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再々入院した。 私はいったい何してるのか不安になる。また来たのー? と病棟のみんなに思われるんじゃないかとか、自意識過剰で病室から逃げだしたくなる。 逃げだしたくなるなら、なってろ。 居たたまれないなら、居たたまれなくていいから、居たたまれなさをそのまま放置して、淡々と現実を凌げ。 辛かったら泣いていろ。 とにかくどんなことをしても、みっともなくても、何でもいいから、一日一日、今の現実を漕いで行け。 夜は10時に消灯なのだが、結局午前4時過ぎまで寝付かれなかった。 主任・副主任・事務スタッフの3人のスケジュールをわざわざ合わせてもらって、後日ミーティング(打ち合わせ)に病院へ来てもらう時間を作って貰った。折角の時間、ちゃんと使えるように、寝付かれないまま相談ごとを考えていた。あっこれも相談しておかなきゃ、と思い浮かぶ度に、そっと起き上がる。4人部屋の同室の人に迷惑を掛けないように、廊下の非常灯の明かりで付箋にメモを書きとめていく。 付箋が20枚くらいになった頃、いつの間にか、意識がミーティングの内容から、今の自分のことに移っていて、またグルグルぐるぐるグルグル…。 えーいっ、うっとうしい!! 入院の大荷物を持ってタクシーから降りると、丁度前回同室だったAちゃんが外来に来て会計しているところだった。会えて嬉しかったー。病棟まで荷物を一緒に運んでくれて、お昼ご飯もいっぱい話しながら一緒に食べた。2時間も話してた。後で、無理に引き留めてしまったかとか、私ばかり自分の不安を一方的に聞いて貰ってしっまたか、と不安になったけど…。でも、後で思い煩っても仕方がない。素直に「ありがとう」って思うことにした。 そのときに2人で話したことに励まされ、寝付かれない夜、元気が目減りしがちな夜中にも関わらず、こんな言葉が浮かんできた。「迷うのはいくら迷っても構わない。迷うのは仕方がない。その結果、最良にたどり着け」「なりふりなんかかまってられない。自分にできる限りの精一杯」「開き直れ。開き直る」 ちょっとキレてるっぽいけど、それもOKー。 夜中にむくっと起き上がって大きめの付箋に、この3つを書いて枕元に貼り付けた。 一晩凌げたよ!!
2004.07.28
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一人の異性を人生のパートナーに一応決めた。ただそれだけで、私の名前は「H.O」から「H.K」に変わった。私が参加しなくなった時間の長さ分ずつ実家は変質し、現在の「O」集団に私はなじまない何かを感じてしまう。同じように、私が参加してこなかった時間に醸されたK家の価値観から、私は私を「K」だとは思えない。その名前と自分自身にズレを感じているのに、今私は何と名乗り、呼んで貰えばいいのだろう。時間が流れて環境が変わっても私という意識はただ一つ、一本の軸のように貫いている。ありがたいことに、私にはその軸とぴったりと寄り添ってきた名前がある。ペンネーム「太田とねり」だ。 一学年三百人ほどの地方の小学校へ、R.Tさんが転校してきたのは六年生の春。受け入れる側の私達は、四年生からの持ち上がりクラスで、笑わせ上手な子、算数が得意な子、走るのが速い子、読書家の子など、すっかり役割が固定していた。転校前の学校での授業の進み具合が早かったこともあり、私には彼女が何でも出来るスーパーマンに見えた。 きっと私は自分のテリトリーを失うことが面白くなかったのだろう。クラスメートと「Tさんに負けないように頑張ろうね」などと話していたに違いない。 いつの間にか「Tさんに負けないように努力する会」が作られ、会員証まで出来ていた。会則には「Tさんの苦手な科目では積極的に手を挙げよう」などと書かれていた。 ある日の昼休み、教師がふと気づいた。私の机に大勢が集まり、Tさんが一人ぽつんと自分の机に座っている風景に。それはまさに絵に描いたような仲間はずれの状態だった。 急遽、授業が学級会に変えられ、話し合いとなった。いじめている自覚がなかったため、私たちは真面目に「いじめはいけないと思います」などと発言し、噛み合わない話に業を煮やした教師が、「では、はっきり言います。OさんがTさんをいじめています」と宣言した。 私や他の子達は大いに反論した。それをしばらく聞いていた彼女は、「不快な思いをさせていることに気づかなくて、すみませんでした。これからは気をつけるので、よろしくお願いします」と謝ったのだ。 無神経な私は、急に親切になった。そんな自分に何も感じなかった。校庭の気持ちのいい場所を教え、帰り道の駄菓子屋を紹介し、一緒に遊んだ。家を行き来し、交換日記をするようになり、日を追うごとに、ただのクラスメートではなく特に仲のよい友人のひとりになっていった。その頃、私は彼女を「とねり」というニックネームで呼ぶようになった。 中学一年生のある日のこと。何がきっかけだったのかは覚えていない。突然に、かつて私のしたことが大変ないじめであって、彼女の身になれば、耐え難い辛さだっただろうと、私ははっとなった。何ということをしたのだろう。まして、その理不尽さの中を彼女は自分が頭を下げてあの学級会を終結させ、その後今に至るまで、憎いはずの私と仲良く付き合ってくれているのだ。私はじっとしていられず、彼女の家へおろおろと謝りに走った。 初めて彼女は、転校前にいじめられた経験があったこと、あのとき死にたいと思ったこと、またかと無力感や絶望感に襲われていたこと、私のあまりの鈍感さに驚き呆れ、私という人に興味を持ったことなどを話してくれた。私は一生どんなことをしても償えないと思った。 翌年中学二年生のとき、彼女は父親の転勤について都会へ戻っていった。彼女は私の家の郵便受けに一冊の大学ノートをプレゼントとして残していった。 たくさんの詩が書かれていた。何ページか切り取られていたり、途中からちぎられているページもある。多分、私が読むと辛くなるような問題に触れられていた詩を彼女は切り取ったのだろう。 