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杉浦日向子;あまり大きい声ではいえませんけれど、歴史学者の書いた江戸はちょっとね(笑)。江戸とはこういう時代というのが、その先生の頭の中に最初からでき上がっていて、それに即して資料をそろえるので、偽証事件になりかねない危うさを感じますね。資料は、ぼろくそものも、高い価値のものも羅列するべきなんですよ。それを秩序だてて並べるともう作為的になって、そこにあるものは資料ではなくて、裏側で、しめしめ、カードがそろったぞとほくそ笑んでいる学者の顔でしかないんですね。三浦雅士;これは痛烈ですね(笑)。でも、そういう中で、最初にもいったけれども、前田愛さんの「鎖国世界の映像」とか「幕末・維新期の文学」「幻景の明治」なんかは、非常にアカデミックなんだけれども、たとえば綱吉のホモセクシャルについて延々と書いたり、けっこうおもしろさを残している。杉浦日向子;本当におもしろい世界があるんだよといって、のぞき見する時のワクワクしたものを、前田さんはきちんととらえていらっしゃるという感じですね。三浦雅士;それから、田中優子さんの「江戸の想像力」とか、森下みさ子さんの「江戸時代の微意識」も非常におもしろい本でしたね。杉浦日向子;森下さんの本は、春信の美人画から入って、「微意識」というタイトルそのままに、本当にひそやかなささやきのような本でしたね。もう少しのぞき穴を広げてほしかった。田中優子さんの方が大きな声でいっていますね。田中優子さんは姉御肌なんですよ(笑)。三浦雅士;本だけ見ると、確かにそう(笑)。杉浦日向子;田中さんは、闘う学者という感じがして、ジャンヌ・ダルクのようです。三浦雅士;田中さんが書いた平賀源内と森下さんが書いた鈴木春信は、ほぼ同時代人です。でも、平賀源内の方が声が多きかった(笑)。杉浦日向子;春信は虚弱体質ですよ。浮世絵がヒットし過ぎて、描き過ぎで早死にしましたものね。三浦雅士;源内は発狂するぐらいに強かった。だから、源内を主に扱っている田中優子さんの方が、源内的に声が大きくなって、春信の方にシンパシーを感じている森下さんの方がひそやかになって、あれは最後に子供の話になって終わるんですね。杉浦日向子;そうです。森下さんの本を読んだときに、クッキーの缶にはいっているプチプチをつぶしていく作業に似ているなと思ったんです(笑)。田中さんの場合は、要らなくなった、少しかけた茶碗を派手に割る豪快さに似て、同じ女性でも、これだけ攻めていき方が違うという感じがしました。 講談社PR誌「本」1989年7月号本屋で、タダでくれるPR誌も本を買わそうという扇情的な意図があるから実に面白い記事が溢れている。タダでも、侮り難いものは敬意を表している。杉浦日向子の言っていることは、実によくわかる。役人になった友人は、役所を背負っておるし、大手企業にはいった奴は、定年退職後も大手企業を背負ったつもりで鼻にかけて暮らしている。文藝や学問やっている人たちだって、テーマに依存して、対外的なエキスプレッションが変わらない筈がないと思う。杉浦日向子は、もともと時代考証屋さんだから歴史屋の講釈に騙されていては、勤まらない。それにしても時代考証がなりたつ江戸は、我々に地続きだと思わずにいられない。「実は江戸時代は続いていた・・・」とは、たまゆら1/f氏の嘆息だが、つくづくわが世は、江戸の底板とどぶさらいが暗渠続きだという気がしてならない。明日にでも、仇討ちの現代風再生を話題にするつもりだ。「拒絶する精神」でご紹介したlalameansさんの怒りを、せっかく耳にしたわけだから自分的にも少々総括しておきたいと思う。実は、以前にも述べたが母方は赤穂浪士の家督を継いだ百姓家の筋だ。婆さんが粗末にしておらねば、相当規模の歴史資料が農家の蔵に潜んでいた。自分がみただけでも、げんのうで叩き折られた日本刀の菜斬り包丁以外に吉良邸へ討ち入りに際して装束した小袖や、帷子は記憶に鮮明にある。子供心にも腹が立つほど粗末に保管されていて、無教養と戦後動乱期の価値転倒期ならではのなせる事態とはいえ情けなかった。お宝をぞんざいに扱っているからではなく、怒りはその代々伝えてきた歴代の祖父母たちの意思を介しないアプレゲールな感覚にである。どうも、最近われわれの社会が江戸に仕返しを喰らっているような気分がしてきた。士農工商の身分制度が厳然と横たわっていた時代の方が、余程潔く、昨今は四民平等の建前の物陰で、こそこそ役人や大企業の社員らが小汚く私服を肥やしている姿は卑屈なばかりでなく、痩せ我慢も小粋さも見事に払底して無粋極まりない。どいつも、こいつも獄門晒し首。遠島申し付けしてくださる奉行さまに登場願いたい気分である。
2005年07月31日
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↑クリックでジャンプします。バスク語は、スペインとフランスにまたがるピレネー山脈西部のバスク地方に住むバスク人によって話されている言語の名称である。話者人口は両国併せて50万から100万人程度。ほとんどはバスク語の他にスペイン語またはフランス語を話すバイリンガルである。周りをラテン語に起源を持つロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、バスク語はスペイン語やフランス語はおろか、世界のどの言語とも異なる、極めて独特な言語である。そのため、インド・ヨーロッパ語族言語を話す民族がヨーロッパに入ってくる以前から話されていた言語であると考えられている。比較言語学上、孤立した言語に分類される。(Wikipedia)フランシスコ・ザビエルがバスク人だったというのは知らなかった。皆さんは、ご存知だったのであろうか。わたしには、途轍もない話だと驚くばかりである。学生叛乱期に、敗走へ転化しつつあった極左主義者たちが片思い半ばでフィリッピンの新人民軍や、南米のツパマロス、そしてIRAなどとならんで、バスク祖国と自由 (ETA)という武闘主義セクトを数え上げ、願望投射的に彼らの身勝手な世界同時革命の実現根拠として謳いあげていたりする。そんな機関誌の紙面に躍る記事をなんどもみかけた。バスク国民党 (PNV)の一部、過激派セクトが武装闘争を開始していたのも事実だと思うのだが、果たして日本の極左から「片思い」されるような活動の実態だったのだろうか。日本の往時の極左蜂起屋さんたちときたら、ロシアボルシェビキのような歴史の浅い蜂起主義者の後継者みたく騒乱を演じてきたが、もともと見通しも確たる基盤を築くでなし。案の定威勢が悪くなったからとて、ご都合で国内外の既成組織や戦線に擦り寄りしようなどという愚かしいばかり。結局のところあの赤軍派のように、北朝鮮へ遁走しては首領様の手先に転げていったり、アラブ赤軍とは聞こえがいいけれども資源拡張目線で一種の田中角栄の特務機関か、隠れ傭兵のような存在になりはてた。しかし、バスク人らの方はといえば付け焼刃な学生左翼の迷走などではなく、民族の誇りを立派に示し続けてきたらしい。武装闘争も辞さずというのも事実そうなのだろう。もともとスペインやフランスが、勝手にかれらのあずかり知らぬ処で「潜在国家」的な存在として理解も認知もせず、断わりもなしに不意打ち同然に自国領へ編入をしてしまったに過ぎないという。コロンブスらが、よそから侵入したあげくアメリカ大陸発見などと臆面もなく宣言をするという滑稽さと瓜二つというものだ。これは自分の独断にすぎないが、バスク人はたぶんケチな極東の学生叛乱期のサヨク趣味に納まるような半端な民族じゃあなかったのだ。そもそも国家を、いちども形成する意思ももたず国土を札束で売り払うことを魔の所業と忌み嫌った。どこぞの元叛乱学生が、NTT株で懐を潤わせようが、先祖伝来の土地家屋を売り払ってビジネスだと胸張り、周囲に腐臭を放ちながらも無頓着で、平然と過ごしていられるというど鈍い感性の持ち主に堕ちようが、彼らの方ではあいかわらず何千年も前から、羊を飼い続け、森にあってはキコリとして鉞をふるう技量で一族から讃えられる事を生涯の誉れとし続けている。彼らは、悠久の過去から国家を必要としなかったし、これからも本当は必要とはしないが放置すればフランスや、スペインがわずらわしく国境線を村の上に落とし込んでくる。それがフランコであろうが、ドゴールであろうが、迷惑なものは迷惑だとようやく自治権を獲り、州政府を確立した。昨日のマルクスボーイのなれの果てが、いかように金満家に化けようとも、度台較べるのが失礼というものなのだろう。お節介にも、1549年に日本にキリスト教の宣教にやってきたザビエルが、そんな国家を国家とも思っていないバスク人だったというのは、なるほど司馬遼太郎が面白がるだけの事はありそうに思う。
2005年07月31日
