ならびにこれと類似の諸感情を悪と呼ぶのは、ただ人間の利益を念頭に置く限りにおいてであるということはすでに述べたところである。これに反して自然の諸法則は、人間がその一部分にすぎない自然の共通の秩序に関係している。このことを私はここでついでに注意したいと思う。なぜなら、私はここで人間の欠点や不条理な行為を語ることを欲して、諸物の本性およびその諸特質を証明しようとは欲していなかったなどと人に誤解されないようにである。事実私は、第三部の序言で述べたように、人間の諸感情およびその諸特質をその他の自然物と同様に考察する者である。そしてたしかに人間の諸感情は、人間の能力を表示するものでないにしても、少なくとも自然の能力および技巧を表示するものであって、その点は、我々が驚嘆しかつその観想を楽しむ他の多くのものと何ら異なるところがないのである。しかし私はひきつづき、諸感情について、いかなる点が人間に利益をもたらし、いかなる点が人間に害悪を与えるかを注意することにする。 (ネロの詩的才能と血縁者である母)哲学・思想ランキング
2022年06月25日
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神の存否-450 定理五五 最大の高慢あるいは最大の自卑は自己に関する最大の無知である。 証明 第三部の所感情の定義(付録:感情の感情の諸定義 定義二八 高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである。および定義二九 自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである。)から明らかである。 定理五六 最大の高慢あるいは最大の自卑は精神の最大の無能力を表示する。 証明 徳の第一の基礎は、自己の有を維持すること(この部第四部の定理二二の系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(前定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在することを欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。により)、また、この原理なしにはいかなる徳も考えられえないからである。により)、しかもそれを理性の導きに従ってなすこと(この部第四部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する「*この三つ理性的行動・理性的生活・自己の生命身体的・精神的有に努める」は同じことを意味する)、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。だから自分自身を知らない者は一切の徳の基礎を知らない者であり、したがってまた一切の徳を知らない者である。次に有徳的に働くとは理性の導きによって行動することにほかならず(この部第四部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する(この三つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)、そして理性の導きに従って行動する者は自分が理性の導きに従って行動していることを必ず知っていなければならぬ(第二部定理四三 快感は過度になりうるしまた悪でありうる。しかし苦痛は快感あるいは喜びが悪である限りにおいて善でありうる。により)。これで見れば自分自身を、したがってまた(今しがた示した*自分自身を知らない者は一切の徳の基礎を知らない者であり、したがってまた一切の徳を知らない者のように)一切の徳を知ることの最も少ない者は有徳的に働くことの最も少ない者、言いかえれば(この第四部部の定義八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば、(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。からで明らかなように)精神的に最も無能力な者である。それゆえに(第四部前定理 後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。むしろある行為を後悔する者は二重に不幸あるいは無能力である。により)最大の高慢あるいは最大の自卑は精神の最大の無能力を表示する。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 これからきわめて明瞭に帰結されるのは、高慢な人間および自卑的な人間はもろもろの感情に最も多く従属するということである。 備考 しかし自卑は高慢よりも容易に矯正されうる。なぜなら、高慢は喜びの感情で自卑は悲しみの感情であり、したがって(この部第四部の定理一八 喜びから生ずる欲望は、その他の事情が等しければ、悲しみから生ずる欲望よりも強力である。により)高慢は自卑よりも強力だからである。哲学・思想ランキング
2022年06月24日
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神の存否-449 定理五四 後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。むしろある行為を後悔する者は二重に不幸あるいは無能力である。 証明 この定理の始めの部分は前定理と同様(*人間が自己自身を真の理性によって認識する限り、彼は自己の本質を、言いかえれば(第三部定理七により)自己の能力を認識するものと想定される。だからもし人間が自己自身を観想するにあたり自己のある無能力を知覚するとしたら、それは彼が自己を真に認識することから来るのではなくて、むしろ、彼の活動能力が阻害されることから来るのである。しかしもし、人間が自分より有力なある物を認識しその認識から自己の活動能力を正しく限定しこれによって自己の無能力を考えるという場合を我々が仮定するとしたら、それは人間が自己自身を明瞭に認識する場合、すなわち、彼の活動能力が促進される場合を考えているのにほかならない。此の故に、後悔をすなわち人間が自己の無能力を観想することから生ずる悲しみは、真の観想あるいは理性からは生じない。それは徳ではなくて受動である。)にして証明される。あとの部分は単にこの感情の定義(第三部付録:感情の諸定義二七 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲しみである。を見よ)のみから明らかである。なぜなら、後悔する人間は最初に悪しき欲望によって、次には悲しみによって、征服される者だからである。 備考 人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつかあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。なぜなら、もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されえようか。民衆は恐れを知らない時に恐るべきものである。ゆえに少数者の利益ではなく社会全体の利益を考慮した予言者たちが謙遜、後悔および恭順をいたく推奨したのは怪しむに足りない。また実際に、これらの感情に支配される人々は他の人々よりもはるかに容易に、ついには理性の導きに従って生活するように、言いかえれば自由になって幸福な生活を享受するように導かれることができるのである。 (参考:民衆、恐るべきもの、コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus,/55年頃 - 120年頃))ローマ帝政期の属州のベルギカ(現ベルギー)に生まれと伝えられるが、 著「ゲルマニア」「歴史」「年代記」などを残す。ラテン語が学術書等に高等公用言語の用いられる代表格。)哲学・思想ランキング
2022年06月23日
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神の存否-448 定理五三 謙遜(*謙譲・謙虚)は徳ではない。すなわち理性からは生じない。 証明 謙遜は人間が自己の無能力を観想することから生ずる悲しみである(感情の定義二六 謙遜〔自劣感〕とは人間が自己の無能力あるいは弱小を観想することから生ずる悲しみである。により)。しかし人間が自己自身を真の理性によって認識する限り、彼は自己の本質を、言いかえれば(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)自己の能力を認識するものと想定される。だからもし人間が自己自身を観想するにあたり自己のある無能力を知覚するとしたら、それは彼が自己を真に認識することから来るのではなくて、むしろ(第三部定理五五 精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。において示したように)彼の活動能力が阻害されることから来るのである。しかしもし、人間が自分より有力なある物を認識しその認識から自己の活動能力を正しく限定しこれによって自己の無能力を考えるという場合を我々が仮定するとしたら、それは人間が自己自身を明瞭に認識する場合、すなわち(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。により)彼の活動能力が促進される場合を考えているのにほかならない。このゆえに謙遜すなわち人間が自己の無能力を観想することから生ずる悲しみは、真の観想あるいは理性からは生じない。それは徳ではなくて受動である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:和訳の「謙遜」を和文化の言葉遣いとして取り上げれば、控えめな態度で振舞いへりくだる、「へりくだる」とは相手を敬う気持ちで自分を卑下することです。例えば『謙遜して末席に座る』などが、「三国志」にも屡々登場する礼儀作法です。「謙譲」は「へりくだる」に加えて譲る『謙譲の美徳を発揮する』ことを意味します。「謙虚」という言葉は素直で、出しゃばらないことで其のその人の性格・人格、例えば『社会的地位が上がるにつれて、ますます謙虚になった』を表します。スピノザの「謙遜」に向けられた精神解釈は儒教国家というより名目上とはいえ単一民族国家の日本に驚くべき隔壁を感ぜさせます。海に囲まれた島国である日本は、謂わば四方を外海に隔てられ「単一家族世界」の趣があります。即ち、多民族国家が何故に謙遜は徳ではない。すなわち理性からは生じないと、思索するのかを捉えねばなりません。世界史的的には常に謙遜は自己の精神の服従の顕れであったことには注意が肝要です。 (*武士道・徳の人聖徳太子))哲学・思想ランキング
