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寛永4年(1627)若林に平城の若林城を建設した際に、新たに、荒町、南鍛冶町、穀町、南材木町、河原町が取り立てられ、その東部に足軽町が配置された。柴田町、成田町、三百人町、五十人町、六十人町である。これらの足軽町には、それぞれの出身地にあった氏神の分霊を勧請して祀った。柴田町は、柴田郡より召し出された足軽が居るゆえに柴田町というと、「仙台鹿の子」にある。表柴田町の東、旧東街道沿いに、白鳥神社がある。柴田郡平村(現大河原町金ヶ瀬)の鎮守大高山神社すなわち白鳥神社の分霊を勧請して祀ったもの。柴田町の南に平行する成田町は、慶長18年(1613)に桃生郡成田村(石巻市旧河北町飯野川の一部落)から召し出された旧葛西氏家臣の足軽84人が居住した町。旧東街道から100m西に入ると箱石神社がある。故郷成田村の氏神の分霊を勧請したものである。境内には集会所。旧東街道の東には冷源寺がある。浄土真宗京都本願寺末で宝永山と号する。慶安2年(1649)常法和尚が開山。境内には日本バレエ界の先駆者東勇作記念碑がある。三百人町は鉄砲足軽300人が居住した町。かつて伊達家家臣だったが、伊達家米沢移住の時に伊達郡に残留した者たちである。慶長5年(1600)政宗が上杉領の白石城を攻めたとき、説得によって参戦し再び伊達氏に貴族、寛永7年(1630)からこの地に居住したという。信夫神社があり、伊達氏発祥の地、いにしえの信夫郡(現在の福島市と伊達郡)の出身者であったので故郷の地名を冠した神社を祀ったと思われる。神社の隣の常林寺は、浄土宗で若林山と号する。明治5年にこの寺が仙台の一番小学校に充用された。現在の荒町小学校の発祥地である。五十人町は三百人町に平行しさらに南にある。旧東街道の交差点に伊達八幡神社があるが、15世晴宗の守本尊で、はじめ米沢に鎮座したのを慶長5年(1600)遷座したという。六十人町は、五十人町の南、畳屋丁に接しその東になる。旧東街道の東に城取神社がある。城下と旧南小泉村の村堺に祀ったもの。これら五つの町の足軽達は、微禄を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た。士分なので腰には一刀をさし、編笠で面部を押し隠して天秤棒を担いで野菜を運んだという。これら足軽を檀方(だんぽう)といい、足軽町を檀方町と呼んだという。■木村孝文『若林の散歩手帖』宝文堂、2000年 から
2014.03.25
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六丁の目は国道4号仙台バイパスの東側、伊在の北側に位置し、規模は東西3キロ、南北1キロ広大なエリアであるが、形状は複雑で不規則である。地図では、「六丁の目元町」など、「六丁の目」の後に続けて、元町、西町、北町、南町、東町、中町の地名があるほか、「六丁目」の大字もある。奇妙なことに、附近には四丁目や五丁目は存在しない。代わりに、南目館(みなみのめたて)、霞目(かすみのめ)がすぐ南方にある。この地名分布を知るには、古代から1千年間続いた条里制を知る必要がある。六丁の目は、郡山遺跡と多賀城遺跡に挟まれており、少なくとも7世紀から開発されてきた水田地帯と考えることが可能だ。また遠見塚古墳もあり、古墳時代(3世紀末から7世紀)をも視野に入れなければならないほどこの一体の水田開発は古いと考えられる。そして、高度な農地管理法として条里制が求められた。中国では古くから阡陌(せんぱく)法による農地管理が行われたという。農地を縦横の通路で直行させて生まれたマス目に地番を付けて管理するもので、日本に本格的に水田が伝わると同様に管理されたと考えられる。やがて日本ではそれを条里制と言うようになった。縦横のいずれかが条で他方を里としたものだ。(古墳時代に生まれた言葉とする説もある。)条と里はそれぞれ6町(60間×6=654m)づつのマス目で仕切られ、この六町四方格36町歩をもって一里とした。読み方は、「いちり」だと長さの単位と紛れるため、「いちのさと」又は「ひとつさと」だったと推定される。この「里(さと)」は行政区画として重要な基本単位に使われた。