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2月15日(金)の研究発表会では、公開授業の後に、分科会(授業研究会)が行われた。その中で、私の「板書」について「何に気をつけているのか」という質問があった。そこで、「板書」のポイントとして答えたのが次の3点である。1)子どもの「語り」を可視化し、他の子どもの発言とつなぎながら対立軸を示す。2)「語り」の中の根拠となる事実(観察・実験のデータ)を黄チョークで囲んで示す。3)子どもの考えを図で表すことによって、モデル化を促す。これまで、あまり意識したことはなかったのだが、参加していただいた先生の質問によって、整理することができた。しかしながら、当日の「板書」は、次の通りである。「大きな石が流される」と「大きな石は流されない」、「石が水の流れで削られる」と「削ずられない」という2つの対立は赤の矢印で示すことはできたものの、子どもたちの発言の中にあった多様な根拠をほとんど取り上げることができなかったため、対立軸が明確になっていない。また、子どもの発言を聴くことができなかったことから、その考えを図にすることができていない。やはり、反省ばかりである・・・。
2013.02.28
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前回のblogのつづき。子どもたちの発言の中で根拠として挙げられた「流水実験で確かめた流れる水のはたらき」や「実際に見学したときの観察結果」にもどすことができないまま、とりあえず「ちょっと、近くの人と話し合ってみて」と指示してしまう。おそらく、このことによって、話し合いの「節」が無理矢理折られてしまったのであろう。その後、子どもたちの発言がかみ合わなくなってしまった。・・・・・T 「じゃあ、どうですか?だれでもいいですよ。SMくん。」SMくん「えっと、あっと、あのその、上流から、A地点からB地点にかけては、その、水、水、あっ、その水の速さが速くて、あの、どんどん削られていくんですけど・・・。」T 「何が削られる?」SMくん「石が、その水の・・・、ぼくはMRくんのに賛成で、水の力で丸くなるというので、それで、BからCにかけての、あの、砂っていうのは、石が削られてできたわけではなくて、BからCにかけての流れがゆるやかになりすぎて、その、石が運べない状況、smさんと反対で、その、石が運べなくなって、それで砂ぐらいしか運べなくて、で、C地点では砂しか・・・。」T 「A地点では、どんどん水で削られたんだってね。どうですか?NGくん。」NGくん「えっと、SJくんの考えを取り入れて考えてみると、えっと、石が流されないということだから・・・。」T 「ちょっとまって、SJくんの考え、どこかな?あっ、これか。」NGくん「となると、Cの地点に、石が流されなかったら、Cの地点に砂がないわけだから、その、水で少し削られたりすると、ちょっと軽くなって、流されたりすることもあるから、それも、少し関係してくると思います。」T 「軽くなったら運ばれる?」NGくん「軽くなると、あの、重さが軽くなるので、たぶん、うん。」T 「smさん。」smさん「SMくんが、石が運べないっていったんですけど、それだったら、そのB地点にある内側の石は、どうなのかなって・・・。だから、そのAからB地点に向けて、大きな石とかは、水の力で、その丸くなっていくっていうのは分かるんですけど、そのB地点の内側にある、その小さな石とかは、もともとそこにあったわけじゃないから、そこは、その、どうやって・・・。」T 「Bの石は、ってことね。うん。じゃあ、esさん。」esさん「えっと、私は、smさんのに答えるんですけど、あの、上流からB地点にかけては、たぶん運搬のはたらきっていうのは、水の速さが速ければ速いほど強くなるんじゃないのかなって思ったから、あの、流水実験で分かったように、さっき、そのksさんがいったと思うんですけど、A地点までの水の速さとか運搬の力は、かなり大きいと思うから、そっから、B地点かけて石を運ぶっていうのは、簡単に運べるって思うんですよね。で、でも、B地点のときには、もう、水の流れが、ほとんど遅くなってるから、運搬のはたらきが、ほとんど、あまりない?状態だから、その、石は小さくても石は運べないんじゃないかなって思ったから、B地点にある石が、C地点にあった、その、砂?ていうか、泥?と同じっていうのは、私はちがうんじゃないかなって思いました。」T 「(B地点の石を持って)これはA地点にあって、まだ、これは流されたんだって。ところが、B地点からC地点の間では、もう、これは?」esさん「流されなかった。」T 「流されなかった。ちょっと時間がきましたので、この続きは、次の時間にやりたいと思います。(机の上の石を指して)これも、置いときます。それでは、ノートに自分の考えを書いて、次の授業の準備をしましょう。これで終わりましょう。」・・・・・SMくんとsmさんは同じことを言っているのに、私が「石が水で削られる」という部分だけしか聴いていなかったため、上手く整理ができずに対立させてしまった。また、NGくんの発言も同じである。おそらく、もともとの考えは「浸食モデル」に近いものだったのだろう。しかし、運搬するはたらきの大きさを振り返り、B地点からC地点にかけ「軽くなったものだけが流された」と主張していることが分かる。ここても、「水で削られる」という部分だけが気になってしまう。smさんも、全体の話し合いの前半での発言と比べると、より運搬するはたらきを意識している。おそらく、「運搬+粉砕モデル」から、「運搬モデル」に考えを変えたのだろう。その変化も取り上げることができなかった。後悔ばかり残る授業である。※ 今回の記録は、2月15日のものである。
2013.02.27
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前回のblogのつづき。B地点の写真(カーブする川の内側に石が堆積している)を根拠にしたsmさんの「この石(B地点から拾ってきた石)は流れなかった」という発言。これは、流れる水のはたらきの「運搬するはたらき」に着目し、B地点とC地点の石の大きさのちがいについて説明したものである。事前に書いた指導案には、本時の目標を「上流と下流の石の大きさや形に違いがある理由を流れる水の『運搬するはたらき』と関係付けて説明することができる」としていたのだが、このことに近づくものであったのだろう。しかしながら、私が子どもたちの発言を聴くことができず、十分に取り上げることができなかったため、次第に混乱していく。(私の受け答えが一番混乱しているのだが・・・。)・・・・・T 「MKくん。」MKくん「えっと、疑問なんですけど、えっと、まずその上流の石は、山から流れてきたばかりだから、その、大きくて、ゴツゴツしていて、で、その下流?は、あんまり、B、Bの、まあ、Bに、Bは、あの、こんくらいの丸丸した石なんですけど、その、なん、その上流は、こんなゴツゴツしていたのが、まあ、流されるにつれ、ちっちゃくなっていったんですけど、あの、どうやったら、その、その、人が丸くしたわけでもないのに、その、どうやったら勝手に丸くなるのかなって思いました。」T 「どうやって丸くなるのか・・・。HNくん。」HNくん「えっと、HNくんのやつで、えっと・・・、えっと、あっ、ちがう、えっと、ぼくが思うのは、上流、あっ、中流の石には、えっと、白い粉がまわりについていたから、その白い粉とかだったら、塩っていう可能性もあるんですけど、B地点だから、まだ塩はないと思って、で、石をたたいて、石同士でたたいたり、石を削ったりすると白い粉が出てくるから、それで、上流から、石同士がぶつかったりして、割れたり、削られたりして、その小さくなったのと、あと、MKくんがいった疑問で、どうやって丸くなるので、その下に、川、あの、川の下らへんにも石がまだたくさん、流れてなくて残ってるのもあると思うから、それが、その、その石に、を削って、丸くなってるんだと思いました。」T 「うん? なんか図かなんか何かかいてる?」HNくん「いや、かいてないです。」T 「(黒板に図をかきながら)下に石がある?あっ、分かった。もう一回説明して。」HNくん「川の、川底に、流されていない石がたくさんあって、で、えっと、流れが、多く、水の量が多くて、水の流れが速かったら、その上らへんを、その、浮いた感じで石は流れるって思うんですけど、ゆっくり流されていくから、その、下らへんを下っていく感じで流れると思うから、その下にある石が、その、えー流れている石にぶつかって、丸くなっていくんだと思いました。」T 「川底の石にぶつかって、丸くなっていく。MKくん、何?」MKくん「で、その、えっと最初は、上流からきて、ゴツゴツしたわけで、それから、あの、まあ重いからどんどん川底を流れていくっていうのは分かるんですけど、でも、その最初はゴツゴツしていたわけだから、そんな、あの、川底に何個もあったからといって、その、なんか、丸くはならずに、ただ、なんか、もう、そこら辺に落ちてある、なんか、ガタガタの石みたいになると思うから、あの、HNくんの意見では、ただ、丸くはならないと思います。」T 「MRくん。」MRくん「えっと、ぼくは、石と石がぶつかって角が取れるんじゃなくて、水の力によって、あの、石が、あっ、角が取れるから丸くなると思って、やっぱり、石と石がぶつかると、石が割れて、あの、丸くなるんじゃなくて、逆にとがった形になるから、えっと、やっぱり、水の力で、どんどん丸くなっていくのかなって・・・。」T 「つまり、水のよって削られるってこと?」MRくん「はい。」T 「kmさん。」kmさん「MRくんの意見に反対で、えっとなんか、水だけで丸くなるっていうことは、たぶん、ないと思います。すっごい水の量でもそう簡単に丸くなることはないと思うから、それはちがいます。」T 「ちょっといいかな。MRくんは、こうやって流されていくうちに、小さくなっていくって思ったの?」MRくん「いや。まあ、角が・・・、B地点で、さっきみたいに小さな石も流れてきていて、積もってたから、C地点では、石が、なくなっているわけだから、まあ、泥しかなかったということで、C地点、あっ、さっきもみんなが言ったようにBからC地点にかけては、水の流れが遅くなっているわけだから、えっと、もう、もともと土だったものが、C地点に流れてきたんだと思って・・・。」T 「いいよ、続けて。」MRくん「・・・AからBにかけてだけ、水の早さが速いだけだから、まあ、さっき言ったように、そんな石と石がぶつかって割れるとは思うけど、少しは水で削れてるのかなっと思いました。」T 「IYくん。」IYくん「ぼくは、MRくんの、えっと、水の流れだけでは、ならないと思うんですけど、水の流れもあると思うけど、まず、最初に、石とか、川底に当たって、まあ、割れたり削れたりして、それではまだ角ばってて、それで、あの、川の流れで、たぶん、その、角ばっているところもどんどん丸まっていって、最終的には、そういう丸っこいやつになってると思うから、水の流れだけではなくて、たぶん、石も、たぶん関係してるかなっと思いました。」T 「じゃあ、ちょっといいかな。時間も少なくなってきたので、今日は、まず、石の大きさを考えていたよね。途中で、なんでこんな丸くなったのかっていう話になったんだけど、少しもどって、大きさね・・・、まっ、この丸くなってるのも関係あると思うんだけど、どんどん流されながら小さくなっていくんだってanさんが言って、で、ちょっとおかしいなって。みんなこのことについてどう思いますか。IYくん。」IYくん「えっと、もうなんか、esさんも言ってたんですけど、最初は石は全部ゴツゴツしていて、どんどん、最初全部平等というか、なんかいっしょで、どんどん上、あの下流に行くにつれて、AからB、Cに行くたびに、どんどん、今さっき言ったように削られていって、それで、石の大きさは、どんどん石の大きさは小さくなって、それで、最後は砂になって、たぶん、だから、石の大きさがちがってくるんじゃないのかなって思いました。」T 「なんによって、削れられるっていったのかな。」IYくん「水と石だと思います。」T 「水によって削られる?」IYくん「うん。」T 「・・・ちょっと、近くの人と話し合ってみて。」・・・・・おそらく、MKくんは、それまでの友達の発言を聴き、B地点からC地点にかけて「水の流れが遅くなり、石は流されず砂や泥だけが流された」ということに納得していたのだろう。ただ、A地点からB地点にかけて、浸食モデルや粉砕モデル、それに運搬モデルが複合した説明があり、それらを私が上手く整理できなったっことから、A地点からB地点の「石の変化」について問題提起したのである。この「どうして角ばっていた石が丸くなったのか」という問いに対し、HNくんが「Bの石に白い粉がついている」ことを根拠に「川底の石にぶつかりながら流れてきたから」と説明するものの、MKくんは納得しない。同じように、MRくんも「石同士がぶつかるんだったら、割れてとがった形になるはず」と反論する。そのMRくんも、「角がとれた」理由を「水によって削られた」と主張。もちろん、このことに対して、kmさんやIYくんは「水の流れで、そこまで石が削られることはない」と指摘する。もしかしたら、このとき、子どもたち同士では対立軸が明確になっていたのかもしれない。AからBに着目し、流されている間に石同士がぶつかって角が取れたのか(粉砕モデル)、流されながら水に削られて角が取れたのか(浸食モデル)。もしくは、Aで水の流れによって削られ、丸く小さくなった石がBまで流されてきたのか(浸食+運搬モデル)。IYくんの「石と水によって削られる」という発言を聞き間違ってしまった私。せっかく明確になりそうだった対立軸(論点)を整理しないまま、中途半端にペアの話し合いにもどしてしまったのである・・・。(つづく)※ 今回の記録は、2月15日の記録である。