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「のど自慢イン・ソウル」NHKスペシャル◇日韓国交正常化40年を記念して6月26日にソウルで行われた「NHKのど自慢」の海外公演。600を超える応募者のうち、実に8割近くを韓国人が占めた。韓国では日本文化の禁止が長い間続き、日本の歌は人前で歌うことがはばかられてきた。大衆文化開放が進んだ今、日本に関心を持つ韓国人たちが好きな歌を堂々と歌えるようになってきた。しかし領土問題などで日韓関係が悪化し、反日ムードが高まる中で彼らに向けられる世間の目は複雑だ。日本の歌を愛し「のど自慢」の出演を決めた韓国の人々の姿を軸に、韓国人にとっての今の日本を伝える。なんの前知識もなく、NHKスペシャル「のど自慢イン・ソウル」をみた。登場する参加者のひとり一人の境遇に、見入ってしまう。「およそ韓国人社会は、・・・」とか、「そもそもNHKのど自慢なんて」という風な日常自分が構えそうなスタンスはとりあえずカギ括弧にいれてしまい、所謂純粋観照(Witness)させてもらえた。韓国人については、いくらでも感慨はある。それも、これもすべて在日韓国人哲学者である竹田青嗣の著作で教えられたようにいったんカギ括弧にいれて(Bracketing)テレビ画面から送られてくるのど自慢参加者のおかれている情況について、心身問題についてなるべく冷静に現象学的還元(pha゙nomenologische Reduktion)でもって眺めようとした。すでに日記にも書いたが、在日韓国人らのために生家に放火され焼け出された事もある。彼らの子弟と、少林寺拳法の道場に通った時代もあった。思い起こせば大阪で彼らとまったく袖摺り合わすことなく暮らすことなど不可能というものである。とりわけ、自分のように彼らの密集する地域で生まれ育ったなどという来歴からすれば緊張感を抱きながら(当然、わたし自身に発する敵意をも含みながら)それでもなお彼らの思いについては共振するものはある。そんなこんなをすべて、いったん自分の中から脱落させて喰いいるように画面をながめていた。のど自慢参加者のそれぞれの立場や思いそのものに向けて推参しようとしてみた。(Zu den Sachen selbst)翻ってみれば、自分自身も在日韓国人の日常の困難さや悲哀と通底する体験は色々してきたように思う。日本の企業組織に庇護された経験はない。経済的にはともかく精神的にきちんと支えてくれたものは、色々ある。それはしばしば書物やメデアから届けられた「声援のようなもの」だった。とりあえず、そんなものによって常に挫けることも、めげる事もなく勇気づけられ、力づけられ続けて来たという事なのだろう。いい、悪いを越えて。思想信条の様相を越えて、在日韓国人という存在は、極めてキツイ生き方だという事だけは間違いない。のど自慢大会という奴は、冷徹なものだ。カネがひとつならば、予選落ちである。彼らには、どうしてもテレビに映らなければならない動機も、事情もある。彼らの「今」。置かれている厳しい立場を考えれば、韓国にあって日本の歌謡を朗らかに謳いあげるという事の困難さに、いつになく忘れかけたような緊張感が自分にも湧いてくる。境遇は、身分や思想・心情に先立つ。L’existence précède l’essence. 民族や、国籍、所属組織、企業などを越えて「境遇」そのものには自ずと開示する説得力というものがある。
2005年07月30日
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石原慎太郎 ;アメリカは情報操作のために平気でウソもつくしね。日本海沿岸で時々、迷彩服を着た朝鮮人の死体が上がるけれど、あれも日本の危機感を煽るためにアメリカが仕組んでいるって説があるくらい。まさかこの時代になんて思うけれど、「石原さんアメリカは今でもフローズン(冷凍)の朝鮮人の死体をたくさんもってるよ」・・・なんていうアメリカの情報関係者もいる。アメリカは本当にそういうことを平気でやるから。盗聴だって日常だし、僕なんか間違いなく盗聴されてますよ。まあ、もともと政治っていうのはそういうものなんです。理念だけでやるものじゃあないんだから。もっと根底になきゃいけないものがある。アメリカと日本の大きな違いは、はっきりとした意思があるかどうかですよ。アメリカには明確な意思があって、その達成、特に国家というものに関わる意思の達成のためには、犯罪をやってもかまわないと思っている。日本には意思がないから、目的もない。何もないんですよ。だから稼いでも稼いでも、ちっとも景気はよくならない。啄木の「はたらけど、はたらけど猶わがくらし、楽にならざり、ぢっと手をみる」じゃないけどね。 2000年12月新潮社刊「コマネチ!2」ビートたけしを相手にした肩のこらない対談で、石原慎太郎が好き勝手な放談を行っている。しかし、彼の認識の基礎がこのあたりの息遣いで占められているのは間違いないだろう。戦後一貫してアメリカの謀略史観を吹聴してきたのは日本共産党だと思うが、石原慎太郎とてスタンスが隔絶しているわけではない。アメリカに対して、ほとんど何の緊張感もなしにノンベンだらりんと過ごして来た多くの保守的庶民は、一瞬ギョッとする。が、ほどなく何事もなかったかのように脇目もふらず瞬時に日常に埋没してしまう。それが日本の戦後的風景だ。アスベスト(石綿)の健康被害問題で、建設省が各省庁の庁舎や公務員宿舎など国有建物の「建材の非石綿化を進める」方針を1987年9月に決定していたことが29日わかった。石綿の一般使用が原則全面禁止されたのは昨年10月。同方針は18年前に省庁が石綿の危険性を認識していたことを裏付けており、抜本対策に踏み切らなかった当時の政府の対応に批判が集まりそうだ。建築物全般にあてはまる建設省所管の建築基準法の「告示」では、厚生労働省が石綿使用を全面禁止した昨年10月まで、石綿製品を耐火性建材として認め続けていた。同方針を決めたのは、国有建物全般の発注を所管する旧建設省(現国土交通省)の官庁営繕部。「飛散性石綿は使用を禁止。石綿を含む成型品についても、順次石綿を含まない製品に切り替えていく」との内容だった。[2005年7月30日/日本経済新聞 朝刊]司馬遼太郎は、「北のまほろば」(街道をゆく)において、米作する日本の農本支配が国土を宣撫しつづけ、ついに米作の北限を常軌を逸するまでに拡大したがために、東北の豊かな食糧循環を大きく狂わせ農業生産を米に依存することを無理やり強要させられたためにその後頻発させた飢饉とおびただしい規模の餓死者を為政者のなせる「人災」と慨嘆した。しかし、米作をなりわいとする農民に基礎づけられた社会とその社会を土台として成立する国には右向け右の均質化が進行すると繰り返し耳にしたものである。金太郎飴社会だ、画一化社会だとこれまでのところ我々はなんども聴かされてきた。ところが、どうであろう。「この国」には、大きな例外があるらしい。役人や官僚が察知した安危情報のそれは社会的な規模のリスクであった場合でもいっさい国民には知らしめないものらしい。「朕は、たらふく喰っている汝ら臣民飢えて死ね」と、戦後共産主義者が赤いプロパガンダで吹聴したものだが実態は、どうもそれに近いという気がする。87年以前だって、アスベストの危険は何度も話題になっていた。いや、自分は小学校の教科書で習った記憶がある。これは60年代以前から知られていた事だ。まして80年代後半に至ってその危険さを官僚がようやく知るところとなったという事態にして、お粗末なほど判断力も決意も貧しく、すべてにおいて停滞的であると言わねばならない。人殺し国家の「意思的」なものも困るのであるが、均質化社会と呼ばれながら自分たちの保身を最優先にして国民の健康と福祉については「重層的な非決定」で封殺するなどという非意思的な役人ばかりがはびこり、不気味な情報階級を形成している。世も末だと言うしかない。
2005年07月28日
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警察や法律関係の人間があてにならないのはわかっていたつもりでしたが、シャルドネ☆さんの言葉はボクは常々重い一言として畏敬の念をもっていますので、さらにその思いを深くしました。 lalameansさん ↑↑クリックでジャンプします。わたしが楽天日記に漂着して以来、静かに日記を読み続けてくださっているlalameansさんからいつぞやに過分な言葉を貰った。困惑するかぎりである。毎度のことながら、自分はこれまで歩きながら考えてきたことを感覚的に溜め込んできたのだろう、折々に思いつき同然にコメントをさせていただいているにすぎない。今回、lalameansさんが掲げたのはとりわけ重苦しいテーマである。普通は、楽天日記などで取り上げることを避けるという傾向はある。実は、以前に自分もニフティーなどでパソコン通信を始めた時期から世間的に忌避されているテーマをむしろ積極的に取り上げることを試みてきた。取り上げていることで、何かが達成できるとも思っていないし、左翼的なプロパガンダだとも思っていない。ただ、言葉は言葉自体が価値であるという意見があるように、いくら重苦しいテーマであったとしても語ること、語られること、語りうることだけで我々が救われるというようなこともあるのではなかろうか。いま、時代が保守化しているとか言われているが自分はそんな風に考えた事はない。保守化なんて、いつの時代でも保守的な考え方も主張もあり、その一方で現状について困惑しながらも新しい時代を望んで働きかけようとする「志」も存在している。社会が凶悪化しているという傾向があるにせよ、それを看過してよしとする考えばかりが世に満ち満ちているというわけではあるまい。女性や、弱者についての卑劣な行為がいつまでも公論として話題に登らないというのは世の中が保守化しているからなどではなく、我々自身が心に不安を宿しながら打ち克つ事ができず漂流しているからに過ぎない。語ることで、何かが実現するものではないと人は言う。しかし、語ることができないほどの心が、何事かをなせるものではないという事も厳然たる事実だ。(あえて、lalameansさんのメンタルなコンデションに配慮して時間をあけて取り上げました。暴力行為と暴力行為による示威について、一切絶対的な拒否を言明できない魂には、この社会に生きている根拠の大きな部分を失うと考えます。)
2005年07月27日
