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今日は、湖北のTUTAYAで黒澤明の「生きる」を借りてみた。過去にこの映画をなんどかテレビでみたのだが、その度に爆睡してしまった。ほとんど記憶がない。実は、今日もDVDでみかけては寝入ってしまった。よほど他の黒澤作品と較べて縁がないのだろうか。明日も、もう一度挑戦してみよう。この映画は、実は村上龍や、田中優子、中島みゆき、松阪慶子、鳴海清とか。自分を含む同年の面々が生まれた年だ。昭和30年代とは、わずかに空気が違う。敗戦直後の混乱期の澱みがまだそこここに残っていたし、半島では朝鮮戦争の硝煙が掻き消されずに漂っていた時代である。戦争を知らない、とはいっても戦争の名残は周囲にはどっぷりとあった。生まれた大阪では、いまや松下興産らが完膚なきまでに痕跡を一掃。高層ビル開発をしたために見事に消されてしまった。もっとも官有地をタダ同然で「民間」払い下げを受けた胡散臭いものだ。余程戦争の傷痕を視野から市民の眼から隠したいと考えたのだろう。60年代の後半までのかなり永いあいだ、無残に爆撃された砲兵工廠の焼け跡が国鉄(現JR)の環状線(前身の省線時代も長かった)の車窓から眼をそむけるべくもなく大戦の名残を示す風景として日々何十万人もの通勤するサラリーマン達に無言で迫ってていた。あの記憶の幻の中に失せた廃墟こそ、開高健や小松左京の小説の世界。いまは思い起こす人、記憶する人すらいないのかもしれない。映画「生きる」を、冒頭からみているとそんな時代のサラリーマンの一人である筈の主人公が、すでに地方公務員であるがゆえに「為さず」を決め込む卑屈でさもしい日常描写から始まる。あれから、50年以上の時間が経過し、いまだに適切なかたちを得ず。公務員の無為無策と闇給与、不法な公金流用問題を糾す声はかぼそい。いまや「官僚王国解体論」を述べていた元郵政大臣が、なんのことはない財務官僚の走狗となって、隠された巨大な不良債権の収拾のために、郵貯資金を、「民営化」の美名のもとまんまと国民を誑かしアメリカ資本のヘッジファンドへ生贄として差し出そうとする。黒澤映画に、この国に民主主義などついに根づかないとの危惧が作品に色濃く反映していると感じるのは、わたしのみなのだろうか。
2005年08月29日
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小泉純一郎氏の巧みな変わり身の術は目を見張るものがありますよね。 Blue Rose Cafeさん 小泉純一郎氏の著書「官僚王国解体論」というのは、あの米百俵の逸話を披露して4年前に話題になったものです。面白いですね。彼は、変わり身というのか当時から知り抜いていた小選挙区比例代表という制度を反主流派つぶしに徹底して使い込んでいるという感じです。文句をいえば「次の選挙では公認しないぞ」と脅しをかけられ、しかも資金を徹底的にしめあげられる。それでも立候補はできるだろうが、なにしろ当選するのはただ一人なのが小選挙区制度だ。バックについていた組織を剥奪されたら、いかに実力のある政治家といえども苦しくなるに違いない。こうなると、小選挙区制度で、一党が単独過半数をとったあとの党内反主流派は辛い。おそらく主流派の圧力に耐えきれずに、どんどん脱落していくだろう。そこには中選挙区制度のなかで反主流の活動をしてきた場合とまったく違った苦しさがあるはずだ。はっきりいって党内民主主義もへったくれもない。つまり、ひとつの政党が単独で過半数をとるのも考えものということだ。しかし、過半数をとれなければとれないで、これもまたおかしなことになる。要するに選挙結果がどうであっても、どう転んでも良い方向に行くとは思えない。 小泉純一郎 「官僚王国解体論」彼、小泉純一郎がその著書ではっきりと書いていますが、この選挙制度は、民主主義の健常な発現とは縁もゆかりもないものです。そもそも国民が投票行動で落とした人物が、比例区からシレっとした顔で国会議員に滑り込むとか、はたまた知らぬうちに他の政党に走るなど。国民の投票行為の尊厳など無視し続けている。その典型が、小池百合子でしょう。第16回衆議院選挙で、日本新党の比例名簿登載者の2位であった小池百合子氏は、のちに新進党へ走り日本新党に託した有権者の投票意思を新進党に持ち込んだ張本人だったわけですが、いまや自民党の「刺客」として奔走している。皆さんが、たとえ投票しようが棄権しようが、この国は特定政治家が好き勝手にやりますよという、そういう宣言が小選挙区比例代表制というものの本質なのでしょう。そのように、小泉純一郎 「官僚王国解体論」には書いてあります。
2005年08月28日
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私は、なぜこれほどまでに小選挙区比例代表制度に反対したのか。それは、いくら小手先だけで選挙制度を変えても、政治改革にはならない。いやむしろますます政治が悪くなることがわかっていたからだ。(とくに、当時の政府与党と自民党の間で妥協の末に合意した選挙制度には問題が多い。) 小泉純一郎 「官僚王国解体論」小選挙区比例代表制を、憲法違反の疑い(憲法第四十三条)すらあると述べていた政治家がかつていた。ほかならぬ、元郵政大臣 小泉純一郎氏である。いまや、その小選挙区比例代表制をテコに「政敵」の駆逐に腐心する。われわれは、まことに面白いドラマをみせられることになるらしい。さて、身辺多忙につき当日記次回は早くても日曜日の夜にでも。
2005年08月24日
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良識、モラル・・・本当に考えさせられます。自分の良識とモラルは自分のものだからわかるものの複数形になっていく場合の良識だのモラルだのが全然見えなくなる・・・個別の価値観のせいか?!それでも納得がいかないことが多い・・・ ちいちいぱっぱさん (2005/08/23 11:18:19 AM) 司馬遼太郎の「街道をゆく/オランダ紀行」にふれて、はじめて司馬のそれらのシリーズの視野の凄さがわかった思いがした。できれば、直接それらにあたっていただければと思う。それまで、亀田郷土地改良区の事務所で佐野藤三郎理事長の話に愕然とする思いがあったり、排水機場や鳥屋野潟をめぐって低湿地をそれこそ手作り同然に水田に変えて行かれた這うような労苦を司馬自身が立ち尽くすように目撃してまわったシリーズの回なども痛烈な思いが湧いた。それにもましてオランダ紀行には、強い触発があったという気がした。実は、人権問題の基礎にオランダという国の成り立ち、すでにその萌芽があったという事は平素よほどの歴史通でもなければ意識されることはないように思う。 なぜ、オランダは繁栄したか、それは自由があったからだ。 17世紀の最盛期に生きたスピノザの言葉である[2,p101]。 オランダは、オレンジ公ウィリアムの私心なき自由への志を中 心に結束して独立と自由を勝ち取り、繁栄を実現した。 しかし、その後は「ペイラントの自由」を振りまわす商人や ブルジョワ政治家が、同盟国イギリスを怒らせ、国内の分裂抗 争から、急速な衰退を招いた。 「オレンジ公の自由」がオランダの独立と興隆を築き、「ペ イラントの自由」が分裂と衰退をもたらした。自由にもこの二 つの種類があること、そして国家の命運はそれらに大きく左右 されることをオランダの盛衰史は教えている。 オランダは、その後、共和制から君主制に移行する。現在の 王室はオレンジ公ウィリアムの子孫である。オレンジ家は代々 ウィリアムの私心なき自由独立への志を継承し、国家に奉仕し てきた。その精神はまさに国民統合の象徴にふさわしい。 「国際派日本人要請講座」↑クリックでジャンプします。少々、長いがぜひこの講座のメールマガジンを通読願いたい。高校時代の世界史の復習になる。あのスペインに代表されるカトリック教圏に対して新教国オランダが、その勢力を打ち破り、その後大英帝国によって勢力を塗り替えられるという壮絶なドラマが進展する。その時代に、オランダがなにゆえ大英帝国になり損ねたのかという歴史の謎にもつながる話題として有名な、「ペイラントの自由」と呼ばれる矛盾にみちたあの法と権利をめぐる緊張が、いまにいたるわれわれの良識とモラルの煩悶にまで貫かれた轍をつくっているように思えるのだ。法と倫理を結ぶ結束帯に希薄な人間関係が、なし崩しに信仰ならぬメデアの奔流へたやすく委ねてしまえば、国家の命運すら揺らぎかねないという我々の今を照らし合わせて、沈思すればそんな歴史の教訓も、どこか眼の前の出来事に似通ったものがあるような気がしないでもない。海岸線の思想と言う言葉とともにこれをみるととたんに潮の香りがしてきました。フランス語で「低い国」といいますがそのとおりですね~私は山育ちで、でも残念ながら山猿といえるほどでもなく新潟の海岸線まで1時間ちょっとのところですが、やはり海岸線の思想というのはどういうものなのか全然分かりませんね~こちらの新聞に群馬県の上野村に住む内山節という人の書いたものが連載されてますがその人の書くものは「山の思想」というような感じがしますから、そういう意味で海岸線の思想というのが具体的にどういうものか興味がわきます。 マリィ ジョー ♪さん (2005/08/23 08:24:01 AM)「海岸線の思想」をネット検索を行うと、驚くべきことに「海岸線の思想」が登場する。ほかならぬこの楽天日記である。それはさておいて、ここでハッタリめいて海岸線の思想をことさら神秘化してみせたいわけでもなく、そんな半可通の知ったかぶりはけして得策ではない。そもそも、海岸線の思想を口にした森崎和江の思いは、この日記で取り上げてはじめて話題になったわけでもなく、たぶん体験的にこれまでも多くの識者が繰り返し話題にとりあげてきた、どこか普遍的な内容を踏襲しているに過ぎないもののようだ。オランダは堤防の町でもあります。スパーンダム(Spaarndam)には、堤防に裂け目があるのを発見し、一晩中指でふさいでこの町を洪水から救ったハンスブリンカー少年の像があります。この逸話はアメリカ人のMary Mapes DODGEによって小説化され、日本でもマンガ化されています。「Denis&淳子のフランス便り」オランダは、国土が海よりも低い。小学生でも知っている、身をもって堤防の決壊を決死の覚悟で守ったHans Brinkerのあのエピソードが如実に語り継ぐように、「世界は神から与えられたが、オランダは人間が作った」という誇らしい近代の足跡は描写する言い回しに透かしてみられるように、やはりわれわれ一人ひとりの気高い精神と肉体でしかささえきれない特有の質を帯びているように思う。それが、思想語としての「対幻想」から森崎和江感じ受け止めた感覚の意味世界とどこかで符合するのであれば幸いに思う。
2005年08月23日
