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朝の会場周辺散策後、午後15時に自宅を愛車のリンちゃんで出かけた。10月21日(土) 15:20茅ヶ崎市役所市役所の壁面に「47年ぶり名誉市民に決定 加山雄三 様」の垂れ幕。市役所の東に隣接して最近オープンした「東横INN茅ヶ崎市役所」。今年はサザン関連の”サザンオールスターズ茅ヶ崎ライブ2023、茅ヶ崎サザン芸術花火2023”の開催で満室になったのでは。東横INN茅ヶ崎市役所の南側に”地域貢献施設”の建物が建っている。その前にテントがあり「CHIGASAKI FM」のグッズが販売されていた。茅ヶ崎FM所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1丁目1-14 辺り茅ヶ崎市内初のコミュニティFM放送局 茅ヶ崎FM(通称:エボラジ)が市役所前広場に面した地域貢献施設の一角で、2023年10月1日午前10時に開局した。開局は、サザンオールスターズの桑田佳祐さんの第一声からスタートし、記念すべき第1曲目は桑田さんのリクエストで、名誉市民となった加山雄三さんの「君といつまでも」が流れた。茅ヶ崎FMでは、平時には茅ヶ崎ゆかりの音楽を中心に茅ヶ崎の暮らしの情報などが、災害時には防災・災害情報を聞くことができます。茅ヶ崎FMの周波数は 89.2MHz。事務所内を覗くと中から、今日のテーマ「ありがとう! サザンとふるさとと花火」ちがさきFMにメッセージ送ってね!!✉ messege@chigasakiーfm.com☒ #茅ヶ崎FM #エボラジ花火会場へ向かう途中、”クリエイトS・D茅ヶ崎新栄町店”に立ち寄り夕食を購入。購入後、ツインウェイヴを通り抜けサザン通りへ。既に多くの人が会場へ。15:45エトアール洋菓子店所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目7-17洋菓子店で、店先ではサザンオールスターズのCD等を販売していた。店先には、サザンオールスターズ茅ヶ崎ライブ2023の上着を着た人も。今年の売り上げはサザンオールスターズのおかげで伸びたのではと。茶商 小林園所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵2丁目1-40ここの店主が自前で”茅ヶ崎サザン神社”の御朱印を描いているので、店先には30数名が並んでいた。御朱印は4種類あり各人に一枚無料で配布している。茶商 小林園の10メートルほど先にある”茅ヶ崎サザン神社”はこの日も閉まっていた。御朱印をもらい神社前で記念写真。神社前を通り抜け振り返る。路地には多くの人が並んでいた。15:55サザン通りを南下、チケットを持っていないのでサザンビーチへ入れないので国道134号を西へ走る。右は「セブン-イレブン茅ヶ崎サザンビーチ店」。今日も混んでいるようで「レジ最後尾」のプラカードを持った人が店外に。国道134号の”交通機動隊前交差点”を渡り海側へ。プラカードには「A~E ブロック」「F~Lブロック」と。ここからはチケットがないので入れないので国道134号を西へ進む。西浜小学校入口交差点を通り抜け”西浜中学校前交差点”。ここからサイクリングロードへ入りたかったが係員から「この先の交差点から入って下さい」、「ここは出口専用です」と。浜見平入口交差点係員の指示でここからサイクリングロードへ入る。16:05浜見平入口からサイクリングロードを東へ戻り”西浜中学校前”へ。今日もこの辺りで撮影することに。西浜中学校前先程入れなかった”西浜中学校前交差点”へ出る。上り車線は花火の関係か渋滞していた。西浜中学校前交差点の西側にある神奈中バス停「南湖入口」。浜見平団地へ行くバス停。バス停の横に”南湖の地蔵”。地蔵の前掛けには「交通安全御供養 吉田元 令和三年十月」と。ワンカップが供えられていた。バス停から西浜中学校前交差点。西浜中学校前交差点からサイクリングロードへ戻る。花火打上げ当日は「自転車を含む車両の進入禁止」と。西浜中学校前交差点から入り海岸へ。係員が「この先からはチケットがないと入れません」と。海岸から花火会場を望む。この辺りは打上げ場から500メートル程か。花火打上げ2時間以上前だが多くの人が場所取りに。会場をズームアップ。西浜エリアの「G~Lブロック」であろうか。16:25撮影場所は帰りの混雑を考え、西浜中学校前と浜見平入口の中間にすることに。帰りはこの間を抜けることにするが交差点でないので。砂防ネットには「S-50 ? 茅ヶ崎市南湖」。海面に映える花火を撮影するため高台へ。会場のスクリーンをズームアップ。打上げ2時間前の椅子席には多くの人が座っていた。今日の日の入りは17時1分であったが。右側奥に富士山があるのだが雲の中。日の入りも雲があり期待薄。16:40打上げまで2時間あり夕焼け写真を。日の入りもまじかで空には雲。使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:16mm、f/8、1/125秒、ISO 10016:45使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:60mm、f/8、1/1250秒、ISO 10016:49使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:60mm、f/8、1/100秒、ISO 10016:50使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:82mm、f/8、1/10秒、ISO 100西日を浴びる江の島。打上げ場所の茅ヶ崎漁港をズームアップ。16:52日の入りまじかに。使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:73mm、f/8、1/80秒、ISO 100半月の月をズームアップ。夕日を浴びる伊豆大島。17:01日が沈み。使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:52mm、f/8、1/50秒、ISO 100暗くなった会場には照明灯。17:08撮影モードを「B」。使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:110mm、f/8、3/5秒、ISO 100使用カメラ:Canon EOS 70D、撮影情報:110mm、f/8、2/5秒、ISO 10017:26花火打上げまで1時間になる。海からの風は強くなかったが三脚にカメラをセットして待機。17:27使用カメラ:SONY DSC-HX90V、撮影情報:17.49mm、f/5、1/8秒、ISO 8000使用カメラ:SONY DSC-HX90V、撮影情報:27.93mm、f/5.6、1/13秒、ISO 160017:28使用カメラ:SONY DSC-HX90V、撮影情報:27.93mm、f/5.6、1/13秒、ISO 3200使用カメラ:SONY DSC-HX90V、撮影情報:99.92mm、f/6.3、1/40秒、ISO 320017:40西の空は使用カメラ:SONY DSC-HX90V、撮影情報:22.38mm、f/5.6、1/10秒、ISO 3200 ー 続く ー
2023.10.26
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この日の「茅ヶ崎サザン芸術花火2023」は、日 程:10月21日 (土) 18時30分開演 ※ 雨天決行・荒天中止会 場:サザンビーチちがさき (神奈川県茅ヶ崎市)特別協力:茅ヶ崎FM(10月1日 開局記念)この日は久しぶりに早起きして日の出を見ながら打上げ会場周辺散策を計画。5時半にスマホのアラームを鳴らし愛車のリンちゃんで海岸へ。最近はスマホにいろんな機能があり目覚まし時計も不要に!生憎、東の空には雲が漂っていた。10月21日(土) 6:00自宅から約2キロ、国道134号の”第一中学校入口交差点”。茅ヶ崎パーク (ヘッドランドビーチ) のウッドデッキ。多くの老若男女が集まりラジオ体操をしておられたが最近では6時から?。ここからは富士が見えるのだが、この日も雲の中。6:20この日の茅ヶ崎の日の出は5時54分であったが・・・。早朝から多くのサーファーが海の中に。沖には、烏帽子岩、伊豆大島。最近ではサーフィン好きで茅ヶ崎へ移住する人が増えていると。自宅からウエットスーツで自転車にボードを乗せ海岸へ。江の島を望むが既に陽は上り太陽は雲の中。江の島の後方には三浦半島、右奥には房総半島の山。その山並みをズームアップ。6:06雲の上から太陽が顔を出す。ウッドデッキからサイクリングロードを西へ進み前方に、”中海岸展望デッキ”。昨日は海風が強かったので一部サイクリングロードは砂に埋もれていたが、ボランティアの方が早朝から除去作業。海岸の斜面には既に多くの場所取りのビニールシート。砂浜から石をビニールシートのおさえに。花火打上げ前にはここから先はチケット持参者のみが入れる。9月末に行われたサザンライブの時にも多くのビニールシートが砂浜まであった。茅ヶ崎漁港から釣り客を運ぶ釣り船が出港。今日は花火が打上げられるので早めに帰港するのであろう。中海岸展望デッキには立入禁止のテープ。サイクリングロードには照明灯が置かれていたがここは有料エリアになる。八大龍王神八大龍王神の丘からサザンビーチを見下ろす。スクリーンが設置されていた。茅ヶ崎サザン芸術花火会場エリア。センターエリアは”茅ヶ崎漁港 駐車場”で、これより西側に”西浜エリア”がある。有料席のチケット料金は 7,800円(税込)。席は3万から4万人?で既に完売と。東浜エリアの「A~E」。椅子の横には「A~E」の立札があった。打上げ時はこの狭い場所に座り、約1時間観賞するのだ。これでは三脚を立てる写真撮影にはむいていない。ステージをズームアップ。いつもは駐車場になっているところにグッズ売り場。看板には「茅ヶ崎サザン芸術花火2023オフィシャルグッズ」と。茅ヶ崎サザン芸術花火2023オフィシャルグッズパイルジップパーカー:各\6,500、折りたたみクッション:\1,200、花火柄ハンドタオル:\1,200、リキッドキーホルダー:\1,000、クリアポーチ:\1,800サザンオールスターズに関連するグッズも販売されるようだ。45周年タオル:\2,000、レジャートートバック:\1,500、45周年故郷法被:各\4,500 等々。こちらは「CHIGASAKI FM」のグッズコーナー。今回、特別協力になっている茅ヶ崎FM(10月1日 開局記念)。仮設トイレも準備万端。サザンビーチ入口から見下ろす。東側駐車場に仮設トイレ、手洗い。手洗いには鏡もついているが照明は。6:25浜降祭が開催された西浜エリア。ここにもスクリーンが設けられていた。西の空は雲が多く富士は見えなかった。このエリアにもグッズ売り場。この売り上げも花火打上げの資金になるのであろうか。海に面したステージに設けられた有料席。この辺りだと花火は真上に上がるので撮影には不向きである。昨日の海風で砂がデッキに舞い上がり、椅子も汚れていた。茅ヶ崎漁港沖にある”平島”、遠く相模湾に浮かぶ伊豆大島。デッキの最前列から振り返る。西浜の有料エリアからサイクリングロードを更に西へ進み。有料席との境界に柵が設置されていた。境の無料エリアにビニールシート。同場所から西浜エリアを望むが、有料の椅子席までは数百メートル。黄色内は昨日の風で砂に埋もれた椅子。同場所から西方向を振り返る。同場所から砂防ネット越しに国道134号を望む。北側の砂防ネットは左側:N-48、右側:N-47 茅ヶ崎市南湖。国道北側の砂防ネットは左側:N-48、右側:N-47 茅ヶ崎市南湖。国道沿いに「10月21日(土) 車両進入禁止 自転車を含む車両の進入禁止」と。国道から海側に入り東側の砂防ネットは「S-49 茅ヶ崎市南湖」と。サイクリングロードを西に進み、「西浜中学校前 (南湖) 」。昨年はこの辺りで撮影した。傾斜地から東方向を振り返る。場所取りのビニールシートを準備。砂浜にも数張り張られていた。今夜の撮影場所はどこにするか、この辺りは打上げ終了後の込み合いが激しいので。シートが風にあおられ飛ばされるのでここでも小石を利用して重石にしていた。風が強いと焼け石に水だが。この日は風が弱かったのでOKであろうが。西浜中学校前 (南湖) 入口から砂浜を西へ進み。花火会場をズームアップ。早朝から海岸でのんびりする人も。6:45ここ西浜中学校前(南湖)から帰路につく。有料席の西浜エリア。サイクリングロードを戻り”中海岸展望デッキ”。中海岸展望デッキは、サイクリングロードの「柳島 2.2Km ⇔ 鵠沼海岸 5.5Km」地点。中海岸展望デッキから国道134号の野球場前交差点上の歩道橋。”サザンライブ2023”が開催された茅ヶ崎公園野球場。正面入口。ライブも終了し平常の野球場に。7:00ライブ時には大型スクリーンが設置されていたスタンド。約1時半の早朝散策で帰宅し朝食。 ー 続く ー
2023.10.25
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昨年に続いての花火撮影挑戦です。 3年ぶりに開催された昨年の「茅ヶ崎サザン芸術花火2022」👈 をクリック願います。『茅ヶ崎サザン芸術花火』は、サザンオールスターズ40周年の祝砲を兼ねて2018年に初開催。’20 & ’21年はコロナ禍で中止に、今年で4度目の開催となる“元祖・アーティスト花火”です。日 程:10月21日 (土) 18時30分開演 ※ 雨天決行・荒天中止会 場:サザンビーチちがさき (神奈川県茅ヶ崎市)特別協力:茅ヶ崎FM(10月1日 開局記念)花火打上げ当日は各所で交通規制。楽天のブログから、茅ヶ崎駅の駅ビルラスカの屋上でも、屋上庭園で花火を見ながらバーベキュー「茅ヶ崎サザン芸術花火 観覧プラン」の宣伝。この日は花火打上げ4日前の会場チェック散策です。10月17日(火) 15:35いつものように愛車のリンちゃんでサザン通りを南下。サザン通りには「10月21日(土) 交通規制」の看板。茅ヶ崎サザン芸術花火202310月21日(土) 交通規制午後5時半から午後9時半頃までサザン通り・高砂通りの134号線交差点から、鉄砲道交差点間は交通規制が行われます。(荒天の場合は中止となります) 茅ヶ崎警察署・茅ヶ崎サザン芸術花火実行委員会国道134号のサザンビーチ交差点下を潜る”サザンビーチちか道”。いつも利用する”サザンビーチちか道”で壁面には”未来手想図 2017”。タイルには、2017年の多くの子供達の手形が名前と共に貼られている。このエリアは3歳から7歳の子供達の手形、みんな元気に育ち今では9歳から13歳に。サザンビーチちか道を抜けサザンビーチ入口。ビーチには既に椅子が並べられていた。スクリーン設置舞台であろうか。多くの作業員も。ビーチ入口に立つ看板には、10月21日(土) チケット制令和5年10月21日(土)茅ヶ崎サザン芸術花火2023の会場となります。入場には「チケット」が必要になります。予めご了承ください(荒天の場合は中止となります) 茅ヶ崎サザン芸術花火実行委員会茅ヶ崎サザン芸術花火会場エリア。センターエリアは”茅ヶ崎漁港 駐車場”で、これより西側に”西浜エリア”がある。有料席のチケット料金は 7,800円(税込)。席は3万から4万人?で既に完売と。サザンビーチの西浜エリアにも椅子が並べられていた。ここは夏に浜降祭が開催されたエリアで今日も富士は見えなかった。西浜エリアにもスクリーンが設置されるようだ。この辺りのマンションの方は特等席である。当日は親戚も集まりパーティーでは。サイクリングロードを西へ走り、ロード脇に「西浜中学校前」の道路標識。この辺りは無料席で昨年はここで撮影した。西浜中学校前(南湖)。砂防ネットの間を抜けると国道134号の”西浜中学校前交差点”。花火打上げ当日は込み合う。特に打上げ後は満員電車並みの混雑状況になる。西浜エリアのスクリーンをズームアップ。スクリーン右奥は江の島の集合住宅。茅ヶ崎漁港、江の島をズームアップ。サザンビーチに建つ「茅ヶ崎サザンC」。ロープに ”イソヒヨドリのメス” がとまっていた。スズメ目ヒタキ科に分類される鳥の一種。アフリカとユーラシア大陸に広く分布し、和名どおり海岸や岩山などで多く見られる。 磯や岩場に多く生息し、外見がヒヨドリに似ていることからこの和名がついているが、鳥類学上ではヒヨドリ科ではなくヒタキ科に分類されており、まったく別の鳥である。オスは煉瓦色の腹と暗青色の頭・翼をもつ。一方メスは地味な見た目をしており、全体的に黒く腹に鱗状の模様をもつ。幼鳥はねずみ色をしている。繁殖期の春になると美しい複雑な旋律でさえずり、「ピーツツピーピー」「ピュルピュルピピーポー」等と複雑な旋律だと。サイクリングロードの前方にサザンライブ時に賑わっていた”中海岸展望デッキ”。今回の花火打上げでも賑わうのであろう。展望デッキから茅ヶ崎ヘッドランド、江の島をズームアップ。この日は波が穏やかである。烏帽子岩もまじかに。いつか観光船で上陸してみたいが。海岸には親子連れ。この日は波が穏やかであったが”危険予知”をと。こちらでは海に向かって高校生が合唱の練習。展望デッキからサザンビーチを望む。茅ヶ崎パーク (ヘッドランドビーチ)。ここからも砂防林の左上に富士が見れるのだが。サイクリングロード脇に”第一中学校入口”の道路標識。第一中学校入口(茅ヶ崎東海岸)。茅ヶ崎パーク (ヘッドランドビーチ)。早朝はここのウッドデッキに老若男女が集まりラジオ体操。烏帽子岩の後方にうっすらと伊豆大島の影。この日の海は穏やかであった。波がないからかこの時間帯にはサーファーも少なかった。江の島方向を望む。この日は波も小さくサーファーにとっては。江の島シーキャンドルをズームアップ。更にズームアップ。稚児ヶ淵、朱色の岩屋橋が見える。砂防ネットの間を抜け国道134号の”第一中学校入口交差点”へ。ここには自転車も渡れる横断歩道橋がある。国道134号を横切り、サザンの桑田佳祐が卒業したという茅ヶ崎市立第一中学校。16:30一中通りを北上し帰路についた。 ー 続く ー
2023.10.24
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今年の花火大会は10月7日(土)、20日(土)の2回に分け、各日900発、20分間打上げられる。引き続き花火の打上げを楽しんだ後半です。10月7日(土) 18:44打上げが始まってから連続的に上がっていた。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200単発の場合のシャッターは上がり始めてから消えるまでレンズを開放。この写真は開放時間が短かったようです。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、3秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200珍しい花火でトリミング。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、8秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、8秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。絞りをf/9にしたのが露出不足に。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。珍しい花火である。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。珍しい花火で写真をトリミングして横サイズに変更。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、3秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200写真をトリミングして横サイズに変更。撮影情報:70mm、f/9、8/5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、8/5秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、3秒、ISO 200珍しい花火のため写真をトリミングでアップし横サイズに変更。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200 露出不足のためPCで調整。 ここから数枚の写真はトリミングでアップし横サイズに変更。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、3秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、10秒、ISO 200レンズ開放時間を10秒にしたが。写真をトリミングでアップし横サイズに変更。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200露出不足のためPCで調整。撮影情報:70mm、f/9、10秒、ISO 20018:52花火打上げ終了。単発の打上げで華やかさを感じられなかった、やはり芸術花火とは違うようです。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200約20分間、600発の打上げを終了し家路に。単発の打上げが主で単純な花火撮影になった。今月は10月21日(土)に「茅ヶ崎サザン芸術花火 2023」が開催されるので再度挑戦予定。昨年のブログは「茅ヶ崎サザン芸術花火 2022」👈 をクリック願います。この後、真っ暗なサイクリングロードを西へ走り、浜須賀交差点から北上し帰宅した。今回も思うような写真が撮影できなかった。 END
2023.10.13
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花火打上げまで約1時間になる。今年の花火大会は10月7日(土)、20日(土)の2回に分け、各日900発、20分間打上げられる。10月7日(土) 17:35打上げ開始まで約1時間になり廻りが暗くなる。周りが暗くなりカメラを花火撮影用にセット。使用カメラ:Canon EOS 70D ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:B(バルブ) ③ 感 度:ISO200 ④ 絞 り:F9 フィルター:ND8 ⑤ ホワイトバランス:「オート」 ⑥ 手振れ補正:「OFF」 ⑦ ピント合わせ:最初にAFでピントを合わせ後は「MF」に。 ⑧ カメラは縦にセット17:50点灯した江の島シーキャンドルをズームアップ。撮影情報:124mm、f/9、6秒、ISO 200時間とともに色が変るようだ。ズームアップ。花火がどのあたりに上がるのかわからず、他の方に聞きカメラの方向を変更。この方向からカメラを左に少し振る。18:17花火はこの方向に打ち上がると。いつの間にか多くの人が訪れていた。写真はスマホで撮影。18:34少し遅れて打ち上げ開始。打ち上げ場所は江の島ヨットハーバー辺りであろうか。今回も撮影条件を記載します。ND8フィルターを取り付けて撮影のため ISOは200に。撮影情報:50mm、f/9、8秒、ISO 200写真はPCでトリミングして拡大。焦点距離が50mmであったのでPCでトリミングして拡大。撮影情報:50mm、f/9、8秒、ISO 200数発の花火が重なる。露出時間を10秒近くに開放。単発で連続的に打ち上げられた。 打ち上げが思ったほど高くなくもう少しズームアップする必要があった。PCで露出調整。ND8フィルターを取り付けているので露出不足になっているか。撮影情報:57mm、f/9、6秒、ISO 200露出時間を10秒近くにすると同じような画像になる。PCで露出調整。花火が単発で打ち上げられるので変化がないのが寂しい。地上からの打ち上げ場所が違うと複数の大輪になるのだが。ほぼ同じ場所から打ち上げられていたので重なる映像になる。連続で打ち上げられていた。この様な映像を期待するのだが (ネットからの写真)。単発の花火映像。これも次から次と連続で打ち上げられていた。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、3秒、ISO 200数個の花火が映り込んだ。上記写真をトリミング。単発の花火が続く。PCで露出調整。チョット違った花火が上がる。撮影情報:70mm、f/9、8秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、8秒、ISO 200数発を入れたいが。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200露出時間が短かったようだ。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、8秒、ISO 200バルブで撮影、花火が打ち上げられてから消えるまで開放した。変わった花火。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200いろんな色が入った花火。打ち上げのタイミングは前の花火が消えてから次の花火が打上げられる。珍しい花火では。4発の花火が映り込む。4,5発の花火が映り込んだ。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200これも数発の花火が映り込む。花火の名前はわからないが。数発の花火が重なる。撮影情報:70mm、f/9、8秒、ISO 200撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200PCで露出調整。撮影情報:70mm、f/9、6秒、ISO 200PCで露出調整。撮影情報:70mm、f/9、4秒、ISO 200PCで露出調整。18:43撮影した写真をトリミングして横サイズに。撮影情報:70mm、f/9、5秒、ISO 200今回も試行錯誤の撮影になりました。 ー 続く ー
2023.10.12
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花火打ち上げ2時間前に県立湘南海岸公園へ到着。片瀬海岸西浜では他のイベントが行われていた。10月7日(土) 16:30片瀬海岸西浜のビーチバレーコート。日本のビーチバレー発祥の地、鵠沼海岸では、一年を通じてビーチバレーコートを常設しています。コートとボールは無料で貸し出している。片瀬海岸西浜にコースがあり人だかり。第49回全日本ライフセービング選手権大会場 所:片瀬西浜海岸開催日:10月7日(土) 8日(日)ネットで調べ、全国屈指のライフセーバーアスリートここに集結、水辺の監視、救助活動で鍛えられたライフセービングを見ることができ、迫力のあるシーンが繰り広げられると。サーフエリアとビーチエリアがあり2日間に渡っていろんな競技が行われる。場内放送を聞くと何かのリレーの決勝があると。ネットの競技スケジュールでは、ここビーチエリアで、16:35から、女子・男子のビーチリレー決勝。横断幕には「JAPAN LIFESAVING ASSOCIATION」と。ロープで仕切られたコースは長さ×幅は、100×15メートル程であったか。観覧席、上部歩道には競技を見る人が待機。どのような競技が行われるのか興味津々と待つことに。場内放送でリレーの女子選手が入場。16:35こちらはサーフエリアの選手達であろうか。競技スケジュールを見ると時間的に「男女のボートレスキュー」が終わっている。女子の選手がスタートラインに勢揃い。ビーチエリアでは「女子ビーチリレー決勝」の開始。女子ビーチリレーのスタート。後方には3番走者が待機。砂浜を走り4人のリレーで順位を決めるようだ。砂浜は足場が柔らかいので足を取られ走りづらい。1番走者から2番走者へバトンタッチ。2番走者が疾走手振れしました。次の走者はスタートラインの後方から助走しバトンタッチ。3番走者へ。最終ランナーがゴールへ。手前の選手が追い上げ。追い抜き先頭が入れ替わりそのままゴール。砂浜に横断幕、「全日本ライフセービング選手権大会 公益財団法人 日本ライフセービング協会」と。この大会は、はじめて知る大会である。1,2,3位の表彰台があった。表彰台には、全国屈指のライフセーバーアスリートここに集結第49回全日本ライフセービング選手権大会 主催 公益財団法人日本ライフセービング協会場内放送で男子のビーチリレーが始まるとのことで急いでスタート地点へ向かう。16:47男子のビーチリレーも8チームが参加して決勝スタート。スタート時一人とびぬけていたが。1番走者から2番走者へバトンタッチ。2番走者の接戦。チームは帽子で統一しているのか解りづらかった。第2走者から第3走者へとバトンタッチ。3番走者から最終4番走者へバトンタッチ。白の帽子が1位だが手前のチームが追い上げ。後続も追い上げ。16:48男子のゴール、手前のチームは最終的には5位であったか。約1分位の勝負であった。全日本ライフセービング選手権大会を見た後、花火打上げまでまだ1時間半ほどあったので休憩場所を探す。16:55サーフビレッジ (公園管理事務所)所在地:神奈川県藤沢市鵠沼海岸1丁目17-3花火打ち上げまでには時間があり訪れた。館内には、温水シャワー、ロッカー、カフェテリア、多目的ホールなどがある。また、ライフセービング活動の拠点となっている。■ 開館時間:7~8月 8:30 ~ 18:30 :その他の月 8:30 ~ 17:30● 休 館 日 :第1・3月曜日 (祝日の場合は翌日) 年末年始 (12月29日 ~ 1月3日) ※ 7月・8月は無休水の広場の噴水は休止中であった。ベンチに座り出掛けに購入したおにぎりを食べエネルギーを補給。17:05撮影場所を探し、サーフビレッジの南側へ移動。伊豆半島も夕焼け。江の島シーキャンドルも点灯前。花火はどのあたりに上がるのか、ネットの写真ではシーキャンドルとダブっていたが。引地川越しに鵠沼海岸を望む。右側には整備中の鵠沼海浜公園。天気が良ければ富士が見えるビュースポットだが。引地川の堰堤ではテントを張りBBQに興ずるグループ。砂浜にもカメラをセットしている人も。江の島シーキャンドルをズームアップ。砂浜ではボランティア活動でゴミ拾いのご両人。ビーチバレーコート。右奥は「第49回全日本ライフセービング選手権大会」会場。サーフビレッジ(公園管理事務所)から北側にある水の広場を見下ろす。17:25サーフビレッジ前にある売店。焼きそば、鶏のから揚げ、たこやき、コロナビール 600円 等を販売していた。美味しそうだったのでフランクフルトを1本購入した。 ー 続く ー
2023.10.11
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コロナ禍以前の「ふじさわ江の島花火大会」は、約3,000発の花火が打ち上げられていたが、今年は来場者の安全を考慮して2日間に分散して開催されるとの情報があり、愛車のリンちゃんで出かけた。打上げ日:10月7日(土)、20日(金) PM 6:30 ~ 6:50 20分間場 所:片瀬海岸西浜 各日 900発 Max 号数4号玉この日は曇り空であったがその上に、カメラに花火撮影用のND8フィルターを付けていたので映像が暗くなった。10月7日(土) 15:00花火会場の江の島へ向かう前に、先週の「サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ 2023」の後の状況を見るためサザン通りへ向かった。国道1号の南を並行して走る市道のJR相模線の元町踏切。サザン通りを南下。ライブ開催時に混んでいたサザンサブレを販売している「エトアール洋菓子店」、ご朱印を配布されているお茶屋の「茶商 小林園」、「茅ヶ崎サザン神社」も平常に戻っていた。サザン通りのこの辺りにサザンの桑田佳祐の生家があったと。タイ料理店、ライブ時にはテラス席が賑わっていた。サザンビーチちがさきではイベントが開催されていた。2023年10月7日(土)8日(日)の2日間 「 タイランドフェスティバル湘南 2023 」が開催されます。このイベントは、美しいタイのプーケットビーチをイメージしたタイフェスで、タイ料理やタイの物産等、様々なタイの魅力を楽しむことができますと。店舗利用にはリストバンド(500円)が必要です。リストバンドを着用していない場合購入できません。本部テントにてリストバンドをご購入下さいと。ビーチには空気充填の巨大すべり台。左側の「茅ヶ崎サザン C 」の廻りも平常に。茅ヶ崎名誉市民の加山雄三氏の銅像が建立されているかと思ったが・・・。15:30サザンビーチからサイクリングロードを東へ進み茅ヶ崎中海岸展望デッキ。茅ヶ崎公園野球場南にありサザンライブの時はチケットを入手できなかった人で混んでいた。10月21日(土)にはサザンビーチちがさきで「茅ヶ崎サザン芸術花火 2023」が開催されるのでまた多くの人で埋め尽くされるのであろう。デッキに愛車のリンちゃんを駐輪、砂浜へ下りることに。西の空は曇っており富士は見えなかった。ライブ時は盛土で危険なため立入禁止になっていたエリアである。海岸に下りると砂浜の間に砂利がゴロゴロと。台風時に侵食されるので盛土で補修工事が施工されている。サザンビーチちがさきをズームアップ。山は箱根連山の金時山。東方向の海岸線も砂利が広がる。茅ヶ崎中海岸展望デッキから伊豆大島が見えていた。展望デッキの北側に国道134号の野球場前交差点。ライブ開催時は通行止めになっていた茅ヶ崎公園歩道橋。北上すると高砂通り。自転車で横断できる茅ヶ崎公園歩道橋。平常に戻った茅ヶ崎公園野球場では野球が行われていた。10月6日(金)のタウンニュース 茅ヶ崎版。桑田さん 故郷で26曲熱唱声援応え「また帰ってくるよ」、27万人が酔いしれた。チケットを入手できなかった私は4日間音漏れライブを楽しんだ。野球仲間の某銀行の友は、ファンクラブに入っていて抽選に当たり初日と最終日に行ったと!。また、リハーサル時には近隣の人が招待されたと。国道134号の野球場前交差点から海への通路。この辺りの砂防林のエリアは「S-44 茅ヶ崎市東海岸南」。15:50展望デッキからサイクリングロードを東へ走り、茅ヶ崎ヘッドランドの東側へ。地元の方か?テーブル、椅子がセットされていた。砂防ネットには「S-37 茅ヶ崎市東海岸」の表示。同場所からこれから行く江の島を望む。15:55汐見台ウッドデッキ今年6月以降右足ふくらはぎの傷みで来れず久しぶりに訪れた。ここまでのサイクリングロード脇では多くのグループが BBQ を楽しんでおりいい匂いが。新しく設置されていた看板。柵の耐久性と砂防効果について実証実験を行っています。 ・砂の移動が緩やかになれば海浜植物が増え景観が良くなり、砂浜の減少と後退、さらには 温暖化を食い止める一助となることを期待しています。 ・コーティング針金不使用のため、劣化しても砂防柵が地球に還ります。 プラゴミ・金属ゴミは減り、子供たちが安心して砂浜を走り回れるように。 ・庭の造作からヒントを得て、繰り返す風雨に耐えられるように造っています。 耐久性を向上させ、見た目も美しく、取り換えの手間とコストを減らします。 ・竹害が広がる竹林の手入れにより、豊かな森林の多様性を保ちます。国際環境NGOサーフライダーファウンデーション・ジャパンは、令和3年4月27日に湘南海岸の砂浜に整備されている砂防柵が劣化し放置されている問題について、県に要望書を提出しました。コーティング針金不使用のためプラゴミ、金属ゴミが減ります。耐久性が向上し取替の手間・コストが削減できます。地産竹材の使用により山の困り事「竹害」を減らします。定期的に効果を検証し長持ちする砂防柵作りをしています。家紋『州浜』ー水流によって運ばれた土が溜まる様子 山、川、海そしてまた山へと繋がる循環の中に在りたい想いを込めて デザイン・施工 株式会社グリーンタス tomio-park実証実験の砂防柵劣化破損した砂防柵。この様に放置されたままになっているので、裸足で歩きまわる子供たちのことを考えるとゾッとする。汐見台ウッドデッキから江の島を望む。16:05汐見台ウッドデッキからサイクリングロードを進み工事現場。サイクリングロード脇の看板に、「ご協力をお願いします 新しく水路(放流管接続部)を作っています。 令和5年11月13日まで 時間帯 8:00 ~ 17:00 下水道工事 工事名 辻堂南部放流管接続替工事 発注者 藤沢市 下水道部 下水道管路課 施行者 株式会社 門倉組」下水道工事のお知らせ藤沢市では、合流式下水道の改善と浸水被害の軽減を目的として、辻堂南部放流管の築造を進めています。辻堂南部放流管は、辻堂浄化センター北側から辻堂海岸までの区間約480mに、幅4.1m・高さ1.5mのボックスカルバート(箱型のコンクリート管)を築造するもので、2018年度から5年間で行っています。工事は分割して進め、今回の工事(工事案内図の赤線部)では辻堂海岸の接続部約15mの施工を行います。工事期間中は、騒音・振動および通行等への影響をできる限り抑え、施工には細心の注意を払い工事を進めてまいりますが、何卒ご理解とご協力をお願い申し上げます。辻堂海岸を掘り起こし工事。ズームアップ。工事現場から汐見台ウッドデッキを振り返る。辻堂海岸には海浜植物、富士のビュースポットなのだが。この日は残念ながら夕焼けは見えず、雲との合間に二子山。江の島を望む。砂防柵に掲げられていた「カツオノエボシ(クラゲ)に注意!! 絶対にさわらないでください!! 死んでいても猛毒があります。」と。 大きさ 1cmから10cm程度工事現場から更に東へ進み、新しく改修された砂防柵。砂防柵の山側の砂が取り除かれようで下部が現れていた。サイクリングロードから海側に入り新旧の砂防柵を見る。先程の「柵の耐久性と砂防効果について実証実験」の結果が楽しみである。竹製の新旧の砂防柵。現在の砂防柵の寿命はどの程度であるのか。江の島をバックに海の中にはサーファー。花火会場の片瀬海岸西浜を望む。この辺りからも花火が見れるのであろう。片瀬海岸西浜をズームアップ。手前は引地川の防波堤。サイクリングロードの起点「鵠沼海岸」までは数百メートル。前方に防砂トンネルの「湘南・海のちか道」。16:25サイクリングロードの起点「鵠沼海岸」。 ー 続く ー
2023.10.10
