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大間を後に国道279号を風間浦村に入る。沢の黒海岸という標柱があった。随所で、岩のゴツゴツしたところに人が出ている。海藻でも拾うのか。しばらく行くと、海峡いさりび公園。二見岩に鎮座する恵比須神社、井上靖の文学碑「アカエリヒレアシシギ」があった。公園から少し行くと、風間浦村活イカ備蓄センターが道路脇にある。元祖烏賊様レース場、と出ているのだが上屋があるだけでレースの気配どころか、人影もイカの影も無かった。実は事前の想定では午前中に既に大間を出て、下風呂のイカ備蓄センターか「あさの食堂」でイカを食おうかとも考えていた。2日前に風合瀬イカ焼き村では時間に間に合わなかったこともあり、多少意気込んでいたのだが、(前回記事の通り)大湊や海峡ラインで出遅れてしまい、結局大間の食堂に入ったのだった。そもそもイカの季節もよく知らない呑気な旅人だが、それにしても備蓄センターは、事前の勝手なイメージが大きかっただけに、ちょっと淋しかった。また、寄らなかったが「あさの食堂」は国道沿いに大きな看板があって、ウニ丼が名物とか。下風呂温泉には大きなホテルが数軒建っていた。ここまで来て、風間浦とはたぶん、下風呂や途中で通ってきた蛇浦などの文字を組み合わせた合成地名だろうと気付く。(役場サイトの説明によると、明治22年の命名だから相当定着しているのだろう。)ところで、大間や風間浦村で気になったこと。その1は、大間までの国道338号(海峡ライン)と、大間からの国道279号(むつはまなすライン)で、4か所か5か所見かけたのだが、「交通監視所」なるボックスが路傍にあって、おば様が1名、場所によっては2名入っている。大型作業車から歩行者を守るという趣旨だろうか。或いは、道路の随所に遮断機があったが、何らかの場合に遮断機を下ろすことと関係しているのかも知れない。それからもう1点は、大間でだったろうか、「下北と北海道を最短で結ぶルート」みたいな誘致スローガンが掲げられていた。龍飛がトンネルなら下北は道路橋で北海道と結ぶという意気込みが伝わるような、すごい話だ。同じ東北人として申し訳ないが、この構想はよく知らなかったのだ。地元の本気度はどうなのだろうか。津軽海峡大橋という構想のようだ。そう言えば、国道279号も338号も、起点は函館市で、すなわち海上国道だ。本州から見れば、いずれも上北から出て、かたやR279は陸奥湾沿いに横浜、田名部から大畑に入って大間へ。国道番号からしてこちらが主動脈か。他方のR338は太平洋岸に鷹架沼や東通を経て田名部から今度はマサカリの刃をわたるように険しい山を越えて大間に至る。絡み合って半島の交流を支える2線が、大間で結節しているわけだ。
2013.06.30
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大間町を訪れました。思ったより町は大きくて、フェリーのターミナルを眺めながら、標識の誘導に従って大間崎へ向かいました。駐車場に停めて、お土産の店の間を抜け、大間崎レストハウスの方へ向かいます。雑誌やTVで見た馴染みのオブジェ。初めて実物を目にしました。「こゝ本州最北端の地」の碑もあります。弁天島の向こうには北海道の陸地が見えます。遂に来たという高揚感を味わいながら、土産物屋さんで、まず3枚で1000円のスルメを買いました。画像のスルメは後日自宅で最後の1枚を撮ったもので、何故かスルメ好きの子ども達と、一緒に食べました。それから、大間崎観光土産センターでは、塩辛など海産物を買い込みました。駐車場方向に戻る途中の「潮さい」で昼食をいただくことにし、「つるあらめラーメン」を食べました。11時半くらいで、私が最初の客だったようですが、その後に作業員集団、観光客のような中年ご夫婦が入ってきました。出発前には、駐車場に構えている出店でイカ一夜漬けを買いました。
2013.06.29
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国道338号は脇野沢の山間部に差しかかると、険しい坂や厳しいカーブが続く。海岸の絶壁や桜が見える随所で停車しながら、佐井村に入る。途中で、流汗台ゆとりの駐車帯というところがあった。また、駐車場脇から遊歩道が海岸方向に延びているところがあり、少し歩いて見たが、売店は廃墟と化していた。海が近くなった辺りで、新しい感じの駐車場があり、仏ヶ浦をのぞむ木造の展望台がある。説明板があった。緑色凝灰岩の断崖が海風の浸食を受け、仏具仏像に似せた奇岩奇石を形造った。一ツ仏、如来首、五百羅漢、極楽浜等、仏教にちなんだ名で呼ばれている。周辺およそ2Kmにわたって白緑色の凝灰岩が凄まじく立ちつくしている様はまさに極楽浄土を思わせる。大正11年大町桂月が訪れ、「神のわざ鬼のてづくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」と詠っている。 さらに進むと、山を下りていく国道から、真新しい木造の建物があり、外庭では何人かが走っている。福浦小中学校のようだ。校庭で体育の授業だろう。願掛岩という巨岩が海に突き出ている。佐井村の中心部の街村では、板壁のサイディングの家がほとんどだった。新築の建物もみなそうしている。申し合わせか補助金か何かで統一しているのかと一瞬思うくらいだった。その家並みの中を貫通していくのが、とても面白かった。珍しい光景の写真は撮り損ねたので、次の大間町に入ってから似たような場面を撮影したのが次の写真なのだが、佐井村の密集度がはるかに上だった。
2013.06.28
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陸奥湾を左に従えて国道は川内地区から脇野沢へ。サガレ石崎で海を眺める。中心部から右に折れて、海を背にして中山間地の風情の中を進むと、道の駅わきのさわ。リフレッシュセンター鱈の里とも書かれていた。その上に「いのししの館」がある。開館中と出ているので入ってみる。美容と滋養食に脇野沢いのしし料理、と幕があって、誰も居ないホールでは、何かの写真展のようだった。試食でもできるのか、とは甘い考え。国道沿いに降りると、道の駅のすぐ脇に野猿公苑。遊歩道を少し登るようになっている。昭和45年に天然記念物に指定された北限のニホンザルが、約50匹飼育されているという。入場券を販売機で自分で買って入る仕組みだ。一帯は「七引園地」というらしい。レクリエーション施設が集合していて、野猿公苑のほか、山村広場には、テニスコートや散策路の施設。バンガローは、家族用から15人用の広いものまでバリエーション豊か、と下北観光協議会のサイトに書いている。
2013.06.27
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大湊を過ぎると、国道沿いの建物も少なくなる。やがて川内の町に入るが、思ったより密集した街だった。往時は地域商業がさかんだったろう。地図にある傘松を見ようと、蛎崎地区の神社の庭にいた人に尋ねるが、知らないという。蛎崎小学校のそばのようですがと改めて聞くと、廃校になった小学校ならこの先だとやっと話してくれた。たしかに、あった。 廃校の小学校の脇に大きな老松。これが傘松か。写真に収める。「菅江真澄の歩いた下北」という、たぶん統一されたシリーズの説明看板が、松の傍らにある。松の説明はないが、次のように書いていた。蛎崎(かきざき)/むつ市川内菅江真澄が蛎崎を訪れたのは、寛政5年5月朔日(1793年6月4日)であった。下北半島に来る以前の数年間を「蝦夷が島」(北海道)で過ごしていた真澄は、松前領主の先祖にあたる蛎崎氏の城跡を見ている(『奥の浦々』)。この城に昔、蛎崎蔵人信純という武将がいた。安藤氏の水軍を後ろ盾に、南部氏の本家である八戸根城の政経に戦を挑む。しかし、陣営の中に南部氏を手引きする者がいて、奥戸(大間町)から上陸した南部方に背後を突かれ、安藤氏の拠点があった渡島半島の上ノ国に逃れたと云う。南部側の資料に従えば康正2年(1456年)のことである。上ノ国花沢城の蛎崎季繁は下ノ国家政の娘を養女とし、武田信広を婿に迎えた。その子孫が松前領主となった。真澄が蛎崎の里を過ようとすると、行く人が言うには、ここに鷺の湯という出湯がある。むかし火矢にあたって脛を砕かれた鷺が、この湯に入って日を過ごすうちに、癒えて飛び去った。それで、鷺の湯と名づけ、躰を打った人に効くと言っている、と。鷺の湯は、蛎崎の集落から北へ外れたところにある。いまは湯は温くなったが、眼に効くと言い、湧き出る丘の上に薬師を祀って、むらびとが護っている。松やこの看板と、廃校の間には小さな道がある。錦帯城、錦帯城公園入口という木製の標柱があった。さて、校庭の桜が咲いている学校跡が風情があった。むつ市サイトに説明があった。カラカサマツと呼ぶそうだ。不勉強な自分がカサマツと言ったから神社のおじさんには通じなかったのか。とにかく、由緒があるようだ。かつては高い木だった。街道の目印だったろう。
