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先日自宅に届いた「Rimse No.5」((財)理数教育研究所 2013)に目を通すと、中村柾樹先生(大阪大学)が連載の中で「サイエンスカフェ」を紹介されていた。(以前、内田伸子先生(筑波大学監事)が東京で開かれているサイエンスカフェで話(話題提供)したと聞いたことがあったので、目に止まったのだろう。)・・・・・ サイエンスカフェとは、カフェやバーといった場所で、コーヒーやビールを飲みながら、研究者と市民が科学技術をめぐるさまざまなテーマについて語り合うイベントである。 ・・・ (中略) ・・・ 英国では、基本的に一人の研究者がゲストとして招かれる。ゲストが15分〜20分程度の短い話題提供を行った後、ドリンクの注文などのための休憩時間を15分前後はさんで質疑や意見交換、議論が1時間近くにわたって行われる。 ここで重要だとされるのが、ゲストの話題提供の後の休憩時間である。わずか1時間半ほどのイベントで話題提供の直後に休憩を取るのは異例に思えるかもしれない。事実、休憩を取るようになったのは偶然によるものだった。 ・・・ (中略) ・・・ そして話題提供が終わったところで、何人もの参加者がドリンクを注文しようとカウンターに向かったのだった。主催者はそのままディスカッションを続けるつもりだったが、コーヒーをいれる機械の音が大きく、ディスカッションを続けるのが困難だったため、やむなく休憩を取ることにしたという。しかしその休憩が思わぬ効果をもたらすことになった。カフェのテーブルで偶然隣り合わせて座った参加者たちは、休憩の時間の間、ゲストによる話題提供をめぐって雑談し始めた。「○○がよくわからなかった」「○○が納得できないんだけども」。隣の人とそんな会話を交わすと、同じような疑問や感想を抱いているのが自分だけではないことが明確になる。そのことが発言に対する心理バリアを低めるように作用した。人は得てして、話を理解していないのは自分だけではないかと思うと、そのことをなかなか率直には表明しにくいものである。結果として、休憩後のディスカッションはかなり盛り上がることになったという。・・・・・「休憩中に雑談し、その後のディスカッションは盛り上がる」。サイエンスカフェと学校での授業では違いがあるものの、このことから、次のようなことを考えた。まず、授業の中でのグループの効果。いきなり学級全体の話し合いでは心理バリアが高く、グループでの話し合いを入れることが有効なのである。また、そのグループでは、わかったことではなく「わからないこと」「納得できないこと」を交流する場だと、授業者も子どもも再確認する必要がある。次に、理科授業の「すき間」の時間を見直す必要があるということ。実験道具の片付けのときなど、つい「だまって、さっさと」と指示してしまう。授業前の時間もそうである。よく考えると静かに教師を待っている必要はないのである。「結局昨日の実験結果がよくわからなかったんだけど」と「雑談」している方が自然なのである。(もちろん、理科室なので騒いだり暴れたりはダメだけども。)話が授業から逸れるが、普段の職員室でサイエンスカフェのような授業研究会ができないだろうか。もちろん、校内研の日に「きちんとした」授業研究会はするとして、同じ学年や時間のある先生方と「リラックスした雰囲気」の中で。たとえば、職員室の一角に数名でコーヒーでも飲めるようなスペースを確保し(できればソファーで)モニターを準備する。放課後の4時半ぐらいから授業者が簡単な説明をしながら20分程度授業ビデオを視聴する。その後、コーヒーをいれるための休憩を取り、ちょっとした雑談をはさんで授業について1時間程度(6時頃まで)議論する。週に1、2回でもそんな風景のある職員室にできないものか。やろうと思えば、そう難しいことではないのだが、なぜか壁は高い。ネーミングだけは「リフレクション・カフェ」もしくは「デザイン・カフェ」と決めているのだが・・・。
2013.08.30
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夏休み中に読んだ本の中に、「ポール・ランド、デザインの授業」(Michael Kroeger 2008)がある。(正確には「パラパラと眺めた」だが。)なんとなくアマゾンで注文してしまった本。ポール・ランドは、アメリカのIBMやabcテレビなどのロゴマークを手がけたグラフィックデザイナー。授業デザインとは直接関係ないものの、「デザインとは何か」という定義が参考になるので、ここで紹介したい。・・・・・すべてのものは関係している。デザインは関係だ。 ・・・ (中略) ・・・さあ、少しいいかね。君はデザインは計画だといった。そうした定義で、学生に何ができるだろう?ほとんど何もできないよ。計画、青写真、それだけだ。何もない。その定義は、未来に広がっていく可能性を何も生み出さない。 ・・・ (中略) ・・・デザインとは関係である。形と中身の関係だ。 ・・・ (中略) ・・・さて、もし学生がそれを理解していないと、自分たちがそれを理解していない、自分たちが何をやっているのか、さっぱりわからないということになる。ただ機械的にドローイングをしているだけだ。すべては関係なんだよ。これとこれ、これとこれ、これとこれ。すべてが関係していて、それがいつも問題だ。何かを置いたとたんに、君は関係を作り出している。よいものであれ、悪いものであれ。たいていの場合はひどいものを。・・・・・「デザインは計画ではなく関係」。よく読み込んだわけではないが、目黒悟先生(藤沢市教育文化センター)が著書「看護教育を創る授業デザイン~教えることの基本となるもの」の中で「授業を『因果性』ではなく『相互性』で説明する必要がある」と書かれていることにつながるのだろう。また、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)が藤岡寛治先生の「授業デザインの6つの構成要素」について説明されたとき、「6つが有機的につながっている」こと、そして、「その一つが変わればすべてが変わる」と話されたことを思い出した。単なる読書記録であるが、授業デザインについてあらためて考えるきっかけになった。また、「何かを置いたとたんに(授業中に教師が何かをしたとたん、もしくは、教師が教室にいること自体?)、ひどい関係を作り出している」ということを再確認せねばならないのだろう・・・。
