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このblogでupするほとんどが私自身の授業の記録である。最近では、5年「ものの溶け方~ものが『とける』とは」「流れる水の働き~『上流と下流』とは」、6年「ものの燃え方」「人の体のつくり」「植物の養分と水の通り道」を書いた。しかし、この記録は全てを同じように書いてるわけではない。大きく分けて、次の3つのレベルがある。まず、「レベル1」。「こういうことをしました」という活動記録(報告)のレベル。これには、「人の体のつくり」や「植物の養分と水の通り道」の記録が当たる。「実験が上手くいった」「子どもの反応がよくなかった」といった単なる授業の振り返りであり、リフレクションとはいえないだろう。観察や実験の写真があれば、15分もあれば書ける。次に、「レベル2」であるが、これは、授業ビデオを「流し見」したり板書を見たりしながら、子どもの発言を振り返る。「ものの燃え方」の記録が、これに当たる。子どもたちの話し合いの「流れ」や発言の「つながり」を意識して書く。特に、その中の「特徴的な発言」が中心になるように心がける。ビデオを「流し見」する時間も合わせて、2時間は書くのにかかる。最後の「レベル3」は、授業ビデオを使って子どもたちの発言を起こし、その一つ一つの発言を分析して意味づけるレベル。「ものの溶け方~ものが『とける』とは」「流れる水の働き~『上流と下流』とは」の記録である。単元の中の全ての授業ではないが、ポイントとなる考察場面の授業は、3回から5回にかけて書くこともある。(分けるときは話し合いの「節」を意識する。)だから、このレベルは、どうしても時間がかかる。実際、「流れる水の働き〜『上流と下流』とは」は、3月に行った2時間分の授業の記録を書くことができていない。時間がかかるのである。「なかなか続きが書けない」ことの、単なるいいわけなのだが・・・。
2013.06.28
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本校で「夏の実践研究会」を開催します。日時 平成25年8月20日(火) 9:00〜16:00場所 熊本大学教育学部附属小学校参加費 無料私も、午後の各教科等授業づくりセミナー「理科」を担当します。内容は、地学単元における映像を使った授業づくりです。特に、昨年度3学期に実践した5年「流れる水のはらたき」の授業の様子をビデオで視聴後、熊本を流れる「白川」と「緑川」の違いに着目して、参加される先生方といっしょに授業づくりをします。詳細&申し込みはこちら。お待ちしています。
2013.06.27
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今年度3回目の研究会の案内です。第3回授業記録を読む会日時 平成25年7月7日(日)14:00~17:00場所 熊本大学教育学部附属小学校会議室内容 ・熊本大学教育学部附属小学校 宮原大輔先生の授業(道徳)ビデオ視聴 ・情報交換等 ※参加される方は jharaguti@gmail.com まで聴きあう授業づくりについて興味のある方の参加をお待ちしています。気軽にお立ち寄りください。
2013.06.27
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新しい単元に入ったものの、やはり今日も天気は「雨のちくもり」。前回同様、投光器とエアコンの「ドライ」を使って、蒸散の実験を試みる。まず、多くの葉を取り去ったホウセンカと葉のついたホウセンカの両方に、ポリエチレン袋をかぶせ、しばらくしてから袋の中の様子を調べる。結果は次の通り。まず、葉を取り去ったホウセンカ。次に、葉のついたままのホウセンカ。あわせて、赤い色水に堀上げたホウセンカをつけ、葉や茎の色の変化を観察した。今回も、「何とか実験できた」という授業だった・・・。いいわけであるが、担任でないと生物単元の観察・実験は調整が難しい。※ 今回の記録は、平成25年度6月26日のものである。
2013.06.26
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気づいたら6月の終わり。人体模型Tシャツづくりを中断し、あわてて次の単元「植物の養分と水の通り道」に入る。とはいうものの、これから2週間の天気予報は雨かくもりの日が続く。そこで、投光器を併用して実験を「強行」する。まず、授業の前日の午後、3枚のインゲンマメの葉をアルミニウムはくをかぶせておく。授業日の朝、1枚の葉にデンプンがあるかどうか、ヨウ素液を使って調べる。結果は次の通り。そして、残った葉の1枚のアルミニウムはくをはずし、もう1枚はそのままにしておく。その後、5時間目に、その2枚の葉にデンプンがあるかどうか調べる。結果は、次の通りである。「微妙」ではあるが、なんとか差がみられホッと一安心する。以前は、もっと早い時期にジャガイモを使って調べていたのだが・・・。やはり、何事も計画的に進めることが大切である。※ 今回の記録は、平成25年6月25日のものである。
2013.06.26
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先日、ある小さな研究会で若手教師の授業ビデオを観る。やはり、ビデオ視聴後に話題になったのは子どもと授業者のズレである。授業者の教材に対する思いの強さから、提示された課題に対して誠実に答えようとしている子どもの発言が、ほとんど取り上げられない。おそらく授業者の意図と異なる発言だったのだろう。その研究会の最後に、授業者の「今、授業がおもしろくない」という本音を聞いた。おそらく、「授業が思うように進まない。子どもの発言が分からない」という悩みであろう。私は、この「悩み」に対して、次のように発言した。「週に一回でいいので自分の授業をビデオに撮り、見てみてはどうか。私が授業リフレクションに取り組み始めた当時は、週三回の理科の授業をボイスレコーダーで録音し、帰宅する車の中で聞いた。」(おそらく、こんなアドバイスでは自分の授業ビデオを見て、リフレクションしようという気にはならないだろうが・・・。) この「子どもをみる、授業を見る」ことについて、石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会)は「学びのたより」(2013.6月号)に「事実を『みる』目を磨く」として、次のように書かれている。(この「学びのたより」は、東海国語教育を学ぶ会のHPでダウンロードすることができます。)・・・・・午前中、ある学校の報告に関する協議の最後に、わたしは次のようなことを述べました。「すべては、子どもの事実、授業の事実、教師の事実をみることから出発しましょう」(中略) 授業において教師が心がけなければならないことは多々あります。そのなかで、「みる」と いうことは、もっとも心がけなければならないことだとわたしは考えています。それは、学 びは一人ひとりの子どもの内に生まれるものだからです。どこがわからないか、どんなこと でつまずいているか、どんな考え方をしているか、何に興味を抱いているか、どうして興味 を失っているか、どんなことに心を動かしているか、どんな発見をしているかなど、子ども の学びの事実は一人ひとり異なります。