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「対幻想」という言葉が、有り難かったというのはたぶんそれまでこのような概念が思想的有意味だと考える姿勢が存在しなかったからだと思う。「対」は、「対なるもの」は、つねに離別と疎遠ではない。瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(詞花集・229・崇徳院)上等な境地を謳ったものだが、現実には男女はおろか家族も村も、会社もみな一触即発、いつでもチリジリバラバラになってもおかしくないほど時代は、我々に等しく「個」的(孤的)に解体を強いてはいないか。ここで「幻想」と、あえて呼ばれているものはおそらく「対」を個に解体させぬなにか大きな力となりえるような水源を意味しているはずだ。「子は、かすがい」などといってみても、昨今子どもが「対」を軋ませて解体をより促すという場合だって、ありえる。そもそも、男と女が対をなすにつけて、そこに少しは根拠性がないというのは、あまりにも情けない。性愛といってみても、現実には犬猫と大差ない遺伝子のエゴセンットリックさをいくら露骨に表出してみても、案外人は見事に疎遠となる。この日記に、巡回されるご同輩は、それぞれ胸に手をあてて、回顧いただければ済むのでは。なにしろ自身の体験と向かい合うことほど正直なものは無く、自分自身を騙すことは案外できないものだ。つまり、「対幻想」というものはなにがしかの理由で対の当事者を強く結束する幻想力とでも呼ぶべきものが存在するのではないか、というたたみかけだったように思う。待っても待っても戻らぬ恋でも無駄な月日なんてないといってよめぐり来る季節をかぞえながらめぐり逢う命をかぞえながら畏れながら憎みながら いつか愛を知っていく泣きながら生まれる子供のようにもいちど生きるため泣いてきたのね漫然と聞いている限りでは、このくだりはしんみりさせる。だが、自分自身は感傷的すぎてあまり好きではない。「恋」が、無前提に価値あるものだと一度も思ったこともないし、手放しで礼賛するという暗黙の御作法にちゃっかりあわせて、上手な世渡りをしたこともない。自分は、なんと生き方が下手なのかと痛感するばかりだ。聖化してまで語られる中島みゆきだが、いつも自分の眼にはその俗っぽいまでの高踏趣味が薄気味悪い。ところが、そんなにも中島みゆきを好まない自分が、はっきりと凄いと思うのは以下のフレーズだ。Remember 生まれたことRemember 出逢ったことRemember 一緒に生きてたことそして覚えていることRemember けれどもしも思い出せないなら私いつでもあなたに言う 生まれてくれて Welcome「ああ」っと、息を呑んだ記憶がある。踊り子のおばさんが、ユニオンのおやじ達の前で中島みゆきを舞った。なんという不思議な唄だ。そういう風に感じた。森崎和江がいう、「海岸線の思想」というものは多分そんないつでも離散しそうな「対」に対しても見事に気の利いた「Welcome」だったのだ。この「Welcome」は、「こんにちは赤ちゃん」という意味ではなかろう。いや、それをも含んでいていい。実は、さらに根源へ。一層遠くへ我々を運んで行きそうな気配がする。「いのち」についての「Welcome」は、ただの偶然を運命であったかのように化体させる。いってみれば強力なマジックだ。吉本が「幻想」という風なまがまがしい言葉を、あえて連行してきた理由は、そこにあると思わずにいられない。みゆきの「誕生」を聞きながら、ふとそんな事を思った。 (つづく)ひとりでも私は生きられるけどでもだれかとならば人生は遥かに違う強気で強気で生きてる人ほど些細な寂しさでつまずくものよ呼んでも呼んでも届かぬ恋でも空しい恋なんてあるはずないといってよ待っても待っても戻らぬ恋でも無駄な月日なんてないといってよめぐり来る季節をかぞえながらめぐり逢う命をかぞえながら畏れながら憎みながら いつか愛を知っていく泣きながら生まれる子供のようにもいちど生きるため泣いてきたのねRemember 生まれた時だれでも言われた筈耳をすまして思い出して 最初に聞いた WelcomeRemember 生まれたことRemember 出逢ったことRemember 一緒に生きてたことそして覚えていることふりかえるひまもなく時は流れて帰りたい場所がまたひとつずつ消えてゆくすがりたいだれかを失うたびにだれかを守りたい私になるのわかれゆく季節をかぞえながらわかれゆく命をかぞえながら祈りながら嘆きながら とうに愛を知っている忘れない言葉はだれでもひとつたとえサヨナラでも愛してる意味Remember 生まれた時だれでも言われた筈耳をすまして思い出して 最初に聞いた WelcomeRemember けれどもしも思い出せないなら私いつでもあなたに言う 生まれてくれて WelcomeRemember 生まれたことRemember 出逢ったことRemember 一緒に生きてたことそして覚えていること中島みゆき「誕生」
2005年10月31日
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中島みゆきと自分は、同じ頃に母親の胎内にいた。産まれ落ちたのもほとんど誤差の世界である。52年の2月だ。それがどうした、と言われればそれまでだ。彼女は、自分にとって何か特別侮り難い存在である。ペガサスだか、ヴィーナスだか、なんだか知らないが、余程でかした存在であることは間違いない。天才と自分のような凡庸な人間が、比較にはならないのだが、一方で、逆に自分を照らし出すのには彼女のような天才は大変有り難い存在である。森崎和江;吉本(隆明)さんんというのは大変ありがたい方で、対幻想という言葉をくださいましたでしょう。本当にたすかりました。上野千鶴子;助かったってどういう意味ですか?森崎;私も同じようなことを、何度もいろいろと書いてきましたけれど、でも吉本さんは集団とか個人というものと対幻想を並べてお書きになってるでしょう。これはとても助かったんですね。上野;「共同幻想論」(河出書房新社刊)が出たのは1968年ですけれど、出た当時にはお読みになりました?森崎;難しくてね、きちんと読んでないんです。でもたった一度お訪ねしたことがあるんですよ。いつだったか忘れちゃいましたけど、ある編集者の方がこの近くに吉本さんがいらっしゃるから引き合わせましょうとおっしゃったの。こわいからいいですって言ったんですけど、すぐそこだからって。ご自宅でちょっとお話ししてすぐおいとましましたけど。お会いして本当によかったと思いました。ああ、この方は対幻想というのを分かって生きていらっしゃるなと思ったのね。存在から感じとれた。ひょっとしたらこの方は海辺で育たれたのではないかしらという感じがしてね。潮の時間というか、海辺の時間というか。海辺には独特の対意識というのがあるんですよね。上野;え、どういうことでしょう。森崎;こんな話でいい?海辺っていうのはもう全く違うんですよ。生命にあふれていて。私、海岸線の思想というものを書きたかった。 見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子森崎のいう「対幻想」は、自分にはながらく足枷のような謎であった。吉本隆明という思想家が、私見ながら支離滅裂で訳が分からない。そのありがたみが凡人な自分にはさっぱり分からないのである。従って自分の母親のような森崎和江が吉本隆明の<対幻想>という思想的表出について「本当にたすかりました」などと言い出すのを知って蒙を啓かれる思いが湧いたのだ。いま、自分なりに思うのは「対」というのは始末に悪い。ほっておけば「個」に戻る。早い話、わが母や父親は相当以前から相互に個に戻って以来久しい。男と女も、もともとは個なのだ。なるべくならば、上手く転んでくれればいいのだがそうも行かないこともあろう。これが、むしろ天然自然のような気がする。それが、なぜか睦まじい「対」が存在する。いや、むかしは睦まじい対ばかりだったかのように思われる時代があったらしい。いや、それは思い違いだ、といわれればそうかもしれない。しかし、自分の知る限り滋賀の中庄在の老夫婦のような対(ペア)は、結構日本には珍しからず存在していたように思うわけだ。(つづく)
2005年10月30日
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土日曜、大阪市内。年代もののクーペであちこち雑用を済ませながらiPOD-nanoに中島みゆきの「誕生」を入れて繰り返し聞いていた。nanoは、病的に傷つきやすい。まだ、みゆきと椎名林檎しか入っていない自分のnanoは、もう傷だらけだ。樹脂表面は、犯罪的な仕上がりになっている。とても、屋外にもちだせるようなシロモノではなかろうと思う。携帯電話は、さほど古いわけでもないのにメールを打てる機能が損傷している。最近の電子道具は、どれもこれもなにか質実ともに貧相だ。ひとりでも私は生きられるけどでもだれかとならば人生ははるかに違う強気で強気で生きてる人ほど些細な寂しさでつまずくものよこれは月並みなほど、とおりいっぺんな話かなと思う。これまでなら歌謡曲が大抵いってきたことを踏襲しているだけとも思えた。しかし他の中島みゆき作品と違い、この曲にはなにか不思議な魅力がある。滋賀へ戻る道中も、わざわざ古い彼女のCDを車中でまわして聴いてみた。70年代から彼女の歌を耳にして、どれもなにか据わりの悪いものを感じて好めない。いまもそれは変わらないのである。彼女の作品では「ホームにて」をのぞけば、あまり愉しんだという記憶はない。ある時、管理職ユニオンという世間にも知られた労組がご近所のビルに事務所を構えていて、のぞいてみたことがある。この組織は、実態で指導者が極左セクトのOBだったりするのでいわゆる労働組合という組織とちょっと違っていると思う。その異色さは、中島みゆきの「誕生」をかけながら振り付けしてダンスを踊ってしまうおばさんがいたりする。彼女は、ダンサーとしてたぶんこの組合に駆け込んだのだろう。同じ頃にカラオケで、この歌を唄った女性がいた。耳のどこかに、こびりついている。自分は、「誕生」をそうして鑑賞者らの息づかいを通じて知った。(つづく)