2013.08.29
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夏休み中に、全国の多くの先生方と話をする機会があった。その中で、「どうして附属では『学び』を中心にした研究に取り組まないのか」さらには「附属で『学び』を中心にした授業研究ができるのか」という質問をいくつか受けた。ここでの「附属」とは国立大(特に地方の)の附属学校のことであろう。もちろん、それぞれの附属で状況は異なるのだが、私は「附属だから」「附属でも」としか答えることができなかった。附属学校園の使命の中に「研究」は位置づけられているのだが、附属の授業研究(校内研究)は公立学校とは異質なものなのだろうか。奈須正裕先生(上智大学)は、「子どもと創る授業 学を見とる目、深める技」(ぎょうせい 2013)の中で、「附属学校」について「リッパ過ぎる研究からの脱却」として次のように書かれている。・・・・・ ところが、その厨房の風土たるや惨憺たるものであることがままあって、これは実に深刻な問題だと、僕は以前から考えてきた。 最大の理由は、リッパな研究をしなければならないという使命感。いや、それ自体は大事なことなんだけど、問題はその内実だ。 僕ら教育学者にも理解不能なほどに複雑で斬新な理論をでっちあげ、さらにその理論に授業の事実の方を強引にあわせた結果、日常とはかけ離れたとってもスペシャルな授業がてんこ盛りの公開研。これはいけない。 なぜって、授業ってそんな風につくるものじゃないから、それはそれは校内の先生方に無理を強いている。創造において無理がいい結果を生むはずもなく、授業はズタボロになっていく。実際、普段の授業はいいのに、公開研の授業はゲテモノ、キワモノという附属小は多い。 ・・・ (中略) ・・・ 十数年前に協同研究に誘われた時に僕がお願いしたのは、どうしても曖昧さがつきまとう図(バームクーヘン状の学力構造図や、矢印が螺旋を描いて立ち上がる研究構造図の類)を研修冊子から原則廃すること、独自な造語は極力避け、伝統的な教育学や法令上の用語で語ること、理論的説明は毎日の授業づくりにどうしても必要なものだけに限定することの三つ。見直しの結果、理論編は半分以下になったが、それで授業づくりや研究推進で困ることは、もちろんなかった。むしろ曖昧さが解消され、校内の共通理解は格段に高まったと思う。 ・・・ (中略) ・・・ 理論編を大幅にダイエットしたことで、授業づくりと研究推進のよりどころは、実質的に目の前の子どもの事実と教師の願いの二つだけになった。・・・・・授業づくりと研究推進のよりどころは、分厚い理論や目新しさではなく「目の前の子どもの事実」と「教師の願い」。やはり、「附属の研究会では公立の先生方への『お土産』が必要」という考えを見直す必要があるのだろう。
2013.08.28
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この夏休み中に、いくつかの授業を観たり実践報告を聞いたりした。その後の研究会の中で、その授業が「難しい」と批判されることも多い。おそらく「子どもたちにとって内容が難しい」「子どもたちにそこまで考えさせる必要があるのか」という意見であろう。(「危険だ」という批判にも似ているのだが。)しかしながら、この手の批判は基本的には成り立たない。なぜなら授業者も多少の難しさは覚悟の上だからであり、目の前の子どもたちにとって「そこまで考えさせることが必要」だと考えているからである。さらには、これから「そこまで考えさせる」授業が求められていると授業者が主張しているのならば、なおさらであろう。つまり、「難しい」と批判することは、授業の表面的なところしか見ず、子どもの事実から子どもの「学び」や「発展の可能性」に対して具体的な問題点を指摘することを避けているのである。あえて「難しい」と批判する場合でも、次のよう考える必要があるのだろう。まず、授業者が主張するように、本当に「そこまで考えさせる」ことにどのようなメリットがあるのかということである。ここでは「子どもが混乱する」というレベルのデメリットは控える。でなければ、教科等の本質に向かう深い理解を促すものであるかどうかについて検討することはできない。そして、ある程度のメリットがある場合、その上で、子どもたちが「そこまで考えることができない」原因を挙げながら「難しい」と批判すべきであろう。できれば、「そこまで考える」ことができるようにするための代案を示したい。とにかく、指導案と授業の表面的なところだけを見て「難しい」と批判するのではなく、授業者の「ねがい」に寄り添い授業の中の子どもの事実に目を向けることが大切である。佐藤学先生(学習院大学)は「どんな授業からでも学ぶことができる」とよく話される。それが挑戦的な授業であるならば、なおさらであろう。
2013.08.27
