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例えば、こんな妄想をしてみる。「魏志倭人伝」には、次の記述がある。 「景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た」と]。帯方郡の長官はそれを許し、二人は魏の都に赴く。12月、「皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した」(現代訳です)と記録にはある。その後、景初3年1月1日に12月8日から病床についていた魏の第二代皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった(←死の病だった明帝が難升米に会うはずもなく、また皇帝死去のゴタゴタの中、なぜ難升米たちが無事都を出ることが出来たのか、小説的な「謎」は色々あるのだが、ここでは言及しない)。 「莫大な下賜品」とは記録にあっただけなのかどうか。 難升米にとっては、都はまるで幕末にアメリカニューヨークの港に着いた勝海舟の様だったのではないか。彼が品物だけを持ち帰ったはずは無い。必ず知識の源泉である「本」(当時は木板に書かれた巻物だった) も欲しかったはずた。しかし、本は「蛮夷」が手に出来る様な代物ではなかった筈だ。 所が、僅かな滞在で「親魏倭王」の称号をもらう程に外交力を発揮した 難升米は、特別なルートから皇帝に次ぐ実力者と会う機会を持った(言うまでもなく、私の妄想の世界)。実力者は難升米の要望に対して「若し本を一のみ撰ぶ可しといえば、何を撰ぶか」と、聞かれた。難升米は応える。「軍を任されているものには、「孫子」や「呉子」が欲しいかもしれません。しかし、私は女王の為に一番相応しい本を選びたいと思います」「ならば、為政の道を説いている「論語」か」「いえ、私は中華300年の歴史を詳らかにしていると言われている「史記」130巻を所望したいと存じます」歴史の中にこそ、国の在るべき未来を示す比較があると難升米は懇望した。果たして、難升米の望みは果たされたか。そして、それは無事邪馬台国に届き、卑弥呼の読む所となったか。それは又別の話。(←なんじゃらほい)
2012年05月31日
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今年の5月は『史記』に出逢った月でもあった。「史記」一海知義 平凡社ライブラリー司馬遷、前漢の人。紀元前145年生まれ、紀元前86年没が定説。47歳の時、将軍李陵を擁護した為に武帝の逆鱗に触れ、死刑の判決を受け獄につながれる。刑を免れる為に自らすすんで去勢の刑を受ける。二年後、50歳の時に出獄、「史記」執筆に専念する。この事件によって、司馬遷の胸の奥深くに、一つの結ばれてとけぬものが根付いた。懐疑である。「老子」は「天の道にえこひいきはなく、常に善人に味方する」とあるが、果たしてそうだろうか。(略)「伯夷列伝」の中で、彼はこの懐疑論を展開する。「天道は、はたして是か非か」。この矛盾が、根源的には支配階級の生む矛盾であること、天の意志などとは全く無縁であることに、人々が明確に気付く為には、なお二千年近い歳月が必要であった。しかし司馬遷は、この懐疑をあくまでも捨てず、この懐疑をバネにして、「史記」を書いた。矛盾を矛盾として、事実を事実として、人々の前につきつける、という手法を通じて。(36p)しかし、一海知義は第一章の処で鮮やかに「史記」の特徴を述べたあとに、平凡社ライブラリーに収めるにあたり「あとがき」でこの客観主義に「疑義」を述べる。司馬遷は、冷徹な客観主義者、リアリスト、或いは忠実な記録者として、そうしたのか。それとも、時代の批判者として、ある意図をもって、ある立場から、どうしても記録しておかねばならぬ一条として、記録したのか。司馬遷が武帝の治世に対する批判者であったことは、よく知られているし、史記をよめばそれは明らかである。しかしその批判はどこまで貫徹されていたか。司馬遷の中に、その点でなお矛盾撞着するものがあったようにも、私には思える。だが、その矛盾の質が、もう一つよくわからぬ。(346p)一海先生にわからぬものは、私にはもちろんわからぬ。しかし、この本により、私は初めて「史記」に出会った気がする。「項羽と虞美人」「李広と李陵」「伍子胥と白公勝」など、全百三十巻より、八か所の読みどころを精選、原文・読み下し・訳と解説を展開している。北方謙三が『史記』の小説化を試みているが、それは『武帝記』にすぎない。もちろん、長編小説なので、司馬遷の半生はおろか、李陵、蘇無等の人生も縦横に描いているのだろうが、私は司馬遷の若い頃、諸国を回っていたころのエピソードが気になる。そこで、彼はのちの資料や伝説、或いは諸国の歴史の決着を知ったはずである。想像がそっちの方が広がる。私の残りの人生で「史記」をどれだけ読めるか、疑問はある。しかし、読んでいきたいと思う。2012年5月9日読了
2012年05月30日
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「義理と人情 日本的心情の一考察」源了円 中公新書 みのもんたの「義理と人情」があまりにもおバカ本だったので、ちょっと考察しようとして日本思想史の権威である氏の同名の著書を紐解いてみた。1969年発行の古本であるが、今でも十分通用する。99年に復刻版が出ているらしい。 曰く。 義理も人情もともに個別主義的性格(注 反対の概念として普遍主義的を置いている。つまり『共同体の』というような意味)の社会や文化の産物であることが推察される。われわれが誰かとの、そして何ものかとの関係を重要視し、これとの関係を積極的にもしくは消極的に維持強化しようとするとき、その関係の規範的側面が義理であり、心情の働きの面が人情である。そしてこの関係が好ましいときに、義理は暖かい義理となり、義理と人情の区別は厳密にはつかなくなる。なぜなら、このとき義理は規範といっても、心情の倫理なのだから。しかし、誰かとの関係が好ましくないが、われわれが生きていく為にやむ得ずこの関係を維持しようとするとき、義理は冷たい義理となり、義理と人情は対立するのである。義理はこのとき、われわれにとってよそよそしい、外的拘束力であり、外的規範である。そして、人情はそれに対応して、他者との共感関係を閉じて、自己の欲望の主張を始めようとする。もしくは生きる条件がきびしいときには、擬制された共感関係を維持しようと努力するのである。(30p) 要は、義理と人情は、古代からの共同体が産んだ道徳観(原初的形態は好意に対するお返し)で、儒教用語の忠義を意味する「狭い義理」も30年ほどで日本的概念に取り込まれたという。よって「日本人における法意識の欠如も義理の性格の形成にある程度の関係がある」という。一神教の西洋社会では、神と人との契約は、人と人との契約に移行される。日本では山川草木ことごとくが神とみなされた。この場合、「唯一神教のようなきびしい、しかし普遍主義的性格を持つ律法は生じない。」のだそうだ。厳密な律法社会にならなかった日本は、果たして良かったのか、悪かったのか。 明治時代、共同体が崩れ始めて、利益優先、立身出世主義が横行し始める。その時生まれたのが尾崎士郎の「人生劇場」らしい。尾崎士郎は義理と人情を美しく描いた。しかし、それは滅びゆく運命であると、主人公の青成瓢吉は自覚していた。 吉良常の終焉の日に「吉良常はこの世に生きた人間の義理を今こそ完全に果たしたと言へよう。しかし、瓢吉はその義理人情を踏み越えて新しい世界へ身を踊らさうとしているのである」と語っている。(略)しかし読者は「人生劇場」の著者の真意を汲み取れただろうか。むしろ読者にとっての興味の対象は、吉良常や飛車角の任侠の世界であり、その背後にある吉良の仁吉の義理人情の世界ではなかったろうか。(略)義理と人情の歌謡曲を歌った民衆もしくは、仁吉の義理と人情の世界が過ぎ去りゆく世界、ノスタルジアの世界であることを知らないはずはなかった。しかし、彼らは自己の内なる義理と人情を超克して、新しい世界を切り開くのでは無く、義理と人情の世界に生きたいと切望する。なぜか。それは不安から逃れるために。不安からの本当の脱却はあまりにも難しい。(略)そしてこのような心の動きは今も変わることが無いはずだ。(212-214p) 尾崎士郎の時代に既に「共同体の崩壊」が感知されていたとするなら、昭和時代に跡形もなくなった、と考えた方がいいのだろう。多分、今はその「残滓」があるだけなのだ。 それを自覚せず、残念ながら今も「自己の内なる義理と人情を超克して、新しい世界を切り開くのでは無く、義理と人情の世界に生きたいと切望する」人達があまりにも多い。それがおそらく、「みのもんた」という「俗物」を第一線の舞台に引き上げている要因の一つなのだろう。また、共同体が崩壊しているにもかかわらずいまだに親族の助け合いが有効であるがごとく勘違いしてそれを堂々と主張する勘違い国会議員が出てきて、それを『義理と人情が廃れた』と非難し、マスコミという『擬似共同体』の中で『冷たい義理』を実践しようとする輩が出現する。 どうすれば良いのか。源了円は「情の人間論・文化論において位置づけ」しないといけないと云う。つまり、ほとんど抽象的でなにも言っていないと同義だ。課題は我々の時代に持ち越されていると言って良いのだろう。2012年5月11日読了
2012年05月29日
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「義理と人情―僕はなぜ働くのか」 (幻冬舎新書) みの もんた 07年発行 古本屋の100円棚で手にいれました。この人の本が読みたかったわけではないのですが、良くこの人の悪口を言う以上、彼にも言い分はあるのではないか。彼なりの「思想」はあるのではないか、と思ったからです。 結論から言うと、新書編集者がまとめたであろう以下の文章で、この本の内容は尽きています。本を一時間で読み切ったのは、数年ぶりでした。つまり、それだけ内容がない。そこら辺にいる中小企業の社長か、中堅企業の部長と全然かわりません(いや、社長や部長に失礼でした、すみません)。 内容(「BOOK」データベースより) ひと月のレギュラー番組三十二本、一日の睡眠時間三時間。依頼された仕事は、決して断らず、医者に止められようが、働かずにはいられない―。屈辱を味わったサラリーマン時代、テレビ・ラジオから干され、ひたすらトラックで営業周りした十年間を経て、今、諦めきれなかった芸能界で仕事ができるのは、人の情けのおかげ。その情けに報い、義理を果たすために、僕は働き続ける。迷い、立ち止まる現代のサラリーマン必読の書。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) みの もんた 1944年、東京都生まれ。立教大学経済学部卒業。レギュラー週八本の人気番組を担当する司会者。2006年6月、アメリカの経済誌「フォーブス」発表の「世界のセレブ(著名人)100人」に日本人として初めて選ばれる。同年11月に、「一週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者」として、ギネスワールドレコーズに認定される。著書に『こころの案内図』がある。水道メーター製造・販売会社ニッコクの代表取締役社長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) どうやら、老いて怖いモノが少なくなってきて、好き勝手にしゃべりだしたとたんに視聴率が上がったらしいです。まあ、橋下と同じですな。 べつに良いんですよ、みのさんが普通のすけべ爺いでも。この人が、悲しい事に、日本の将来に大きな影響力を持つマスメディアの司会者でなければ。この人が馬鹿の一つ覚えのように、「国会議員の定数削減」をいうのをいつも苦々しく思っている私です。それでまるで国会の『身を切る』責任が遂げれるかのように言うのはもちろん、小選挙区制をすすめることがいかに民意を反映させなくなったかということを、隠している。1000遍言えば、悪法も法になる。毎日銀座で湯水のようにお金を使っているらしいが、そこのつきあいが庶民のはずはない。この人の発想は、明らかに典型的な(死語かもしれないが)プチブルだろう。一つ言質を取りました。 「ぼくは、番組の司会者は、一つの番組の経営者だと思っています。従って、最終責任は、全部僕にある。どこの番組制作会社が作ろうが、僕が間違ったことをいったとしたら、僕の責任です。「お前が書いた原稿だ」なんてことは、絶対に言えない。それだけはいつも肝に命じています。」(156p) ほう、そうですか。いくらでもありそうな気がするけど。今度電話で抗議するときには『責任とって辞めてほしい』とはっきり言おう。日本の不幸は、この様な思想性が全く無い者が、日本で最大の視聴率を誇る朝のニュース番組の司会者を勤めているということだろう。 2012年5月11日読了
2012年05月28日
