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2月14日(金)の研究発表会に向け、指導案を書く。その中の「ねがい」や「本時の目標」を書くために、2年前に作成した「小学校学習指導要領『論理科』(試案)」あらためて読み直す。・・・・・〔第5学年及び第6学年〕1「他者と積極的に対話しようとする態度」に関すること(1)話し合いの目的を意識し、相手の意図をとらえながら聴こうとする。(2)ある課題を協同で追究したり結論を導いたりするために、互いの発言を比較、統合、位置付けしたりしながら組織化していこうとする。2「論理的に考えることのよさ」に関すること(1)略 (2)略(3)身の回りの事象の仕組みについて、根拠となる事実から要因を複数挙げるとともに、条件を整理しながら理由づけを検討し推論する。3「他者に分かりやすく説明する方法」に関すること(1)根拠となる複数の事実を挙げ、その事実を分析したり事実相互の関係を明確にしたりした理由づけを含めて自分の考えを説明する。(2)目的や意図に応じて、説明全体を見通した事柄の整理をしながら、主張や結論を先に述べる結論先行型の説明をする。(3)結論の導き方やそのことが妥当である理由を明確にしながら、自分の考えを説明する。・・・・・もちろん、今回公開する授業は「論理科」ではないものの、授業中の「言語活動」や「対話」、「論理的な思考」などの具体的な子どもの姿をイメージすることに役立てることができる。少しでも授業中の教師(私)の役割も見えてくればいいのだが・・・。
2013.12.28
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先日のblogに次のように書いた。「創造的な学び」とは、「友達の考え(アイディア)を足場(スキャフォールディング)にして、自分の考えを見直し、新しい考えを構築すること」である。 これは、本校の研究テーマが「豊かな『対話』で広がる創造的な学び」であることから、研究発表会に向けある程度キーワードの整理が必要になったため、とりあえず定義した(もちろん、単なる「言葉遊び」である)のだが、内田伸子先生(筑波大学監事、お茶の水女子大学名誉教授)は著書「想像力」(講談社現代新書 1994)の中で、「新しい形をつくり出す」ことについて次のように書かれている。・・・・・ 想像力は芸術活動と関連づけられることが多い。また、天賦の才を与えられた人がおこなう創造とからめて想像力を議論することが多かった。しかし、私は、想像力は、ごく普通の人間の日々の営みや活動の過程ではたらいているものだと考えている。この日々の営みや活動を、主観主義的、観念論的にとらえるのではなく、心の中にひとまとまりの表象(イメージ)をつくり出し、それを表現することとしてとらえていこう。人間のすべての営みや活動は広い意味において、このような表象を心の中に構成し、さらには具体的な表現を外部にもたらすのである。想像力はそのような所産をつくり出すものなのである。 日々の営みや活動の中で、つねに人は「もの」や「こと」にはたらきかけ、それらを変形し、新しい形をつくり出している。その結果もたらされる所産は、その時点でのさまざまな条件をもとに成立したもので、それはさらに人々のはたらきかけによって受け継がれ、また変容を遂げていく。想像力はそのような人々の営みに深く関わり、修正や変容をもたらし、新しいものをつくり出す触発剤としてはたらいているものである。・・・・・創造に必要なのは、単なる発想(ひらめきや思いつき?)ではなく、「もの」や「こと」から想像する力なのである。このことは、根拠となる事実を「じっくりとみる」ことからスタートし、自分の考えを「モデル化し、修正や更新する」といった本校理科部の主張である「モデルの探究」に関連があるようにみえる。この内田先生の本は9年前に買ったものだが、あらためて読み直してみたい。(つづく)
2013.12.26
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2月14日(金)は、本校の研究発表会である。(申し込みはこちら。)「研究発表会」である限り、「研究の成果」を発表することが求められるのだろう。しかし、私の授業研究の中心が授業デザインそのものであるならば、提案できるのは「子どもの姿」と「授業の立ち止まり方、振り返り方」でしかない。この「研究発表会」と「公開研究会」の違いについて、石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会顧問)は「学びのたより」(東海国語教育を学ぶ会のHPでダウンロードできる)に次のように書かれている。・・・・・ 公開研究会は研究発表会ではありません。研究発表会は発表が目的です。発表というと、ピアノの発表会などを思い起こせばわかることですが、なにがしかの成果が求められます。これまで行われてきた研究発表会は、その地域の教育委員会に指定されて行うものがほとんどでした。しかもその指定は、2年とか3年とかいった短期間のものです。指定されて行う研究で、発表するため短期間で成果を出さなければいけません。そして指定が外れればいつの間にか消滅する危険性をはらんでいます。研究発表会にはこういう背景があります。 公開研究会は、公開が目的です。公開とは「公衆に開放すること」(岩波国語辞典)ですが、いったい何を開放するのでしょうか。それは読んで字のごとく「研究」を開放するのです。その学校の研究のすがたを、発表するのではなく開放するのです。開放とはありのままの状況を開き放つという意味ですから、立派な?結果を特別仕立てで発表するのではないということになります。 その学校の研究の姿はどこに表れるでしょうか。当然、学校教育の中心である授業に表れます。そして、学ぶ子どものすがたに表れます。さらに、子どもに対応する教師のすがたに表れます。校舎内の学びの環境づくりにも表れます。そして、わたしがいつも力説する、教師たちによる研究協議会にも色濃く表れます。そのすべてを開放するのが「公開研究会」なのです。・・・・・もちろん、附属学校としてのミッションもあるのだが、少なくとも私の公開授業、分科会では「立派な?結果を特別仕立てで発表する」ようなことは避けたい。ありのままの「授業」や「子どもの姿」、そして「授業者である私の姿」を公開し、参観いただける先生方といっしょに「公開研究会」に近づけていきたい。
2013.12.25
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2月14日(金)の研究発表会での公開授業を前に「めざしたい授業」がある。それは、ここ数年の間に溜池善裕先生(宇都宮大学)から念仏のようにくり返し聞かされた「じみじみとする授業」である。この「しみじみとする授業」について、溜池先生は「考える子ども」(社会科の初志をつらぬく会 2013.11月)に次のように書かれている。・・・・・ 重松鷹泰が見出した「心に残る授業」とは子どもがする授業であり、重松の言う「よい授業」の条件を満たす「しみじみとする授業」である。子どもがする授業は子ども達だけで進められる授業ではあるけれども、子ども達だけでするというそれだけの理由で心に残るのではなく、「よい授業」の条件を満たすことでしみじみとする感慨が生まれ、子ども達や教師そして参観者の心に残るのである。 「よい授業」の条件は『わかる・わからせる授業』(1970)の最終校正で突如として重松が見出し、その後も20年近く自信で確かめ続けた次の三つである。1)教師その他の予想しないような疑問や意見が出される。2)子どもたちの助け合い協力が著しい。3)授業の途中か終わりか、どこかにしーんとする瞬間、静かな感動の瞬間、しみじみとした感慨がある。・・・・・この「しみじみとする授業」を本気でめざしたいと思ったのは、8月に京都で開催された社会科の初志をつらぬく会全国集会に参加し、薄田大智先生(寝屋川市立楠根小学校)が報告された「私たちの米作り」の授業記録を読んだときである。(薄田実践は、後日このblogで紹介する。)ただ、この3つの条件はどれも直接指導することができないという難しさがある。それでは、それぞれの条件が満たされ、3つの条件が揃うのか。溜池先生の原稿を手がかりに探ってみたい。(つづく)
2013.12.25
