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今日は午前中いっぱい、町内自治会の年度末総会がおこなわれた。これで私は1年間のお役御免となった。やれやれというのが正直な感想。役員各人がそれぞれの担当部署でかなり厖大な仕事に忙殺されてきたのだが、私から言わせれば住民生活に大きく反映されるような内容ある事業ではない。役員の忙殺感と住民利益の実感とのバランスがひどく片寄っているのである。何かがまちがっている、いや、まちがっていると言わないまでも我々はもっと考え方をかえるべきかもしれない。しかしそれも、役目がおわってしまえば、たちまち忘れてしまうだろう。つまり、忘れてしまうほどのことなのだというところに、問題が潜んでいるわけだ。 この朝、私は会場に誰よりも一番早く到着してしまった。外につっ立っているわけにもゆかず、会場の裏手から緑地公園にはいり今まさに満開の桜を見て回った。数十本、大小あわせれば数百本にもなろうという染井吉野桜。人っ子ひとりいない山林緑地をしばらく徘徊しながら楽しんだ。 さまざまの事をおもい出す桜かな 芭蕉 我家の白桃はまだ咲かない。白い花弁はまだとじたままだ。 夕方、某夫人が純白のカーネーションをもって訪ねてきた。しばらく立ち話をしてから送りだし、さっそくカーネーションを花瓶に活けた。居間のテーブルにおくと、老母が溜息をつくように、「きれいねー、きれいねー」と何度もつぶやいた。 季寄せには入籍済まぬカーネーション 維史
Mar 30, 2008
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今朝の新聞に、脚本家のアビー・マン氏が亡くなったと報じられていた。80歳だった。アビー・マン氏は、1961年に製作された映画、スタンリー・クレーマー監督の『ニュールンベルグ裁判』の脚本・脚色で同年度第35回アカデミー賞を受賞した。 映画『ニュールンベルグ裁判』は、第二次世界大戦におけるドイツ・ナチス戦犯を裁く国際軍事裁判を描いたものである。世界で最初の人権宣言を唱ったワイマール憲法を草した司法学者(カーク・ダグラス)をはじめ、ナチス政権下の裁判官たち4人を戦犯として裁く、重大な裁判であった。 首席裁判官には、アメリカの地方都市の判事がまるで引出されるようにして就任した(スペンサー・トレーシー)。法廷は、遺伝的疾患をもつ者に対する強制的断種(生殖ができないように男性の輸精管切断や睾丸除去をする)や、ヒットラー忠誠違反の名のもとの死刑執行、そして600万人が虐殺された制度をめぐって、検察(リー・マービン)と弁護人(マクシミリアン・シェル)との熾烈な法論争が展開される。 この映画、じつは先日26日の深夜、NHK・BSで放映されたばかりだ。私はもう何度目かの鑑賞になるのだが、眠いのも忘れて朝方4時まで見ていた。そして、なんと27日の夕刊に、リー・マービン氏の死亡記事が載った。すでに24日に亡くなっていたのだそうだが、93歳だった。アビー・マン氏の死は、それにひきつづくものだっただけに、その経緯には何の因果もあろうはずはないが、ちょっと驚いた。この映画が優れた作品であっただけに、哀悼ひとしおである。 裁判は、全員が有罪。カーク・ダグラス演じる司法学者は、内心にナチスの悪を認識していたのでこの有罪判決を甘んじて受けるというふうだった。そして、アメリカへ帰るスペンサー・トレーシーに一目あって話しておきたいことがあると、独房へ招く。彼は、ナチス政権下で自らが担当し判決を下した事件の裁判記録をトレーシーに贈る。彼は言う。 「600万人が虐殺されたことを、私は、ほんとうに知らなかったのです」 これに対してトレーシーは応える。 「あなたが、無実の者に死刑の判決を下したことが、すべての始まりなんです」と。 この最後のセリフこそが、この映画の核心であり、ファシズムが奔流となって社会をおおいつくし、全国民を人類に対する犯罪者へとしたててゆくメカニックの核心である。たったこれだけの言葉に、真実の一切がある。これは何もニュールンベルグ裁判に限ったことではないのだ。 このトレーシーの言葉を受けとめたカーク・ダグラスの演技はまことに秀逸だ。彼は独房のなかでただ突っ立っているだけである。だが、人間としての核心が完全に空虚になってしまう、そのような存在を現出させる。映画でなくしては見られない、すごいシーンだ。カーク・ダグラス、見事! 時しも、我が日本では、大江健三郎氏と岩波書店を被告に据え、沖縄駐屯部隊の元隊長らが名誉毀損の賠償をもとめて提訴していた、いわゆる『沖縄ノート』裁判の判決が出た。沖縄集団自決事件に軍が関与していたことを認めたもので、原告の元隊長等が敗訴した。 この裁判、歴史教科書の記述問題にもからんで私は注目していたが、その裁判経緯の詳細はほとんど報じられなかった。新聞等によれば元隊長の原告は、そもそも『沖縄ノート』を読んだこともなかったという。裁判が始まってから読んだというのだから奇怪だ。しかも、軍関与を否定する「学者」たちが、ここぞとばかり原告の支援をした。 自分は自決を命令した覚えはないという原告の言い分は、民意を反映することない戦時制度についてあまりにもノンシャランスである。日本の軍事的制度は、責任の所在をあいまいにすることに一つの重大な核心があるといってよい。それだけに、実際の裁判となると証拠固めはひどく困難になる。しかも悪法といえど法は法。その法を遵守した者を裁くことができるかという問題である。