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大晦日 ~正月が また来るんだと 除夜の鐘~ 貧乏人には嬉しくないのが大晦日でございます。 裏長屋の熊さん寅さんも、サンピン侍も大晦日だけは無いことを願っていたのでございます。 なにしろ、店賃も店の買い物も、掛け売りで買いまして、盆暮れの2季払いですから、大福帳を持ち、弓張り提灯をぶら下げて、番頭さんや丁稚が掛け売を踏み倒されては商売あがったりとばかりに、大晦日ともなれば、朝まで借金取りに走るのでございます。もう、お江戸の風物詩でございます。 ~押し入れで息を殺して大晦日~ ~大晦日もうこれまでと首括り~ ~大晦日首でも取って来る気なり~なんて江戸川柳がありまして、、 ~元日や今年も来るぞ大晦日~ 元日からもう、大晦日の借金取りの心配をしている御仁もいるほどで、 ちゃんと、算盤弾いていれば暮れにまごつく事もないのでしょうが、なかなかそうは行かない様でございますな。 大晦日ここを仕切ってこうせめてと、取る方も取られる方も、色々な作戦を練ります。 ~大晦日女房が言うと黙りおれ~お前さん、大晦日だよ、借金どうする気だい? うるせぇ、黙ってろい、俺にも考えがある、ってどんな考え? ~大晦日火鉢とともにしかんでる~お金は無し、金策も出来ず、火鉢の脇で、顰(しか)んだ(顔の皮が縮んで皴がよる)顔で座ってます。 ~大晦日名作ものできりはらい~こちらは貧乏浪人ですね、度々催促に来る借金取りなと、家宝の名刀で斬ってしまいたいのですが、そうもいかず、 止む無く家宝の名刀を質屋に預け借金を払うしかない様でございます。 江戸川柳には大晦日の借金取りの模様が面白おかしく川柳になっていますが、 それで、何とかなると、楽しんでもいるところがお江戸でございますね。 では笑左衛門も齢〆の都々逸捻りましょう。 明日も知れない 無宿の俺にゃ 風が冷たい 暮れの鐘 なにをしたかと 問うてもみたが 繰り返しだな また一年 正月きても 変わることなし 餅の一枚 あればいい 正月くるよと 除夜の鐘 なにかが変わる 訳でなし 煩悩を消す 除夜の鐘だね 借金を消す 鐘はなし 獅子舞になってみたいな 口から銭が 飛び込んでくる 笑左衛門
2021.12.31
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 10 伊賀の蜜謀果てしなく 鴻巣から 徳川御用金を積んだ三隻の汚穢船は利根川を下り、堀を経て、大川へ出、日本橋北鞘町の銭屋七兵衛の店の裏口に寄せると、船はすっと屋敷の下に潜り込んで消えてしまった。伊賀の忍び大工の作った舟口であった。 既に、銭屋七兵衛の店には四谷を引き払った伊賀の忍鴉組が集結していて、汚穢船を待っていたのだった。 黒破多呂兵衛の動きは素早かった。 翌朝、明け六つ前には銭屋七兵衛の店の裏口から次から次へと千両箱の中身を 酒樽や醤油樽に積みかえた小舟がひっきりなしに出ていった。 全国の有力な藩にも、隠れ家が手配されていて、忍鴉組の者が二人一組二千両を抱え、各藩に散ったのである。 徳川御用金は、こうして、伊賀忍鴉組の手によって、日本の全国に分散されてしまったのだった。 江戸から明治になり、黒破多呂兵衛は銭屋七兵衛の店の看板を黒鴉探偵事務所という名に替えた。 まだまだ、混沌としている明治政府にとっては政治の裏に張り巡らされた諜報活動は欠かせない武器であったのだ。 黒破多呂兵衛は全国に散らした情報網も酷使して情報を集めた。 黒鴉探偵事務所の情報量の豊富さと正確さ速さは明治政府を支える政治家たちにとっては無くてはならぬ者になっていた。 さらに、黒破多呂兵衛は徳川御用金の豊富な資金を使い、K資金という闇の資金を ちらつかせて、政治の中枢に力を持つようになったのだ。 世の中が安定すれば、黒鴉探偵事務所の出番はなくなる。黒破多呂兵衛は常に政治が不安定であるように仕組むためにK資金は使われたのだった。 国会議員や、首相、幹事長になった大物政治家もこのK資金の世話になった者は多い。 世の中を不安定にし、諜報活動が重要であり続けるために、ある時には右翼に近づき、ある時には共産主義者の懐に潜り込み、あり時にはやくざ組織にも密偵を送り込み、地域紛争があれば潜り込み、過激なデモ隊に、様々な運動体に、K資金がどこからともなく運ばれてきたという。 伊賀の忍鴉組を永遠に継続し、日本国の裏で、日本国を動かすという遠大な蜜謀であったのだ。 伊賀の蜜謀は現代社会の奥底でまだ蠢いているのかもしれない。 江戸末期には俳人松を芭蕉をつかって、東北、山陰地方の大名の情報を集めたし、日本全国を歩いて測量し、大日本沿海輿地全図を完成させた伊能忠敬もまた、伊賀の情報収集の足となっていた。両名とも、莫大な金を必要とした旅であり、伊賀の組織から資金が提供されていたというのはあり得る話である。 日本橋の裏手に大きなビルの間に挟まれれて陽の当たらない蔦の絡まる二階建ての古い建物がある。 木片に黒鴉探偵事務所と書かれた古い木片の看板がぶら下がっている。誰も訪ねてきそうもない暗い事務所だが、政府高官、公安関係者、総会屋などが密かに出入りしている この探偵事務所こそが、日本中の裏の機密事項、秘密を握っているのだ。 全国の主要都市に、黒、破、鴉、伊賀、忍、などという文字が絡んだ探偵事務所があれば、その事務所は皆、日本橋の黒鴉探偵事務所の細胞機関なのである。 伊賀の衆たちは今なお日本の中枢に影響を与える諜報機関として生き残っていたのである。 彼らの組織のどこに徳川の御用金が隠されてるのかはいまだに謎である。 お終い 朽木一空
2021.12.29