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このblogでも「授業リフレクション」について何度か書いた。この「授業をていねいに振り返り、一人一人の子どものことを理解しようとすることが大切である」ことに異論を唱える人はいないだろう。しかし、この7年間、授業リフレクションを中心にした研究に取り組む中で、次のように批判さえたことは多々ある。「授業リフレクションをしてもいいけど、それは授業者個人の問題であり、校内で計画的に取り組んだり、ましてや校内研究の一つの柱にするようなものではない。」「授業リフレクションはしたことは、他の誰かのためになるものではなく、その取り組みを公開する必要はない。研究発表会などで提案しても、参観者の何の『お土産』にもならない。」もちろん、授業リフレクションが授業者の単なる反省であるならば、このような批判ももっともであろう。しかし、授業リフレクションは、授業中の子どもの行動や発言をていねいに意味づけることにより生じる「驚きと発見」を最も大切にすることを考えると、授業研究(校内研究)として取り組む必要性として、次の3点が挙げられる。(1)授業リフレクションは、授業者一人ではできない。(2)教師が「学び続ける」ためには、授業を振り返ることが必要であり、その「振り返り方」を紹介すること。(3)私の授業での「驚きと発見」であっても、他の授業者の子ども理解や教材研究の参考になること。特に(3)に関しては、もっと私たちが主張していかなければいけない点であろう。私たちは教材研究をしたり指導案を書いたりするときには、子どもの発言や反応(考え)を予想する。しかし、その予想は、あくまでも大人の私(私たち)の考える「抽象的なもの」であるとともに、私(私たち)のもつ「枠」の中でしか考えることのできない限定されたものである。さらには、授業者としての「よこしま」な教材とのかかわり方ではなく、多元的で多様、そして、自由な子どもの教材とのかかわり方のほうが、教科等の本質に近づきやすいことも現実には多くあるのである。つまり、授業中の子どもの事実から、授業の進め方の善し悪しだけでなく、授業者のより具体的でより深い教材理解が促されるのであり、この授業者の「学び」が参加者の「学び」を触発するのである。「実際の授業では、私の想定外のこんな発言や話し合いがありました。この発言や話し合いにはこういう意味があり、授業中に私がこういう対応をしていれば(次時にこういう対応をすれば)こういう発展の可能性があると私は考え、私自身、このように教材を見直しました。」こんな授業者の「学び」が語られる授業研究(校内研究)が、今、求められているのではないか。もちろん、「附属」も同様である。
2013.08.27
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今年度4回目の研究会の案内です。第4回授業記録を読む会日時 平成25年9月7日(土)14:00~17:00場所 熊本大学教育学部附属小学校会議室内容 ・熊本大学教育学部附属小学校 井上伸円の授業(国語;一つの花)ビデオ視聴 ・情報交換等 ※参加される方は jharaguti@gmail.com まで聴きあう授業づくりについて興味のある方の参加をお待ちしています。気軽にお立ち寄りください。
2013.08.26
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子どもたちの「対話」を中心にした授業づくりをしようとするとき、そのデザインをシンプルにする必要がある。なぜならば、「対話」は「子どもたちの考えが多様であること」が前提であり、授業のデザインがシンプルでなければそれらのかかわりを密にすることができないとともに、授業者が授業中、授業後にリフレクションしにくく、ていねいな対応が難しくなるからである。(このリフレクションまで含めたサイクルがシンプルであることが大切である。)その結果として、子どもはジャンプしにくくなる。それでは、どうして授業のデザインをシンプルにすることができないのか。(シンプルになっていない授業が多いという前提だが・・・。)次の3つのことが挙げられる。(1)課題が易しすぎること。(2)「教師が教えること」ではなく「子どもが考えること」を授業の中心に据えることができないこと。(3)子どもの「学び」や子ども同士のかかわりをイメージする「想像力」が授業者にないこと。(1)については、とりあえずやってみることで、そのよさを実感することができるだろう。たとえば、算数の発展問題をグループで解決させるなど。特に、「難しくても意欲は低下しない」「できない子どもも夢中になる」「できる子どももできない子どももいっしょになって協力しようとする」という事実に着目して欲しい。しかし、(2)(3)は難しい。なぜなら、授業者一人ではできないからである。まず、いい授業をみることである。(もとろん、単なる「いい授業」ではなく、子どもの「学び」を大切にし授業者の対応が柔らかいという意味。)私が、別府市立青山小学校や富山市立堀川小学校、奈良女子大附属小の公開研に参加(青山小は毎年)するのは、そのためである。また、「想定外」の子どもの発言を意味づけるという経験をすることである。これも一人では難しい。授業が「みえる」人と授業ビデオを見たり授業記録を読んだりすることによって、一人では気づかなかった「驚きと発見」がある。私が東海国語教育を学ぶ会のセミナーや社会科初志をつらぬく会に参加するのは、このためである。さらには、普段の授業も、複数で見ることにより、一人ではみえなかったものがみえてくるのである。だとするならば、私も夏休み中の研修での学びを生かして、授業のデザインをシンプルにできないといけないのだが。9月の授業の指導案を書かずにこのようなことばかり書いているのは単なる現実逃避である・・・。
2013.08.26
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先日、同僚の先生から「どうして毎日blogを書くことができるのか」と尋ねられた。そのときは上手く答えることはできなかったのだが、その答えは「書けるから書くのではない」である。確かに、今年の4月の終わりからほぼ週6日ペースでblogを書いてきたし、書かなければならないこと、書きたいことはたくさんある。もちろん、今年1年は「週6ペースに書こう」と「覚悟」し(目標を立てて)blogを書くように心がけている。しかし、書き始めれば30分程度で書けるものばかりではない。授業記録やノートのメモを読み直したり、文章の構成を考えたりしているうちに、けっこう時間がかかるときの方が多いのである。つまり、「書けない」のに書いているのである。それでは、なぜ「ほぼ毎日ペース」で書くのか。「書けること」を「書けるとき」に書くでは、授業の中で子どもが知っていることを発表するのと同じで、そこにあまり学びはない。単なる日記である。(もちろん、記録する、後で振り返るということに大切な価値はあるのだが。)漠然と感じたこと考えたことを「書く」ことによって明確になり、このblogを読んでいただいている方のことを考えながら、できるだけその「根拠」となる子どもの事実、そして、私の事実を挙げることになる。つまり、「ほぼ毎日ペース」で書くこと(もちろん、週3回でもいいのだが)で、授業研究ができるのである。鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)も、「研究とは言葉にすること」とよく話していただいた。とはいいながら、単なる日記になっていることの方が多いのだが・・・。
