「至極の女性」 0
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神の存否-383 第四部序言の後半部:善および悪 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪、ならびに、善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。事情はかくのごとくであるけれどもしかし、我々はこれらの言葉を保存しなくてはならぬ。なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型として、人間の観念を形成することを欲しているので、これらの言葉を前に述べたような意味において保存するのは我々にとって有益であるからである。 そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言っているのではなく、なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬でなくなってしまうから、単に「彼の活動能力、彼の本性を活動能力と解する限りにおいて、彼の活動能力が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注意しなければならぬ。 最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。言いかえれば、おのおのの物がある仕方で存在し作用する限りにおいて、その物の本質のことと解するであろう。そしてこの際その物の持続ということは考慮に入れない。なぜなら、いかなる個物も、それがより長い時間のあいだ存在に固執したゆえをもってより完全だとは言われえないからである。事物の本質には何ら一定の存在時間が含まれていない以上、事物の持続はその本質からは決定されえないのだから。むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。 *有と持続として捉えられる時間の特性。哲学・思想ランキング
2022年04月18日
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神の存否-382 第四部序言の中文の後半部:人間精神・感情の起生原因の主旨*記 ところで目的原因と呼ばれている原因は、人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない。例えば「居住する」ということがこれこれの家屋の目的原因であったと我々が言うなら、たしかにそれは、人間が屋内生活の快適さを表象した結果、家屋を建築しようとする衝動を有した、という意味にほかならない。ゆえにここに目的原因として見られている「居住する」ということは、この特定の衝動にほかならないのであり、そしてこの衝動は実際に起成原因なのである。この原因が同時にまた第一原因と見られるのは、人間というものが一般に自己の衝動の原因を知らないからである。すなわち、すでにしばしば述べたように、人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をある物に衝動を感ずるように決定する諸原因は知らないからである。 なおまた自然が時に失敗しあるいはあやまちを犯して不完全な物を産出するという世人の主張を、私は、第一部の付録(要約:人々は生起する一切が自分のために生起すると思いこんでからは、すべての物について、彼らに最も有用な点を重要事とする判断への論駁)において論じたもろもろの虚構的な考えの一つに数える。 このようにして、完全および不完全とは実は単に思惟の様態にすぎない。すなわち我々が同じ種あるいは同じ類に属する個体を相互に比較することによって作り出すのを常とする概念にすぎない。私が先に(第二部定義六 実在性と完全性とは同一のものであると解する。)実在性と完全性とを同一のものと解すると言ったのもこのためである。すなわち我々は自然における一切の個体を最も普遍的と呼ばれる一つの類に、言いかえれば自然におけるありとあらゆる個物に帰せられる有という概念に、還元するのを常とする、こうして自然における個体をこの類に還元して相互に比較し、そしてある物が他の物よりも多くの有性あるいは実在性を有することを認める限り、その限りにおいて我々はある物を他の物よりも完全であると言い、またそれらの物に限界、終局、無能力などのような否定を含むあるものを帰する限りその限りにおいて我々はそれらの物を不完全と呼ぶのである。これを不完全と呼ぶのは、それらの物は我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したとかいうためではない。なぜなら、物の本性には、その起成原因の本性の必然性から生ずるもの以外のいかなるものも属さないし、また起成原因の本性の必然性から生ずるものはすべて必然的に生ずるからである。 スピノザの云う神存在を世界=宇宙=自然と捉えれば、宇宙・世界・自然の予定調和説が浮上します。然し乍ら、宇宙は真実、全き交響曲を奏でるのでしょうか。其れには量子理論の不確定性原理やホーキング博士のブラックホールの蒸発理論等の理論物理学が、スピノザの云う神存在を我々の面前に人類に提供する可能性を秘めます。:記哲学・思想ランキング
2022年04月17日
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神の存否-381 第四部序言の中文の前半部 ある物を製作しようと企てそしてそれを完成した人は誰でも、その物が完成された、完全になったと言うであろう。これはその作品の製作者自身ばかりでなく、その製作者の精神ないし意図を正しく知っている者、あるいは知っていると信ずる者はみなそう言うであろう。例えば、ある人がある作品、それがまだ仕上げられていないと仮定する、を見て、その作品の製作者の意図が家を建てることにあると知るならば、その人はその家が完成されていない、不完全であると言うであろうし、これに反して、その作品に製作者の与えようと企てた目的が遂げられたのを見るや否や、それは完成された、完全になったと言うであろう。しかしある人がいまだかつて他に類例を見たことのないようなある作品を見、かつその製作者の精神をも知らない場合には、その人はもちろんその作品が完成されているか完成されていないかを知ることができないであろう。こういうのが完全および不完全という言葉の最初の意味であったように思われる。 しかし人間が一般的観念を形成して家、建築物、塔などの型を案出し、事物について他の型よりもある型を選択することを始めてからというものは、各人はあらかじめ同種の物について形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても、不完全と呼ぶようになった。 もろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見なし、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。このようにして彼らはあらかじめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、自然自身が失敗しあるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。 これで見ると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる。実際、我々は自然が目的のために働くものでないことを第一部の付録で明らかにした。つまり我々が神あるいは自然と呼ぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をもって働きをなすのである。事実、神がその存在するのと同じ本性の必然性によって働きをなすことは我々のすでに示したところである(第一部定理一六)。したがって神あるいは自然が何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と、神あるいは自然が何ゆえに存在するかの理由ないし原因とは同一である。ゆえに神は、何ら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、その活動もまた何の原理ないし目的も有しないのである。 *スピノザの云う「神即自然」とは実体を自己原因としてとらえ、デカルトにはじまるアリストテレス的実体概念の革命を徹底し,無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼んだ。いっさいの事物は様態すなわち神の変状であり、神は一切の事物の内在的原因であり、すべての事物は神の必然性によって決定されているとして、神即自然の汎神論的体系を展開し、思惟と延長を神の二つの属性、すなわち同一実体の本質の二つの表現と見て、心身平行論の立場をとり、デカルトの二元論を乗り越えたとされる主張です。こうして彼は自己の個体本質と神との必然的連関を十全に認識するとき、有限な人間は神の無限にあずかり、人間精神は完全な能動に達して自由を実現してそこに最高善が成立すると説いた。汎神論はキリスト教の正統からは変装した無神論として非難され、当時はスピノザを極悪の無神論者と見る見解が支配的であった。後に 1785、,F・H・ヤコビとM・メンデルスゾーンとの間でG・E・レッシングがスピノザ主義者であったか否かについて論争がはじまり,カント哲学の評価ともからんでドイツの知識人の非常な関心をひき,ヘルダー及びゲーテやカントをも巻き込み「神即自然というスピノザ思想の再評価をめぐる大論争に発展し,その過程でスピノザの名誉回復がおこなわれ、ゲーテやヘルダーは彼の影響のもとに汎神論的思想を形成した。これを汎神論論争といいますが、現代量子重力理論では宇宙の始まりがビッグバンを遡りインフレーションそのものを超えた「無」のエネルギーそのものが問われようとしています。量子重力理論では「無」とは数学的「0」ではなく、「点有」としての無限エネルギーを秘めた何者かという、我々の存在の有無の概念を超えた何者か、我々の存在の虚と無の境界も甚だ曖昧となりつつあります。スピノザを超えるのは、宗教なのか哲学なのか、不確定性原理に成り立つ量子理論なのかは、文字通り「神(未来の時or永遠の瞬間)を知る」ものだとも今は待つしかあるまい。哲学・思想ランキング
2022年04月16日
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神の存否-380 第 四 部 第四部 構成序言定義:一、二、三、四、五、六、七、八公理:定理:一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、四九、五〇、五一、五二、五三、五四、五五、五六、五七、五八、五九、六〇、六一、六二、六三、六四、六五、六六、六七、六八、六九、七〇、七一、七二、七三付録:一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二 人間の隷属あるいは感情の力について 序 言第四部序言の前半 感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。私はこの部でこの原因を究め、さらに感情がいかなる善あるいは悪を有するかを説明することにした。しかしこれを始める前にあらかじめ完全性と不完全性、および善と悪について少しく語ってみたい。 *スピノザの思考に影響を与えたのは哲学のみならず詩篇にまで及んでいます。帝政ローマ時代最初期の詩人 プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(ラテン語: Publius Ovidius Naso/BC43年3月20日 - AD17年或いは18年)善きものについての詩篇にも興味を惹かれ影響は受けたものと思われる。 *参考:マザー・テレサ #友愛# 人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行いを続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい。信教のみならずスピノザ思考の「エチカ」の幸福論にも相通じる倫理観でしょう。哲学・思想ランキング
2022年04月15日
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神の存否-379 今もし我々がこれら欲望、喜びあるいは悲しみの三つの根本的感情およびさきに精神の本性について述べた事柄に注意するなら、我々は、もっぱら精神に関係する限りにおける諸感情を次のように定義しうるであろう。 感情の総括的定義 精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念<--中略>、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。 説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである(この部第三部の定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する、を見よ)。 次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが(第二部定理一六の系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録(要:スピノザ思考の概念に対する世の諸偏見)の中で多くの例を挙げて説明したところであるにより。、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。 しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言っているのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むようなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体の現実的存在を肯定する点に存するし(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。および定理一三 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、あるいはそれについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。により)、また我々は完全性ということを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能力は、対象の価値によって評価されるからである。 最後に私が「精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。 第三部 終り哲学・思想ランキング
2022年04月14日
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神の存否-378 付録:感情の諸定義 四八:情欲 四八 情欲とは性交に対する欲望および愛である。 説明 性交に対するこの欲望は適度であっても適度でなくても情欲と呼ばれるのが常である。 なおこれら五つの感情、名誉欲・美味欲・飲酒欲・貪欲・情欲は(この部第三部の定理五六の備考(抜粋:きわめて多様であるべき感情の種類の中でも特に著しいのは美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲である。これらは愛もしくは欲望の感情の本性をその関係する対象によって説明する概念にほかならない。なぜなら、我々は美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲を美食、飲酒、性交、富および名誉への過度の愛もしくは欲望としか解しないからである。なおこれらの感情は、単にその関係する対象のみによって相互に区別される限り、反対感情を有しない。なぜなら、通常我々が美味欲に対立させる節制、飲酒欲に対立させる禁酒、最後に情欲に対立させる貞操は、感情あるいは受動ではなくて、それらの感情を制御する精神の能力を表示するものだからである。)で注意したように反対感情を有しない。なぜなら礼譲≒鄭重は名誉欲の一種であるし、また節制、禁酒および貞操が精神の能力を示すものであって受動を示すものでないことはこれまたすでに注意したところである。もちろん貪欲な人間、名誉欲の強い人間、あるいは臆病な人間が、食事、飲酒および性交の過度を供しむということは有りうるにしても、それだからといって食欲、名誉欲および臆病が美味欲、飲酒欲、もしくは情欲の反対ではない。なぜなら食欲者は一般に、他人のところでなら飲食をむさぼることを願っている。また名誉欲の強い者、すなわち人々に賞讃されようとのみしている者は露見しないという望みさえあればどんなことにも節制を守らないであろうし、またもし彼が飲酒家たちや好色家たちの間に生活するならば、まさに人の気に入ろうとのみするその性情のゆえに、ますます多くこの同じ悪行に傾くであろう。最後に臆病者は、もともと自らの欲しないことをなすものである。たとえ彼が死を逃れるために自己の財宝を海中に投じようとも、彼の食欲家たることには変りがないし、また好色家としての彼がその情欲をほしいままにすることができないのを悲しむとしても、彼はそのゆえに好色家たることを失いはしないのである。一般的に言えば、これらの感情は美味、飲酒などに対する個々の行為に関係するよりはそれへの衝動そのもの、それへの愛そのものに関係する。したがってこれらの感情に対置されうるものは、我々が其ののちに述べるであろう寛仁と勇気のみである。 嫉妬およびその他の心情の動揺の定義はここでは省略する。なぜならそれらの感情は、これまで定義した諸感情の合成から生ずるものであるし、またその多くは特に名称をもっていないからである。このことは、実生活のためにはこれらのものをただ種類として知るだけで十分であることを物語っている。 なおまた我々が説明した諸感情の定義からして、そのすべての感情は欲望、喜びあるいは悲しみの三者から生ずること、あるいは寧ろすべての感情はこの三者以外の何ものでもないこと、そしてこれら三者のおのおのはその異なった関係およびその異なった外的特徴に応じて、それぞれ異なった名称で呼ばれる償いになっていることが明らかになる。哲学・思想ランキング
2022年04月13日
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神の存否-377 付録:感情の諸定義 四三:鄭重 四四:名誉欲 四五:美味欲 四六:飲酒欲 四七:貪欲 四三 鄭重あるいは礼譲とは人々に気に入ることをなし、人々に気に入らぬことを控えようとする欲望である。 四四 名誉欲とは名誉に対する過度の欲望である。 説明 名誉欲はすべての感情を育(はぐく)みかつ強化する欲望である(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。および定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を(すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)。したがってこの感情は、ほとんど征服できないものである。なぜなら、人間は何らかの感情に囚われている間は必ず同時に名誉欲に囚われているからである。キケロは言う、「最もすぐれた人々も特に名誉欲には支配される。哲学者は名誉の軽蔑すべきことを記した書物にすら自己の名を署する云々」。 四五 美味欲とは美味に対する過度の欲望あるいは愛である。 四六 飲酒欲とは飲酒に対する過度の欲望および愛である。 四七 貪欲とは富に対する過度の欲望および愛である。 *マルクス=トゥリウス=キケロ (Mrcus Tullius Cicero /前106~前43年)は、ローマ共和政の末期の「内乱の1世紀」時代の政治家でかつ雄弁家、文章家、哲学者として著名であった。地方の騎士(エクイテス)の家柄に生まれ、ローマに遊学、修辞学、哲学、法律を学び、弁護士として頭角を現す。さらにアテネ、小アジア、ロードス島に行き、ギリシア哲学を学びギリシア語文献をラテン語に訳すなど、素養を積んだ。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んでローマに紹介したのもキケロであった。哲学・思想ランキング
