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今回も、予想外に「三丁目の夕日」で盛り上がってしまった観がある。個人的には「第三項排除」(いじめ論)の展開で、少しそのあたりを敷衍した話題にしたいと考えていた。だが、多分そうなるとこの日記のアクセスは2桁以下になりそうだ。(笑)それでは、昭和30年代の記憶について少し寄り道してみたい。自分は、大阪のもっとも面白い時代の生野区に産まれた。皆さんが、いま韓国ブームとかで探訪される方角ではなく大日本印刷のある側の近傍の小さな民賃アパートで暮らしていた時期らしい。その後、生活の場は鶴橋のあちこちを転々としていたという。ものごころついた頃に、鶴橋北之町に落ち着いた。近所には、竹村健一の生家などがあったらしい。あの街は、当時は大阪の消費生活を集約していた。作家の五木寛之や野坂昭如など往時、鶴橋の路地は完全に頭にはいっていると豪語していた。理由は簡単で、欲しいものがすべて手に入るという戦後のもっとも熱い地域だったからだ。いわば、50年代のパルコであり、ビブレであり、アキバであり、ヨドバシカメラでもあったという風聞をご年配から耳にする。テレビがやってきたのも、結構わが家は早かった。オヤジが、なにかブローカーを副業にやらかして相当面白い儲けがでた時に、珍しく中古のテレビを購入したのだという。普段は、倹約家でけして無駄遣いをしない男だったが、さすがにあの時代におけるテレビという家電の「魔術的なまでの魅力」に屈したのだろうと推量する。59年時点ですら部屋でテレビにスイッチをいれるのか否かというぐらいに間髪をおかず近隣の町内住民が、一斉に狭いわが家の食卓を占拠したのを忘れもしない。だが、町内の食堂など肝心の食事客などどこにいるのか。一日中、狭い敷地に立ち見がでる程の来店者で誰一人食事もせず食い入るようにテレビに無我夢中という気の毒な事態が連日だった。ただ自分は、テレビそのものよりも近鉄ガード下の映画館で毎回見かけた「熱狂」の方が強く心に残って忘れられない。いまの言葉でいえば、映画館に座っている観客がすべてキレているという感じなのだ。たとえば、時代劇の主役がスクリーンに登場するなどあると筋書きも展開もあらばこそいきなり怒涛のような拍手と喝采が起きたりする。特に勧善懲悪物で町方役人が御用提灯を連ねて、大捕り物が始まるとマスヒステリィー状態。あの熱狂だけは、たぶん終生ふたたび体験する事はできないものなのだろうと思う。ちなみに今の鶴橋地図にはない。70年代に消え去った「幻の鶴橋北之町1丁目」ぐらしである。
2005年11月30日
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原子核工学の専攻で、インドから国費留学。日本在住歴がすでに40年近くになろうという友人のS氏から電話があった。北インドなどをご紹介頂いた事もあり、再会を愉しみにしている。
2005年11月29日
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「三丁目の夕日」には、「絶賛評」しか目にしなく、 気持ち悪い思いをしていた者の一人として、 胸がすくような思いであります(とはいっても、もし「三丁目の夕日」を観にいったなら、 涙を流して絶賛してしまったりして……(^^))。 過去は何だって美化されてしまうだけなのだろうなと思います。「自分の少年時代に戻る」なんて、「金をもらってもイヤ」だと思っているひねくれている 自分なもので(^^) lalameansさん ええ、そうですね。多分わたしも映画館で、きっとこの「三丁目の夕日」を観る事でしょう。DVDでは、絶対にみたくない。映画は、映画館でみるものだと決めています。私は、映画そのものを毛嫌いしているのではなくて映画をカタルシスにして涙流して御仕舞にする「いつもの手つき」で忘れられてたまるものか、という思いが湧きます。「三丁目の夕日」の世界でも、いじめはあったしビジネスでの抑圧も日常茶飯。むしろ今の時代よりも酷い不条理は横行していました。これは間違いありません。33年といえば、自分はあの放火による累焼で焼け出された翌年でした。あんな厳しい環境の中で、よく幼稚園に送り出してくれたものだと両親には感謝の気持ちが湧きます。しかし一方まさしくその親に、数年後に「鈍い子どもだ」と児童相談所にほりこまれたりして、当時だって当然ながら釈然としない違和感を感じたりもしました。折々に人は反応するものが変わるものです。懐かしいといえば、自分にとり唯一の郷愁世界ですから否応なしに懐かしいです。大切なものです。といって、だから無批判でいる、ということはありません。わたしの脳裏には、間違いなく「三丁目の夕日」の世界はいまなお現実のように息づかいをしているのを感じますが、これは幽霊が背中に憑いているようなものなのでしょう。幽霊というので思い出しますが、「異人たちの夏」という素晴らしい名作映画がありました。ladybird64さんと御同郷の大林宣彦監督作品でした。わたしはあの映画の鶴太郎と秋吉久美子には、何度泣かされたかわかりません。不思議な映画だった。映画を見終わった今でも、あの映画の夫婦役をこなしていた鶴太郎と秋吉を思い出すと涙が流れてくるんです。われわれは、これから夕日をみるたびに泣く事になるのでしょうか。
2005年11月28日
