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41年生きてきて、”私は自分が好き!!”と思ったことがない。コンプレックスが多くて、いろんなことに見舞われるたびに、未熟な自分を見せ付けられて、”できることなら「私」をやめたい”と思うことさえあった。それが、どういうわけか最近、変わりつつある。それは、江原さんの言葉がきっかけだったかもしれない。「この1年、難病の娘さんのために頑張ってきたよね。 それは、守護霊さんがちゃんと認めてるよ。」その言葉を聞きながら、舞台の上にもかかわらず、涙が止まらなかった。短気で、自分勝手で、子供好きで、車もオートバイも好きで、涙もろくて、可愛げがなくて、人の役に立ちたい私。「このままの私を愛すればいいんだ」そう、思えるようになってきた。
2006年04月27日
2個で5,500円。なぜこんな高価なマンゴーを買ったのか。夫の考えていることはときどき(いや、しょっちゅうか)理解不能。でも、美味しかったです。
2006年04月26日
三女は、毎日のノルマである10種類近くの粉薬を、糖水に溶かして飲んでいる。コップでは嫌がるので、病院ではシリンジ(注射器の針がついていないもの)を使って、口の中に”チュ~”と入れるのだが、退院後は私がやらなければならない。看護師さんがやっているのを何回も見てはいるものの、こういうのは”見るとやるとじゃ大違い”というのが定説。「じゃあ、そろそろお母さんにやってもらいましょうか」と言われ”ついに来たか!!”と思いつつ、手順を説明してもらいながら実習する。これをこうやって、この中に糖水を入れて、こんなふうに吸い上げて・・・・すると、看護師さんが「あら、お母さん上手ですよ!!」と。確かに、”思ったほど難しくないな”というのが正直な感想だった。そういえば、江原さんに「あなたの後ろにね、男のお医者さんがついてるの」と言われた。その人のお陰か。
2006年04月25日
”泳ぐ自信がない人”や”今まさに溺れている人”に、「浮き輪を貸してくれる」のではなく、飽くまで「泳ぎ方を教えてくれるだけ」だと、私は思っています。本を読んで、講演をを聞きに行って、お守りを身に着けて・・・でも、それ自体が、悩みの解消に作用するわけではなく、それを参考にして”泳げるようになる努力をする”のは、他ならぬその人自身で、そうでなければ、その人がその人として生きている意味がないわけですから。実は、今月初めの『スピリチュアル・ヴォイス2006』を観に行って、幸運にも「公開カウンセリング」に当たりました。名前を呼ばれて舞台に上がると、客席が暗くてよく見えないせいか、江原さんと2人で話をしているような感覚でした。江原さんに、「亡くなった息子さんのことも、難病の娘さんのことも、確かに辛くて大変だったと思うけど、こういうことがなかったら、あなたは可愛げのない人になってたよね」と、これほど”生きる意味”の本質を踏まえた、しかも励みになる言葉はありませんでした。最後に、「頑張ってね」と言われて握手をしたときの、決してうわべのパフォーマンスではない、やさしさに満ちた笑顔が印象的でした。
2006年04月23日
・・・って、客に確認させるな!!という正論を述べた人と会いました。その数日前、”心の友”が「飲食店で”お水ください”って頼んだときに、”おいくつですか?”って聞くのはルール違反だよね」と言っていたばかり。人数分持ってきなさい。
2006年04月23日
”なんとかしてもらった”三女です
2006年04月21日
三女が手術室から戻ってきたのは、午前3時を回っていた。3時間のはずが、10時間の手術になってしまったにもかかわらず、小児外科のドクターたちは何食わぬ顔をしていた。再びICUに戻された三女と面会をする。眠っているだけ・・・そう思えば思える三女だったが、その体は”満身創痍”に違いなかった。結局、お腹の傷は、大きく切られた”ベンツマーク”の中心までは縫合できなかったということだった。500円玉を2つ並べたくらいの穴には、ガーゼが詰まっているという。”この先どうなるのか””もう、これ以上期待しないほうがいいのかもしれない・・・”そんなことを考えながら三女を見つめていると、横にいた若いドクターが「なんとかするから・・・」とつぶやいた。