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「かあちゃん」重松清 講談社文庫内容(「BOOK」データベースより) 同僚を巻き添えに、自らも交通事故で死んだ父の罪を背負い、生涯自分に、笑うことも、幸せになることも禁じたおふくろ。いじめの傍観者だった日々の焦りと苦しみを、うまく伝えられない僕。精いっぱい「母ちゃん」を生きる女性と、言葉にできない母への思いを抱える子どもたち。著者が初めて描く「母と子」の物語。 「母は、わたしとあなたのお母さんを会わせなかったんです。わたしにひどいことを言わせなかったんです。あなたのお母さんというより、わたしを守ってくれたんだと思うんです」友恵さんは啓太くんを振り向き、「最近わかったの」とわずかに笑って言った。啓太くんは黙って目をそらしたが、友恵さんはそのまま私に続けた。「立場が逆転にならないとわからないことってありますよね。あのときあなたのお母さんに言わないで良かった、母に止めてもらって良かった…」(50p) 語り手が章ごとに代わる連作方式。一章ごとに様々な立場の母と子の関係、許し、許される、或いは、許さず、許されない、関係が描かれる。 「とんび」の父子関係でもしこたま泣かされたが、コレにはそれ以上ヤられた。特に最後の7、8 章は要注意である。決して人前で読んではいけない。 内容と全く関係ないが、母のことを思い出した。 私の母親は、死んだ一、二年間 は望んでも夢で出てくる事はなかったが、それ以降は当たり前のように元気な姿で出てくる。登場回数は多分私の周りで一番高いと思う。決して怒らない人だった。唯一怒ったのが、私が六歳のとき、わが家の建て前で大工さんや親戚一同が飲んでいる時に、兄ちゃんと一緒に残ったグリコのキャラメルの箱の「おまけ」を全部開けた時である。残り物だから、開けてもいいさ、と兄ちゃんが言うから私は嬉しくなったのだ。どんなものが出てきたか、私は全然記憶が無い。ともかく、気がつくと私と兄は母親の前でずいぶん長い間正座させられ、ずっとベソをかいていた。母親は生涯で多分一番怒った。ずっと泣きながら、怒った。「こんな情けない子に育てた覚えはありません」ずっとそんなことを言っていた。あの時ほど、母親が怖く、そして悲しかった事は無い。でも、あの時の事は、未だ夢ではかすりもしない。 さて、ここでは、26年間夫の巻き添えで死んで仕舞った同僚の家族のために笑顔を封印し働きづくめに年取った母親が出てくる。頑固である。相手側から非難される事は、一切無いけど、決して許されると思っていなかったのだろう。そして、イジメに加担した友恵さんの息子も同じようにある「覚悟」する事になる。頑固になる。イジメをし、自殺未遂に追い込んだことを決して忘れない。それを肯定的に描いたのがこの小説だ。これは、著者重松清本人も同様だ。彼の場合はイジメられた側かもしれない。ずっと彼の文庫本を買っているが、何があったか知らないが、初期のあるときから、彼は文庫本の解説を一切拒否するように なった。もう既に20年近くになるのではないか。彼の作風や言動からは、窺えない「何か」がある。それが、おそらく人間ということで、面白い。
2012年05月27日
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「とんび」重松清 角川文庫健介の寝顔に目を戻し、息を大きくついた。よし、よし、とまた二度頷いた。「親が子どもにしてやらんといけんことは、たったの一つしかありゃあせんのよ」「…なに?」「子ども寂しい思いをさせるな」海になれ。遠い昔、海雲和尚に言われたのだ。子どもの悲しさを呑み込み、子どもの寂しさを呑み込む、海になれ。なれたのかどうかはわからない。それでも、その言葉を忘れたことはない。(405p)NHKのドラマは観ていないが、ロケ地になった西大寺五福通りと今回六ちゃんを嫁に送り出す堤真一の「ALWAYS 三丁目の夕日'64」は観た。それで脳内ドラマは完璧だったと思う。海が見えるお寺はこの前行った尾道にさせて貰った。後半からは、(周りに人がいるので嗚咽は出来なかったが)洟をすすりつづけた。私に子どもはいない。けれども(今は亡き)親はいる。ヤスさんとタイプは違うけれども、共感する処多かった。ベタベタの父子物語たけど、悪い気はしない。騙された気はしない。途中から「理」のスジは押しやられて「情」のスジが私を通って行った。2012年3月4日読了
2012年05月26日
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某吉本芸人の母親生活保護受給問題で、今日うんざりするようなことがあった。私のツイッターのフォロワーは一様に批判的なのであるが、世の中はそんな風には動かない。 @ocha1978: 「認識甘かった」 河本さん、生活保護受給問題で会見 http://t.co/SUbvh36a 不正受給でもないのになぜ保護費を返還させられるんだ? 問題は、これによって一般の生活保護受給パッシングに拍車がかかるのでないか、ということだ。つまり以下のようなことも起きそうな気がする。@ssk_ryo: 窓口で、「あなたが困窮してることは分かったが、貴方の親(子)が扶養できないことが明らかになる資料を示してください」と言われて、諦める人続出、という最悪のシナリオも。 →最も、もう既にそうなっている。私は幾人か生活保護決定にかかわったことがあるが、その貧しい経験でもこんなのがあった。20年近く家族から離れていて、タコ部屋のような職場だったとはいえリストラされ、このままではホームレス必死なのにも関わらず生活保護申請しない、という人がいた。申請すると、必ず家族に連絡が行く。縁切られたのだから、それも嫌だし、踏み倒した借金取りが来るのも怖かった。来たら来たで破産宣言すればいい、等々色々言ってやっと申請した人がいた。ホームレス寸前の人でも色々事情を抱えている、いわんやホームレスをや。 某芸人もこういう「事情」を言っていた。 @ocha1978: 「もっと努力して早く生活保護から抜け出させてあげたかったが、家族を養える分の年収を得られなかった間、保護を受けていた。情けなくて、恥ずかしい」不正など無かったにもかかわらず、謝罪を強要し生活保護は「情けなく恥ずかしい」ものだと公の場で言わせるこの社会。怒りで震える。 フォロワーの言うとおりである。 人の不幸は人の数だけの種類の不幸がある。「その不幸の原因が全て社会のせいだ」とは私は思わない。人間は社会によってのみ規定されるものではない。 しかし、不幸を取り囲む様に社会が原因を作って来た様は見える。 例えば、長い間個人の不幸の緩衝地帯だったムラや隣近所の「共同体」は、高度経済成長の邪魔になるということで次々と解体されて来たのが、このほんの60年間の歴史である。梯子を外して置いて、その間に整備して来た「近代的」な社会保障制度は縮小しようというのが財界の意向である。何故ならば、財界は資本そのものだから、人間の運命なんてどうでもいい、利益が上がりさえすればいい。政府は財界のいいなりだから、それに沿ってきちんと法整備をするだろう。現在、親族は生活保護申請者を扶養をする義務はないとはいえ、「配慮する」等々の「通達」ぐらいはだすかもしれない。 例えば、こういうツィートもあった。@1Q89reader芸人河本の母親の生活保護問題だけど、実はこの手の議論って1970年代にアメリカで既に起きていたらしい。ロールズとサムエルソンが絶頂期の時代。議員の母だか祖母だかが無収入を理由に社会保障サービスを受けていた事を槍玉に挙げられて、これをきっかけに世論が社会保障削減に舵を切る事になる。 今回、生活保護パッシングも、片山さつきやら、一部ジャーナリストが「仕掛けた」可能性は充分にあるだろう。生活保護費用を切り下げる方向にこれから進むだろう(実際、検討されている)。 別に資本家でも無い庶民の私たちは、情報が届かないで、よくわからないから、情報が揃っている政府や財界、一部ジャーナリストの立場に立つべきだろうか。それとも、次のように考えるべきだろうか。「よくわからないけれども、まだその事情を知らないだけなのだ。知れば、助ける道をもしかしたら示せるかもしれない」私たちは、常に弱者の立場に立つべきなのではないか。
2012年05月25日
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『男は旗』光文社文庫 稲見一良船上レストラン兼ホテルのシリウス号に次々と個性的な面々が集い、冒険目指し出港する。 稲見一良9冊の単行本のうち、5冊目に当たる本書は、まだ体力を保っていた頃の最後の長編。切れは無いけど、愛しい登場人物たちが縦横に活躍する。 日系三世の美少女シャーリーが出港を前に二式飛行艇を博物館からまんまと盗み出す。切実な必要に迫られての盗みではない。遊びである。しかし稲見一良は、二冊目の長編「ソー・ザップ!」でもそれぞれの技を競い合っての四人と一人が命のやり取りをした。いうなれば命をかけた「遊び」であった。短編では、まるで遊びのように老人と少年が米軍基地から米軍機を盗み出すラストもあった。 社会倫理から無縁の所で、男の「美しさ」を求めた稀有の小説群が稲見一良の小説だろうと思う。 「変なことを伺いますが、ブックさんが書いてこられた小説はどんなものですか?いわゆる純文学というやつですか?」「初めから終わりまで、つまらない言葉の羅列に尽きるシロモノをジュンブンガクという。だが、眠れない夜、睡眠剤として効果がある、と言った男がいる。第一、純文学とか通俗文学なんて区別するのは日本だけだ。私が書きたいと思うのは、ハルヲ・サトーのいう″根も葉もない嘘八百″ だ。物語の中の男や女 と一緒になって、ワクワクドキドキする小説だ」(219p) 2012年5月8日読了
2012年05月24日
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「おそろし 三島屋変調百物語事始」宮部みゆき 角川文庫 さて、世にも怪奇な物語をひょんなことから17歳のおちかが聴き取る事に相成りました。とは言え、まだ五話でございます、これからまだまだ続くというこの話、そもそも何故おちかが怪奇話を聴くやうになったかといへば、おちか自身がとっても恐く、おそろしく目に遭ひ、或いは、恐く、おそろしい事をしたからでございます。ショックを受けて心を閉ざしがちになった姪を江戸に引き取り、元気つけようとして、主人の三島屋伊兵衛がショック療法で始めたモノなのでございます、処が、怪奇は、一回話を聴くだけでは収まらず、なかなか大変なことになって参ります、詳しくは読んで頂くとして、それでおりくは、何故か、元気になって行くのでございます。 このお話の作者の意図を、解説で縄田一男うじが、見事に書いていらっしゃいます。それを書き写して、私の簡単な話の紹介に変えさせて頂きたく思います。 戦後の高度成長期からバブル期にかけて、来世に地獄も極楽も無いと割り切ってしまった時点で、物質的豊かさに溺れ、現世に極楽を見いだすべく奔走に奔走を重ね、かえって地獄を作り出してしまった日本人そのものの姿ではないか。また書きての側からいえば、戦前はお金は無くても心があった時代であり、戦後は心は無くてもお金があった時代。そして平成の今は、心もお金もなくなった時代。宮部みゆきは、その乱離骨灰と化した日本の荒野に、人間のあるべき姿を取り戻すべく、物語を書き続けているのではあるまいか。(489p)
2012年05月23日
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「邪馬台国と纒向遺跡」奈良県立図書情報館編 2009年のシンポジウム記録であるが、去年の夏の発行。当然纒向遺跡で発見された大型建物に関して専門家の討論の記録です。 去年桜井市を旅したし、類似の本は幾らかよんだのだが、たくさん発見があり、とても興味深かった。 とりあえず、 興味深い部分を抜き書き。 (橋本輝彦) 西暦200年ごろは,今回の施設がつくられたが、260-270年ぐらい中心的な施設は、渋谷向山古墳と珠城山古墳の間に 移るだろう。纒向のひと は、農業を全くしなかった?!農耕具、水田跡かない。掘立柱形式建物は多いが、ピークを過ぎてやっと竪穴式住居が出現。ここにいたひとは、地べたに住まないひと、身分の高いひとばかり住んでいたのではないか。 朝鮮土器は、三世紀中が出土。 ベニバナは、染め物の染料に使った廃液の中にあったのだろう。三世紀中の溝から発見。日本国内に自生しないもの。ベニバナ染めは、高度な技術が必要。大陸の技術者の存在がうかがえる。今回の神殿状建物は予測されて出た。 (写真参照) (石野博信) 纒向遺跡が出来る直前、銅鐸を叩き壊すということがいろんなところで出土。纒向の人たちは、よっぽど厳しい人間ではないか。(今までの神様の否定を先ず行っている) 穴に埋めたのは、従わない村だったのでは。 卑弥呼の居館の予測(写真参照) この地域、三世紀前半から120-130年の間に26もの古墳が作られている。数が多い。もしかしたら、同時に二基づつ作られているのでは。祭司担当と政治担当のヒメ・ヒコ制だったのでは。 (シンポジウム) 辰巳 建物は石塚古墳とセットだった。 わさわさ倭人伝が卑弥呼のところで「鬼道を事とし」と記述するのは、この段階に宗教的な画期があったのだろう。鬼道は、おそらく祖先の祭りを行うことで、不老長寿、子孫繁栄、立身出世、富貴栄華というある意味で現世利益的な宗教で、それを神仙界として観察したのだろう。 石野 纒向は物流センター、最も広域のそれだったのでは。辰巳 唐古・鍵では何故だめだったかというと、銅鐸の生産や信仰を引きずっている集団とは全く違ったものとして、新しくつくらなければならなかった。 橋本 甕の地元生産は、7対3 で三割が纒向周辺の土で作られている。一定期間住み着いてはいるが、あるていどで、絶えず人間が入れ替わっていた。
2012年05月22日
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さて、ご多聞に漏れず私も金環食見に行きました。初日の出スポットの鷲羽山展望台です。瀬戸大橋をバックにいい写真が取れるのではないかと目論んだのですが、バックになっただけでした。7時過ぎに着いたら既に大分かけていた。ピークは18分くらいだったらしい。周りは少し薄暗くなり、少し肌寒くなった。ラジオでは、カラスの大合唱が始まった、と言っていた。 写真はことごとく失敗。きちんと準備しなくちゃ駄目ね。これはピークが過ぎたころに、若者から大きな専用下敷きを借りて映したもの。私が今回こだわったのは、これが卑弥呼等に始まる弥生後期のシャーマンたちの権威付けに使うことが出来たかどうか、ということである。しかし、印象としては、世が変わると云う印象はない。古代、言われなければ気がつかなかったろう。やはり、金環食ではダメで、日食で無いと、古代、インパクトある預言者にはなれなかったか。いや、それとも、此れを見越して「私がこの程度で済ませたのだ」というか。おお、それならば、有り難みがもっと増すかもしれない。 ともかくいい経験をさせてもらった。
2012年05月21日