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猛暑が続いたので今年の彼岸花の開花状況はどうか気になっていたが「第16回小出川彼岸花まつり」が開催された。天気が悪かったので車で出かけた。第16回 小出川彼岸花まつり ・2023年9月23日(土) 10:00 ~ 15:00 小雨決行 雨天時順延 ・ところ 小出川沿い 大黒橋 ~ 寒川町青少年広場 3km ・鑑賞期間 9月下旬 ~ 10月上旬 (見頃 お彼岸の頃) ・催 し 式典 (打戻会場)、模擬店、休憩所など ・スタンプラリー開催! 9月23日(土) 9時から15時まで。9月23日(土) 9:50大庭獺郷線沿いにある駐車場。場所は、打戻根下交差点と打戻堂の前交差点との間にある仮設駐車場 (無料)。入口には警備員を配置、仮設トイレが設置されている。右側は大庭獺郷線の打戻根下交差点。小雨の中多くの人が訪れていた。小出川沿い大黒橋から追出橋まで3kmの彼岸花コース。小雨が降っており、草むらを歩くので長靴をはき、傘をさして散策開始。稲刈り前の田の中には案山子が三体。農道から南方向に、新道橋 (しんみちはし)。前方の森は神奈川県立茅ヶ崎里山公園。新道橋脇に掲げられた「小出川彼岸花」の横断幕。茅ヶ崎里山公園の西側。新道橋 (しんみちはし)御江戸道の起点と言われる新道橋。江戸時代、茅ヶ崎から江戸へ向かうには東海道を通る方が普通であったようだが、東海道は元町の茅ヶ崎一里塚から江戸日本橋まで十四里(約56キロメートル)あり、用田村で中原往還に通じる御江戸道を使うと十二里で行くことができた。二里も近いのでこの道を使ったと。旧中原往還、お江戸道のルート。茅ヶ崎市教育委員会発行 文化資料館ブックレット 1 より出典。小出川 彼岸花群生地小出川沿いの彼岸花(曼殊沙華)は、上流の里山などから大水により球根が流れ込み、古くからこの地域に自生していました。平成15年頃から流域の彼岸花保護団体が相次いで組織され、増殖・保全活動に努めています。開花期(9月下旬頃)には、上流の大黒橋から下流の追出橋まで両岸3キロが紅の帯に染まり、西方に望む富士や箱根連山を借景に、絶好の散策コースになっています。毎年、この時期に「小出川彼岸花まつり」を開催し、来場者を歓迎しています。 ・神奈川県藤沢土木事務所・藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町 ・小出川彼岸花団体協議会・設置者:打戻彼岸花の会写真は、 ・小出川 彼岸花群生地 (これより300m上流附近) ・宇都母知神社 雄略天皇の時代(466年)厳粛な祭祀が執り行われたと「日本総風土記」に記されている 延喜式内社。境内に「民具・農機具資料館」(祭礼時等に開放)がある。 (これより北東方向1.5キロ) ・盛岩寺 薬師堂 昭和文化館 盛岩寺の薬師堂は、築90余年の旧商家を再移築した古建築で、昭和文化館として活動 をしている。堂内の薬師三尊十二神将は、旧東光寺の本尊で、(明治4年廃寺 盛岩寺に 移管)「堂の前」の名はこれに由来する。 (これより北西方向0.5キロ)新道橋から上流側を望む。一昨年は祭り前に台風が押し寄せ小出川が増水し彼岸花も倒れていたが。この日は天気が悪く雨でアゲハチョウの乱舞はなかった。開花状況はまだ満開ではなかったようだ。白の彼岸花がチラホラと咲いていた。川淵に凛として立つ彼岸花。彼岸花は地域によっては上流から球根が流れ着き芽吹いて花を咲かせる。葉より先に茎が成長し花をつける彼岸花。小雨で花に付着する水滴を期待したのだが。草むらに生える白の彼岸花。ズームアップ。稲も実りお彼岸を過ぎると稲刈り作業に。稲刈り前には草刈りも。新道橋から下流側にスタンプ捺印場所があるのでまずそちらへ向かう。前方の橋の袂に例年テントを張っている。天気が良ければ前方に富士が見えるのだが。10:10スタンプ ②「第2仮設橋前」。いつも近くの慶應義塾大学の生徒が担当している。ここを起点に折り返し三番目の打戻会場へ戻ることに。下流側に①の、おおぞう会場がある。スタンプラリーの台紙を頂き最初のスタンプを頂いた。スタンプを頂くと「頑張ってください」と。この辺りには牛舎があり風に乗っていい匂いがしていた。スタンプ捺印場所の前に新しいベンチが置かれていた。バイトの生徒達に聞くと「茅ヶ崎市立小出小学校の子供達が作った」と。これも小学生の作品。何かと思ったがこれがスマホの台であったのだ。文面には、みなさんこんにちは「小出ボーイズ」です。ぼくたち小出小学校の4年生は「小出においで」というプロジェクトで、町おこしのイベントについて考えてきました。そのなかで、ぼくたち「小出ボーイズ」は「小出川のひがん花をもっと多くの人に知ってもらいたい」と思い、ひがん花の道をPRするきかくをいろいろとかんがえました。そして「NPO法人「サポート茅ヶ崎寒川子どもファンド」でその計画にたいして助成金がいただけることになりました。その助成金をつかって今日の「ひがん花まつり」で3つのことをしました。① みんなが一休みできるベンチを2台つくりました。② 良い写真がとれるようにスマホ(写真)台をつくりました。③ オリジナルキャラクターの缶バッチとキーホルダーをつくってスタンプラリーをし ている子どもたちにもPRしていくこと。 仮設橋の左岸下流側の低地に咲く彼岸花。低アングルから見上げる。仮設橋越しにスタンプ捺印所。いつも慶應義塾大学の学生が担当している。仮設橋上流側の低地。左の建物は牛舎。打戻会場へは小出川の南側を上り、仮設橋を振り返る。雨は止まず上流側を望む。新道橋の下流側にある堰。この様な所に水車を設置するとまた別の景観になるのではと。紅白の彼岸花をズームアップ。ズームアップ。御江戸道の起点と言われる新道橋を上流側から。引き続き上流へと進む。今年の小出川の水量は少ない。水量が多いとコイも上って来るのだが。小出川に流れ込む支流(暗渠)。この辺りの川幅は3メートル程だが、支流が多く水量が増える。案山子は武者であったか。送電線の鉄塔が寒川町方向へ続くが富士の姿はなく。対岸には彼岸花が少ないようだ。小出川の護岸は矢板のようだ。ズームアップ。紅白の競演。白の彼岸花をズームアップ。上流の山側に式典が行われた打戻会場。打戻会場への入口。会場をズームアップ。10:40打戻会場への橋がなかったので仕方なく上流へ向かう。この辺りの彼岸花はまだ芽吹き前であろうか以前より少ない感がしたが。ピンクを帯びた彼岸花が満開に。まだ一週間は楽しめるのか。 ー 続く ー
2023.09.29
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茅ヶ崎交響楽団は1983年(昭和58年)、茅ヶ崎市内の音楽愛好家が中心となって結成された。現在は約70人が在籍し、定期演奏会やファミリーコンサートなどの開催を重ねている。同楽団は創立40周年で80回目の演奏、毎年2回演奏会を開催されている。タウンニュース (9月1日茅ヶ崎版)いつものようにタウンニュースで演奏会を知る。第80回 定期演奏会茅ヶ崎交響楽団創立40周年記念 40th2023年9月10日(日) 13時開場、14時開演茅ヶ崎市民文化会館 大ホール 指揮:松村優吾入場料 1,000円 全自由席・当日券あり● バーンスタイン / 「キャンディード」序曲● ラヴェル / 組曲「マ・メール・ロワ」● レスピーギ / 交響詩「ローマの松」9月10日(日) 12:00JR相模線 北茅ヶ崎の東側で営業する「中華 のんち」。テレビ放送で放映されて以来訪れる人が多く、夜の部は営業を取り止め。店頭の貼紙には「仕込み品がなくなり次第閉店」と。今だ人気の「中華 のんち」。この日も店頭には30名近くの人が並んでおり、まだ食したことがない。12:30茅ヶ崎市民文化会館の1階エントランスロビー。4名の名誉市民の人物画が飾られている。入口側に「添田 良信、小山 敬三氏」。添田 良信氏 (昭和51年3月26日議決) 茅ヶ崎町議会議員、茅ヶ崎町長、初代茅ヶ崎市長を務めるとともに、10期約37年間、神奈 川県議会議員として活躍。在職中は県議会議長などの要職を歴任。町政・市政・県政に大き く貢献されました。小山 敬三氏 (昭和51年3月26日議決) 昭和4年から茅ヶ崎に在住され、世界的な画家として広く活躍。日展への出品をはじめ精力 的な創作活動の傍ら、市の文化発展にも貢献されました。昭和50年11月3日には、文化勲章 を受章されています。奥に「磯崎 貞序、牧野 英一氏」。磯崎 貞序氏 (昭和51年3月26日議決) 茅ヶ崎町議会議員、神奈川県議会議員、衆議院議員として、町政・県政・国政の分野に多年 にわたって貢献。また神奈川県相模川左岸土地改良区理事長などの要職を歴任、茅ヶ崎の発 展のために尽力されました。牧野 英一氏 (昭和41年3月11日議決) 刑法学者として広く活躍し、昭和25年に文化勲章を受章。茅ヶ崎文化人クラブの会長とし て活躍し、また茅ヶ崎市文化団体連絡協議会の結成を提唱するなど、地域文化の振興に多大 な功績を残されました。タウンニュース (茅ヶ崎版:2023年9月1日号)加山雄三さん名誉市民へ 47年ぶり5人目茅ヶ崎市は、市とのゆかりが深く、俳優・歌手として活躍してきた加山雄三さんを名誉市民に推薦することを決め、市議会9月定例会初日の1日(金)に審議する。可決されれば、7年ぶり5人目の名誉市民誕生になると。加山さんも人物画であろうが・・・(自画像?)。茅ヶ崎市民文化会館 フロア案内2階の市民ロビー左側の受付で「当日券」を販売。チケットを購入 1,000円市民文化会館の2階ステージから南方向を見る。高層ビルは最近オープンした「東横INN茅ヶ崎市役所」。東横INN茅ヶ崎市役所は茅ヶ崎市役所の東側に隣接している。同場所から東側の第一カッターきいろ公園(中央公園)。これからの紅葉も楽しみだが。ズームアップすると「赤とんぼのピアノ」。この日も夏日で、来場者も日除け傘。茅ヶ崎市民文化会館の2階エントランス。まだ入り口には検温、消毒設備が設置されていた。開場前になり2列に整列。老若男女の音楽愛好家がマスクを着け待機。2階ロビーに置かれたオブジェ「潮音」。潮音に寄せて青年期 私はなりやまぬ海鳴りに 眠られぬ夜々を明かした覚えがあります自分自身がつかめなくなってきたとき海辺にたたづみ 時を忘れ悠々の自然のいとなみに身をおき 果てしない宇宙への想いをはせたことも 間々あります三十年を経たいま 一握りの砂から一瞬のうちに 失われた時を回復しはっとする・・・この作品が生まれた動機もそこにあり いま私はこの作品を実際に 茅ヶ崎の海辺に立たせてみたい誘惑にかられます 昭和五十五年十月吉日 原田純成13時になり受付後、演奏会場の大ホールへ。本日のプログラム指揮者 松村優吾氏桐朋女子高等学校音楽科作曲専攻を経て、桐朋学園大学音楽科指揮専攻を卒業後、イタリア国立ミラノ・ジュゼッペヴェルディ音楽院指揮科で研鑽を積む。指揮を黒岩英臣、杉山洋一、G.ジェルメッティ、V.パリージ、I.カラブチェフスキ、作曲を安良岡章夫、安藤久義、ピアノを日比谷友妃子、斎木隆各氏に師事。2012年9月、イタリア政府主催の全芸術部門グランプリを決めるPremio Nazionale delle Arti(イタリア芸術賞)本選指揮部門に於いて第二位入賞。また同時に聴衆賞を受賞。2015年5月、ルーマニアのコンスタンツァで行われたBlack Sea Opera Conducting Competitionに於いて入賞、及び栄誉賞受賞。これまでにポメリッジムジカーリ管弦楽団、ブルガリア国立ルセ歌劇場等を指揮。開演前には多くの人が着席。14時ちょうどに開演。この後、演奏者70名のフルメンバーで演奏された。前半のプログラム。1 「キャンディード」序曲 作曲 レナード・バーンスタイン (1918ー1990)前半の演奏は14:30に終了、20分間の休憩。14:47後半の開演で演奏者が席に。2 組曲「マ・メール・ロワ」 作曲 モーリス・ラヴェル (1875ー1937)演奏前にヴァイオリンに音合わせ。14:50指揮者が登場、後半の部開演。トランペット、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと。ヴァイオリンも第1、第2。3 交響詩「ローマの松」 作曲 オットリーノ・レスピーギ (1879ー1936) 15:13後半部の演奏を終え、指揮者が演奏者を紹介。クラリネット演奏者だったか。指揮者が演奏者を紹介するのは恒例である。この時はハーブ演奏者の紹介であったか。ズームアップ。指揮者の松村氏パンフレットの写真とは人相が違うようだが。15:16アンコールは「レスピーギ リュートのための古風な舞曲とアリアより「イタリアーナ」。15:20アンコールの演奏を終え西山団長の挨拶。創立40周年を迎え、若者も入団してきているが年々団員の年齢が上がっていると。西山団長は、タウンニュース (9月1日茅ヶ崎版)の人物風土記で紹介されていた。「音楽の喜び多くの人に」と。15:252曲目のアンコールは「エルガー 威風堂々第1番」。チェロ奏者も8人。アンコールの演奏には花道に、トランペット、トロンボーンの演奏者。15:30休憩20分を挟んで、1時間半の演奏会であった。次回演奏会のご案内第39回 第九演奏会 2023年12月10日(日) 14:00 開演予定 茅ヶ崎市民文化会館 大ホール 指揮:松村優吾第81回 定期演奏会 ファミリーコンサート 2024年5月12日(日) 14:00 開演予定 茅ヶ崎市民文化会館 大ホール 次回の演奏会も訪れたいものである。第九演奏会は聴いたことがないので。東横INN茅ヶ崎市役所所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1丁目1-14茅ヶ崎市民文化会館の南側に建っており、茅ヶ崎駅から徒歩約5分。東横INN前から西方向に茅ヶ崎市役所。また今月末には、サザンオールスターズの茅ヶ崎ライブが 9月27日(水)、28日(木)、30日(土)、10月1日(日)の4日間開催される。全国から多くのファンが訪れるので地元民への対応(ゴミ対策、交通規制等)が大変であるようだが、無事問題なく終わることを・・・。プロ野球の阪神が18年ぶりに優勝して経済効果は800億とか、さてこちらは。 END
2023.09.17
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仙石原のホテル花月園から、義兄が山中城へは行ったことがないとのことで箱根から近いので訪れた。山中城へは新車のノートの初ドライブで4月13日(木)に先輩と訪れていた。5月10日(水) 11:50旧国道1号(旧東海道)沿いにある日本100名城の山中城。国道を挟んで駐車場があるが数台駐車していた。山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4バス停の左側にある案内所。山中城の入口にある売店で、名物の「寒ざらし団子」「障子堀ワッフル」などを販売している。また、日本100名城のスタンプ設置場所、山中城「御城印」の販売場所となっている。【営業時間】10:00~15:00 【定休日】月曜日国道1号を横切り「史跡 山中城跡」。右側は旧東海道で箱根の関所から下って来る。駐車場から「三ノ丸堀」へ進む。前回咲いていなかったので期待してきたがつつじは咲き終わっていた。山中城跡の詳細説明は、前回4月13日(木)に訪れた時のブログ「日本100名城の山中城」👈 をクリック願います。遊歩道脇のつつじは一部残っていたがピークには遅かった。杉林の中にある山中城跡。山中城は箱根西麓の尾根上に築城された山城です。山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられました。城の範囲は東西500m、南北1000mと推定。城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面を、岱崎(だいさき)出丸からは伊豆北部と富士・静岡方面の海岸沿いを一望のもとに見渡すことができる。田尻(たじり)の池から進むが、「元西櫓下の堀」の斜面にあるつつじも既に咲き終わっていた。ピーク時には丸く刈られたつつじが見事なのだが今だその時期に訪れることができない。ここのつつじを期待したのだが。ピーク時の情報が欲しい。西ノ丸見張台から東方向の二ノ丸を見下ろす。西ノ丸に咲いていたタンポポ。西ノ丸見張台愛鷹連山 (あしたかれんざん) の右側に頂上が雲に隠れた富士山が見えた。西の丸見張台西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。 平成八年十二月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西ノ丸見張台から西櫓を見下ろす。西ノ丸と西櫓間にはいつも整備された障子堀がある。西ノ丸を見下ろす。左側には藤棚があるが既に咲き終わっていた。右側に西ノ丸、左側に西櫓。いつも整備された障子堀で雲に隠れた富士がかすかに見えていた。ここのつつじも綺麗なのだが。西櫓に建つ「障子堀」の説明板。西櫓の櫓台下に「後北条氏の角馬出」の説明板。西櫓の櫓台から障子堀越しに西ノ丸を見るがピーク時のつつじを見たいものだ。西側の帯曲輪からの愛鷹連山、富士山を見る。西側の帯曲輪から林の中を抜け、ここにも「ホオノキ (朴の木)」が聳えていた。枝先の花をズームアップ。ホオノキはモクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。別名としてホオ、ホオガシワなどともよばれる。大きな葉が輪生状につき、枝先に大きな花が上向きに咲く。また、朴の木の葉を利用した岐阜飛騨を代表する郷土料理「朴葉みそ」は有名である。北ノ丸跡に立っていた、「国指定史跡 山中城跡案内図」。本丸の土塁上から杉の木が生える本丸堀を見下ろす。本丸の土塁上から北ノ丸への本丸北橋。山中城跡には多くの杉の木が植栽されている。花粉症の方にとってはつらい場所では。前方に「天守櫓跡 (てんしゅやぐらあと)」天守櫓跡は標高五八六m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。本丸の土塁上から本丸西橋を見下ろす。南側に向かって傾斜している二ノ丸。二ノ丸櫓台から本丸西橋を見下ろす。左側の本丸下には兵糧庫跡に建つ休憩所。本丸西橋を渡り、二ノ丸(北条丸)の西方向を望む。二ノ丸橋から北方向を望む。ここからも富士が見えるのだが。二ノ丸からの左側から帯曲輪、西ノ丸畝堀、西ノ丸、二ノ丸から下り「箱井戸」へ。城内には箱井戸と、下流側に馬用の飲み水として使用された田尻の池の二つの池がある。箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。箱井戸跡ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会写真は、スイレン箱井戸に咲く黄色の花。この花を見ると「いずれ菖蒲 (あやめ) か杜若 (かきつばた)」のことばが浮かぶ。「しょうぶ」と「あやめ」は漢字で書くとどちらも「菖蒲」である。乾いたところに育つのがアヤメ科「アヤメ」(菖蒲/綾目/文目)。よってこの紫色の花は”かきつばた”であろうか。かきつばたの後方の斜面にはアジサイ。あやめとかきつばたは良く似ているが、花びらの付け根を見れば一目瞭然であると。3つの違いをまとめると、花びらの付け根を見たときに、 ・あやめ:模様が網目状である ・菖 蒲:黄色い模様が入っている ・杜 若:白い筋が通っている育つところも違い ・あやめ:陸地 ・菖 蒲:水の中 ・杜 若:水辺赤丸内に白い筋があるので「杜若(かきつばた)」(ネットから)。 予備知識がなく残念ながら撮影した写真からはアップしていないので?13:00山中城跡案内所・売店で昼食をとる。今回は「山菜そば ¥500」を注文。麩(ふ)入りで、わらびは山中城公園内にも芽を出していた。前回は天ぷらそばを食した。昼食後、南側にある「岱埼 (だいさき) 出丸」へ。気温も上がり富士がかすかに見えていた。すり鉢曲輪見張台から岱崎出丸を振り返る。すり鉢曲輪見張台から北東方向の、岱埼出丸 一の堀を見下ろすが急峻である。見下ろすと国道1号のバイパス沿いには新しくできた「ドラゴンキャッスル」。出丸御馬場堀。出丸御馬場堀内には整備中の作業員。斜面に梯子をかけ草刈り機で除草されていたが結構厳しい作業である。ヘルメット無装着であったが、この作業(城跡整備)も三島市と年間契約されているようだ?アゲハチョウが既に飛びまわっていた。史跡内にはこのような看板も。山中城跡案内所・売店前に戻る。バス停には外国人観光客。旧東海道を下って来たのであろうか。三島駅行きのバスに乗り込む観光客。13:45店先には「名物 寒ざらし団子」ののぼり旗。この後箱根越えで帰路についた。山中城跡には毎年のように訪れ”つつじ”を追っているがピーク時と合致せず。売店で聞くと「定休日の月曜以外はここへ電話していただくと開花状況を対応します」と。作業員の方から他の花等も開花状況を聞いているとのこと。「来年はお願いします」。 END
2023.07.15
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山のホテルのつつじを楽しみ、仙石原にある花月園へ。5月10日(水) 10:20シャクナゲ園からつつじ園の富士見の丘へ下り山のホテル本館を望む。富士見の丘の先に富士がまだ顔を出していた。最後に再度、ビューポイント【富士山】から望む。富士見の丘のつつじは数日前の雨で残念ながらピークが過ぎていた。10:35見納めに富士をズームアップ。山のホテルの散策後、仙石原にある花月園へ向かうことに。10:55ホテル花月園所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1244-2当館の「つつじ庭園」では、毎年5月の大型連休が終わる頃から、およそ2週間の間「つつじ」が咲き誇ります。夏でも涼しい仙石原高原にあり、天気が良いと富士山も望める標高800メートルに位置する。駐車場には送迎用バス。老人ホームの方が車数台で訪れておられた。エントランスへの両脇にはつつじ、サクラ並木。エントランスをズームアップ。後方の山は大涌谷の一角であろうか。つつじ庭園へ下りる。ここのつつじ観賞はは無料で楽しめる。芝生広場の周りにつつじが咲き乱れる。ホテルのエントランス側からも下りることができる。夜は宿泊者の為にライトアップもされているのであろうか。以前来た時はテントが建っていたが。つつじ庭園には観賞用のベンチが置かれていた。つつじ庭園から見上げるとカエデの花。青空をバックに。カエデの花をズームアップ。県道75号線沿いに建つホテル案内板。つつじが綺麗に咲いていた。赤、ピンク、白と。こちらの新緑の木にも枝先に花が咲いていた。枝先をズームアップ。ホオノキの花であろう。ホオノキ (朴の木)ホオノキはモクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。別名としてホオ、ホオガシワなどともよばれる。大きな葉が輪生状につき、枝先に大きな花が上向きに咲く。日本自生の樹木の中では、最大級の葉と花をもつ。南千島から九州に分布する。大きな葉は、食べ物を包んだり焼いたりすることに使われる。枝の間に蕾。右側はホテルエントランスへの階段。今年は開花が早いようで少々ピークを過ぎていたようだ。木は大きいが花は小柄なつつじ。三色?のつつじが咲くつつじ庭園である。11:05約10分のつつじ観賞で駐車場へ戻る。11:10県道75号線のホテル花月園近くの「南温泉荘バス停」。数年前に大涌谷の噴火規制で立入禁止になり、ここで黒卵を販売していた。その時の建物を解体していたのであろうか。 同場所から富士を望む。この後、時間があったので山中城へ行くことに。 ー 続く ー
2023.07.14
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山のホテルのつつじ園からシャクナゲ園を散策。5月10日(水) 10:00シャクナゲ園岩﨑男爵が、ツツジとともに植えたシャクナゲ。おおぶりな花がふっくらと咲くはなは、優雅な貴婦人のよう。洋種シャクナゲの中には、高さ4mに達するものや、樹齢100年近い古木など学術的にも貴重なものとされていますと。残念ながらこの花の名は?。主なシャクナゲの種類は42種で、約300株が咲き乱れている。ズームアップ。光線を後方から浴びる。ゴーマー・ウォータラー(大華殿) であったか?草木慰霊塔碑シャクナゲ園の一番高いところに建っている碑である。草木慰霊塔碑岩﨑男爵が庭園を造成するため、幾多の樹木や灌木を伐採せざるを得ず切り倒した草木のすべての霊に対して供養を施したいという思いから1937年(昭和12年)に建てられたものと伝えられています。日本のシャクナゲ残念ながらネームプレートがなく。西洋シャクナゲの「マイケル・ウォータラー」。鮮やかな農紅色である。ズームアップ。遊歩道の両側に高木のシャクナゲ。白亜のシャクナゲ。蕾の時は薄いピンクで、開花すると白色に変化する「ホワイト・スワン」。シャクナゲ園の遊歩道。残念ながら遊歩道は車椅子対応にはなっていない。ホソバシャクナゲホソバシャクナゲ 野生種 日本原産日本固有種で、静岡県西部と愛知県東部の比較的低い標高の岩場に生える。花は紅紫色で、葉が非常に細長いのが特徴。環境省絶滅危惧Ⅱ類であるが、栽培が容易なため、各地で栽培される。葉が非常に細長いホソバシャクナゲ。このシャクナゲの名は?。クマバチが来ていた。ズームアップ。よく見かけるピンクのシャクナゲである。赤紫色のシャクナゲ。ウィリアム・キングウィリアム・キング 西洋シャクナゲ園芸品種葉は幅広で大きく、花は黄クリーム色の大輪品種。弁先は7つに分かれるため丸く整った花形。近年、鉢植えとして生産販売されるようになった。ニュージーランドで1958年に作出。ピークを過ぎたシャクナゲ。ズームアップ。アズマシャクナゲアズマシャクナゲ 野生種 日本原産日本固有種。花の色は紅紫色で、蕾のうちは色が濃いが、開花するにつれ薄くなる。花弁は5枚で、雄しべは10本ある。葉は小さいが、裏毛は赤褐色でスポンジ状に密に生える。花の色は紅紫色で、蕾のうちは色が濃いが、開花するにつれ薄くなる。花色は開花するにつれ薄くなる。別のシャクナゲが咲いていた。ズームアップ。背丈が2メートル程のシャクナゲ。蕾の時はピンクで花開くと白色になるのであろう。ズームアップ。ヤクシマシャクナゲヤクシマシャクナゲは、屋久島の高地に自生するツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属の常緑低木。屋久島の固有種あるいは固有変種である。屋久島町の花に選定されている。シャクナゲ園からつつじ園へ下り、芦ノ湖を望む。この辺りのつつじはピークを過ぎていた。10:20山のホテル本館を見る。 ー 続く ー
2023.07.13
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山のホテルの散策を続ける。5月10日(水) 9:25チャペルの前にある「ローズガーデン」。ローズガーデン開花時期:6月中旬~7月中旬頃、9月中旬 ~ 10月中旬頃。2002年に向ヶ丘遊園から譲り受けたバラをはじめ、6月と10月の2回見頃を迎えます。高貴で目を引くものから清楚な花が咲く品種など、バラの甘い香りで包まれます。「山のホテル」ツツジ園約70品種3000株のツツジ1911年(明治44年)三菱4代目社長岩崎小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。1948年(昭和23年)、「山のホテル」が開業してからは、この庭園を大切に守り、受け継いできました。しかし、長い間に品種名がわからなくなったものも多く、2016年から5年にわたる調査の結果、2021年現在、約70品種3000株が存在することが判明しました。まだ不明なものも多く、今後も品種数は増えそうです。西側の駐車場傍にある「チャペル」。芦ノ湖畔に佇む小さな礼拝堂である。礼拝堂内を見る。礼拝堂に入り。正面のステンドグラス。チャペルは中世ヨーロッパの古城の片隅に佇む小さな礼拝堂をイメージしたチャペル。ホテルの庭園内にあるチャペルは、その大きな扉を湖に向かって開かれ、湖畔からのさわやかな風と庭園いっぱいに溢れる光を取り込みます。親族や親しい友人に囲まれたアットホームな挙式は、約40名様の参列が可能ですと。9:30西側の臨時駐車場。この時間になると多くの車が駐車していた。朝到着した時の「つつじ・しゃくなげ庭園入口」。トイレが外にあったので係員に許可を得て仮設トイレへ。つつじ園へ戻る。花車 (はなぐるま)花車 (はなぐるま)ヤマツツジ類園芸品種群 モチツツジ系花は、紅桃色の大輪で、一重で花弁が細い采咲き (個々の花弁が完全に分かれる咲き方)。ブロッチ(斑点)は、濃い紅桃色。園内には本品種の大株が多数点在する。ビューポイント【紅葉の小径】ツツジ・シャクナゲで知られる庭園ですが、秋の紅葉シーズンには、この周囲一帯が黄色や赤へと色づき、その葉が敷き詰められると「赤い絨毯」の上を歩くかのようだと。秋の紅葉シーズンもよさそうだ!ここで見られる野鳥アカゲラ、ツバメ、ハクセキレイ、ツグミ、エナガ、メジロ、カワラヒワ、オナガ、キジ、シジュウカラ、ホトトギス、モズ、ホオジロ、ウソ と多くの野鳥が飛来する。鳳凰殿 (ほうおうでん)。鳳凰殿 (ほうおうでん)ヤマツツジ類園芸品種群 オオアマツツジ系 希少品種花は中輪二重。紅ピンク色の白覆輪(花弁の縁が白色)、ブロッチ(斑点)は濃紅紫色。「紫鳳殿」「白鳳殿」の親。歴史的な庭園でまれに栽培されるが、園芸的な生産はほとんどない希少品種。ズームアップ。ピンクが鮮やかな別の品種。ズームアップ。右へ上るとつつじが咲き乱れる富士見の丘へ。坂を上り”しゃくなげ園”へ行くことに。途中木陰から入口方向を見下ろす。露出を変更。同場所から富士見の丘を見下ろす。ピークを過ぎた藤棚。紫色は咲き終わり白色が咲いていた。白色のフジをズームアップ。シャクナゲ園入口に立つ案内板。「山のホテル」のシャクナゲ園男爵が日本で初めて輸入し、ホテルが守り続けた貴重なシャクナゲ■ 海外のシャクナゲ 西洋シャクナゲ (園芸品所) 1800年代後半、欧米で人気を博したシャクナゲは次々と交配され、数多くの西洋シャク ナゲが生まれました。これを1910年頃(明治時代末期)に日本で初めて輸入したのが、岩 﨑彌之助男爵、小彌太男爵父子です。昭和初期に日本でも人気が高くなり、日本名がつ けられましたが、それらは、現在はほとんど栽培されていません。当シャクナゲ園には、 ゴーマー・ウォータラー(大華殿)など、現在では栽培が少なくなった古品種が多数植え られています。 野生種 もともとはアジアに原産が多いシャクナゲは欧米に渡り鑑賞花木として好まれました。 ポンティクムは、岩﨑彌之助男爵の霊廟前にも日本への導入初期に2本が植えられ、当 シャクナゲ園にも存在します。また、当園に30株以上ある、中国原産のフォーチュネイ は、かつてはシャクナゲの接木繁殖の台木としても使用された、香りの良いシャクナゲ です。■ 日本のシャクナゲ 野生種 日本にも古くからシャクナゲが自生していました。当園に約50株ある大株のキョウマル シャクナゲは、環境省の絶滅危惧種に選定されています。また、伊豆半島固有のシャク ナゲ、アマギシャクナゲなど貴重な地域のシャクナゲが植えられているのも特徴です。■ カルミヤ カルミヤは、ツツジ科の植物ですが、シャクナゲではありません。当園には、カルミヤ・ ラティフォリアが50株近く育っています。1915年(大正4年)に日本に導入され、アメリ カシャクナゲの名で販売されていた歴史があり、当園でも別邸時代に植えられたと思わ れます。このような大株が多数保存されているのは全国的にも珍しいことです。 シャクナゲ園の歴史この地は、岩﨑小彌太男爵の別邸でした1911年(明治44年)三菱4代目社長岩﨑小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。なかでも、当シャクナゲ園の「ゴーマー・ウォータラー」は、日本で最初に輸入された「西洋シャクナゲ」と文献に記されていて、歴史的な価値が非常に高いシャクナゲです。シャクナゲ園には、現在、他では栽培されていない貴重な古品種や日本原産のシャクナゲなどが植えられています。そして、その大半は、男爵別邸時代に植えられ、現在大株になっています。希少品種を多く含んだ、約40品種300株1948年(昭和23年)、この地に「山のホテル」がオープンしてからは、ホテルがこの庭園を大切に守り続けてきました。2015年からはツツジ・シャクナゲの維持・再生を目的とした、「山のホテル庭園プロジェクト」がスタートし、品種調査や接ぎ木による希少品種の再生・育成などに取り組んでいます。その結果、2021年現在、約40品種300株のシャクナゲの存在が判明しました。明治時代の品種を含むツツジとシャクナゲ、この貴重な「園芸文化」を、山のホテルは訪れるお客様へのおもてなしとして後世に受け継いでいきたいと考えています。シャクナゲ園の遊歩道を進むがどの木も大株である。ピンク色の”フォーチュネイ”フォーチュネイ 野生種 中国原産樹高 5m以上になる中国原産のシャクナゲです。花はピンクで、花弁は7枚、甘い香りがします。葉か細長く、楕円形です。当園には多数植栽されています。フォーチュネイをズームアップ。白い花を咲かせる「ホワイト・スワン」。ホワイト・スワン 西洋シャクナゲ園芸品種蕾の時は薄いピンクで、開花すると白色に変化する。花弁は7枚。現在は国内での商業的な生産はないと思われる。1958年にイギリスで作出された。ホワイト・スワン10:00ゴーマー・ウォータラー花は大輪、白色で薄藤色が入り、ブロッチ(斑点)は黄茶色。イギリスで1900年以前に作出。本品種は、岩崎小彌太が日本で初めて導入した西洋シャクナゲといわれているゴーマー・ウォータラー「小田急 山のホテル」があるこの地には、かって三菱4代目社長、岩崎小彌太男爵の箱根別邸がありました。岩崎男爵は別邸を1911年(明治44年)に建てましたが、庭園を造るにあたり、多くのシャクナゲを英国から輸入しました。これが日本への洋種シャクナゲの最も古い導入ではないかといわれています。この「ゴーマー・ウォータラー」は、当時輸入された学術的にも貴重なシャクナゲの1株と見られ「日本ツツジ・シャクナゲ協会」にもその存在を認められました。ゴーマ・ウォータラー 日本名:大華殿(たいかでん) 西洋シャクナゲ園芸品種花は大輪、白色に薄藤色が入り、花弁上部のブロッチ(斑点)は黄茶色。イギリスで1900年以前に算出された。日本に初めて輸入されたゴーマ・ウォータラーの1株と思われる。 ー 続く ー
2023.07.12
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山のホテルのつつじ、シャクナゲを愛でる。前回は4年前の2019年5月17日(金)に訪れている。その時のブログは「山のホテル」👈 をクリック願います。山のホテルは、三菱の創始者である岩﨑彌太郎の甥である岩﨑小彌太男爵が、1911年(明治44年)に別邸を建てた由緒ある地にある。5月10日(水) 9:00入場料金は期間中は大人1,000円。駐車料金は無料である。正面に実際には7本あるが「三本杉」と呼ばれている杉の木が聳える。岩﨑男爵の別邸時代から見る角度によって大きな3本の杉に見えるのであろうか。チケット2023年 14日目14日目はつつじが開花してからの累計日であろうか。前回訪れた2019年5月17日(金)は「12日目」であった。地球の温暖化が感じられる!❖ 庭園散策マップ ❖庭園の見どころ A ~ E 三菱財閥4代目当主である岩﨑小彌太男爵に縁深い散策スポットのご紹介です。 ① ~ ⑪ 山のホテルがオススメする散策スポットのご紹介です。チケット売り場の後方がビューポイント【富士山】である。山のホテル本館のテラス席もある。案内のようにつつじはピークを過ぎていたようだ。しかし、三本杉 (実際には七本) の後方に富士が綺麗に顔を出していた。一段高いテラスにあるビューポイント【富士山】は混雑、順番待ちで撮影。遊歩道、左側の三本杉を見下ろす。三本杉とあったが聳えているのは七本。残雪が残る富士をズームアップ。ピークを過ぎたつつじ。係の方に聞くと数日前の雨で花柄が・・・。遊歩道には多くの人が訪れていた。歴史を感じるつつじが植えられている富士見の丘。ビューポイント【富士山】から入口を振り返る。山のホテルの魅力。何度訪れても感動のある本格リゾートホテルヨーロッパの古城を彷彿とさせる、広大な敷地を有する本格リゾートホテル「山のホテル」。受け継がれた歴史と伝統を、より上質な“おもてなし”で。美しい四季の風景を眺めながら、料理人こだわりの美食とともにゆったりと流れる時間をお楽しみくださいと。宿泊施設の前にもつつじが咲き乱れる。つつじを玉仕立てにしているのはどこから見ても綺麗であることからと。遊歩道から富士見の丘越しに富士を望む。広大な敷地を誇る「山のホテル」の大庭園。自然が多く残り、四季折々の花や富士山などを楽しめる人気の観光地である箱根。山のホテルのある芦ノ湖周辺は標高が約723メートルもあり、都心から近いとは思えない気候である。遊歩道に道案内『 ⇐ バラ園・チャペル、しゃくなげ園 ⇒ 』。順路に従って進む。白いつつじの「白錦」。ネームプレート「白錦 (しろにしき)」ヤマツツジ類園芸品種群 オオヤマツツジ系 希少品種白滝とも呼ばれる。花は中輪で白色の二重。がくが不完全に花弁に変化し、緑が不規則に切れ込む桂咲き。稀に関東地方の歴史的な庭園で栽培される希少品種。案内板は「見南山荘の碑」。見南山荘(けんなんさんそう)の碑石碑には漢字のみで「見南山荘記」の説明。「見南山荘」とは、大漢和辞典の編纂者で、漢学者の諸橋轍次氏につけてもらった別邸の名前。碑には1938年、諸橋氏が別邸に赴いて講義をしたときの模様が歌われ、芦ノ湖の景観の素晴らしさなどが記されている。山のホテルは岩崎小彌太男爵の別邸跡に建ち、いまなお当時の面影を色濃く残し、クラシカルなムードを漂わせる「山のホテル」。レンガ色の赤い屋根と白亜の外観は、取り囲む深い森にくっきりと映え、ヨーロッパの古城さながら。目の前には、きらきらと輝く澄んだ芦ノ湖が開け、庭園からは富士山の壮麗な姿も仰ぎ見ることができますと。ビューポイント【富士山】のテラス席。テラス席をズームアップ。真っ赤なつつじ。キリシマツツジ ”ヤエゲラ”< 八重げら >萼が花弁状になる二重咲きの園芸品種。八重霧島に似ますが、別の物です。(ツツジ科)八重げら (やえげら)ヤマツツジ類園芸品種群 江戸キリシマ 希少品種常緑性ツツジ。小輪、がくが花弁化した二重咲きで、江戸時代を代表する深紅の花を咲かせる”本霧島”よりも暗い朱赤色。ほとんど栽培がない希少品種。深紅の花を咲かせる八重げら。ズームアップ。八重げらは約3,000株あるツツジの中でも、一番大きな株の八重げら。高さ、直径ともに3メートル近くあり、その大きさに圧倒されます。つつじの間を抜け順路に従い進む。富士見の丘から見る三本杉。三本に見えるのはホテル側からであろうか。つつじに囲まれて「安藤楢六翁之像」。碑 文当社の前身小田原急行鉄道は昭和二年に開業、その後、一時期戦時統合政策により西南各私鉄とともに東京急行電鉄を形成するに至ったが、二十三年六月分離独立し、新たに小田急電鉄として発足した。戦後の荒廃と混迷のなお続く同年十二月、新生小田急の初代社長に就任した安藤楢六翁は、労使一体を経営の根本理念に掲げ、疲弊した鉄道を復興し沿線地域社会の便益向上に腐心されたが、当時の時代環境を考えるとその苦心は筆舌に尽くせぬものがあったと推察できる。爾来、翁は五十九年一月逝去されるまで三十五年余に亘り代表取締役として社運の興隆を導かれたが、中でも箱根湯本乗り入れに始まる一連の施策により箱根の一貫輸送ルートを確立して経営基盤を強化し、また第二の創業と目された新宿西口の総合開発を完成して事業多角化の基礎を固め今日の布石としたのは、小田急中興の祖と仰がれる翁ならではの経綸であったといえる。現在の社業の伸長と沿線の発展を見るとき往時を顧みて無量の感慨を覚えるが、翁の偉業を更に大きく実らせて次代に引き継ぐのが我々小田急グループ全社員の責務であろう。ここに故翁の遺徳を偲ぶと共に将来へ向けて一層の飛躍を期する記念として建立するものである。 平成二年九月十四日 小田急電鉄株式会社安藤楢六翁之像前から山のホテルを望む。深紅のつつじが咲き誇る。芦ノ湖を見下ろす。西方向には富士の顔も。つつじをズームアップ。富士見の丘からつつじの間を下り芝生広場へ。テント内ではつつじ・しゃくなげの苗木を販売していた。営業時間 10:00 ~ 16:00(つつじ開花時のみ)芝生広場では山野草、アジサイ等を販売していた。9:25芝生広場からの山のホテル。 ー 続く ー
2023.07.11