2006年04月19日
☆野先生の説明を聞き終わったのは、再手術が始まってからすでに6時間が経っていた。「そろそろ終わってると思うんですけど・・・ちょっと見てきますね」そう言って、☆野先生は手術室に向かった。夫と私は、カンファレンス室を出て、ナースステーション前のロビーで待つことにした。消灯時間を過ぎた病室からは、物音ひとつ聞こえてこない。すぐに戻ってくると思った☆野先生は、なかなか現れなかった。夫は「悪いけど、オレは横になってるよ・・・」と言い残して病室に帰っていった。数日前まで、痛みに悶絶していた夫の体調を気遣う余裕が、そのときの私になかったことに気がついた。ひとりになってしまうと、三女が戻ってくる小児病棟前で待つほうがいいと思い、看護師さんにその旨を伝えて小児病棟へおりた。エレベーターを降りたところにある大きなガラス窓からは、いつもと変わらぬ高層ビルの夜景がきれいだった。長イスに座って、どれくらいの時間がたったのか、突然☆野先生が現れ「あれから手術室に戻ったら、お腹を閉じる段階だったのですが、閉じてしまうと動脈の血流が悪くなってしまうことがわかったので、閉じないで手術を終えることになりました。」”お腹を閉じてない?”何がどうなっているか、すぐには理解できなかった。
2006年04月19日
夫が三女と面会をした3日後、小児外科の☆野先生から呼び出しがあった。「傷口が化膿したため、もう一度お腹を開けて、きれいにする必要があります」という話だった。あいにく夫は、その日も外出許可を取って、現場に向かっていたので、私ひとりで説明を聞く。手術は夕方から始めて、3時間くらいで終わるということだったので、連絡を受けて現場から戻ってきた夫と、最上階のレストランで軽い食事をとった。夫の病室にもどり、「そろそろ終わるころかな」と言い始めてから1時間が経過したが、手術の進行具合を聞く手段がないので、ひたすら連絡が入るのを待つしかなかった。ようやく☆野先生が現れたのは、さらに1時間以上が経ってからだった。案内されたカンファレンス室で、ホワイトボードに図を書きながら、○野先生は丁寧に手術内容を説明してくれた。「実は、腸に小さな穴が見つかって・・・」”移植後は何が起こるかわからない”その意味をかみ締める瞬間だった。
2006年04月18日
三女との面会を境に、夫の回復振りは、ドクターや看護師さんたちも驚くほどだった。それから2日後に、点滴と管がすっかり抜けると「ちょっと現場を見てくる」と、外出許可をとって、病院から車で30分ほどの現場まで、タクシーで行ってしまった。残された私は、もぬけのカラになった夫のベッドで、普段の睡眠不足を補うチャンスを得た。夕方になり、”そろそろ帰ってくる頃だけど・・・”と思っていると、「おかえりなさ~い」という看護師さんの声と共にカーテンがあいた。ベッドに寝ている私を見て「あら!?ご主人、まだ帰ってきてないの?」という看護師さんと話をしているところへ、夫がノコノコ現れた。「あ~良かった。準夜はワタシですから、よろしくお願いしますね」という若くてきれいな看護師さんの言葉に、夫は心底うれしそうだった。
2006年04月18日
夫の痛みのピークは、3日目に来た。ドクターが「どんな感じの痛みですか?」と聞くと、夫はあえぐような声で「身の、置き所が、ないです・・・」と言ったきり、仰向けのまま顔をしかめている。検討の結果、通常の鎮痛剤に加え、モルヒネを使ってもらうことにした。しかし、これが思うほど効かず、夫は眠れぬまま3日目の夜を迎えた。翌日の午後くらいから、ようやく会話ができるようになった夫が、最初に三女の面会に行ったのはそれから2日後だった。点滴を転がしながら、お腹に入っている2本の管が足元まで下がっている姿は、異様ではあったが、誰も振り向く人はいなかった。小児病棟内のICUに入ると、ドクターや看護師さんから「お父さんお疲れ様でした。大丈夫ですか?」と声がかかる。夫は、歩いたためにぶり返した痛みに耐えながらも、笑顔で応対していた。三女は、持続的に鎮静剤を投与されていたため、一見スヤスヤと気持ち良さそうに眠っている感じだったが、顔色は黄疸があらわれていた。