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「書店ガール」碧野圭 PHP文芸文庫本屋が本をきれいに並べないでどうする。魚屋が魚を、八百屋が野菜を綺麗に並べるのと同じことだ。こうしてきちんと本棚に並んでいると、お客様に取ってください、とスタンバイしているようじゃないの。みんなは平台ばかり気にするが、棚の並べ方だって大事なことだ。五ミリのラインで一直線に背を見せる。しおりの紐が背の側に垂れていないように、スリップは飛び出さないように本の最終ページに深く挟み込む。そういうことに気を配ってこそ、書店員だ。手を掛けて一段一段、綺麗になっていく棚を見るのは楽しい。掌の感触で本を実感する。忙しさにかまけて手を掛けないでいると、その棚のあたりは空気が淀んでくる気がする。(42p)解説の北上次郎さんが、美味しいセリフを全部紹介したので、とりあえずこれを選びました。書店員は前にも書いたが、憧れの職業である。この本を読むと、労多くして給料少なしということはわかるが、一冊の本の持っている「力」を信じているので、その「現場」には憧れるのだ。今回は大野梢のような推理小説ではない。あえて言うと、お仕事小説だ。書店閉店の危機に反目しあっていた女達が団結するという話である。ありきたりの話ではあったが、楽しく読ませて頂いた。
2012年05月20日
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「サイン会はいかが?」創元推理文庫 大崎 好きでないと勤まらない、よくそう言われるが、好きであることさえ忘れるようなめまぐるしい毎日だ。検品、品だし、レジ、返品、発注、そこに接客業の煩わしさや、売り上げの重圧がかかり、これ以上出来ない、と切れそうになるのはたびたび。激務の割りに低賃金でもある。辞めていく人も多い。 けれど、本をかいしてのささやかな出来事は、ときにたのしく、ときに刺激的で、ときにはほろりとさせてくれる。(292p) 本屋に勤めるのが、ささやかな夢である。大変な事は、このシリーズを読むとよく分かる。それでもその夢が色あせない。けれど、しがない岡山の地方都市には、書店の求人は一切ないのである。 このシリーズを読むのは、三冊目。すっかりファンではあるが、ホントは少し物足りない。日常の推理物はすきなのだが、ちょっと謎解きが「恣意的」、つまり北村薫の云う「本格的」ではないのである。短編集の今回は、それでもテンポが好いので、それも気にならなくなる。そして、私の「物足りなさ」は、作者の意図が私の思いとずれているからではないかと、今回気が付いた。 すごい書店、すごい売り場に憧れるものの、その「すごい」とはなんだろう。頭の中にはすぐにマニアックな専門書がずらりと並んだ都会の大型書店も浮かぶし、二坪ほどの小さな書店にぎっしり詰まった書棚もかすめる。でも自分が本当にやってみたい「すごい」とは、どちらからも離れているような気がする。そればかりか、「すごくなくてもいいから」という言葉が浮かび、大きく引っ張られた。 自分が目指したいのは、すごくなくてもいいから身近な人たちが笑顔をのぞかせてくれるような棚だ。(262p) あんまり「本格的」なのも本当は良くないのかもしれない。それは、いろんな事に通じる。
2012年05月19日
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「貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告」新潮社 阿古智子湖南省で初めて農村調査を行ったときから15年が経った。あの頃と比べると、農村の所得は確実に上昇している。しかし、それにもかかわらず、農民たちの満足感、幸福感はむしろ低下しているように思える。その要因の一つは、相対的な格差の拡大にある。(略)貧困の再生産と格差の固定化を助長する根幹の原因は、戸籍制度と土地制度にある。この様な差別的制度は一刻も早く廃止すべきであろう。しかし、本書が論じてきたように、事はそう簡単ではない。(186p)こういう本を読むと、中国を社会主義国の一つに数える事にためらいが生じてしまう。13億の人口を抱える国は、彼らを食わすために、戸籍制度を外すことを考えていないのだと阿古氏は言う。要は農村に魅力がないからそうなるのだが、そうやって自由を制限する事で、失うものをどれたけ中国共産党は自覚しているのだろうか。無視出来ない隣の大人(たいじん)、の今まで見えてこなかった姿を社会学者の眼でレポートした本書は、それだけで貴重である。この若い学者のレポートをまた見たいと思った。
2012年05月18日
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『コシノ洋装店ものがたり』小篠綾子 講談社α文庫「小篠さん、電報!」 という声が柱時計の音とともに飛び込んで来ました。 それは父の危篤の知らせでした。父は列車の中で急に元気になり、一緒に行った人たちを驚かせていたのですが、調子に乗ってお酒を飲んでいるうちに急に倒れたらしいのです。 私はともかく、父と仲のよかったタバコ屋の大塚さんにそのことを知らせようと走って行きました。大塚さんの家は早朝にもかかわらず、玄関の戸が開いていました。 「おっちゃん、えらいことですねん。ちょっとこれ見て下さい」 と電報を見せようとすると、娘のみっちゃんが顔を出して、「あっ、綾ちゃん。おっちゃん迎えにきたん。おっちゃんなら今帰らはったよ」「何言うてるの。お父ちゃんは今危篤なんよ」「そんなことあらへん」と彼女は笑い出しました。「その戸、開いていたやろ。うち、今、おっちゃんを送って行ったところやもん。おっちゃんな、朝一番の列車で温泉から戻ってきたところやなんて。綾子にこんな純毛ずくめの服着せられて、楽しかったと喜んではったわ。それに別れしなに、綾子を頼みまっさ、綾子を頼みまっさと何べんも言うてはった」私は狐に包まれた思いで、国民服に酒の入った水筒を肩にかけた父が、 まだその辺りをうろうろしているような気がして探し回りましたが、出会うことはありませんでした。(160p) 朝ドラ「カーネーション」が終わってずいぶんとたった。原作本のこれは、実は二月には読み終わっていたのであるが、車の隅に隠れてしまってこれまで感想を書けないでいた。読んで驚いた。流石本人綾子さんが自ら「私を朝ドラのヒロインに」と、主張していただけはある。よくできているなあと思っていたエピソードのあれもこれも、実際にあった(或は本人が思っている)ことだったのである。一番ビックリしたのが冒頭に書き写したエピソードである。国民服もお酒の水筒も、父の幽霊も、ホントにあったのだ。と同時に、渡辺あやの見事な脚色にも唸った。 渡辺あやは微妙に原作の中味を変えている。綾子さんにとり、父親の存在がいかに大きかったか、というのは、大きく膨らませ、「Tさん」(周防さんのこと)との恋の部分は細かな設定を変えている。そもそも原作は関西弁を喋っている。私が「TVドラマ向きだ」と想像していた三女ミチコがロンドンに行ったときのエピソードはバッサリ省かれてしまった。後に綾子さんがロンドンへ十七個もの荷物を持って励ましに行ったときに、本当はミチコは気持が潰れかけていたが、素知らぬ顔で帰国したという。「このときの経験があったから頑張れた」とのちにミチコは語っている。父親に顔を殴られて「これが男の力だ」と言われたのは、実際にあったが、散髪屋のおばちゃんから「今の勘助にあんたの図太さは毒や」と云われたエピソードは、その息子のことを含めて脚本家の創作だった。Tさんをめぐる家族会議でヒロコがハッキリ「お母ちゃんは悪くない」と味方したのは事実だけど、北村は創作上の人物。 女だけれども、女しか出来ない「だんじり」を担ぎ、一家の大黒柱として生き、親の背中を見て子は育つを実践し、岸和田でいい女振りで生き抜いた一生は、この本からも十分伝わって来ました。 ちなみに、TVでの『あの場面』はこうでした。@carnation_botより。おばちゃん?(糸)ああ… そや あれ?(美)何や(糸)そうや小原さん今、温泉行ってんのに何でや? うち今、喋っちゃあったわ(美)何て?(糸)は?(美)お父ちゃん、何て言いよったん?(糸)…「糸子を、よろしゅう頼む」て(美) TVでは要らない説明は要らない。これで十分全てが通じたし、「たタバコ屋の大塚さん」という新しいキャラも出す必要がなかった。
2012年05月17日
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4月に観た作品は9作品でした。「ドライブ」監督 ニコラス・ウィンディング・レフンライアン・ゴズリング、キャリー・マリガン驚くほどの古典的な展開である。男(ライアン・ゴズリング)はおそらく兇状持ちの流れ者だ。ロスの街の片隅でひっそりと生きている。そこに少女の様な女性(キャリー・マリガン)とその息子に出会う。控えめなふれあい。親子に危機が訪れ、男も巻き込まれ、ヤクザ者を殺すために男は死地に赴く。映画には幾つも作られる「型」がある。「七人の侍」型もあれば、「シェーン」型もある。これはもちろん後者。型にはまっているからと言って、詰まらない作品ばかりじゃない。例えば「レオン」の様な傑作も作られる。日本も東映ヤクザ映画を作ったし、韓国も「ひまわり」や最近は「アジョシ」などの力作を作っている。この作品はカンヌ監督賞をとったという。作品の出来よりも、果たして今年の、そして将来記憶に残る作品になるのか、それだけが気になった。観客は公開二日目、日曜映画の日なのにガラガラだった。あとは口コミで増やすしかない。しかし、足りないモノがあり過ぎる。時代性はほとんど無い。目新しいのは、頭蓋骨が崩れる様な「暴力描写」と、男の特技が「運び屋」であることぐらい。女性の性格描写が弱い、というか理解出来ない。ほとんど何も主張せず、必要以上に長い間男の眼を見つめるだけだ。もっと女性の過去や生活描写をするべきである。相手のヤクザの暴力は酷いが、マフィアの裏金を盗むチンケな小者ではある。突然歌が流れ始める。まるで東映ヤクザ映画だ。男の名前は遂に一度も出てこなかった。なんか変に気取った映画だ。私は「記憶に残らない映画」だと思う。今日は偶然ライアン・ゴズリング主演の映画を二本立て続けに観た。時代的な記憶といえば、それだけであろう。2012年4月1日「スーパー・チューズデー~正義を売った日~」監督・製作・脚本・出演 ジョージ・クルーニー出演 ライアン・ゴズリング、フィリップ・シーモア・ホフマン民主党予備選、前半戦の山場オハイオ州選挙を描く。有力候補モリス知事をクルーニーが演じるが、映画作りでの彼の役割は、実際は主演のライアン・ゴズリングの選挙参謀の役割だ。つまり、監督・製作・共同脚本まで務めているのである。つくづく彼は筋金入りの社会派映画人なのだと思う。9.11が彼に「使命」を与えたのだろうか。「シリアナ」で中東石油利権を、「グッドナイト&グッドラック」でマスコミ赤狩りを、「マイレージ、マイライフ」で労働問題を扱い、大統領選挙の前に選挙の表と裏の顔を分かりやすく描いて見せる。それでいて、選挙に出ようという気はどうも無いらしい。ジョージ・クルーニーの出演映画を観ていれば、「アメリカの問題点」はきれいに整理出来るかもしれない(娯楽映画除く)。作品としては、選挙に勝つためはタカ派の有力議員を取り込むか(そのためには、彼は国務長官や副大統領の席を要求)、スタッフの引き抜きを巡っての心理選、マスコミ対応、女性問題トラブル等を遺漏なく盛り込んでいる。中盤まではよかったのであるが、いわゆる「正義を売る」場面を急ぎすぎたので無いかという気がする。何故彼女はあの選択をしたのか、どうして警察に知られる事なくああいう急展開が可能だったのか、私は納得出来ない。クルーニーさん、何処かで完成の為の「妥協」をしませんでした?2012年4月1日「白夜行」ソン・イェジン、コ・ス邦画を韓国でリメイクすると、傑作になった例を知っている(「ラブレター」?「パイラン」)ので、それなりに期待したのだが、結局邦画も韓国版も原作を超えられない、という例になってしまった。ソン・イェジンは24歳の設定にしては、肌が荒れすぎていて残念な所もあるが、流石に最もヒロインらしかった。濡れ場もこなし、繊細な表情も見事に演じ分けていた。コ・スは殺人を重ねているという顔をしていない。しかし、白夜を行く彼らの歴史と悲しみはやはり映画の枠では無理があるようだ「アーティスト」監督 ミシェル・アザナヴィシウス出演 ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョベタベタなロマンチック・ラブストーリーです。予告編にほとんど全てのストーリーが入っています。(すみません、ネタバレしました)何故サイレントが素晴らしいのか、果たしてこの映画で伝わるのだろうか。サイレントと云えども、字幕で基本的なセリフは知ることが出来る。観なければならないのは、セリフとセリフの間の言葉にならない心理なのである。ジョージが恋に落ちて行く様は、良くで来ていた。しかし、例えばこの前観た「結婚哲学」(1929)程に出演者は目でものを言わない。効果音や、映像効果、そして犬のアギーに大きく助けられてしまった。これがアカデミー賞五部門も獲る程の傑作なのか、私は大いに疑問だ。アギーは素晴らしい。犬に助演賞を渡すべきだった。サイレント映画のリスペクト作品としては、まあ楽しめた。音楽も素晴らしい。2012年4月12日「僕達急行 A列車で行こう」「僕たちにしか分からない世界があるさ」鉄道おたくの話である。(彼らは「マニア」と自称している)たまたま知り合った二人は、「車窓を見ながら音楽を聴く」派と「車両設備に関心がある」派とわかれているが、共通の趣味で実に「男らしい自然な」友達になる。恋と仕事と趣味が絡み合う淡々とした話だったけれど、とっても良かった。趣味が高じると、女性と上手く付き合えない、というのは、とっても共感する。趣味の中で「映画」は、多分女性との関係で言えば一番ハードルが低いと思うが、それでも調子に乗って語り出したことで、失敗したことが多くあった(遠い目)。セリフ回しが特別である。「…だわ」とか「…です」とか、小津映画の様に品行方正な人たちがきちんと演技している。それが独特な世界を作っている。コメディなんだけど、再見に耐える作品になっていると思う。故森田芳光監督の意図は成功している。「バトル・シップ」監督出演エイリアンが来ました。たまたま、日米含む合同演習をしていました。