2013.06.26
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恐山から戻りは県道174号経由で、国道338号バイパスに出たところのローソンでお茶を買う。大湊に向かうと国道は旧道に合流し、さらに進むと、道の湾側に北洋館。まだ8時頃で閉まっているが、そもそも自衛隊の施設内のようだ。むつ市観光協会のサイトにはこう説明されている。明治35年8月旧海軍開設から現在までの北方の海上防衛をテーマに資料約700点が展示されています。大正7年に建てられた旧海軍の将校たちのサロンだった石造りの建物をそのまま資料館にしたもので、昭和54年日本建築学会から大正、昭和の名建築として選定されています。道向かいの公園で花見会場の用意がされているので、寄ってみる。小高いところに総督官舎があり、「祝海上自衛隊大湊地方隊創設60周年 大湊地方隊観桜会」や「歓迎 むつ桜まつり むつ市観光協会」の看板。紅白の幕も巡らされている。坂の上は、水源池公園だった。園内は随所に解説の看板があって、旧大湊水源地水道施設(北洋館側からの公園入口のプレートは「池」だが、こっちは「地」だ。なお市観光協会さいとも双方使われて混乱。)の階段や貯水池などの跡があるようだった。全体が傾斜地にあり、やや山側の国道バイパスがアンダーパスするように建設されている。桜がちょうど咲いていた。昼間は相当人で賑わうのだろう。朝の時間なので、高校生が自転車で公園を突っ切っていくだけだった。実はこの後、艦船が停泊する軍港(と表現して良いのか)の全景を撮りたくて、高台を探して漂流してしまった。公園の上部に行ったり、大湊高校の方まで行ったり。結局いい写真は撮れず、掲げるのは水源地(池)公園からの風景。国道338号を少し進むと、自衛隊病院を過ぎて、海上自衛隊大湊航空隊の入口で湾奥の海辺に出る。干潟が見えた。写真の奥に、自衛隊の艦船が停まっている。■関連する過去の記事 大湊高校 見事な準優勝(09年7月28日) 近代軍事と東北(09年2月25日)
2013.06.25
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峠を越えて朝日に照らされた宇曽利山湖に辿り着くと、イオウの匂いが強かった。朝6時から開いているというが、着いたのは7時過ぎ。駐車場には他に1台だけ。その人はタオルを持って門の中へ入って行った。門の脇には案内の人か、1人の男の人がいた。鬼石という看板につられて、奇岩も眺めて来た。
2013.06.24
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尻屋崎から県道を宿泊地むつ市田名部へ向かう。途中の野牛地区だったろうか、津軽海峡越しの北海道に夕陽が沈む。大きな太陽が稜線に飲み込まれたのは、ちょうど田名部の市街地に入る頃だった。ホテルにチェックインは7時頃。フロントで夕食の店を尋ねたら、近くに良い居酒屋がありますよとのこと。早速お邪魔してみると、あまり大きな店ではないが、随分賑わっている。私が隅に座ったそのカウンターには、既に数名の人たちが談笑している。そのうち、仙台からきた一人旅です、なんて話の輪に入れてもらう。聞くと、仙台周辺の出身で仕事で滞在している、また、青森県内から単身で来ているという方もいる。そして、そのうちまだ8時にもならないのに、あっさりと店を後にする人も。てっきり職場か地域か同窓会かの気合いの入った飲み会グループだと思っていたら、どうも若干違うようだ。つまり、単身の方が夕食代わりに気軽に来ているのだ。自然発生的に「つどい」ができている雰囲気のようだった。そう言えば、年齢層もいろいろだった。旅の話、青森の酒、遺跡の話、そして、大震災のこと。気ままに語った。単身赴任という若い人には、恐山から大畑に抜けられますよ、とか、大間は救急患者が出ると函館に行くとか、面白い話を聞かせてもらった。酒は、田酒のほか、勧められて関の井、また、コウハイ(ホウハイだったか。迂闊にして失念)を飲んだ。酒も美味いし、ホタテを頼んだらイカもついてきたのだが、とにかく刺身も美味かった。驚くほど会計が安かったのは、ホテルの紹介と語ったためもあるが、あのカウンターの「集い」の誰かのマイ一升瓶から提供してもらったからだろう。不意の旅人に温かい田名部の人たちに、心から感謝の良い夜だった。翌朝に朝の町を歩いてみたら、まだ6時台なのに道路脇に建設作業着風の人たちが列を作っている。おそらくバスが来て、仕事の現場に向かうのだろう。地域を支えている方々だ。昨夜の居酒屋も思い出しながら、下北の経済や活気について、自分なりに思いをめぐらせてみた。
2013.06.23
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灯台に入る道のゲートが午後5時に閉まると事前に調べてはいたが、歩いて岬に行けるなら良いだろうと、とにかく尻屋崎を目指す。ゲートに着いたときには5時半。みると、ゲートは4時45分に閉まるのだそうだ。何人か観光客の人たちが居た。その人たちと同じように、車を停めて、ゲート脇の歩行者用の入口から入り、灯台へ向かう道を歩く。さっそく草地に寒立馬たちが草を食べている。5分も歩いて林を抜けると、もう海がすぐそばだ。道のすぐ脇にまで、馬が静かに立ったり寝そべったりしている。本当にすぐそばにいて、しかしながら人の気配に特段に反応するわけでもなく、もちろんこっちは馬たちの世界を邪魔しては行けないと静かにしているつもりなのだが、内心ビックリしながら北の果ての別世界を歩いているのだった。時間の止まった光景。馬たちを照らしている夕陽だけが、額縁の中の世界で唯一刻々と海に向かって位置を変えて動く意志を持っていたような気がした。以下は、途中の看板に書いていたこと。国定公園下北半島 尻屋崎(しりやざき)と寒立馬(かんだちめ)■寒立馬の生い立ちかつて下北半島には、野放し馬と呼ばれる比較的小ぶりで寒さと粗食に耐え、持久力に富む馬がいた。この馬は南部馬(現在の岩手県に生息していた馬)を祖とし藩政時代から明治、大正、昭和にかけ、主として軍用を目的に外来種馬との交配によって改良されてきた。中でも、当地尻屋では、この野放し馬をフランスのブルトン種と掛け合わせることによって、独自の種類を生み出した。現在、南部馬の血を受け継いでいるのは、東通村の寒立馬だけとされ、200年以上におよぶ歴史の中でつくりあげられた馬は人々と共に歩んできた。■『寒立馬』名称の由来古くから地元の人たちは「野放し馬」と呼び、特定の名前は無かった。昭和45年、当時の尻屋小・中学校の校長先生であった岩佐勉氏(むつ市在住)が尻屋の人たちを前に短歌を詠んだ。「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫ヶ原の嵐ものかは」という歌であった。それから、野放し馬は「寒立馬」と呼ばれるようになった。ちなみに「かんだち」という言葉はカモシカが厳冬のなか、何日もじっとたたずむ姿を地元のマタギ(狩人)の間では「カモシカの寒立」と呼び、野放し馬にも同じような姿を見ることができることから「寒立馬」と命名した。■尻屋埼灯台日本の灯台50選本州最北東端尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台、明治9年10月20日に東北地方に初の洋式灯台として完成した。尻屋埼灯台は、歴史的にも文化的にもその価値感は高く『日本の灯台50選』にも選ばれている。この明るさは、日本最大級といわれ、高度200万カンデラでレンズの大きさは大人の身長よりも大きい。また、このスタイリスティックな灯台を設計したのは、日本の灯台の父と称される、英国人のリチャード・ヘンリー・ブラントンで我が国では26基の灯台を手掛け、尻屋埼灯台がその最後の仕事といわれる。寒立馬の由来1189年(文治5年)甲斐国南部荘三郎光行公が、奥州藤原氏征伐の軍功により、源頼朝公から南部藩を御加(ママ)賜統治されて以来南部藩は我が国きっての駿馬の産地として隆盛を誇りました。此処尻屋崎も南部藩領にあって、民営の放牧場として馬産振興が図られました。又、南部藩は1454~5年(享徳3~4年)ロシヤ、韃胆(ママ)、蒙古から馬を輸入、さらには明治政府の馬産振興による外国種馬での改良等幾多の変遷を経て今日に至っております。寒立馬は競走馬と比べれば胴長短足でスタイルはよくありませんが蒙古馬の血を引継いでいるせいか粗食で、寒さに強く、従順な性格だといわれております。祖先も「四季置附(シキオキヅキ)」と称し、一年中放し飼いにされてきました。「寒立馬」の名前の由来は、昭和45年尻屋小学校長岩佐勉先生が『東雲に 勇み嘶く 寒立馬 筑紫ヶ原の 嵐ものかは』と正月二日「書き初め」において詠みました。以来、全国の皆さんに「寒立馬」と呼ばれ可愛がられております。寒立馬観察に当たっての注意!1.馬の背後から近づかない。1.誕生間もない親子連れに近づかない。特に母馬に注意。1.種雄馬(特に馬体が大きい)には、絶対近づかない。寒立馬は温和で人に慣れておりますが、以上のことは絶対守って観察して下さい。又、寒立馬のいるところは牧場です。ゴミはすべて持ち帰りましょう。尻屋牧野組合尻屋崎に向かう途上の岩屋地区では、石灰の採石工場なのか大きなプラントがあった。日鉄鉱業株式会社尻屋崎鉱業所というようだ。