15分という規定の面会を終えたあと、ドクターが三女の現状を説明してくれた。万全ではない肝臓を移植したという事実と、まだ楽観できない状況であるということ。それを聞いた夫が、「おそらく今の段階では、移植する前と現在の状況では、どちらが良かったかはわからないと思いますが・・・」と言いかけたとき、ドクターが驚いた顔をして「移植した肝臓のほうが、全然いいに決まってますよ!! お母さんには説明しましたが、娘さんの肝臓はもうカチカチでしたから・・・」その言葉が終わるか終わらないかという時、夫は人目をはばからず泣き出した。自分の不摂生が、三女を苦しめたのではないかという自責の念に、痛みと闘いながら苦しんでいたのだろう。”移植したほうが良かった”という言葉で、ようやく夫の肩の荷がおりたに違いない。唖然としているドクターに、「きっと、安心したんだと思います・・・」と、お礼もそこそこに、涙をぬぐいながら歩く夫と、小児病棟を出た。
2006年04月17日
手術直後のICUで会ったときは、「違和感はあるけど、痛みは感じない」と言っていた夫。しかし、翌日の午前中に一般病棟に戻ってからは、痛みに顔をしかめる時間が、目に見えて増えてきた。同室の山田さんが「痛いんですよね~・・・私は三日三晩苦しみましたから。 でもね、我慢することないですから、どんどん痛み止めをやってもらったほうがいいですよ。 奥さんは、旦那さんの様子を見て、代わりにナースコールして言ってあげてくださいね。 この痛みって、しゃべるのさえ億劫なくらいですから」とアドバイスしてくれた。確かに、夫は寝ているのかと思ったら、目をつぶって痛みをこらえていた。額は文字通り”玉のような汗”でびっしょりになっていた。
2006年04月16日
18時間の手術を終え、時刻は午前4時になろうというのに、ドクターたちは疲れの様子も見せず、手術の内容を説明してくれた。夫の肝臓が移植に踏み切れるかの検討、そして私の判断を聞きに来た時間を合わせて、中断した時間は2時間だったこと。そして、この移植については、初めてのケースであったため、今後”読めない状況”が考えられること。そして、大きなタッパーの中で液体に浸けられた、三女の肝臓を見せてくれた。4分割にスライスされた肝臓は、薄いピンク色をしていて、”これが肝硬変の肝臓なんだ?”と感じるほどきれいだった。しかし、ドクターから見れば、「こことここに胆汁が鬱滞していて、肝臓自体もカチカチでした・・・」ここまで頑張ってくれた三女の肝臓に、心の中で手を合わせた。
2006年04月15日
三女の名前の由来でもある【モエ・エ・シャンドン】夜中に行ったイオンで見つけました。左は、あまり知られていない”ロゼ”です。
2006年04月15日
看護師のKさんが、「本当は手術が終わるまでいたいんですけど、そろそろ失礼します」と言ったとき、目の前のエレベーターが開き、”心の友”がおりてきた。多忙を極める彼女もまた、私の食事のことを心配して、両手には食糧を携えていた。2人を紹介しあって、3人で少し話をしたあと、Kさんは「寝ていると思いますけど、手術が終わったらメールくださいね」と言って帰っていった。時計を見ると、10時を回っていた。手術終了まで付き合ってくれるという”心の友”の言葉に甘え、買ってきてくれた天丼をほお張りながら、三女の手術の終わりを待った。夜勤の看護師さんが出勤してくる時間になり「あ、なんかいいにおいがしてますね~。長丁場ですから、お母さんも体力つけておいてくださいね!!」と声をかけてくれる。すると、またU先生が現れた。「移植は終わったので、あとはお腹を閉じるだけです・・・と言っても、あと2時間くらいかかるかな?」「2時間後ってことは・・・2時か」そう思いながら改めて外の景色を見ると、高層ビルの明かりはかなり消えていた。さすがに緊張感より睡魔のほうが優勢になり、会話も途切れがちになりながら、私も長イスでうたた寝をしていた。すると、看護師さんがやって来て「今、終わりましたので、これから手術室を出るそうです」と言われ目が覚めた。ドアを隔てた病棟内が、にわかにあわただしくなってきた様子がうかがえる。エレベーターを凝視していると、「業務専用」と書かれたドアがついに開いた。5~6人のドクターに囲まれたベッドの中に、たくさんの管につながれた三女の姿を見た。