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訪れたつつじの時期から相当遅れましたが、5月10日(水)に義兄と訪れた箱根芦ノ湖の湖畔にある”山のホテル”のつつじ・シャクナゲです。この日は新車のノートに乗り自宅を7時前に出発。5月10日(水) 8:10西湘バイパス、箱根新道を走り芦ノ湖湖畔の箱根町港へ。雪が積もった富士の頂上が見えていた。湖畔には既に多くの釣り人が訪れていた。釣り人に何を釣るのか尋ねると「ブラックバスを釣りリリースする」と。箱根港に海賊船が停泊。海賊船は3隻あるがこれは「クイーン芦ノ湖」「クイーン芦ノ湖(QUEEN ASHINOKO)」は、「心ときめくクルーズ」をコンセプトとし、芦ノ湖の碧にあざやかに映えるゴールドの船体、多彩な色・形・素材を自在に組合せた装飾性豊かな船内は、床から天井まで木材を張りめぐらせたクラシックなデザインとなっており、上質なリゾート感覚をご堪能いただけます。船 名 クイーン芦ノ湖就航年月日 2019年4月25日総トン数 318t 船の長さ 35.00m 船の幅 10.00m定 員 541名(うち特別船室87名)造船会社 ジャパンマリンユナイテッド株式会社箱根町港乗り場まだ時間が早く観光客はいなかった。箱根町港前に立っていた石碑。桃源台港への1便は9時30分。コロナ前は多くの中国人が訪れていたが。海賊船は3隻あり他に「ロワイヤルⅡ」、「ビクトリー」が就航している。航 路海賊船は箱根町港から元箱根港・桃源台港を約25〜40分で結ぶ。運賃は桃源台港まで片道1,200円、往復2,220円。8:30小田急 山のホテル神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80かつての岩﨑小彌太男爵別邸跡地に建つ、「山のホテル」につつじ園がある。警備員の案内により西側の臨時駐車場へ止めるが時間が早く空いていた。西側の臨時駐車場からの「つつじ・しゃくなげ庭園入口」。時間があったので芦ノ湖畔へ下る。途中林の中にシャガの群生地。山のホテル・箱根神社と湖畔の間を走る神社通り。湖畔にある遊歩道。右側には芦ノ湖があり釣りのポイントにも。新緑の中を山のホテル側の入口へ移動。ヒノキを見上げる。神社通りを挟み右上は山のホテルの庭園。芦ノ湖プライベート桟橋を見下ろす。桟橋をズームアップ。ここも若者達の撮影ポイントに。山のホテルには四季の自然を愉しめる庭園をはじめ、目の前に広がる芦ノ湖の景観も愉しめる。周辺には箱根神社もあり散歩しながらホテル周辺の散策も愉しめる。芦ノ湖の対岸の山の上には芦ノ湖スカイラインが走る。シャクナゲが綺麗に咲いていた。ズームアップ。更にズームアップ。箱根神社前から箱根園への神社通りに「小田急 山のホテル」の案内板。ここにも駐車場があったが既に満車で警備員から箱根園側の駐車場へ誘導された。こちら側には団体大型バス、第1、2駐車場がある。道路沿いのホテル入口に「つつじ・しゃくなげフェア 開催中」と。また看板には「見頃のピークは過ぎました」と。団体大型バス駐車場から山のホテルの第2駐車場を見下ろす。山のホテルのエントランスに送迎用のバス。元箱根から無料のシャトルバスがホテル玄関先まで送迎してくれる。ホテル側からの「つつじ・しゃくなげ庭園入口」。5月2日(火)にNHKのあさイチで山のホテルを放送「5月8日頃が見ごろ」と放送していた。8日の予想日は雨になり、その為訪れるのが数日遅れピークが過ぎたようだ。開園時間が9時からの為しばし門の前で待機。「山のホテル」ツツジ園約70品種3000株のツツジ1911年(明治44年)三菱4代目社長岩崎小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。1948年(昭和23年)、「山のホテル」が開業してからは、この庭園を大切に守り、受け継いできました。しかし、長い間に品種名がわからなくなったものも多く、2016年から5年にわたる調査の結果、2021年現在、約70品種3000株が存在することが判明しました。まだ不明なものも多く、今後も品種数は増えそうです。9:009時ちょうどにオープン。三本杉の向こうに富士が綺麗に見えていた。つつじ・しゃくなげフェア 20232023年4月下旬 ▶ 5月下旬 [庭園見学時間] 9:00 ~ 17:00園内には、つつじ・しゃくなげ園巡回ルート、車椅子使用者ルートがある。 ー 続く ー
2023.07.10
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今年の湘南祭は「持続可能性」を重点に!「茅ヶ崎の豊かさを持続可能なものに」と、飲食ブースでは環境に配慮した循環型の食器の使用など、ゴミの排出量削減を目的とした新たな取り組みも行う。従来の湘南祭と違う、SDGsへのチャレンジもして、来年度以降につなげたいと。パンフレットから、湘南祭 2023開催日:5.27(Sat)・28(Sun) 10:00 ~ 16:00会 場:サザンビーチ茅ヶ崎主なイベント ・ローカルファーストマーケット(飲食・物販など) ・ステージショー Sat:ダンスショー Sun:音楽の創造ステージ ・スケートボードパーク ・スポーツイベント (開催日は内容によって異なります)5月27日(土) 12:40マルシェ会場にはちょうど昼時で多くの人が並んでいた。若者の為にベビーカー置場、授乳室が設置されていた (無料)。飲食屋台の前には長い列。ビール、湘南ゴールド樽生サワー、スコッチハイボールも販売。左隣では「台湾まぜそば」を販売。この日は天気も良くビールを飲む人が多かった。焼鳥トサカ購入するかき氷、わたがし、酒、やきとりに分かれて並んでいた。屋台内には知っている店長も。STAGE PROGRAM 5.27 (Sat) ダンスショー 【MC】MC KENSAKU5.27 (Sat) ダンスショー5.28 (Sun) 音楽の創造ステージ12:48メインステージ上では若者達が踊っていた。STAGE PROGRAMからみると「パルパル湘南 avexDanceMaster K-POP」であろうか。メンバーが代わり十数人で激しいダンスを披露していた。小学生から中学生であろうか。ステージの前には多くの親御さん達であろうかカメラを構えて見入っていた。撮影ポイントを探すがなく後方から撮影。人混みの合間からズームアップ。高学年でプロを目指しているのであろうか。メインステージの横には大きなスピーカーがあり椅子席が設けられていた。この中にはスカウトも来ているのであろうか。ステージ上にMC KENSAKU さんが登場。渋い声で・・・。MC KENSAKU さんは、日本が誇る伝説のダンスチーム「BRONX」のメンバーとして日本のブレイクダンスシーンの火付け役のひとりであると。小学生のグループが登場。グループの紹介をしていたが?。女の子が主だがどの子も曲に乗り見事な踊りを披露していた。単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、サンプリングや打ち込みのバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽を指すことがあるが、これらはヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップである。ヒップホップにおいて、ラップ (MC)、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれると。高齢者にはよくわからないが。踊りが激しい!その点、若い子はテレビを見て覚えるのであろう。スマホを掲げ我が子の撮影に夢中。ダンスを終え勢揃い。最年少の子にインタビュー。小学1年生であったか。三人のグループによるダンス。動きが早かったが動画でないので画像は静止画になっているが。13:12見事なダンスであった。ダンスショーを約30分程見る。飲食屋台が建ち並ぶがどこも列をなしていた。並んで待つのも嫌なので帰ることに。左側には”神奈川トヨタ”も出店。13:20湘南祭ののぼり旗が立ち並ぶ。13:25人が多く、湘南祭は高齢者には・・・、よって早々に帰路に。国道134号のサザンビーチ交差点。交差点からサザン通りを北上。13:40ポルベーカリー所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目18-21途中、妻から頼まれていた鉄砲道にあるパン屋に立ち寄り購入。以前の店名は「こなふき堂」?。13:50欣ずし (きんずし)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目3-12パンを購入後、南湖通りを北上通り沿いにある大衆食堂。昼食をとるため暖簾を潜るがあいにく準備中であった。店先にあった貼紙、「かながわSDGsパートナー登録証」 「欣ずし 殿 えぼしの雫 2022年5月26日 神奈川県知事 黒岩 祐治」2006年に国連が責任投資原則を提唱して以降、持続可能性を重視するESG投資は急速な拡大をみせている。そのような中、2015年の国連サミットにおいて、グ ローバルな社会課題を解決し持続可能な世界を実現するための国際目標である SDGs(持続可能な開発目標:Sustainable Development Goals)が採択された。今や世界中の企業がSDGsを経営の中に取り込もうと力を注いでおり、日本においても、SDGsを経営に組み込むべく様々な取組が進められている。えぼしの雫を知り合いにお土産で渡したが評判は?我が家でも購入しているが妻は料理に使用せず、時々自分で豆腐、玉子ご飯に。13:55だるま食堂所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目1-29欣ずしが準備中であったので、こちらも以前から一度寄りたいと思っていた国道1号沿いにある昭和を感じる定食屋さんである。赤い暖簾の「中華料理」、看板の「チャーハン 630円」が気になっていた。国道沿いから見ると古い感じがしていたが、店内はカウンター座敷があり広く、綺麗であった。メニューに、昼の部:11:30 ~ 15:00 夜の部:18:00 ~ 23:00定休日:毎週月曜日チャーハンも欲しかったが、メンチカツを注文。店内から国道1号を見るメンチカツ定食 1,000円 (税抜き)。キャベツが少々少なくメンチカツは揚げ過ぎの感があったが美味しかった!14:35店先から国道1号(旧東海道)の東京方面を望む。この辺りの国道はモール化され、自転車優先エリアがある。次回はチャーハンを食べたい!14:56自宅へ到着、到着時の走行可能距離は22kmであった。自転車のかごには途中で購入したパン。バッテリー残量は30%。我が愛車のリンちゃんも、令和3年(2021)3月9日に購入以来、充電も57回目になる。「ECO」モードで走っているのでフル充電で走行可能距離は94km。よって、累計走行距離は、57回 × 94km = 5,358km になる。後日タウンニュースに記載された記事 (6月2日号)。渇望の湘南祭 過去最高12万人茅ヶ崎の4大イベントの一つである「湘南祭2023」が5月27日・28日、サザンビーチちがさきで4年ぶりに開催され、延べ人数では過去最高となる12万人が来場するなど盛況を見せた。湘南祭は初めて訪れたが、若者の祭りで高齢者にはちょっとの感あり。 ENDタウンニュース 茅ヶ崎版2023年6月30日(金)号に、サザンオールスターズ 10年ぶり茅ヶ崎ライブデビュー45周年を迎え、9月27日(水)、28日(木)、30日(土)、10月1日(日)の4日間茅ヶ崎公園野球場でライブを開催すると発表したと。前回はJRも臨時電車を出して対応、茅ヶ崎市への経済効果はいかほどに! END
2023.07.09
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新型コロナウイルスの対策が緩和された今年のゴールデンウイークは、各地で3~4年ぶりにいろんなイベントが開催された。我が茅ヶ崎でも今年は茅ヶ崎市の4大イベントが開催されるとタウンニュースで報道。茅ヶ崎市の4大イベントとは、 ① 大岡越前祭:江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公の遺徳を偲んで行われる春祭り。 ・4月29日(土)、30日(日) 4年ぶりに開催された。 ② 湘 南 祭:スポーツ・飲食等の様々な催しが行われる。 ③ 浜 降 祭:神輿が砂浜を乱舞し、茅ヶ崎に夏を告げる。 ・7月17日(月) 海の日に開催予定。 ④ サザンビーチちがさき花火大会:茅ヶ崎海岸の夜空を彩る。 ・8月5日(土) サザンビーチで開催予定。4月14日(金)号タウンニュースに『湘南まつり』4年ぶり開催へ。開催日:5月27日(土)と28日(日)の2日間場 所:サザンビーチちがさき時 間:午前10時から午後4時 (雨天決行)同イベントは、大岡越前祭の一環として1994年4月に第1回が開催され、26回目を迎える。5月27日(土) 11:24湘南祭の会場へ愛車のリンちゃんで出かけたが走行可能距離は37km。バッテリー残量は40%と、サザンビーチまでは十分に行ける残量である。11:45一中通りを南下し茅ヶ崎ヘッドランドへ。西には富士がかすかに見えていた。海岸では多くの人がBBQをやっていた。富士の頂上が見える。アウトドアレジャー用品も、折りたたみテント、搬送用カート。サイクリングロードを西へ走りサンビーチへ。この日の海は穏やかであったか。野球場前ステージ。既に湘南祭は開催されておりサザンビーチには多くの人が。12:00サザンビーチちがさき会場。サイクリングロード脇には多くの「湘南祭」のぼり旗が立っていた。パンフレット。スケートボードパークが設置されていた。一人ずつスケートボードを楽しんでいた。この子は小学校の低学年のようだったが上手くターンしていた。しばし滑り?を追う。オリンピック人気で流行っているようだが。このスポーツのプレーは30歳以前であろうか。次の出番を待つ子も若い。小学校の高学年or中学生であろうか。湘南祭会場を後にし、ハマヒルガオを見に行くことに。12:10サイクリングロードの浜見平入口。ハマヒルガオはここから東の「西浜中学校前」まで約200メートルにわたって群生している。同場所から西方向を望む。既に終盤のハマヒルガオ。今年5月4日(木)に訪れた時のブログ「茅ヶ崎海岸」👈 をクリック願います。ズームアップ。西方向の海岸は浸食対策の工事が行われていた。箱根の山並みを追う。東方向の茅ヶ崎漁港、江の島を遠望。今後茅ヶ崎市の4大イベントの”浜降祭”と”サザンビーチちがさき花火大会”が開催される会場。12:20浜見平入口から戻り国道134号の交通機動隊前交差点。信号は「交通機動隊前」。交通機動隊前交差点を渡り山側へ移動。Chigasaki BEER & Villa所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目12986タウンニュースで紹介された、「作りたてクラフトビールが飲めるレストランがOPENした」と。茅ヶ崎のクラフトビールと言えば、市内北部の香川にある老舗酒蔵の熊澤酒造が手掛ける「湘南ビール」がある。ここは、地元企業の亀井工業を母体とする茅ヶ崎のクラフトビールのブルワリー(ビールの醸造所)兼ビアレストランである。国道134号から湘南祭会場へ。多くの露天商が出店していた。湘南祭の看板。サザンビーチに設置された駐輪場。多くの自転車が駐輪していた。12:35スケートボードパークでは初級者の指導が行われていた。【キッズスケートボード体験会】 1回目 12:30 ~ 13:10 土曜日・日曜日共 2回目 14:30 ~ 15:10 土曜日・日曜日共【スケートランプ滑走可能時間】 10:30 ~ 16:00 土曜日 10:00 ~ 16:00 日曜日 ー 続く ー
2023.07.08
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小田原北條五代祭りを見た後、電車の混雑を避けるため駅近くの寺社を訪れた。5月3日(水) 15:35今正山 大乗寺 (だいじょうじ)所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目5-21日蓮宗寺院の大乗寺は、今正山と号します。大乗寺は、玉泉院日養上人(慶長17年1612年卒)が開山となり、慶長6年(1601)に創建したといわれる。門前左側に苔むした寺号標石の台座に「大乗寺」。門を入ると正面に本堂。本堂前には2基の石燈籠が立ち「今正山 大乗寺」。左側の立札には「精霊施餓鬼供養会 毎月八日」。本堂の扁額「今正山」。本堂からぶら下がる飾り。扉が開いていたので内陣を見る。本堂前から境内を振り返る。本堂左側の墓地へ進む。正面右は本堂。石碑には「妙法 當山開山日養聖人歴代之墓 中興 祥眞院日〇 建之」と。石碑の裏には、「養師創設幾星更 歴世高僧後薫栄 合〇荘厳梅樹下 大乗風池聖人房 波木井楓暁 昭和十七年七月十五日」。石碑の右側一段高いところに墓石が建つ「當山歴代聖人之墓」他。本堂左側に建つ六角堂。六角堂の中に立つ観音菩薩であろうか。説明板がなく詳細は不明。第六天社本地釈迦如来。木造の立像で像高は5寸 (約15cm)、伝教の作とされていた。祭礼は6月8日と毎月15日で、神事があり、竹花町(栄町)の産神とされていた。階段を上ると右側に手水舎の中に石仏。右側の枝垂れ桜も開花時には目を楽しませてくれると。手水舎の前からの第六天社。第六天社の扁額「第六天」。内陣を見る。覗窓があったが・・・。境内に建つ「末社・六浦明神」であろうか。六浦明神は、疱瘡 (天然痘) の守護神とされていた。本堂前から境内を見下ろす。正面に「末社・六浦明神」。境内は参拝者の駐車場。今正山大乗寺から、錦通りへ戻り小田原駅へ向かう。道路脇に「たかべや」の地名石碑が立っていた。酒場にはパレード帰りの人で混雑していた。祭りによる経済効果も・・・。高部屋 (たかべや)稲葉氏時代、ここ鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。小田原市エリア ジオサイト戦国時代より城下町として栄えてきた箱根ジオパークの玄関口。歴史の舞台となった小田原城や石垣山一夜城には箱根火山の活動による熔岩が石垣として使われ、当時の地質資源の利用や日本の歴史の一端に触れることができるエリアです。小田原北条氏 VS 豊臣氏の小田原合戦を知るコース (所要時間4 ~ 5時間)。おしゃれ横丁の案内図。錦通りを進むと正面左に、ミナカ小田原、右にラスカ小田原。途中地下街に入り、「ハルネ小田原」。小田原駅東口のバスターミナルの地下にある地下街。地上の小田原駅や駅ビルであるラスカ小田原とも通路で直結している。ハルネ小田原は、「地域資源を集めた経済活性化の拠点」を目指しており、開業時の24店舗のうち17店舗が地元の小田原市内の事業者によって出店された。主要な通路の床面に小田原市内の見どころを紹介する地図を埋め込んだほか、かまぼこ板をイメージしたカラフルなベンチのある広場など施設面でも地域色を打ち出している。また、公共・公益的施設も入居している。地下街からエスカレーターで上り、小田原駅や駅ビルであるラスカ小田原と直結している。16:00JR東海道本線、小田急線のコンコースへ。まだ時間が早かったので「金次郎広場」へ行くことに。連絡通路からペデストリアンデッキを振り返る。ミナカ小田原の三階にある金次郎広場はパレード帰りの人で混雑していた。14階にある足湯へのエレベーター乗り場も長蛇の列。3・4・14F 専用EV足湯 展望足湯庭園の営業時間 朝 10:00 ~ 夕 20:00。JR東海道本線改札口ヘ戻る。改札前から海側の東口方向を見る。コンコースにはまだ北條五代祭りパレード帰りの人が多くいた。この後、混雑する16時11分発の高崎行き電車へ乗る。16:42 茅ヶ崎駅へ到着。混雑した車内では、新型コロナ対策のマスク装着は75%ぐらいであったか。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキ。ペデストリアンデッキからラスカ茅ヶ崎の北側を見る。17:00居酒屋「ホームラン」所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町3-10 (進和第3ビル)昼食も軽食であったのでお腹が空き居酒屋へ立ち寄ることに。開店前であったが開けて頂く。いろんなメニユーがあったが一人で飲むとシェアできないのがデメリットである。複数人だと多くの品をオーダーしシェアでき、いろんなものが食べれる。ホッピーセット、アジフライを注文。お通しでサラダ付き。食べ物は、お通しのサラダがあったので追加で餃子を注文。約1時間ほど飲み帰ることに。17:55国道1号(旧東海道)の東京方面。この辺りの街道には松並木が続いている。愛車のリンちゃんを駐輪していたイオンに立ち寄る。入り口横にモニュメント。翌日の、2023年5月4日(木) 付朝日新聞朝刊より。武者隊700人を含む約1,600人が約2.1キロのパレードに参加し、コロナ前と同じ規模の祭りが復活。市によると、祭りの人出は26万人で、2017年の25万人を超えて過去最多となったと。この日の歩数は、久しぶりに歩き回った16,400歩であった。このブログを書き込んだ6月23日は、6月3日(土)に突然右足のふくらはぎが痛くなり歩けず、現在は、週三日のリハビリ。健康で歩けたことを今更のように感謝! END
2023.07.05
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お堀端通りで再度パレードを楽しむ。この辺りは小田原駅に近いので沿道には人が多かった。5月3日(水) 14:50お堀端通りを「五代北條氏直公隊」ののぼり旗が南下してくる。北條氏直役の柳沢慎吾さん馬上で沿道からの「慎吾!」の声で振り返る人気者の柳沢慎吾さん。私の側からはかけ声がかからなかったのでこちらを向くことなく通過した。仕方がなく後姿を追う。14:55「三、武者隊 先駆け軍団」のパレードが終了。撮影ポイントを「そば処 小田原橋本」から小田原駅方向へ移動。「四、まち衆隊」のパレード。ここからは、なりわい交流館前で見ていなかったので始めて見るパレードである。四、まち衆隊広報車小田原ばやし 小田原囃子多古保存会鳶行列 小田原鳶職組合みこし 松原神社明神會・山王神社氏子神輿會・大稲荷神社氏子神輿會 ・居神神社神輿保存會・下府中富士見神輿連合會パレード終了 横断幕 ガールスカウト神奈川県西湘地区まち衆隊は、13:55頃 三の丸小学校前から出発している。神奈川県指定無形民俗文化財「小田原ばやし」の車両。後方には幸田門の三の丸土塁の木が聳える。この先はお堀端通りの栄町交差点。パレードはこの交差点を右側から来ていた。小田原鳶職組合による「鳶行列」纏(まとい)には「一番」。纏とは、江戸時代に町火消の各組が用いた旗印の一種。各組により様々な意匠が凝らしてある。概ね、上部に組を表す頭があり、馬簾 (ばれん、上部から垂れ下がった細長い飾り) と呼ばれる紙や革製の房飾りがついて、手に持って振り上げたり回転させると踊るようになっている。下部は木の棒の柄になっている。重量は15-20キログラム前後とかなり重いもので、担いで走ったり持ったまま梯子に登る、屋根の上で振り回す等の取り扱いには、かなりの腕力が必要である。一番から四番までの纏の技を楽しんだ。鳶行列の後は5基の「みこし」の登場であると。行列間の時間がありしばしお堀端通りには観光客があふれる。軽四には「小田原御輿連絡協議會」の横断幕。神輿は三の丸小学校前から出発したのであろうか。一番目は、「賀茂神社」の神輿。二本の棒で担ぐ二天棒の神輿。神輿の傍には下府中連合會の小田原提灯。担ぎ手の先頭には「統制」と書かれたたすきをかけて誘導。二番目の「居神神社」。二本の棒で担ぐ二天棒の神輿でかけ声とともに。スマホで追う観光客。栄町交差点の角を勢いよく廻ってくる御輿。ズームアップ。重量感あふれる神輿である。三番目の「大稲荷神社」。提灯には「氏子 神輿連合會」。裃(かみしも)を着た方には「大稲荷神社」と。裃は江戸時代の武士の正装で、登城の時などに着ていた。 小袖の上に着る袖のない肩衣(かたぎぬ)と袴を合わせて裃と呼びますと。栄町交差点には四番目の神輿が現れる。担ぎ手のたすきには「大稲荷神社氏子神輿會」。この神輿は重量感があるので二天棒の両サイドに棒が一本づつ増える四天棒の神輿であるようだ。かけ声とともに担ぐ大稲荷神社の神輿をズームアップ。四天棒の神輿であるので担ぎ手が多い。お堀端通りを馬出門方向へ南下する大稲荷神社の神輿。四番目の神輿は「山王神社」。担ぎ手が多くこの神輿も四天棒の神輿。神輿には「山王社」、提灯には「山王神社」と。山王神社の神輿が通り抜ける。最後の神輿が栄町交差点を廻って来る。神社役員の先導で五番目の「松原神社」の神輿。神輿の前には大漁旗が二本。小田原提灯には「松原神社明神會 会長」と。五基の神輿の中で一番重い神輿であるようだ。この神輿も担ぎ手が多く四天棒の神輿。最近は担ぎ手が少なく大変であるので重量を下げているようだが。神輿には「本社」、提灯には「松原神社」と。神輿の重量は、重量は500キログラム、担ぎ棒込みで1トンを越えるものも珍しくない。 一般的には、本社神輿>町会大人神輿>女神輿または子供神輿の順に大きい。因みに日本で一番重い神輿は重さは2トン。 実際にもまれる(担がれる)神輿として、日本で最重量を誇るのが、「下館祇園まつりの平成神輿」である。 幅は約1.4メートル、高さが3.5メートル、担ぐ棒の長さは縦7メートル、横6.4メートルにもおよびますと。松原神社の神輿を追う。お堀端通りを南下する松原神社の神輿。15:10パレード終了 横断幕 ガールスカウト神奈川県西湘地区横断幕には「きらめく城下町 小田原北條五代祭り パレード最後尾」と。 パレード見終え、錦通り入口交差点からラスカ小田原ビルを見る。お堀端通りにはパレードを見終えた多くの人が帰路についていた。帰宅の人で電車が混雑するであろうと予測して、この後小田原の寺社を訪れた。一方通行の東通りを北方向へ進む。多くの飲食店があったがどこも混雑していた。守谷製パン店所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目2-2名物のあんぱんが美味しく出かける時妻に頼まれ立ち寄ったが売り切れで閉店。道路脇の電柱には「駅前東通り商店街」と。前方信号は、東通り入口交差点。ここを左折すると線路を潜り小田原駅西口へと進む。15:30東通り入口交差点から、駅前東通り商店街を振り返る。直進すると小田原駅の東口へ。 ー 続く ー
2023.07.04
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引き続き、小田原なりわい交流館周辺で北條軍団のパレードを追う。5月3日(水) 14:15五代北條氏直公隊ののぼり旗が旧東海道(かまぼこ通り)へ出てくる。五代北條氏直隊。北條氏直公 柳沢慎吾 (俳優・小田原ふるさと大使)北條氏直隊 小田原・足柄地域労働者福祉協議会韮山城主 北條氏規隊 小田原・足柄地域労働者福祉協議会 小田原高校放送部 伊豆の国市手作り甲冑隊小荷駄隊 小田原市職員互助会風魔忍者隊 相州乱破衆「風魔」馬上に乗った北條氏直役の柳沢慎吾さんが登場。沿道に手を振る北條氏直役の柳沢慎吾さん。北條氏直は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北條氏の第五代当主である。父は北條氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北條氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北條氏の関東支配は終焉を迎えた。俳優で小田原ふるさと大使の柳沢慎吾さん。沿道からの「慎吾!」の声で振り向き「今夜はいい夢見ろよ」の決めゼリフを叫んでいた。馬上から指をさして叫んでいた。柳沢慎吾さんは日焼け止めのクリームを塗って騎乗していた。14:17五代北條氏直公隊が通過。人気者だけに皆さん沿道からスマホで撮影。氏直公が通過後、後続部隊が続いていたが次の撮影ポイントへ移動することに。近くに鎮座している「松原神社」所在地:神奈川県小田原市本町2丁目10-16当神社へは旧東海道を歩いた時(2019年12月4日)、すでに立寄ったことがある。その時のブログは「小田原宿」👈 をクリック願います。社号標石には「松原神社」。松原神社の一の鳥居。創建の時期は不明。かつては鶴の森明神、松原大明神等と呼ばれていた。後北條氏が社領を寄進するなどして崇敬した。稲葉氏、大久保氏からも崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた。1869年(明治2年)に松原神社と改称し、1873年(明治6年)1月に県社に列せられた。手水舎、階段を上り二の鳥居、社殿。パレードを追うのでこの日はここで引返し、後日再度参拝することに。松原神社の海側にパレードコースの旧東海道(かまぼこ通り)。小田原城 大手門跡所在地:神奈川県小田原市本町1丁目5-25江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口だったが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移されている。また、大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり (現在の鐘は昭和28年製)、現在でも午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせている。大手門跡前から小田原城址を望む。鐘楼の下に置かれていた子供用の神輿。子供用の神輿をズームアップ。奥には一回り大きい大人用も置かれていた。北條五代祭りの開催で担いだのであろう。神輿の担ぎ棒棒の名前は神輿の台座を通っている二本の棒を、親棒・台棒・心棒とか言います。これだけしかないお神輿を二天棒(の神輿)と言います。その二天棒の両サイドに棒が一本づつ増えると四天棒(の神輿)と言い、その両サイドの棒のことを添え棒とか脇棒とか呼びます。更にこの四本を横に繋ぐ棒を横棒とかトンボと呼びます(ネット情報)。よってこの神輿は「四天棒の神輿」であろう。14:25大手門跡からパレードコースのお堀端通りへ戻る。沿道には多くの人が座り込みパレードを待っていた。お堀端通りを小田原駅方向へ移動。沿道の両側に多くの人が座る中を「武者隊 先駆け軍団」が行進していた。横断幕には「北條手作り甲冑隊」。なりわい交流館前からここまで約35分行進している。小田原駅方向へ進み「そば処 小田原橋本」前を通過する甲冑隊。後半はここで撮影することに。北條早雲公役の俳優 合田雅史さん。パレード開始から1時間近い乗馬ご苦労様です。馬の手綱を持つのは女性。そば処 小田原橋本前を通過する早雲公。ズームアップ。後方には早雲公の兜を掲げる武者。この荷物は、馬糞処理用?火縄銃を持った「二代北條氏綱公隊」。二代北條氏綱公。北條氏綱公の馬の後にもカートが続く。鎌倉市 玉縄城址まちづくり会議。玉縄城主 北條氏時隊。そば処 小田原橋本北條氏康隊 小田原市役所職員互助会。女性が演じる三代 北條氏康公。1時間近く馬上で揺られるが笑顔で沿道に応える。のぼり旗には「北條左京大夫氏康 小田原北條三代」。旭丘高校の隊列が続く。再度お堀端通りで、四代北條氏政公役の高嶋政伸さんを見る。ズームアップ。馬上から360度笑顔を振りまき、俳優も大変だ!最後の御尊顔を拝する。北條氏政公役の高嶋政伸さんを見送る。火縄銃を持つ北條氏政公隊。14:50北條氏政公隊の後方部隊。 ー 続く ー
2023.07.03
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引き続き、小田原なりわい交流館周辺でのパレードを追う。5月3日(水) 14:05いよいよ北條軍団の登場で「初代 北條早雲公隊」ののぼり旗。初代 北條早雲公隊北條早雲公 合田雅史 (俳優・小田原ふるさと大使)北條早雲隊 一般公募 LIBERTY小田原日本語学校 ときめき国際学校OB 西湘日中友好協会小荷駄隊 小田原市職員互助会のぼり旗を持つ北條早雲隊の「ときめき国際学校OB」。北條早雲公役の俳優 合田雅史さん。北條早雲 / 伊勢 宗瑞は、室町時代中後期の武将。戦国大名となった後北條氏の祖・初代である。「北條早雲」の名で知られているが、実際は存命中には「伊勢」を名乗っていた。街頭からの声に手を振る合田さん。後方には、北條早雲隊「西湘日中友好協会」ののぼり旗。馬は二人の人が手綱を引いていたが合田さんは乗馬経験があるのか。余裕をもって馬上におられたが・・・。手元にマイクがあったのであろう本人の声が聞こえてきた。北條早雲公の後を追う。北條早雲公の後に続く、早雲公重臣団。なりわい交流館の角に次の隊ののぼり旗「二代 北條氏綱公隊」が登場。二代 北條氏綱公隊は小田原市自治会が中心。北條氏綱は、戦国時代の武将、戦国大名。後北條氏第二代当主。 伊豆国・相模国を平定した伊勢宗瑞の跡を継いで領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。「二代北條氏綱公隊」ののぼり旗を持つ軍団。馬上に乗った「二代北條氏綱公」が登場。のぼり旗には「北條新九郎氏綱」と。北條氏綱公は「小田原市自治会総連合」の役員であったか。玉縄城主 北條氏時隊。のぼり旗には「鎌倉市 玉縄城址まちづくり会議」と。北條氏時公は歩いて参加。氏時公は北條二代氏綱の弟で鎌倉の玉縄城主であった。北條長綱隊長綱公は北條二代氏綱の弟で国際医療福祉大学の学生が参加。次の隊は「三代 北條氏康隊」。のぼり旗には「小田原市役所 職員互助会」と。三代 北條氏康公は「はたちのつどい運営委員」の女性。第二代当主・北條氏綱の嫡男として生まれる。母は氏綱の正室の養珠院。姓名は平氏康。関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北條氏当主として十九年間、隠居後も後継者である第四代当主北條氏政との共同統治を十二年間続け、三十年以上にわたって後北條氏を率いた。どうどうと乗馬の三代北條氏康公役の女性。この女性も乗馬経験があるのか。手綱を引く人も女性だけに気を使って。のぼり旗には「北條左京大夫氏康 小田原北條三代」。相洋高校の川越城主 北條綱成隊。のぼり旗には「川越火縄銃 ○○隊」と。 津久井城主 内藤康行隊。先頭ののぼり旗には「津久井衆甲冑隊」、後方には「津久井城主 内藤左近将監康行」と。津久井城主 内藤康行隊の後方部隊。続いて華やかな「北條五代姫隊」ののぼり旗。後方には、旭丘高校の「北條氏康正室 瑞渓院(今川氏親娘)」。西湘高校の「北條氏政正室 黄梅院(武田信玄娘)」。曲がり角には小田原短期大学の「北條氏直正室 督姫(徳川家康の娘」隊が続く。北條五代姫隊の後方。四代北條氏政隊北條氏政 高嶋政伸 (俳優・NHK大河ドラマ「真田丸」北條氏政役で出演)北條氏政隊 旭丘高校八王子城主 北條氏照隊 八王子観光コンベンション協会 八王子城跡三ツ鱗会鉢形城主 北條氏邦隊 埼玉県寄居町鉢形城三鱗会小荷駄隊 小田原市職員互助会先頭は「四代北條氏政公隊」ののぼり旗。次いで角には「小田原北條四代 北條左京大夫氏政」ののぼり旗。馬上から身を乗り出し声援にこたえる、北條氏政公役の高嶋政伸さん。北條氏政は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。は北條氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北條氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。高嶋政伸さんは、NHK大河ドラマ「真田丸」で北條氏政役を演じたことで参加している。沿道からの声援にこたえ振り向いて手を振る。目の前を通過。甲冑の重さは軽いのであろうがパレードの間、馬上で対応するのも重労働であろう。北條氏政公の後方を追う。沿道には多くの人が。馬の後方ではカートで荷物を運んでいたが。スマホで撮影、知人に送信しているのであろうか。14:12四代北條氏政隊の中には、八王子観光コンベンション協会の「八王子城主 北條氏照隊」。馬上の八王子城主 北條氏照公役は女性。北條氏照隊の八王子城跡三ッ鱗会の一行。太刀を持つ武者隊が続く。パレード者の説明がスピーカーから流れていたが。引き続き「鉢形城主 北條氏邦隊」が続く。馬上に「鉢形城主 北條氏邦公」。北條氏邦公役は、埼玉県寄居町鉢形城三鱗会が務める。小田原市職員互助会の小荷駄隊が続く。14:15小荷駄隊 (こにだたい)小荷駄とは、中世から近世にかけての日本において、戦争のために必要な兵粮や弾薬、陣地設営道具などを運ぶための人夫・駄馬、及びそれを率いる部隊「小荷駄隊」のこと。現代の輜重隊に相当する。ロシアのウクライナ侵略では「兵站(へいたん)システム」と。 ー 続く ー
2023.07.02
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パレードが開始される時間になったので撮影ポイントに決めていた「なりわい交流館」へ。5月3日(水) 13:25国道1号の本町交差点。旧東海道は直進、国道1号は左折。交差点右側に目的地の「小田原宿なりわい交流館」がある。旧東海道には大きな山車が出ていた。交差点脇に「宮前町」の地名石碑が立っている。宮前町 (みやのまえちょう)小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、同時代末期 町内には本陣二、脇本陣二に旅籠が二十三軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心であった。和菓子屋の伊勢屋 本店所在地:神奈川県小田原市本町3丁目6-22創業昭和十年の小田原の和菓子。前回は木曜日で定休日であったのがこの日は営業。小田原駅ビルのラスカにも出店している。店先に立っていた看板。名物 豆大福 新潟県産もち米 100%。北海道小豆と赤えんどう豆、沖縄の命の塩「ぬちまーす」 使用。心を込めて毎日手包みしております。生ようかん 小田原の恵みが詰まった手作りようかん。余計な添加物を使用しない自然の味を お楽しみ下さい。 片浦レモンの生ようかん ノーワックス、防カビ剤不使用の片浦レモンの手搾り果汁と果肉、皮で作りました。 小田原産キウイの生ようかん エコ栽培で丁寧に育てられた小田原キウイがたっぷり。種の食感もお楽しみ。 小田原産梅の生ようかん 小田原特産物「小田原梅」と国産生姜使用。風味豊かな大人の味です。 いちご大福 冬のお菓子の一番人気。 2Lサイズの苺と北海道産小豆を使用したつぶしあん入り。苺の甘酸っぱさと甘 さ控えめなつぶしあんが良く合います。いなり寿司 創業から変わらぬ味 創業当初からのたれを継ぎ足し、変わらぬ味を守り続けております。揚げにしっ かりと味が浸み込み、甘さとコクのあるとても美味しいいなり寿司です。昭和十年、初代大矢平作が横須賀の伊勢屋で修業したのち、ここ小田原で創業した。戦争中の休業を乗り越え、今も創業時と同じ場所で朝餅をつき、小豆を炊いていると。どれも美味しそうなものであったが、昼時も過ぎパレードも始まるので、昼食で「いなり寿司」を食べることにし、いなり寿司、赤飯にぎり、豆大福を購入した。なりわい交流館の西側に建つ、伊勢屋。小田原宿なりわい交流館所在地:神奈川県小田原市本町3丁目6-23この建物は昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、平成13年に開館した公共施設である。1階はお休み処や観光情報のコーナー、2階はイベントスペースとなっており、無料休憩所でお茶のサービスもある。この日はパレードコースになっているので多くの観光客が訪れていた。軒先の看板「小田原宿 なりわい交流館」。なりわい交流館内にもパレードを待つ人が多く待機していた。無料のお茶のサービスもある。昼食代わりに購入した伊勢屋のいなり寿司、赤飯にぎり。豆大福もお土産に購入。座敷もある無料休憩所。ドリンクも販売していたので、神奈川限定販売の「SHONANN GOLD ENERGY」を購入。SHONANN GOLD ENERGY 200円なりわい交流館前の人通り。なりわい交流館前。パレードは交流館の東側を通りここを左へ進む角地。従って斜め右方向の位置から撮影することに。右側になりわい交流館。この辺りでは、「鉄砲演技、忍者パフォーマンス (3チーム)」が行われる。時 間:12:45 ~ 13:35残念ながらこの忍者パフォーマンス(3チーム)は見れなかった。パレードコース現在地は、真ん中下の「なりわい交流館 (矢印)」。【先導役、音楽隊・武者隊・まち衆隊コース】 約2.1km (赤線) 【吹奏楽隊コース】 約1.0km (緑線)パレード隊列編成パレード時間 13時30分 ~ 15時20分頃この場所では、マイクによる編成隊の説明がされていた。国旗 ボーイスカウト小田原地区協議会。市旗 ガールスカウト神奈川県第13団。パレードはなりわい交流館の手前を来てここでⅬ字型に曲がる。小田原観光大使 (団体) 湘南ベルマーレフットサルクラブ。湘南ベルマーレフットサルクラブの選手。有名選手もいるのか?。外国人選手であったか。のぼり旗には「北条之忍び 風魔一党」と。忍者風魔小太郎隊。少年少女武者隊のぼり旗には「小田原市内こども会」。子どもたちも甲冑をつけて参加。多くの少年少女が参加。長刀を持つ少女武者隊。少年武者隊は甲冑で身を固め。長刀を持つ少女武者隊。横断幕には「小田原 北條手作り甲冑隊 平成30年度市民功労賞受賞記念」と。のぼり旗を持つ、北條手作り甲冑隊。北條五代ののぼり旗を持つ甲冑隊。初代:北條早雲、二代:北條氏綱、三代:北條氏康、四代:北條氏政の幟。年配者、子供も甲冑で身を固め。観光客の人は路面に座り込む人も。折りたたみの椅子持参も良いのでは。男性、女性の混成隊も。多くの武者隊が目の前を通過したが後日の新聞報道では武者隊は700人であったと。甲冑は手作りであるようだ。横断幕には「「北条五代」を大河ドラマに!」と。北条五代観光推進協議会。横断幕の後方には北条五代に関係する都市のたすきをかけた参加者。小田原市、三島市、八王子市、伊豆の国市、横浜市、寄居町、伊豆市、・・・。ラジオ・テレビ宣伝隊。後方は、FM ODAWARA、 FM YOKOHAMAのプラカードを持った女性群。先頭の女性のタスキには「日本コロンビア」と、歌手であろうか。後方は「箱根芸者 ○○」と。14:05後方角に「初代 北條早雲」ののぼり旗。 ー 続く ー