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「ふつうの女の子なのに、カメラがいるから悪いんです」 安藤 美姫自分の娘のような17歳の安藤美姫が、カメラに追いかけられ才能のおもむくままな演技をさせてくれないストーカーに対して怒っている。怒りが淡くて、可愛いのだけれど、その気持ちの思いは妥当でそれほどヤワなものではないのだろうと、つい思ってしまう。人権を延々と眺めて、話題を蛇行させてしまっていたが、けして無駄な余談をしてきたというつもりはない。人権をどうするのか、というわれわれに横たわる問いかけは、たぶんさほど遠くない将来に峻厳な事態の中で決着に向かうような気がするからだ。どこかで、たぶん私達には法規を超えた逞しく命の息遣いの感じ取れるモラルを取り返す方途を求められているような気がする。どうにかして、かならず実現をさせなければならない。モラルは、モラル。法律は、法律と相互に交差することもなく平然と分離しているわれわれの社会。それは他人の視線に同意を探そうとする、空虚な内面に忍び寄ってくる退廃だ。カメラごしに世界と周囲をみるのを止めよう。カメラ越しに見える世界だけが堅牢で、正しいという我々の思い込みや無意識に疑いを向けよう。自分自身を、もしかしたら空虚なこだまのような存在かもしれないと一度は疑ってみよう。長い間、歩きながら考えてきてどうしても纏まりに辿りつかないでいた散漫な思考がlalameansさんの日記を拝見してから、なぜか次第に核心を得て煮凝りしてきたような気分がする。今日も、曇天を散歩しながらこの時間が過去30年の頭の中のガラクタのSimplificationになるのだろうか、などと考えてみる。「方法叙説』(Discours de la Methode)第一章良識( bon sens) はこの世で最も公平に分配されているものである。というのは、誰でもそれを十分に与えられていると思っているので、他の全てのことではめったに満足しない人々でさえも、良識については、自分が持っている以上を望まないのが普通だからである。この点で全ての人が誤っているということは、ありそうにない。むしろこれは次のことを証明している。すなわち、よく判断し、真なるものを偽なるものから区別する能力、これが本来良識または理性と呼ばれているものだが、これは全ての人において生まれつき相等しいこと、したがって、我々の意見がばらばらであるのは、我々のうちの或る者が他の者よりもより多く理性を持つから起こるのではなく、ただ我々が自分の考えをいろいろ違った道によって導き、また我々の考えていることが同一のことではない、ということから起こるのだということ、である。というのは、良い精神を持っているだけでは不十分であり、肝心なことは精神をよく用いることだからである。最も大きな心は、最も大きな善行をなしうるだけでなく、最も大きな悪行をもなしうるのであり、また、ゆっくりとしか歩かない人でも、いつも正しい道を取るならば、走っている人が正しい道から逸れる場合に比べれば、遥かに先へ進みうるのである。司馬遼太郎「街道をゆく/オランダ紀行」で、教えられたオランダ。よくよく考えてみれば、デカルトは自由を求めてオランダへ逃げる。オランダという国の意味を司馬に教えられるまであの「方法序説」が、人権宣言だということに遂に気づかず仕舞いだった。情けない限りである。われわれが生きているこの社会は、資本主義社会ということになっている。その起源は、司馬の意見ではオランダで始まる。われわれは、デカルトの「最も公平に分配」されているという信仰にも近い、良識を根拠に、しかしその良識もわれわれを育んだ地域の圧倒的な規模の語られざる先人たちの営為が背景に依存しているのだということを瞬時も忘れぬように。そう方法序説は、語っているように思った。それが市民社会のひとつの始原のすがたであって、デカルトの思想はそのようなオランダを揺り篭として受け入れた。実は、ここに加えて森崎和江の「ほんとうに助かりました」にあるように、オランダが海との闘いで成立した国家であることに思いが至る。ああ、この方は対幻想というのを分かって生きていらっしゃるなと思ったのね。存在から感じとれた。ひょっとしたらこの方は海辺で育たれたのではないかしらという感じがしてね。潮の時間というか、海辺の時間というか。海辺には独特の対意識というのがあるんですよね。上野;え、どういうことでしょう。森崎;こんな話でいい?海辺っていうのはもう全く違うんですよ。生命にあふれていて。私、海岸線の思想というものを書きたかった。 見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子森崎は、男と女を語っているのだが、その一方で「対幻想」という言葉の解釈に寄せて男と女の成立する背景について述べているのだと気づいた。アルミサッシュと断熱材に取り囲まれた閉鎖空間に男と女のドラマが存在するはずがない。考えてみれば、当たり前のことを、ようやく気づかされた思いがする。実は、われわれの倫理だの、モラルだのというものも本来生命にあふれた生活環界なしに育つはずがなかったのだと思う。とすれば、われわれが呼んでいる実定法上の人権とはなにか、と気づくまであと一歩だという気がする。オランダ海岸線遠景
2005年08月22日
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森崎和江;吉本(隆明)さんんというのは大変ありがたい方で、対幻想という言葉をくださいましたでしょう。本当にたすかりました。上野千鶴子;助かったってどういう意味ですか?森崎;私も同じようなことを、何度もいろいろと書いてきましたけれど、でも吉本さんは集団とか個人というものと対幻想を並べてお書きになってるでしょう。これはとても助かったんですね。上野;「共同幻想論」(河出書房新社刊)が出たのは1968年ですけれど、出た当時にはお読みになりました?森崎;難しくてね、きちんと読んでないんです。でもたった一度お訪ねしたことがあるんですよ。いつだったか忘れちゃいましたけど、ある編集者の方がこの近くに吉本さんがいらっしゃるから引き合わせましょうとおっしゃったの。こわいからいいですって言ったんですけど、すぐそこだからって。ご自宅でちょっとお話ししてすぐおいとましましたけど。お会いして本当によかったと思いました。ああ、この方は対幻想というのを分かって生きていらっしゃるなと思ったのね。存在から感じとれた。ひょっとしたらこの方は海辺で育たれたのではないかしらという感じがしてね。潮の時間というか、海辺の時間というか。海辺には独特の対意識というのがあるんですよね。上野;え、どういうことでしょう。森崎;こんな話でいい?海辺っていうのはもう全く違うんですよ。生命にあふれていて。私、海岸線の思想というものを書きたかった。 見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子「助かった」、「ほんとうに助かりました」と、くりかえす森崎和江に、自分は瞠目した。「ああ、助かった人がいるんだ」、と。あれは、いったい何だったのだろう、という思いがいまやフランス語訳も存在するという「共同幻想論」。その呪文のような言葉に纏わりついていた。が、助かった人の声をきけば、その意味の所在がみえてくるような気がするからだ。吉本隆明自身の解説や、彼の信奉者らの述べるところは皆韜晦のようなものにみえて、いかがわしい印象がすることが続いた。森崎自身の述べているものは、結局論というよりも、ある種の啓示めいた「感覚」なのだと感じた瞬間だ。それならば、自分にも特別違和感がない。実は、彼女のこのような感じ方は、その後の彼女とその周囲の党派の闘争に参加した際に勃発した「事件」で、彼女の倫理を揺るがす根拠として強く働いたもののように思った。わたしは、倫理の突き詰めた姿が根源的にこのような森崎の「感覚」のようなものであれば、むしろ理解できる。それがもしや森崎をして助かったと述べさせる「対幻想」という表現を繰り出した感受性と、重なるのだといわれれば納得できるような気がする。森崎は、子どもを孕んだ自身のからだを語ることばがないことに気づき、唖然とした感覚をもつ。そして、産む、生まれるという人間にとっての根源的な経験をめぐる大きな領域が空白のまま残されていることを発見するのである。そののち、森崎は、ある事件をきっかけとして、自身のセクシュアリティがからだから奪われていくという経験をする。エロスを取り戻すために、森崎は、自分自身のセクシュアリティとさまざまな他者のセクシュアリティを受けとめる、長くつらい心の旅を遍路するのである。(Takaira Kenichi氏のサイトより)エロスは、個々の男、女の肉体的な感受性や反射などに停滞する閉じたものではなく、やはりそれを支えている、感覚の共同体が背景に深く根ざしているのだという気がする。そこでは、自分のような者にすら、経験を踏まえて自分なりの感銘が湧く。逆に、言えばいま時代にカルトへ傾斜する心の病理のようなものも合点がゆくのだ。どこかで森崎などの年代において体験されたという。馥郁と立ち込めるそんな海辺の生命感と時間の中で育ち、育まれたエロスの水源など望むべくもない。遥かに隔絶した都市の環境。われわれのアルミサッシュと板ガラスの内側に閉塞感を抱きながらテレビの画像だけに脳をもってゆかれてゆく枯渇した魂に、渇望される擬似的なエロスの代位のようなもの。それは明らかにカルトの跋扈する現実を反照させるものを含んできたような気がする。一度もお会いした事もない、ミュージシャンのlalameansさんを推量して実に恐縮ながら、ふと思ったことがある。繊細な表現者として都市生活者ではありながら、誰よりも何処から氏に満たされていたそのエロスのリソースは、濃密に氏にとっても、Simplificationされてあって、男性でありながらかつて森崎和江などがはからずも体験したような、哀しい「個」への強い引き戻しの轍を不本意に踏襲されるようなことがあったのかもしれない。一連で、そんなことを思った。森崎;私たちの仲間の妹さんが犯されて殺されたことがあるんです。そのことについて、私と一緒に暮らしてくれていた谷川(雁)と、どっちともとても衝撃を受けました。私、ほんとうに辛くて。これは他人事ではないわけでしょう。自分自身の内部と共感しているものが殺されたわけですから。ですから闘いのプロセスはみんな中止しても、この問題をもっと掘り下げたい、私たちの思想として、共通のものが生みたい、そうしなければ、今まで暮らして来たことがだめになってしまう、そう思いました。それは谷川も分かってくれたようです。けれども、女性の問題というか。対というか、性というか、そういうことを問題にする状況ではないほど、当時の私たちの生活は、さしせまっていたんです。炭鉱閉山の闘争のまっただ中で、警察に取り囲まれていたし。集団で支え合ってきた闘争を、それは表面的に後退させたり、内面化したりするわけですね。そうすると力がフッと弱ったりする瞬間が出てくるわけでしょう。それを大変懸念したんですね。 見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子われわれの日常根城とする企業社会は、本来エロス的な結合が組織内に横溢していることはマレである。かろうじて、製造業や加工業者などでは、永年の筋肉蓄積と、それを支える地域や一族にそんな「見果てぬ夢」へ向かう共同性が漂うといった幸運も残っているかもしれない。しかし、残念ながらわれわれの企業社会は、そんなエロティックなものと、もっとも疎遠な殺伐としたものが大半である。われわれの倫理感覚を、大きく狂わせているもの。それは、間違いなく企業社会の反エロス的な矮小化された、「生きるため」の賃労働によるものだという気がする。「食うこと、飲むこと、産むこと、などなどは、なるほど真に人間的な諸機能ではある。しかし、それらを人間的活動のその他の領域から引き離して、最後の、唯一の究極的目標にしてしまうような抽象がなされるところでは、それらは動物的である。」「人間は一つの類的存在(Gattungswesen)である。……人間は自己自身に対して、眼前にある生きている類に対するようにふるまうからであり、彼が自己に対して、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在に対するようにふるまうからである。」(93-94)「「人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が1)直接的な生活手段であるかぎりにおいて、また自然が2)人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体とするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわちそれ自体が人間の肉体でないかぎりでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の[交流]過程のなかに留まらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。」(94) カール・マルクス『経済学・哲学草稿』