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「教師自身が、目の前の子どもが経験していることをストーリーとして語ることができなければ、子ども一人一人の『学びのストーリー』を大切にすることなどできない。」これは、つい最近まで私が「『学びのストーリーをつむぎだす』のは子ども自身」という誤解をしていたことに気づいたときに、このblogに書いたもの。このことについて、秋田喜代美先生(東京大学)は著書「学びの心理学 授業をデザインする」(放送大学叢書 左右社 2012)の中で、次のように書かれている。・・・・・ そして第二に、授業を見あい聴きあうことを軸にした研修にすることである。授業研究を話しあい、振り返りのばと捉える人は多い。しかし検討会での話しあいの前に、まず研究授業の中から、いかにの目の前の授業を見聞きし豊かに可能性を見出すかが授業研究の可能性を拓くカギになる。 ・・・(中略)・・・ このとき、ポストイットやメモ、模造紙に断片的にやったことを書くだけの記録と、物語として授業の世界をみる記録とでは、学びの捉え方が違ってくる。授業をうまい下手、良い悪いで見ていると、「この子はこんなことをしていた」という行動事実だけを書いてリストにして終わりがちである。しかしその事実を手掛かりに、この子どもはこのように考えていたに違いない、こうした子ども同士の関係があったに違いないという推測ができると、それがそれぞれの子どもと学習内容、子どもと子どもや教師の関係の物語を読み取るカギとなる。教育学的推論、推理ができることが教師の専門家たる力量である。だからこそ専門的見方を共有するには断片ではなく、特定の子どもや特定のグループの学びの流れを捉えて、ストーリーとして語れることが求められる。 ・・・(中略)・・・ たとえばある子どもが特定の所では授業から離れていても、ある部分ではまた学び始める。そこにはある理由が推論できるだろう。授業に参加できていた、いないではない、その子どもの内面で起きていることを読み取ることが、教材や教師の働きかけのありようを深くとらえる鏡となる。見通しと振り返りを語りあうことで、過ぎた授業のことでありながら、語りが未来を生み出していくのである。・・・・・授業を参観する最中に、指導案に書き込みする様子をよく見かける。また、授業研究会でも、指導案に書かれている一つ一つの手立てに対する子どもの反応を指摘することも多い。これは、授業の善し悪しを評価するために「断片的にやったことだけを書く」ことにすぎない。授業研究会で「一人の子どもの未来」が生み出されるような語りができない「私」は、やはりこの1年間「よこしまな」目的で授業を見ていたのだろう。
2013.12.25
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2月に研究発表会を控えているからか、校内に「年末」という雰囲気はないのだが、その研究発表会を前に4月から今までに私が校内研で(このblogでも)提案したことを振り返る。提案した主な内容は、おおむね次の3つ。「モデリングとスキャフォールディングのある学びに」「根拠となる事実の『層』を厚くする」「理由づけの質を高める」これは、本校の研究テーマが「豊かな『対話』で広がる創造的な学び」であることが大きく関係しているのだが、今回「『創造的な学び』とは」という視点で整理してみる。とりあえず、「創造的な学び」を「友達の考え(アイディア)を足場(スキャフォールディング)にしてジャンプすること」と定義する。すると、友達の考えを足場にするために、まず、友達の考えを辿る(モデリング、もしくは、モニタリング)ことが必要である。それでは、「ジャンプ」とは何か。この文脈から考えると「自分の考えを見直し、自分の考え方を振り返り、新しい考えを構築すること」となるだろう。ここでは、「自分の考えを辿ること(自己モニタリング)」が必要になる。このとき、自分の考えを友達の考えの比較することが促され、違いをもたらした原因を探ろうとするはたらきが起き、根拠の真偽性や理由づけの妥当性を検討する必然性が生まれる。このときに、「根拠となる事実の『層』を厚く」し「理由づけの質を高める」ことができる環境にあるとき、子どもたちの創造性は活性化されるのだろう。さらには、これらのことを実現するような子ども同士のかかわり合いが「対話」であろう。(だとするならば、「対話」が単なる話し合いではないことも見えてくる。)このように整理すると、「創造的な学び」と「論理的な思考」との関係も明らかになってくるのではないか。(つづく)
2013.12.24
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いよいよ来週から冬休み。2月14日(金)に研究発表会を控えているせいか、年末という気はしないのだが、昨年の今頃、授業研究に対しあらためてギアを入れ直したこともあり、とりあえず今年1年を振り返る。といっても、この1年間でやれたことのメモ。・3回学会発表したこと。・blogを週5〜7回更新できたこと。・授業研究会で必ず「私の見え」を発言したこと。・週1回机上の整理をしたこと。・Googleカレンダーをきちんと使ったこと。このくらいだろうか。学会発表やblodの回数だけはなんとか「目標達成した」といえるだろう。もちろん、やりたかったことはたくさんある。もっとこうすればよかったという反省もある。しかし、「あれもこれも」というのは簡単であるが、何かをやろうとするとき、「続けられるかどうか」という判断が必要である。続けられなければより悪い状況になることも少なくない。職員会議や校内研でも(家庭でも)自分が「続けられた」ことを提案したほうがいい。「できることだけをやる。」これは、何もやらないということではない。まずはやりたいことを黙ってやってみて、数週間続けられたらやる。あとは「決心する」こと。決心したら、宣言する。そして、その後は続けることを目標にする。来年も(少しは形が変わるかもしれないが)「続けること」が目標になりそうである。
2013.12.20
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前回の授業の最後に取り上げたSMくんの自由研究。今回は、そのSMくんの方法を再度確認し、同じように雨樋を使って実験する。水を入れた水槽に斜面をつくり、雨樋を固定する。雨樋にれき・砂・泥の混ざった土砂を置いて水を流し、土砂を水槽に流し込む。これを時間をおいて数回くり返した。実験後の水槽の様子は次の通り。水の流し方に違いがあったからだろうか、水槽の中にできた「地層」にはばらつきがある。次時は、この「ばらつき」を根拠にしてあらためて地層のでき方を考える。※ 今回の記録は、平成25年10月15日のものである。
2013.12.19
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前回のblogのつづき。閉鎖系のまま長時間生態系のバランスが保たれ、エアポンプや水かえ、えさやりが不要な「バランスドアクアリウム」。子どもたちは、一人一人のお気に入りのビンにアカヒレとオオカナダモを入れ完成させた。これから、それぞれの家庭で飼育・観察しながら、3学期は「バランスドアクアリウム」のひみつを探っていくことを子どもたちに伝え、授業を終えた。ノートに書かれた感想は、次の通りである。・どうしてエアポンプがないのに生きていけるのか。・金魚の水槽は水かえが必要なのに、なぜバランスドアクアリウムは必要ないのか。・なぜメダカはエアポンプや水かえが必要なのにアカヒレは必要ないのか。・本当にエアポンプや水かえがいらないのか心配だ。・なぜ、えさもあまりやらなくていいのか。・アカヒレがどれだけ大きくなるのか調べたい。・水の中でどんな動きをするの観察したい。・バランスドアクアリウムは不思議なことばかりだった。・バランスドアクアリウムはどうやって成り立っているのか。3学期の追究が楽しみである。※ 今回の記録は、平成25年12月17日のものである。
2013.12.19
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前回のblogのつづき。「借り物の言葉ではなく「『切実な言葉』による授業研究」。鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)は著書「子どもの姿に学ぶ教師−『学ぶ意欲』と『教育的瞬間』−」(教育出版 2007)で次のように書かれている。・・・・・ この悲劇は「評価とは見ることである」という通念を鵜呑みにしたことから生じていた。「見る」行為で問われるのは「見られる対象」としての子どもである。そのような授業研究で積み重ねられるのは、子どもの「情報」ばかりである。しかし、授業研究を通して教師の「見える力」を大切に扱いたいのならば、評価を「見ること」ではなく「見えること」として捉え返さなければならない。「見える」といったときにはじめて「見える主体」としての教師のあり方が問われるのであり、自らの見え方を吟味することこそが、授業研究の目的そのものだからである。 ・・・(中略)・・・ 授業研究とは「かたち」を整えることではない。借り物の言葉で指導案を埋め尽くすことでもない。ましてはひとごとの言葉が形式的に飛び交うような授業研究会をつつがなく執り行うことではありえない。切実な言葉を交流させることを通して、子どもや教師の姿に気づき、授業の奥深さを「自分ごと」として体感していくプロセスそのものが授業研究なのである。 まずは、自分の内から湧き出る言葉で実践を語ってみよう。・・・・・校内研が進みにつれ、キーワードとなる「研究の言葉」が生まれ、その言葉に合うように子どもの姿を探し、あたかも研究の成果だと主張する。さらには、「研究の言葉」の答えにならない子どもの姿は「研究が十分ではない」「手立てが不十分だ」と評価する。私は今、そんな「よこしまな」授業研究をしているのではないか。この鹿毛先生の本は、7年前に何度も読んだつもりなのだが・・・。
