全24件 (24件中 1-24件目)
1
週末はいずれも逆転で2位ロッテを突き放す見事な3連勝。王者の底力を見せつけた、我がイーグルス戦士が着けるのは緑色の企画ユニホーム。東北の復興を願い、東北の豊かな緑が変わらなくあり続けることへの願いをこめて、「ときわ色」としたという。ここで、常盤木学園のことを思い出した。■関連する過去の記事 「常磐」と常盤木学園(2013年3月17日)ところで、複数の国語辞典をみたが、「ときわ」は「常磐」で、永久に不変なこと(雅語的表現)、木の葉が一年中緑で色が変わらないこと、とある。派生語として「常磐木」は、一年中緑の葉がみられる常緑樹のこと、とある。とすると、前回の記事では、トキワは「常盤」が本来で「常磐」もありうる、との趣旨を記したのは正しくなかったのか。さて、イーグルスの公式サイトの説明では、こうだ。「つね(常)に変わらない」という「常磐」の意味を持つ色「常盤色」を使ったデザインのユニフォーム何だか、ひじょうに混乱してきた。
2013.07.29
コメント(0)
仙台市市民文化事業団のプロジェクト。亜炭や埋木のツアーや投句募集など、数十年前の亜炭の暮らしを「掘り起こす」動きのようで、大変面白そうだ。パンフレットには次のような説明が。亜炭は戦後の仙台市内で風呂用としてごく一般的な燃料であった。燃えると微妙な匂いが漂い、たそがれ時ともなると路地に紫煙がたなびいた。その匂いと煙で夕方になったことを知り、一家だんらんのぬくもりを教えてくれた。(市史せんだいvol.12より)仙台は足元から生活燃料が採れる街でした。また同じ地層からは、地元の工芸特産品「埋木細工」の原木も産出され、一家にひとつはアルトもいわれるほど普及していました。しかし時は流れ、かつて大人達を手伝って風呂の焚きつけをした子どもたち(今や還暦越え)の記憶からも亜炭は消えつつあり、埋木細工もまた、現在では最後の工人ひとりを残すのみとなってしまいました。地下鉄東西線工事が青葉山の亜炭層を掘り抜いて奇しくも時代の地層が開かれつつある今、ひとむかし前の仙台のくらしの風景を、当時を知る方々の証言とともに再発見してみたいと思います。現在、メディアテークで亜炭や埋木などについての展示をしているという。
2013.07.26
コメント(0)
〔前回から続く〕■前回の記事 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その1)(2013年7月20日)宮崎道生『青森県の歴史』山川出版社、1987年(2版12刷)による。「日本書紀」斉明天皇5年(659)の記事に、遣唐使が道奥の蝦夷男女2人を唐の皇帝に紹介したことが記されており、その注に引用されている「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書」に唐の皇帝との問答を記録している。この記録はそのままには信じがたいが、この問答によると、蝦夷は国の東北におり、五穀がなくて肉を食べて生活しており、昼舎はなく深山の木の下に住んでいることになっている。そして蝦夷には三種類あり、いちばん遠いのを「都加留」といい、次が麁蝦夷(あらえびす)、いちばん近いのを熟蝦夷(にぎえびす)と呼ぶが、この二人は熟蝦夷であると答えている。前項で述べたとおり〔おだずま注:前回の記事を参照〕、「日本書紀」には「都加留」「津刈」「東日流」「津軽」などの文字が使用されているが、津軽は右の問答から見ても国の中央から遠く離れた地域の意味と考えられ、「道奥」すなわち「国の果て」「政治の外」ないしは「国の後方」の僻遠の地が青森県だった。津軽の蝦夷が具体的に文献に見えるのは、斉明天皇元年(655)に難波宮で「柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈蝦夷六人に冠各二階を授く」(「日本書紀」)とあるのが最初である。もっともこれ以前に武内宿祢の東夷の状況報告や、日本武尊の東国・陸奥遠征、田道将軍の蝦夷征伐などの伝説があり、また「宋書倭国伝」の有名な倭王武(雄略天皇)の上表文の「視禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑をつらぬきて...東は毛人を征すること五十五国...」とある「毛人」が蝦夷のことを指すと考えられているが、5世紀になると蝦夷が大和朝廷と接触はしたであろうが、東北北部までは朝廷の勢力が及んでいないから津軽蝦夷はこれにふくまれていない。津軽地方にも田道将軍の伝説があり、田道将軍が蝦夷の謀略にあって戦死したのが猿賀神社(南津軽郡尾上町)付近とされているなどはもちろん後世の仮託にすぎまい。7世紀にはいると、舒明天皇9年(637)に上毛野君形名の蝦夷征伐もあるが、これは関東地方のことであり、大化改新直前の時期は「日本書紀」に蝦夷に関する記事も多いが、津軽の蝦夷とは関係がないであろう。津軽の蝦夷が本格的に中央政府と接触するのは、大化改新後の蝦夷政策の推進(646年渟足柵、647年磐舟柵など)以後で、それを示すのが前記の斉明天皇紀元年の記事である。このあと同4年(658)4月の条に、阿倍引田臣比羅夫が180艘の舟を率いて齶田(秋田)、渟代(能代)の蝦夷を討ち、渟代・津軽の郡領を定め、有間の浜で渡島蝦夷らを集めて大饗(おおあえ)を催している記事がある。その結果7月には、蝦夷200人が朝廷に貢物を献上したので、津軽郡大領(こおりのみやっこ)馬武(めむ)に大乙上(たいいつのじょう)、少領(すけのみやっこ)青蒜に小乙下(しょういつのげ)、勇健者(いさみたけきもの)2人に位一階を授け、別に馬武らに鮹(たこ)旗20頭、鼓2面、弓矢2具、鎧2領を賜ったという。翌5年の条にも同様に180艘を率いた比羅夫が、飽田、渟代、胆振さえ〔金偏に且〕蝦夷とともに、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人を集めて供応して禄をあたえ、後方羊蹄(しりべし)を政所として郡領を置いて帰ったという記事があり、さらに翌6年にも比羅夫が200艘で粛慎を討ったという(粛慎(みしはせ)とは沿海州のツングース族との説もあるが、蝦夷の一部であろう)。