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1960年、破廉恥にも「日本のヌーヴェルバーグ」と称し、クソたちがいい気になってクズ映画を撮った。一本も見ていないが、新聞雑誌に評を書く嘘つきどもが、あまりにも褒めるので魔がさし、大島渚「青春残酷物語」を覗いて見た。しかし即、吐いた。途中のリンゴ、ガリガリのシーンから見たのだ。妊娠中の桑野みゆきが、線路に倒れるシーンにも呆れた。貧乏たらしく、役者の顔は悪過ぎ、監督の才能も皆無だった。しかも大島などは、あの程度のゴミを作っていいつもりなんだから、日本の民度、文化度の低さにはこれまた呆れた。日本人であることの恥をあれほど痛感したことはない。それから数十年後、これまたよせばいいのに試写で、大島渚「マックス・モン・アムール」を見て、またしても吐いた。元々皆無の才能が、さらに低下していたからだ。 安原 顕「シネマレストラン」自分などとは比較にならない桁違いの読書家である安原顕は、知のコンデンサーである図書館という公共施設の御蔭で時折自分の視野に登場する。年齢的には、ひとまわりも上の相当なお爺さんだと思うのだけれども、書かれていることはなぜかどれもこれも自分の感性と見事に重なる。大島渚についての酷評(というよりも、罵倒モードである)を図書館で立ち読みして思わず腹を抱えて笑ってしまった。自分も、大島作品といわれるものを思い起こして、ただのひとつも素晴らしいと思えたものがないのに驚いているクチである。才能がないくせに、深夜の「朝まで生テレビ」で怒鳴り散らしての偉そうな剣幕に辟易していたのだけれど、安原のような額面どうりの取り上げ方ができる人物が表現者の中にいるということを知るのは愉しい。いま世間を騒がせているチェジ・ウを眺めていて桑野みゆきの事を思い出した。彼女はどことなく、往年の桑野みゆきを想起させるところがある。そういえば、「愛のコリーダ」で世間に衝撃を与えて消えていった女優、松田英子も桑野みゆきを追慕する大島渚の趣味だと思う。つまり、大島はチェジ・ウ系の韓国美人顔が好きなのである。これは韓国人ばかりの租界に生まれ育った自分には、地理勘の湧くところがある。一種の尊大な性格のオヤジが陥りがちなコンプレックスのようなものがもたらす美意識だという気がする。映画「愛のコリーダ」では、あの阿部定役を大島渚の細君であった小山明子が演じる予定だったと噂を耳にしたことがある。まさか自分の女房に、本番演技をさせることになるとさすがに困惑していた処に、殊勝にも松田英子の登場があって救われたというような事があったのかもしれない。はたまた、そういうデタラメを垂れ流して「日本のヌーヴェルバーグ」を代表する監督の手になるポルノ映画を喧伝したのかもしれない。いずれにしても、臆面もなく商業館で本番性行為映画を上演せんがため。多少良質であれ、たかだかポルノに過ぎないものを、ご大層に持ち上げてきたのは、安原顕が述べるとうり「新聞雑誌に評を書く嘘つきども」と商業資本の都合というものだろう。大島渚の作品で、比較的娯楽性のあるものといえば昭和39年(東京オリンピックの年)テレビ放映された「アジアの曙」ぐらいのものだ。原作者の山中峯太郎という作家は、どうやらこの番組の主人公としてモデルとなるような面白い実体験を色々と味わったものらしい。知らなかったが山中峯太郎という人の奥さんは東条英機がとりもったとか。テレビドラマでは、小山明子が扮していた。戦前の少年冒険小説の雄、山中峯太郎
2005年07月26日
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世界各地で、たくさんの高級ホテルを買収。ひいては油田開発、通信事業にも進出した。しかしバブル崩壊以後、1兆8000億円もの借金を背負う。そのメインバンクであった、日本長期信用銀行は、名をかえ今や新生銀行などと称して過去の悪行を糊塗したつもりでいる。ノーパンしゃぶしゃぶだけが話題となり、むなしく記憶から剥がれ落ちて行くがあの大蔵省解体論を惹起し、多くのキャリア官僚が失脚劇を演じた。その引き金を引いたひとりの人物が、18日急死したという。東京税関長は、高橋治則の自家用飛行機ファルコン、ボーイング727、737などに同乗して香港へ高橋と豪遊に出向いたと衆院議員の証人喚問で答えている。東京税関長は、将来大蔵省事務次官を嘱望されていた田谷広明だ。ボーダーフォンという会社は、以前は日本携帯電話といった。のちに名をかえた。東京デジタルフォンがその前身である。実は、この日本携帯電話社長は、日経連の専務理事から就任。この会社は、オリエントコーポレーションと共同出資で成立する。社長に起用したのは高橋治則である。実は、高橋治則に、元日経連専務理事を紹介するかたちで介入したのは、あの山口敏夫だとされている。「歴史には、起こらなかったことは記されない」高橋治則の母は、大蔵大臣と首相を歴任した"ライオン宰相"浜口雄幸の娘婿と従兄妹であった。 浜口は翌30年11月14日に東京駅で狙撃されて重傷を負い、外相の幣原喜重郎が首相代理に就任した。その翌年8月に浜口がこの世を去った直後、9月18日に満州事変がひき起こされ、日本の大々的な中国侵略がはじまったのである。 当時の日本国内の世情は、ちょうど現在と同じように、政界の腐敗が頂点に達していた。その腐敗に対する反発が、陸軍内部の若手を暴走させ、彼らが満州事変を計画する口実として利用され、軍国主義に移ってゆく最大の動機となった。 浜口首相の長男・雄彦は、東京銀行の頭取から国際電信電話会社(現在のKDD)の社長となった人物である。 浜口雄彦と、中部電力会長・井上五郎とは義兄弟であり、井上は原子力委員会の委員長代理で、動燃の初代理事長でもあった。雄彦の弟・浜口厳根は、日本長期信用銀行(長銀)の設立者で、頭取であった。長銀もまた、戦後1952年に出発した金融機関で、最大株主は、第一勧銀である。そしてこの長銀が、高橋治則の東京協和信用組合に49.2%出資する母体行だったのである。 安全信用組合理事長の鈴木紳介が、95年3月に参院で説明したところによれば、「日本長期信用銀行の指示で、高橋治則個人に約50億円の融資を実施した」という。したがって、高橋ひとりの背任ではなく、明らかに金融のプロである長銀の背任罪のほうが大きかった。 さらに、浜口雄幸首相の直系の孫にあたる大橋宗夫は、85年にプラザ合意がなされ、日本がバブル経済に突入したとき、日銀政策委員会の大蔵省代表委員という最重要ポストにいる大蔵官僚であった。 幣原時代の最も重要な出来事は、GHQと激論を交しながら誕生した戦後の新しい憲法の制定であった。日比谷で幣原内閣打倒を叫ぶ7万人集会が開かれ、鳩山一郎が右翼の児玉誉士夫と組んで反共演説をぶつという、全土騒乱の時代であった。この時代に、幣原内閣の秘書をつとめていたのが、数々の週刊誌で「東京二信用組合救済計画を仕組んだ男」と噂されてきた右翼の政商・四元義隆であった。 四元は、三幸建設工業を経営する社長として、政財界に隠然たる勢力をもつ大物右翼とされてきたが、鈴木進とは戦前からの知り合いで、鈴木進・紳介親子が経営する安全信用組合の理事にも就任していた。それは、安全信用組合が、創業時から三菱財閥によって経営されてきた金融機関だったからである。つまり、幣原喜重郎の妻は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の娘であった。 まず三菱財閥の岩崎家があり、その娘ムコ・幣原喜重郎の秘書が、のちの政商・四元義隆であった。そのため、四元が三菱財閥の安全信用組合の理事に就任した。また、幣原喜重郎の息子の姪が、鈴木紳介と結婚したため、鈴木が理事長となって、高橋治則と共に95年に逮捕されることになったのである。 では、その高橋治則と行動を共にした中西啓介は、どこから出てきたのか。 彼は、高橋治則の兄と学友であり、小沢一郎とも学友だったという。 安全信用組合への預金額をみると、イ・アイ・イが9億2990万円であったのに対して、ゼネラルリースという金融業者は、実に5億120万円の預金額を記録していたという。この金融業者の監査役だったのが、広瀬篁治という人物であった。 この広瀬が、ほかならぬ東京協和信用組合で理事をつとめ、安全信用組合では参与総代という重要ポストについていた。 彼は、やはり高橋治則の兄の友人だったとされている。 しかし広瀬篁治の叔父は、佐藤栄作内閣の経済企画庁長官をつとめた藤山愛一郎であった。 佐藤栄作の息子である通産大臣・佐藤信二がいた。さきほど、浜口雄幸首相の孫・大橋宗夫は、85年のプラザ合意がなされ、日本がバブル経済に突入したときの大蔵省代表日銀政策委員という最重要ポストにいたと述べたが、大橋宗夫の妻と、佐藤信二の妻は、従姉妹であった。 実は、この藤山愛一郎の姪の夫の祖父・山口喜久一郎という衆議院議員がおり、その秘書だったのが、中西啓介であった。しかも中西は、山口喜久一郎の姪と結婚し、その地盤を継いで、和歌山一区から出馬して衆議院議員になったのである。 - - 中西啓介は、"安全信用組合に5億円の大口預金をもつゼネラルリース"の監査役だった広瀬篁治と近親者であり、ほとんど従兄弟同士に近い関係にあった。 その信用組合から、中西のマンション代金やパーティー、カジノ旅行の代金が捻出されたことになる。そして広瀬の金融機関の預金を守るため、一族仲間の大蔵官僚たちが東京共同銀行を設立し、全国の銀行預金から莫大な資金が捻出されることになった。 クリックから、広瀬隆「私物国家」へジャンプします。
2005年07月25日
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大阪から滋賀に移動中、アクシデント。予定よりも帰宅が遅くなり、今日もお休みします。話題はいろいろあるんですが、、、、まあ、いろんな事が起きるものです。(笑)
2005年07月24日
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また、滋賀に戻りましたら日記復活しますね。
2005年07月22日