2013.06.22
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野辺地市街を抜けて一気に下北半島を北上する。見通しが良く伸びやかな直線ながらも、所どころに微妙な起伏が波を打っているように見えるのが面白い国道279号を快調に走り、横浜町を経てむつ市域に入ったのは思ったより早い時間だった。意を決して明るいうちに尻屋崎を目指すことに。むつ市に入ってやや進んでから、県道に折れて山道を太平洋岸へ。国道338号に到達する交差点は、東通原子力発電所の中央ゲートだった。ここを北に向かい、森の中の338号から県道に別れて猿ヶ森地区へ進む。この辺りでは、すれ違ったのは車3台くらいに単車1台ほどでなかったか。下調べもせず、猿ヶ森砂丘やヒバ埋没林を見てみたいと、太平洋岸に出られる分岐点を探しながら県道(尻労小田野沢線)を進む。案内板を折れるとすぐに猿ヶ森集落で、抜けていくと集落のはずれに駐車場がある。ここから400mほど歩くのだ。猿ヶ森ヒバの埋没林案内板ヒバ埋没林 ヒバ=ヒノキアスナロ東通村の太平洋沿岸には、約15kmにわたり猿ヶ森大砂丘が続いています。数千年前から断続的に海から砂が打ち上げられ、立ち枯れたヒバは、飛砂に埋まってしまいました。その一部が猿ヶ森ヒバ埋没林として、姿を現しています。12世紀頃に埋まったものとされ、350mの間に183本のヒバを見ることができます。左京沼付近でも紀元前700年頃の埋没ヒバが発見されていて、猿が森大砂丘のあちこちに埋没樹があると考えられています。案内板にはこう説明があった。駐車場から早足で森に入り、遊歩道を数百メートル進むと、猿ヶ森川に出る。小さな木橋があるが、この川沿いに埋没林を間近に見ることができるのだ。猿ヶ森ヒバ埋没林特定地理等保護林設定の目的 東通村の猿ヶ森地内に位置し800~1000年前にヒバが直立したまま埋もれたと言われており、埋没林とその環境の保護を図る。場所 青森県下北郡東通村猿ヶ森国有林88林班る小班面積 3.52ha設定の時期 平成4年東北森林管理局 下北森林管理署看板にこう説明があった。ところで、埋没林も面白いのだが、ここに至る歩道からさまざまな樹木も楽しめた。うわみずざくら、いわがらみ、つたうるし、やまうるし、などとプレートがあった。木洩れ陽の歩道は何とも言えない雰囲気だ。静寂の森を抜け出て、駐車場に戻ろうとする頃は、ちょうど5時のチャイムが静かな村に響いていた。廃校になった小学校だろうか。傾いた夕陽に照らされている。■関連する過去の記事 東通村のヒバ埋没林と慶長大津波(2011年12月21日) 日本一の砂丘 猿ヶ森砂丘(09年1月11日)
2013.06.21
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平内町狩場沢あたりの国道4号を、湾の向こうに下北半島の陸地を眺めながら走っていると、野辺地町との境に、旧藩の境をなす塚がある。高台を走る国道沿いに「県史跡 津軽南部藩境塚」と木製の標柱。ここから降りていくと、4つの塚が見える。看板に詳しく説明がある。県指定史跡藩境塚(通称 四ツ森)昭和44年12月15日指定東津軽郡平内町大字狩場沢字関口(二基)上北郡野辺地町字柴崎(二基)高さ3.5米 直径底面にて約10米この塚は江戸時代、津軽藩と南部藩の境界に築かれたものである。津軽領と南部領を結ぶ主要街道上にあり、二本又(ふたまた)川(境の川)をはさんでそれぞれ二基づつ四基とした。築造年代は明らかでない。海辺には最近作ったと思われる碑が並んで屹立している。それぞれこう書かれている。従是東南盛岡領従是西北津軽本次郎領分国道4号に戻ると、野辺地側に、馬門御番所の復元のような建物。高札があって、宝暦6年(1756)の覚書が再現されている。解説として次のように書かれている。馬門番所の高札南部藩と津軽藩は藩境に近い馬門村と狩場沢村にそれぞれ番所を設け通行人や物資の出入りを取り締まっていました。この高札は、馬門番所に掲げられていたもので、手形なしで南部領内の特産品を他領へ出すことを南部藩家老連名できびしく禁じています。なお、馬門番所は藩境塚のあるこの地からおよそ1キロ南東にありました。旅も津軽を後に、いよいよ下北半島を目指す。
2013.06.20
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前回に続き、森林博物館でいただいた資料から、津軽森林鉄道について。■前回の記事 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その1)(2013年6月18日)■関連する過去の記事 芦野公園と津軽森林鉄道(2013年6月4日) 津軽森林鉄道(2010年5月8日)------------国有林の沿革の概要明治の新制度とともに発足。明治19年に大林区署制が公布され、青森大林区署(営林局)が開庁。以来明治30年頃までは経営組織機構や調査などの努力。明治32年から大正3年までに管内の全事業区の境界確定と施業案編成を中心にした基本調査が終わり、並行して資源の開発利用を図る国有林野特別経営事業が始まる。この間、明治43年青森大林区署直轄の青森森林鉄道事業場が設けられ、明治年間唯一かつ我が国最初の津軽森林鉄道が全線(延長約6万7千km)運転を開始。内真部、蟹田、中里、金木および相内の各小林区署間の生産事業がスタートした。幾多の変遷の後、森鉄業務は大正14年青森営林署の所属となり昭和21年再び青森営林局直轄に移って、青森森林事業場と改められ、昭和24年には独立官庁として誕生した青森運輸営林署となる。運材の花形としてほぼ半世紀にわたった津軽森林鉄道はこうして国有林野事業の進展の大きな役割をにないつつ、一貫して経営されてきた。津軽森林鉄道のおこり〔前回記事に記載と内容重複なので内容は割愛。要点だけ記す〕藩政時代の御留山、豊富な蓄積。しかし未開発状況。明治の両本線開通で青森市が集散市場に。日露戦争を契機に貯木場、林道が拡大の機運。当時の搬出作業には制約が多く、運材のパイオニアとして登場。〔前回記事にない点。従来の搬出の難点として、〕特に、管流(放流)の場合は河川を破壊し治水その他の危険を誘発する恐れがあった。敷設工事2案が立てられた。(1)石川越え:明治38年7月調査の結果、蓄積が豊富な内真部、中里、金木署管内国有林の開発のため、内真部海岸から内真部国有林を通り金木署吉〔ママ〕良市山国有林を経て吉良市貯木場に至る。幹線24km及び中里に至る8kmの計画。(2)六郎越え:明治39年5月調査の結果に基づき、青森貯木場を起点に半島の脊梁山脈の東方山麓をぬって進み、蟹田署管内小国山国有林を貫通し、中里所管内の内潟を経て吉良市貯木場に至る幹線67kmの計画以上の2案を検討の結果、利用区域の拡大と運搬能力を主眼に、六郎越を採用。明治36年測量開始、労苦を重ねて明治42年11月30日全線運転開始。米国製ボールドウィン2台、同じくライマー1台、独製コッペリー1台の計4台の蒸気機関車が運転。津軽半島における文明開化の象徴だったといわれ、古老の語りぐさは長く続いたといわれる。これから58年間、最盛期には総延長121kmにわたる森林鉄道による木材輸送が行われたが、昭和42年11月で、トラック輸送に変わり全線廃止された。果たした役割森林鉄道によるヒバ丸太の輸送実績は58年間で162万6千立米メートル。20坪の家建築で約5万5千戸の住宅に相当。過去を振り返れば、森林鉄道の創成期から昭和15年頃までは、我が国の経済界や世界的不況の流れもあったが、ヒバ材は一般建築材、枕木用材として、また大正震災には復旧用資材として活用されるなど社会的貢献を果たしている。