事は、まったく『ニュールンベルグ裁判』の主題と同質だ。あるいは視点を変えれば、かつての南アフリカ連邦における黒人差別とその隔離のための法律の問題にも通じる。 過去のファシズムの亡霊たちは、この国ではまだ息を吹き返すための機をねらっている、と私はみている。あらゆるところに、それはいる。現在のように経済が疲弊して、国も国民もあっぷあっぷしているときが一番危ない。立法や行政ばかりではない、司法もまた、とくに地裁の判決はとかく行政寄りになっている。司法の独立を放棄することが、最悪の事態を招くことは、なにも『ニュールンベルグ裁判』を見るまでもない。こうして招き寄せられた「最悪の事態」は、ちょっとやそっとでは収まらない。社会的なカタストロフィ(大崩壊)にいたるまでつづくのだ。そのことはあらゆる歴史がおしえている。
Mar 29, 2008
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このブログの管理画面のデータによると、私が日記を書きはじめてから今日が999日目だそうだ。もう10分ほどで1000日になる。 書きたいことをたんたんと書いて来た。じつは私にとっては善し悪しで、私の画家としてのイメージの発生は言葉をあやつることの対極にあるようで、たぶん私の脳の仕組みがそのようなのだろうが、言葉の能力を駆使しているときはイメージの喚起力はほとんど休止している。逆にイメージが強く発露しているときは、言葉が休止している。言葉にもイメージは付帯しているので、私がここでイメージと言っているのはきわめて画家的なものだと思っていただきたい。画家的イメージとはどんなものかと言われると困ってしまうが、言葉には論理があるが、その論理を超えてしまうものだと言っておこうか。 ともあれ、私が絵を描いているときは、文章を書いているときとは異なった脳の使い方をしているな、と気が付いていた。両方の能力が同時にうまくはたらく人もいるであろうが、私自身は「ズレ」を感じるのである。したがって、このブログにおいて、気のはらない随筆ではあっても毎日のように書き続けることは、絵描きとしてのイメージの発露を少なからず抑制、ないしは抑圧しているにちがいない。 私は小学校1年生にはじまり、中学・高校・大学と、長らく日記をつづる習慣があった。高校・大学時代のものは、びっしり書き込んだ大学ノート2,30冊が残っている。小学校時代のものも全て保存してあったのだが、両親の家に預けておいたところ、何を勘違いしたか全部捨てられてしまったのだ。 思えば、大学卒業後に日記をつける習慣をやめたときから、絵を描くことがはじまったのだった。それは明確な事実で、それについてこれまで思い致したことはなかったが、いま、あらためて気付く。 とにかくこのブログ、重荷になったら止めることにするが、書いているうちに1000日目を迎えてしまった。 大勢のお客様の御来訪にささえられていることは確かである。海外からのアクセスもあり、そちらのブログに私の作品が掲載されていて驚かされることもあった。いずれにしろ、お客様には多謝あるのみ。これからもどうぞよろしくお願いします。
Mar 26, 2008
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東京は小雨まじりの寒い一日だった。 さきほど1時間ばかり前までNHK・HVの番組「山下清の愛した日本」を見ていた。山下清の貼り絵の技法が、ハイヴィジョンでクロース・アップして細部までとらえられ、それがなかなかおもしろかった。画集では見えないところである。 私は、昔、山下清さんに会っている。サインをもらって、いまでも保存箱にしまってある。ここに画像を掲載するとよいのだが、今すぐというわけにゆかない。 私が中学1年生のとき、会津若松市の現在は失われた図書館で展覧会が開かれた。そこに山下清さん本人も姿をみせ、絵葉書を購入した観客にサインをしてくれたのである。きょうのテレビでも、ちょうどその当時の展覧会場でのサイン風景のムービー・フィルムをみせていた。おおぜいの観客を相手に、絵葉書をトランプ・カードのように重ねあわせながら横にずらりと並べて、2cmほど覗いた葉書の隅につぎつぎに署名してゆく。なかなか効率的な方法である。 山下清さんは付き添いの式場隆三郎博士にたずねたそうだ。「どうして、サインしてもらうと、みんな喜ぶのかな」 すると式場博士は、「みんなサイン病なんだよ」 ハハハ、そうかもしれない。中学生の私もサイン病だったか! 会場でばったり出会った同級生のO君も! (余談だが、昨年、会津若松を訪ねたおり、O君の家があったその前を通った。彼の家は材木商だったが、もはやそのあたりに昔のおもかげはなかった。O君は元気かしら。) しかし、清さん、あなたが署名してくれた絵葉書を、ちょうど50年経った現在でも、色褪せさせることなく保存してありますよ。あなたに出会って、私のなかにずっと気掛りとなっていたこと、つまりサバン症候群(後註)についても、後年、私なりに専門書を探査しました。そしてサバン・プロパーではありませんが、そこからもっと超越した人達の絵について、『病める貝の真珠 ― 精神分裂病者の絵をめぐって』という論文を書きました。きょうのテレビで、放浪中のあなたが泥棒とまちがわれて石をぶつけられているているところを保護した、当時高校生だった方が、現在、サバンの研究者になっておられることを知りました。