2022年06月22日
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神の存否-447 通常我々は自己満足とは心理学用語として、人間が行動を行った場合に、その行った行動に対して自分自身が満足をするようなもののことを言うと捉えていますが、スピノザの自己満足の捉え方は、所謂、性的満足や闘争本能etcなどによる、行動的満足は範疇には入れていないようで、もっぱら、精神活動としての自己満足を想定しているのが分かります。生活一般用語として、誰かのためじゃなく、結局自分の気分が良くなるから行動してるんでしょというネガティブな意味に捉えると解釈が混迷します。高度の思考回路を持ち得た哲人には自己満足も高度なものなのだともとれます。此れが哲学史上で問答法で名を成さしめたソクラテスや、ソフィストが不興を買った一因なのかも知れません。 定理五二 自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、存在しうる最高の満足である。 証明 自己満足は人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである(感情の定義二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。により)。ところが人間の真の活動能力ないし徳は理性「妥当な観念」そのものであり(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)、そして人間はこの理性「妥当な観念」を明瞭判然と観想し得(う)る。第二部定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。および、定理四三により)。ゆえに自己満足は理性から生じうる。次に人間は自己自身を観想するにあたり、自己の活動能力から生ずることのみを明瞭判然と、すなわち妥当に、知覚する(第三部定義二により)。言いかえれば(第三部定理三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。により)自己の認識能力から生ずることのみを妥当に知覚する。それゆえにこうした観想のみから、存在しうる最高の満足が生ずるのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 まことに自己満足は我々の望みうる最高のものである。なぜなら(この部第四部の定理二五 何びとも他の物(*事物・者etc)のために自己の有(*哲学的な恒常有ではなく人間本性の欲性的有)を維持しようと努めはしない。において我々が示したように)何びとも自己の有を何らかの他の目的のために維持しようとは努めないからである。そしてこの満足は賞讃によってますます養われ強められ、第三部定理五三の系 この喜びびは人間がより多く他人から賞讃されることを表象するに従ってますます強められる。なぜなら彼がより多く他人から賞讃されることを表象するに従って、彼は他人が彼からそれだけ大なる喜びに、しかも彼自身の観念を伴った喜びに刺激されることを表象する。したがって彼自身は彼自身の観念を伴ったそれだけ大なる喜びに刺激される。また反対に(第三部定理五五の系 何びとも自分と同等でない者をその徳のゆえにねたみはしない。により)非難によってますますかき乱されるから、このゆえに我々は、名誉に最も多く支配され、そして恥辱の生活はほとんど耐えることができないのである。哲学・思想ランキング
2022年06月21日
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神の存否-446 定理五一 好意は理性と矛盾せず、寧ろ(むしろ)、それと一致することができ、またそれから生ずることができる。 証明 なぜなら、好意は他人に親切をなした人に対する愛である(感情の定義一九 好意とは他人に親切をなした人に対する愛である。により)。したがってそれは働きをなすと言われる限りにおける精神に関係ずることができる(第三部定理五九すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。言いかえれば(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)認識する限りにおける精神に関係することがでる。ゆえに好意は理性と一致し云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 別の証明 理性の導きに従って生活する人は自分のために欲求する善を他人のためにも欲する(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)。だから親切をなそうとする彼の努力は、ある人が他人に親切をなすのを彼が見ることによって促進される。 記:すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は他者の観念を通しても、言いかえれば(第三部定理一一の備考 要項:我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。により)彼はそれによって喜ぶであろう。しかも(仮定:他人に親切をなした人に対する愛への好意。により)その喜びは他人に親切をなした人の観念を伴ったものである。ゆえに、彼はその人に対して好意を感ずる。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 我々が定義したような憤慨(感情の定義二〇 憤慨とは他人に害悪を加えた人に対する憎しみである。を見よ)は必然的に悪である(この部第四部の定理四五 憎しみは決して善ではありえない。により)。しかし注意しなければならぬのは、最高権力としての「国家」が平和を確保する願望に促されて、他人に不法を加えたある国民を罰する場合、私は最高権力がその国民に対して憤慨するとは言わないということである。なぜなら、最高権力は憎しみに駆られてその国民を害するために罰するのでなく、道義の念によって罰するのだからである。 (参照:スピノザの母国オランダのハーグの国連の主要機関で「世界法廷」とも呼ばれる国際司法裁判所の権能)哲学・思想ランキング
2022年06月20日
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神の存否-445 定理五〇 憐憫は理性の導きに従って生活する人間においてはそれ自体では悪でありかつ無用である。 証明 なぜなら憐憫は(第三部付録:感情の諸定義一八 憐憫とは我々が自分と同類であると表象する他人の上に起こった害悪の観念を伴った悲しみである。)それ自体では悪である。ところで憐憫から生ずる善、すなわち我々が憐憫を感ずる人間を不幸から救おうと努めること(第三部定理二七の系三 我々は我々の憐れむものできるだけその不幸から脱せしめようと努めるであろう。により)に関して言えば、我々は単に理性の指図のみによってこれをなそうと欲する(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)、また我々は善であると我我の確知することを単に理性の指図のみによってなしうる(この部第四部の定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)。ゆえに憐憫は理性の導きに従って生活する人においてはそれ自体では悪でありかつ無用である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として、理性の指図に従って生活する人は、できるだけ憐憫に動かされないように努めるということになる。 記:泣いて馬謖を斬る。 備考 一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に価する何ものも見いださないであろうし、また何びとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳が及ぶ限り、いわゆる正しく行ないて自ら楽しむことに努めるであろう。これに加えて、容易に憐憫の感情を催し他人の不幸や涙に動かされる者は、のちにいたって自ら悔いるような行ないをしばしばなしているのである。なぜなら我々は、感情に基づいては、善であると我々の確知するような何ごとをもなすものでなく、また我々は偽わりの涙に容易に欺かれるからである。しかし私はここで明らかに、理性の導きに従って生活する人について語っているのである。というのは、理性によっても憐憫によっても他人を援助するように動かされない者は非人間と呼ばれてしかるべきである。なぜなら、そうした者は(第三部定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)まったく人間らしいところがない。或いは、およそ汎ゆる人間性を欠いているように見えるからである。哲学・思想ランキング