ヒバ材の特質である耐久度、耐湿性の強さ、もくり繊維が美しさく〔ママ〕、優雅な淡黄色を帯びた材面は、和風建築の長押、敷鴨居、天井版はもとより、戸障子、襖等の建具材としてもその販路を拡大した。また、昭和16年から20年までの太平洋戦争中は貴重な軍需材として、昭和25年には木材統制撤廃、26年の森林法改正にいたる間は戦後復興資材の供給等、時代の要請に応じる使命を担い、津軽森林鉄道による木材輸送の全盛時代は続いた。輸送されたヒバ丸太は、青森貯木場を拠点に東北本線や奥羽本線にひきつがれ、その存在を高める大きな役割を果たした。昭和26年の森林法改正で森林基本計画に計画された大規模林道は国営で実施しようとする機運のもとに、一般自動車道及び国有林内の林道(自動車道)施設が急速に拡大の方向をたどった。このため津軽半島の各署のヒバ材の地域市場性が高まるにつれ、森林鉄道による木材輸送は次第に減退をよぎなくされていった。森林鉄道による輸送の搬路は昭和34年以降さらに短縮されることになる。この年、林力増強計画の一環として、事業計画の安定化とともに作業の効率化、生産性の向上が強く要請されるに至った。時代の進展にともない、林業の機械化が進む一方、全幹集材方式の作業形態が広まり、自動車道及び作業道はますます充実強化されていく。そしてヒバ材の地域市場性の拡大が進展し、森林鉄道の搬路は縮まり木材の輸送が減退していった。国有林の内外を問わず、自動車道は張りめぐらされ効率化されていく時代背景から、長い年月走り続けた津軽森林鉄道も昭和42年度の輸送3200立方メートルを最後に、58年間の栄光ある歴史を新しい時代に引き継ぐことになった。津軽森林鉄道で活躍した主な機関車〔写真が載っている〕ボールドウイン車(故障が少なく昭和16年頃まで愛用された)コッペリー5t機関車(大正12年から昭和35年頃まで津軽や下北の川内署で活躍した)ライマー製シェイ式蒸気機関車(車両が7.3mと長く支線カーブで脱線等の事故が多く大正8年高知大林区署に転換された)酒井式ガソリン機関車(昭和10年頃より活躍)雨宮製・国産機関車第1号(昭和10~27年まで)浅野式ガソリン内燃機関車(昭和10年頃から稼働)協三L型ディーゼル内燃機関車(昭和25~42年頃)森林博物館の森林鉄道について展示されている機関車は昭和36年から下北半島川内営林署で昭和42年まで働いた協三L型ディーゼル機関車4.9tです。役目を終えてから奥薬研のカッパの湯に展示されていたが、昭和57年青森市森林博物館の開館に合わせて展示されることとなり現在に至っています。また、この機関車は川内営林署時代に水上勉原作、内田吐夢監督の「飢餓海峡」(1965)という映画に出演しています。
2013.06.19
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津軽下北の両半島をめぐる今回の旅は、蟹田からフェリーを使う手があったナ、とつい先程現地で気が付いたものの一路青森市へと突き進む。実は、唯一青森市で訪れたい場所もあったのだ。森林博物館だ。昭和42年廃止の津軽森林鉄道の貨車が保存されていると本に書いていた。また、森林博物館に隣接の森林管理局が、かつての鉄道の起点であった青森貯木場の跡ではないかと思われ(私見)、駅の遺構もあるかも知れない。■関連する過去の記事 下北半島の森林鉄道(2013年5月6日) 芦野公園と津軽森林鉄道(2013年6月4日) 津軽森林鉄道(2010年5月8日)博物館は、まず建物が素晴らしい。重厚にして瀟洒な西洋建築だった。青森営林局の旧庁舎だそうで、明治41年に県産ヒバ材を主に利用したルネッサンス式木造建物。昭和53年に庁舎新築を機会に、補修や展示工事を経て昭和57年に開館という(博物館のパンフから)。そんな博物館の扉を押して受付で尋ねると、森林鉄道の車両は庭に別館があるから自由に見学可能ですが、旧駅舎についてはわからないですね、とのこと。そこで一旦外に出る。綺麗に整備されている庭園の脇に、森林鉄道の車両を展示するプレハブの建物。機関車と客車が保存されているのが、内壁に解説のパネルや写真があって、これが大変参考になった。しばし読んだ後、受付に戻って御礼を言うと、こんな客がいるからか、津軽森林鉄道についてコピー用紙に5枚ほどの解説をいただいた。これには感謝。以下は博物館(津軽森林鉄道車両の展示室)のパネルの解説と解説書の内容である。------------津軽森林鉄道津軽森林鉄道は、日本三大美林の一つ、青森のヒバを積極的に利用する目的で、1906(明治39)年に着工。3ヶ年余の歳月と62万円(現在で約23億円)の工事費をかけて開設された我が国最初の森林鉄道です。この森林鉄道は、ヒバ材の需要の増加により、それまでの川流しや、馬車などによる搬出方法では、輸送力に限界があることから計画されたものです。そして、国有林材の輸送だけでなく、沿線の人々の、生活必需品、貨物の輸送、また交通機関として、幅広く地域住民に利用され親しまれました。しかし、第二次大戦後、トラック輸送の普及により、昭和42年11月、58年間にわたる歴史を閉じました。この間に輸送したヒバ丸太は、162万6千立方メートル(20坪の住宅にして5万8千戸分)、路線の延長は121キロメートルにも達しました。〔津軽森林鉄道位置図〕津軽森林鉄道位置図各幹線と支線の位置図が描かれている。幹線について下記の通り説明がある。青森貯木場~蟹田停留所(明治41~42年度新設)蟹田停留所~今泉停留所(明治39~41年度新設)今泉停留所~喜良市停留所(明治40~42年度新設)また、図中には、蟹田と今泉の間に、六郎、相股の2つの隧道が図示されている。津軽森林鉄道のおこり津軽半島の「ひば林」は、藩政時代から、「御留山」(おとめ山)として、保護育成されていたため、豊富な蓄積を有してはいたが、未開発で、いわば消極的な利用状態におかれていた。明治24年にいたって東北本線、同27年に奥羽本線が開通し、津軽半島の首根に位置する青森市は、木材や海産物等の諸資源の集散市場として経済交流が盛んとなり、両鉄道を通じて「ひば材」も次第に県外に移出され、市場性を増大することとなった。明治37、38年の日露戦争を契機に、国内の各種産業がいちだんと活気づくにつれ、木材の需要が増加し、また、国の財政に役立てる意味からも直営生産事業(国が直接資金を投入して丸太の生産、運搬等を行う事業のこと。昔は、官行斫伐事業といわれた。)を活発にすべしという世論が高まり、貯木場、林道の施設が拡大の機運をたどった。当時、津軽半島地帯の木材の搬出方法は、先山作業(伐木造材、木寄、雪ぞりだし)を終わったあと、管流(放流)舟筏または馬車による駄送にたよっているだけで、急速な時代の進歩には、並行できない状態であった。5月から11月上旬までの搬出期間にしても、特有のヤマセの厳しい自然の制約を強く受け、計画的な林業経営ができないほど、輸送力が弱い有様だった。かくして、このような時代の要請にこたえ、森林利用と「ひば材」の開発を有効に行うため、運材のパイオニアとして、日本で最初かつ最長の津軽森林鉄道の登場となったのである。全国森林鉄道一覧地図に出ている鉄道名を以下に書き出す。(北海道)丸瀬布森林鉄道、羽幌森林鉄道、芦別森林鉄道、温根湯森林鉄道、沖戸森森林鉄道、陸別・トマム森林鉄道、定山渓森林鉄道、王子製紙専用鉄道(本州・東北)津軽森林鉄道、大畑森林鉄道、川内森林鉄道、長木沢森林鉄道、早口・岩瀬森林鉄道、二ツ井営林署森林鉄道、高巣〔ママ〕森林鉄道、仁鮒森林鉄道、仁別森林鉄道、杉沢森森林鉄道、宮田又・船岡森林鉄道、直根森林鉄道、浪江森林鉄道(本州・東北以外)湯の小屋森林鉄道、下仁田森林鉄道、武州中津川森林鉄道、東京大学演習林軌道、三塩森林鉄道、世附森林鉄道、稲又森林鉄道、双六・金木戸森林鉄道、小坂森林鉄道、王滝・小川森森林鉄道、赤沢森林鉄道(保存鉄道。赤沢森林鉄道記念館として、終点赤沢より復活した森林鉄道が走っている)、千頭森林鉄道(保存鉄道)、気田森森林鉄道、〔3つほど読み取れないものあり〕、大杉谷森林鉄道、高野山森林鉄道、京都大学演習林軌道(現役)(四国)殿川内森林鉄道、魚梁瀬森林鉄道(安田川森林鉄道の初期には何と津軽森林鉄道から移管されたシェイ式蒸気機関車が使われた。現在は魚梁瀬貯水池脇の丸大台地に復元された魚梁瀬森林鉄道が走っている。)(九州)内大臣森林鉄道、〔2つ読み取れず〕、安房森林鉄道(現役)青森県森林鉄道と保存車両たち青森市森林博物館(保存車両 川内森林鉄道から大畑森林鉄道への移管車両)金木町立歴史民俗資料館(保存車両 津軽森林鉄道車両(元金木営林署))中里町立博物館(保存車両 津軽森林鉄道車両(元金木営林署))大畑森林鉄道(明治44年-昭和43年、大畑-大畑国有林間、226.0km)〔鉄道跡や橋の遺構の写真が解説されている。〕川内森林鉄道(大正2年-昭和45年、川内-野平、20.3km(幹線))〔往時の写真が並べられている。〕〔続く〕■次の記事 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その2)(2013年6月19日)