バリアに遮蔽され、日米の戦艦三隻が取り残されました。戦って勝ちました。とまあ、そんな単純な話になっていると思う。しかし、ホントはそんな単純な話では無いはずである。ついに彼らの本当の目的はわからなかった。彼らは機械を使って攻撃可能な相手には「破壊」を判断しているようだが、武器を持っていなかったり、相手の瞳を見て敵意が無ければ決して攻撃しようとしなかった。彼らは多分先発隊であって、通信手段を妨害したとしても、基本的にはやってくるだろう。エイリアンとの「交渉」はこれからなのである。勲章を貰って、嬉しがっている場合じゃない。スピーディーな展開、軍人らしい浅野忠信等、面白かった。まあ、それだけかな。2012年4月19日「ジョン・カーター」監督 アンドリュー・スタントン出演 テイラー・キッチュ、リン・コリンズ、 話の筋から言うと、現代の火星の姿を考えると、少なくとも人間が生きていける空気が無いから、カーターの「バルスーム」を救うという試みは失敗したのだと考えていいのだろうか。それとも大逆転があったのだろうか(地下に帝国を作っているとか)。とまあ、そんな事を想像させる荒唐無稽を絵に描いたよう(映画に描いたよう)な作品です。原作が100年前に書かれたモノ(エドガー・ライス・バローズ「火星のプリンセス」)だから、ある意味当然なのかもしれない。 よくまとめていると思う。突っ込み処は当然だとさえ割り切れば、まるで10巻のファンタジーSFを読み終えた様な気がします。 テイラー・キッチュは「バトルシップ」に続く大作主演作。マッチョな肉体に甘いマスク、しかし、大味。これからどうなるか。 2012年4月26日「ももへの手紙」原案・脚本・監督 沖浦啓之出演 加山加恋、優香、西田敏行 お父さんを事故でなくした母娘が三原から汐島行のフェリーに乗っていた。母親の故郷で暮らすためである。その時に妖怪三匹が母娘に何故かくっついて来た。ももには、その三匹が何故か見えるようになり…。 瀬戸内の島の風景とはまさにこの通り。あそこでも見た、此処でも見た、という様な景色がいっぱいだった。港や狭い路地、高台からの風景、何でもある雑貨屋、等々。きちんと取材していると思う。(実際の主なロケ地はしまなみ海道の下島や竹原の街並らしい) しかしながら、少し恣意的な脚本だったと思う。驚きはない。例えば気になったのは、ももは嵐の橋を渡った後どうしたのかなということ。ラストの盛り上がりを作る為のとってつけたエピソードでは無かっただろうか。 それなりに泣かせはする。少年少女の為のジュブナイルという感じだった。 2012年4月26日「ピナ・バウシュ 夢の教室」監督 アン・リンセルビナ・バウシュ、ベネディクト・ビリエ、ダンスの経験の無いティーンエイジャー達が、世界的な舞踏家ピナ・バウシュの指導の元、彼女の代表作「コンタクトホーフ」の舞台を作る。毎週土曜日、10ヶ月の特訓の成果は如何に。ピナは「感情を開放しなさい」という。若者たちは、ピュアに応える。踊りの意味はおそらく最後の最後になって、彼ら自身が掴んていくものた、という教え方みたいだ。映画を見ている私には、どういうストーリーなのか、ついに最後までちんぷんかんぷんだったけど、彼ら彼女達の踊りは、確かに次第と色が着いて行ったという感じだった。それでも、若者の「変化」がもっと劇的に現れるのかと期待していたのであるが、よくわからなかった。彼らは一様に「人見知りがなくなった」「積極的になった」と、発言しているのであるが、映像できちんと見せて欲しかった。若者たちの掘り下げ方が少し弱いかも。(←期待し過ぎていたか)2010年 独作品シネマ・クレール2012年4月23日
2012年05月16日
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3月8作品観ました。「トワイライトサーガ ブレイキング・ゾーン」エドワードとベラはごく普通の出会いをし、熱烈な恋をし、ごく普通に学生結婚をして、ごく普通にハネムーンベイビーに恵まれました。ただ一つ違っていたのは、ご主人はヴァンパイアだったのです。 前半はくどいくらいにごく普通のハネムーンシーンが描かれる(失恋したジェイコブが外に飛び出て数日カナダの山奥を飛び回ったというエピソードはまあ、ご愛嬌)。 要は、普通のヴァンパイアモノにはない「恋愛沙汰」がこの作品のウリで、シリーズものだから、仕方なく観てしまっている(←その割には、公開週に観てまっせ)。 ベラと赤ちゃんの命は次の完結編を待て、という風には終わらなかったところが、まあ、良心的。でも、完結編はもうちょっと「壮大に」終わって欲しいな。 「戦火の馬」ジョーイ、或いはフランソワは見た、戦争を。戦場の残酷さ、あっけなく斃れていく人間、戦争の名の下に行われる非人道的なこと、兄弟愛や敵味方通しの友情、信じるに足るモノ。人間を主人公にしない時のスピルバーグは安心して見ていられる。しかし、今回あまりインパクトは無かった。あまりにも予定調和。せめて、終わり方をもっと壮大なものにしてくれたら、高得点になったのだが。「メランコリア」監督 ラース・フォン・トリアー出演 キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、キーファー・サザーランド 所謂、地球滅亡モノである。宗教色、SF色は全く無い。社会パニックモノでも無い。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でヒロインが神に語りかけていた意味は、此処では既に心の中の語られない部分に仕舞われている。 ともかく、美しい。こんなにも美しい地球最後の日を世界は未だ観たことが無かっただろう。最初から最後まで映像を包み込むワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」、人間の小さな営みを無力化するかの様な壮大で、甘美で、厳粛な音楽。ドロドロとした人間社会の縮図(結婚式)を見せる第一部と、精神に変調をきたしていたジャスティンが何故か平静に戻って行きラストを迎える第二部の中に、多分監督の見せたいモノがあったのだろうか。しかし、私はこの「美しさ」に取り込まれてはいけない、と自戒する。 ジャスティン役のキルスティン・ダンストはこれでカンヌ主演女優賞を採ったという。輝ける花嫁、精神不安定な女、老婆の様な疲れた顔、ヴィーナスの様なハッとする様な裸身、様々な表情を観せて、流石トリアー監督といえるだろう。 シネマクレール2012年3月12日「ヒューゴの不思議な発明」監督 マーティン・スコセッシ出演 ベン・キングズレー、サシャ・ハロン・コーエン、エイサ・バターフィールド、クロエ・グレース・モレッツ、ジュード・ロウ 夢は実現出来る。だって、そこは文字通り「夢工場」だから。 そして、 世界はまるで機械のようだ。部品の一つ一つに要らないモノなんてない。人間もきっと何かの目的があるはずなんだ。…という様なテーマもあるかもしれないが、それを1930年代のパリの駅舎に限定して、限られた世界から限られた時代の目で、しかも少年の目で、時間と空間を、冒険と出会いの末に掴み取る。 とっても素敵な映画が作られた。 そして、1900年代に作られたジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」を始めとする豊かなイマジネーションの「映画」の数々。あの夢工場は本当に素晴らしい。 子役も良い。ヒューゴを演じたエイサー・バターフィールドは純粋で知的な「少年」の理想像をそのまま体現した。クロエ・グレース・モレッツもお姉さん役をきちんと受けていたと思う。 トーホーシネマズ2012年3月14日「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」監督 ガイ・リッチー出演 ロバート・ダウニー・Jr.、ジュード・ロウ、ジャレッド・ハリスホームズは今回も、戦って、変装して、ヨーロッパの危機的状況を救おうとする。原作とはあまりにも大きく離れない程度に息もつかせない冒険活劇になっていて、適当に「ほとんど瞬間的な推理」も楽しめて春休み映画として合格でしょう。私的には、アイリーンが峰不二子みたいなキャラで好きだったのであるが、冒頭で潔く退場、今回のヒロインはパンチ不足だったと思う。ホームズのお兄ちゃんは良かった。遂にモリアーティ教授が全面的に登場。色々な悪役は居るけど、彼は全く「正当な」悪役であることがよく分かった。ホームズの決着の付け方も有り得るやり方で私の想像以上だったと思う。次回がもしあるとすれば、ホームズがこの様に「歪んだ」ルーツに関わることだと、私は「推理」するのであるが…。Movix 倉敷2012年3月20日「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」監督 フィリダ・ロイド出演 メリル・ストリープ、ジム・ブロードベント、アレキサンドラ・ローチ、ハリー・ロイド、オリヴィア・コールマン冒頭、メリル・ストリープとは思えない老女性が駅前の売店で牛乳を買う。アパートに戻り、夫と朝食を共にしながら牛乳が49シリングもした、高くなったと嘆く。鉄の首相も晩年はこんな庶民の生活を送っていたのかと思わせたところで、お付きの秘書が外に出ていた、と大騒ぎしている場面と、実は夫は幻影だったという場面で、この映画のテーマがさりげなく映し出される。作品は編年体では描かれず、何度も老女のサッチャーに戻って行く。女性の自立して、政治家になっていく姿と、夫との生活が並行して描かれる。英国人には良くわかる話だったかもしれないが、日本人の私には、ついに彼女の政治信条のよって立つところの「核」はわからなかった。私には、英国病を克服した首相というよりも、アメリカについで新自由主義の先鞭を付けた首相というイメージしかなかったのであるが、ついには、「新しい発見」はなかった。残念である。メリル・ストリープは流石である、と言っていいだろう。役になり切り、しかも彼女は彼女でしかない、という女優はこの時代に数えるぐらいしかいない。サッチャーが勇退した90年代の初め、初めて海外旅行をしたのが、英国とフランスだった。ロンドン郊外の家が200万円ほどで売りに出されていて、そうはいっても、日本程最低限の生活をするには金が掛からないことを実感する一方で、弱肉強食の民営化がどんどん進んで何かが崩れていく様も見えていた。「日本の常識は、世界の常識ではない」僅かな観光旅行で、そのことだけは持って帰ったと思う。今、ロンドンはどうなっているのであろう。筋の入った牛肉と、ジャガイモ、ミルクティー、甘すぎる山の様なお菓子、終わらない霧の世界、これらは変わらないかもしれないが、金の動きは何処までアメリカナイズされて居るか。それでもまだまだ日本程、アメリカナイズはされていないだろう。という様なことを思い出しただけの作品だった。Movix 倉敷2012年3月20日「無言歌」監督 王兵(ワン・ビン)出演 ルウ・イエ、リェン・レンジュン、シュー・ツェンツー 1956年 毛沢東は自由な批判を歓迎するといった。(百花総鳴) 1957年 彼らの弾圧が始まる。(反右派闘争) 1960年 この映画の舞台、ゴビ砂漠の収容所での彼らは三分の一がしにかけていた。農場とはとても思えない、砂漠と風と寒さ、そして餓え。一日250gの穀物。人々は草を食み、鼠をドロドロに煮て、餓えを凌ぐ。いや、しのげないで、吐いた僅かな食べもやを他の人間が啜る。眼や耳を覆いたい映像が続く。 原作の他に生存者の証言も元に作られたという。未だに中国本土の上映は叶わない。おそらく、ずっと叶わないだろう(なにしろ「大地の子」でさえ、まだ叶わないのだ)。 ほとんどドキュメンタリーの様に進んでいくが、愛する夫を尋ねて来た妻が7日前に死んだことを知り、亡骸を捜すエピソードに一番の時間を取る。無くなりかけた人間性を思い出させた話だったからだろう。 夫婦の情愛、友情、師弟愛。僅かにそれ等も映し出す。エンドロールの歌は、逃亡途中で力尽きた知識人が歌っていたのだろう。昔の知識人が左遷の中で家族を慕う歌である。最初は弱々しく、最後は情感持って歌い上げて、暗転した。 シネマクレール2012年3月26日「サラの鍵」監督 ジル・パケ=ブレネール出演 クリスティン・スコット・トーマス、メリュジーヌ・マヤンス、エイダン・クイン ユダヤ人をアウシュビッツに送ったのは、ドイツだけではなかった。1942年7月、パリの街中でユダヤ人一斉検挙が起こる。7万6千人ものユダヤ人が強制収容所に送られた。1995年、シラク大統領が初めてその事を明らかにした。 過去と現在を交互に描きながら、フランス人監督は、単なるアウシュビッツものにしないで、「我々だったら何が出来たのか」と問いかける。 反対に云えば、60年経ってもフランス人がアウシュビッツ問題に向かうには、ココまでのドラマ性を設定しないと、ダメだ、ということなのだろう。「あなたたちがいなくなれば、せいせいするわ」と侮蔑するアパートのおばさんのすぐ下の男性は「なにを言うんだ、次は我々だぞ」と叫ばす。フランス警察の容赦無いユダヤ狩りを描く一方で、子供達を助け出す若いフランス警察人も描く。 現代の女性記者ジュリアにも、高齢出産(45歳)で中絶するか否かの選択が迫る。サラの両親もサラたちを助ける事の出来ない「傷」があり、サラを助けた老夫婦も、もう一人の少女を助けれなかった「傷」があり、サラ自身も「サラの鍵」を巡る消え様も無い「傷」があった。ここの登場人物はみんな「後悔」?、或いは「悲しみ」を背負って生きている。 だからこそ、何となく前向きで終われたラストが清々しいのだろう。 シネマクレール2012年3月26日
2012年05月15日