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鶴見俊輔; 文は人なりという事があるでしょう。 フローベルは一語をみつけるのに「マッチ一本つくるために 森全体を切り倒す」ほどの厳密さをきわめるとか、このことを 言いあらわすのに一語しかないとか、わたしはそういうのを きわめてマユツバだと思っているのです。 論理的に、認識の問題として言えば、そういうふうに感じることば はあるかもしれない。しかし、一語しかないということを見きわめ るのはたいへんにむずかしいし、このことを言うのに一語しかない ということを論証するのは、論理としてきわめて困難です。 だから、そういうふうに主張することはむずかしい。 したがって、わたしはそれはマユツバものだと思っているんです。谷川俊太郎;そこまでは賛成ですよ、ぼくも。鶴見俊輔;それだけの練磨をした人がそうとういうってことはわかりますよ。 でも、それだけの人が、われわれもの書きで食っている人間にどれだけ いるかというと、疑問ですよね。いまの同業の評論家のなかで、 わたしがことばに対してもっとも鈍感だとは思っていない。 そうだとすれば、ほかの人の言語感覚もあるていどいいかげんなものでは ないか。にもかかわらず、フォローベル的認識をもっている人が多いんじゃ ないかという疑いを、実はもっているんです。谷川俊太郎;ぼくは正直言って鶴見さんの文章はとても好きなんです。 ぼくが好きか嫌いか感じるのは、練磨したかしないか、あるいは、その一語 動かしにくいか動かせるかといった、一種の推敲の結果としての名文かどうか ではないんです。その人がどんなに簡単に書き散らかそうが、どんなに推敲 しようが、その文体の中に意味・論理とともに出てくる、その人の肌ざわり から感じるものなんです。それをぼくは、その人の現実感覚とほんとうは 言いたいんですけれど、そういうと不正確なんじゃないかと思うので、 ちょっと言いにくい・・・。 文章の感触に、ぼくは、この人は現実をどのようにとらえているのかという ことを感じながら読んでいるんです。 「現代思想」1976年5月号鶴見俊輔も、そろそろ体調が悪くなりつつあるようだ。人間も消耗品だから、耄碌もするだろうし切れが悪くなる事もあろうかと思う。しかし、永年観察している人たちが折々に発言をしているのを聴く楽しみというものは、なかなか玄妙なもので多少の逸脱やひっかかりを踏み越えてひととなりの本体を照らしながら、それほど抵抗なく聞けたりする。鶴見俊輔は、自分が学生時代にはいたって評判が悪かった。まわりの学友は、くそみそに言っていたのをなんども耳にした記憶がある。平岡正明なんか、確か記憶ではハンガーストライキ中に、こそっと鶴見が握り飯を喰っていたのを目撃して、とんでもない奴みたいに言っていたのを読んだように思う。自分自身は、ハンガーストライキのような自党派の身内にむけた扇情的な示威というのは、さっぱり訳が分からない昼行灯みたいな学生だったので平岡が言う、狡いとか汚いというイメージそのものがイマイチよく理解ができなかった。一般学生や、良識派ぶっている市民活動家を前にして、裏でこっそりお茶目に握り飯を食っている鶴見俊輔というのも少々面白いキャラだという風な気がしてならない。谷川と鶴見が対談で言っていることは、実によく分かる。インターネットが普及し始めて、毎日いろいろな方の語り口を拝読していてさらにその思いが強くなる。ブログなどを毎日書いていれば、まさかわれわれは志賀直哉やフローベルをやれるはずがない。それでは、日々書きなぐっているような我々のログがただの言葉の蕩尽なのか、といえばそれはそうではないだろう。地域を越えて、年代を越えて、心の垣根を越えて交わされる言葉の数々は次第に洗練もされてくるだろうさ。きっと、それがWEBにおいてもいつかは姿をあらわす本質なのだろうと思う。
2005年07月18日
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皆さん、3連休をいかがお過ごしでしたか。自分は、皆さんにとっての観光地のど真ん中で暮らしているらしい事。改めて感じ取る週末でした。それも大阪あたりから北上してくるクルマと疎遠な狙い目を散策していると、こちらにはまだまだ見所が多いのが新しい発見につながります。滋賀は、色々な意味で自分には不思議な地域です。両親が滋賀県人でありながら、自分は親戚づきあいからも墓参りからも完全に距離を置いてきました。実の処、親戚も多分先祖代々の墓の方もわたしを度し難いと、忌避していたのではないかと内心思っています。それは郷里を離れた当初の両親も、同じ事で経済的な自立なしに再び郷里滋賀に戻ることはできなかったという事がありそうです。それを可能にしたのは、あの朝鮮動乱やベトナム戦争などに喚起された戦後日本の未曾有な経済成長だったのは皮肉なものだと思うのです。しかし両親には、そんな透かした事を言ったり考えたりする余裕など皆無でただひたすら稼ぎと生活と子育てに駆け抜けたという事なのでしょう。そんなこんなで自分は、両親にとっての滋賀ともまったく違い人間関係については滋賀には絶無に近いところまで絞り込まれてきました。自分にとっての滋賀は、これまでのところ純粋な記憶。回想される体験でしかなかったわけです。怖いですね。ある意味自分の子供を生むと言うことは恐怖と背中合わせかな?最近は親殺しも多いしね。それなりに背負っている重たい人生の苦労が石のように重たい・・・それが人生かなと?? ひめちゃん3058さんひめちゃんのコメントは、先の夏目漱石の「夢十夜」第三夜 という小説の感想です。7月15日の引用はWEB上のライブラリーである青空文庫にリンクしておきましたので漱石の「夢十夜」を、どうか通して拝読をくだされば幸いです。それほど怖がることもないと思いますが、さりとて緊張感が緩むと少々キツイこともありそうです。子供をみていると、自分のなりたちが良く分かり興味深いです。好き嫌いが嫌いな子供にも、感覚が鋭敏で食べられないものが多いというのは自分自身の記憶からも良く理解できます。観察して、推理をしてという手順以外に、記憶を回想させて体験をなどることができるというのは子供を持っている親だけが体験できる境地です。滋賀は、二重三重四重の思いを馳せる新しいテーマですが、、、親も、親族も知りえなかった無意識にすら片鱗を残していないような、すでに肉に染みついて染まったアザのような痕跡を、育った大阪で培った素養だけを手がかりに思い出してゆくような気分です。福井県は、自分の現在の生活圏からは至近になりますが古い時代に我が一族の祖先が浅野長政の家臣団として明智光秀の没落以後に1583年坂本へ。大津と坂本を統べて2万石の小大名として活躍した時期に、同伴したのだという意味では、福井県は私自身も親族も知りえなかった歴史の最深部だという事になります。関が原の合戦で敗れ以後の凋落は、一族をどのように翻弄し、鍛えたのでありましょうか。そんな話題を親族や他界した祖母などに持ちかけても一笑にふされたことでありましょう。土曜日には、賤ヶ嶽のふもとのドライブインで琵琶湖を眺めてきました。浅野長政が武功により大津坂本を拝領する契機となった古戦場であれば、近いこともあり一度丁寧に散策してみたいという気持ちも生じます。いくさと戦争で血塗られている自分の出自については、平素僅かも意識はしませんが、つくづく我々は人殺しとは疎遠でいられない存在のようです。1544/1547~1611(天文13/16~慶長16)安土桃山時代の武将。秀吉政権の五奉行の1人。通称弥兵衛。はじめ長吉と名乗るが,晩年に長政と改名。尾張春日井郡北野に安井重継の子として生まれ,織田信長の弓衆浅野長勝の養嗣子となる。織田信長に仕えるが,豊臣秀吉とは相婿とあって親交が厚く,1573年(天正1)に秀吉から120石を受けるなど,早くから秀吉に属していた。1582年明智光秀の死後あとを受けて近江坂本城主となり,翌年には近江で2万300石を領した。1585年には五奉行の首座に列し,1587年九州に従軍後,若狭1国の大名となり小浜城に移った。次いで従五位下,弾正少弼に叙任。太閤検地奉行を務めるとともに,小田原・奥州征伐に従軍。1592年(文禄1)には軍監として朝鮮に渡り,翌年甲斐1国を与えられ22万5000石を領した。秀吉の死後,徳川家康暗殺計画に連座の容疑を受け,家督を子幸長にゆずり,武蔵国府中に蟄居。関ケ原の戦いでは幸長とともに東軍に属した。戦後,幸長は紀州和歌山城主として37万6000石を領し,長政は,江戸に住んで常陸・近江両国で養老料5万5000石を領した。江戸で没。高野山悉地院に埋葬される。 天文16年(1547)、尾張春日井郡北野生まれ。父は安井重継、母は浅野長詮の娘。幼名、長吉。織田氏の弓衆である叔父、浅野長勝の二女と結婚し浅野家の養子となってから、弥兵衛といった。この叔父長勝が、養女としたのが、秀吉の正室ねね(おネ)であり、後の北政所である。秀吉の妻と長政の妻は姉妹ということになる。長政の初陣は、天正元年(1573)、浅井攻め。のちに秀吉に仕え、賤ヶ嶽合戦で功があり、近江2万石を領す。同11年(1583)には京都奉行職。大津、坂本2城、2万石の城主となる。小牧長久手合戦の後、秀吉が家康との和解に、妹、朝日姫を家康に嫁がせる際、浜松に同行した。同15年(1587)、若狭小浜城主、8万石、翌年(1588)、従五位下、弾正小弼に任命される。小田原攻めにも参加。奥州に遠征。会津若松にて奥州仕置に任ず。秀吉の天下統一に悉く貢献した。文禄2年(1593)、嫡子、幸長とともに甲斐に移り、22万石を与えられ、征韓の役にも出陣。慶長3年(1598)、秀吉の死の直前、五奉行の筆頭。秀吉の死後である翌年(1599)、家康暗殺計画の嫌疑を受け、謹慎。家督を幸長に譲り、武蔵府中に隠居。関ヶ原合戦では家康を支持し、東軍に加わった幸長の功(家康の後詰)により、和歌山37万9千石の領主となり、慶長11年、長政は常陸真壁などに隠居料5万5千石を与えられた。慶長16年(1611)4月7日、江戸(下野塩原温泉とも言う)で没。65歳。その子幸長は和歌山城主として、38歳で死んだが、後継ぎがなかったため、弟の長晟が継ぎ、のち安芸広島に42万石の太守となった。ちなみに「忠臣蔵」の赤穂浅野家は、支流である。