2013.06.18
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平舘から15分ほどで蟹田地区へ。下北半島に渡るフェリーの港がある。一日に2往復。1時間で着くようだ。これから青森や野辺地を経由で下北半島に行くのだが、もしフェリーなら脇野沢まで1時間で着く。写真には午後2時発の便だろう、船が見える。左手の建築物は、風の町交流プラザ・トップマストというものだそうだ。地上30mの展望台。蟹田を離れ国道280号を蓬田村に入る。意外にもヨモギタと、最後は濁らない。海を左手に、漁村の民家が並ぶ街道を走行する。集落の濃密が交互してやって来る中を貫いて走るのだが、往来も少ないため、大変快適に走行する。実は、心地よさのあまり、今回の弾丸ツアーで唯一眠気を覚える時だった。地図ではかなり距離を感じさせたが、30分もするともう青森市の市街地に至った。
2013.06.17
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平舘海峡越しに仏ヶ浦を遠望しながら国道280号を南下。すると、道は二股に分かれ、内陸側の新道を少し進むと、白い大きな灯台が目の前に現れる。新旧二つの国道は近接しており、左折したらすぐ海に出られた。オートキャンプ、コテージ、海水浴場になっている。外ヶ浜町のパンフによる平館灯台の説明を次に記す。(灯台は「館」の字が使われている。なお、最後の画像の国道の誘導標識は「舘」だったが。)全国的にも珍しい国道沿いに立つ白亜の灯台。明治32年に明かりが灯された西洋式灯台で、高さは23メートル。周囲にはクロマツ並木や外国船の警戒のためにつくられた西洋式台場の土濠が扇状に残っている。平舘海峡を航行する船舶を100年以上にわたり見守ってきた。ここに「道の駅たいらだて」もあった。小さい施設で、物販と食堂。ひとりラーメン食べるおじさんが居る。小泊の道の駅(ポントマリ)でミネラルウォーター買って以来、飲まず食わずで龍飛岬や義経寺を走り回ったことに気づき、パンを1個と、土産用に昆布を買う。さて、不思議な建物の話。灯台や道の駅に着く前に、国道のやや山側に、このような地域には異様に高層の建築物がある。仙台人には一瞬SS30を思い起こさせるような外観だが、窓はない。何だろうか。鉱業系の処理施設にしては、砕石場や積出港とは無縁の地域のようだ。展望台などの地域振興系の施設にしては、冷たすぎる。無駄に作ったものでないならば、何か必然に迫られた機能を持っているはずで、とすれば海路航行上の通信施設だろうか。或いは自衛隊専用のレーダー基地とか。後で地図を検索したが、よく判らなかった。画像は道の駅付近から振り返って撮った写真。画の中央部のやや右、小山の稜線の奥に、そびえ建っている。
2013.06.16
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国道280号を進むと、くっきりと赤黒い岩が路傍にある。すぐわかった。画像では伝わらないかも知れないが、とにかく異様な色調と質感が、場違いさを際立たせている。今別町サイトの説明はこうだ。県指定の天然記念物。砂ヶ森地区の東北端に国道280号線を境とし、弁天崎と相対して赤根沢があり、朱色の岩塊を露出していて、一帯30アールが指定され、旧跡となっている。付近は赤土(第二酸化鉄、又はベニガラ)で藩政時代には顔料として採掘、領内の神社仏閣の赤い塗料、日光東照宮や岩木山神社の大堂、山門などの修復に用いられた。採掘の跡は今も洞窟となって残っており、保存状況もよい。備考貞享3年(1686) 赤土公儀へ献上享保12年(1727) 紅葉山、日光山に献上(津軽一統紙)この岩から、ほんの30mほど山側に入ると、赤い鳥居と祠があり、周囲には土肌が赤いところが見える。顔料の採掘跡だろうか。この後は、仏ヶ浦の奇岩を陸奥湾越しに遠く眺めながら、海辺の松前街道を平舘に進んだ。
2013.06.15
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国道から撮影した松陰くぐり。かつて松前街道の難所で嘉永4年(1851)に吉田松陰が通ったとの伝。次の画像は、津軽国定公園袰月海岸(鋳釜崎)。海が随分と青かった。3枚目は高野崎から振り返って望んだ海岸。朱塗りの橋が印象的な袰月海雲洞釈迦堂も立ち寄って、高野崎へ。灯台がある。1枚目の灯台の奥は北海道松前半島か。2枚目の奥に見えるのは下北半島の仏ヶ浦あたり。そして3枚目は灯台と岩場を結ぶ小さな橋が見える。潮騒橋と渚橋という名らしい。海の先に見えるは松前半島。
2013.06.14
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これは龍飛岬にある看板に書いてあったものだ。『義経渡海伝説』源義経は岩手県の衣川で最期を遂げたと伝えられている。しかしその前に脱出し、海峡を越え北海道に渡り、さらには大陸に至ったという伝説が残されている。ここ外ヶ浜町三厩地区にも『義経渡海伝説』や数多くの遺跡が残されている。『義経渡海伝説』の中で、義経が海峡を渡ったとされる場所が義経寺(ぎけいじ)。三頭の竜馬がつながれていた場所が厩石(まやいし)と伝えられている。三厩の地名の起源はこれに由来するといわれている。義経は津軽海峡を渡るため、日頃身につけていた観音像を岩の上に置き、三日三晩、海上平安の祈りを捧げた。すると杖を手にした白衣白髪の老人が現れ「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし竜馬をつかわそう。これに乗り海を渡るべし」と告げた。やがて近くの岩窟の傍に来ると馬のいななきが聞こえ、中を覗くと見事な駿馬が三頭つながれていた。振り返って海を眺めると荒れ狂っていた海がいつのまにか静かになっていた。こうして義経一行は無事に海峡を渡ることができたという。義経北行伝説ゆかりの地紫波町→平泉→高館→束稲山→衣川村→江刺市→大東町→遠野市→山田町→宮古市→川井村→新里村→田野畑村→普代村→久慈市→八戸市→青森市→三厩村→北海道→大陸へ(青森県の地図の中に、寺下観音、小田八幡宮、藤ヶ森稲荷神社、貴船神社、油川、と経路が示されて、義経寺・厩石から北海道へルートが続く。)龍飛崎から龍馬山義経寺・厩石 12km(「厩」の文字は便宜上これで代用しました。以下同じ。)岬を後にした私は厩石・義経寺に向かう。まず、路傍の義経海浜公園に着く。そして、厩石だ。傍らの看板にこう説明がある。厩石の由来文治5年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけて自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!藤原秀衡の遺書(危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の曉に、白髪の翁が現れ、"三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。"と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。この画像で、石の手前の黒い石碑には、三厩村名発祥之地と刻まれている。厩石と国道を挟んで向かいが、義経寺。山門まで上がると、三厩湾の向こうに高野崎、さらに下北半島の陸地が間近に見えるのだった。
2013.06.13