2022年04月12日
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神の存否-376 付録:感情の諸定義 三九:臆病 四〇:大胆 四一:小心 四二:恐慌 三九 臆病とは我々の恐れるより大なる害悪をより小なる害悪によって避けようとする欲望である。 この部第三部の定理三九の備考(抜粋:人間をしてその欲するものを欲せずあるいはその欲せざるものを欲するように仕向けるこの感情は臆病と呼ばれる。したがって臆病とは人間をしてその予見する悪をより小なる悪によって避けるように仕向ける限りにおける恐怖にほかならない。)を見よ。 四〇 大胆とは同輩が立ち向かうことを恐れるような危険を冒してある事をなすようにある人を駆る欲望である。 四一 小心とは同輩があえて立ち向かうこと辞さないような危険を恐れて、自己の欲望を阻まれる人間について言われる。 説明 そこで小心とは大抵の人が通常恐れないようなある害悪に対する恐怖にほかならない。だから私は小心を欲望の感情に数えない。それにもかかわらず私がここで説明しようとしたのは、欲望を眼中に置く限り、小心は大胆の感情と事実対立するからである。 四二 恐慌とはある害悪を避けようとする欲望がその恐れる害悪に対する驚きのため阻まれる人間について言われる。 説明 そこで恐慌とは小心の一種である。しかし恐慌は二重の恐れから生ずるゆえに、我々はこれをもっと適切に次のように定義することができる。すなわち恐慌とは人間をして迫っている害悪を排除することができないようなふうに驚愕させあるいは動揺させる恐怖であると。「驚愕させる」と私が言うのは、その事惑を排除しようとする彼の欲望が驚きのため阻止されると解される限りにおいてである。また「動揺させる」というのは、この欲望が、同様にその人を悩ましている他の害悪に対する恐れのため阻止され、その結果彼は二つの害悪のいずれを避けるべきかを知らないと考えられる限りにおいてである。 こうしたことについてはこの部第三部の定理三九の備考(抜粋:予見される悪を避けようとする欲望が他の悪への怯えによって阻害されていずれを選ぶべきかを知らない場合に、特にその恐れる二つの害悪がきわめて大なる場合にはその恐怖は恐慌と呼ばれる。および第三部定理五二の備考(抜粋:害悪への驚異は人間がその害悪を避けうるための他のことを思惟することができないまでに人間をもっぱらその害悪の観想の虜にするからである。)を見よ。なお小心および大胆についてはこの部の定理五一の備考(抜粋:私が恐怖するのを常とする害悪を軽視する人を私は果敢と呼ぶであろう。その上憎む者に害悪を加え・愛する者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐れる者は私には臆病に見えるであろう、その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。そして何びともこのようにして判断するであろう。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月11日
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神の存否-375 付録:感情の諸定義 三六:怒り 三七:復讐心 三八:残忍あるいは苛酷 三六 怒りとは我々の憎む人に対して、憎み心から、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。この部第三部の定理三九(ある人を憎む者はその人に対して悪≒害悪を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善≒親切をなそうと努めるであろう。)を見よ。 三七 復讐心とは我々に対して、憎しみの感情から害悪を加えた人に対して、同じ憎み返しの心から、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。 この部第三部の定理四〇の系二(もしある人が、前に自分がいかなる感情もいだいていなかった他人から憎しみのゆえにある害悪を加えられたことを表象するなら、彼はただちに同じ害悪をその他人に報いようと努めるであろう。)ならびにその備考8我々の憎む者に対して害悪を加えようとする努力は怒りと呼ばれる。また我々に対して加えられた害悪に報いようとする努力は復讐と称される。)を見よ。 三八 残忍あるいは苛酷とは我々の愛する者あるいは憐む者に対して、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。この部第三部の定理四一の系の備考(この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。)を見よ。 説明 残忍には温和が対置される。しかし温和は受動ではなく、人間が怒りおよび復讐を抑制するような精神の能力である。哲学・思想ランキング
2022年04月10日
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神の存否-374 付録:感情の諸定義 三二:思慕 三三:競争心 三四:感謝あるいは謝恩 三五:慈悲心 三二 思慕とは、その物を想起することによってそれを所有しようとする欲望があおられ、また同時にその物の存在を排除する他の事物を想起することによってその欲望が阻まれる、そうしたある物への欲望ないし衝動である。 説明 我々がある物を想起するなら、すでにしばしば述べたように、我々はそのために、その物が現在した場合と同様の感情をもってその物を観想するように促される。しかしこの傾向ないし努力は、我々の精神がはっきり醒めている間は、大抵、我々の想起する物の存在を排除するような事物の表象像によって阻まれる。だから我々が自分をある種類の喜びに刺激する物を思い出す時、そのために我々は同じ喜びの感情をもってそれを現在するものとして観想するように努める。だがこの努力はその物の存在を排除する事物の想起によってただちに阻まれる。ゆえに思慕は実際は我々の憎む物の不在から生ずるあの喜びに対立するある種の悲しみなのである。しかし思慕なる名称は欲望に関係するように見えるので、そのゆえに私はこの感情を欲望の感情に数える。 三三 競争心とは、他の人がある物に対する欲望を有することを我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ物に対する欲望である。 説明 他人が逃げるのを見て逃げ、あるいは他人が恐れるのを見て恐れ、あるいはまたある人がその手を焼いたのを見てそのため自分の手を引っこめて、あたかも自分の手が焼かれたかのような動作をする人、そうした人を目して我々は、他人の感情を模倣するとは言うが他人と競争するとは言わないであろう。これは競争には模倣の場合と異なった原因があることを我々が指摘しうるためではない。ただ端正であり、有益であり、あるいは愉快であると判断される事柄を模倣する人だけを競争すると呼ぶ慣わしになっているためである。 なお競争心の原因についてはこの第三部部の定理二七(我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。)およびその備考(備考一 感情のこの模倣が悲しみに関する場合には憐憫と呼ばれる。しかしそれが欲望に関する場合は競争心と呼ばれる。ゆえに競争心とは我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ欲望にほかならないを見よ。だがねたみがなぜ多くの場合この感情と結びつくかについてはこの部第三部の定理三二(ただ一人だけしか所有しえぬようなものをある人が享受するのを我々が表象するなら、我々はその人にそのものを所有させないように努めるであろう。)およびその備考(要旨:人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者をねたむようにできている。)を見よ。 三四 感謝あるいは謝恩とは我々に対して愛の感情から親切をなした人に対して親切を報いようと努める欲望あるいは同様な愛の情熱である。 この部第三部の定理三九(ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。)および(定理四一の備考(この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。)を見よ。 三五 慈悲心とは我々の憐む人に対して親切をなそうとする欲望である。 この部第三部の定理二七の備考(要旨:あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望にほかならない。)を見よ。 記:慈悲がスピノザの云う神なるものの基底にあるとしても、其れは人間の神に起因する様態の延長上に過ぎず、其の裁量は人間に任されています。神自身からは人間の幸・不幸には関与せず、人間の幸・不幸は自らが神存在を理解し関与「実践倫理(幸福の倫理)」することにあるとするのがスピノザの基本的主張であり思想です。哲学・思想ランキング
2022年04月09日
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神の存否-373 付録:感情の諸定義 二八:高慢 二九:自卑 三〇:名誉 三一:恥辱 二八 高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである。 説明 だから高慢と買いかぶりとの相違は、後者は外部の対象に関係するが高慢は自己を正当以上に感ずる当人に関係するという点にある。なおまた買いかぶりが愛の一結果あるいは一特質であるように、高慢は自己愛の一結果あるいは一特質である。このゆえに高慢とは自分について正当以上に感ずるように人間を動かす限りにおける自己愛あるいは自己満足であると定義することもできる(この部第三部の定理二六の備考(要項: 高慢とは狂気の一種である。なぜならこのような人間は、単に表象においてのみ達成されることをすべてなしうるものと目を開きながら夢み、そのためにそれらのことを実在するかのように観想し、そしてそれらの存在を排除しかつその人間自身の活動能力を限定するものを表象しえない限りにおいて、それらについて誇っているのだからである。ゆえに高慢とは人間が自分自身について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。次に人間が他のものについて正当以上に感ずることから生ずる喜びは買いかぶりと呼ばれ、最後に人間が他のものについて正当以下に感ずることから生ずる喜びは見くびりと呼ばれる。を見よ)。この感情には反対感情が存しない。なぜなら、何びとも自分への憎しみのため自分について正当以下に感ずることはないからである。実に人間は、自分がこのことあるいはかのことができないと表象する限りにおいても自分について正当以下に感じているのではない。というのは、人間が自分にできないと表象する事柄はすペてそう表象せざるをえないのであって、この表象によって彼は自分ができないと表象することを実際になしえないようなある状態に置かれる。すなわち自分はこのことあるいはかのことができないと表象する間は彼はそれをなすように決定されないのであり、したがってまたその間はそれをなすことが彼には不可能でもあるのである。 しかし単に他人の意見のみに関する事柄を眼中に置くなら、我々は、人間が自分自身について正当以下に感ずるということもありうることを考えうるであろう。例えばある人が悲しみをもって自己の弱小を観想し、他の人々が少しも彼を軽蔑しようと思わないのに自分がすべての人から軽蔑されるように表象するということはありうるのである。そのほか人間は不確実な未来に関して現在の瞬間にある事を自分自身について否定する場合に、自分について正当以下に感ずることができる。例えば自分は何も確実なことを考ええないし、また悪いこと賎(いや)しむべきことしか欲しあるいはなすことができないなどという場合のごときである。最後にある人が自分と同等の他の人々のあえてなすようなことも、恥辱に対する過度の恐れからあえてしないのを我々が見る時に、その人が自分自身について正当以下に感じていると我々は言うことができる。そこで我々はこうした感情を高慢と対置させることができる。この感情を私は自卑と名づけるであろう。すなわち自己満足から高慢が生ずるように、謙遜から自卑が生ずるのである。したがって我々はこれを次のように定義する。 二九 自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである。 説明 しかし我々はしばしば高慢に謙遜を対置させるのが慣(なら)いである。けれどもその場合には両感情の本性よりもむしろ結果を眼中に置いているのである。すなわち過度に自らを誇り、この部第三部の定理三〇の備考 (抜粋:名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。)を見。、自分の美点と他人の欠点のみを語り、すべての人の上に立とうと欲し、また最後に、自分よりはるかに地位の高い人々に見るような威儀と服装とをもって立ち現われる人、そうした人を我々は高慢な人と呼ぶのが常である。これと反対に、しばしば赤面し、自分の欠点を告白して他人の美点を語り、すべての人に譲歩し、最後にまた、頭を垂れて歩み、かつ身を飾ることを嫌う人、そうした人を我々は謙遜な人と呼んでいる。 なおこれらの感情、すなわち謙遜と自卑とはきわめて稀である。なぜなら人間本性は、それ自体で見れば、できるだけそうした感情に反抗するからである(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。および定理五四 精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。を見よ)。こんなわけできわめて自卑的でありきわめて謙遜であると見られる人々は大抵の場合きわめて名誉欲が強くきわめてねたみ深いものである。 三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。 三一 恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである。 説明 この二つについてはこの部の定理三〇の備考(抜粋:自分は他の人々を喜びに刺激しているとある人の表象するその喜びが、単に表象的なものにすぎないこともありうるし、また各人は自分を喜びに刺激すると表象するすべてのものを自分について表象しようと努めるのであるから、名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。)を見よ。 だが恥辱と羞恥との相違をここに注意しなくてはならぬ。すなわち恥辱とは我々の恥じる行為に伴う悲しみである。これに対して羞恥とは恥辱に対する恐怖ないし臆病であって、醜い行ないを犯さぬように人間を抑制させるものである。羞恥には通常無恥が対置されるが、無恥は、適当な場所で示すだろうように、実は感情ではない。しかし一般に感情の諸名称は既に注意したように、その本性を表わすよりもその日常の慣用に関係しているのである。 これでもって喜びおよび悲しみの感情に関する予定の説明を終えた。だからこれから欲望に関係する感情へ移る。哲学・思想ランキング
2022年04月08日
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神の存否-372 付録:感情の諸定義 二五:自己満足 二六:謙遜 二七:後悔 二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。 二六 謙遜(*自劣感)とは人間が自己の無能力あるいは弱小を観想することから生ずる悲しみである。 説明 自己満足は、我々が自分の活動能力を観想することから生ずる喜びであると解される限りにおいて謙遜と対置される。しかしそれは、我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った喜びであると解される限りにおいては、次のように定義される後悔と対置される。 二七 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲しみである。 説明 我々はこの三つ(自己満足・謙遜・後悔)の感情の原因をこの部第三部の定理五一の備考(抜粋:後悔とは原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは原因としての自己自身の観念を伴った喜びである。そしてこれらの感情は人間が自らを自由であると信ずるがゆえにきわめて強烈である。)および第三部定理五三(精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。)、定理五四(精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。)、定理五五(精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。)ならびにその備考(抜粋:我々の弱小の観念を伴ったこの悲しみは謙遜と呼ばれる。これに反して、我々自身を観想することから生ずる喜びは自己愛または自己満足と称される。)において示した。また精神の自由な決意については第二部定理三五の備考(抜粋:人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である云々。記:然し乍らスピノザは後々の記述では「人間の精神の自由」をある意味合いで復活させているその真意を慮ること。)を見よ。 しかしなおここに注意すべきことがある。それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞讃し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって涜神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。哲学・思想ランキング
2022年04月07日