2005年07月17日
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アスベスト:規制法案に業界抵抗 審議せず廃案 92年 アスベスト(石綿)の原則使用禁止を定めた「アスベスト規制法案」が92年、議員立法で国会に提出されたが、提出前に業界団体の日本石綿協会が「健康障害は起こり得ないと確信できる」などとした見解を文書で政党と省庁に配り、自民党などの反対で一度も審議されないまま廃案になっていたことが15日、分かった。旧クボタ神崎工場(兵庫県尼崎市)周辺では先月、住民5人(うち2人は既に死亡)が中皮腫を発症していたことが明らかになったが、文書は「一般環境においては石綿による健康問題は発生していない」と強調。危険性を軽視した業界の“圧力”が規制の遅れにつながった可能性が出てきた。毎日新聞 2005年7月16日 3時00分86年のチェルノブイリ原発事故の時に、同じ市民集会では結構アスベストの件で活動している人たちが登場してきていた。反原発運動では、ややヒステリックなまでの広瀬隆が、教祖のように日本中を跋扈していたのだけれども、アスベストの方でも東京女子大の広瀬弘忠という先生が「静かな時限爆弾-アスベスト災害」(1985年)という自著を刊行して、実は当時NHK教育などの番組に頻繁に登場していた。そんな集会で、自治労のおやじや市民運動家がヒマそうに眠た気で参加していて「放射性アスベストなんか、原子力発電所にはゴロゴロあるんじゃろ」などと無駄口を叩いていた。反原発の広瀬は、なりふりかまわずの闘争姿勢でたちまち息切れしてしまったようだが、反アスベストの広瀬は軟弱で最初から企業に「異議申し立て」をするようなフシもなかった。自分も「静かな時限爆弾」を読んで、将来相当数の人がバタバタ斃れることなるのだ、ということは内心深く確信をした記憶がある。広瀬隆のようにつっぱって激しく異議申し立てをしても、企業や官公庁の組織内部の不活性な気分は「どうせ生活保守主義者が、封殺する運動だ」と、タカを括って動かない。当時、友人たちに周囲の家族や近隣住民が実害を生じるまで日本人はけして動かないだろう、と話をした記憶がある。事実、今回のアスベスト問題の急浮上は、橋梁談合で石川島播磨重工業が晒されているのとバランスを取るかのようにクボタが叩かれている。談合問題も、アスベストもわたしにはあまりにも古ネタ過ぎて呆れかえってしまうばかりだ。前回の日記に、69年の学生叛乱期の戦士達がもののみごとに企業社会の既存秩序に整然と捕りこまれ、かつて熱病のように憑かれていた。その夢想のような世界観の「外化」についてはケロっと失念。惚け顔で過ごせている不思議さを示唆したつもりである。あなたや、あなたの配偶者の周りにゴロゴロいる団塊の世代の相当規模の人たちは、かつて十代や二十代の暫くのあいだ周囲を瞠目させるほど反米闘争や、反権力闘争に熱心だったのだ。しかし、なぜか毎回自分たちの周辺の所属党派の利害に情況を還元し始めて、その延長線上に年金生活者の陸続とつづく隊伍に自身を摺り寄せようと試みている現在へ逃散した。多少の紆余曲折も大同小異だと思う。理由は、いとも簡単だ。この40年程のあいだとりあえず喰えていた。もともと60年代の学生叛乱とは「喰えていた奴らの要求闘争」であったに過ぎない。貧困や窮乏で生存を問われるような危機に瀕していた者たちの、社会改革とは相当違い彼らは「もっと豊かに」の先取りを本音の処では闘争参加の動機としていたのである。だから、彼らには医師からの問診で体調に異変を感じ取る最後の瞬間まで粛々と企業社会の秩序の中に逼塞し、あえてパンドラの函を開く事はけっしてなかった。だから、当然ながら我々の世の怖いものはアスベストや放射性産廃だけに留まるものではない。早い話、生活環境のそこここに転がっているコンクリート廃材だって、実は相当危ない。セメントそのものはさほど問題ではないが、いったんコンクリート固化されたものをハンマーなどで砕かれる時にはよくよくご留意をいただきたい。また、コンクリート製品製造の事業者の近隣に御住いの皆さん。いくら景観が美しいといっても油断をなさらないように。飛散するコンクリートの粉砕片や微細塵は、侮り難い。あなたやあなたの家族の健康に大きな負荷とも脅威ともなって襲いかかって来るという事は間違いない。田中角栄の「日本列島改造計画」とは、つまるところそういう生活環境に日本を変えてしまうという決意表明だったのである。そして今われわれは、その完成図の世界で生きている。
2005年07月16日
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第三夜こんな夢を見た。 六つになる子供を負(おぶ)ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰(つぶ)れて、青坊主(あおぼうず)になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人(おとな)である。しかも対等(たいとう)だ。 左右は青田(あおた)である。路(みち)は細い。鷺(さぎ)の影が時々闇(やみ)に差す。「田圃(たんぼ)へかかったね」と背中で云った。「どうして解る」と顔を後(うし)ろへ振り向けるようにして聞いたら、「だって鷺(さぎ)が鳴くじゃないか」と答えた。 すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。 自分は我子ながら少し怖(こわ)くなった。こんなものを背負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣(うっち)ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端(とたん)に、背中で、「ふふん」と云う声がした。「何を笑うんだ」 子供は返事をしなかった。ただ「御父(おとっ)さん、重いかい」と聞いた。「重かあない」と答えると「今に重くなるよ」と云った。 自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股(ふたまた)になった。自分は股(また)の根に立って、ちょっと休んだ。「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。 なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日(ひ)ケ窪(くぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。闇(やみ)だのに赤い字が明(あきら)かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけていた。自分はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目(めくら)のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。「だから負(おぶ)ってやるからいいじゃないか」「負ぶって貰(もら)ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」 何だか厭(いや)になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言(ひとりごと)のように云っている。「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然(はっきり)とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩(も)らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」 雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ這入(はい)っていた。一間(いっけん)ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。「御父(おとっ)さん、その杉の根の処だったね」「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。「文化五年辰年(たつどし)だろう」 なるほど文化五年辰年らしく思われた。「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。おれは人殺(ひとごろし)であったんだなと始めて気がついた途端(とたん)に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。「夢十夜」第三夜/夏目漱石↑クリックでジャンプします。
2005年07月15日