2013.12.19
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「授業リフレクションを通して『ねがい』を鍛える。」このことは、8年前に鹿毛雅治先生に教えていただいたことだが、当時の「私」はblogに次のように書いている。・・・・・校内の研究会に、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)を講師としてお招きした。夕方、空港まで迎えに行き、食事をしながら研究会の打ち合わせをする。その中で、鹿毛先生からいろいろなお話を聞くことができた。タクシーの中から、食事を終えて別れるまでの2時間半、会話が途絶えることなく「知的に興奮する」話を聞くことができた。「授業デザイン」とは何か。この2ヶ月間悩み続けてきたことが、すーうと解決されたような気がした。(もちろん、「分かったつもり」の状態なのだが。)また、これまで「授業研究とは何か」よく分からないまま授業研究をしていた私のアイデンティティを確立するきっかけになるような気がした。いろいろ話をしていただいた中で、次のような鹿毛先生のことば(メモを取っていたわけではないので、私のことばでの言い換えになってしまうかもしれないが)が心に残る。「教師の暗黙知を『ことば』にしていく。」「授業の『語り方』を学んでいく。」短い時間であったが、「元気」をもらうことができた。うれしくなって、鹿毛先生と別れたあとも、ついつい飲みにいってしまった・・・。・・・・・授業研究会を通して「授業の語り方」を学ぶ。あらためて鹿毛先生の著書「子どもの姿に学ぶ教師−『学ぶ意欲』と『教育的瞬間』−」(教育出版 2007)を読み直すと、「『切実な言葉』による授業研究」として次のように書かれていた。・・・・・ 授業研究の場は、言葉を使ったコミュニケーションの場である。授業の構想を語ったり、授業中の子どもの姿を報告したりする営みは、主に言葉を媒介として行われる。やみくもに「授業研究」をすれば「見える力」が養われるというものではない。言葉の扱い方やコミュニケーションのあり方のよっては、「授業について語ってはいるのだが、その授業について何も見えていない」という授業研究に陥ってしまうということさえありうる。 教育の世界には、わかったようなつもりでいるが、その実よくわからない言葉が言葉が氾濫している。 ・・・(中略)・・・ 確かにこれらの言葉は一種の抽象的なイメージを喚起し、教育実践を語るときのムードを演出するが、しばしばわれわれを「わかったつもり」にさせ、思考停止に陥らせる。 この種の言葉は、授業者である教師の内側から生じた言葉ではない。 ・・・(中略)・・・ つまり、子どもの姿、教師の願い、授業の目標、教材の解釈、教育方法などの授業の構成要素が、借り物の言葉によって語られることで、本人だけでなく研究に関わるすべての人が「わかったつもり」になっていく。 借り物の言葉を羅列して授業を説明するような「城業研究」がいかに多いことか。・・・・・「借り物の言葉によって語られることで、本人だけでなく研究に関わるすべての人が『わかったつもり』になっていく。」耳の痛い「ことば」である。思考停止するだけでなく、説明の中の借り物の言葉を借り物の言葉で納得する。子どもや授業者の複雑な今を、参観者の多様な「ことば」でつむぎだすだどだとしさに我慢できずに、自分の高尚さを借り物の言葉で主張する。私は、そんな「スッキリ感」を授業研究会で求めてはいなかっただろうか。(つづく)
2013.12.19
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2月14日(金)は、本校の研究発表会である。(申し込みはこちら。)昨年は、一昨年まで本校の研究開発運営指導委員としてお世話になった鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)に授業を観ていただくことができ、次ようなのコメントをいただいた。・・・・・貴校公開研究会に一参加者として参加できて大変収穫が多かったです。「ひとり一人の学びに着目する授業研究が、ひとり一人の学び手を育てる」ということをひとり一人の学びの姿を通して改めて確認することができました。・・・・・鹿毛先生には、8年前に授業リフレクションを中心にする授業研究を教えていただいた。そのとき、漠然とだが「子どもの学びを中心にする授業」にあこがれたのだが、この8年間でどれだけ近づくことができているのだろうか。新しい提案だけでなく、しっかりと立ち止まり、今の「私」を振り返ることができる研究発表会にしたい。
2013.12.18
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もうすぐ冬休みであるが、2学期のうちに一人一人「バランスドアクアリウム」をつくり、家に持ち帰って飼育をはじめる。この「バランスドアクアリウム」は、2月の研究発表会で公開する授業の単元の教材であるが、7年前に実践したときと違い今回は家庭で飼育を取り入れ、その経験も「バランスドアクアリウム」のひみつを探る「根拠」にできるようにする。子どもたちには、数週間前から「バランスドアクアリウム」をつくるためにお気に入りのビンを準備させたのだが、そのときの子どもたちの反応は次の通りであった。「フタを閉めてしまうと、小魚が呼吸できなくなるのではないか。」「ビンが小さいと小魚が長生きできないから、家にある大きな水槽で飼っていいか。」これは、子どもたちの素朴な疑問なのだろう。「たぶん大丈夫だから」と声をかけ、ビンを準備させる。今回も、そのビンの中に入れるのはアカヒレとオオカナダも。(5年生のときに学習したメダカをとも考えたが、これからの寒さも考え、アカヒレを選択した。)子どもたちは、ビンに砂利と水を入れ、オオカナダモをレイアウトしながら一人一人の「バランスドアクアリウム」をつくっていった。思ったよりきれいにできたのだろうか、子どもたちは出来上がった「バランスドアクアリウム」を見ながらうれしそうな表情をしている。また、事前に子どもたちにはビンの中で飼うのはアカヒレであることを伝えていたのだが、実物のアカヒレを見て「このくらい小さいなら大丈夫」と話していた。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年12月17日のものである。
2013.12.18
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前回のblogのつづき。子どもたちの発言により表出しだした「1回モデル」「複数(単純)モデル」「複数(変化)モデル」、そして、「ばらばらモデル」。しかし、本時(9月19日)では、これらの交流が十分にできなかった。その原因を振り返る。まず、設定した課題の問題。先日、このblogで書いたように「実際の地層にあまりれきの層がない」ことと「層の重なり方の順番が違う」ことが混在、混乱してしまったことが挙げられる。また、KGの発言を十分に取り上げることができなかったことも挙げられるだろう。KGくんの考えは「ばらばらモデル」に近いのか、それとも、「複数(変化)モデル」に変容しようとしているのか。KGくんも、SMくんと同じような自由研究に取り組んでいる。もっと、そのこと(特に実験方法)にもどる必要があったのだろう。このことは、SMくんの実験の取り上げ方にもいえることである。授業の後半、shさんの発言からもう一度ペットボトルにれき・砂・泥の混ざった土砂を入れることにしたのだが、KGくんやSMくんの実験方法との違いをどれだけ子どもたちに意識させることができていたのか。SMくんが「ゆっくり土砂を入れた」と発言しているように、十分ではなかったのだろう。もし、KGくんやSMくんの実験をていねいに取り上げていれば、MKくんの「ばらばらモデル」の主張のトーンダウンもなかったのではないか。(おそらく、KGくんやSMくんの実験結果は、「ばらばらモデル」に近かったのである。)さらに、esさんは、ペットボトル実験と、実際の海での地層のでき方の違いに言及している。残り時間も少なく、雨樋実験を行うことは難しかったにしても、SMくんの実験器具を再現し、実際の川や海をイメージさせることだけでもやっていればどうだっただろうか。このように振り返ることから、私自身の反省とともに次のようなことが見えてきた。○ 実際の川や海をイメージすることが十分ではないこと。○ 流れ込む土砂が、れき・砂・泥が混ざったものではなく、それぞれがばらばらに流れ込んで地層ができると考えている子どもがいること。 このことから、今後の授業について以下のような具体的な手立てを考える。 ○ 実際の川や海をイメージさせながら、雨樋を使って水槽に複数回土砂を流し込む実験を行う。○ 土砂を流し込むたびに土砂の積もり方が異なることに着目して思考することを促す。このことは、単元に入る前から大切だと考えていたことなのだが・・・。やはり、目の前の子どもの事実からしか授業は変えられないのだろう。(単なるいいわけだが。)