2013.02.26
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前回のblogのつづき。TRくんとesさんの発言を聴いて生まれたanさんの「流れが遅くなるのに、どうやってBからCにかけて石が削られるのか」という疑問。その疑問に対して、複合モデル「浸食+運搬モデル(B)」を提案したksさん。私は、その発言を上手く取り上げることができなかったのだが、その後、子どもたちは次のようにつながっていった。・・・・・tmさん「ksさんに質問で、あのC地点とか下流になっていくほど小さい石しか流れないっていったんですけど、でも、C地点の様子を見たとき?は、石は、もう、なかったわけなんです、石はなかったわけだし、そこは、あのさっき見た土?みたいに、砂のようになっているわけだから、その、小さい石しか流れないっていうのはちょっとおかしいんじゃないあなって思います。」T 「先生もここで石を探したんだけど、ブロックとか、置いてあるものしかなかったね。こんな小さい砂しかなかった。泥かな?」SMくん「どこで採ったんですか?川?」T 「うん・・・。(写真を見せて)この船のちょっと手前までいって、人が歩いているの分かるかな、あしあとみたいのがこう・・・。あしあとかな?ちがう、これ流れでついたんだね。この辺をスコップで削ってきました。KGくん。」KGくん「えっと、ぼくも疑問で、削られ方はesさんと同じ何ですけど、えっと、中流から・・・。」T 「削られ方?」KGくん「はい、削られ方はesさんと同じなんですけど、B地点からC地点まで行くとき、えっとなんか、砂になってる、あっ、C地点はほとんど砂しかなかったから、C、B地点からの石が、なんか、砂になる、なったのかが、分かんなくて、なったとしたらどうやってなったのかなって・・・。 」T 「あなたは、これが、これになったと思ってる?どうやって、こういうふうになったのか・・・。」KGくん「いや、それと、・・・砂になったなら、どうやってなったのか・・・。」T 「なったなら、どうやってなったのか。SJくん。」SJくん「えっと、ぼくは、えっと、下流の方は流れが遅いから、もう石は流れなくて、土や砂だけが流れたから石はない、と思います。」T 「石は流されない。」SJくん「はい。」T 「smさん。」smさん「えっと、私もSJくんに付け加えで、そのBの向こうにある写真を見たときに、菊陽町のところの内側の方に、なんか、小さい石とかが、あの、たまってて、だから、その(机の上の)、その、ある、真ん中の石は、たぶん内側のところに集められて、もう、なんか、あの水?だけしか流れないようになってるだと思います。」T 「この石は流れなかった。」smさん「うん。」・・・・・ksさんが発言の中で「小さな石」と「本当に小さな石」とに区別していたにもかかわらず、私が黒板に「小さな石しか流れない」と板書したことによって、tmさんは疑問をもったのだろう。しかし、このことにより、SMくんの質問を生み、KGくんが問題を明確にすることになる。つまり、B地点の石が、C地点の泥に変化したのかという問いを共有することになったのである。この問いにSJくんは「下流は流れが遅いから」と根拠を示して明確に答える。また、smさんは、B地点で川がカーブする内側に「石が積もっていた」ことをあたらな根拠として提示している。流水実験で、カーブした内側に土や砂が積もったことから、「積もっていた」という「ことば」を使ったのだろう。こう振り返ってみると、事前に指導案に書いた本時の目標「運搬するはたらきと関係付けて考える」ことに、子どもたちはたどり着いているように見える。しかし、私自身が子どもたちの声を聴くことができずに受け答え(取り上げ方)に戸惑いあったせいか、この後、話し合いは収束せず、混乱を招くことになってしまう。(つづく)※ 今回の記録は、2月15日のものである。
2013.02.25
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社会科初志をつらぬく会の「考える子ども」(2013.1月号)に原稿を書いたので、ここで紹介する。あらためて読みながら「しっかりとリフレクションしなければ」と反省する。実際、最近、私は授業で子どもの「ことば」を聞き逃していることが多い。研究発表会当日の授業も、そうであった・・・。 ・・・・・ *熊本 授業記録を読む会 私たちの会は、一昨年(平成二十二年)の六月にスタートしたばかりである。二ヶ月に一回を目標にして、これまでに、土曜日もしくは日曜日の午後に十回ほど開催することができた。まだ、活動内容や会員を含め組織など、ここで紹介できることは無いが、毎回、熊本大学教育学部附属小学校を中心に十名前後の参加者で行っている。中には、県外からの参加があることもある。 会は、授業記録をもとに参加者一人一人の学びを「語る」というスタイルだが、この「語り」を交流することから授業記録の互い読みを深めるといった有意義なものになっている。なお、初志の会会員以外の参加者も多いため、会のはじめには、次の三点を話題にすることを確認している。1)授業の中で、子どもは何を経験したのか、2)その授業の中で「その子らしく」分かるとはどういうことか、3)教師は子どもに寄り添うことができていたか、ということである。もちろん、授業者が抽出した子どもを最初に確認することもあるが、なるべく先入観をもたずに記録を「そのまま」に読むようにしている。 実際には、授業ビデオを観ながら、授業記録を読むようにしている。文字の記録には見えてこない子どものちょっとした表情やしぐさが、子どもをとらえることに役立つことが多いからである。参観者が気になることがあれば、その場でストップさせ、繰り返しビデオを観るなど、授業記録がその場で書き直されることもしばしばである。 また、会の後半には、若手参加者の授業づくりや学級経営での「悩み」に対し、それぞれの実践を出し合う場を設定している。「授業中の発言が一部の子どもに偏っている」「クラスの男女の仲が悪く話し合いが上手くいかない」「自分の主張ばかりして相手の話を聞かない」など、初歩的な「悩み」が多いが、アドバイスする側の中堅参加者自身が、改めて自分の実践や日頃の取り組みを振り返りながら「語る」ことにより、新しい発見があることも少なくない。授業記録を読むことで生まれた学びと合わせ、ほのぼのとした余韻の中で、一人一人の参加者が明日の授業への元気をもち帰ることができている。 今年度十一月の会から 「大塩平八郎は武士なのに、なぜ乱を起こしたのだろう。」 この会では、横山幸生先生(熊本市立若葉小学校)の六年社会「新しい時代への動き~幕末の役人が起こした反乱~」の実践に学ばせていただいた。百姓一揆や打ちこわしなど農民や町人が起こした一揆が増える中、武士である大塩が乱を起こしたことに子どもたちは疑問をもち、この乱について調べていた。提案された授業記録には、いくつかの資料をもとに、大塩が乱を起こした背景を探ろうとする子どもの姿があった。 「自分が生きているのは米を作っている百姓のおかげだから」というAさんと「何もしない奉行所に腹を立てたから」というBさん。そして、この二人の話し合いが平行線で進む中、「百姓を助けるために奉行所を取り締まる。奉行所を取り締まらなければ百姓は助からない」と発言するCさん。しかし、Cさんの発言はたどたどしさから他の子どもたちが理解することができず、「よく分からない」と何度も問い返されることになり、Cさんは繰り返し説明する。その中で、「大塩は、上手くいくとは思っていなかった」「でも大塩は乱の後、有名になった」「当時の役人には、大塩のような考えをする人はいなかった」「自分の考えが広まれば、少しずつ百姓が楽になる」と、Cさん自身が整理し、最後には他の子どもたちは納得した様子だった。ただ、その後もAさんは「分かったけど分からない」と発言し、Dくんが「奉行所を説得できなかったから、無理矢理押し切る感じで・・・」と続き、授業は終わった。 会の中では、しっかりとした考えをもちながらたどたどしく発言したCさんが、その考えを主張していたのではなくAさんとBさんの考えをつなごうとしていたことや、問い返されることにより筋道だった説明に変わっていったこと、そして、最後までBさんとCさんの発言に納得しなかったAさんは大塩の理屈を超えた「どうしようもない思い」を感じ取っていたのではないか、ということが話題になった。 拠点校熊本大学教育学部附属小学校での取り組み 二〇〇八年から年に数回、西部地区の先生方に授業を観ていただく機会を得ている。特に、毎年三月には、田代裕一先生(西南学院大学)、田上哲先生(九州大学)、松本康先生(香川大学、現在は信州大学)、倉本哲男先生(佐賀大学)に附属小学校にお越しいただき、初志の会会員の三名の授業を公開し研究会を行っている。 最初は、当時附属小学校に勤務していた横山幸生先生の社会科の授業を検討する小さな会であったが、少しずつ附属小学校の他の数人の教員も加わるようになり、初志の会の全国集会や西部地区集会への参加も見られるようになった。 そんな中で、徐々に校内の様子に変化が見られるようになった。まず、子どもたちが話し合いやすいように全ての教室で座席の配置がコの字型になったこと。次に、内容中心の板書から、ネームプレートを使った子ども中心の板書が多くなったこと。多くの授業で、座席表が子ども同士の関わり合いを活性化させるツールとして用いられるようになったこと。そして、単なる授業の印象だけで批判しあうのではなく、子どもの発話記録をもとに一人一人の学びに寄り添った授業研究会ができるようになったことなどが挙げられる。 附属小学校では、昨年度まで文部科学省研究開発学校の指定を受け、「論理科」カリキュラムの開発に取り組んできた。その中でも、単に論理的に思考することを子どもたちに押しつけるのではなく、一人一人の子どもの「論理」を見取り、その「論理」を刺激し、語りの中で論理が立ち上がるような授業づくりに向かうことができたのも、初志の会の先生方の支援があったからであろう。 今後も、附属学校としての役割を果たすことのみにとらわれるのではなく、目の前の子どもが「その子らしく」学び、生きていくことができるように育てるために、教師は何をすればよいか悩み続けていければと思う。
2013.02.22
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前回のblogの続き。授業の中で、私が上手く取り上げることができなかったksさんの発言を振り返る。・・・・・ksさん「えっと、anさんにたぶん答えられるって思うんですけど、えっと、上流から、上流は流れが速いっていうのは、えっと、流水実験でも分かってて、で、それで浸食、浸食があって削られるっていうのは私も分かるんですけど、えっと、中流から下流に行くときは、中流では少し上流より流れが遅くなるっていうことが分かっているから、えっと、もう少し小さく、石の大きさは、上流から中流に流れるよりも小さくならないとあんまり流れないと思うから、えっと、その小さい石だけが下流の方に流れて、で、下流の方は、もっと流れが遅くなるから、本当に小さい石だけが河口に流れるって、考えです。」・・・・・ksさんは、流水実験の結果である「上流から下流にかけて水の流れが遅くなるにつれて、浸食するはたらきが小さくなる」ということを根拠に考えていることが分かる。また、学級全体の話し合いの前に書いたノートをには、次のように書かれていた。この考えは、TRくんと同じく「侵食モデル」である。しかし、よく見てみると、「石の変わり方」と書かれていた部分を消して「石」にしていることが分かる。また、文脈から考えて、「石が流れない、砂は流れる」と授業後に書き加えたのだろう。つまり、esさんの「あまり大きな石は流されない」や、anさんの「中流や下流では石は削られない」という発言を聴き、自分のモデルをつくり替えたのだろう。その結果、つぎのような「侵食+運搬モデル(B)」(前回のblogの紹介したuhさんのモデルも「侵食+運搬モデル」としたので、こちらを(B)とする)を採用したと考えることができる。なお、ksさんは発言の中で「小さな石」と「本当に小さな石」と使い分けている。おそらく「本当に小さな石」とは砂や泥のことだろう。もともと3つのモデルしか想定しなかった私には、このモデルを図に書くことはできなかったのである・・・。しっかりと「事実」にもどって自分の考えを見直し、複合モデルを提示したksさんの発言。しっかりと、ていねいに「聴く」ことができずに、本当に残念である。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年2月15日のものである。