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あの鹿砦社の松岡利康氏が逮捕された。「噂の真相」の廃刊以後、その存在自体が岡留安則氏の後継者的存在として唯一の印象される人物、というあたりで大方の一致をみるというものだろう。沈黙する反権力スキャンダリズム支持者は、どんな衝撃を受けたものか。実に、興味深い。数年前、松岡利康氏と電話で話をする機会があったが、持ちかけた話題がデカ過ぎると断られて某大手週刊誌記者を紹介された。その時の対応は、誠実味があって好感できたがまさしく断りの理由が今回逮捕の遠因となった「巨大な圧力」のせいなのだろう。いかなダビデとて、いちどきに相手ができるゴリアテはひとりだという事らしい。もともと逮捕されることも覚悟の上の「紙の爆弾」創刊だったのだろう。反権力スキャンダリズムの瓦解なのか、どうか。にわかには判断できないのであるが、以後その戦法などに変化が生じるのは予想できることかと思う。岡留 私の党派は「プロ学同」という弱小党派で、新左翼系八派の中では一番 最後に結成された団体で、もともとは関西系の民学同、それから共産党 ソ連派という流れから来ていて、その頃は法政が拠点校だった。民学同 左派からプロ学同をつくろうということで、当時のブントやいわゆる三派 系の影響をかなり受けて、引っ張られた形で出来た党派なんです。本来は 構造改革派だから、穏やかな革命主義者だったんだけど、七〇年安保を 目前とする当時の時代状況にやっぱり引きづられる形で、六人年に結成 された。親分がいいだももで、当時の幹部メンバーでいえば、作家の笠井潔 なんかがいたわけだね。松岡 当時のペンネームは黒木龍思。岡留 そう、黒木龍思。作家の亀和田武なんかもプロ学同だった。松岡 今の管理職ユニオンの設楽清嗣さんなんかもそうでしょう。岡留 あの人は「共労党」 のほうじゃないの。松岡 共労党とプロ学同は違うんですか?岡留 共労党の学生下部組織がプロ学同、そして市民運動がべ平連。いちおう一丁前 の前衛党組織なんだ、形としてはね。松岡 べ平連はそういう戟略のもとに、みなさんやってたわけだ。岡留 共労党のマヌーバー戦略。リーダークラスには党員が何人か入ってたでしょう。 べ平連が共労党だと思われるとまずいから秘密党員(笑)。べ平連というのは 大衆カンパニア闘争という一番過激な市民運動ではあったんだけど、武装闘争は しないという組織。小田実とか小中陽太郎、いわゆる文化人を表に立ててたけど、 裏的には共労党戦略みたいなものがあった。松岡 その他の党派も、べ平連にどんどん入っていったでしょう。岡留 草刈場みたいなもの。例が悪いかもしれないけど、今の社民党みたいに赤軍が もぐりこんだりしてたわけだ。革マルだって革マル派って形を取らないでサークル や大衆組織としてやることもある。原理研もそうでしょう。統一教会、オウムも そうだものね。組織の必然というか、加入戦術というのは組織の論理としてあるん だよな。……岡留安則氏と松岡利康氏の対談の話題になっている空気は、自分なりによく分かる面がある。なにしろ、1969年に大阪府立高校の高校生だったのである。右翼と勘違いされるタイプの日常であった自分が、極左から民青、べ平連、はては生長の家にいたるまでありとあらゆる活動家から自派へと勧誘された。そんな嘘のような時代である。東京大学へ小田実氏が行った時代と違い、その後歴代の軟弱な先輩らの御蔭で到底進学校とは呼び難い零落府立高校だったのだ。それでも卒業生に小田実がいるというだけで、当時の時代背景から学内には100人前後の新左翼シンパがいたのだろうか。高校の自治会の会長が平気で赤軍派のヘルメットをかぶって演説をかます、などと言うような面白い時代だった。自分自身は、すでに何度も言及したとうり近衛師団に入営しそこねた伯父が南方で戦死しているような経緯で分かるように、ゴリゴリの精神家であった母親が存在していた。その影響もあってわが家では、新左翼など滅相もないという、窮屈千万な家庭であった。そんな自分の、毎日通っている府立高校。よりによって今では想像できないような紛争校。1ヶ月ものバリケード封鎖される始末。「新左翼」の牙城のような新聞報道が連日されるに至って、母親なども心底仰天をしたものだった。校門には、いつも大阪府警のパトカーが常駐する。時代というものである。「ヤマザキ天皇を撃て!」と石鹸と 2005/05/05↑クリックでジャンプします。当時、新左翼の威勢のよい時代。その時代相から考えれば民学同など「屁たれ」のような言われ方で、到底極左と呼べるような存在感ではなかった。輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョやトンボも鳥のうちそんな軽口が親の世代にはあったらしい。武器輸送の輜重科の自衛官が聞いたら仰天するかもしれないが戦前ではその華々しさから軍人の中でも、脚光を浴びるのは自ずと決まっていた。この呼吸は、まさしく新左翼でも同じことだったのだろう。中核や赤軍派が、生意気な高校生の憧れだった時代には民学同やプロ学同などは到底新左翼などとはおこがましい、という言われ方だった。ましてはべ平連など、自校卒業のOBであった小田実がリーダーにいたという事での敬意はあったとしても、威勢のいい赤色高校生らのあいだではいたってその評判は芳しいものではなかった。つまり、彼ら極左暴力革命派の憧れのからすれば軟弱だと映ったのだ。いまや、そんな「構造改革三派」(つまり、軟弱だといわれていた民学同、プロ学同、べ平連ら)の残党らしき松岡利康氏が逮捕されるという時代になったものか。世の中が変われば変わるものである。当時の街頭で派手に暴れていた学生たちは、ものの見事に企業社会になだれをうって潜り込み、派手さのなかった岡留氏や松岡氏らがこの時代にも反権力の志で身命を賭しているのが感慨深い。
2005年07月12日
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週末、この土日曜はどしゃぶりの大雨といった予報だった。実際の処、さほどの量の雨はこちらにはなかったのであるが金曜日時点では部屋に閉じこもりになることも想像された。こちらは流石にネパールの山岳村落のような事はないにしても、周囲には気分転換に出歩くなどというような施設がたんまりとあるようなロケーションではない。プロジェクトの若手が「暇つぶしにどうですか?」と貸してくれたのがコミック本の13冊だ。聞けば、割合面白いのだという。彼がお気に入りだと、言っていた。いや、「強くお奨めする」みたいな言い方だったかもしれない。土曜日、雑用をかたづけながら合間にこの13巻を読み通した。この内容は、一言で云えば「コミックの姿をかりたプロパガンダ」のようなものだという気がする。タイトルを、「アクメツ」という。プロパガンダの手法は、1930年代に権力を得たナチス・ドイツによって発展し、冷戦期になると普及したテレビから東西両陣営のプロパガンダが流れるようになった。特徴としては、最大多数の支持を獲得するために事実の誇張・歪曲を含むあらゆる手段を行使し、理性よりは感情に訴えることが多く、それらの点で通常の政治的主張や広告などとは区別される。他の特徴としては、第二次世界大戦前ではロシア・アヴァンギャルドの影響を受けたと思われる大胆な構図・強烈なインパクトのフォトコラージュやアールデコ調の点描画がしきりに活用された。↑クリックでジャンプします。このコミックの面白いところは、このヒントフォーラムのような経済環境についての私的な俯瞰を横軸にして、縦軸にサイバーパンク流というのだろうか。ハリウッド映画「マトリックス」の剽窃(もじり)のような着想で、実のところただ一人の高校生が、クローン人間化されて国内を暴れまわるという西遊記の孫悟空と水滸伝の盗賊列伝の合成のような展開を繰り広げるという趣向になっている。「アクメツ」というのは、この世の悪を叩くという主人公の仇名(ハンドルネーム)なのであるが、尋常なテロではないのだと繰り返し主人公の口を介して原作者は弁解をしている。弁解をしなくても、テロで何が悪いという読者も多い筈なのだが弁解の理由は、登場する悪漢がすべて日本の現実の政治家や官僚たちに酷似したモデルなので、鼓舞された読者の中に万一虚実をわきまえず真顔で単純にテロへ走るなどというような困惑すべき事態を回避するために、徹底的に荒唐無稽に描いている。私の読んだところでは、さほどではないと思うが相当暴力描写が凄い作品であると一般には語られているそうだ。雰囲気には、往年の永井豪作品の「デビルマン」の空気も漂っている。とはいえこの作品、横軸が実に変わっている。普段、私がこの日記で口走っているような経済社会のありかたについてこれまでのコミックには見かけなかったような切り口である。だから、わたしがプロパガンダと言うわけなのだけれども語り口はコミックなのだけれども、その視点は意外なほど思弁的で生真面目な思惟の痕跡が濃厚にある。あのサドの「悪徳の栄え」だって知る人ぞ知る、近世哲学の雄であるスピノザの形而上学を踏襲している。読み通してみれば、単なる猟奇小説などではないとすぐさま分かるわけだ。この「アクメツ」は、案外この国の十代や二十代がなかなか侮り難いと思わせるフシがある。こんな気分にさせたコミックスは、あの「寄生獣」ぐらいである。一説によれば、「寄生獣」は、ハリウッドが着目して「ターミネーター2」に化けたという。事実は、分からないが「アクメツ」がもしハリウッド映画に取り上げられたら、日本の政治風土が少しぐらいは変わるというような事があり得るのだろうか。
2005年07月10日
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実は、まだ懲りもせず寒天ダイエットを継続中である。もうダイエットなどどうでもよくて、面白くてただただ日課になってしまったという感じ。毎日、味付けをどうするのかという処で結構楽しめる。最近、面白い味で笑えたのは昆布茶とゴマである。寒天ダイエットの基本テーゼどうりに4gで、ほぼ400ccぐらいの寒天が出来る。ここで100cc足すと、ゆるゆるなのができる。これは好みだが、多少コリコリしている方が食べた気がするので、自分は硬めに仕立てている。ここに毎日飽きないように、トッピングをしているのである。甘味系は、やはり飽き易い。昨日は、寒天に昆布茶のパウダーとすりゴマをぶっかけた。実は、じゃまくさくなって隅にあった余りものをかけただけなのである。これが、意外や意外。結構うまいのである。たぶん、冷えた番茶でサケ茶漬けのふりかけなんかでかきこんでも美味なのではないだろうか。