この3か年にわたる遠征は7か所にわたって「日本書紀」に記されているが、重複して記載されていると考えられるところから、遠征の回数についてもさまざまな解釈が行われている。これは、比羅夫遠征記事が二種類の史料から成り立ち、1つが阿倍氏の伝承的記録であり、他の1つが政府の記録で、「斉明紀」の記事がそれらを寄せ集めて配列したことに起因するという(高橋富雄「蝦夷」)。それはともかく、日本海沿岸の津軽蝦夷の一部も朝廷に服従したことになるが、越国守としても阿倍氏が、その辺境経営の一端としておこなったのがこの蝦夷征討であったろうから、「郡司」「郡領」ないしは「大領」「小領」などに任命したというのも、酋長、族長としての待遇をして友好的朝貢関係をしいたという程度に過ぎず、律令的郡制による任官でないことはもちろんである。渡島(男鹿半島・津軽半島説と、北海道南部説がある)の蝦夷を大いに供応したという「有間浜」については、青森県にも西津軽郡深浦の吾妻浜、北津軽郡市浦村岩木川河口の十三(じゅうさん)付近、北津軽郡小泊付近、さらには善知鳥(うとう、青森の旧名)付近など諸所に比定する説がある。日本海岸のどこかであろうが、その後の柵などの拠点設置場所が、奥地との関係で大河の河口付近であることや、日本海の潮流の関係などを考えると、深浦よりはむしろ十三付近と考えるのが妥当のようである。「後方羊蹄」についても同様に、北海道後志地方のほかに青森県下にも深浦付近、十三付近、後潟(青森市)の摺鉢山などの比定説があるが、有間の浜の付近だったとするほかはない。〔続く〕■関連する過去の記事 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 白八幡宮(鰺ヶ沢町)(2013年5月27日)(阿倍比羅夫の遠征) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(高橋富雄氏の見解) 青森県民の気質(06年11月7日)(宮崎道生氏の見解) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2013.07.25
コメント(0)
クマには何の責任もないのだけれど、最近あちこちで出没して人間様の世界で話題になっている。こんどは仙台の中心部にほど近いところだ。昨日(22日)には仙台の川内亀岡北裏丁で1メートルの子グマが、出た。朝の6時40分で、新聞配達の人が110番通報したのだそうだ。警察はパトカーで周辺を巡回し、注意を呼び掛けたというのだが、管轄は何と仙台中央警察署だ。報道では、亀岡北裏丁の山林、という。北裏丁とは、亀岡の公務員住宅と牛越橋の間のバス通り沿いだ。成田山の方から山を下りてきたのか。人間様は騒いでいるだろうが、もともと青葉山は豊かな森で、国分氏や政宗が後から天然の要害と目をつけたのだ。西の郷六に伊達家が自然と親しむための御殿があったと聞くが、今ではもっとの西の郷六折立や栗生まで団地開発して人間様のすみかとなってしまった。そもそも仙台は自然豊かな町だったのだ。書物を見ても、昭和の頃まで中山や向山で狼や鹿が鳴いていた。宮城野では鈴虫。もっとも、クマにとっても人にとっても、事故がないことが大事。クマたちも、いや~クマったと思っているはずだろう。
2013.07.23
コメント(0)
宮崎道生『青森県の歴史』山川出版社、1987年(2版12刷)による。多賀城碑には、「去京一千五百里」「去蝦夷国界一百廿里」とあって、都から蝦夷の国界までの距離は、1620里(1080km)とみなされていたと知られる。まして、エミシの中でも最も遠くに住む「都加留」エミシについては、都の人々が未開野蛮の種族と考えたのも無理はない。蝦夷は、平安後期の歌では「えそ」と表現しているが、古訓では「えみし」「えびす」だった。これが平安後期以後「えぞ」の訓となるが、エミシではなくアイヌを意味するものとなっている。(ただし、古くは北奥の地にアイヌ人が住んでいたことも事実であり、青森県では江戸時代になっても津軽半島の一部に「狄」とよばれるアイヌ人がいたのであり、津軽藩の政治家乳井貢のいわゆる宝暦改革で解放政策がとられたりしている。)ところでツガルの語であるが、日本書紀の斉明天皇紀にみえるのが初めであるが、はやく新井白石が解釈を試み(「蝦夷志」)、明治に入って「新撰陸奥国誌」の解説、吉田東伍博士の詳しい説明(「大日本地名辞書」)などがある。後二書により要点を述べると、まず文字は、津刈、都加留、津軽、東日流など、さまざまである。陸奥国誌では、ツガルとは「津借」の意味であり(むかし蝦夷が松前藩から渡ってきてこの国の津を借りて住んだ)、この地は日本の尽頭にあたるから、西の対馬にたいして東方蕃国の津所とし、「都加留」の意味を改めて「津加留」のそれとしたのであろう、津刈・津軽の津は正字で刈・軽は仮字であり、日東流(東日流とあるのは誤用か、とする)という表現は意味に基づいて書いたもので、日東は日本、流は「荒服最遠の処」の意味である、津軽をあるいは「津加呂」とも訓(よ)んだらしく、清輔朝臣集の歌などにそれがみえる、なお都加留はツカルと清音でよむべきで、濁音の場合は都我留となるのである、などと述べている。うがったおもしろい説だとは思うが、これに対して吉田博士は、白石説以下の先行諸説をすべて疑わしいものとし、「ツカルは夷(アイヌ)語か、今の夷語トカリは海豹なり」とされている。はやくは有名な「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書」に、エミシは五穀がないため肉を食べて生活し、屋舎がなく深山の中、木の根元に住んでいる、などとあり、平安時代に入り再三大征討が行われた後も、都人からは野蛮視されたのであるが、問題はそういうエミシがなぜ長い間中央政府の軍隊を悩まし、たやすくその支配に服しようとはしなかったのかの点にあろう。