2022年06月19日
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神の存否-444 定理四八 買い被(かぶ)りおよび見縊(くび)りの感情は常に悪である。 証明 なぜならこれらの感情は(第三部付録:感情の諸定義二一 買いかぶりとはある人について、愛のゆえに、正当以上に感ずることである。及び、感情の諸定義二二見くびりとはある人について、憎しみのゆえに、正当以下に感ずることである。により)理性に矛盾する。したがって、(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。及び、第四部の定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)それは悪である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 定理四九 買いかぶりは買いかぶられる人間を容易に高慢にする。 証明 もしある人が愛のため我々について正当以上に感ずるのを我々が見るなら、我々は容易に名誉を感ずるであろう。すなわち喜びに刺激されるであろう(第三部付録:感情の諸定義三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。により)。そして我々は自分について言われている善を容易に信ずるであろう(第三部定理二五 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。により)。したがって、我々は自分に対する愛のため自分について正当以上に感ずるであろう。言いかえれば(第三部付録:感情の諸定義二八 高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである。により)我々は容易に高慢になるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:ブルータスお前もか。哲学・思想ランキング
2022年06月18日
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神の存否-443 定理四七 希望および恐怖の感情はそれ自体では善でありえない。 証明 希望および恐怖の感情は悲しみを伴うことなしに存しえない。なぜなら恐怖は(感情の定義一三 恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな悲しみである。により)悲しみであるし、また希望は(感情の定義一二 希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな喜びである。及び、感情の定義一三の説明 これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる。なぜなら、希望に頼ってある物の結果につき疑っている人は、その未来の物の存在を排除するあることを表象し、かくてその限りにおいて悲しみ、したがって希望に頼っている間はその物が出現しないことを恐れもしている、と認められるからである。これに反して恐怖の中に在る人すなわち憎むある物の結果について疑う人は、同様にその物の存在を排除するあることを表象し、かくて喜び、したがってその限りにおいていまだその物の出現しないことを希望してもいるのである。恐怖を伴うことなしには存しえないからである。したがつて(この部第四部の定理四二 快活は過度になりえず、常に善である。反対に憂鬱は常に悪である。により)、これらの感情はそれ自体では善でありえず、ただ喜びの過度になるものを抑制しうる限りにおいてのみ善である(この部の定理四三第四部 快感は過度になり得(う)るしまた悪であり得る。しかし苦痛は快感あるいは喜びが悪である限りにおいて善でありうる。により)。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 これに加えて、これらの感情は認識の欠乏および精神の無能力を表示するものである。そしてこの理由から安堵、絶望、歓喜および落胆もまた無能な精神の標識である。なぜなら安堵および歓喜は喜びの感情であるとはいえ、それは悲しみから、すなわち、希望および恐怖云々の先行を前提としているからである。だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめるにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできるだけ運命を支配し・我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く努める。 記:希望及び恐怖は人間精神の安寧を求める本態的本性から生じるものであり、キリスト教では人体の形態を伴ったヤーウェの仮身或いは分身、神格が人格性を体身し人間の契約違反のために現世界へ降されたナザレのイエスは「全能の神」の人間への真の幸福への機会を与える最後の恩赦の機会なのです。哲学・思想ランキング
2022年06月17日
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神の存否-442 定理四六 理性の導きに従って生活する人は、できるだけ、自分に対する他人の憎しみ、怒り、軽蔑などを逆に愛あるいは寛仁で報いるように努める。 証明 すべて憎しみの感情は悪である(前定理四五の系一 妬み(ねたみ)、嘲弄(ちょうろう)、軽蔑、怒り、復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情は、悪である。以下略により)。ゆえに理性の導きに従って生活する人は、できるだけ憎しみの感情に捉われぬように努めるであろうし(この部第四部の定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する。により)、したがって、また(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)他人にもそうした感情に悩ませないように努めるであろう。ところが憎しみは憎み返しによって増大し、反対に愛によって消滅されうるのであり(第三部定理四三 憎しみは憎み返しによって増大され、また反対に愛によって除去されることができる。により)、こうして憎しみは愛に移行する(第三部定理四四 愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先立たなかった場合よりもより大である。により)。ゆえに理性の導きに従って生活する人は他人の憎しみその他を逆に愛で、言いかえれば寛仁(第三部定理五九の備考におけるその定義 要旨:私は三つの根本的感情、すなわち欲望、喜び、悲しみの合成から生ずる主要な感情。を見よ)で報いることに努めるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 自分の受けた不法を憎み返しによって復讐しようと思う人はたしかに惨めな生活をするものである。これに反して憎しみを愛で克服しようとつとめる人は、実に喜びと確信とをもって戦い、多くの人に対しても一人に対するのと同様にやすやすと対抗し、運命の援助をほとんどまったく要しない。一方、彼に征服された人々は喜んで彼に服従するが、しかもそれは力の欠乏のためではなくて力の増大のためである。これらすべては単に愛および知性の定義のみからきわめて明瞭に帰結されるのであって、これを一々証明することは必要でない。 記:マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi/1869 - 1948)、1948年1月にガンディーは狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団によって襲撃される。ピストルで撃たれたとき、ガンジーは自らの額に手を当ててこの世を去った。それはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作だった。哲学・思想ランキング
2022年06月16日