2005年10月29日
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2005年10月25日 15:10米国東部時間 新華社電によると、中国水利省の技術部門責任者は25日、全国の地下水の約25%が汚染され、都市部の約5割では、地下水汚染が極めて深刻な状況にあることを明らかにした。 同責任者によると、2003年に全国で排出された汚水は約680億トン。工業廃水の3分の1、生活排水の3分の2が未処理のまま垂れ流されているという。 また、黄河など全国の90以上の河川で流れが途切れる現象が発生。1950年ごろとの比較で湖沼の面積が15%減、天然湿地面積が26%減となるなど、水資源の枯渇も深刻化している。(共同)いつぞや「水だ」って、言い出した時に面白がってくださったのが鍛冶屋の息子さんでしたっけ。しかし、深刻さは水に恵まれた我々の足元にも迫っているんですよね。01/06/14発行朝日新聞より未処理の下水,海を汚染-雨で放流構造に難-▼まず東京湾調査-都と海保- 大都市の下水の一部が雨天時,未処理のまま海に流れ込んでいることが明らかになった。高度成長期につくられた下水道に構造上の問題があるからだ。赤潮などを引き起こす原因になっているとして,海上保安庁が今月中に,まず東京都と合同で東京湾の汚染の実態調査に初めて乗り出す。国土交通省は18日に検討委員会を設け,12指定市を含めた大都市の下水道対策の検討に入る。▼国土交通省 大都市対策探る 下水道には,し尿を含めた汚水と雨水を同じ管で流す合流式と,汚水管と雨水管が別にある分流式がある。いずれも下水処理場を経た処理水が川や海に流される。ところが,合流式は雨天時に大量の雨水と汚水が流入すると,未処理のまま一部が川や海に放流される。 いまは分流式が主流だが,戦後早く下水道整備をした大都市を中心に約200市町が合流式を採用している。東京都区部では8割が合流式。都は「東京五輪に間に合わせようと工期が短く,費用が安い合流式を選んだ」と説明する。指定市の合流式の割合は大阪90%,名古屋65%,札幌63%,京都40%と高い。 東京都の場合は年約80回の降雨のうち約40回あふれ出している。99年ごろから白い油のかたまりが東京湾岸に漂着するのが目立ち始め,海保が調べたところ,東京都の下水道から出た汚物だとわかった。 海保の東京海上保安部は都に働きかけ,5月に合同調査を決めた。6月中の雨天時,東京湾岸の下水の吐き出し口近くなど数カ所で海水をくみ,生物化学的酸素要求量(BOD)や化学的酸素要求量(COD),大腸菌群数などを調べる。 ほかの指定市も梅雨の時期に地元の海上保安部などと合同で同じ調査をする。放流先は東京湾のほか,大阪湾,伊勢湾,博多湾などいずれも閉鎖性水域で,未処理の下水による環境への影響が大きいと予想される。 一方,国土交通省下水道部は今月18日,全国の合流式下水道の対策を探るため,自治体や海保の担当者,学者らによる検討委員会を設ける。 施設面の対策では,雨水時に下水をためる貯留施設の建設や管の取替えなどがある。ただ,膨大な費用がかかり,東京都だけでも数兆円にのぼる,とされる。 未処理の放流は人口の増加など急激な都市化に合流式の処理能力が追いつかなくなったため起きる。下水道管は降った雨の半分の流入を前提に設計されているが,雨水を吸収する土壌が舗装の拡大で減ったため,「約8割が下水に流れ込んでくる」(都下水道局)のが実態だ。▼改善に膨大な費用-未処理下水 計画策定進まぬ現状- 未処理の下水が産みを汚していた。急激な都市化に対応できない下水施設を改善するには膨大な費用がかかる。 「白い粘土のようなものがたくさん海岸に打ち上げられている」海上保安庁に電話がかかったのは99年4月。東京都港区のお台場海浜公園の砂浜で,子どもを遊ばせている親からだった。 手のひらぐらいの大きさでべたつく。ぬれているとクラゲに,乾くとせっけんに見えた。刺身のつまや果物の皮がへばりついているものもある。調べると,油のかたまりだった。 海保の巡視艇は定期パトロールのたびに,海岸で白い漂着物を発見した。雨の後は特に多い。油の放流は水質汚濁防止法違反の疑いがある。 周辺の工場や屋台船を調査し,陸上からの不法投棄も疑い,東京都にも問い合わせた。それでもわからなかった。 海保が頭を抱えていた昨年3月,都が「うちの下水道から出たのかもしれない。下水処理場に漂着物と似たものがあることがわかった。」と告白してきた。 都の下水道は汚水と雨水を同じ管で受け入れる合流式。大雨で処理容量を超え,あふれ出た分は川か東京湾へ放流されていた。家庭や飲食店で使われている油などの汚物が下水管にたまり,それが流れ出して白いかたまりになった。 都は実は30年近く前から知りながら,手の打ちようがなかった。 1884年の「神田下水」に始まり,東京五輪を機に急激に普及した都の下水道は,72年には半分以上の地域で整備が終わった。下水道協会が「汚水と雨水を別々の下水道管で流す分流式を原則とする」という設計方針を打ち出し,合流式が事実上否定されたときだ。 人口が集中し,生活が豊かになって汚水の量が増える一方,町がコンクリートで覆われるにつれ,雨水がどんどん下水管に流れ込んでくる。急激な都市化で合流式の下水道に限界がきた,と都下水道局は振り返る。 合流式を分流式に切り替える本格的な工事は都心では難しい。都は貯留施設をつくり,雨天時に下水をためて放流しないようにし,下水管を太くする改善計画を74年に策定した。だが,膨大な金がかかるため,ほとんど進んでいない。 東京都区部にある13の下水処理場のうち4個所が東京湾沿いにあり,雨天時は下水を東京湾に直接放流している。 未処理の下水はどれくらいの環境負荷になるのか。都環境科学研究所99年に,多摩川とその支流の野川,仙台で調べたところ,ひどい場所では生物化学的酸素要求量(BOD)が晴天時の120倍に達した。降り始めの激しい雨は下水管にこびりついた汚物を一気に洗い流すため,特に値が高かった。 海保はこの4月,海洋環境保全推進本部を発足させ,「東京湾の蘇生」を目標に掲げた。問題視するのは頻発する赤潮と海底の「貧酸素水塊」だ。赤潮のプランクトンが死んで沈み,腐敗する過程で大量の酸素を消費する。そのためにできる極端に酸素の少ない海中のゾーンを指す。魚介類はほとんど生きていけない。 赤潮も貧酸素水塊も公害が社会問題だった60年代半ばから,東京湾で発生するようになった。工場の排水規制が進んだ後も,発生の頻度は落ちていない。同本部は「未処理の放流が大きな原因のひとつではないか」とみている。 ほかの大都市も事情は同じだ。大阪市は年間約1億7300万トンの下水を未処理のまま大阪湾に放流する。博多湾に流す福岡市は2年前の水害の後,下水管を太くしたり増やしたりする工事を進めている。名古屋市も一時貯留する滞水池を建設中だ。
2005年10月25日
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日曜日に、雨の中を清掃活動をして近江中庄で雨宿りかたがた近隣の古老から琵琶湖を取り巻く生活の来歴を耳にしようという企画があった。われわれ参加者への県の気遣いというものだ。これがなかなか面白い。話題は、当然面白いが語り口も愉快だ。年寄りの話も、たまには聞かねばならない。老夫婦、とはいえわが母よりは遥かに若い。幼なじみ同士が、琵琶湖の湖岸での愉しかった日々を懐かしさをこめて語る自然。朴訥なはなしが、ほんとうに聞き入っている自分らの心も和ましてくれる。数日その愉しく過ごしたい時間を反芻していたのだが、ふとあの森崎和江のいう「海岸線の思想」をかぶらせてイメージが刺激された。無論、琵琶湖は海ではない。しかし、70代の老夫婦のなんともいえない可愛い仲良しぶりを拝見していてこの夫婦の結びつきが琵琶湖と、そのほとりで過ごした幼年期の愉しかった暮らしを抜きにして考えられないということは間違いないと思われた。夫婦も、水の美しく、鮎や雑魚が無造作にあふれかえって賑わいしていた往時の琵琶湖の素晴らしい美しさや、恵みの豊かさは、就学前の児童であった男の子と女の子には、なにものにもかえがたい至福の体験だったという。我々は、なにゆえ「湖岸の思想」「海岸線の思想」を見失ったのか。森崎和江;吉本(隆明)さんんというのは大変ありがたい方で、対幻想という言葉をくださいましたでしょう。本当にたすかりました。上野千鶴子;助かったってどういう意味ですか?森崎;私も同じようなことを、何度もいろいろと書いてきましたけれど、でも吉本さんは集団とか個人というものと対幻想を並べてお書きになってるでしょう。これはとても助かったんですね。上野;「共同幻想論」(河出書房新社刊)が出たのは1968年ですけれど、出た当時にはお読みになりました?森崎;難しくてね、きちんと読んでないんです。でもたった一度お訪ねしたことがあるんですよ。いつだったか忘れちゃいましたけど、ある編集者の方がこの近くに吉本さんがいらっしゃるから引き合わせましょうとおっしゃったの。こわいからいいですって言ったんですけど、すぐそこだからって。ご自宅でちょっとお話ししてすぐおいとましましたけど。お会いして本当によかったと思いました。ああ、この方は対幻想というのを分かって生きていらっしゃるなと思ったのね。存在から感じとれた。ひょっとしたらこの方は海辺で育たれたのではないかしらという感じがしてね。潮の時間というか、海辺の時間というか。海辺には独特の対意識というのがあるんですよね。上野;え、どういうことでしょう。森崎;こんな話でいい?海辺っていうのはもう全く違うんですよ。生命にあふれていて。私、海岸線の思想というものを書きたかった。 見果てぬ夢/「性愛論」上野千鶴子村上ファンドの「不愉快さ」というものを考えればわかろう。