ことに津軽エミシは、その党が多種で勇壮でもあったことから、その動向について政府がきわめて神経質だったことは平安初期の正史・公記録の伝えるとおりであるが、その背景や基盤となるものについては一般に関心が払われていないようである。人間と風土の関係はひじょうに密接であるから、北奥寒冷のこの地域に住む人々が厳しい自然の圧力に良く耐えかつ生きぬいたことは、そのたくましい生活力、ひいては精神力を育て上げた主な原因と思われる。いったい岩木山麓、大森勝山の縄文時代竪穴遺跡の示すように、津軽の地域に早くから人間が住んでいたのは明らかであり、長い間に生産手段、社会構成さらには精神生活についても工夫や進歩があったはずだ。それにしても文化は水と同じく高きより低きに流れる。中央の文化が意識的無意識的にこの地域に入ってきたことは言うまでもないところで、その意識的努力の表れが奈良から平安時代にかけての朝廷のエミシ同化政策だったといえよう。「津軽の狄俘は野心測り難し」といわれたが、一面からすればこれは津軽エミシの柔軟な政治姿勢を示すものでもある。現に反抗一点張りではなく、適当に政府と妥協している場合があるのである。そこに政府によって田村麻呂伝説の示唆するような和戦両様の構えがとられる根拠もあったと思われる。あの「日本中央」の四字をきざんたという、そして多くの文人の関心をひきつけた「壺の碑」の伝承には、征夷大将軍坂上田村麻呂の、すなわち中央政府の壮大なプランがよみとれると同時に、他面またエミシ、ことに津軽エミシの英雄的抗争の歴史が記念碑的に投影しているともみられよう(ただし、田村麻呂と津軽エミシが交戦したかは不明)。吉田東伍博士は、エミシの人種論の後に、「本邦歴史の二千年は、専ら此の蝦夷の北走を観るものとす」といわれ、その存在意義の重さを強調されたが、少なくとも二千年の三分の一ないし半分にあたる期間、すなわち我が国の原始・古代に該当する時期は、一面エミシとの対決の時代でもあったわけで、エミシわけても北門の雄津軽エミシは、まだまだ多くの謎を秘めたままで我々の眼前に横たわっていることを、改めて思い知らされるのである。〔続く〕■関連する過去の記事 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 白八幡宮(鰺ヶ沢町)(2013年5月27日)(阿倍比羅夫の遠征) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(高橋富雄氏の見解) 青森県民の気質(06年11月7日)(宮崎道生氏の見解) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2013.07.20
コメント(0)
日本三大船祭りの1つに数えられる塩釜みなと祭の「神輿海上渡御」が15日行われた。朝日と読売では、「日本三大船祭りの1つ」と紹介している。前夜祭と合わせて8万5千人の人出。神輿海上渡御は、塩釜神社の神で古来海からの道案内の役割を果たした塩土老翁神(しおつちおじのかみ)を年に一度、海にお連れする神事。志波彦神社と塩釜神社の神輿を乗せた神輿専用船の龍鳳丸と鳳凰丸が、約1000隻のお供船と松島湾を巡航した。(朝日の記事による)日本三大船祭りの他2つは、貴船神社の貴船まつり、厳島神社の管弦祭、とのことだ(朝日)。なお、河北新報は「三大船祭り」との紹介はないが、祭の由縁を記している。みなと祭は、戦後復興を目的に1948年から始まり、ことしで66回目。市中心部ではパレードが行われ、塩釜伝統のハットセ踊りや村山市から参加した「徳内ばやし」などが披露された(河北)。みなと塩竈の復興。祭の始まりもそうだったのか。世代をこえて思いは一つ。がんばろう塩竈。
2013.07.18
コメント(0)
昨夜はオリックス相手に逆転。田中は開幕13連勝。1点を許して完投した田中は、連続無失点が42回で途切れた。これはシーズン連続イニング無失点としては、(2リーグ制以降)歴代11位の記録。しかし、安定感は抜群で、連勝記録などを更新中だ。河北新報が各種記録を掲げてくれている。■連続イニング無失点 42(2013年6月9日-7月16日) 両リーグ歴代11位 1位は金田(国鉄1958年)の64回1/3だ。2位杉浦(南海1959)54回2/3、3位別所(巨人1955)、4位藤川(阪神2006)、5位小山(阪神1962)、6位ダルビッシュ、7位堀内、8位杉浦、大竹(広島)、10位金田(巨人1965)■連続シーズン連勝 17(昨年8月26日から。更新中) パ歴代2位タイ パ1位は稲尾(西鉄1957)で20連勝、2位足立光宏(阪急1970-71)17連勝。 両リーグでは、1位(20連勝)が松田清(巨人1951-52)、稲尾、3位(18連勝)が中田良弘(阪神1981-85)、4位タイが足立、田中。■開幕連勝 13(更新中) 歴代4位タイ 2リーグ制以降で、1位(15連勝)は間柴(日ハム1981)、斉藤(SB2005)。3位(14連勝)篠原(ダイエー1999)。4位(13連勝)は堀内(巨人1966)と田中。
2013.07.17
コメント(0)