2023.07.01
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老舗”ういろう”の見学を終え向かい側の「ちん里う」へ。5月3日(水) 12:40欄干橋 ちん里うういろうの向かい海側に建つ老舗で、この後箱根口交差点を渡り訪れる。小田原駅前には「ちん里う本店」があり、三宅裕司が”ふるさと探訪”で訪れた明治4年創業の老舗である。現在は5代目の女将で旦那さんはドイツ人とか。おみやげには「ほととぎす巻」をと!。箱根口交差点の箱根側にある、箱根口ガレージ 報徳広場。欄干橋 ちん里う所在地:神奈川県小田原市本町4丁目2-37明治4年(1871)創業の老舗で梅干し、佃煮、梅酒等を販売している。また、店内には梅干しの種で作ったおもしろい工芸品や、梅の木の種類ごとの種の標本なども展示してあるほか、150年前に漬けた梅干しも並んでいる。店先の看板「黄梅菴 (おうばいあん)」。前回、お土産で佃煮を購入し美味しかったので、今回も立寄り購入した。店内の説明文がわからず店主の奥様と話をし資料を頂いた。立札には「三年漬梅」此の梅干は、皮が絹肌の様に柔らかくきれいで、種子が小さく肉が豊かなおいしい小田原梅を、盛夏の炎天に三日三晩土用干しをした后、適当な湿度と低温の暗い蔵の中に三年間漬け込んだものでございます。 小田原 ちん里う梅干製造図梅長寿之心得 人生は六十才から一、七十歳でお迎えの来た時は只今梅を喰っていると云へ一、八十歳でお迎えの来た時は梅干の種をしゃぶっている所だと云へ一、九十歳でお迎えの来た時は種の中の天神さんを喰う所だと云へ一、百歳でお迎えの来た時は頃合を見て自分から種の中に入る所だと云え梅干の唄二月・三月花ざかり ウグイス鳴いた春の日の 楽しい時も夢のうち五月・六月実が成れば 枝からふるい落とされ 近所の町へ持ち出され 何升何合量り売り もとより酸っぱいこの私 塩に漬かってからくなり シソに染まって赤くなり七月・八月暑いころ 三日三晩の土用干し 思えば辛いことばかり それでも世のため人の為 しわは寄っても若い気で 小さい君等の仲間入り 運動会にもついてゆく ましていくさのその時に なくてはならない このわたし九月・十月秋の日々 山はもみじやかえでが色づいて 里の庭々秋の声 ふたたび仲間は おにぎりやシソに 巻かれて旅に出る わたしはさびしく樽の中十一・十二のこの月に 山には雪がちらちらと 里には木枯らし吹き荒れて 庭でペッタンペッタン餅をつき 樽の中ではブルブルと 私はふるえて年を越し正月元旦年明けて 書き初め 羽根つき コマまわし 家では家族が笑顔で雑煮たべ 梅の蕾がふくらんで 花の香りを待ちながら 私は樽の中より おめでとう 飾り棚には、明治元年頃からの梅干が瓶の中に。店内の一画に「梅万資料館」。明治4年(1871)創業の梅干店の一角にあり、明治初期から現在までの梅干を漬けたままの状態で展示している。また、梅干の漬け方も教えてくれ、6~7月には梅1kg (2000円~) を使い、梅干造り、梅ジュース造りの体験が可能 (4~5名、要予約) であると。12:50ちん里うで今回もお土産の佃煮を購入。パレード開始時間も近くなり撮影ポイントを探しに国道1号(旧東海道)を東へ進む。小西薬局所在地:神奈川県小田原市本町4丁目2-48旧東海道(国道1号)を歩いていると、趣のある建物がいくつか点在している。その中でも、「済生堂薬局小西本店」は創業が寛永十年(1633)の歴史ある薬局である。今も薬局として営業中。さらに昭和時代には文化遺産に登録され、現在は「街かど博物館」という名のミニ博物館となっている。軒先の屋根付き看板は江戸時代のものであると。また、関東大震災では倒壊したが火災にならなかったので建材を再利用して復元したと。店内に入ると壁面に懐かしい会社の看板等があり歴史を感じた。左側に受付窓口、右側がミニ博物館になっている。高齢の店主さんから「ご自由にどうぞ。写真も大丈夫ですから」と声をかけられ撮影。有名人のサイン色紙も多く飾られていた。店先ではポーターバック、お庚申さんの五猿等が販売されていた。右側がミニ博物館になっている。創業 1633年暖簾には「創業寛永十年 薬 小西薬局本店」と。百味箪笥 (ひゃくみだんす)漢方医が薬品を入れておく箪笥。小さな引き出しがたくさんついている。薬味箪笥とも言う。薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されている。懐かしい会社名も。山之内製薬、科研薬化工、中外製薬、エーザイ株式会社、大木製薬。引き出しには、いろんな薬草の名が書かれていた。高齢の店主さんから今でも使用していると説明を受ける。引き出しの中には「すぎな」が収納されていた。名 称:すぎな茶 原産国:日本内容量:500g 賞味期限:2011.06古い写真も掲示されていた。右側:関東大震災前の小西薬局で、鉄道が開通したときの写真。左側:関東大震災後の小西薬局で、建物が全壊している。店舗の奥には蔵があり現在は展示室になっており見学させていただく。ここの室内(旧蔵)にもいろんなものが展示されていた。一枚板には「薬 小さな憩いの場」と。古い陶器、手作りの人形であったか。古い家具類。秤類も置かれていた。奥には中庭もあった。江戸時代からの木の看板。江戸時代の看板で字が刻まれていたが。明治時代の看板「内務省免許薬舗小西」。説明書きがなかったが、古い屏風。写真は「小西薬局 明治20年 ~ 30年」。軒先の屋根付き看板は現在のものと同じようだ。「済生堂」と書かれた古い額縁。店先に立つ旗には「小田原 街かど博物館」と。店先に「中宿町」と刻まれた地名石碑が立っていた。地名石碑には、この町には上 (かみ) の問屋場 (人足や馬による輸送の取継ぎ所) が置かれ、高梨町の下 (しも) の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠 (はたご) が十一軒ほどあった。13:15御幸の浜交差点パレードはこのお堀端通りを海側へ向かってくる。お堀端通りへの進入は既に通行止めになっていた。12:30から15:40まで。パレードコース沿いには既に陣取り。パレードはこの先を左折しかまぼこ通りへ進む。himono stand hayase所在地:神奈川県小田原市本町3丁目12-21御幸の浜交差点角に建つドライ シーフード販売店である。小田原の創業109年早瀬のひものの飲食店舗である。その場で炭火で焼いた小田原干物が食べられる。さばバーガーやコーヒもあると。人気の店で書き込みでは皆さんgood!ここでもいつか食べてみたいものだ。片岡本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名家が定宿としていました。幕末の当主片岡永左エ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残しています。 平成29年3月 小田原市教育委員会13:20明治天皇本町行在所跡 (旧片岡本陣跡)所在地:神奈川県小田原市本町3丁目12-3明治天皇本町行在所跡は、明治天皇が宿泊した片岡本陣のあった場所で、この事蹟を記念し、本陣跡の土地の一部59.5㎡を整備した上、石碑が建てられた。開発された住宅街の中に建立されている。正碑は自然石の台石の上に高さ2mの砲弾形自然石が設置されています。碑文は平沼騏一郎の筆跡で「明治天皇聖蹟」と刻まれています。小田原市指定史跡 (昭和三二年三月三○日指定)明治天皇本町行在所跡 (旧片岡本陣跡)明治天皇本町行在所跡は、明治天皇が宿泊した片岡本陣のあった場所です。正碑は自然石の台石の上に高さ2mの砲弾形自然石が設置されています。副碑には由来が刻まれています。明治天皇がこの場所に宿泊したのは、明治11年北陸・東海御巡幸の際、11月7日のことでした。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和14年2月に整備工事を着手、昭和14年10月に碑文の除幕を行い、昭和15年10月に落成しました。なお、万延元年(1860)に片岡家に生まれた片岡永左衛門は、明治時代に小田原町の助役を務め、『明治小田原町誌』を執筆するなど、小田原の近代史研究に大きな功績のあった人物です。 小田原市教育委員会 ー 続く ー
2023.06.30
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小田原北條五代祭りパレード開始1時間半前になり、パレード出発地点へ。5月3日(水) 12:05御茶壺曲輪 (おちゃつぼくるわ)御茶壺曲輪から住吉堀越しに銅門渡櫓門、住吉橋を見る。御茶壺曲輪 番所跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており、御茶壺曲輪には、道中で茶壺を保管するための御茶壺蔵がありました。この場所には、御茶壺蔵などを警護する番人の詰所(番所)があったとされます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×二間(約10.9m×3.6m)ほどだったようです。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡この日は真夏日でパレード見学者は木陰の下に座り込み待機。二の丸観光案内所前には本部救護所(白いテント)が設置されていた。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており御茶壺曲輪のこの場所には、道中で茶壺を保管する御茶壺蔵がありました。小田原は、江戸から宇治に向かう往路に位置しており、小田原城に立ち寄る際に、空の茶壺がこの蔵に収められたと考えられます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×四間(約10.9m×7.2m)ほどで、入母屋の屋根をのせていたようです。パレードコースは銅門前を出発、この住吉橋を渡る。住吉堀越しに左に銅門渡櫓門、右側に住吉橋。住吉橋前には既に多くの人が待機していた。御茶壺曲輪から馬屋曲輪へ廻る。馬屋曲輪にはテントを張ってパレードを待つ人も。12:10内冠木門 (うちかぶきもん)ここから馬出門へと行きたかったが、既に交通規制 (12時から15時10分頃まで) で行けず。パレードはこの門を潜り馬出門へと行く。この辺りでは、「オープニング演奏、出陣パフォーマンス」。時 間:13:20 ~ 13:25内 容:オープニング演奏出 演:陸上自衛隊第一音楽隊時 間:13:25 ~ 13:30内 容:出陣パフォーマン出 演:城主役ゲスト、小田原北條鉄砲衆保存会スペシャルパフォーマンスがあるので多くの人が座って待機していた。のぼり旗が並ぶパレードコース。撮影隊も準備中。アームの先端にはカメラ、集音マイク。テレビでも放映されるのであろうか。銅門広場に待機する馬を見る。パレードが出る銅門、住吉橋。撮影準備中のカメラマンも。のぼり旗が雰囲気を盛り上げる。住吉橋の手前には、「出陣パフォーマンスステージ」。時 間:13:15 ~ 13:20内 容:出陣パフォーマン出 演:城主役ゲスト、小田原北條鉄砲衆保存会住吉橋の正面には報道席も準備されていた。他にも授乳施設、本部救護所も設置されていた。12:23馬屋曲輪から戻り小峯橋 (御茶壺橋) を渡りバス専用駐車場、三の丸売店。左側の女性用トイレは長い列をなしていた。藤棚交差点の海側に立っていた、小田原城三の丸 箱根口周辺の遺構国道1号線(東海道)からお茶壷橋にかけての一帯は、江戸時代には小田原城三の丸の出入口の一つである「箱根口」とそれに関連する遺構があった場所です。この付近一帯ではたびたび発掘調査が行われ、戦国時代の堀・建物・水路跡や江戸時代の堀跡など、時代の異なった各種の遺構が発見されました。以降は発掘調査の結果報告で後略。上 段:発掘調査等で明らかにされた箱根口周辺の遺構左中段:正保図(江戸時代前期の箱根口付近)左下段:文久図(江戸時代末期の箱根口付近)右 下:● 現在地三の丸土塁所在地:神奈川県小田原市南町1丁目1-5小田原城の三の丸土塁は幸田口門跡にもあり、ここは箱根口の三の丸土塁である。三の丸土塁で聳えていたであろう切株をズームアップ。三の丸土塁から藤棚交差点を振り返る。右側には市立三の丸小学校の土塀。民家の玄関先で咲いていたバラ。国道1号(旧東海道)の箱根口交差点角に食堂「〇じまや」の暖簾。かます棒ランチ 1000円、あじフライ定食 1200円、かます棒バーガー 700円。他にはデザートも。箱根口ガレージ 報徳広場所在地:神奈川県小田原市南町2丁目1-60国道1号 (旧東海道) 箱根口交差点の南側にある広場である。カフェ・パティスリー・フラワーショップが併設され、敷地内の庭には昔懐かしい素朴な風景が広がります。地元の方の憩いの場として人気のスポットであると。この広場は報徳二宮神社のご祭神で、小田原が生んだ偉人二宮尊徳翁の「報徳思想」の精神と「報徳仕法」の手法を元に、報徳仕法㈱が運営を行い、観光活性化と3世代が集う地域コミュニティの形成を目指すSDGs推進事業として注目されている。また、チンチン電車内ではイベントも開催できる。二宮尊徳少年像と里帰りしたチンチン電車。石碑には「Hakoneーguchi Garage 報徳広場」と。このチンチン電車は昭和10年から昭和31年5月31日まで小田原駅ー板橋駅の国道1号を走った。その後、長崎県の長崎電気軌道に譲渡され、1970年代まで現役車両として活躍した電車が、令和2年小田原ゆかりの路面電車保存会の情熱と600名以上の多くの支援者からのご寄付によってここに設置された。二宮尊徳少年像をズームアップ。報徳二宮神社の境内にある「きんじろうカフェ」の姉妹店。ランチタイムには地場食材などを使ったグリル料理とパティスリーのスイーツがお楽しみいただけます。OPEN 11:00~17:00【ランチタイムMENU】11:00~15:00 *14時迄、ケーキ・お飲物のみでのご利用はできません 【カフェタイムMENU】10:00~11:00・14:00~17:00どれも美味しそうであったが。ういろう所在地:神奈川県小田原市本町1丁目13-17国道1号(旧東海道)沿いに建つ外観はまるで城のような建物で、和菓子と薬局が同居するお店屋さんである。店内にはカフェもある。現在は25代当主で名前は「外郎藤右衛門」さん。三宅裕司が”ふるさと探訪”で訪れている。ういろうの左側の駐車場では、「北条早雲 出陣の図」 ・北条早雲4mの巨大切り絵の展示 ・甲冑着付け体験展示時間:10:00 ~ 16:00 高さ4mの北条早雲の巨大切り絵。北条早雲 出陣の図 百鬼丸先生 作平成二十五年四月 北条五代展で小田原城天守閣に展示された四メートルの北条早雲出陣の図。その製作の折り、和紙を切るために抑えとして一緒に切り抜かれた洋紙の作品。こちらは「甲冑着付け体験」ができる。ういろうの入口に、定 休 日 毎週・水曜、第3・木曜年間休業日 12月31日・1月1日営業時間 10:00 ~ 17:00店内に入るとカフェのメニュー。上生菓子と御抹茶、上生菓子とお茶、上生菓子とコーヒー、ぜんざい、其々770円コーヒー、オレンジジュース、其々440円。奥に薬局店。青色は「第3類医薬品」第3類医薬品とは、第1類・第2類医薬品以外の一般用医薬品。ドリンク剤の「リポビタンDロイヤル」や整腸剤、消化剤などが製品例に挙げられる。第3類医薬品は、薬剤師もしくは登録販売者から購入できる。一般従事者からの購入も、薬剤師や登録販売者の管理・指導の下であれば可能。ネット販売・通信販売が許可されている一般用医薬品であり、販売時の情報提供に関する法的制限(義務)は存在しない。黄色は「第2類医薬品」、右の青色は「第3類医薬品」。第2類医薬品とは、一般用医薬品(OTC医薬品)のうちの一つで、日常生活に支障が出るほどの副作用の恐れがある医薬品。ただし、第1類医薬品に分類されている製品は除く。現在市販されている一般用医薬品のうち、大半が第2類医薬品である。〔製品例〕便秘薬の「コーラック」、胃腸薬の「正露丸」など。以上、ネットより引用。外郎博物館明治18年築の蔵を利用した小さな博物館。初祖・陳延祐より600余年、5代目・定治が当地に移住してから500年、25代にわたり伝統を守り続ける外郎家。 独特の店構えの理由、「ういろう」の名の由来、お菓子と薬の起源、歌舞伎十八番「外郎売」との関係などを、小田原で最も古い商家ゆかりの品々とともに紹介している。入館無料。店内の最奥部にあったようだ。写真はネットより。お土産の「ういろう」売り場。約600年前の室町時代に誕生した“ういろう”の発祥の店といわれる「ういろう」。25代にわたり伝統を守る老舗だ。元来“ういろう”とは外郎(ういろう)家が作る薬を指し、その後接客用に考案された米粉の蒸し菓子を“お菓子のういろう”と呼ぶようになったという。現在も「ういろう」では菓子とともに薬の“ういろう”も製造・販売している。「ういろう」が作る菓子の“ういろう”は、モチモチの食感とさっぱりした上品な甘さが特徴。全5種類の棹もの「ういろう」が販売されている。日本人に愛され続ける銘菓を、いにしえに思いを馳せながら味わいたいと。店内の天上の格子造り。12:40カフェ入口。時間がないので今回はスルーして向かい側の「ちん里う」へ向かうことに。 ー 続く ー
2023.06.29
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小田原北條五代祭りのパレード前に小田原城内の散策を続ける。5月3日(水) 11:35菖蒲園の海側に廻り、常盤木坂から常盤木橋を見る。常盤木坂をズームアップ。この時間帯は本丸広場で「鉄砲演技」が行われており、20分間隔で火縄銃の発砲音!本丸南側の石垣、「滑り落ちた本丸の石垣」本丸下の石垣。石垣を下から見上げる。国指定史跡小田原城跡 滑り落ちた本丸の石垣ここは二の丸とともに本丸の周りに配置された曲輪のひとつ「南曲輪(鷹部屋曲輪)」です。南曲輪南側の堀(蓮の花が咲く堀)に面する両側の角には二重の櫓がそびえ、小田原城南側の防備を固めていました【図1】。現在は埋まっていますが、この看板付近には本丸斜面の裾をめぐる掘幅9間(約16.3m)、深さ2間半(約4.5m)の「本丸堀」がありました。南曲輪と本丸とはおよそ14mの高低差があり、堀から立ち上がった法面(斜面)の上部には石垣が築かれていました【図1~3】。この辺りの石垣は、寛永10年(1633)に築かれた本丸の石垣が、元禄16年(1703)の元禄地震などによる被災と修復を経て、関東大震災で滑り落ちたものです。大正12年(1923)、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の激震が発生しました。小田原での被害は甚大で、明治34年(1901)から城内に所在した御用邸の建物も倒壊し、小田原城の多くの石垣も崩壊しました。この辺りの石垣も崩壊しましたが、偶然にも積み上げられていたままの姿で滑り落ちたため、江戸時代の小田原城の石垣の姿を良く残しています。石垣のコーナー部分の積み方や排水口もそのままの姿で確認でき、小田原城本来の石垣の積み方や関東大震災の被害の大きさを伝える貴重な遺構です。図1 「文久図」南曲輪部分 (小田原城天守閣所蔵)東海道に面する小田原城の南面は、東側の大手口と並ぶ小田原城の正面のひとつです。三の丸には箱根口門を配し、二の丸諸曲輪の一画となる南曲輪には二棟の櫓がそびえていました。図2 「宮内庁図」本丸部分 (宮内庁書陵部所蔵)天守台を含む本丸の規模は、東西83間 (約150m)、南北63間 (約114m)で、元禄16年 (1703)までは徳川将軍家のための御殿がありました。周囲には石垣が巡らされ、その上には瓦を乗せた白亜の土塀があり、常盤木門と鉄門の2つの門が設けられていました。図3 本丸の鉢巻石垣上図【1】【2】の □ 部分の石垣のイメージをイラストで表現したものです。本丸の石垣は、法面(土居)の上の部分のみに石垣を積み上げた「鉢巻石垣」という構造でした。この辺りの石垣とイラストを比べると、石垣の崩れ具合が確認できます。この木は、「ビラン樹」であったか。市内早川の「寶珠山 海蔵寺」にあり、成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、異名を「バクチの木」又は「ハダカの木」と呼ばれている。四国、九州、琉球列島に分布していて、この地が生育の最北限とされている。成長し樹皮がはがれて紅黄色なったビラン樹。また早川には、国指定天然記念物「早川のビランジュ」がある。南曲輪跡に建つ「星﨑記念館」入り口横の掲示板には、「星﨑記念館は令和2年3月31日に閉館しました。 60年間のご利用ありがとうございました。 図書館の機能と伝統は中央図書館と、小田原駅東口図書館に引き継ぎます。」と。 壁面に貼られたプレート「星﨑記念館」。写真は「星﨑定五郎氏胸像」。星崎定五郎(ほしざきさだごろう、1879年 - 1966年)は、矢作出身の実業家。日系アメリカ人1世。1899年に草柳竹次郎らと共に渡米し、カリフォルニア州各地で農作業に従事。1905年にロサンゼルスで食料品・雑貨品を扱う東海商会の店舗を開業、以後、業績を拡大した。1921年に日本からの輸入品を扱う共同貿易㈱を設立して社長に就任。1930年頃、ロサンゼルスの中心街に多くの土地・建物を所有した。1940年に北京飯店を買収。戦時中のマンザナール収容所での抑留生活を経て、戦後も事業活動を継続。1955年にアメリカに帰化し経営を引退。翌1956年に日本に移住し、熱海で隠棲した。1923年の関東大震災で被害を受けた矢作の浅間神社や春光院の修築や再建のために寄附をし、1958年に小田原市に5万米ドルを寄附、星﨑記念館が建設されたことで知られる。銅門 (あかがねもん) を望む。小田原市郷土文化館所在地:神奈川県小田原市城内7-8小田原城内にある、郷土の自然・歴史・文化に関する博物館相当施設である。展示案内【常設展示】 小田原をとりまく豊かな自然と、そこに暮らす人々の文化や歴史を紹介しています。入館案内開館時間:午前9時 ~ 午後5時 (入館は4時30分まで)入 館 料 :無 料休 館 日 :年末年始(12月28日 ~ 1月3日)小田原橋親柱親柱には「おだわらばし」の銘板。小田原橋(おだわらばし)親柱小田原橋は、昭和四年(1929)現在の東京都中央区築地に架設されたコンクリ―ト製のアーチ橋です。名称は、江戸時代から昭和四一年まで、この一帯に「南小田原町」(その後「小田原町」)と呼ばれる町があったことから名づけられました。「小田原町」の成立は、小田原城下板橋の石工棟梁善左衛門が、ほど近い江戸湾の海浜に江戸築城用の石材の荷揚場を設けた慶長年間(1596ー1615)頃までさかのぼります。善左衛門は、諸国の職人を指揮して小田原や伊豆方面から切出した石材を船で廻送し、ここで荷揚げ加工しました。昭和四一年、当地は築地に編入されて町名が消滅、その名残をとどめる「小田原橋」も平成二五に撤去されたことから、小田原市では、かつて江戸の築城や街づくりに市域の先人が深くかかわっていたことを偲ぶよすがとして、橋の親柱一本を譲り受け、ここに移設したものです。 小田原市教育委員会早川石丁場群の切石についてここに並んでいる二つの切石は、小田原市早川字箕ケ窪の広域農道建設用地より発見され、事業者のご協力により現地より移設したものです。箱根外輪山の早川に面した山腹一帯には、江戸時代初期の寛永年間頃(1630年代)の江戸城修築に使用された石垣用の「石丁場」(石切場の当時の言い方)が広く分布していることが知られており、「早川石丁場群」と呼ばれています。広域農道建設に伴い、平成十七年度に実施された発掘調査の結果、江戸時代当時の石切り作業を生々しく示す多数の切石が確認され、一部は現状保存されましたが、そのほかの切石の中で、歴史的価値の高い刻印が見られるものを移設保存したものです。切石の角には割り取る時に刻まれた「矢穴」が見られ、正面に〇に「寸」の刻印があります。左側の切石にはなぜか逆さまの向きに2箇所刻まれています。このような刻印は、石切りを幕府から請け負った大名もしくは石工の集団を示すものなどという説がありますが、詳しいことはわかっていません。 小田原市教育委員会残念ながら二つの切石の撮影を忘れました。小田原市郷土文化館入口左に建っている碑。皇后陛下御歌台座の裏に刻まれていたが判読できなかった。館内に入りポスターには、「小田原 邸園 散歩」 小田原城周辺の三邸園 邸宅+庭園=邸園手前は「閑院宮(かんいんのみや)別邸で使用されていた長椅子」、後方に「人力車」。 長椅子は:擬石製、大正時代、郷土文化会館人力車人を乗せ、車夫が引いて走る二輪車。明治2年 (1869) に和泉要助(いずみようすけ)らが発明し、駕籠や馬に代わる乗り物として爆発的に普及した。小田原でも1871年頃から人力車の営業を始めたようである。当初は木製の車輪だったが、ゴム輪に代わり、1912年から空気入りのゴムタイヤが用いられた。人々に親しまれ、代表的な公共輸送機関として乗り物の首位を占めていたが、乗用自動車 (タクシー) の普及により、次第に姿を消していった。写真は、茅葺き屋根の民家前を走る人力車。館内の陳列。小田原城周辺写真 (昭和25年ごろ)。こども文化博覧会昭和25年(1950)の小田原市制10周年記念事業「こども文化博覧会」は、時の市長・鈴木十郎が中心となり企画されました。鈴木市長は、生活物資がなく「子どものことなど全く顧みられない時代に子どもたちに夢を与えてやりたかった」と回想しています。博覧会の内容は、文化館、産業間、観光館、アメリカ児童館、ゆうびん・でんしん・でんわ館などの展示、人形劇、のど自慢などの出し物、豆電車・飛行塔・メリーゴーランドなどのアトラクション、動物園などが設置されたそうです。県下最大級の縄文土器 ー 天神山の土器棺墓 ー県下最大級の縄文土器県下最大級の縄文土器7基の埋設土器群のうち、J7号埋設土器から出土した縄文土器の深鉢は、口径45.6cm・底径15.8cm・高さ78.6cmであり、そのサイズは県下最大級です。この土器は、上下逆さまに穴の中に置かれた状態で見つかりました。土器の口の部分から胴体の中央ほどまでは残っていましたが、それより下の部分は壊れており、土器の中から破片となって見つかりました。これらの破片を集めて復元したところ、ほぼ完全な形となったため、埋めた際に土器の下半分をわざと壊して土器の中に置いたと考えられます。これは縄文人の風習だと思われますが、彼らはどのような意味で土器を残し、埋めたのでしょうか?こちらにも大きな土器がケースの中に陳列されていた。常盤木坂への遊歩道脇に立っていた案内板。小田原市郷土文化館を出て海側へ進み、右側に南曲輪南掘、御感の藤棚がある。南曲輪南掘のハス。前回3月30日に訪れた時はハスは芽吹き始めていたが・・・。御感の藤棚はゴールデンウイークの時期はいつもなら見頃であろうが。御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会残念ながら藤の花は既に咲き終わっていた。いつもなら長い花房が見れたのであろう。南曲輪南掘の右側に小田原市郷土文化館。小峯橋 (御茶壺橋) から駐車場を見る。小峯橋 (御茶壺橋) を渡ると「御茶壺曲輪」。御茶壺曲輪 (おちゃつぼくるわ)御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。12:05土塁があり「御茶壺曲輪」へ。銅門渡櫓門廻りにのぼり旗が並ぶ。 ー 続く ー
2023.06.28
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三の丸土塁からお堀端通りへ戻る。5月3日(水) 10:55そば処 小田原橋本所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目13-37お堀端通りに建つそば屋で、北海道産のそば粉を100%使う和の風情ある一軒家のそば処である。店先には風情ある呼び込みの旗「そば処 橋本」が。また多くの人が並んでいた。二階の窓には小田原提灯。おすすめメニュー北条五代そば:1,600円、大人気商品/ミニ桜海老天丼セット:1,680円、お勧め人気商品/桜天ざる:1,650円、せりのざる:1,050円、いずれも税抜き価格。いつか食べてみたいが!お堀端通りの照明灯。防犯カメラも設置されているようだ。アンチックな「お堀端通り」の案内板。お堀端通り沿いでは露天商が営業していた。子供達も着物を着て祭りへ。国指定史跡小田原城跡 二の丸東堀小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています。二の丸の堀は、二の丸馬屋曲輪の二重櫓を南東角として、東西に伸びている二の丸の南側の堀と、南北に伸びている二の丸の東側の堀で構成され、藩主の居館や行政機関がおかれた二の丸と、武家屋敷などが広がる三の丸とを画しています。二の丸の東側の堀は、本丸や二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、二の丸東堀を中心に、馬屋曲輪東堀や弁財天東堀から成り、堀幅は最大で約40mの規模がありました。堀は後世に埋め立てられたため、この看板が立つ場所もかつての堀の中に位置しており、看板に向かって左側の水堀が右側に約60m(交差点付近まで)伸びていました。二の丸側に見える石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右下の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果、二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。二の丸東堀に架かる学橋 (まなびばし) には多くの人が渡っていた。昭和4(1929)年に城内小学校が二の丸に移転した際に竣工しました。現在の学橋は昭和24(1949)年に再建されたものであると。学橋の上から左奥に馬出門土橋、馬出門、二の丸隅櫓と。この隅櫓は関東大震災で崩落し、昭和9(1934)年に再建されたもので、当時の予算から1/2の大きさで再建されたそうです。又、地震で崩落する前は石垣も今より3.6mぐらい高かったと。今年3月30日に訪れた時はサクラが満開であった。馬出門土橋、馬出門をズームアップ。今日の小田原北條五代祭りパレードはここを出入りする。学橋から二の丸の石垣。パレード開始までまだ時間があるので、事前にGoogleマップで調べていた二の丸広場にある「明治天皇行幸所碑」「小田原御用邸跡」を訪れるため学橋を渡る。明治天皇行幸所碑所在地:神奈川県小田原市城内3学橋を渡ると直ぐ右側に建っている石碑。明治天皇行幸所は、小田原市内の旧東海道沿いに旧清水金左衛門本陣、旧片岡本陣があった場所にも石碑が建てられている。石碑には「明治天皇行幸所」と刻まれている。もう一つの石碑には、「明治天皇駐蹕趾」明治六年 天皇箱根宮之下温泉ヨリ還幸ノ御途次八月二十八日足柄縣廳ニ臨御遊バサル 實ニ我ガ校舎ノ地ナリ今ヤ 聖蹟ヲ知ル者漸ク稀ナリ 仍テ其ノ盛事ヲ謹シテ記ス 昭和九年五月二十八日当時小田原城内の二の丸跡には学校があり明治天皇が立ち寄られたようだ。二の丸広場広場では5月3日から5日まで「オダワラオープンマルシェ」が開催されており多くの人が訪れて賑わっていた。小さなステージに立つシンガーソングライターも。手を振り、スマホで撮影する人も。ズームアップ。出演料は?、ボランティア活動であろうか。広場の隅ではキャンピングカーショーも開催されていた。後10歳若かったらと今回も思ったが。二の丸隅櫓この日は5月にしては気温が高く、二の丸隅櫓廻りのサクラの下では休憩している人が多かった。二の丸隅櫓江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。延宝元年(1673)もしくはその翌年に2間×6間(約3.6m×11m)の土蔵としてはじめて建設されました。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊し、奥2間、折廻し7間(約13m)の鍵の手状の平櫓として再建されました。小田原藩主居館がある二の丸の南東の隅に位置し、三の丸の大手門を入ると正面にこの平櫓が立ちはだかることになります。また、二の丸への入り口である馬出門を見下ろす一でもあります。当時の櫓内部では武具等が保管され、小田原城防御の要とも言える櫓でした。明治3年(1870)、天守をはじめとする城内の建物の多くが解体される中で、この平櫓だけが小田原城内唯一の建物として残されましたが、関東大震災により失われてしまいました。現在の櫓は、江戸時代のものとは異なり、大きさは一回り小さいものとなっています。写真は、明治42年(1909) ~ 大正12年(1923)頃の姿。明治42年(1909) ~ 大正12年(1923)頃の姿。写真には相州小田原御用邸と。二の丸広場で今日の目的地、「小田原御用邸跡」を探すが人が多く見つからなかった。係の方に聞くが「知らない」と、石碑があったのか?国指定史跡小田原城跡 二の丸御屋形跡江戸時代の小田原城には、将軍専用の宿泊施設「本丸御殿」と、藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもった「二の丸御屋形」の二つの御殿がありました。「二の丸御屋形」は、三代将軍徳川家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間(1624~44)の頃が最も壮麗で、将軍を出迎える目的で屋形の外に唐門が造られ、内部には能舞台も備えていました。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により、小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御屋形」も倒壊し炎上してしまいました。その後再建されましたが、将軍家の上洛が途絶え、小田原へ入城する機会も無くなったことから、以前より規模は縮小され、間取りも簡素な姿に変わりました。幕末に国の政治情勢が緊迫し、将軍家や幕府重役が頻繁に上洛する時代に入ると、再建後の「二の丸御屋形」は増改築され、第14代将軍徳川家茂の宿泊施設として使用されるなど、元禄地震の倒壊以後再建されなかった「本丸御殿」の役割も兼ねることになります。この様に「二の丸御屋形」は、幕末まで将軍家上洛の有無に連動して姿形を変えており、このことは、小田原城の特色といえます。その後は、明治34年(1901)に皇族の御用邸、昭和4年(1929)に小田原第二尋常高等小学校の用地となり、現在は小田原城歴史見聞館として小学校の講堂のみを残し、他は広場として利用しています。平成9、10年(1997、1998)には、この「二の丸御屋形」で試掘調査が行われ、元禄地震の火災で真っ赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根瓦などが出土しました。また、後期の御殿は、前期の焼け跡を一旦埋め立てて新たに建てられたことも分かりました。二の丸隅櫓から小田原城歴史見聞館、常盤木門へのサクラ並木。サクラ並木沿いに「さくら名所100選の地」銘板には「小田原城址公園・城山公園 平成2年3月3日 財団法人 日本さくらの会」と。同場所から二の丸隅櫓を振り返る。銅門広場には出番を待つ馬が8頭?繋がれていた。11:25後方には、「銅門 (あかがねもん)」。パレードの「武者隊 先駆け軍団」が13:30頃、ここ銅門広場を出発する。二の丸広場に戻り「小田原御用邸跡」が見つからないので次の場所へ。本丸東堀 花菖蒲園。左上は本丸広場。小田原城案内図小田原城あじさい花菖蒲まつり2023年6月3日(土) ~ 6月18日(日)【会 場】 小田原城本丸東堀・花菖蒲園 入場無料と!花菖蒲が一部咲いていた。花の名があるのだがまだ名札が付いていなかった。小田原城あじさい花菖蒲まつりに来たがったが、残念ながら・・・・・。3つの違いをまとめると、花びらの付け根を見たときに、 ・あやめ:模様が網目状である ・菖 蒲:黄色い模様が入っている ・杜 若:白い筋が通っている と。黄色の模様があったので「菖蒲」。常盤木門への常盤木橋。常盤木橋下からの本丸東堀・花菖蒲園。左側の斜面にはアジサイが咲き乱れ、右側に二の丸広場がある。11:35常盤木橋下から海側の菖蒲園。 ー 続く ー
2023.06.27