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 9 日本橋鞘町 伊賀の隠れ家 伊賀の頭目黒破多呂兵衛は徳川幕府の行く末、新しい時代に伊賀衆がどう生き残るべきか、四谷の伊賀屋敷で思案を巡らしていた。 新政府軍になれば、徳川の手先として諜報活動をしてきた、伊賀の衆が断罪に処されることは間違いのないところであった。 黒破多呂兵衛は四谷の伊賀屋敷を捨て新たに隠れ家を探した。 交通の便がよく水路に恵まれていることがこれから伊賀が生き残るために重要な場所であった。 日本橋、一石橋の北側、西は外堀、南は日本橋川に面した日本橋北鞘町を選んだ。店の裏が堀で、本両替町の隣の町で、商人が行きかう通りに面していて、問屋商人の店が軒を連ねていた。 その北鞘町の中の銭屋七兵衛というもっぱら小口の両替をする銭両替の店に目を付けた。商売の内容よりもその立地が隠れ家として敵地だと思ったのだ。 表は通りに面していて間口は三間だが、奥行は七間あり広さも隠れ家としては丁度良く、裏が堀に面しているので、隠密の仕事には絶好であった。 狙った日本橋北鞘町銭屋七兵衛の店を手に入れるのに手間はかからなかった。 黒破多呂兵衛配下の沙耶(さや)というくノ一(女忍者)を潜り込ませ、 七兵衛をめろめろに溶かし、沙耶が隠居して鶯谷の屋敷で二人で暮らしたいと甘えたところへ、商人に変装した黒破多呂兵衛が五百両で店を譲ってくれと持ちかける。七兵衛は棚からぼたもちのような顔をして、あっさりと店を手放した。 黒破多呂兵衛は手に入れた銭屋七兵衛の店に伊賀の忍び大工を呼び、早速改装の手を付けた。 古ぼけた店の表はそのままにして、店の中の大改装を始めた。 堀から直接船が出入りできるようにし、床下には地下蔵を作り、隠し部屋、隠し梯子、ドンデン返し、落とし穴、さらに忍術の修練場まで造り、店の中はまるで忍者屋敷そのものに生まれ変わっていた。 つづく 朽木一空
2021.12.27
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 8 無念 小栗忠順斬首 左玄太は暴徒がが散ったのを確かめると、峠の権田村の山間から伊賀の狼煙を上げた。作戦終了の合図であった。 狼煙は中山道沿いの五か所の山を繋いで一刻もかからずに江戸の頭目、黒破多呂兵衛の元へ届いた。 ~よしっ!、次の策略じゃ~ 黒破多呂兵衛はあらかじめ用意してあった西郷隆盛に宛てた密書を江戸城にに届けた。 ~小栗上野介忠順に官軍に反逆する疑いありまする。上州権田村に陣屋を構え、砲台を築き、大砲2門・小銃21挺等多数の武器を備え、農兵を訓練し、数千の暴徒を難なく撃退したことをみても、万人を撃退できるほどの兵備があることを裏付ける証拠でございます。しかも、城を築く工事に着手しておりまする。~ 西郷隆盛はこれを待っていた。隠棲したとはいえ小栗忠順を許すわけにはいかなかったのだ。最後の最後まで官軍に対し徹底抗戦を主張した男であり、このまま、小栗忠順を野にはなって置くことは危険でありまた、恐怖を感じていたのだ。 さらに、江戸城にあった徳川御用金を運び出し何処かへ隠しているという疑いが濃厚なのだった。 西郷隆盛は間髪を入れず、小栗忠順追捕令をだした。小栗忠順を捕らえ、御用金のありかを吐かせたうえで、処刑するように命じた。 だが、その命令書を運ぶ急ぎ飛脚が中山道上尾にさしかかり、飛脚が茶を一杯のみ、小用をしておる間に、左玄太によって、密書の中身がすり替えられてしまったのだ。 ~小栗忠順を問答無用で、速やかに斬首せよ~ 小栗忠順は取り調べもないまま官軍の手によって、上野の国権田村近くの烏側川の河原でで首を刎ねられた。 伊賀の頭目、黒破多呂兵衛はその知らせを受け、死人に口なし、罠の仕上が済んだとほっと胸をなでおろした。 これで、徳川御用金の行方は永久に謎に包まれてしまったのだ。 念を入れるためなのか、左玄太が風聞を流していた。 「御用金らしき重そうな長持を担いだものが赤城山の方へいあった。あれは間違いなく御用金を隠すためだ。百万両、いや、三百万両もの御用金らしいぞ」 その噂に惑わされ、百姓や無宿者が鍬を担いで、赤城山の麓を掘り起こした。 官軍の中にも脱藩して赤城山中に御用金が隠されているはずだと、鍬を担いで御用金探しに山を掘るものまでいたという。 つづく 朽木一空
2021.12.25
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 7 権田村での戦い 無念小栗忠順 権田村に移った小栗忠順は、村に手習い塾を開き子供らに読み書き算盤を教え、水路を整備して、村人と新田開発の開墾にも着手した。 一見すれば、権田村の農民たちと静かな余生を送っているような暮らしをしていた。 だが、江戸から御用金を積んだ行列が鴻巣を過ぎたあたりで襲われ、千両箱の入った荷のほとんどが山賊らしきものに奪われたと知らされたとき、小栗忠順は愕然とした。 ~もしかしたら、伊賀の黒破多呂兵衛の仕業ではないのか?~という疑いが消せなかったがその証拠はなかった。 金が奪われたこともだが、幕府の中でも有能だった自分が騙されたことが悔しくてたまらなかった。 だが、金を奪われてしまったのにかかわらず、小栗上野介は江戸から財宝と共にやってきたという風説が上州の村々に流れていたのである。 小栗忠順は徳川御用金を隠し持っている、その金300万両ではないかと取り沙汰されていたのである。その金で小栗は官軍に再度挑むつもりだとか、観音山に城を築くつもりだとかの噂がまことしやかに流れていたのである。 ~その噂とおりだ、金がちゃんと届けばそうするつもりであったのだ、伊賀の蜜謀にかかった儂が愚かだったのだ~ 小栗忠順は地団駄踏んで悔しがったのである。 一方で、黒破多呂兵衛は小栗忠順に対しての最後の詰めを忘れてはいなかった。 下忍の左玄太は小栗に関する風聞を上州の村々に広げ、鴻巣で使った雑多な浪人や無宿者、百姓崩れに声をかけ、さらに、博徒ややくざ者、流れ者、近村の百姓にも金を積んで人を集め、 ~小栗の隠し持っている御用金300万両を奪おうじゃないか、一人当たり千両を手にできるぞ~ と、焚きつけた、 左玄太は欲につられた二千人を引き連れ、権田村の小栗忠順へ戦いを挑んだのだ。 多種雑多に集まっためた者の中にはやくざ者や乱暴者も混じっていて、軍勢は暴徒となり、村へ放火し、略奪をする者までいた。