2013.08.26
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最近、国語と算数の授業を参観する機会があった。国語は「詩(イナゴ;まどみちお)を味わう」、図工は「熊本の観光ポスターのよさを見つける」というもの。授業で、授業者の子どもの発言に対する対応で気になることがあった。国語では、「第三連の『ああ』をどう読むか」という問いに対して、子どもたちからいろいろな考えが出されたあと、「みんなの考えは、だいたい『感動』か『残念』のようですね。他の考えは?」と授業者がまとめた。本当にそれまでの子どもたちの発言は「感動」と「残念」だったのか。子どもたちのそれまでの発言には、次のようなものがあった。「言葉にできない。」「『納得した感じ』と『残念的な感じ』の両方ある。『強いいきもの』が『ぼく』で『弱いいきもの』が『イナゴ』。それが第二連で『弱いいきもの』が逃げているっていうか、追いかけっこというか、その間に『イネのにおい』がにおってくる。『残酷というか』・・・。」「『気が抜ける』に近い。1対1の対立、集中している。『イネのにおい』は『ぼく』と『イナゴ』の関係をやわらげている。そんな『イネのにおい』に『感動』している。」なぜ、このような「幅のある」というような発言(考え)を大切にされないのだろうか。また、図工でも観光ポスターに対していろいろな気付きだ出されたあと、授業者は「いろいろな『意図的なもの』がありますね」とまとめた。その結果、その後、一人の子どもが「海と空を強調するのもあるし、『意図的なもの』も大切」と発言している。しかし残念ながら、授業者は「意図的なものとは何か」と問い返すことはなかった。「対話」が成立する一つの条件として、子どもの考えが多様であることが挙げられるだろう。そして、そのちょっとした違いを大切にするからこそ一人一人の「学び」が生じるのである。さらに「論理的な思考」に着目すると、同じ「主張」であっても「根拠」がことあること、同じ「根拠」であっても「理由づけ」が異なることから「主張」が異なることを授業の中で明らかにしていくことが大切である。授業者自身が「多様さ」を大切せず「ちょっとした違い」に気付かなければ、子ども同士がかかわり合おうとしないのは当たり前である。もちろん、「対立軸」を明確にすることは重要である。しかし、どちらかの考えに収束することが対話の目的ではない。(特別活動などで、「何かを決める」必要がある場合もあろう。しかし、その場合の話し合いは私たちが求める「対話」というよりも「議論」に近いものであろう。)話し合いを「きっかけ」に、自分の考えを見直す「自己モニタリング」が起こり、自分のイメージを変容させていくことが大切なのである。今、私が主張している理科における「モデル」についても同じである。同じ図を書いていたとしても、違いがある。逆に、違う図を書いていたとしても、着目している事実は同じかもしれない。早急な課題は、話し合いの中での「教師の対応」と「板書」である。
2013.08.22
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最近、国語と算数の授業を参観する機会があった。国語は「詩を味わう」、図工は「観光ポスターのよさを見つける」というものであった。しかし、導入から子どもたちは活発に発言するものの、話し合いに深まりが感じられない。国語では、テキストにある言葉を単なるキーワードとして考えていた子どもが多い。図工では、それぞれのポスターに描かれているものを羅列していくものの、それらの関係やバランスなどが話題になることはなかった。これは、テキストや作品を「じっくりとみる」ことが足りない一番の原因であろう。国語では、話し合いと比べて音読が圧倒的に少ない。しかも、連ごと(三連の詩であった)に分け提示し、三連には空欄まである。これでは、詩全体を味わうということはできないだろう。さらには、授業前半は子どもたちの手元にはテキストは配られず、ていねいに読んだり書き込みをしたりする時間は確保されなかった。さらには、その音読もほとんどが一斉読みで、子どもたちは詩のおもしろさである「声に出して味わう」ことができなかった。図工では、目的意識と相手意識をしっかりともたせるためだろうか、「熊本のよさ」「外国の人に」「タンブラーにする」「ポスターのよさを伝える秘密を探る」ということを「おさえる」導入であったため、ポスターで大切な「ぱっと見て目を引く」という部分が話題には上がらない。あわせて、授業者が「何が描かれているか」ということを問題にしたこともあり、子どもたちは「作品全体から受ける印象」を味わうことができなかったのである。問題なのは、授業者の意識であろう。子どもたちが「話し合うこと」を一番にした授業づくりがなされているのではないか。もちろん、どちらの授業とも魅力的な教材が準備されていた。しかし、「テキストや作品に触れる」「テキストや作品のもつ世界に入る」ということが十分ではなかったのである。国語では「授業の前半に一連一連ていねいに提示し、空欄に入る言葉を考えさせた」と、図工では「ポスターに描かれている一つ一つをていねいに確認した」と反論されるだろう。それこそが「よこしまな」考えであり、子どもたちが対象を味わうことを疎外したのである。