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パレード前に前回小田原城のサクラ見物で見落とした史跡を散策した。5月3日(水) 10:30まず小田原駅東側の商店街の中にある「北条氏政・氏照の墓所」へ。北条氏政・氏照の墓所所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目7-8小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照(八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られました。後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまいましたが、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。しかし、それも関東大震災で埋没し不明となったため、翌年地元の有志によって復興されました。 墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石があります。北条氏政・氏照の墓所 小田原市指定史跡北条氏政は、北条氏四代の領主。氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。天正十八年(1590年) 豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は、高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。 (現在、永久寺所有)その後放置されていた墓所は、稲葉氏が城主のとき(1633〜1685)、北条氏追福のため整備されました。大正十二年(1923)の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。 小田原市教育委員会商店街から墓地への階段を上ると柵に多くの鈴が吊るされていた。幸せの鈴箱の中の「鈴」に民を思う領主の優しい心がきっと宿っています。ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。願い事をかけて「鈴」を持ち帰り、かけた願いがかなったら、「幸せの鈴」を結びに来て下さい。「幸せの鈴」がいっぱいになれば、ここに眠る領主への、なによりの供養となることでしょう。階段を上った正面の石碑には、「大正十二年九月一日○○○ノ大震ニ襲ハレ○○○○○○史蹟モ亦埋没セ○○○○○ ・・・・・ 大正十五年・・・・」と。階段を上ると約3メートル四方の敷地に、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。五輪塔は右から氏政夫人の墓、氏政の墓、氏照の墓。二つの五輪塔前に二人が自刃した生害石。説明板には配置図が記されていた、正面に向かって。● 五輪塔 右 (大) 伝 氏政夫人の墓 中央 (中) 伝 氏政の墓 左 (小) 伝 氏照の墓● 生害石 五輪塔前の平たい石 この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられています。● 笠塔婆型墓碑 左手の墓碑 この墓碑には、次のように法号(戒名)が刻まれています。なお、正面の北条氏の三つ鱗の紋章は、正体紋ですが、平体紋が使われているところもあり、いずれが正しいかは明らかではありません。 小田原市教育委員会稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には、氏政・氏照の法号(戒名)が刻まれています。「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」「青霄院殿透岳關公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」墓所から見下ろし、下を「おしゃれ横丁」が横切り、正面の通路は小田原駅東口への通路。北条氏政・氏照の墓所を見納め後にする。商店街の中にあり木柱には「小田原市指定史跡 北条氏政・氏照の墓所」とある。墓地には若者たちに人気の「幸せの鈴」が納められており、鈴は商店街の数店舗においてある。北条氏政・氏照の墓所は「おしゃれ横丁 商店会」にある。おしゃれ横丁の路面には「北条氏政・氏照の墓所」と。こちらのマンホール蓋には「姫の姿」が。おしゃれ横丁の頭上を飾るドリームタワー。おしゃれ横丁は『小田原の町並み・50選』に指定される、風情ある商店街です。このおしゃれ横丁が、ハンガリーの首都ブダペスト市ツエ・ダウンタウン商工会と姉妹提携しているのをご存じですか?。ドナウ川沿いに広がる美しい風景の街と、城下町の小さな商店街は昔から姉妹提携を結んでいるのです。名物になっている壁画もぜひゆっくりご覧くださいと。夜のライトアップも見てみたいものだが。そういえば若い頃、出張帰りに小田原駅で途中下車して飲んだものだが。夜は一変してネオンサインが飾るのであろう。おしゃれ横丁を通り抜ける。小田原駅前にあるレンガの小径、ここがおしゃれ横丁入口である。夜はこのネオンサインが招くのであろう。おしゃれ横丁を出ると、右側に北條ポケットパークがある。信号は錦通り入口交差点で直進するとお堀端通りで小田原城馬出門、海へ至る。錦通りからラスカ小田原を望む。北條ポケットパーク所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目8公園というまでのスペースはないですが、冬はイルミネーションが点灯しています。北條ポケットパークから錦通りの商店街を望む。錦通り入口交差点からお堀端通りへ。小田原駅東口ターミナルを海側に歩いて数分でお堀端通りに入る。お堀端通りはお堀に沿って一直線にのびている通りで、お城への順路になっています。駅からお堀端通りに入り、お堀を右手に見ながら、橋を渡り城内に入ります。小田原城を巡る代表的な観光コースになっており、週末は観光客の往来も多くさまざまなお店が立ち並んでいる。お堀端通りの左前方に三の丸土塁の木が聳える。国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁 指定 昭和13年8月8日この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時は、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。右上の絵は、江戸時代の幸田門 (想像図) 。三の丸土塁石碑には「幸田門趾紀念碑」と刻まれている。三の丸土塁に残されている切株。土塁には多くの松が植えられていた。樹齢は何年になるのか松の根が露わになっていた。かつては堀の跡があったようだが埋め立てられビルが建っている。三の丸土塁から下りる。お堀端通りから三の丸土塁を抜けると日本郵便小田原郵便局へ。松の他にもスダジイであったか。三の丸土塁を戻る。枯れた松の木であろうか。樹齢何年になるのか老松を見上げる。10:55お堀端通りに立っていた「関東大震災から百年」備えあれば憂い無し関東大震災前後の風景 小田原・箱根1923年 大正12年9月1日11時58分44秒 マグニチュード7.9 震度7関東大震災と言えば東京都内の被害が報道されてるが、ここ小田原辺りでも甚大な被害を受けたようで今年は展示会があるようだ。写真は、左上:震災後の小田原駅周辺。憲兵が自転車で動き回っている。右上:根府川 白糸川鉄橋を渡る蒸気機関車。下段:箱根ホテルは大正12年6月15日に4階建てで開業し、盛況だったが、2ヶ月半後の関東大 震災で壊滅した。大正15年に新築開業するが、昭和5年の豆相地震で全壊する。昭和6年 5月に再度新築開業している。 ー 続く ー
2023.06.26
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今年3月30日(木)に小田原城のサクラ見物で訪れた時、今年は4年ぶりにコロナ前の規模での本格開催されるとのポスターを見、この日電車で訪れた。新型コロナの影響で2020年と21年は中止、22年はパレードの規模を縮小するなど一部を変更して実施している。また、今年は小田原北条氏が「伊勢」から「北条」に改姓し500年にあたり、祭りは「小田原北条氏誕生500年記念事業」としていると。開催日:2023年5月3日 (水・祝)5月3日(水) 9:20イオンの駐輪場へ愛車のリンちゃんを預け茅ヶ崎駅へ。駐輪料金は24時間100円。咲き終わったミモザ。茅ヶ崎駅 9:35 発 熱海行きの電車へ乗る。小田原北條五代祭りのパレードは13時半からであったが、前回見落として史蹟を尋ねるので早めに出発した。上りホームの東京、新宿方面。東京方面へもここ数年乗車していない。熱海行きの電車が入線。車内は満席で混雑していた。外国人観光客も乗車していた。10:02満員の電車で小田原駅へ到着。皆さん「北條五代祭り」へ行かれるのか多くの人が下車。駅舎内には「5月3日 祝 小田原 北條五代祭り」の案内。三階のコンコースからエスカレーターで二階のペデストリアンデッキへ。エスカレーターを下りると祭りの案内所が設置されておりパンフレットが配布されていた。後方に二宮尊徳 (金次郎) 像が立っている。2F ペデストリアンデッキ臨時案内所が開設されていた。頂いたパンフレットから。パレード隊列編成パレード時間 13時30分 ~ 15時20分頃パレードコース各所の「城址公園・街角でのスペシャルパフォーマンス」が行われている。ペデストリアンデッキから南西方向へのお城通りを見下ろす。右側には「ラスカ小田原」、新しい「ミナカ小田原」が建っている。二階のペデストリアンデッキから三階へのエスカレーター乗り場。小田原駅案内図二階のペデストリアンデッキに設置されていた説明板。東口バスのりば (箱根方面) への案内。パレード開始まで時間が十分にあったので連絡道を歩き前回訪れた「金次郎広場」へ。途中に、ミナカ駐車場精算所。ペデストリアンデッキからミナカ小田原のテラス席がある「金次郎広場」へ。ミナカ小田原の三階にある金次郎広場。金次郎広場はテラス席になっており両側に甘味処がある。この日は五代祭りでパフォーマンスが行われるようで椅子席が準備されていた。金次郎広場の南側に建つ一見金の像のような「二宮金次郎の夫婦像」。映画「二宮金次郎夫婦像」除幕 令和2年12月1日(火)と。二宮金次郎の夫婦像説明小田原が生んだ偉人、二宮金次郎夫婦の像江戸時代末期、小田原の栢山村に生まれた二宮金次郎(尊徳)の生涯が、史上初めて描かれました。五十嵐匠監督の手によって、2019年1月、尊徳翁の関係した多くの市町村の皆様の協力により、百十三分の劇映画として完成いたしました。多くの皆様にご覧頂きたいと願い、劇中の二宮金次郎夫婦の像を、ここに設置いたしました。尊徳翁の業績に感謝して、今こそ、その教えを実行する時が来たと考えます。 平成三十一年一月六日(小田原市特別上映会日)寄贈 万葉俱楽部会長 高橋 弘 小田原市長 加藤 憲一 彫刻制作 宇野 務二宮金次郎夫婦像をズームアップ。金次郎広場のステージでは時間が早く五代祭りのパフォーマンスの練習が行われていた。金次郎広場からお城通りに下りる。お城通り沿いに江戸時代の雰囲気を醸し出している建物が建っている。町並みの一角にコンビニの「LAWSON」が営業。お城通りを南へ進むと、小田原城(正面入口)へ。小田原北條五代祭り会場へ向かう人の列。小田原駅東口駐車場裏から、ミナカ小田原を見上げる。ミナカは14階建てのタワー塔、4階建ての小田原新城下町の複合建物になっている。ミナカ小田原の14階には「展望足湯庭園」がある。営業時間:10:00 ~ 20:00 無料で入れタオルも自動販売機で購入できる。今回はスルーしたが次回は訪れたい。小田原駅東口駐車場の北側から金次郎広場を見上げる。24時間対応のミナカ小田原駐車場出入口。お城通り沿いにミナカ小田原の「城下町市場」。小田原新城下町1階にある「城下町市場」には土産物店等が入居営業している。魚商 小田原六左衛門創業430余年・魚商『鮑屋』の直売所。ご飯やお酒が進む珍味や出汁など、様々な海産物を取り揃え、お土産、贈り物にも最適です。店内にはおむすび屋を併設しており美味しそうなおにぎりがあった。金目鯛とくぞう網元素材、職人手作りの味、相模湾名産の金目鯛にこだわっています。オリジナルの魚・惣菜、小田原土産、あわび串が自慢であると。お城通り沿いを進む多くの観光客。右側の階段、エスカレーターを上ると金次郎広場へ。小田原駅東口のバスのりば。小田原駅東口ネット内はB1Fの「ハルネ小田原」へのエスカレーター。街かど博物館 小田原の歴史、文化を今に伝える街歩きスポット◆ 小田原駅周辺エリア◆ 旧東海道エリア 後訪れる、薬博物館(済生堂薬局小西本店)、梅万資料館(欄干橋ちん里う)。◆ 板橋・早川エリア東口バスのりば (箱根方面)。箱根方面を訪れる外国人観光客はこの地図を見てバスを利用するのだが。10:251階にあった「アークロード」案内図。 ー 続く ー
2023.06.25
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青木神社の参拝を続ける。5月30日(水) 10:45 銅板葺きの手水舎。貼り紙には「自動式手水舎 お手をかざしてお清めください」と。玉垣に「富士山ビューポイント」の貼紙。玉垣の上には双眼鏡がボックスの中に置かれていた。どなたが置かれているのか立派な双眼鏡が入っていた。天気が良いとこのような写真が撮れる。石段を降りることに。本来の参道はこちら側。青木神社の駐車場はこちら側にもあったのか。青木神社入口の交差点を曲がるとここへ来るようだ。参道横には「鎮守の杜 青木神社 静寂な祈り処」と。青木神社への急な石段。石段下には対の御神燈。石段脇には多くの旗が立っていた。神社の由緒と沿革鎮座地 横浜市栄区笠間町三百二十七番地神社名 青木神社祭 神 天照大神 伊弉諾命 伊弉冉命 手力雄命例祭日 九月第三日曜日 (従来は九月二十六日)由緒と沿革 社伝に因れば建武二年(約六百年前以前)、近藤出羽次郎清秀が領内笠間村の青木 繁る高所に神社を建立、一族と領民鎮護の社としたという。新編相模風土記には 「青木明神社 村の鎮守村持」と記されている。 一、明治六年政令により村社に指定、後に神饌幣帛供進神社に指定 一、明治四十一年九月法令に従い、鹿島神社と神明社を合祀 一、昭和二十年萱葺屋根を瓦葺に改造、幟立の再建等改修工事を実施 一、昭和二十五年九月鹿島神社を分祀 一、昭和二十八年十二月宗教法人青木神社として認証 常に法令規則及び神社本庁の庁規に従って運営 一、天皇在位六十年奉祝記念事業の一環として左の工事を実施 昭和六十一年十二月社殿改造及桜植樹 昭和六十二年六月鳥居と石段造営 昭和六十二年八月 宗教法人 青木神社右側通行で石段を上ることに。石段の段数は120段あるようで鳥居下までは「50段」であった。鳥居の扁額「青木神社」。鳥居の右側に石碑が立っていた。旗には「天照皇大神宮と氏神さまの神札をおまつりしましょう 神奈川県神社庁」と。石碑には「奉納 一金 壹千百圓 青木神社基本財産 大正十年一月」 石碑の下段に多くの方の名が刻まれていたが風化して判読できなかった。鳥居下から上ると石段のステップに貼られていた。「中間点・頑張れ 120ー60」と。中間点の上から石段を見下ろす。石段を上り社殿を見上げる。プレートには「到着・御苦労さま 120ー120」と。いろんな所で石段を上ったがこのような親切なプレートは初めてである。石段から拝殿への石畳の参道。青木神社は高所にあり境内は狭い。拝殿の木鼻 (右側)。拝殿の木鼻 (左側)。拝殿には新しい注連縄が飾られていた。拝殿の左側に建つ社務所。社務所に吊るされた「青木神社社務所」の表札。青木神社境内の左側に裏側の広場 (駐車場) がある。社務所の後方に笠間稲荷社の鳥居が見える。笠間稲荷社所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目4-1青木神社の隣にある稲荷神社である。鳥居の扁額「笠間稲荷社」。青木神社の由緒沿革によると、平成22年(2010)に境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備したと。平成22年に建立、茨城県笠間市にある日本三大稲荷の笠間稲荷より御分霊を頂いた。笠間稲荷社の左側に「二十三夜供養塔」。後方には「ツゲ」の木、石祠。二十三夜供養塔二十三夜供養塔農耕を司る月読尊を祀った供養塔です。月待供養塔ともいいます。十五夜から八日すぎた、二十三夜の月は真夜中に東の空から昇ってきます。月を信仰の対象とした村人たちが、その夜、煮炊きした食べ物や飲物を持って集まり、精進・勤行し、飲食を共にしながら境内で真夜中に出る月を待つ月待ちの行事を行いました。その際の供養に建てた月待塔のひとつが二十三夜供養塔です。村人たちが真夜中までいっしょに行動し飲食を共にすることで絆を確かめ合ったことと思います。この供養塔は萬延元年 閏三月に建てられたものです。 青木神社 石祠をズームアップ。ツゲツゲ科 ツゲ属庭木として用いられる他、質の良い高価な材がとれる木として有名です。イヌシデが聳える。イヌシデカバノキ科 クマシデ属雑木林に多く見られる高木の一つ。秋に美しく黄葉します。青木神社 御輿倉壁面には「青木神社 御輿倉」、「笠間 笠青睦會」の2枚の看板。笠青睦會(りゅうせいむつみかい)は、昭和60年、旧国鉄より神輿を譲り受けた笠間地域の若者十数名が集まり睦會を発会。その會は、笠間の「笠」と青年の「青」を合せて「笠青睦會」と名付けられました。昭和61年には新たに万灯神輿が、平成11年には青木神社宮神輿が作られましたと。御輿倉の横にアジサイが咲いていた。いつの間にかアジサイが咲く時期になっていた。11:05青木神社を後にし帰路についた。青木神社境内の樹々にはネームプレートが吊るされており勉強になった。 END
2023.06.24
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この日も嫁さんのアッシーで大船へ行きその合間に近くにある寺社を訪れた。鎌倉市の大船は横浜市との界にあり訪れた寺社は横浜市であった。松竹前交差点から砂押川を渡り北方向 (鎌倉街道(中の道)) へ進み横浜市栄区へ。5月30日(水) 9:55浄土宗 笠間山法安寺 (ほうあんじ)所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目20-16法安寺は、持阿智光了専が文安二年(1445)に創建。光明寺十四世法誉智聡が永正五年(1508)に中興したといわれているお寺である。大船の松竹前交差点から北方向へ進み右側にあった法安寺。参道にあった創建以来の石碑には「奉巡拝西国四国秩父坂東百八十八ヶ所供養塔」と刻まれているようだ。木柱には「創建以来法安寺入口石塔」と。木柱の裏面には「四国巡礼成満記念塔」と。境内入り口に「法安寺創建1353年」「やすらぎのお寺 法安寺」と。境内に入り正面に山門が建っている。法安寺関係者以外の進入は、固くお断り致しますとあったが、山門前に駐車させていただく。山門の後方に本堂が見えたが、山門だけが独立して建っている。山門の右側にはサクラの木が聳えていたがサクラの開花時期も素晴らしいのではと。山門の扁額「笠間山」。山門を入ると右側に六地蔵が並んでいた。六地蔵の廻りは柵で囲まれ保護されていたが。石畳の参道の先に朱色の本堂。参道脇にほうきを持った微笑ましい掃除小僧の像。本堂前左側の、石碑には「鎌倉十五番札所 弘法大師一夜爪彫之作 刻石観音」と。朱色に塗られたコンクリート造りの本堂。本尊は阿弥陀如来像。本堂の扁額「法安寺」。本堂前に立っている観音像?本堂前から山門を振り返る。本堂の左奥には寺務所であろうか。本堂の右側には山林が広がっている。本堂前には笠付きの立派な墓石が並んでいた。法安寺前に駐車して近くにあった石塔を見に。法安寺前の道路 (鎌倉街道(中の道)。左折すると大船駅方面へ。この道は大船方面への鎌倉街道 (中の道) であろう。同場所から県道23号線 (環状4号線) の栄区笠間町交差点方向を望む。右脇に今泉村不動の社。栄区笠間町交差点をズームアップ。交差点は国道1号の原宿交差点からの環状4号線でいつも渋滞している。今泉村不動所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目20-20大船方面を望み、住宅地の片隅に建っている。この先の右側に笠間中央公園があり、縄文時代から平安時代にかけての住居跡など多数の遺構が発掘されている。紙垂で飾られた今泉村不動。宝永七年 (1710) に建立されたもので、ちょっと分かりずらいが道標の「今泉村不動江之道」があると。写真から道標らしきものはなく確認できなかった。不動明王をズームアップ。今泉村不動から法安寺へ戻り車へ。右側の新築の家は住職の住宅であろうか。左手前には幼稚園らしき建物もあったが。門前を横切る鎌倉街道 (中の道)。笠間庚申塔所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目2-43鎌倉街道 (中の道) 沿いに4基の庚申塔が並んでいる。後方の森は笠間中央公園。狭い道路であったが街道脇に車を停める。左から古い順に並んでおり、左は地蔵坐像(年代不詳)。左から2番目から延宝8年(1680)、正徳4年(1714)、文政6年(1823)、万延元年(1860)の建立。10:10後方の森は笠間中央公園で、縄文時代から平安時代にかけての住居跡など多数の遺構が発掘されているので後日訪れたいものです。10:40青木神社所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目4-1大船駅前で妻をピックアップ、カーナビで次の目的地「青木神社」へ向かい鎌倉街道 (中の道)を進むと、青木神社入口の交差点があったがカーナビに従って直進。途中右折して新興住宅街を抜け境内裏の駐車場へ到着。木の幹に「ケヤキ」のネームプレート。ニレ科 ケヤキ属日本で最も大きくなる落葉樹の一つ。材は堅く、建築装飾や器具に利用します。宗教法人 青木神社 由緒沿革鎮座地 神奈川県横浜市栄区笠間五丁目四番一号御祭神 天手力男命 (あめのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 天照大神 (あまてらすおおみかみ)由 緒 新編相模風土記及び口碑の伝える所によると 第九十六代・後醍醐天皇の御代 建武二年(1335)足利直義配下の武将出羽次郎清秀 が小坂郷領主と成り郷内笠間村に現今の社地を宮地と定め社殿を造営、平素尊崇せ る天手力男命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉祭し近藤一族並びに領内鎮護の神社とした。 これ即ち当社の設立なり、現在は郷土笠間の総鎮守として崇敬されている。 沿 革 明治以降は新祇院が置かれ政令により明治六年村社に指定される。 明治四十一年 村内の無各社 神明社および鹿島神社を合祀 大正十一年 神饌幣帛供進神社に指定される 昭和二十五年 宗教法人鹿島神社を分祀 昭和二十八年 宗教法人青木神社として認証 昭和五十二年 本殿・拝殿改修整備 昭和六十二年 参道石段・鳥居・狛犬等境内整備 平成六年 境内擁壁・玉垣・手水舎等境内整備 平成九年 青木神社社務所新築 平成十一年 青木神社宮神輿及び神輿倉新築 平成二十二年 境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備青木神社社殿昭和52年(1977)に本殿・拝殿は改修整備された。拝殿の扁額「青木大明神」。拝殿前の狛犬 (右側) は大きなマスクを装着していた。左側の狛犬もマスク。左側に社殿、右側に社務所があり奥にトイレがあった。境内に聳えるスダジイ。青木神社の神様天手力男命 (あめのたぢからおのみこと) 腕力に勝れ大力無双で気はやさしく力持ち 日本神話天の岩戸開きで活躍した神様。伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 日本神話で最初に夫婦神として登場した神様で数々の国土と人々を生成。 天照大神の親神様。天照大神 (あまてらすおおみかみ) 皇室の祖先神としてひとしく尊敬されている。高天原を支配した女性の神様。スダジイブナ科 シイ属秋に実る細長いドングリは、ほんのり甘く食べられます。タイワンリスであろうか樹々の枝を動き回っていた。10:45社殿前から石段を見下ろす。 ー 続く ー
2023.06.23
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NHK放送の反響で賑わう「藤沢えびね・やまゆり園」の満開のエビネを楽しむ。4月27日(木) 10:25引き続き遊歩道脇のエビネを楽しむ。名札には「八幡様 寄贈 エビネラン」と。エビネ昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」で訪れたが本当に見頃であった。どのエビネも満開であった。順路に従って反時計回りに多くの訪問者。販売店では手作り手芸品「タワシ 100円」等々が販売されていた。園の入口には「大売出し」の旗が立っていたが何を大売出ししていたのか?。皆さんNHKの放送を見て来られたのであろうが。受付で待つ高齢者の長い列。今日一日の来園者は何人になるのか後日聞いてみたいものだが、NHKも地域の活性化に貢献!遠藤まほろばの里藤沢えびね・やまゆり園NHKでの放送で観光客が多くなり係り員の方達もビックリ。嬉しい誤算はいつまで続くのか。10:35園内で約1時間強のエビネを楽しみ、藤沢えびね・やまゆり園を後にする。南方向からは「慶応大学バスターミナル」から歩いてこられる人も(下車徒歩約8分)。藤沢えびね・やまゆり園の山林・竹林。前方の駐車場は満車になっていた。係員の方が交通整理。藤沢えびね・やまゆり園の北側を走る県道43号線(藤沢厚木線)。県道43号線(藤沢厚木線)の交差点に案内板。この交差点から請之木線を南下、慶応大学入口交差点へ至るが途中に入口があり右折する。11:00天気が良かったので富士を見に「富士見の丘」へハンドルを切る。遠藤宮原線を西へ向かい坂を上り、宇都母知神社入口交差点からの富士。目的地の「富士見の丘」はこの交差点を左折。富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668田畑の中にベンチが置かれ無料で楽しめる絶景スポットである。この場所は地権者が無料で提供しているようだ。畑仕事をしておられた方と話をすると「ダイヤモンド富士は春分の頃」であると。絵を描いている方もおられた。西側には金時山、矢倉岳、富士山。富士をズームアップ。11:10富士見の丘からの帰路、小出川からの富士。送電線の鉄塔が景観を損なっている。11:30高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼473ゴールデンウイーク前後に成就院の境内にナンジャモンジャが綺麗に咲くので立ち寄る。今年は開花が早く10日前の4月17日には満開であったがその後どうなっているか。その時のブログは「成就院のナンジャモンジャ」👈 をクリック願います。駐車場の壁に貼られていた、4月19日現在の写真。4月19日現在の写真 左:黒ろうばい 今が見ごろです。 中:はんかちの木 今が見ごろです。 右:なんじゃもんじゃ これからが見ごろです。タウンニュースにいつも記載され多くの人が訪れる花の寺として知られる成就院である。本堂裏の墓地に咲くナンジャモンジャ。10日前にはテントは設置されていなかったがゴールデンウイークを迎えるので・・・。満開のナンジャモンジャを見上げる。西の空には富士が見えていたがここでも送電線の鉄塔が景観を損なっている。ハンカチノキも一部咲いていた。ナンジャモンジャは10日前に比べると白味を帯びているようだが。ナンジャモンジャは花もちが長いようだ。遅咲きのナンジャモンジャの雌の木も開花していた。雌のナンジャモンジャを見上げる。ズームアップ。雄のナンジャモンジャは花びらが散り始めていた。雪が積もったようになっているナンジャモンジャ。クロバナロウバイもまだ綺麗に咲いていた。ズームアップ。テレビで放送されると来園者、来客者が多くなるので、今回のNHKの放映効果は相当なものであるようだ。 END
2023.06.21
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藤沢えびね・やまゆり園の満開のエビネを引き続き楽しむ。4月27日(木) 10:05エビネの傍に名札がなかったのでここからは写真のみでキャプションはありません。キエビネズームアップ。よく見かけるエビネの色である。白色のエビネ。カメラを下げズームアップ。更にズームアップ。いろんな色のエビネがある。赤色のエビネ。ズームアップ。ヤマユリ (ユリ科)ヤマユリとはユリ科ユリ属の多年生植物。山地に生える日本特産のユリで、夏に咲く花は大型で白く、山中でもよく目立ち、強い芳香を放つ。鱗茎は食用のユリ根になり、別名リョウリユリともよばれている。左の名札は「カタクリ」と。開花時期は3月末頃で既に開花後である。クマガイソウラン科 アツモリソウ属開花時期:4月中旬花の写真をズームアップ。 開花後のクマガイソウ。花柄をズームアップ。花は見るタイミングを合わせるのが難しい。園路はチップ敷散策路と木道になっている。梅雨時には蚊が多く以前来た時は受付で蚊取り線香を貸し出していた (無料)。竹が山林を攻めており杉と竹のコラボになっている。高さ十数メートルを見上げる。杉の木立を見上げる。木道の横にはベンチも設置されている。木道の下には山野草の「シライトソウ」が咲いていた。シライトソウシュロソウ科シライトソウ属開花時期:5月シライトソウは野生の多年草である。和名は糸屑を束ねたような花の姿に由来する。属名は雪の筆を意味する。スウェーデンのカール・ツンベルクによる『日本植物誌』で、この種が世界に紹介された。ブラシのような「シライトソウ」。園路はチップ敷散策路と木道になっている。また、園内は約8mの高低差がある。いつもは人が少ないのだが。遊歩道脇に咲くエビネをローアングルから撮影。ズームアップ。更にズームアップ。赤のエビネ赤のエビネをズームアップ。更にズームアップ。名札には「白根アオイ」。こちらには左から「ガンセキラン」「シラネアオイ」「レンゲショウマ」の名札。ヒメサユリユリ科 ユリ属開花時期:5月中旬傾斜地にいろんなエビネが咲いていた。ズームアップ。ズームアップ。10:25満開のエビネを楽しんだ。 ー 続く ー
2023.06.20
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NHKで放送されたため来訪者が多い「藤沢えびね・やまゆり園」の散策を続ける。4月27日(木) 9:40エビネは、ラン科・エビネ属に分類される多年草で、その仲間は日本から東南アジアの広い範囲に分布しています。日本では、全国各地の低山に古くから自生していました。ただ、現在は愛好家による乱獲によって数が減り、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧種に指定されています。エビネは、海老のような太く節のある根茎を持ち、そこから長さ20cmほどの縮れた大きな葉っぱを数枚茂らせます。そして、春になるとその間から30~40cmほどの茎が生え、茎先にいくつもの花を咲かせていきます。花びらが3枚の花を横向きに咲かせ、茶色や緑色と質素な色合いが特徴です。エビネの主な品種花色違いなど、様々な変種、改良・交雑品種が存在します。一般的に売られているものは丈夫な園芸品種が多いですが、中には栽培が難しいものもあります。エビネの花言葉『謙虚』『誠実』『にぎやかな人柄』『忠実』『謙虚な恋』。エビネは、他のランに比べて落ち着いた花色で、控えめな印象を与えます。この姿が、「謙虚な恋」という花言葉の由来だとされています。名札立っていなかったので名前は?。エビネの仲間は150種ほどあるとされていますが、日本では「カランセ属(エビネ属)」のみを指す場合がほとんどです。自然に生えているものの数は減ってしまっていますが、交雑しやすい性質を生かして、現在ではたくさんの園芸品種が作られています。花色も赤やオレンジ、紫など「ない色はない」と言われるほど多彩。春に花を咲かせるものが一般的ですが、夏や冬に花開くものもありますと。藤沢えびね・やまゆり園の北側に位置する「ハナショウブ園」。ニッコウキスゲススキノキ科ワスレグサ属で多年草。属名の Hemerocallis はギリシャ語の「hemera(一日)+callos(美)」からきている。この属の植物の花は一日でしぼむことから名づけられた。 変種名の esculenta は「食用になる」という意味である。 日光に多いのでこの名がある。 漢字では「日光黄菅」とも書く。 別名を禅庭花 (ゼンテイカ) と言う。 近縁種の黄萓 (キスゲ) は夕方から咲き始めて翌日の朝にしぼみ、夕萓 (ユウスゲ) とも呼ばれる。 園芸種のヘメロカリスは黄萓が欧米で品種改良されたものである。属名のワスレグサは「忘れ草」で、この名は万葉集にも登場する。葉の特徴根際から生える葉は線形である。花の特徴花はラッパ状に開き、直径7センチくらいである。 花びら(花被片)は6枚あり、黄橙色をしている。 朝開いて夕方にはしぼむ一日花である。ニッコウキスゲは、北海道から本州の中部地方にかけて分布。 海外では、朝鮮半島、中国、シベリアにも分布している。オドリコソウシソ科オドリコソウ属開花時期:4月和名オドリコソウは、「踊子草」の意で、花が輪生したようすが、笠をかぶって踊る踊子に似ていることによる。オドリコソウをズームアップ。更にズームアップ。ムサシアブミ (武蔵鐙)サトイモ科テンナンショウ属の多年草。別称「由跋」、古くは「加岐都波奈」とも呼ばれていた。関東地方以西〜沖縄の海岸に近いやや湿った林内に生える。葉は2個つき、小葉は3個。葉柄は高さ15〜30cm。葉柄の間から葉よりやや低い花茎をだし、仏炎苞に包まれた肉穂花序をつける。仏炎苞は暗紫色か緑色まで変化があり、白い筋がある。筒部は長さ4〜7cmで、口辺部は耳状にはりだし、舷部は袋状に巻き込む。花序の付属体は白い棒状。花期は3〜5月。ムサシアブミに似た花でマムシグサがある。名の由来は、「ムサシアブミ」は、馬に乗ったときに足をかける鐙(あぶみ)に似ていることに由来しています。 「マムシグサ」は、花の様子がマムシが鎌首をもたげている様に似ている、茎の模様がマムシの模様に似ていることに由来してるようです。遊歩道を進むといろんなエビネが咲いており花の傍に名札が立っていた。エビネ「蘭丸」「織姫」。エビネ「蘭丸」。エビネ「幻の金鳥」。エビネ「幻の金鳥」をズームアップ。エビネ「岩屋姫」。名札に花の写真もありわかりやすい。エビネ「岩屋姫」をズームアップ。更にズームアップ。エビネ「渡川の幻」。木漏れ日の中に咲く、エビネ「渡川の幻」。更にズームアップ。キエビネであったか?。エビネ「島紫光」。エビネ「島紫光」をズームアップ。エビネ「天竜」。エビネ「天竜」をズームアップ。更にズームアップするが背丈が低いので撮影が大変である。ローアングルから撮影。遊歩道の下に咲いているので難しい。ズームアップしても視線が上からになる。一区画にいろんな種類のエビネが植えられていた。エビネ「富士の羽衣」。エビネ「富士の羽衣」をズームアップ。名札がなかったのでエビネの名は?。10:05ズームアップ。 ー 続く ー
2023.06.19
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昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」であるとの放送があり車で訪れた。放送では「園内では 5,000株、130種のエビネが咲いており、例年より1週間早い」と。なお、ダイジェスト版を既に4/27(木)にアップしております。4月27日(木) 9:10NHKでの放送もあり人が多いのではと思い早めに訪れた。駐車場は無料で、いつもは係員はいなかったがこの日は2名の方が誘導していた。予想通りいつもは少ない駐車場には既に十数台が駐車。次から次と車が・・・。駐車場脇の畑では地元産の野菜も販売。駐車場にはいつもは係員の方はいないのだがこれも予想して2名の方が誘導。この先を右折して駐車場へ。駐車場から歩いて「藤沢えびね・やまゆり園」へは数分の距離。案内板「藤沢えびね・やまゆり園」。慶応大学入口交差点から請之木線を北上、「農家レストランいぶき」前を左折するとここへ。駐車場を振り返るが狭いので既に満車近くなっていた。道路脇に咲いていたウズキであろうか。藤沢えびね・やまゆり園は竹林の中に位置する。南方向からは慶應義塾大学看護医療学部から竹林の中を上って来る。遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580当園は遠藤に残された山林、竹林、畑など里山の自然景観を多くの人に楽しんでもらうと同時に、地域や農業の活性化の一助となることを目指して2015年春に開園した。エビネ、ヤマユリ、ヤマアジサイなど約130種類の山野草を鑑賞していただいたり、地元の新鮮な農産物に親しんでいただくための施設です。入口に掲示されている掲示板。9:20藤沢えびね・やまゆり園受付開園期間:4月 第2日曜日 ~ 8月 第2日曜日 午前9時 ~ 午後4時 期間中は無休入 園 料 :おとな 300円 小中高生 200円当園は「NPO法人 里地里山景観と農業の再生プロジェクト」の活動。地権者の方々の協力を得て、面積8,500㎡の山林に山野草園「藤沢えびね・やまゆり園」を開園し、運営している。NPOの会員募集中!と。受付で係員の方に聞くと「今日は開園早々から多くの人が訪れNHKの放送反響はすごい!」と。受付でもらったパンフレット。交通アクセス湘南台駅 (小田急江ノ島線) から慶応大学バスターミナル下車 徒歩約8分辻堂駅 (JR東海道) から慶応大学バスターミナル下車 徒歩約8分。今日の来訪者は何人になるか?園内では「山ゆり 500円」も販売。藤沢えびね・やまゆり園 山野草位置図施設概要 面積約8,500㎡の山林内に、山野草や樹木が約130種が植栽されています。 園路はチップ敷散策路と木道となっています。 園内は約8mの高低差があります。このため 変化にとんだ地形になっており、一部傾斜路や階段がありますのでご理解ください。 丘陵地状の里山に、山野草が咲き自然景観も楽しめる施設となっています。園内には休憩所も設置され花図鑑も置かれている。既に多くの人が訪れていた。現在NHKで放送中の朝ドラ「らんまん」も影響して植物に興味を感じる人が多くなっている。売店では、地元の新鮮な農産物、山野草を販売しているが食べ物は?。廻りは竹林であるのでタケノコの販売も行っていると。園内でも採れるのでは。トイレも仮設ではあるが設置されている。順路(反時計回り)に従って竹林の中を進む。園路はチップ敷散策路と木道となっています。また、園内は約8mの高低差がありますと。エビネラン科エビネ属の多年草で地上性のランである。ジエビネ、ヤブエビネと呼ばれることもある。花のそばには名札が立てられている。ガンセキランラン科 ガンセキラン属開花時期:5月中旬ガンセキランをズームアップ。花の背丈が低いのでカメラをローアングルにするが。キエビネズームアップ。キエビネは鮮やかな黄色い花色が特徴で、やや大型になります。原種の中では比較的栽培しやすい種である。ミヤコワスレキク科シオン続開花時期:5月ミヤコワスレこれも「キエビネ」であったか。エビネの特徴多数の品種がそろう人気の山野草です。種類や品種によっては性質の弱いものもありますが、普及している園芸品種は丈夫なものが多く地植えでも容易に育てられます。一般的には春咲きのエビネの改良・交雑品種がよく育てられています。原種も出回っていますが、キエビネやナツエビネを除けば玄人向けといえます。花は総状花序になり、控えめながらもラン科特有の美しい姿です。葉は左右に大きく広がり葉脈がよく目立ちます。株はロゼットタイプでバルブ(塊茎)がつきます。根は「エビ根」の名のとおり太くなります。ヤマブキソウ (ケシ科)ヤマブキソウをズームアップ。山林、竹林の中にチップ敷散策路がある。傾斜地にはタケノコが頭を出していた。ヒメサユリ (ユリ科)。開花時期は6月頃?、楽しみであるが。ユキワリソウサクラソウ科 サクラソウ属開花時期:3月中旬開園期間が4月の第2日曜日からであるので見ることができるのか。咲き終わったユキワリソウの群生地。キエビネ名札が立っていなかったが。名札立っていなかったので名前は?。ズームアップ。エビネの育て方木漏れ日が当たるような半日影の、水はけのよい土の場所が適地。明るい日陰でも育ちますが花つきは半日陰の方がよいです。夏に直射光が当たるようなら遮光して葉焼けを防ぎます。通気性の悪い土だと上手く育ちません。粒状の鹿沼土や桐生砂などを混ぜて改善しますと。こちらも名札立っていなかったので名前は?。9:40ズームアップ。 ー 続く ー
2023.06.18