2005年08月21日
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あきば系 たしかに酷いと思います。女の子には人権も知性もない描かれ方で。実社会で恋愛のすばらしさを体験できない男性のはけ口って感じ。ぜひ検証してくださいませ。読むの楽しみにしています。(2005/08/19 08:50:28 AM) ladybird64さん ボクも先日秋葉原に買い物に行った時、DVD売り場をひとまわりした時に、「アダルト」の方も覗いてみたのですが、あいかわらずというか、以前にも増して「陵辱する内容」が8割方になっていたことにビックリでした……。「普通に男女が愛し合う」というあたりまえの内容では売れず、一般的な青少年男子は燃えないと決めつけているのでしょうが、「AV世界の中」のみだけで純粋培養されていく男をリアルに想像するにつけ、「ボクの憤り」は終わることがないのかもなぁと……。(2005/08/19 11:00:36 AM) lalameansさん 最近lalameansさんのサイトでの女子高生コンクリ詰め事件の紹介がありlalameansさんはそのことで精神的肉体的にかなりのダメージを受けておられる様子でした。私はその事件のことも読み、その事件自身のすごさにも驚くとともに、そのことでそんなに感じ入ってしまう男性もいるのだと知り驚きもし、またうれしいような気もしました。実を言えば私もあることでそういうことになってしまっていたからです。(2005/08/20 02:05:52 AM) マリィ ジョー ♪さん 実は、すでに「あきば系」を念頭においてこちらの日記では相当費やしてきたという記憶がある。たとえば、「不倫と経済社会6」である。ladybird64さんのご期待にそって、ふたたび三度と検証してみたいという風に思うものだ。自分は、偶然その渦中で大阪日本橋などを直接まのあたりにしてこの仰天するような様相を眺めて嘆息を通り越し、津波のような人波の行く先を考えてみたいと思うようになった。家電店が、いつのころからかあきば系の渦にまみれて完封状態になったものか、知らぬこととは云え同時代のわれらに無関係ではすまされないという事態になりつつある。ただ、遠回りのようだがlalameansさんやマリィ ジョー ♪さんの貴重な証言coming out をなんとか大切に受け止めて本題に添えて行きたいと思う。心的外傷Post-traumatic Stress Disorderとは?繊細な心と身体が耐え切れず脳に激しいダメッジを被ることがある。何故か。実は、PSTDという呼称はきわめて新しい。おそらく日本の家庭にカラーテレビがやって来た、その時代に始まった提起ではないだろうか。70年代、アメリカ。ベトナム帰還兵が、続々とアジアから本国に引き上げた。当時語られていた、Post-traumatic とは、「ベトナム復員兵的な」というニュアンスだったらしい。では、太平洋戦争時代は?朝鮮戦争では?当然、どうように人々は傷ついて心に深く負い目をとどめていたものと思われる。しかし、PSTDがアメリカでそのように取り上げられ、次第に性愛での過誤や強姦などの傷害を被った女性たちにその関心の向け方や、心的な施療方法として注目され始めたらしい。それにしても脳は、実に繊細でストレスに弱いものらしい。 1. I thought about it when I didn't mean to. 2. I avoided letting myself get upset when I thought about it or was reminded of it. 3. I tried to remove it from memory. 4. I had trouble falling asleep or staying asleep, because of pictures or thoughts about it that came into my mind. 5. I had waves of strong feelings about it. 6. I had dreams about it. 7. I stayed away from reminders of it. 8. I felt as if it had't happened or it wasn't real. 9. I tried not to talk about it. 10. Pictures about it popped into my mind. 11. Other things kept making me think about it. 12. I was aware that I still had a lot of felings about it, but I didn't deal with them. 13. I tried not to think about it. 14. Any reminder bought back feelings about it. 15. My feelings about it were kind of numb. これらの項目を、個々に検証すれば心の痛手の指標として輪郭が浮き上がってくるのではないか、というのが心療の現場での手探り感触のようだ。しかし、たとえば脳の一時記憶を停留させる海馬などという器官が相当手ひどく打撃を受けて傷つくなどということが生じるという。体験の集約としても哀しいSimplificationというしかない。なぜ、そういう事が起きるかわかりますか?それは、我々の社会がモラル。倫理感覚がメデアに依存している社会だからです。モラルと倫理がメデアから自立している社会では、けしてこのような事は起きない筈なのですよ。モニターに映っているものは錯視かもしれないのにあたかも神のようにふるまう。誰も怪しまないのです。 「不倫と経済社会6」へ
2005年08月20日
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われわれがコップでありながら底が抜けており底が抜けていながら、内容を内部に意味したり、意味が外部に抜け落ちたり、はたまたそれをコップでひろったり、がついていけないのです。お手間を取らせますが、、、ここを理解したいと思います。 キャッシュフローゲーム0726の会さん下手な喩えを持ち出して混乱を招いたようで恐縮です。では、間違っているかは存じませんが、私の知る限りを平易に述べさせていただきます。意外なほどわたしたちの身辺には単純な「謎」があるもの。すべての知的関心は、実のところわたしたちそれぞれのは「自覚」という単純すぎる現実にどのような真実が横たわっているのかを解明することだったりします。そもそも、何ゆえに私たちという人間存在は高性能な精密機械そのものでは無いのでしょうか。機能の高度な入力、出力に過ぎないと思っていても、スルと漏れるものがわれわれの本領ではありませんか。「我思う、故に我れあり」「自覚」とは、高校時代にならった数学の言葉で馴染みのあるものを言えば演繹と帰納のどちらでしょうか?ずばり、帰納なのでは?(ぼちぼち7203さん のご指摘を受け訂正しました。)、私たちの脳と肉体は膨大な規模の知覚刺激と感覚与件dataを適当に端折ってその要約的な部分を見事に処理PROCESSINGしていませんか?知覚の入力INPUTは、恐ろしくバラエティに富んではいます。しかし、周知のごとく、私たちの脳によって処理されているものは意識などといってもその能力は、最高でも毎秒数バイトだという意見も耳にしました。意識の行いは、案外大胆な要約化で、自己抽象とか難しく言ってみても、要するにSimplificationなわけです。これが、反転して法や規範、はては体系としての国家などに化けてゆくものら。それらのパワーを足元で支え、人間の知覚のふるまいに常にくりかえされてゆく挙動なのです。その極相では、精神の働きでありながら物質力とも呼べるほど、堅固な存在としてわれわれの現前に登場するわけです。コップという容器の中の中身のようであったものが、次第に硬質な物質力のようなものとなり、容器である人間をのりだして物質界にある存在のように自働律で現象を始めかねません。たとえばあのマルクスならば、それを疎外と呼んだりしたかもしれませんね。疎外とは、e・strangeでしたかね?奇妙なものに変えてしまわれる運命のようです。国家が、われわれの心の産出した「幻想」だというのは、そのあたりから来た気分を込めているのかもしれません。
2005年08月20日