それを見せつけられた小栗忠順が黙っていられる筈もなかった。小栗忠順は百戦錬磨の元徳川幕府の勘定奉行だった男でる。 小栗側には数十人の家臣しかいなかったが、烏合の衆の暴徒など全く問題にしなかった。 ~よいか、暴徒とはいえ、むやみに殺すでないぞ、蹴散らせばそれでよい、大砲の二三発ぶち込んでやれ~ 小栗にはフランス式の最新の小銃で訓練された家臣がいた。 押し寄せる二千人を越える暴徒に対し、僅か数十名の小栗たちは、充分引き付けてから 鉄砲隊が小銃を放つと、暴徒の先頭の男たちが足を撃たれてばたばたと数十名が倒れた。 動揺した暴徒の真ん中へ大砲をズドーンっと一発放った。 烏合の衆は胆を潰し、あっと言う間に戦意喪失した。 ~最早ここまで、引けい、引けい~左玄太が叫ぶ、 統制がとれていた群衆ではない、まして、金だけで集まった連中で、義理も恩義もない、それ逃げろと、我が身大切とばかりに、蜘蛛の巣を散らすように逃げ去ってしまった。 誤報を撒き、人を誑かし、煽て、人心を操る。伊賀忍者左玄太の仕組んだ仕事だったのである。 つづく 朽木一空
2021.12.23
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 6 仕組まれた襲撃 上州上野国(こうずけのくに)の山深い権田村に着いた小栗忠順一行は 権田村にある東禅寺で借り住まいをし、閑居して時世の成り行きを確かめようという心境であった。 権田村の名主や庄屋にも挨拶をし、村人にも行き渡るように、多額の土産と金銭を渡した。そして、見晴らしのいい、観音山に新しい屋敷を新築する工事にも着手したのであった。 屋敷建設の目途が立つと、江戸の本所津軽藩の下屋敷に身を隠していた江戸留守居役に、残された荷物(御用金)を権田村に運ぶよう指令を出した。 無論、残された小栗忠順の家臣の者だけでは運ぶことができず、伊賀の黒破多呂兵衛に警護の依頼をすることになった。 伊賀忍鴉組の頭目黒破多呂兵衛の蜜謀が本格的に動かしだしたのはこの時からである。 黒破多呂兵衛はすでに徳川を見切っていた。否、小栗忠順でさえ、主君徳川慶喜が新政府軍に恭順し、上野寛永寺に籠っていては最早徳川再興の夢など無きに等しいとわかっていたはずであっが、まだ一縷の望みを捨てきれずにいたのだった。 本所津軽越中の守の下屋敷を出た荷物を運ぶ行列は、旗本家の移住を装い、それなりの家財も運ぶ大掛かりのであり、荷車10台、人足に担がせた長持30個の大行列になった。 無論、この荷物の中には300万両の小判が隠されていて、行列は伊賀忍鴉組によって衛られていた。 この頃は、江戸から藩に帰郷する大名が多く、街道の大行列も特段珍しくもなく、不審に思われることもなく中山道を下っていった。 行列は、順調に板橋、桶川、鴻巣を過ぎ、中山道は山間に差し掛かっていた。 伊賀の江戸の頭目、 黒破多呂兵衛の蜜謀の命を受けた下忍の 左玄太は浪人や無宿者、博徒それに百姓くずれの者、雑多な三十人ほどをの男を集め、街道を見下ろす山中に身を隠していた。 わざとらしく身なりを崩し、山賊を思わせるような形をさせていた。 左玄太の合図で山中から行列に向けて煙玉が投げられ、辺り一面煙に巻かれ視界が不良になった。本来は遁走用に使われる忍法煙玉の術である。 ~わあああああ~という掛け声とともに、 左玄太の雇った雑多な偽山賊が、槍や刀を持ち、声を上げながら、雪崩を打って行列の真ん中に割って入ってきた。行列を護衛していた伊賀の忍鴉組の衆が、二分されたっ行列の前方に対し、 ~逃げろ、後ろをかまうな、まっしぐらに逃げよ!~と指図した。 行列は、北へ向かって一目散に逃げだした。その、行列の尻を叩くかのように、 山賊たちは追いかけていった。だが、脅すだけで手は出さない、 二分され、後方に残された行列の半分は街道の煙玉が消えると跡形もなく姿を消していた。中山道の下のを流れる利根川の岸にあらかじめ汚穢船5隻が繋がれており、行列の荷物はすべて汚穢船に運び込まれていたのだ。 行列の人足たちは、皆当て身を喰らって失神し、街道脇の笹の葉の陰に転がされていて、目を覚ますと、一人当たり三両の人数分の小判が置かれてあった。 煙玉を吸い、当身をくらって、人足たちは何がどうなったのかわからなかったのである。 黒破多呂兵衛の仕掛けた絶妙な罠であった。 長持の行列の前方には家具や、衣類、書物、などが多く、後方の長持には千両箱が多かったのだ。前方の行列を追いかけていった伊賀忍鴉組の左玄太率いる偽物の山賊は、誰も傷つけることもなく、ただ、わあわあと、行列を追いかけただけで、一里も行くと、 ~もう、よいだろう、ご苦労であった、~ と、偽山賊に一人当たり三両の金を渡した。 ~またこの仕事したくなったら、上州の権田村で待っててくれ~ そう言うと、左玄太は黒破多呂兵衛の次の戦術のために街道を急ぎ足で去っていった。 御用金300万両を積んだ汚穢船5隻は糠味噌臭い手拭いで頬被りをした伊賀の忍鴉組の手によって、なに事もなかったように利根川をゆっくりと下っていった。 つづく 朽木一空
2021.12.21
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 5 御用金を盗んだのは誰だ? 小栗上野介忠順の行列が江戸城を下り、上州上野国権田村へ到着した数日後であった。 西郷隆盛と勝海舟の間で、江戸城無血開城が決まったのだった。官軍による江戸城総攻撃は中止され、江戸が火の海になることは避けられたのだった。 江戸城を手にいれた新政府軍は、少なくとも300万両を超える徳川の御用金を新政府樹立のために使うことを算盤に組み込んでいた。 京から江戸まで戦い続けてきた官軍の懐の金は乏しくなっており、今後の戦いのためにも、徳川の御用金はなければならなった金であった。 江戸城に入った官軍は、蔵の扉を次々と開け、そこから鉄砲など武器弾薬多数を発見した。 だが、肝心の「徳川幕府御用金」があるはずの金蔵は、必死の捜索にもかかわらずもぬけの殻であった。