つまり、授業のデザインが複雑だったため、子どもと対象の関わり、子ども同士の関わりが密にならなかったのである。最初にテキストや作品に、子どもたちを「惚れさせる」ことが大切である。はじめは詳しく分からなくても「もう一回音読してみたい」「もっと知りたい」と感じさせることができれば、今回授業者が意図していたことも無理なく(おそらく、子どもの発言をきっかけに)授業中に行うことができただろう。佐藤学先生(学習院大学)は、よく「文学や詩は『ごちそう』として味わう」と話される。私たち教師は授業で取り上げる教材を「ごちそう」だと思っているか。また、子どもたちに「ごちそう」として提供しているだろうか。さらには、「ごちそう」はしっかりと味わった後でなければ他者との交流はできないのである。残り少なくなった夏休み、9月からの授業に向けて「ごちそう」を探さなければならない。また、夏休みの間に、家族とゆっくり夕食を味わう経験も大切にしなければならない・・・。
2013.08.22
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8月2日・3日に筑波大学附属小学校で開催された日本初等理科教育研究会中央夏期講座に参加したとき、筑波大附小の佐々木先生の実践発表「他教科と連携する理科・生活科」を聞くことができた。内容は、理科や生活科における観察や実験を国語の「作文」の題材として取り上げるというもの。具体的には、「事象を三つに分ける」「『問いと答え』を明確にする」「説明文フォーマットを示す」ということを工夫され、その中で「『事実』と『解釈』の両方を書く」ことを指導されていた。その研究協議の中で、参加者から「『他者にわかりやすく伝えること』ができるようになることは分かるが、理科学習としての理解とはどう関係があるのか」、つまり、「理科学習そのものにどのようなメリットがあるのか」という質問があった。全ての教科等で言語活動の充実が叫ばれる中、このような疑問をもつ先生も多いのだろう(特に理科は)。そこで、あらためて「他者にわかりやすく伝えること」と「理科の追究」との関係を考えてみる。「他者にわかりやすく伝えること」を理科学習の中で指導する(意識させる)ことのメリットとして、次の3つのことが挙げられる。まず、一つ目に「精緻化を促す」こと。「わかりやすく伝えようとする」ことで、説明がより具体的に、そしてより詳しくなる。また、意識していなかったことを意識するようになることもある。このことは、もう一度「みる」ことも促すであろう。二つ目に、時系列でも因果律にしても「つながりを意識させる」こと。「時間的な変化」や「原因と結果」を意識しながら、断片的な情報を関係づけることを促すことができる。三つ目に、「ピッタリと合う表現を選ぶことを促す」こと。例えば、「たとえ」を使うこと。空気でっぽうを棒をおしたときの手ごたえを「ゴムのように」と説明することで、筒の中に閉じ込められた空気のイメージをより具体的で科学的なものになるだろう。しかし、どのように指導するか(意識させるか)は、これからの課題であろう。佐々木先生の提案も「国語の作文の時間に」というものであった。理科の授業の中で、どこまで指導するのか。(正直なところ、「できるだけ詳しく」「より筋道立てて」ということは指導するとしても、「書き方」については「どこかで学んだこと」を意識させるようなシステムができればと、消極的に考えてしまうのだが。)ただ、大切なことは「相手に伝わるのか」ということを意識させるということである。できれば、より具体的な相手をイメージすることができればよいのだが。また、「表現が思考に影響する」ということも再確認したい。つまり、表現は単なる思考の表れではないということである。たとえば、時間の経過を表す接続語を知らなければ(極端な例ではあるが)、事象の変化を明確に時系列で整理することはできないだろう。逆に、「なぜなら」という「ことば」を使うことができるようになれば、「原因と結果」を明確にすることができる。私たちは、もっと「表現が思考を左右すること」「表現することによって自己内対話が促されること」の重要性を認識しなければならないのだろう。
2013.08.20
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8月17日・18日にグランメッセ熊本で開催された「科学の祭典 in 熊本」に参加した。(といっても、PTA作業と職員会議のため「私たち」は17日のみの参加だったのだが。)今回も、子どもたちは実験講師としての参加である。子どもたちが担当したブースは「昆虫模型をつくろう」と「人体模型エプロンをつくろう」の2つ。「昆虫模型をつくろう」は、6年前に3年生を担任していたときに子どもたちといっしょに図書館で昆虫について調べていたときに見つけた本を参考にしたものである。(準備も簡単なため、その後「定番」として続けてきた実験である。)今回、初挑戦だったのは「人体模型エプロンをつくろう」。このblogでも紹介した「人体模型Tシャツ」の改良版である。画用紙に印刷された「臓器」を切り取り、自分の体に合わせてビニル袋に貼り付けていくというもの。(臓器の原稿は、白坪小の前田先生が作られたものをそのままお借りした。)画用紙を切り取るのに時間がかかるものの、自分で切ることで臓器の形や大きさを意識することができる。低学年の子どももつくった後に「大腸」「腎臓」とつぶやきながら、エプロンを着けた自分の体を見つめ不思議そうな顔をしていた。1日の来場者は約2万人。参加した子どもたちにとっては「大変」で「充実」した1日になっただろう。子どもたちを「実験講師」として科学の祭典に参加させるようになって9回目(9年目)。その間に他のブースでも、小学生や中学生などのスタッフがみられるようになった。子どもたちが授業で学習したことを説明する「説明活動」の場を設定するために、大会委員長の佐藤成哉先生(当時が熊本大学教育学部、現在は愛知淑徳大学)に相談したことからスタートした「子ども自身が実験講師になる」取り組み。毎年、ブースだけでなく40人分ものTシャツと弁当を準備していただいたことに感謝!