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林泉寺のフジは花房の長さが最高1m50cmにものび、平均90cmと立派なものである。4月24日(月) 15:50本堂前の藤棚。藤棚の下には真新しい木のベンチが置かれていた。本堂前?「藤の花志納 ひと口500円 玄関にて」とあったようだが私の目には入らず・・・。本堂前の藤棚を見上げる。本堂前の左側にある池のある日本庭園。池を見下ろす羅漢像。フジのほのかな香りがしていたがここでもクマバチが少なかった。駐車場脇にある六地蔵を藤棚が飾る。15:50花房が長いものでは1m50cm近くにも及び、貫禄ある美しさである。林泉寺のフジを楽しみ、道路を挟んだ向かい側に石鳥居があったので参拝することに。山神社 (やまじんじゃ)所在地:静岡県伊東市荻65県道351号線 (池東松原線) 沿いにある神社である。道路沿いに一の鳥居。一の鳥居の扁額「山神社」。東海バスのバス停「荻 (おぎ) 」。一の鳥居を潜り階段を上り参道へ進む。参道右側の木柱に「伊東市指定 天然記念物 山神社のムクの木(群落) 伊東市・荻区」。ムク(椋)の木はニレ科の落葉高木。関東地方から西に分布している。 伊豆では低地にみられるが、この神社の社叢のように大木がある面積にかたまっているのは珍しい。ムクノキはケヤキと樹皮や葉が似ているが、葉はケヤキより硬く、物を磨いたり、陶器の模様をつけるのに使われた。 樹幹はケヤキより赤っぽい。果実が秋に黒く熟し、食べると甘い。 以前参拝した音無神社にも大きな木があると。参道を進むと手水舎、ニの鳥居。二の鳥居の扁額は「三社宮」。山神社 (やまじんじゃ)鎮座地 伊東市荻六五番地御祭神 大山祇命 (おおやまずみのみこと)例祭日 十月十五日由 緒創建は詳かでないが、元禄十五年八月再建の棟札、並びに元禄年間奉納された鰐ロ等から判断すると、江戸時代初期以前に建立され、山村神社として信仰、崇敬されていた由が分かるが、社殿は幾度かの火災によって、記録を留めた資料はなく、その証を顕著に示しているものは、境内地に繁茂する推定四〇〇年、六〇〇年を越えた老杉、欅や、伊東市より天然記念樹と指定されたムクの木がある。マスクを取り外された右側の狛犬。同じく左側の狛犬。正面に「拝殿」。拝殿の扁額には「山神社」。拝殿前から参道を振り返り二の鳥居、一の鳥居。道路を渡ると林泉寺。境内には推定400 ~ 600年を越える老杉、けやき、ムクの木の群落が聳える。境内の右側(南)。拝殿の左側に廻り込み本殿を見る。宗教法人 山神社 沿革祭 神 大山祇命 (おおやまぐいのみこと)例 祭 十一月四日 現行 十月十五日由 緒 當神社の創建年月は不詳なれど、神木の樹令などから考察して五百年以前と推定せられ 寛文十年(1671)正月御西霊元天皇の御代 小岡村崇敬者により鰐口が奉献しあり三百年 以前當時の社の姿を彷彿せるものあり。元禄十五年(1703)八月 東山天皇の御代社の老朽 甚だしきに至り小岡村氏子中により此の地に再建す。文化十三年(1804)十月荻村土屋五左 衛門氏願主となり氏子中と共に初めて石の鳥居を奉献せり。宝暦十年九月同じく石燈籠の 奉献あり其の後明治に至り六年(1873)九月賀茂郡荻村社に列すとの棟札あり。明治十三年 社殿漸やく腐朽し来るにより荻村氏子改築の計を立て當時富戸村棟梁田畑某の弟子荻村政 水傳兵衛氏により前の本殿、拝殿を建立せり。明治二十二年(1889)二月川奈、吉田、荻 十足四村を統合し小室村となり、郷社 山神社となる。大正五年(1917)小室村社となる。 昭和に至り二十年(1945)八月世界第二次戦争の終戦を迎え 二十六年政宗分離による宗教 法人法施行せられ宗教法人 山神社となる。爾来再三に亙り補修を加え来るも神殿を除き 本殿拝殿及び庁舎の腐朽甚だしきに至り四十六年氏子総代相議り神社本庁の認可を得て此 等改築に着手し昭和四十六年八月十三日社務所並びに手水舎を竣功せしめ翌四十七年十月 十五日本殿、拝殿の竣工並に鳥居、狛犬燈籠の建立、幣殿拝殿の内装を完了せり。 関係者の名が刻まれている。 昭和四十八年(1973)九月 伊東市荻氏子中 建之拝殿横からの境内には老杉、けやき、ムクの木の群落が聳える。鬱蒼とした樹々を見上げる。ムクの木の幹であろうか。境内の南側には、推定400 ~ 600年を越える老杉、けやき、ムクの木の群落があった。市指定文化財 (天然記念物) 「山神社のムクの木(群落)」ムクの木は、丘陵地帯に多くみられるニレ科の落葉高木で、関東地方から西に分布する。材質は堅く、割れにくいため、野球のバット、げたの歯などに用いられている。また、果実は球形で、秋には黒く熟し甘味がある。 指定 昭和45年5月12日 伊東市教育委員会老木が聳える境内。山神社から林泉寺へ戻る。多くの人が訪れておられたが休日には道路も渋滞すると。このような長いフジの花房は見たことがないので再度本堂前へ。花房は最高1m50cmにものび、平均90cmもあるという林泉寺のフジ。赤頭巾をかぶった六地蔵は2か所に置かれている。境内には何体もの羅漢像が置かれている。本堂前の藤棚から花房が垂れ下がる。藤棚を見上げる。駐車場脇にかんざしに似た藤棚。いつまでも見飽きない長い花房である。藤棚を見上げる。六地蔵の先に老杉が聳えていたのだが。六地蔵の後方から。メジャーを持っていなかったので解らないが、1メートル以上あったか。駐車場脇に立っていた羅漢像がこいのぼりを持っていた。また、庚申塔、馬頭観世音等もたっていた。16:10数日前の4月19日にも藤沢市のフジを楽しんだが今回もここ伊東市のフジを堪能した。静岡県下には吉田町にも同名の林泉寺があり、フジが有名とのことであるので来年訪れるか。約30分間フジの花を楽しみ帰路につく。林泉寺から帰路はカーナビで検索、熱海経由国道135号を走り小田原早川から西湘バイパスルートを走ることに。自宅までの所要距離は75キロメートルで約2時間と。渋滞を心配したが熱海、湯河原の国道135号を順調に走り、真鶴駅辺りから渋滞が始まっていたので山側の県道740号線(小田原湯河原線)を走る。17:45根府川の先で国道135号(真鶴街道)と合流。真鶴街道からの大山を望む。左手前には小田原城の天守閣が見えた。18:35予測より早く動けたので夕食は取らず自宅へ到着。今日のドライブは、反時計回りに走り走行距離は324km。また、私の歩行数は8,600歩であった。来年訪れたい「林泉寺の長藤」所在地:静岡県榛原郡吉田町片岡2599林泉寺の長藤は、1915年牧之原市東光寺の住職が有名な「熊野の長藤」を譲り受けたその子株です。毎年4月下旬頃から5月上旬頃まで林泉寺の境内は紫の藤棚を楽しむ人で賑わいます。甘い香りただよう藤の下でお花見が開かれ、長藤まつりも開催されますと。 END
2023.06.17
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小室山つつじ園から国道135号を南下。4月24日(月) 14:55国道135号の城ヶ崎入口交差点を左折して何度か訪れている「城ヶ崎海岸」方向へ進む。ロータリーに大きな看板「ニューヨークランプ&フラワーミュージアム」。「 ⇐ P つり橋遊歩道駐車場 (城ヶ崎門脇灯台・つり橋入口) ミュージアム入館のお客様は駐車料無料」と。ニューヨークランプミュージアム& フラワーガーデンへ。案内板。ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン所在地:静岡県伊東市富戸841-1ステンドグラスのアイコン的存在であるティファニー ランプに特化したミュージアムである。園内にはカフェと四季折々の花が咲く庭園が併設されている。右側の門扉には「NEW YORK LAMP & FLOWER MUSEUM」。祝認定 ユネスコ世界ジオパーク左側には「城ヶ崎つり橋遊歩道入口 ← 林間コース片道約15分、散策コース片道約25分」と。入口には「フラワーカレンダー」「ミュージアムマップ」。園内には静岡県内屈指のあじさい苑があり、その年の開花状況によるが、例年5月末 ~ 7月初旬にかけてオープンするあじさい苑では、圧巻の200種類以上、3,000株のアジサイが見れると。今回は入園料も平日1500円と高く、時間もないのでスルー。ニューヨークランプミュージアム& フラワーガーデンミュージアムマップニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデンの駐車場。出口方向に、バス停、ANTIQUE & SHOP さくらさくら。テイクアウトショップ Lilyニューヨークランプミュージアムのチケット売場の横にあるショップ。店の前には、パラソル付きのテーブルと椅子があるので、ちょっとした休憩スポットになっている。ショップの前にはバスの停留所も併設している。ニューヨークランプミュージアム& フラワーガーデン入口をズームアップ。テイクアウトショップ Lilyの隣に「ANTIQUE & SHOP さくらさくら」。園内の案内が掲示されていた。旅友から抹茶ミックスソフトを頂きました。さくらさくら所在地:静岡県伊東市富戸841和と洋が絶妙に溶け合うミュージアムとフラワーガーデンの旅のエピローグがここ「ANTIQUE & SHOP さくらさくら」。ここには日本の伝統の奥深さを感じる陶器や根付などの工芸品や、華やかなファブリルガラスの花器、そして伊豆のおみやげまでバリエーション豊かな逸品を取り揃えていますと。旅友は店内に入り撮影していたが路上駐車のため私は外で待機。ステンドグラスのランプや小物雑貨、お菓子類が購入できる洒落たお店である。店内の一部写真。15:20愛車のノートを路上駐車して美味しくいただきました。この後、旅友がスマホで「近くにある名所」を検索「林泉寺」をカーナビにセット。15:45曹洞宗 水東山 林泉寺 (りんせんじ)所在地:静岡県伊東市荻90境内には日本庭園と藤棚を有しており、その樹齢300年あまりの藤の大木は県の『天然記念物』に指定されており、県内有数の長藤の名所として知られている。寺号標石の左に「南無阿弥陀佛」碑。県道351号線沿いに立つ、寺号標石「林泉禅寺」。境内入り口に駐車場(10数台可能)があり車を停め散策をはじめる。伊東温泉七福神のひとつで、御本尊として釈迦如来像を安置する曹洞宗寺院。幸福・財産・長寿の三徳を兼ね備えた福禄寿や、江戸時代の1802年に当地に移ってきた際に安置されるようになった薬師如来像と月光菩薩像、一刀彫の三十三体観世音菩薩像などがある。毎年5月8日には、三十三観音大祭も執り行われる。フジの花はその薄紫色の色合いといい漂う香りといい、上品で高貴なイメージがすると県指定天然記念物 林泉寺のフジ林泉寺は、約500年前に建立され、薬師如来像、日光月光菩薩を御本尊とし、今から約300年前に信者がフジを寄贈しました。花の長さは最高1m50cmにものび、平均90cmの紫色のフジが咲き乱れます。 目通り 1m55cm 枝張広さ 36㎡ 指定 昭和45年6月2日 伊東市教育委員会藤棚の下に赤頭巾を被った六地蔵が並ぶ。耳を出し仲良く語り合う羅漢像の姿も。境内入り口には、糸が引かれたかのように、ピンと目が合い息がピッタリの羅漢像が座る。左側には幹回り数メートルの杉の古木が聳える。羅漢像は酒を酌み交わしているのか。林泉寺の花房の長さは最高1m50cmであると。静岡県内には同名の林泉寺が吉田町にもあり「林泉寺の長藤」として知られ、ここ伊東の林泉寺も県内有数の藤の名所に数えられると。参道の左側に庚申塔も並ぶ、背後には杉の木。境内に入ると本堂右前に二本のフジが植えられている。こちらにも六地蔵が並んでいた。本堂前の藤棚からフジの花房が下がる。本堂前のフジをズームアップ。鉄パイプ製の藤棚に古木のフジの枝が伸びる。この枝振りも見て欲しいと!境内の六地蔵。本堂の扁額「林泉寺」。本堂の内陣を見る。本尊の釈迦牟尼仏をズームアップ。本堂前から右側の藤棚を見下ろす。同場所から左側を見下ろす。葉芽も出ているが花房も長い。本堂左側奥に六角堂。本堂の左奥にあったのが、旧落雁堂、六角堂の「水子堂」。手前の赤い葉の木は「ノムラモミジ」と旅友から。ノムラモミジは、カエデ科落葉樹であるイロハモミジの赤葉品種です。葉が新しく出たときから赤く色づいています。夏場は緑になりますが、紅葉シーズンになると再度赤になりますと。内陣には、水子地蔵。水子堂の奥に墓石群があった。合同墓であろうか、台座には「南無」と。15:50太平洋戦争で亡くなられた陸軍兵士の墓が並んでいた。 ー 続く ー
2023.06.16
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40haの公園内に植えられている10万本ものつつじの散策を続ける。4月24日(月) 13:55小室山公園の石碑。石碑の裏に廻り込み、小室山観光リフト、小室山レストハウスを望む。石碑にはめ込まれた小室山公園の写真。小室山公園には、からあげ、フライドポテト等の露天商も出ていた。平和への道標 (みちしるべ)良い子の皆さんここに祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や川を守り日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、いくたびかの戦争の中でなくなられました。今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い心を受け継ぎ感謝の心をもって一日一日を大切にしてください 合掌広場の丘の上に白い塔。参道への左手にあった苔むした石碑には、「みたまよ麗しくふる里にねむりたまえ」と。参道の右手前には「海軍の錨の墓標」が奉納されていた。ここには「航空隊のプロペラの墓標」が。参道両側にはピークを過ぎた赤いつつじが咲いていた。参道を登ると右側に狛犬の阿形像。左側には狛犬の吽形像。戦歿殉難者慰霊塔この慰霊塔の中には、「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」があり、東郷平八郎元帥の直筆が添えられているとのこと。塔の壁面には「慰霊の塔」この塔は過去数次の大戦において祖国の繁栄を念じつつ尊い一命をささげた英霊壱千五百柱の偉勲をたたえその霊を慰めるため市民の浄財によって建立されたものである。 昭和四十二年四月 伊東市戦歿殉難者慰霊塔から下り右側に「忠魂碑」。こちらにも一段高いところに「忠魂碑」。忠魂碑には「元帥陸軍大将○○○○○○書」とあった。小室山公園案内図小室山公園 つばき園約15,000平方メートルの敷地に1,000種4,000本のつばきが植栽され、10月上旬から咲き始め4月中旬までさまざまな種類を観賞できる、日本一の規模を誇るつばき園です。見頃を迎える2月中旬なら3月中旬には「つばき観賞会」が開催され、可憐なつばきの一輪挿しの展示などが行われます。園内にある庵「富士見亭」からの、咲き誇るつばきと富士山の眺望も見事です。小室山公園は、一年を通して楽しめる自然公園です。海抜321メートルの山頂ならは360度の大パノラマがひろがり、つつじ、つばき、小室桜をはじめとする四季折々の花は公園全体を彩ります。つつじ園公園の西側麓には、約35,000平方メートルに40種・10万本のつつじが植栽されているつつじ園が広がっており、4月下旬頃から5月初旬までの開花時期には、園内は赤い絨毯を敷き詰めたようにつつじが咲き誇り、つつじの絨毯と富士山を望むことができます。4月29日 ~ 5月5日の小室山つつじ祭りは市内外から多くの観光客が訪れます。山頂からの眺望観光リフト、遊歩道で向かう小室山山頂からは富士山をはじめ相模湾と伊豆の島々、天城連山など、360度の眺望をお楽しみいただけます。小室神社小室神社は、元禄十六年(1703年)の大地震によって被害を受けた小田原領の西方鎮守として、広く関東一円の沿岸を望み見る小室山山頂に建立されました。地震・海難・火災・疫病から人々を守り、復興を見守る神として信仰されています。小室山レストハウス前のロータリー。伊東駅へのバス発着場である。工事中の小室山レストハウス前から見下ろす。小室山案内図小室山レストハウスから山頂へ二つの登山コースがある。 ・森林浴と癒し満喫コース 徒歩約20分 ・ジュラシックコース 徒歩約18分 途中、恐竜広場があり全部で16体の恐竜のモニュメントが設置されている。山頂の自然な起伏を活かしたボードウォークからは、北に富士山、東には相模灘や房総半島、南には伊豆諸島、西には天城連山など雄大な景色が360°広がります。山頂にある「Cafe 321」。山頂の自然な地形を活かし、地中に潜り込むようなカフェ。店内からは相模灘と伊豆大島などが眺望できる絶景ビューポイントです!小室山観光リフト乗り場。営業時間:9:30~16:00 (荒天・点検時運休)料 金 表 :大人 往復料金 800円、片道料金 500円レトロなシングルリフトで片道約5分の空中散歩をお楽しみください!この日は天気が悪く頂上からの眺望が期待できないのでスルーすることに。ツアー客が長い列をなしていた。伊東市 広域図伊東市観光マップ春は10万本のつつじと桜、10月中旬から4月中旬にかけて咲きほこる4,000本のつばきなど、一年中楽しめる花の名所です。標高321mの山頂までは観光リフトがあり、山頂からは伊豆七島や天城連山など、360度の景観を楽しむ事ができます。小室山リフトバス停横の広場にあった作品。地元彫刻家の重岡建治氏作の平和モニュメント「愛のモニュメント」原水爆禁止伊東市協議会と憲法9条を守る伊東市民の会が市に寄贈した作品で、高さは台座部分を含めて3.2メートル。重岡氏が手掛け、2011年に新築された中国・北京の日本大使館に設置された像とほぼ同じ形としたのだと。四阿から北西方向下には市営グランド。かすかに富士が見えていたので露出を変更するが・・・。西方向にこれから訪れる「つつじのトンネル」を見下ろす。手前は一斉に咲き終わったつつじ。つつじのトンネル入口をズームアップ。つつじのトンネル入口から下りてきた階段を振り返る。つつじのトンネル入口。ピークを過ぎていたが見事なトンネルであった。つつじの樹高は5 ~ 10メートルになるのでこのようなトンネルを形成するのだ。記念撮影されるご夫婦。背丈以上のつつじが両側に並ぶつつじのトンネルは写真映えするスポットとして人気!満開のつつじを見上げる。ちなみに、つつじの花言葉は、赤色の花は「恋の喜び」、白色の花は「初恋」だと。右奥に小室山観光リフト。つつじの小路を抜ける。このような種類のつつじも。老木になったつつじ。つつじの後方に小室山観光リフト。小室山観光リフトをズームアップ。14:30ピーク時にはこの光景は真っ赤な絨毯になるのだ、またいつか、奥には枝垂れ桜も。約45分間小室山つつじ園のつつじを堪能し後にすることに。次の目的地は近くにある「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」へ。 ー 続く ー
2023.06.15
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富士山本宮浅間大社の参拝を続ける。4月24日(月) 11:05祈祷殿、交通安全祓所の西側にある忠魂碑。鳥居の扁額「富士地区 忠魂碑」。石鳥居をくぐると丘の上に様々な忠魂碑が並んでいた。石碑には、 「明治三十七八季戦役 彰忠碑 侯爵 西園寺公望 書」。こちらは「慰忠」碑。碑には多くの人の氏名が刻まれていた。鳥居建設境内整備寄附者芳名 昭和四十四年十一月吉日 多くの人の住所氏名が刻まれていた。西鳥居。楼門前に戻る。参道の南側に三之鳥居、二之鳥居を見る。富士宮富士公園線(県道180号線)の御手洗橋交差点。境内の駐車場へはここを入る。朱色の橋が「御手洗橋」。交差点には「御手洗橋 (Mitarashi Bridge)」。11:10参拝を終え駐車場へ戻ったが、富士山本宮浅間大社へ来た時気になっていた「お宮横丁」へ。時間が早かったが伊東へは時間がかかるので、富士宮へ来たらB級グルメの「富士宮やきそば」を食べないと思い昼食をとることに。お宮横丁は富士山本宮浅間大社の門前にある屋外フードコートである。お宮横丁にはアンテナショップ、同じ富士宮やきそばの店があった。お宮横丁にはお土産店もあった。フードコートでは飲料用の水が湧き出ていた。その中で「むすび屋」のやきそばを楽しむことに。店先ではやきそば以外にもだんご等いろんなものを販売していた。富士宮やきそばの他に別腹で「ずんだまんじゅう」も注文。また、来客した有名人の写真も貼られていた。店長の許可を得て撮影。カメラを構えたから店長さんも緊張したか。別のお客さんが食べていた、ミックスやきそば (ソース味&塩味) を撮影させてもらった。我々はソース味の「富士宮やきそば」550円 を楽しんだ。ゴルフで来た時いつもお土産で購入していたので久しぶりの味であった。コシの強い麺と、肉かすやイワシの削り粉を入れた味付けで美味であった。どれも美味しそうであった!11:30駐車場にある二之鳥居。観光バスが一台訪れていた。次の目的地「伊東市の小室山つつじ園」をカーナビにセットして出発。一般道を利用し目的地までは約75キロ、所要時間は約2時間と。二之鳥居には、「奉納 大昭和製紙株式会社 創立三十周年記念 社長 斎藤知一郎」と。13:00富士山本宮浅間大社から国道139号を南下、国道1号、三島から国道136号を南下。大仁中央インタを右折して県道19号線(伊東大仁線)を走り、亀石峠を越え東伊豆へ向かう。13:15県道19号線(伊東大仁線)の亀石峠から下り途中にあった漂流船?「安針丸」。この設備は現在は閉鎖中なのか?入口に立っていた看板。近くに「うさみ観音寺」があったのか。県道19号線(伊東大仁線)を海岸線へ進む。13:20亀石峠から下りこの先の亀石峠入口交差点で国道135号と合流、ここを右折し目的地へ。国道135号を進むと道路脇に「小室山公園 つつじ鑑賞会」と書かれた看板。ここを左折して目的地の「小室山つつじ園」へ。13:45小室山つつじ園所在地:静岡県伊東市川奈 公園中央伊東駅からバスで20分、40haの公園内に植えられている10万本ものつつじ。公園内には美しい自然林の間を縫って通じている観光リフトも有り、頂上からの展望はすばらしく、春、つつじの花に覆われた丘も見事である、他には、椿もみられる。 通年はG.Wの期間にはつつじ祭りが開催されるが今年は咲き終わっているのではと。小室山公園つつじ観賞会2023年4月15日(土) ~ 5月7日(日)の間「小室山公園つつじ観賞会」を開催します。小室山のつつじ園には、40種類10万本のつつじが植栽されている。入園料は無料で期間中は小室山グランドを臨時駐車場として開放している (駐車料金 500円)。下の道はリフト乗り場へのバス道。枝垂れ桜の下につつじ。つつじは、ツツジ科の植物であり、学術的にはツツジ属の植物の総称である。ただしドウダンツツジのようにツツジ属に属さないツツジ科の植物にもツツジと呼ばれるものがあるので注意が必要である。 主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花となっていると。ピーク時には丘陵地を覆うつつじの絨毯であろう。つつじとさつきの違いはいろいろあるが、花の咲き方はつつじが一斉に咲くのに対し、さつきはパラパラと咲きますと。別の方角もピークを過ぎていた。丘の上に四阿が建っている。階段を上るとリフト乗り場へ至る。ズームアップ。つつじは同時に咲かないようだ。つつじの植え込みの中に「小室山 五俳人の句碑 小室山を詠む」の句碑。 ● 恋すてふ落暉追ひ落つ寒椿 恭子 ● 鄙ぶりのくれなゐ強き椿かな 茂雄 ● つつじ燃え伊⾖の近か富⼠親しうす 南畦 ● 人語絶ゆるまて繚乱とつゝし燃ゆ 龍人 ● 神々の襖をはづす五月富士 器句碑「小室山を詠ふ」伊東市俳句連盟では、伊東市文化協会の主催により例年伊東温泉つつじまつり俳句大会を開催しておりますが、本年第五回大会を迎えるに当りこれを記念して選者五先生の御染筆により句碑を建立しました。選者名 渡辺恭子 曲 水主宰 島村茂雄 笛 主宰 河野南畦 あざみ主宰 小笠原龍人 塔 主宰 神蔵 器 風 土主宰副碑裏面 文字なし昭和六一年四月満開のつつじをズームアップ。階段を上り途中から駐車場方向を見下ろす。ピーク時も見てみたいものだが。つつじの開花はタイミングが難しい。更に階段を上り西方向を見下ろす。階段の最上段から見下ろす。下の道路はリフト乗り場へのバス道。丘の上の四阿から正面奥に小室山グランドの臨時駐車場を見る。13:55奥は小室山観光リフト乗り場、小室山レストハウス。植込みに中には「敬宮愛子内親王お誕生記念植樹」の立札。 ー 続く ー
2023.06.14
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富士山本宮浅間大社の参拝を続ける。4月24日(月) 10:50湧玉池(わくたまいけ)は十数名の人が清掃していた。湧玉池は、富士山本宮浅間大社の境内にある湧泉で、国の特別天然記念物に指定されており、平成の名水百選のひとつでもある。右側辺りが富士への登山者が身を清めた「禊所」であろうか。湧玉池の水深は膝下の深さであろうか。湧玉池は富士山の雪解け水が伏流水となって毎秒2.4kℓ流出している。水温は一年を通して13℃でほぼ一定である。末社 稲荷神社稲荷社の前には狐。後方に湧玉池。末社 稲荷神社祭 神 宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) 猿田彦神 (さるたひこかみ)、大宮姫神 (おおみやひめのかみ)例 祭 ニ月初午湧玉池(下池)を東へ進むと朱色の橋「神路橋」。神路橋を渡ると湧玉池の川中島に鎮座する巖島神社。巖島神社社の前には鳥居の後方に対の狛犬。末社 嚴島神社祭 神 市枡島姫神 (いちきしまひめのかみ)例 祭 六月十七日嚴島神社の社殿。白のフジが咲き始めていた。社の左側には紫色のフジが満開。旅友のブログでは湧玉池の清掃時にはお賽銭も回収?とか。嚴島神社から神路枚橋上へ。湧玉池の東側から、朱色の神路枚橋、川中島に鎮座する嚴島神社、神路橋。右奥には参集所。湧玉池 (下池)池の中では7~8人ほどの作業員の姿が。この森の中から富士山の雪解け水が伏流水となって流出しているのだ。駿州赤心隊の碑その左隣には「駿州赤心隊之碑建設趣意碑」。駿州赤心隊富士亦八郎重本 文政九年 (1826年) ~ 明治三十年 (1897年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した。富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。ニ十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿川赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿川赤心隊顕彰の碑である。この石碑は1934年に町民によって建てられたものである。。御神幸道道標(ごしんごうどうしゅひょう)の碑明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道の起点の碑である。御神幸は、舂秋の大祭前日に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復するもので、祭神は鉾に宿って移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。御神幸道の5 0丁 ( 1丁は約109m) の間には、1丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大部分は確認することができない。湧玉池の畔に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれた石碑が立っていた。この首標は、昭和59年に浅間大社境内の土中から発見され、奉納者の子孫の方によって現在地に再建されたものだと。国指定特別天然記念物 湧玉池 (わくたまいけ)湧玉池は、約1万年前の富士山噴火によて噴出した溶岩流の末端に位置している。富士山に降った雨や雪が溶岩流の隙間に貯えられ、溶岩流の末端から押し出されるように湧き出し、池となったと考えられている。湧玉池は、富士山の湧水のうちでも規模が大きく、学術上貴重なものであることなら、昭和27年 (1952年) 3月29日に特別天然記念物に指定された。また、湧玉池は世界遺産富士山の構成資産である「富士山本宮浅間大社」に含まれている。池の面積は約2,500㎡。水温は四季を通じて約14℃、水量は平均毎杪2.1m3 (平成25年度) あり、池から神田川に流れ出し、市内を流れている。浅間大社の社伝によると、噴火する富士山を水徳の神(浅間神)の力により鎮めるために、湧玉池の畔に浅間神社を建てたという。また、湧玉池は登山者が身を清めるために禊を行ったところで、室町時代の富士登山の姿を描いたとされる「絹本著色富士曼荼羅図」(国指定重要文化財浅間大社蔵)には、湧玉池で禊をする道者(登山者)の姿が描かれている。神田川に架かる最初の橋「神幸橋」。神田川として流れ出る富士山御霊水。神田川は静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社内にある湧玉池に源を発し、南へ流れ同市浅間町付近で潤井川に合流する。湧玉の池は、富士山の雪解け水がおよそ15年かかって麓に湧き出た清水であって、夏冬通して水温は常に約13度である。市街地であるが天然のカジカが生息しており、上流部においては自然の渓流の流れが再現されている。富士山御霊水は湧玉池から勢いよく流れ出し神田川となる。湧玉池の下池。神幸橋横に立つ「国指定特別天然記念物 富士山御霊水 湧玉池」。富士宮富士公園線(県道180号線)の湧玉池交差点。この辺りは富士の裾野であるため富士へ向かって坂道になっている。湧玉池交差点の左後方に富士が見えていた。神幸橋からの「東鳥居」。5月の流鏑馬は、東鳥居と西鳥居の間で開催されるのだ。左側は神田川の下流側。東鳥居の前に立つ社号標石「冨士山本宮淺間大社」。湧玉池(下池)に架かる左から「神路橋」、「川中島に鎮座する嚴島神社」、「神路枚橋」。朱色の橋、鳥居が湖面に映える、右奥には参集所。富士宮富士公園線(県道180号線)沿いを勢いよく流れる神田川。神田川傍に立っていた石碑。平成の名水百選「湧玉池・神田川」 認定 平成20年6月25日 環境大臣 鴨下一郎平成の名水百選「湧玉池・神田川」環境省では、全国各地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境の中で、地域住民等による主体的かつ持続的な保全活動が行われているものを「平成の名水百選」として認定しました。富士宮市からは「湧玉池・神田川」が選定され、これを記念し伝承するために記念碑を建立しました。 平成20年6月25日 富士宮市長 小室直義 神田川の下流側に御手洗橋交差点がある。湧玉池から富士山本宮浅間大社の拝殿前へ戻ることに。途中で会った家族、七五三にしては時期が違うが。湧玉池(上池)に建つ水屋神社。フジが例年より早く綺麗に咲いていた。東門前には「咲良 (さくら) みくじ」。富士山本宮浅間大社「咲良みくじ」 ~ 富士山からとどいたキセキの水で体験できる神秘的なおみくじ ~人気上昇中の水みくじ「咲良みくじ」は結ぶと富士山の形になる と。新緑に覆われた「富士山御霊水 水屋神社」。東門を入り境内へ、信玄桜が聳える。左側に社務所があり御朱印受付。楼門西廻廊を出て振り返る。西廻廊を出ると石碑が並んでいた。左前方には西鳥居。一番右の石碑は「皇太子手植櫻樹碑」。明治二十七年二月十八日 皇太子拝駿河〇富士郡浅間神社・・・(後略)刻まれた字が風化し判読できなかった。富士山 第三十回登頂記念碑富士山と琵琶湖は 一夜の故事にちなみ 世界平和国土安全を願い 毎年登頂本年五十年目を迎え ここに記念碑を建立する。 平成十八年七月吉日 富士と琵琶湖を結ぶ会 滋賀県近江八幡市富士山本宮浅間大社 思えば千と二百年唄 渡辺通久作詞作曲 後藤良夫編曲 高岡利光 一、君と歩いた参道は 木漏れ日のゆれる 石田川 浅間の宮は 天高く 思えば千と二百年 歴史を伝ふ ニ、祭囃子か 締め太鼓 あれは若衆の 心意気 水の流れも そのままに 思えば千と二百年 歴史を浮かべる 神田川 三、杜の向こうに 富士の山 千古の雪を 頂いて 湧玉池に 湧くと聞く 思えば千と二百年 歴史を奏でる 笙の笛11:05シャクナゲが綺麗に咲いていた。 ー 続く ー
2023.06.13
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富士山本宮浅間大社の参拝を始める。4月24日(月) 10:30楼 門楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付きます。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長十九年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。鳥害を防ぐために金網をかけられた楼門の扁額「冨士山本宮」。楼門前には左右に大きな絵馬があり右側には「萬邦共和」、左には今年の干支「うさぎ」の絵。楼門前の石段上にある紙垂で飾られた木枠の中にある自然石は鉾立石といい、明治初年まで行われていた山宮御神幸の際、神鉾を休め奉った所です。説明板には「その昔 四月・十一月両度の大祭礼に山宮へ御神幸の際鉾を立てた石です。」と。鉾立石をズームアップ。ひびが入っていたが。楼門前左側には手水舎。立派な手水舎と西廻廊。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長十九年(1614)の年号がある。随身を撮影しようとしたが窓がなく・・・。旅友が随身の撮影に挑戦していたので私も隙間から。随身(楼門の右側)に左大臣。随身(楼門の左側)に右大臣。楼門前から振り返り東西に走る「桜の馬場」。5月5日勇壮な神事流鏑馬式が執り行われる馬場で、馬場にはご神木の桜が植えられている。境内には500本以上の桜が植えられ、春には桜の名所として賑わっている。石鳥居の三之鳥居、参道の先に朱色の二之鳥居。楼門を入り境内へ。正面に拝殿。拝殿の注連縄。拝殿の扁額「淺間大社」。楼門を振り返る。拝殿前から左側へ回り込む、拝殿の後方には二重の楼閣造の本殿。境内の配置図。境内の左側に「祈祷受付・お守授与所」、祈祷殿。西門の手前に、二つの説明板。左に「名称 火山弾」、右に「南極の石」。南極の石この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第七次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷艦、ふじ、の乗組員赤池 稔氏の(富士宮市出身)奉納であります。 富士山本宮 浅間大社南極の石名称 火山弾 目方約三十貫 (約百キロ)これは富士山噴火の時に、地中の岩漿が火熱のために溶けて空中に吹き上げられ落下した際に、酸化して冷却したものです。この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。火山弾本殿の左側に鎮座する摂社「三之宮浅間神社」、左に「富士山 浄砂」。防災用の消火栓が設置されていた。三之宮淺間神社江戸時代には境内・境外に摂社19社、末社15社と多くの摂末社を抱えていた浅間大社だが、安政大地震により大破し内陣に合祀されたり明治以降の統廃合により、現在は境内に摂社2社・末社4社を抱える神社となっている。「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第三御子明神と考えられ、江戸期までは三之宮と称されていた。祭 神 淺間第三御子神例 祭 十一月四日富士山 浄砂この砂は敷地の隅に撒いて清めたりする「お砂取り」に使われるもので、富士山奥宮の清浄な土地の砂をお守りとしたり、家の敷地を清める為に撒いて使用する。授与所に申し出れば一握りほどいただけるのだ と。右側から「本殿」を見上げる。本殿は二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がないと。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され、以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。祭神が木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であることから桜が御神木。本殿をズームアップ。拝殿前の右側に「信玄桜」が聳える、開花時期に見たいものだが。境内には「御朱印・湧玉池 → 」の案内板。東側から本殿を見上げる。本殿の右側に鎮座する摂社「七之宮淺間神社」。 祭 神 淺間第七御子神例 祭 十一月四日 左側の石柱には「富士山頂奥宮境内地行政訴訟勝訴之碑」と刻まれている。信玄桜武田信玄公お手植えの枝垂れ桜の二世で廻りには多くの祈願絵馬が吊るされていた。境内の東側にある湧玉池への入口「東門」。「水屋神社 ▶ 」への案内板。東門を出ると、明治廿年七月七日 富士山本宮と刻まれた「霊水鉢」。植込みには「文化財愛護 重要文化財 富士山本宮浅間大社 本殿 慶長9年(1604)」の立札。湧玉池 (わくたまいけ) の上池国指定特別天然記念物 湧玉池 (わくたまいけ)この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間にニ、四キロリットル、年中殆んど増減がありません。昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。 つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま 平兼盛湧玉池は清掃中であったが、池には多くのカモが泳ぎまわっていた。藤棚に「富士山御霊水 水屋神社」。水屋神社への左側には竹で作られたパイプから「御霊水」が流れ落ちていた。竹製の採水口が10箇所あり飲料水の水取場。掲示板に「飲用の場合は煮沸推奨です」と。藤棚から紫色のフジが暖簾の如くに綺麗に咲いていた。ネットでは「このフジの花が咲くと今年も流鏑馬祭(5月4・5・6日)の時期になったと実感する」とあったが、この日は4月24日で開花日が相当早いようだ。花房の長さは1メートル以上あったであろうか。藤棚の奥にあったのが「富士山御霊水 水屋神社」。末社 水屋神社祭 神 御井神(みいのかみ)、鳴雷神(なるいかづちのかみ)例 祭 一月四日富士山からの御霊水を守護する神社で、水屋神社では平成の名水百選にも選ばれている富士山御霊水を、汲み持ち帰ることができるようになっている。この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んた天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。御霊水のいただき方お気持ちをお供えの上、ニ礼ニ拍手一礼の後、感謝・祈念し手水鉢よりお汲み下さい。この御霊水は古来神様にお供えし、私共も日常の飲料としておりますが、あくまでも天然水ですのでお気になさる方は沸かしてお使い下さい。藤棚下から湧玉池を見る。10:50湧玉池を廻り込み水屋神社を見る。 ー 続く ー
2023.06.12