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神の存否-371 付録:感情の諸定義 二○:憤慨 二一:買い被り 二二:見縊り 二三:妬み 二四:同情 二〇 憤慨とは他人に害悪を加えた人に対する憎しみである。 説明 この二つの名称(注:憤慨と憎しみ)が通常の用法では別の意味を有することを私は知っている。しかし私の意図するところは、言葉の意味を説明することではなくて、事物の本性を説明しかつ事物を一定の言葉であり云々。〜〜その通常の意味が私の用いたいと思う意味とひどくはくい違わないような言葉で表示することにある。このことは一度注意しておけば十分であろう。なおこの二つの感情の原因についてはこの部第三部の定理二七の系一(その人に対して我々が何の感情もいだいていないある人が、我々と同類のものを喜びに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反してその人がそうしたものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して憎しみに刺激されるであろう。)および定理二二の備考(要約:我々は他人に善をなした人に対する愛を好意と呼び、これに反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。~自分と同類のものに不幸を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。)を見よ。 二ー 買いかぶりとはある人について、愛のゆえに、正当以上に感ずることである。 二二 見くびりとはある人について、憎しみのゆえに、正当以下に感ずることである。 説明 こうして買いかぶりは愛の一結果もしくは一特質であり、見くびりは憎しみの一結果あるいは一特質である。したがって買いかぶりとは愛するものについて正当以上に感ずるように人間を動かす限りにおける愛であると定義し、また反対に、見くびりとは憎むものを正当以下に感ずるように人間を動かす限りにおける憎しみであると定義することもできる。この二つについてはこの部第三部の定理二六の備考(抜粋:我々は、人間が自分自身ならびに自分の愛するものについて正当以上に感じ、将又、自分の憎むものについて正当以下に感ずるということが起こりやすいことを知りうる。 )を見よ。 二三 ねたみとは他人の幸福を悲しみまた反対に他人の不幸を喜ぶように人間を動かす限りにおける憎しみである。 説明 ねたみには通常同情が対立させられる。したがって同情を言葉のもともとの意味から離れて次のように定義することができる。 二四 同情とは他人の幸福を喜びまた反対に他人の不幸を悲しむように人間を動かす限りにおける愛である。 説明 なお、ねたみについてはこの部第三部の定理二四の備考(抜粋:ねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせるものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならない。)および定理三二の備考(抜粋:人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者を妬むようにできている)ことを見よ。 以上は外部の原因(それ自身による原因たると偶然による原因たるとを問わない)の観念を伴った喜びおよび悲しみの感情である。これから私は内部の原因の観念を伴った他の喜びおよび悲しみの感情に移る。哲学・思想ランキング
2022年04月06日
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神の存否-370 付録:感情の諸定義 一六:歓喜 一七:落胆 一八:憐憫 一九:好意 一六 歓喜とは恐怖に反して起こった過去の物の観念を伴った喜びである。 一七 落胆とは希望に反して起こった過去の物の観念を伴った悲しみである。 一八 憐憫とは我々が自分と同類であると表象する他人の上に起こった害悪の観念を伴った悲しみである。この部第三部の定理二二の備考(~我々はこれを他人の不幸から生ずる悲しみであると定義することができる。しかし他人の幸福から生ずる喜びがいかなる名前で呼ばれるべきかを私は知らない。さらに我々は他人に善をなした人に対する愛を好意と呼び、これに反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。最後に注意すべきことは、我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(前定理二ー 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。で示したように)だけでなく、また以前には我我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する・同類であると我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる、のちに示すだろうように。したがって我々は自分と同類のものに善をなした人に対しても好意を感じ、また反対に自分と同類のものに不幸を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。および定理二七の備考(~あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望にほかならない。なお我々と同類であると我々の表象する対象に善あるいは悪をなした人に対する愛あるいは憎しみについては、この部第三部の定理二二の備考我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(前定理二ー 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。で示したように)だけでなく、また以前には我我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する・同類であると我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる。~を見よ。 説明 憐憫と同情との間には、おそらく、憐憫は個々の感情を眼中に置いたものであり同情は憐憫の習性を眼中に置いたものであるという以外には何の相違もないように思われる。 一九 好意とは他人に親切をなした人に対する愛である。哲学・思想ランキング
2022年04月05日
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神の存否-369 付録:感情の諸定義 一二:希望 一三:恐怖 一四:安堵 一五:絶望 一二 希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな喜びである。 一三 恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな悲しみである。 この二つについてはこの部第三部の定理一八の備考二(抜粋: 我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。)を見よ。 説明 これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる。なぜなら、希望に頼ってある物の結果につき疑っている人は、その未来の物の存在を排除するあることを表象し、かくてその限りにおいて悲しみ(この部第三部の定理一九自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)、したがって希望に頼っている間はその物が出現しないことを恐れもしている、と認められるからである。これに反して恐怖の中に在る人すなわち憎むある物の結果について疑う人は、同様にその物の存在を排除するあることを表象し、かくて喜び(この部第三部の定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)、したがってその限りにおいていまだその物の出現しないことを希望してもいるのである。 一四 安堵とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる喜びである。 一五 絶望とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる悲しみである。 説明 こうして物の出現に対する疑いの原因が除去される時に希望から安堵が生じ、恐怖から絶望が生ずる。この原因の除去は、人間が過去あるいは未来の物をあたかもそこにあるかのように表象してこれを現在するものとして観想することによっても起こるし、あるいは人間が彼に疑いを惹き起こさせた事物の存在を排除するような他のことを表象することによっても起こるのである。というのは、たとえ我々は個々の物の結果について決して確実でありえないとしても(第二部定理三一の系 抜粋: すべての個物は偶然的でかつ可滅的である。により)。しかし我々がそれらの物の結果について疑わないということは起こりうる。我々の示したように、ある物について疑わないということとその物について確実性を有するということは別問題だからである(第二部定理四九の備考 抜粋: 人間が偽なる観念に安んじて少しもそれについて疑わぬと我々が言う場合、それは彼がそれについて確実であるというのではなくて、単にそれについて疑わぬというだけのことである。あるいは彼の表象を動揺させる原因、言いかえれば彼にそれを疑わせる原因が少しも存在しないから彼はその偽なる観念に安んじているというだけのことである。を見よ)。したがって我々は過去あるいは未来の物の表象像によってあたかも現在の物の表象像によるのと同じ喜びあるいは悲しみの感情に刺激されることが起こりうる。これはこの部第三部の定理一八(人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。)で証明したところである。その定理ならびにその二つの備考(備考一抜粋: 表象像から生ずる感情はさほど確乎たるものでなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばしば他の事物の表象像によって乱されることになる。備考二:今しがた述べたことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月04日
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神の存否-368 付録:感情の諸定義 八:好感 九:反撥 一〇:帰依 一一:嘲弄 スピノザは精神感情の諸処の感情表現の語彙を感情の三要素、喜び・悲しみ・欲望、受動態と能動態で区分すれば悲しみは受動態であり、喜び・欲望は受動と能動の両者に関係すると捉えます。要は、喜び・悲しみ・欲望の匙加減が人間個々の多彩に表現される精神感情を引き起こすとします。確かに、フロイトやユング及びヴントの精神分析学や心理学から発展した現代心理学から見れば大雑把で拙さを云う向きもありますが、現代にあっても通常に理解することは可能です。 八 好感とは偶然によって喜びの原因となるようなある物の観念を伴った喜びである。 九 反撥とは偶然によって悲しみの原因となるようなある物の観念を伴った悲しみである。 この二つについてはこの部第三部の定理一五の備考(要項:その原因を知らずにただいわゆる同感「先入的好感」および反感だけからある物を愛したり憎んだりするということがどうして起こりうるかを理解する。)を見よ。 一〇 帰依とは我々の驚異する人に対する愛である。 説明 驚異は物の新奇性から生ずることを我々はこの部第三部の定理五二で示した。だからもし我々が驚異するものをしばしば表象するということが起こるなら、我々はそれを驚異することをやめるであろう。したがって我々は帰依の感情が容易に単純な愛に変ることを知る。 一一 嘲弄(ちょうろう)とは我々の軽蔑するあることが我々の憎む物の中に存することを表象することから生ずる喜びである。 説明 我々が憎む物を軽蔑する限りにおいて我々はその物の存在を否定する。この部の定理五二の備考(抜粋: 帰依が我々の愛するものへの驚異から生ずるように、嘲弄は我々の憎みあるいは恐怖するものへの軽蔑から生ずる。)を見よ。そしてその限りにおいて我々は(この部第三部の定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)喜ぶ。しかし人が その嘲弄するものを憎んでもいるということを我々は仮定しているのであるから、その帰結として、この喜びは基礎の固いものではないということになる。この部の定理第三部四七の備考(抜粋: なぜ人間がある過去の害悪を想起するごとに喜びを感ずるか、またなぜ自分のまぬがれた危難について物語るのを楽しむかの理由。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月03日
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神の存否-367付録:感情の諸定義 六:愛 七:憎しみ スピノザが著書「エチカ(倫理学)」で最も主張すべき命題としての、人間の喜びと幸福への精神感情の経緯が人間の喜びと欲望が愛へと向かい、それが実践として善への倫理に繋がり、神(世界)単一宇宙論ユニバースで云う単一の無限の世界です。現代最先端の重力量子物理学から派生したマルチバース理論が仮想する各種の宇宙論には認識哲学を主旨とするスピノザが対応し切れないのは無理がありません。何れにしろ我々が認識するのは現宇宙ですから、スピノザの哲学的世界観を受け入れることには矛盾は生じないと憶えます。:記 六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。 説明 この定義は愛の本質を十分明瞭に説明する。これに反して著作家たちのあの定義、愛とは愛する対象と結合しようとする愛する者の意志であるという定義は、愛の本質ではなくその一特質を表現するにすぎない。そしてこれらの著作家たちは、愛の本質を十分に洞察しなかったから、愛の特質に関しても明瞭な概念を持つことができなかったのであり、その結果として彼らの定義はいたって曖昧なものと人々から批判されている。しかしここに次のことを注意してもらわなければならぬ。意志によって愛する対象と結合しようとするのが愛する者における一特質であると私が言う場合、私は意志ということを精神の同意ないし考慮、あるいは自由決意と解せず、なぜなら第二部定理四八(精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。)で証明したようにそうしたものは想像の産物にすぎないから)。また愛する対象が不在ならばこれと結合しようとし、それが存在するならばその現在に固執しようとする欲望であるとも解しない。なぜなら愛はこのあるいはかの欲望なしにも考えられうるからである。むしろ私は意志ということを愛する対象の現在のゆえに愛する当人が感ずる満足、それによって愛する当人の喜びが強化されあるいは少なくともはやくまれるその満足と解する。 七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。 説明 ここで注意すべきことは前の定義の説明の中で述べたことから容易に看取される。そのほかこの部第三部の定理一三の備考(要項:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月02日
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神の存否-366 付録:感情の諸定義 四:驚異 五:軽蔑 スピノザの云う驚異とは単に非常に驚くことである驚愕(きょうがく)ではなく、其のことが他の精神感情を生起しない特殊な感情です。旧約のモーゼ(moses)が初めて神の声を頭に聞いた啓示は人間の聴覚には捉え切れないものですから、当然に所謂、新奇な物の表象として幻聴と自己の狂気を疑い、恐らくは頭からか離れずに精神感情は取り憑かれたでしょう。其のときには他には何も考えられなかった筈です。すなわち、驚異とは通常生活においては経験されない事物への精神感情の憑依・停止を意味します。:記 四 驚異とはある事物の表象がきわめて特殊なものであってその他の表象と何の連結も有しないために、精神がその表象に縛られたままでいる状態である。(定理五二 我々が以前に他のものと一緒に見た対象、あるいは多くのものと共通な点しか有しないことを我々が表象する対象、そうした対象を我々は、ある特殊の点を有することを表象する対象に対してほどに長くは観想しつづけないであろう。および、その備考 驚異、愛、恐怖などの原因となりうる一切の点をその物について否定せざるをえないようになれば、精神は、その物の現在によって、対象の中に存するものよりも対象の中に存しないものについてより多く思惟するように決定されることになるのである。本来ならこれと反対に、精神は、対象の現在によって、もっぱらその対象の中に存するものについて思惟するのが常であるのに。)を見よ。 説明 我々は第二部定理一八の備考(要約:人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結と連結は精神の中に、人間身体の変状、刺激状態の秩序および連結の相応性)で、いかなる原因によって精神は一つの物の観想からただちに他の物の思惟に移るかを示した。それはすなわちそれらの物の表象像が相互に結合して一が他に継いで起こるように秩序づけられているからである。こうしたことは物の表象像が新奇なものである場合には考えられない。こういう場合、精神はむしろ他の原因によって他のものを思惟するように決定されるまではその物の観想に引きとどめられているであろう。こうして新奇な物の表象も、それ自体において見れば、その他の諸表象と同じ本性のものである。この理由によって私は驚異を感情の中に数えないし、また数える理由も認めない。なぜなら、精神がこのように他のものから離されて、その物にだけとどまっているのは、精神を他のものから引き離す積極的な原因から生ずるのではなくて、単に、ある物の観想をやめて他のものを思惟するように精神を決定するような原因が欠けているという事実からのみ生ずるのだからである。このようにして私は(この部第三部の定理一一の備考で注意したように)単に三つの根本的ないし基本的な感情を、すなわち喜び、悲しみ、欲望の三つの根本的感情を、認めるのみである。そして私が驚異について言及したのは、この三つの根本的感情から導き出されるある種の感情が我々の驚異する対象に関係する場合には別な名称をもって呼ばれるのが習いとなっているためにほかならない。私が軽蔑の定義をもここに付加することにしたのも、また同じ理由からである。 五 軽蔑とは精神が、ある事物の現在によって、その事物自身の中に在るものよりもむしろその事物自身の中にないものを表象するように動かされるほど、それほどわずかしか精神をとらえるところのない事物の表象である。この部第三部の定理五二の備考(主旨:驚異に対立するものは軽蔑)を見よ。 尊敬および侮蔑の定義はここには割愛する。なぜなら、私の知る限り、いかなる名称の感情もこの二者から導き出されていないからである。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2022年04月01日
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神の存否-365 付録:感情の諸定義 二:喜び 三:悲しみ 二 喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである。 三 悲しみとは人間がより大なる完全性からより小なる完全性へ移行することである。 説明 私は移行と言う。なぜなら喜びは完全性そのものではないからである。すなわちもし人間がその移行する完全性を生まれながら持っていたとしたら、彼は喜びの感情なしにそれを所有したであろう。このことは喜びの感情と対立する悲しみの感情からいっそう明瞭になる。なぜなら、悲しみがより小なる完全性への移行に存し、より小なる完全性そのものではないことは誰しも否定しえない。人間はある程度の完全性を分有する限りにおいては悲しみを感じえないからである。また悲しみはより大なる完全性の欠乏に存するとも言えない。というのは欠乏は無であるが悲しみの感情は一個の積極的な状態だからである。ゆえに悲しみの感情はより小なる完全性へ移行する状態、言いかえれば人間の活動能力が減少しあるいは阻害される状態(この部の定理一一の備考要約:精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる云々。を見よ)以外のものではありえない。 そのほか快活、快感、憂鬱、および苦痛の定義は省略する。これらは主として身体に関係し、また喜びもしくは悲しみの種類にすぎないからである。哲学・思想ランキング