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幻想を肥大化これが難しくて私にはわかりにくいのですが、、AVなどの映像のことでしょうか?(2005/08/19 03:50:04 PM)Re:守るべき人権の「所在」(08/19) 儲かる仕組み請負人さん 幻想という言葉に、吉本隆明の「共同幻想論」発刊以後の「幻想」という言葉のあまりにも濫りな流布についてゆけず自分自身には、こわばってしまう処がある。あえて「幻想の肥大化」という言葉は、用いていない。理由は、個人的なものだ。ブレンターノなどの指摘で知られるように「意識」は、常になにものかについての意識である。意識がわれわれの延長、もしくはわれわれ自身(内部)であるとすればかならずわれわれの外に「なにものか(対象)」Objectを想定して、しかもその外部についての意識としてのみ成立するという不思議さを持っている。それがわれわれ自身にふりむけられた時には、われわれはわれわれ自身がわれわれ自身を「対象」Objectとすることによって、個々の人間には、自身を内外に分け隔てるというこころの避け難いクセについてゆくしかない。世の中では、われわれは好むとこのまざるとにかかわらず他者との関わりなしには生きて行けない。生れ落ちて、他者が存在するという感覚を経験し、再び自身の意識に引き戻してゆくに際して「自分」と「他者」の隔絶に気づくまでの夢のような世界は、ふたたびわれわれに死がおとづれるまで体験されることはないのかもしれない。幼児が母親を当初自分自身の延長として(自身の内部)として体験するという事は、精神分析学の登場以前から繰り返し語られたモチーフである。フロイトは、意識に構造が存在することを指摘し、夢のような体験の世界も現実に目覚めた意識の体験と、生きているわれわれの体験としては構造的な差異があるという風に考えたらしい。具体的には、その差異は自分をさも他者であるかのように読み解きされた体験と、他者の存在を感覚できずに、また同時に自身の存在感を自覚できないでいたまどろみの中での体験の記憶とが交差しながら日々の私たちの心の生活は、社会の中に浮上したり、自身の内面に「引きこもったり」を反復しているらしい。従って,何気なく使用している意識という言葉には、どうやら意味の複合があると考えた方が良い。つまり、パソコンになぞらえていえば電源が入っている「自分」外部へアクセスして、情報(知)を求める「自分」、そしてネットという外部に向けて情報(知)を漁りにゆく自分の「履歴」に顕れる「自分」の三態である。普段わたし達は、これらを厳密に区分して生きてはいない。しかし、こころに異変が生じた場合、これらの区分を精緻に追い求めてゆかねば修復することは難しい。そのように考えた人たちが、こころの修復についての経験からこころをさまざまに読解してきたというのが今のわれわれの現実である。このさまざまな読解は、平素意識されてはいない。しかし、なにげにわれわれが意識という言葉をもちいる時、実は膨大な規模の過去の読み解きをデーターベースとしてわれわれの内部、外部に持ち合わせていると言えば御理解頂けるだろうか。実は、「孤独な意識」などと言ってみても、実は意識の孤独さについての膨大な先人(わたし達自身を含む)たちの意識の活動が産出したデーターベースの前提の上に、瞬時も疎遠ではいられないのである。難しい話になってしまう理由は、われわれがコップでありながら底が抜けており底が抜けていながら、内容を内部に意味したり、意味が外部に抜け落ちたり、はたまたそれをコップでひろったり、という複雑な動きを繰り返して成長をしてきたからである。しかも、その過程で意味同士が相互に編み上げられて巨大なデーターベースに化けてもいる。それにもかかわらずわれわれ自身は相変わらず底の抜けたコップのような、貧弱な意識をとりあえずひとつしか持ち合わせがないのである。高校時代、教室に密かに持ち込まれた吉本隆明の「共同幻想論」は、通読してみての限りでは呪文めいた言葉の用法に驚かされた。だけれども、実は用語の複雑さのみならず、われわれのこころの複雑さに体験的に十代の自分が十全ではなかったのだと改めて思う。われわれは、いかに個々で孤独そうに振舞っていてもその意識の瞬間に、つねに膨大なデーターベースが起動しているのを知っていてもよい。とりわけわれわれ日本人は、かつて膨大な規模のデーターベースをあたかも水や空気のように「善き」ものとして着こなしてきたらしい。われわれの倫理も、法も、法の発現としての国家も、みなそれらデーターベースの所為である。われわれが幻想といわれて、眩惑させられるのは当然な反応なのであるが記号と納得して「共同幻想」とわれわれ自身の意識の履歴として「個幻想」を措定してその無限の広がりのあいだに、男と女に対として固有の「対幻想」を心の領域として措定した試みは、まだなにについて言及されているのかを理解すらできなかった高校生の自分にも、周囲の多くの他者たちを波立たせている画期的な提起だったのだという記憶だけは残っている。 (つづく)
2005年08月20日
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田中萌子さんの著書を紹介し始めてから、皆さんの日記にご紹介を頂くことが多くなった。最近リンク先のシャルドネ☆さんのところで「人権」が話題になっていて考えさせられている。そんな話をしたところ(大阪府知事のノックが選挙カーの中で女子大生にわいせつな行為をした話など)娘はすかさず「若い女に人権はない!」ときっぱり一言。 マリィ ジョー ♪さん心に太陽を、くちびるに歌(とダジャレ)を!目指せ 世界平和!いつもキビキビとコメントをいただけるマリィ ジョー ♪さんに、わたしの与太った話題の振れ方におつきあいを頂き、あまつさえ「考えさせ」てしまっては恐縮至極。恥ずかしい限りである。自分的には、永年頭の中で整理できないで埃まみれになった話題をハタキ掛けして出し入れしてみたくなっただけなのである。M&Aの経済手法としてLBO(leveraged buy-out)などというものがあるが、今回まさしく自分的にはlalameansさんの優しいお人柄から発した落胆や、失礼ながらED事態についての言及に強く触発される思いが湧いたのであって、間違ってもこの日記の常連的な読者の皆さんに「考えさせてしまう」などという大それたたくらみはまったく無い。自分ほど、啓蒙家にふさわしくない人物も珍しいと思っている。まさしく、lalameansさんの嘆息を梃子Leverとして、自分の過去の好奇心の軌跡を丸ごと買取りしちまおうという魂胆になったというのが真意であって、尊大な人権家でもなければなければ当然国家主義者ではさらさらない。しかし、「若い女に人権はない!」という一言は少々動揺をもたらす。実は、時折あの秋葉原や大阪日本橋を散策する。そうすると呆れるほどこの時代には女性に人権を与えたくないと言う動機で、妄想を肥大化させ続けた男達の空怖ろしい情けないような規模で蕩尽される記号消費に助勢するような視覚文化が隆盛になっていることを知っている。今晩、暇があればそのあたりについて知る限りを捻出してみたい。
2005年08月19日
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実は、平行してこの盆休みに図書館で上野千鶴子の「性愛論」を読み進んでいた。私が着目したのは、本能の毀れたような論を多産する上野千鶴子の語り口にではない。彼女の著作に登場する森崎和江の発言に喰いいってしまった。上野千鶴子は、「深夜、勉強するためにコ-ヒ-を飲むと爆睡してしまい、ハ-ブティを飲むと目が覚める」などと間の抜けたことをいうタレントの遥洋子を典型とする、都会生活で本能が空洞化しかけている我執の強そうな擬似インテリには持てはやされている学者だ。自分は、学者としての優秀さやキレ味はともかくも、おそらく上野千鶴子自身も本能が深奥部で毀損しているのだろうと踏んでいる。彼女がかかげる個の部分は、彼女の学問的業績やその主張の光彩で維持されているというよりは、むしろ端緒的には彼女の保有する不動産資産部の経済的余剰で維持されているのではないかとすら邪推をしている。マルクス主義フェミニズムだか、はたまたその可能性だとかなんだかはこの際あまり私自身の関心には映らない。どうか東京大学で、本能の毀れた学生らを、恫喝しまくっていてくださって結構なのである。自分の生活と意見に交叉することは、この世の果てまで在り得ないからだ。従って、ミリタントな女権拡張論者の放言のようなものについて、この際はどうでもよかった。自分が「性愛論」で眼に留まったのは、この種の女性の尊厳を犯す事件についての視座というのだろうか、女流の感覚の所在が知りたいという期待もあった。なんとあの森崎和江との対談が掲載されている。その箇所に遭遇しては、よりによって上野千鶴子の「性愛論」の中に収載されている事の面妖さに戸惑いも驚きもあった。どうやら森崎和江は、上野千鶴子の師匠に当たるものらしい。ところがこの師弟関係とやらが、自分の観るところどう転んでも師弟らしからぬので困惑するのだ。両名は、往時に吉本隆明の「共同幻想論」に触発されたと述べている。脱線迷走続きで恐縮だが、マルクス主義者の吉本隆明が上野千鶴子ら団塊の世代に与えた影響はさすがに知っている。自分の年齢では、刊行された1968年といえば高校2年、革マル派活動家がクラスに持ち込んだその初版は自分の周囲でも一体なにごとか、という気がしてたじろいだ記憶は40年後のいまでも明瞭に存在している。それほどの関心が払われた書物も昨今珍しいと言う気がする。書籍が、時代の精神を担い得たという眩しい時代の出来事だった。その森崎和江が、あの谷川雁のつれあいだった事はかろうじて知っていた。ただ彼女がなぜ当時の闘争の現場から心身離脱してゆくことになったのかについては明晰には記憶していなかった。いまWEB上では、Takaira Kenichi氏という方が森崎和江の代表作「いのち、響きあう」に書評をされているので通読されたい。著者の森崎和江は、『地の底の笑い話』の上野英信や谷川雁たちとともに、筑豊の炭坑地帯に住み、そこで人間が生きるという営みと効率性・利潤を求める近代のシステムとの相克を見つめつづけてきた。この本は、森崎がまだ幼い頃にもった二つの疑問、「なぜ大人は生まれたばかりの子を殺すのか」、そして「なぜ男は、女の子を殺すのか」という重く暗い問いを、自らのからだにふれながら、問い進めた本である。わたしが印象的だったこの本の一節を紹介しよう。「ある日、友人と雑談をしていました。私は妊娠五か月目に入っていました。/笑いながら話していた私は、ふいに、『わたしはね……』と、いいかけて、『わたし』という一人称がいえなくなったのです。/いえ、ことばは一呼吸おいて発音しました。でも、それは、もう一瞬前の『わたし』ではありませんでした。」 森崎は、子どもを孕んだ自身のからだを語ることばがないことに気づき、唖然とした感覚をもつ。そして、産む、生まれるという人間にとっての根源的な経験をめぐる大きな領域が空白のまま残されていることを発見するのである。そののち、森崎は、ある事件をきっかけとして、自身のセクシュアリティがからだから奪われていくという経験をする。エロスを取り戻すために、森崎は、自分自身のセクシュアリティとさまざまな他者のセクシュアリティを受けとめる、長くつらい心の旅を遍路するのである。今、森崎は70歳を過ぎ、この『いのち、響きあう』という一冊に、おんなのからだ、エロスからとらえた、「いのちのライフサイクル」論とでもいうべき、思索のことばを残してくれた。子どもが一つのいのちであることが、これまでの歴史のなかでもおそらく最も軽視され、奪われている今、いのちとエロスという観点から人間のライフサイクル、世代継承をとらえなおすことが切に求められているように思う。(Takaira Kenichi氏のサイトより)Takaira Kenichi氏の述べる「ある事件」とは、闘争内部で生じた女性同志に対する強姦殺人を指すものと思う。当時森崎は、伴侶であった谷川雁とのあいだに存在した円満な男女のかかわりを維持できなくなったものらしい。彼女が述べる吉本隆明への傾倒は、なるほどと思わせる部分があった。ぼちぼち7203さんに共感を頂いていただいた「個」的な課題の担い方についていえば森崎和江などの場合、むしろ「個」に向かう志向について深い躊躇が抱かれたという心的体験の証言者だ。彼女は、私のような救い難い実存主義者ではない。彼女は、彼女の側の当然として、やはり「対(ペア)」なもの、たとえば家族とか、男女とかいう単位(あるいは拡張された「対幻想」概念の具現化のような生活を夢想された時代があったらしい)に深い拠り所の可能性を手繰りだそうと試みたものらしい。闘いに勝つためには、田中萌子やわたしのような実存主義者の方が機敏でいられる。闘争をただがむしゃらに勝ち抜くためには、徹底した個の貫徹が求められるという体感は、おそらく吉本隆明も退けはしない自明さがあると私は思う。親も兄弟も、家族ですら、闘争の渦中にはけして深い理解など求めようもない。しかし仲間や、家族を桎梏だとする闘い方は、森崎にはない。闘争の渦中にあって、俄かに彼女を捉える煩悶へのこだわりこそが森崎和江の思想の核心だと感じた。上野千鶴子は、なぜそんなにそそっかしいのだろうか。彼女は、上野千鶴子とは相当隔絶した存在と直感する。本能の毀れた女が、なにやら家族を本質的に呪詛し忌避するというようなフシは森崎和江には感じない。森崎は、自分の母親とほぼ同年である。わたしは、森崎和江には田中萌子の「闘い」についてどのような感慨を抱いたものか耳にしてみたい気がした。