今回、日本シリーズで阪神タイガースが四連敗を喫した、その遠因に村上の一連の所業が影を落としてはいなかっただろうか。マルクスの資本主義批判の精神は、いままさに小学生や子どもにすら瞬時に理解できる具体を得たという思いがする。いかにも、資本主義社会も社会主義体制でのスターリンにせよ悪に走る権力志向は、大差はない。共産主義の理想も、所詮は人間に対するある種の狡猾な誤解にもとづくものという気がしてならない。しかし、マルクスは一定人間社会に対して極めて正鵠を得た視点を投じた。すなわち、資本主義社会においてすべからく人間は「欲望」に翻弄され、欲望追及をそれ自体目的と化する(物質力)不可避さにからめとられてゆく腑甲斐なさ、無力さを避け難く甘んじて受けざるをえない運命にあると喝破した。貧富の差は、歴然として露呈し始める。そのような社会は、けしてながく続くものではない、と。そのように指弾したマルクスの思想。実は見事である。株、為替、ヘッジファンド、、、株式上場益などという不埒な利得を膨大な規模で掻き集めるものが英雄で、市井でコツコツとモノづくりを行う賢者が、愚か者扱いを被る。そのような社会が、われわれが生きているこの社会である。マネー経済における取引規模が、農産物や工業製品などのいわゆる「実体経済」の生産や貿易取引よりも遥かに凌駕するほどの規模となってしまっているなど狂気の沙汰である。カジノの経済は、市井の八百屋、魚屋、手工芸職人、漁師、農産地従事者らの国民経済と国際貿易取引などを突き放してしまうほどの病んだ巨大さを誇っている。ものをつくらず、生産を目差さぬ金貸しと山師が、ファンドだのキャピタルだのと騒がしい。モノやサービスの貿易取引額の軽く25倍ものマーケットだとされている。「海岸線の思想」とは、森崎の述べるように男女の対の契り、金剛不壊の結合をはからう状況論であるかのように思われるかもしれない。しかし、かつてそれは普遍的な社会のイメージ的な起原に誰しも疑いをさしはさまぬというほどの堅固さがあった筈だという風に思う。そこに所有、非所有の「彼我の支配、被支配」が、笑い飛ばせるような淡白さが存在したのだ。よくよく考えてみて欲しい。われわれの一生、生きている間。地球から、少々物質を拝借してこの肉体を構成するための諸元素を借り受けて、わずかばかりのあいだ生かされている。かつて祖父らはそのように思い、神への敬意と畏怖を忘れた事はなかった筈だ。相互に豊かさをみちびくため、肉体を仮の宿と思いなし挺身的な他者愛に満ち溢れた生活とはたらきは、やはり農家のみならず、漁労者や林野での就労者にも広く共通感覚として行きわたっていたものではなかっただろうか。いつしか米穀などを中心に、農業生産が始まった時代から「所有」だの「交換」だのと大地を畏れず囲い込み、「荘園」だの「領地」だのと「おのれのもの」とし、森や自然の食物連鎖を小刻みに切り刻むという徒輩が歴史に登場する。さながら地上を支配し、「所有権の王」としての、資本主義が彷徨するようになるまで一気に人間のつくりあげたシステムはこの惑星を覆い始めた。なんとかファンドとやらは、その集約に過ぎない。さて、琵琶湖は湖底が次第に汚れ始めてきていると嘆く老夫婦。琵琶湖という閉鎖性水系ではひとたび汚れ始めると完全に水がいれかわるのに19年以上かかると言う。元に戻すには19年かかるのだと、大阪ナンバーのレジャービークルらに告げ知らせる教育は、人類の義務である。
2005年10月24日
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したたかな雨に打たれながら、県環境保全課の呼集であつまった篤志家の市民らで琵琶湖西岸を、JR近江今津駅から中庄駅あたりにかけての湖岸を清掃活動しました。元大阪府民からすれば、美しすぎるほどの湖岸ですが見かけによらずゴミはあつまります。あたりを騒がすものは、大阪ナンバーのワンボックスで乗り込んできている水上スキー愛好家。目立つよな。悪いイメージを他府県まで持ち込んで、示威する大阪の人間って、なにか呪われている人々って印象になっちまう。さて、そんなこんなで日曜日。雨に当たって疲労もありまして、、、また明日ということお願いします。
2005年10月23日
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スターリンは語る(8)HGウエルズ;あなたはわが国の支配階級について私より高い評価を下していますね。が、小さな革命と大きな改革との間にはさほど大きい違いがあるのでしょうか。改革は小さな革命だと言えません?スターリン;下からの圧力、つまり人民大衆から受ける圧力のおかげで、ブルジョワジーは時として依存する社会的経済的スステムの基礎に踏みとどまったまま、ある程度の部分的な改革を行うことで譲歩するかもしれない。かかる行動をとることによって、譲歩は支配階級の支配権を温存するうえで必要だと計算するわけですね。これが「改革」の本質なんです。零細なベンチャー事業を、一度立ち上げてぶっつぶしたという程度の資格で自分がなにかを言うのはおこがましいのだが、この日本でこれまでベンチャー事業VBと呼ばれているものの大半は、実のところで本当の意味のベンチャー事業性を帯びていない。ベンチャー事業性を帯びていないものが周囲に特有の嫌悪感を惹起し、ますますベンチャー事業そのものへの偏見を助長するという悪夢のような循環が拡大してゆく。誰も知るように、日本の企業の内部では概して研究開発に失敗が許されないというみょうちきりんな機制(組織統制の力学)が働いている。つまり、収益性のある製品化の可能性を検証するという意味以外の実験に対してはまずその価値を認めないという。少し考えれば愚昧だとしか言いようがない情けない仕組みが大手を振って世にはびこっており、その機運はまさしく昨今お馴染みの金融資本が主導するものである。当然ながら、それら金融資本より調達した資金を運用することで収益を得ることを義務づけられている「なんとかファンド」らがベンチャー事業者と呼ぶに値するとするのであれば、この世の研究開発とはすべて「出来レース」ではないか。そんな筈がない。権力は決して個人の性質ではない。それは集団に属するものであり、集団が集団として維持されている限りにおいてのみ存続する。………権威は、それに従うように求められた者が疑問をさし挟むことなくそれを承認することによって保証される……… ハンナ・アーレント権力は、集団に属するかもしれない。しかり、如何にもそのとうりである。だが、機会発見や創造的な霊感Inspirationが、確定利回りを最優先する組織の機制で重用されるのは極めてまれなことだろう。企業がなにゆえに「タテ社会」となる必然性があるのかといえば、むしろ機会発見を恐れる生理をもちあわせているからに他ならない。社内で高いコミュニケーションを維持できているベンチャー事業は、当然社歴が若いがゆえにゆるされている特権を正しく発揮しているのである。だが、経済社会ではまずもって与信、その当該の事業体力というものが第一義となる。与信体力がなくして、資金の調達などままらなないからである。企業の社有資産と与信に関与する実績に深い関与があるものが、企業の指揮指導を担任しおのずと「タテ社会」を形成する。ここに機会発見の原理が、介在するとすればタテの経絡を通じて表現されたものだけである。これが大なり小なりといえども企業内部には、あまねく存在する権力構成となる。権力をもちあわせつつある者が、かならず行うことがある。内部に暴力装置を作り始めるのである。暴力装置とは、ムチや監獄に象徴されるものだ。われわれの企業社会にも、けっして例外ではありえない。営業成績の良いものは顕彰される。同時に、成績の良からぬものは黙殺されるのだ。黙殺が、暴力だとは誰もきずかない。収益をあげてくれば昇進も可能だろう。しかし、機会発見を行ったものは?機会発見を行ったものは、発見を奪われるのである。なぜならば情報には、価値はない。知には、営業実績や収益貢献のような明快な企業に文句なしで理解できるような公開的な価値がない。なぜならば機会発見には企業をこぞって立ち上げる示唆だけが存在している。しばしば、それは企業の指揮系統への挑戦という風にしか映らない。かくして多くの機会発見は、第三項排除の生理のもとに封殺さ、時として排除されるのである。俺の背中で木霊する 人々のあの歌が 喜びの歌じゃない/追放のあの歌 昨日は俺も一緒に歌ってた こんなに長い道の真ん中で開けてしまった缶詰を また眺め 救われたと信じても/煙草の煙が教えてる 休みの国はまだ遠い/静けさなんて無いんだと 今もきこえる/あの追放の歌追放の歌 作詞 / 作曲 : 高橋照幸
2005年10月21日
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スターリンは語る(7)HGウエルズ;あなたはわが国の支配階級について私より高い評価を下していますね。が、小さな革命と大きな改革との間にはさほど大きい違いがあるのでしょうか。改革は小さな革命だと言えません?スターリン;下からの圧力、つまり人民大衆から受ける圧力のおかげで、ブルジョワジーは時として依存する社会的経済的スステムの基礎に踏みとどまったまま、ある程度の部分的な改革を行うことで譲歩するかもしれない。かかる行動をとることによって、譲歩は支配階級の支配権を温存するうえで必要だと計算するわけですね。これが「改革」の本質なんです。結局、社会と経済の背景にあるものはすべからく権力闘争だということにおいて、ついに両者は終始平行線となった。この両者における、論点の対峙ぶりについて言えば、その後の世界の情勢下においても、なんら変わりは無かったように思う。同時に、双方がいずれも使用を躊躇されるような熱核戦争という闘争の手法が現実に配備された20世紀の暗闘の帰結は、ほかならぬわれわれの社会の十字架ともなっている。日本経済が破綻しているのという程度のものではない。これは世界経済の現実に生じた「冷戦」と呼ばれた永い愚かな権力闘争による帰結としての財政破綻を、当事者でなかったゆえに、なぜかしらこの日本が身を挺して支えあげているという事ではないか。その証左が想像を絶する規模になんなんとするあの巨額の債務。わが国に集約的にしわ寄せされた長期債務残高総額の正体だと思うものだ。画像を必ずクリックしてみてくださいね。