2013.02.21
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前回のblogの続き。グループでの話し合いの後、学級全体で話し合う。ここでは、このblogを読んでいただいている方に「臨場感」を味わってもらうために、教師(T)も含めて、発言をそのまま紹介する。(子どもたちが、友達の発言を受けて、思考しながらたどたどしく「語っている」様子が伝わると思う。)・・・・・T 「じゃあ、誰からでもいいですよ。」TRくん「えっと、上流の方は、斜面が急で、その川の流れが速いから、浸食作用が、まあ、浸食のはたらきが強くなって、えっと、前と考えが変わったんですけど、あの、水には運ぶはたらきが、あの、運搬作用があって、大っきめの石、あれより、上流のでっかい、大きい石より小さいけど、まあ、大きめの石が運ばれながら、えっと、削られるんじゃないかなって考えて、それで、中流下流の方に運ばれて、その、削られたから石が小さいんじゃないかなって思いました。」T 「TRくん、大きい石が運ばれたまでは分かったけど、何が何で削られたの?」TRくん「その、運ばれながら、削られて、その中流下流の方では、えっと・・・、運ばれた石が積もって、その、運ばれながら削られた石が積もって、それで石が小さいんじゃないかなって思いました。」T 「esさん。」esさん「えっと、私は、そのTRくんとはちがうんですけど、あの、上流から下流にかけて?あの、運搬のはらたきが、あの、大きくなってるんじゃないかなって思って、そのはたらきによって、上流から下流にかけて、石が、その流れて、立野(A地点)のあまり大きい石じゃない、普通ぐらいの石は、流れていくうちに、その、他の石とかとぶつかって、角が取れていって、で、下流の、下流ぐらいへんになっていくと、ほとんど、その、角がなくなって、小さい石になったんじゃないかなって思います。」T 「anさん。」anさん「えっと、私も、あの、大きい石が削られながら、削られていって、それで下流の方は小さい石が多いって思ってたんですけど、それで、疑問が出てきて、C地点に近くなると、あの、水の流れが、なんか、遅くなる?なんかA地点より遅いから、あまり削られないっていうのを、ちょっと・・・、削られないって思って、そしたら、B地点の、中流のところの、その中くらいの石は、そのまま流れてくるんじゃないかなって思って、なんで、C地点の砂や泥は、削られているのかっていうのが疑問に思いました。」T 「C地点で流れが遅くなるのは、いいね。これ。で、いまTRくんといったことと同じような考え方だったんでしょ?大きい石がどんどん小さくなっていくんだって思ったんだけど、C地点で流れが遅くなるから、なんで、ここで削られるのかなって。ksさん。」ksさん「えっと、anさんにたぶん答えられるって思うんですけど、えっと、上流から、上流は流れが速いっていうのは、えっと、流水実験でも分かってて、で、それで浸食、浸食があって削られるっていうのは私も分かるんですけど、えっと、中流から下流に行くときは、中流では少し上流より流れが遅くなるっていうことが分かっているから、えっと、もう少し小さく、石の大きさは、上流から中流に流れるよりも小さくならないとあんまり流れないと思うから、えっと、その小さい石だけが下流の方に流れて、で、下流の方は、もっと流れが遅くなるから、本当に小さい石だけが河口に流れるって、考えです。」・・・・・TRくんの考えは、おそらく私が授業前に予想していた「侵食モデル」に近いものであろう。それに対し、esさんは、私がA地点から持ってきた石を見て考えたのだろうか、石が流されるにしても限界があると考え、「普通の石」だったら流されるので、ぶつかり合いながら小さくなっていくと考えていることが分かる。これは、上流から中流にかけては「運搬モデル」であり、中流から下流にかけては「粉砕モデル」である。また、anさんはTRくんと同じ「侵食モデル」だと考えられるが、上流と同じように下流でも石が削られるのはおかしいと疑問をもっている。この疑問は、私が事前に期待していたものであり、黒板に図を書いて示している。しかし、分科会の中で鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)に指摘していただいたのだが、私は、その後のksさんの発言を十分に取り上げることができていない。黒板にも「小さな石は流れない」としか書いていない。実は、授業中に私はksさんが複数のモデルを使って説明したことは分かったものの、十分に理解することができなかったのである。おそらく、他の子どもたちも同じだったのだろう。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年2月15日のものである。
2013.02.21
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前回のblogの続き。グループの話し合い(このグループは、ほとんど話し合いをしていなかったのだが)の中で「食塩のとけ方と似ている」と発言したuhさん。授業後の分科会で鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)にも紹介していただいたのだが、そのノートを見ると次のように書かれていた。図を手がかりに考えてみると、uhさんが次のように考えたことがわかる。「上流は、山だから大きな石が大きく、崖崩れなどで川にも落ちてきて大きな石がある。その後、水の流れで大きな石が(食塩が水にとけるのと同じように)まわりから侵食され、削られた石(破片)が下流に流される。だから、上流は山の石がそのままあって大きく、下流は、削れた破片が流されてきたものだから小さい。」この考えは、「食塩がとけるように」と「たとえ」を使っていることはおもしろいものの、私が授業前に予想していた「粉砕モデル」「侵食モデル」「運搬モデル」のどれにも当たらない。まず、私が予想していた「侵食モデル」が、上流にある大きな石が流されながら(運搬されながら)どんどん水に浸食されるというものであるのに対し、uhさんは、上流の大きな石は、その場所から流されることなく、流れる水によって浸食される。そして、浸食された破片が下流まで流されるというものであり、私がもともと考えていた「浸食モデル」と「運搬モデル」を合わせたようなものであることがわかる。つまり、この時点で、私と子どもたちが大きくズレていたということである。※ 今回の記録は、平成25年2月15日のものである。
2013.02.19
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いよいよ研究発表会での授業である。まず、先週の3連休の間に採ってきたA地点(南阿蘇村立野)、B地点(菊陽町戸次)、C地点(熊本市小島)の石を提示した(Cには石はなく、泥だったのだが)。Aの石(岩)は、二人がかりでもなかなか持ち上げることができないことを確認し、「どうして上流と下流では石の大きさがちがうのだろうか」と課題を設定して自分の考えをノートに書かせる。子どもたちは、石(岩や泥も)を触ったり、見学したときの写真を見返したりしながら、ノートに考えを書く途中にも、ボソボソっと話し合っていたようである。MKくんのグループでも、次のように話していた。MKくん「ねえ、上流って、あまりないんだよね。」ktさん「何が?」MKくん「勢い。」ktさん「えっ?」uhさん「上流、めっちゃあるよ、勢い。」MKくん「上流、ある?」ktさん「動いてないようにも見えるけど・・・。」MKくん「あっ、上流があるんだ。そうか、そうか・・・(ノートを書き直す)、上流がでかいんでしょ?石。」ktさん「そう。」uhさん「どんどん削られる。」MKくん「えっ?」uhさん「どんどん削られる。」MKくん「どうやって?」uhさん「川の流れによって。(B地点の石を持って、表面をなぞりながら)これが、こう・・・。」MKくん「これ(B地点の石)は削れないでしょ。」ktさん「えっ、そうじゃないの?こうやって、川の端に当たって・・・。」uhさん「水がビューって・・・。」ktさん「(B地点の石を持って)これが、こう崖にぶつかって・・・。バンって。」MKくん「これが?」その後、グループで話し合うように指示をするものの、MKくんのグループは書くことが終わらないのか、なかなか話し合わない。ギリギリになって、次のように話し出した。MKくん「(uhさんのノートをのぞき込んで)うん?食塩のとけ方?」uhさん「うん。」MKくん「何で?」uhさん「だって、食塩って、まわりからとけていくでしょ。」MKくん「だから?」uhさん「だから、外側から削れるのといっしょかなって。」ktさん「(笑いながら)石って、とけるの?」uhさん「とけるんじゃないけど・・・。」MKくん「削られるのに、丸くなるの?」ktさん「前(A地点の岩)のをバーって切って、ここらへんの角が削れて・・・。」ここで、グループの話し合いを止めて、前に集まるように指示をした。MKくんの素朴な疑問はおもしろいものの、グループでの話し合いは十分とはいえない・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年2月15日のものである。
2013.02.18
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いよいよ研究発表会である。公開授業に向けて、このblogを読み返す。今回の実践は、このblogで紹介したように、もともとは4年前に5年生を担任したときと全く同じ単元構成であった。しかし、実際には全く異なる子どもたちの追究になった。 授業後に、授業リフレクションをし、気になった子どもの発言を振り返り、ノートなどを見ながら意味づけることにより、次の授業を構想する。その繰り返しであった。この「授業デザイン」こそ、今回の公開授業で私が提案することである。今では、いろいろなところで授業デザインという言葉が使われるが、多くの場合、事前の「授業設計」のことをいっていることが多い。しかし、私が提案する授業デザインは、事前の計画だけでなく、授業中、そして、授業後のリフレクションまで含むものである。今日、参観者に配る資料も、この授業記録である。 その資料のはじめに、次のように書いた。 ・・・・・ 今回、特に目新しい教材や手だてはない。 ただ、「どうして上流と下流の様子がちがうのか」ということを追究させるため、単元の導入で、白川の一般的な上流の様子を示す立野から河口までを見学し、このことを主題として設定し、終末に説明する場を設定する。 つまり、子どもの事実に真正面から向き合い、一人一人の子どもの「とらえ」や「とらえ方」を確かめ修正しながら次の授業をデザインすることを本実践の中心にするのである。今回の公開授業で提案するのは教材や指導法ではなく、私自身の「子どもを見る目」と「教師としてのしなやかさ」であり、授業研究会を通して参観される先生方といっしょに成長することを目的としたい。 ・・・・・ ただし、授業中の「私の判断」も話題にし、検討してもらえればと思う。これまでの私の子どもとのかかわりも問題になるだろう。 「子どもの声を聴きたい」という「ねがい」からスタートした研究であるが、「聴くことのできない私」を自覚し、しっかりと耳を傾けたい。(矛盾するが、「聞くことができる」と思った瞬間、子どもの声は聞こえなくなる。だからこそ、教師は「成長し続けること」が必要なのだろう。) 子どもの、そして、私自身の新しい発見がある1日になることを願っている。
2013.02.15