どこを探しても金銀は見つからなったのである。 官軍は金蔵番の役人25人を厳しく尋問したが、誰ひとりとして御用金の行方を白状しなかったため全員処罰された。 悔しがる新政府軍と西郷隆盛だが、徳川慶喜は既に上野寛永寺で恭順の意を示し謹慎していたので御用金に手を付けられる筈もなかった。 官軍側は、西郷隆盛との間で江戸城を引き渡すと決めた勝海舟勝を問い詰めた。 「勝海舟殿、まさか、御金蔵は空で通そうというお考えではあるまいな。さような馬鹿げたことが通用するはずがない。さあ、中にあったものをどこへやったか、返答をいただきたい」 勝海舟は、 「さて、それがしもないとは思わぬが、金の事は一切、勘定奉行の小栗上野介殿が取り仕切っておられたので、小栗殿に聞かれよ」 と答え、疑われた勝海舟も躍起になって、御用金の行方を捜すことになったのだった。 御用金はいったいどこへ消えたのだろうか?江戸幕府は度重なる財政危機に見舞われ、そのつど改革が行われるなど、非常に厳しい財政状況で御用金などなかったのではないかという説もあったが、一枚の小判もないというのはいかにも不自然であった。 官軍側は御用金の行方について、あらゆる可能性を否定しなかった。 大奥の女たちが夜陰に紛れて平河門から脱出した、その時に持ち出したのか? 小栗とつながりの深かったフランス船に積み込んだのか? 江戸城警護の伊賀者が持ち去ったか? さらには、官軍側で最初に江戸城に入った薩摩藩の仕業か? だが、やはり、疑いの本命は当然のことながら、江戸幕府最後の勘定奉行であったの小栗上野介忠順に向けられていたのである。 つづく 朽木一空
2021.12.19
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 4 徳川御用金の行方 伊賀の頭目、黒破多呂兵衛は罷免になった駿河台にある小栗忠順の屋敷に忍び込んだ。急がねばならぬ、蜜謀に猶予はならぬ。 小栗忠順は勝手方の勘定奉行(会計責任者)であり江戸城の金蔵のどこに御用金が保管してあるのかを知っている男なのだ。 月光の光だけが差す人気のない屋敷の庭から黒破多呂兵衛は小栗忠順に囁くように小声で話しかけた。 ~小栗殿、拙者たち伊賀の者は長州薩摩の官軍の軍門には下りませぬ。奥羽列藩を味方につけ、体勢を立て直せば、十分勝ち目はありまする、微力ながら、伊賀の者、甲賀の者、それに弾左衛門配下の者も、さらにフランスも味方にすれば、勝機は徳川にありでございます。 そのためには徳川御用金は不可欠でございます。もともと御用金は徳川再興のために使われるもの、決して、薩摩長州などに渡してはなりませね~ 黒破多呂兵衛が徳川を護るというよりも御用金に関心があることは小栗忠順は見抜いてはいたが、江戸城警護の役目を長い間務めてきた伊賀の衆の力があれば御用金を運び出すこともできると踏んで、小栗忠順は黒破多呂兵衛の誘いに乗ったのだった。 ~御用金さえ確保しておけば次の手が打てる、、~ 小栗忠順は優秀な官吏であった。出来る男であり、信じるところは頑として譲らない有能な男であった。 万延元年には、日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節団が米軍艦ポーハタン号に乗って史上初めてアメリカに渡った遣米使節団のひとりであり、アメリカ高官からも高く評価を得ていた人物で、世界を一周をして帰国してから、外国奉行につき、フランスの協力を得て、横須賀に製鉄所を造り、その後勘定奉行になった人間である。 その小栗忠順が御用金を持ち出すと決めた腹の底には小栗なりの計算が合ったのだ。小栗忠順は、300万両以上もある徳川御用金を無事に運び出すには小栗の家臣では頼りなかったのだ。 ~ところで、多呂兵衛、江戸城下に御用金を安心して一時保管できる、空いている大名屋敷はないか、駿河台のこの屋敷では、すぐに官軍に目をつけられて、接収されてしまうだろう。密かに隠しておける場所へ暫くの間、御用金を小栗家の荷物と一緒に預けたいのだが、名案はあるか?~ ~小栗殿、お任せあれ、既に江戸の大名は浮足立って、帰郷をした藩もありそれでなくとも、江戸脱出の準備をすすめておりまする。 すでに、大名の下屋敷ともなればもぬけの殻でございます。本所津軽越中の守の下屋敷ならば安全かと、すでに下調べをしてございます。伊賀の衆を屋敷の護衛につけますのでご安心を~ 翌日から、小栗の家臣と、伊賀の衆が連携し、江戸城の御用金が夜陰に紛れ運び出された。 白川門の隣にある不浄門とも呼ばれている帯曲輪門(糞尿や死体罪人を運び出すための門で、普段は人気がない)の船着き場には、黒破多呂兵衛が江戸城御用下掃除人の葛西の権四郎から借り、伊賀の者が手拭いで頬被りして船頭に扮した汚穢舟(おわいふね、糞尿運搬船)が待機していた。 江戸城から出る糞尿を運ぶ汚穢舟に、まさか千両箱が詰まれていようとは誰も疑うことはないだろう。 千両箱を積んだ汚穢舟は江戸城の壕を廻って、大川に出、両国橋の手前、堅川を折れ、堀に面して、船着き場のある、津軽越中の守の下屋敷まで、誰にも怪しまれることなく、運び込まれた。 ~伊賀忍鴉組の頭目黒破多呂兵衛がご小栗様御家臣とともに、徳川御用金をお護りいたします。~ 御用金が運び込まれると、黒破多呂兵衛は小栗忠順に報告した。 一方、小栗忠順は、翌日には、上州上野国権田村への土着願書を提出し権田村へ向かった。 家族と十数名の家来、それに、大砲6門の他、小銃21挺、機械類、洋書、それに徳川御用金の一部の千両箱10箱一万両を荷車と、長持に詰めて担ぐ人足数二十人が中山道を、板橋から、鴻巣、熊谷、高崎と辿っていった。 行列が小栗上野介忠順とわかると街道脇の者は冷ややかに噂をした。 「勘定奉行だった小栗上野介様の行列だ、あの荷車や長持の中には小判がぎっしり詰まっているに違いない、はて、まだ官軍と戦うつもりの御用金か?それとも、猫糞して、手前の腹を肥やすための持ち逃げか、、」 そういう噂は広がるのが早い、さらにその噂には尾ひれがついて、行列には十万両、いや百万両の小判を運んでいるんだというという噂までが拡がっていた。 だが、小栗忠順の行列には人足に紛れて、黒破多呂兵配下の伊賀忍鴉組の者がしっかりと警備をしていた。鴻巣過ぎたところで、十人前後のならず者が行列の荷を改めると言ってちょっかいを出したが、伊賀の衆にあっけなく赤子の手をひねるように潰されて 退散した。 行列は上州上野国の山深い権田村に無事に到着したのだった。 つづく 朽木一空