2005年10月20日
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スターリンは、かく語る(7)実は、このシリーズは愉しくて仕方がない。日記の読者が、減れば減るほど自分の永年の思考遍歴を辿って伸びやかにスターリンの言動を吟味できるような気がするからだ。「要求は最初の二-三ヶ月に集中していた。向こうは一方的に考えをまくしたてる。こちらも強い態度で臨まないと話し合いにならなかった。従業員が一丸となって会社を良くしようとしている時に、昨日、今日株を買った人間に急に株主の権利を主張されてもふに落ちない。実際、そういったこともある」 -----永野博信知る人ぞ、知る。いま、ほんとうの意味で「時の人」は永野博信氏かもしれない。篤田聡志氏のインタヴューに応える永野博信社長の胸中は、よく分かるような気がする。昨年七月、明星食品はあの村上ファンドに株式を大量取得される。11月に明星が増配を発表して、村上ファンドは12月保有株を放出したとか。この間の、生々しい応酬が本日の日経産業新聞に記事掲載されているのである。自分は、永野博信社長の肩をもつわけではないが氏の「思い」についてはしたたかに感じるものがある。そして、ふと思ったのはまさしくHGウエルズが胸中でスターリンへのインタヴューに際して赤い独裁者へ抱いた思い。それこそが、この永野博信社長が村上ファンドに対して感じたものと、酷似しているような気がしたからだ。「昨日、今日株を買った人間に急に株主の権利を主張されてもふに落ちない」そうだ、そうなのだ。スターリンは、国際共産主義運動の澎湃とした人民の歩みのようなことを言いかねないのではあるが、その実体はにわかに勃発した労働者蜂起を浮力にして突然権力を謀略的に手中に収めたボルシェビキの同志たち、その無惨なまでの仲間殺しでまんまと勝ち残ったという手合いでしかない。いまをときめく労働者国家の王様きどりのスターリンだが、一体彼の100年前は?いや、50年前にスターリンは何をしていたというのだろうか。靴職人の子どもで、幼い頃から反政府運動に身を投じてきたスターリンに国家経営どころか、企業経営のセンスが養われていただなんて誰が思う。基幹産業労働者や農業生産者の意見代表がつとまるのだろうか。そんな筈はない。仲間を蹴落とし組織の上層を暴力的な力量の圧迫で登りつめることが彼のスキルのすべてだったろう。いま、村上らが考えていることとさほど距離があるとは思えない。テロと密告をもちいていないからといって、尋常ならざる巨額の資金を掻き集めてやってくるその姿が、どこか20世紀の赤い暴君の嫌われかたと似ている気がしてならない。HGウエルズ;教育制度の抜本的な改革がなされない限り革命はありえない。スターリン;それは正しい観察ですね。
2005年10月19日
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スターリンは、かく語る(6)自分が、ようやく1歳の誕生日を迎えた頃。ヨセフ・スターリンは他界している。その権勢の絶頂期にスターリンの至近にあってその権力組織の実質を担っていた連中が、その3年後こともあろうにその親玉を批判し始める。ちょうど自分が大阪の生家にあって理不尽にも放火を被った、5歳の冬ごろの話である。スターリン; 旧制度の崩壊、腐朽化が進んでいるのは言われるまでもありません。それは厳たる事実だ。しかし、この死にかけているシステムを死守すべくあらゆる手をつくして、別の方法による新しい努力がなされていることも事実ですよ。スターリンは、「厳たる事実」だと期待をこめて待ち望んでいた世界の旧制度はその後崩壊するどころか21世紀の今日、地表を覆いつくす先進資本主義体制という高度に発達を遂げ極相にまで登りつめているかのようだ。資本という名の単一世界帝国として。スターリン; そう、旧社会制度が崩壊しつつあるというあなたの話は正しい。しかしながら自壊作用で崩壊しつつあるのではない。たとえば、ファシズムを例に挙げてみましょう。ファシズムは暴力的な手段によって旧世界を維持しようとしている反動的な勢力です。あなたならばファシストを相手に何をしますか。論争をしますか。それとも説得をしようとしますか。ところが、そんなことをやってもまったく効き目がない。共産主義者は暴力的な手段を少しも理想化していません。といって、共産主義者は奇襲攻撃を受けたくはないし、旧世界が自発的に舞台から降りてくれると当てにするわけにもゆかない。スターリンにとって、好都合だったのは自身の暴力性、もしくはファシズム性を糊塗するために目の前にまんまとファシズム権力が存在した。スターリンは、さも致し方なしに反動との闘いのために「暴力に訴えてでも自己防衛を講じる」のだと述べるべき資格を得たというわけである。しかし、ソビエト政権の崩壊は、まさしくその思いがけず手にいれた、自身の暴力性についての好都合なまでの自己防衛機構が、情けないほど自ずと暴走を始め巨大な規模での熱核戦争をも想定しつつ眼もくらむような軍事費を蕩尽するまでに「防衛に講じられた手段」としての暴力の拡大成長にわずかの制止もかけられずに財政を破綻させるまでとこととん転げ堕ちてゆくことになる。歴史反動と闘うために、自らが巨大な反動(英語ならばファシズムというのだろうか?)に成りあがるとは・・・HGウェルズ;ですが、資本主義世界でいま起こりつつある事態をとくとごらんいただきたい。崩落はそう単純なものじゃない。反動的な暴力の爆発であり、それもギャング戦争並みに堕しつつある。私の見るところ、反動的かつ反理性的な暴力といざ闘う羽目になったら、社会主義者は反動勢力との戦いでむしろ法律に訴え、警察を敵とみなす代わりに彼らを支持すべきです。古い硬直した煽動的社会主義の戦法で活動するのは役に立たないと思う。そう、そう。そう「単純なものじゃない」ということについてはHGウエルズさんよりもスターリン元帥どのよりも、遥かに今を生きている我々が知っているといえるだろう。わたしにとって有り難かったのは、この短いHGウエルズとスターリンの話題。その焦点に、やはりというのだろうか。論点の対立の構図の中に世に横行する組織的な暴力のその圧倒的な存在感が、彼らの思想の中心につねに存在したということの確認だ。われわれは身をもって、暴力が高くつくということを知らされている。しかも、暴力を回避する術が極めて限られており、それを招きよせるために必要な知性に乏しい存在であることをある意味HGウエルズやスターリン以上に知っているということである。個人的には、われわれは恐竜から貰い受けたDNAと人類滅亡の日まで逃れ難いのだろうという気がしてならない。われわれに、いま本当に必要な知性とは・・・
2005年10月17日
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土日曜日は、愉しく過ごしました。リストラされれば、なんだかんだといって「失業者」。これが一転、すでに新会社で代表取締役となって、いまや上場目指して大手キャピタルから億の資金調達をしている人もいるという抱腹絶倒の顔ぶれです。十名みたずの参会でしたが、すでに社長さんが3人もいるというのはめでたいことなのか、はたまた社長さんになるしか仕方がなかったのか。まあ、よろしいではありませんか。追々と、レポートいたします。
2005年10月16日
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(クリックでジャンプします)この日記は、2003年楽天日記に掲載後、一旦削除されたものの再録です。この服一着、10億円。、、、その話.実は、この際どうでもいい。本題は別のところにある。リンク先のご都合で画像はすでに消去されました。高い高いといってみても、某国土交通大臣が宝塚時代からごひいきの服飾デザイナーに依頼した一着70万円の防災服に比べてみても高いのか安いのかは一概には言えない面もある。リンク先のご都合で画像はすでに消去されました。最近、あちこちで処かまわず演説ぶっている危ないオヤジと化している私だ。面白がる人はどこにでもいるもので突然昨年末。とある某政府系の外郭団体から年初に特別な秘密の異業種交流会があるので参加しないか、とアドバイスを貰った。自分のように日本中をさかさまにふってもただひとつみたいな突飛な経験をした人間は、そういう特別のワークショップにでもほりこみしないと。理解を超えているという判断があったらしい。まあ、時間を適当につぶされるのかもしれないが紹介者が熱心なので、その方の好意をむげにしてはいけないと思い参加することを決めた。当初まるで期待をしていなかったのだけれども、これが予想を大きく裏切って物凄く面白い。やみつきになった。ワンフロアに総勢、60名ものサムライがあつめられる。それが個別に10班に分けられてそれぞれの班がワークショップになる。着席して、焦るの焦らないの。凄いオヤジばかりがあつまっていた。面白いのはみな同じ年代のまるで競合のない、異業種中の異業種。ちがうのは自分をのぞけばみな何がしかをシデかしきたというど迫力だ。場違いなところにほりこまれたと竦む気持ちも湧くが根があつかましいタチだし、同年齢の気安さもあって連日ワイワイと好き放題のことを述べて喧々諤々やっている。右どなりのオヤジさんは、自分とおなじ独身だが先方は菊川玲の大先輩。キャリアに菊印がからんでいる。しかも財閥系総合商社で30年。いちずに宙(おおぞら)のテーマを追いかけてこられた。リンク先のご都合で画像はすでに消去されました。冒頭の、10億円の服もこの方の扱いだ。といえば、もうその世界では「ああ、あの方」というぐらいの逃げもかくれもしないというサイズの仕事をしてきている。