2005年08月18日
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2005年08月17日
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Re:「権力者」のセクハラ犯罪と人権(08/10) 田中萌子さんの場合、告発罪だったので裁判での復讐が可能になったのだと思います。近代国家にとって犯罪を犯す可能性の高い人物ほど利用価値が高いという現実があります。ウソつきはドロボウのはじまり、そのドロボウによる国家がご近所にはうようよ居ます。今のところ、悪い人によって国家を担ってもらっていた方が、安全だという現実もあります。しばし、一緒に悩ませていただきます。 作家2507さん (2005/08/13 07:59:52 PM)思わず笑ってしまった。作家2507さんのおっしゃる「現実」については、さすがに理解できる年齢である。また、この時代ほどはっきりとそれらの実力に依存せざるを得ない局面に向かい時代は過去60年中でいまや極相(MAX)に差し掛かってきている。現代の日本人がこれまでになく、鋭敏になっていることも事実なのだろう。お盆休みのあいだ、ご一緒に悩んでいただける作家2507さん。左様におっしゃっていただける当のものを内省していた。田中萌子的な闘いは、その著作どうりであれば作家2507さんの言われるような「現実」に徹頭徹尾封殺され、追い込まれている。翻弄されながら辛くも可能になった復讐。これは氏ご指摘のとうり、告発罪であったことが不幸であると同時に勝利条件の一つだったのかもしれない。さもなければ、告発そのこと自体に成立条件が纏わりついて来る筈だからである。さりながら、彼女の闘いはおそろしく孤的な闘いである。辛勝。彼女が描写しているとうり検察官との出会いも相当幸運な要素だったと思わずにいられない。その検察官自身が逡巡し、躊躇もした事が伺える。奇跡に近い。裁判をして、辛勝、とのこと。著者は、悩む。世間との軋轢に。けど、結局自分を大切にするのは、自分しかいない。事に気がつく。そこに、注目していらっしゃる☆シャルドネさんに共感する。特に最後の行、家族にも理解されないとか書いていらっしゃるのであるが、これは、本当だ。特に最後の行、家族にも理解されないとか書いていらっしゃるのであるが、これは、本当だ。経験。というものは、あくまで、個人的であり個人の歴史をそっくりそのまま、家族と言えども認識は不可能であるから。しかも、よしんば、その個人を、徹底的に愛していたとしても愛する方は別の人間であり、別の歴史を持って生きている。その人にも両親がいて、兄弟がいるかも。違う家族があり、そして出会うわけだし。個人の歴史を背負って生きていっている限りその個人の総体の、認識領域全体をなぞる事など到底出来はしないのであるから。 ぼちぼち7203さんLast updated August 15, 2005 08:35:31田中萌子さんが、著書「知事のセクハラ私の闘い」を出版してからも彼女への誹謗中傷は続いている。現実を考えればいかに「自分を大切にするのは、自分」を守る事が難しいのかがよく分かる。少なくともわが母親や家族などに、それを期待するのは絶望的だと個人的には痛感している。われとわが身に置き換えてみれば、田中萌子さんの孤独さは、ほぼ終生続くのだろうと痛ましい気持ちになるわけである。ぼちぼち7203さんのような理解者は、実は練達の士。または品質の良いインテリであって、凡そ世間の多くの人々はしばしば一顧だにしないものである。また、作家2507さんのように一緒に悩もうなどと仮にも表明できる人は立派である。魂の何処かに余裕がなければ言える事ではない。・・・ところが、地元湖北の図書館で予想もしなかった書籍に遭遇する。次回、この書に沿って脱線することをお許しいただきたい。テーマは、ここのところ国家論の近傍で迷走しているらしい。
2005年08月16日
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実はボクも、あたりまえのように「人権は誰にでも平等に大事」だと刷り込まれて育った一人でして、そこから「人権を制限せねばならない人はいると思うので、誰にでもというのはいかがなものか?」という考えに変わっていった自分に、ちょっと怖さを感じつつもあったのですが、シャルドネ☆さんのこのところの「日記」を読ませていただくことによって、怖さを感じる必要はないのだなと思えてきました。引き続きじっくり考えていきたいなと思っています。被害者の方が悪くなってしまう「権力者のセクハラ犯罪」については、つねづね憤っていました。田中萌子さんの本、ボクも読んでみます。(2005/08/13 08:26:21 PM) lalameansさん 啓発を相互に与える、というこの楽天日記などの交信方法は実に愉しい。余談であるが、茶道家で日本滞在歴20年というマーガレット・プライス女史の著書の中に intimate という語彙についてのこだわりが披瀝されている。反日感情も底深いと思われるオーストラリア出身のこの女性が、茶道を起点にして日本文化を俯瞰している著述が面白い。いくら立派なお屋敷に住んでいても、大きな部屋で一人ぽつねんとしていたら、居心地はよくないでしょうね。だから、平安時代の日本人はお寺の堂のようなあけっらかんとした部屋を小さく区切る工夫をしたんですね。屏風と結界、のちには襖と障子。みなそのための工夫だったと思うんです。人間ってプライバシーを求める時、ほどよく結界に囲まれていた方が、あるいは親しい人間同士で輪を作っていた方が安心できます。茶室はこの人間の気質をよく把握したスペースです。マーガレット・プライス「ひめやかな空間で」彼女の言うには、茶道の起源はキリスト教宣教師らに遭遇して異国の文明に接した日本人がクリスチャンの儀式である「聖餐式」で執り行われるあの神の血と身体を拝受するというシンボリックな作業で、パン菓子を食べ、ワインを回し飲みする。あれを取り入れたものが、茶道なのだという。あの世で千利休が聞いたら激怒するのか、微苦笑するのかは分からないが、なかなか面白い説だと思う。最近日本の若い世代が、狭い茶室で濃茶を回し飲みするのを忌み嫌うという傾向があると慨嘆していて彼女からすれば、茶道のintimate な醍醐味を「不潔」だと無粋にも撥ねつける時代相に、やんわりと言及しているのだ。こちらの日記にも、アクセスがほどよく減り続け、ひたすら話題に intimate な醍醐味を感じさせて貰えるのは、ご縁あってlalameansさんから与えられたテーマの秀逸さというものだろう。「お前いくつや?」その場の雰囲気を断ち切るように、知事が聞いた。「二十歳です」あと一週間もすれば、二十一歳の誕生日を迎えるけれど。「そりゃ、若いわ。まだ子どもやなあ。子どもにはわからんやろ」知事はコーヒーを飲みながら何かを考えている様子で、しばらく沈黙が続いた。「前の知事は悪いことをいっぱいしたんや。だからわしがその知事を辞めさすために知事になったんや。まあ、子どもにはわからんやろうけれどな」ふーん、ほんまか?心の中ではそう思ったけど、「そうなんですか。すごいですね」口ではそう言っておいた。「そうや、知事はお金のためになさっているのではないんですよ」「知事はすごいエラい方なんですよ」知事へのお追従じみた言葉が続々と出てくる。「知事っていうのはなあ・・・」知事は自慢話を延々と喋りはじめた。聞いているとすごい権力を持っているように思えてくる。「知事って、そんなに権力があるんですか?」私は思わず聞いてしまった。周りは、私の言葉に冷や冷やしている。「そりゃ、すごい権力やで。大阪の公務員は何人おると思う?それすべてがわしの支配下や。警察もそうやし、教職員もわしの思い通りにできるんやぞ」「えっ、警察もですか?すごいですねぇ」 田中萌子(仮名)「知事のセクハラ私の闘い」よりかつて、江戸時代にいまで言えば大阪府知事側近だったぐらいの直参の旗本で,元町奉行所与力という人物が市中で大砲をぶっぱなすという壮絶な事件を引き起こした。大塩平八郎の乱である。のちに文豪森鴎外などが小説「大塩平八郎」として取り上げるほど、大事件の後世に与えたインパクトは激甚だったと思う。二十歳そこそこの田中萌子の行った「告発」は、権力のきわみである大阪府知事が、実態でゴキブリと大差ない人物であることを暴露した。はたして後世の文豪は、この事件を大塩平八郎の蜂起と並ぶほどの義挙として描ききれるのであろうか。冗談のように思われるかもしれないが、大阪府民235万票をからげて圧勝する現職知事を、非力な一介のセクハラ被害者が筆舌に尽くし難い困難をどのようにしてか乗り越え、ついには見事に有罪へ追い込み、しかも執行猶予判決を述べた川合昌幸裁判長に対しても遠慮なく鋭い判決批判を込めた「控訴願い」をしたためている。権力者大阪府知事の卑劣かつ独りよがりな人権侵害行為に、なけなしの胆力でたじろがず異議申し立てをつらぬけた。そんな強靭な生活と意見を抱く個人が存在したことについて。同時代人として深甚の感謝を述べたくなる。「intimate な」ものに、相互の敬意と共感がなければただの Sexual harassment であると言う当然の証明を行った。個人的には、この時代の文豪たちに、この事件の意味が斟酌される事を求め訴えたい。残像感という言葉がある。刺激がなくなっても、身体にその感覚が残る現象のことだ。知事の右手が私の身体を離れたあとも、身体はいまだにその嫌な、汚された感覚が残っている。私はパニック状態で呆然としていた。「おまえ、きょうは生理やったんやな。しんどいはずやわ」彼は生理の血のついた人差し指と中指を舐め、左手で私の胸を触り、言った。「おまえになあ、誕生日プレゼントになあ、ヴィトンの鞄を財布買うたったで。十三日あけてあるから取りに来い。メシでも食いに行こう。連絡先はあとで渡すわ」 田中萌子(仮名)「知事のセクハラ私の闘い」より