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↑クリックでジャンプします。週末、母親を見舞った。白内障手術は、経過順調らしいが安静養生は必要らしい。痛みもなく、かなり手際よく手術は終わるものらしいが、繊細な器官のことだ。やはり施術後は静かにしているものらしい。同じ日に手術を受けた方の中には、直後に買い物に出かけたり煙草を大量に吸ったりして、経過が思わしくない狼狽せざるをえない事態に陥って、経過に落胆せざるを得なくなった人もいるらしい。例によって「三丁目の夕日」の世界を21世紀になっても生きている母親のネバーエンディングストーリィーを延々聞き役にまわっているのも息子の役割というものだろう。なにしろ実の孫たちすら、昨今婆さまの話を殊勝に聞き受けるなどという風景は絶えて果ててしまっている。いきおい長男の自分がつきあって措くしかないのである。そこへ岡崎塾長の母上の訃報が耳に入った。富山県の岡崎塾長といえば、パソコン通信全盛期にビジネス系フォーラムを横断的に賑わしたチョウー有名人だった。いまは社長さんになっているベンチャー事業の経営者なども、当時は通信で岡崎塾長のレスを貰って大喜びした記憶が残っているかもしれない。彼は、鳴り響いた母親孝行な人で関東などで声をかける人たちが結構いたにもかかわらず、富山県から仕事で出かけることはあっても拠点を富山以外に移すことはなかったように思う。母親には迷惑をかけっぱなしの自分と違い、稀代の孝行息子の岡崎塾長が先に母上を亡くされることになるというのは実に気の毒である。耳にすれば、夜間の転落死だという。わが母親も、眼に負荷があるぐらい。いつなんどき老朽化した階段を滑り落ちないともかぎらないのである。用心に越した事はない、と伝えた。そういえば、塾長の母上とわが母も年齢的には大差なかったのではないだろうか。話を戻すが、西岸良平の「三丁目の夕日」を映画化するらしい。「携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに愉しかったのだろう」というコピーには、笑ってしまった。そりゃあ、携帯もパソコンもある今の方がよほど愉しいに決まっている。「今」を愉しめているる人間には、携帯もパソコンも液晶テレビもあるこの時代にはもっと愉しいことがあるはずだと思わずにいられない。自分は、昭和33年などにもう一度戻りたいなどと実のところ思った事は一度もない。その証拠に、わが母親のメッセージを楽天日記にあげることだって気持ちさえあれば直ちに実行できる。有名大学へ進学するために、脇目もふらず塾通いしている孫たちには生きている婆さまの昔語りに耳を傾けている暇など到底許されないのだろう。そりゃあ、愉しめるわけがない。愉しめるということは、心と時間に「ゆとり」があってこそ成り立つものである。文部省が思いついて、にわかに生徒にあたえる「ゆとり」などコンテンツのないネットのようなものだ。まず、基礎に濃密な人間関係。これが存在しないところに、どうして「愉しみ」が生じるというのだろう。そもそも、この日記で繰りかえし述べてきた。「三丁目の夕日」の世界ではテレビは夢と期待を一身に背負った未来のメデアだったかもしれないが、自分的にはテレビこそ我々の心を根本的に荒廃させたもの。その正体だという気がしてならない。まず、認識からして西岸良平の描く世界と、自分とでは多少違っている。この時代の息苦しさがあるとするなら、それをつくったものの、大半はあの昭和30年代に形成されたものだと思っている。
2005年11月27日
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ここの処、自分なりに興味深い話題がたくさんある。しかし、残念ながら実家で母親が白内障の手術をしたりなんぞで週末には、また大阪へ。来週以降じっくりと取り組むことにしよう。母親の手術は、なかなか首尾よく進行して周囲のアドバイスどうり「早く手術をしておけばよかった」という感想が漏れている。時代の進歩は、こういう点では有り難い。感謝の気持ちは、日々の陰惨な事件報道の影にかくれがちだが、人の世を棲みやすくするのも、棲みにくくするのも「われわれの心」の問題なのだろう。
2005年11月25日
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自分は、子どもの頃から京野菜の「水菜」が好きである。最近、こともあろうに水菜をサラダで食べるという関東人が増えているらしい。けしからん。グリンピースの謀略だろうか。あれは、鯨と一緒に食べるから旨いのである。自分は、誰も知る反米愛国の民族主義者である。いつの日にか捕鯨再開をと期して、もっぱらニチロやあけぼの水産のシャケ缶やサーモンと一緒に水炊きにして食べる。シーチキンでもいい。土鍋から湯気があがるたびに、古い昔家族で鯨をつついたあの懐かしい生活を思い起こす。いつの日にか、この油揚げが鯨肉に化ける日を胸裏に抱きながら・・・一、泪羅(べきら)の淵(ふち)に波騒(なみさわ)ぎ 巫山(ふざん)の雲(くも)は乱(みだ)れ飛(と)ぶ 混濁(こんだく)の世(よ)に我(われ)立(た)てば 義憤(ぎふん)に燃(も)えて血潮(ちしお)湧(わ)く二、権門上(けんもんかみ)に傲(おご)れども 国(くに)を憂(うれ)うる誠(まこと)なし 財閥(ざいばつ)富(とみ)を誇(ほこ)れども 社稷(しゃしょく)を思(おも)う心(こころ)なし三、ああ人(ひと)栄(さか)え国(くに)亡(ほろ)ぶ 盲(めしい)たる民世(たみよ)に躍(おど)る 治乱(ちらん)興亡夢(こうぼうゆめ)に似(に)て 世(よ)は一局(いっきょく)の碁(ご)なりけり四、昭和(しょうわ)維新(いしん)の春(はる)の空(そら) 正義(せいぎ)に結(むす)ぶ丈夫(ますらお)が 胸裡(きょうり)百万兵(ひゃくまんへい)足(た)りて 散(ち)るや万朶(ばんだ)の桜花(さくらばな)五、古(ふる)びし死骸(むくろ)乗(の)り越(こ)えて 雲漂揺(くもひょうよう)の身(み)は一(ひと)つ 国(くに)を憂(うれ)いて立(た)つからは 丈夫(ますらお)の歌(うた)なからめや六、天(てん)の怒(いか)りか地(ち)の声(こえ)か