2006年04月13日
まだ、お腹には4本のチューブが入っていますが、食欲モリモリです免疫抑制剤の副作用で、毛深くなっています
2006年04月12日
プロポーズされました「りゅうたろうくんが、けっこんしたいって」そうか~・・・でも、お母さんは反対しないよ、ご両親はとてもいい人だし・・・でも、りゅうたろうくん長男だったよね~、そのへんうまくいくといいんだけど・・・あと、彼は将来設計をどう考えているのかな~・・・って、それより学校と両立できる?(・・・ここまで読んで、長女のあきれたような視線が痛い)
2006年04月11日
小児病棟前に着いたKさんと私は、3年前の話をしていた。Kさんは、三女が生後2ヶ月で「胆道閉鎖症の疑い」と診断され、緊急入院した日の担当の看護師さんだった。入院手続きを終えて、病室に案内されたときは、すでに”夜勤”の時間だった。「きょう担当の○○です。」という声が、頭の中を素通りするのを自覚しながら頭を下げ「退院まで、責任を持ってお世話させていただきます。」というKさんの言葉に”退院か・・・そんな日が来るのか?”そんな絶望感で三女を見つめていたことが、実感とともに思い出された。
2006年04月11日
フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の和訳を読んでみた。こわいっ!!
2006年04月11日
時計を見ると、8時になるところだった。次は、三女が手術を終えて戻ってくるのを、小児病棟で待つことになる。三女の手術が終わるのは、おそらく日付が変わってからだろう。Kさんは「明日は日勤なので、手術が終わるまではいられませんが、もう少しお付き合いします」と言って、一緒に小児病棟へ移動してくれた。病棟前の大きなガラス窓からは、新宿の高層ビルが一望できる。ここが病院でなければ、間違いなくロマンティックなロケーションなのだが・・・。
2006年04月10日
「実はね、移植前に肝臓の組織を調べたら、炎症のなごりがあって、そのまま移植して大丈夫か中断したの・・・でも、内科のドクターからも”GOサイン”が出たから手術をしたんだよ」そういうと、夫は一息ついてから「そう・・・」とつぶやいた。そのあとの沈黙が続くのが怖くなり、すかさずKさんと場所を交代した。「お父さん、お疲れさま~。ゆっくり休んでくださいね♪」という明るい声に、夫も安心したのか、何やら笑顔で返事をしていた。GICUという場所柄、長居は無用と思い、「じゃあ、明日また来るからね・・・」と言って、GICUをあとにした。待機室に戻ってから、Kさんに「何か言ってましたか?」と聞くと、「”今度、ディズニーランドに行こうね”って言われました(笑)」夫は、こんな時も気配りを忘れていなかった。
2006年04月09日
GICU待機室は、病棟の真ん中にあるため、外の様子がまったくわからない。時計を見ると5時を回っていたので、外はもう暗くなっているだろうか。予定では、そろそろ夫の手術が終わるはずだったが、中断したことがどれほど影響しているのか、まったく見当がつかなかった。そこへ、後ろから「遅くなりました~」と声が。振り返ると、三女がお世話になってきた病院の、担当の看護師だったKさんが立っていた。「お母さん、何も食べてないんじゃないかと思って・・・」と、おにぎりを買ってきてくれた。「わ~、そうなんです。朝から何も食べてないんです!!」と言いながら、ありがたく受け取ったものの、待機室は”飲食禁止”なので、夫の手術が終わってから、どこで食べるか考えることにした。Kさんに、三女の朝の様子や、手術が中断したことなどを話をしていると、あっという間に時間が過ぎていった。手術室から移動してくるストレッチャーが、待機室の横を通るたびに、夫かと思い首を伸ばすが、いつも違う人だった。「今の人、お父さんじゃありませんでした?」と、Kさんに言われて、「そうでしたか?違う気がするんだけど・・・」そう言って、長イスに座りなおして、話をし始めたところに、GICUの看護師さんが「△△さんのご家族の方、ご面会できますのでどうぞ」と呼ばれて「やっぱりそうだったんだ!!」と2人で顔を見合わせて笑った。GICUは予想以上に広く、いくつものベッドを通り過ぎると、夫のベッドを案内された。口には人工呼吸の管が入っているが、顔色などは普段どおりだった。看護師さんが「どうぞ、声をかけてあげてください」と促してくれたので「ヒロ○○さん、ありがとー!おつかれさまー!」と声をかけると、夫は「・・・終わったんだ。問題なかった?」この場で、手術が中断したことを言っても良いものか・・・。一瞬、言葉に詰まってしまった。