2005年07月08日
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涙が出る、という次元の話ではありませんね。なぜ戦争をするんでしょうかね?素朴な疑問ですが。私の母はもう90ですが以前兄が話を聞いていてそれを活字にしておいてくれたことを大変うれしく思いました。両親は戦争時は尼崎にいましたが、私ぐらい末っ子になるとなかなかその頃の話をしてはくれませんでしたから。ただおじさんたちはみんな戦争でなくなりました。一人はマニラ湾でいわゆる特攻です。その頃の写真などを見ると多くの人がいうに言われぬ体験をしてきているんだなぁと思います。 マリィ ジョー ♪さん シンガポールIOC総会でイギリスにオリンピックを、との決定で。ロンドンに歓声があがるやいなや、翌日の地下鉄へテロの洗礼。この「決定」には俄かにきな臭いものが絡んで、以後も物情騒然という印象だ。6日の報道を聞いた時、ブレア首相の喜色満面な笑顔に不気味な印象が湧いたのですが予感が一夜にして的中したような気分で暗澹とするもの。地下鉄テロが黙示しているのは、今回のオリンピック招致がアメリカイラク政策への現政権の加担の程度に応じた論功行賞的な意味合いを帯びているように感じた私の不吉な予感に根拠があるのならば、ウェブサイト上に「イラクとアフガニスタンでの虐殺への報復だ」との犯行声明を発表した武装組織の告知どうりに先のイラク軍事派兵でのイギリスの役回りについての直接的な抗議行動なのかもしれない。とすれば、余程巧みにこの日を狙い定めたものだと感嘆するわけである。情けないことなのだけれど、、、【ロンドン7日共同】ロンドン中心部で7日午前8時50分(日本時間同日午後4時50分)ごろから約一時間の間に、金融街シティーに近いオルドゲート駅付近など地下鉄の3カ所やバスを狙った爆破テロがほぼ同時に発生、英捜査当局によると、少なくとも33人の死亡が確認された。英スカイニューズ・テレビによると、1000人が負傷した。情報は錯綜(さくそう)しており、死傷者はさらに増える可能性もある。北海道新聞ブレアは、首脳国主要サミットを狙ったテロだと「はぐらかし」しているようだがイギリス国民も、テロの可能性は2001年9月11日以降脳裏を離れた事は一度もなかった筈だ。私はテロを礼賛するつもりはまったく皆無なのだけれども、このようなテロが多発する機制を戦後一貫して喚起し続けてきたものはなにか。誰も口にはしないけれど、結局アメリカ的な軍事介入の姿についての深い疑問を抱いているものは、国際社会にも広汎に存在している。それが悲嘆なまでの「避け難さ」というものだ。米国を支持した国々はテロの標的になることを、渋々認めざるを得ないという構図が重苦しくも定着してしまったように思う。広島、長崎、東京大空襲等々とわれわれ日本人も余程の健忘症で、この国土で生じた大惨事も、過去の日本人が秘めて仕舞い込んだ哀しみもさっぱり省みる事すらなくケロっと忘れてしまう「おさだまり」。しかし、殺された人たちの怨嗟の魂が、今たまたま生きている現代人のご都合にあわせてそうそう簡単に成仏ができるとも思えないのである。
2005年07月07日
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先々週も、大阪に帰っていたときに母親にWEBの面白さを話した。いや、以前から話しているのだけれどもさっぱり理解に届かない。しかし、検索エンジンの凄さだけは分かってきたらしくて色々探し物を依頼されることもある。現実には母親は、パソコンはおろか携帯電話も使ったことがない。80歳を前にして、インターネットを使おうとも体験しようとも思っちゃあいない人である。物事を探す事についてのGoogleに代表される比類ない力量は、直感的に凄いものだと額面どうり理解できたらしい。当然、毎日何十人かがかかさずWEB上の日記を読みに来られているなどという事態は母親からすれば異国の話よりも不思議なものなのだろう。子供時代の両親の話が、ファンタスティックであったように今の時代に母親は、孫や子供の行いが理不尽であろうが、不快であろうが謎のようなまま納得して受け入れなければならない。それは、それでご苦労さまだ。早晩、自分もそのようになるに違いない。とはいえ、結構面白がっている処もある。自分が小学生の頃から数えて、あまりに何度も同じ話を聞きただすので母親もその前後の話を少しづつ記憶を鮮明にしているらしい。県の職員だったオヤジが、闇の物資で購買していたのをいいことに失敗して長男でありながら大阪へ出奔。不承不承、オヤジとついてきた母親がその後大阪で苦労をした話は、自分にはピーターパンの住むというネバーランドと大差ない。本当に、苦しかった話を愉しそうに子供に話すはずがない、などと内心思っていたりする。コドモはみんな成長していくものです、一人を除いては。コドモは、すぐに自分が成長するものだという事がわかるのです。ウェンディが成長するということをわかったのは、このようにしてでした。2才のある日のこと、庭で遊び、花をつんで、それを持ってウェンディがママの所へ走っていきます。そうしているウェンディは、幸福に満ち満ちているように見えたことでしょう。ママは、胸に手をあてて「まぁ、どうしてあなたは、ずっとこのままでいられないんでしょうねぇ!」と声をあげたのですから。コドモの成長について、ママとウェンディの間で交わされた言葉は、これだけです。ただこのことによって、ウェンディは、自分が成長しなければならないということをわかったのでした。2才にもなれば、分かるものです。2才ともなれば、きざしがあらわれるものなのです。J.M バリ 著 katokt訳(katoukui@yahoo.co.jp)PETER PAN PETER AND WENDY James Matthew Barrie© 2000 katoktただ、あの守山市上空のムスタングに殺されかけた話だけは余程恐ろしかったのか記憶が途切れとぎれな処があって自分でも、もどかしい面もあるようだ。絵でも描ける人ならばまた違うのだろうが、わが母は、ひたすら木彫で仏像をつくっているばかりである。※「人は、戦争で死ぬために生まれてはこない」2004年5月5日 ↑クリックでジャンプします。考えてみれば、ヴォーリズが近江八幡へ。滋賀県立八幡商業高校の教師として赴任したのが1905年。近江兄弟社が、メンソレータムの輸入販売を開始したのが1920年。本願寺門徒の実家に生まれたのが1927年。わざわざ岡林牧師(岡林信康の父親)などに説教を受けてキリスト教会通いをしていたまでの母親が、そして心から尊敬していたらしいヴォーリズWilliam Merrell Vories の故国アメリカの戦闘機に殺されそうになるとは当時には夢にも想像したことはなかっただろう。実は、子供の頃に母親の持ち物に古色蒼然とした聖書や、教会で交換しあったらしいさまざまな記念品や絵葉書が沢山残っているのをいぶかしく感じたものだ。戦後、母親がキリスト教の信仰を捨てるに至った経緯は、さすがに子供の自分にも良く分かる。ヴォーリズは、1945年。マッカーサーと近衛文麿元首相との会談の仲介を依頼されたとの事だが、果たして引き受けたのだろうか。われわれ日本人にとって、ヴォーリズのような人物を輩出する国が、あたかも趣味であるかのように平然と好んで殺戮を行う兵士を日本に送り込んでくるなどとはまったくもって合点が行かないところである。逢坂山トンネルを山科から野洲に向かう道中は、実に開けた平野地だ。ようするに3機のムスタングは、戦闘行為という自覚ではなく非戦闘員を頭上から殺傷することを目的として待ち受けていたのだろう。停止した車両から逃げ出した人達を一人づつ丁寧に撃ち殺している。後で助かった母親は、京都府立医大の看護婦なのだから気丈に殺された人達をそれぞれ検分している。けれど当然ながら到底機上のパイロットに反撃するような火器をもっている人など一人もいない。みな背中から機関砲を打ち込まれ、頭ごとふきとんでしまった赤ちゃんもいたと言う。※「人は、戦争で死ぬために生まれてはこない」2004年5月5日母親は、この殺戮の現場から野洲の実家まで歩いて帰ったという。守山市から野洲まで自分も繰り返しスクーターで走ってみたが、いまの整備された道路でも相当な距離である。帰路に向かった母親は、まだ上空の戦闘機が狙っている気配を感じたという。「あの赤ちゃんを背負っていた奥さんは、いまどうしているだろう」と、母が言う。看護婦当時の母親が、18歳だとしたらその方は存命だとしても80歳代なのだろう。「今頃、捜してみてもみつからんだろう」と、自分が言う。「なんだ、インターネットの時代といってもそんなものか」と、悪態をつく母親。当時、滋賀でアメリカ戦闘機によるこんな「公開処刑」のようなふざけた殺戮行為はそれほど頻繁にあったわけではない。だから、かならず記憶している人がいる筈だ。そのように母親は言う。さて、本気で捜すとしたらどこから手をつけていいのやら。JR西日本の列車脱線転覆事故の報道を繰り返しみている内に、当時の汽車で奇跡的に生き残った事の意味を、母親なりにもう一度考え始めたらしい。1970年1月19日号の『ライフ』誌に掲載されたハーバールのカラー写真の1枚には、女たちや子どもたちが固まって立っている光景が写っている。その説明はこう書いている。「ハーバールとロバーツは女や子どもたちの一団に近づいていく米兵を見つめていた。その一団の中ほどに、黒いベトナム服を着た13歳の少女がいた。一人の米兵が、彼女をつかみ、他の兵士の助けも借りて、彼女を裸にしようとした。「こいつがどんな身体つきか、見ようじゃないか」と一人が言った。もう一人が「ベトコンだよ、やっちゃえ、やっちゃえ」と言い、さらにその少女に向かって「お前はベトコン用のパン助だな」と言った。「もう我慢できねぇ」と3人目が言った。死体や炎を上げる家々の脇で、彼らがその少女を裸にしようとしている時、母親が彼女を助けようとして、兵士につかみかかり、爪を立てた。(……)一人の兵隊がその母親を足蹴にし、もう一人が殴りつけた。ハーバールはその女たちの写真を撮ろうとして飛び出した。写真は、13歳の少女が母親の後ろに隠れ、上着のボタンをかけようとしている様子を写している。(……)やがて一人の兵隊が言った。「さて、こいつらをどうしようか」「ばらすのさ」別の兵隊が答えた。M-60の発射音が聞こえた――とロバーツは言っている――そして、私たちがそこへ戻ったとき、彼女たちも、子どもたちも、全部死体になっていた。」戦慄の朝Horrible Morning より