そもただならぬ響(ひび)きあり 民(たみ)永劫(えいごう)の眠(ねむ)りより 醒(さ)めよ日本(にほん)の朝(あさ)ぼらけ七、見(み)よ九(きゅう)天(てん)の雲(くも)は垂(た)れ 四海(しかい)の水(みず)は雄叫(おたけ)びて 革新(かくしん)の機(き)到(いた)りぬと 吹(ふ)くや日本(にほん)の夕嵐(ゆうあらし)八、あゝうらぶれし天地(あめつち)の 迷(まよ)いの道(みち)を人(ひと)はゆく 栄華(えいが)を誇(ほこ)る塵(ちり)の世(よ)に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺(なが)めぞや九、功名(こうみょう)何(なん)ぞ夢(ゆめ)の跡(あと) 消(き)えざるものはただ誠(まこと) 人(じん)生意気(せいいき)に感(かん)じては 成否(せいひ)を誰(だれ)かあげつらう十、やめよ離騒(りそう)の一悲曲(いちひきょく) 悲歌(ひか)慷慨(こうがい)の日(ひ)は去(さ)りぬ われらが剣今(つるぎいま)こそは 廓清(かくせい)の血(ち)に躍(おど)るかな
2005年11月22日
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哲学の論理は必ず暴力の世界で実現する。言い換えれば、哲学の「起源」は暴力であり、暴力なしには哲学あるいは理性は存在しえない。 今村仁司「排除の構造」青土社これは、実によく分かる。自分自身の散漫な哲学的思惟の帰結からでなく、体験的生活から「直截」思う存分知る事になった多くの体験は今村のこの主張を追体験したようなものだ。「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男、『弁証法の諸問題』)二十歳の頃、この武谷の有名な箇条にふれた。瞬時に思ったのは、技術の成立についていえば、なんと「暴力的」な現出となるだろう、という想念だった。共有された、既知の技術があえて「技術」だとか「スキル」だとか呼称されることはない。当然、技術が世に現出するに際しては、それはひとつの哲学的なまでの提起として姿をあらわす筈である。その普及の過程は、政治的な宣撫となんらかわりはない。それゆえに「意識的適用」という語句のもつイメージに妖しい旋律が伴うように危惧された。そんな思い出がある。たとえば、かつて自分は自嘲的に以下のようにベンチャー事業を定義した記憶がある。「ある事業において提起するビジネスモデルが、その革新的新規性の高い保有技術により予想される市場規模ゆえに急成長を実現する可能性を内在するものの,その実現には技術の進歩点の秀逸さゆえに新市場創設を余儀なくされ、過小資本に留まる場合には事業化に失敗する可能性の高い研究開発型ビジネス」笑う他ないのであるが、社会貢献度の高い技術開発がなされていれば、いるほど事業与信の整備された既存事業者の生産財や経営資源に吸い寄せられるように、新規事業モデルはえてして瓦解し、ついには事業収容されてしまうという事例にことかかない。ある意味で、急成長期待型研究開発ビジネスの多くの課題は「暴力的」な実力に依存している。そのように達観しても間違いはない。
2005年11月21日
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湖東三山は百済寺。東海自然歩道を巡り、今週日曜日は、ふたたび湖東の金剛輪寺を訪ねた。紅葉の名所として、あまり知られていないらしいが湖東三山は、全国的にみても特筆すべき紅葉名所である。三山ともども紅葉は、見ごたえがあるのだが金剛輪寺は、「血染めの紅葉」とまでに鮮烈さをうたわれている。県環境保全課からの伝聞では、先週日曜日頃が見ごろだとの意見もあった。しかし、東海自然歩道では見当違いで全く紅葉シーズのずれ込みにあてはずれに終わった。今日は、絶好の好天にも恵まれた。さぞや名刹、金剛輪寺の紅葉は・・・確かに快晴の秋空に、金剛輪寺の紅葉は美しく眼をあざむく朱を示してくれてはいた。だが、なにか紅葉に精彩がない。11月も下旬になろうというのに、まだ紅葉は進んでいない。いや、このまま紅葉したとしても、葉は朽ちかけて例年のような鮮やかさではないだろう。温暖化というものは、なにも地球物理学者だけのテーマではない。我々庶民知のレベルでも、十分したたかな影響はこうむるものらしい。2001年11月22日撮影のIkuo Kozai氏画像↑クリックでジャンプします。
2005年11月20日
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働くところがなくなっているのは何でもかんでも輸入に頼るからでしょう。林業にしても後継者や働き手がいなくて放置されている。よその国に自然破壊のつけを回してまで安い輸入材で使い捨ての家は改めなければ・・・・伐採が進むと医療用植物とか野生の豚だけではなく魚とか昆布、海草までの減るということを以前聞きました。 ひめちゃん7777さん「思想が、とっても青いから / 遠回りしては帰れない」最近、そんな馬鹿げた酔狂みたいなイメージをトイレで思いついた。ひめちゃん7777さんは、「働くところがなくなっている」と現実の社会を概観してひとつの体感的現実を集約する。そして、その原因と結果を「輸入にたよっているから」ではないか、と推論する。これはひとつの仮定、仮説の提起である。かつて、ヒラの市民すらがこのような思想的な手順をきっちりと辿る事が当然であり、きわめてポピュラーなことであったと自分は知っている。しかし、いま職場をみても、はたまた過去の遍歴の折々を回想してみても、ビジネスの現場で遭遇する中堅どころ。三十代で、ひめちゃん7777さんのような思想形成的なまでの反射がそなわっている人たちと遭遇することは稀だ。