2005年08月15日
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今日は、盆休みで大阪の実家に戻っているので手短に。この田中萌子(仮名)の著書「知事のセクハラわたしの闘い」は、2度も読み直ししました。彼女の著書という以外に、彼女の行いの報告としてこの書は素晴らしいものを多く含んでいます。彼女は、けして一本調子で闘いに勝ち上がったわけではなく、恐ろしい水圧に耐え抜いての辛勝だったということを告白しています。いじめや虐待が悪いのは、いじめられているうちに本人でさえ自分を嫌いになってしまうことだ。いじめられる原因が自分のどこかにあるに違いない。こう思ってしまう。自分を嫌いになった人間は自信をなくす。いろいろなことがうまくできなくなる。私は自分を好きでいたかった。弱く欠点のある自分でも、好きでいたかった。そういう生き方を当たり前のように、選択してきた。忘れてしまうぐらいに当たり前になっていた。告訴したのもその延長だった。だったらなぜ、今回もそういう選択をしないの?自分を嫌いになりたくないんだろう?怯えている自分に、何度もこう言いきかせた。誰になんと非難されようとも、私は自分を信じたかった。悪くない。たとえ自分にどんな欠点があったとしても、害を加えるほうが悪いにきまっている。「これぐらいの被害ならまだ軽いほうじゃない」「ほかにもっとひどい目に遭った人がたくさんいるのよ」「ノックが可哀相」私を非難中傷する言葉も多かった。そうかもしれない。彼らからみれば。でも傷を背負って生きなければならないのは、この私だ。裁判に負ければ、非難を受けるのも私だ。だとしたら、私は自分が納得するまでやってみよう。自分を好きでいるために。ずっと好きでい続けるためには、自分の信じたことをやるしかない。田中萌子「知事のセクハラ私の闘い」角川書店よりわたしは横山ノックに投票したこともあります。彼の捺印した事業認定書を2本も貰いました。わたしは、どちらかいうと恩義とまではいわないまでも彼の府政下では恩恵には浴した方の人間です。しかし、彼女の闘いと同じ質の「志」を抱いて闘ったという自覚を持っています。妥協への誘惑も、不安も、迷いも、怯えもすべて目的と方法は違えどもも同じ時代の空気の中で通過したこと。闘いの相手はひとつの権力だったという意味では近似したものを感じます。彼女の肉声には、魂の深いところで共鳴するものがあります。さらに、肉親や家族にもけっして理解されなかったという点では田中萌子さんと自分は酷似している気がしました。
2005年08月14日
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lalameansさんの投げかけで、自分の中でも重いスイッチが入った。実は、人権についてまとめて考えた事はさほど無い。理由は、人権をよほど価値的に高いものと「刷り込まれて育った」世代だからである。こちらの楽天日記ならば、郵政民営化の話題でもしていれば、アクセスも増えるだろう。しかし、いま自分はlalameansさんの不快について深耕することの方に、より自分の興味が向かうのを感じる。これはけして俗流の話題ではない。話題そのものに貴族性がある、そんな気がする。身分としての貴族ではない。話題にすること自体を、しばしば忌避される。または話題にすることを躊躇させる、そんな歯ごたえのあるテーマのひとつ。その理由を裏返された貴族性という風に感じたのだ。人権問題の大半が、近代になり国家が形成されて以後帯び始めた「近代的法律思想」の関係性に起因するということは間違いない。人権は、これまでのところでは「国家により認められた人々の権利」の域をでない。国家により認められた、という部分は国家が介入するかぎりでの権利という意味である。およそ我々の振る舞いにおいて国家が介入してこない瞬間などとは、思い巡らせてもほとんど想像できないほど日常において希少である。まして、被害、加害の瞬間には、立ち会ってもいない国家がかならず介入してくる。その骨頂は、「可罰権」であろう。耳慣れない言葉なので、検索をいれてみたが、どこにも定義がみあたらない。「刑罰権」は、みあたる。この「可罰権」とは、「刑罰権」を行使するのか否かを判断する権利といってよいのではないか。しかし、刑罰権を国家が占めている社会では、この刑罰権を行使するや否やという煩悶そのものが社会に広く存在しない。われわれが今議論している復讐が何に抵触しているのか、といえばこの国家が唯一独占している「刑罰権」について哲学的な考究の対象としようという、畏れ多いふるまいを行おうとしているわけだ。国家自体が、唯一独占している刑罰権を行使するべきや、否やなどという「可罰権」を国家になりかわって思惟するなどという事が、わたしが言う貴族性を帯びた論議の理由なのである。これは大学で法学を専攻してきた、などという程度の自負で踏みこめるものではない。彼らの述べている法律は箇条についての精通に過ぎないからである。わたしは、そのような法的関係に精通しているという程度の人士らを越えた法哲学の可能性について言及しているのである。復讐の類は、仇討ちも含め一切認められていない。これらは単に「認められない」だけではない。この禁を犯した者を国家は罰する。その根拠は、道義でもなければ倫理でもなければ人間性でもない。国家が一元的に握る可罰性を犯したからである。この禁を犯す者、あるいは犯したくなる者が、ほとんどの場合「被害者」であることは容易に想像できるだろう。ここでは、被害者は構図の外に置かれるどころか、犯罪者として処罰されることになる。「近代的法治国家の原理的弱点」呉智英呉が指摘することは、自分には極めて興味深いものがある。われわれの基本的人権は日本国という国家が付与したものである。それゆえに、われわれの社会の刑法は、この国家の可罰権を国家にゆだねたまま、いわば与えられたものとその起源については見事に無意識で生きていくわれわれである。そのわれわれに対して付与されていると信じ込んでいたその人権が、なんと国家の可罰権についての信任とほぼ同じことなのだと知るわけである。この原理に、矛盾はないのか?自ずと貴族性を帯びるまでの議論の果てに、国家が占有している可罰権を誰何する我々は、ほぼ犯罪被害者ほどのきつい隘路に封殺されてようやく発想できる、この厳しさを考えてみて欲しい。いや、楽天日記ではlalameansさんなどの格別繊細な人士以外にそれを継続して追い求めて行く者は皆無だろう。問題の困難さ。実はそこにある。いま一冊の本を読んでいる。「知事のセクハラ私の闘い」田中萌子 角川書店あの元大阪府知事横山ノックに対して、民事提訴、刑事告訴の原告となり一矢報いた女性のまさしく稀有な証言である。読み始めて中途で置くことができないほど、終始強い迫力を備えている書である。当時、再選間違いないと言われていた巨大な地方自治組織の頂点に位置する権力者である横山ノックに対して、なぜか「大阪のネエチャン」が痛撃し、これを艱難の末に粉砕した。驚くほど貴族性のあるテーマを、実は庶民的な素朴実感が担っている。その時代証言の貴重なひとつと言うべきであろう。
2005年08月10日
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脳という神経の塊はそれ自体で「心」を紡いでいるわけではない。脳は胎内にいた頃から外界や自己内部(例えばその人に固有の記憶)の刺激に反応し続けている臓器で、その反応群の集積の中から、その脳を持つ人にとって最も効率の良い現実把握の仕方が紡ぎ出される。これが「心」と呼ばれるものだから、それは錯覚の上に築かれた幻想に過ぎない。ところが内外の刺激の一部は、このパターン化された現実把握法の規定からはみだすので、辻褄合わせの錯覚や幻想が絶えず必要になる。時には辻褄の合わせようがない事態にも出会うわけで、不安とは、こうした際に生じる警告音のようなものである。私たちの日常は辻褄合わせの失敗やその予測に満ちているので不安は尽きないが、それは内外の現実との相互交流を絶やさないという点で健康のシルシとでも思えばいい。しかし不安が強烈すぎて辻褄の合わせようもないという場合もあるわけで、そうなるとパニック発作のような全身全霊を動員した無駄な空騒ぎが起こる精神科医、斎藤学氏のエセーに眼がとまる。氏の論考は、パニック障害について言及したものだが、その語り口にはふるい昔読みふけった心理学書などの中に横溢していたおぼつかなげな手探り感触の枚挙と大差ない姿勢から少し人間の心の現在に踏み込めてきているように印象しないでもない。しかし、その理由の大半はかつての心理学とは比較にならない規模の社会病理がわれわれの身辺で表面化し、心理学の周縁にある人間生理の諸学が一斉に人とその振る舞いを科学する必要が生じたためなのかもしれない。いずれにせよ、私に面白いなと思われたのは人それぞれに備えられた臓器である脳が「最も効率の良い現実把握の仕方」とやらを紡ぎ出しながら、その効率でもってしてもはみだす「内外の刺激の一部」が存在するという斉藤学氏の、レトリックである。かつてフッサールは、意識とは「なにものかへの意識」であるとして志向性と呼ばれる意識の姿を述べた。意識は必ず何かに向かうとし、この性質を志向性と呼んだ者は、フッサール以前に起源があり中世ヨーロッパの修道院などにキリスト教教義問答としての集約にながれたスコラ哲学に起源がある。初期スコラ哲学のテキストを提供した、ペトルス・ロンバルドゥスは志向性を外界に向けられる第一志向と、志向する意識そのものに志向された第二志向に分類した。フッサール現象学は、この伝統でいえば「第二志向」を踏襲したものということになるのだろうか。ブレンターノは、志向性こそが人間の精神の明確な特徴であるとしている。われわれの心の日常には、つねに「はみだす」内外の刺激に満ち満ちているがそんな過度な好奇心のとどのつまりか、もたらされた不安の愁訴ともつかない刺激が避け難く訪れるという宿命がわれわれの「明確な特徴」なのだと。おかしいのは、実は心療課題とはこの「パニック障害の治療とは、不安恐慌発作を起こす以前に持っていた現実把握のパターンを、より適応的に組み換えることである」という指摘である。これを治療行為と呼べるのは、医師である。ひらの市民にとり、「妥協」と呼ばれる諦観が大多数を占めているのは体験的に知っている。スコラ哲学とは、別名煩瑣哲学ともいう。簡単なことを煩瑣に語って飯が食える。そんな職業を多産するというのが、まさしく現代社会の「明確な特徴」なのかもしれない。
2005年08月09日