大化改新以降、「国郡里」制を敷いていたのだが、715年には新たに「郷」が加わり「国郡郷里」制(単に郷里制と呼ぶ)になった結果、従来の六町四方格=一里は、一郷に改められ、「里」は郷の中に2~3組み込まれて使用されるようになる。また、郷はさらに36の一町方格のマス目に仕切られ、ひとつひとつに坪名(一ノ坪、二ノ坪...)が付けられた。しかし、1つの坪=1町歩の面積が現在とかけ離れている。(現在の1坪=1間四方は、当時は1歩であり、これが1「町歩」の由来でもある。田地については、現在でも、反、畝、の下に「歩」が最小単位として使われている。)郷里制は25年後の天平12年(740)に廃止され、国郡郷制になった。なぜ「里」が消えたかは次のように解されている。長さの単位である一里=36町=3927mと、面積を示す一里=36町歩は、同じ表記からしばしば混乱を招いていたと思われ、郷里制下でも収まらなかったため、里を廃止し「郷」を里の代わりに「さと」と呼称することで混乱を回避したと思われる。この時点で公称の「里=さと」は完全に消えたが、俗称としてその後も使われ続けている。条里制下の長さと面積の呼称単位は同じ文字が使われ混乱が多かったと思われる。長さの「1町=60間=108m」と、面積の「1町=60間×60間=3600歩」は収穫量の把握など計算上問題が多かったろう。天正10年(1582)に実施された太閤検地では、面積計算上の端数は切り落とされ簡明なものになった。 1反歩 360歩 → 300歩 1町歩 3600歩 → 3000歩この結果、これまで1郷、1里を表現していた六町方格は、36町歩ではなく、新単位を使うことで2割増しの「43町歩と2反歩」になってしまった。こうして、「六丁の目」はいつのまにか意味不明の言葉に姿を変えていった。「六丁の目」とは、古代や中世における1つの里、郷を表す「六町方格の目」であり、極めて一般的な呼称単位だったと推測できる。条里制が衰退すると、「町」の面積単位や「坪」の意味が変化してしまった。そして中世以降の惣村制や太閤検地以降の郷村制への移行を考えるとき、六丁の目は呼称だけが残りその本質的意味合いは誰もわからないものになってしまったのだろう。この意味不明の言葉が、固有、特有の表現とみなされ、公式に地名として認められるようになったと考えられる。■勝又秀夫「条里制と地名「六丁の目」」(宮城県地名研究会「地名」第31号、2010年から)
2014.03.22
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昨日のプロ野球オープン戦で山崎武司が一日だけの選手契約。中日と楽天の試合で4番DHの打席を務めた。夜にCSで試合の様子を見ていたのだが、素晴らしいのは最後の山崎の言葉だ。ドラゴンズのユニホームを着ながらも、縁の深いイーグルスとの対戦。解説者として両チームの日本シリーズを解説したい、とのことば。そして、被災地への配慮。地元名古屋の自身の引退試合の晴れ舞台に、これだけ東北や震災に言及したことが、この人の素晴らしさだと、思った。新天地イーグルスでの本塁打王はもちろん偉業だが、データ以上のたいへん大きな存在感のある新興球団の主砲だった。
2014.03.22
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何気なく古い地図を眺めたとき、柏木三丁目に見つけた。市立女子高(定時制)とある。北八番丁通りの北、今では市民センターになっているようだ。古い地図と言ったが、昭和50年代後半で、大昔ではない。高校を出て仙台に来た時分に買った地図だ。中学や高校を仙台で過ごしていたら知っていたのだろうが、あるいは柏木の周辺に住んでいれば気づいたのだろう。しかし、当時にそんな高校があるという意識はなかった。市立女子高校は昭和58年(1983年)まで存在した。この年には五輪に仙台図南萩陵高等学校が、いずれも定時制高校だった仙台図南高(男子校)と仙台市立女子高を統合し、共学の定時制高校として開校した。この時、女子高の校章であった「萩」の字を校名に加えたのだそうだ。なお、今では、その図南萩陵高に代わり、平成24年に仙台大志高校が昼夜の定時制として開校している。
2014.03.18
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