我々の生活が、「よその国に自然破壊のつけを回して」成立しているのだ、などという尊い推量の姿は、ここしばらく企業社会の内部ではけして見聞きできないセリフである。そもそも思想などというものが、凋落して久しい。コケにされていると言ってもいい。いまやコケにされているなど、ましな方で完璧に「思想」的なものは人々の歯牙にもかけられなくなった。「思想」などという知的営みが、こういう時にはいかにもどうでもよいただの遊戯として見えてしまうか。ポストモダンなどと担がれて難解なことばをもてあそんでいた連中の像が、何の役にも立たないものとしていかに見事に消し飛んでしまったことか。何だかんだいっても、人間にとって大切なものは衣食住という生存の基礎条件ではないのか。それに対する繰り込みを欠いて何の「思想」ぞ---このように感じた人は多かったのではないか。 私自身の感覚では、ここには一種痛快なものがあることを否定しがたい。現実が思想をコケにしてみせればみせるほど、思想は新たに自分を鍛えな直すきっかけを与えられたからである。そういうわけで、現実のすさまじさが、役立たずの小物群を人々の関心の世界から洗い去ってしまうことがあるのも時にはいいことである」 小浜逸郎かつて、小浜が慨嘆ともつかず「思想」を唾棄すべき気分でそう括った時代はあの阪神淡路大震災の直後だった。思想屋さんの、小浜逸郎が「時にはいいこと」だとするほど昨今思想の出番は無くなった。また、思想的なアプローチと気配しただけで、あたりの空気は「寒く」なるらしい。けだし、われわれの社会は「医療用植物とか野生の豚だけではなく魚とか昆布、海草まで」みるみる豊かに収穫できない不具な経済社会となってゆく。われわれの社会では、大衆的な規模で思想をかなぐり捨てた。結果、無思想な役人が国土をデタラメに荒廃させて、その功労で堂々と恥ずかしいという気持ちも抱かずに国民の納税した歳費から恩給を鷲掴みで得て暮らす。
2005年11月16日
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日本には木がたくさんあるのに輸入材に頼りよその国の環境破壊をしている。日本の風土には国産の木の家が一番あってるのにだんだん高くなってまがいもの家ばかりになって来ています。国産材使用の道を開いてほしいですね。役人はそんなことはどうでもいいことなんでしょうね。(2005/11/16 02:53:30 PM)ひめちゃん7777さん 新発想ビジネスヒントフォーラム2005/01/08日記へ(↑クリックでジャンプします。)もう、年末に近くなった。今年の年初、大阪の北市民教養ルームにおいてささやかなオフ会を開催した。たまゆら1/fさんや、さすらいの物書きさんなどにご参加いただいた際、ご披露した。それはサラワクの原住民の記録ドキュメント映像だ。当日、たまゆら1/fさんなどにご披露した。実は、映画「スリーピングディクショナリー」でも取り上げられたサラワクの原住民が必死に守ろうとした自然を盗賊のように持ち去った商社は、大概が日本の大手である。その日商岩井などがかき集めた木材が、いま皆さんのご家庭で足元に広がるフローリングの「正体」だ。そして、それらの木材の流通こそが東海自然歩道の周囲の自然を荒廃させているものと同じ意思によって「はからい」されているのである。私はサラワクから来ました。サラワクはマレーシアの州で、ボルネオ島 にあります。サラワクの面積はブラジルの二%にも達しませんが、世界 の熱帯産木材の三分の二以上を現在生産しています。伐採の割合を 現在の半分にしても、サラワクの原生林のすべては2000年までに消 滅してしまうでしょう。伐採が進むと、その地域ではサゴヤシや藤や医 療用植物は姿を消してしまします。野生の豚はいなくなってしまいます。 ということは、私たちが食べる肉もなくなってしまうということです。私た ちの多くは現在飢えています。有毒な表皮を持つ木が切り倒されて、 川に流れ込み、魚を全滅させてしまいます。汚染された土地の泥が川 を汚し、それによって私たちは病気にかかり、飲料水を得られなくなっ てしまいます。埋葬地に印をつけておいても、材木会社は平気でブルド ーザーで埋葬地を押しつぶしてしまいます。私たちの気持ちなどなんと も思っていないのです。何百という墓地がこうして破壊されてしまいま した。そのことで抗議すると、彼らはわずかな額のお金を補償だとい って渡そうとしますが、これは私たちにとって侮辱でしかありません。 祖先の体とひきかえに、お金を受け取るなんてことができるでしょうか。 1993年「国際先住民年」を宣言した国連総会議場でのムータングの演説↑クリックでジャンプします。
2005年11月15日
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自分が歩いた東海自然歩道は、僻地の山林ではない。場合によっては、京都市内からでも簡単に出向ける。京都府と滋賀の県境あたりである。こんな場所で、手が入らないということに恐懼した。一部、鹿があらわれては角の手入れに使っているフシもあった。それは、それで環境保全に効用がある、ということなのかもしれない。いずれにせよ国有林ということで、国の責任は重大である。この荒廃ぶりの一番の原因は、輸入材の廉価な流通だろう。しかも、必要に応じただちに必要量が調達できるという事態にある。国内木材が簡単に調達できないで、海を渡ってくる木材がスルスルと流通しているという理由は、ようするに利権だろう。熱帯雨林を、破壊して地球上でもっとも環境と調和した生活をしている原住民を森林から駆逐し、あげく日本の国土をこのように放置三昧にしている。しかも、その実行犯たちは恩給をせしめて(つまり国民の税金で、晩年を悠々自適し)ヘタをすると陛下から勲章を授かりかねないわけである。