2022年03月31日
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神の存否-364 スピノザは有り難いことに自己の提起した諸感情の定義をを付録として追記しています。 諸感情の定義付録:感情の諸定義、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、 感情の総括的定義、第三部TOP 付録:感情の諸定義一 欲望 一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。 説明 我々はさきに、この部第三部の定理九の備考 (注:我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するということである。)において、欲望とは意識を伴った衝動であり、また衝動とは人間の本質が自己の維持に役立つことをなすように決定される限りにおいて人間の本質そのものであると言った。しかし私はまた同じ備考で、人間の衝動と欲望との間には実際には何の相違も認めないことを注意した。なぜなら、人間が自己の衝動を意識しようとしまいと衝動は同一にとどまるからである。そこで私は同語反復(タウトロギア)を犯すと見られないように、欲望を衝動によって説明することを好まなかった。むしろ欲望を、我々が衝動、意志、欲望または本能という名称をもって表示する人間本性の一切の努力をその中に包括するような仕方で定義しようとつとめた。もちろん私は「欲望とは人間の本質があることをなすように決定されると考えられる限りにおいて人間の本質そのものである」とだけも言いえたであろう。だがこの定義からは(第二部定理二三 精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。により)精神が自己の欲望ないし衝動を意識しうるということは出てこないであろう。ゆえにこの意識の原因を含めるために「与えられたそのおのおのの変状によって決定されると考えられる限りにおいて」と付加することが必要であったのである(同じ第二部定理二三により)。なぜなら人間の本質の変状ということを我々はその本質のおのおのの状態と解するからである。その状態が生得的のものであろうと、〈外部から得られたものであろうと、〉またそれが思惟の属性のみによって考えられようと、延長の属性のみによって考えられようと、最後にまたそれが両属性に同時に関係しようと、変りはないのである。ゆえに私はここでこの欲望という名称を人間のあらゆる努力、あらゆる本能、あらゆる衝動、あらゆる意志作用と解する。こうしたものは同じ人間にあってもその人間の異なった状態に応じて異なり、また時には相反的でさえあり、この結果人間はそうしたものによってあちこちと引きずりまわされて自らどこへ向かうべきかを知らないというようなことにもなるのである。 スピノザが感情の諸定義の筆頭に欲望を真っ先に掲げるのは、欲望が如何に喜び・悲しみ等々の精神感情に対しても、人間の精神行動に与えるインパクトは大きく強靭さを持つからです。哲学・思想ランキング
2022年03月30日
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神の存否-363 スピノザの云う精神感情は現実的には他からの働きがけのみに起因する悲しみの感情と、他からの働きがけのみならず、他者への働き掛けをする喜びあるいは欲望に関する感情をすべての感情の基底に置き、他の多数の感情の特質は此れ等三者の絡み合いの具合の加減だと云うことです。味覚には、甘味・酸味・塩味・苦味・旨味はありますが辛味や渋みなどはありません。然し乍ら、辛味・渋みそのものを極上の旨味そのものととる人がいることも事実です。其の関係はスピノザの云う基本の精神感情と対応させてみれば何に某しらの共通点は見い出されます。:記 定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。 証明 すべての感情は、我々が与えたその定義から分かるように、いずれも欲望、喜びあるいは悲しみに関係している。ところで悲しみとは精神の思惟能力を減少しあるいは阻害するものであると我々は解する(この部第三部の定理一一 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。およびその備考 要項:身体と精神の認識的存在の人間身体と精神存在の状況の有る無し。により)。したがって精神が悲しみを感ずる限り、精神の認識能力すなわち(この部第三部の定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。により)その活動能力は減少されあるいは阻害される。したがって働く限りにおける精神にはいかなる悲しみの感情も帰せられえない。帰せられうるのはただ、働く限りにおける精神にも関係する(この部第三部前定理五八 受動である喜びおよび欲望のほかに、働きをなす、つまりは能動的である限りにおける我々に関係する他の喜びおよび欲望の感情が存する。により)喜びおよび欲望の感情のみである。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を、私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する。かくのごとく私は、行為者の利益のみを意図する行革を勇気に帰し、他人の利益をも意図する行為を寛仁に帰する。ゆえに節制、禁酒、危難の際の沈着などは勇気の種類であり、これに反して礼譲、温和などは寛仁の種類である。 これでもって私は三つの根本的感情、すなわち欲望、喜び、悲しみの合成から生ずる主要な感情および心情の動揺を説明し、これをその第一原因によって示したと信ずる。これからして、我々は外部の諸原因から多くの仕方で動かされること、また我々は旋風に翻弄される海浪のごとく自らの行末や運命を知らずに動揺することが明白になる。しかし私は単に主要な感情を示したとは言ったが、存在しうる心情の葛藤のすペてを示したとは言わなかった。というのは、我々は上と同じ方法を継続して、愛が後悔、侮蔑、恥辱などと結合することを容易に示しうるからである。のみならずまた、上に述べたことからして、もろもろの感情がこのように種々の仕方で相互に組み合わせられて、それから数えきれないほど多くの変種が生じうることは誰にも明瞭であると信ずる。しかし私の計画にとっては、単に主要な感情のみを数え上げただけで十分である。なぜなら、私が省略したその他の感情は、実用的価値というよりは好奇的価値を有するにすぎぬからである。 だがしかし、愛についてまだ注意することが残っている。それは次のようなことがしばしば起こることである。すなわち、我々が我々の衝動の対象物を享受する間に、身体はこの享受によって新しい状態に達し、この状態が身体を別様に決定し、事物に関する別な表象像が身体の中に喚起され、それと同時に精神は異なったことを表象し、異なったことを欲し始める、ということである。例えば、その味が我々を楽しませるのを常とするある物を我々が表象する時、我々はそれを享受すること、すなわち食うことを欲する。ところがそれ亨1うして享受する間に胃は充実して、身体は別様な状態に置かれる。だからもし身体がすでに別様な状態になっている際、同じ食物がなお現在するためにその表象像がまだ保存されており、したがってそれを食おうとする努力ないし欲望も保存されているとすれば、あの新しい身体の状態はこの欲望ないし努力と矛盾するであろう。したがってさきに我々の衝動の対象であった食物の現存が今は厭わしくなるであろう。これは我々が飽満および厭悪と呼ぶところのものである。 そのほかもろもろの感情において見られる身体の外的諸変状、例えば震え、青ざめ、すすり泣き、笑いなどは割愛した。それらは単に身体のみに関係し、精神とは何の関係も持たぬからである。 最後に、もろもろの感情の定義について若干の注意すべきことがある。だから私はここでそれらの定義を秩序だてて繰り返し、おのおのについて注意すべき事柄をその間に挿入していくであろう。 スピノザの精神感情の分析は、後世の実験心理学の父と称されるヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt、1832年 - 1920年)の先駆けともとれる考察は、まさに認識哲学が齎したものでしょう。:記 哲学・思想ランキング
2022年03月29日
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神の存否-362 スピノザは人間の精神感情の基底にあるのは欲望と喜びおよび悲しみの三者を基本とした感情であり、他に数多く表現される諸感情は、此れ等三者の合成の在り方だとします。そして此れ等三者を能動的感情と受動的感情に区分けし、能動的感情と受動的感情を併せ持つのが欲望と喜びであり、受動的感情のみを持つのが悲しみの感情形態だとします。誰もが好き好んで悲しみを請い求めるとは思えないからでしょう。:記 定理五八 受動である喜びおよび欲望のほかに、働きをなす、つまりは能動的である限りにおける我々に関係する他の喜びおよび欲望の感情が存する。 証明 精神は自己自身および自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる(この部第三部の定理五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。により)。ところで精神は真のあるいは妥当な観念を有する時に必然的に自己自身を観想する(第二部定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。により)。ところが精神は妥当な観念を有する(第二部定理四〇の備考二 上に述べたすべてのことからして、我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的概念を形成することが明白に分かる。要約:すなわち次の手段でとして、一 漠然たる経験による認識。二 第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナティオ)。三 理性(ラティオ)あるいは第二種の認識。すべからく、二種の認識のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれを直観知(スキエンティア・イントゥイティヴァ)を妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものとして云々。により)。ゆえに精神は妥当な観念を有する限りにおいても、言いかえれば(この部第三部の定理一我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。により)働きをなす限りにおいても、喜びを感ずる。 次に精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、また混乱した観念を有する限りにおいても、自己の有に固執しようと努める(この部第三部の定理九 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。により)。ところが我々はこの努力を欲望と解する(同じ定理の備考により)。ゆえに欲望は妥当な認識をなす限りにおいての我々、すなわち(前記:この部第三部の定理一により)働きをなす限りにおいての我々にも関係する。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 スピノザの精神感情の認識論は認識論哲学を超えて精神分析学としても優れており、後世のオーストリアの心理学者ジークムント・フロイト(独: Sigmund Freud、1856年 – 1939年)への影響をも推測させられます。哲学・思想ランキング
2022年03月28日
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神の存否-361 スピノザの精神感情の範囲はいわゆる生物学的に下等生物とされるもの及び植物を除いて、生物一般にまで目が注がれています。カブトムシは本性の欲望それなりに蜜を求め喜びを満たすとします。当然に、人類である人間精神の感情とは意を事にしますが、此の精神感情の異相は其れ程には極端ではないにしても人間個々其々にも人間の本質が異なるだけ多彩だと断定します。突き詰めれば、人間とは「個性的生物」だということです。 定理五七 各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている。 証明 この定理は第二部定理一三の備考につづく補助定理三のあとの公理一から明白である。その公理を見よ。しかしそれにもかかわらず我々はこれを三つの根本的感情の定義から証明するであろう。 すべての感情は我々の与えたその定義から分かるように欲望、喜び、もしくは悲しみに関係する。ところで欲望は各人の本性ないし本質そのものである(この部の定理九の備考におけるその定義を見よ)。ゆえに各個人の欲望は他の個人の欲望と、ちょうど一方の人間の本性ないし本質が他方の人間の本質と異なるだけ相違している。 注:スピノザは精神感情を欲望・喜び・悲しみの三基本とするが欲望と喜びは能動性を、喜びは能動・受動性を帯び、悲しみは専ら受動性を帯びる。:記 次に喜びと悲しみは各人が自己の有に固執しようとする能力ないし努力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害される受動である(この部の定理一一およびその備考により)。ところが我々は、自己の有に固執しようとする努力を、それが精神と身体に同時に関係する限り、衝動ないし欲望と解する(この部の定理九の備考を見よ)。ゆえに喜びおよび悲しみは外部の原因によって増大されあるいは減少され、促進されあるいは阻害される限りにおける欲望ないし衝動そのもの、言いかえれば(同じ備考により)各人の本性そのもの、である。したがって各人の喜びあるいは悲しみは他人の喜びあるいは悲しみと、やはりちょうど一方の人間の本性ないし本質が他方の人間の本質と異なるだけ相違する。 ゆえに各個人の各感情は他の個人の感情とちょうど云々。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 この帰結として、いわゆる非理性的動物の感情(というのは我々は精神の起源を識った以上は動物が感覚を有することを決して疑いえない)は人間の感情と、ちょうど動物の本性が人間の本性と異なるだけ異なっているということになる。もちろん馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれども、馬は馬らしい情欲に駆られ、人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫、魚、鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は自己の具有する本性に満足して生き、そしてそれを楽しんでいるのであるが、各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと、ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している。 最後に、前定理からの帰結として、例えば酔漢の捉われている楽しみと、哲学者の享受している楽しみとの間には、同様に少なからぬ相違があることになる。これもここでついでながら注意しておきたい。 働きを受ける限りにおける人間に関係する感情についてはこれだけにする。残るのは、働きをなす限りにおける人間に関係する感情について若干をつけ加えることだけである。 追記:中国古史にある竹林の七賢人は酔漢の捉われている楽しみと、哲学者の享受している楽しみをともに味わった賢人なのでしょう。哲学・思想ランキング
2022年03月27日
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神の存否-360 スピノザは精神感情を、基本感情を大きく三つに分類する。喜び、悲しみ、および欲望の三者です。それ以外の諸々の感情は、すべてこの三つの基本感情から派生したものである。:記 定理五六 喜び、悲しみ、および欲望には、したがってまたそれらから合成されたすペての感情(例えば心情の動揺のごとき)、あるいはそれらから導き出されたすべての感情(例えば愛、憎しみ、希望、恐怖など)には、我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類がある。 証明 喜びと悲しみ、したがってまたこれから合成されあるいはこれから導き出された感情は受動である(この部第三部の定理一一の備考 要約:精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。云々により)。ところで我々は非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受け(この部第三部の定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。により)、またそうした観念を有する限りにおいてのみ働きを受ける(この部第三部の定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。 言いかえれば我々は(第二部定理四〇の備考 要項:表象の概念について云々を見よ)表象する限りにおいてのみ、すなわち(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。ならびにその備考 要項:観想と真の原因云々を見よ。)我々の身体の本性および外部の物体の本性を含む刺激を受ける限りにおいてのみ必然的に働きを受ける。ゆえにおのおのの受動の本性は必然的に、我々を刺激する対象の本性を表現するような仕方で説明されなければならぬ。例えばAという対象から生ずる喜びはまさにこのAという対象の本性を含み、またBという対象から生ずる喜びはまさにこのBという対象の本性を含む。こうしてこれら二つの喜びの感情は、異なった本性を有する原因から生ずるゆえに、その本性を異にしている。同様にある対象から生ずる悲しみの感情もまた、他の原因から生ずる悲しみとはその本性を異にしている。このことは愛、憎しみ、希望、恐怖、心情の動揺、などについてもあてはまる。したがって喜び、悲しみ、愛、憎しみなどには、我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類が必然的に存する。 さてまた欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることをなすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである(この部第三部の定理九の備考 要項:意志と衝動云々を見よ)。ゆえに各人が外部の原因によってこのあるいはかの種類の喜び、悲しみ、愛、憎しみなどに刺激されるに応じて、言いかえれば彼の本性がこのあるいはかの状態に置かれるに応じて、彼の欲望もそれぞれ異なったものでなければならぬ。そして一つの欲望の本性は他の欲望の本性と、ちょうどそれぞれの欲望の生ずる源である諸感情が相互に異なっているだけ異ならねばならぬ。だから欲望には喜び、悲しみ、愛などの種類だけ多くの、したがってまた(すでに示したところにより)我々を刺激する対象の種類だけ多くの、種類が存する。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 きわめて多様であるべき感情の種類(第三部前定理五五 精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。により)の中でも特に著しいのは美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲である。これらは愛もしくは欲望の感情の本性をその関係する対象によって説明する概念にほかならない。なぜなら、我々は美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲を美食、飲酒、性交、富および名誉への過度の愛もしくは欲望としか解しないからである。なおこれらの感情は、単にその関係する対象のみによって相互に区別される限り、反対感情を有しない。なぜなら、通常我々が美味欲に対立させる節制、飲酒欲に対立させる禁酒、最後に情欲に対立させる貞操は、感情あるいは受動ではなくて、それらの感情を制御する精神の能力を表示するものだからである。 なおまた私は感情のその他の種類を一々ここに説明することはできない(なぜならその種類は対象の種類だけ多くあるから)。またたとえできたとしてもそれは必要でない。というのは我々の目標のためには、すなわち感情の力と感情に対する精神の能力を決定するためには、我々にとって、おのおのの感情に関する一般的定義をもつだけで十分だからである。たしかに、感情を制御し、抑圧する精神の能力がどのような種類のものであり、またどのように大きいものであるかを決定しうるためには、我々にとって、感情および精神の共通の諸特質を理解することで十分である。そこで、例えば子に対する愛と妻に対する愛との間に相違があるように、愛、憎しみ、欲望におけるこのおよびかの感情の間には大きな相違があるけれども、我々にとってはしかし、これらの相違を認識して諸感情の本性と起源をこれ以上深く究めることは必要でないのである。哲学・思想ランキング