2006年04月09日
ドクターたちが手術室に戻ったあと、しばらくは腹帯作りも手につかず、時計の針を目で追うだけの時間が過ぎた。かと言って、それほどの不安はなく、GICUに戻ってきた夫に、最初に何て声をかけようかと、今思えば、のんきなことばかり考えていた。1時近くなると、GICUの面会時間が近づいたせいか、待機室はにぎやかになってきた。眉をひそめてボソボソと話す家族もあれば、久しぶりに再会したらしい親戚と、うれしそうに話している家族もいる。居心地の悪さを感じながら、自分のコートの毛玉をハサミで切ったり、思い出したように腹帯作りを再開したりした。いつの間にか、面会の人の波は途切れ、待機室は朝のような静けさに戻っていた。そこに突然現れたのは、三女が赤ちゃんのときからお世話になっていた病院のU先生だった。U先生は、ここの大学の出身だったので、三女の手術の日は応援に来るというのは知っていた。「今、○○ちゃんの肝臓を摘出したところで、お父さんの肝臓の切除を待っているところです。 一時中断はしましたが、その後は問題なく進んでいます。」そう言い終わると、U先生はいつもの笑顔を残して、手術室へ戻っていった。U先生の顔を見たときの安堵感は、旅先で親戚に会ったような感じだった。不意に、待機室の横を通り過ぎる職員の声が聞こえてきた。「きょう、移植やってるんだ・・・」「あぁ、そうみたいだな」(この日記は、2月の手術の回顧録です)
2006年04月09日
きのう(次女)、きょう(長女)の入学式で、2日連続「国歌斉唱」です。”国歌を歌いたくない”という人がいるそうですが、なぜなんでしょうね?日本人として生きているのが、恥ずかしいんでしょうかね?自国を愛する気持ちが、凶器に変わるとでも思っているんでしょうか?静岡県人が、静岡を愛する気持ちが高まっても、栃木を愛する栃木県人に、敵意を感じることはないと思うんです。家族を大切に思う気持ちがあれば、よその家族の気持ちだってわかるようになります。私は、日本人として生まれて、日本で教育を受けさせてもらって、日本の医療のお世話になっています。教育内容や、医療システムに問題がないとは言えませんが、それらは日本人として改善する努力をすべきであって、敵対することではないと思います。
2006年04月07日
ドクターたちと席に着きながら、自分でも驚くほど冷静に、そう切り出した。すると、小児外科ドクターが手を横に振り「中止ではないのですが、お話しなければならないことがありまして」それは、夫の肝臓の組織を顕微鏡で調べたところ、脂肪肝のなごりと見られる炎症が見つかり、このまま移植に踏み切って良いか、内科のドクターたちを交えて話し合いをしたということ。その結果、手術を中断することによって高まるリスク(三女の肝機能悪化)と、更なる治療による夫の肉体的・精神的負担、それによって得られるメリットなどを考慮すると、炎症がもたらすリスクより、中止のリスクのほうが高いと判断されたということだった。「この結論を聞いて、お母さんが手術の続行を希望するかを伺いに来たのです」答えはひとつしかなかった。「手術をお願いします。」そう言い終わると、ドクターたちは早々に席を立って、手術室へ戻って行った。時計は、11時を回っていた。
2006年04月06日
夫を見送った私は、またもや隣りのエレベーターに乗り、今度はGICUのある3階へ降りた。夫は、手術後にこのGICUに戻ってくる。患者の関係者は必ず1人、このGICU前にある「待機室」にいなければならない。あって欲しくないことだが、緊急の場合があるからだ。「待機室」には、すでにほかの患者さんの家族が、長椅子に座っていた。時計を見ると、もうすぐ手術の始まる9:00。長い一日になりそうだったので、三女が手術後に使う腹帯を縫うための道具を持ってきた。親しい人に、手術開始のメールを送ったあと、縫い物にとりかかった。その間にも、三女と夫のことを心配してくれている人から、次々にメールの返信が届く。予想外に、10時までの1時間はあっという間だった。”この調子で、すんなり2人の手術が終わってくれれば・・・”そう思った矢先、見慣れたドクターを始めとする、移植チームのドクターたち7~8人が手術服のまま現れて「お母さん、ちょっとお話がありますので・・・」と、別室へ案内された。