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今日は、1839年5月14日。蛮社の獄。渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日らしい。そして、1878年同日、大久保利通が暗殺された。其の間、たった39年。日本はこの間に目覚め、大転回した。それに比べ、今の日本は…。『蛮社の獄』より一年前、高野長英は『夢物語』を著わしている。『夢物語』は、日本漂流民を乗せて渡来したアメリカ船モリソン号をめぐる幕府の対外政策を批判した長英の著作である。 長英は、イギリスの国力について具体的なデータをあげて説明し、同国の勢力が日本近海の島々におよんでいる事実をあきらかにする。そして、モリソン号が漂流民の送還を口実に人道の名をかかげて渡来した場合、これに打払いをもってのぞんだら、イギリスは日本を「不仁の国」とみなすであろう、と打払いに反対し、モリソン号の入港を認め、漂流民をうけとった上で、交易の要求は拒絶すべきであると主張する。中味を見ると、とこから仕入れたのか、というぐらい詳しく世界情勢を語っている。その四年後のアヘン戦争の結果もほとんど予想しているといっていい。長英や崋山の書いた本は密かに書かれたものではあるが、その内容は直接、あるいは口伝えに当時の知識人の間に広まっていった。1854年黒船来航。そのときには既に『日本をアヘン戦争の二の舞にさせてはならない」というのは、知識人の間では一種の『テーゼ』になっていた。外交をどうするか。この腐りきった内政をどうするか。その二つの課題の間で、わずか10数年の間に『攘夷』『開国』『尊王』『佐幕』『公武合体』『薩長同盟』『大政奉還』『王政復古』『版籍奉還』ほとんど綱渡りのように、二転三転しながら、しかし「内戦だけは避ける」それだけを何とか実現しながら『上からの革命』を果たして行った。勉強不足でその詳しい紹介や評価はできないが、この中心人物たちで財産家と言っていいのは徳川慶喜並びに水戸、高知、薩摩、長州、越前たちの諸大名ぐらいなものであり、その彼らが自らの利益を守るためにみっともない行動をしたようにはとても思えない。純粋に日本のためを思って動いていたわけではないだろうが、しかし大事なところでは私心を捨てていたと思う。幕末が蛮社の獄より始まり、西南戦争を経て大久保利通のテロで終わったと考えるならばその間、たったの39年。翻って、今よりも39年前は1973年である。ついこの間だ。手元に年表がないのでいい加減なことを書くけど、一年前には浅間山荘事件があり、新左翼の運動は怖いものだという空気が急速に広がっていった。学生の白け世代が生まれるのがこのころである。一方70年代に革新自治体が次々に生まれていたが、それが革新勢力の最後のあだ花になった。反共宣伝が功を奏し、国労、自治労、そして総評が次々と分裂か解体させられ、革新自治体は次々と敗北、80年代バブルが始まり、ベルリンの壁崩壊、場フルがはじけるが、内政の腐敗いよいよきわまり、外交はいよいよ対米従属を強め、何も出来ないままに21世紀を迎え、今に至る。為政者はいうなれば財界とアメリカの言うなりである。明治維新用語で言えば商人と米英仏の言いなりになっている。為政者たちは私心だらけのように思える。この39年間、「御一新」の起きる気配さえ見ることが出来ない。
2012年05月14日
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「楊令伝11」北方謙三 集英社文庫「退け。退き鉦」初めて岳飛はそう言った。しかし、遅い。「珪」の旗が、すぐそばにあった。それからどうしたか、わからない。駆けに駆けた。追撃が熄んだ時、一万騎は七千に減っていた。そのまま隆徳府の軍営に駆け込んだ。馬を降り、顔をあげて営舎に入り、ひとりになると膝を折った。床に額を叩きつけた。流れた血が、視界を塞ぐ。(略)「会議を開く。敗因について、俺が説明する」「そこまでしなくても」「いや、俺の誤りで負けた場合は、それは説明すべきだ」徐史は、迷っているようだった。岳飛は、大声で従者を呼んだ。隆徳府の軍営にいた将校は、全員集められた。岳飛は出動し、斥候を出したところから説明を始めた。壁に大きな紙を貼り、両軍の動きを、筆で書き込んでいった。質問は、幾つか出た。その時、その時の心の動きまで、岳飛はできうる限り説明した。そうしながら、負けるのは当然だった、とまた思った。蕭珪材の動きには、気負いというものがまったくない。自然体で、ただ前に出てきている。だから、どうにでも動ける余裕があったのだ。勝つためにどうすべきだったのか、ということも話した。岳飛が話している間、軻輔はただ腕を組んで、黙って聞いていた。(208p)十一巻目に至り、かすりもしなかった岳飛の実力は、少しだけ楊令軍に近づく。しかし、あと四巻しか無いのだ。これがどうやって、楊令伝から岳飛伝に移ることが出来るというのだろうか。これからの展開が、岳飛に限っていえば、全く読めない。楊令の国造りは、とりあえず順調だ。経済的基盤は何とか出来た。あと、何が必要なのか。
2012年05月13日
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「黒龍の柩(下)」北方謙三 毎日新聞社見果てぬ夢。この夢は、美し過ぎたのか。だから、薩摩も長州も、それを認めることができなかったこではないか。京で、攘夷派の志士を倒し続けた自分に、美し過ぎる夢はふさわしかったのか。(362p)あるいは、こんな会話があった。「私は聞いたことがあります。この国にも、外国にも、民の血さえ見ること無く、権力の移譲がなされた歴史は無いと。いつか誰かが、それをたたえるはずです」「江戸と京だけは、戦火で焼いてはならん。それをやれば外国の介入がある。そう信じた自分を、私は否定する気はない。いまも、正しかったと信じている。しかし、夢もまた、正しいと信じて私が抱いたものであった」「薩長が、小さ過ぎました。自分たちが安心する国を作りたい。民ではなく、自分たちがと考えたのだろうと思います」「土方、私は生きられるかぎり生きて、この国の行末を見つめていこうと思う。願わくは、平和な国として大きくなってほしいと思う。薩長さえも、恨むまいぞ、土方」「はい」(320p)一方は土方歳三、一方は徳川慶喜である。北海道を独立国にする。「カムイ伝」でも、「男一匹ガキ大将」でも語られた「男の夢」が此処でも語られ、そして閉じられた。此処での夢の語られ方が私は一番好きだ。非戦の夢。しかし、それは決して夢物語じゃないと、私は思う。むしろ、弥生時代の国譲りから始まって、我々の伝統でもある。日本はかつて内戦でも戦争でも、一族郎党を殺し尽くす戦いをしたことは、殆んどない(例外は信長と南京、重慶だけだ)。だから、彼らの夢は正しい。あり得たかもしれない夢を描いただけなのである。土方歳三という、歴史の中では全く傍系の人物を通して、夢を描く。その手法は、やがて「水滸伝」「楊令伝」、そしておそらく「岳飛伝」に繋がって行く。
2012年05月12日
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今日5月11日は土方歳三の命日です。歳三忌とかいうような名前は付けられていないようですが、それを記念してということでもないのですが、この前読んだ土方歳三を主人公にした小説を紹介。「黒龍の柩(上)」北方謙三 毎日新聞社滅びるまで、生きる。生ききったという思いの中で、滅びる。それが男ではないか。なんとなく、そんなことを歳三は考え続けた。(352p)この前書評を書いた「草莽枯れ行く」の脱稿7年後、大作「水滸伝」連載開始前後にこの作品が出来上がっている。しかも、「草莽枯れ行く」と、相楽総三と清水次郎長以外は登場人物がかぶるのである。(2人は同作の主人公なので登場させないようにしたのだろう)だから、これも明確な日本版「水滸伝」なのである。新撰組、特に土方歳三という二癖三癖ある人物を中心に、今のところ山南敬介、近藤勇、沖田総司、勝海舟、坂本龍馬などが登場して幾人かは物語の途中で退場して行く。最後に「生ききって」退場するのが、土方歳三という仕掛けなのに、違いない。前巻では、その最後の前に一つの「夢」があったということを匂わせている。そこに「林蔵の貌」で語られたあの「構想」が述べられる。裏の幕末モノといってよい。もしかしたら、他の作品もリンクしているかもしれない。多分「水滸伝」を前にこの作品で幕末モノの集大成を図った感がある。と、いうわけで、期待して下巻へ。
2012年05月11日
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It's time to spread our wing's and fly,Don't let another day go by my love,It'll be just like starting over - starting over,羽を伸ばして飛び立つときだこれ以上無駄な日々を送るのはよそうそれは、ちょうどやり直すことのようだろう(by Starting Over Written by John Lennon )今日でこの『再出発日記』もまる七周年を迎えました。この前、アーサー・ビナードさんにサイン本をもらったとき、『再出発日記さま』と書いてもらったのですが、その下にすらすらとその英訳も載せてくれていたのです。「To Diary Starting Over」そのときは直訳かな、と思っていたのですが、あとでabiabiさんから教えていただきました。『スターティングオーバーって、ジョンレノンじゃないですか!』知りませんでした。そういえば、ここを書くとき彼は『再出発って、やり直し、って意味があるんだよね』と呟いていました。何を当たり前のことを言うんだろ、と思っていたのですが、ビナードさんは私の為に特別に英訳してくれていたのです。今だから分るのですが、ビナードさんはあのときジョン・レノンを想定しながら、私のブログ名をまるで詩のように英訳してくれていたのです。ちなみに辞書で調べると再出発はrestart、fresh startでした。これからは、わが『再出発日記』の公式英訳は「 Diary Starting Over」にしたいと思います。(と、言って何が変わるということはありませんが^_^;)何が『再出発』なのか。秘密です(^_^;)。私は自分をさらけ出すタイプのブログではなくて、あくまでも『論評・記録』タイプのブログだと思っているので。7年前の今日、もそうだったのですが、この7年間になんと何度も何度も再出発をするなど、あの時は思いしませんでした。そして、今もStarting Overしているのです。ちなみに、今日までのアクセス記録です。私には身に過ぎた支持(?)を頂いていると思います。こういうのがあるからたぶん7年間も続いたのだと思います。本当に、ありがとうございます!!!これからもよろしくお願いします。ブログ名:再出発日記.総アクセス数:1373245 アクセス(平均 537 アクセス/日).開設日数:2558日(開設日:2005/05/10).日記記入率:72.8%.アクセス記録5/10 281 5/9 427 5/8 383 5/7 369 5/6 372 5/5 362 5/4 372
2012年05月10日
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2月に観た映画は合計8本でした。「ベントハウス」ベン・ステイラー、エディ・マーフィー、高級ホテル並のサービスを行うマンハッタンの高級マンションの理事で、ウォール街の大物アーサーが詐欺罪で捕まった。マンションの従業員の年金は彼によって運営されていた。アーサーの隠し金を狙って、マンションのマネージャー達が立ち上がる。ベン・ステイラーがなんと終始知的で渋めの役をしていた。エディ・マーフィーがあんまり彼らしい役をしていなくて、どうかな、と思う。オキュパィ運動の気分が色濃く出た作品。「ドラゴンタトゥーの女」監督デヴィッド・フィンチャー出演 ルーニー・マーラ 、ダニエル・クレイグオリジナルは未見。少しテンポに追いつけなかった。ちょっと勘違いしていて、ヴァンゲル一族の中に「リスベット」の名前もあった様な気がして、引きづってしまった。それでも、一風変わったサスペンスとして、充分楽しめた。そうか、これが第一作なんだ。実は第二作のみオリジナルを観ている変わりモノの私です。リスベット役のルーニー・マーラが「ソーシャル・ネットワーク」でザッカーバーグを振る彼女だったことにビックリ。あの映画で私的には見所はあそこだけだった(これも変な見方)だけに何気に嬉しい。ビックリする様な能力と、孤独な精神を上手く同居させていたと思う。 『永遠の僕たち』監督 ガス・ヴァン・サント出演ヘンリー・ホッパー、ミア・ワシコウスカ、加瀬亮交通事故で両親を失い、臨死体験ののち特攻隊員の幽霊と話ができる様になった少年イーノック、脳腫瘍で余命三ヶ月と告げられている少女アナベル。ボーイ・ミーツ・ガール、そして余命モノ、それでも少しもダレる事がない。少年少女の初めての恋をこんなにもみずみずしく描かれている事に、改めて映画の可能性を感じた。二人の水鳥が啄む様なキスが可愛い。「アリス・イン・ワンダーランド」のミア・ワシコウスカがとってもいい。女性って、ホント年齢不詳だ。加瀬亮は頑張っていたけど、彼が絶対居ないとダメな作品じゃない。と、思うのは多分皮相的な見方なんだろうな。彼の存在があるから、二人は死を受け入れたのかもしれない。だとすれば、映画的には幽霊だけど、「限られた時間」を生きる事は、別の事で見出すべきだと云うメッセージなのかもしれない。『運命の子』監督 チェン・カイコー出演 グォ・ヨウ、ワン・シュエチー、ファン・ビンビン、チャン・フォンイーチェン・カイコー(陳凱歌)の久しぶりの歴史モノ。しかし「始皇帝暗殺」の様な圧倒的な迫力は既に無く、どちらかと言うと「北京ヴァイオリン」の様な父子の葛藤を描いたものであった。基は司馬遷「史記」の春秋時代に起きた「趙氏孤児」。ここから監督はおそらく二つの映画的インスピレーションを得たと思われる。一つは、100人の赤ん坊と自分の赤ん坊の命を秤にかけてどちらを選ぶか。一つは、復讐の為に育てた子どもは、復讐の為に使えるか。これにもう一つの要素が加わる。復讐の相手も子ども(趙氏の遺児)をそうとは知らず溺愛していて、子どもも相手を父上、育ての親を父さんと呼んでいる。この三角関係にどう決着を付けるか。決着の付け方は、偶然の要素が強く、もちろん普遍的なモノではない。監督の父子モノへの拘りは、いったい何があったのか、そちらの方が今回何故か気になって来た。「活きる」以降久しぶりにみたグォ・ヨウはやっぱり庶民の様が良く似合う。