2021.12.17
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 3 江戸城脱出 だが、評定は喧々諤々でまとまらず、小田原評定が続いていた。がついに七日目の朝、徳川慶喜は ~余は恭順に決した~ と、決断を下した。将軍の決断に主戦論の面々も無念の表情を隠さずに頭を下げた。 疲れ切った徳川慶喜は、席を立ち奥へ向かおうとして立ち上がった。 その時、まだ納得がいかない、勘定奉行の小栗忠順は将軍に駆け寄り、慶喜の袖をぎゅっと掴んで離さなかった。「このまま、薩長軍の奸謀に屈して、徳川の面目いずれにござりましょうか、フランス軍は徳川幕府を支持しており、奥羽列藩は皆徳川の味方でござる、薩長などには負けませぬ、なにを躊躇いあそばすのですか、何卒、何卒、戦いのご決断を願いたてまつる、なにとぞ!なにとぞ!」 舌鋒火を噴く小栗上野介忠順、だが、徳川慶喜は無言で小栗忠順を睨み付け、立ち去ろうと、小栗を振り切った。 その時、慶喜の袖がびりっと破けたのだった。将軍の袖を破るなど愚劣極まる前代未聞のことであった。 本来切腹ものであるが、徳川慶喜はその日のうちに小栗忠順の幕臣としての役目を解いたのだった。罷免であったが、辛うじて首は繋がったのである。 伊賀の黒破多呂兵衛は4日間の間、じっと動かずに大広間の天井裏に忍んで、そのいきさつのすべてを聴いていた。 徳川家は、抗戦派を排除し、勝海舟をはじめとした恭順派が新たに組閣を始めた。 徳川慶喜は上野寛永寺にて謹慎し、抗戦派の小栗忠順は罷免され、江戸城を去らねばならなかった。 ~時代が動くとき、千載一遇の好機でもある~ 伊賀の頭目、黒破多呂兵衛の頭の中ではぐるぐると陰謀の渦が渦巻いていたのである。 諸藩の大名たちの動きも早く、早々と徳川幕府を見切り、江戸は官軍の総攻撃で火の海になるやもしれぬと、江戸脱出し、急遽、本国へ帰郷帰参する藩が増え、東海道、中山道、奥州道にも荷物を積んだ大名の行列が目立っていた。 ~もはや徳川慶喜殿は上野寛永寺にて謹慎の身でござる、慶喜様の多くのお役目は終わり申した、大奥に参ることもございませぬ~ 黒破多呂兵衛配下の御広敷番の伊賀者夘助は大奥御年寄、御中﨟に徳川幕府の終焉が近いことを伝え、江戸城が攻撃され大奥が官軍の手に落ちる前に女たちを逃がすため、江戸城脱出の力添えをした。 夜の平河門には、幾隻ものちょき船が壕に待機し、女中たちが列を作って脱出していたのである。 将軍もいない、女中もいない 大奥はすでに空っぽ同然であった。 天璋院や静寛院宮、御年寄、中臈など、夢のような煌びやかな生活を送っていた女たちの部屋には貴重な絵画や珍品の香炉、時計、それに着物や櫛や笄の類まで価値のあるものが大奥の部屋には残されていた。 伊賀の者は夜陰に紛れてそれらを運び出していた。 つづく 朽木一空
2021.12.15
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浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 2 江戸城大評定 徳川慶喜は大政奉還(政権を 朝廷に奏上 )をした後も、天皇家の下で一大名として徳川家は残り、 『幕府がなくなっても結局は徳川が政治を動かしていくんだ』 という甘い考えを持っていたのだが、長州、薩摩の新政府軍はこれを許さず、旧幕府軍を排除すべく戦いがおこった。鳥羽、伏見の戦いであり、戊辰戦争であった。 戦いは維新政府軍の圧倒的な勝利に終わり、徳川慶喜は主力部隊を大阪に残したまま、逃げるようにして、海路江戸へ帰ってしまったのである。 戊辰戦争が始まると、伊賀を支配していた藤堂家は新政府軍の先手として戦い、徳川幕府側から裏切り者と批判された。 江戸の伊賀者にも徳川家から裏切の疑惑の目が向けられたが、黒破多呂兵衛率いる、伊賀の衆は徳川家の下で250年もの間、生かされてきた恩義もあり、そうですかと、徳川を捨てて、簡単に新政府軍に下ることはしなかった。かといって、徳川幕府の終焉は見えていた、江戸の伊賀忍鴉組はどの道を選ぶべきか苦慮していたのである。 徳川慶喜が帰ってきた江戸城内では、決戦を挑む主戦論派と、無条件降伏して徳川300年の歴史を終わらせる恭順派が真っ二つに割れ、激しく対立していたのだった。 徳川慶喜は50畳敷の大広間に家臣を集め大評定行っていた。 老中小笠原長行、水野忠誠、会津藩主松平容保、勘定奉行小栗忠順、軍艦奉行榎本武揚、陸軍奉行大鳥圭介、元軍艦奉行勝海舟ら、徳川の重臣が顔を揃えていた。 勘定奉行小栗上野介忠順は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦すべしと訴えた。 ~薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する~という挟撃策を提案したのだった。 後に、この作戦を聞いた新政府軍の軍事指導に才腕をふるっていた大村益次郎は、 「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れた戦術であった。 つづく 朽木一空
2021.12.13