ところが、この仕事。この方の組織ではイニシャルな大業績というもの。誰の眼にみても明らかな内容。ところが、あろう事かまんまとプレスに手柄でもちだした上がいる。そちらはこのプロジェクトを当初から猛反対してきた人物だというのだから当惑するかぎりだ。この手の話。昨今、枚挙にいとまがないほどある。わが耳をうたがうのはTOEIC900もゆこうかという菊川玲の大先輩がこんな眼がくらむようなビッグプロジェクトを歴任してきていてさえ、リストラされているというのだ、、、自分のビジネス経歴の矮小さが恥ずかしくなるよりも、心臓に毛が生えていてよかったとつくづく親に感謝の気持ちがわいた。普通ならば同席できるような方とは思えない。それだけでも、眼一杯驚いたのだが真向かいの同班の学者さん風の方が、また仰天なことを言う。「そうなんですよ、わたしもなんです」って。焦る。焦るだけではない。そのかたは某大手製薬会社で、素人でもその競合激化が予想される高脂血症治療薬の開発に成功をされて、みずから所属企業に年商規模200億円もの新市場をもたらした人だ。ご存知ない方に私から説明をするとあの三共の「メバロチン」という超有名な高脂血症治療剤などはその一薬だけでいまは名前のかわった旧吉富製薬一社の年商規模の販売実績を三共にもたらせた。巨大なマーケットが存在すると同時に、激越な競合関係も想像に難くない。むろん、あの海外に君臨する巨大製薬会社も競合関係にあるという事を指摘しておこう。いや、これは日本の安全保障にもかかわる重大な問題なのだ。おい、この日記を厚生労働省のキャリアさん。読んでいたらこの種の話の重要さをよくよく胸に手をあてて考えた方がいいぜ。この組織などの上は、自分の手柄にするの自分の気に入らぬ部下をパージするのって低レベル放射能を放射していればいい。何万年でも周囲に放射していなさいって事だが、、、これは日本の国富の一大損失であるのみならずきわめて国家安全保障上の重大事だよ。分っているのかなあ?もし、この方が履歴書持参しているのを米英仏の大手製薬会社の意向をうけたエージェントがヘッドハンティングに来たらどうするつもりなの。「好き嫌いで部下をポアしました」「その後仕事はやりやすいです」というレベルの話じゃあないだろ。いま、日本の国で蔓延している失業率。ようやく改善して全国5.2%だという。そんな統計数字、到底あてにできないね。ようするに組織にとって、ほんとうに不要な腐ったりんごたち。実態での無駄メシ喰らいは狡猾な権力争いのはてに真の実力者を駆逐してまんまと組織内に温存されている。この時代の正しく戦力だった人達の成果や手柄をまきあげ平然と社内力学で意に染まぬ相手を銃眼で狙っていた奴だけがいまなおカジ取りしている。大組織って病気に罹患しているんじゃないか。また、雇用が改善しているといっても、ようするにこんな人達に皿洗いやビルのモップかけをさせているっていう意味でもあるんじゃないのか。雇用労働省の各種助成金をあれだけ浴びせたおしてこの異常な失業率。有効求人倍率は、求職者の74%しかない。それはそういう事になる。自分自身も、ある出願特許について某企業が弁理士に虚偽文書を提示してわたしがさも譲渡したかのように述べ特許名義をかきかえられたという事件がある。しかも、まだ特許広報にも記載されていない未公開出願を係争で晒すわけにもゆかない。そもそも刑事課もこんな事件を処理するスキルは持ち合わせている筈がない。こんなマネをする企業は通常の詐欺以外の特別立法で重禁固で即座に身柄拘束するぐらいの斬新な活動性を行わないと日本はかならず没落する。日本の組織は僭称の妄者の群れ、テレビにあふれた標榜ベンチャーが、今後求めに応じて日本の実力を真に担えるだろうか。米泥棒、西瓜泥棒のたぐいとはわけが違うだろう。昨今この国は上から下まで泥棒だらけ。国民の税金を身勝手にさも自分のものでもあるまいに、9000万円やるからイラクで死んで来いなどと自衛官に言い放つデタラメばっかの政府も大泥棒ならば、ネクタイにスーツで澄ましている泥棒ばかりが跋扈する企業社会もご同様。末期的だな。映画「第三の男」
2005年10月14日
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去年、この日記で皆さんに向けて話題にして記憶があります。あの毛利衛さんの宇宙服を数着、扱ったという方。一着2億円でしたっけ、、、まあ、世の中にはいろんな人がいるものですが彼らと年次会しています。といっても、なにも考えない「街道をゆく」というわけですが、そんなこんなで今週日曜日夜まで戻りません。また、シリーズの続きをお待ちくださいね。では、では。
2005年10月13日
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HGウエルズ; 私は共産党の対欧宣伝を観察してきましたが、現状にあってはその宣伝たるや、えらく時代遅れに聞こえるような気がします。ひたすら叛乱、蜂起をそそのかすような宣伝だからです。社会制度の暴力的な転覆を支持する宣伝は、専制政治に向けた際に初めて恰好がつくものだ。しかし、既成のシステムが崩壊しつつある現状では叛乱、蜂起などではなく能率、能力、生産性に重点をおくべきです。叛乱の煽動調は古臭い気がしますよ。そんな対欧宣伝は建設的な精神の持ち主にとりありがた迷惑な話にすぎません。スターリンは、かく語る(5)---その2われわれの年代でも、学生叛乱のシーズンとかでえらく威勢のいい兄ちゃんたちが「決戦」だの、「阻止」だのとうるさいまでに蜂起煽動を繰り返していた。彼らが新左翼だとかいって、すでにスターリンと一線を画しているのを売りものにしていたわけだが、なんだかガキがおやじらの年代の左翼に後ろからハッパをかけていただけのようにも思えないではなかった。自分自身は、佐世保や三里塚にしか正義の拠点が存在しないかのような口吻にどうしても馴染めないまま、自然と学生叛乱の季節は退潮。見事に熱気はひいた。自分のまわりにも、たかだか学費が値上げになったというだけの処遇に怒りをぶつけて、警官を2人も殺した同じ学部の学生がいた。奴らは、一体どうしているのだろう。刑期を終えて社会復帰しているのだろうか。彼らは、粗忽な上に、やったことはスターリンらの戯画的なまでのミニアチュアであったという気がする。HGウエルズは、割合自然体で「能率」「能力」「生産性」などという。いまでこそ彼の主張は私にも、十分同意できるものなのだが60年代後半のあの時代では、いきなり罵倒され、ひきづりまわされ、事と次第では暴行を受けるほど禁忌な語彙だったように思う。「能率」どころか、「の」の音を発語した瞬間に大声で「ナンセンス」と面罵されたことだろう。では、罵倒した彼ら政治青年に、HGウエルズの思いはどのように理解されていたのだろうか。おそらく当時ならば理解どころか、論旨の輪郭すら傾聴されることはなかっただろう。スターリン; 旧制度の崩壊、腐朽化が進んでいるのは言われるまでもありません。それは厳たる事実だ。しかし、この死にかけているシステムを死守すべくあらゆる手をつくして、別の方法による新しい努力がなされていることも事実ですよ。あなたは正しい仮定法から誤った結論を引き出された。あなたは旧世界の崩壊を正しく指摘されました。しかし、それが自浄作用だと考えたところが誤っていますね。そう、ある社会制度の交替は複雑にして長期間にわたる革命的なプロセスなのです。単なる自発的なプロセスなんかじゃない。闘争なのですよ。階級間の衝突が絡んでゆくプロセスだ。資本主義は腐朽しつつあるが、といってえらく腐っているために自然発生的に倒壊しなければならない老木と単純に比較すべきではありません。かつて、「政権は、武器から生まれる」と煽動していたどこかの国の国家主席が私達の先輩たちに金と銃器を供与して、内乱を起こしてみてはと繰り返し教唆していたという情けない記憶がある。最近は、反日教育の成果でいまだに侵略戦争の責任問題などと言い出して平然としているあちらの国は、実のところ戦争の輸出にいたく熱心だったのは、まごうことなき実体験としてある。われわれが過去50年以上も、平和憲法下で一切戦闘行為を行っていないにもかかわらず、国際サッカー試合で、下品な真似を行う人たちに追従して、わざわざ65年前の渡洋爆撃がけしらかんといいだす大手新聞社もある。ところがわれわれの国の青年たちは59年前に、アメリカの爆撃で東京だけでも一晩に29万人も殺害されたのに、ケロッと忘れていたりする。戦争をけしかけておきながら、戦争の被害者だと言い続けている国も卑しい国だと思うのだが、自身の父母兄弟をこれだけ殺されていて、憤懣もいだかずにディズニーランドに金を落とすという国民性も考えてみれば尋常だとは思えない。スターリンの述べるような「階級間の衝突」というようなシンプルな対立の構図も、この国民性の著しい差異を踏まえておかないと単純に丸呑みできるような内容ではないと思わずにいられない。実は、現在の北朝鮮はほかならぬスターリンの後押しでできた独裁国家である。もともと馬賊だった連中を、日本つぶしに好適とスターリンが強い推挙で金日成を選んだ。英雄スターリンとは、労働党総書記である金日成、その父であるとばかりにながらく敬意を表されてきたし、いまなおスターリンの生誕地は北の幹部の聖地である。その経緯もあって、朝鮮民主主義人民共和国においてはスターリンとの結び付きを背景に、金日成はスターリン批判の時代、当時なんとフルシチョフを修正主義として強く批判し、その後のソビエトとの関係を冷却化するリスクをあえて取るほどであった。なにしろ朝鮮戦争では、ソ連軍大尉だった金日成が、南進するに際してはスターリンの許可を取っている。深くソビエトとスターリンに傾倒していた金日成は、生まれた息子にユーリ・イルセノビッチ・キムという風なロシア名をつけた。ほかならぬ金正日の幼名である。なるほど「ある社会制度の交替は複雑にして長期間にわたる革命的なプロセス」なのだとスターリンが言った意味は、なんとなく分かるように思う処もあるのである。