2013.08.19
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8月2日・3日に筑波大学附属小学校で開催された日本初等理科教育研究会中央夏期講座に参加し、3年「昆虫」の授業を参観した。授業者は筑波大附小の鷲見先生。授業の内容は、これまでの飼育を振り返り、モンシロチョウの幼虫からサナギまでの変化を「くわしくみる」というもの。夏休み中ということもあり、モンシロチョウの飼育も一段落ついていて、本来なら1学期中に実施した方が直接次の観察につながり効果的であっただろう。しかしながら、子どもたちのスクラップブックには、ほぼ毎日の幼虫やサナギの様子をデジカメで撮影しプリントしたものがびっしりと貼られていて、子どもたちは、何度もそのスクラップブックのページをめくりながら考えていた。理科におけるノートの役割とは何か。この授業を参観しながら思わず考えることになった。まず、一つ目に、「授業中」の観察・実験の結果や考察(自分の考え)を整理するためのツール。二つ目に、観察・実験の結果、さらには、観察・実験そのものの記録。三つ目に自分の考えや「授業」の記録である。このように考えると、私のノート指導は、二つ目の役割が弱い。(さらには、一つ目の観察・実験の整理も弱いのだろう。)三つ目の役割については、一つ目の自分の考えを整理するツールになることにこだわって指導してきたことともに、「座席表」や「板書」のコピーを配ってノートに貼らせているため、子どもたちにとってノートが自分の考えや「授業」を「振り返る」ためのツールになりつつある。それに対して、必要な写真をコピーして配ったり、iPadも使って見学時の写真を見ることができるようにしたりしているものの、ノートの指導としては子どもまかせになっている部分が多い(多すぎる?)のである。そのことが一番の原因なのだろう。子どもにとって、まだまだ観察・実験を振り返るためのツールになっていない。おそらく私自身の意識が低く悪い意味で子どもまかせになっていることで、子どもたちに必要性と「よさ」を実感させることができていないのであろう。一方的なものにならないように気をつけながら、2学期のスタートは「ノート指導」に力を入れてみたい。もちろん、根気のいることなので、「今から」しっかりと覚悟して取り組みたい・・・。
2013.08.17
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8月2日・3日に筑波大学附属小学校で開催された日本初等理科教育研究会中央夏期講座で「流れる水のはたらき」の実践発表した。そのときの研究協議の中で、次のようなご意見をいただいた。「実物とモデル実験の差をどう埋めるのか。」これは、Z地点(南阿蘇村久木野)の様子を提示後、それまでの観察や実験を振り返りながら話し合う場はあったものの「子ども自身が確かめる」場は設定されておらず、「話し合いだけで十分なのか」、さらには、「Z地点を想定したモデル実験(流水実験)ができたのではないか」という指摘であろう。確かに、その通りである。A地点からC地点の石の大きさの違いを追究する場面では、川の勾配を示す資料をもとに土を盛って流水実験したり雨樋を使って水の流れる速さを調べたりするなど、「子ども自身が確かめる」場を設定していた。Z地点についても、話し合いの後に「流水実験場」にもう少し土を増やし再度実験すればよかったのか。もちろん、時間的な問題はあったものの、休み時間にでも自由に実験できるようにすることは、そんなに難しいことではなかったであろう。つまり、結論からいえば「やった方がよかった」のである。その中で、モデル実験と実物に違いも踏まえて、子どもなりに納得していくことができたのではないか。前々回のblogで「大切なことは観察・実験結果から推論する場面でも『操作』することが必要だということ」と書いたばかりなのに、その重要性を無視していたのである。(もちろん、授業後に書いたものなのだが。)もしかしたら、理科室内に再現できる簡単な山(川)の模型のようなものを準備するだけでもよかったのかもしれない。もっと、「モノに触れながら思考する」「操作しながら思考する」ことの重要性を、私自身が再確認する必要がある。
2013.08.16
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8月2日・3日に筑波大学附属小学校で開催された日本初等理科教育研究会中央夏期講座で「流れる水のはたらき」の実践発表した。その発表を聞いていただいた先生が、blogに次のように感想をupされていた。・・・・・原口淳一先生の発表は、典型的な上流・中流・下流の特徴が一部で逆転する地元の白川を取り上げたもの。単元の前半で、典型的な特徴を学習した後に、上流の特徴を示す地点Aよりも、さらに上流であるにも関わらず、中流のようすを示す地点Zに出会わせることで、石の大きさが傾斜による流れの速さに起因することに、クラス全体での話し合い活動を通して気付かせていき、川のはたらきのより深い理解を促すといった単元構成でした。 川の観察、グループでの話し合い活動、流水実験が取り入れられ、深い教材研究のなされた質の高い実践です。話し合い活動では、採取した豊富な実物の石や写真資料が用意されていたことが、根拠のある話し合い活動につながっていました。協議会では、話し合い活動における板書の持つ役割なども示されました。・・・・・おおむね実践を評価していただいたのだろう。助言をいただいた筑波大附小の森田先生も「単元後半にあえてZ地点(南阿蘇村久木野)の様子を提示したこと」が今回の実践の一番の主張ではないかとコメントをいただいた。Z地点(南阿蘇村久木野)の様子の提示。