私は何度も何度も読んだ。すごいと思った。書くことや読むことに縁のなかった私が、同人誌に参加したのは、この彼女の詩を他の人にも読んで貰いたかったからだ。A3の両面コピーを二つ折りにしただけの同人誌。了解を得て私は彼女の詩を載せた。作者名を「とねり」と記して。 その後、私は彼女の「とねり」を戴いて「太田とねり」というペンネームで高校の文芸部誌に書き始めた。卒業後は同人誌に。その時々の私が考えたこと思ったこと、直面したこと。振り向くと、まさに私自身が「太田とねり」として残っていた。私は書いたものがまとまると彼女に送った。いつ会っても、昨日の続きのように何時間でも話した。 私達は、そういう二十年を持つことが出来た。 二人が三十五歳になっていた年、私に、いじめ体験を書く機会があった。それを機に、あれは一体どういう出来事だったのかと二人で記憶を持ち寄った。私達が交わった、学級会のあった一年を基準に、二人の人生を「それ以前」「その後」と、Xの字のように振り返った。今からみれば面白いように類似した人生を辿っていた。実はとてもよく似た二人だった。 一ヶ月ほどして、私は書き上げたものを持って彼女を訪ねた。彼女が納得できないものならば発表してはいけないと思ったからだ。私がペンを執ったいじめ体験文ではあっても、二人のものだった。 原稿の話が終わって、お茶を飲んでいたとき彼女が夢の話を始めた。「ひろちゃん、面白い夢を見たんだよ。山道を一人で歩いているの。歩いている意識は私なのに、映像はひろちゃんなんだよ。片側は山の斜面、反対側は谷。土が乾いていて、ぽこぽこと土煙をたてながら歩いているんだ。すると谷を渡った向こうの尾根に人がいる。母なの。横顔はひろちゃんのお母さんなんだけど、正面から見るとうちの母の顔なの。歩いている私に気づいて、母の顔が悲しい表情になって、その表情を見ると、あああ、失望させてしまった、とたまらない気持ちになって、谷底に飛び降りてしまいたくなってね。ものすごい誘惑なんだよ。すごい重力が私を、飛び降りろと谷底へ引っ張るの。それでね。抵抗しきれなくてとうとう飛び降りてね、落ちていく。すうっと落ちていく。だけど、はっと思うんだ。このままじゃいけないって。さすがに夢だね、それで、元のシーンに戻っていて、母の悲しい顔を見ながら、必死で飛び降りないで耐えて耐えて。耐えていたらね、ふと日差しが暖かいことに気づいて、無意識に、両手を太陽の光の方へ差し上げていたの。そしたら、隣にいつの間にかひろちゃんが立っていてね、また暖かい柔らかな日差しの中を今度はふもとに向かって、黙って二人で手をつないで、歩き出すの。二人分のぽこぽこっていう小さな土煙と足音だけあってね、手をつないで天気のいい中を二人で歩いているんだよ」 その話の後、「ひろちゃんがとねりって名前から解き放される時期が近いのかもね」と彼女は続けた。 H.Kとなった今、私を「とねり」と呼ぶ友人が、「Kさん」よりも「Oさん」よりも、多い。そして、彼女は結婚して「R.T」さんになり、彼女を「とねり」と呼ぶ人は今はもう居ない。 歳月は不思議なことをするね。 人生の中でたった一年同じクラスになっただけ。手紙や電話、年に一度会うかどうかという物理的な距離を、私達は超えてきた。最も古く心の近い大切な友人として今があることを奇跡のように思う。今、私は彼女を「りかちゃん」と呼び、彼女は私を「ひろちゃん」と呼ぶ。 自分の無神経さが今も怖く、自分を「とねり」と呼ぶことに、自虐的な不自由さも自覚しているけれど、でも、りかちゃん、多分私はもう「太田とねり」なんだよ。りかちゃんと出会ってからずっと続いてきた時間の中で、私の名前は「太田とねり」なんだよ。
2004.07.25
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本日で4回目の人工授精。 朝早い時間に予約を希望したら、07:00になった。本来の診察開始は09時だから、もちろん今回も先生が一人で病院を開けて待ってくれていた。7時に開けてあるには、先生は遅くとも6時台に来てくれているはずなのに、私ったら5分遅刻してしまったー。すぐ次の患者さんが来たのに、待たせちゃうなぁ、ゴメンナサイ。 お世話になっているAレディースクリニック、私はかなり好きです。患者さんがいっぱい。先生はすごく忙しそうで、患者である私はベルトコンベアーで流されているようなのに、嫌な気分にならないのは先生の人柄のせい。(十数年前、大きな病院の産婦人科でベルトコンベアーに載せられた「もの」扱い……と感じたことがあって、すごく傷ついたのに、同じように効率的に診察するため、流れ作業的な動きをするにもかかわらず、Aクリニックでは「傷つき感」がないんだ) A先生は忙しい中で、短い言葉なんだけど、ちゃんと説明を入れてくれる。ただその説明の意味が理解できるには、私の場合何冊か不妊治療の本を読んで予習しておかないとチンプンカンプンなのだー。マンガで読むものから始まって、薄い文字テキストを読み、そしてちょっと詳しい「不妊治療ガイダンス 第3版」医学書院発行を読んだ。そろそろ体外授精チャレンジの可能性が身近になって来たので、今はその続巻「体外授精ガイダンス」を読んでいるところ。で、分かったこと……、不妊治療って複雑で、アウトラインをぼんやりつかむのさえすごく患者側の私に時間が必要なのー。これをしっかり理解できるまで口頭で先生が伝えきるなんて、理解する側の私の能力不足が、すっごーーーい障害になってる。そんな私にも、忙しい中なのに、短い言葉でも、A先生って適切に説明を入れてくれるんだよ。 A先生のキャラは、「噛めば噛むほど味が出るスルメのような先生」。この説明は、待合室の雑誌立てにあるアルバムの中に書いてました。クリニック開院祝いに患者さんたちが作ってプレゼントしたものらしい。写真や手紙で構成されている。私はこれを見るのが大好きで、毎回毎回見ているのだけど、飽きなくて笑ってしまう。「初めは何て無愛想な先生なんだろうと思い、病室のみんなが『A先生となら不倫したい~』『一番好き』と黄色い声を上げているのを不思議がっていたのに、いつの間にか黄色い声を飛ばしていた私です」なんて書いてある。