2022年03月26日
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神の存否-359 第三部定理五五の系の第二と証明 しかしおそらくこうした疑念が残るかもしれない。我々は人間の徳を驚嘆してその人間を尊敬するということも稀でないではないかと。ゆえにこの疑念を除くため、私は次の系を付加するであろう。 系 何びとも自分と同等でない者をその徳のゆえに妬みはしない。 証明 ねたみは憎しみそのものである(この部第三部の定理二四の備考 これらの感情ならびに憎しみから来るこれと類似の諸感情はねたみの中に入れられる。したがってねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせるものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならないを見よ)、あるいは(この部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。しかしこれらすべてについては、以下においていっそう詳しく述べるであろう。により)悲しみである。言いかえれば(この部第三部の定理一一の備考 喜び・悲しみ・欲望の基本感情の観念の時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行変遷についての云々。により)人間の活動能力あるいは努力を阻害する感情である。ところが人間は(この部第三部の定理九の備考 要約:我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するということである。により)与えられた自己の本性から生じうることのみをなそうと努めかつ欲する。ゆえに人間は他人の本性に特有であって自己の本性に無関係なような活動能力、あるいは、同じことだが、徳を自分に与えられることを欲しないであろう。ゆえに自分と同等でない者の中にある徳を観想することによって彼の欲望は阻害されえない。言いかえれば(この部の定理一一第三部の備考 同上により)そのことによって彼自身悲しみを感じえない。したがってまた彼はその者をねたみえないであろう。これに反して自分と同じ本性を有すると認められる同等の者に対してはねたむであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 それでさきに、この部第三部の定理五二の備考において、我々はある人の聡明、強さなどを驚嘆するためにその人を尊敬すると言った場合、そのことは、その定理自身によって明らかなように、それらの徳がその人に特有であって我々の本性に共通したものでないことを我々が表象するゆえに起こるのである。したがって我々はその人をそれらの徳のゆえに妬みはしないであろう。あたかも樹木をその高きがゆえに、また獅子をその強きがゆえに妬たまないと同様に。 妬むとは 、デジタル大辞泉によれば、他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む。とありますが、元々に、其の価値を認め徳を認識している人間には羨むことはあれ、妬むどころか崇敬が浮上します。:記哲学・思想ランキング
2022年03月25日
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神の存否-358 謙虚という語彙を持つのは英語ではHumbleですが、謙譲という語句が西洋圏にあるかどうかは不分明です。まして、謙遜の語彙に至っては其の意味のとり方世界の東西圏では思いの外大きく相違します。「謙遜」は東方世界では形容動詞として卑下することは別にして、諸事に控ええめにすることを美徳とします。ところが、西方世界のキリスト教では、おそれをいだいて、神のあわれみを請うこととあります。謙譲の美徳や謙遜は西洋認識とは相当な開きがあり、スピノザにしてもこの傾向が見られます。スピノザの哲学の根底に流れるのは、古祖ユダヤの旧約の教え、流浪となった民族の悲しみ、イエス・キリストへの迫害者として描かれながら基督教を受け入れざるを得ないユダヤ民族の歴史が根底にあります。其れ故に謙遜は西洋世界の神へのあわれみを請うことの語彙を持つ「謙遜」は自劣感とされ悲しみを表象するのです。 定理五五 精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。 証明 精神の本質は精神が有るところのもの・できるところのもののみを肯定する。あるいは自らの活動能力を定立することのみを表象することは精神の本性に属する(前定理第三部五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。により)。だから「精神が自己自身を観想する際にその無能力を表象する」と我々が言う時それは「精神がその活動能力を定立するある物を表象しようと努める際に精神のそうした努力が阻害される。すなわち(この部第三部の定理一一の備考 要約:精神感情の経緯に伴う比較衡量の諸例により)精神が悲しみを感ずる」と言っているのにほかならないのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 第一の系 この悲しみは人間が他人から非難されることを表象する場合にますます強められる。このことはこの部第三部の定理五三の系(要約: 喜びは人間がより多く他人から賞讃されることを表象するに従ってますます強められる。なぜなら彼がより多く他人から賞讃されることを表象するに従って、彼は他人が彼からそれだけ大なる喜びを表象し、しかも彼自身の観念を伴った喜びに刺激されることを表象する。注:喜びを悲しみに変換)と同様の仕方で証明される。 備考 我々の弱小の観念を伴ったこの悲しみは謙遜〔自劣感〕と呼ばれる。これに反して、我々自身を観想することから生ずる喜びは自己愛または自己満足と称される。そしてこの喜びは人間が自己の徳あるいは自分の活動能力を観想するたびに繰り返されるから、したがってまた各人は、好んで自分の業績を語ったり、自分の身体や精神のカを誇示したりすることになり、また人間は、このため、相互に不快を感じ合うことになる。さらにまたこの結果として、人間は本性上ねたみ深いということ(この部第三部の定理二四の備考 これらの感情ならびに憎しみから来るこれと類似の諸感情はねたみ(妬み)の中に入れられる。したがってねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせるものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならない。および、定理三二の備考 人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者を妬むようにできていること云々を見よ)、すなわち自分と同等の者の弱小を喜び、反対に自分と同等の者の徳を悲しむということになる。なぜなら、各人は自分の活動を表象するたびに喜びを感じ(この部第三部の定理五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。により)、しかもその活動がより多くの完全性を表現するのを表象するに従って、またその活動をより判然と表象するに従って、 言いかえれば(第二部定理四〇の備考一 要約:一次概念である共通概念から二次概念である特殊概念への変遷云々で述べたことにより)、その活動をより多く他から区別して特殊な物として観想しうるに従って、それだけ大なる喜びを感ずる。ゆえに各人は自己自身を観想するにあたって、他人に認めないあることを自己の中に観想する時に最も多く喜ぶであろう。だが自分について認めることを人間あるいは動物の一般的観念に属するものとして見る時にはそれほどには喜ばないであろう。また反対に自分の活動が他人の活動と比較してより弱小であることを表象する時には悲しむであろう。そして彼はこの悲しみを(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)除去しようと努めるであろう、しかも自分と同等の者の活動を曲げて解釈し、あるいは自分の活動をできるだけ修飾することによってそうしようとするであろう。 こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。 最後の段の「親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とする」は、現代の教育ママを想起させます。哲学・思想ランキング
2022年03月24日
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神の存否-357 人間の精神感情の目的論的性向は安寧にあるのです。精神の混迷を自らに朗らかにして自由に臨むもの皆無とスピノザは 憶えます。 定理五四 精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。 証明 精神の努力ないし能力は精神の本質そのものである(この部第三部の定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。ところが精神の本質は、それ自体で明らかなように精神が有るところのものであり、其のできるところのもののみを肯定し、精神が有らぬところのもの、できぬところのものを肯定しはしない。したがって精神は自己の活動能力を肯定ないし定立することのみを表象しようと努める。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 注:定立とはあるものの存在あるいは命題の真理性を、それとしてとりあげて肯定的に判断することとされ、此れを指向するのは人間の精神感情の自然的特質でしょう。 ときに人間は自己の精神を世の中の平和を守るのが本分だと、自己を顧みることなしに本分以上の精神感情に囚われ気味です。此の我(われ)が強力な権力を手中にしたときには、其の表象する平和が自己の属する集団意識のことなのか、社会全般に対してなのかが大いなる動揺を世界に呼び込みます。人間の死が生と絶えず伴にあるように、平和には絶えず混乱と殺伐がともない、結果論が全てを覆います。哲学・思想ランキング
2022年03月23日
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神の存否-356 定理五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。 証明 人間は自己の身体の変状ならびにその変状の観念を通してのみ自己自身を認識する(第二部定理一九 人間精神は身体が受ける刺激(アフェクティオ)・変状の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。および定理二三 精神は身体の変状・刺激状態の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。により)。ゆえに精神が自己自身を観想しうるということが起こるならば、まさにそのことによって精神はより大なる完全性に移行するものと想定される。言いかえれば(この部第三部の定理一一の備考 要約:この三者、喜び・悲しみ・欲望のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその他の諸感情は、以下において示すだろうように、この三者から生ずるものだからである云々。により)喜びに刺激されるものと想定される。そしてこの喜びは、精神が自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象しうるに従ってそれだけ大なのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この喜びは人間がより多く他人から賞讃されることを表象するに従ってますます強められる。なぜなら彼がより多く他人から賞讃されることを表象するに従って、彼は他人が彼からそれだけ大なる喜びを表象し、しかも彼自身の観念を伴った喜びに刺激されることを表象する(この部第三部の定理二九の備考 ただ人々の気に入ろうとする理由だけであること差したり控えたりするこの努力は名誉欲と呼ばれる。ことに我々が、我々自身あるいは他人の損害になるのも構わずにあること差したり控えたりするほど熱心に民衆の気に入ろうと努める場合にはそう呼ばれる。しかしそれほどまででない場合は鄭重と呼ばれるのが常である。次に我々を喜ばせようとする努力のもとになされた他人の行為を表象する際に我々の感ずる喜びを私は賞讃と呼び、これに反してその人の行為を嫌悪する際に感ずる悲しみを非難と呼ぶ。により)。したがって(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)彼自身は彼自身の観念を伴ったそれだけ大なる喜びに刺激される。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 我々は此の定理五三の系 喜びは人間がより多く他人から賞讃されることを表象するに従ってますます強められる。なぜなら彼がより多く他人から賞讃されることを表象するに従って、彼は他人が彼からそれだけ大なる喜びを表象し、しかも彼自身の観念を伴った喜びに刺激されることを表象するの此の文言は意味深です。自由の意味を追い続けたユダヤ民族のスピノザが、皮肉にも後世のムッソリーニの黒シャツ党やヒトラーのナチスの国民的歓喜を予言しているともとれるからです。カリスマ指導者・人民大衆の善悪の観想の危うさを予期していたのかは判明しません。哲学・思想ランキング
2022年03月22日
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神の存否-355 スピノザは人間の観想が其の表象する対象から如何に影響されるかを問います。 定理五二 我々が以前に他のものと一緒に見た対象、あるいは多くのものと共通な点しか有しないことを我々が表象する対象、そうした対象を我々は、ある特殊の点を有することを表象する対象に対してほどに長くは観想しつづけないであろう。 証明 我々が他のものと一緒に見た対象を表象するや否や、我々はただちにその、他のものを想起する。こうして我々は一つの対象の観想からただちに他のものの観想に移る。多くのものに共通な点しか有しないことを我々が表象する対象についても同じことがあてはまる。何故なら、まさにそのことによって我々は、以前に他のものと一緒に見なかったような点をその対象の中に発見しないことを仮定しているからである。これに反して我々が以前に決して見なかったような特殊な点をある対象の中に表象することを仮定するなら、それは精神がその対象を観想する間にその対象の観想から気をそらされうるような他のものを何ら自らの中に有しないというのにほかならぬ。したがって精神は単にその対象のみを観想するように決定される。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 精神のこうした変状としての刺激状態、すなわちある個物についてのこうした表象は、それが単独で精神の中に在る限りは驚異と呼ばれる。もしそれが我々の恐怖する対象によって喚起されるなら恐慌と言われる。なぜなら害悪への驚異は人間がその害悪を避けうるための他のことを思惟することができないまでに人間をもっぱらその害悪の観想の虜にするからである。だがもし我我の驚異するものがある人間の聡明、勤勉その他これに類する事柄であるとしたら、それによって我々はこの人間が我々をはるかに凌駕することを観想しているのだから、その驚異は尊敬と呼ばれる。そうでなくてもし我々が、ある人間の怒り、ねたみなどを驚異するのであれば、それは戦慄と呼ばれる。次に我々が我々の愛する人間の聡明、勤勉などを驚異する場合は、愛はまさにそれによって(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。により)いっそう大になるであろう。そして驚異あるいは尊敬と結合したこの愛を我々は帰依と呼ぶ。またこのようにして我々は憎しみ、希望、安堵およびその他の感情を驚異と結合して考えることができる。こうして我々は常用の語彙によって表示するのを常とするよりもっと多くの感情を導き出すことができるであろう。これから明白なのは、感情の名称は、感情に関する正確な認識に基づくというよりも、日常の用途に基づいて作られているということである。 驚異に対立するものは軽蔑である。軽蔑のよって生ずるところはおおむね次のごときものである。すなわちある人がある物を驚異し、愛し、恐怖しなどするのを我々が見ることによって、またある物が一瞥(べつ)して我々の驚異し、愛し、恐怖しなどする物に類似して見えることによって、我我は一応そのものを驚異し、愛し、恐怖しなどするように決定される(この部第三部の定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。およびその系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。ならびに定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)。ところが我々がその物自身の現在によって、あるいはその物をもっと正確に観想することによって、驚異、愛、恐怖などの原因となりうる一切の点をその物について否定せざるをえないようになれば、精神は、その物の現在によって、対象の中に存するものよりも対象の中に存しないものについてより多く思惟するように決定されることになるのである。本来ならこれと反対に、精神は、対象の現在によって、もっぱらその対象の中に存するものについて思惟するのが常であるのに。さらに帰依が我々の愛するものへの驚異から生ずるように、嘲弄は我々の憎みあるいは恐怖するものへの軽蔑から生ずる。また尊敬が聡明への驚異から生ずるように、侮蔑は愚鈍への軽蔑から生ずる。最後に我々は愛、希望、名誉およびその他の感情を軽蔑と結合して考えてそれからさらに他の諸感情を導き出すことができる。しかしこれらの感情を我々は何ら特別な語彙によって他と区別しないのが常である。 以上の文言は、まさにパンドラの箱、パンドーラーはギリシア神話に登場する女性で、神々によって作られ人類の災いとして地上に送り込まれた。人類最初の女性とされる。パンは「全てのもの」であり、パンドーラーは「全ての贈り物」を意味しますが、まさに人間の精神感情をオンパレードで示してみせます。:記哲学・思想ランキング