確かに、A地点からC地点まで(一般的な川の上流から下流まで)の石の大きさの変化を学習した後の活用場面の設定として効果的だったのだろう。しかし、実際には単元の構想段階ではZ地点の様子を提示するかどうか決めていなかったのである。もちろん、子どもの考えを揺さぶる一つの手立てとして準備をしたていたものの、研究発表後、2月の終わり頃まで悩むことになる。授業中の子どもの様子から、結果的に提示してよかったのだろう。授業者の「意図的」な提示ではあったものの、それまでの追究が充実していたのだろうか、子どもたちに戸惑いはあったものの混乱はなかった。上手くいった理由の一つに、単元を通して「川の傾き」と「水の流れる速さ」を意識させていたことも挙げられるだろう。ただ、単元構想段階でZ地点の提示を想定し、この場面を研究発表会で授業公開したとするなら、同じような子どもの発言があったとは限らないと考えている。おそらく、子どもから根拠として多様な事実が示されることはなく、もっとおおざっぱな授業になっていただろう。なぜなら、AからCまでの追究の中の子どもの「ことば」にていねいに耳を傾けていたかという問いに自信をもって答えることができないからである。逆説的であるが、AからCまでの追究場面を公開したことにより、Z地点に着いて考えるために必要な事実を掘り起こすことができていたのである。結果オーライ的になってしまい、次の実践につながらない振り返りである・・・。
2013.08.15
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7月30日、31日に開催された東海国語教育を学ぶ会授業づくり・学校づくりセミナーに参加したときのメモ。別府市立青山小学校の2年算数「かけ算」の授業ビデオで視聴した後、秋田喜代美先生(東京大学)がコメントの中で、次のように話された。・・・・・学校算数を超えて、「解決」ではなく算数の意味を探究を。その中で「困り感」を出していく。そのときに、「操作」「式」「式を説明する言葉」を行きつ戻りつすることが大切。・・・・・理科では「意味の探究」を「モデルの探究」を置き換えることができるだろう。単なる観察・実験前の予想が「あたりか外れか」という解決ではなく、より科学的なモデルを探究する中で、一人一人の納得を目指すというものであると考える。また、「式」は「モデル」に当たるだろう。だとするならば、理科での「操作」は何だろうか。まず考えられるのが、いわゆるモデル実験。実物と異なるものを使ってシュミレーションするようなもの。「流れる水のはたらき」での流水実験や雨樋実験がこれに当たるだろう。また、図や図の代わりの具体物などの操作も考えられる。さらには、実物に触れることも含め観察・実験そのもの、そして、その具体的な操作ももちろん「操作」であろう。ただ、大切なことは観察・実験結果から推論する場面でも「操作」することが必要だということである。最低限、観察・実験で使ったもの(器具を含めてどんなものでも)が子どもたちの手元になければならないだろう。「ものの溶け方」であれば、水に溶かした食塩や再結晶させた食塩、ろ過したときのろ紙などである。また、子どもたちに自分の考えをモデル化させるとき、図に書かせるだけでは不十分だということであろう。たとえば、水に溶けた食塩を「小さな粒」で表すとき、その粒の大きさや数、動く速さなど、科学的でないことが多い。だからこそ、「モデルを説明する『ことば』」が重要であり、「ことば」にすることや他者とかかわることにより、「モデル」の不十分さや矛盾に気付き、修正する必要があるのである。ここでも、いつでも「操作」の「もどる」ことができるようにすることが必要である。決して子どもの思考は、「操作」→「モデル」→「ことば」の一方通行ではないのである。とりあえず、「このくらい考えれば分かるだろう」という私(教師)の思い込みを何とかしなければならない。
2013.08.14
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7月30日、31日に開催された東海国語教育を学ぶ会授業づくり・学校づくりセミナーに参加したときのメモ。ある中学校の「運動とエネルギー」の授業ビデオの視聴後、佐藤学先生(学習院大学)が授業場面とは直接関係ないのだがコメントの中で次のように話された。・・・・・理科における「ジャンプ」は、モデルによる探究である。・・・・・佐藤先生は、これまでにも「共有の学び」と「ジャンプの学び」の両方で授業が組織されることが大切であると述べられている。もちろん「ジャンプの学び」を中心にすることは大切であるが、「共有の学び」を軽視してよいということではないだろう。ならば、理科における「共有の学び」は何か。あわせて佐藤先生は「共有の学び」を「教科書レベル」と説明されることがある。そう考えると「事象の性質や規則性を正確に把握すること」が「共有の学び」に当たるのだろう。さらに「ジャンプの学び」が「モデルの探究」だということを踏まえて具体的に考えると、「観察・実験の結果から事象の量的・時間的変化の要因を明らかにし、その要因と関係づけて変化の様子をより具体的に説明すること」ともいえるだろう。算数などでは、授業の45分間の前半を「共有の学び」、後半を「ジャンプの学び」と位置づけることも可能であろう。しかし、このように単純に分ける(構成する)ことは理科では難しいだろう。観察・実験、結果の整理、考察の後に「モデルの探究」だとすると、時間的に無理がある。また、一つの観察・実験の結果では、データ不足になることもある。モデルを探究するために複数の観察・実験の結果が必要なこともあるのである。それでは、単元の前半を「共有の学び」、後半を「モデルの探究」と位置づけたらどうか。さらに、単元前半の「共有の学び」の中で生まれた「なぜ」を取り上げ、後半の「ジャンプの学び」における課題を設定することが望ましいこともいえるだろう。