フフフ。内科のH先生が初めて紹介状を用意してくれたとき「いかつい感じの、一見とっつきにくそうに見える先生だけど、いい先生で信頼できるから。見た目怖そうだけど…」って。その予備知識の上に待合室でアルバムを読んでいたので、どんなに怖そうな先生なんだろうと心の準備をしていた。だからかな、怖いのは当たり前なので全然特に印象に残らないくて、逆に意外にお茶目なキャラがポロッと出るとすごく後々まで糸をひくようにウケるんだなー。 「内科で(糖尿の治療で)かなり体重落として来たんか。よう頑張ったな」ってぽろっと言ってくれたり。【逸話A】先生「基礎体温はどんな?」(体温表を見ながら)私「高い日があったり低かったりでよく分からないんですが…」先生「それは低いってことじゃ」私「???」先生「熱が出ても高くはなるが、冷蔵庫にでも入らんと低くはならん。だから低い日があるってことは、低いってこと」私「はぁー」内診台で一人待っている間暫く考えていて…私「そうか、高い体温数値は色々な要素で出るけど、間違って低い体温数値がでるには、冷蔵庫に入らない限りあり得ない…ってか」おもしろーーーーーい。フフフ【逸話B】自宅でLHサージの検査が微妙な色に出て、うーむと悩みながら持って行った私。先生「何やこれはー、また微妙なのー、頭痛いが~。(卵巣の大きさなどと今までのデータを検討しながら)わしやって悩むぞ~」(別にウケを狙っている訳ではない、いつものまま素の状態、大マジメで)私「はいっ~」(先生が偉ぶらないので、私の悲壮感が吹っ飛び、笑えてしまう)【逸話C】「貧血の薬、飲んだこと、あるか?」「そう、あのウンコが黒くなるやつ」「飲めるか? ほんなら出しとくけん、ウンコくろくろしながら飲んどいてなー」(笑いもせず、まじめな顔でウンコくろくろ……って。)【逸話D】3回目人工授精の後、生理がきて受診した際。先生「生理、来てしもたんかー」基礎体温表を見る→生理が来ているくせに、ほとんどの日が高いまま。先生「何やこの体温は~。生理は普通の感じの生理やったんか?」私「はい、普通の感じの出血だったと思うんですけど(はぁーって雰囲気で)」先生「高いついでに妊娠してくれとったらええのになぁ」私「ホントに、ねぇ~(冗談だと思い笑ってしまう)」悲壮感が吹っ飛んで笑ってるよ、私。その後の内診室でモニターを見ながら先生「う~ん、妊娠してないかー」えっ、先生マジだったんですかぁ。私がそう思う以上に先生が本気でそう思って胎児探してくれていると、何だか暖かい気持ちになった私です。 さてさて、私と同じように、ここ(A先生のクリニック)なら信頼できると、他の患者さんもみんな来てると思うから、先生に余計な時間を取らせられないと思うし、余計なこと言って叱られるのもエヘヘヘなので、私がこんなにウケていること、先生に話してる訳じゃないですよー。でも、帰り注射して貰うときに、私ったらいつもニヤケていることになる訳で…、看護婦さん「○○さんはいつも楽しそうですねぇ」って。「だってA先生おもしろいし…」「そんなに楽しんで貰えてよかったです」ハハハハ。看護婦さんもスタッフみんな、A先生が大好きなんだなって伝わって来る。
2004.07.24
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進行性筋ジストロフィーという病気の祖母。私が物心付いたときから、祖母は寝返りも打てないのが普通で、祖母は動けないのだから動かせるものを祖母の周囲に配置することになる。ベッド。ベッドの横に電話。電話の横に椅子。そして、その向かいにテレビ。当時としてはまだ珍しいリモコン付きで、祖母のリモコンが勝つか、本体でチャンネルを変える私が勝つか。大抵私が勝っていた気がする。 一日に何度か、祖母を抱きかかえてトイレに連れていく。トイレの帰りに洗面。着替えをさせて椅子に。食事の世話をする。三日に一度はお風呂の日。風呂場に簀の子を敷いてバスタオルを重ね、裸の祖母を裸の母が後ろから抱きかかえて座り、裸の叔母が祖母を洗った。 祖母の入院時は母と叔母が交代で二十四時間泊まり込んだ。小学3年生の頃から私は祖母の寝返り係で、祖母の部屋で寝起きし、パジャマの生地を引っ張って体の向きを変えていた。祖母は椅子に座らせてもらうと自分で紅を引いた。ブラシで髪をといてあげるととても喜んだ。 家具だけでなく家族も、祖母を囲むように生活が組まれていた。だから、例えば私の入学式に親が来られないことがあっても、私には別段不思議なことではなかった。 祖母は、私が十六歳の春旅立っていった。 その十数年の後、私の人生に大波が重なって、余裕がなくなった時期、私は母を憎んだ。負担をかけまいとして子供の頃から話さずにきた思いは、ヘドロのような言葉になって母にまき散らされた。「私を見て。私を聴いて」何万語を費やしても、私はそれだけを言っていたのだと思う。波が少しずつ穏やかになるにつれ、あのヘドロは何だったのだろうと考える。相手を傷つける言葉でしか伝えられなかった、笹啼きのように未熟で必死な母恋歌だったのだろうか。 先日、年長の友人たちが少し涙ぐみながら話している場に同席した。入院中の夫、愛が足りないと荒れる子供。自分の限界と罪悪感と怒りと悲しみとを分かち合っていた。 その声は母の声ではなかったけれど、私にとっては母の言葉だった。私は、ぶつけるばかりで母を「聴く」力がなかったのだ。もっと友人たちの話を聴きたいと思った。きっと、その雫の中に母の声も溶け込んでいる。
2004.07.20