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浮説 伊賀の蜜謀 消えた徳川御用金 1 伊賀忍鴉(しのびがらす) 伊賀忍者の衆の江戸の頭目、四谷伊賀屋敷の黒破多呂兵衛のもとに、京の密偵からの投げ文があった。 ~徳川慶喜公、大政奉還なさる~ 密書にはこう書かれていた。うむぅぅと、黒破多呂兵衛は唸った。 「ついにきたか、激変の時こそ我ら伊賀衆の出番じゃ、この時を待っていたのじゃ、左玄太、子の刻四谷修練場へ、伊賀忍鴉組(忍びからす)集合だ、伝令たのんぞ、」 黒破多呂兵衛は下忍の左玄太に命じた。江戸の町に散ってる伊賀忍鴉組への集合をかけたのだ。 伊賀忍者の衆の江戸の頭目である黒破多呂兵衛は、京大阪の、長州、薩摩、京都守護職の会津藩、新選組、公家、江戸では老中小笠原長行、水野忠誠、勝海舟や勘定奉行の小栗 忠順の屋敷にも密偵を潜り込ませて幕府の情勢を探っていた。 黒破多呂兵衛は密偵から集めた細切れの情報を繋ぎ合わせ綿密な謀略を練っていた。 ~いよいよ、徳川も終わりの時を迎えたか、伊賀の衆がどう生き残るのか、ここが思案のしどころだな~ 江戸にいる伊賀の衆が活躍したのは、徳川家康公が伊賀忍者の服部半蔵を徳川家の隠密頭の地位につけたのが始まりだが、8代将軍徳川吉宗が紀州から連れてきたお庭番が幕府の隠密を務めると、伊賀の者は御広敷番(大奥警備)などを主とした軽役に追いやられ、30俵二人扶持の雑兵に甘んじていた。 だが、伊賀忍びの者の末裔たちの中には、伊賀忍者としての矜恃を捨てきれず、密かに忍鴉組という部隊をつくり、いざ鎌倉に備え、伊賀忍者としての、誇りと技を引き継いでいるものがいたのだ。 伊賀地方は家康の時代以来、藤堂家が治めていて、初代藩主の藤堂高虎は誇り高い伊賀の郷士の忍びの衆に「無足人」という地位を与えた。 扶持米(報酬)のない無給だが、武士階級としての面目を保させ、忍者の訓練を奨励し武芸に励まさせた。普段は農業にいそしみ、山廻り役、薮廻役などを努め、事あるときには藩の命を受け忍びとしての仕事をしたのだった。 藤堂高虎は伊賀の忍者をうまく手中に収め統率し、国境の守りとして活用したほか、諸国の情報を入手し、徳川幕府に報告していた。 無足人が無給とは表のことで、隠密な仕事に応じて過分な扶持米や報酬が伊賀の衆には支給されていた。 だが、平和な徳川の時代が250年以上も続くと伊賀忍者を使う必要もなくなり持て余すようになっていた。 忍びの衆は伊賀の里の田畑を耕すことの毎日を費やしていたのだ。伊賀の衆の者の中にも、忍者としての仕事ははもう時代遅れだと悟り、忍者組織から毀れ落ちる者も多くいた。 百姓に身を費やす者、伊賀を捨て、京大阪で商いをする者、中には忍びの術を使って盗賊に身を落とす者さえいた。 幕末の今に残っている伊賀の忍びを引き継ぐ者は僅かであり、江戸では、伊賀忍者の衆の江戸の頭目、黒破多呂兵衛の下、伊賀忍鴉組という忍者集団だけが、四谷の伊賀屋敷で、密かに忍者の修行を行い、伊賀忍法を継続していたのだった。 つづく 朽木一空
2021.12.11
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江戸の無駄口地口、もじり、3 お江戸の言葉遊びでございます。 洒落てなけりゃ面白くもない、洒落てるから人間関係上手くいくってえこともあるようでございまして、、そう駄洒落に目くじら立てねえで下さいよ、、 ~田にしたもんだよ蛙の小便、見上げたもんだよ、屋根屋の褌~ 誉め言葉を茶化す無駄口もあるようでございましたね。 ~赤ん坊の小便か~ ややこ(赤子)しい(尿) ~赤子の行水でぃ、~ 金盥(かなたらい)で泣いてるから、金が足らないって泣いてるってことを言う。 ~おめえはうどん屋の湯みてえな奴だな~ 蕎麦屋の湯は蕎麦湯で飲めるが、うどんの湯は役に立たないとさ、 ~兎のとんぼがえりでぃ、~ 兎がとんぼがえりすると耳がすれる、つまり言われちゃあ耳が痛いってことなんでございますよ、 ~わたしゃあ、~あんたに足袋屋の看板~ 足袋屋の看板というものがあります。江戸の街で見かける足袋屋の看板には、いつも片方の足袋だけが掲げられていたとか。こうしたことから、片方だけ整っているつまり、片思いのことを指す時に使う言葉でございます。 それにしても、駄洒落、無駄口、地口、色々あるもんですな、、、 ~某(それがし)右利きですが、夜は左でござんす、、、、、笑左衛門
2021.12.09
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江戸の駄洒落、、無駄口、地口、もじり、 2 怖かったねえぇ、 震え上がったよぅ、ぶるぶる震えが止まらなかったよ、 そういうのをね、彦彦五郎、、 ~こんにゃくの木登り~ てえんだよ、、 「ご隠居駄洒落じゃあねえですかい、まあ、あっしのはなしをきいてくだせえよ、 ~門前の団子屋屋の看板娘、瓜実顔で、切れ長で涼しげな一重の眼をして、 鼻筋が通って、おちょぼ口で、きめ細かい雪のような白肌で豊かな黒髪、それに色気が溢れてるってんだからたまりませんよご隠居さん、冥途の土産に、一度覗いてみたらいかがです?この世の天国ですぞ、、~ ~彦彦五郎、俺を騙しやがったな、その団子屋に行ってみたら、看板娘なんていやしない、店番してたのは、茶釜のような禿げ頭親爺が店番してたんだよ、~ ~ご隠居、そりゃがっかりでござんしょう、とんだ茶釜でございましたな、~ まあこんなふうで、江戸の者は年がら年中、冗談と洒落を言ってたのでございます。では、お江戸の駄洒落、地口、もじりの続きをどうぞ、 ~草加、越谷、千住の先よ ~ ~嘘を築地の御門跡(うそをつく、築地門跡 ) ~情け有馬の水天宮~ ~蟻が鯛(ありがたい)なら芋虫は鯨~ ~蟻が十(ありがとう)なら、芋虫二十(はたち)~ ~あなた百までわしゃ九十九まで、共にシラミのたかるまで~ ~信州信濃の新ソバよりも、あたしゃあなたの傍が良い ~風呂屋の暖簾の「わ」と「ぬ」の由来、わは沸いた、ぬは抜いた~ ~そりゃあ、風呂屋だ~ 湯(言う)だけ~ ~美味かった(馬勝った)、牛負けた~ ~美味しかった(大石勝った)、吉良負けた~(忠臣蔵ですな) ~ならずの森の尾長鳥でぃ、~ならぬぞ、、承知できねえ時に使う、 ~のみこみ山だろうな、~ ~放下師の小刀、のみこみ印でぃ~ (のみこむ、合点する、承知するってえこと) ~当たらぬ富にたはひなし~(触らぬ神に祟りなし) ~当てまして鉄砲の猿~(明けまして結構の春のもじり) ~下戸に御飯~(猫に小判のもじり) ~粋(いき)な上にも半纏~(石の上にも三年のもじり) ~一本差しは闇~(一寸先は闇のもじり) ~お芋の煮転ばしや七つ刺~(お江戸日本橋七ツ立ちのもじり) ~居残り残念客八人~桃栗三年柿八年のもじり こんな駄洒落がすいすいと出てくりゃ、江戸っこですよ、、、、笑左衛門