しかも、わたしたちが目指す「協同的な学び」「学び 合う学び」においては、それら一人ひとりに生まれるものがつながり合い、かかわり合いま す。そのつながりとかかわりがどういうものなのかは学びの実現に深くかかわります。です から、教師は、できる限りの方法と感覚を駆使して、それらの事実をとらえる努力をしなけ ればなりません。その最たるものが「みる」という行為なのです。(中略) すべての子どもが生きる、すべての子どもの学びを保障するということは、それぞれの子どもの考えに存在する値打ちを感動と喜びを伴って受けとめることによって可能になるのです。そうすれば、どんな子どもでも、学びに参加できるようになります。 では、どうすれば、子どもの考えに潜む値打ちが「みえる」ようになるのでしょうか。それについては即効的な特効薬はありません。もちろんわたしのみえていることもたかが知れています。そのたかが知れているようなみえ方でも、そこにはわたしの授業者としての歩みが詰まっているのです。長い時間をかけて育んできたものなのです。 先生方に願いたいのは、子どものことを一人ひとりみることについては、今すぐにでも始めてもらいたいということです。誠実に、丁寧に、心をこめて「みる」ことに努めれば、それまで気づくことのできなかったことがみえてきます。そのうれしさが、もっとみようという意欲になります。 子どもの考えの値打ちについては、学びの素材に対する専門性とつながることだけに、子どもをみるだけでは身につきません。教科書程度、指導書程度の知識で授業していてはその専門性はいつまでたっても培っていけないでしょう。学びの素材に対する研究と修養にどれだけのエネルギーをかけるか、それがカギです。その専門性と、子どもをみる目がつながったとき、学びを「みる」目が確かになっていくでしょう。・・・・・「自分の授業のビデオを見ることはつらい」という教師も多い。それは、ビデオを見て「反省」するからであろう。しかし、少し子どもや授業が「みえる」ようになると、そこには「驚き」や「発見」がある。このことが、石井先生がいわれる「そのうれしさが、もっとみようという意欲」につながるのだろう。そして、「たかが知れているようなみえ方でも、そこにはわたしの授業者としての歩みが詰まっている」ということ。本年度4月から、研究授業などで多くの授業を「みて」授業について発言しているのだが、「私の授業者としての歩み」は、どのように受け止められているのだろうか・・・。(つづく)
2013.06.25
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5月31日、6月30日に開催された富山市立堀川小学校の研究会に参加した。このblogにも書いたように、これまで何度も研究会に参加したいと思いながらなかなか実現しなかったのは、やはり熊本と富山が「遠い」のである。昨年の11月に参加したときには、連絡を取って参観日を調整していただいたため、福岡空港発、小松空港行きの飛行機(一日4便)で行くことができたのだが、今回は木曜日の校内研を終えてからの出発だったため、陸路を選ぶ。今後、熊本からも「堀川小に行きたい」と思われる方もいると思うので、参考のためにその行程を残す。【熊本→富山】(5月30日〜31日)18:44 熊本駅発(九州新幹線みずほ 新大阪行)21:44 新大阪駅着22:03 新大阪駅発(東海道・山陽新幹線こだま 名古屋行)22:39 米原駅着22:48 米原駅発(特急しらさぎ 金沢行) 0:39 金沢駅着※ なんと金沢泊まりであった・・・。06:38 金沢駅発(特急北越 新潟行)07:17 富山駅着!※ これで何とか「朝活動」「くらしのたしかめ」から参加できたが、堀川小についたときには、ふらふらであった。【富山→熊本】(6月1日〜2日)17:11 富山駅発(特急サンダーバード 大阪行)20:32 新大阪駅着20:45 新大阪駅発(東海道・山陽新幹線のぞみ 博多行)23:14 博多駅着※ 0:15発(1:48熊本駅着)の特急で帰ることはできるものの、ここで限界を超え、博多で1泊することに・・・。ただ、次の日が授業参観だったため、始発で熊本に・・・。06:10 博多駅発(九州新幹線つばめ 鹿児島中央行)07:00 熊本駅着・・・。これからも堀川小学校の研究会には参加したいと思っているが、ここまでの「強行軍」は、おそらく最初で最後だろう・・・。
2013.06.24
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前回のblogで紹介した奈須正裕先生(上智大学)は、著書「子どもと創る授業 学びを見とる目、深める技」(ぎょうせい)の中で、富山市立堀川小学校のことについて次のように書かれている。・・・・・ まずもって、一人の語りが長い。平気で三分とか五分語り続けます。自分が今、この題材をめぐって考えていること、感じていることのすべてを、仲間に向けて、教師に向けて、そして何より自分に向けて、率直に正確に語りきろうとする。決して「だいたい」では語らない。理由ははっきりしていて、それでは自分に対して、仲間や教師に対して、学んでいる題材に対して不誠実だからです。 なので、語りの前半部と結論とは直接関係のない一週間も前の出来事の詳しい描写だったりするんですが、その子にすればその出来事が伏線になってはじめて最後に述べる結論があるので、省くわけにはいかない。だから、そういったすべてに必要な時間を子どもたちは一切の躊躇もなく存分に取る。それが結果的に三分であり五分になるんですね。 初めて参観した人は誰しも子どもの語りの長さに驚くんですが、だから大切なのは物理的な長さではありません。重要なのはその長さを必然とする語り(=学び)の質であり、語り(=学び)に向かう姿勢なんですね。(中略) だから、子どもたちは、自分に何かしら言いたいことがあると実感したならば、その語りが最終的にどこに着地するのか、そこにたどり着くのにどのような道筋が必要なのか見えなくとも、とりあえず語り始めます。そして、自ら語りを進行させながら、もう一人の自分が語っているその声の中に、自分が言いたかったことやそこに至る論理を徐々に発見していくのです。(中略) 特に危惧されるのは、思考や感情を内面へと深く掘り下げる動きを阻止しかねない点でしょう。定型化した語りの訓練は、語りをもっぱら上へ、外へと向かわせます。堀川の語りは逆で、下へ、内へと向かう。だからこそ、語りが進行する中で真の自分に出会うのです。語り始めの段階では、そこまでの深度で思考や感情が自身の内面に届いていないんですが、何周も語りをめぐらせる内に、だんだんと深度を増していき、ついには自身の存在の底まで到達するのですね。・・・・・この原稿は、4年前に雑誌「悠」(もしかしたら「悠プラス」)の連載で紹介されていたものである。実は、私も4年前にこの原稿に出会い、当時スタートしたばかりであった「論理科」カリキュラムの開発に大きな影響を与えている。紹介した2段目の分のある部分のプロットは「語る中で語りたいことが見えてくる」になっているが、当時の雑誌では(記憶は確かではないが、だぶん)「語りの中で論理が立ち上がる」であった。この「ことば」は、3年間の研究の中心になる一つのキーワードであった。(昨年の11月につづき)今回の二日間で、そんな子どもの姿を堀川小学校で見ることができたことは、大きな収穫であった。(つづく)