2005年11月14日
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今日は、滋賀湖南地域の逢坂山界隈の「東海自然歩道」を体験した。「東海自然歩道」というブランドイメージが存在することは、知っていた。しかしまさかの連続。体験してみなければ分からないことも多い。ひとつ。東海自然歩道は、いまや過去のブランドイメージに残党が名残惜しんで追いかけているだけで、都市住民の消費記号としては役務を終えてしまったらしい。つまり、閑散としているだけではなくルートは、相当荒れている。自然歩道だから、といって楽なハイキングコースを想像してはいけない。結構体躯的に自身のある人たちにも、厳しいほどキツイ。ふたつ。国有林は、まともに手入れをされていない。国が、日本の森林資源をこれほどデタラメに放置しているのだと現場を歩きまわって分かった。間伐材としても、十分利用もできれば、商品価値もあるものを、営林署職員の無為でわざわざ商品価値の無いという事態に晒されているのが自然歩道を歩いているだけで分かってくる。間引きして間伐材を流通させておけば、いまある国有林の資産価値はむしろ騰がるのだ。また、自治体側も補助金をばら撒いてまで杉などをデタラメに植林しておいて、その後まったく手をつけていない。枝うちすら、まともに実行されていないものがゴロゴロとあるではないか。われわれにとって、国というのは小泉でも、財務省でもない。具体的には、国土であり森であり、川であり、そして琵琶湖に代表される湖沼だと、繰り返しこの日記で述べてきた。滋賀は、日本でも恵まれているほうだ。その滋賀にして、自然歩道周辺だけでもこれだけ荒廃が進んでいるとは。息が止まる思いがする。
2005年11月13日
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こんにちわ。先ほど読ませていただいたのですがどれも難しい日記で。。 はなびらさん(2005/11/12 12:42:04 PM) 小学生のとき、「お前の言っていることは、支離滅裂で何を言っているのか分からない」と児童相談所にほりこまれた。わざわざ秋の遠足の日に、同級生から離れて西区の児童相談所でメンタルテストを受けさせられた記憶は、鮮烈にある。ほりこんだのは、他ならぬわが母だ。考えてみりゃあ、ひでえ親だがさすがに母親からすると、自分の息子ながら痴愚なのか、魯鈍なのか。とにかく思考が読めなくて困ったのだという。「難しいですか」などとは、スカして言いません。そりゃあ、難しいですよ。だって、自分でも分からないことばかりを生のまま楽天日記に書き続けているのだから・・・これは冗談ではなく、本当のところだ。高校時代に出版された「共同幻想論」なんて、当時まわりは瞬時に理解できたなどという奴ばかり。自分など、いまだに何がなんだか分からない。そこで、キレの悪い自分のツムリを呪いながら、なんとか得心が行くようにと考え続けている。こちらの日記に来られる諸兄は、こんな結論のないようなものはカネにならねえじゃねえか、と呆れている。まずそんな処だろう。間違いないと思う。自分なら、自分としてそんな簡単に答えの見えているようなもの、バカらしくて取っ組みあってまでして考える値打ちがある筈がない、などと思ったりする。これは個人の勝手な言い草である。自分なりに考えて、答えがでないと思われるものがいくつかある。もしかしたら、答えは最初からなくて、自分でどうにかして考えろ、と言われているようなテーマだ。(1)神(2)心身問題(3)時間こんなものを終生考え続けて、給与生活を送っている人間を自分はどうしても信じられないと言う気がする。経済社会の内部では、白昼夢のような話題だ。一方、それでもこの日記で考えていることはほぼ自分にとり先達(他者)が考えてくれたことを、自分が共感できるというスタンスで敷衍(Amplification)しているだけなのである。「なんと安易なことを」と、お叱り覚悟で始めた。が、いまだにお叱りはなくてただアクセスが減っているだけである。多分アクセスが減っている理由は、お叱りをいただいているのと大差がない。そう言う風に、理解している。ただ、それでもやめられない理由。それは、この日記を続けている理由が、自分自身の体験の反芻という面があるからだと思う。他者の考えへの単なる共感に過ぎない程度のものも、自分自身の体験が前提になければ、生じてはこないと思っている。最近の「思想の科学」誌を見ていると、「思想」の「科学」ではなく、「思想」の「綴り方」になりかねません。生活綴り方運動の延長線上にあるような趣きです。私的な体験べったりの作品は「思想」にも、「科学」にもなりようがないでしょう。鶴見俊輔---大衆には天災でしかない”天才”のエゴの才覚 細川隆元 山手書房細川は言う。かつて鶴見俊輔などが「思想の科学」という運動を展開していた時代には、「体験」とは、ひとりアカデミズムに偏向しない新しい批評の可能性を感じさせる内容があると信じられていたのかもしれない。しかし、体験を神秘化して良い筈はない。ヘタをすれば私的な体験は「思想」にも「科学」にもなりませんよ、と。「然り。千度も、然り」というものである。ならば、自分自身は以後「私想」とその蛇足のような「吟味」のために周囲に不快を生じさせているのだ、という自覚を抱くように少しは心がけたいと思う。さて、西区の児童相談所で受けたメンタルテストの結論に、母親は驚いたと言う。結論は、「普通の子」だというものだった。一番、信じられなかったのは、他ならぬわが母だったという。試された自分は、堪ったものではない。
2005年11月12日