2021.12.07
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お江戸の駄洒落、無駄口、地口、もじり その1 悲しいこともあるだろう、苦しいこともあるだろう、他人には言えない悩みもあるだろう、いっそのこと、大川に身を投げたくなることもありうだろう、 だけんどよ、そこで踏ん張って、軽妙にかわして笑い飛ばすってえのが江戸っ子の粋ってもんじゃねえですかい、、 どうせいつかは三途の川を渡る日が来るんだ、それまでの短い人生せいぜい洒落れて、暮らそうじゃないか、、 人との間に暗い風が吹いているときでも、つつっと上手いこと"を言って洒落るのが粋というものでございます。江戸人は遊びの天才なのかもしれませんねえ、、 てなことで、おふざけの言葉遊びが流行りまして、行灯(あんどん)に絵をかいて地口(洒落言葉)を添える、『地口行灯』なんてものが流行したほどです。 語呂合わせや駄洒落の先には、地口、もじりなんて言われた面白い言葉があるんでございますよ、 ~驚き桃の木山椒(さんしょ)の木~ ~その手は桑名の焼き蛤~ ~ びっくり下谷の広徳寺~ ~どうぞかなえて暮れの鐘~ ~ 情け有馬の水天宮~ ~笑う顔にはふぐきたる(ふぐじゃあなくて福じゃなかったかい)~ ~おおかぶこかぶ山から小僧がとってきた~ ~舌切り雀をもじって、着た切り雀~ ~ 案ずるより産むが易し~をもじって~杏子より、梅が安し ~飛んで火に入る、夏の虫~に例えて~飛んで湯に入る、夏の武士~ ~おっと、合点承知之介でぃ~ ~何だ神田の大明神 ~ ~恐れ入谷の鬼子母神~ ~居残り三人恥かき人~(桃栗三年柿八年) ~そうはいかのキンタマだ、(そうは行かないと烏賊の金玉) ~いやじゃ有馬の水天宮~ まだまだありますんんで、次回にご紹介、、、でんでんっと、 あたりき車力のこんこんちきでぃ、、、、笑左衛門
2021.12.05
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夜鷹の町 本所吉田町 2 川柳 小咄 振り袖に白粉塗って若く見せ、チラッと見ればと二十二・三、 ちょいとみれば三十二・三、近づいてみれば、四十二・三、よくよく見れば五十二・三、年を聞いたら六十過ぎで、十もサバ読み老婆のあたしゃ七十よ。 蓆一つで春ひさぎ、病気持ちの夜鷹でござんす。安かろう、悪かろう、ひどかろう、、でも気持ちよかろう、、、 とか言いながらそこの若旦那、ちょいと遊んでいかないかい! では、まず吉田町にまつわる川柳を蓆の上に並べてみたよ、、でんでんと、 ~吉田町女房かせぐを鼻にかけ~ ~鷹の名にお花お千代はきついこと~ ~安物のはなうしないは吉田町~ ~材木の間に落とす鼻柱~ ~たわれ男のはな散る里は吉田町~ 夜鷹には梅毒持ちが多く、鼻が欠けてしまった女も多かった。川柳の「はな」という単語には鼻欠の意味が含まれている。 吉田町の夜鷹を買うのは病気を貰いに行くようなものだという、だから、性病に罹ることを『あたる』とも言っていた。 夜鷹の巣窟は性病の巣窟、梅毒の巣窟でもあったってことですかね。~吉田町 やっぱり月を苦労がり~ ~提灯で夜鷹を見るは惨(むごい)こと~ 月や提灯の灯りは夜鷹には禁物です。 ~月夜は物を思わする吉田町~ ~材木に巣をかけて待つ女郎蜘蛛~ ~本所から出る振袖は賀を祝い~ ~四十から老いに入らぬ吉田町~ ~霜天にいただき二十四文とり ~四十から新造になる吉田町~ 四十はまだ若いほうなので新造(若い遊女)だった。 ~箱根からないとはいえど吉田町~ 箱根の山を超せば、江戸寄りには化け物は出ないと言われていたが、 吉田町の老いた夜鷹は化け物だということ、酷いことを言うねえ、 ~わっちらも武士付き合いと夜鷹いい~ 貧乏侍でも、夜鷹は武士が相手なら誇らしい、 ~辻君の御所へ竹光公御入り~ 名刀ならぬ、名竹を腰に差していたのだからしまらないお武家様だ。ついでに吉田町の夜鷹の小咄をおひとつ 「ちょいと、そこ行くいい男、遊んでいきなさいよ!」 豆絞りの単衣の着物を着た女が男の手を引いた。 夜で真っ暗なうえ、材木置き場の陰に入ると。何も見えない。 女が美人なのか、年は幾つなのか、さっぱり見当もつかぬ。 町奉行所では材木置き場に夜鷹が出没するという噂を聞きつけていて、張り込みに入っていた。暗闇の中、男が着物の前をはだけ、いざ、と言うとき、 ~御用だ!、~と 前方だけ照らす強盗提灯(がんどうちょうちん)を同心の逸物に突きつけた。 吃驚、驚き、山椒の木のおふたりさん。 「たはーッ、お役人様、ご勘弁を、、、、」 「ならぬ!風紀を乱す不届き者め、神妙に致せ、」 「いえ、ご勘弁を。この女は女房でございます」 「たわけたことを抜かすな。夫婦ならなぜこの様な場所でいたす?」 「へえ、いま照らされて、はじめて女房と分かりました」 気をつけよう暗い夜道と女房の顔 笑左衛門
2021.12.03