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神の存否-441 定理四五 憎しみは決して善ではありえない。 証明 我々は我々の憎む相手を滅ぼそうと努める(第三部定理三九 ある人を憎む者はその人に対して悪「害悪」を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善「親切」をなそうと努めるであろう。により)。言いかえれば我々はそれによって(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)悪であるようなあることをしようと努める。ゆえに以下云云。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 私がここならびに以下において、憎しみを人間に対する憎しみとのみ解することに注意されたい。 系一 妬み(ねたみ)、嘲弄(ちょうろう)、軽蔑、怒り、復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情は、悪である。このことは同上の第三部定理三九、及び、同上のこの部第四部の定理三七からも明らかである。 系二 我々が憎しみに刺激される結果として欲求するすべてのことは非礼であり、また国家においては不正義である。このことは同上の第三部定理三九からおよび非礼と不正義との定義からも明らかである。この部の定理三七の備考(結:自然状態においては、何びとも一般的同意によってある物の所有主であることはない。また自然の中にはこの人に属してかの人に属さないといわれうるような何ものも存しない。むしろすべての物がすべての人のものである。したがって自然状態においては各人に対し各人の物を認めようとかある人からその所有のものを奪おうとかする意志は考えられえない。言いかえれば自然状態においては正義とか不正義といわれうる何ごとも起こらない。しかし一般の同意に基づいて何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態においてはこのことが起こる。以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。におけるその定義を見よ。)*国家 備考 嘲弄(系一で言ったようにそれは悪である)と笑いとの間に私は大きな差異を認める。なぜなら、笑いは諧謔(かいぎゃくとは、滑稽気味のある気の利いた言葉。洒落や冗談、ユーモアと同様に純然たる喜びであり、したがって過度になりさえしなければそれ自体では善である(この部第四部の定理四一 喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。により)。実際、楽しむことを禁ずるものは厭世的で悲しげな迷信のみである。いったい憂鬱を追い払うことが何で飢渇をいやすことよりも不適当であろうか。私の原則は次のごとくであって私はこの信念を固くとる者である。すなわち如何なる神霊も、また、妬み屋以外の如何なる人間も、私の無能力や苦悩を喜びはしないし、また落涙、すすり泣き、恐怖、その他精神の無能力の標識であるこの種の事柄を我々の徳に数えはしない。むしろ反対に、我々はより大なる喜びに刺激されるに従ってそれだけ大なる完全性に移行するのである。言いかえれば我々はそれだけ多くの神の本性を必然的に分有するのである。だから諸々の物を利用してそれをできる限り楽しむ、と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことでないから、ことは賢者に相応(ふさわ)しい。たしかに、程良く摂られた味の良い食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者に相応しいのである。何故なら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であるために、したがって、また精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種種の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨されるべき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。そしてこれについてはこれ以上明瞭にも詳細にも論ずる必要はない。 記:チャップリンの映画の独裁者とは、真実真相は如何な者を揶揄しているのでしょう。洒落や冗談、ユーモアとは些(いささ)か趣を異にした、或る種の傾向を持った現代への権力主義者への警笛を鳴らしてるようにも想え笑えません。哲学・思想ランキング
2022年06月15日
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神の存否-440 定理四四 愛および欲望は過度になりうる。 証明 愛は外部の原因の観念を伴った喜びである(諸感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。により)。ゆえに(第三部定理一一の備考我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。次に欲望の何たるかは第三部部の定理九の備考において説明した。この三者〔喜び・悲しみ・欲望〕のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその他の諸感情は、以下において示すだろうように、この三者から生ずるものだからである。により)外部の原因の観念を伴った快感も愛の一種である。したがって愛は(前定理四三 快感は過度になり得(う)るしまた悪であり得る。しかし苦痛は快感あるいは喜びが悪である限りにおいて善でありうる。により)過度になりうる。次に欲望はそれを生ずる感情がより大なるに従ってそれだけ大である(第三部定理三七 悲しみや喜び、憎しみや愛から生ずる欲望は、それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である。により)。ゆえに感情が(この部の定理六により)人間のその他の働きを凌駕しうるのと同様に、その感情から生ずる欲望もまたその他の欲望を凌駕しうるのであり、したがってまたそれは前定理において快感について示したのと同様に過度になりうるであろう。Q・E・D・ 備考 善であると私の言った快活については単に観察するよりも概念的に考える方がいっそう容易にわかる。すなわち我々が日々捉われる諸感情は、もっぱら身体の何らかの部分がその他の部分以上に刺激されるのに関係するのであり、したがってそうした感情は一般に過度になり、精神をただ一つの対象の考察に引きとどめて精神が他のことについて思惟しえないようにするのである。人間は数多くの感情に従属するものであって、常に同一の感情に捉われている人間は稀にしか見られないけれども、それにしても同一の感情に執拗にまといつかれている人間もないではない。すなわち人間がただ一つの対象から強く刺激されて、その結果それが現在していない場合にもそれを自分の前にあるように信ずるのを我々はしばしば見かける。もしこうしたことが眠っていない人間に起こるならば、この人間を我々は狂っているとか気違い沙汰だとか言うのである。また恋に焦れて夜も昼もただ恋人あるいは情婦のみを夢みる者も同様に気違い沙汰と思われる。こうした者は通常我々の笑いをさそうからである。ところが食欲者が利得や金銭のほか何ものもえない場合、また名誉欲者が名誉のほか何ものも考えない場合などにはそうした人々は狂っているとは信じられない。それは彼らは通常我々の不快の種であり、憎悪に価すると思われるからである。しかし食欲、名誉欲、情欲などは、一般には〔精神〕病に数えられていないにしても、実際はやはり狂気の一種である。 記:貪欲=「貪欲」は「欲深い」や「欲張り」よりも、次々と欲を出して満足しないこと、非常に欲が深いこと、むさぼって飽くことを知らない様子を表すとします。欲深さの度合いに従い強い否定的意味合いが濃い熟語ですが、ここにスピノザが名誉欲を追加しているのは特筆すべきであり、国家権力のみならず汎ゆる分野で現代も解消はされていません。明治時代の日本の陸軍軍人、教育者。日本帝国の乃木希典(1849年 - 1912年)は、決して栄誉を誇って驕ることはありませんでした。天皇崩御のあとの夫妻の自決は文豪からの非難はあるものの潔いことは日本に生きる倭人、秦時代の中国人の紀伊半島渡来説や天皇百済来血脈、出雲の国人や八咫烏族を含めて「和道」が培われてきたのでしょう。日本思想史には名誉を得るには自己よりも永年一世の御門への精神の拠り所が未だ現代にも健全であると想われます。哲学・思想ランキング
2022年06月14日
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神の存否-439 記:快感及び苦痛は共に其の感情的な側面から・理性的側面をもって判断すべきことを、スピノザは定理四三では開示してみせます。 定理四三 快感は過度になり得(う)るしまた悪であり得る。しかし苦痛は快感あるいは喜びが悪である限りにおいて善でありうる。 証明 快感は喜びの一種であって、この喜びは、身体に関する限り、身体の一部分あるいは若干部分がその他の部分以上に刺激されることに存する(第三部定理一一の備考におけるその定義の備考におけるその定義 推論:我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。を見よ))。そうした感情の力は身体のその他の働きを凌駕して身体に執拗につきまとい(この部第四部の定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。により)、こうして身体がきわめて多くの他の仕方で刺激されるのに適しないようにするほど、それほど大なるものでありうる。ゆえに快感は(この部第四部の定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。により)悪であり得(う)る。次に、これと反対に、悲しみの一種である苦痛は、それ自体で見れば善でありえない(この部第四部の定理四一 喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。により)。