2005年10月12日
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スターリンは、かく語る(5)HGウエルズ;私は共産党の対欧宣伝を観察してきましたが、現状にあってはその宣伝たるや、えらく時代遅れに聞こえるような気がします。ひたすら叛乱、蜂起をそそのかすような宣伝だからです。社会制度の暴力的な転覆を支持する宣伝は、専制政治に向けた際に初めて恰好がつくものだ。しかし、既成のシステムが崩壊しつつある現状では叛乱、蜂起などではなく能率、能力、生産性に重点をおくべきです。叛乱の煽動調は古臭い気がしますよ。そんな対欧宣伝は建設的な精神の持ち主にとりありがた迷惑な話にすぎません。わずか30分で読める、HGウエルズとスターリンの対談であるが我々が生まれた20世紀の帰趨を決定した大きな枠組みについて次々話題として応酬されている。その回答にあたっている人が、ほかならぬあのスターリンなのであるからして興味が尽きないのである。今日は、この暴力支配を目指すスターリンの世界革命戦略についてふれたい。
2005年10月11日
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会社を、大きくしたくない。きわめて稀にこのような信条を抱いた経営者がみかけられる。滅多にないことであるが、存在する。スターリンとHGウエルズが対談しているのを読みながら、ひとつだけこの対談で欠けて違和感を感じることは双方「大きいことは良い事だ」という点で不思議なほど一致していないだろうか。いぶかしく思った。スターリンとその徒輩があれほど官僚化し肥大かした。そして、あのような核超大国に向かわなければ今にいたる我々の長期債務なども理不尽に発生しなかったのではないか。そんな連関が脳裏に浮かぶ。1300兆円もの規模の日本の債務とは、冷戦時代の核超大国の暴走する軍事費の始末を、まんまと国際経済の流れで平和憲法下の日本にシワ寄せされたものと私は推量している。仮面ライダーの手本となった、60年代ヒーローに七色仮面というのがある。あの奇抜なキャラクターの懐かしいスポンサー、カバヤキャラメルの母体。林原という企業がそれだ。岡山県の人ならば、知らない人はいないだろう。この会社は、いまや抗がん剤などで有名になった製薬会社でもある。半ズボンだった自分が、いまや中年おやじとして周囲の女子社員から嫌われる年代になっているのに、林原はいまだに研究開発型企業としてベンチャー魂を無くしていない。この会社は、創業者以来会社を大きくしようという動機がないらしい。「会社は、ほっておくと絶対大きくなる。大きくなるのはまっぴらゴメンです」という。そんな経営者が、この会社にはいるらしい。林原健氏である。この林原健社長、実はわれわれの社会が恐竜化していることを危惧している。巨大化するということは、われわれが絶滅する生物であるという時間目盛を早める原因になるのだと、はっきりと意識されているらしい。珍しい経営者である。「愛社精神はいらない。まず家庭を大事にせよ」などと口にする経営者がかつて存在しただろうか。このような経営者が、国政を担当すれば人類の絶滅が多少は遅くなる。これは間違いない。ちなみに、林原は非上場企業である。村上ファンドなどとは志操が違う。
2005年10月10日
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三連休といっても、結構雑用に追われて忙しい。自分流の特製カレーをシチュー鍋一杯つくったが、突然滋賀の親戚から野菜を大量に貰ったとかで独り者の部屋にどかどかとやってきた。先週買った柿もまだ食べていないのに、これをきちんと休日に調理しておいて冷蔵庫に収めてしまわないと平日の食事で消費できないのである。そんなわけで、スターリン君とウエルズ氏には少し休憩して貰い、部屋の鍋でグツグツ煮ながら読んでいた本の話題を少々してみる。われわれ人類は、いったいいつごろ絶滅するのだろうか。6500万年前、地球には大異変が起きている。いや、地球の歴史は大異変の連続である。地球はおろか、宇宙が大異変の連続なのだから、地球などのドラマは可愛いものである。しかし、自分らの背丈にみあった大事件というとまだしも想像力の範囲というものである。実は、想像力を超えた事件なのであるが、それでも宇宙の異変に比べれば可愛いものだ。そのむかし、どでかい隕石が落ちた。ユカタン半島のキルクブChicxulub というところに落下したものは直径が10キロもあったという。これは、もう到底落下してきたなどというどころの話ではない。秒速20キロをしたまわってはいなかったというのだから尋常なわけにはゆかぬ。陥没したクレーターの深さがなにしろ直径180キロもあっただろうと想像されている。水爆などのエネルギーをあらわすメガトンとかいう単位でいえば、10×8乗メガトンというぐらいのものだ。いや、10×9乗メガトンだったという人たちもいる。実は、われわれが怖がっているあの東西冷戦時代。スターリンの子分たちとアメリカがつっぱりあっていた時代の核弾頭を、すべて足し合わせて一度に爆発させてもせいぜいのところで10×4乗メガトンぐらいだというのだからその恐ろしさが分かろう。そんなエネルギーがあれば、自分が鍋で煮ているシチューなどいったいいくつできるのだろうか。考えるだけで、アホらしい。われわれが核の冬などを心配しているのだが、地球は実際こんな経験を何度もくぐってきたすれっからしなのである。津波などはんぱなものではない。マグニチュード13というと、人類は未体験ゾーンだが、隕石の周囲の水は直径で数100キロ瞬時に蒸発したらしい。その部分に深さにして30キロの穴があいて、その穴に向けて太平洋から大西洋の海水が流れ込んだ。ざっくりとした話でも、波高300~400メートルもの波が世界中に向けて押し寄せていったらしい。蒸発したガスの中には、二酸化硫黄が大量に混じっていて、気の遠くなるほどの時間酸性の雨がふりつづいていたとか。嘘のようだが大気中の窒素ガスと酸素ガスが結合して、一酸化窒素が大量に発生しオゾン層は壊滅状態になったらしい。フロンやプロパンと同じようにオゾン層をたちまち消し去ってしまう。そうすれば地上は、殺人光線の降り注ぐ地獄のようなものだ。恐竜全盛の時代だったとしても、おそらく奴らも生き残れてはいない。これが、恐竜絶滅の引き金になったというのもうなづけるというものである。ばかばかしいことに、人類は恐竜が滅びてくれて肉食恐竜の餌みたいな身分から、ようやく地下に追いやられっぱなしの生涯を、空の彼方からやってきた隕石くんの大活躍で、ようやく地上の王様のような顔ができるようになった哺乳類の裔だ。こんな偶然の「たなからぼた餅」のような幸運(地獄をみたのだから幸運とも言い難いのだが)を辛くも得て、哺乳類の天下を頂戴したのである。こんな大幸運を有り難いと感謝するでなし。どうも、最近地球をガタガタに壊して、恐竜のようにもう一度滅びたいと志願しているのだろうか。さて人類は、いつごろ絶滅する予定にしているのだろうか。
2005年10月09日
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むかし、たまゆら1/fさんのお仕事場のあるあたり。妖しい係争にまみれていた。短いあいだ新宿の三光町に住んでいた頃だ。花園神社の東側だったのかな。曙橋にほどちかい、片町のとあるビルの地下にピアノの小さなクラブがあった。30年も前なのだろうか。そこのクラブにはアコさんという美しいママがいた。自分は、クラブなどには用事はない。クラブに通いつめているオヤジに用件があって、時折顔をだした。一度席に座れといわれて、いやいや暫く水割りを舐めていたことがある。まだ30前の俺にすればクラブなどというオヤジらの趣味には、気味が悪くて早々に退散したかった。だがその時。顔見知りになったアコさんが客あしらいのセリフが結構面白い。どこかのオヤジが「東京はどうだ」と俺にいうから、少しは追従含みで「可能性があっていい街ですね」などと言ってみた。彼女は、にべもなく「なんか、植民地みたいだけれどね」という。そこのビルのオーナーは、まだ若くて自分とも10歳も離れていないのだがそのクラブの常連で来客をよく連れてくるらしい。そのオーナーが、政治部記者から自民党の代議士になりのちに外務大臣などをつとめたあの先生の息子と同級生だった。財閥系商社に勤務していて、おとなしくしていればいいのにばかばかしいことに先物取引に手をだし、かつての同級生だったオーナーに泣きついてきた。オーナーが先物取引には、手の打ちようがなく俺が関わっているオヤジが業界の裏工作をすることになったりする。しかし、えてしてオヤジ連中は動かない。なんだか訳が分からないが実務を俺が動き回っていたりした。いまや兄貴が幹事長にもなろうというご大層な御家柄だが、くだらない小遣い稼ぎに失敗して、その下手うちを同級生に始末させるなど普通では考えられない処だが、なにせこの国では、そのオーナーの友人ちの爺さんは、とんでもないビッグネームである。アコさんの嫌う日本を植民地にするレールを牽いた張本人がその商社勤務の同級生の爺さんなのである。アコさんは、何食わぬ顔をして奔走しているオヤジらや自分の動きを知ってか、知らずか。折々に面白いことを言う。綺麗な顔だちに似合わず、内面は鋼鉄のような人なのかもしれない。「わたしは主婦なんてインチキだと思う。男は、みんな血みどろで汚れまわって金稼いでいるのに、それを黙って銀行口座から引き出して生きているのに平気。あの神経が分からないわ」本気で、そんなことを思っているふしもある。とても30代の女性の意見とは思えず黙って聞いていた。当時自分らがやっていることは、時代の秩序とその流れではもっとも政治的強者と思われた一族への諂い(へつらい)である。 …歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや… おしてるや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 芦蟹を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや… かもかくも 命(みこと)受けむと 今日今日と 明日香に至り 置くとも 置勿(おきな)に至り つかねども 都久怒(つくぬ)に至り 東の 中の御門ゆ 参り来て…(万葉集 巻16-3886)祝言人(ほかいびと)と言うのだろうか。太古の昔から、権力に媚諂って「ことほぎ」の「ほぎ唄」を「ほか」の人に向けて(既成秩序に向かって恭順の表明として)うたう、壽唄(ほぎうた)のうたい手、とでも言うところであろう。結局、自分らは笛や琴になりかわり昭和の巨魁とやらの孫のくだらない癪の種を取り払い、先物取引業界の連中に裏取引で収拾をつけるという。一種のスキャンダル隠しを「献上品」として、少々のねぎらいを貰い受けた。バーターで手中にしたのは、利権で知られる業界の特殊な製品の取次で窓口解除という、うさんくさく馬鹿げた恩賜であった。皇居に近いところで奔走すると、関西では手にはいらないものもスルスル手中に収まる。大阪にいる仲間達からは、魔術のようだといわれたものだった。