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2年前の研究通信。(9号までは一気に書いたのだが、そのあとは・・・。)研究発表会前に書いたものである。しっかりと自分を落ち着かせたい。・・・・・「学び」のあしあと 2011.2.8 研究部通信No.16「教師の聴き方」1.教師の「聴き方」と「たどたどしい『ことば』」 研究発表会では、多くの参観者を前に子どもたちがいつもとちがって「はりきり」、教師が「少しでもいいところを見せよう」とするのは人情でしょう。しかしながら、言語活動の充実や子どもの学びについて真剣に考えている参観者は、そんな「ショー」のような授業は求めていません。研究発表会に向けて教師自身が「興奮気味」になっている今、このような参観者をこそリピーターにするために、そして、「聴き合う授業」を実現するために、再度、教師の「聴き方」を振り返る必要があると思います。 秋田喜代美先生(東京大学)は、この「教師の聴き方」について次のように述べています。 ・・・・・・ 教室のごく一部の子どもだけの参加で進む授業であれば、残りの多くの子どもたちの学びと育ちの質は保障されず、学習過程の質としては低いことになる。もちろん、参加とは挙手して発言するという姿勢を指す言葉ではない。他者の言葉を聴くことで自分の持っている考えと比較したり関係づけながら心の中で考え、自ら考えをそこから生み出せることや、テキストや学習材を丁寧に観ることによってその教材の中にあるさまざまな情報を発見し意味づけていくことなど、静かな能動的な参加こそが大切である。 ・・・(中略)・・・ 教育方法を論じる人たちのなかには、教室のコミュニケーションなどという表面的なことより、教材研究と教育方法の研究が大事という議論をされる研究者がいる。また、教師の中にも指導案の教材研究がすべてと思っている人もいる。しかし、それは子どもの学びを無視した議論である。子どもの教室での息遣いを感じ授業中の学びの過程をとらえ考えていくことが、すべての子どもの学びの保障には不可欠になる。だから対話から始める学校づくりなのである。 ・・・(中略)・・・ 教師だけが話す授業では、教師は聴き方のモデルを子どもたちに提示することはない。だから子どもたちが聴き合う関係も生まれない。またよくできる子の独白で進む教室では、教師に向かってすでにわかっていることを発表し、教師にその発言の評価を求めることになりがちである。テンポは早くなり、聴き手は教師であるから簡潔にまとまった話をする。そして教師はほしい答えを求めほしい答えに対する賞賛の評価の言葉で終わりとなる。 ・・・(中略)・・・ 聴き合うクラスでは自分たちで自分の学習を創っているという意識が生まれる。それでさらに深い没頭を協働で生み出していく。つながり合う言葉は、今ここで他者の言葉をうけて考えて語るから、たどたどしい言葉である。 ・・・・・「つながり合う言葉」は「たどたどしい言葉」。私たちは今、どのような「ことば」を大切にし、何を聴こうとしているのでしょうか。2.これまで私たちが大切にしてきたこと 「たどたどしい『ことば』」は、本校の研究でも数年前からキーワードになっています。もう一度、これまで私たちが授業の中で大切にしてきたことを次のチェックリストで確認したいと思います。・ 子どもたちのテンションが低く、聴き合う関係ができていること。・ 教師の話は短くトーンも低く、教師自身が聴くことに専念していること。・ すばらしい発言ではなく、たどたどしい発言を大切にしていること。・ 課題の質が高く、教材に発展性があること。・ グループや個人で探究する時間が確保されていること。・ 教師が、きびしい子どもを「ケア」していること。・ 「もどる」きっかけや「もどり方」を、教師がていねいに与えていること。・ 「みんな」ではなく「その子ども」のわかり方を尊重すること。 研究発表会まで、あと2日。だからこそ、本当に大事なものを見失わないようにしたいですね。※読書案内! 秋田喜代美編『教師の言葉とコミュニケーション』教育開発研究所(2010)
2013.02.14
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いよいよ明日は、研究発表会当日である。明日の授業では、「どうして上流と下流では石の大きさがちがうのだろう」という課題を設定する予定である。これまでの授業中の発言や、ノートに書かれていることから、子どもたちは次の図のような三つの考え(モデル)をもつことが予想される。 まず、大きな石(岩)が、川底を転がりながら、途中で石同士がぶつかり小さく砕けながら下流までたどり着くという「粉砕モデル」。 次に、「粉砕モデル」と大きな石(岩)が、川底を転がりながら下流まで流れていくというのは同じだが、川の水の流れによって削られて小さくなるという「浸食モデル」。 最後に、もともと上流に粒の大きさの異なる石や土砂があって、川の水の「運搬するはたらき」によって流される距離がちがい、下流ほど流されやすい小さな粒の泥が多いという「運搬モデル」。 学習指導案では、土砂の「運ばれやすさを調べる実験」を予定していたのだが、流水実験のときに小石を置いて調べるたり、昨年7月の豪雨災害に関する発言があるなど、大きく授業デザインが動き出している。 そこで、授業では次のことに心がけたい。 ・ 考え(モデル)の違いを明確にし、着目させること。・ 子どもたちの直感的・断片的な「ことば」をきっかけにして、事実に「もどす」こと。 公開授業ということもあり、私も子どもたちも「先に、先に」と進みたがるであろう。 しかしながら、しっかりと子どもたちの「ことば」に耳を傾け、「聴く」「つなぐ」「もどす」ことに全力を注ぎたい。そのためにも、しっかりとテンションを落として「よい授業」ではなく「子どもたち一人一人の学び」を求めたい。 「研究発表会だから」という意識を、今からどれだけ捨てることができるかが勝負である。
2013.02.14
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このblogにも何度か写真を載せた板書。おそらく、疑問をもっている方も多いと思う。この6年間で最も私の授業の中で変化したものである。心がけていることは、内容中心ではなく、子ども中心の板書。そして、ネームプレートを使いながら一人一人の子どもの「語り」を可視化するということ。つまり、都合のいいキーワードだけを書くことをしないということである。この板書について、多くの先生方に指摘していただいた。まず、6年前の夏。熱海で行われたアクションリサーチ研究会で、授業ビデオを石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会)に観ていただいたとき、次のように指摘された。「教師(『わたし』)が板書しているときに、いったん手を挙げ、下ろした子どもがいた。そのことに、教師は全く気づいていない。その子どもは、何を言いたかったのか。板書している間に、教師が見逃している子どもたちの表情や仕草があるのではないか。」次に、5年前の春。鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)に、実際に『わたし』の授業を観ていただき、次のように指摘された。「どうして、板書が少ないのか。板書していると、そのときには意図がわからなかった発言でも、その後、その板書によってじっくりと考えることができる。また、板書している時間が、子どもたちの活動の『間』になって、それぞれで考えることを保障することができるのではないか。」さらには、5年前の秋。当時、同学年を担当していた横山先生の授業ビデオを使って、溜池善裕先生(宇都宮大学)に実際に子ども中心の板書をしてもらった。教材室に隠れてこそこそと行った研究会だったが、今振り返ると、そのときに学んだことは大きい。極めつけは、3年前の1月。社会科初志の会西部地区集会で報告したとき、板書のコピーを資料として提示した。その板書に、『わたし』は、ある子どもの発言を書き、その上に「Jくんの発見」と書いていた。その板書を見て、松本康先生が(信州大学、当時は香川大学)次のように指摘された。「いい発言のときだけ、その発言した子どもの名前を書くんだね。」このときから、今の板書に近い形になった。その後、2年前の秋に、再び溜池先生に授業を観ていただく機会があった。そのとき、次のようなアドバイスをいただいた。「『私(授業者)は、こう聴いた』という板書に。」このアドバイスで、何かが吹っ切れたことを覚えている。子ども中心の板書でも、いろいろなスタイルがあると思うが、黒板の左上から右下に向けて、ネームプレートを使いながら子どもの発言を書いていく。話題や視点が違うときには、少し離れたところに書く。(松本先生は「碁を打つように」といわれた。)根拠となる事実は黄チョークで囲み、気になる意見はそのままの「ことば」で書き赤チョークで囲む。関係があると思うときは線で結び、対立していると思うときは矢印で示している。なるべく図も書くようにしている。次に示す板書は、私がこれまでで一番上手くいったと考える板書。2年前、3年生の「光の性質」で「どうして虫眼鏡を使うとものもを燃やすことができるか」について話し合ったときのものである。最近、「書きすぎている」と思いつつ、自信がないせいか、なかなか減らすことができないでいる・・・。おそらく、子どもには見づらい板書になってしまっているのだろう。
2013.02.13
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3年前の研究通信の第9号。これまで、トゥールミンの論理モデルについて書いてきたのだが、ここでは、これを「型」にすることを問題にしている。実際、3年間の「論理科」カリキュラム開発では、いわゆる「型」の指導は一切しなかったのだが・・・。・・・・・「学び」のあしあと 2009.7.13 研究部通信No.9「思考の形式」1.「論理」とは「思考の形式」なのか 運営指導委員会の中で、「型」のことが話題になりました。内田先生の講話の中では、「理由付け表現形式」が、この「型」にあたるものだと考えます。また、これまで何度か検討してきた「論理モデル」も、子どもたちに与え「主張」「根拠」「理由づけ」にあてはめながら説明させると考えると一つの「型」といえるでしょう。しかしながら、この「型」は、何の「型」なのでしょう。思考の形式なのでしょうか、それとも、表現の形式なのでしょうか。そもそも「型」にあてはめて思考することなどできるのでしょうか。 そこで今回は、「型」の指導が必要かどうか、どのように「型」の指導をしていくのかということではなく(もちろん、こちらの方がこれから大切になっていくのですが)、これらの「型」がどのようにはたらくのかということを考えてみます。 野矢氏は、「論理」と「思考」について次のように述べています。少し長くなりますが、そのまま紹介します。 ・・・・・ ここで重要なのは、あなたがその結論に到達した実際の道筋ではない。実際の思考の道筋は、すでに述べたように、最終的な閃きに至った紆余曲折のある道だろう。苦労話をするというものでもないかぎり、それをそのままアピールしても意味はない。どういう前提から、どういう理由で、どのような結論が導けるのか。そしてそれ以外の結論はどうして導けそうにないのか。そうしたことを、論理的に再構成して説明するのである。 たとえば、数学の証明などはもっとも厳格な論理を展開するものと言えるが、数学者が実際に数学の証明のとおりの道筋で考えたなどということはありえない。様々な飛躍を含みつつ為された思考を、飛躍を許さない形で新たに書き直したもの、それが証明にほかならない。 繰り返そう。思考の道筋をそのまま表すのではない。思考の結果を、でききるかぎり一貫した、飛躍の少ない、理解しやすい形で表現する。そこに、論理が働く。 ・・・・・ 野矢氏のことばを借りると「論理的に考える」とは、まず「自由に思考する」中で閃き結論に至り、次にその結論をだれもが納得できるように「『型』にあてはめながら表現する」ということでしょう。つまり、『型』は、表現しようとしたときにはたらくということではないでしょうか。2.「型」にあてはめながら 先々週の算数の大研の中で「1/4dlのペンキで、板を2平方メートル塗ることができます。ペンキ1dlでは、板を何平方メートル塗ることができますか。」という問題に対して、すぐに「2×4」と立式する子どもがいました。もちろん、題意をしっかりとらえているから「1dlは1/4dlの4倍だから2平方メートルを4倍すればよい」と直感的に気づくことができるのでしょう。しかしながら、問題文を読み「2÷1/4」と立式した子ども(しようとした子ども)にきちんとその意図は伝わっていたのでしょうか。また、いきなり「2×4」と立式したのは「2÷1/4」を省略したことだととらえることができたのでしょうか。 前述したことから考えると「2×4」と直感的に閃いたことが論理的ではないということではありません。閃いた後に問題を読み直し、問題文には「4」という数字がないことに気づき、「1/4」と「4」を、もしくは「2÷1/4」と「2×4」のつながりを考えていくことも(問題文から順に筋道立てて考えることともに)論理的に考えることということができるのではないでしょうか。 運営指導委員会の講話で、内田伸子先生(筑波大学、当時はお茶の水女子大学)が次のように話されました。「子どもたちに語らせる発表させることが、文章の文法の力を借りて様式化させたり、あるいは定型化させたりする。語りの型にはめていって、もらさず表現をつくっていくことに効果があるのだろう。」 いよいよ2学期から「論理科」がスタートしますが、単に「型」を教えるのではなく、その「型」がどのようにはたらくのか明らかにする必要があると考えています。※読書案内! 野矢茂樹『新版 論理トレーニング』産業図書(2006)
2013.02.12