2013.12.16
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9月19日の授業は本校の研究授業であり、授業後の研究会も行われた。その中でいろいろな意見もあり、せっかくの機会なので、ここで当日、および、それまでの授業を振り返ってみる。まず、第6時(9月4日)に、次のようなHNくんの発言があった。これは、夏休みに行った自由研究の結果を根拠にしてるのだが、この「粒の大きいものから速く沈む」ということは子どもたちにとってイメージしやすい原理である。ここでは、これを「1回モデル」とする。しかし、この「1回モデル」では実際に地層を説明することができないこともHNくんはこの時点で気づいている。また、そのときにSMくんの雨樋実験の結果が提示されたこともあり、第8時(9月11日)のHNくんの発言は次のように変化する。おそらく、何かのきっかけにペットボトル実験を複数回くり返すこと(ここでは「複数(単純)モデル」とする)に気づいたのだろう。さらには、雨樋実験の不十分さを指摘していることを考えると、水量や水の流れる速さに違いによって堆積物が変化すること(「複数(変化)モデル」)にも気づいているようにも見える。しかし、実際の地層にれきの層が少ないことについては言及していない。この第8時のやりとりがはっきりしなかったせいだろうか、MKくんは次のように発言している。はじめは、れきの層がない理由について説明しようとしているものの、後半はそのこととあわせて、れき・砂・泥がばらばらに流れてくることによって地層の層と層の切れ目がくっきりする(「ばらばらモデル」)と主張していることが分かる。この「ばらばらモデル」だと、どんな層の重なり方でも説明できてしまう。おそらく、この「ばらばらモデル」は、HNくんのように「1回モデル」→「複数(単純)モデル」→「複数(変化)モデル」と変容していく考えと対立するものであるとともに、そのきっかけになるモデルであろう。実際、第7時まで「複数(単純)モデル」に近い考えをしていたSJくんの考えが、MKくんの発言の後、次のように変化していた。では、本時(9月19日)の中で、これらのモデルの交流を十分に促すことができたのか。(つづく)
2013.12.16
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2月14日(日)の研究発表会の公開授業で教材として取り上げる「バランスドアクアリウム」。4年前に明治図書「楽しい理科授業」の連載「授業が変わるものづくりのヒント」(第12回)で次のように紹介していた。(「ものづくり」といっていいか分からないのだが・・・。)・・・・・授業が変わるものづくりのヒント 第12回バランスドアクアリウム(6年「生物と環境」) □バランスドアクアリウムをつくろう 今回紹介する「バランスドアクアリウム」とは、次の図のように、閉鎖系のまま長時間生態系のバランスが保たれ、水かえやえさやりが不要な水槽のことです。 子どもたちにとって、この「バランスドアクアリウム」をつくるとき、「エアポンプがいらないこと」「水かえをしなくていいこと」「ほんの少しのエサやりで十分なこと」が大きな「ひみつ」になります。この「ひみつ」を明らかしなければ、安心してビンの中で生きものを飼育することはできません。 必要な材料は、ふた付きのビン(500ml程度)、砂利、水(汲み置きした水道水に、すでに魚や水草を飼育していた水槽の水を加えます)です。その中に水草(オオカナダモなど)と小魚(メダカやアカヒレなど)を入れます。□この矢印の意味って何? 実際の授業では、「どうして水かえをしなくてよいのか」ということが問題になりました。そこで、図書館やインターネットで調べてみると「アンモニアがバクテリアに分解されて『硝酸塩』になる」という記述を見つけます。 しかし、「硝酸塩」とは何か、試験紙を使ってバクテリアのはたらきを調べても多くの子どもたちが理解することができません。 そんな中、バクテリアのはたらきを表した図を見ながら、一人の子どもが次のようにつぶやきました。「『硝酸塩』という言葉の下に書かれている矢印の意味がわからない。」 この発言をきっかけに、次のように話し合いが進んでいきます。「根の方に向かっているから、やっぱり水草に吸収されているのかな。」「やっぱり無害なのかな。」「栄養じゃないの?」「でも、植物は、光合成して養分を作っているんじゃなかったかな。」「だったら水草の肥料なのかもしれない。」 このように、バランスドアクアリウムの「ひみつ」を明らかにしていく中で、生態系のダイナミックな「つながり」を意識させることができます。
2013.12.13
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2月14日(金)の研究発表会では、6年「生物と環境〜語り合おう、私たちの環境〜」の授業を公開する。7年前にも同じ単元で授業し、そのときも教材として「バランスドアクアリウム」を取り上げた。バランスドアクアリウムとは、閉鎖系のまま長時間生態系のバランスが保たれ,水かえやえさやりが不要な水槽のことであり、今回もフタつきの小さな瓶の中に魚(今回はアカヒレ)と水草(オオカナダモ)を入れる。7年前も研究発表会で授業を公開したのだが、全体会のシンポジウムの中で内田伸子先生(当時お茶の水女子大学、現筑波大学監事)に私の授業を取り上げていただき、次のようなコメントをいただいた。・・・・・□生活概念から科学的概念へ授業では、バクテリアについて話題になる。子どもたちは必ずしもバクテリアの分解の深い意味は理解できていないが、少なくとも「硝酸塩」の下の矢印が水草の根に行っていることから「どうも害がないのかもしれない」「栄養なのかもしれない」「いや、肥料かもしれない」というふうに展開していった。一つ一つ振り返りをしながら、子どもたちにもどしながら「見えることを大切に確かな概念(見えないもののメカニズムやルール)にしていく」ことが進行していく。子どものこだわり・視点の多様性を大事にしている。子どもたちは、みんな他の子どもたちの言うことの自分の考えていることとの違いに気がついていく。立ち止まって、もどすということがすごく大事だ。ここで「わかり直し」ができ、質的に深まっていくという授業の展開を見ることができた。分科会の中で、参加者の質問に対して「気になる子どもに焦点化する」という答えがあった。「そういう子どもたちのこだわりから、おもしろい発見が出てくるということにこの1年間の実践を通して気がついてきた」とのこと。授業後、「硝酸塩」にこだわった子どもが、同じ班の子どもに次のように話していた。「私、授業をかきまぜちゃったかな?」硝酸塩にすごくこだわって、みんなを混乱させたかもしれないと心配しての発話である。それを聞いた子どもが、次のように話した。「あなたは”なぜ”を大切にしたから、とってもよかったよ。」いい関係ができているなと感動した。このように多様な子どもがいるということが認知的な葛藤から「わかり直し」が起こり、そして、質的に深まっていく。このことは、まさに探求者としての姿勢である。□葛藤解決に向けての整理をしてあげることも教師の役割である授業の中で、葛藤の第2の層「自覚化・対象化」が起こるようなきっかけを与えてる。葛藤の第3の層「他の人からもたらされた混沌とした葛藤」を教師が何とかうまくまとまらせるような方向付けを与える、子どもたちの発話を聞き逃さず整理している。例えば「バクテリアがアンモニアを分解して『硝酸塩』ができる」ということで、子どもたちには、「硝酸塩」に対して「?」がいっぱいでてくる。