2022年03月21日
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神の存否-354 共和政ローマ末期の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar/BC100年 - BC44年3月15日没)の 英語読みではシーザー。英語読みではシーザー。 ガリアを平定してギリシア・ローマ文化をヨーロッパ内陸部にまでひろめる基礎を築き、内乱の勝利者として単独支配者となり、世界帝国的視野に基づく変革を行ったが、伝統に捕らわれずに改革を行ったために共和政ローマの伝統を破るものと看做されされ、加えて誰彼構わずの好色が嫌悪され、信頼する友人ブルータスにまで裏切られ暗殺されるも、其の過去の経緯の論壇により人民の共感を呼びます。ところがどっこい、その後の、アントニウスの弁明(アントニーのシーザー追悼演説/ Mark Antony's Funeral Oration;注『ジュリアス・シーザー』(The Tragedy of Julius Caesar)ウィリアム・シェイクスピアによって書かれた政治劇・悲劇を参照)で様相は一変、人間の精神感情の危うさが露呈されます。 定理五一 異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる。 証明 人間身体は外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。ゆえに同一の時に二人の人間が異なった仕方で刺激されることができ、したがって二人の人間は同一の対象から異なった仕方で刺激されることができる。次に人間身体はある時はこの仕方で、ある時は他の仕方で刺激されることができる。したがってま同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 これからして、ある人の愛するものを他の人が憎み、ある人の恐れるものを他の人が恐れないということや、同一の人間が以前に憎んだものを今愛し、以前に恐れたことを今あえてするなどということの起こりうることが分かる。さらに各人は何が善く何が悪く何がより善く何がより悪いかを自己の感情に基づいて判断するから、人間はその感情において異なるのと同様、その判断においてもたがいに異なりうることになる。またこの結果、我々は人間を相互に比較する場合に、彼らと我々の感情の相違のみによって彼らを区別し、ある者を果敢、ある者を臆病、最後に他の者を他の名称で呼ぶことになる。例えば私が恐怖するのを常とする害悪を軽視する人を私は果敢と呼ぶであろう。その上憎む者に害悪を加え・愛する者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐れる者は私には臆病に見えるであろう、その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。そして何びともこのようにして判断するであろう。 *人間の精神は神の知性の一部であるとはいえ、こうしたことが起こりうる。 最後に、人間の本性がこうしたものであること、その判断が不安定なものであること、さらに人間はしばしば自己の感情のみによって物ごとを判断すること、また喜びあるいは悲しみをもたらすものと信じてそのゆえに、それを実現しあるいは排除しようと努める事物が、往々にして単なる想像にすぎないこと、そうしたことどもを思う時、我々は人間が自らしばしば自己の喜びあるいは悲しみの原因でありうることを、言いかえれば人間は喜びあるいは悲しみに刺激される場合しばしば自己自身をその原因として意識することを、容易に考えうる。こうして我々は後悔とは何か、また自己満足とは何かを容易に理解する。すなわち後悔とは原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは原因としての自己自身の観念を伴った喜びである。そしてこれらの感情は人間が自らを自由であると信ずるがゆえにきわめて強烈である。哲学・思想ランキング
2022年03月20日
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神の存否-353 愛と憎しみの精神感情の経緯は、各人は容易に希望および恐怖に適用しうること。恐怖なき希望というものはありえずまた希望なき恐怖というものもありえないこと。人類が古今東西、史上如何に其れ等と対面するも、一縷の望みを掛け希望を託して戦ってきたかは衆知の事実です。また、呪いや迷信は希望および恐怖から生じると言っても過言ではないでしょう。:記 定理五〇 おのおのの物は偶然によって希望あるいは恐怖の原因であることができる。 証明 この定理はこの部第三部の定理一五と同じ方法、精神感情の起因・反応・結果で証明される。同定理をこの部第三部の定理一八の備考(単略:我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。)と併(あわ)せ見よ。 備考 偶然によって希望あるいは恐怖の原因たる物は善い前兆あるいは悪い前兆と呼ばれる。ところでこれらの前兆は、希望あるいは恐怖の原因である限りにおいて喜びあるいは悲しみの原因である。したがって我々はその限りにおいてそれを愛しあるいは憎み、また)それを我々の希望するものへの手段として近づけあるいはその障害ないし恐怖の原因として遠ざけるように努める。その上この部第三部の定理二五(我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。)から分かる通り、我々は希望するものを容易に信じ・恐怖するものを容易に信じないようなふうに、また前者については正当以上に・後者については正当以下に感ずるようなふうに生来できあがっている。そしてこれからして、人間がいたるところで捉われているもろもろの迷信が生じたのである。 なおまた、希望および恐怖から生ずる心情のさまざまの動揺をここに説明することは無用であると私は信ずる。なぜなら、単にこの両感情の定義だけからして、恐怖なき希望というものはありえずまた希望なき恐怖というものもありえないことが明らかであり、これは適当な場所でいっそう詳しく説明するであろう。その上また我々は、あるものを希望しあるいは恐怖する限りそのものを愛しあるいは憎み、したがって我々が愛および憎しみについて述べたことを各人は容易に希望および恐怖に適用し得るからである。哲学・思想ランキング
2022年03月19日
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神の存否-352 スピノザが他方で、人間が自由意思で行動とするのは思い込みによるもので虚構だとする一方、精神感情に関しての其の表象は愛および憎しみを増減する要因になると説きます。一見、人間の自由意志を否定、必然的とするものの、精神感情に関しては目的要因ではなく結果原因だと述べる。:記 定理四九 自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは、原因が等しい場合には、必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ。 証明 自由であると我々の表象する物は、他のものなしにそれ自身によって知覚されなければならぬ(第一部定義七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。)により。ゆえにもし我々がこうした物を喜びあるいは悲しみの原因であると表象するなら、まさにそのことによって我々はこの部第三部の定理一三の備考(これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。)により、それを愛しあるいは憎むであろう。しかも前定理四八(愛および憎しみ、例えばペテロに対する愛憎では、憎しみが含む悲しみ、および、愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。また両者である愛および憎しみは、ペテロがそのどちらかの感情、喜びあるいは悲しみの唯一の原因でなかったことを我々が表象する限りにおいて減少する。)により、与えられた感情から生じうる最大の愛あるいは憎しみをもって愛しあるいは憎むであろう。これに反してもしこの感情の原因たる物を必然的なものとして表象するなら、我々はそれが(同じく同上の第一部の定義七により)単独にでなく他の物と合同してこの感情の原因であることを表象するであろう。したがって(同上前定理四八により)その物に対する愛および憎しみはより小であろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 この帰結として出てくるのは、人間は自らを自由であると思うがゆえに他の物に対してよりも相互に対してより大なる愛あるいは憎しみをいだき合うということである。なおこれに感情の模倣ということが加わる。感情の模倣についてはこの部の定理二七・三四・四〇および四三(要約:精神感情の比較衡量)を見よ。 以上のことからしても、人間は「自由」というものに潜在的な憧れがあることが知れます。史的にも屡々芸術家が此のテーマに従った芸術作品を残していることからも伺えます。哲学・思想ランキング
2022年03月18日
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神の存否-351 スピノザの哲学的著作に屡々登場するペテロとパウロですが、此れは如何に西洋の通常生活に新教の基督教が根付いていたかを示します。 定理四八 愛および憎しみ、例えばペテロに対する愛憎では、憎しみが含む悲しみ、および、愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。また両者である愛および憎しみは、ペテロがそのどちらかの感情、喜びあるいは悲しみの唯一の原因でなかったことを我々が表象する限りにおいて減少する。 証明 単に愛および憎しみの定義から明白である。この部第三部の定理一三の備考におけるその定義、愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならないを見よ。というのは、喜びがペテロに対する愛と呼ばれ・悲しみがペテロに対する憎しみと呼ばれるわけは、ただペテロが喜びあるいは悲しみの感情の原因であると見られるからにほかならぬ。だからこの前提が全部あるいは一部除去されれば、ペテロに対する感情もまた全部あるいは一部終熄(そく)する。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 4 世紀頃にまとめたの「ペテロとパウロの行伝」には、皇帝ネロが魔術師シモンに心酔し、ペテロとパウロを殺そうとします。シモンは自らの力を見せつけるために塔の上から飛び立ちますが、ペテロの祈りによって墜落し四肢が飛散しました。これを見ていたネロは彼らを逮捕し、パウロをオスティア街道で斬首刑に、ペテロを逆さ十字に処します。ペテロの体は密かに運び出され、バチカン宮の催場近くのテレビンの木の根元に埋められましたのですが、何に故にスピノザが此の両者の名を屡々引用するのか。第二部定理一七系の直後の備考では、スピノザはパウロという名前を出し、パウロの中にあるペテロの観念はペテロの本性よりもパウロの身体の状態をより多く含むのだから、パウロの身体のこの状態が持続する限り、ペテロが存在しなくてもパウロはペテロが現実的に存在すると知覚するという仕方で直前の系を解説します。 スピノザはペテロを人間のシンボルと我々に表象させますが如何でしょう。其の名のもつ意味には隠された意味合いがありそうです。 そもそも新約聖書の中でパウロがイエスの復活、つまり死後のイエスがパウロの目の前に現れたということを何度も述べていることから、ここでスピノザが殊更にパウロの名前を出していること自体にはペテロがイエス・キリストを暗示しているとも取れます。哲学・思想ランキング
2022年03月17日
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神の存否-350 この部第三部の定理四六、乃至定理四七は旧約聖書の夢の話と異母兄弟の妬みを扱った文章が想い起されます。つまりは、ヨセフは父ヤコブと母出産年齢を超えたが神に祝福を受けたラケルとの間の長男、実のところはヤコブが多妻のため、実際にはヤコブの十一男として生まれたのですが、ヤコブはヨセフが年寄りっ子であるため、誰よりも彼を愛し、きらびやかな服をヨセフに送ったりし、その事柄ども故に他の十人の異母兄たちはヨセフを憎むようになります。ある日ヨセフは未現の夢を見、それを語ったので、兄弟たちの妬みを買い、長男の温情から空井戸に落とされ、軈ては、彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。その直後には、ヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにヨセフは獣に襲われて死んだと偽ったとされ、その後の話が展開される、いわゆる「ヨセフ物語」を連想させる記述が展開されます。此の章に記されている背景には、ユダヤ人としてスペインに移住するも迫害を逃れて、ネーデルランドに自由を求めたユダヤ人の輻輳した精神が沸々と顕れています。:記 定理四六 もしある人が自分と異なった階級ないし民族に属するある者から、その階級ないし民族の一般的名称のもとにあるその者を原因として意識した喜びまたは悲しみに刺激されたなら、彼は単にその者だけでなく、さらにその同じ階級ないし民族に属するすべての者を愛しあるいは憎むであろう。 証明 この定理の証明はこの部の定理一六(ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因≒直接原因でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。)から明白である。 定理四七 我々の憎むものが滅ぼされたりあるいは他の何らかの害悪を受けたりすることを我我が表象することによって生ずる喜びは、同時にある悲しみを伴うものである。 証明 この部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。から明白である。なぜなら、我々は自分と同類のものが悲しみに刺激されることを表象する限り自分も悲しみを感ずるからである。 備考 この定理は第二部定理一七の系 人間身体をかっては刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現に在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。からも証明されうる。すなわち我々はある物を想起するごとに、その物がもはや現実に存在しない場合でもやはりそれを現在するもののように観想し、そして身体は、その物が現実に存在していた時と、同じ仕方で刺激される。ゆえにその物への記憶が我々に残っている限り、その限りにおいて人間はそれを悲しみをもって観想するように決定される。この決定は、その物の表象像がなお存する間は、その物の存在を排除する事物への想起によって阻害されはするがまったく除去されることはない。したがって人間はこの決定が阻害される限りにおいてのみ喜びを感ずるのである。これで見てもわかるように、我々の憎む物に加えられた害悪から生ずる喜びは、我々がその物を想起するごとに繰り返されるのである。すなわちすでに述べたように、その物の表象像が喚起される場合、この表象像はその物の存在を含むがゆえに、人間はそのものがなお存在していた時にそれを観想するのを常としたと同じ悲しみをもってそれを観想するように決定される。だが彼はこのものの存在を排除する他の表象像をこの物の表象像と結合したがゆえに、悲しみに対するこの決定はただちにさえぎられそして人間は新たに喜びを感ずるのである。しかもこのことが繰り返されるごとに喜びを感ずるのである。 そしてこのことは、なぜ人間がある過去の害悪を想起するごとに喜びを感ずるか、またなぜ自分のまぬがれた危難について物語るのを楽しむかの理由でもある。すなわち、彼らはある危難を表象する場合、それをあたかもなおこれから起こるもののように観想し、かつこれを恐れるように決定される。しかしこの決定は、彼らがこの危難を免れた時にこの危難の観念と結合した救助の観念によって新たにさえぎられる。この救助の観念が彼らに新たに安全感を与え、したがって彼らは新たに喜びを感ずるのである。 追伸:仮に後世、二十一世紀即ち現代、現実在すると仮定するユダヤ民族であるスピノザが、他者から其の思想をナチズムと非難、指摘されたら彼はどう答えるのであろう。ユダヤ民族の苦悩は過去も今現代も拭い去ってはいません。哲学・思想ランキング
2022年03月16日
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神の存否-349 スピノザの哲学的「愛」の概念は、自己自身や人間関係から生じる愛と「神への愛」とは厳格とは云えないものの、神への愛と自己自身や人間関係から生じる精神感情からくる「愛」は、神を起因とするものの其の属性に内在するものであり、たぶんに完全性には欠けており、其の完全性を目指すとすれば「神への愛の」実践が「人間の善」そのものであるとの骨子は揺らぎません。:記 定理四五 ある人がもし自分と同類の他人が同じく自分と同類である自分の愛するものに対して憎しみを感じていることを表象するなら、彼はその他人を憎むであろう。 証明 なぜなら、自分の愛するものは己(おの)れを憎む人を憎み返す(この部第三部の定理四〇 自分が他人から憎まれていると表象し、しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は、その人を憎み返すであろう。により)。それゆえ愛する当人は、自分の愛するものを他人が憎むことを表象する場合、まさにそのことによって、自分の愛するものが憎しみを、言いかえれば(この部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)悲しみを、感じていることを表象する。したがってまた彼自身(この部第三部の定理二一 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。により)悲しみを感ずる、しかも自分の愛するものを憎む人をその原因として意識した悲しみを感ずる。言いかえれば彼は(この部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)その人を憎むであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年03月15日