2013.06.24
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先日(5月31日、6月1日)、富山市立堀川小学校の研究会に参加したときの「学び」のつづき。1日目の午後は、藤井千春先生(早稲田大学)と奈須正裕先生(上智大学)のシンポジウムだった。「子どもと授業」というテーマであったが、話題は「言葉と想像」、そして、「想像と創造」のことが中心になり、私も興味深く(少し知的に興奮しながら)聴くことができた。その中で、次のような奈須先生の「ことば」をメモした。・・・・・「重松鷹泰先生(名古屋大学名誉教授、奈良女子大学附属小学校主事で堀川小学校を指導)は、『学力とは想像力』だと。言葉から目の前にないものを思い浮かべること。きっと意味あることだろうと聴く態度も必要。」「想像したことを足場にする。そして、きっと関係あるに違いないと事実化していく。つまり、イマジネート(想像)しながら、クリエイト(創造)していく。」「類推。違うけれど、似ている経験を総動員して想像する。共通するとことを見つけ、違うところを補完する。このことが『読みが深まる』ということではないか。そのときに、身体的なものを伴って実感する。」「教師にも想像力が必要。徹底的に予想すればするほど、子どもはそれを超えていく。この子どもは価値あることを言っているにちがいないと知りたくなる。だから、聴く。」・・・・・「想像しながら創造する。」先日のblogでも書いたが、何か新しいものを創造するためには、想像することが必要であり、そこには「類推」など、論理的に思考することが関係しているということであろう。私のメモであり、私が聴いてしまっている部分も多いが、今後のキーワードになりそうである。(つづく)
2013.06.24
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いよいよ「人体模型Tシャツ」をつくる。(前回のblogで書いた「アジの内臓」「ブタの心臓」を観察するかどうかは、とりあえずさておき・・・。)一人に一枚Tシャツを配り、これまで学習した「呼吸」「消化・吸収」「血液の循環」に関係する臓器を描き込む。子どもたちは、人体模型Tシャツをつくることを楽しみにしていたのだろうか、いろいろな資料を準備していた。実際に描き込むときには、Tシャツを着て「肋骨」や「肛門」を目印にして、肺や心臓、大腸の大体の場所を決めると描きやすい。しかし、それぞれの臓器の「つながり」や「重なり」を考えて描くのは難しく、何度も資料の図と自分の体と比べる様子が見られた。約1時間で、下書きが終わる。後は絵の具で色をつけるのだが、どんなTシャツができあがるのか楽しみである。※ 今回の記録は、平成25年6月19日のものである。
2013.06.19
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先日(5月30日、6月1日)、富山市立堀川小学校の研究会に参加した。昨年の11月につづき、2回目の訪問である。以前から、伝統ある研究校である堀川小学校に行きたいと思っていたのだが、日程が合わないとともに遠方であることから、なかなか研究会への参加が実現しなかった。今回の旅程も、強行軍であったものの、なんとか2日間どっぷりと参加することができたので、そのときの私の「学び」をこのblogでも紹介したい。まず、「くらしのたしかめ」。「くらしのたしかめ」とは、授業前の15分間と授業後の15分間に、朝の会、帰りの会の代わりに行われる話し合いの時間である。自由に子どもが発言する中で、普段の生活の中での気付きや授業や行事に向けた「決意表明」など、子どもの気持ちが中心に語られる。今回、2年生の一クラスに張りついて「くらしのたしかめ」を参観する。一日目の朝。その日の朝活動(清掃活動)のことが話題になる。堀川小学校では、朝登校したらすぐに自分の決めた場所の清掃活動(花壇の手入れや飼育小屋の修理などもする)をはじめる。一人の子どもが「いつもはトイレを掃除するけど今日は視聴覚掃除をした」と話す。つづけて「はじめからきれいだったけど、ちょっときれいになってうれしい」「お客さんがいっぱいいて、あいさつした」と話す中、T先生に問い返されたり他の子どもたちから質問されたりしながら、「今日、きれいなところ(視聴覚室は授業会場)で話し合いをしたい」という語りが生まれた。「(視聴覚室で公開授業があることは)前から分かっていたのに」と指摘され、「明日(研究会二日目)明日もする」という「決意表明」をする。その後も、他の子どもから「昨日よりゴミが少なくて時間もあったのに、みんな手が動いていなかった」という問題提起に対して「○○さんとついつい話してしまう」という本音が出され、「○○さんと、仲良くしとったもんね」というフォローで終えた。その日の下校前。体育の時間に「はじめて逆上がりができた」という友達の発言をきっかけに、一人の子どもが、これまで「チャレンジタイムになるとできなくってしまう逆上がり」が今日はできたと話しはじめる。今回は、あまりT先生の問い返しはなく、他の子どもの「何でできたの?」「公園とかで練習するの?」「今日はお客さんがおってドキドキしなかった?」「できるって思ってた?」というつぶやきが「語り」の中に取り入れられていった。2年生の子どもがたどたどしいながらもしっかりと語り、友達のつぶやきまで取り入れて「論理」を立ち上げていく姿を目の当たりに、感動に近い感情に包まれる。「個の語り」と「対話」のバランス(リンクも含めて)が絶妙なのである。少しでもT先生の子どものコミュニケーションを組織する技に近づければと強い「あこがれ」と「ねがい」をもつことができた。(つづく)
2013.06.18
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今回は、前回学習した「血液の循環」をメダカの尾びれの血液の流れを観察して確認する。メダカを少しの水といっしょにチャックつきのビニル袋に入れ、顕微鏡(100倍)で観察した。写真や図と違って実際に血液が流れるため、子どもたちからは「すごい」と声が上がる。特に、新しい発見のある観察ではない(教科書では「やってみよう」の取り扱い)が、やはり「実物を見る」ということは大切なのだろう。そう考えると、次の二つの観察をするかしないか悩むところである。まず一つ目は、魚の消化管の観察。教科書では「やってみよう」にフナが取り上げられているが、以前、学校近くの魚屋で買ってきたアジを観察したことがある。新鮮さが売りの個人商店だけあって、しっかりと観察することができた。二つ目に、豚の心臓の観察。牛、豚、鶏の心臓は、食用(ハツ)として販売されており、手に入れることができる。そのなかでも豚の心臓は、人の心臓と大きさが近いとともに、「原型」に近い形で手に入れることができる。(以前、阿蘇の中学校に勤めていたとき、近くにハム工場があったため、豚の心臓や小腸を分けてもらうことができた。心臓は、検査のために切り開かれているものの、丸めるともとの形が分かる。)たまたまインターネットで調べたら、なんと「楽天」で豚の心臓を購入することができる。ただ、業務用で10kgからの販売。悩むところである・・・。※ 今回の記録は、平成25年6月18日のものである。