〔前回(十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日))の続きです。〕旧十三小学校周辺の領主館想定地区では、領主館の南を区画すると推定される堀や掘立柱建物、井戸などが発見されている。また、十三神明宮周辺の家臣団館想定地区では、南北に延びる中軸街路及び直行〔おだずま注:直交か〕すると思われる道路跡、館にともなうと考えられている堀などが確認されている。土塁の南側の町屋想定地区では、15世紀前半の中軸街路に面して町屋敷が形成され、それと同じ頃に、畑地も形成されたことが明らかになっている。江戸時代には、江戸・上方を結ぶ重要な湊であったが、1672(寛文12)年頃、十三湊を経由して、岩木川筋の米を鰺ヶ沢に送る輸送経路である十三小廻(じゅうさんこまわし)体制が確立されると、移出入港としての地位は鰺ヶ沢港へ移り、岩木川舟運と鰺ヶ沢港を結ぶ中継港にかわった。水戸口は、初め明神沼の南西にあったと考えられ、現在の内湖の南端より海に出る狭門(せばと)水戸、現在の水戸口と狭門水戸の中間に古水戸(本多水戸)があった。十三湊が商港としての役割を終えたのは、近代に入って蒸気船が増加して土砂の堆積で水深が浅くなり、港への船の出入りが困難になったことと、明治時代末期からの十三湊北岸と青森貯木場を結ぶ津軽森林鉄道の開通によるという。十三山港迎寺(そうごうじ) 浄土宗 1625(寛永2)年創建、開山は鈍誉(天竜とも)港栄山願龍寺(がんりゅうじ) 浄土真宗 1648(慶安元)年、寺の縁起によると1596(慶長元)年、雪典の創建という。明神沼の南に、湊神社 祭神は速秋津彦命 中世の浜明神跡と伝えられ、十三湊に出入りする船の安全を祈願する社である。伝檀林寺(だんりんじ)跡 1160(永暦元)年、藤原秀衡の弟秀栄(ひでさか)が平泉中尊寺に劣らぬ壮大な寺院として建立した霊鷹山(れいおうさざん)檀林寺があったと伝えられている。秀栄は1193(建久4)年にここで死去し、埋葬されたという。2000年以降に一部発掘調査が行われ、寺院跡の存在を裏付ける遺物が出土している。■参考 青森県高等学校地方史研究会編『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年■関連する過去の記事 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日)
2013.07.16
コメント(0)
国道280号の道端に1mほどの大きな赤い岩。ベンガラ(第二酸化鉄)が自然に露出している岩である。ベンガラは赤の顔料として古くから利用され、神社の鳥居に塗られたり、口紅の材料にも使われた。文化財指定(県天然)を受けているのは岩の周辺30aだが、赤根沢は昔から天然のベンガラの産地として有名であった。弘前藩では早くから採掘に取りかかり、1670(寛文10)年に江戸城の紅葉山御宮修理用として「赫土(あかつち)」60貫(約225kg)を幕府に献上している。そのほか、1675(延宝3)年、1686(貞享3)年にも赤根沢のベンガラが幕府に献上されている。記録によると、延宝年間(1673-81)にはすでに赫土奉行がおかれ、また、1694(元禄7)年の「御国中道程之図」に茜(赤根)沢御番所とみえ、弘前藩が管理していたことがわかる。赤根沢産のベンガラは、弘前藩領内では岩木山神社(現弘前市)の大堂と山門、領外では日光東照宮(日光市)の修復にも使用された。しかし、その後、1785(天明5)年にここに立ち寄った紀行家橘南谿は、『東西雑記』に「柵も破れて守る人もなく通行は自由である」と書いていることから、その頃は既に廃山になっていたことがわかる。この沢にある山(やま)神社(祭神山神(やまのかみ))は小さな祠だが、採掘されたベンガラの海上輸送に際して航海の安全を祈願するために、2代藩主津軽信枚が、1628年(寛永5)年にまつらせたという。天然のベンガラを産出する所は全国でも珍しく、現在でも周囲の岩肌には赤いベンガラが露出している所がみられる。■参考 青森県高等学校地方史研究会編『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年■関連する過去の記事 赤根沢の赤岩(今別町)(2013年6月15日) 袰月海岸、高野崎(今別町)(2013年6月14日)
2013.07.15
コメント(0)
十三湖や十三集落などの十三は「じゅうさん」と読むが、中世から江戸時代後期にかけては「とさ」と呼ばれていた。その語源にはいくつかあるが、アイヌ語の「ト・サム(湖沼・の畔(ほとり))」という説が有力である。「日本書紀」斉明天皇四(658)年夏4月条に、阿倍比羅夫が有間浜(ありまのはま)で渡島(わたりじま)の蝦夷を集めて饗応した所としてみえ、十三湊付近にあてる説もある。この地が港湾として利用されるのは中世からのことで、15世紀前半に南部氏にこの地を追われるまで、蝦夷管領安藤氏の日本海貿易の拠点であった。室町時代初期にまとめられたといわれる「十三(とさ)往来」には、繁栄をきわめた様子が記され、文明年間(1469-87)に成立したという海商法規「廻船式目」では、三津七湊の1つに数えられている。十三湊遺跡は、13世紀から15世紀前半に本州最北端の湊として、アジアや北方地域との交易によって繁栄した中世の港湾都市遺跡である。また、旧北津軽郡市浦(しうら)村十三(じゅうさん)の盆唄に、「とさのすなやま」で歌い出す「十三の砂山」がある(砂山節、砂山踊りとも)。北前船の船乗りが残した船歌で、盆踊り歌として悠久の時を超え、浜辺で踊り歌われている。■青森県高等学校地方史研究会編『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年■関連する過去の記事 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日)
2013.07.14
コメント(0)