しかしその力と発展とは我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定されるのであるから(この部第四部の定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)、そのゆえに、我々は、この感情について、無限に多くの強度と様式とを考えることができる(この部の第四部定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌駕される。により)。したがって我々は、快感が過度になるのを防ぎうるような、そしてその限りにおいて(この定理の始めの部分:快感は過度になり得(う)るしまた悪であり得る。により)身体の能力を減少しないようにさせうるような、そうした苦痛も考えることができる。ゆえに苦痛はその限りにおいて善であるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:人間は外部の原因の力によって無限に凌駕される。「友人ふたりと道を歩いていた。日が沈んだ。空がにわかに血の色に染まる――そして悲しみの息吹を感じた。僕は立ち止まった。塀にもたれた。なにをするのも億劫。フィヨルドの上にかかる雲から血が滴る。友人は歩き続けたが、僕は胸の傷口が開いたまま、震えながら立ち尽くした。凄まじく大きな叫び声が大地を貫くのを聴いた」。エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch/1863年 - 1944年)。哲学・思想ランキング
2022年06月13日
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神の存否-438 定理四二 快活は過度になりえず、常に善である。反対に憂鬱は常に悪である。 証明 快活は(第三部定理一一の備考におけるその定義推論:我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。を見よ)喜びの一種であって、この喜びは身体に関する限り、身体のすべての部分が均等に刺激されることに存する。言いかえれば(第三部定理一一 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。により)、身体のすべての部分が相互に運動および静止の同じ割合を維持するような仕方で身体の活動能力が増大しあるいは促進されることに存する。したがって(この部第四部の定理三九 人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。により)、快活は常に善であって過度になりえない。ところが憂鬱は(同様の思考経緯を示す第三部定理一一の備考におけるその同上定義を見よ)悲しみの一種であって、この悲しみは、身体に関する限り、身体の活動能力がすべての点において減少しあるいは阻害されることに存する。ゆえに(この部の定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。により)憂鬱は常に悪である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:此処で注意すべきは、所謂、躁鬱の一方の躁状態をスピノザは快活とは捉えていないことです。「躁」状態とは、気分が高揚し、万能感に満ちあふれます。 異常なほどの気分の高揚が持続していますが、接触した人間が見れば理性の片鱗さえ見得ない状態であり一種の狂気と看做されることです。哲学・思想ランキング
2022年06月12日
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神の存否-437 定理四一 喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。 証明 喜びは(第三部定理一一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。及び、その備考 自分の愛するものや自分の憎むものを人々に是認させようとするこの努力は実は名誉欲である。このようにして各人は生来、他の人々を自分の意向に従って生活するようにしたがるものであるということが分かる。ところで、このことをすべての人が等しく欲するゆえに、すべての人が等しくたがいに障害になり、また、すべての人がすべての人から賞讃されよう愛されようと欲するゆえに、すべての人が相互に憎み合うことになるのである。により)身体の活動能力を増大あるいは促進する感情である。これに反して悲しみは身体の活動能力を減少しあるいは阻害する感情である。ゆえに(この部の定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。により)、喜びは直接的には善であり云々。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 西洋史では、かつての古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたフランスの英雄ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte/1769-1821)ほど民衆に慕われ、政治思想史においてもフランス革命の理念(自由、平等、博愛)をナポレオン戦争によって各国に輸出させた人物を、17世紀のスピノザが人物評価をどのように捉えたであろうか。交響曲「英雄」の作曲者ベートーヴェンならずも、歴史にもしもがないにしても興味津々たるものがあります。哲学・思想ランキング
2022年06月11日
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神の存否-436 スピノザの著「国家論」。君主国家から貴族国家へと論を進め、民主国家の論証を始めた所で著者の死によって断絶する「国家論」では、人が生まれながらに持つ自然権の調整を通じてその成員に安全と平和を保障する機構が国家である。だが、人々が無気力である故に平和であり、隷属のみを事とする国家は国家ではない。最晩年のスピノザ(1663-1677)はこう説いて、各人が「他人の権利の下にある」と同時に「自己の権利の下にある」ことがいかにして可能かを追求したのですが完成に至りませんでした。スピノザによれば、人間は自然状態下では自分の欲する「自然権」という権利=力(後世の基本的人権のはしり)を持っているとする。しかし、皆が理性を離れ感情にて自らの利益を追求すれば他者との激しい闘争状態に入らざるを得ない。このように「人間は本性上敵である」のだから、自然権のひたすらな追求を止め、共同して生活する道を選ぶ共同の権利とするべきで、こうした権利を他者(=国家権力)へ委託した上で、その最高権力が法を制定し、権利と義務を定め、正義を実現することとし、人々を導くこのような国家権力に対し、国民は絶対服従することを求めている。そして、こうした自然状態から国家状態への移行により、人間は安全と平和でいられるのだとし、仮に理性に反する国家の命令に従わなければならないことがあっても、国家状態でもたらされる利益の方が大きいのだから、国家の権利に従う方が理性に適うのだとする。但し、その国家がもたらす平和とは戦争状態の欠如ではなく精神の力から生じる徳であり、国家権利への服従は、国家の共同決定に従ってなさなければならないことを実行しようとする恒常的意志であるべきで、国民の無気力の結果としての平和は国家ではなくただの広野にすぎず、最高の国家とは理性と真の精神生活とによって規定される人間生活を意味するのだという。考察するにスピノザの晩年は民衆の惰眠を覚醒することに目的があったのかも知れません。参考:ソクラテス「悪法もまた法なり」 定理四〇 人間の共同社会に役立つもの、あるいは人間を和合して生活するようにさせるものは有益である。これに反して国家の中に不和をもたらすものは悪である。 証明 なぜなら、人間を和合して生活するようにさせるものは、同時に人間を理性の導きに従って生活するようにさせるものである(この部第四部の定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。により)。したがってそれは(この部第四部の定理二六定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。及び、この部第四部の定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害し得るもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)善である。これに反して、不和をひき起こすようなものは悪である(和合と同じ理由の反証により)。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年06月10日