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最初の画像は、龍飛埼灯台から見下ろしたところ。図示したのは、階段国道の上端部。ここに車を停め、テーブルを構えて何かを売っている人が居た。聞くと郵便局の方で、ここで受け付けて後に郵便局に戻ったら出してくれるのだそうだ。夏などはバイクのツーリングの人が利用してくれますよ、と教えてくれた。なるほどね。郵便局の人に階段国道前で写真を撮ってもらった。下の画像とは別に、今回の一人旅で唯一の私自身の映った写真だ。感謝しつつ、50円でハガキを買って、家の子ども達にあてて乱筆をふるい投函を託す。さて、このあと車で下に回って、階段国道の下端部。住宅の間を「国道」が曲がりくねっている。本当に民家の玄関先だ。こんなのだとは思わず、申し訳ない思いで玄関先(国道なのだが)に出ていたお婆さんに挨拶しながら、歩かせてもらう。戻ってきたら、お婆さんに「もう登ってきたんですか」と驚かれた。いやいや、先に上を見てきたので、今は下からチョイとそこまで階段を眺めてきただけなのです。ズボラな旅人だ。龍飛岬観光案内所龍飛館(奥谷旅館)、太宰治文学碑なども眺めて帰った。■龍飛岬での立ち寄りのルート1 青函トンネル記念館脇(レールや人車の展示)2 記念館からシーサイドパーク方面へ。途中に、地震検知装置室(斜坑を利用か)3 碑の丘4 階段国道上端部5 龍飛埼灯台6 もどって、津軽海峡冬景色歌謡碑7 青函トンネル工事殉職者慰霊碑8 再び、青函トンネル記念館(中に入る)9 (下に降りて)太宰治文学碑、龍飛崎観光案内所10 階段国道の下端その後は三厩方面に移動したのだが、漁村は岩をくり抜いたトンネル(今は使われていないものも含め)が多い。陸路は相当の難所だったろう。
2013.06.12
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青函トンネル記念館。意外なほど小振りな施設で、エントランスを入ると、坑道の乗り場(受付)、お土産売り場、食堂入口など、狭い空間にコンパクトに配置されている。さて、売り場の女性に聞いてみた。「ずいどういし」は置いていませんか。■関連する過去の記事 謎の龍飛崎銘菓 ずい道石(2008年5月31日)子ども達もかすかに覚えているという。龍飛に行ったら買ってきてと頼まれた。売り場に陳列がないようだから聞いてみたのだ。解説するように教えてくれた。あれは、作っているお年寄りの人たちが何年か前から止めてしまった。トンネルの最初の頃は石が良く出て、お菓子も売れていたのですがね、というような話だった。(ここではお菓子「義経伝説」などを買いました。)記念館の脇の野外には、津軽海峡線の軌道が展示されていた。こんな解説だ。世界一長いレール 52K570M青函トンネルのレールは、乗り心地や省力化のため、トンネルの全長(53K850M)にほぼ近い52K570M間をすべて溶接したスーパーロングレールとしました。三線式スラブ軌道津軽海峡線では保守の省力化を考え出来る限りスラブ軌道としました。また将来、新幹線と在来線が同一路上を走れるように三線式軌道を採用しています。また、「水平人車」「斜坑人車」も展示されていた。記念館の近くには、青函トンネル工事殉職者慰霊碑があり、立ち寄って祈りを捧げた。傍らの石碑にこう刻まれていた。青函トンネル工事略歴1946年4月 地質調査開始1953年8月 鉄道敷設法予定線に追加(三厩・福島間)1964年3月 日本鉄道建設公団発足、日本国有鉄道から調査業務を引継ぐ1964年4月 基本計画(調査)の指示1964年5月 北海道側吉岡斜坑掘削開始(公団直轄)1965年8月 工事実施計画(調査)の認可1966年3月 本州側竜飛斜坑掘削開始(公団直轄)〔中略〕1978年10月 北海道側陸上部全貫通1981年7月 本州側陸上部全貫通1983年1月 先進導坑貫通1985年3月 海底部本坑全貫通1986年9月 レール締結完了1987年7月 架線接続完了1988年3月 竣功戦後の昭和の歴史とともに、人々が本気になって汗を流した壮大な事業だったことが、今に伝えてられている。
2013.06.11
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龍飛岬を訪れた。竜泊ラインを降りてくると、丁寧なことに、絶対はずせない!!龍飛岬満喫7大スポットという大きな看板がある。記載のスポットは番号順に、1 龍飛埼灯台2 階段国道3 津軽海峡冬景色歌謡碑4 碑の丘5 青函トンネル記念館6 龍飛崎シーサイドパーク7 太宰治文学碑・龍飛岬観光案内所であった。一通り回りたいと思っていたので、案内板のマップは重宝した。(後で確認したら外ヶ浜町公式サイトに同様のマップが出ています。)龍飛崎と書きたくなるのだが、灯台だけは「埼」の字になっている。龍飛埼灯台からは、北海道が望めた。外ヶ浜町の観光パンフにこんなトリビアがあった。崎と埼の話「龍飛崎」は「崎」と「埼」の二つが使われています。いったいどちらが本当?実はこの違いは陸上の地図と海図の違いから来ています。「埼」の字は、明治時代に日本海軍が海図を作成する際、「埼」を使い始めました。つまり同じ場所でも海から見ると「埼」、陸から見ると「崎」になるわけです。なるほど。
2013.06.10
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R339竜泊ラインを龍飛崎に向かいます。七ツ滝や傾り(かたがり)石という名所はすぐには判らないのでパスしました。竜泊ラインは冬期間の閉鎖(4月中旬まで)が解けて通れますが、かなり険しい勾配でヘアピンの連続。青森県資料によると全面開通が昭和59年、全面舗装が昭和63年。龍飛崎は「龍」の字を使うのに、国道は「竜」泊ラインと表記されるようです。道路の青い標識にはわざわざ「竜」の文字だけ張り替えたようなものもありました。厳密なのだろうか。そして、読み方はタツドマリなのかリュウハクか、ひょっとしてリョウハクか、などと(市浦や十三小学校のこともあり)つまらぬ事を考えているうちに、随分登ったように思っていると、「眺瞰台」に着きました。駐車スペースには他に1台だけ。段を駆け上がって展望台に登ります。風は強いのですが、晴天で素晴らしい眺望でした。標高502.5mとのこと。龍飛崎の向こうは北海道。振り向くと小泊の半島部と、その更に向こうには鰺ヶ沢や千畳敷あたりの陸地なのでしょう。海岸沖を進む船も何隻か確認できました。その青い海の奥の方、空との間には沿海州が見えないかと目を凝らしましたが、やはり無理なようでした。絶景。いよいよ北の地を訪れた実感です。
2013.06.09
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小泊は、想像したよりは市街地が集積した町だった。日本海漁火センターに水槽やビデオもあり、遺跡も学習できるなどとと事前に調べていたのだが、実は場所がよくわからずじまい。折戸から峠を越え、中学校を過ぎて程なく小さな四つ角にさしかかるともう小泊の町。海に出て走っているうちに、たぶんセンターと反対方向に向かったのだろう、着いたのは小泊マリンパークというところで、夏季の海水浴施設のためなのか閉鎖されていた。小泊漁港に引き返すのを断念し、浜から内陸部に上がってみると、交番の近くに小説「津軽」の像記念館が見つかった。穏やかな海が見える高台。すぐそばに小学校があって、静かな中にも子ども達の元気な声が響いていた。旅人は再び国道339号で更に北を目指す。竜泊ラインは山道からまた海ぎわに降りてくる。折越内地区だ。そこの道の駅こどまり(折越内交流施設ポントマリとも標記)で車を停めた。画像は駐車場から見た小泊北部の海岸。直売所、レストラン、売店。ヤリイカの姿焼き300円にも心は傾いたが(昨日の風合瀬でもガマンした、下北半島で今日の夜か明日味わおうと言い聞かせ)、売店でミネラルを一本。そして「小泊銘菓ごんげんざき」を一箱おみやげに買った(小、1150円)。家族に珍しいことと後で評されたように、立ち寄り先でこまめにお菓子を買うことはめったにしない自分である。しかし、もう午前10時、昼には龍飛、日没前には尻屋崎を目指す旅の予定から、小泊の名所や海岸奇岩をほぼ素通りしてしまう申し訳なさだったのか、とにかく手が伸びて買ったのだ。だいたい買って帰った菓子は知らぬ間に家族が食べてしまうものだが、後日この「ごんげんざき」は私も食べた。何とも言えぬ美味しさで、結局2個も食べてしまった。味や素材には全く無頓着なので表現できないが、玉子を練り込んだ白あんを小麦粉か何かの生地で包んで焼き上げたのだろうか(たぶん違う。失礼)、軽い甘さがあって、ボリュームもあるので、かみしめながら小泊を思い出した。たしかに、どこにでもありそうな菓子と言えばそれまでだが、私には静かな海と津軽の像記念館、そして子ども達の明るい声が思い出された。菓子の包み紙では小泊の町中のお菓子屋さんのようだ。ではあの近くだったろうか。土産は、そこに行かなかった人に自分は行ってきたよ、というものだと思っていた。自分が食べて旅を深める、という味わい方もあるのだ。おそらく、もう行くことはなかろう。一度だけの訪れ。今また書きながらの回想も含めて、何度も噛みしめて心に残るのが、旅の情けか。
2013.06.08