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マタニティーブルーの前段階の、少しブルー?状態です。徹夜、接待、売上ノルマと、寮に寝に帰ることもままならない生活をしていたため、体を壊しました。不規則な生活、食べることでストレスを解消する生活スタイルで、二十歳そこそこにして糖尿病。でも、当時、まさかそんなことは疑いもせず、どんどんとだるくなり、体が言うことを聞いてくれず、ずっと微熱が何ヶ月も続く状態が当たり前の日常になり、喘息が悪化し、生理か不正出血か判別出来ない常に出血している状態で、訳も分からず、突っ走っていました。30歳そこそこで、腎臓を壊して透析になり退職していく先輩を、ダメな奴だと思っていたので、自分が壊れていくことを受け止めるのは難しかったです。 しんどくて仕事についていけず退職し、喘息で通院して1年位したとき、痺れが出てきて、糖尿病と診断されました。ショックでした。「贅沢病、怠け病、わがまま病」「縁談に障るから、誰にも知られてはいけない」と当時忠告してくれるひとがいて、親にも心配かけないようにと言わず、一人で努力しなんとかしようと思っていました。 頑張って一人で帳尻を合わせようと、食事を管理し、時間をひねり出して運動し、仕事上にも迷惑をかけないよう……と目をつり上げているうちに、内科の先生から心理テストを勧められて、臨床心理士さんのところへ伺い「摂食障害」と診断されました。自力で頑張り抜けないということを認めるのは難しく、周囲から見ればおかしな行動をしていたんだろうけれど、私は必死で「本当に私は大丈夫ですから」と診察室で繰り返していて、さらに一年くらいは治療抵抗していたように思います。 それからは、鬱になり、ギブアップしてみたり、いや、その中で、やれることをやれる範囲でやらせて貰えればいいではないか、そうやって生きていこうと思えたり、色々なサポートの中で過ごしてきました。 さて、今回、まとまって入院させて貰ったお陰で、ここ何年もなったことがないような血糖値にまで、安定してくることが出来ました。実は、今39歳、数年前に不妊治療を中断したままになっていたのですが、大変に厳しい血糖管理が出来ていないと、まず妊娠することさえ許されない糖尿病患者である私には、今回の入院のおまけで貰った今の血糖状態が、なんだか夕方の遊園地で最後の一個になった風船を貰ったようで、これを離してしまっら、何処までも何処までも風船は飛んでいってしまうだろうと言う気分になっているのです。これはもう、最後のチャンスと、私としてはかなり負荷の高い血糖管理をしながら、現在不妊治療中。糖尿は2型。不妊理由ははっきりしたものではなく…、今回は両方の卵巣がそこそこ育っているから、二つ排卵したらいいね~と期待倍増で、人工授精しても生理が来る。生理が来ても基礎体温は高いまま~。どうなっとんじゃ~こりゃ?と、いいつつ、食前血糖→インスリン→食事+タイマーセット→食後2時間血糖→……エンドレスに、妊娠するかもしないかも分からないまま、先の見えないまま、いつまでこんなことをしているんだろうと、そこで、一番最初に書いた「マタニティーブルーの前段階の、少しブルー?状態です。」になるわけです。このままダメなら、再来月あたりから体外受精に切り替えるつもりです。 糖尿病の合併症で、ほんの少しだけ糖尿病性腎症の初期にある私は、子産みは、中毒症などの確率もそこそこ高く、取り敢えず危険です。妊娠すること自体、縁がないかも知れないけれど、もしそんなご縁に恵まれたとしても、様々な選択肢のあるお産については、私は話題に参加できる身分じゃないよな~っていつも思っていたので、「いいお産」について書かれていたのを読んで、実は少し涙が出ました。>例え、死産でも、帝王切開でも、障害のあるお子さんが生まれても母親が納得し、自分で選択したお産、と言える出産ができる施設を増やしていくことがこれから必要なのだと思います。ありがと~って感じでした。あとは、なるようにしかならないんだよな。 6月29日から再入院していたのですが、病院でかなり鬱っぽくなって、更に、同室のおばさんとそりが合わず、「あなたに子どもが恵まれないのは、糖尿病の因縁を子孫に渡さないように、神様があなたで終わらせて下さっているのだから、喜ばないと」なんて、足(たる)を知って喜んで暮らすようにと、毎日諭してくれるのを、素直に聞けない自分がうっとうしくなって、もう少し安定するまで待ったらという主治医の反対を押し切って、7月15日に退院してきたのでした。こんなに面倒を見てくれて、「糖尿病だからって、ひとりの人間としての尊厳まで放棄しなくてもいい」と言ってくれる主治医や、今、仕事を任せている「子どもを産みたいなら分かりました。もし、双子が産まれたら、育児大変ですよ。ベビーシッターに行ってあげましょうか」と言ってくれるルームの先生達、自分の人生、仕事、病気とのこと、子どもに恵まれたとしての子育てのこと、全部、自分一人で何とか出来ることなどなくて、私の生き方自体、「みんなでいっしょに育てていきましょうね」と言って貰って、日々、毎日を暮らさせて貰っています。
2004.07.19
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私は、糖尿病歴16年くらい。そろそろあちこちに合併症が見え始める病歴です。ここ数年、プティットの立ち上げなどに無理を重ねて、昨年末にギブアップし、今年1月19日から5月11日まで入院させて貰っていました。それでも、先生達がルームを運営してくれていることが、ありがたくてなりません。そんな中、子育てサークルリーダー研修の託児について依頼を頂きました。病院から、それだけのスタッフを本来は当日休みの先生で、出勤して貰えるだろうかと連絡をして、現場の先生から、何とか頑張ってみますと返事を貰いました。実は、今回4回分の託児を請け負うことで、多分30万円前後の赤字を見込んでいます。本当に大切なスタッフに、無茶な負担を背負わせたくないので、子どもさんの年齢と人数に合わせて必要と思われるだけの数のスタッフはどうやっても手配しなければならないし、絶対にお預かりしたお子さまに怪我などがないように、1時間前には入って、危険そうな箇所の養生をすることなど、山口県で今まで何度か大きなグループケアを担当してきた先生達の経験と智恵を分けて貰おうと、山口からも応援スタッフを呼んでいるからです。 そんなことしてまで、なんでこの仕事を受けるのだと、思われるでしょう。「子育て支援だからです」。私は「病児保育のお手伝いと、子育て支援」に関しては、無い袖は振れないけど、出来るだけのことは出来るだけしたいのです。