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神の存否-435 定理三九の人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善であり、これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪であるとの文言は、人間の身体を構成する肉体的な滅びである死、身体的機能を維持しつつも精神的機能の停止状態を指し示します。詰まりは、スピノザ思考が無神論や唯物主義と看做される所以です。然し乍ら、彼は神を否定するのではなく、神なるものに神格性を、それも人格性を付与することには批判的であり、神を「法」として認識していることに間違いありません。「法=神=世界=宇宙≧人間精神≒認識」をスピノザは限られた生命の人間の最高の幸福、大乗の成仏と捉えているふしがあります。何故なら、日本が誇る「善の研究」の著者、西田幾多郎の思考にスピノザ思考の影響が多く見られるから、スピノザは亜細亜仏教にも携わっていたと思えるからです。 備考 このことが精神にとってどれだけ害になりあるいは益になりうるかは第五部で説明されるであろう。しかしここで注意しなければならぬのは、身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解していることである。つまり、血液の循環その他身体が生きているとされる諸特徴が持続されている場合でも、なお人間身体がその本性とまったく異なる他の本性に変化しうることが不可能でないと私は信ずるのである。なぜなら、人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。かえって経験そのものは反対のことを教えるように見える。というのは、人間がほとんど同一人であると言えぬほどの大きな変化を受けることがしばしば起こるからである。私はあるスペインの詩人について次のような話を聞いた。彼は病気にかかり、そしてそれは回復したものの、彼は自分の過去の生活をすっかり忘れきって、自分が以前作った物語や悲劇を自分の作と信じなかったというのである。それでもし彼が母国語も忘れたとしたら、彼はたしかに大きな小児と見なされえたであろう。もしこうした話が信じがたいように思えるなら、小児について我々は何と言うべきであろうか。成人となった人間は、他人の例で自分のことを推測するのでなかったならば、自分がかつて小児であったことを信じえないであろうほどに小児の本性が自分の本性と異なることを見ているのである。しかし迷信的な人々に新しい疑問をひき起こすような材料を与えないために、私はむしろこの問題をこのくらいでやめておこうと思う。哲学・思想ランキング
2022年06月09日
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神の存否-434 定理三九 人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。 証明 人間身体はその維持のためにきわめて多くの他の物体を要する(第二部要請四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。により)。しかし人間身体の形相を構成するものは、身体の諸部分がその運動をある一定の割合で相互に伝達することに存する(第二部定理一三のあとの補助定理四の前にある定義 同じあるいは異なった大いさのいくつかの物体が、他の諸物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していると言う。そしてこの物体あるいは個体は、構成諸物体のこうした合一によって他の諸物体と区別される。により)。ゆえに人間身体の諸部分が相互に有する運動および静止の割合が維持されるようにさせるものは人間身体の形相を維持するものであり、したがって、また、(第二部要請三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。及び、同じく第二部要請六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる。により)人間身体が多くの仕方で刺激されうるようにさせ、また、人間身体が外部の物体を多くの仕方で刺激しうるようにさせるものである。ゆえにそれは(前定理 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。により)善である。次に人間身体の諸部分が運動および静止の異なった割合を取るようにさせるものは人間身体が異なった形相を取るようにさせるものであり(第二部の定理一三のあとの補助定理四の前にある定義と同じ定義により)、言いかえれば、それ自体で明らかでありまたこの部の序言の終りに第四部序言の後半部:善および悪 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪、ならびに、善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。事情はかくのごとくであるけれどもしかし、我々はこれらの言葉を保存しなくてはならぬ。なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型として、人間の観念を形成することを欲しているので、これらの言葉を前に述べたような意味において保存するのは我々にとって有益であるからである。 そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言っているのではなく、なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬でなくなってしまうから、単に「彼の活動能力、彼の本性を活動能力と解する限りにおいて、彼の活動能力が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注意しなければならぬ。 最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。言いかえれば、おのおのの物がある仕方で存在し作用する限りにおいて、その物の本質のことと解するであろう。そしてこの際その物の持続ということは考慮に入れない。なぜなら、いかなる個物も、それがより長い時間のあいだ存在に固執したゆえをもってより完全だとは言われえないからである。事物の本質には何ら一定の存在時間が含まれていない以上、事物の持続はその本質からは決定されえないのだから。むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。 *有を持続として捉えられる時間の特性。注意したように、人間身体が破壊されるようにさせ、したがってまたそれが多くの仕方で刺激されるのに全然適しないようにさせるものである。ゆえにそれは悪である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 特筆:成仏史観:死んで、この世に未練を残さず仏となること。また、死ぬこと。「安らかに成仏する」とは大乗仏教では最後の修行を終えた菩薩が悟りを開いて仏になるとき、諸仏から智水の灌頂を受けて成仏するものとされた。仏は真理界の帝王(法の王)であるから、成仏を法王の位に即(つ)く、物理学的に捉えれば物理法則に擬(なぞら)えたとも想われます。哲学・思想ランキング
2022年06月08日
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神の存否-433 定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。 証明 身体がそうしたことにより適するようにされるに従って精神は知覚に対してそれだけ適するようになる(第二部定理一四 人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適する。そしてこの適性は、その身体がより多くの仕方で影響されうるに従ってそれだけ大である。により)。したがって身体をこのような状態にしてそうしたことに適するようにさせるものは必然的に善すなわち有益である(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。及び、この部第四部の定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害し得るもののみが善あるいは悪であることを確知する。により)。そしてそれは身体をそうしたことにより適するようにさせうるに従ってそれだけ有益である。また反対に(第二部の同じ定理一四の裏(逆意:人間身体は、きわめて多くの仕方で外部の物体から刺激されるし、またきわめて多くの仕方で外部の物体を刺激するような状態にされる。ところが人間身体の中に起こるすべてのことを人間精神は知覚しなければならぬ。そしてこの適性は人間身体の適性がより大なるに従ってそれだけ大である。そしてこの適性を妨害する要因は人間身体の適性の阻害となる。並びに、同上、この部の定理第四部の定理二六、及び、この部第四部の定理二七により)身体のそうした適性を減少させるものは有害である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:現代半導体世界が生み出した、仮想空間世界は人間の認識能力を深め昂(こう)ずるのか、将又、混乱へと貶(おとし)めるのかは、今は結論が出せない重要課題に成りつつあります。哲学・思想ランキング
2022年06月07日