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十三湊の歴史に浸ったあとは、国道339号(小泊道)に合流し更に北をめざします。し~うらんど海遊館。日本初の公共タラソテラピー施設という。国道沿いの小高い場所にあり、駐車場まで上がってみたが車はありませんでした。駐車場を挟んで施設の反対側には地域の集会所のような施設。五所川原市の観光ガイド(パンフレット)の説明はこうです。体温と同じくらいに温められた温海水プールを中心に、海藻パックなど本格的なタラソテラピー(海洋療法)が楽しめ、心身ともにリラックスできる。実はこの日の夜に田名部の飲み屋で地元の人と歓談になり、今朝は念願の十三湊にも行ったのです、あれは良かった、イチウラの...などと話していたら、あそこはシウラですよ、と教えてもらいました。ああ知ったかぶりオヤジ。しかしなるほど、それで実は妙に感じていたあのタラソ施設の命名も一瞬に納得できました。(昨日の記事の十三湖、十三湊、土佐、ジュウサン(小学校)などなど、不勉強な外来者にとって新鮮です。ちなみにシウラは四つの浦が由来のよう。)さて、R339にもどり北進。右手(山側)には鬱蒼と樹木の茂るコンモリ山が印象的。脇元地区で、地図では靄山とあります。画像は、靄山のあたりで国道沿いにあった看板。数年前に深浦町に漂着した脱北者の報道を思い出しました。■関連する過去の記事 青森脱北者漂着と地元(2007年6月8日)あの事件の深浦町とはだいぶ離れていますが、ちょうど直前に十三湊で日本海交易の中心だったことを改めて思い知らされた青森の西海岸です。昔も今も、そういう地勢にあるという動かぬ事実を実感させられます。洗磯崎神社にも立ち寄ってみました。そして、次の画像は、脇元海辺ふれあいゾーン入口から、小泊の半島部(折戸、下前、権現崎方面)を展望したものです。(それにしても、サマーハウス・定食・入口、の看板が、何故か絵画の構図的に強烈な印象です。)中泊町(旧小泊村)に入ります。画像はライオン岩。本当にライオンに見えます。探すのに時間が掛かったのですが、海岸沿いに道路(ライオン海道)を新造したためのようで、道路のむしろ内陸側に岩を囲むように綺麗に公園が整備されていました。町のサイトの説明では次のようです。ライオン岩は、岩の形がライオン、獅子に似ているので命名された。ライオン岩の雄姿は下前側から見ると晴れた日は、仏崎そして日本海に浮かぶ岩木山を眺めることができる。折戸入り口方面から、下前団地まで「ライオンゲートブリッジ」「ライオンベイブリッジ」の二本の橋と、ライオン像8体、有翼のスフィンクス像1体のモニュメントが飾られたライオン海道がある。特に有翼のスフィンクス像は、権現崎の方角を指していて、夕日の沈む夕焼け色が反射し、七色に光る幻想的光景である。ライオン岩公園から振り返ると、日本海を挟んで雪を頂く岩木山や白神山地が遥かに見えました。夫婦岩、徐福の像、尾崎神社、権現崎など海岸美や数々の名所があるようですが、弾丸ツアーの時間的制約から、道を引き戻し、小泊の半島部の付け根を山越えし(中学校があったと思います)、次は小泊地区の中心部へ向かいました。
2013.06.07
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今回の旅の大きな目的の一つだ。十三湖を訪ねて、中世十三湊の繁栄を考えてみたい、と。県道(十三道)を、つがる市(旧車力村)から五所川原市(旧市浦村)に入る。湖畔の林間道という雰囲気だ。やがて道は十三集落の街村に出る。県道は集落に入ると一旦西側に(海側に)それて走るが、これではそのまま十三湖大橋を渡ってしまいそうだ。あえて引き戻して十三湖の側の、昔の集落道と思われる方に立ち入ってみる。するとまず目を引いたのが、土塁跡だ。小学校(廃校)の脇にある。説明の看板(市浦村)もあった。いわく、中世十三湊(とさみなと)の土塁十三湊を南北二つの地区に区切る施設で、南側には水堀が伴い、北側の館にある地区を防御していた。砂と黒土を版築状に積んでおり、14世紀後半につくられ、15世紀前半に増強されている。土塁は小学校の横と湖を隔てるように、続いてもいる。(その後、歴史民俗資料館でこの校庭も発掘されたのだと知る。ジュウサン小学校と館員の方は言った。そう読むのか。さらについでだが、資料館の住所は、五所川原市十三土佐地内、とパンフに書かれている。ジュウサンなのかトサなのか、もう読み方はわかりません。)土塁と学校の先はもうすぐ十三湖。朝8時の湖は、穏やかで波光がきらめいていた。さて、その後は、神明宮に立ち寄り、大橋を渡り、歴史民俗資料館へ。地図にブリッジパークと記されているとおり湖面をわたる橋で繋がった中島に施設がある。9時からの開館には相当早いのだが、県道沿いの駐車場脇の食べ物屋のお姉さんが、大丈夫だろうと教えてくれたので、渡っていく。(資料館の後に、御礼を兼ねてこの店でしじみシェイクを買いました。)長さ250mという橋を渡ると、中の島はキャンプ場やケビンハウスの備えられたレクリエーション地区になっていた。「中島遺跡」の解説の看板があった。中島遺跡十三湖の北西部に浮かぶ約10ヘクタールの小島に位置する奈良時代の遺跡である。土師器には、坏、壷、甕が出土しており、津軽地方における奈良時代の標識資料となっている。一説には、十三湖周辺は文献史料に見られる「有間浜」の比定地の一つに数えられている。島を一巡りしたあと、市浦歴史民俗資料館へ(施設のエントランスには市浦村地域活性化センターとあった)。時間には早いが、係の人がいいですよと言ってくれた。ありがたい。デジカメに撮って良いところを確認させてもらってから、早速展示室へ。展示室は4段階に区切られているのだが、早速第1室から圧倒された。中世都市の繁栄ぶりだ。そして、4つの展示室を、もちろん自分一人独占しながら、行きつ戻りつ、何度も展示物を眺めた。十三湊の交易と津軽安藤氏の繁栄。発掘物、文書、街並みの再現、そして船具や交易品の数々。ひょっとしたら村の小さな資料館かとイメージもしたが、大変失礼。ここは本当に素晴らしかった。300円だけで申し訳ないくらいだ。事務室脇の会議室のようなスペースでは、五月女萢(そとめやち)遺跡発掘調査速報展をやっていた。縄文遺跡のようだが、古代から中世、近世と人々が息づいた地なのだろう。菅江真澄は、唐川城跡から湖の風景を眺めたという。余談だが、「萢」はヤチと読むのか。直前に通ってきた県道富萢薄市線でも出てきた地名だ。いわゆる谷地で、湿地帯のことだろうか。ついでに調べたら、かまやつひろし(ムッシュ)の本名は釜萢弘と書くのだそうだ。考えたこともなかったなあ。撮影が許されているエリアで撮った画像を何点か。まずは鳥瞰図。ここが縄文の昔からの繁栄の地。今でこそ車社会で人間は陸地は四方八方自由に移動しているつもりだが、昔の海の交易はスケールが大きい。そして、十三湊は東北の外れでも何でもない、日本海海運を通じて、関西と蝦夷地と、そして東アジア全体の貿易の中心だったのだ。世界観が変わる。また、古代の東北の概説があった。以下に。平安時代後期(11世紀)には東北地方全体が幾度かの激しい戦闘の場となった。この時代には、俘囚の長である安倍氏は岩手県南部の奥六郡を、また清原氏は秋田県南部の仙北三郡を支配した。前九年の役(1051-1062)の後、安倍氏に代わって奥六郡の主となった清原氏も、後三年の役(1083-87)で陸奥守源義家に滅ぼされ、その結果、12世紀には藤原清衡が奥州全体を支配し、奥州藤原氏の全盛期を迎えることとなった。幾つかの激しい戦闘が行われたこの時代、東北北部から北海道南部地方には敵の侵入を防ぐための堀や土塁で囲まれた防御性集落が発達した。また、同時に大規模な城柵も築かれるが、市浦村福島城もその一つと考えられている。(資料館の中の説明資料から。)展示室の中の史料は撮影不可のため紹介できないが、本当に豊富だった。上にも書いたが、何度も行きつ戻りつして、読み、眺め、思いをめぐらせた。弾丸ツアーの2日目は、これから津軽半島を周回し、青森市を経て下北半島の尻屋崎まで明るいうちに行かねばならない。それでもここだけは、時間を掛けて十三湊の世界に浸った。来て良かった。ブリッジパークから県道に戻ると、大型バスが来ていた。(以下はお勉強成果の一端であります。市浦歴史民俗資料館のパンフレットから)十三湖周辺の主な遺跡1 十三湊遺跡(中世・近世)2 明神遺跡(中世・近世)3 中島遺跡(奈良)4 福島城(平安・中世)5 オセドウ貝塚(縄文前中期、平安)6 山王坊遺跡(中世、宗教遺跡)7 唐川城(中世、城郭遺構)8 古館遺跡(平安、防御性集落)十三湊・安藤氏関係略年表1160 永暦1 藤原基衡の子(秀衡の弟)秀栄、十三に霊鷹山檀林寺造立、国政を執行。子孫は十三藤原氏と呼称(伝承)。1189 文治5 奥州合戦、平泉藤原氏滅亡。安藤次・三沢安藤四郎ら頼朝に加担。