2004.07.18
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山口県で14年前から24時間保育をしている保母さん集団の先生達にご縁を戴き、手助けして貰って、そこのひとつのルームとして開設させて貰えるようになり、消防法などを真っ向から向き合っていたら、共感してくださる地主さんに巡り会い、一級建築士さんのお世話になり、何よりも、現場を支えてくれるスタッフに巡り会いました。24時間保育は、認可外で、行政指導により、お預かりするお子さんが一人でも、保育者は2名配置しなくてはなりません。子どもの数が増えればもちろん保育者の数も増やさなければ安全も質も保てないし、でも、金銭的に余裕があるわけではない。それでも、30名前後のスタッフでようやく年中無休24時間は実現しています。みんなが交代で調乳するなら全員検便してくださいと、行政の一言で、年間15万円くらいの検便費が飛んでいき、税金、労働保険、……、でていくお金ばかりです。まだ一円の助成金なども貰えたことがないんですが。実績実績。でも、本当に辛いときに、ブルジョアな料金設定で絵に描いた餅「24時間保育」では意味がない。その方針で料金を設定していることをスタッフ全員に説明していて、それでも働こうと言って下さる人のみに、働いて貰っているので、私の人生で、何よりも奇跡のようなネットワーク、人と人との繋がりと言えば、今、日々現場で24時間保育を支えてくれている一人一人のスタッフとの出会いです。 認可で何年も保育士をしてきた人、幼稚園教諭だった人、看護師、今から保育について学びたいのでベビーシッター講座に通いましたという人、みんな、多分そのままのキャリアと資格で、うちで働くよりずっと楽で収入のいい仕事は絶対にあるのに、初めに研修費という名目のカンパを自腹で支払ってまで、うちの考え方を共有して働いてくれているので、信じられない薄給でも、精一杯のことをしてくれています。薄給でもボランティアじゃない、仕事だから、責任は重いってことも引き受けて、厳しい勤務も投げ出さずに。 お陰で、私の給料は無いまでも、赤字の垂れ流しは止まり、何とかお家賃とお給料と光熱費、税金、各種支払いは払って、月が越せるようになりました。24時間保育は、繁華街でもないので、夜間のニーズは多くなく、コストばかり嵩みます。ショッピングセンターの中などではないので、福利更生施設としてではなく、全くの認可外保育所としての規制が全てかかるので、健康診断、避難訓練、検便、職員の資格、職員配置、なにもかも、最も規制とコストのかかる、一番ロスの多い形態での開業でした。みんな、絶対に収支は合わないからやめろと心配してくれたけれど、私は、初めに述べたような理由で、保育できるところを作りたかったので、一番割に合わないところで、15年の実績を作ることを目指しました。そこで、10年、15年、存在し続けていたら、そこを利用して下さったお母さんや、もしかしたら、子どもたちも、それぞれに1票を持つまで育ち、「そんなところが必要だよね、当然」という社会になる。その頃には、私たちの想いはネットワークの先に実っていくだろうと思うのです。
2004.07.17
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Sクリニックの精神科医 S医師を、私は自分の生き方の手本としています。もちろん、素質も資質も、何もかも比較にはならないのですが、そんなこと比較しても意味がありません。自分に出来る範囲で、自分に与えられた中で、出来るだけのことをするだけです。私が印象に残っていること。児童虐待をうけて育って、自分も子どもをネグレクトしてしまった母親に対して、それでも、子どもとの関係を何とか作り上げてきていて、今その子どもが小学生にまで生き延びていて、毎日を手探りで子どもと向き合っているときに、何気なくそのひとにS先生がかけた言葉、「○○さん、△△ちゃんは、みんなで育てような。ひとりで育てようと思わずに、みんなで育てていきましょう」と言った一言。預けて、親が自分を責める道具になるような24時間保育ではなくて、預けて、子どもが喜ぶ顔をみる結果になる24時間保育の場所でなければ、お母さんも子どもも、負荷が増える。そんなところで働きたいと思ったけれど、探してもそんな場所がなかった。行政に対して幾ら言っても、「ニーズがない。誰も必要としていない。養護施設がある」と取り合ってくれない。そんなとき、S先生が言ったことば、「本気で必要を感じた人から立ち上がるんですよ。そうやって、15年やり続けているうちに、時代はついてくるんです」と。そういえば、S先生が児童虐待について言い始めた頃は誰も耳を傾けなかったけれど、今、児童虐待防止法が成立した世の中になったし、夫の暴力について言い始めた頃、それは妻のわがままとしか捉えられなかったけれど、自分たちでシェルターを作り、10年15年、今DV法が出来てきた。みんなそうやって、自分の人生にご縁をいただいた出来事について、精一杯のことをしている名もない市井の人の人生が積み重なって、いつか社会が変わっていくんだなと思ったら、私も自分の出来る範囲でやらせて貰えることをやりたいなと決心したのです。 それから数年、自分のやりたいことだけを頼りに、「私はこういうことがやりたい、こういう理由でこういう考えで、こういうことをやりたい」と言い続けているうちに、協力してくださる方が集まり、昨年私の故郷である町に、24時間保育をするところが出来ました。
2004.07.16