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神の存否-432 定理三七備考一及び備考二 備考二後半 記:人間は必然的に常に受動に隷属し、また自然の共通の秩序、宇宙=世界or宇宙>世界、及びマルチバース論に従えば世界>宇宙。スピノザの世界観に従えば、神=宇宙=世界そして物理法則>生命秩序>社会法)に従い、これに服従し、かつこれに対して自然が要求するだけ順応するということになる。しかも彼は最高の自然権として、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある「理性」を取り上げ、受動的諸感情への対応を示します。 しかもそれら(記:世界に存在する本性に付随する付帯の諸感情)は人間の能力ないし徳をはるかに凌駕するのであるから(この部第四部の定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。により)、そのゆえに彼らはしばしば異なった方向に引きずられ(この部第四部の定理三三 人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である。により)、また相互扶助を必要とするにもかかわらず(この部第四部の定理三五の備考 要項:相互扶助の価値論により)相互に対立的であることになる(この部第四部の定理三四 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。により)。それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して、他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。しかしこのこと、すなわち諸感情に必然的に隷属し(この部第四部の定理四の系 抜粋:人間は必然的に常に受動に隷属し、また自然の共通の秩序に従い、これに服従し、かつこれに対して自然が要求するだけ順応する、ということになる。により)かつ不安定で変りやすい(この部第四部の定理三三 人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である。により)人間が、相互に保証を与え相互に信頼しうるということがいかにして可能であろうかといえば、それはこの部の定理七および第三部の定理三九から明らかである。そこで述べたところによれば、どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によってでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に善悪を加えたくてももしそれによってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性(この部第四部の定理一七の備考 抜粋:なぜ人間が真の理性によってよりもむしろ意見(オビニオ)によって動かされるか、またなぜ善および悪の真の認識が心情の動揺を惹き起こしかつしばしばあらゆる種類の官能欲に征服されるかの原因を示したと信ずる。かの詩人の言葉はここから来ている、「我はより善きものを見てこれを可とす、されど我はより悪しきものに従う」。伝道者〔ソロモン(Solomōn)〕が「知識を増す者は憂患を増す」と言っているのも同じことを念頭に置いたものと思われる。 (オヴィディウス、ソロモン) しかし私がこうしたことを言うのは、それから無知が知にまさるとか、感情の制御において愚者と智者の間に差別がないとかいうようなことを結論しようと思ってではない。むしろ、理性が感情の制御において何をなしえ、また何をなしえざるかを決定しうるには、我々の本性の能力とともにその無能力をも知ることが必要だからである。により)によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。 (相互援助、国家) これからして、自然状態においては、すべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら、自然状態における各人はもっばら自己の利益のみを計り、自分の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自分以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがってまた自然状態においては罪過というものは考えられない。しかし一般の同意に基づいて何が善であり何が悪であるかが決定されて各人が国家に服従するように義務づけられる国家状態においてはそれが考えられる。すなわち罪過とは不服従にほかならず、それはこのゆえに国家の権能によってのみ罰せられる。これに反して服従は国民の功績とされる。まさにそのことによって国民は国家の諸便益を享受するのに価すると判断されるからである。 次に、自然状態においては、何びとも一般的同意によってある物の所有主であることはない。また自然の中にはこの人に属してかの人に属さないといわれうるような何ものも存しない。むしろすべての物がすべての人のものである。したがって自然状態においては各人に対し各人の物を認めようとかある人からその所有のものを奪おうとかする意志は考えられえない。言いかえれば自然状態においては正義とか不正義といわれうる何ごとも起こらない。しかし一般の同意に基づいて何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態においてはこのことが起こる。以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。しかしこれらのことについてはこれで十分である。 (自然状態 原始共産主義) 記:スピノザが定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろうでは、彼の出自ユダヤ民族の民族宗教である旧約の教えと制度へのしがらみが思いの外推し量れます。哲学・思想ランキング
2022年06月06日
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神の存否-431 定理三七備考一及び備考二 備考二中半 人はみな最高の自然権によって存在し、したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずることを最高の自然権によってなすのである。それゆえ各人は、最高の自然権によって、何が善であり何が悪であるかを判断し、自己の意のままに自己の利益を計り(この部第四部の定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する。および、第四部の定理二〇 各人は自己の利益を追求することに、言いかえれば自己の有を維持することに、より多く努めかつより多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である。また反対に、各人は自己の利益を、言いかえれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である。を見よ)、復讐をなし(第三部定理四〇の系二 もしある人が、前に自分がいかなる感情もいだいていなかった他人から憎しみのゆえにある害悪を加えられたことを表象するなら、彼はただちに同じ害悪をその他人に報いようと努めるであろう。を見よ)、また自分の愛するものを維持し、自分の憎むものを破壊しようと努める(第三部定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。を見よ)。 もし人間が理性の導きに従って生活するのだとしたら、各人は他人を何ら害することなしに自己のこの権利を享受しえたであろう(この部第四部の定理三五の系一 人間にとっては、理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中に存しない。なぜなら、人間にとっては、自己の本性と最も多く一致するもの、記:この部第四部の定理三一の系一 結論:物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ有益である。そしてその逆も真である。により)。 ところが人間は諸感情に隷属しており(この部第四部の定理四の系 この帰結として、人間は必然的に常に受動に隷属し、また自然の共通の秩序(記:物理法則>生命秩序>社会法則)に従い、これに服従し、かつこれに対して自然が要求するだけ順応するということになる。により)。哲学・思想ランキング
2022年06月05日
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神の存否-430 定理三七備考一及び備考二 備考二前半 第一部の付録において私は賞讃および非難とは何か、功績および罪過とは何か、正義および不正義とは何かを説明(要項:私が指摘しようとするすべての偏見は次の一偏見に由来している。その一偏見というのは、一般に人々はすべての自然物が自分たちと同じく目的のために働いていると想定していること、のみならず人々は神自身がすべてをある一定の目的に従って導いていると確信していること、これである(なぜなら彼らはこう言う、神はすべての物を人間のために造り、神を尊敬させるために人間を造ったと)。だから私はまずこの偏見を考察しよう。それには第一に、なぜ多くの人々がこの偏見に甘んじ、またなぜすべての人が生来この偏見をいだく傾向があるかの理由を探究する。次にそれが誤っていることを示し、最後にいかにしてこの偏見から善と悪、功績と過罪、賞讃と非難、秩序と混乱、美と醜その他こうした種類の他のことどもに関する諸偏見が生じたすることを約束した。賞讃および非難についてはすでに第三部定理二九の備考(ただ人々の気に入ろうとする理由だけであること差したり控えたりするこの努力は名誉欲と呼ばれる。ことに我々が、我々自身あるいは他人の損害になるのも構わずにあること差したり控えたりするほど熱心に民衆の気に入ろうと努める場合にはそう呼ばれる。しかしそれほどまででない場合は鄭重と呼ばれるのが常である。次に我々を喜ばせようとする努力のもとになされた他人の行為を表象する際に我々の感ずる喜びを私は賞讃と呼び、これに反してその人の行為を嫌悪する際に感ずる悲しみを非難と呼ぶ。)において説明した。しかし他の概念について述べるにはここが適当な場所であろう。だがその前に人間の自然状態および国家状態について少しく述べなくてはならぬ。哲学・思想ランキング