2013.06.18
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互いに主張だけを述べ合っても話し合いにならない。このことに反論はないだろう。授業の中での話し合い(言語活動)も、「何を根拠にしているのか」「その根拠から、どのように主張を導き出したのか」を問わなければ深まりはみられない。そこで、本校は4年前に「論理科」カリキュラムの開発をはじめたときから、トゥールミンのモデルを論理モデルとして参考にしている。しかしながら、授業者自身がこのトゥールミンモデルを意識していないということだろうか、残念ながら、問うているのが「主張なのか」「根拠なのか」分からなかったり、さらには、子どもが「理由づけ」まで説明しているにもかかわらず十分に取り上げられなかったりする授業が多い。おそらく、授業者自身も混乱しているのだろう。そこで、「論理科」で設定した3つの領域を振り返ってみたい。特に、3月に熊本大学で開催された新学習指導要領シンポジウムで提案したときに使った、次のようなトゥールミンモデルをベースにした図を参考にしてみてはどうかと考える。授業で提示するテキストに対して、子どもたちはどのようにアプローチするのか。それは、この3つのどれに当てはまるのか。このように考えると、論理的に思考することを促す「3つ」の授業スタイルが浮かび上がってくるのではないか。(つづく)
2013.06.18
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前回のblogの最後に、次のように書いた。・・・・・それでは、どうすれば「他人事ではなく自分ごと」にすることができるか。このことが『「聴く」-「語る」関係』をつくるためのポイントであり課題であろう。・・・・・このことについて、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)は、「『伝えあう力』を育てる授業づくりー新教育課程における学習活動の創造ー(日本教育心理学会創立50周年記念シンポジウム2)」(教育心理学年報vol.49 2010)に続けて次のように述べられている。・・・・・最後に、「響きあう学び」の経験化を実現するために教師が留意すべき点のいくつかを挙げたい。 1 教師自身が「語る⇔聴く」 まず問われるのは、教師自身が聴いているか、語っているかという点である。教師という特別な役割ではありつつも、「語る⇔聴く」というネットワークを構成する一員としてその場に存在し、子どもたちや学習課題に向き合っているかという点が問われることになる。教師自身が、よき聴き手・語り手のモデルになると同時に、子どもの優れた聴く姿、 語る姿が尊重され、賞賛されるような文化を教室に創り出すことが重要なのではないだろうか。言語的コミュニケーションだけではない。教師自らが非言語的コミュニケーションを大切にし、五感で感じとろうと心がけているかが問われることになる。また、子どもたちの表情やしぐさを大切に扱い、その意味やメッセージ性を気にかける姿勢も求められるであろう。 2 固有名詞性の尊重 一人ひとりの興味やこだわり、ユニークな発想などを匿名化して扱うのではなく、むしろ、その固有名詞性を重視してその情報を積極的に可視化する。例えば、授業展開時において、子どもたちの「自分ごと」の表現を受け止めたり、促したり、引き出したり、支えたり、つないだりといった諸行為を通じて、他者性をベースにした伝えあい、響きあいを促すようなコミュニケーションの流れを創り出す。また、子どもたち同士が自律的にそのようなコミュニケーションを行えるような場や環境を整えることも教師の仕事であろう(鹿毛,2007)。3 「しかけ」の実践化 「響きあう学び」を促すために、教科を中心とした「授業」では、課題への「共同注意」を促すことを通じて生起する「共同」(例えば、同じ学習課題に取り組むこと)を、他者性を前提とした「協働」(例えば、各自のユニークな課題に対する取り組みについて相互に交流すること)へと転換させていくことが教師に求められることになる。そして学びを刺激し、ガイドし、学びに必要な情報を可視化することを通して、当事者として主体的に、しかも協働的に課題に向き合うという状況を現実化するとともに、「語りあい」「聴きあい」を基盤とした「伝えあい」が成立するような「しかけ」(鹿毛, 2008)を構想し、実践に活用していくことが求められるだろう。おわりに 最後になってしまったが、原口淳一先生をはじめ、熊本大学教育学部附属小学校の先生方による実践を紹介することで本稿の結びとしたい。 「みんなで伸びる授業をデザインする」をテーマとして授業研究に取り組んできた本校に、私は 2006年度から関わらせていただき、沢山のことを学んだ。とりわけ、ご自身の授業や実践研究について熱く語る先生方の姿、授業記録を丹念に起こしたり、授業のビデオを同僚相互で見あったりして、リフレクションを明日の授業に活かそうとする先生方の姿、そして子どもたちの活き活きした学びをまるで我がことのように喜びあう先生方の姿はきわめて鮮烈で、私は決して忘れることができない。子どもたちが伝えあうことによって学びが広がったり、深まったりする「響きあう学び」の実現を目指した本校の先生方の地道で誠実な熱意と努力に、私は、個性に彩られたプロフェッショナルとしての教師集団の姿を見せつけられたような気がした。 おそらく百点満点の授業は存在しない。だからこそ、教師はよりよい授業を実現すべく チャレンジしつづけるのである。 まずは、子どもが「語る─聴く」ことを通してハイレベルな学びを実現しようとする教師たちの姿から多くのことを学びたい。そしてわれわれの次の仕事は、そこから学んだことについて当事者として主体的に語りあうこと、そして聴きあうことなのではないだろうか。【文献】鹿毛雅治 2007 子どもの姿に学ぶ教師─ 「学ぶ意欲」と「教育的瞬間」 教育出版鹿毛雅治 2008 授業づくりにおける「しかけ」 秋田喜代美・キャサリン・ルイス(編著)授業の研究 教師の学習─レッスンスタディへのいざない 明石書店・・・・・やはり、教師の「聴き方」とネームプレートを使った板書(可視化)は欠かせないということであろう。
2013.06.18