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この世の中でかなりおもしろいことは、ウソをつくこと、つまりだまし合いであろう。恋は誤解だなぞというのはありふれた言い草であって、ほんとうはウソに酔っているのであり、酔っていたウソにさめて、ウソからはい出るのでなくてウソに徹するのが恋から愛への約束ごとであるのだろう。たいていのことは徹底しようとすると疲れる。ウソを徹底するのも容易ではなくて、途中でいやけがさしてくるが、だからといってそれをばらしてしまうと楽しみはまっとうできない。 富岡多恵子「アイスル・アイシナイ」産経新聞ひとりのにんげんが他のもうひとるのにんげんにつけるウソなんてタカがしれているから、にんげんが、愛するなんていってもタカがしれたことで、愛するということはもともとモノスゴイコトではないのかもしれない。ところが、ひとりのにんげんが他のもうひとりのにんげんに向かって、愛している、という時、とまどったりして簡単にいえないのは、愛するということがモノスゴイことだという妄想が行われているためである。男から女に、あるいは女から男に向かって発せられる、愛しているということばは、じっさいバカバカしいものである。 富岡多恵子「アイスル・アイシナイ」産経新聞かつて、危険思想というものが世の中にどれほどあるのかと色々考えたものだ。しかし、いわゆる男の危険思想というものが四の五のいいながら、最後の最後はせいぜい所有する武器のパワーに依存しているだけの他愛ないものが大多数だった。早い話、往時の赤軍派は猟銃やライフルを欲しがった。銃器を集めれば国家と正面からぶつかるのだ、などと本気で信じていたのかもしれない。しかし、富岡多恵子がその同じ時代(68年)に産経新聞で臆面もなく口にしているこの軽味を演じている独白は、いまなお危険なかおりのする思想だ。誰が、こんなことを人前であたりを憚らずに口にできよう。だが、自分はなぜ富岡がこれほどまで徹底的な(ラディカル)な人なのか、という点においては想像できるものがある。前述のように富岡の場合、「ひそか」にしているのは、「読書」がチチハハの言語世界と対立し、かれらがそれに敵意をもっているのを、わたしが察知していたからであるとあるように、生れ落ちた世界で人格形成をせず自身の精神指導によいその教養世界を切り拓いていったという生い立ちに依存しているのではないか。それが理解できるのは、私自身がそうだったからだ。ちなみに、わたしが想像する人物では、やや大仰だといわれるかもしれないが、たとえば孔子などもそうだ。あれほどの人物もその境遇。けっして生まれ落ちた瞬間恵まれたものではなかった。彼の収めた膨大な規模の学識と教養を育むような後年は想像できなうほどに恵まれた状況にはなく、混迷と動乱の中で自分自身のこだわりを貫きながら世界と文物を胸裏の確信を育てながら、是々非々で考え続けなければならなかった人。追い詰められた精神生活の果てに血豆をこしらえ、手さぐり手感触で認識を形成している。そんな気がしたものだ。孔子はご存知のとうり、「修身」「斎家」「治国」「平天下」と述べている。愛しているのをバカバカしいというのは、本気で「身を修め」ていこうとすれば、到底あだやおろそかに「いまひとりの他人であるにんげんを愛している」などと思うことは出来る筈が無い。「斎家(いえをととのう)」ということと、他人である女や男を、さも愛していると思い込むこととの間には千里の隔たりがあるのではないか。この隔たりを、劇的に短絡する物理的なまでの「魔法の力」として「対幻想」を指摘するムキが存在したと思うのである。その淵源には、フロイトなどの思想の影響があったのかもしれない。
2005年11月07日
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不思議なもので、いくら知に走り才気煥発を装っても、はたまた論争で刺すような言葉を弾丸のように繰り出そうとも上野千鶴子はどこまで行ってもヌケてみえる。一方、富岡多恵子が語ると、どんなにくぐもった言葉につまるような瞬間も思慮深そうに思えるからますます不思議である。それは、あの大江健三郎がノーベル文学賞を受賞しようとも、NHK番組でもったいつけて語りだすなどしようとも、多くの賢明な読者はその内容の空疎さを確信しており、虚ろな文藝天才の不幸な生活と意見については憐れみすら感じるのと似ている。富岡多恵子;今回いろんな文献、批評とかのなかに、三島自身の書いた「女ぎらいの弁」というのがありましたね。あれひとつあれば他に何も言うことないと思いませんでした?小説もあれで説明されてしまうんじゃない?「女ぎらいの弁」では、<女を低級で男を高級と思う>とはっきり言っている。それを読んで、次に「作家と結婚」という文章を読むと、<今ではほんとうに子供が欲しいと思っている>というんで吹きだしちゃったんだけど。そのおかしさが頭に残っているから、何を読んでも全然だめなわけ、私。なあんだって。小倉千加子;結婚してなかったら読めたんですか?富岡;結婚していなかったら、特に滑稽ではないでしょう。だけどこの人は、女は嫌いだ、と言いながら女と結婚した。上野千鶴子;既婚男性の隠れホモだっていっぱいいますよ。富岡;いますよ。だけどあの人は、なぜ結婚するのかって、子どもが欲しいって書いています。子どもをもつためには結婚しなければならない。小倉;生活、生活っていってますよね。富岡;それから「三十三のまだ青年の匂いがするうちに結婚したい」と。男が四十になって独りでいると、こんなみじめなことはない。だから青年という匂いのするうちに結婚したい。そういって三十三で結婚する。上野;彼は「鏡子の家」で、清一郎という男に仮託しているけれど、健康という病、この病に罹らねばならん、と思っているでしょう。この病にも罹らなければ本物の健康だから、本物の健康というバカにはなりたくない。