2022年06月04日
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神の存否-429 定理三七備考一及び備考二 備考一 自分の愛するものを他の人々が愛することを、また自分の意向通りに他の人々が生活することを、単に感情に基づいて努める人は、本能的にのみ行動するものであって、そのゆえに人から憎まれる。ことに別の好みを有してそのために同様の努力をなし、やはり自分の意向通りに他の人々を生活させようと等しく本能的に努めるような人々から憎まれる。次に人間が感情によって欲求する最高の善は、しばしば一人だけしか享受しえないような種類のものであるから、この結果、愛する当人はその心中に不安を蔵し、自分の愛するものに対する賞讃を語ることを喜びながらも同時にそれが人から信じられるのを恐れるというようなことになる。 ところが他の人々を理性によって導こうと努める人は本能的に行動するのでなく、友愛的かつ善意的に行動するのであってその心中きわめて確固たるものがある。 (友愛的) さらに、神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。しかし我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。次に理性の導きに従って生活する人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導きに従って生活する人々が賞讃するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げとなるようなことを非礼と呼ぶ。このほかに私は国家の基礎の何たるかをも示した。 (国家の基礎) 次に、真の徳と無能力との差別は上に述べたことから容易に知られる。すなわち真の徳とは理性の導きのみに従って生活することにほかならない。したがって無能力とは人間が自己の外部にある事物から受動的に導かれ、かつ外界の一般状態が要求する事柄、それ自身だけで見られた彼の本性そのものが要求する事柄ではなく、其れ等ををなすように外部の事物から決定されることにのみ存する。 さて以上は私がこの部の定理一八の備考 要項:理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。において証明を約束した事柄である。これからして動物の屠殺を禁ずるあの掟が健全な理性によりはむしろ虚妄な迷信と女性的同情とに基づいていることが明らかである。我々の利益を求める理性は、人間と結合するようにこそ教えはするが、動物、あるいは人間本性とその本性を異にする物と結合するようには教えはしない。むしろ理性は、動物が我々に対して有するのと同一の権利を我々が動物に対して有することを教える。否、各自の権利は各自の徳ないし能力によって規定されるのだから、人間は動物が人間に対して有する権利よりはるかに大なる権利を動物に対して有するのである。 (動物)*動物である人間の傲慢性=仏徳 しかし私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである。実に彼らは本性上我々と一致しないし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるからである(第三部定理五七の備考いわゆる非理性的動物の感情(というのは我々は精神の起源を識った以上は動物が感覚を有することを決して疑いえない)は人間の感情と、ちょうど動物の本性が人間の本性と異なるだけ異なっているということになる。もちろん馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれども、馬は馬らしい情欲に駆られ、人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫、魚、鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は自己の具有する本性に満足して生き、そしてそれを楽しんでいるのであるが、各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと、ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している。を見よ)。 なお正義とは何であるか、不正義とは何であるか、罪過とは何であるか、また最後に功績とは何であるかを説明することが残っている。しかしこれについては次の備考を見よ。哲学・思想ランキング
2022年06月03日
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神の存否-428 定理三七証明の別証明 別の証明 人間は自分のために欲求しかつ愛する何らかの善を他人もまた愛するのを見るとしたらいっそう強くそれを愛するであろう(第三部定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)。だから彼は(同上第三部定理三一の系 抜粋:各人は自分の愛するものを人々も愛するように、また自分の憎むものを人々も憎むようにできるだけ努めるということになる。により)他人もそれを愛するように努めるであろう。ところで今問題となっている善は(前定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)すべての人に共通であり、すべての人が等しくこれを楽しみ得るのであるから、したがって彼は(その同じ理由により)すべての人がそれを楽しむように努めるであろう。そして(第三部定理三七 悲しみや喜び、憎しみや愛から生ずる欲望は、それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である。により)彼がこの善をより多く享楽するに従ってそれだけ多くそのことに努めるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年06月02日
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神の存否-427 定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。 証明 人間は理性の導きに従って生活する限り、人間にとって最も有益である(この部第四部の定理三五の系一 骨子:人間にとっては、理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中に存しないにより)。それゆえ(この部第四部の定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する。により)、我々は理性の導きに従う場合、必然的に、人間をして理性の導きに従って生活させるように努めるであろう。ところが理性の指図に従って生活する各々の人、言いかえれば(この部第四部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する「*この三つ理性的行動・理性的生活・自己の生命身体的・精神的有に努める」は同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)、徳に従うおのおのの人が自己のために欲求する善とは認識することにほかならない(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。により)。ゆえに徳に従うおのおのの人は自己のために欲求する善を他の人々のためにも欲するであろう。 次に欲望は、精神に関係する限り、精神の本質そのものである(感情の定義一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。により)。ところが精神の本質は認識に存する(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。により)。そしてこの認識は神の認識を含み(第二部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。により)、また神の認識なしには存在することも考えられることもできない(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。により)。このゆえに、精神の本質が含む神の認識がより大なるに従って、徳に従う人が自分のために欲求する善を同時に他人のために欲する欲望もまたそれだけ大であるであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 記:定理三七をこう言い換えてみましょう。徳に従う徳知・直覚知・実認識の人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する肉体と精神の神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。此の定理三七を紐解けばスピノザは無神論者などではなく、究めて敬虔な神学哲学者となります。此の構文はナザレのイエスを指し示すからです。哲学・思想ランキング
2022年06月01日
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