このとき、教師は次のように発話した。「水草に吸収されていることは確かのようですね」この発話が、やがて子どもたちが「『硝酸塩』は無害なんじゃないか」「もしかすると栄養や肥料なんじゃないか」というようなあちこちから出てくるといった展開につながった。教師の都合のよい発話だけとりあげるのではなく、子どもたちの学びの流れの中に教師が上手に葛藤を解決するような、揺さぶりをかけたり整理をしたり、オーガナイズしてあげたり、ばらばらなものが何とかまとまるような方向づけをちょっと与えてあげる。余すところなく説明してしまうのではなく、差し向ける。そのためには深い専門性が必要。子どもの頭の中で起こっていることを見抜くことが必要。その場その場でデザインを修正できることが必要。・・・・・本当によく授業を見ていただき、子どもたちの様子、発言をひろっていただいた。が、当時の「私」は全く見取ることも聴くこともできなかった。実践を価値づけていただいたうれしさとともに「子どもの事実から学ぶ」ことができないことを痛感したことを覚えている。もちろん当時の「私」は、このコメントのような子どもの姿を「ねがい」として語ることはできなかった。来週、いよいよ一人一人バランスドアクアリウムをつくり飼育をスタートする。冬休みの間にも、しっかりと「ねがい」を鍛えていきたい。(つづく)
2013.12.13
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前回のblogのつづき。「実際の地層とペットボトル実験では層の重なり方が違う理由」について、shさんとKGくんの発言を取り上げたものの、その違いは明確にはならなかった。・・・・・wmさん「私は、KGくんの方かなって。なんでかというと、あの、幼稚園とかで、泥団子とかつくるように、泥が一番砂とか小石よりも固まるのがはやいから、流されるのは流されるけど、けっこう固まるから、そんな流されないから、なんか、残ってるのかなって。」AKくん「えっと、ぼくもKGくんの方で、泥団子もそうなんですけど、泥は固まりやすいと思うから。」MRくん「えっと、どっちも意見は分かるんですけど、wmさんたちがいったように泥が固まりやすいというのも分かるけど、あの、ぼくは1回川で流された泥とか砂が、1回全部固まってから、その後また流されて、砂とか泥が流されてくるから、順番がばらばらになるのかなって思いました。」ksさん「私はKGくんの意見があんまりわからなかったんですけど、一気に流されるというのは、ペットボトルでどばって入れたから一気に流されるというのはわかるんですけど、少しずつ流されるというのがあんまり分かんない。私は、近いのは円香さんの何ですけど、れきと砂と泥の中で、一番粒が大きいのはれきだから、れきも小石ぐらいだから、ちゃんと海ぐらいまでは流されるけど、地層ができるところまでは時々しか流されないから、れきの層が少ししかない。」・・・・・KGくんの実験の方法とペットボトル実験の方法を丁寧に比較しなかったために混乱させてしまったのだろう。そこで、残り時間は10分であったが、ペットボトルの中にもう一度れき・砂・泥の混ざった土砂を入れてみることにした。HNくんのグループでは、実験しながら次のようにつぶやいていた。・・・・・ shさん「結局私が言いたいことはMRくんといっしょで、これ(ペットボトル内の土砂)固まってなかったら・・・。」MSくん「(土砂を入れる)すごい。」HNくん「泥の上にまた積もってるじゃん。」ksさん「積もってるね。ここ(前回の泥の上)から積もってるね。これ、明日になったらまた透明になってるよ。(泥で水が濁って)全然分かんないよ。でも、積もってるよ、地層っぽいよ。」shさん「見えない。」ksさん「でも上のってるよね。」HNくん「もうちょっと長いのがあれば、ちゃんとしたのが分かる。」ksさん「また積もった。明日か来週ぐらいになれば(泥も)ここぐらいまで積もってる。」HNくん「もうちょっと長かったら、もうちょっと正確なのが出る。(ペットボトルが)短かったから、れきが下に沈んだとか・・・。」shさん「昨日って、ここまでだっけ。」ksさん「1回目の黒い線。」shさん「これ?おー、固まった、すごい。」・・・・・少ない時間だが、気づきを発表させる。・・・・・ anさん「1回目やった、入れたやつの一番上が泥になってたんですけど、その上にまた、今さっきやって泥の上に砂とかれきとかが積もっていました。」OYくん「積もったときに、れきと砂が混ざって積もった。」SMくん「OYくんと同じで、ゆっくりやっても、その前やった一気に流し込んでも、同じ結果になった。」T 「ゆっくりやってみた?」SMくん「ゆっくりやって、何度もくり返しても同じ結果になった。」・・・・・ここで時間切れである。最後に、SMくんの自由研究について説明したあと、次時は雨樋を使って実験することを伝えて授業を終えた。時間があれば、ペットボトル実験よりも雨樋実験の方が効果的だったかもしれない。※ 今回の記録は、平成25年9月19日のものである。
2013.12.13
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2月14日(金)は、本校の研究発表会である。(申し込みはこちら。)今年の全体会での講演の講師は秋田喜代美先生(東京大学)である。このblogでも何度か書いたように、8年前に秋田先生の研究室を訪ねてからこれまで、いろいろなアドバイスをいただいてきた。その中でも、秋田先生の紹介ではじめて参加した「教育のアクション・リサーチ研究会」(2006年8月 熱海)での秋田先生の次のような「ことば」が強く心に残っている。・・・・・看取るということは、「ケア」の本質。手をたらいにして受けとめるということ。瞬時に看取れるものとつながりで看取れるものがある。「見えてくる」ということは、解釈でしかない。見えたものをいかに語っていくかが重要である。・・・・・この8年間で、子どもを「みる」私はどれだけ成長することができたのだろうか。私の「語り」はどのように変化したのだろうか。秋田先生の話を聴きながら、しっかりと振り返りたい。今から(自分の授業の準備はさておき)楽しみである。
2013.12.12
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前回のblogのつづき。グループでの話し合いの後、「どうして、実際の地層とペットボトル実験では層の重なり方が違うのか」という課題について学級全体では次のように話し合いが進んだ。・・・・・smさん「まずペットボトルの実験では、上のところから全部混ぜて落としてて、でも、実際の地層では落とすんじゃなくて、私は波で流れてできてるって思って、重い方はやっぱりその場に残ってるから、その砂と泥とれきだったられきが一番重いので、その実際のやつだったられきがその場に残ってるから、れきがないんじゃないかなと思いました。」T 「軽いものはどうなるんですか?」smさん「軽いのは、波に流されて、地層があるところに行く。」KGくん「えっと、ぼくは、一気に流れるか、なんか、少しずつ流れていくかの違いだと思う。」T 「どういうこと?」KGくん「なんか、ペットボトルの実験のときは、砂と泥とれきを混ぜたものを一気にペットボトルの中に少ない時間で入れたけど、川は少しずつ、れきとかを少しずつ海のところに流れるから・・・。」T 「あなたは、どこから流されてくると思っているの?」KGくん「・・・川。」shさん「えっと、私は、実際の地層の方は、あっ、れきの層がないというのは分かんないんですけど、実際の地層の方は、まあ、何度も泥と砂とれきが流れてから、流されるっていうのがくり返されるからぐじゃぐじゃになってるんだと思うんですけど、実験に地層の方は、一度しか流してないから、だから、その中で重い順になったのかなと思いました。」MKくん「えっと、shさんが、れきがないのがわからないっていったけど、それはその、前の授業でもいったように、れきは一番、砂、泥、れきの中で一番重いわけだから、川にあまり流されずに、川で何十回に1回のペースで、地層に入ってくると思いました。」T 「れきはいつもは流れてこないということ?れきがなんだから?」MKくん「れきは一番重いから、何十回に1回だと・・・。」esさん「私は、二つ意見が合って、一つ目は、水の勢いによって変わるんじゃないかなって思って、ペットボトルの実験のときは水は止まっていたから、だから軽いものは浮いて、漂ってからゆっくりと積もっていったと思うんですけど、でも、実際の地層だったら、水は流れているわけだから、水の勢いとかで軽いものもどんどんおされて、泥が一番下に積もったんじゃないかなって思ったのと、あと、SMくんがやった実験と実際の地層のでき方は同じじゃないかなって思って、典泰くんが板みたいのを使ってどんどんゆっくり流していったっていってたんですけど、実際、泥、砂、れきの中では、一番泥が粒の形が丸っこいと思うから、丸いものだったら、たぶん、板とか斜面になっているところだったら、角ばっているものよりも、早く流れていくと思うから、だから私は、一番粒の形が丸い泥が下に・・・。」