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前々回のblogで、『「聴く」-「語る」関係』について、私が5年前から主張(提案)していると書いたのだが、もちろん、当時の「わたし」が0から考え出したアイディアではない。「わたし」が、このことを考えはじめたのは、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)が、本校の校内研の中で、『「話す」→「聞く」』から『「語る」⇔「聴く」』へと話されたことがきっかけである。この『「語る」⇔「聴く」』について、鹿毛先生は「聴きあい、語りあう教室」として、「『伝えあう力』を育てる授業づくりー新教育課程における学習活動の創造ー(日本教育心理学会創立50周年記念シンポジウム2)」(教育心理学年報vol.49 2010)の中で次のように述べられている。・・・・・ では、なぜ、「語る⇔聴く」を中核とした「伝えあい」が「協働の学び」の条件として重要なのであろうか。それは、「知・情・意」の総体が活発に働く体験が学びを促すからである。以下では、メンバー一人ひとりの持ち味やこだわりが生かされつつ、互いに刺激しあい、各人の「知・情・意」の働きが活性化することによって促される学びを、いささかレトリカルではあるが「響きあう学び」と呼ぶことにする。 「主体性」と「当事者性」という特徴を持つ「伝えあい」は、相互の心に響くという特徴を持っている。なぜなら、そこでのコミュニケーションは「他人事」の情報が飛び交うのではなく、むしろ、各人の「こだわり」と「伝えたいという意志」を背景とした切実な「自分ごと」の内容が相互に伝えられ(自分ごととして語る)、伝わる(自分ごととして聴く)ことになるからである。そこで実現する学びは単なる「頭」による知的な理解にとどまらない。他者性を前提とした伝えあいは、「共感」をベースにしつつ、ユニークな思いや感じ方、考え方に関する自他のズレと葛藤を調整しながら学んでいくプロセスであり、「そういうことだったのか」という腑に落ちる感覚、「あっ、本当にそうだね」というような実感を伴う納得、「じゃあ、この点はどうなの?」といった問いの創出などといった「知・情・意」が総体として活性化される体験(「響く」)である。そのような協働的な体験を通して「響きあう学び」が促されていくのである。・・・・・「他人事ではなく自分ごと」「共感」「自他のズレと葛藤を調整」というキーワードが、「腑に落ちる感覚」「実感を伴う納得」「問いの創出」につながるということである。それでは、どうすれば「他人事ではなく自分ごと」にすることができるか。このことが『「聴く」-「語る」関係』をつくるためのポイントであり課題であろう。(つづく)
2013.06.17
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前回のblogに、「モデリングとスキャフォールディングのある学び」、つまり、「創造的な学び」を実現するために子ども同士の『「聴く」-「語る」関係』が必要であると書いた。また、この関係をつくるためには「比較」「類推」「因果推論」「関係付け」などの思考が必要であり、このような思考を促すためには、子ども同士の『「聴く」-「語る」関係』をつくることが大切であると、矛盾するようなことを書いている。(『「聴く」-「語る」関係』をつくるためには、『「聴く」-「語る」関係』をつくることが大切であると述べているのである。もちろん、この2つの『「聴く」-「語る」関係』の違いを、話し合いのレベルの違いといってもいいのだが・・・。)この後者の『「聴く」-「語る」関係』をつくるとして、「『対話』で広がる子どもの学び~授業で論理力を育てる試み」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 2012.2)の中で、私は次のように書いている。・・・・・(2) 「聴く」-「語る」関係をつくる 「腑に落ちる」。私たちは,このことが全ての教科等で言語活動を充実させるキーワードだと考えています。「腑に落ちる」とは,子どもたちが主体的に追究し,考えの異なる友達とかかわり合う中で,これまでの体験や既有の知識を総動員してじっくりと考えること。そして,何かが分かるとともに,そのことがこれまでの体験や既有の知識と結び付く経験を伴って,一人一人が納得することだと考えます。 それでは,どうすれば話し合いが深まり,一人一人の子どもが「腑に落ちる」ことができるような「豊かな対話」が生まれるのでしょうか。私たちは,「論理科」をはじめ全ての教科等の授業づくりにおいて,次のことに心がけています。「豊かな対話」をつくる授業づくりのポイント【「豊かな対話」の前提として】○ 子どもたちが本気で考えたくなるような質の高い課題を設定する。○ 席を「コの字型」に配置し,子ども同士がお互いの発言に耳を傾けやすくする。【「豊かな対話」をつくるために】○ 個人の考えを整理するための「書く」活動を設定する。○ グループ活動を適切に取り入れ,一人一人の「語り」を促す。○ 子どもの発言を可視化し,整理したり関連づけたりするために板書を工夫する。 このことは,子どもたちの「聴く」−「語る」関係をつくるポイントともいえるでしょう。友達の考えをしっかりと「聴く」ことによって,その妥当性を検討したり,自分の考えを振り返ったりすることができます。また,じっくりと「語る」ことにより,自分の考えを整理し筋道立てて組み立てることにつながります。 特に,話すことよりも子どもたちの「聴く」ことをていねいに指導することが大切です。「話し合い」を指導するとき,話すことに重点が置かれがちですが,「聴く」ことができなければ,友達と自分の考えに違いに気付くことはできません。また,友達の発言の思いや意図まで聴かなければ,その違いがどこから生まれたかも分かりません。この違いをすり合わせようとするとき,子どもたちの内から「語り」が生まれてきます。 友達の発言をしっかりと「聴く」こと。このことが,単にお互いの考えを発表しあうだけではない「豊かな対話」を生むことにつながります。・・・・・「違いの原因を明らかにし、違いをすりあわせること」「これまでの体験や既有の知識を総動員してじっくりと考えること」と書いていることから、結局、「比較」「類推」「因果推論」「関係付け」などの思考が大切だということなのだが・・・。
2013.06.17
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先日、このブログの「モデリングとスキャフォールディングのある学びに」に書いたように、「創造的な学び」を実現するためには、「友達の考えをたどること」「友達の考えを足場にすること」「自分の考えを(振り返って)たどること」、そして、「根拠となる事実を見直すこと」の関係を明らかにする必要があるだろう。そこで、先日いただいた内田伸子先生(筑波大学監事)のメールをもとに、5年前から主張している『「聴く」-「語る」関係の図』を改めて見直してみる。まず、「1)聴く」である。これは、友達のモデル(考え)と自分のモデルの「違いに気づき(比較)」「違いを明確にする(類推)」段階である。もし、自分のモデルをつくることができない場合は、友達のモデルを採用してもよいだろう。ただ、そのときも、他の友達のモデルと比べ、違いを明確にすることが必要である。次に、「2)語る 3)自己モニタリング」である。これは、語りながら(もしくは、書きながら)「違いをもたらした原因を探る」段階である。ここでは、「友達の考えをたどること」「友達の考えを足場にすること」「自分の考えを振り返ること」が行きつ戻りつと往還することが大切である。このとき、それぞれのモデルが「何を根拠に」「どのように結論を導き出しているか」という「根拠」と「理由づけ」を明らかにすること(因果推論)が必要がある。