ファン・ビンビンを「孫文の義士団」、「マイウェイ」と立て続けに観た。どちらも役になり切っていて、正統美人女優として頭の中に入りました。「ウィンターズ・ボーン」監督 デブラ・グラニック出演 ジェニファー・ローレンス、ジョン・ホークス、ディル・ディッキー「フローズン・リバー」の様な、アメリカの隠れた貧困、ヒリヒリする様なサスペンスを期待していたのだが、肩すかし。サスペンスの中心はよくわからないアメリカ中西部ミズリー州の特殊な犯罪に集約されて、貧困をあぶり出すというところまで行っていない。少女が自力で希望を勝ち取るわけでは無く、おそらく叔父の作戦勝ちだったのかもしれないが、映画的には弱い。ジェニファー・ローレンスは体当たり演技だった。彼女はミスティーク役よりは、「あの日、欲望の大地で」での演技の方がすごかった。まだ二十歳になって居ないと思う。ちょっと楽しみな女優だ。「ものすごくうるさくて ありえないほど近い」監督 スティーブン・ダルトリー出演 トーマス・ホーン、トム・ハンクス、サンドラ・ブロック、ジェフリー・ライト、マックス・フォン・シドー突然の愛する人との別れ。喪失感を、息子は克服しなければならない。自分の力で。アスベルガー症候群"未確定"の少年が様々な人と出会い、周りの愛情に気が付き、そして見事に"大人"になる。こんな映画が大震災の後の日本に出来てもいい。「タイム」監督 アンドリュー・ニコル出演 ジャスティン・ティンバーレイクアマンダ・セイフライド少数の人間を不死にする為に大多数の人間を殺すことを選んだ社会。オキュパイ(ウォール街占拠)運動がアメリカ中を席巻した2011年にこういう映画を作るハリウッドの底力ただし、矛盾を解決する方法が集中した富を全体にばら撒くというのは、やはりハリウッドの限界だろう。謎はふたつ残った。ウィルの父親は、バトルで死んだのでは無い、と言った時間監視局の言葉の意味は?この世界は、何故、どうやって作ったのか。仕組みがわかれば、それを変える方法も分かる。テーマとは別に、スタイリッシュなギャング映画として成功していると思う。「善き人」監督 ヴィセンテ・アモリン出演 ヴィゴ・モーテンセン、ジェイソン・アイザック、ジョディ・ウィッテカージョン・ハルダーは平凡な文学部教授である。1934年、学部長からプルーストの授業を辞める様に云われた時まだ「彼がフランス人だからですか」という文句を謂う元気はあった。ジョン・ハルダーは優しい家庭人である。認知症が進む母親の介護を出来るだけみようとし、子供への食事も作ってやる。教え子との不倫に陥った時も、家族とは円満に別れている。ジョン・ハルダーは普通のドイツ人である。第一次世界大戦に従軍、1937年段階でもまだぎこちない「ハイルヒトラー」しか出来ない。軍友でユダヤ人のモーリスとの友情は、たまたまヒトラーに小説が気に入られて昇進した後も切らさない。しかし、積極的に何かをするということはしない。そんな男が最後にユダヤ人捕虜収容所でみたもの。ドイツの軍服を着てふらふらと歩き出す。途中、誰にというわけで無く、「なぜ」というジェスチャーをする。何かを見る。これは彼の幻想なのか、と我々にも思わせる。「現実か…」ジョン・ハルダーは呟く。まるで波の様に「現実」が彼に押し寄せていた。アーリア人ということで安全圏内にいた彼は、何も、いや何かしようとしたが、何もしなかった。そのことの意味を、しっかりと描いてこの映画は終わる。英国・独逸合作。C.P.テイラーの劇の映画化らしい。信念や友情か、自らの命か、を問うテーマだけで無く、アーリア人の普通の生活を描くことで、ドイツファシズムの中の普通の人々の「罪」を問う作品になっていると思う。ここ数年、やっとそういう作品が出回りだした。日本の映画界も作るべき映画がありはしないか。シネマ・クレール2012年2月27日
2012年05月09日
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「マジック?ツリーハウス」フリーパス10作目。何故か舞台がアメリカなのかと思えば、原作がアメリカ作家なのね。子供たちは「ああ、面白かった」という感想は持っていたようだが、そのまま忘れてしまってもいいような出来。映像的にビックリ、物語的にビックリがいまひとつ無い。アニーが突然モーガンさんを助けようと言い出す。一番大事な所が余りにも突然。「ニューイヤーズ?イブ」フリーパスポート11作目。渋めのスターを贅沢に使ったハリウッド得意の大空港形式作品。シネコンで余り宣伝していなくて、ハリウッドで、しかもオスカー俳優が二人以上出演するなら、その作品は「買い」です。何を置いても見るべきです。これは大傑作とまでは行かないけど、十分佳作以上です。ハル?ベリーが最初冴えなくて彼女じゃないよなあ、と思っていたら最後で見事に彼女だと分かりました。デニーロもヒラリー?スワンクのオスカー俳優も見事だったけど、ミシェル?ファイヤーの変身ぶりは流石でした。アブゲイルちゃんは初めてのKissシーンじゃなかったのかな。ニューヨークタイムズスクエア通りのカウントダウンは知っていたけど、ボール?ドロップのことは知りませんでした。有る様で無かった大晦日映画、これからの大晦日の定番になりそうですね。『フライトナイト/恐怖の夜』 「ああ、面白かった。ああ、怖かった」という感想で終わらすことの出来た作品でした。 フリーパスポート10作目。 ヴァンパイア映画は、アメリカの一部若者は 所謂オタク的な知識を持っている人が多いらしく、ヴァンパイア対策はバッチリの若者が出て来る。それに対してヴァンパイアは「招き入れない限りは入って来れない←それならガス爆発で家ごと無くそう」「杭打ちも正確に心臓を狙わないと死なない」「十字架が有効なのは、信仰心を持ってかざす時」などと対抗している所が楽しい。 中盤は、来るぞ来るぞと思いながらなかなか来ないので中弛みした。でも、途中でヴァンパイアオタク映画となったので楽しめた。 久しぶりのコリン・ファレルが楽しみながら演っている。主人公の恋人エイミーがとっても色っぽくて、案外素敵なんですよ。ヴァンパイア映画特有のエロスもきちんと押さえていました。(監督クレイグ・ギレスピー、出演アントン・イェルチン)「聯合艦隊司令長官 山本五十六」 フリーパスポート11作目。監督 成島出 出演 役所広司、玉木宏、柄本明、柳葉敏郎 冒頭、昭和14年、 大手新聞社主幹の香山照之と山本五十六の役所広司との議論(インタビュー)がある。役所「もし 三国同盟がなれば、アメリカが出て来る。アメリカの国力を知っていますか」香川「(正確に数字を並べながら) 日本の10倍あります。けれども、日露戦争もそうだった。」役所「国の抱えている事情が違う。今度は総力戦でアメリカはやって来る」香川「日本は追いつめられている」役所「要は外交です。戦争をさせない様にする。それが軍隊の役目です」香川「外交の最終手段が戦争です。世論の声が聞こえないのか」役所「世論を煽っているのが、貴方たちでしょう」香川「私たちは世論の声を代弁しているだけです」 かなり要約したが、そんな内容だったと思う。それがそのまま現代に対する「警告」になっている。「バスが暴走を始めた」という台詞もあった。 冬の戦争映画らしい、静かに冷静な作品でした「ヒミズ」フリーパスポート12作目。園田温監督の作品は初めて観た。荒っぽく作られたドラマのように見える。絵に描いたようなクズ人間が次々と現れては、暴力を繰り返す。しかし、思いもかけず感動した。それは何故か。この作品は今までの作品とは違うらしい。初めて「希望」を描いているらしい。此処に描かれているのが「希望」かどうかはわからない。むしろ震災の瓦礫の風景が延々と映される様に、現代のどうしようもない「絶望」「不条理」「悪意」がほとんどを覆っている。主人公の2人の中学生(3年生?)も、震災の前から「絶望」「不条理」「悪意」に襲われている。ただ、彼らの前には「未来」がある。それは周りの幾人かの大人たちも2人に伝えているし、2人も酷い環境にも関わらずアプリオリに知っている。住田(染谷将太)は、母親は男を作って逃げ、父親は何度も何度も「お前は死んでしまえば良かった」と本人に告白する酷い両親だ。住田は遂に「父親殺し」をする。恵子(二階堂ふみ)も父親の浮気で狂った母親に自殺を勧められている。それでも彼らは当初は普通に生きようと決心していたのである。社会に出る前の彼らは、まるで禁断の木の実を食べる前のアダムとイブの雰囲気がある。幾らでも機会があったのに、遂に彼らは肌を合わせない。そうだ!この作品はドラマではない。人間に「人としての生き方」を伝える役目を持っている「神話」なのである。だから、住田の前に絶望に駆られて殺人をする男が現れる。だから、恵子が呪いの石を投げた時、一旦は黄泉の国に入っていた住田が生き返ったのだ。「頑張れ住田!君は一本の花だ」それは既に学校教師の空々しい汚れた言葉じゃない、それは日本映画の記憶に残すべき立派な名台詞だった。「ロボジー」フリーパスポート13作目。今年の初笑はコレで(^-^)/。まるで人間のようなロボットの中にホントの人間が入った。しかも、何故かお爺さん。発想は、それだけ。けれども、さすが「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督作品。間が素晴らしい。五十嵐信次郎さん、申し訳ないけど知りませんでした。俳優、ミュージシャン、落語家としてとっても有名人だそうで、堂々とした二癖ある爺さんぶりでした。また、吉高由里子が予告編では想像出来ないほどロボットオタクぶりを演じていて、とってもキュートでした。今回の彼女は良かった。もちろんロボジーは着ぐるみですが、さりげなく出て来る他のロボットたちは本物なんですよね、日本て凄い!「マイウェイ12000キロの真実」を観た。フリーパスポート14作目。オダギリジョー、チャン・ドンゴン主演、カン・ジェギュ監督。正しく日韓合作である。どちらが見ても納得の出来(反対に言えば、どちらが見ても不満を言う人は出て来るだろう)。朝鮮兵士の眼から見たノモンハンの戦闘と、ドイツ側から見たノルマンディー作戦の圧倒的な映像も見応えあり。主演の二人はもちろん熱演だけど、憎たらしい野田軍曹を演じた山本太郎が、実は日本人俳優で最も熱心な反原発運動家だと知っている韓国人はどれくらいいるだろうか、などと思った。韓国の俳優では、ジェシクの親友で、ソ連収容所では生きるために手段を選ばないという選択をするイ・ジョンテをキム・イングォンが演じている。脇役人生が長いが、これは彼にとっても代表作になるのではないか。「きみはペット」を観た。フリーパスポート15作目。まあ、それじゃないと、観ないような作品ですが。隣の奥さんの香水がきつかった(涙)。見事に男は私だけでした。良く分かりました。ひところ昔の日本のアイドル映画のようなモノでした。チャン・グンソクくんが、突然、何度か歌って踊ります。キム・ハヌルがお肌の張りに差があって、痛々しい。去年韓国映画界は収入、観客動員数共に上向いたそうだが、この作品はこけたそうだ。よしよし、正常な鑑賞眼を持っている。問題は日本の鑑賞眼ですわな。「ALWAYS 三丁目の夕日'64」フリーパスポート16作目。泣いた、泣きました。三作目にして、一番泣いたかもしれない。予告編は何度も見ているので、あらすじは全部予想がつきます。て言うか、あの予告編はネタバレし過ぎです。けれども、あらかじめどうなるか分かっていた方が泣けるのかもしれない。何故かというのは、みてください、としか言えない。そういう意味では、今回の脚本は破たんがまったく無い。唯一は、六ちゃんの両親がとうとう一度も顔を見せなかったことぐらいか(後で聞いたが、結婚式のとき少し出ていたらしい)。一作目から六年、彼らがリアルに歳をとっていて、もうなんて言うか、こっちが親の気持ちに為らざるを得ないのが、一番の肝ですね。一作目と同じく、おそらく岡山西大寺商店街が、一作目と同じシチュエーションで使われるのが、岡山の人にとっては、見どころかな。東京オリンピックをみながら、鈴木オートが、「20年前までは、ここは焼け野原だったんだ」と呟く。それが震災の20年後の家族の姿の様に思えて胸が熱くなった。昭和30年代は、日本の大きな曲がり角だった。政治形態は20年代に大きくかわったが、生活が(おそらく日本史上最大規模で)変わったのが、30年代だったと、私は思う。大きな曲がり角だった。みんな上を向いていた。それでホントに幸せだったんだろうか。大切な「問いかけ」がこの作品にはある。大震災の直後にこの作品が完成したことは、決して偶然じゃないと思いたい。シネマ・クレール今月三作目。 「カンパニー・メン」監督ジョン・ウェルズ、2010年制作。リーマンショックで、総合企業GTXの販売部長ボビー(ベン・アフレック)に突然リストラ通告。再就職活動は甘く無い。一方残った社員にも厳しい現実が。ボビーの上司でやがて自らの首も切られる副社長ジミーにトミー・リー・ジョーンズ、ジミーと同時に解雇される古参社員フィルにクリス・クーパーという渋い配役です。 GTX社長は「社員よりも株主に責任を持っている」と堂々と言い、リストラに何の痛みも感じていない。 ボビーはなかなかプライドを捨てられない。けれども彼には理解のある家族があった、いざという時頼ることの出来る実家もあった。ところがフィルには、それが無く自殺。湯浅誠さんの言う「溜め」の必要性が此処にも見える。 もちろん、ボビーもフィルも「勝ち組」で、もっとひどい扱いを受けているひとはいる。しかし、監督はそれをも視野に入れてうまく作っています。 失業者にとっては、「勇気」の出る作品になっている。「麒麟の翼」フリーパスポート17作目。監督 土井裕泰出演 阿部寛、新垣結衣、黒木メイサ、溝端淳平人情推理モノ、人形町を舞台にそれなりに泣かせるお話になっている。主要人物以外にキーマンとなる人物が何人かいるのだが、なんか画面に緊張感が無い。テレビを観ているんじゃ無い、映画を観ているんだと、何回か思ってしまった。私は加賀恭一郎の10年来のファンである。ガリレオなんかより、よっぽど加賀恭一郎が好み。加賀が出てくる作品の良い処は、決して加賀が前面に出て来ない処なのだが、これは阿部寛の濃い顔が出る、出る。人形町観光には、一役買うかもしれない。「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女 たちは傷つきながら、夢を見る」長いタイトルです。フリーパスポート18作目。少女というには少し歳を取り過ぎている。西武ドームでの意思統一なんて、一つの会社組織のプロジェクト裏側みたい。その一方で、彼女たちは終始泣いている。彼女たちは泣き、笑い、怒り、走る。ドキュメンタリーとしては、とっても稚拙だ。三つぐらいのテーマをだらだらと並べただけ。まあ、こんなもんだろ。「TEMPEST劇場版テンペスト3D」琉球の独立の可能性を考えるための絶好の素材。しかし、悪い意味でTVのダイジェスト以外の何物でも無い。3Dしか選択肢がないから、それより悪い。ラストショットで、テーマさえも台無しにしてしまった。仲間由紀恵と谷原章介が仲直りするショットと一緒に「そして、琉球は沖縄県になった」と終わる。琉球と明治政府は許し合ってはいけない。この映画は観ないで下さい。そのせいか、公開2日目にして観客は私一人でした。シネコンでは初めての経験です。一月は結局合計21本見ました。これが生涯最高記録です。