T 「海は実際止まってるんじゃなくて流れているから、先に流さえていく。」IYくん「えっと、MKくんと似てるんですけど、れきは重いから残るんですけど、雨とか川の流れによって、どんどん浸食されて小さくなっていって、そしたら砂と同じ重さになる、分かんないけど、砂、小さくなって、だから、もう地層になるときには、石じゃなくて、砂とか泥になっているだと思いました。」・・・・・KGくんは、5年「流れる水のはたらき」や自由研究で調べた粒の大きさの違いによる流されやすさの違いを根拠に、「れきが積もることは少ない」ことや「泥が一番に流され下に積もる」ということを主張しようとしているのだろう。また、MKくんも「何十回に1回」とはどんなイメージをもっているのかよく分からないが、「れきが流れにくい」ということを根拠に「れきの層がない」ことを説明している。それに対し、esさんは実際の海をイメージしていることが分かる。しかし、shさんの発言にあった「くり返す」ということを意識していないようにも見える。が、結局上手く整理できないまま子どもたちに次のように尋ねてしまう。・・・・・T 「ちょっと違う考えが出てきてるんだけど、KGくんは、少しずつ流されてきたから、積もり方がこういうふうになったんだって。それに対して、shさんは、ちょっと違うよね。どう違うか、近くの人と話し合ってみて。」・・・・・いきなり「どう違うのか」問うのではなく、KGくんの実験の方法とペットボトル実験の方法を丁寧に比較すればよかったのだろう・・・。(つづく)※ 今回の記録は、 平成25年9月19日のものである。
2013.12.12
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前回のblogのつづき。「どうして、実際の地層とペットボトル実験では層の重なり方が違うのか」という課題について話し合うHNくんのグループ。MSくんの「・・・。それか、ここに海があって、(図をかきながら)ジャーッとこっから石、砂が流れてきて、こんなふうに、石、砂、泥の順になって、で、速さが遅くなったら、泥、砂、石になって、河口に近づく・・・。」という発言をきっかけに次のように話し合いが進んでいった。・・・・・ksさん「何で逆になるの?」MSくん「流れが速くて・・・。」shさん「こっちとこっちって、どう違うの?ちっちゃくなるってこと?」MSくん「洪水とかで川が氾濫して・・・。」ksさん「普通のときは?」MSくん「普通のときは、普通みたいに・・・。」shさん「その普通みたいってどんな感じ?」ksさん「洪水のときこうなるのは分かるよ。全部がいっしょにバーって流れて。だから、これ(ペットボトル実験)と同じになる。ねえ。これ(ペットボトル)が洪水のとき。」shさん「あー、そうか。」ksさん「普通のときはどうなるの?」MSくん「流れが速くなると・・・。」ksさん「速くなるとこれ(ペットボトル)じゃないの?」MSくん「つまり、こんなふうに振り子でものをとばすとき、やっぱりシュッていった方が速いように思えるよね。シュッて。それと同じ原理で、砂、泥、小石も全部もっと遠くに行くんじゃないかな・・・。だからあんなふうになったんじゃないかな。」HNくん「どんな感じ?砂、泥、砂、泥って?遠くに行くっていったじゃん。で、なんで、それで砂、泥、砂、泥、になるの?」MSくん「例えば、こんなふうになって、流れるうちに下に行くじゃん?次に、ここに石、砂、泥になって・・・、ここは、泥、砂、石に・・・。」shさん「あーっ、重なるってことでしょ。」MSくん「で、ここを観察したんじゃないかなって。」ksさん「じゃあ、泥と砂ばかり出てきて、れきはときどきしか出てこないの?」HNくん「規則性じゃないと思う。」shさん「分かんなくなってきた。」HNくん「やっぱ、速くなることもあるし、遅くなることもあるだろうけど。」ksさん「だいたいいっしょだろうけどね。」HNくん「そんな規則的にならないと思う。」shさん「ksさんの意見ってさあ、流れる速さによって違う?みたいな感じ?」ksさん「これは、洪水だがらバアッてくるからこうなるじゃん、全部が。でも、こっちは、れきがこの辺で止まるかもしれないじゃん。本当に、本当に、ここら辺の。そしたら、もしここら辺で止まってたら、砂と泥はこうザァーっていくかもしれないけど、分かんないじゃん。あんまり自信ないんだけどね。」・・・・・ 結局、MSくんの言いたいことは伝わらないままであった。しかし、このやりとりの中で、ksさんが「ペットボトル実験」と「洪水」を結びつけたことが興味深い。さらには、実際の川や海をイメージしながら考えはじめていることも分かる。また、hsさんの「分からなくなってきた」といつぶやきも生まれている。何か自分の考えの不十分さに気づいたのだろう。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年9月19日のものである。
2013.12.12
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前回のblogのつづき。「どうして、実際の地層とペットボトル実験では層の重なり方が違うのか。」この課題について、自分の考えをノートに書いた後、HNくんのグループでは次のように話し合っていた。・・・・・ HNくん「まず、川に、海に流れ込んでくるわけだから、地層のでき方が。で、川っていうのがずっと流れているから、それにつれて砂とか泥もいっしょに流れてて、ペットボトルというのは、ずっと流しているわけではなくて、1回どばっと入れただけでこうなったから、川とかも、こう(図を見せながら)、こういうふうにここに先に積もって、また積もった後に、こっから流れてきて積もって、って感じで、だんだん、こう砂、泥で積もった後に、また降りてくるやつは砂の方が先に沈むから、固まった泥の上に砂が沈んで、それでペットボトルというのは、1回しかやんなかったから、たぶん、これも2回やれば、たぶん、この上にれき、砂、泥の順に積もると思って、だから、そういう違いが生まれたんだと思う。」ksさん「えっと私は、れきと砂と泥だと、れきが一番重いっていうか、重いじゃないですか。まあ、大っきいから。で、ペットボトルは、けっこうこの角度で入れたから急でどばっと入るから、全部入るじゃん。だから、れきも砂も泥も全部入ったら、重さの順でこうなるけど、川は、河口付近、海にたまるとしたら、河口付近でゆるやかだから、砂と泥はまだ軽いからサアーッといっちゃうかもしれないけど、れきが浮くか分かんないじゃん、ゆっくりすぎて。見学に前、去年か、見学に行ったときすごくゆっくりだったから、だから、流れるか分かんなくて、時々しかれきがこないじゃん。それが、たまたまれきが流れてきたときで、たまった?」HNくん「それはSMくんとかの実験で分かるけど。」ksさん「それをしたい。」shさん「えっと、実際の地層は、何度も固まって、また積もってのくり返しをするから、交互になるけど、実験の地層は一度しか砂と泥と小石を入れてないから、層の重なりも違ってくるんだと思った。だから、HNくんと同じだと思う。」・・・・・おおむね本時で気づいてほしいキーワードは出ているようである。またHNくんも、前々時に話題になった自分とSMくんの自由研究の結果の違いも関係づけて考えることができているようである。さらに、ksさんは、昨年度末、5年「流れる水のはたらき」で実際に河口を見学に行ったときの結果を根拠としてもち出している。しかし、MSくんの発言で、事態は一変する。・・・・・MSくん「れきが入ってないから重い順に積もって、砂、泥、砂、泥。」ksさん「どっちが?」MSくん「・・・。それか、ここに海があって、(図をかきながら)ジャーッとこっから石、砂が流れてきて、こんなふうに、石、砂、泥の順になって、で、速さが遅くなったら、泥、砂、石になって、河口に近づく・・・。」ksさん「何で逆になるの?」・・・・・MSくんがかいたのは、河口から沖までの断面図。よく中学校の地層の学習で使われる海底の隆起と沈降に伴う堆積物の変化を表す図であった。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年9月19日のものである。
2013.12.12