その中で、改めて「1)聴く」こともあるだろう。さらに、「3)自己モニタリング 4)データの見直し」である。これは、自分のモデルが正しいか友達の考えが正しいか「事実に照らして判断し、決定する」段階である。ここでは、自分、もしくは、友達のモデルが導き出された根拠であるデータの真偽性を見直すとともに、他のデータとの関連も検討することもあるだろう。このような過程を経て、「新たなモデルを構築する」のであろう。もちろん、この「新たなモデルを構築する」段階においても、「4)データを見直す」とともに「1)聴く」にもどることが必要である。なぜならば、友達のモデルが「足場」になるからである。このように考えると、『「聴く」-「語る」関係の図』も、大きく修正を加える必要はないようである。(どうして「聴く」からはじまるのかという質問にも、少し答えることができたようだ。)ただ、その過程の中で、自分と友達のモデルを「比較」「類推」することができているか、「友達の考えをたどること」「自分の考えを(振り返り)たどること」で、「因果推論」することができているか、自分と友達が根拠とした「データを見直す」とともに、それらのデータを「関係付け」ることができているかということが大切なのである。しかしながら、「比較しなさい」「因果関係を明らかにしなさい」「他のデータと関係付けなさい」と直接的に指導しても「創造的な学び」につながらないと、「聴き合う授業づくり」に取り組まれている先生方は直感的に思われるだろう。(この「直感的」な部分を、しっかりと子どもの姿で説明していく必要もあるのだが・・・。)やはり、『「聴く」-「語る」関係』が必要なのであり、スタートなのである。
2013.06.17
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今回は、「呼吸」「消化・吸収」につづき「血液の循環」である。まず、はじめに「酸素は肺にある血管を流れる血液に取り入れられること」「二酸化炭素は血液から肺の中に出されること」「消化された養分は、小腸にある血管を流れる血液に取り入れられること」から、「血液のはたらき」を予想させる。数名の子どもたちが「酸素や養分を体全体に送るはたらきがある」と答えたため、いじわるにも「どうして、この3つの事実からそのことがいえるのか」と問い返す。ほとんどの子どもが黙り込んでしまったのだが、一人の子どもが次のように発言する。「体全体に送らないと肺や小腸の周りにしかないことになる。」十分な理由づけにはなっていないのだが、他の子どもたちも私も妙に納得してしまった。その後、聴診器で心臓の鼓動を確認し、「どのように血液は体全体をめぐっているのだろう」という課題を設定する。子どもたちは、いろいろな資料を持ち寄っていたのだが、まず、教科書にある血液の循環図をノートに書き写させる。途中、「どうなってるの?」「ぐちゃぐちゃになってきた」などの声が上がる。肺と心臓のまわりの血管が複雑なのである。なんとか書き上げ、グループの友達に説明する。その説明は「肺からスタートする酸素と二酸化炭素のやりとり」と「小腸からスタートする養分のやりとり」の二つである。この説明も、子どもたちにとっては、案外難しいものである。ここで、時間切れ。まとめをノートに書いて授業を終える。授業後に子どもたちノート見てみると、「血液の赤色が青色に変わることを説明できない」「どうして腎臓が図にあるのか分からない」などの疑問が残されていた。※ 今回の記録は、平成25年6月12日のものである。
2013.06.13
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教育実習講話「授業研究と同僚性」のつづき。・・・・・二つ目ポイントは、「人に頼る」です。私の失敗談ですが、ある子どもの姿を見て「怒り出した」ことがあります。3年の理科ではオクラを種から育てるのですが、その栽培と観察に興味をもたせるため、単元の導入でオクラの身を観察させようとしたときのことです。一人に一つずつ用意し、1班から順に配っていたのですが、最後の班に配り終えたとき、1班にいたTくんが、なんとオクラの実を切り刻んでしまっていたのです。私は「説明を聞いてからと言ったのに」と怒り出してしまいました。しかし、授業後にたまたまTくんのそばで授業を見ていた同僚の先生に話を聞いて唖然としました。Tくんは、オクラをいきなり切ったのではなく、いろいろな方向から形を確かめ、表面の様子を指で調べ、においを嗅ぎ、耳の横で揺らして音を聞き、最後に切り刻んだのです。それは、Tくんを叱った後、指示したことであり、その順番までも同じだったのです。このように、私一人では、子どものことは分からないということです。今、私に見えているのは、いろいろな側面をもつ子どもの一部分でしかないのです。もちろん、子どものことを見ようとすることは大切です。しかし、それでも子どもの一部しか見ていないということを自覚することが、一番大切なことです。この自覚をもつことができるならば、同じ職場の同僚はもちろんのこと、保護者や地域の方々といっしょに子どもを見ていこうとするのは、当たり前のことでしょう。さらに、どうせ一部しか見えないのならば、先ほどの失敗のように「悪く誤解する」のではなく、「何かおもしろいことをしているのではないか」「この行動や発言には意味があるのではないか」と「いい誤解」を前提にしてみてはどうでしょうか。最後のポイントは「最後は自分で決める」です。他の教生といっしょに授業づくりをすると、自分が気づかなかったことやいろいろなアイディアを知ることができますが、それを一つの指導案にするには、自分で決めることが必要です。なぜなら、授業は「こうすれば、こうなる」といった単純なものでなく、子どもと教材、子ども同士、そして一人一人の子どもたちと教師との関係の上に成り立つものであり、とても複雑なものだからです。つまり、授業前につくる指導案の答えは一つではなく、今の自分にとって「Better」な選択をしなければならないということです。とはいっても、実習中はいろいろなことがあります。今日話した3つのポイントが、少しでも役に立てばと思います。
2013.06.13