2006年04月06日
三女の乗ったエレベーターが動き出したのを確かめてから、となりのエレベーターで、9階の夫の病室に向かった。ベッドに座っていた夫に「泣いてなかったよ」と、三女の様子を報告すると、”うん”とうなずいた。そこへ看護師さんが「そろそろ手術室に向かいます」と迎えに来てくれた。三女と同様、エレベーター前までしか同行できないので、看護師さんと夫が乗り込んだエレベーターのドアが閉まるのを、黙って見ることしかできなかった。夫は、ドアが閉まるまで、何も話さなかった。手術が順調にいけば、再会するのは8時間後。
2006年04月05日
三女の移植手術の朝8:30。手術室に向かう前の三女との面会を許され、すでに手術着に着替えを済ませた夫と小児病棟へ行った。これから何が始まるかわからない三女は、予定外の面会に始終ニコニコしていた。ふと見ると、夫は声も出さず、涙を拭うこともせずに泣いていた。三女の境遇を不憫に思ったのか、手術への不安かはわからない。夫に声をかけられない代わりに、三女に向かって「これから、お父さんの肝臓をもらうんだよ。だから頑張ろうね。」と言って、その場をつくろうのが精一杯だった。「オレは部屋に戻るから」そう言ったかと思うと、夫はスタスタと病棟を出て行ってしまった。それから間もなく、三女も手術室へ向かう時間になり、その日の担当の看護師さんが「じゃ、行きましょうね」と言って、三女のベッドを押しながら歩き始めた。てっきり、大勢の看護師さんに見送られるのかと思っていたので、ちょっと拍子抜けしたが、それは、手術を受ける患者と家族への配慮かもしれない・・・と思い直した。エレベーターが開き、「お母さんとはここまでなので、次はお父さんの見送りに行ってください。」と言われ、泣きもせず、手も振らずに、こちらを見つめる三女の姿が、ドアの向こうに消えるのを、ただ見つめるしかなかった。
2006年04月04日
”初登校”(?)ということもあって、今朝は、次女と歩いて学童(学校の教室を使用している)まで行って来ました。保育園の友達が、10人近く入所することもあって、あまり心配はないものの、次女の理解力がどこまで通用するか・・・それが心配です。きょうは初日なので、お昼で帰してもらうことにしました。先生に「12時に、高校生の娘が迎えに来ますから」というと「あ・・・高校生でも、子供さんのお迎えは認めていないんですよ。説明会のときにお話したはずですが・・・」理解力がないのは、この私じゃんでも、そこは経験豊富な先生。「では、12時になったらお帰ししますので、その帰り道でバッタリお姉ちゃんに会ったということでしたら、こちらとしては問題ありませんので・・・」長女には、12時に学童の近くで、次女に”バッタリ”会ってもらうことにした。
2006年04月03日
「スピリチュアル・ヴォイス2006」に行ってきました。(そうです、あのチケットを手に入れたんです。値段は・・・ヒ・ミ・ツ)一緒に行ったのは、もちろんMちゃん。今まで、ほとんどの”江原本”を読んでいる私には、『復習』とも言うべき内容でしたが、”そうそう・・・そうなんだよ~~~”と、うなずきっぱなしでした。初めて会ったとは思えない親近感(テレビで見てるんだから当たり前か)とても同い年には思えない風格(人のこと言えないでしょ・・・って、ふけてるってこと!?)心地よい眠りを誘う声(実際寝ました)そして、勝手な思い込みですが、”また会える”と思いました。先日の、『オーラの泉』に出演した、綾戸 智恵さんが収録後に「2人とも(江原さん、美輪さん)長生きして~!!また会いたい!!」と言っていた気持ちがよくわかりました。
2006年04月02日
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