その方が、あなたに出会ったことによって人生の方向が決定したのかどうかは分かりませんが、あなたの存在の影響はすくなくはないのではありますまいか。私は50年前にただ一度、あなたの作品の実物を見たのですが、いまでも目の底にその画像が浮かんで来ます。私をとらえたのは、絵がイイとかウマイとかではなく、画面の底から放射する尋常ではないエネルギーでした。私がシュルレアリスムの画家たちと心のなかで別れたのは、いわゆるアウトサイダー・アーティストの実物に出会い、その生命が尽きる前の強烈なエネルギーの放射に目眩(めまい)とともに言葉を失ってしまったからだ、ということも申しそえておきましょう。 それにしても、ちょうど私が会った時期の前後に、あなたの創作が完全に終了したそうですね。展覧会や物珍し好きの人達にひきずりまわされているうちに、創作の動因が消失してしまったらしいとか。それはそうかもしれません。あなたのように正規の美術教育を受けて画家になったのではないアウトサイダー・アーティストは、そもそも他人には窺い知ることができない動因によって制作をはじめているのですから。・・・あなたの創作の終了は、まことに痛ましいことでありました。【註】 発達障害(精神遅滞)あるいは早期幼児自閉症や精神分裂病による重度の精神障害をもつ人が、驚異的な能力や偉才を有する場合がある。また、そうした能力が、たんに障害の程度と比較して驚異的というだけでなく、人間として異彩を放っていると認めざるを得ない人が、極めてまれにではあるが、存在する。〈サヴァン症候群〉と言う。前者は〈天分あるサヴァン〉、後者は〈奇才のサヴァン〉と名づけられている。映画『レインマン』で、ダスティン・ホフマンが演じた早期幼児自閉症の兄は、〈奇才のサヴァン〉と言ってもいいだろう。もっとも、実際のところ、〈奇才のサヴァン〉の症例は、この百年間に百人に満たないと言われている。 サヴァンはIQ25以上、普通にはIQ40~70といわれている。山下清氏は漢字まじりの几帳面な文字で、かなりの分量の日記をのこしているので、厳密にはサヴァンとはいえないであろうが、天分にめぐまれた奇才であったことはまちがいない。 山下清(1922―1971)。
Mar 24, 2008
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PILGRIM EGGby Tadami YamadaIAt the dawn, a white sailer glides on the terrace.The dream receding fragments are trembling on my voice.Yearning for truth; something flutters in a draught;All changes into the phantom in a flash, velocity of light!IIWhat'll I use it as a metaphor for, a summer day ?Running after a blue butterfly, going astray,Along by the hill where's heaped up shadows throughout;Just when the abstraction occupied my ideas throughout.O boy, You are the dimly darkness of the forest, its smell.O boy, You are the soft architecture concealing the style.O boy, You are the hope in the porcelain of the sky.O boy, You are the vein joining the earth to the sky;Start on the boundless journey, without looking back,Leading by the bridles of determination, ride on horseback,Don't flinch from the intricate way, rising own head,And get free from the gravisphere of your heart. Get higher Get higher Get higher Fly ! Fly ! Fly !IIITrifling desires became out focus in the mirror.The killing history repeated itself, endless error.In prison of dualism, the object transfigured infinitely.Man had lost sight of oneself on the way, absolutely.The ordinary loss of maternity causes child's insanity.Timid father studying domestic medicine in confusedly,Adomonishes child with straitjacket of falsehood,And systematizes suffering