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私にとって最初の保育現場は、病院の保育室でした。Sクリニックという精神科で、自分で鬱だと理解できない母親が必死で自分を責めている。そんなところからひとつひとつほぐしていく通院時、クリニックでは「母と子の部屋」という託児室を用意して、保育士が2.3名常駐しています。そこへ関連のNPOから手伝いのスタッフが加わるのです。私はほんの少しですが、そのお手伝いスタッフをさせて貰いました。段ボール箱から一歩も出ない少年、……、でも、そんな中で、時間とともにお母さんは落ち着きを取り戻していくのです。ただ、鬱から児童虐待に進み、そこから引き返してくる道のりはとても時間を必要としていました。 以前よりは大分鬱から抜け出してきた、でも、誰かの手助けがまだ必要だというときに、すぐ適切な手助けを受けられることは、まだまだ余り出来ないことが多く、「精神的に病んで育児不能のため、」と「母親失格のお墨付き」が付いて初めて、保育所に預かって貰うことが出来たり、養護施設に子どもが保護されていった後、何人もの母親が、一時期もっと激しい鬱に突入するのを見てきました。さあ、今のうちに自分の治療を合理的に進めて…なんて、てきぱき考えられる平静さなど残されていないまでにうちのめされたことが、子どもを安全に保護して貰えることの代償だとでもいうようでした。 母親失格の自分を打ちのめすように、処方された安定剤を大量に飲んで、自分を罰するように繁華街で自分を買わないかと男達に声をかけ、10代の女子高生でもない鬱の病人に世間は厳しく罵声を浴びせ、子どもも育てられない、働くことも出来ない、体も売れないと、どこまでも自分を痛めつけていき、安定剤でふらふらしているところを警察に保護される。 そんな時期の女性を見てきました。そこまで、自尊心を根こそぎにしてしまう前に、黙ってそっと手を添えて、大変な時期を乗り越える手伝いが出来ないものかと、つくづく思いました。鬱っぽくなってしまった親に、完全敗北を認めさせる儀式なしに、また、子どもが「また行きたいよ。楽しかったよ」と喜ぶ顔で遊びにいくかたちで、せめてもの罪悪感を減らすように、子どもを預かれないか。あくまでも「黙ってそっと手を添え」る形で。 40度の高熱がある母と、鬱になっている母と、どちらかが甘えているなんてこと、あると思いますか?どちらかが、一生後ろ指を指されて、隠して生きていかなければならないようなものだと、思いますか? 辛い本人をもっと鞭打つような、援助(?)も、ないよりずっとありがたいです。でも、できれば、もっともっと重症化させてしまう前に、サポートできたら、結果的に、母ははやく元気になり、子どもは元気な母に承認されて過ごせる時間が多く持てる。ひいてはその子どもの健全な自己肯定観と他者への共感能力も育ち、何よりものその子どもの宝となるのになぁと思ったのです。
2004.07.15
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明日退院することになった。帰って管理ができる自信はほとんどない。でも、帰った方がいいと思うんだ。先生はもう少し安定するまで退院は待った方がいいと提案してくれたし、自分でもその点はそうだと思うけど、このままここに居ると更に維持出来なくなる予感がする。母に自分を丸ごとすべて背負ってもらいたくて、でも、自分以外の他者である母にそんなこと当然無理。私が母に対して、麻布で時間をかけてひとつずつ諦めてきたことが、今の入院生活で何だかピリピリする。母の断念は摂食障害者の私には難題で、すーぐ再燃する。同室に、母と同じ宗教を持つ人が居て、人生ごまかして生きている傲慢な偽善者的発言が、私は不愉快でたまらない。聞き流せば済むことに、いちいちカチンとくるのは、母へ言葉が届かなかったことに重なるからかな。「人生、天の采配通りに素直に通っているのが一番。子供がいないのだって、糖尿病を子孫に渡さずに自分の代で因縁を終えられる」ってか。私のことに口を出すな。あの宗教の人らしい、不満のすり替え。朝に晩に感謝して、全てを喜んでいると言いながら、会話は不満と自慢と他者への見下しばかり。聞こえるだけでも不快だわ。「私は無力で、だから自分でこれ以上頑張りたくない」というストーリーに逃げ込みたい願望がいつもある。確かに今回のタイミングで入院していなかったら、かなり立ち直るのが難しいくらいコントロールを崩してひどいことになっていただろう。最適のタイミングで入院したと思う。でも今これ以上居たら、先生や病院に「得られなかった母」を望んでしまい、私を丸ごと背負ってもらいたいと野心しそうだ。被害妄想的になり不安感が強まり涙もろくなってきたってことは、かなりアヤシイ。無理矢理にでも今ここで私を引き剥がさなくては…。一時皮膚が剥がれても。本当に「母の断念」は難しい。現実の母に望んでも無理な要求を、何とかすり替えてでも手にしようとしている。私の恥ずかしい部分。でも、自分を責めるためにこれを書いている訳じゃないんだよ。その逆。望めば望むほど自分の飢え渇きが増して苦しむことを、もう十分泣いて知っているから、もうその苦しみを避けてあげられるように、自分を守ってあげたいの。そのために、先生と3日間話しても、やっぱり退院したいとお願いしたんだ。今当面の目標は、無事に管理を全うして子供がうめること。判断に迷ったら、そこに照らしてみる。妊娠できる前に、今回のように自力で立て直すのが困難なほど余りにコントロールを崩してしまったり、また妊娠できて、一番コントロールが厳しく難しい時期になったら、すぐ素直に病院の助けをありがたく借りさせてもらおうと思う。だからこそ、「母恋い」反応の自分を、今はベリベリと剥がす。多分かなり痛くてたくさん血が流れそうだけど!!同室のおばさんも病院も、今は「母」と重なるからね。一度リセットが必要なんだ。かなり迷ったけど、自分でそう決めた。明日退院します。次の入院もきっと、本当に前へ進む為に来るんだぞ、分かったね?私。
2004.07.14