今日は仕事でKスタには行けないが、地上波で少し見ていた。味方が勝ち越した直後の6回表、先発則本が走者2人を出してから3者連続三振。マウンド上で吠えた場面は、スイッチが入った田中を連想させた。田中は今週前半の日ハム戦(東京ドームでE主催)で、完封で開幕12連勝。また、連続無失点イニング40は、稲尾の39を越えてリーグ4位。各種報道から記録をみてみる。■連続イニング無失点 40(6月9日対巨人から)パのシーズン連続イニング無失点記録1 杉浦(南海59年)54回2/32 ダルビッシュ(日本ハム11年)463 杉浦(南海59年)434 田中(楽天13年)405 稲尾(西鉄58年)395 田中勉(西鉄63年)39プロ野球記録は、金田(国鉄58年)64回1/3■連勝 通算16(昨年8/26対日ハムから)、シーズン12開幕12連勝以上の投手(2リーグ制以降)15連勝 間柴(日ハム81年)、斉藤(SB05年)14 篠原(ダイエー99年)13 堀内(巨人66年)12 林(南海65年)、岩隈(近鉄04年)、田中(楽天13年)話を今日の試合に戻すが、画面上ながらKスタでプレーする直人や星孝典には、多少の感慨を覚えた。また、不思議だったのは、5回裏の西武の守り。1-1同点、岩崎と聖沢の連続安打を藤田が送って、1死2塁3塁。ここで、前打席で本塁打のジョーンズを前に3番銀次を敬遠して満塁とした作戦だ。結局ジョーンズはストレートの押出し四球を選んだのだ。4球目を余裕で見送ったジョーンズの「完勝」だった。この満塁策について何らかの解説を、ネットで探してみた。ネット上の評論としては、銀次にカウント2-0となった時点で、足の遅いAJで併殺を狙うことに切り替えたというものがある。とすると、判断はこうだろうか。すなわち、銀次の打席で勝負に行くとすれば、悪い方から順に考えて...(a)安打で2点追加され、なお1死2塁でAJとマギーを迎える(b)犠飛で1点追加され、2死2塁でAJを迎える(b')カウントによってはスクイズ敢行され1点。2死2塁でAJ(c)内野ゴロだが岩崎生還で1点追加され、2死3塁か2塁でAJを迎える(d)内野ゴロ凡退か三振。2死2塁3塁でAJを迎えるという結果が想定される。十亀は、聖沢の打球を受けた影響もあるのか、ボールが先行してしまった。ゾーンを狙って甘くなった球を打たれると、2点を覚悟しなければならぬ。とすると、むしろ銀次を歩かせて、(e)AJで併殺でチェンジ(f)AJ併殺崩れで1点追加される。2死でマギー迎える(g)AJ犠牲フライで1点追加。2死でマギー迎えるのいずれかの方が、マシではないか。銀次で勝負に行くと、アウトカウントが増える(c)や(d)なら良いが、(a)か(b)になって1点を与えた上でAJを迎えるよりは、満塁の状況にしておけば、守りは堅いからうまくいけば追加点無しでこの回を切り抜けられる... との判断ということになる。この決断を支えるものとしては、左の銀次より右のAJの方が怖くないとの判断、あるいは十亀がデータで勝っていた事情があったのかも知れない。結果はAJにストレートの四球。完全に十亀が「飲まれた」形だった。そして、直後のマギーは実際の結果が併殺のとれる凡打で、ショートが確実に処理していれば1点止まりだったから、西武のとった戦略もせめてもの評価ができたかも知れない。でも結果の事実としては、2点の追加を許した。評価としては、どうだろうか。野球の戦術は詳しくないが、ジョーンズ勝負という西武の判断は理解しがたいように私は思う。また、いずれにしてもイーグルスとしては、大型主砲に勝負を挑まれたのだから、見返してやることができたのは、本当に良かった。前の打席ではソロを見せつけた。そして、この打席では「四死球王」の貫禄を示した、ジョーンズだった。
2013.07.13
コメント(0)
アイリスオーヤマが家電に本格的に参入するため、今月7日に、大阪は梅田の大阪駅前第四ビルに商品の研究開発拠点となる大阪R&Dセンターを開設した。関西の大手電機メーカーが不況でリストラした退職者を採用したという。大山社長は、家電発祥の地の大阪には、同社が目指すものづくりのスキルを持つ人が多いと述べたと報じられている。大阪は家電発祥の地、と言われればパナソニックやシャープなど、なるほどと思う。一般に使われる言葉かどうかわからないが。宮城の企業が分厚い関西経済界に入り込み、不況の我が国家電業界に旋風を、となるか。
2013.07.11
コメント(0)
例えば、「インサイダー取引の禁止にあたる」と誰かが言ったとする。意味は分かる。しかし、正しく言うならば「インサイダー取引禁止規定に反する」か「禁止されるインサイダー取引に該当する」だろう。実は、早朝からこんな事例をいくつか頭の中で考えていた。もう出かけます。
2013.07.10
コメント(0)
東京ドームについて様々な予想が乱れ飛んだ。例えば旧後楽園球場に比べて両翼が深くなったので、本塁打が減り長打が増える。すると、弱肩外野手が多くホームランバッターが少ない巨人は不利で、機動力を活かせる広島が有利、など。しかし実際には89年90年と連続して、巨人がリーグ制覇。2塁打3塁打は増えなかったし、本塁打も減らなかった。結局わかったのは、どこの球場でやっても弱いチームは弱いし、強いチームは勝つということ。■参考 博学こだわり倶楽部『数の不思議 面白すぎる雑学知識』青春出版社、1998年
2013.07.09
コメント(0)
我が国の比例代表選挙の議席配分はドント式で決めるが、かつて比例代表の議席配分方式として用いられた最大剰余法は、割り算をした答えの整数部分をまず割り当て、次に少数部分の大きい順に定数まで割り当てるというのが基本だ。しかし、最大剰余法では定数と獲得議席数の逆転が生じることがある。アラバマ州で発見されたパラドックスである。1881年の下院選挙で、総議席299のときアラバマ州の議席配分が8なのに、300議席になると7議席に減ることがわかった。小数点以下部分を整数部分とは切り離して(二の次にして)計算することのパラドックスとしては、小林繁投手が思い出される。昭和51年巨人の小林は中日の鈴木孝政と防御率トップ争いをしていた。結果は、鈴木が2.98で一位、小林は2.99で2位。しかし、小林の投球回数(217回と3分の1)は端数を切り捨てて計算されていた。もしあと1アウト撮っていれば、切り上げて218回として計算され、防御率2.97で一位になったはずだった。防御率計算では投球回数の端数を、3分の1は切り捨て、3分の2は切り上げるというルールから生じた現象だ。
2013.07.08
コメント(0)