of everyday livelihood.Cast the highest eye to the bottom in the stream of water.In the innermost of existence, fishe have the shape of water.Cut off invisible tangled meshes, and release baby fishes.They don't make mistake the way at their own wishes.IVAm I the only life in isolation?No! No! I am the extension!Renew the map into the universal sizes.Lo! through the space-time, the shining horse passes.Looking toward the glen of times, beckon to the air.The celestial vigor penetrate the great stratum of 45 billion years:The deserted remembranse, the cut off personal history, assimilateThe enormous empty space that is the fossil of extinct nebula.As if it peels a green grape in the hot mouth;Turn the presentation out to seek the truth,Recompose the context concerning all of existence's;Because the texture of the system is rough to sense's.VVarious horizons crystallize on my fingertips.The space, nested in nest, propagete its trips.The UROBOLOS lay one Egg.Essentially all in the Egg.I'm fastend to the sistem of all nature.I do not wish to have any testifier.My life is a musical instrument in the here.My fingertips quietly touch with over there. While that nobody know, in ultimate of matterWhere is not affected by shrewd in the manner,The Egg conceives the Egg which conceives itself:I am an egg shape, existence-no existence itself.VIGods had left from the inner space of myth.Brilliant simplicity, vibrating the form of truth.The Egg passes every horizons, descends vertically to there.The UNIVERSE is free, and mature unborn in everywhere.The earth is beyond memory like the twilight in purple,Far away from distorting the truth of the eternal.Viscous darkness crack in the eyes staring ; All phenomenons are nothingness, good laughing The laughing voices go up straight to the heaven:We proudly are cosmic dust; The earth is like remain,Only 45 billions years!What the plain truth it is!VII Shinning horse is galloping Shinning horse is galloping With the boy on its back Without looking their back O! the heavens, O! the oceans Accept the ego with pleasure. It is the nonexistence but the existence. O! the heavens, O! the oceans An oak tree in the field. It rustles in the wind. ・・・・・・・ See the light!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Copyright Tadami Yamada 2008, All Rights Reserved.