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入院中のおじさんで、血糖測定の度に激しく落ち込んだりとても喜んだりしている人が居る。話を聞いていると「わしな、買って食べてしまうんや」と小さな声で漏らした。「もう死なないかんのやろか」。 看護婦さんが「病院食以外のもの、食べたらいかんよー」と大きな声で呼びかけている。看護婦さんからしたら、自分で買い食いしておいて、なのに「血糖上がった」って騒ぐ気持ちは「訳分からん」なんだろうな。「この金曜に退院することになった。もう居ても仕方ないからって」。「インスリン4回打ちの指示だけど、漁師だから船では時間に打てんわ…」 朝に夜に運動療法で歩き続けているおじさんの背中が切ないよ。 看護婦さんに言われるまでもなく、「誰のせいでもなく自分がダメなんや」「どうして自分はやれないんやろう」「とうとう医者にも見放されて、それも自分が悪いんやから仕方がないし」「怖い、辛い、どうやって抜け出したらいいんやろうか」「自分がダメやから、どうしようもない」。そう思っているんじゃないかなぁ、7年位前、絶望して通院治療を止めてしまっていた頃の私のように。 どうにも辛くて…辛くて行き詰まってしんどくて、仕事でもふんばれなくて、もうどう生きていいのかと思い詰めたとき、もう一度だけ、もう一度だけ病院へ行ってみようと思った。私がダメなままだから、きっと多分どうせ…無駄だろうけど。もう一度だけ…、と。「あなたが頑張れないのだからどうしようもないですね」という宣告を予期しつつ。そのとき出会ったのが今の主治医のH先生だった。出来ない私を断罪するのではなく、出来ないなりに今よりほんの少しでも良くできるようにと、私のペースをしっかり見て伴走してくれた。今も。 糖尿病は長い長い、途中棄権をさせてもらえない強制的なマラソンレース。幾らかのお医者さんは、糖尿病自体を見て一人一人の患者さんは見ない。糖尿病のことはよく知っているんだろうけれど、何のために知ってるのかな。一人でも患者が絶望の淵から顔が上げられるようにと願って、知っている訳じゃないみたい。糖尿病のセオリーに合わせられない患者は、その先生にとっては患者失格。患者を失格になっても、糖尿病はやめさせて貰えない。糖尿病からはリタイヤさせてくれない。それでも、その先生から見たら患者落第。H先生のように、能力別に、「病気」じゃなくて「病気を持っているその人」が見える名伴走者の先生に、おじさん、いつか、出会えるといいね。
2004.07.12
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この日記を読んでくれている友人が、お見舞いに来てくれた。思ったより元気そうで安心したって。心配掛けてゴメンネ。でもって、ありがとう。この日記に、きーーーってなって書いている感情は、掛け値なし。本当だよ。だけど、その生な感情を自分の中からいきなり他者にこぼれ出してしまうわけにはいかないでしょ。生な感情をそのまま、行動にしてしまうわけに、いかないでしょ。そうやって、こぼれだしそうになるのを、なんとかとどめているのが、この日記なんだ。がーーーーってなっている胸の内を、こうやって文字に変えているうちに、時間が過ぎて、衝動的な動きをしなくて済んでいる。 罰当たりにも、今は、「おおきなお世話」って、八つ当たりしたい気分なのだけど、私を守ってくれているものがあって、苦しみながらも、気がつけば生きる方向へ導かれている気がする。 今だって、子どもに恵まれようがどうだろうが、糖尿病患者としての私は、少なくとも、これまでには考えられないほどの管理状態で、また、その管理状態を実現させる生活の仕組みに切り替わっていた。仕事の仕方、自分の生き方から考えて、そんな生活はあり得ない、無理だ、だから糖尿病の管理は私には出来ないと、言い張ってきたし、自分でもそう信じて疑わなかったのに、「子ども」といういい訳を加えただけで、結果を認めろよ。こういう生活を実際しているじゃないか。 「子ども」について、結果がどうあれ、今回のことで、私は証明してしまった。「私は、どういう理由づけだったとしても、自分の糖尿病管理が出来ないとは言い逃れられない」6.7年前、自殺しようとしたときは、私が恨み辛みで死ぬことで、怒っていた相手に後悔や苦痛を与えてやれるのではないかと、「死ぬことでの報酬」妄想で頭をいっぱいにして、衝動的に行動を起こした。そのときは、とても興奮してその興奮に酔っていたから、なんにも怖くなかったな。 今は、それとは違う、ぼんやりとした死にたさがある。「はー、長かったな。疲れたな。もういいな。」敢えて言葉を探すなら、そんな感じかな。「はー、つかれた」別に死にたいのではなくて、つかれたので、おわりたい。 でも、かつてのように、酔っぱらっているわけではないから、死ぬのって今なら多分怖いんだろうと思う。だって、同じ自傷行為でちょこっとナイフで皮膚を切っていても爪切りで皮膚を切っても、以前のように血が出るまでやらずに、ちょっと赤くなる程度にひっかいて「イテテ」ってやめるモン。 そんな時の私に、ふと、「ああ、いかんいかん、この間はいった生命保険、2年経ってからじゃないと自殺だと保険金降りないんだ。今おわりにしたら、会社の借金が残っちゃうな」と思った。 そんなこと考えて保険に入った訳じゃないのに、無意識に死ぬの怖いんだろうな。で、「保険が2年待てと言っている」という、死ななくて済むいい訳を都合良く自分に用意してきた。終わりにしたい自分と、死ぬことを怖いと思えるようになった健康な自分がいて、私つくづく、この数年間毎日をかけて、健康にして貰ってきたな。 そして、「こんなペースでの仕事との関わり方と自分の健康管理」スタイルが見えてきて、自殺では保険が降りない2年間が過ぎるまでには、そうこうしているうちに子どもでも産まれてたりして、………、おせっかいなありがた迷惑な…なんて、悪態つかれている「なにか大きな流れ」のような力が、私をどうやっても幸せな岸へ流してくれているらしいのが、鳥の目から見て、私にも見えてくる。はーーー、でも、今その流れの中にいると、毎日水を飲んだり、鼻から水が入って頭がきーんとしたりして、しんどいんだよ~。6.7年ほど前のように、濁流をあざだらけになりながら流れているとは思わないけど、今の流れの中にいるのも、ときどき、もう嫌になるんだけどな。 この日記すごいや。こうやって書いていると、生きているのを終わりにしたい気持ちの音量が少しずつ低くなっているよ。これを送信して、服を着替えて、(今外泊で、病院から自宅へ戻っているの)今から、病院へ帰ります。ここに気持ちを置いていくから、病院に帰ったら、多分いつもの通り、笑って、看護婦さんにも笑って、「おやすみなさい」って、言えると思う。