健康という病に罹るための最大の条件は、「普通人を演技する」ということだから、結婚しなければならなかったんです。彼流のルールからすれば。富岡;でも、それにずっと堪えられなかったわけでしょう。上野;べつに結婚ぐらいは平気でしょう。富岡;だけど死んじゃったというのは?上野;結婚による圧迫なんかじゃないでしょうよ。結婚なんて彼は何とも思ってないんじゃあない。妻に対してもそう。富岡;子どもも?上野;そんなに責任感感じてないと思うよ。富岡;ああ、そうそう。私は三島が死んだのは政治的な動機じゃなくて、結婚がいやだから死んだと思いましたよ。上野;え?小倉;新説ですね、それは。上野;それはだれも言わんかったこと(笑)富岡;だれも言ってないですよ。上野;結婚の矛盾に堪えかねて。富岡;矛盾じゃない。要するに、たかをくくってたわけよ。結婚ぐらいできる、と。いろんなレトリックで。だけど、やってみたら、そうはいきませんよ。 「男流文学論」筑摩書房なにしろ澁澤龍彦と三島由紀夫、そして池田満寿夫で鍋をつついた事があるという。これは澁澤龍彦選集か何かで読んだ記憶がある。あるいは、富岡多恵子は、池田経由で、三島由紀夫の人物評を耳にしていたのかもしれない。しかし、ここで上野千鶴子が三島同様に「本能の毀れたサル」ぶりを発揮しているに比して、富岡のどっしりと述べる珍説に迫力があるというものだ。実証などは薄弱でも、これが思想的胆力というものではないのか。あの三島没後、三島由紀夫夫人の異様なほどの三島作品への駆逐ぶりを思えばこの富岡の直感は正鵠を得ているとわたしは思わざるをえない。三島夫人とは、あの日本画家杉山寧の長女である。杉山寧といえば、文藝春秋の表紙絵などでも知られた大家。彼女が、いかに政治的に三島作品とその遺品を獰猛に駆逐したものか。後世の批評家らには慎重に検証をいただかなければならない。
2005年11月06日
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女を怖がっている男は、多い。早い話、わが父親は30年以上前に恐れをなして一方的に家族から離脱している。それが合図となり、わが家は完全に「個」へ解体してきた。個別に対偶的な「母子」や「父子」をとりおこなうことは任意であったが、「兄妹」は完全に関係として隔絶した。当然、父方とも母方とも親族づきあいは皆無である。父祖の地、滋賀に生活しているが、墓参りなどけして行うことはない。あえて訪問をすれば、たぶん親族のいずれも自分を看過することだろう。当然だが、自分自身も女が怖いという男ら一般の気持ちは良く分かる。とりわけ、わが母をみておれば怖いという以前に関係を維持する煩瑣な事に辟易し、おそらくいかなる人格の者であっても瞬時も家に留まることなく出奔したいと考えるのではないか。友人の医師も、独身で転居する際に、間違って叔母と同居した時、とんでもない間違いだったと深夜に電話をしてきたことが記憶にある。自分らのような理解のあるこの年代とも相容れないという性狷介な昭和ヒトケタ世代は、大正世代ともども急速に平成世相から駆逐されてしまうことになるだろう。男が怖がる女で、孤独な老人となれば生きてゆくのは本当に難しいだろうと思う。自分にとって、精神的には姉のようなスタンスにある富岡多恵子は面白い。高校生になると、わたしも「読書」を知り、ひそかな楽しみとなった。「ひそか」にしているのは、「読書」がチチハハの言語世界と対立し、かれらがそれに敵意をもっているのを、わたしが察知していたからである。かれら体験主義者の前で、「読書」によって少しずつ新しい言葉を覚えていくわたしは、「論語よみの論語知らず」にすぎず、それによって対決すれば一も二もなく惨敗する。幼いながらも、わたしが知りつつある「知的」な楽しさ、よろこびはだれにも打ちあけられぬ。また打ちあけてはならぬ、さみしい孤立であった。富岡多恵子「富岡多恵子の発言1」岩波書店富岡の思春期は、彼女の著述に常々みられるように市井の過剰な教養とは疎遠な一介の生活者の子女として苦渋に満ちたものだったらしい。それは17歳年上だが、50年代生まれの自分とも地続きな錯覚が生じる。彼女が言う生活は、戦後の自分のそれとも重なる。しかし、湖西中庄の夫婦と較べれば、彼女は実のところあの夫婦などよりもさらに年長なのである。ご存知かどうか、彼女はあの池田満寿夫夫人だったこともある。大阪の商家の娘は、その後知的には育った大阪の街から遥かに遠い処に踏み入ったということなのだろう。しかし、彼女の視点はいつもまずその「生い立ち」が育んだと思われるその独特の人間理解は、いつも居心地よさを自分に与えてくれ、共感を抱かせる。彼女は、男たちを怯えさせる並の女たちとは多少違っていて、なぜ男たちが女を怯えさせるのかを緩々と紐解いてみせてくれたりする。そんな実に、行き届いたサービス精神を持ち合わせている。おそらくよき娼婦は、女性的というより母性的、あるいは男性的である。自己のオンナをひっこめざるを得ない点で、母親と娼婦は似かよっている。こう考えると、正妻は心で男につかえ、妾は色でつかえる、というオシエが階級意識であることがわかって、たいへんおもしろい。 富岡多恵子 <母の訓>とは何ぞや 文春デラックス意表をつかれるが、階級性という意識は女の置かれた状況に複雑さを加えているというのは良くわかる。女性も、色で男性につかえていた立場から、心でつかえる正妻に「成り上がる」に際しては、相当辛いものがあるのだろう。この階級性は、つまりは家という物質的な大道具が揺れている中で、繰り返し男女の内面性を痛撃することになると思う。不倫と世情呼ばれているものは、つまりこの階級性をまだまだ容赦なく揚棄できない社会であるということの証左だろう。この世の中でかなりおもしろいことは、ウソをつくこと、つまりだまし合いであろう。