Mar 23, 2008
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土曜日。天気良好。しかし私は、午前中いっぱい、市のゴミ減量推進委員研修会に自治会代表として出席。 我が市は、平成12年にゴミ問題改革に着手して以来、他の自治体やマスコミ関係者等の大方の予想に反して(つまり行き詰まって失敗するだろうという)、着実に効果をあげ、現在、着手時の半分の減量に成功した。それでもなお、可燃ゴミの年間処理費が25億円かかっている。一人当りに換算して14,600円強である。これをなんとかしなければならない。もちろん二酸化炭素排出削減にからめての問題である。・・・そんなことを話し合った。 会場は我家から遠い。いったん家を出たのだが、また戻った。自転車で行くことにした。30分もあれば到着するだろうと。 25分で到着。 途中は、キョロキョロと街の様子を観察。おもしろいものだ、さしたる範囲でもないのに、桜が、ほとんどは固い小さな蕾だけれど、中に一本、もうすっかり色褪せて散るばかりのものをみつけた。梅は花の盛りをすぎてはいるが、まだ鮮やかな色を残しているもの、散ってしまったもの。辛夷が咲き、橘が咲いている。 空に四羽のトンビが舞っていた。ピーヒュルヒュルー、ピーヒュルヒュルーと鳴きながら輪を描く。と、玄関のドアが開いて、顔を出した若いお母さんが、「トンビよ! ほら、トンビよ!」と、家のなかに声をかける。 「♪トンビがくるりと輪を書いた ホーイのホイ。 そこか~ら東京が見えるか~い? 見えたらここまで降りてきな 火傷をせぬよに、早くこーい ホーイのホイ♪」 たしか三橋美智也さんの歌だ。「♪夕焼け空が真っ赤っか~」という出だしだったはず。 そういえば、いま、こんな牧歌的な歌はないなァ。若い歌手の歌はそろいもそろって理屈っぽい。たいした理屈でもないんだが。それはしかたがない、若いのだから。・・・でも、つまりは、自分へのこだわりから抜け出せないのだろうな。歌いながらやたらに手をつかって、まるで掻き立てるようにする。見ている私にはうるさいだけの仕草なのだが、自分で自分自身のこころを掻き立てているのかもしれないな。・・・私も二十歳前後のころは、そうだったのだ。 そういえば、昔、世田谷区に住んでいたころは、3月の会計年度前となるとやたらと道路工事が増えて、あっちを掘り返し、こっちを掘り返し、「なんじゃいこの国の行政は!」と思わないではいられなかったが、当市に住むようになってそのような光景をほとんど見かけないことに気がついた。これはどういうことだろう? 良いことのようでもあるが、国の行政から放っておかれているような気がしないでもない。なにしろ、この国の財政の有り様は、年度末の収支をゼロでつじつまを合わせる仕組みなのだから。・・・この問題、わが小さな小さな町内会自治会の会計においても議論が出たばかりである。我々は現在まで、毎年繰り越し金をつくって、もし赤字が出た場合はそれによって補填してきた。ところが、それを収支ゼロにするようにしても良いのではないか、という意見が住民の間からでてきたのである。 しかしねー、と我々今年度の執行役員は主張する。そのような国家財政のまねごとをしていると、5年後には蓄えはなくなり、自治会費を値上げしなければならなくなりますよ、と。我が町は、しだいに老人の町になりつつある。それは、老人世帯の家計のなかから値上げした自治会費を徴収される、という事態になることを意味しているのである。 ・・・おもしろいものである。こんなところにも、社会制度が、あるいは文化が、理屈を越えられない意識の壁をつくってしまっているのだ。 「♪トンビがくるりと輪を書いた ホーイのホイ。そこか~ら東京が見えるか~い? 見えたらここまで降りてきな 火傷をせぬよに、早くこーい ホーイのホイ♪」
Mar 22, 2008
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春分だというのに、昨日来の雨が降りつづき、やや寒い一日。外出の予定はとりやめて仕事場にとじこもりきりだった。 といっても制作をしていたわけではなく、新しいテーマについて思いめぐらしていた。 どこから、どのように手をつければよいやら。長い間そのいとぐちを探している。重いテーマだ。しかし、どうしても作品にしたいのだ。
Mar 20, 2008