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富士芝桜まつり会場を約1時間半堪能し、国道139号を南下し目的地の伊東市へ向かう。4月24日(月) 9:25国道139号沿いに真黒な朝霧高原が目に入り一時停車して撮影。雄大な富士をバックに記念写真。野焼きを終えた朝霧高原。9:35道の駅 朝霧公園所在地:静岡県富士宮市根原字宝山492-14当道の駅は富士山を背景に富士宮市北部国道139号沿いに平成12年3月27日に開駅した。近くには白糸の滝、田貫湖、狩宿の下馬ザクラ、富士山本宮浅間大社等の観光名所がある。静岡県側からみる富士は稜線が綺麗である。いつも見慣れている神奈川県側からはの富士は宝永山があり違う光景に。近くには牧場がありサイロをイメージした建物に時計塔、時間は9時35分。地元の野菜を販売していた。あさぎり高原キャベツ 170円。道の駅の裏から富士が綺麗に見えていた。富士の頂上をズームアップ。この時期になると積雪量が少なくなっている。右側に「あさぎりフードパーク」があり、牛乳・お茶・お菓子工房やレストランのある建物がいくつもあるが営業時間に注意。入口の看板には「富士山 味のさんぽ道 あさぎりフードパーク」。駐車場に戻り、富士の稜線をだすため露出を絞って撮影。伊東市への途中にある以前から参拝したかった「富士山本宮浅間大社」へ急遽行くことに。10:20富士山本宮浅間大社 (ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)所在地:静岡県富士宮市宮町1-1道の駅朝霧公園からカーナビの案内で国道139号を南下、富士山本宮浅間大社の駐車場へ到着。浅間大社の御由緒は、富士山の噴火を鎮めた御神徳により崇敬を集め、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた1300余の浅間神社の総本宮と称されるようになった。大社前の駐車場へ愛車を止めたが駐車料金は200円で後払いであった。駐車場の間に建つ二之鳥居。富士が見えていたのでズームアップするが空は曇り空。浅間大社前の県道76号線(神田通り)から東側を見る。現役時代にゴルフで富士宮カントリーへ行く時、この浅間大社前交差点を左折していたので、その時富士山本宮浅間大社の存在を知っていたので今回急遽立ち寄った。県道76号線(神田通り)沿いに建つ大きな朱色の「大灯籠」(右)。左側にも朱色の「大灯籠」。バス専用駐車場脇に土産物店がある。境内案内図。二之鳥居、社号標石、参道の奥に三之鳥居が建つ。本宮の境内の広さは約17,000坪、徳川家康公寄進の神殿、楼門を中心とした御神域は御神徳の偉大さを物語っています。また、富士山8合目以上は奥宮境内地であり、約120万坪の広さに達します。古来富士山は富士山本宮浅間大社の御神体として崇められる神聖地であって数々の霊場行場があります。因みに、富士山登頂は平成16年(2004)7月24日(木)に行っている。二之鳥居の扁額「富士山本宮」。二之鳥居の右側に大きな社号標石、更に右側には富士。ズームアップ。社号標石には「冨士山本宮淺間大社」、右側には木製の「富士山大金剛杖」。富士山大金剛杖石碑には「富士山大金剛杖」。金剛杖を持っている方は、富士登山道中の各山小屋で杖に「焼印」を押してもらうことができます(有料)。五合目から六合目、七合目、八合目と登っていくたびに新たな焼印をつけると自分の頑張った証が焼きつけられているようで杖の相棒感がどんどん増していきます。気がつけば、富士登山の思い出とともに、一生もののお土産になっていますと。周辺案内図。高低差日本一のまち富士宮富士宮市は、海抜35mから富士山の山頂剣が峰の3776mまでの日本一の標高差を誇るまち。と言うことは富士山の山頂は富士宮市であるのだ。家康の浅間大社の造営1604 (慶長9 )年、家康は関ヶ原の戦いでの勝利を記念して、天正10年から仮殿のままであった社殿の造営を行いました。建物は2年後に完成、正遷宮※が行われました。浅間大社の本殿はそれまで一階建て構造でしたが、この時、現在のようにニ重の楼閣造(浅間造)になったと言われています。本殿は現在、重要文化財に指定されています。 ※ 造営などのために移動させた神様を、新しい建物に移すこと富士山はだれのもの? ~ 家康と富士山 ~現在、富士山八合目以上は浅間大社の所有となっています。そうなったことには家康が深く関わると伝わります。江戸時代の1609 (慶長14)年、浅間大社は家康から山頂部の「散銭」(賽銭)を、修理費用として寄進されたとされ、これを足掛かりにした浅間大社は、境内地として山頂部の支配・管理権を強めました。これに対し、他の登山口もそれぞれの由緒から、富士山における権利を主張しました。その結果訴訟となり、1779 (安永8)年、幕府の判決文に基づき、浅間大社にハ合目以上の支配が認められました。その後近代になって一旦は国有地となりますが、1974 (昭和49)年の最高裁判決により、浅間大社に返還されました。 富士宮市教育委員会二之鳥居の下から土産物店を振り返る。一階屋根に「ここずらよ」と書かれて看板。店内では「富士宮やきそば」、「虹鱒甘露煮」、「富士のやぶきた茶」、「あさぎり牛乳」や「地酒」などの地元特産品が販売されている。地方発送も承りますと。参道入口の左右にも大きな白色の石灯籠。参道脇の旗には「家康公の遺産 FUJINOMIYA」と。2023年大河ドラマ「どうする家康」の放送をきっかけに、富士宮の新たな魅力を全国に発信するため、オリジナルロゴマークを活用したのぼり旗を作ったのだ と。石畳の参道の先に「三之鳥居」。三之鳥居の前に狛犬。右側の狛犬阿形像。台座には大正7年(1918)5月吉日建立。左側の狛犬吽形像。三之鳥居を潜ると右側に「流鏑馬像」。台座の「流鏑馬練行之図」。武将の名はなかった。逆光のため後方から撮影するが馬上は?。流鏑馬祭縁起社伝によれば建久四(1193)年五月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき、当浅間大社に参拝し、流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である。当大社所蔵の天正五年(1577)の富士大宮御神事帳や、慶安三年(1650)の富士本宮年中祭礼之次第にも、五月五日の条に五月会流鏑馬 と記載されている。又その当時の古文書、朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料、豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印地の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる。現在は五月四・五・六日の三日間にわたり行なわれ、四日が前日祭、五日が本祭、六日が後日祭になっている。五日の本祭はこの祭の中心で、拝殿で祭典を行い、ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職、弓武者、槍武者、鎧武者、射手代官、射手、氏子代表、稚児等が市内を練り歩いた後、桜の馬場に参入して、鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行われる。当日は端午の節句でもあり近郷近在から二十万余の参拝者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない。 平成七年五月五日鏡池に架かる「輪橋」。鏡池は楼門前の池で一名眼鏡池とも云われます。中央の輪橋は大正四年御即位記念として石造りに改められた。一名眼鏡池とも云われている右側の鏡池。左側の鏡池。10:30輪橋を渡ると正面に「楼門」。本宮社殿は慶長九年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものでしたが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみですと。楼門前のこの道は西鳥居から東鳥居までの「桜の馬場」で今年も5/4~6に「流鏑馬」が行われる。奥には朱色の「東鳥居」が見える。馬場にはご神木の桜が植えられており、これらを含めて境内には500本以上の桜が植えられ、春には桜の名所としても賑わいますと。 ー 続く ー
2023.06.11
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富士芝桜まつり会場の竜神池廻りの散策を続ける。4月24日(月) 8:45Peter Rabbit™ English Garden と書かれた切り株に座る「Peter Rabbit™」。Peter Rabbit™と記念写真をする女性。青空で富士が映ればインスタ映えするのだが。西方向を振り返る。イングリッシュガーデンにある四阿を望む。遊歩道脇にはいろんな花が植えられていたがゴールデンウイークが見頃になるのか。団体専用入口からの遊歩道脇に立っていた旗。竜神池越えに撮影ポイントを見る。団体専用入園口奥に団体・バス駐車場があり多くの観光バスが駐車。香港人、台湾人であろうか多くの中国人観光客が来園していた。順路であろうか「園路」方向へ進む。ムスカリ標高が高いので今が見頃だがユキヤナギと同様に我が家では既に咲き終わっている。ムスカリ キジカクシ科穂状にたくさん咲かせるぶどうのような小花が魅力的です。竜神池の東側から会場を見る。右側は団体専用入口からの遊歩道で旗が立つ。 竜神池の南側に広がる芝桜。ゴルフ場のコースを感じさせるレイアウトであるが。まだ若木のゴテンバザクラ。ゴテンバザクラをズームアップ。ゴテンバザクラは、バラ科の落葉樹である。本種はマメザクラと他のサクラとの交雑によって生まれたものと推測されている栽培サクラである。比較的栽培・繁殖も容易であり、加えて小さな木でも花が付くことから盆栽等にも用いられている品種である。(GKZ 植物事典より引用)。竜神池の南東側から見る。遊歩道脇に旗が立ち並ぶ。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる「マックダニエルクッション」が植えられている。マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 濃いめのピンクのマックダニエルクッションの中にハートのマーク。ハートの白色は「モンブラン」であろう。モンブラン白の芝桜を代表する品種です。葉色が黄緑色なので、他の品種と区別しやすく、花がない季節でも明るい印象になります。ピンクのマックダニエルクッションの中に四つのハート。青空の中の富士を撮影したかった。遊歩道は湾曲になっておりドローン撮影も良いのでは。いつの間にか富士の頂上が見えていたので露出を下げ撮影。遊歩道の右側にはゴテンバザクラが満開であった。ゴテンバザクラ竜神池の西側。ビューポイントエリアには多くの人が。赤い芝桜と言えば「スカーレットフレーム」。「スカーレット」は緋色(ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢 (はなむら) です。ズームアップ。富士の頂上が見えていたので竜神池前へ急いで移動。ピンク、赤色の芝桜が広がる。ゴルフ好きな人は池越えのコースでバンカーが横たわるとイメージ。オータムローズ芝桜の中にネームプレートが挿されている。オータムローズ花色は、ローズビンク。一般的に「ピンクのシバザクラ」と呼ばれてます。優雅でエレガント、女性的な優しさに満ちた、たおやかな挑色の雲を想起させます。西側に広がるローズピンクの「オータムローズ」越しにミニ芝桜富士。ミニ芝桜富士をズームアップ。傍に一本のサクラの木が聳える。東を見るとまだ富士の頂上が見えていた。出来るならば青空が欲しかった!!!入口近くに植えられていた「富士芝桜まつりのシバザクラ」。会場内で楽しめる8種類の芝桜の内の4種類。スカーレットフレーム赤い芝桜と言えば、この花を指すことが多いです。「スカーレット」は緋色 (ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢 (はなむら) です。花叢:花が一面に広がった叢 (くさむら) の意。ジャイアントローズ存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 9:05出入口にある土産物店。店先で温かい桜茶を頂く。気温が約10℃と低く美味しかったのでお土産で購入。出口を出ると多くの人がチケット売り場へ。9:15寒い中約1時間半の散策であったが堪能して後にすることに。次の目的地は伊東市へ。 ー 続く ー
2023.06.10
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富士芝桜まつり会場の散策を続ける。4月24日(月) 8:15高さ約8mの展望塔から会場を見下ろす。手前にキッチンカー、飲食エリアがあるが時間が早くまだ準備中であった。一方通行の階段を降りショップ1階を見下ろす。壁面の花の絵をズームアップ。明るくきれいな店内である。まだ早い時間帯であったが多くの観光客が土産物を購入しておられた。壁面には右に「こねこのトムのおはなし」、左に「かえるのジェレミーのおはなし」。振り返ると「赤りすナトキンのおはなし」。Peter Rabbit English Garden ー FUJI MOTOSUKO RESORT ーここへ座り記念写真を撮っておられたが、店内はスルーした。富士の頂上が見えていたが青空でないので・・・。気温が5~7℃であるので皆さん厚着で訪れておられた。徐々に観光客が増えてきていた。キッチンカーが並んでいたがまだ準備中であった。手前から「ショップ&ギャラリー」、「展望塔」、「The Cafe」が並ぶ。Peter Rabbit™ English GardenWelcom to Peter Rabbit™ English Garden ピーターラビット™ イングリッシュガーデンに寄せて ー 監修 マーク・チャップマン ー人口に入ると直ぐに庭の中でピーターラビットを見つける事でしよう!田舎のコテージガーデンでよく見かける植物とフルーツの茂みで囲まれ、芝生ではピーターラビツトが家族やともだちと共有している大きな巣穴を見ることができます。その後に続くと、両サイドにイングリッシュボーダーガーデンがあります。反対側には大きな芝生の塚があり、気軽に座って富士山の雄大な景色をお楽しみください。春から秋にかけて、たくさんの素敵な写真スポットを楽しめます。庭はまだ新しく、多くの食物が成長し始めたばかりです。どうぞ、別の季節にこのガーデンに戻ってどのように発展していくのかをお楽しみください。マーク・チャップマン英国リンカンシャー出身、大規模ランドスケープから個人邸を手掛ける実力派の英国人ガーデンデザイナー。長野県「自馬コルチナ・イングリッシュガーデン」を始め、全国各地のプロジェクトを手掛け、デザイナーだけでなくガーデナー、講師、ショップ運営と幅広い園芸サービスを提案している。英国内、日本国内で開催の様々なガーデンショーで多くのメダルを獲得し、有名ブランドとのコラボレーション、NHK「趣味の園芸」ガーデンマスターとしてTV出演等、その実力が広く知られるところとなる。ピーターラビットたちにも出会えるガーデンイングリッシュガーデン内にピーターラビット絵本シリーズの仲間たちがいます。一緒に写真を撮ってお楽しみください。ガーデン内の植物情報イングリッシュガーデンには季節ごとに咲く約300種類の草花が植えられています。代表的な植物には花名板がついており、QRコードから詳細がこ覧いただけますので是非お楽しみください。イングリッシュガーデンへ入り竜神池がある東エリアへ進む。ピーターラビットの親子。説明板がなかったがこれは?上着をハンガーにかけ周りにハト。イングリッシュガーデンを振り返る。季節ごとに咲く約300種類の草花が植えられているとあったが。根元に名札があったがこの木か?根元の名札?。白い花をズームアップ。振り返るとイングリッシュガーデンにスイセンも咲いていた。絶景ポイントの竜神池前だが富士の頂上は雲に隠れていた。自撮り用の台も設けられ多くの中国人がポーズをとって撮影していた。中には遊歩道に座り込み撮影する人も。西方向の芝桜の海原にある撮影ポイント。左から「ピンクの海を旅する小舟」「ミニ芝桜富士」「展望台」「幸せの黄色い扉」と。芝桜の遊歩道を歩き芝桜の海原の先に竜神池前の撮影ポイントを見る。三脚をセットして富士の頂上が出るのを待っておられるのか。観光地によっては三脚の持込禁止の所が多いがここは珍しくOKのようだ。ピンクの絨毯が広がっているが植込みは一本づつ。高さ約8mの展望塔がひときわ高い。展望塔方向をズームアップ。富士の頂上が見えないので芝桜内の遊歩道を歩き、竜神池前の撮影ポイントを見る。シャッターチャンスを多くの人が待っていた。天気が良ければこのような写真が(写真はネットから)。今回撮影した写真は青空でなかったので残念ながら。竜神池には逆さ富士が期待できるのか。遊歩道脇にユキヤナギが咲いていた。我が家ではとっくに咲き終わっているがここでは満開であった。竜神池前の撮影ポイント。撮影ポイントには自撮り用の台も何台か設けられている。この後歩く対岸の芝桜。写真の構図は空に変化がないので芝桜を中心にと指導を受ける(笑い)。竜神池の廻りにはピンクの絨毯が広がる。竜神池はさざ波で逆さ富士は映らず。湖面にはピンクの芝桜が映える。竜神池でのんびり釣りをする・・・。8:45釣り人はカエルさんであった、蓮の葉も人工?。 ー 続く ー
2023.06.09
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富士芝桜まつりは5年前の2018年5月5日(土)以来二度目の訪問である。その時も今回と同様に富士山は見えていたが青空ではなかった。4月24日(月) 7:55東方向には赤・ピンクの絨毯の先に富士山。入口方向を見る。芝桜の香りが漂っていなかったが匂いはあるのか?。ネットで調べると、芝桜は花が満開の時期でもほとんど香りがありませんと。 別の情報では、芝桜は地面を這うように生える植物のため、大抵は足下くらいの高さで咲いていることが多いです。よって、しゃがみこんだりしないと、花の香りは感じにくいと思います。マスクをしている今は、なおさら気付きにくいでしょうと。よって、目の高さに植えこむとかすかな香りを感じると!また、芝桜を増やす場合は、挿し芽か株分けで増やしてくださいと。富士の頂上にかかる雲の流れが早いようだ、よって頂上が見え隠れしていた。振り向くとミニ芝桜富士、展望台。5年前はなかったが芝桜の中に「ピンクの海を旅する小舟」が設けられていた。左側の山は大室山であろうか。ピンクのジャイアントローズと赤いスカーレットフレームの芝桜の中に浮かぶ小舟。後方の山は大室山であろう。小舟をズームアップ。北側から、ミニ芝桜富士、展望台を見る。富士を見ると頂上部分は雲で隠れていた。展望台へ向かう。マックダニエルクッションが広がる。マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 北方向にあるイングリッシュガーデン、展望塔を見る。芝桜の中にこれも新しく「幸せの黄色い扉」が設けられていた。廻りの芝桜は「多摩の流れ」。ドアを開けると、富士山と一面ピンクの世界に入り込んだかのような写真が撮れますと。このためインスタ映えの写真を撮るため列をなしていた。ミニ芝桜富士、雲に隠れた富士山。公園内に立っていたポスター「予告 虹の花まつり 9月1日 ~ 10月15日開催予定 カラフルな花々と富士山の共演」と。展望台入口この日は展望台上には観光客の数が少なかったが祝日は混みあうので一方通行になっている。展望台入口に咲くサクラ。満開のサクラはゴテンバザクラであろうか。展望台上から東に広がる会場を見下ろす。地上約3.8mの高さから会場を一望できる展望台である。空と富士山と芝桜の美しいコラボレーションを存分に味わえるまさに「特等席」であると。旅友が撮影した写真を拝借したが青空が欲しかった。私が展望台へ上がった時は富士の頂上には雲。左は富士山の麓にある大室山。左側の木の後方に「ピンクの海を旅する小舟」がある。北方向にある「幸せの黄色い扉」を見下ろす。後方にはイングリッシュガーデン。黄色い扉の前では皆さんスマホで記念撮影。展望台上から北北東方向を見る。大室山は、山梨県南都留郡富士河口湖町本栖、富士山の北西麓にある標高1468mの山。富士山が持つ多くの測火山のひとつで、なだらかな富士山の麓にあるため外見は独立峰に見える。頂上部には火口の窪みがある。青木ヶ原樹海の南側に位置し、周辺には本栖風穴、大室風穴、神座風穴などの風穴が点在する。再度富士を見、展望台を下りる。展望台を下り、グランドレベルからの芝桜。芝桜の中に「イギリス式庭園 ピーターラビット™ イングリッシュガーデン」の案内板。案内板には「 Peter Rabbit™ English Garden ー FUJI MOTOSUKO RESORT ー」。左側にイングリッシュガーデン。南方向の展望台を振り返る。右奥の展望台をズームアップ。振り返ると、左側から総ガラス張りの「The Cafe」、「展望塔」、「ショップ&ギャラリー」が並ぶ。イングリッシュガーデンが広がる。左に展望塔の「GARDEN TOWER」、右に「ショップ&ギャラリー」。展望塔の入口に「🦋 展望塔ご利用にあたり 🦋」。 塔内は一方通行の狭い階段となっております。 お足元にご注意の上、ゆっくりとお進みください。 また、次のような行為はご遠慮ください。 ・物を投げる ・身を乗り出す ・火気および危険物のお持ち込み ・大きな荷物のお持ち込み ・ご飲食 ・ペットのご同伴 🐞 Observation Tower Rules 🐌狭い廻り階段の壁に、「Peter Rabbit English Garden ー FUJI MOTOSUKO RESORT ー」のボード。こちらには、「Benjamin Bunny (ベンジャミン・バニー)」。「Mr. Jeremy Fisher (ジェレミー・フィッシャー)」。高さ約8mの展望塔から会場を見下ろす。手前に「Peter Rabbit English Garden」、この時間帯も富士の頂上は隠れていた。ピンク・赤色に染まる富士芝桜まつり会場が東西に広がる。手前にイングリッシュガーデン、正面奥に入口、左奥は竜神池。手前にはキッチンカー、飲食エリア。旅友は次の場所へ移動。8:15展望塔頂部は狭く、次の方が上って来られたので譲り早々に下りることに。 ー 続く ー
2023.06.08
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旅友から「富士芝桜まつり」への誘いがあり新車のノートで出かけた。尚、富士芝桜まつりは5年前の2018年5月5日(土)にも訪れており今回が2回目になる。その時のブログは「富士芝桜まつり」👈 をクリック願います。尚、訪れた翌日にダイジェスト版をアップしております。入り口でもらったパンフレット「富士芝桜まつり」期間は、4.15 Sat ー 5.28 Sun主催:富士芝桜まつり実行委員会 後援:富士河口湖町・(一社)富士五湖観光連盟新聞にも掲載された。4月24日(月)この日はいつものように旅友に我が家へ来ていただき、我が新車で出かけた。5時半に我が家を出発、今回は有料道路を利用し寒川南インタから圏央道、中央道を走った。6:30大月JCTから中央自動車道富士吉田線の河口湖インタへ向かい前方に富士山。曇り空であったが富士が顔を出していた。旅友は車窓から撮影に夢中。道路脇のスペースに車を駐車して撮影。前方に富士急ハイランドのジェットコースター。中央自動車道富士吉田線の河口湖インタ。6:40河口湖インタ料金所。河口湖インタから国道139号を走り会場がある本栖湖方面へ向かう。時間も早く月曜日でもあったので渋滞もなく順調に進む。6:55富岳風穴辺りにあった案内板には「富士芝桜まつり会場 10.9km先」と。7:05国道139号を走って来たが、右折禁止になっているのでユーターンして最後部に並んだ。駐車場がまだ閉門のため道路脇に並んだが平日で時間が早かったのでまだ十数台目であった。7:10国道139号沿いに立つ案内板「富士本栖湖リゾート」。この案内板は富士・富士宮方面から見える。7:30時間が早かったので第一駐車場へ車を駐車できた。駐車場から東方向に富士が見えたが青空が欲しかった。自宅では気温は15℃あったが、ここ本栖湖辺りは標高が960メートルあり5℃と寒かった。妻から出かける前に言われていたので寒さ対策を十分にして自宅を出発。開場は8時からであったが寒さ対策をして入口へ向かう。旅友もジャンバーを着て進む。前方に入園券売り場入 場 料 /大人:1,200円、こども:600円駐 車 料 /普通車:500円、バイク:500円、大型車:2,000円(マイクロバス含む)開園時間/8:00 ~ 16:007:35富士本栖湖リゾート所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町富士ヶ嶺212富士芝桜まつり会場は首都圏最大級約50万株の芝桜が、富士山麓の広大な敷地に咲き誇ります。鮮やかな色のコントラストが美しい、富士山を彩る春の風物詩ですと。チケット売り場は「キャッシュレス決済」と「現金払い」に分かれ、列も別々に。開門前だが後方には既に多くの人が列をなしていた。係員の方から前日の土日は長い列になっていたと、この日は月曜日で先頭に。右側は「現金払い」左側は「キャッシュレス決済」の列。7:50会場入り口の左側には芝桜の飾り付け。私はキャッシュレス決済にしたため操作に手間取り時間を要したが、旅友は現金払いであったため既に会場内へと進んでいた。5年ぶりの「富士芝桜まつり」である。会場は、富士山の麓にある 1.6ha(400m×400m=160,000m2)の広大な敷地に広がる。新聞記事では「富士芝桜まつり」では、8種類約50万株が「笑顔も、春色に」というテーマのとおりに咲きみだれていると報道。会場入口から北北西方向を望む。平成20年(2008)から始まった富士芝桜まつり。首都圏最大級約50万株の芝桜が広大な富士本栖リゾートの敷地に咲き誇ります。会場内一面に、淡かったり、濃かったり、鮮やかな色のコントラストが美しい芝桜が咲いていて、青い空と雪の残る富士山の絶景が楽しめます。敷地をぐるっと歩けるようなルートが整備され、写真撮影に人気なのは「展望広場」と竜神池の前。富士山うまいものフェスタには、富士吉田うどんや富士宮やきそばなど、富士山周辺のおいしいものがたくさんある。会場の南側ではサクラが満開であった。来る途中の国道139号沿いでも綺麗に咲いていた満開のミツバツツジ。ミツバツツジをズームアップ。シバザクラ(芝桜)の基本情報 学名:Phlox subulata 和名:シバザクラ(芝桜) その他の名前:モスフロックス 科名 / 属名:ハナシノブ科 / フロックス属。 4~5月に、赤・桃・白・紫などの、径1.5㎝ほどの小さな花を咲かせます。 原産は、北アメリカで別名「ハナツメグサ(花詰草・花爪草)」と呼ばれます。 花の形がサクラに似ているのが特徴で、匍匐性が強く芝生のように地面を覆って育つ ことから芝桜と呼ばれている。会場内で楽しめる8種類の「富士芝桜まつりのシバザクラ」。マックダニエルクッションマックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 モンブラン白の芝桜を代表する品種です。葉色が黄緑色なので、他の品種と区別しやすく、花がない季節でも明るい印象になります。オータムローズ花色は、ローズビンク。一般的に「ピンクのシバザクラ」と呼ばれてます。優雅でエレガント、女性的な優しさに満ちた、たおやかな挑色の雲を想起させます。多摩の流れ花弁の周りに白い覆輪ふちどりを持ち、ピンクがストライプのように可憐な斑(まだら)模様を花びらに描きます。遠くから眺めると肌色を帯びたピンク(トキ色)の群生のように映ります。オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。ジャイアントローズ存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。スカーレットフレーム赤い芝桜と言えば、この花を指すことが多いです。「スカーレット」は緋色 (ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢 (はなむら) です。花叢:花が一面に広がった叢 (くさむら) の意。アメージングレース(会場で未撮影のためパンフレットから)やわらかい白色で、中心にピンクのドットの入る花を咲かせます。芝桜の中でも市場流通量が少なく、珍しい品種です。順路に従って時計方向に廻る。開場間もないのでまだ来園者は少ない。ジャイアントローズのピンクの絨毯が広がる。満開のサクラ。会場内では芝桜以外にもいろんな花が植えられている。アネモネであろう。入口辺りの土産物店。樹々の後方に富士山が見えているが頂上部には薄い雲。西方向のピンクの絨毯の後方に、ミニ芝桜富士、展望台を見る。ミニ芝桜富士、展望台をズームアップ。芝桜の中にサクラの木が一本。ハートのマークも。前回はハートのマークはなかった。左側のミニ芝桜富士にはいろんな色の芝桜が植えられている。7:55会場の北方向を望む。5年前の2018年5月5日(土)に訪れた時は既に咲き終わった芝桜もあったが今回は最適期。 ー 続く ー
2023.06.07
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この日の予定を終え、大手門跡からJR小田原駅へ向かう。3月30日(木) 15:20国道1号の小田原市民会館前交差点。ここを右折すると東京方面へ、直進するとJR小田原駅。中央労働金庫 小田原支店所在地:神奈川県小田原市本町2丁目1-23もともとは明和銀行の本店として昭和3年に建設されたものだそうですが、大正末期築との情報もあります。建物はその後、横浜銀行から神奈川県労働金庫へとわたり、平成13年の労金統合により現名称に至っていますと。だるま料理店 本店所在地:神奈川県小田原市本町2丁目1-30国道255号沿いにある明治26年(1893)に建てられた、その伝統的な内装を保っている、歴史のある日本料理店で寿司、天ぷら、定食を楽しめる。社寺を思わせる唐破風入母屋造りの建物は、国の有形登録文化財にも指定されている。店先の看板をズームアップ。元網元である金沢出身の初代達磨(たつま)仁三郎が創業し、相模湾で水揚げされる魚介を中心に使った、天ぷらや寿司などの料理が評判を呼び、今日に至りますと。人気の店で店頭には椅子に座って待つ人が列を。国登録有形文化財 だるま料理店店先には店内のいろんな写真が掲示されていた。小田原市街の中心、本町2丁目 (旧大手町) で料理屋を営むだるま料理店は、明治26年創業の老舗である。関東大震災で店舗を損壊し、現在の建物は大正15年に、二代目廣澤吉蔵により再建された。網元であった吉蔵は、店舗の建設に情熱とブリの大漁による贅沢な資金を注ぎ、材料に桧、松、欅などの良材を用いたので、職方もその熱意に応えたという。主屋は、楼閣風の造りで、二階屋根の正面に千鳥破風を二つ連ねて比翼入母屋造りの形に凝らした外観と、一階店舗入口の向唐破風造りのポーチに特徴がある。そのファサードは、老舗の雰囲気を伝え、多くの市民に親しまれている。二階の客座敷は、数寄屋風の書院造りが基調で、床・棚・付書院などの座敷飾や、建具・欄間などの造作に様々な趣向を凝らしたきめの細かい仕事が施されている。また、東側の玄関ホールと二階座敷に上がる階段、及びその横に設けた洋風応接間の意匠にはアールデコの影響がみられる。 以上のように、だるま料理店の主屋はその建設年代や意匠からみて、小田原市街の町並を代表する建造物のひとつということができる。このため、登録有形文化財登録基準(平成8年文部省告示第152号)の「一、国土の歴史的景観に寄与しているもの」と「二、造型の規範となっているもの」に該当するものと考えられる。なお、その価値は、小田原市で行った「ふるさと小田原の建築百景」において認められている。 小田原市文化財保護委員 鈴木 恒一階店舗入口の瓦。国道255号を進み、左側に栄町一丁目交差点の手前にある小林病院。小林歛企先生之碑小林歛企先生は明治十八年山梨県に生れ夙に医を志し若冠二十歳にして東京済生学舎を卒業し医師の免許状を得更に実地を研修して明治四十二年小田原に外科医院を開業し大正十年これを小林病院に改組し医は仁術を標榜して専ら治療に精魂を傾け益々大衆の信頼を高め今日の大をなすに到る又昭和三年以来県会議員に当選すること三回その在職年数は十五年の永きに渉りその間町会議員所得税調査員に選出せらる一方昭和十三年私立相洋中高等学校を創立して自ら理事長兼校長となり数千の卒業生を輩出し傍ら小田原准看護婦学校をも開設す昭和二十七年第一信用組合を創りその理事長となり何れも発展の途上に在りしが昭和三十年三月六日急逝せらる享年七十洵に惜むべし 斯の如く先生は杏林に名声を博したるのみならず地方行政に経済に将亦育英方面に尽されたる功績眞に偉大なるものあり仍って茲に知友門下生等相諮りその遺徳を後世に伝えんために璋徳碑を建立する 衆議院議員小金義照撰書 小林病院前から振り返る。栄町一丁目交差点から西方向へ向かう道路脇に「幸田口通り」の碑が立つ。幸田口通り沿いに「下幸田」の地名石碑が立っていた。地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。栄町一丁目交差点から小田原駅方面へ進み錦通り入口交差点。この交差点の左から南が「お堀端通り」になる。小田原駅東口のロータリースペースは以前と同じだが、上部にペデストリアンデッキが新設されている。バス停は、箱根方面への拠点になっており外国人観光客が多い。東南アジア?からの若い子のグループが歩いていたが・・・。小田原駅東口から北方向に向かう東通りは一方通行になっている。横断幕には「おいしいもの横丁」と。東通りに「新蔵 (しんくら)」の地名石碑が立っていた。稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本 (元) 蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。両側には居酒屋が並んでいたがまだ時間帯が早いので人通りはまばら。美味しそうなメニューが。東通りから小田原駅東口を見る。東通りを振り返る。東通りからエスカレーターで2階のペデストリアンデッキへ上がる。南西方向のビルの合間に小田原城の天守閣が見えていた。天守閣をズームアップ。ペデストリアンデッキからミナカ小田原のテラス席がある「金次郎広場」へ。金次郎広場の両側にはスイーツの店が並んでいる。ソフトクリーム、シュークリーム専門店、パン焼き処等が並ぶ。ミナカ小田原 小田原新城下町1F、2F、3Fにいろんな店が入っている。14Fには「展望足湯庭園(10:00~18:00)」があり、3Fから直通エレベーターが運行されている。10Fから13Fは「天成園 小田原駅別館客室」になっている。ミナカ小田原金次郎広場からペデストリアンデッキへ向かう。小田原駅東口ロータリーを見下ろす。15:45ペデストリアンデッキへ戻る。北條早雲公像がる西口へ向かい新幹線改札口。小田原駅西口に立っている「北條早雲公像」。この像は高さ5.7m重さ7tの日本最大級の銅像で、北条早雲の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしていると。この日はこの早雲公像を見て帰路につく。小田急線、箱根登山線の改札口。土産物店では「湘南ゴールド (今が旬) 1袋 600円」を販売していた。16:04発、特別快速湘南新宿ライン経由高崎行きに乗車。駅のホームでビールとつまみを購入。久しぶりに飲み鉄で一路茅ヶ崎へ。相模川の鉄橋を渡る。16:22思えばこの電車で東京へ片道約1時間をかけて40年間通ったのだ。16:25茅ヶ崎駅へ到着、Suicaで下車。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキ。16:30ペデストリアンデッキの最北部から国道1号を見る。モスバーガー ¥440私にとってこの食べ物は食べずらいので人生何回食べたか。この日は約16,000歩歩き、疲れたのでのどを潤しにいつもの居酒屋に立ち寄る。常温でお酒を2本(大)、刺し身、焼き鳥を食べ帰路に。小腹が空いていたのでイオンに立ち寄り、銀だこでたこ焼きを食べる。次回は5月3日(水)に「第59回小田原北條五代祭り」が3年ぶりに開催されるので訪れることに。 END
2023.05.19
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この後、小田原宿なりわい交流館から旧東海道の東を一部散策。3月30日(木) 14:30小田原宿なりわい交流館の東側から新芽が垂れ下がる柳の木。カラーのマンホール蓋「日本遺産箱根八里 かまぼこ通り」。小田原宿なりわい交流館の右前に「宮前町」の地名石碑。国道1号はここで右方向へ大きく曲がる。宮前町(みやまえちょう)小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、同時代末期 町内には本陣二、脇本陣二に旅籠が二十三軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心であった。小田原宿なりわい交流館の右側広場に立っていた観光案内板。日本遺産「箱根八里」 旅人たちの足跡残る悠久の石畳道 ー 箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路 ー小田原宿から箱根宿、三島宿の案内。この辺りの観光案内旧東海道筋は既に歩いているので、海側の寺社&史跡を後日訪れたいと計画している。構成文化財① 小田原城跡 (国指定史跡)、② かまぼこ通り、③ ういろう、④ 松原神社、⑤ 旧片岡本陣跡⑥ 旧清水金左衛門本陣跡、⑦ 小西薬局定食店「あきら食堂」所在地:神奈川県小田原市本町3丁目1-24旧東海道沿いにある昭和の雰囲気を感じせる地元民に愛されている店である。旅友との弥次喜多道中で立ち寄り「トンカツ定食 (税込み 1000円)」を食べた。遅い昼食をと思い立寄るが、今回はスルーしこの先の青物町交差点でユーターン。青物町交差点から旧東海道を戻り左側に「小田原宿 脇本陣古清水旅館」の説明板。右前方には「宮前町」の地名石碑が立っている。小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F 資料館江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていた。この本陣の 補助的な役目をしたのが脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能だった。8月15日の小田原空襲1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町ニ・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。今から62年前にあった小田原空襲の記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。 2007 (平成19) 年8月15日 戦時下の小田原地方を記録する会 古清水旅館 館主 清水伊十良宮前町(みやまえちょう)小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、同時代末期 町内には本陣二、脇本陣二に旅籠が二十三軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心であった。旧東海道沿いの南側に「明治天皇聖跡」の石柱。小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡小田原宿は、東海道五十三次のうち江戸から20里(約80km)の距離にある、品川宿から数えて9番目の宿です。箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大きく、本陣、脇本陣、高札場、問屋場など、宿としての機能が整えられていました。天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっています。清水金左ヱ門本陣は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家など、西国の有力な大名が定宿としていました。また、明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回にわたり宿泊しています。清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。 平成29年3月 小田原市教育委員会 明治天皇宮ノ前行在所跡所在地:神奈川県小田原市本町3丁目5-5明治天皇が宿泊に利用した旧小田原宿清水金左衛門本陣の跡地にあり、小さな宮の前児童遊園地になっている。松が一本植えられその下に石碑が建っていた。石碑は敷地の西側に建っており正面から。小田原市指定史跡 (昭和32年3月30日指定)明治天皇宮ノ前行在所跡 (旧清水金左衛門本陣跡) (所在地) 小田原市本町3-5-25明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑には由来が刻まれています。清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)十月八日の御東行を際を初めとして五回を数えます。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和十五年二月に整備工事を着手し、昭和十五年十月に落成しました。 小田原市教育委員会中央に建つ正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所阯」と刻まれている。左側の副碑は小松自然石で、明治天皇が宿泊した由来が刻まれている。 此地ハ舊本陣清水金左衛門・・・後略・・・ 昭和十五年十月八日 明治天皇聖跡小田原町保存會右側の副碑は判読できなかったが、事業碑?は本小松石で明治天皇聖跡小田原保存会の事業が刻んであると。旧東海道小田原宿「おだわらかまぼこ通り」。14:55国道1号の本町交差点に戻り、小田原宿なりわい交流館を振り返る。本町交差点の角に立つ「高札場跡」高札場は、幕府や藩の法令が書かれた木の札を掲げた場所で、目立つように一段高くなった場所に屋根がかけられていたようです。東海道の宿場町には必ず1か所設けられ、小田原宿では宿の中心地である宮前町の一角にありました。 平成29年3月 小田原市教育委員会歩道にあった「水準点 基本 建設省国土地理院」。次の目的地「大手門跡」を目指し、旧東海道(国道1号)の山側を西方向へ進み振り返る。前方には「本町」の地名石碑が立っている。スマホの案内で、御幸の浜交差点を右折しお堀端通りを北上。道路脇に「枝垂れ桜」の案内板があり立ち寄ると、広場に二本の枝垂れ桜が咲いていた。一本の枝垂れ桜は既に終盤になっていた。満開の枝垂れ桜をズームアップ。お堀端通りの三の丸小学校前交差点から西方向を見る。お堀端通り沿いの遊歩道には花見客が多く訪れていた。天守閣をズームアップするが最上階には多くの観光客。学橋にも多くの観光客。15:10お堀端通りの横浜地方検察庁角を右折進むと、民家に挟まれた石垣の上に鐘楼があった。小田原城 大手門跡所在地:神奈川県小田原市本町1丁目5-25江戸時代、三の丸には重臣の屋敷や藩の施設が置かれ、二の丸・御用米曲輪・南曲輪を大きく取り囲むように配置されていた。この三の丸には4つの出入り口が設けられており、そのうち、東の大手口、北の幸田口、南の箱根口は、堅牢な石垣で固めた桝形門となっていた。江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口だったが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移されている。史跡小田原城跡 大手門跡この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所にあります。東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいました。大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門が建設され、延宝年間(1673~1681)には前面に冠木門が普請されました。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は、銅門とほぼ同じです。「寛永年間小田原城城郭総図 (通称「宮内庁図」)」によると、渡櫓門の前には枡形勢溜が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防御力を強化しています。城外とは幅9間半~11間(約17~20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていました。なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。左図:図1「文久図」より 右図:図2「宮内庁図」(宮内庁書陵部蔵を一部改変)大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり (現在の鐘は昭和28年製)、現在でも午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせている。高さ3メートル程の所に立つ鐘楼。昔の鐘は太平洋戦争中に供出されたが、1953年に小田原寺院団によって新しい鐘が作られた。15:15鐘楼内には立入禁止になっていた。鐘 楼この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行所から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないということで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘が作られた。これが現在の鐘である。 ー 続く ー