2005年07月04日
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終日の雨で、予定が大きく狂ったが地元の図書館へ通う。以前にも述べたが、こちらの図書館はとんでもなく快適である。周囲をみわたしても何もない地域に、忽然と近代的な建築物があり部屋からスクーターで飛ばせば眼と鼻の先という具合である。今日はきれいな司書のお嬢さんが3人とも浴衣姿でご苦労さま。七夕シーズンに、おさだまりなのだろうか。貸切同然の図書館に、美人3人と男性職員がいる。地域町村の財政を思わず心配してしまわないでもない。大阪市中央図書館では、平素順番待ちしても席があたらない視聴覚サービスも堂々と利用ができて、空間的にも大阪のそれより遥かにくつろげる。保温瓶に熱いコーヒーを入れて持参しているから、ゆったりと映像に集中することができる。次回は、黒澤明の「七人の侍」でも通してみてみようと考えている。「日本人はどこからきたのでしょうね」と、編集部のH氏がつぶやいたのも、どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。しかしこの列島の谷間にボウフラのように涌いて出たのではあるまい。 この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている。街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである。 「湖西のみち」司馬遼太郎/街道をゆく実は、週刊朝日連載時には追えなくて、これまで司馬遼太郎「街道をゆく」には途切れ途切れでしかあたれていない。テレビで放映されたNHKスペシャルの「街道をゆく」も、シリーズ冒頭の竹内街道と蹈鞴製鉄の回はいつぞやの正月にみて強く感銘を受けた記憶がある。幸いこの地域の図書館にすべて揃えられてあるのは何事にも耐え難い喜びである。さっそく、シリーズのはじめから視聴させて貰う事にした。このシリーズは、いずこの図書館にも装備されていると思われるので是非皆さんにも機会があれば視聴いただきたいと思うのである。凡百の図書を読むことではけして得られない。ビデオモニターで再現されてかろうじて伝わるという種類の感銘もある。端緒の「楽 浪(さざなみ)の志賀」は、この湖北から距離的にはともかく感覚的には隣町である。余呉、今津、志賀はすでに自分がスクーターで巡回しているが、この県でも有数の景観が素晴らしい。たったビデオ2巻をみおえただけで、積年の謎がいくつも解き明かされる。日本という国の成り立ちに、司馬遼太郎はNation でもCountryでもなく、まさしくLand がどれほど重い意味合いがあるのか、について畳み掛けてくる。ここでもやはり「水」の惑星における日本という立地が謎の核心なのだろうと思われてならない。鉄は国家なり、といってみても所詮米の裏づけあっての鉄だ。日本で鉄の普及がこれほど過酷な米作に同伴して生産の北限にいたるまで踏査されたにいたっては、雨水を含めて日本の水脈のあまりにも豪奢な恵まれかたが、いかばかりか大きく寄与してきたのは間違いない。司馬は、実に説得力のある語りで示してくれている。1997年の放映時にみた感銘も深いものがあったが、その後に種々体験したことを重ねあわせても、その述べる処はわれわれ民族の本質に触れるものを俯瞰させて貰えたという思いがした。滋賀が、韓国半島と密接な関係にある地域であることはさまざまな体験で知悉しているつもりでいた。父方の祖父も祖母も土葬で、七十年代に野辺送りしたものだけれどその葬儀に際して、奇異におもわれた習俗がいくつもみえてきて。司馬の指摘を受けてあれが「儒礼」のなごりだったのだ、と改めて知る。白村江の海戦の大敗北があって天智天皇、天武天皇の治世に韓国半島の政治亡命者たちが積極的に受け入れされたという情況がこの国にあったらしい。その受け入れに滋賀の地が選ばれたというのは今回司馬が指摘するのをナレーションで耳にするまで、得心のゆく説明を聞いた事がなかったのでようやく鱗が落ちる思いがする。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しても、その壮大な歴史回廊に日本帰化亡命者たちの末裔達がどのように奔走したものか、興味は尽きない。白髭神社・滋賀県高島町 全国に同名の神社があるらしい。七世紀に日本に渡来した政治亡命帰化人の信仰祭祀したものとの事。
2005年07月03日
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自分に額面どうりで感じられる「代表的日本人」とは、誰だろう。60年代に知った高橋是清や、原敬には感じるものが多い。だが、偉才過ぎて背丈が見えないところがある。同じ頃に知った相馬黒光は、そのデカさは凄みがあるぐらいだけれど、女性であるという点で多少は理解のよすががあるような気がしてしまう。母親は、南方戦線ブーゲンビルで戦死した伯父から京都の街でカレーを生まれてはじめてご馳走になったと繰り返し言っていた。そのカレーは他ならぬ相馬黒光と夫君相馬愛蔵の新宿「中村屋」が起源だろう。カレーライスを食べる毎に、餓死同然で戦死した伯父のイメージと相馬黒光の足跡は、どこでどう交叉する筈もないのだけれども自分の中ではこの世の謎解きのように繰り返し浮かんでは消える。なにが君の幸せ、なにをして喜ぶ?わからないまま終わる・・そんなのはイヤだ忘れないで夢を こぼさないで涙だから君は飛ぶんだどこまでもそうだ、恐れないでみんなのために愛と勇気だけがともだちさああアンパンマンやさしい君は 行けみんなの夢守るため(アンパンマンのマーチ作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし 編曲:大谷和夫)1875年、明治天皇の侍従、山岡鉄舟は知人の木村安兵衛謹製のあんぱんを水戸藩下屋敷は花見の席で天皇に献上されるようにはからったという出来事があったらしい。ことが決まった。日本を象徴し季節感も表現できる桜の花を、あんぱんのヘソにと意匠されたものがもっともクラシックなアンパンの姿だという。明治天皇は木村屋のアンパンをいたくお気に召し、以後宮内庁御用達という事になったらしいのだ。しかし、これも結構巷間に知られていないだけで実に偉大な「事件」である。文字どうり「和魂洋才」を体現する、その可能性を庶民レベルで象徴的に味わう事が始まる。一方、童顔の愛らしい相馬黒光女史は1892年。トンでもない御嬢さまがいたもので当時アメリカに一方的に傾斜する宮城女学校の教育方針にたてついてなんと堂々のストライキを決行、指導者として奔走する。これは1969年の高校生であった自分にも体感で分かる面があるが、途轍もないパワーだと思うわけだ。あげく自主退学。両親をもオルグしてフェリス女学校、明治女学校と転戦する。1997年に愛蔵と結婚して、信州の旧家の内儀に修まるかと思いきや、夫婦揃って東京へ上京しては学生相手にパン屋を開く。この商売、おそらく旦那の愛蔵の手腕ではなく、その成功は大いに黒光の技量らしい。新宿「中村屋」となっては、ギリシャ系亡命露人にロシアパンの手法を学び、はたまた修道院を追われた某には、牧場で奉職、そのフレッシュミルクを製造させ、露人からはチョコレート菓子を製造せしめて、中国人からは中華饅頭の秘伝を開示させる。そして、チベットの僧に邂逅すれば月餅のスキルを授かる。ほどなくあの有名な英国植民地下のインドから脱したインド独立運動の闘士でボース(Rash Behari Bose)を英国政府の追跡や英国より要請を受けた日本政府の苛斂誅求を被っていた処、玄洋社の巨魁 頭山満の庇護。匿った頭山満の意を受けて相馬黒光がボースの隠れ家として「中村屋」を提供したのは有名な話。まさしく本格的インドカレーが日本に根づく、これがその起源という。考えようによっては、われわれ日本人がカレーライスを食するのは反米、反英インド反植民地闘争への日本人民の連帯の意思として興ったブームだったのだといえなくもない。なるほど、アメリカと戦い、アメリカの戦闘機に殺されかけたわが母親がカレーライスを作るたびに伯父に供えて感謝をしたのはどこか通底をしている機微があって、不思議はなかったのかもしれない。※「人は、戦争で死ぬために生まれてはこない」2004年5月5日 ↑クリックでジャンプします。革命家ボース(Rash Behari Bose)は、のちに相馬黒光と愛蔵の娘で長女の俊子と結婚。この海を越えた侠気は、どうも途轍もなく一途なものと映るのだ。戦後、自分は大阪の闇市から叩き上げたわが両親を眺めてきた。生きて行くだけでも精一杯という壮絶な姿。肩越しに目撃してきた体験を踏まえていえば、新宿「中村屋」こと相馬夫妻の実行したことは、市井の一介の商売人の担える限度を遥かに越えておりもはや「国士」とでも呼ぶほか無い。戦後、いかにも我々は軟弱になったものだ。
2005年07月01日
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