2012年05月08日
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今年の1月はTOHOシネマズ岡南の一ヶ月フリーパスを持っていた。よって、生涯で一番映画を見た月になった。でも感想は短いものが多いので、たぶん二回で紹介できると思う。『宇宙人ポール』元旦から、酒を呑まなくてもよくなったので、今日はシネマクレールで映画二本観た。 先ずは「宇宙人ポール」。アメリカ版コミックマートとUFOめぐりをして来た2人組にリアル宇宙人がヒッチハイク、彼を故郷の星に帰すことを約束。謎の組織の猛追をかわし、まさかの大冒険の旅に。 もっとちゃちで荒唐無稽なものだと想像していたが、案外しっかり作られていてびっくり。宇宙人オタクが「こうあって欲しい」という展開と、やさぐれた宇宙人の実像との対比が楽しい。終始ニヤニヤする仕掛けがありそうなのだが、私はオタクではないので、楽しみは半減しているかもしれない。宗教オタクの女性が唯物論に目覚める過程がとっても楽しい。そうか、神を怖れなくて良いなら、汚い言葉もキスも出来るんだ。『ゴーストライター』元旦鑑賞二作目。シネマクレール「ゴーストライター」ユアン・マクレガー主演。英国大物政治家の自叙伝のゴーストライターを引き受けた主人公が、前任のライターの謎の死を追って行くうちにとんでもない事実を突き止めるというもの。実は、三分の一ぐらい意識を飛ばしながら、観ていたと思う。私は基本的にそれを作品のせいだという事にしている。終わり方を見ると、そう思ってもいいのかなと思う。久しぶりのポランスキー監督作品。何かネット社会に蔓延っている「総てはCIAの陰謀だ」という精神の延長線にあるような気がする。きちんと観ていないので、断定すべきじゃないんですが。少女暴行疑惑で実刑判決を受けた監督の怨み節でなければ良いのですが。「RAILWAYS愛を伝えられない大人たちへ」 一ヶ月フリーパスポート三作目。 正月二日の午前、客層はみごとに団塊の世代の夫婦ばっかりで七割方の席を埋めて盛況。まあ、倦怠期や危機的状況を何とかしたいと思っているひとは、男女ともに何とか説得して共にみた方がいいかもしれない。良くなる方向だけで無く反対の方向にもいくかもしれないが、打開策にはなるかもしれない。 単に女の論理だけで無く、男の仕事をきちんと見せてくれている所がいい。 しかし、少しターゲットを絞り過ぎかもしれない。「ワイルド7」一ヶ月フリーパスポート四作目。多分面白くなかったんでしょう。途中意識が飛びました。望月三起也の原作では一人女性が混じっていたのにな~と思っていたら、そういうことだったんですね。もっと悪役をリアルにしたり、メカをカッコ良く見せたり、ラストで主人公をきちんと活躍させたり、工夫次第でいい作品になったのではないかな。映画「怪物くん」一ヶ月フリーパスポート5作目。成る程納得した。フリーパスじゃなかたら、けっして見なかった作品だけど、私の判断に間違いはなかった。子供達は画面が大きいというだけで、喜んでいるのだろうか。「お前は我が儘の意味をはき違えている。我が儘っていうのはなあ、自分の信念を何れだけ貫いたか、自分の行動にきちんと責任を取るってことなんだゾ!」って云うのが唯一のこの映画のテーマなんだけど、TVでジューブンの内容です。「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル」 一ヶ月フリーパス6作目でした。 昨日、初めて一日四作の鑑賞でしたが、これは全然眠くならない。丁寧に作り込まれた極秘スパイの世界を、スピーディに見せてくれてました。 モスクワのクレムリンが爆破された。この事件への関与を疑われたIMFは、イーサンのチームを登録データから抹消する。 設定は、核戦争による平和統一(!?)を狙う組織との戦いです。主人公が歳なので、アクションよりもハイテク機器を使ったスパイの読み合戦がメインに来ており、編集の上手さもあって、退屈とは無縁でした。「真夜中のカーボーイ」去年の映画「マイ・バック・ページ」で、妻夫木演じる主人公が、この映画の感想を女子高生タレントから聞かれて、「最後がみっともない」みたいなことを言うと、彼女は反論し、「私はダスティンホフマンが怖い、怖いって云うところが好き、私はきちんと泣ける男の人が好き」と言うのである。この言葉は、この作品の最も重要な台詞で、私はこの半年ずっとこのことを考えて来た。やっと午前10時の映画祭で観ることが出来た。 果たして、ダスティンホフマンは、「怖い」と言ったときには泣いているわけではなかった。彼がボロボロ涙を流して泣いたのは死ぬ直前の失禁した事に気が着いた時だ。しかし、心の中では「怖い、怖い、死ぬのが怖い」と泣いていたに違いない。彼女は心の中で映画を観ていた。 「きちんと泣ける」とはどういうことだったのか。 ウィキペディアでは、アメリカンニューシネマについてこう書いている。「 ヴェトナム戦争への軍事的介入を目の当たりにすることで、国民の自国への信頼感は音を立てて崩れた。以来、懐疑的になった国民は、アメリカの内包していた暗い矛盾点(若者の無気力化・無軌道化、人種差別、ドラッグ、エスカレートしていく暴力性など)にも目を向けることになる。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。 ニューシネマと言われる作品は、反体制的な人物(若者であることが多い)が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされ、幕を閉じるものが多い。つまりアンチ・ヒーロー、アンチ・ハッピーエンドが一連の作品の特徴と言えるのだが、それは上記のような鬱屈した世相を反映していると同時に、映画だけでなく小説や演劇の世界でも流行していたサルトルの提唱する実存主義を理論的な背景とした「不条理」が根底にあるとも言われる。 」 この作品の中でも、これらの世相は描かれてはいるが、ジョンボイトとダスティンホフマンは、断じて反体制人物ではない。ただ、社会の矛盾の中で隅に追いやられた者だ。偽カーボーイのボイトは、 働くのか嫌で有閑マダムに売春をするためにテキサスからニューヨークに来たのだ。その試みは失敗し、マイアミに逃げる途中でホフマンがなくなるのである。ホフマンは、未来のボイトだった。その事に最後までボイトは気がついていない。 本当に泣いているのは、終始ボイトだった。泣くべきは、自分の人生を後悔し、立ち直らなくてはならなかったのは、ボイトだったのだ。 女子高生は、あの時ボイトを責めていたのである 。そして、作品自体は、妻夫木の号泣で終わった。反省のかけらもなかった偽反体制人物の松山ケンイチを責めている作品になっていたのだか、実際のモデルである川本三郎は、本を読むと全学連シンパであった自分を全く反省してはいない。 「きちんと泣ける」このことが、いかに難しいか、私はこれらも考えていかなければならない。「仮面ライダーフオーゼ&オーズ Movie大戦MegaMAX」 一ヶ月フリーパスポート6作目。 これもフリーパスでなかったら、(時間と金を無駄にするのが)怖くて けっして見なかった作品だけど、これは正直、観て良かったと思う。二度と見ようとは思わないけど、最近の仮面ライダーシリーズがどんなモノなのか理解出来た気がするし、そもそも「仮面ライダー」は歌舞伎なのだという事が良く分かった。 最近のライダーは、基本的にデジタルなんですね。データが命、然も姿が一定していない。でも、「理由もなく」世界征服を狙う敵が次々と現れるのは同じ。 構造は、非常に「歌舞伎的」です。出てくる課題は、決して構造的に難しいモノじゃなくて、友情とか恋とか身近なモノばかりで、大事なのは「見得を切る」こと。 出て来たライダーは、ここ2~3年のライダーばかりで、それに伝説の七人ライダーがくっ付いたモノでした。あれで親子の対話が成り立つんだろうね。 「リアル・スティール」数え間違えていました。一ヶ月フリーパスポート8作目。◆監督:ショーン・レヴィ「ナイト ミュージアム2」◆出演:ヒュー・ジャックマン、エヴァンジェリン・リリー、ダコタ・ゴヨ、アンソニー・マッキー、ケヴィン・デュランド◆STORY◆2020年、ボクシングは、生身の人間ではなく高性能のロボットたちが闘う競技になっていた。元ボクサーのチャーリーは、ロボットの賭け試合などで生計を立てていた。ある日、かつての恋人が亡くなり、その息子・マックスがチャーリーの元にやって来る。部品を盗むために忍び込んだゴミ捨て場で、マックスはATOMという旧型ロボットを見つけ、家に持ち帰ってきた。マックスはATOMをチューンナップし、試合に出場する事を決意する。人間とロボットと共闘している近未来は、いったいどんな時代なのだろうか。思ったよりも、映像技術がしっかりしていて、違和感はなかった。ダコダ・ゴヨくんが良いんですね。演技が上手いだけじゃ無く、輝きが有りました。ダメダメ親父が一生懸命戦っている所を見て涙を流すところがこの作品のハイライトです。日本のロボットに対する敬意は至る所に有ります。最初出てくるロボットが「最強男子」などの入れ墨が有る奴だったり、件のロボットがATOMという名前だったり。話は、「ベストキッド」「ロッキー」その他のボクシング映画の焼き直しです。敵役は余りにも相手を研究していない。等々の弱点はありますが、まあまあのエンタメでした。フリーパスポート9作目。 「Frends もののけ島のナキ」なにしろ、白組ですからね、山崎貴監督ですからね、期待度は高くなっていました。でも、非常にシンプルなお話でした。私たちのよく知っているあのお話に良く似ている、「泣く」ことが一つのキーワードだなあ、と思っていたら、エンドロールで正にそれが原案だと知りました。年末に韓国に居てビックリしたのが、数ある日本映画の中でこの作品だけが上映予定に入っていたのです。ジブリアニメも韓国では同時上映するのですが、ポケモンじゃなくて、山崎作品を同時上映に選ぶ韓国の目の確かさに感心します。ただ、コレは余りにもストレートに子供映画にしたので、私にはあと一つだったかも。韓国の感想を聞きたいものです。
2012年05月07日
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今年の憲法集会は、沢知恵さんのピアノ弾き語りライブと詩人アーサー・ビナードさんの講演でした。例年に無く、充実していたと思います。 沢さんが在日韓国人だということは、知っていたけど、岩波「朝鮮詩集」を翻訳した金素雲の孫だとは知らなかった。その中の詩に、沢さんが曲をつけた「こころ」が先ず身に染みた。 思っていた以上にメッセージ性の高い歌を歌う。 他には、なにこれ珍百景に選ばれた、日英韓三ヶ国語で歌われる「校歌」が良かった。 アーサー・ビナードさん講演題名は「ヒロシマとフクシマどっちが遠い?」。写真通り「イケメン」でした。 「言葉を疑い、言葉でたたかう」小森陽一との対談本「泥沼はどこだ」の副題通り、人生でそれを実践していることがうかがえる話でした。 サイン本貰った時にブログに書くと言ったら「見ます」と言って下さったので、迂闊な事は書けないのですが、迂闊な事を書きます(^_^;)。私の講演メモを元に概略を書きたいと思います。根がいい加減なので、正しく伝えているとは思えませんが、まあ私の受け止め方だと思ってください。 なぜ、オバマは昨日アフガンの空軍基地に急遽行き演説をしたのか。オサマ・ビン・ラディン殺害がオバマの手柄であることを宣伝するためだったのだ。だからオバマは去年のこの日のために殺されなければならなかった。何故か。大統領選挙の為だ。その為にオバマ殺害をでっちあげるぐらい、アメリカは平気でします。PRの巧みな人々がいるのだから。 今日はPRの歴史を考えていきたい。コピーライターたちが、日本とアメリカの歴史を作ったと言っても過言じゃありません。 日本に核兵器を落とすマンハッタン計画までは、どれだけ隠して進めるか、が課題でした。その後、核兵器の開発を堂々と進めなくてはならない。その時国防総省(=ペテンタゴン) は、コピーライターと共に二つのキャンペーンを始めました。このミラクル兵器のお陰で 100万人の兵士の命が助かった、このミラクル兵器はソ連の脅威から守るためだ、節分みたいですね、アトムは内、ソ連は外。これは、成功しました。 1952年、軍人天下り大統領アイゼンハワーが就任します。この人がなった時、核兵器は数千発だった。辞めた時、2万4 千発の核兵器ができていました。 この時、水爆が作られます。そしてこの時、国民の空気が変わりました。「世界大戦をしたら、勝ち負けじゃない、世界が終わる」一般国民がかんがえるようになった。それに対してアイゼンハワーは慌てた。核開発はやめたく無い、核ビジネスを儲けさせる為に大統領になったのだから。もう一度核兵器を好きになってもらわないといけない、新キャンペーンを組もう。 皆さん、シャンプーを何故買うのですか。昔は無かった。これは70年代から売り出した。これは髪を痛めつけて直す液です。シャブ漬けにして直すから、シャブンプーというのかな。皆さん買うのは、CMでいかにもいいように流れているから。つまり、何か「引っ掛けるフック」を見つけると、何でもうる事が出来る。 「核兵器買いませんか」もうこれじゃ売れない。優秀なコピーライターたちには、奥の手がある。 新商品をつくる。別のパッケージに入れて、別商品として売る。 これは20世紀最大のペテンPRだと私は思います。ともかく、原料を作る為の原子炉を守れば良いのです。つまり、「このミラクルの発電機を買って下さい」と言ったわけです。「無限のエネルギーが出て、ゆくゆくはタダですよ」と言った。too cheep to meter(計るには、安過ぎる) 。世界一の広告代理店ホワイトハウスは、1953年12月8日の国連総会演説でこの様な言葉を用意した。「Atoms for Peace」下請けの永田町も、こんなコピーを作った。「原子力の平和利用」 そんな時、それから三ヶ月も経たない内に、大統領の舌の根も乾かぬ内に、アメリカは水爆実験をし、第五福竜丸事件が起きるのです。 この事件は「原子力の平和利用」を見抜くレンズのようです。中曽根は第五福竜丸が港に帰る前に原発予算を組みました。原発は日本の金をアメリカが吸い取る装置です。だから原発は作り続ける必要がある。 原発は原爆と同じです。一方は一挙に爆発し、一方はジリジリと爆発する。 「見抜く」力が必要です。(最後は時間切れでものすごい駆け足でした) と、まあ、私用のメモはこんな感じです(^_^;)。