2005年10月07日
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え~?ますますこんがらかって来ちゃいました~ 笑それにしても「ソ・連」てたなぼた国家だったんですね? マリィ ジョー ♪さん では私の話の筋を、誤解を恐れず単純化しましょう。かつてレオナルド・ダビンチは、鏡で写せば読めるという文字が自在に書けたそうです。わたしの述べていることは、たぶん鏡に映すと「なんだ、そんなことか」というぐらいばかばかしいほど簡単な事なのだという気がします。わたしは、内ゲバが全盛時期に大学周辺で激しい殺戮行為が挙行されているのを何度か目撃しました。同じ学部の他学科の学生の中には、内ゲバの流れで警察にも襲撃を加えて警官を二人殺した奴もいます。あの狂気は一体なんなのだろうと考えたものです。「弱者の戦略」というものは、ようするに「強者への諂い」ではないでしょうか。強者と対立することはリスクです。そこで、まず自分たちより下位の弱者を叩くわけです。ことと次第では、殲滅することになるのでしょう。暴力は二重の場面で犠牲を産出する。根源的な場面、すなわち、秩序生成の場面で犠牲をつくりだし、ついで権力と秩序の場面で犠牲をつくりだす。犠牲の生産の視点からいえば、暴力の本質とは、いたるところで犠牲を生産することだと定義できる。犠牲者とは、排除されたる存在者である。犠牲生産的暴力は、排除する力である。 今村仁司「排除の構造」ひとたび「秩序」が暴力的なまでに形成されてしまうと、その秩序の隊伍の中で弱者は、くりかえし同列の弱者を暴力的に駆逐して「秩序」(強者)へ諂いをする。それが弱者にとって生き残りをかけた生存を維持するための戦略となるわけです。♪ゴマを~すりまぁ~しょう陽気にゴマをねっ(あっ・・・すれすれ!)口からでまかせ出放題~手間もかからず 元でもいらず~すれば~この世に チョイト(チョイト!)チョイト(チョイト!)春~が~来~るエライ奴ちゃ、おだてろ。ゴマすってのせろいすれすれすれゴマすってのせろ♪ 「日本一のゴマすり男」作詞 青島幸男60年代反米安保闘争で、潰えた広汎な市民や学生の実力闘争。その夢想し、要求する国民的秩序は日米政治権力の圧倒的だか、辛勝だったかはともかくも結果において壊滅的なまでに親米政権の示す秩序の下に封殺された。しかし、社会的には経済成長期日本の企業群の中へ怒涛の如くに流れ込んだ大衆の底抜けの「諂い」(=ごますり)が闘争の第二ステージとして、次々と反権力を払底させることになりました。わたしなどの年代は、これを身をもってその過程で翻弄されたという思いがあります。実は、哲学者今村仁司の述べる「排除の構造」とは、ひとつにはこのゴマスリという大衆が無意識に採用する心的な機制にみられる、継続的で恒常的な「芽むしり仔撃ち」的な暴力の深化(暴力の慣習化)がわれわれの日常であって、企業や地域の既存秩序にひたすら順化し適応するという普段着のありかた、そのものがひとつの暴力の拡大再生産であるという視点。さほど嘘臭い話ではないでしょう。学生時代、警察官を殺害してまでも学生権力による新秩序を目指していたほどの男達が、企業社会に転じては女房子どものためだと平然と職場にあって上司に媚へつらいをする。その瞬間、常態的に企業が暴力的に切り捨てるさまざまな現場に眼をそむけて、経済社会の暴力的狂奔についての一切の異議申し立てを放擲してまでも、自身の生活と家庭を秩序内部に編成しようとしてきた。そして、その見事な成果がこれではありませんか。以下の画像をクリックしてください。
2005年10月06日
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もともと戦い奪い取ることを前提にWIN-WINの構造は取れなかったこと、常に対立関係で構造を理解する立場だった人に牛耳られた国。国の本質ってこのようなものなのでしょうか?会社経営も似ていると思います。ところで、しかも、それが「弱者の戦略」で行われていたという二重の不幸・・・が気にかかる。 儲かる仕組み請負人さん 弱者の戦略、といっても概念だの思想だのではなく、ただの反対派つぶしとも思えますが、その反対派たるやボルシェビキが政治首班をとれる環境づくりをした、もっぱらロシア革命の担い手たちだったりするのですから権力を集中するなどという呼び声がどれほど罪作りなものか想像できるというものです。日本でも、「民主集中」だとか、「プロレタリア・ディクタツーラ」だとか、「共産党一党支配」のバリエーションがつぎつぎと呼称だけをかえて登場するのですが、そんな空恐ろしい目標を掲げている政党がこの国で政権をとられてはたまらないと、ますます保守化が進んでゆくというようなものですね。スターリン支配以後も、手をかえ品をかえ政治指導、国家権力の少数派占有の事例にことかきません。最後の最後にはただの独裁国家だけが残るというような。無惨な仕儀になる事例。ことかきません。陰謀団支配のレーニン主義スタイルでは、どう転んでも最後の最後には恐怖支配に雪崩れ込むようです。会社経営というのか、日本の民間企業でも中小企業ほど「北朝鮮」的な雰囲気な会社が多いし、会社経営などときれいな標榜をしていても実態で猿山のボス支配の様相と大差なかったりします。合理的、妥当な概念化をするだけ野暮で、属人的な好き嫌いが大きな顔をして組織内をあたりはばからず大手を振って行き交う。これは、理性や労働以上に暴力が人間的な特性だと考えた方がよろしいのかも。どういえばよろしいのか、われわれの近代において理性の神話世界から離脱するという伝説が再現されている一方、人間はますます暴力的な存在として本領を発揮し続けることでしょう。理性は、世情思われているよりも遥かに早く硬直したちまち神話的な存在に転落する。理性のすがたをして神話的な暴力や現実の諸相の中で、制度的な暴力の実存形態をとりながら人間を魅了する神話的暴力としてさらに高度化をとげようとしているのかと思われます。その増幅器が、まさしくテレビであり、テレビを利用しつくしたわれらが首領、小泉純一郎ということにもなりましょう。注意深くテレビのチャンネルを非政治的な番組にあわせいても、半島系出自の芸能人や政府与党に参画している宗教カルトの婦人部長、文化宣撫部員みたいな芸人ばかりがあふれかえっているではありませんか。彼らがもともと社会的な弱者救済の名目で組織拡大を遂げてきたという過程は、調べなくても皆さんご承知のとうりです。さて、HGウエルズとスターリンの応酬について引き続きみてゆきます。
2005年10月05日
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こんばんは。最後まで読ませていただきます。さて手始めに「弱者の戦略」という概念を勉強せねば。あちこちで耳にはするのですが、実際のところはよく知らないんです。Re:いいですか、ウエルズさん(10/03) マリィ ジョー ♪さん 最後まで読んでくださる方が、数十人もおられれば十分です。「弱者の戦略」というのは、身近ではランチェスターの法則などといって言説を商品化されている方もおられるようですがヒラの市民が社会や自治体、権力や大企業などと対峙する際に自然と反射的に対応する態度だと思います。弱者は、リングから転げ落ちることを最優先で避けないといけない。戦略以前に闘い続けられるポジションを維持し続けることが常に切迫度の高い課題になるわけです。われわれは核超大国時代のソビエトロシアを記憶しているために、あの国が最初から超大国だったかのような錯覚をしますが、実は1917年以前には、ユダヤ人共産主義者の極めて少数者が、よりによってボルシェビキ(多数派)などと大嘘をつきながら謀略づくしで急成長した、脆弱で陰険な権力物色集団だったに過ぎません。思いもよらず権力を獲得できるというような「法外な機会」が訪れた時には、レーニンをはじめそのコアなメンバーはロシア国外にいて、棚からぼた餅のようにソビエト権力を手中にいれた、というようなものです。棚からぼた餅というのは、小泉チルドレンだけの話ではなく、ソビエト連邦の基盤に政権を担った、共産主義者の大多数はロシアの労働者に推されて、スルスルと権力に上り詰めたユダヤ人謀略団体だったということで理解しておいても、まず間違いないでしょう。なにしろ亡命中のレーニンなど、スイスで数年前まで「われわれの存命中に革命の機運はおとづれないだろう」などと述べていた。それほど革命は、陰謀団体に、鴨ねぎを背負って押しかけてきたわけでした。彼らは、その少人数で一致結束するどころか、しのぎを削ってその幸運にも獲得した労働者国家の国家指導を誰が牛耳るのかということを、大多数の労働者や農民のあずかり知らない舞台裏で血みどろで権力闘争を繰り返していたわけです。HGウエルズに、スターリンが述べているのはそんな背景から「語らざるをえない」強い思いがにじみ出ている気がします。ブルジョアジーの善意を信じないのは、同志の善意など僅かも信じていなかったスターリンらには当然のことでした。権力が血まみれで獲得維持される、というのは彼らの日常では確信に近いものだったという気がします。しかも、それが「弱者の戦略」で行われていたという二重の不幸・・・