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3年前の研究通信の第8号。ここでは、いよいよ「理由の裏づけ」について書いている。最近、本校では、あまり必要ないという雰囲気があるが、理科では、この「理由の裏づけ」こそ重要であると主張していきたい。(もちろん、その前に「根拠」と「理由づけ」を明確にする必要があるのだが・・・。)・・・・・「学び」のあしあと 2009.6.29 研究部通信No.8「理由の裏づけ」1.「書くこと」によって気づくこと 下に示したのは、昨年の5年理科の授業で一人の子どもが書いたノートです。 紀要の中にも紹介しているのですが、流水実験によって「流れる水の働き(浸食・運搬・堆積)」を調べた後、「どうして石の大きさが違うのか」を考える場面で、その子どもは途中までノートに自分の考えを書き、その前のノートを読み返して大きくバツを書きます。バツ印の下を読んでみると次のように書いてあります。「もともと上流にあった石が、川のはたらきで運ばれながらけずられていったから。だんだん形が丸くなっていったのも、けずられながら流されて、だんだん丸くなっていったから。けど、もしそうだったら、上流の方が流れが速くて、けずられるはたらきも大きいはずだから、おかしい。」 この子どもは、ノートに書きながら、自分の考えがおかしいことに気づいたのでしょう。それでは、この子どもは何に気づいたのでしょうか。前回までの「論理モデル」に次の図のようにあてはめてみます。 すると、「理由づけ」が適切でないことがわかりますが、この子どもは、その時点(理由づけをしたとき)までは、その不十分さに気づいていません。そして、「理由づけ」の証拠となる「理由の裏づけ」、ここでは「上流・中流・下流でのけずる働きの大きさの違い」について考えようとしたとき(書こうとしたとき)に、そのおかしさに気づいています。 つまり、「理由の裏づけ」を意識することによってはじめて、自分の考えの矛盾や不十分さに気づくということでしょう。しかし、よく考えてみると、このことは当たり前のことです。自分なりの「正しさ」によって、根拠から主張を導き出しているのですから。2.「理由の裏づけ」は「隠されている」 井上氏は、この「理由の裏づけ」について次のように述べています。「データが主張を支える『事実』であるのと同様に、理由の妥当性を裏づける事実について示すのが『理由の裏づけ(B)』です。しかし、「理由の裏づけ」は、データの場合とちがって、必ずしも明示されず、「理由」の背後に隠された(省略された)ままになっていることが多いのです。ただ、受け手が『理由』を受け入れないときには、その根拠であるBを示すことが必要です。」 おそらく、「語り方」の指導や「書くこと」、そして、「対話」によって「隠されたまま」になっている「理由の裏づけ」を意識させることができるということではないでしょうか。※読書案内! 井上尚美『言語論理教育入門ー国語科における思考ー』明治図書(1989)
2013.02.12
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3年前の研究通信の第7号。前回に続き、トゥールミンの論理モデルの「根拠」と「理由づけ」の区別について。そして、さらに「理由の裏づけ」についても触れている。妥当な「理由の裏づけ」を示すことにより、「理由づけ」がより確かなものになるということである。理科では、「根拠」の確かさとともに、「理由づけ」の確かさも求めていかなければならないだろう。また、「根拠と主張の『距離』」についても書いている。このことは、これまでより探究的な単元を構想するとともに、質の高い課題設定をするために参考にしてきたことである。・・・・・「学び」のあしあと 2009.6.22 研究部通信No.7「理由づけ」1.「主張の理由」には、「根拠」と「理由づけ」が含まれる 前回、論理モデルの「根拠」と「理由づけ」について書きましたが、多くの先生方が、きちんと整理されずにもやもやとした状態なのではないでしょうか。そこで、もう一度図を見てみたいと思います。すると「理由づけ」から出ている矢印が、根拠と主張を結ぶ矢印の途中を指していることが分かります。つまり、このモデルの「理由づけ」は、主張の理由ではなく、根拠と主張をつないだことの理由だということです。 おそらく、先生方がもたれている「もやもや」は、「理由」という「ことば」のもつ意味にあると考えます。たとえば「この主張をする理由は」と問われるとき、「この資料から考えた」や「テキストのどこから考えた」などの「根拠」を答えることもあれば、「この資料からこのように考えたから」などの「理由づけ」まで含めて答えることもあります。 また、根拠と主張との「距離」が近すぎると「理由づけ」が表れてこない場合もあることも「理由づけ」をわかりづらくしている原因の一つでしょう。たとえば、理科の実験で、実験結果がそのまま結論になるような場合です。「水は100℃で沸騰した。だから、水の沸点は100℃である。」このとき、「液体が沸騰する温度が沸点だから」という「理由づけ」があるとしても、この「理由づけ」は「ことば」として表れることもなければ他者から問われることもありません。 ちなみに、この「根拠と主張との『距離』」について、野矢氏は次のように述べています。「前提から結論へのジャンプの幅があまりに小さいと、その論証は生産力を失う。他方、そのジャンプの幅があまりに大きいと、論証は説得力を失う。そのバランスをとりながら、小さなジャンプを積み重ねて距離をかせがなければならない。それが、論証である。」 実際に夏休みからカリキュラムづくりをはじめるとき、この「距離」はヒントになりそうですね。2.「理由づけ」と「理由の裏づけ」 少し話がそれましたが「理由づけ」についてあらためて考えてみたいと思います。先日の教官研の中で「シマウマのしま模様は保護色だから、シマウマの成長は遅くてもかまわない」という5年生の発言が紹介されました。 この発言を論理モデルにあてはめてみると、次のようになると考えます。 おそらく、根拠と主張の間に「飛躍」がある(「距離」が長い)ので「理由づけ」が見えやすいのでしょう。もちろん、国語の授業の中での発言として適当なものかどうかは別の問題として、このように論理モデルにあてはめることで、この発言は「理由づけ」に問題があることが明らかになってきます。なぜなら、「保護色の動物は、逃げなくてもよいほど他の動物から襲われていない」という「証拠」がないからです。 この「証拠」は、論理モデルの「理由の裏づけ」にあたると考えます。 もし、子どもたち同士の話し合いの中で、この「理由づけ」と「理由の裏づけ」との関係が(根拠と主張も含めて)「可視化」され、そのつながりが正当であるかどうかということが話題になったとしたらどうでしょうか。「あなたが保護色を根拠に考えたのは理解できるけれど、論理的につながらないところがある」(もちろん、これは大人の「ことば」ですが)と指摘できる子どもも出てくるのではないでしょうか。※読書案内! 野矢茂樹『論理トレーニング』産業図書(1997) 福沢一吉『議論のレッスン』生活人新書(2002)
2013.02.12
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3年前の研究通信の第6号。トゥールミンのモデルの「根拠」と「理由づけ」の区別について書いている。私たちの日常的な会話の中では、この二つは明確に区別されていないことが多い。今回の研究発表会の全体会でも、このことを区別することの価値について話し合われる予定である。もちろん、理科においては、根拠となるデータ(観察・実験結果)そのものがおかしいのか、そのデータからの結論の導き方、つまり、考察の仕方がおかしいのかが明らかになるということである。・・・・・「学び」のあしあと 2009.6.18 研究部通信No.6「論理モデル」1.「論理モデル」で子どもたちの説明を分析すること 前回の教官研の中で、子どもたちの発言(説明)を次のように分析してみてはどうかと話しました。1)意見(主張)は、問いの答えになっているか。2)意見(主張)は、明確な根拠に基づいたものなのか。また、理由づけはできているか。3)自分の「語り」を振り返る場面はあったか。また、自分の「語り」を振り返るとき、そのきっかけは何であったか。 しかし、教官研の終わりには、発言の中のどれが「根拠」なのか「理由」なのかよく分からなかったと数名の先生方が話されました。おそらく、子どもたちの発言は断片的であり、論理的に思考している子どもも少ないということでしょう。このことについて井上氏は次のように述べています。「ところが、送り手は、必ずしも筋道の整った述べ方をしてはくれない。とくに結論の背後にある前提を省略していることがよくある(あるいは、わざと隠していることもある)。」「それは、私たちは日常生活の中で必ずしも形式論理の規則にしたがって思考しているわけではない、ということである。」 つまり、子どもたちに全ての発言が、図に示したような論理モデル(井上氏は「論証の型」とも述べています)にはあてはまらないということです。今、大切なことは、論理モデルにあてはめた説明の仕方を想定し、実際の子どもたち発言と比較することだと考えてます。 その上で、次の三つのことを考えなければならないのではないでしょうか。1)子どもの発達段階にあわせて、どの程度論理モデルのように説明することができればよいのか。2)どうすれば子どもたちが論理モデルのように説明することができるようになるのか。3)論理モデルのように説明することができるようになったとき、もしくは論理モデルを意識して説明しようとしたとき、子どもたちの思考や理解はどのように変わるのか。2.「根拠」とは、「理由づけ」とは ただし、私自身が、この論理モデルを十分に理解しているのかということは別問題です。もちろん、私たちの実践研究はこの論理モデルを明らかにしたり、新しいモデルを提案したりすることが目的ではありませんが、私たちがある程度「論理」を理解し、論理的に考えたり説明したりできることは必要不可欠です。 それでは、前回の教官研で問題になった「根拠」と「理由づけ」について、あらためて考えてみたいと思います。福沢一吉氏は、この「根拠」と「理由づけ」(福沢氏は「理由づけ」を「論拠」としてます)について、次のように述べています。「『根拠』を出すことは『あなたの主張にはなに(what)か具体的な証拠はありますか?』という質問に答えを出すことと同じことです。」「『論拠』を出すことは『あなたの提示した根拠がどうして(how)あなたの主張と関連づけられるのですか?』という質問に対し答えることと同じです。」 福澤氏は、理由づけ(論拠)を「隠れた根拠」とも言っています。次回の研究通信では、この「理由づけ」について考えてみたいと思います。※読書案内! 井上尚美『思考力育成への方略ーメタ認知・自己学習・言語論理ー〈増補新版〉』明治図書(2007) 福沢一吉『議論のレッスン』生活人新書(2002)
2013.02.11
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白川の見学と2回の流水実験を終え、いよいよ「上流と下流が違う理由」について話し合う。今回は、前回の授業の最後にあった「川幅が広いから見ずの流れが遅い」を再度取り上げ、「どうして、川の上流と下流では川幅や川岸の様子が違うのだろう」と課題を設定した。まず、自分の考えを書く。しばらくしてグループで話し合ったのだが、そのときに、地図やノートに貼った見学した場所の写真などを見直している子どももいた。その後、学級全体で次のように話し合った。TRくん「上流は水の勢いが強いから、侵食する働きが大きくて、地面がけずられる。下流はなだらかで、侵食する働きが小さいから川幅が広いんだと思う。」ksさん「流水実験と同じように、上の方が水の流れが速かったから、侵食されて山がけずられて、下の方は、けずられなかった。」ayさん「流水実験では、上の方はけずられて崖のようになった。下の方は、水の勢いが弱かったから、川幅が広くなった。」OYくん「白川も、上流は急だから水の勢いが強くて、下流はなだらかな所だった。」GTくん「水の流れは、Aが一番急で速くて、Bは中間ぐらいだから少しけずられて、Cは一番流れが遅い。」smさん「私はちょっと違って、上流は水の量が少ないから川幅が狭くて、下流は水の量が多いから川幅が多いんだと思う。」MKくん「最初は、上流を流れる水は、あまり石とかが流れていないからけずられにくくて、下流にになるにつれて、石とかもたくさん流れるから、石がぶつかってけずられて川幅が広くなったんだと思ったけど、やっぱり、smさんが言ったように、水のようが関係しているんだと思う。」ここで、「上流はけずられやすい」と「上流はけずられにくい」という反対の考えが出されていることを、黒板を使って確認する。すると、次のような発言があった。hmさん「私は、上流の方がけずられると思う。7月の大雨のとき、阿蘇の方が、崖崩れとか災害がいっぱいあった。上流の方が、いっぱいけずられる。」GTくん「この図のように、もともと平らだったところが、どんどんけずられていって深い谷のようになったんだと思う。」なんとか、流水実験のときに「浸食する働き」について確認したことと、実際に白川の様子がつながったと安心し、授業を終えようとする。他の子どもたちも「あー」と声を上げ、GTくんの考えに納得した様子であった。そんな中、anさんが次のように指摘する。anさん「私は、もともと谷だったんだと思う。谷があって、水の流れが速かったから、それからどんどんけずられていった。」私自身、つい水の流れる速さとの関係を忘れ「わかったつもり」に陥るところであった・・・。※ この記録は、平成25年2月8日のものである。