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神の存否-348 スピノザは此処では喜怒哀楽・悲喜愛憎の其々の対比連関が精神感情に与える影響を、些か斜め視線でその条理を捉えてみせます。:記 定理四四 愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先立たなかった場合よりもより大である。 証明 この定理の証明はこの部第三部の定理三八(ある人がその愛するものを憎み始めてついに愛がまったく消滅するに至る場合、彼は、それを全然愛していなかった場合よりも・・・・憎しみは以前の愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。)のそれと同一の仕方でなされる。すなわち自分の憎むものあるいは自分が悲しみをもって観想するのを常としたものを愛し始める人は、愛するということそのことによってすでに喜びを感ずる。そして愛が含むこの喜びの上に、憎しみが含む悲しみを除去しようとする努力が完全に促進されることから生ずる喜び、自分の憎んだ者をその原因として意識したような要因が加わる。 備考 事情はかくのごとくであるけれども、何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり・悲しみを感じたりするように努めはしないであろう。すなわち何びとも損害賠償の希望に促されて害悪をわが身に受けることを欲したり、全快の希望に促されて病気にかかることを願ったりはしないであろう。なぜなら各人は自己の有を維持し・悲しみをできるだけ遠ざけることに常に努めるだろうからである。これに反して、もし人間はあとでより大なる愛をもってある人に対しようとするためにその人を憎むことを欲しうるということが考えられるものとしたら、彼はその人を常に憎むことを願うであろう。なぜなら、憎しみがより大であったに従って愛はそれだけ大となるのであり、こうして彼は憎しみがますます増大することを常に願うであろうからである。また同じ理由から、人間はあとで健康回復によってより大なる喜びを享楽しようとするためにますます多く病むことに努めるであろう、したがってまた常に病むことに努めるであろう。しかしこのようなことは(この部第三部の定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)不条理である。 上記に記された「有」なる語句は、スピノザの哲学的「常有」を意味しない。人間身体と精神感情を並立するスピノザはの此の章の意では、獲得した愛なるもの、喜びなどの「善」なるもの既得の精神感情を保持すべくなる精神動向を指すと思われます。:記哲学・思想ランキング
2022年03月14日
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神の存否-347 スピノザは精神感情への愛と憎しみの影響力が、相互に拮抗するものではなく、愛は憎しみを拭うちからを持つとします。:記 定理四三 憎しみは憎み返しによって増大され、また反対に愛によって除去されることができる。 証明 自分の憎む者が自分を憎み返していることを表象する人は、そのことによって(この部の定理四〇 自分が他人から憎まれていると表象し、しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は、その人を憎み返すであろう。により)新しい憎しみが生ずる_のを感ずる〕。しかも最初の憎しみはその仮定により、なお依然として存続しているのである。しかしもし反対に、自分の憎む者が自分に対して愛を感じていることを表象するなら、彼は、そのことを表象する限りにおいて(この部第三部の定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。により)自分自身を喜びをもって観想する。またその限りにおいて(この部第三部の定理二九 我々は人々(*注意 凡そその愛憎の精神感情とは無縁な人々)が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。により)その人の気に入ろうと努めるであろう。言いかえれば(この部第三部の定理四一 もしある人が他人から愛されると表象し、しかも自分は愛される何の原因も与えなかったと信ずる場合は、彼はその人を愛し返すであろう。により)彼はその限りにおいてその人を憎まないように、またその人を悲しみに刺激しないように努める。この努力は(この部第三部の定理三七 悲しみや喜び、憎しみや愛から生ずる欲望は、それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である。により)それを生ぜしめる感情の度合に比例してより大でありあるいはより小であるであろう。したがってもしこの努力が、憎しみから生ずるあの努力、自分の憎むものを悲しみに刺激しようと努めるあの努力(この部第三部の定理二六 我々は、我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。により)よりもより大であるならば、それは優勢を占めて憎しみを心から除去するであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 スピノザのこの上記の主張の骨針には「神への愛=善」の倫理が底流にあります。信教の徒であるマザー・テレサは恐らくは愛憎の軋轢を超えた並の偉丈夫を超えた人物であり、哲学と信仰という違いはあれ「善」を第一の実践としたことには両者に共通性が認められます。哲学・思想ランキング
2022年03月13日
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神の存否-345 定理四一 もしある人が他人から愛されると表象し、しかも自分は愛される何の原因も与えなかったと信ずる場合は(こうしたことはこの部第三部の定理一五の系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。および、定理一六 ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。によって可能である)、彼はその人を愛し返すであろう。 証明 この定理は前定理四一と同様の仕方で証明される。なお前定理の備考(我々の憎む者に対して害悪を加えようとする努力は怒りと呼ばれる。また我々に対して加えられた害悪に報いようとする努力は復讐と称される。)を見よ。 備考 もし自分が愛に対する正当な原因を与えたと信ずるならば彼は名誉を感ずるであろう(この部第三部の定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。および、その備考 要約:愛憎の表象の曖昧さ、比較衡量による精神感情の顕れ方により)。こうしたことは(この部第三部の定理二五 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。により)かなりの頻度、しばしば起こる。これに対してある人が他人から憎まれることを表象する場合は、前に述べたように、そうした正当な原因を与えたと信ずることは稀にしか起こらない。なおこの愛し返し、したがってまた(この部第三部の定理三九 ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。により)我々を愛し、且つ(同じくこの部第三部の定理二九 我々は人々が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。により)我々に親切をなそうと努める人に対して親切をなそうとする努力、は感謝または謝恩と呼ばれる。これからして、人間は親切に報いるよりもはるかに復讐に傾いているということが明らかになる。 系 自分の憎む者から愛されていることを表象する人は、同時に憎しみと愛とに捉われるであろう。このことは前定理の系一と同じ仕方(論法)で証明される。 備考 この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。哲学・思想ランキング
2022年03月11日
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神の存否-344 人間の愛憎の問題は恐らくは人類或いは哺乳類に本能的憎悪の刷り込み、例えば、ライオンのハイエナとの確執、ハイエナはライオンに獲物を横取りされ、ライオンはハイエナに子供を殺されるなどは、宇宙の奇跡、生命の泉である地球の「裏面」が、人類のみならず全て、生命の範疇に含まれないと見方もあるウィルスなどを含めた汎ゆる生命に生殺与奪(せいさつよだつ)を醸す地球は、其々が自己の存続と繁殖には、他を殺伐・捕食・餌食にすること以外に生き抜くすべ(統べ・術べ)はありません。此れを、物理学的に確率的な好運・恩寵、マルチバース理論が云う確率がどうなのかは問いませんが、我々が住する地球は神仏の常住する平和な世界では有り得ません。地球は生命与奪の悪夢の惑星だとも目されます。ここに、哲学がものの論理を「究明(正を求め、究めんと)」し、宗教が超人「神・仏」を求め、物理科学が世界の実像の認証に励む道理があります。哲学・思想ランキング
2022年03月10日
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神の存否-343 定理四〇証明・備考に続いての系一以下、系二、その証明、備考 スピノザの此の章の当事者である人間を和訳では想定する性を男性「彼」にしていますが、当然に、ジェンダー・フリーの現代では解釈的には両性を意味する程に時代世相は変遷しています。但し、スピノザは男女の情愛に固執してないことには注意が肝要です。 系一 自分の愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者は、同時に憎しみと愛とに捉われるであろう。なぜなら、自分がその人から憎まれると表象する限り彼はその人を憎み返すように決定される(前定理四〇 自分が他人から憎まれていると表象し、しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は、その人を憎み返すであろう。により)。ところが彼は、その仮定により、その人をそれにもかかわらず愛している。ゆえに彼は同時に憎しみと愛とに捉われるであろう。 系二 もしある人が、前に自分がいかなる感情もいだいていなかった他人から憎しみのゆえにある害悪を加えられたことを表象するなら、彼はただちに同じ害悪をその他人に報いようと努めるであろう。 証明 他人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者はその人を憎み返すであろう(前定理 同四〇により)。そして(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)その人を悲しみに刺激しうるあらゆることを案出しようと努め、かつそれをその人に(この部第三部の定理三九 ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。により)加えようと励むであろう。ところが仮定により、この種のことに関して彼の表象に浮かぶ第一のことは、彼自身に加えられた害悪である。ゆえに彼は同じものをただちにその人に加えようと努めるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 我々の憎む者に対して害悪を加えようとする努力は怒りと呼ばれる。また我々に対して加えられた害悪に報いようとする努力は復讐と称される。此処で気に懸かるのは、日本の「武士道」における「仇討と復讐」の境界面ですが、此れも史的に見ても曖昧模糊で世相に鑑み判断処分がされることが多々見られます。哲学・思想ランキング
2022年03月09日
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神の存否-342 人間は一旦憎まれていると表象した場合は、其の起因が自己の内部精神が誤謬である原因にあるにも関わらず、其れに気付くこともなく、即ち、憎悪は喩え優秀な能力のあるものであっても、その正誤の判断力を毀損します。 定理四〇 自分が他人から憎まれていると表象し、しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は、その人を憎み返すであろう。 証明 人が憎しみに刺激されていることを表象する者はそのことによって自分も同様に憎しみに刺激されるであろう(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)。言いかえれば彼は(この部第三部の定理一三の備考 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。 により)外部の原因の観念を伴った悲しみに刺激されるであろう。ところが彼自身は、仮定を実相として模する表象に飲み込まれて、自分を憎んでいる人以外にこの悲しみの何の原因も表象しない。其のすえに彼は、自分がある人から憎まれていると表象することによって、自分を憎む人の観念を伴った悲しみに刺激されるであろう。すなわち(同じくこの部第三部の定理一三の備考愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)その人を憎むであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 もし彼が憎しみに対する正当な原因を与えたことを表象するならば、彼は(この部第三部の定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。およびその備考により)恥辱に刺激されるであろう。だがこうしたことは(この部第三部の定理二五 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。により)稀にしか起こらない。 なおこの憎み返しは、憎しみにはその憎む柏手に害悪を加えようとする努力がつきものだということからも生じうる(この部第三部の定理三九 ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。により)。すなわち、他人から憎まれることを表象する者は、その人をある害悪または悲しみの原因として表象するであろう。したがって彼は自分を憎む人をその原因として意識した悲しみまたは恐怖に刺激されるであろう。言いかえれば、上述のごとく、その人を憎み返すであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 上記の人間の輻輳した心理描写は旧約聖書のサムエル記に登場する紀元前10世紀頃のイスラエル王国の最初の王、サムエルが神が選んだ人であることを悟って油を注いだサウル(Saull)とエッサイの子ダビデの軋轢が参考になります。哲学・思想ランキング
2022年03月08日
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神の存否-341 この部第三部の定理三九の備考 備考 私はここで、善をあらゆる種類の喜びならびに喜びをもたらすすべてのもの、また特に願望とされる類い、それがどんな種類のものであっても、其の精神感情を充足・満足させるものと解する。これに反して悪をあらゆる種類の悲しみ、また特に願望の満足を妨げるものと解する。なぜなら、前に(この部第三部の定理九の備考 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの云々。自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのものにほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上のすべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するということである。において)示したように、我々は物を善と判断するがゆえに欲するのでなく、かえって反対に我々の欲するものを善と呼ぶのだからである。したがってまた我々は我々の嫌悪するものを悪と呼ぶ。ゆえに各人は、何が善で何が悪であるか、何がより善く何がより悪くあるか、最後に何が最も善く何が最も悪くあるかを自己の感情に基づいて判断しあるいは評価する。こうして食欲者は金の集積を最も善いものと判断し、その欠乏を最も悪いものと判断する。しかし名誉欲者は何にもまして名誉を欲し、反対に何にもまして恥辱を恐れる。最後に、妬み屋にとっては他人の不幸ほど愉快なものはなく、また他人の幸福ほど不快なものはない。このようにして各人は、自己の感情に基づいて、あるものが善か悪か、有用か無用かを判断するのである。 なおまた、人間をしてその欲するものを欲せずあるいはその欲せざるものを欲するように仕向けるこの感情は臆病と呼ばれる。したがって臆病とは人間をしてその予見する悪をより小なる悪によって避けるように仕向ける限りにおける恐怖にほかならない(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。を見よ)。しかしもしその恐れる悪が恥辱である場合にはその臆病は羞恥と呼ばれる。最後にもし予見される悪を避けようとする欲望が他の悪への怯(おび)えによって阻害されていずれを選ぶべきかを知らない場合、特にその恐れる二つの害悪がきわめて大なる場合にはその恐怖は恐慌と呼ばれる。 現代に住する人間は、過去の人間とは断絶と云えるほどの情報化のIT技術の恩恵による機器に恵まれ、政・官・財界の隠蔽は困難になりつつありますが、逆に、情報の私物化による権力の誘導も複雑性を高めています。現代は知識は容易く入るものの夫々個人の正当な状況の取捨選択の思考と判断力が求められます。人類の希望はスピノザは倫理の「善」の実践にこそ希望があるのとするのです。哲学・思想ランキング
2022年03月07日
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神の存否-340 21世紀の今現在、第一次世界大戦を経て第二次大戦を経た人類が学んだ歴史が何故に生かされ得ないのに切歯扼腕、本当に人類に進歩は約されているのであろうか。人類共通の「善」は真に憎悪を超えるのか、現代には悪夢とも云える状況が起こる危険性さえあり得ます。国家と個人、生命とりわけ人類への尊厳、全ての人々の幸福への追求への平等は開かれた集団意識の共有に期待するしかありません。精神統御に対する自由への人間の本性に対する危機感は、現代物理の超絶理論の超ひも理論やマルチバース理論では力を持ち得まないのです。今こそ、人間の尊厳と智を追求した哲人が出現すべきときだと思うのは我れ一人ではない筈です。哲学が学会から思考バカとされるのには、それなりに理由があるとしても責任はある筈でしょう。定理三九は其の愛憎の精神感情を抱くものに関するものに関して述べているのですが、其の精神感情の妥協点を暗示しているとも云えます。:記 この部第三部の定理三九の証明 証明 ある人を憎むとは(この部第三部の定理一三の備考 要約:愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)ある人を悲しみの原因として表象することである。したがって(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)ある人を憎む者はその人を遠ざけあるいは破壊しようと努めるであろう。だがもし彼がそのため自分自身により大なる悲しみあるいは、同じことだが、より大なる悪の生ずることを恐れるなら、そして企てた悪を、憎む人に加えないことによってそれを避けうると信ずるなら、彼はその悪を加える企てを断念しようと欲するであろう(再びこの部第三部の定理二八 同上々により)、しかも(この部第三部の定理三七 悲しみや喜び、憎しみや愛から生ずる欲望は、それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である。により)この努力・欲求は他人に悪を加えるように彼を促した努力・欲求に比してより大であるであろう。したがってこの努力の方が、我々の主張したように、優勢を占めるであろう。この定理の第二の部分の証明も同じ仕方でなされる。ゆえにある人を憎む者は云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年03月06日