2005年10月04日
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レーニンと歓談するHGウエルズスターリンは、かく語る(4)スターリンの生涯については、あまり興味が湧かないのだがこのHGウエルズにむきになって駁論するスターリンには学ぶところが多い。わたしなりに、この楽天広場のご同輩に解説を行うとすればこのスターリンの論は「弱者の戦略」という気がする。あれだけたくさんの反対派殺しをおこなった鋼鉄の男が、なにゆえに弱者なのか。いや、しみったれてケチでヤキモチ焼きな「左欲」があれだけ残忍になれるのも、その出自が惨めで悲惨な弱者ゆえだとわたしは思う。左翼は、権力に封殺されるよりも遥かにかれらの党派間の角逐で殺戮や抗争を繰り返し自滅的なまでに消耗していった。それはスターリンが範を垂れたからなどというものではない。およそ革命だの、社会変革だなどというものが本格的であれば、あるほどその成長にはおびただしい流血と犠牲は避け難く存在する。よく言われる路線対立などというようなものは、その大半がロジックでの対立であったためしがない。実は、成長には膨大な規模のエネルギーがいる。「金」「モノ」「能力ある人材」「チャンス」もっといえば「女」だっている。そのどれもが人間を狂わせるようなシタタカな存在である。いずれもが、そこに存在するだけで「価値」であると言ってよい。それ自体が「価値」で、お宝で、保有することだけで「勝ち」であるような存在を、よりによって束にして、るつぼで煮立てて粗末に扱い襤褸のように蕩尽する。そういうような世界が、すなわち革命だの変革だのという活動なのである。このるつぼの中では「金だけで満足だ」とか、「女を得て、ひっそりと暮らせればいいや」などというような中間的な迷妄は許されない。それらは坩堝(るつぼ)の中の一滴の水蒸気のように瞬時にかきけされてしまうことだろう。なぜならば、その坩堝は有限の資源であって、常に「排外的な」獰猛さに満ち溢れている。スターリンは、なまじっか理想主義的な要素が少なく、レーニンやトロツキーよりも、遥かに小心でケチなうえに嫉妬深い性格だったから生き残れた。どうせ、そんなことだろうと想像している。スターリン;世界の変革というのは偉業にして複雑、実に骨の折れるプロセスです。かかる大事業には偉大な階級が必要なのです。大型船ほど長い航海ができるものだ。HGウエルズ;ええ、しかし長い航海には船長と航海士がいなくちゃならない。スターリン;そのとおりです。しかし長い航海に出ようとすれば、第一条件はまず大型船ですよ。船を持たないような航海士なんて、一体なんだろう。暇人にすぎません。HGウエルズ;大型船はいわば人間性であって、階級なんかじゃありません。スターリン;いいですか、ウエルズさん、あなたは明らかにあらゆる人間は善である、そういう信念のもとに話を始められた。しかしながら、世の中には性悪な人間が大勢いるという事実を私は忘れていない。私はブルジョアジーの性善説なんて信じませんよ。
2005年10月03日
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スターリンは、かく語る(3)スターリン;あなたは人類を貧乏人と金持ちの二階級に単純化することに反対された。もちろん、中間の階層は存在しますよ。あなたの指摘された技術インテリゲンチャがおり、非常に優秀で誠実な人々もいる。なかには不誠実でよこしまな連中もいようし、そんな彼らとても十人十色だ。しかしながら何より第一に、人類は金持ちと貧乏人。資本家階級と搾取階級に区分されているのです。この基本的な区分、貧乏人と金持ちとの対立関係から眼をそらすのは、基本的な事実から目をそらすということを意味します。私は中間の、両者の関係に挟まった階層の存在を否定しはしない。彼らは対立する中立を守るか、あるいは準中立的な立場をとる人々です。しかし繰り返しになるが、社会におけるこの基本的な区分、二大階級間の基本的な闘争から目をそらすのは事実を無視するということになる。この闘争はずっと続いており、今後とも続けられることになる。闘争の結果はプロレタリア階級、労働者階級が決めることになりますね。HGウエルズ;しかし世の中には貧乏でなくても、よく働き、生産性の高い働きをする人々がたくさんいるのではないですか。スターリン;もちろん、小地主、職人、商人がいますよ。しかし一国の命運を決するのはそんな人たちじゃあない。汗水流す労働大衆、社会の必需品のすべてを生産する人たちだ。HGウエルズ;しかし現にすこぶる毛色の変わった資本家もいますよ。利潤の追求、富を蓄えることしか念頭にない資本家もいるが、犠牲を辞さない資本家だっている。「大作家」と「赤い鋼鉄の首領」との議論は、白熱してゆく。階級闘争の世界史的な現実を認めるのか、否かというおなじみの応酬はここでも両者の政治的な論点を照射する試金石である。鋼鉄の首領からすれば、階級闘争を世界的な規模で指揮指導するがゆえに、その指導性を自らの権威とも引き寄せる階級闘争の世界党を任じているスターリンからすれば、その権威を希薄化させる中間層インテリゲンチャや開明的商人や職人たちなどの「建設的運動」なるものには、断じて古いシステムを破壊する主力の立場をゆずるわけにはゆかないという事情もある。実は、日本でも多くの共産主義者たちが、敵資本家と対立する自分たちの階級性について不思議なほどにこだわる理由は、いうまでもなく権力を志向し、その集中はいかなる理由があろうとも自分たちの手元で行われなければならないという非妥協的な理由がある。つまり、「権力は自らのものであれかし」、しかして、「死ぬのは奴等だ」というわけなのである。これは倫理のレベルでいえば、悪は奴等であって自らは善であるという譲れない立場の表明なのであるが、そこにはいかなる論証もなしであって常に自己言及気味に労働者階級は善であり、ブルジョワジーは性悪でなければならないという都合がある。ひいきめにみても、闘っているのだから敵は悪であり自陣営が善であることは守りきらねばならない超越的な「善」なのだというわけだ。スターリン;われわれが訓練したインテリゲンチャたちは、新しいシステムを支援しようと積極的に賛成してくれた。今日、こうした技術インテリゲンチャのうち最高の一団が社会主義社会建設の最先端に立っています。かかる経験をしただけに、われわれは彼らの長所短所を知り尽くしており、一方で害を及ぼすかと思えば、地方でミラクルを起こせることもわかっています。もちろん、技術インテリゲンチャを精神的に資本主義世界から一気に切り離すことができれば、事情は違ってくるでしょう。しかし、それは夢物語ですね。
2005年10月02日
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↑クリックでジャンプします。阪神タイガースの優勝ということで、毎度日本橋を歩き回る。パソコンにはシーズン的に面白みのある機種が目に留まらなかった。結構、上新電機はご贔屓で関西には上新電機でしか買い物をしないという熱烈なファンもいるらしい。自分は、買い物はともかく品選びは上新電機でするというスタイルだ。今回、ひまつぶし半分で上新電機日本橋一番館へ。意外に店内は空いていた。梅田のヨドバシカメラという流れも最近は旬なのかもしれない。実は、心中念頭ではlamdashを狙っていた。安いとか、高いとかは躊躇しない。とにかくlamdashを買おうと思っていた。実は、オヤジの影響もあって自分はNationalという企業ブランドが嫌いである。今井美樹の好きな自分は、彼女がCMに出ていた時期には三洋電機製品ばかりを購入していた。そのせいか、のちに関西ニュービジネス協議会で優秀ビジネスプラン賞を受賞したときに賞状を井植敏御大から直々で貰った。これも今井美樹のごりやくだったのだろうか。それはともかく、ことさらNational製品が好きなわけではない。ところが、唯一シェーバーだけはなぜか歴代National製品を購入してきた。けして電気髭剃り器を使っていない自分が、不思議に歴代製品を持っている。何日か使用しては、使い物にならないと確認してひたすら貝印安全剃刀をご利用させていただいている。TGS-5H T型カミソリ ゴールドSという奴だ。これが自分なりに考え、現状国内外で最強の髭剃りだと確信している。それならば、なぜ毎回シェーバーを購入するのか。それは、技術の現在を体感するためである。自分の顎まわりの髭はほんとうに手こずる。自分の顔の剛毛の分散形は、集合毛渦型という分類になるそうだが、どの角度から刃をあてても気持ちよく剃れない。1969年モデルからずっとNational製品で試みてきたけれど、3日もすればほり投げてきた。剃れないだけではなく、気持ちが悪いのである。あのモーターの振動を受けるだけで不快感が満ち溢れてくる。1977年モデルも、1988年モデルも使用してきたが、進歩点はそれぞれ認められたものの、到底使いものにならなかった。lamdashは、面白い。およそシェーバーの可能性は信じていなかった。銭湯で売られている100円剃刀がいかに侮りがたいかという事である。ようやく電動シェーバーは、軽便剃刀を越えたと思える。高価なのは、残念だが一枚刃の剃刀を越えることがいかに難しいのかという事だろう。なんだかアダルトショップの大人のおもちゃのような噴飯もののスタイルなど大袈裟のかぎりを尽くしているが、剃り味だけは満足が行く域に達している。
2005年10月01日
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