米沢市の地図を見ると、北部、南部、東部、西部の各小学校がきれいに城下の四方にある。見事な陣形だが、気になるのが「北部」などの命名。方位で校名を付けるとしたら、米沢市立(米沢)北小学校というのならわかるが、北部、というのはちょっと抽象度が高いというか、どうもしっくり来ないのが、仙台・宮城の人の感覚だと思う。だが、山形県では他の町でも、「北部」や「南部」の校名があるようだ。平成24年度山形県学校名鑑をもとに、拾ってみた。以下には、「北」ではなく「北部」の名称を冠するもの(東西南北について)を挙げてみた。天童市 天童中部(27クラス)、天童南部(22)、天童北部(20)寒河江市 寒河江のほかに、南部、寒河江中部がある。寒河江市立寒河江中部小学校が24クラスで、寒河江市立寒河江小学校の18クラスより規模が大きい。河北町 谷地中部、谷地南部、谷地西部。なお、ほかに北谷地がある。東根市 東根中部(22)。なお、ほかに東根(20)がある。尾花沢市 福原中部真室川町 真室川(12)のほかに、真室川北部(8)がある。米沢市 興譲(14)のほかに、東部(24)、西部(25)、南部(21)、北部(22)とバランスも良い。なお、三沢東部、三沢西部もある。小国町 北部このように、小学校を区別して命名する場合に、宮城県だと、北や南、あるいは第一や第二などをもって区別することが多いように思うのだが、山形県では、かなり「北部」「南部」が広く使われている。「第一」や「北」はむしろ少ないようだ。以下に、該当するものを拾ってみた。山形市 第一から第十。蔵王第一から蔵王第三。南山形、北山形、南、西、東。(後のものほど創立が新しいのだろう。)上山市 東、南。西郷第一、西郷第二。大江町 本郷東、本郷西。七軒東、七軒西。大石田町 大石田、大石田南、大石田北の3校がある。飯豊町 第一、第二。鶴岡市 おなじみの朝暘第一から朝暘第六。羽黒第一から羽黒第四。櫛引東、櫛引西、櫛引南。庄内町 余目第一から余目第四。酒田市 東平田、北平田、中平田、南平田。なお、西荒瀬、南遊佐がある。遊佐町 遊佐のほかに、西遊佐。ちなみに、中学校をみると第N校名はかなり使われているが、方位校名はそもそも数が少ない。山形市 第一から第十。蔵王第一、蔵王第二。上山市 南、北。天童市 第一から第四。(以上で全て)寒河江市 陵南、陵東、陵西。(全)東根市 第一から第三。米沢市 第一から第七。高畠町 第一から第四。(全)長井市 長井南、長井北。(全)白鷹町 西、東。(全)鶴岡市 鶴岡第一から鶴岡第五。酒田市 第一から第四。第六。昨日の記事に書いた酒田市立飛鳥中学校は、来年度に市立東部中学校となるそうだ。上記のように山形県内の中学校で「北部」や「東部」は現在ないようだが、新校の命名に東部を冠する潜在意識として、県内の小学校で定着している命名法があるのではないだろうか。私見だが。なお、宮城県の県教委のサイトでも確認したが、「北部」「南部」の校名は宮城県内にはない。方位(東西南北)を使う校名の例としては、大河原南小(なお大河原小がある)、岩沼西小、岩沼南小(なお岩沼小がある)、八木山南小学校などかなりあるが。また、東四郎丸小学校、西中田小学校などは、(四郎丸東としないのは)そもそも「東四郎丸」が地域名として定着しているからだろう。■関連する過去の記事 飛島中学校と飛鳥中学校(2013年7月6日) 第一田名部小学校、第一川内小学校、第一田名部街道踏切(2013年7月5日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) むつ市立第三田名部小学校(2011年8月21日) 明星中は公募による命名だった(10年6月21日) 亦楽小学校、天真小学校、明星中学校のこと(10年6月20日) 鶴岡を訪れて考える(2005年11月05日)(朝暘学校)
2013.07.07
コメント(0)
山形県の学校関係の資料を見ていて、アレッと感じた。飛島中学校が2つあって、生徒数が違う。離島の飛島が生徒が少ないのは良いとして、もう一つの生徒200人弱で同名の学校とは、資料の書き間違いだろう。そう思ってよく見たら、「飛鳥(あすか)中学校」なのだ。これは失礼。酒田市立飛鳥中学校。合併前の飽海郡平田町立の学校として昭和47年に誕生。2つの中学を統合して生まれた。来年(平成26年)4月には松山中学校と統合するため閉校となるそうだ。新しい中学校は飛鳥中の校舎を使用し、東部中学校と称することが決まっているという。
2013.07.06
コメント(0)

以前気になって記事にしたこのこと。ナンバーを含む校名は、例えば古川第一小学校のように、地域+序数+校種の順が通常のように思われるのですが、むつ市には第三田名部小学校や第一川内小学校の例があります。■関連する過去の記事 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日)(第三田名部小学校) むつ市立第三田名部小学校(2011年8月21日)さて、実際に下北を旅をしてきた編集長、当然ながらココも訪れました。むつ市の中心部の第一田名部小学校。学校には坂道を登って行くようです。2番目の画像では、地元で「一田小」と略称されていることが伺えます。次に、市のやや南部にある第三田名部小学校。第三小はもともと訪れる計画まではなかったのですが、国道279号を走りながら期せずしてこの標柱を見つけました。以前に記事に書いたこの学校に、実際に出会えて感動です。川内地区では、国道沿いに第一川内小学校と川内小学校の両方に立ち寄ることが出来ました。さて、この旅では思わぬ発見(当地の方には失礼!)も加わったことを報告しなければなりません。それは、野辺地から国道279号(田名部街道)を北上しながらの発見でした。第一田名部街道踏切、第二田名部街道踏切、第三田名部街道踏切、と行儀良く順序に登場してきたのです。第一の踏切はまだ野辺地の街の中で写真は撮らなかったのですが、第二は横浜町との町境あたり、第三は吹越駅の手前だったと思います。下北は、「序数詞+地域名」の文化が浸透しているのでしょうか。
2013.07.05
コメント(0)