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神の存否-339 スピノザはある人を愛する者は、其の人に対して、憎悪が悪〔害悪〕を加えようとするのに対して、善〔親切〕をなそうと努めるとしますが、其の精神感情からくる行動自体は認証できますが、なにぶん相手方次第の要素が絡むため、善〔親切〕をなそうとする行為自体が、現代社会ではストーカー行為やセクハラ行為と受け止められかね得ない状況です。集団意識と個人主義が上手く噛み合っていないっことからくる状況です。:記 定理三九 ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。 定理三九は其の愛憎の精神感情を抱くものに関するものに関して述べているのであって、相手方の反応は記述はされてはいません。スピノザの精神の美的翡翠性「善本性」を感じ、スピノザがどれ程に人間の本性に「善性」を求めていたのか、その思考の情熱、究明の努力が胸の底に響きます。哲学・思想ランキング
2022年03月05日
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神の存否-338 スピノザは其の肖像画から受ける穏やかさの印象以上に、こと悲喜愛憎に関しては厳しい視線を持っていたようです。私的想像を巡らせれば、日本の戦国武将の雄である上杉謙信の面影を表象させられます。厳しさと優しさ或いは性別を超えた稀な度量を併せ持つ稀有な人物としてです。 定理三八 ある人がその愛するものを憎み始めてついに愛がまったく消滅するに至る場合、彼は、それを全然愛していなかった場合よりも-省略、(誰しもが此れには想像がつきにくいと想われる。:記)。もしその憎む原因が両方の場合相等しいとしたら-省略、(愛憎等しくとも:記)より大なる憎しみに捉われるであろう。そしてこの憎しみは以前の愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。 証明 なぜなら、もしある人がその愛するものを憎み始めるなら、それを愛さなかった場合に比し、彼における衝動はより多く阻害される。というのは、愛は喜びであるから(この部第三部の定理一三の備考により)、人間はこれをできるだけ維持しようと努め(この部第三部の定理二八により)、そのため(同じ備考により)愛するものを現在するものとして観想するようにし、また愛するものを(この部第三部の定理二一により)できるだけ喜びに刺激するようにする。この努力は(この部第三部前定理により)愛がより大なるに従ってそれだけ大である。そして愛するものに自分自身を愛し返させるようにする努力もまた同様である(この部この部の定理三三を見よ)。ところがこれらの努力は愛するものに対する憎しみによって阻害される(この部この部の定理一三の系および定理二三により)。ゆえに愛する当人は(この部のこの部定理一一の備考により)この理由のためにも悲しみに刺激されるであろう。そしてその悲しみは愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。言いかえれば、憎しみの原因であった悲しみのほかに、なお他の悲しみが、そのものを愛したことから生ずるのである。したがって彼はそのものを愛さなかった場合に比べ、より大なる悲しみの感情をもって愛するものを観想するであろう。言いかえれば(この部この部の定理一三の備考により)より大なる憎しみに捉われるであろう。そしてこの憎しみは以前の愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年03月04日
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神の存否-337 悲しみと喜び、「悲喜交交(こもごも)」、「愛憎相半(あいなか)ばする」 というように、人間の精神感情は早々単純には区分できません。「嫌い嫌いも好きのうち」というように人間の精神感情は複雑に揺れ動いています。まして、それから生ずる悲喜愛憎の顕れ方は千差万別だと云えます。 定理三七 悲しみや喜び、憎しみや愛から生ずる欲望は、それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である。 証明 悲しみは人間の活動能力を減少しあるいは阻害する(この部第三部の定理一一の備考 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。次に欲望の何たるかはこの部の定理九の備考において説明した。この三者〔喜び・悲しみ・欲望〕のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその他の諸感情は、以下において示すだろうように、この三者から生ずるものだからである。以下省略により)。言いかえれば(この部第三部の定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)人間が自己の有に固執しようと努める努力を減少しあるいは阻害する。したがって悲しみは(この部第三部の定理五 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。により)この努力に相反するものである。そして悲しみを感じている人間のすべての努力は悲しみを除去することに向けられる。ところが悲しみの定義により、悲しみがより大であるに従ってそれは必然的に人間の活動能力のそれだけ大なる部分を阻害する。ゆえに悲しみがより大であるに従って人間は反対にそれだけ大なる活動能力をもって悲しみを除去しようと努めるであろう。言いかえれば(この部第三部の定理九の備考 この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである。により)それだけ大なる欲望ないし衝動をもって悲しみを除去しようと努めるであろう。次に喜びは(再びこの部第三部の定理一一の備考 要約:我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。により)人間の活動能力を増大しあるいは促進するから、喜びを感じている人間が喜びを維持することを何よりも欲すること、しかも喜びがより大なるに経ってそれだけ大なる欲望をもってそれを欲することは同じ方法で容易に証明される。最後に、憎しみや愛は悲しみや喜びの感情そのものであるから、憎しみや愛から生ずる努力・衝動ないし欲望の大いさが憎しみや愛の大いさに比例するだろうことも同じ仕方で導き出される。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年03月03日
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神の存否-336 哺乳類である人間は受胎の瞬間から生物学的に安楽を享受しているとも云えます。此れは生命進化が進展するに連れ生物学的に本能に刷り込まれています。其れ故に、出産は自己が体験する初めての安楽を脅かす液中生体から空気環境生体への激変であり、自己本体にとっての最初にして最高の悲劇です。 定理三六 かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する。 証明 人間が自分を楽しませたものと同時に見たすべてのものは、彼にとって偶然による喜びの原因となるであろう(この部第三部の定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。により)。したがって(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)彼は、これらすべてを、自分を楽しませたものと同時に所有しようと欲するであろう。すなわち彼が最初にそれを楽しんだと同一のすべての事情のもとにそれを所有しようと欲するであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 それでもし、愛する当人は、これらの事情の一つでも欠けていることに気づけば、悲しむであろう。 証明 なぜなら、何らかの事情が欠けていることに気づく限り、彼はそのものの存在を排除するある物を表象する。ところが彼は、そのものあるいはその事情を(前定理三五 人はもし自分の愛するものが自分のこれまで独り占めにしていたと同じの、あるいはより緊密な愛情の絆によって他人と結合することを表象するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、またその他人を妬たむであろう。により)愛ゆえに欲しているのであるから、したがって(この部第三部の定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)それが欠けていることを表象する限り、悲しみを感ずるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる。 「思慕」は今ここにはない、なにか大切な人やものを愛おしむ気持ちです。人のことを思う場合、誰かを深く愛する恋愛感情や、両親や兄弟に対する家族愛などが挙げられますので、恋愛に限りありません。哲学・思想ランキング
2022年03月02日
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神の存否-335 スピノザの生涯を著した記述や文献に、彼が恋愛問題を扱ったものがない、ましてや、生涯独身で44歳の夭折であり、男女間の恋愛や不倫・三角関係は体験というよりは、書物や伝聞によるところが多いと想われますが、正鵠を射てるようです。定理三五の備考においても真相を離れてはいません。 備考 妬み(ねたみ)と結合した、愛するものに対するこの憎しみは、嫉妬と呼ばれる。したがって嫉妬とは、同時的な愛と憎しみから生じかつそれにねたまれる第三者の観念を伴った心情の動揺にほかならない。なおまた愛するものに対するこの憎しみの大いさは、嫉妬する者がそれまで愛するものの愛し返しによって感ずるのを常としていた喜びの度合に比例し、さらにまた愛するものの結合する相手として表象される人に対して彼が前にいだいていた感情の度合に比例するであろう。というのは、もし彼がその第三者を憎んでいるとしたら、すでにそのことだけで彼は愛するものを憎むであろう(この部第三部の定理二四 ある人が我々の憎むものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対しても憎しみに刺激されるであろう。反対にその人が我々の憎むものを悲しみに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。により)。なぜなら彼は愛するものが彼の憎むものを喜びに刺激することを表象するからである。その上また彼は(この部第三部の定理一五の系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。により)愛するものの表象像を彼の憎むものの表象像と結合せざるをえないということからも愛するものを憎むであろう。この関係は一般に女に対する愛の場合に見られる。すなわち愛する女が他人に身を要せることを表象する人は、自分の衝動が阻害されるゆえに悲しむばかりでなく、また愛するものの表象像を他人の恥部および分泌物と結合せざるをえないがゆえに愛するものを厭(いと)うであろう。これに加えてまた嫉妬する者は、愛するものが与えるのを常としたと同じ顔つきをもって愛するものから迎えられないということになる。そしてこの理由からも愛する当人は悲しみを感ずる。私がやがて示すであろうように。 此の章の締め括りは、決して醜男でないスピノザが恋愛問題を起こさなかった謎は残るものの、男女間の機微についても相当に思考していたことが伺えます。哲学・思想ランキング
2022年03月01日
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神の存否-334 尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一とお宮の「金>か、愛」と主要登場人物の狭山「愛<か、金」の情緒関係とは相違し、此れが「愛」そのものの変遷ともなれば、誰しもが憎しみ若しくは妬みを感じるでしょう。ただし、その憎みと妬みが通常は其の体験者自身の比較衡量によって大小があり多くの事件が巻き起こされます。此れが西洋はいざ知らず、道教・儒教世界であれば小児許嫁制度などにより表面化はしませんが、水面下では古今東西垣間なく現れる現象で、物語の格好の題材になるのは言わずもがなです。:記 定理三五 人はもし自分の愛するものが自分のこれまで独り占めにしていたと同じの、あるいはより緊密な愛情の絆によって他人と結合することを表象するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、またその他人を妬たむであろう。 証明 人は自分の愛するものが自分に対してより大なる愛を感じていると表象するに従ってそれだけ大なる名誉を感ずるであろう(前定理三四 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉える)を感ずるであろう。により)。言いかえれば(この部第三部の定理三〇の備考要約: 喜びおよび悲しみは愛および憎しみの一種である。しかし愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々は今述べた感情を他の名称で表示するであろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを名誉と呼び、これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞讃されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は、内部の原因の親念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び、これに反対する悲しみを後悔と呼ぶであろう。により)それだけ大なる喜びを覚えるであろう。したがってその人は(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)愛するものが自分と最も緊密に結びついていることを表象するようにできるだけ努めるであろう。そしてこの努力ないし衝動は、他人もその同じものを欲していると表象される場合なお強められるものである(この部第三部の定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)。ところが仮定によれば、この努力ないし衝動は、愛するもの自身の表象像が愛するものの結合している他人の表象像を伴っていることによって阻害されることになっている。ゆえにその人は(この部第三部の定理一一 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。の備考により)そのことによって悲しみに偏重する。愛するものをその原因として意識し、同時にかの他人の表象像を伴った悲しみに、刺激されるであろう。言いかえればその人は(この部の定理一三の備考により)愛するものに対して、また同時にその他人に対して(この部第三部の定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。の系により)、憎しみに刺激されるであろう。したがってまたその他人、その他人は愛するものを享楽しているのであるからねたむであろう(この部第三部の定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。により)。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 スピノザの「エチカ」著作当時の彼の精神感情はいかにも人間的認識主義に基づくものかが、聖人・哲人といった著名人と異なり、真の「人間原理」を求めていたのかが、肌を刺します。哲学・思想ランキング
2022年02月28日
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神の存否-333 スピノザはこの部第三部の定理三三・定理三四で「同類のもの」なる語句を使用していますが、如何なるものを指しているでしょうか。本来的には和訳「同類」は同じたぐいとして仲間とみなされることで、多く、あまり好ましくないような場合に用いるのですが、スピノザはこの意味で否定的には使用していないと想われます。後世の米国の社会学者ギディングス(The University of Chicago Press: Journals Franklin Henry Giddins/1855-1931)は、これを社会的結合の本質をなすものとした「他者を自己と同類であると認める意識」。 生成社会. 自生的に発生した独立性の高い社会集団・ 組成社会としますが、スピノザはこの意味でも使用しているのかも判断は付きかねます。 定理三三 我々は我々と同類のものを愛する場合、できるだけそのものが我々を愛し返すように努める。 証明 我々は自分の愛するものをできるだけ他のものよりも多く表象しようと努める(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。)により。ゆえにもしそのものが我々と同類のものならば、我々はそのものを他のものよりも多く喜びに刺激することに努めるであろう(この部第三部の定理二九 我々は人々が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。)により。つまり我々は、我々の愛するものが我々の観念を伴った喜びに刺激されるように、言いかえれば(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。)この備考により、そのものが我々を愛し返すようにできるだけ努めるであろう。Q・E・D=此れが証明すべきことであった。 定理三四 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉える)を感ずるであろう。 証明 我々は(前定理三三 我々は我々と同類のものを愛する場合、できるだけそのものが我々を愛し返すように努める。により)できるだけ、愛するものが我々を愛し返すように努める。言いかえれば我々は(この部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。しかしこれらすべてについては、以下においていっそう詳しく述べるであろう。により)愛するものが我々の観念を伴った喜びに刺激されるように努める。そこで、愛するものが我々のためにより大なる喜びに刺激されていると我々が表象するに従って、この努力はそれだけ多く促進される。言いかえれば、我々はそれだけ大なる喜びに刺激される。ところが我々は我々と同類の他のものを喜びに刺激したことによって喜びを感ずるたびごとに、我々自身を喜びをもって観想する(この部第三部の定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。により)。ゆえに愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる喜びをもって我々自身を観想するであろう。 すなわち我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉えるのが妥当なのかは再考)を感ずるであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月27日
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