2023.05.18
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小田原城址公園から国道1号(旧東海道)に出、「小田原宿なりわい交流館」へ進む。3月30日(木) 14:05箱根口交差点から東前方に和菓子屋の「ういろう」。手前の歩道には「らんかんばしちょう」と刻まれた地名石碑が立っていた。欄干橋 ちん里う所在地:神奈川県小田原市本町4丁目2-37明治4年(1871)創業の老舗で梅干し、佃煮、梅酒等を販売している。また、店内には梅干しの種で作ったおもしろい工芸品や、梅の木の種類ごとの種の標本なども展示してあるほか、150年前に漬けた梅干しも並んでいる。店先の表札通りがかりの人が連れの人との会話で「梅干しの種で作ったものよ」と聞き外からパチリ。東海道 小田原の宿と書かれており、よく見ると町並みが梅干しの種で作られていた。それぞれに屋号が書かれていたのか。こちらも梅干しの種で天守閣が作られていた。小田原宿の町名も (右側:江戸 → 京方面)。新宿町 → 萬町 → 高梨町 → 宮之前町 → 本町 → 中宿町 → 欄干橋町 → 筋違橋町 → 山角町。青梅に 眉あつめたる 美人かな 蕪村雨ぽつり 取り込む梅に 雲速し いはほ梅 干梅は中国が原産国とされ、その梅の実の烏梅(ウメイ)と呼ばれ、薬用として珍重されました。日本において梅干がはじめて文献に現れたのは、平安時代中期とされています。村上天皇が梅干と昆布入りのお茶で病気をなおしたといいます。梅干にはクエン酸が含まれており、疲労回復・食欲増進・精神安定などの効果があります。梅の名産地小田原では小田原城主北条早雲が兵糧として百万石もの梅干が作られました。 小田原欄干橋 ちん里う店内に入ると梅干し以外にも、佃煮や、梅を使用したお菓子など、お土産にも、普段使いにもぴったりなものが揃えられていた。立札には「三年漬梅」此の梅干は、皮が絹肌の様に柔らかくきれいで、種子が小さく肉が豊かなおいしい小田原梅を、盛夏の炎天に三日三晩土用干しをした后、適当な湿度と低温の暗い蔵の中に三年間漬け込んだものでございます。 小田原 ちん里ういろんな佃煮がリーズナブルな価格で販売されていた。自分用に3品購入1,000円でおつりが来ました。また、店内には「梅万資料館」の看板。明治4年(1871)創業の梅干店の一角にあり、明治初期から現在までの梅干を漬けたままの状態で展示している。また、梅干の漬け方も教えてくれ、6~7月には梅1kg (2000円~) を使い、梅干造り、梅ジュース造りの体験が可能 (4~5名、要予約) であると。梅干製造図梅長寿之心得 人生は六十才から一、七十歳でお迎えの来た時は只今梅を喰っていると云へ一、八十歳でお迎えの来た時は梅干の種をしゃぶっている所だと云へ一、九十歳でお迎えの来た時は種の中の天神さんを喰う所だと云へ一、百歳でお迎えの来た時は頃合を見て自分から種の中に入る所だと云え街かど博物館この一角には明治初期から現在までの梅干を漬けたままの状態で展示している。欄干橋 ちん里うの店先に、「欄干橋町」の地名石碑が立っていた。箱根方面の信号は箱根口交差点。地名石碑には、町名は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれている。町内には小田原北条氏時代からの旧家外郎(ういろう)家があり、江戸時代末期には本陣一、旅籠が十軒ほどあった。ういろう所在地:神奈川県小田原市本町1丁目13-17外観はまるで城のような建物で、和菓子と薬局が同居するお店屋さん。店内にはカフェもある。この日はスルーしたがお土産も売っているので後日立ち寄りたい場所である。道路脇ではアジサイも出番を待っていた。済生堂 小西薬局所在地:神奈川県小田原市本町4丁目2-48小西薬局は、江戸時代初期より東海道に面する現在地(旧中宿町)にあり、薬種商を営んできた老舗である。また、昭和時代には文化遺産に登録され、現在は「街かど博物館」という名のミニ博物館となっている。店先の軒下には屋根付きの「調剤薬舗 小西本店」と。看板は江戸時代のものであると。関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を一部用いて大正14年頃に完成したと伝えられる。現在の店舗は軒出しも大きく、柱など主要部材に欅材を用いており、重厚な造りであった旧店舗の風格を継承していると思われる。小西薬局の店先に、「中宿町」の地名石碑が立っていた。この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠が十一軒ほどあった。上の問屋場跡宿の主要な機能は、公用の旅行者や物資の輸送、通信、これに伴う休憩や宿泊施設の提供でした。その中心的な機能を担う施設が問屋場で、定められた量の人足や伝馬を備えていました。小田原宿では、中宿町の上の問屋場のほか、高梨町に下の問屋場が置かれていました。上の問屋場については、東海道の向かい側にあったという資料もあります。 平成29年3月 小田原市教育委員会国道1号(旧東海道)の箱根方面。国道1号の御幸の浜交差点、この交差点を進むとお堀端通りへ。御幸の浜交差点にあった道案内。御幸の浜は明治6年(1873)に明治天皇と皇后がおそろいで、当海浜において漁夫の地引網をご覧になり、以来、「御幸の浜」と呼ばれるようになった。交差点を横切り御幸の浜交差点を見る。himono stand hayase所在地:神奈川県小田原市本町3丁目12-21ドライシーフード販売店であじやサバ等を販売しており、店内で干物を焼いてくれ干物弁当が楽しめるお店である。店先に貼られたポスター。先程訪れた小田原城内では、揚げさば棒は500円であったがここでは450円。次回はお土産購入 or 昼食?。久保田本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、久保田本陣もその一つです。紀州徳川家や九州の黒田家、鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が久保田本陣を定宿としていました。なお久保田氏は、江戸時代の前期から町年寄や名主役も務めていました。 平成29年3月 小田原市教育委員会バス停は、箱根登山バス、伊豆箱根バス「御幸の浜」。向かい側に古い建物があり「瀬戸自轉車店」。手前には地名石碑が立っていた。戦前の建物であろうか「瀬戸自轉車店」と。本 町小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが、江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき、本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣二、脇本陣二に旅籠(はたご)が二十六軒ほどあった。片岡本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名家が定宿としていました。幕末の当主片岡永左エ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残しています。 平成29年3月 小田原市教育委員会国道1号の本町交差点。旧東海道は右方向へ進む。この先右側に目的地の「小田原宿なりわい交流館」がある。和菓子屋の伊勢屋 本店所在地:神奈川県小田原市本町3丁目6-22店先に赤い暖簾が下がっていたがこの日は木曜日で定休日。駅ビルのラスカにも出店。本町交差点から旧東海道(国道1号)の箱根方面を望む。「宮前町」の地名石碑が立っている。14:30小田原宿なりわい交流館所在地:神奈川県小田原市本町3丁目6-23この建物は昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、平成13年に開館した公共施設である。1階はお休み処や観光情報のコーナー、2階はイベントスペースとなっており、無料休憩所でお茶のサービスもある。交流館前の柳も情緒を感じさせる。軒先の看板「小田原宿 なりわい交流館」。小田原宿なりわい交流館この施設は、昭和七年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の「憩いの場」として、平成十三年九月に開館しました。誰でも立ち寄れる「お休み処」や市民活動の発表の場として気軽にご利用いただけます。 〇 開館時間 四月 ~ 十月 十時 ~ 十九時 十一月 ~ 三月 十時 ~ 十八時 ※ 二階は二十二時まで利用可能 (要予約) 〇 休館日 年中無休(臨時休館あり) 〇 入場料 無 料建物についてこの建物は、関東大震災(大正十二年)により被害を受けた建物を、昭和七年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられています。また、二階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。内部の意匠も特徴的で、特に二階は、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れているなど、当時の小田原の時代背景を感じさせる貴重な建物です。〔出桁造り(だしげたづくり)〕 柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法。 小田原市小田原宿なりわい交流館前に立っていた観光案内板。小田原宿、周辺案内図周辺案内図東海道本線の海側を紹介している。赤い線が旧東海道で、2018(平成30)年12月4日(火)に旅友と弥次喜多道中で、JR国府津駅から三枚橋まで歩いた懐かしいエリアである。この時の歩数は29,900歩であった。この時のブログは「小田原宿」👈 をクリック願います。小田原宿絵図は、江戸時代後期(1800年頃)の小田原のようす。江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて9番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着します。東は徒歩(かち)渡り(10月から3月の間は橋が架けられました)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休宿に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。中でも小田原宿の中心であったのがこの辺りの宮前町と西隣の本町でした。ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾、梅干、ういろう、小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになりました。市内には江戸時代から続く古い店が残っており、今でも伝統を引き継いでこれらの名物を製造・販売しています。右上図:江戸時代(末期)小田原地名図 (「江戸時代の小田原」付図より)右下図:小田原宿中心部の町割(「小田原市史 通史編 近世」より一部改変)。江戸時代(末期)小田原地名図 武家地の地名の範囲はやや漠然としたものであった。従って点線で武家地の境を図示したが確定的なものでないことを了承されたい。また武家地はその屋敷の入口如何によって異なったよび方をしていた。例えば図左下、西海子の西端に松国氏の屋敷があったが、その入口は御厨小路に面していたので、松国氏の屋敷は御厨小路にあったということになり、図上でも松国氏の屋敷の御厨小路に属させた。 ー 続く ー
2023.05.17
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報徳二宮神社から小田原城曲輪へ。3月30日(木) 13:40報徳二宮神社の東にある南曲輪南掘 (御感の藤棚前) 越しに郷土文化館。小田原城南曲輪西南二重櫓近代以降の小田原城小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治34年(1901)には、二の丸内に御用邸が建設されました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災では石垣が崩壊し、壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され、二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。昭和4年(1929)、銅門一帯には、小田原高等女学校(小田原城内高等学校)や町立第二尋常小学校(城内小学校→三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが、第二次大戦後は、本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原城が設置され、城跡としての景観は失われていました。小田原城の史跡整備小田原城は、昭和13年(1938)に初めて国史跡に指定され、本丸・二の丸の大部分と八幡山古郭や三の丸外郭、総構の一部が国の史跡になっています。昭和35年(1960)に天守閣、昭和46年(1971)に常盤木門が復興されましたが、史跡内に多くの施設が残ったままでした。昭和51年より市庁舎をはじめとした施設移転が進められ、昭和58年(1983)からは、本格的に史跡整備に取り組み、二の丸住吉堀の発掘調査に着手した。平成2年(1990)には、住吉堀石垣と住吉橋が復元され、平成9年に銅門桝形が復元されました。そして、平成21年(2009)には、馬出門が復元され、近世小田原城の大手筋からの登城ルートの歴史的景観がよみがえってきました。小田原城は、北条氏の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められています。一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁、新堀土塁など史跡指定が進められ、史跡公園として公開されています。史跡小田原城跡の主な整備事業一覧 昭和28年(1953) 天守台石垣復旧 昭和35年(1960) 天守閣復興 昭和46年(1971) 常盤木門復興 昭和62年(1987) 住吉堀復元工事開始 平成02年(1990) 住吉堀・住吉橋復元工事完了 平成07年(1995) 銅門枡形石垣復元整備工事完了 平成09年(1997) 銅門復元工事完成 平成11年(1999) 本丸東堀遺構表面表示 平成18年(2006) 馬出門枡形石垣復元整備工事完了 平成21年(2009) 馬出門枡形門・土塀整備工事完了 平成23年(2011) 馬屋曲輪修景整備事業完了説明板の写真から「南曲輪西南二重櫓」横浜の英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4年(1871)12月1号に掲載された南曲輪西南二重櫓の写真です。廃城時には、屋根瓦や白壁も崩落し、荒れ果てた姿でした。正面の石垣は、二の丸南堀と南曲輪の石垣ですが、大正12年(1923)の関東大震災によって崩壊し、昭和初期に復旧されたものです。南曲輪南掘沿いに藤棚が広がる。御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会老木の藤の木。つぼみは出ていたが葉芽はまだのようだ。樹齢は約二〇〇年と推定されるようで根元は一部枯れていた。今年は温暖で既につぼみが大きくなっていた。藤棚の東側から見る。一つの棚に、藤の老木が2本絡んでいるようだが。かながわの名木100選 小田原城跡の御感のフジ大正天皇が皇太子の頃、乗馬がこのフジにかけこみ花を散らしたので、皇太子は「見事な花に心なきことよ」としばらく駒を止められ、美しい花の様子に感嘆されたと伝えられている。 小田原市の天然記念物に指定されている。 樹 高 2.7メートル 樹 齢 約180年 (推定) 花 期 5月上旬フジは、本州から九州に分布するつる性の落葉樹木で、花は紫色で総状花序は長くたれさがり、蝶形花をつける。花が終ると長さ約30センチの実ができる。各地で広く栽培され、形づくりにされる。総状花序(そうじょうかじょ)とは、花序のひとつで、付け根から先へ、あるいは周りから中心部へ咲いてゆく無限花序のひとつで、柄のある小花が長い円錐形または円柱形に並び、付け根から咲いていくもののことである。フジ、ウワミズザクラ、ヒヤシンス、クララ、スズランなどが総状花序を持つ。穂状花序との違いは、花に花柄があるかないかだけである(ウイキペディアより)と。樹齢は推定約180年の根元。一部朽ちている根元である。別の木のつぼみをズームアップ。小峯橋 (御茶壺橋)小峯橋 (御茶壺橋)この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在では石橋に架け替えられ、「御茶壺橋」という名でも親しまれています。「御茶壺橋」という名前は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家にお茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壺と購入代金が運ばれました。そして、お茶を詰めた復路の道中は、お茶が湿気ないように河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされます。小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと言われています。右下の写真は、「御用邸西御門と小峯橋 明治34年(1901)~大正12年(1923)頃の姿」。小峯橋 (御茶壺橋) を渡ると小田原城内の案内板。左側には南曲輪南掘、南側に御感の藤棚がある。 御茶壺曲輪御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。図は『寛永年間小田原城廓総図』部分 (『小田原市史 別編 城郭』より)現在地は左下。小峯橋 (御茶壺橋) を渡ると右側に広がる「御茶壺曲輪」。曲輪の中に説明板。その説明板には「御茶壺曲輪 番所跡」。江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており、御茶壺曲輪には、道中で茶壺を保管するための御茶壺蔵がありました。この場所には、御茶壺蔵などを警護する番人の詰所(番所)があったとされます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×二間(約10.9m×3.6m)ほどだったようです。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており御茶壺曲輪のこの場所には、道中で茶壺を保管する御茶壺蔵がありました。小田原は、江戸から宇治に向かう往路に位置しており、小田原城に立ち寄る際に、空の茶壺がこの蔵に収められたと考えられます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×四間(約10.9m×7.2m)ほどで、入母屋の屋根をのせていたようです。御茶壺曲輪から住吉堀越しに銅門、住吉橋を見る。住吉橋をズームアップ。銅門と住吉堀の発掘調査銅門や住吉堀は、昭和58年から平成4年にかけて行われた発掘調査の成果や古絵図等の資料に基づいて復原されています。この発掘調査では、江戸時代の堀や石垣だけでなく、戦国時代の井戸や水路、障子堀と呼ばれる堀などが発見され、戦国時代から江戸時代にかけて、小田原城が何度も造り替えられていたことがわかりました。御茶壺曲輪の土塁脇に枝垂れ桜がまだ咲いていた。咲き残りのサクラをズームアップ。南堀の先に、報徳二宮神社の表参道大鳥居が見える。南堀の大賀ハス スイレン目ハス科 学名:Nelumbo nucifera 英名:Lotusハスの和名は、万葉時代に花托(かたく)の形がアシナガバチの巣に似ていることから「蜂須(ハチス)」と名付けられ、のちに「チ」が省略されて「ハス」となりました。南堀に群生するハスは、1979年(昭和54年)に大賀ハスを株分けして繁殖させたものです。花・葉とも高さ1~2mに成長し、夏になると直径20cm程の花が咲きます。根茎は泥の中に節の多い蓮根(レンコン)を作ります。大賀ハスは、1951年(昭和26年)に千葉市検見川の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前のハスの実から発芽・開花したハスです。植物学者の大賀一郎博士の手によって開花したこのハスは、博士の姓をとって「大賀ハス」と名付けられました。14:00小田原城を後にし小峯橋 (御茶壺橋) を渡り、南側へ。交差点を渡ると屋根付きの三の丸小学校門扉。小峯橋 (御茶壺橋) を振り返る。右側にはバス専用の駐車場、トイレ、三の丸売店がある。交差点は「藤棚」。藤棚交差点から東方向の右側に三の丸小学校。小田原市立三の丸小学校所在地:神奈川県小田原市本町1丁目12-49三の丸小学校の歴史は文政5年(1822)、藩学校の集成館を開いた時から始まるそうで、平成4年(1992)に本町小学校と城内小学校が統合され、現在の三の丸小学校になったと。小学校門扉前の広場に聳えるクスノキ。小学校の門扉右側に建っていた、「都市景観大賞受賞 三の丸小学校周辺地区」の立札。当地区は、小田原城三の丸として現在もお堀や土塁、箱根口門跡などが往時の面影を色濃く残しており、また、幸田・三の丸景観形成地区の一角に位置しています。このような環境のなかで、市民と協議で進めてまいりました三の丸小学校建設並びに周辺道路整備事業は、周囲と調和した歴史的雰囲気の感じられる都市空間づくりが評価され、平成九年度の都市景観大賞を受賞いたしました。ここに、この栄誉を将来に伝え、小田原がますます魅力ある都市になることを祈念して、この碑を設置いたします。 平成九年十月六日 小田原市長 小澤良明藤棚交差点から国道1号への町並み。三の丸小学校小田原城址公園の南側に隣接して立地する。校名は、現校地が小田原城の三の丸だったことに由来する。白壁、瓦葺の武家屋敷を思わせる校舎が特徴であるが、これは校舎の設計を担当した松田平田設計が、小田原城周囲の歴史的景観に合わせてデザインしたものであると。三の丸小学校の南側に櫓門の石垣の一部、右奥には土塁が残る。石垣の上に「箱根口門跡」と刻まれた石碑。古くは欄干口とも呼ばれ小田原城三の丸の大手口、幸田口と並ぶ重要な虎口の一つであった。当時は厳重に出入りがチェックされ、町人等はみだりに通ることが出来なかった。現在、箱根口門跡は桝形の東半分が保存され、小さな公園となっている。後方の建物は三の丸小学校。箱根口ガレージ報徳広場所在地:神奈川県小田原市南町2丁目1-60国道1号 (旧東海道) 箱根口交差点の南側にある広場である。交差点手前角には「筋違橋町(すじちがいばしちょう)」の地名石碑が立っていた。筋違橋町この町は、橋の名が町名になっているが、橋についての史料は見当たらない。町内の東海道筋を、西から諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。箱根口ガレージ報徳広場にある帰って来たチンチン電車。このチンチン電車は、昭和10年から昭和31年まで小田原駅から板橋駅の国道1号線を走っていた懐かしい電車である。昭和31年5月31日に廃止。その後、長崎県の長崎電気軌道に譲渡され1970年代まで現役車両として活躍した電車が、令和2年小田原ゆかりの路面電車保存会の情熱と600名以上の多くの支援者からのご寄付によってここに設置されましたと。ズームアップするとここにも二宮尊徳少年像が立っていた。この広場は報徳二宮神社のご祭神で、小田原が生んだ偉人二宮尊徳翁の「報徳思想」の精神と「報徳仕法」の手法を元に、報徳仕法㈱が運営を行い、観光活性化と3世代が集う地域コミュニティの形成を目指すSDGs推進事業として注目されている話題のスポットであると。また、チンチン電車内ではイベントも開催できる。14:05道路案内小田原文学館 → 200m先右折歴史と文化の香るまち散策コース↑ 450m 小田原宿なりわい交流館→ 1,600m 板橋見附この辺りは旅友と弥次喜多道中で、2018(平成30)年12月4日(火)にJR国府津駅から三枚橋まで歩いた懐かしいエリアである。この時の歩数は29,900歩であった。 ー 続く ー
2023.05.16
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本丸跡の広場には多くのソメイヨシノが満開であった。3月30日(木) 13:05天守閣の傍に一部咲いた一本のサクラの木が植えられていた。木の根元に立札があり、「春日局 おふく桜 小田原 春日局の会 平成二年三月八日 植樹」と。おふく桜をネットで検索するが?。枝垂れ桜であろうか。本丸跡の北側にある御用米曲輪。御用米曲輪 (ごようまいくるわ)説明板前方に見える平坦な場所は、江戸幕府の米などを収める蔵があったことから御用米曲輪と呼ばれています。平成22年度から史跡整備事業に伴う発掘調査を行い、江戸時代の蔵跡、戦国時代の建物跡などが発見されました。現在、江戸時代と戦国時代の双方の小田原城の魅力を体感していただけるよう、整備工事を進めております。 小田原市教育委員会御用米曲輪出土の三ツ葉葵紋軒丸瓦平成22年度から実施した御用米曲輪の発掘調査では、推定 15t を超える大量の瓦が出土しています。中でも徳川将軍家の三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多く出土したことが特徴的で、全国的にも最多の出土量です。御用米曲輪に幕府の蔵が置かれるなど、小田原城が徳川幕府と関わりの深い城であったことを示す重要な出土品です。 小田原市教育委員会本丸広場で営業していた露天商を裏から。だんごを串に刺し、タイヤのようなものに刺し回転させていた。表に廻り込み、キッチンカーで「北条 三福だんご 本丸茶屋」。小田原城 縁起物 三福だんごは、「大福+幸福+裕福」と。ここでも一本 500円。タイヤらしきものを廻し中に炭火が積まれ焼いていた。本丸広場の老木のソメイヨシノが満開。小田原城址公園 花案内花まつり:梅まつり、桜まつり、花菖蒲まつり、菊花展。本丸広場のベンチには多くの観光客が休憩。南東方向に南多聞櫓と巨松が聳える。現在の天守閣は昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興された。天守櫓の入口にあたる付櫓を見上げる。ズームアップ。常盤木門渡櫓、南多聞櫓。現在、渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲冑を展示している。本丸跡には松が聳えている。本丸広場。小田原城天守閣小田原城天守閣「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、 入り口の「付櫓」、 両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。天守閣入場料:大人/510円、小中学生/200円。 小田原城 入 館 料 :天守閣+常盤木門SAMURAI館の2館共通券/大人 610円 開館時間:9:00 ~ 17:00 (16:30 入館締切) 休 館 日 :12月31日 ~ 1月1日・12月第2水曜日 (天守閣のみ)第59回 小田原北條五代祭り 開 催 日 :2023年5月3日 水・祝天守入り口の付櫓への階段に並ぶ登城者。ズームアップ。13:20本丸跡を後にし南側にある報徳二宮神社へ向かうことに。天守閣の南西方向から見上げる。小田原城址公園内にあったおすいマンホール蓋。背景に箱根の山と奥に頭をのぞかせる富士山。二の丸櫓を従えた小田原城と酒匂川の渡し。地名はないが、小田原とわかるデザインである。本丸跡から下りこども遊園地前を過ぎ、報徳二宮神社の北側にある鳥居。小田原城内大日一尊種子板碑報徳二宮神社の北側にある鳥居の前にある板碑。板碑の下側には字が刻まれているようだが判読できなかった。小田原市指定文化財 (平成二十九年三月二十七日指定)小田原城内大日一尊種子板碑 地上高 百七cm 幅 七十七・五cm 最大厚 十七・一cm正面に金剛界大日如来をあらわす種子(バン)を刻み、下部には、結衆により供養が毎月十五日に行われた旨の願文がありますが、年号などは記されていません。石材は、箱根火山の安山岩質熔岩と推定されますが、相模西部で確認されている他の安山岩製板碑と比べると、自然石をあまり加工せずに作られており、特異な存在です。天蓋の形態などから、筑波山周辺の異色粘板岩で製作される「常総型」の影響が認められます。造塔された時期は、形態の特徴から、鎌倉時代末期から南北朝時代と考えられます。中世小田原周辺で製作された板碑の多様性を考える上でも重要な文化財です。 小田原市教育委員会報徳二宮神社の北側にある鳥居横にあった案内板。 ・杜のひろば ・きんじろうカフェ ・Cafe 小田原柑橘俱楽部 ・HOTOKU KAIKAN ・食楽庵 報徳 ・カフェ・ジンジャー 報徳博物館小峯曲輪北堀深い空堀が掘られているが石垣がなく、小田原城が石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城郭であったことがよくわかると。報徳二宮神社の北側にある堀で、右上にはこども遊園地がある。小田原城小峯曲輪北堀報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なので、これにちなんだものでしょう。目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけの、戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構です。堀幅は神社境内の土塁から二一メートル、深さは現状で五メートル余りですが、実際の堀底はさらに二~三メートルは深くなるでしょう。また堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたと考えられています。正面右手急斜面の高台は、本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪北堀は、今公園路となっている屏風岩と本丸との間の本丸西堀と、神社裏門出口の辺りで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向っていました。 報徳二宮神社報徳二宮神社境内配置図。小田原城本丸跡から下り裏口(矢印)から入る、このため逆方向へ進むことに。報徳二宮神社所在地:神奈川県小田原市城内8-10報徳二宮神社の右側から境内へ入ると、御社殿の前には参拝者の長い列。御社殿は神明造りで、明治42年に本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の景観を整えましたと。なお、拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主大久保翁の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手に渡ったことにより小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられている。境内へ入り、御社殿前の左側に授与所◆ 授与時間 午前9時 ~ 午後4時ご朱印・神札・お守り・金次郎あめ・報徳文庫書籍を頒布 している。報徳二宮神社御祭神 二宮尊徳翁例祭日 四月十五日参道左側に建つ「祈祷殿」恒例祭典や結婚式などで御本殿が使えない時でも、祈祷殿にて御祈願を執り行います。元は、宝物殿として使われており、納められていた物は報徳博物館に展示されている。参道右側に建つ「社務所」。入口に「御祈願受付」の看板があった。◆ 祈願受付時間 午前9時 ~ 午後3時30分社務所の御社殿側にある「神池」。神池にはたくさんの錦鯉が泳いでおり授与所で、鯉のえさの販売もしている。境内には、二宮金次郎像、多くの絵馬。二宮金次郎像"薪を背負って歩きながら本を読む"金次郎の姿が初めて登場したのは明治24年(1891)に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』という本の挿絵でした。この少年像は昭和3年、昭和天皇即位御大礼記念として神戸の中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。二宮金次郎像昭和三年 昭和天皇の即位御大礼記念として 神戸の中村直吉氏が寄進したもので制作者は三代目慶寺円長 材質はブロンズ その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千体制作されたが 戦時中すべて供出に遭い現在残っているのはこの一体だけである。なお、 この像は当時のメートル法普及の意図を反映して 丁度一メートルの高さに制作されている。 銅製の鳥居が建つ。鳥居の手前右側の狛犬(阿形像)。左側の狛犬(吽形像)。手水舎御社殿から逆に廻っているのでここに手水舎。シャクナゲが咲いていた。我が家のハクモレンは既に散っているがまだ咲いていた。参道左側に二宮尊徳翁像。後方には「きんじろうカフェ」「Cafe 小田原柑橘俱楽部」がありここを目当てに訪れる人も。正面から、年輪を重ねた二宮尊徳翁である。二宮尊徳 翁 【1787~1856】 経済なき道徳は戯言であり 道徳なき経済は犯罪である江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。幼少時の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家諸領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農村は六百余りにものぼる。内村鑑三著「代表的日本人」の中でも、十九世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されるなど、明治時代以降の政財界人にも多くの影響を与えたのである。翁の教訓や訓言は、今の時代にも通じる、私達が手本とすべきものばかりである。兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された「二宮尊徳翁立像」10体の内1体。平成21年11月23日に、前報徳学園理事長 故 大谷勇様より寄贈いただきました。平成22年5月31日に、入魂祭並びに除幕式を行い現在に至ります。石碑には、「二宮尊徳翁之像 至誠と実行 大谷勇 贈」と刻まれている。こちらは石製の鳥居。御社殿前から二つの鳥居を潜り階段を降り、右側に報徳会館。13:40表参道大鳥居高さ三十五m、直径一m以上の巨木を伐採し、長さ十二mの木材を搬出・運搬・製材することは、通常扱っている材木の大きさをはるかに超えるもので、大変な作業でありましたと。駐車場脇に建っていた看板に、創建百二十周年記念事業奉賛会 表参道大鳥居建立事業 平成二十九年九月十七日 竣工式 平成二十九年八月三十日 御木曳・立柱祭この大鳥居は、かつて小田原城主が植えたとされる辻村山林の樹齢三百年の大杉を御用材として、小田原の「木」に携わる職人達が力をあわせ、伐採~搬出運搬~製材~加工~建立までの作業を行い、約三年の歳月をかけて完成させた大鳥居です。報徳二宮神社表参道大鳥居を背景にソメイヨシノが満開。 ー 続く ー
2023.05.15
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