編集長の秋田・青森ひとり旅。たった3日間の行程なのですが、思い出しながらの見てある記と写真とをブログに書きつづっていたら、この旅ネタだけで1か月半も費やしてしまいました。読んでいただいた方には本当に感謝致します。今回の旅は、もう人生でこんなことはないと思いますが、秋田県の能代から青森県の三沢まで、海岸線を描くように、時計回りにひたすら走って参りました。紹介した写真や記事以外にも、さりげない美観、地名や建物の形などにもあれこれと、あるいは当地に生まれ育ったらどう見えるか、などなど想像を巡らしながら、自分なりの旅人気分を存分に味わって参りました。また、珍しくお菓子類もあちこちで買い込みました。旅の軌跡を思い出しながら、持ち帰ったお土産を列記してみます。ハタハタ館 ハタハタ饅頭5個青池(森の物産館キョロロ) 風のたより(アーモンドサブレ)、キーホルダー小泊(道の駅こどまり、ポントマリ) ごんげんざき龍飛崎 義経伝説焼き、ミルククッキー龍飛崎平舘(道の駅たいらだて) 平舘産とろろ昆布大間崎 するめ、鮪昆布、寒ふのり、イカ塩辛むつ市(まさかりプラザ、下北名産センター) せんべい汁、みちのく恐山街道(羊羹)、菜の花だより(ゴーフレット))、、しじみスープ、りんご餅、カントリーマアム青森りんご、関乃井なお、写真真ん中は、イオン下田SCで買ったワインです。ちなみにコストですが○ お土産(お菓子など)14400円○ ガソリン給油4回 19900円○ 宿泊代2泊分 8600円○ 道中の朝昼夕食、飲料類 7800円○ 施設入館料、駐車代など 1100円で5万2千円弱というところです。ほかに、ETCで対応の高速料金(9500円)を含めて総計6万円ほどでした。
2013.07.05
コメント(0)

淋代から再び内陸の小川原湖を、まっすぐに目指します。右に市民の森公園、左手には大きな化学工場が見えたかと思うと、有刺鉄線の米軍住宅エリアになりました。ほどなく湖面に出ました。この画像の左奥には、湖面の先に米軍の通信施設と思いますが象のオリ的な構築物が見えます。次の画像は、米軍基地の職員住宅の外柵の掲示。柵の中では、続々と帰宅する車が走って行きました。湖沿いの道路は面白い構造になっていて、道路は当然、私のように一般人が走行できるのですが、両脇は柵でリミットオフ。住宅からこの道路の下をパスして湖岸に出られるようになっているのです。当然、湖岸は一般人は入れないはず。この住宅は多分米軍施設の広大なエリアの北端になるのでしょう。最初の画像の象のオリにも、一般道をオーバーパスして通行する専用道があるようでした。ところで、ラジオは下北半島以来、まだ札幌の電波が入りますが、そのうちAMで英語放送がよく入るようになりました。ラテン系の歌なども。これも米軍家族向けでしょうか。そんな道路をしばらく行くと、山間地を経て東北本線と併走する県道(八戸野辺地線)に出ます。三沢の市内にはミスビードルドームがありました。道を間違えてしまい、三沢駅のすぐ北の踏切から東北本線の西側に出て、期せずして古牧温泉あたりも通行したのですが、駅の周辺は中心部に比較すると、かなり寂しい感じでした。道も狭いです。駅の南にコンクリートの橋桁がドミノのように並んでいました。駅周辺の交通の隘路を打開する直線路新設でしょうか。■関連する過去の記事 斗南藩と青森(07年11月4日) 小川原湖と市町村界を考える(07年11月8日) ミス・ビードル号と三沢市(2011年7月9日)■前回の記事 淋代海岸とミス・ビードル号(2013年7月3日)
2013.07.04
コメント(0)

三沢市の太平洋側、国道338号沿いに、淋代の町があります。結構住居が集積していて、名称から先入観があったのか、正直なところ意外でした。しかし、問題はミス・ビードル号記念広場への入口の案内が見つからない。適当なところで国道から淋代町内に入ってみましたが、随分漂流して、今度は南に来すぎたようで生コン工場あたりで国道に戻り北上。すると、ちゃんと看板が有りました。八戸から来た人にはわかる仕組みでしょうか。海岸林に記念碑があります。太平洋無着陸横断飛行記念之地、三沢市。碑の説明を読んでみます。この地は、アメリカ青年ヒューハーンドン、クライドパングボーン両氏がミスビードル号で太平洋無着陸横断飛行に成功した記念の地であります。飛行記録1.出発時間 昭和6年10月4日午前7時1分淋代海岸発2.着陸時間 昭和6年10月6日午前0時14分ウエナッチ飛行場着3.飛行時間 41時間13分 東奥日報社発表4.飛行距離 4,877マイル 淋代~ワシントン州ウエナッチ5.滑走距離 1,800メートル出発にあたり同機は荷重軽減のため車輪を投下して、その成功を期し、目的地ウエナッチでは、胴体着陸を決行しました。これに先だち昭和5年9月アメリカ青年ハロルド・ゲッティ、ハロルド・グロムリーの両氏が「タコマ市号」で同じ試みを行いましたが、パイプの故障でカムチャッカ方面より引返して失敗しています。また、昭和6年5月と9月に同じくアメリカ人によって横断飛行を試みられましたが、失敗しています。なお、日本人では昭和7年9月24日機長予備役海軍中佐本間清氏外2名にて「第3報知日米号」により離陸したが千島沖で連絡をたち、行方不明になりました。悲運の勇者の慰霊碑は浜三沢公園に、昭和37年10月建立されました。昭和60年8月三沢市林を抜けた海浜に、記念公園です。誰も居ないと思っていたら、岩手ナンバーの先客が帰っていきました。模型飛行機は木製でした。説明の看板を読みます。太平洋を翔けた人々 7,847km 41時間10分三沢淋代海岸を舞台に北大平洋の大空に挑戦した記録第1回とき 昭和5年9月14日 機名 タコマ市号飛行士 ハロルド・ブロムリー ハロルド・ゲッティー目的地 タコマ市結果 機体故障によりカムチャツカ沖から引返し、下北半島東通村尻労に不時着。第2回とき 昭和6年5月31日 機名 パシフィック号(タコマ市号を改名)飛行士 トーマス・アッシュ中尉 目的地 シアトル結果 2,000を滑走したが浮力がつかず停止。第3回とき 昭和6年9月8日 機名 クラシナマッヂ号(パシフック号を改名)飛行士 セシル・アレン ドン・モイル結果 出発後数日消息を絶ったがカムチャツカ東北端の無人島に不時着していたところをロシア船に救助された。