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理科室に入ってきた子どもたちは、すぐに水の入ったペットボトルにれき・砂・泥の混ざった土砂を1回だけ入れたときの結果を確認する。前時から2日過ぎ、濁っていた水も透明になり泥の層もできている。そのペットボトルを見ながら、あるグループでは次のようにつぶやいていた。・・・・・ ksさん「あれ、これ(ペットボトル内の水)が透明になった。」HNくん「落ちてきたから、泥が。」ksさん「時間かけて。すごく濁ってたもんね。きれー、向こうが見える。」・・・・・ まず、前々回の授業で自由研究の結果が話題になったSMくんに「ペットボトルで実験した結果と予想と同じだったか?」と尋ねると、次のように答えた。・・・・・SMくん「この実験では、そうだと思ったんですけど・・・。」・・・・・まだ、納得のいかない様子である。また、前時後の感想に疑問を書いている子どももいたので、その疑問を発表させる。・・・・・TRくん「えっと、あの、御輿来海岸にいったときは、砂、泥、砂、泥みたいな感じで、交互に積もっていたけど、このペットボトルの実験だと、普通に下かられき、砂、泥って感じで積もっているから、その、こういう、あの、交互に積もるっていうのがなぜかがわかりません。」MRくん「えっと、この実験からでは、あの、重いもの、れきが下にいくけど、さっき言ったように御輿来海岸では、えっと、交互になっていて、だから、えっと、その、実験とは結果と違うから、何でかなと思いました。」uhさん「えっと、この実験は、えっと、れき、砂、泥の順番だけど、実際の地層は砂、泥、砂、泥の順番だったから、れきがあんまりななかったから、この実験では、地層のでき方があんまり分かんないなって思いました。」・・・・・その後、「どうして実際の地層とペットボトル実験では,層の重なり方がちがうのだろうか」という課題を設定し,実際の地層とペットボトルを使った実験の結果を比較しながら考えることを促す。ただ、「実際の地層にあまりれきの層がない」ことと「層の重なり方の順番が違う」ことを混合したまま活動を促したからだろうか、その後の話し合いで子どもたちは混乱することになる。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年9月19日のものである。
2013.12.11
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最近のblogに次のように書いた。・・・・・『ねがい』を鍛えることは、『ことば』を鍛えること。」「教師自身が、目の前の子どもが経験していることをストーリーとして語ることができなければ、子ども一人一人の『学びのストーリー』を大切にすることなどできない。」「言葉に敏感になり、真に重要なものを手元に引き寄せる力を持った言葉を自覚的に選んで用いる。」・・・・・では、どうすればよいか。手っ取り早いのは、公開授業を参観するとき、授業中の子どもの様子や発言を丁寧にメモし、そのメモをもとに授業後の授業研究会で発言することである。もちろん、そのときは指導案の善し悪しや指導案通りに授業が進んだかでなく、授業の中で目の前の子どもが何を経験していたのかストーリーとして語るのである。できれば、指導案に書かれている言葉を使わずに。授業を参観する最中に、指導案に線を引いたり書き込みをしたりする様子をよく見かける。また、授業研究会でも、指導案の内容に終始することも多いのではないか。もちろん、授業を構造化しねらいと手立てを明確にするために指導案を書くことは必要であるし、その指導案によって、参観者も授業者の「ねがい」や意図を知ることができ、ある程度分かりやすい指導案を書くことは重要であろう。ただ、指導案のみを頼りにする授業観察や授業研究会では、専門家としての「ことば」は鍛えられることはない。専門家としての私が、目の前の子どもの様子をどうみたのか。子どもの発言をどう聴いたのか。その事実を私の語りとしてどう再現するのか。「理解した」「対話していた」「共有できた」「学びが起きていた」という「ことば」を使うことによって、見逃している子どもの事実はないだろうか。さらには、自分の授業をビデオに撮りそのビデオをもとに授業記録を書くことや本を読むことも「ことば」を鍛えることにつながるだろう。自分自身の「ことば」を対象化する。目の前の事実にピッタリと合う「ことば」を探す。たどたどしくてもいいから表現する。これらのことが教師の成長と大きなな関係があるのだろう。
2013.12.10
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「ねがい」を鍛えることは、「ことば」を鍛えること。先日のblogでこう書いたのだが、奈須正裕先生(上智大学)は著書「子どもと創る授業 学びを見とる目、深める技」(ぎょうせい 2013)の中で、「教育を論じる言葉にもっと敏感になろう」として次のように書かれている。・・・・・言葉が思考を支配する まずもって、国や地方のレベルで、歩んできた道を冷静に振り返り、誤りを正していくことが不可欠でしょう。読者の中には地方教育行政に携わり、分権化の中で独自政策の立案や実施に関わっている方も少なくないはずです。是非、地域における教育の将来を左右する岐路に立っているとの深い自覚を持って、今を見つめていただきたいと思います。 「学級担任でしかない私に何ができるのですか」と尋ねてくださるあなたは、この章の冒頭でお話ししたことを思い出してほしいと思います。そう、言葉は「ものの名前」ではない。最初に言葉が生まれ、その言葉の存在によって、対応する「もの」や「こと」への認識が生み出される。だから、教育を語る言葉にもっと敏感になろう。真に重要なものを手元に引き寄せる力を持った言葉を自覚的に選んで用いよう、という提案でした。 逆にいえば、今回の不祥事の当事者は、どんな不適切な言葉を常に頭の中で廻していたのでしょう。それはたぶん「学力」です。常に学力という言葉を中心に授業や学校運営、子どもへの対応を考えていた。 ・・・(中略)・・・ 話をわかりやすくするために、同じ教育的価値の実現状況を問う別な言葉について考えてみましょう。たとえば「育ち」はどうでしょうか。 ・・・(中略)・・・ この深刻な事態から離脱する具体的な方策として、今日の状況を招来した可能性のある「学力」という言葉を、試みに一度封印してはどうか。そして「学力」に替わる、より教育的に重要な質を適切に示しうる言葉、たとえば「育ち」といった言葉を意識的に用いてみることを提案したいと思うのです。・・・・・「言葉に敏感になり、真に重要なものを手元に引き寄せる力を持った言葉を自覚的に選んで用いる。」研究紀要をまとめ、研究発表会に向けて指導案を書く時期であるが、一度立ち止まり、このblogも含めて、私が使っている言葉を振り返る必要がある。(つづく)
2013.12.06
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2月14日(金)は、本校の研究発表会であるが、その申し込みがスタートした。(申し込みはこちら。)私も6年理科の授業を公開するのだが、今回教材として取り上げるのは「バランスドアクアリウム」である。7年前にも一度実践したのだが、今回は事前に「飼育」を取り入れる。来週、一人一人「バランスドアクアリウム」をつくる予定なのだが、子どもたちはお気に入りの瓶をもう持ち寄っている。どんな追究になるか、今から楽しみである。
2013.12.06
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先日のblogで「『学びのストーリー』をつむぎだす」として、次のように書いた。「教師自身が、目の前の子どもが経験していることをストーリーとして語ることができなければ、子ども一人一人の『学びのストーリー』を大切にすることなどできないのである。」先日送られてきた琉球大学教育学部附属小学校の研究紀要を見ると、同校のサブテーマが「子どもの姿から学びのストーリーをつむぎ出す」であった。このことについて、同紀要には次のように書かれている。・・・・・ 昨年度はそれまでの研究をふまえ、よりよく考え学び合う子どもの姿を想定しながら授業づくりを行い、実際の授業における子どもの姿を丁寧かつ柔軟に見取り、次の授業に活かしていくことで、よりよく考え学び合う授業づくりを深めてきた。 その際、教科等でめざす子どもの姿を想定して授業づくりを行ったが、教師がその想定にとらわれると、子どもの姿を多面的に見取る可能性を狭めてしまう場合もあることが見えてきた。また、子どもの姿を丁寧かつ柔軟に見取るためには、授業中だけでなく授業以外の経験や背景まで幅広く見取っていくことが必要であることが必要であることが見えてきた。 そこで、本年度は、授業を構想するにあたり、めざす子どもの姿を先に想定するのではなく、まず目の前の子どもととことん向き合い、見取り、その子どもの背景を含めて解釈することを大切にしていく。子どもの姿を一時点・一場面という点で見取るだけでなく、様々な場面でも見取りながら、点と点を線としてつなぎ合わせ、豊かに解釈していくのである。そして、子どもの変容の可能性を想定して働きかけていくことを繰り返すことで、子どもの学びの道筋を追うことができると考える。 ・・・(中略)・・・ また、子どもの多様な学びのストーリーから私たち教師も学び、さらに子どもと共に私たち自身の変容も目指していきたい。・・・・・「まず目の前の子どもととことん向き合う。」「子どもの多様な学びのストーリーから私たち教師も学ぶ。」九州の附属校の中で、私たちといっしょに授業リフレクションを授業研究の中心にしてきた琉球大学教育学部附属小学校。着実な歩みを目の当たりにし、同校の取り組みに感動するととともに、本校の現状に「危機感」を感じた一瞬であった。(つづく)