2012年05月06日
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【送料無料】 ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸 / ベン シャーン / アーサー ビナード 【絵本】この本には、3日の憲法集会で構成・文のアーサー・ビナードさんのサインを貰いました。宛名はブログの名前にして貰いました。「再出発日記」の英訳も!その場で考え、書いてくれました。 ベン・シャーン展の図録の冒頭に、福島県立美術館館長の酒井哲郎氏が書いている。 「ラッキードラゴン」の連作は、政治的なあるいは社会的なブロテストではなく、日本人とその生活の側から、個々の人間の次元で、その悲劇性がシンボリックに表現されている。 (略) 第五福竜丸は、アメリカでは「ラッキードラゴン」と訳された。福島を英訳すれば「ラッキーアイランド」である。どちらも放射能汚染というアンラッキーな運命を共有することになった。さらに、「ラッキードラゴン」という作品を福島県立美術館が所蔵するという不思議な偶然が重なっている。 しかしいま福島は、「ヒロシマ」「ナガサキ」とならんでローマ字やカタカナ表記によって世界中に知られることになった。「ヒロシマ」「ナガサキ」は戦争という非日常の状況の中で、人間の決断の結果起きた悲劇であるが、「フクシマ」は平和な日常の中で起こった災害である点で異なり、いつかどこかで起こり得る普遍性を持っている。いわば現代文明が生んだ災害である。いまわれわれは、ベン・シャーンと共に少し立ち止って、人間の運命や未来について考えてみてもよいのではないだろうか。 この本で一番衝撃を受けたのは、この絵だ。強い風が吹くビキニ環礁の上を 怪物の黒雲が蠢いている。「これは3.1のビキニ環礁を描いたのかもしれないが、まるで3.11の福島のようだ」私は思った。ベン・シャーン展で実物を見ると、この絵本の2/3の小さいものだった。白い紙にペンで力強く描いていた。 三回もビキニデーには焼津で久保山愛吉さんの墓前祭には行ったのに、この絵本を読む前まで知らなかった。 それでも 無線で「たすけてくれ」と たのむとなにを されるか わからない。もっと ひどいめにあわされてしまう かもしれないのだ水爆という 見てはいけなかった秘密を 見たのだから 久保山愛吉さんは、経験と感で下手に無線を打てば自分達か攻撃目標にされかねないことを知っていたのである。この咄嗟の判断が、日本の平和運動の出発点になった(原水禁運動の始まり) 。 この絵本は、2006年の発行であるが、アーサー・ビナードさんの文は、実は、3.11を予言している。多分それは偶然じゃない。アメリカの原子力政策を批判的に見えていたからこそ、書けたのだと思った。文は愛吉さんの死の後もこう続く。 「久保山さんのことをわすれない」とひとびとは いった。けれど わすれるのを じっとまっている ひとたちもいる。 ひとびとは原水爆をなくそうと 動きだした。けれど あたらしい 原水爆をつくって いつか つかおうとかんがえる ひとたちもいる。実験は その後 千回も2千回も くりかえされている。 わすれたころにまたドドドーン!みんなの 家に放射能の 雨がふる。 こういう本が、広く読まれているのは、素敵なことだ。詩集や図画集は一部の愛好家しか買わない。ところが、絵本の裾野は、広い。装丁は和田誠。かれもまた、ベン・シャーンから強く影響を受けていることを今回知った。
2012年05月05日
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「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」岡山県立美術館のベン・シャーン展に行って来た。ベン・シャーン(1898-1969)は、ユダヤ系リトアニア移民である。彼は幼い頃ニューヨークに移住、石版工の見習いをしつつ美術の勉強を重ね、1930年代、「ドレフェス事件」など冤罪事件を主題とした絵画を描いて、一躍アメリカを代表する画家になる。社会派画家として出発し認められる。同世代の日本のプロレタリア画家に岡本唐貴(白土三平の父親)がいるが、対照的なのがとても興味深かった。岡本唐貴は弾圧された。よって、描く内容、水準は、大きく制限されたのである。私の文章表現が拙い為に図録等から幾つか絵画を載せるが、こんなモノで絵・芸術の魅力はいっさい伝わらない事は、当然のことながら、御承知頂きたい。ともかく、「手」である。これ程に訴えかける手を観た事が無い。ベンがえがくのは、一様に労働者のゴツゴツとした手なのであるが、単純なようでいて、おそらく誰も描けない手である。例えば「ワルシャワ1943」(1963)という作品。1943年のワルシャワゲットー蜂起をテーマにした作品だろうと思えるが、元のソースは、1930,40年代の雑誌の切り抜きである。アメリカ警察から罪状認否を受けることになりがっかりする人々の写真の中にこの人物が居る。この拳は、1951、1952年の作品でも使われている。ベン・シャーンは、一つの像を繰り返し使う。その中でモティーフは次第に熟成していく。この作品の前で暫く釘づけになった。「解放」(1945)。1945年のフランス解放のニュースを聞いて描かれたらしい。解放の喜びと同時に、どうしようも無い不安が私に押し寄せる。この瓦礫が大震災の瓦礫に見えた。ベン・シャーンの作品の中に大きくウェイトを占めるのが「文字」である。石版工として培われた技術は、ポスターや装丁として表現される。「ああ、言葉が訴えかけている」と思う。ベン・シャーンは、CIO(産業別労働組合)の為に何枚もポスターを作っているが、右は1946年のポスター。福島県立美術館所蔵である。これも文字が大きく訴えかけている。と同時に、似顔絵が余りにも「力」がある。ベン・シャーンは、山藤章二に多大な影響を与えたそうだか、むべなるかな。彼より遥かに毒がある。左は、「あなたに言えることはひとつ」右は「あまのじゃくにノーと言え」(1964)。JOHNSONって、何者?と思って、調べたが分からなかった。ベン・シャーンは、社会派から始まり、個人の内面に迫り、具象と抽象を往来し、絵画、写真、壁画、ポスター、装丁、クロスメディアで活躍し、それでも労働者の立場から、平和の立場から、一貫して描き続けた。私は、岡本唐貴の息子の白土三平との相似性を感じざるを得ない。
2012年05月04日
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今晩のNEWS ZEROでは、冒頭「増え続ける非正規雇用の若者、遠き正社員への道」が放送された。10年前と比べ、非正規雇用は500万人も増え、労働者の三分の一が非正規雇用というようになった。全体では1800万人もいるという(私も例外ではない)。若者は414万もが非正規である。そのうち四割強が正社員になりたいのになれないで要る。例えば、ある女性は接客業の業種に憧れて20社受けたけど、全て不採用だった。「自分を曲げてでも正社員になればよかったのすか。それとも、それで幸せなのか」と悩む。29歳の今ならばまだ何とか生活していける(ダブルワークもしている)。しかし、40歳になったときには大きな不安があるという。ある男性は契約社員のあと、正社員になったが、腰痛で退社、そのあとあるバイトを経てもう一度正社員になったが、今度は会社が潰れたのだという。「貯金もなく、このままでは結婚は考えられない」と嘆く。今の20-30代は「ロストゼネレーション」の世代だ。自己責任ではない、社会のせいで正社員になれなかった世代である。ロスジェネの雑誌が潰れたり、震災に時間がとられてNHKのワーキングプア番組がなくなっているということもあり、まるでそれらの課題がなくなったかのように世間は思っているのではないか。しかし、この前の国会で、民主党が鳴り物入りで約束していた派遣法改正案は結局大ざる法として成立した。派遣はなくならない、ということになった。何も現実は変わっていない。内閣府の意識調査によると、今まで本気で自殺を考えたと答えた人が23%で20歳代が一番高かったらしい。Eテレの番組を見ていたら、「女性の貧困」というテーマでZEROよりもまだ一歩進んでギリギリの生活をしている20代の女性を映していた。彼女も一端正社員になるけど、たとえばセクハラや職場の人間関係で辞めてしまう。そのあと、家の支援が受けれない彼女はそのままワーキングプアの生活に入る。食費は一ヶ月1万円。ずっと、もやしばかり食べていたこともあるという。一番つらいのは、結婚式にも友達との遊びにも出れないので、だんだん孤立していくということだ。食べるだけならば出来る、けれどもそれが人間としての生活だろうか。「若い女性は結婚という逃げ道があるだろ」と男は考えがちだ。しかし、想像して欲しい。節約の為にずっと家の中でこもる生活をして、異性と付き合う「余裕」が持てるだろうか。私は食費一万の生活は想像できない。この数年間いろいろと努力したが、結局2万-3万は絶対に必要だという結論に達した。一万というのは、「人間らしい生活」を拒否したと同義である。最低賃金1000円以上、派遣3年以上務めて正社員になれる、せめてその二つは性急に実現しないと、「若者の自殺」はもっともっと増えることになるだろうと、私は思う。
2012年05月02日
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ビナードさんを初めて知った。まだ若い。1967年生まれ。来日して以降日本語で詩作をしている、という。しかもイケメンだ。岡山は今度、憲法記念日にこの人を呼ぶ。 「泥沼はどこだ」小森陽一 アーサー・ビナード かもがわ出版 「仮に」思い描いたことを「確実」とみなした上で、もう考えないようにするのが、世の中の「想定」のパターンだ。それはつまり、思考停止への第一歩ではないのか。一方、「想像」はそんな風に区切ることは出来ない。何処まで広がっていけるか、イマジネーションの持ち主もわからずに広げていき、そして文学作品に仕上げれば、その「想像」の作業は時代を超えて、続く可能性もある。(略)せっかく生きているのだから、「想定内」の一生で終わりたくない。(「泥沼はどこだ」前書き、アーサー・ビナード)(2p) 副題は「言葉を疑い、言葉でたたかう」。去年の5月13日の対談は当然原発問題についてであるが、その事の意味が最も分かるモノになっている。 小森 原発問題がなぜ核兵器廃絶のように受け止められなかったかというと、(略)不安になるのがおかしいのであって、事実に即さない考えは病気のようなものだ。そう描き出して、思考停止させ、その不安の客観的な証拠をあげる人を「変わり者」のように排除してきました。 アーサー そのために巧みに作られた言葉が「核アレルギー」です。核を従順に受け入れない者は、理性や知識に基づいて考えているのではなく、体質か おかしいんだ、そばアレルギーだの大豆アレルギーだの花粉症と同じような体質的な問題なのだ、日本人には「核アレルギー」があるのだと云うわけです。実に巧みに相手を落とし入れて論点をずらすこの言葉は、かなり効きました。(23p) この様に「言葉 を疑い」、 アーサー しかも小森さんがいつも言うには、一回「なぜ」と問うだけではダメです。一回だけだと、御用専門家たちや官僚たちは、それぐらいのペテン答弁ぐらいは用意しているのです。「なぜ」と聞いて、お決まりの嘘っぱちが出てきたときに「でも、おかしい、なぜなんだ」ともう一度聞くと、向こうは必死になってまた誤魔化そうとしますから、さらにもう一回「なぜ」と問いただす必要があります。食いついて、少なくとも三回問い詰めれば、騙されないで済むかもしれません。(47p) 「言葉でたたかう」いろんなヒントが詰まっている。 ビナードさんが文章を書いている絵本がある。日本絵本大賞を受賞している。 【送料無料】 ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸 / ベン シャーン / アーサー ビナード 【絵本】絵は、ベン・シャーンという有名(らしい) 大画家が描いていて、ちょうど今県立美術館で大回顧展をしているのである。お金と暇と、のめり込むのが怖くて、まだ観に行っていない。けれども、このベン・シャーンという人のことを知ったのは、 河添誠さん(首都圏青年ユニオン)が、わざわざ休日にこれを見る為に岡山に来ていたことをFacebookでしったから。彼は、「アメリカの労働者を描いた絵やボスターが良かった」と言って帰って行った。ひどく気になる。ビナードさんの講演聴いて、サイン入りの絵本をゲットして、その後、行くかどうか判断しようかと思う。
2012年05月01日
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