2004.07.09
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マンションの一室にスタッフが集まってミーティングして、その結果に沿ってそれぞれが作業し、帰宅の途についたらしい場面に私が訪ねている夢。夕方らしくて残っている数人のスタッフと主任が一緒に掃除機を掛けたりしている。「あの出入り業者さんがこんな風に言ってる」「あの人が辞めたいって」そんな仕事上の日常について主任と私は話しているのだが、「は~、また対処しなきゃ」と言いながらも主任の表情が少し楽そうで、笑い声もある。特に苦労を掛けている主任が夢の中ででも楽そうなのを見られて、嬉しい気分で私は目覚めた。神様のギフトかな。
2004.07.06
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おー、今まさに、心が動揺しています。その動揺に浸りきって動揺を言い訳に大騒ぎして、動揺を十分に活用する、そんないつものパターンからいい加減はずれなくっちゃー。どうするって教わったんだっけ。えーと、ユーモア、自分を眺めて笑ってみるんだったよな。昨日生理が来なかったたった一日のことで、期待のグラフは急上昇してた。今目が覚めて体温計をくわえたらガクンと低い。これは何を意味する?とか、分かりきった答えを認めたくないから、かなり無理のある他の解釈をひねりだそうとしてる私。冷房で体温自体がさがってるとか…?おもむろに、掛け布団を首までしっかりかける。頭の中はグルグルです~。が、無意識に自分の欲しているものへの行動ってするのねー。少し暑い感じになってから、おもむろに再度体温計をくわえましたー。つまり、さっきの体温は冷房のせいで間違いだったってことにしたいんでしょうね~。しかーし、再度低い数字!! さあ、どう受け止める? 騒ぐか? すねるって手もありますぜ、……、おーこの動揺をフル活用してこの際とばかりにワガママ放題?行動のダム決壊か? 自分で自分に規制を掛けてる行動を決壊させたら、笑い者にしてやろうー。ここに、スキあればいつでも、自分の人生の責任を放棄して自分の足で立ちたくないって、みっともないコドモがいますぜ~。ホラホラ。さあ、どうするどうする? 騒ぎを起こすかい?行動を崩すかい?逃げ出すかい?いいよ、やってごらん、笑い者にしてライブ中継しちゃるから。指差して笑っちゃるから。おーっほほほほ。トイレに行ってみたらうっすら赤い。生理の始まりだな。ちょろっとしたおりものがある。「これがきっと命だったのよ~」って気持ちがあるんだけど、思ってるらレベルから行動へ移して芝居がかった風に泣いてみる?ワライバナシダ。
2004.07.05
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今朝、7:43に夫から病院に電話があった。こんな時間にイッタイ何があったのかと思ったら、のんきそうな声で「おはよう、今なにしょるん?」って言う。別に大事な用件も無さそうで、私は少しムッとした。「何?」と私。夫「お誕生日おめでとう」私「あっ…」、夫「生まれてくれてありがとう」私「うん、ありがとう」電話を切ってから、一瞬ムッとしたことを反省した。ゴメン。わざわざ出勤前に電話をくれたのに。「今の電話、旦那でね、いや今日実は私の誕生日だったんだわー」と同室のみんなに話した。夕方、突然プレゼントが置いてある。「えっ?」っと言うと、同室のAちゃんが「お誕生日おめでとう」ってー !!!!!Aちゃんが日中外出した際、私の誕生日のことを思ってくれて、わざわざプレゼントを買ってきてくれたんだー。朝の何気ない会話だけだったのに…。私のことを思ってくれたこと、そして、わざわざプレゼントを買うという行動を起こしてくれたってこと!それが、すごくーかなり嬉しくて、思わす大喜びしてしまいました~~。聞くと、Aちゃんは去年、入院中に誕生日を迎えたんだって。 そのときAちゃんが感じた気持ち。それがどんな気持ちだったかは、誰にも絶対に分からないだろうけれど、でも、「私の今」と、彼女の記憶や思いがもし重なってくれたのだったとしたら、嬉しい!!押しつけの善意ではなく、相手を呑み込む感じでもない、自分の感情として共感してくれる感じが信じられた…。告白すると、私は、自分の誕生日が誰にも意識されないと、私の存在自体が誰にとっても無価値なのだと思えてしまう。入院中病院で、あまりにも昨日と同じ一日として誕生日が過ぎ去り、何にも無かったように明日が来ると、幼稚で恥ずかしいこの感覚が反応する。そんな私に、朝の思いがけない夫からの電話や、更に更に思いがけないAちゃんが私に気持ちや時間をかけてくれたこと!!私に幸せをくれるひとが居てくれる。うれしい。
2004.07.02
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私、何をしているんだ?自分のすること全てが間違った方へ向かってる気がする。頑張れない時間が長くなるだけ、どんどんとてつもなく困った未来の口が不気味に大きく広がっている。密かにメリメリと音を立てて私の未来の地面が裂けている…。無価値な不安だ。そんなものに呑み込まれ振り回されてはいけない、自分のハンドルをしっかりと握りしめていなくては…と言い聞かせる。アントレプレナーセンターの福島先生の色紙を夫に病院へ届けてもらった。「どん底に居る人は前に進んでも後ろに進んでもはい上がっていく」不安のままで立ち続けるんだ
2004.07.01
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