このように考えると、これまで私は単元を通した子どもたちの追究の中に「モデルの探究」を位置づけることを主張してきたのだが、単元の前半に位置づけられるだろう「共有の学び」の課題と、後半の「ジャンプの学び」の課題が混同していたという問題点がみえてくる。つまり、事前の単元の構想が曖昧だったのである。よく考えると当たり前なのだが、単元の導入から子どもたちは「モデルを探究しよう」という課題意識はもたないのである。もちろん、単元全体の見通しをもつことは大切なのだが。まずは、「共有の学び」における課題を「ジャンプの学び」における課題を、その後それらをスムーズに展開できるようにどう単元を構想すればよいか、という順に考えてみたい。(9月に研究授業を控え、ゆっくり考える時間はないのだが・・・。)
2013.08.13
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7月30日、31日に開催された東海国語教育を学ぶ会授業づくり・学校づくりセミナーに参加したときのメモ。ある小学校の「モチモチの木」の授業をビデオで視聴した後の秋田喜代美先生(東京大学)のコメントを紹介する。なお、授業はじさまのうなり声で豆太が目を覚ます場面で、授業者は「どんな姿が豆太に映っていたのかな」と子どもたちに問うた。・・・・・一人一人が読み描こうとするとき、「あのー」「ちょっと」と発言が長くなる。・・・・・私の理科の授業も、一人の発言が長いので批判されることも多いのだが、秋田先生の話を聞きちょっと安心するとともに、発言が長くなることが当たり前であることを再確認することができた。まずもって、課題が簡単に答えられるものではないのである。ここでも「豆太の目に映ったものをテキストの言葉をもとに想像し、そのイメージを分かりやすく説明する」ことは大人でも容易ではないだろう。3年生の子どもたちがもつ語彙を使って、より具体的に説明しようとするとき、何度も言い換えながら発言がたどたどしくなるのは当たり前である。また、話を聴いている友だちの反応を意識することによって、よりピッタリと合う「ことば」を探しながら発言することになるだろう。つまり、課題の質がある程度高く、クラスの中に聴き合う関係ができているならば、必然的に発言が長くなるのである。このことは、理科でも同じであろう。目に見えない現象を、理科室で再現できる観察・実験の結果をもとにモデル化しながら想像し分かりやすく説明することは、子どもたちにとって簡単なことではない。ならば、個々で発言の準備をしっかりすればいいと反論される方もいるだろう。確かにその通りである。問題なのは、試行錯誤しながら自分の考えを組み立てつくるための「書く」時間がどれだけ確保されているかということである。考察場面におけるワークシートの穴埋めは論外だが、何度も書き直すことが保障されているワークシートは少ない。ノートにおいても、書き直すことを前提とした(よいこととした)ノート指導はまれである。ただし、話し合いというリアルタイムの場の中で、友だちを意識しながら、そして、友だちの発言を受けながら発言するからこそ、ジャンプを伴うダイナミックな「学び」が実現するのだろう。あとは、待つことができる教師、聴くことができる教師なのだが・・・。
2013.08.12
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7月30日、31日に大津市で開かれた東海国語教育を学ぶ会授業づくり学校づくりセミナーに参加した。この会は、このblogでも何度か紹介した石井順治先生が顧問であり、このセミナーには佐藤学先生(学習院大学)や秋田喜代美先生(東京大学)も講師として参加される。私がこのセミナーに参加するのも5年目(5回目)。今回も多くの学びがあったので、先生方の「ことば」をもとにいくつか紹介したい。セミナー1日目の最後に、石井先生が「どうして講師の先生方には子どもがみえるのか」ということについて、次のように話された。・・・・・子どもがみえるためには、「ねがい」と確信が必要である。「学び」は一人一人の中に生まれる、生まれている。それを「知りたい」という「ねがい」をもつこと。そして、「どの子どもにも『宝物』が生まれる、生まれている」という確信をもつこと。・・・・・子どもの「学び」は、簡単に見取ることができるものではない。子どもと教材の関係や子ども同士の関係、さらには、その子どもの授業前の考えや予想される授業後の考えとの関係も「みる」必要がある。単に授業を見るだけでは、教師の発問に対して子どもの反応の善し悪ししか分からないだろう。つまり、子どもをみるためには、技に近いものとともに労力が必要なのであり、ある程度技に近いものを身につけたとしても「みえるまでみる」という覚悟しなければならないのであろう。その労力と覚悟を支えるものが、「一人一人の中に『学び』が生まれている」と実感することである。もちろん、自分自身の授業の中で自分で発見するのが一番なのだが、今回のセミナーのような会で、講師の先生方の話を聞き「確かにそうだな」と納得することも大切である。また、そのような経験を積み重ねることによって確信をもつことにつながり、「知りたい」という「ねがい」もより強よくなっていくのだろう。・・・・・教師の専門性は、経験でしか身につかない。その経験は、「どれだけ授業したか」ではなく「どれだけ授業を振り返ったか」というものである。・・・・・私が、欠かさずこのセミナーに参加するのは、一人ではみることのできない自分に確信をもち続けるためなのだろう。
2013.08.10
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