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今日は、小さな「奇跡」を体験した。テレビの江原啓之みたいな派手なことではないが、自分的には結構、われとわが魂にくる立派な奇跡だったりする。仕事で、H市にでむいた。その庁舎のエントランスに、おなじみの広島原子爆弾の悲惨な出来事を拡大写真にしたパネル展が行われていて、改めて画像の一つ一つの備えている気迫のようなものに打たれて眺めていた。そのパネル展を続けて眺めているうちに、ふと、眼にとまったパネルの記事に眼が釘付けになった。滋賀県バーチャル平和記念館↑クリックでジャンプします。パネルで、はじめて母親が殺されかけた守山の空襲が7月30日だという事を知った瞬間だ。母親が殺されていれば、当然わたしはこの世に生きてはいない。それを知ることは自分がいま生きていることの当然の義務ですらある。死者の数も、やはりきちんと数えられていた。H市の総務課へ、すかさず携帯から電話をいれてみた。さっそく担当のNさんが電話口で、こちら側の申し出を理解してくれた。パネルの片隅に、滋賀での空襲について生存者や体験者の声を収録したいという活動があるのだと記されていた。だから、自分は母親が繰り返し生存者の所在を知りたいと述べてきて、当時の辛くも生き地獄から生還できた真相を生きているうちに誰かに伝えておきたいという動機を抱いていることについてNさんに伝えた。Nさんは、この企画展は、滋賀県の依頼で県下の自治体を巡回しているのだ、と言う。Nさんが責任をもって滋賀県側の担当者に連絡してくれるという。戦後、60年を経てようやくわが母親の積年の思いは、「かたち」になる可能性が出てきたというものだ。母親は、あの殺戮で他界された方のご家族に、出会えるものならば出会って当時の事を伝えたいと望んでいる。それが叶えられれば、彼らの身代わりにこの世に生を受けた自分にとり何よりの喜びだ。※「人は、戦争で死ぬために生まれてはこない」2004年5月5日 ↑クリックでジャンプします。※「捜せるのだろうか? 」2005年7月04日 ↑クリックでジャンプします。
2005年08月08日
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インターネットの自殺サイトで誘い出した無職女性(当時25歳)に対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕された大阪府堺市鴨谷台(かもたにだい)1丁、派遣会社員、前上博(まえうえひろし)容疑者(36)の供述に基づき、府警河内長野署捜査本部は7日、同府河内長野市の山中を捜索。同市加賀田の林道下斜面で、東大阪市に住む近畿大3年の男性(21)とみられる白骨化した遺体を発見した。 同府和泉市の山中で見つかった神戸市の中学生(14)とみられる遺体に続き3人目の遺体で、事件はネットを悪用した特異な連続殺人事件に発展した。↑クリックでジャンプします。lalameansさんと、キャッチボール会話のような交換日記風な試みを続けていたらまたしても「特異な連続殺人事件」の幕開きである。わたしが、人権について言及したくなったのはこのような殺人者に対して何故人権の「最低の鞍部」The parabolic lower side を保証してやらねばならないのか、という素朴疑問からであった。前上博のような人物を、更正させるとか、改心させることに意味をみいだすという悠長な社会は、われわれにとって相当住みづらい社会なのではないかという気がしてならない。この社会の「住みづらさ」は、アメリカからトコロテンのように基本的人権の高邁な精神を有り難く拝領しておきながら、居心地の悪さに文句を言っているような後ろめたい思いはするのである。しかし、いまや居心地が悪いどころでは無くなってきているような気がする。もし、この事件が不起訴になったらどうだろう?不起訴事件も、われわれのみならず被害者を苦しめる。もし、ここで前上博が精神障害者だったと立証されたときには、はたまた精神的疾病の疑義があるとされたる時には、39条に抵触するなどと検察官の判断で起訴すらされないのである。(心神喪失及び心神耗弱)第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。/刑法第39条「実行の時に適法」であったとは、この事例では刑事事件の範疇ではなく医療の範疇だとみなされた場合などを含むらしい。不起訴になり、加害者は措置入院ということになるのだろうか。恐ろしいことに、措置入院対象となった犯行の中には酩酊状態や覚醒剤使用者の犯罪についても前例があるという点である。他者に強引に覚醒剤を注射されたのではない。自らの自由意志で覚醒剤を購入し、自ら投与してあげく殺人に及んだ者をこの国の刑法は、どうやら庇護するものらしい。裁判官は、その際に裁判所で「貴君は、本来ならば死刑である。さりながら、39条の規定によりあなたを減刑せざるをえない」などと宣言するという。心神衰弱と認定されて、過去の強姦などを含む前科6犯あり、老人の夫婦を惨殺した実行者を裁判官の判断でも、死刑相当ながら減刑したというのである。根拠は、日本国の刑法だといわれて、われわれは絶句するしかない。この国では、加害者からいかに距離を置き逃げ隠れするのか、が最優先課題なのである。
2005年08月07日
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さて、人権である。基本的人権は、尊い。我々の年代では、基本的人権と言う言葉を乳兄弟のような思いとともに育っていった。それゆえに、「現代っ子」と名づけられて戦前派の老人達からある種卑しまれた。この卑しまれたというニュアンスを理解して貰うのは相当難しいかと思う。つまり、我々はそれら日本の近代を背負ってきた老人達から基本的人権を授けられた、というよりはやや卑しまれながら、銀の匙を銜えて生まれてきてしまった、というような罪深さを感じないでもなかった。「国民は,すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は,侵すことのできない永久の権利として,現在及び将来の国民に与へられる。」(第11条)基本的人権の永久不可侵ところが、昭和30年以後に生まれた後輩達からはすでに罪深さの実感は消えていたように思われてならない。自民党55年体制、まさしく昭和30年日本の高度経済成長を支えた生活保守主義の台頭である。労働集約的な大都市工業生産の勃興に戦後日本の経済成長が大きく依存する。憲法に保障された人権とは、もっとも都市部で急速に拡大する中間層第三次産業従事者の家庭や子弟に、もっとも享受されるシンボリックな意味あいを持ち始めたのだ。戦前派の老人達が、わたしなどの戦後世代を「現代っ子」と忌み嫌った理由は、そこにある。理念としての「基本的人権」は、この頃から本来理念がもちあわせるべき光輝さを鈍く曇らせ始めたように思われてならない。これは自分なりに小学生時代から考えてきたところがある。すでにこの日記に長らく追い求めていただいた方々には、おなじみの主張だと思うが、この人権が想定している「人」は、田園で農業生産を行い、工場の現場にあってさまざまな手工芸品を製造する「工作人」ホモファーベル(道具をつかう猿)Homo faber のような存在の限りでの人をイメージされているのではないだろうか。いま自分は、単身赴任で仕事と身辺雑事、すなわち炊事・洗濯・部屋掃除とすべてを一身で担っている。これは都市部での自分の生活とはまったく違った視点を自分自身にもたらすものがある。たとえば、脳は全範疇で活発に動いていることだろう。大阪においては眠っていた、視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚は間違いなくきびきび動かざるを得ない。ようするに、都市生活者でいる時点よりは「全体的生」のイメージに。少々Homo faberに傾斜してきた。これは新しい発見をもたらす。人権とは、このように19世紀まで近代「人間が世界の中心として雄弁に語るべきだ」と盲目的に信頼をされていた「人格」と、その産品についての信仰にも似た敬意か、傾斜かによって裏打ちをされていたものの法的な表現に過ぎないという気がしている。しかし、いまひとびとの人格の現在は大きく変化をしているということは間違いない。「不倫と経済社会」9/最終回↑クリックでジャンプします。すでに男の筋肉が正しく社会の中で通貨として機能しているとは私には思えない。K1や、プロレス、体育選手たちの筋肉というものは都市的に機能づけられた幻想生産のためのスキルと道具であって、間違っても我々の生活活動の一次資料生産を目的として鍛えられたものではない。サラブレッド系の馬がいくら美しく早く走ろうと、それらはたとえばバフマン・ゴバディ映画「酔っ払った馬の時間」(2000年イラン製作)などに登場するクルド人の子供たちが搬送しようとする生活資材を山越えするためには、けしてつかえない筋肉をそなえている、それと同じことだ。国家を持たない世界最大の少数民族といわれるクルド人の過酷な生活と経済を、まちがってもサラブレッドの四肢が支えられるものではない。筋肉に、機能づけられたものが大きく違っている。それが現代というものの本質だ。われわれの基本的人権が、想定しているもの自体がわれわれの置かれている状況とも大きく相違しているという事は、われわれの脳裏のどこかにかすかにでも銘記している必要があると自分は思っている。私は、いま理念として人権の抑圧を述べようとしているわけではない。しかし、人権を手放しに礼賛する立場に違和を感じるものだ。刑罰を考える時、実体としての人権を俎上にのせることを一切考慮せず、ただ刑罰の様式と内容をどのように重く、峻厳に行使しようとも犯罪被害者にとっての清算に、その人権を温存するという思想そのものが大きく立ちはだかるということは間違いなさそうである。たとえば、少年法はいくら改正し、厳罰化されようと事実として減少傾向はみえない。そもそも犯罪統計が、当局にゆだねられている限りその信憑性は全く無いと私は思う。犯罪を実行した者に、「箔」(はく)がつく社会とはなにか。その正体とは何か。その正体とは、犯罪者の人格権、人権にこそ求められる。犯罪者に人権が存在するという以上、犯した犯罪に「箔」が付与されることを社会は如何ともしがたい。箔とは、言うまでもなく犯罪行為に人権という最低の社会性が存在することにより、帯びるものだからである。 (つづく)
2005年08月05日
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lalameansさんへの回答になっているのかどうか、続けてきた話題。ビジネスの反対極に話題がふれているように印象されるが、考えればこれも法の中の法。本来、人の世の法を考えて誰かが「かたち」をかえてゆくまでひそかに関心の湧くlalameansさんとわたしだけがかわせばよい会話なのかもしれない。加害者への制裁が、身柄を刑務所に収監することで再び社会復帰できる程度の人生の再起を期待できる、到底ハンデと呼び難い時間だけを取りあげましたという形式が、「刑」の実態だとするのならば、これは「刑」と呼ぶにあたいするのだろうか、という素朴疑問であった。刑罰を重くせよ、という主張は世に溢れている。しかし、所詮それは刑を重くせよという議論であるかぎり、加害者に対してハンデをより多く重ねるという議論に循環するだけに過ぎないだろう。また、金銭の賠償や弔意を震えるほどの巨額で課したところで判決を被害者の家族が耳にした瞬間にカタルシスを得る程度のものであって、加害者に払えないような莫大な金額は、つまるところ「債務不在」のデッドエンドである。本質的な議論は、メドォーサに与えてしまったあの奇形な「人権」を抑圧する事にある。本来、物事があるべき姿でないまま社会が奇形化して、加害者に付与してしまった「人権」を奪取するべきなのではないか。公敵として、特定された犯罪者や確定した加害者たちにはもはや「人権」はありませんよと。もしくは、相当程度その人権は、奪い去られるのだと広く告知する必要がある。もし、加害者に社会的制裁を、という制度を譲らず仇討ちを制度として復活する意思をわれわれが選択しないのであれば、人権をどの程度加害者から奪いさるのか、という議論に向かわねばならないと思う。世の人権派とは、対極的な考え方への踏み込みである。(つづく)