恋は誤解だなぞというのはありふれた言い草であって、ほんとうはウソに酔っているのであり、酔っていたウソにさめて、ウソからはい出るのでなくてウソに徹するのが恋から愛への約束ごとであるのだろう。たいていのことは徹底しようとすると疲れる。ウソを徹底するのも容易ではなくて、途中でいやけがさしてくるが、だからといってそれをばらしてしまうと楽しみはまっとうできない。 富岡多恵子「アイスル・アイシナイ」産経新聞「これだ」と、思わず叫んでしまった。吉本隆明が、「対幻想」と呼び、森崎和江がその言葉に「ありがたい」と感謝をしたのは、翻案すればこの機微の「系」というものだろう。湖岸の老夫婦のごとき男女には、この悪意でいえばウソを容易に担保できるだけの迫力が目の当たりにあった。何千年ものあいだ、琵琶湖はひとつの担保として湖畔の「対」(つがい)らに魂の深奥にかかわる体験共有を可能にし続けてきた。これは、想像もできる。都市へ出奔したわが父母には、棄てたものの重みはついに想像の裡外だったのだということかもしれない。そもそも、わがチチハハには誤解すらふりだしに存在しなかったかもしれないのだ。 (つづく)
2005年11月03日
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当方、4連休とて大阪の実家へ。母親が、またまたぽつりと怖ろしい事をいう。実は、産まれてからも死にそうになった話。この日記で、なんども述べたのでご記憶かと思う。ところが、母親に聞くと産まれる前の51年。あまりのひどいツワリで、医師から母親をかばって嬰児(つまり、自分である)を今回は断念して流そうと提案されたのだという。まあ、ありそうな話なので笑うしかないが、よほど強い運気の持ち主だと我ながら呆れるわけだ。産まれてからも、医師に死亡宣告を喰らったという話は繰り返し耳にしていたが、まさか産まれる前にも殺される寸前だったとは、絶句ものである。Remember 生まれた時だれでも言われた筈耳をすまして思い出して 最初に聞いた WelcomeRemember 生まれたことRemember 出逢ったことRemember 一緒に生きてたことそして覚えていることこんな自分でも、なぜか生まれた瞬間には周囲の人々から満腔的歓迎をこうむったという事なのだ。やや、ひねくれた性格になったぐらいは愛嬌というものである。これまで母親が、自分に封じていたのは精神に与える影響を勘案して、控えていたのだろう。本人なりに、死期を数えて記憶していることは、大抵息子に伝えておこうというような気分になっているのかもしれない。自分は、母親に湖西の中庄で遭遇したあの老夫婦の逸話を述べた。母親は、終戦で18だ。中庄の夫婦は遥かに若い。その若い夫婦が、湖西という地の恵みで幼年期を幸せに過ごした。その記憶に、殉じるように生涯を中庄で過ごし、その経験を共有している幼なじみ同士で夫婦添い遂げて行くと、県環境保全部の職員の前で語るすがたに自分は瞠目したのだと言うと、母親も「それは、なんとも凄い」とよほど心を動かされたらしい。戦前派の生活も知っている母親であるが、一世代若い戦中派の男女にかくまで見事な夫婦になれる可能性があったとは俄かに信じ難いという気分もあるのだろう。息子の自分が、母親にしたり顔で言うような話ではないが自分の考えはこうだ。「家庭」というものは、「庭」(もしくは、環境的自然)を含み置かねば成立しないという要素が、元来はあったと考えていいのではないだろうか。「家」だけが存在して、「庭」がない。これは成立しても、人としての徳育にとって、相当キツイ面がありそうな気がする。「家」という字は、「宀」に添えて「豕」が合成された表意になっている。「豕」は、「豚」だろうか。転じて、「家畜」を指していると考えてゆくと、人間の精神の複雑さが、この家畜を養うという行為に根ざしていることが分かる。われわれ人類が、統合性失調症を患うというまでのこの高度な精神の働きをスルスルと行えるようになった理由は、ひとつには自分はこの「家畜」を飼うという行動に依存しているのではないかと疑っている。家畜は、家族同然のように飼育されて、ある日突然屠られて我々の血肉となる。心は、このようなジャンプに耐えねばならない。ネパールで、青年が老婆らの死骸を鳥に与えるという記録映画をみたことがあるが、鳥葬の意味はともかく生活をともにした家族を鳥に与える精神の胆力は、人類の何千年もの振る舞いの蓄積を背景に文化的な厚みとして担持されているに違いない。 (つづく)
2005年11月02日
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四連休となった週末ですが、初日から雨とか思い切りの悪いところでなかなか思うようなプランで進みません。「対幻想」が、実体概念だとしてもどこからどこへ行くのかは本当に分かりませんね。実は、男女の対よりも家族の漂流ぶりが凄いです。母親を毒殺する少女があらわれましたが、もはや我々の日常ともなり驚きすら遠のきそうな勢いです。男と女の「対」が、かつてのように迫力を欠いた「幻想領域」で維持されなくなった時、おのずと家族が軋みをたてて解体へ向かい始めてゆくわけです。解体しつつある家族の下で、少女が母親に毒殺を仕掛けても、なんの不思議もないのかもしれません。かつて千石剛賢という人が、登場したとき社会はスキャンダルとして扱いました。しかし、いまや思想語としても「対幻想」が語られることが稀少となり、かつての理念としての衝迫力も思い出せないままこの社会のどこにも人と人とを結束する、スーパーな「関係性」に気配を感じられなくなったいま、果たしてどのようにすれば復元できるのでしょうか。先を急ぐわけではありません。じっくりと、やってゆきましょう。
2005年11月01日
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