2013.02.10
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3年前の研究通信の第6号。「対話」を生みためには、話すことより「聴くこと」の指導が重要であると述べるとともに、いわゆる「聞き方」の指導では逆効果であることを書いている。・・・・・「学び」のあしあと 2009.6.17 研究部通信No.5「聴く」1.「対話」のスタートは「聴く」こと 前回の通信で中島義道氏の「〈対話〉の基本原理」を紹介しましたが、特に多くの項目が「聴く」ことについて書かれていることに気づかれたでしょう。また、その12項目は、昨年まで取り組んできた「聴き合う関係」「『聴く』ー『語る』関係」づくりに大切なことと重なる部分が多いとも感じます。やはり、子どもたちの「ことば」を大切にし、他者との対話によって一人一人の子どもの変容をめざすとき、「聴く」ことを中心に授業づくりに取り組んでいく必要があることは確かなことです。 ただ、5月28日の教官研で話題になったように、子どもたちが「聴けない」という実態にあるとき、「とにかく『聴く』指導から」と考えることは適当なことなのでしょうか。もちろん、対話のスタートが「聴く」ことであることに異論はないのですが、「対話」と「とにかく『聴く』」(おそらく、このときの「きく」は「聞く」なのですが)ということは正反対の考え方であるように思えて仕方ありません。 中島氏は対話について、次のようにも述べています。「〈対話〉は、各個人が抱く意見の『小さな差異』を確認しながらゆっくりと忍耐強く進む。党派的な討論が虚しいのは、各個人がもつ微妙な壁を削りとってしまうからだ。個人が個人の実感にもとづいて発するかけがえのない言葉を、意見Aないし意見Bというふうに暴力的に分類し平均化してしまうからだ。賛成か反対かという結論のみに力点をおいて、各個人がそこに至る独特の過程を大切にしないからだ。」「もしAが〈対話〉を遂行しようとするのなら、彼(彼女)はBやCの立場を安易に『わかる』と決めつけるのでもなく、『わからない』とつっぱねるのでもなく、『わかろう』と努力する。その場合、自分の状況と相手の状況とを見渡す公平な(第三の)視点を得るのではなく(それは得られない!)、あくまでも自分の状況ににとどまったまま、相手の状況を理解する二重の視点を獲得するのである。」 一見すると、「やはり『聴く』ことが大切ではないか」と言われる方もいるでしょう。「忍耐」や「努力」という言葉があることから、「聴く」ために態度が重視されているようにも読むことができます。しかし、問題なのは、何を、どのように「聴く」のかといった「聴き方」なのではないでしょうか。ただ耳を傾けるだけで「小さな差異」に気づくことができるのでしょうか。教師が「まず聞きなさい」と指示するだけで、子どもたちは「分類・平均化せずに」相手を理解しようとするのでしょうか。2.「聴く」ために必要なこと 先日、3年国語の授業で、「ありの行列」を読み「なぜウイルソンは『地面に何か道しるべになるものをつけておいたのではないか』と考えたのだろう」という課題について話し合う場面がありました。その中で、二人の子どもが次のように発言します。Hくん「ものはよく見えていないのに行列を作って自分がきた場所から外れていないから。」Sくん「前のありが通った道すじから外れていないから。」 Sくんはその後、Hくんの言ったこととは「ちょっと違う」と主張するのですが、他の子どもたちが「Hくんと一緒」だと反論し、最後にはSくんも「ほとんど同じだ」と「説得」されてしまいました。しかしながら、「ありはものがよく見えない」ことを加えるのか加えないのかでは、大きくその主張(意見)の中身は異なります。(「ものがよく見えない」ことを加えることは、「行列をつくる」ことと「はじめのありが通った道すじを外れていない」ことの2つを根拠としてあげることになります。) この事例では、子どもたち(Sくんも含めて)は「小さな差異」を確認せず、安易に「分類・平均化」したということでしょう。つまり、子どもたちが「聴く」ためには、技能(技術)が必要であり、その技能を子どもたちに身につけさせるとともに、「聴く」ことのよさを味わわせることが必要なのではないのでしょうか。※読書案内! 中島義道『〈対話〉のない社会ー思いやりと優しさが圧殺するものー』PHP新書(1997)
2013.02.08
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「実際の白川の傾きはどうなっているのか。」前回の授業の最後に子どもたちから出された疑問である。そこで、今回は、まず、白川の傾き(勾配)を示す資料を提示した。12月に見学したA:南阿蘇立野、B:菊陽町戸次、C:熊本市小島、D:河口の場所を確認した後、傾きが変わると水が流れる速さがどうなるか、実際に雨樋に水を流して調べる。その後、子どもたちは次のように分かったことを話し合った。NSくん「白川のように、傾きが大きいときが一番速くて、だんだん小さくすると、水の流れもだんだん遅くなった。おがくずも、同じように流れた。」KGくん「雨樋の傾きを小さくすると、水はあまり流れなくて、水平したときは水が反対側に行くこともあった。」hmさん「傾きが小さいときは、おがくずが途中で止まることもあった。」smさん「実際の白川も水が反対側に行くこともある?」SMくん「実施の川は、風や潮の満ちで逆流することもある。でも、実験で反対側に行ったのは、雨樋がちゃんと水平じゃなかったからじゃないかな。もしくは、水を入れるときの勢い。」「傾き」と「水の流れの速さ」の関係についてとらえることができたようである。しかしながら、最後の最後に次のような発言がとびだす。MRくん「流水実験をした場所の傾きはあまり変わらなかった。あのときは、水のはばが広がったから流れる速さが遅くなったからじゃないかな。」SMくん「川のはばが広いから水の流れが遅いんだと思う。」ttさん「同じ水の量だったら、そういうこともあると思うけど・・・。」またまた、原因と結果の逆転である。ここで時間がきて、授業を終えてしまうのだが、後片付けの途中、次のような声が上がった。「水が太くなった。」子どもたちは、傾きを変えた2本の雨樋をつなげ、水が流れる様子を観察していたのである。だた、どれだけ「水の流れる速さ」と「水のはば」の関係に気づくことができたのだろうか。やはりこの因果関係のとらえに不安が残る・・・。※ 今回の記録は、平成25年2月6日のものである。
2013.02.08
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3年前の研究部通信の第4号。「対話」を定義づけている。よく読むと、当時の「わたし」は、対話のよさと「対話」を生む条件が混乱し、上手く説明できていない・・・・。・・・・・「学び」のあしあと 2009.6.11 研究部通信No.4「対話」1.「対話」とは 先日の附小会資料の中で「『伝えあう力』は、豊かな『対話』の中でしか育たない」と書きました。そして私は、その「豊かな『対話』」を「みんなで『なぜ』を納得するまで問い、聴きあう関係の中で一人一人の『ことば』が溢れ、生活体験や既有の知識が掘り起こされるような経験」と定義しました。このことは、昨年までの実践の中で、子どもたちの「学び」を生むために必要だと私自身が感じたものです。特に何かを引用したものではなく、少々不安になりましたので、「対話」について書かれた本を探してみたいと思います。 中島義道氏は「〈対話〉とは各個人が自分固有の実態・体験・心情・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである」とし「〈対話〉の基本原理」として、次の12項目を挙げています。 ・・・・・1)あくまでも一対一の関係であること。2)人間関係は完全に対等であること。〈対話〉の言葉以外の事柄(例えば脅迫や身分の差など)によって縛られないこと。3)「右翼」だからとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人としてみること。4)相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。5)自分の人生や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。6)いかなる相手の質問も疑問も禁じてはならぬこと。7)いかなる相手の質問に対しても答えようと努力すること。8)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること。9)相手との見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。10)社会通念や常識に納まることを避け、つねに新しい了解に向かってゆくこと。11)自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。12)それぞれの〈対話〉は独立であり、以前の〈対話〉でコンナことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観を捨てること。 ・・・・・ これらのことから、前述した私の定義はある程度妥当なものだと考えることができそうなのですが、今後私たちが、この12項目を対話する「よさ」とあわせて説明できるようになることが必要だと考えています。2.授業中の「同じです」という「ことば」 たとえば、どうして9)では「二分法を避ける」と述べてあるのでしょうか。最近、いくつかの授業の中で友達の意見に対して声を合わせ「同じです」と答えている様子を見かけました。このことは中島氏のいう「〈対話〉の原則」から外れるものです。2月の佐藤学先生(学習院大学、当時は東京大学)の講演の中にも「ちょっとした違いに敏感になることが大切」とあったことを考えると、「同じです」という「ことば」は対話と「学び」を阻害するものなのでしょう。 その「わけ」を、私たちも語ることができるようになることが必要なのではないでしょうか。 ※研究部通信5につづきます。※読書案内! 中島義道『〈対話〉のない社会ー思いやりと優しさが圧殺するものー』PHP新書(1997) 平田オリザ『対話のレッスン』小学館(2001)
2013.02.07
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3年前の研究部通信の第3号。当時の「わたし」は「論理」を「矢印」として「トゥールミン・モデル」について書いている。このトゥールミンのモデルは、内田伸子先生(筑波大学、当時はお茶の水女子大学)にいただいた井上尚美先生の本を参考にした。「わたし」は、たまたまトゥールミンの論理モデルにたどり着いたと思っていたのだが、よく考えると内田先生のアドバイスに導かれた必然だったのである。・・・・・「学び」のあしあと 2009.6.2 研究部通信No.3「論理」1.あらためて「論理」とは 先日の教官研では、それぞれの学年から「身に付けさせたい論理力・言語力」について提案がありました。レポートの形式はバラバラだったのですが、いくかの事例をもとに、それぞれの学年で「どこまで説明できるのか」「どこまで説明させるのか」ということが話題になりました。少しずつですが「育てたい力」が明らかになっているようです。しかしながら、まだ議論の論点が焦点化されていないという「もどかしさ」も感じられているでしょう。そこで、「論理」を「説明する」といった具体的な活動で考えてみたらどうかと提案(研究部通信No.2)したのは私なので言いにくいのですが、あらためて「論理」とは何か考えてみたいと思います。 藤原正彦氏は、「論理」について次のように述べています。「論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD……という形で、最終的に『Z』という結論にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして『Aならば』という場合の『ならば』が論理です。」 また、野矢茂樹氏は次のように述べています。「どんなことばも、ぜんぶ、論理にかかわっている。