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昨日まで教育実習だったが、その中で講話をする機会があった。テーマは「授業研究と同僚性」。大学3年の実習生が、どれだけ切実感と実感をもってくれたか分からないが、初めての指導案づくりの疲れの中、眠気に耐えながら聞いてくれたようである。その一部をここで紹介する。・・・・・みなさんにとって、教育実習のような経験ははじめてではないでしょうか。今回は4日間ですが、9月の実習は10日間です。「やっていけるのか」と不安に思う人もいるでしょう。そこで、今回は「実習を乗り切る3つのポイント」について話します。まず、一つ目は「『まじめ、努力』ではなく『夢中に、工夫』」です。ぜひ、教育実習に「まじめ」ではなく「夢中になって」取り組んでください。少しずつ「授業が見えるようになる」「学習指導案が書けるようになる」と、実習に夢中になることができます。なぜなら、「自分の成長を実感することができる」からです。たった4日間でも、その成長は必ず見つけることができます。また、努力で何とかするのではなく、「どう工夫すればよいか」と常に考えてください。たとえば漢字の書き順です。小さなことから間違って覚えてしまった書き順は、なかなか自分で気づくことができません。では、どうすればよいでしょうか。「努力」で何とかしようとする人は、その授業で黒板に書くと予想される漢字を全て調べて覚えようとする。しかし、「工夫」する人は、授業を想定して実際に板書し、それを同じクラスの教生に見てもらって、指摘してもらうでしょう。つまり、自分の指導技術を高めるためには模擬授業が大切だということです。このことは、指導案づくりにも言えます。「努力」で何とかしようとする人は、完璧な指導案をつくって模擬授業をしようとする。それに対して、「工夫」しようとする人は、ある程度指導案をつくり、何度か模擬授業をして修正しながら完成させようとするでしょう。そして、このようにできた指導案の方が、手立てが具体的でねらいに沿っていることの方が多いです。ぜひ、指導案づくりと模擬授業を並行して進めてください。(つづく)
2013.06.13
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気づいたら、「ブログ開設から3000日」が経っていた。(途中、何度も中断したのだが・・・。)このブログを開設した2005年3月25日に、当時の「わたし」は次のように書いている。・・・・・ブログ開設のきっかけ(2005.03.26) 昨日から、このページを開設した。 これまで、サイトをブラウジングしているとき、簡単にブログができるということは知っていたが、あまり関心はもっていなかった。しかし、ここ数日「やってみたい」という気持ちが高まったのには、いくつかの理由(きっかけ)がある。(1)神戸大学稲垣教授研究室を訪問したとき、「協同」を実現するために「掲示板」が有効な交流の手だてになると感じたことから。(2)堀江貴文著(ライブドア)「100億稼ぐ超メール術」を読んで、ML(メーリングリスト)を使った会議の形(トップダウンでもなくボトムアップでもない)に共感したことから。(3)これまで1年間、自分の実践や本を読んで考えたことなど、記録に残そうと試みたが、三日坊主に終わってしまっていたことから。授業研究を進める上で、「本を読む」ということは、とても大切な行為である。しかし、多くの本に目を通す(乱読)することと同時に、そこに書かれていることを咀嚼する(熟読)することが必要である。私の「咀嚼」の方法として、メモをとることが効果的であることが、最近分かった。メモをとることで情報を収集し、その情報に私なりの手を加える。(もちろんこの「メモをとること」にチャレンジしたのは1年前であったのだが・・・。)このメモ(日記)を公開することによって、自分自身にプレッシャーをかけるということができる。また、このページをもとに、本校の先生方の交流が生まれるのではないか。・・・・・最近、「できるだけブログを書こう」と改めて決心したばかりである。しっかりと「自分自身にプレッシャー」をかけていきたい。
2013.06.11
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富山・堀川小学校の研究会2日目の講演の講師は内田伸子先生(筑波大学監事)だった。その講演の中で、本校の「論理科」の取り組みも紹介されたのだが、時間が足りなくなりその紹介が十分でなかったと、先日そのパワーポイントを送っていただいた。全部で80枚を超えるスライドであるが、その一部を紹介する。・・・・・・・・・・何か新しい知識を獲得するときには、それまでの既有の知識や経験と「関係付ける」ことが必要であるとともに、そのときに思い出される知識や経験は断片的なものであることから、「新しいもの」が付け加わっているということである。このことが何かを「創造する」ことにつながるということであろう。「想像は創造の泉」であること。そして、そのときには既有の知識や経験を振り返ることともに、「類推」や「因果推論」など、論理的に思考することが必要であること。「創造」という「ことば」の響きから、子どもたちを「前に、前に」と進ませることが必要と考えがちであるが、本当に大切なのは、しっかりと立ち止まらせることだということであろう。
2013.06.11
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今回の単元「人の体のつくりと働き」では、実際に観察・実験できることは少なく、教科書で取り上げられている実験も2つである。まず、一つ目は、吸う空気とはいた空気の違いを調べる実験。石灰水や気体検知管を使って酸素と二酸化炭素の割合の変化を調べる。この実験は「ものの燃え方」で石灰水、気体検知管とも使っていることもあり、スムーズに進む。二つ目は、だ液によるご飯に含まれるデンプンの変化を調べる実験。つぶしたご飯粒にストローを使ってだ液を加え、水を加えたときと比較するのだが、案の定、実験するペアの「だれの」だ液を使うかで教室中が大騒ぎになる。もともと実験の少ない単元の中で大切な実験であること、だ液は消化液の一つで人の体にとって大切なものであること、理科の実験においてだ液も「はいた空気」と同じサンプルであり、決してきたないものではないことを言って聞かせ、何とか実験を進める。5分後、ヨウ素液を使ってデンプンの有無を調べると、全てのペアで「水を加えたもの」と「だ液を加えたもの」に違いが見られ、ホッと一安心する。大騒ぎの中で十分に考察までできなかったのだが、数名の子どもたちが「だ液によって、デンプンがなくなった」とノートに書いていた。やはり、この実験だけでは「別のものに変わった」という結論にはたどり着かない。次回は、胃や小腸について本などを使って調べるが「ご飯は噛んでいる間に甘くなる」などの生活経験とつないでいく必要があるということであろう。※ 今回の記録は、平成25年6月5日のものである。
2013.06.10
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今年度2回目の研究会の案内です。第2回授業記録を読む会日時 平成25年6月22日(土)14:00~17:00場所 熊本大学教育学部附属小学校会議室内容 ・熊本大学教育学部附属小学校 牧野敏治先生の授業(社会)ビデオ視聴 宮原大輔先生の授業(道徳)ビデオ視聴 ・情報交換等 ※参加される方は jharaguti@gmail.com まで聴きあう授業づくりについて興味のある方の参加をお待ちしています。気軽にお立ち寄りください。
2013.06.04