第4回とき 昭和6年10月4日 機名 ミス・ヴィードル号飛行士 クライド・パングボーン Clyde Pangborn(35才) ヒュー・ハーンドン Hugh Herndon(26才)目的地 ソルトレイクシティー結果 無事太平洋を横断し、ソルトレイクシティーへ向かったが、途中濃霧のためウェナッチへ胴体着陸。(日本時間6日午前零時11分)飛行距離 7,847km 飛行時間 41時間10分昭和6年10月4日午前7時1分、アメリカ人クライド・E・パングボーンとヒュー・ハーンドン・ジュニアの2名の飛行士が乗ったベランカ単葉機、「ミス・ヴィードル号」が朱色の機体に425馬力のエンジンを響かせて、三沢村淋代海岸から米国ユタ州ソルトレイク・シティーをめざして飛行距離約8,000kmのノンストップの旅に出た。そして2日後の6日午前0時11分シアトル東方のワシントン州、ウェナッチ飛行場に胴体着陸を敢行し、無事に着いたのである。ここに人類史上、初の太平洋無着陸横断飛行(飛行距離7,847km、所要飛行時間:41時間10分、平均飛行速度191km/時)の劇的歴史の1ページが記された。この他にも、歴史の影に薄いが昭和5年9月のブロムリーとゲッティ両飛行士の「タコマ市号」の横断飛行挑戦、不時着による失敗、ついでアッシュ飛行士による「パシフィック号」での挑戦、これまた失敗、さらにアレンとモイル組の「クラシナマッヂ号」の挑戦がされたが、結果的に失敗に終わった。また、日本人では昭和7年9月24日の本間清海軍中佐外2名搭乗の「第3報知日米号」での挑戦、千島沖で行方不明等があるがいずれも、当時の「三沢村淋代海岸」を出立地として、太平洋無着陸横断飛行に次々と挑戦した歴史的事実がある。津波避難の塔に登ると、強風でかすかに揺れました。■関連する過去の記事 斗南藩と青森(07年11月4日) 小川原湖と市町村界を考える(07年11月8日) ミス・ビードル号と三沢市(2011年7月9日)
2013.07.03
コメント(0)

鷹架沼方面から南下、天ヶ森で小川原湖から流れ出る高瀬川放水路の橋を渡ったら、国道から内陸側に県道170号(天ヶ森三沢線)に入りました。途中の親水公園で小川原湖を撮影。午後4時頃で湖面を西に見るとちょうど逆光です。この県道は、開拓地風の地域を縦貫していきます。しばし走行すると、道の駅みさわ斗南藩記念観光村に着きました。ここでは先人記念館に入りました。常設展示は、名馬の産地「木崎の牧」にはじまり、洋式牧場を開いた斗南藩士廣澤安任の功績を中心に明治の先人達で、会津藩の家訓なども紹介されていました。展示室を出てホールでは、斗南藩の歴史や太平洋無着陸横断の説明などもあり興味深いものでした。(撮影は出来ないと言われていたので、学習資料として画像を持ち帰れないのが少し残念。)ところで、考えてみれば斗南藩領地は、下北半島の先の方と今の十和田市あたりで、三沢市に入封したのではないのでしょうが、元会津藩士で斗南藩役人だった廣澤安任らの功績が深くこの地に関わっているからでしょう。記念館は会津と斗南藩の歴史や資料を解説するものと勝手に思いこんでいた自分が、ちょっと違っていたようです。むつ市には、藩庁が置かれた円通寺や斗南藩史跡地、旧斗南藩士の墓などがあり、この日の昼にでもよく見てくれば良かったと、やや後悔も。(斗南藩史跡の解説)道の駅の売店にも立ち寄りました。■関連する過去の記事 斗南藩と青森(07年11月4日) 小川原湖と市町村界を考える(07年11月8日) ミス・ビードル号と三沢市(2011年7月9日)
2013.07.02
コメント(0)

半島のマサカリを回って再び田名部市街地に戻り、むつ下北観光物産館まさかりプラザに立ち寄ってみる。意外と売り場も広くなくて、人も居ない。事務室のお姉さんに聞いてみると、プラザの2階はホールとか映像とかなのだが、もう使っていないという。下北名産センター(下北産直広場)でも食材などを買う。そのままR279を南下し、途中では、昨夕は県道に折れて入った交差点で往路と合流。よこはま菜の花プラザまで進んで、休憩する。初心者マークを付けたアルバイトの2人から、菜の花ソフトを買う。300円。吹越から県道24号に入って、一気に鷹架沼、小川原湖方面に向かう。風力発電用の風車の多数ある丘陵を経由する。原燃PRセンター付近には立派な芝生の運動場などの施設がある。国道338号に出て南下する。まるで高速道路建設のような橋桁や路盤整備が見えたが、石油備蓄への直行路だろうか。電源関係の開発がなければ何もないところか。他の車は随分スピードを出して疾走する。
2013.07.02
コメント(0)

風間浦からむつ市旧大畑町に入ると、国道は木野部峠を登る。峠道の直前だったか、道路右手(山側)にコンクリート橋の遺構が見えた。写真は撮り損ねたのだが、下北森林鉄道だろうか。薬研温泉に行けば、公園に下北森林鉄道の跡があるようなのだが、時間の関係で行けない。■関連する過去の記事 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その2)(2013年6月19日) 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その1)(2013年6月18日) 下北半島の森林鉄道(2013年5月6日)大畑の町を半円形に大きく迂回するバイパスが整備されていて、ちょうど散った直後のようだが沿線に桜が植えられていた。下北交通大畑線の廃線跡もぜひこの目で見たかったのだが、国道沿いに2か所で立ち寄ることができた。画像は、各地点で上下を展望したので、合計4枚です。大畑線は、1939年(昭和14)下北-大畑間18.0km開業。1985年下北交通に転換、2001年4月廃止。■関連する過去の記事(大畑線) 南部縦貫鉄道(09年3月21日)
2013.07.01
コメント(0)
全24件 (24件中 1-24件目)
1

![]()