2005年08月04日
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↑クリックでジャンプします。刑務所が、凶悪犯を更正させるという根拠なき法の含有するファンタジーのためどれほど多くの被害者家族が憤懣を抱いて鬱屈した思いで過ごしていることだろう。「悪いことをしたら、刑務所に送り込まれるよ」という親が今、存在したとして果たして子供は、それを恐怖するのだろうか。平然と「どうせ少年法で、殺人しても数年で出てこれるんさ」と内心で呟いているかもしれない。そんな子供の存在する可能性のイメージの方が、加害者の更正を期待する司法関係者の根拠なき犯罪者擁護論よりも遥かにリアリティがあると思わずにいられない。ご同輩は、いかがお考えになられるだろうか。子供の頃、夜半に父の実家の雨戸に墨で描かれた狐の絵をみた時には髪が逆立つほど畏れを感じた記憶がある。しかし、いまの時代の少年達が刑務所に対して、願望を抱く事があっても、恐怖を感じるとは到底思えない。雨戸の戸板に描かれた狐の墨絵ほどの恐怖を惹起しない、刑務所などという存在はいったい何物なのだろうか。少年犯罪などが急増している理由の中に、彼ら(彼女ら)が退屈以外に懼れているものが無いということが前提に存在しないだろうか。彼らは、時として退屈に陥るぐらいなら、犯罪や事と次第で殺人をも含む凶悪犯罪に傾斜したりする可能性だってけして在りえぬ話では、なくなっている。もとより政治にはエロティシズムは、皆無という情況もある。我々の側にとって、恐ろしいのはそれどころか刑務所(少年院)へ収監されることを「箔がつく」などと価値倒錯したまま偶発的な事件に突き進むような事態である。巨悪は、私にとっては組織悪だ。その全貌は、実のところ最後の最後まで分からないという側面を持っている。それに較べて、少年達の行う犯罪はどこか「悪」の感触を求めてという面を感じる。「悪」に感触がある、としたら、、、それは、悪に魅了される要素があるからなのだ。ここを我々は、軽々と見落としてきた。実は、彼らが行いにおいて「悪」に化体(けたい)した瞬間、彼らはなんらかの魅了される存在の中心として憑依するのである。これが我々にとって、恐懼せねばならない理由である。冷静に考えてみよう。彼らが、その化体として振舞う時生じる倒錯は、彼らが超越的な「人」として存在し、われわれが「物」(ただのモノ)と化してしまう、そういう瞬間である。これが少年達の魂を魅了してやまない、病理ともいえる心的な価値倒錯の理由であろう。つまり、彼らはその瞬間にはほかならぬ人権を奪還したかのように尊大な存在になる。われわれはメドーサに呪縛されて身動きできない石塊にでも成り果ててしまうのだ。いま、この国の実定法はいうなればそれらメドーサに人権を与えよという。これは不条理である。もし、仇討ちなどという中世風の懲罰が妥当だという側面があり、再生できる余地があるとすれば、暴力的な犯罪が不条理にも法によって庇護されているという瞬間にである。なんと、われわれが等しく尊ぶべき筈の人権が、凶悪なるものへの供物に転落している。 (つづく)
2005年08月03日
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凶悪犯罪が、急速に増えていると感じる。犯罪件数が、350万件などというのだが本当だろうか。すでに私は、自分のバイクを放火されたと皆さんに伝えた。その際、警察がかたくなに被害届の受理を拒んだ、という件ご記憶かと思う。犯罪件数の中には、警察が意図的に受け取りを拒んだ膨大な数の被害届が数えられていない。また、あらかじめ警察に失望をした人々では、被害を被っても一切届けにも訴えにも及ばないという底知れない規模の沈黙が存在していると私は確信をしている。350万件の加害。犯罪すらけして解決をしているわけではない。悲しい事に、社会の中で慟哭することすらできず、ただ痛みに耐えた啜り泣きを強いられる被害者とその家族の思いが陸続と続いている現実の社会で、解決している事件など実態で一握りに過ぎないと言ってもよいだろう。ところが、驚くしかないことにはそんな「この国」で、あからさまになった稀有な加害者たちの姿が表面に出るや、忽然と彼らの人権がどのように考えても理不尽なまでに著しく尊重されているという現実がある。不条理なまでに明るみに出ることなく、掻き消されてしまった多くの犯罪とその一方で、特定された犯罪の加害者たちが手厚い人権保護の加護の下で、誰も知るように被害者やその家族の痛みは、この社会とその実定法により無思慮なまでに捨て置かれる。人権の尊重との美名の下、正義の守護についての配慮は払底し、不公正なまま。たとえば、殺人事件があった場合、大抵犯人達は裁判を経由して刑務所などへ収容されてゆく。無期懲役などと言われても、まず7年もすれば社会復帰してくるという現実。余程凶悪な事件でも、せいぜい10年も経たぬ内に仮出獄となる。実も蓋もないない話をすれば。この国の法律は犯罪者に手厚い。これが真実だ。正義を守るものは、最後は社会システムであるが、正しく機能するためにも法律は、大切な要素である。現実には、十分機能しているとは思えぬのだ。テレビ報道に触発されて、こんなことを言っているのではない。親が子供の殺戮に遭遇した場合、子供の仇を親が討つことは何人にも制止できるものではない。これは、たかだか数千年ぐらいの歴史しかない実定法などがこざかしく禁じされるようなものなどではない。親は、生物史にして軽く数百万年もの歴史の背景的厚みから子供の生存を脅かす存在と対峙し、その生命を危めるものがいたならば仇を討つ。その存在を親と呼ぶのである。そもそも、近代以前では実は死刑以外に被害者の復讐そのものも、死刑と並んで犯罪の抑止力を担っていた。まして、子を庇護する親のふるまいなどは超歴史的な妥当性を帯びていたのであるから、単に社会の犯罪抑止力であるのみに留まらず社会健常化に大きく寄与していた。いうなれば法を超えた超越した法だったという風に考える。現代社会において、法が間違って機能していることは明らかに何人にとっても多大なる不幸である。このような法とその解釈(判例)が生物としてのわれわれを過剰に抑圧している社会では、法の体系の見直しとその施行についての反省がかならず目指される必要がある。 (つづく)愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して主いい給う。「復讐するは我にあり、我これを報いん」
2005年08月02日
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先程から・・・・ スカイプをやっているのですが、今日はシャルドネさんもたまゆらさんも繋がらず残念でした。今日、数日前の日記から拝見しましたが、さすが!と唸るようなものばかりで、面白かったですよ。「愛のコリーダ」の監督は、以前、黒澤明の作品をハリウッドのB級だと吹いていましたが、彼の作品のどこがいいのか理解出来ませんでしたので、ちょっと安心しました(笑)。「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のことを書いておられるリンク先の方の日記も拝見しましたが、避けて通りがちな問題に、真正面からぶつかっていく真摯な姿勢に感動しました。怒る時には怒らないと、人間ではないと思います。最近は、以前のようには徘徊していませんが、また伺います。それではまた。 鍛冶屋の息子さん (2005/07/30 09:43:28 PM) 鍛冶屋の息子さん、お元気でなにより。鍛冶屋の息子さんとは自分が楽天に来る前に、メルマガで相互にその存在を知り、楽天日記でさらにご近所づきあいが出来るようになった。ブログという機能性は、実に明朗だと言う気がする。@nifty時代にはご近所づきあいの場を提供する姿勢がケチ臭くしかも、陰陽に介入されてくるその手つきが姑息で、つねづね胸糞が悪くなるほど不明朗な印象が湧く。結局@niftyでは、積年のストレスに我慢ならずついに楽天日記にひっこしてきた。色々あるものの、楽天日記ではその鷹揚な場の提供姿勢に驚くやら、呆れるやら。まず、まず居心地は良いほうかと思う。さらに加えて鍛冶屋の息子さんなどとの程よいご近所感覚の提供など、秀逸さも感じる。@niftyなどのコミュニティーでは、妙に古参の陰湿なおじさん、おばさんたちから恫喝的なメールをいただいたり、BBSでの発言に反応されるのではなく、オフ人脈の周縁で陰口を散々頂戴するなど、辟易したものである。このあいだも、その@nifty時代の知人に対して、楽天日記へ転じた自分の処にコメントするなと圧力をかけた人物がいると聞かされわが耳を疑った。ネット最古参のはずの@niftyで年季の入った人たちにして、おとなげないものだと呆れるばかりだ。どこまで陰湿な我侭者ばかりなのか。嘆息をするばかりである。それに較べれば、楽天日記の「のびやかな棲み分け」を許す姿勢は、まずまず満足がゆく。さて「仇討ち」について言及をしよう。復讐は、普遍的な人間行動だと考えてよいと思う。お隣の中国では、「天地自然之理」と呼ぶ一派がいる。殺された犠牲者の身内には、おそらく流れた血の代償を受け取る債権があり、または相殺勘定としての復讐が措定されるのは天地のあいだに遍く存在する合理的な現象だというわけだ。日本でも、ながらく仇討ちが公的に許諾されていた理由には隣国の中国から輸入された儒教道徳が定着し、これまた中国からの借り物で身辺に馴染んだ武士道にもとづき正当化がされたのであるが、日本側にもそれなりの事情がある。つまり、中世以来守護大名、戦国大名と割拠するなかで、それぞれの大名が自国領内の統制がやっとで他藩や、他大名の領土には介入のスベがなく、日本国内というスケールで統一された全国法がなかった事が大きいと思う。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の読者ならば、あの坂本龍馬が、日本人というスケールで発想した相当卓越した人物だと描写されている稿をご記憶かと思う。逆に、いえばあのような人物が登場する以前までは復讐した者を制止するどころか、それを制裁する事自体を禁止する法も発想も存在しなかったと考えて良いのではないか。つまり仇討ちの消失は、明治維新により新政府という、統一国家の台頭が直接の原因だと言ってよいかと思う。私が、楽天日記をねじろとして@niftyを揶揄するのは、「天地自然之理」なのである。さて、さらに仇討ちについて踏み込んでみたい。(つづく)
2005年08月01日
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