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夜鷹の町 本所吉田町 両国橋を渡り、堅川に沿って、相生町を1丁目から5丁目へと東に向かって歩く、 橋向うの本所界隈は同じ江戸でも神田日本橋辺りとは空気がまるで違った。 野暮、粗野、貧しさも丸見えだが、気取っていない本所の町の方が気さくな感じがして江戸っ子ぽくも感じる。 本所緑町、花町を過ぎ、加賀町一丁目の、北辻橋の手前を左に折れ、堅川と交差している横川に沿って北に向かう。堀沿いの柳が頬を掠めそうに垂れ下がっている。 「彦五郎、左の本所入江町はあの鬼平の長谷川平蔵の屋敷のあったところだ、悪い虫が疼かねえように気をつけな」 ご隠居と彦五郎は本所入江町を過ぎ、長崎町、清水町を過ぎ、右手にある 幅二十間(36M)の横川にかかる法恩寺橋(報恩寺橋)を渡った。 左手に大きな樹木の緑が覆いかぶさるように、静寂に包まれた日蓮宗の、広い敷地の妙栄山本法寺(ほんぽうじ)の山門がでんと構えていた。 二人は、門前丁の天秤蕎麦屋の暖簾を潜った。ここの亭主、順庵はもとは本法寺の坊主だった。 夜毎、哀れな夜鷹の姿を見て、世の中の量りはどこかちぐはぐだ、何か夜鷹の手助けができないかと、蕎麦屋をはじめたのだ。その天秤麦屋に入った、ご隠居と彦五郎は法恩寺橋が見える小上がりに腰を降ろして、酒と、天ぷら、ざるそばを注文した。 天秤蕎麦屋では、夜鷹には蕎麦十文、その他の者はには30文という勘定をつけていた。お江戸の中で3800軒もあるという蕎麦屋で、こんな不つりな勘定をつける店は聞いたことがないが、亭主の順庵はこれで丁度つり合いが取れているという。 ちなみに、風鈴をつけた屋台を担ぎ夜の街を流す蕎麦売りは16文が相場だった。 「ご隠居、神田から随分歩きましたねえ、それにしても風変わりな勘定の蕎麦屋でございますねえ。」 ~ごおーーん、ごおーーん~ 横川の川岸にある本所 時之鐘の鐘撞堂から暮れ六つの鐘が聞こえてきた。 「彦五郎、そろそろ、夜鷹のお出ましの時刻かな、、」 法恩寺橋の西の両側の本所吉田町は夜鷹の巣窟として知られていた場所だったのだ。 ~吉田の森に夜鷹という鳥住む~等と言われ、暮れ六つを過ぎると夜鷹は出かけるのだ。両国の薬研堀、神田の筋違い橋、駿河台から護持院が原の方までむしろを抱き抱えた姿で春をひさぎに出かけるのだった。 「彦五郎も話には聞いてるだろうが、夜鷹の料金は僅か浪銭六孔だ、(波銭とは四文銭のことなので、4枚で二十四文。(500円くらい) ~客二つ つぶして夜鷹 三つ食い~なんて川柳があるが、客二人相手して48文。16文の蕎麦が三杯食べられるということだ。あんまりにも夜鷹がかわいそうなので、順庵はせめての夜鷹には10文でそれも大盛りの蕎麦を食わせてるんだ、 夜も更けて、冷えてくるころにゃあ、帰ってくる夜鷹が体を温め、腹を満たそうと、店はいっぱいになるって寸法だ」 「夜鷹ってえ商いもてえへんなことですねえ」 「彦五郎、みろ、法恩寺橋の上を柿渋色の単衣(ひとえ)を着て、太織の帯を締めて、茣蓙を抱えている女ふたり、これから夜の商いに出かけるのだ。ちょっと離れて唐傘をかついでいる男が歩いてるだろう、あの男が牛太郎((妓夫)だ。 多分夜鷹のどちらかの亭主か紐だろうな、夜鷹の用心棒なのだが女房を夜鷹にして働かせる悪い奴でもあるな。 だが、江戸の夜も物騒には違いねえ、夜鷹は春夏秋冬、日の暮れるを待っていつもの場所に出て客を引き、「もしもし、遊びねえ、、」と男の手を引き、川岸の土蔵の庇合、土手の下、または材木置き場や石置場などの物蔭に客を引き込み淫をひさぐのだが、タチの悪い男が揚代を払わずに逃げたり、暴力をふるったり、逆に銭を巻き上げるなんてことも少なくないんで、夜鷹にしても、岡っ引きの目もあるし、牛太郎(妓夫)の亭主が物陰から見守っていてくれた方が安全ではあるんだがな。」 「ご隠居、夜鷹の中にも水も滴る艶麗な夜鷹もいるんでございましょうねえ」 「そいつは、富くじにあたるより難しいかもしれねえな、そもそも吉田町に流れ着く女は吉原から岡場所や宿場に流れ、その岡場所や宿場でも通用しなくなった女が、食べていくため、やむなく夜鷹になったんだ、まあ、遊女のなれの果てだな、だから年齢も高く、四十から五六十、なかには七十なんて女ももいるそうだ。おまけに性病などの病気持ちが多いんだよ。 老いを隠すため、手拭いで顔を隠し、ひたいに墨を塗って髪の抜けたのをごまかし、白髪に黒い油を塗ってごまかし、それでも提灯を寄せればところどころ白髪が見えて、見苦しく汚らしい女もいるそうだよ。中には親や子供が病に罹り、借金を抱えてやむなく夜鷹で稼がねばならぬという女がいたかもしれねえな。」 「そんな夜鷹を買うやつの気が知れませんなあ」 「彦五郎は、貧乏者でもまだましだってことよ、江戸の町には女だけじゃねえ、極貧の男もいっぱいいるってことよ。 本所界隈には、大名の下屋敷が多くあり、参勤交代で江戸へ出てきた貧乏侍も我慢できずに夜鷹の元へ通う、旗本や御家人の武家屋敷の中間や折助、下男などの奉公人、日雇い人足も、本当は吉原や岡場所で遊びたかったであろうが、薄給では夜鷹と交わるのがせいぜいだったのだろう、またその日暮らしの、棒て振りや、荷揚げ人足、水夫、車夫、駕籠かきもいるそうだ。それに田舎者が江戸へきてひっかかることも少なくないそうだ。」 ~本所吉田町には小鳥が住まぬ、すまぬはずだよ鷹が居る~ たったの浪銭六孔(二十四文)かけ蕎麦2杯にもならねえ銭で春をひさぐ、 そうしなけりゃあ、飯の食えない女がいたんだ。岡場所や宿場でも通用しなくなった女が、食べていくため、やむなく身銭を稼いでるんだ。 好きで春をひさいでいるわけじゃない、自分だけなら死んじまってもいいのだが、 病気の親がいたり、亭主が寝込んでいたり、借金が返せなかったり、いろんな暗い事情ってえ者を抱えてるんだな」 「ご隠居、それじゃあ、まるで地獄でござんすね」 「それがそうでもねえところがお江戸だよ、 なあに、交合なんてえのは糞するようなもんだ、あたしゃ厠だ、男の厠、 明日は明日の風が吹く、いちいち気にかけてちゃ暮らしちゃいくないよ。 お江戸の女は明るいよ、またそう思わなきゃあ笑って過ごせねえがな。 「へええ、そんなもんでござんすかね、まだまだ江戸の神髄にやあ、近づいちゃあいませんね」 夜鷹見習い、笑って暮らそう、、、、 笑左衛門
2021.12.02
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