だって、前提が意味するところから結論を取り出してくるっていうのが、つまり論理だから、どんなことばにも意味があるかぎり、そこから論理的になにかを推論できるってわけさ。」 このように考えると、前提と結論を(もしくは、前提から結論までを)つなぐ矢印が「論理」だと考えることができます。つまり「論理科」で子どもたちで学ばせることは、「根拠となる事実や理由、条件から結論までの矢印の引き方」もしくは、「その矢印の妥当性の問い方」とも考えることができます。2.「論理」とは「矢印」? そこで、先日の教官研でホワイトボードに書いた図を振り返ってみます。 まず、図1のように「根拠・事実」から「主張(説明)」まで矢印(1)を引きました。 もちろん、これだけで説明できるものもある(例えば、実験の結果がそのまま結論になるようなもの)かもしれませんが、不十分です。そこで、図2のように「理由づけ」を加えます。 この「理由づけ」は、説明の中では「なぜなら」に続く「ことば」として表れ、図1の矢印(1)を支えるものとなります。さらに、図3のように「理由の裏づけ」や「反証」も矢印(2)をより確かなものだと示すものになります。 先日の教官研では、低・中学年では図2までの構造で説明できることを、高学年では図3の構造で説明できることをめざしてみたらどうかという話をしましたが、いかがでしょうか。 しかしながら、井上尚美氏は「1)情報の中身がホントかウソか(真偽性)2)考えの筋道は正しいか正しくないか(妥当性)3)情報はどの程度確かであるか、または、現実と照らし合わせて適当であるか(適合性)」の3点を「言語論理教育」で身に付けさせたい判断力としてあげています。前述した矢印を引く「論理」とは井上氏の2)にしか当てはまりません。そう考えると、高学年では、1)と3)の判断力もあわせて育てていく必要があるのではないでしょうか。(先日の教官研の中でも、「根拠の妥当性」や「複数の根拠があげられること」、「仮説をいくつか立てて思考できること」などが高学年で必要ではないかということも話題になりましたが、このことは1)や3)の判断力に関係があるのではないでしょうか。)※読書案内! 藤原正彦『国家の品格』新潮新書(2005) 野矢茂樹『はじめて考えるときのように』PHP文庫(2004) 井上尚美『思考力育成への方略ーメタ認知・自己学習・言語論理ー〈増補新版〉』明治図書(2007)
2013.02.07
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3年前の研究部通信の第2号。当時の「わたし」に勢いがあったのか、10号までは一気に書いている。(その後は途絶えてしまったのだが・・・。)おそらく、書くことによって思考を整理していたのだろう。このblogで紹介したトゥールミンの論理モデルについても、少しずつ言及しはじめている。・・・・・「学び」のあしあと 2009.5.22 研究部通信No.2「比較」1.なぜ「比較」なのか 昨日の教官研では、それぞれの教科等から「育てたい論理力・言語力」の提案があり、複数のレポートの中に「比較する力」「比べること」が挙げられていました。確かに「論理力」育成に関する本の中には「比較」について書かれているものが多くあります。しかし、「論理力・言語力」を育てるために、なぜ「比較」が必要なのでしょうか。 向原小学校では、「今、児童に身につけさせるべき力は、自分の考えを筋道立てて構成し、それを表現する『論理』の力であると考える(この力を『論理力』という)」という問題意識に立ち、新カリキュラムの研究開発をスタートさせました。そして、その「論理力」の「要素」として「比較する力」を挙げています。おそらく、子どもたちが「自分の考えを筋道立てて構成し、それを表現する」ために「比較すること」が大切だということなのでしょう。しかし、これでもまだ、「なぜ『比較』なのか」という問いの答えとして具体的ではなく、適当ではありません。 そこで、学級会で「みんなで昼休みに何をして遊ぶのか」話し合う場面を例に考えてみましょう。一人の子どもが「サッカーがしたい」と発言したとします。「どうして、サッカーがよいのか」と他の子どもから尋ねられたとき、どのように説明することができれば「論理的」といえるのでしょうか。「えっ、だってサッカーが好きだから」だけでは「論理的」だとはいえないでしょう。「バスケットと比べて、たくさんの人が一度に参加できるから」とか「以前体育の時間にサッカーをやったとき、みんなが楽しそうだったから」といった「比較」に基づいた理由づけが必要になってきます。 つまり、なにかを主張(説明)するときの「理由づけ」となるものが「比較」によって得られるということであり、この「比較による理由づけ」が適切にできれば「論理的」だということがいえるのでしょう。2.「説明(主張)する」という具体的な活動で考える 多くのレポートの中にあった「たとえる」「関連(関係)づける」「分析する」なども、おそらく「説明(主張)」を「論理的」なものにする「理由づけ」に必要なものなのでしょう。「サッカーがしたい」の例のように、具体的な授業の中で「どのように説明させたいのか」「どのような説明ができるのか」と考える中で、「なぜ『たとえる』なのか」という問いの答えが明らかになってくるのではないでしょうか。 先日、東京で鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)とお会いしたときにも「『論理』を『説明する』という具体的な活動で考えたらどうか」とお話しいただきました。「『論理』とは何か」ということを悶々と考えるのではなく、「サッカーがしたい」の例のように、今、私たちの目の前にいる子どもたちが「このような説明ができたら」と具体的な「ねがい」をもつことが「論理科カリキュラム」開発の出発点だと考えています。3.「どこまで説明できるのか」を考える それでは、それぞれの学年では、どのように考えればよいのでしょうか。「このような説明ができるようにしたい」という「ねがい」が出発点だとしたら、その学年で「どこまで説明できるのか」ということが段階性ということになります。 「サッカーがしたい」のような事例(もちろん、これまでの授業記録をもとにするのが一番よいのですが)をいくつかピックアップし、並べてみることから始めてみてはどうでしょうか。※読書案内! 井上尚美 他「思考力を育てる『論理科』の試み」明治図書 井上尚美「言語論理教育入門」明治図書
2013.02.05
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2月15日(金)の研究発表会を控え、私が前回授業を公開した4年前の資料や、「論理科」に取り組み始めたときの資料を引っぱり出して読むことが多い。久しぶりの公開授業であり、なかなか準備のペースがつかめないこととともに、昨年までの3年間の取り組みを振り返るためである。そんな中に、「論理科」カリキュラム開発の1年目に書いていた研究部通信が出てきた。その当時の「わたし」の問題意識が分かるとともに、今回の実践を提案するときのヒントとなると思い、あらためて読んでみる。・・・・・「学び」のあしあと 2009.5.18 研究部通信No.1「書くこと」 これまでの教官研を振り返ってみて、次の3つのことに早急に取り組まなければならないと考えます。1)「論理的に思考すること」と「ことば(特に、「ことば」にすること)」が、どのように関係しているのかを明らかにすること2)それぞれの教科等で、どんな「論理力」が必要なのか、これから必要になるのかを明らかにすること3)論理科の先にあるものを探ること1)について 田嶋氏の「『言語技術』が日本のサッカーを変える」には、「言語化し、表現するところから論理的思考は始まる」とあります。また、秋田氏の「読む心・書く心」には「心理学では書くことを『問題を解く過程』としてとらえている」とあります。これは、「ことばにすること」そのものが思考であるということでしょう。 つまり、思考の結果を「ことば」として表現するということではなく、私たちは、「ことば」にしながら、その「ことば」を使って思考しているということです。考えていないから書けない話せないのではなく、話さない(厳密には、語らない)から、もしくは、書かないから、深く考えることができないということなのではないでしょうか。 このことを、子どもたちの姿、特に子どもたちの語り、そして、語り方に着目して振り返ることで、私たちが理解していかなければならないと考えています。2)について このことは、単に「身につけさせたい力」を羅列するということではありません。 これまでの実践の中より具体的な場面を事例としてあげ、「このとき、こんな語りかたができればいいのに」「こんな指摘や質問ができればいいのに」ということを、どんどんピックアップし、考察するということです。また逆に、「こんな場面で、こんな風に語った」「こんな指摘や質問をした」ことが、その後の学びに影響を与えたというよい面も大切な事例になるでしょう。 そして、それぞれの教科から出されたものを学年ごとに整理する中で「どうしてそんな語りかたができたのか(できなかったのか)」「指摘や質問ができたのか(できなかったのか)」ということに焦点化して議論を進めることで、「なぜ、論理科なのか」ということが、少しずつ明らかになっていくのではないでしょうか。3)について 論理力を身につけさせるために論理科が必要という問題意識だけでは、「研究開発校としてのメリット」を生かしたダイナミックな研究にはたどり着きません。文科省や国際調査などの資料とともに、目の前の子どもの事実から「なぜ、今、論理力を高めることが求められているのか」ということを分析することが必要です。 そのきっかけとして、言語力・論理力の育成が求められるようになった背景にがPISA型読解力の問題があることを考えると、もう一度OECDの「キーコンピテンシー」を読み直してみてはどうでしょうか。おそらく、今後、国際化・情報化が進み、その中でのコミュニケーションは「伝わらない」ことから始まり、その中で生きていかなければならないということを主張しているのでしょう。また、2月の佐藤学先生(当時、東京大学)の講演の中の「これからの日本は知識基盤社会である」という話もヒントになるのではないでしょうか。※読書案内! 田嶋幸三「『言語技術』が日本のサッカーを変える」光文社新書 秋田喜代美「読む心・書く心~文章の心理学」北大路書房
2013.02.05
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前回のblogの続き。・・・・・3 「書くこと」によって、自分の考えの「矛盾」に気付く 次に紹介するのは、5年「流れる水のはたらき」での実践です。ここでは、土を盛って水を流す「流水実験」から、流れる水の三つの働き「けずるはたらき」「運ぶはたらき」「積もらせるはたらき」を見出した後、「実際の川では観察する場所によって石の大きさや形が違う」ことが問題になりました。 そんな中、一人の子どもが自分の考えをノートに書きながら考え込んでいました。はじめは、「大きかった石が河口に近づくにつれて小さくなっていくのは、川のはたらきで運ばれながらけずられていったから」と書いていたのですが、途中でノートの前のページを何度も見直し、筆が止まってしまいます。しばらくすると、右の図のように大きくバツを書き、はじめから書き直しはじめたのです。 そのバツ印の下を読んでみると、次のように書いてありました。「もともと上流にあった石が、川のはたらきで運ばれながらけずられていったから。だんだん形が丸くなっていったのも、けずられながら流されて、だんだん丸くなっていったから。けど、もしそうだったら、上流の方が流れが速くて、けずられるはたらきも大きいはずだから、おかしい。」 前時では、雨樋の傾きを変えて水を流す実験を行っていました。おそらく、「上流・中流・下流での『けずるはたらき』の大きさの違い」について説明しようとしたとき、前時に調べた「傾きが急なときには流れが速くなり、ゆるやかなときには流れが遅くなる」ということをあらためて確かめ、自分の考えがおかしいことに気付いたのでしょう。 このように、「書くこと」により、事実と意見を分けてとらえさせるだけでなく、根拠となる事実や理由づけと主張との関係も子どもたちに検討させることができます。つまり、「かくこと」が,根拠をあげて筋道を立てて考えることだけでなく、情報の真偽性や考えの妥当性を問うことを促すのです。4 「対話」から「探究」へ 今回、2つの実践を振り返り、「言語活動の充実」を図るために、次の4つのことが重要であると指摘することができます。 1) 子どもたち同士の「聴く-語る」関係をつくること。 2) 子どもたちの「語り」を可視化すること。 3) いつでも観察・実験の結果に「もどる」ことができること。 4) 教師自身が子どもの「ことば」に敏感になること。 しかし、最後に注意しなければならないことがあります。それは、今回紹介した実践が「言語活動を充実させる」「ことばの力を育てる」ことを主な目的としていたのではなく、逆説的ですが、自然事象に対する深い理解と科学的な見方や考え方を育成しようとした結果、「言語活動が充実してきた」「ことばの力が育ってきた」ということです。今回紹介した「発芽後に子葉が落ちる理由」や「川の上流と下流では石の大きさや形が違う理由」などを問う授業では、子どもたちが複数の事実から推論することが必要があり、その推論することから得られた考えを他者の多様な「ことば」と照らし合わせながらつくりかえる「自己内対話」が学習の中心になります。つまり、学習の価値付けや内容の必然性から、子どもたち一人一人の「ことば」を大切にした授業をデザインしてきたのです。 このように考えると、あらためて冒頭に書いた「何のために言語活動を充実させるのか」という問いの答えが見えてくるのではないでしょうか。それは、子どもたち一人一人の「探究」を保障するためであり、深い理解と確かな概念形成を導くためといえるでしょう。だからこそ、「言語活動を充実」させるためには、子どもたちにとって「探究したい」「語り合いたい」という質の高い課題を設定するということが前提になるともいえるかもしれません。 また、子どもたち同士の「対話」や「書くこと」の中から、あらたな問いが生まれ子どもたちの「探究」がはじまることも見逃すことができない事実です。これからの理科学習では、子どもたちが思考を深めるための「道具」として「ことば」を利用することができているか、そして、学習のどこにつまずいているのか、どんな葛藤をしているのかを、一人一人の「ことば」からていねいに洞察し、柔軟に授業をデザインしていくことが求められています。