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6年生の2つ目の単元。「人の体のつくりと働き」であるが、導入で子どもたちに「単元末に『人体模型Tシャツ』をつくる」ことを伝える。この「人体模型Tシャツ」は、自分の体の位置に合うように臓器をTシャツに描いたものである。この「人体模型Tシャツ」づくりに、7年前にも取り組んだのだが、それぞれの臓器の大きさ(太さ)や、臓器同士のつながりを意識することになり、それぞれの臓器のはたらきを見直させることができる。子どもたちからは「えー!」という声があがる。少し「きもちわるい」感じもするのであろう。「体のつくりやはたらきを調べ、自分の体に合わせてTシャツに書き込み、実際に着て説明する」という活動の全体を知った後も、「どよめき」は収まらない。その後、吸う空気とはいた空気の違いを石灰水で調べ、「肺はどのくらいの大きさなのか」と尋ねると、自分の胸のあたりを示しながら「このくらいかな」「Tシャツに書くとすると」「何色?」と、まんざらでもなさそうである。39枚の「人体模型Tシャツ」が完成し、7年前と同じように、みんなで着て記念撮影するのが楽しみである。※ 今回の記録は、平成25年5月29日のものである。
2013.06.04
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先週末の富山・堀川小学校で研究会で、少しの時間であったが内田伸子先生(筑波大学監事)と話しをすることができた。その中で、先日、校内研で提案した「モデリングとスキャフォールディング」についていくつか質問したところ、早速、メールで次のような返事をいただいた。・・・・・(私の質問)子どもたちは、友達との「聴く」-「語る」関係の中で、友達の考えをたどり、友達の考えを足場にして、新しい知を創造するということの「構造」についてです。先日、本校の校内研で「友達の考えをたどること」「友達の考えを足場にすること」「自分の考えを振り返ること」が生じるような話し合いを組織していかなければならないということ、そして、このことが子どもたちの創造な学びであることを提案しました。ただ、この3つの関係についてまだ上手く整理することができていない段階です。(内田先生の回答)□「足場」の考え方;とてもよい;〔友だちの考えを「足場」にするとは〕自分の考えを深めるために自分の考えとは違う友だちの考えやモデルと比較対照し、自分の考えや直観を「心的モデル」へと深化・構築する。モデルの深化・構築までの認識過程で起こっている他者のモデルとの比較対照について象徴的に表現したものだと思います。対象を知るには対象だけを見ても対象を知ることはできません。複数(少なくとも2つ・できれば3つを比較対照できるとよい)を比較対照し、相違点と共通性を特定する。相違点はどの要素に着目するかの着目点の違いを推測する手がかりになります。あるいは他人が見ていたものを、自分は見落としていたために、モデルが違ってきたのかもわかります。□「友達の考えをたどること」「友達の考えを足場にすること」「自分の考えを振り返ること」の関係について;原口先生の授業の進行記録を拝見すると以下の4段階を通り、各自の心的モデルを構築しているように思われます。(1)出発点:仮説を立てる(予想をもつ)<自問自答段階>⇒自分の描いたモデルと友だちのモデルを比較対照する〔対照原理〕<足場>⇒差異点と共通点を捉える〔類推〕(2)検証過程「比較対照」差異をもたらした原因を探る;自分はどこに着目したのか、友だちの着目点と同じか違うか違いをもたらした原因を特定するため、自分の考えを振り返り、自分の考えの道筋を辿り直す + 友だちの考えの道筋を辿ってみる〔因果推論〕<3つの要素が行きつ戻りつ往復運動する>(3)検証過程「判断・結論」⇒自分の考えが正しいのか、友だちの考えが正しいのかを整理し、実験事実(例.さらさん「食塩を見ずに溶かすと食塩の分だけ重くなる」と「食塩がとけた水を蒸発させると溶かす前と同じ重さの食塩を取りだすことができる」)に照らして判断し、決定する。(4)検証の着地点;1)「自分のモデルの棄却」;自分の考えを進めていくと実験事実と合わない場合は自分の考えやモデルを棄却する2)「修正」;事実にあわせて修正する3)「新たなモデルの構築」;他人のモデルを足場(参考)にして、自分の中に新たな心的モデルを構築する。※昨日指摘しておられた点「ちょっと理解の遅い子ども、つまづきのある子どもの方が足場になりやすい」ということは本当だと思います。簡単に欠点が見破れるからです。不完全なモデルや仮説と比較・対照することによって、自分の論の立て方や検証過程・推論過程の欠点も見えやすくなるのではないでしょうか?・・・・・私の提案が「友達の話を聞きけば創造的な学びが起こる」といったレベルのものであり、その論の飛躍から「友達の話を聞かせさえすればいいのか」と納得できないものだったと反省させられる。もちろん、子ども同士の「聴く」−「語る」関係の中でのことではあるが、「対照原理(比較?)」「類推」「因果推論」が重要であることを考えると、教師の具体的な手立て(支援)も見えてくるのではないか。もう一度「聴く」−「語る」関係について、検討する必要があるということであろう。(つづく)
2013.06.04
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よいよ「2本のロウソク問題」の追究も最終回。まず、前回の授業の最後に質問したこと「ビンの中の空気を、酸素を30%、二酸化炭素を70%にしたら、ロウソクは燃えるだろうか」を実験で確かめる。子どもたちの予想は、やはり消えると消えないで「半分半分」であった。実験の結果は、燃え続ける。そして、しばらくして消える。で、普通の空気と同じ結果である。この結果をもとに、あらためて「ビーカーの中の空気はどうなっているのか」話し合う。学級全体での話し合いは、次の通りである。・・・・・OHくん「二酸化炭素が関係ないんだから、窒素が関係していると思う。」TRくん「窒素も二酸化炭素も、ものを燃やすはたらきがないんだから同じ。酸素が関係していると思う。」ktさん「長い方のロウソクが消えたとき、ビーカーの上の方が酸素がない空気。下の方が酸素がある空気。」MSくん「下の方は、まだ使われていない空気。」・・・・・ここで、ktさんの「酸素がない空気」と「酸素がある空気」について確認する。MSくんが発言したように、ビーカーの下の方が「酸素が使われていない空気」であり、上の方が「酸素が使われた空気」、つまり、「酸素が多い空気」と「酸素が少ない空気」である。どのくらいの差かと尋ねると、「たった3%」「ちょっとしか変わらない」と答えが返ってきた。残った問題は、どうして「酸素が使われた空気」が上で、「酸素が使われていない空気」が下なのかということ。このことについて、SMくんが次のように発言する。・・・・・SMくん「下の開いたビンでやったとき、下から空気が入って、上から出ていった。」・・・・・そこで、図をかいて確認すると、ビーカーの下の方にある空気が下のすき間から入っていく空気と同じで、上の方 にある空気がフタとのすき間から出ていった空気と同じであることに気づくことができた。その後、「4年生のとき、あたためられた空気は上にいった」ということが「やっと」想起され、授業を終えた。なんとか、ここまでたどり着いたものの、複数の実験の結果を結びつけること、これまでの学習を想起し関係付けるためには、何らかの手立てが必要である・・・。※ 今回の授業は、平成25年5月29日のものである。
2013.06.02
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