2013.12.06
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本校の研究の主張の一つに、授業リフレクションによって授業者の「ねがい」を明確にする、鍛えることがある。指導案にも、一番に枠囲みして書くことにしているのだが、これが難しい。おそらく、目の前の子どもの事実を十分にとらえられていないとともに、そのことを「語る」ことを重視していないからだろう。このことについて、最近、無藤隆先生(白梅学園大学)とフェイスブックでやりとりする中で見えてきたことがあるので、ここで紹介したい。・・・・・無藤先生)授業論でよく出てくる、「子どもの学びに寄り添う」とか、「教師の指導を進める」とか、「目標に沿った力をつける」とか、つまらなく受け取れば、誰でも教師ならしていることです。子どもの発言を聞いて、どういう学びに向かっているかを考えて、それに応じて、応対を変えれば、学びに寄り添ったことになる。授業には必ず目標があり、教科書の対応ページがあるはずなのだから、教師のねらいがある。 数量化が好きな教育心理学者らしく些細なところで分類すると、そうなります。 授業論の好きな教育学者や教師はおそらくもっと深みのある高級な学びをイメージしているに違いない。で、その深みのあるものと上記のような浅いものと連続的ではないのか。質的に違いがあるのか。あるとして、どこが違うのか。 私にも返ってくる課題ではありますが、考えるべきことのような気がします。かつまた、研究校(附属や研究指定の学校)での議論がスコラ的であることを脱することを期待したいと思いますね。 上記のことは、だから、コツの集積のみが重要だという意味ではありません。授業における理論化はあり得ると思っていますが、ただ、それは授業における具体的な教材や指導のあり方と絡んでいるとは思います。無藤先生)スコラ的とはもちろん悪い意味で使っております。ハッキリ言えば、言葉遊び、という意味です。原口)より具体的で、目の前の子どもたちにあった目標ということでしょうか。附属学校での議論が言葉遊びだということは痛感しています。だからこそ教師の「ねがいを鍛える」ことを授業研究の一つの柱にしているのですが・・・。無藤先生)子どもにあった目標というよりは、子どもの実際の様子の中で言葉を鍛えると言うことですかね。原口)ありがとうございます。授業ビデオを観ながら、個々の子どもの具体的な学びをストーリーとして語ることができることと大きく関係していますね。授業を観ても、指導案の中にある授業者が適当に使った言葉でしか研究会で発言しない先生方もまだまだ多いようです。・・・・・つまり、「ねがい」を鍛えるとは、授業や子どもを「語ることば」を鍛えるということなのである。(つづく)
2013.12.05
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「驚きと発見」を期待する公開授業と授業研究会。最近の私のblogでよく出てきた「ことば」だが、おそらく、8年前の「私」にはとても理解することができなかっただろう。この「学校教育実践の風潮の変化」について、無藤隆先生(白梅学園大学)がフェイスブックに次のように書かれていたので紹介する。・・・・・「学校教育実践および実践研究の風潮の変化」この10年ほどの学校教育実践および実践研究の風潮の変化がある。一部には、かもしれませんが。・名人芸から平凡なる優秀者へ。 ・個人から学校組織へ。 ・芸術から技術へ。 ・拍手喝采の研究会からよい点・改善点の明確化の検討会へ。 ・晴れの舞台の会から日常の普段の会へ。 ・教材解釈や子ども相手の技から子ども・教材・集団の間の関係へ。 ・万能性から蓋然性へ。 ・偉い先生の理論付けから実践からの理論の編みだしへ。 ・現場の称揚から現場と理論の往復へ。 ・研究者のヒーロー化と雛壇化から研究者と実践者の対等の仲間のネットワーク化へ。・・・・・少しずつではあるが、本校の授業研究も変化しているのであろう。が、まだまだ私自身が「名人芸」や「拍手喝采」を求めているところがあるのだろう。よさは実感しているつもりなのだが。(つづく)
2013.12.03
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子どもの「学びのストーリー」を大切にする。このことは、7年前に鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)に教えていただいたことだが、当時の「私」は、このことを(つい最近まで)誤解していたようである。当時のblogに次のように書いている。・・・・・校内の研究会に、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)を講師としてお招きし、話を聞くことができた。(実は、私の授業を見てもらい、コメントももらうことができた。)その中で「授業デザイン」を中心にいろいろな話を聞くことができた。まず、「授業デザイン」とは「授業設計」の「対義語」であるということである。授業観の違いとして「授業設計」が「こうすれば必ずこういく」ことを求めるのに対して、「授業デザイン」は「省察することで次を見通す」ことだと説明された。また、「授業デザイン」の中心になるのは「教師のねがい」だということである。この「ねがい」やねがいを実現するための「アンテナのはり方」ということは、教師の「センス」にかかわることであり、この「センス」を鍛えるには「こうすればこうなる」という「ハウ・トウ」ではできないということであった。最後に、次の2つの「ことば」が心に残る。「授業の中で、一人一人の子どもたちにどんな経験がなされているのか。」「教育的瞬間をとらえる力が大切であり、現在進行形の中で立て直す。」私の「ことば」での言い換えであり、鹿毛先生の話を十分に伝えられていないかもしれない。私自身、「授業デザイン」についてはやく語ることができるようになりたい。このことも「みんなで伸びる授業をつくりたい」という「ねがいを鍛える」一つの方法であると考える。さらに「子ども一人ひとりの学びのストーリーを大切に」しながら理科の授業を構想するとき,次の2つ視点が必要であると考える。(1)「Reデザイン」することを前提にした「授業設計」(2)「Reデザイン」しやすくするための手だて(1)では,あえて「授業設計」ということばを使った。事前に教材を研究したり,子どもの実態を把握したりしながら授業を構想するという点からいえば,これまでの「授業設計」とあまり変わりははない。ただし,予想される「子どもの反応」を「つなぎ」ながら構想することができないという点で,これまでと異なることも出てくるであろう。・・・・つまり、授業の中で、子ども一人一人に「学びのストーリー」ができるようにすることが大切だと考えていたのである。だからこそ、授業後や単元の終わりに振り返りの時間を設定したりすることに取り組んできたのだろう。もちろん、このこと大切なことなのだが、それ以上に大切なのが、教師が授業中の子どもの事実から「学びのストーリー」をつむぎすことができるのかということということである。もう一度鹿毛先生の「ことば」にもどってみると「何を経験していたか」といわれているのであり「何を経験させるか」ではない。教師自身が、目の前の子どもが経験していることをストーリーとして語ることができなければ、子ども一人一人の「学びのストーリー」を大切にすることなどできないのである。このことが、先日訪問した茅ヶ崎市立浜之郷小学校の若い先生方にはできていたのであり、研究会ではこのことに終始していたのである。このことが何を意味するのか、前述したことから考えると自ずと答えが見えてくるのではないか。(つづく)
2013.12.02
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