2013.02.03
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2月15日(金)の研究発表会に向けて、あらためて指導案を見直す。やはり、子どもたちが、どうやって複数の事実を根拠にするとともに、それらの事実を関係付けながら推論し、結論を導き出すかがポイントになりそうである。どのような実験を準備するかということも重要だが、子どもたちの「ことばの力」にも期待したい。この「ことばの力」について、数年前、「子どもと授業」(新潟大学教育学部附属長岡小学校 2010.3)に原稿を書いた。今回、授業を公開する「流れる水のはたらき」についても触れているので、ここで紹介する。・・・・・「ことば」の力に培う理科授業デザイン1 何のために言語活動を充実させるのか 本年度から移行措置が始まった新学習指導要領では、「言語活動」について、次のように記されています。***** 各教科等の指導に当たっては、児童の思考力、判断力、表現力等をはぐくむ観点から、基礎的・基本的な知識及び技能の活用を図る学習活動を重視するとともに、言語に対する関心や理解を深め、言語に関する能力の育成を図る上で必要な言語環境を整え、児童の言語活動を充実すること***** 全ての教科等において「言語活動の充実」を図り、子どもたちの「ことば」の力を育成しようということです。また、単に子どもたちを話し合わせたりレポートを書かせたりすればいいということではなく、子どもたちの「思考・判断・表現」につながる言語活動が求められていることも分かります。 理科においても、科学的な思考力や表現力の育成を図るため、新学習指導要領には、次のように記されています。***** 観察・実験の結果を整理し考察する学習や科学的な言葉や概念を使用して考えたり説明したりするなどの学習活動が充実するように配慮すること***** 理科の言語活動は、「考察」場面が中心になるということでしょう。理科における「考察」とは、観察・実験の結果から情報を読み取り、結論を導くことです。しかし、これまでの国際的な学力調査の結果から、理科においても日本の子どもたちの「情報を読み取り、論証し論述する力」が欠けていることが指摘されていることを考えると、これまでの理科学習の中で、結果から自分の考えを「ことば」にすることを軽視してきたことを反省しなければならないでしょう。 「ことば」と思考には大きな関係があります。「ことば」は思考の「素材」であり、「形式」でもあります。何かを考えるとき、考えていることを表すためにぴったり合う「ことば」が見つからないと思考は深まりません。また、私たちの思考は直感的、断片的なものが多く、それを「ことば」にしようとするときに「つながり」を意識しなければならなくなり、考えの不十分さや矛盾に気付くことになります。 つまり、何かをじっくりと考えようとするとき「道具」としての「ことば」が必要になるのです。そこで、今回、子どもたち同士の「対話」と「書くこと」に着目して実践を振り返り、「ことば」と理科学習の関係を考えてみたいと思います。2 「対話」の中で「なぜ」が生まれる まず、5年生の単元「植物の発芽」での実践を紹介します。インゲンマメは、発芽後しばらくすると、葉が大きくなるにつれて、子葉がしおれ落ちてしまいます。そこで、「どうして子葉が落ちたのか」と問うと、一人の子どもが次のように答えました。「葉に日光があたって、養分をつくることを光合成というんでしょ?本当は、子葉にデンプンがあるんだけど。デンプンっていうのは、養分の一種でしょ。葉が大きくなるにつれて、日光にあたる面積が大きくなって、光合成をやりやすくなって、子葉がいらなくなってすてたんだと思う。」 この子どもは、子葉の中に養分があると発言しているものの、何かで光合成について知り、「葉で養分をつくることができるようになったから子葉がいらなくなった」と考えたのでしょう。しかし、他の子どもに次のように指摘されます。「葉に日光があたって養分をつくる・・・。そうかもしれないけど、それだったら、子葉の中にあった養分がもったいないよ。」 すると、はじめ発言した子どもは、次のように、たどたどしく発言を続けました。「葉が成長するにつれて、葉の日光があたる面積がだんだん大きくなっているから、でも、この子葉が何のために使われたかというと、光合成がやりやすくなるから・・・、光合成がやりやすくなるから・・・やりやすくなるから・・・、この子葉がいらなくなるので・・・。葉が小さいうちは、光合成する割合が低いので、根を伸ばす力と葉を大きくするために使われたんだと思う。」 光合成にこだわりながらも、自分の考えを語る中で、子葉(種子)の中にあった養分を意識しはじめたことが分かります。おそらく「もったいない」という友達の指摘により、もともと子葉(種子)にあった養分の行方が問題になっていったのでしょう。 このように、「対話」の中で子どもたちが自分の考えを「ことば」にして語る「きっかけ」と、そして、一人では気付かなかった「なぜ」が生まれてくることが分かります。友達の指摘や質問、異なる視点での発言などが、自分の「わかったつもり」に気付かさせてくれるのです。この「なぜ」が、より深く、論理的に考えるスタートになります。(つづく)
2013.02.03
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「おがくず」と「小石」を使ったりジョウロを2つにして水の量を増やしたりした2回目の流水実験。今回は、この2回目の流水実験を終えて分かったことを話し合った。まず、「おがくず」を使ったときの気付きが出される。kmさん「おがくずを使ったら、上流部分が速く流れているのが分かった。」SMくん「途中から、だんだん遅くなった。」次に、「小石」を使ったときの気付き。KGくん「小石をおいたら、水の流れが二つに分かれた。」GTくん「ジョウロ1つのときは、小石は動かなかったけど、ジョウロを2つにしたとき、ちょっと転がった。水の流れが速くなったからなったからだと思う。」smさん「私のグループでも、ジョウロ2つのとき小石は上の方では転がって、途中で止まった。」HNくん「水の量が増えると、水の流れが速くなるから。水の量が増えると、侵食と運搬のはたらきが大きくなることが分かった。」ここでは「水の量が増えると流れが速くなる」と関係付けているのだが、この考えをもとにしたのだろう、MKくんが次のように発言する。MKくん「上の方では水の流れが速くて、だんだん遅くなったのは、途中で水が吸い込まれて水の量が減るからだと思う。」確かに「水の量が増えると流れが速くなる」ならば、MKくんの考えは妥当であろう。しかし、続けて次のような発言があった。HNくん「ぼくは、地面の傾きがゆるやかになっているからだと思う。」 ayさん「水の量も関係してると思うけど、やっぱり傾きだと思う。」smさん「ボールを蹴ると、だんだんとゆっくりになるのと同じ?」ここで、写真で流水実験場を見直し、上の方の傾きが大きく、だんだんと傾きが小さくなっていることを確認した。最後に次のような疑問が出される。AKくん「白川の傾きはどうなっているの?」C 「下流や河口の近くは平らだったけど・・・。」C 「立野では、まわりの山の斜面は急だったけれど・・・。」次時には、白川の勾配が分かる資料を準備することを約束し、授業を終えた。「水の量」と「川の傾き」。今後、水の流れや流水のはたらきをていねいに関係付けていく必要がある。※ 今回の記録は、平成25年1月30日のものである。
2013.02.01
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前回までのblogの続き。これまで、どのようにトゥールミンの「論理モデル」を授業で活用するか考えてきたのだが、「このモデルに当てはめながら自分の考えを書くといった直接的な指導に使うものではない」と述べてきた。しかし、昨年作成した「小学校学習指導要領『論理科』(試案)」では、「他者に分かりやすく説明する方法」に関することとして、次のような内容を挙げている。・・・・・〔第1学年及び第2学年〕(1) 根拠となる事実を挙げ、自分の考えを説明する。 (2) 相手に応じて、説明する事柄の順序を工夫したり事実と考えを明確にしたりしながら説明する。〔第3学年及び第4学年〕(1) 根拠となる複数の事実を挙げ、その事実を解釈した理由づけを含めて自分の考えを説明する。(2) 相手や目的に応じて、説明に必要な事柄を選んだり複数の事柄の関係に注意したりしながら説明する。(3) 結論の導き方を明確にしながら、自分の考えを説明する。〔第5学年及び第6学年〕(1) 根拠となる複数の事実を挙げ、その事実を分析したり事実相互の関係を明確にしたりした理由づけを含めて自分の考えを説明する。(2) 目的や意図に応じて、説明全体を見通した事柄の整理をしながら、主張や結論を先に述べ る結論先行型の説明をする。(3) 結論の導き方やそのことが妥当である理由を明確にしながら、自分の考えを説明する。・・・・・これは、子どもたち自身もトゥールミンのモデルを意識しながら説明できるようにするということである。それでは、「モデルを当てはめる」ことと、どのような違いがあるのか。この「小学校学習指導要領『論理科』(試案)」では、「論理科」の目標を次のようにしている。・・・・・じっくりと「みる」「語る」活動を通して、他者と積極的に対話しようとする態度の育成を図り、論理的に考えることのよさと他者に分かりやすく説明する方法についての理解を深める とともに、「ことば」に対する関心を高めメタ言語意識を養う。・・・・・なお、この中にある「メタ言語意識」について、内田伸子先生(筑波大学監事)は、「学校教育」(広島大学附属小学校 2012.5月号)の「考える力をが育むことばの教育」に次のように書かれいている。・・・・・「メタ言語意識」というのは何かというと、「メタ」というのは「対象化する」という意味があるので、言語自体を自覚的にとらえる意識のことです。要するに自分たちが使っている言語を対象化してとらえ、気づくことです。・・・・・自分が発している、もしくは、書いている「ことば」を振り返ることが大切であり、メタ言語意識を育てていくことによって、論理的に思考したり表現したりすることができるようになるということであろう。つまり、トゥールミンの「論理モデル」も、この振り返りのときに働くことが重要なのである。私たちは「論理科」カリキュラムの開発の中で、「語りの中で『論理』が立ち上がる」ということをキーワードにしてきた。このことは、考えたことを単に発表するのではない、相手に伝わっているかという意識をもって自分の考えを振り返りながら「語る」ことを大切にするということである。そのため、「論理科」カリキュラム開発の3年目には、次のような子どもの姿を見ることができるようになった。(これまで私たちが求めてきた「ハキハキと堂々と発表する」姿とは正反対である。)・たどたどしいながらも一つ一つの「ことば」や考えの筋道を確かめながら発言する。・発言している途中に、相手に分かりや すく伝わるように、ピッタリと合う「ことば」を探しながら自分の表現を言い換える。おそらく、このときにトゥールミンのモデルが働くようにするためには、直接的な指導ではなく、論理的に考えることのよさを授業の中で実感させることが大切なのだろう。
2013.02.01
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