1190 建久1 大河兼任の反乱。乱後、北条義時が津軽の地頭職に補任。以後、関東武士津軽に流入。1191 建久2 安藤氏、蝦夷沙汰代官に任命。1229 寛喜1 津軽萩ノ台の戦、十三藤原氏敗北。安藤氏の十三湊進出本格化(伝承)。1325 正中2 蝦夷代官職が安藤季長から季久に代わり、津軽大乱拡大。1328 嘉暦3 鎌倉幕府軍、津軽大乱を平定。1357 正平12延文2 蓮華庵(相内)板碑造立。1371 建徳2応安4 1452年柳井の賀茂神社の『大般若経』の奥書に「十三湊」の文字。1395 応永2 足利義満、安藤盛季らに命じ、北海夷狄平定。1412 応永19 『時衆過去帳』、「トサ」「奥土佐湊」の時衆阿称号を記載。1423 応永30 安藤陸奥守、将軍足利義量に馬、鳥、鵞眼、海虎皮、昆布等献上。1432 永享4 南部氏、安藤氏を攻撃。安藤氏蝦夷島へ逃れる。幕府和平を調停。1436 永享8 安倍康季、若狭国羽賀寺再興着手(文安4落成)。1443 嘉吉3 安藤氏、南部氏の再攻撃で十三湊放棄。1446 文安3 安藤康季、旧領回復のため津軽入りし病死。1453 享徳2 安藤義季、狼倉に拠り南部氏と交戦して敗死。1456 康正2 安藤師季、出羽国小鹿島で再興を画策。1468 応仁2 安藤師季、紀伊国熊野社に津軽外ヶ浜などの旧領地回復を祈願。■関連する過去の記事 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日)
2013.06.06
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金木の町と芦野公園を後に、早朝の国道339号を更に進むと、右手に中泊町総合文化センター(パルナス)という立派な建物。文化ホール、図書館、博物館と3つの複合施設のようだ。まだ朝の7時台で施設には入れず。津軽鉄道の終着津軽中里駅や中里城史跡公園のある旧中里町の中心部にも興味はあったのだが、旅の行程上の制約から、市浦・十三湖をめざして車を進める。このため、これまで走ってきたR339(小泊道)から今度は県道12号(十三道)に「横渡り」して移る必要があり、水田地帯を横断しなければならない。地図を見ると、中里川に架かる橋の付近でR339から分かれ、川沿いに西進。五所川原広域農道(こめ米ロード)を横切り、さらに宮野沢川を越えてから右折、鳥谷川沿いにやや北に進んでから今度は左折し(再び西向き)、津軽大橋で岩木川を渡って旧車力村に出て、県道(十三道)に出ることが出来るようだ。地図を慎重に読んでこのようにルートを想定していたのは、道筋を誤ると何本もある河川水路を渡れなくなってしまうだろうと思ったのだ。しかし実は走ってみると意外とスンナリ実践できた。津軽大橋を通って車力方面に出る標識の誘導が判りやすかったし、また、裏道的な通勤ルートなのか思った以上に車の通行も多いのだった。画像の最初は、中里川沿いの堤防のような道路から遠くに見えた朝の岩木山。さて、広大な水田地帯を横断しながら、昨年の記事に書いた馬鹿川や田茂木地区、また内潟中学校学区などのことを思い出していた。今、まさにその辺りに来たのだ。■関連する過去の記事 馬鹿川(2012年8月4日)記事に書いた頃は、集落も点在している農村のイメージだったが、実際に来てみると見える構造物は橋やポンプ場くらいで、全くと言っていい程に人家は見えない。ポンプ場そばの鳥谷川に架かる橋には若宮橋とのプレートがあった。私はそこから西進したのだが、もっと川沿いに進めば(北に)、集落や若宮小学校跡なども探せたのかも知れない。そして、あの「馬鹿川」も私の経路(県道富萢薄市線)よりも北で、岩木川の下流の十三湖に近い方にあったはずだ。次の画像は、鳥谷川沿いの農道(若宮橋よりやや南の辺り)で停車して北(津軽半島北端方向)と南(岩木山方面)を眺めたもの。
2013.06.05
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県立芦野公園。芦野池沼群県立自然公園というのが正式か。桜の名所という。車を停めて少しばかり散策してみた。池の方まで足を伸ばす時間はなかったが、広場、祠(招魂堂)など。隣は金木小学校。歴史民俗資料館は、早い時間のためか閉まっていたが、前庭に森林鉄道の機関車と貨車が保存展示されていた。こう解説されていた。わが国最初の森林鉄道津軽半島を縦に走る中山山脈、そこから広がるヒバ林は、日本三大美林の一つに数えられ、最盛期ここから切り出される木材は質、両とも国内有数であった。中でも金木営林署は木材輸送及び集積の拠点として、県内最大の規模を誇り、それに伴い町も大いに栄えた。この木材の輸送手段として森林鉄道が計画され、金木(喜良市)、青森間67kmが明治39年着工から明治42年までの、わずか3年5か月で完成した。当時の土木技術とすれば驚異的記録であり、これを可能にしたのは、当時の鉄道院の協力により、東北・奥羽本線から優秀で経験豊富な技術者や労働者を多数得られたためであるとされている。そして、この区間は我が国の森林鉄道開通第一号であり、この地方の良質のヒバが、いかに重要であったかがうかがえる。開通当時は蒸気機関車であったが、後にガソリンエンジン車に変わり、戦後はディーゼルエンジンとなる。この車両は昭和42年森林鉄道廃止まで使用していたもので、その後旧金木小学校大東ヶ丘分校が教材として譲り受けたものをもとに、忠実に復元したものである。そして、これらは豊かさと文化をこの地に運んだシンボルとして、永く保存展示するものである。調査・資料収集・製作:コマツ青森株式会社協力:金木営林署、金木在住森林鉄道関係者有志平成9年10月 金木町緒元(以下略。機関車の仕様が解説されています。)公園の傍らにある津軽鉄道の駅から通学客を乗せるのか、車両が出発する音が響いた。小学校の陰にチラリと黄色い車両が見えたような気がする。そういえば、広場の奥はすぐ鉄道のレールだった。満開の桜に包まれた津軽鉄道の、あのビューポイントか。■関連する過去の記事 津軽森林鉄道(10年5月8日)
2013.06.04
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朝の早い時間なので、観光客もありません。通学の高校生や散歩のオジサンがちらほら。入口の上の額には「国指定重要文化財 太宰治記念館 斜陽館」と書かれていました。道路向かいには銀行と観光物産館があり、これらを挟んで、津軽三味線会館がありました。駐車場側に開かれたステージの背には「がんばろう東北!がんばろう日本!」と。〔五所川原市観光ガイド(パンフ)から〕太宰治記念館「斜陽館」作家太宰治の父津島源右衛門が、明治40年に完成させた総ヒバ造りの大邸宅。太宰治のゆかりの品々も展示され、全国から多くのファンが訪れている。津軽三味線会館厳しい風土から生まれた津軽三味線のルーツや歴史などが幅広く展示され、三味線の生演奏の鑑賞や体験も出来る、津軽三味線発祥の地ならではの施設である。(「体験」のページ)初めて体験する人でも、三味線の持ち方、バチさばきなど分かりやすく指導してくれる。寿光後には誰でも簡単なメロディーが弾けるようになり、三味線のとりこになる。
2013.06.03
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日本最古のリンゴの木(1878年の3本)。つがる市柏地区。樹高7.4メートル。樹齢は127年になるそうです。 画像は早朝に訪れたので、中には入らなかったのですが、この奥に3本があるのでしょう。朝日を受けて青空に岩木山が映えていました。実は前夜にも来てみたのですが、案内標識でこのあたりという地点までは到達したものの、真っ暗でリンゴの何もわからない。畑地に勝手に分け入る訳にもいかないし、そもそも住宅地を怪しげにウロウロできないので断念したのでした。気になって早朝に再訪です。上の写真は、中学校か体育館かの付近の道路です。広めの歩道がありますが、旧鉄道廃線のような雰囲気です。在ったのかも知れません。調べてはいませんが。それにしても、岩木山がきれいでした。
2013.06.02
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このところ、このブログは青森の海岸線沿いを回る旅日記だけになっています。もう少し続きます。さて、ここらで、五能線の駅舎やホームの画像を集めてみました。一部は既に記事にしているものと重複します。■関連する過去の記事 五能線の名の由来を考える(10年5月24日)
2013.06.01
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