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昨日は確定申告の最終日だったが、毎年のことながら、プロフェッショナルの画家にとって面倒なのは、手持ち作品のリストを提出しなければならないことだ。一般的には在庫商品調べである。製作年月日・作品名・サイズを規定の書類に記入する。作品を販売目的で委託中の場合は、その旨も書く。描いた作品が右から左へ売れてしまえば、そんな書類をつくる必要もないが、まあ、そんなわけにはゆかない。年ごとに手持ち作品はふえてゆく。前年までのものは昨年度提出リストを書き写せばいいのだが、それにしても数が多いのだから、自分ながらうんざりしてしまうのである。 そんなわけで締め切り日にギリギリ間にあわせ、疲れきって、昨夜は早々と就寝。バタン・キューってなものだ。 ぐっすり眠って(いつものことだが)、朝食をすませるや自転車にまたがり1時間ばかり走ってきた。爺チャンは元気なのである。 タンポポが咲き、スミレが咲き、麦畑には麦の緑の葉がいきおいよく伸びている。年輩の婦人が路傍のヨモギを摘んでいた。お彼岸だし、ヨモギ餅(草餅)を作るのかもしれない。おいしいだろうなァ、いい香りがして。 いまの時季、草餅にはじまり、わらび餅、うぐいす餅、桜餅、椿餅、そして初夏の柏餅まで、小豆餡をくるんで植物のあわあわとした香りをたのしむことができる。嬉しいことだ。 草餅や出流れの茶をあたためて 虚子
Mar 18, 2008
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私は英詩にすこしばかりの関心をもって読む。厳密な規則性があるので、謎を解くように分解してみるのがおもしろいのである。よくぞこんな複雑な規則を駆使して言葉がでてくるものだと、外国語であるということを抜きにして、詩人が古来尊敬の対象であることを納得する。 ただ、なかなか簡単に読みこなせるものでもない。もちろん私自身の能力がおよばないのではあるが、いわゆる雅語とか詩語とか古語が頻出するうえに、日本の大学教養過程あたりまでの文法知識では判断しかねるような省略や文節の置き換えが大変多いのである(たとえば、チョーサー卿の『カンタベリー物語』など)。 先のフォスターの二つの詩は、ほとんど例外といっていいほど、読むのに困難はない。『夢見る佳人』にyouの雅語であるtheeという言葉がでてくるぐらいだ。theeは、しかし一般的といってもよかろう。 ところが、フォスターの詩がみな分かりやすい言葉かというと決してそうではない。例をあげてみよう。次のような言葉がしばしば使われている。 ‘'tis’‘e'en’‘o'er’‘gwing’‘ribber’‘ebry’‘mem'ry’‘wid’‘g'wan to’‘by'n by’‘mi’‘ting’‘de’ ちょっと思い出しただけでも、こんな言葉が頻繁に登場する。これらの多くは黒人訛りであるが、詩的な略語、ないし詩の音感やリズムを整えるための表記もある。じつはもともとの言葉は誰でも知っている簡単な言葉だ。 その元の言葉に順になおしてみよう。 ‘it is’‘even’‘over’‘going’‘river’‘every’‘memory’‘with’‘going to’‘by and by’‘my’‘thing’‘the’ 最後の‘de’は、一般的な前置詞にもあるが、フォスターが使っているのは黒人訛りとしての‘the’である。‘river’‘every’の‘v’が‘b’に変えているのは、おおいに気になるところだが、私は‘v’が下唇を噛んで発音しなければならないことが理由なのではないかと解釈している。しかし、確信はない。どなたか御教示くだされば幸いです。私の解釈は、‘even’‘over’の‘v’が省略された形で用いられていることからの判断である。省略形‘e'en’‘o'er’は、詩においてはしばしば用いられる、その意味では一般的な言葉使いである。(注;この点について、記事を読まれた釈迦楽さんから、‘de’‘ribber’‘ebry’は黒人訛りである、と御指摘があった。私もそれが正しいと判断したので、ここに注記しておく。ただし、‘'tis’‘e'en’‘o'er’は、黒人訛りではない。) ついでながら‘ribber’が使われているフォスターの詩とは、日本人にお馴染みの『スワニー河』である。「はるかなる流れの彼方に いまもなお やさしき友は住めり」という日本語の訳詞がある。原詩ではたしかつぎのような冒頭だった。 Way down upon de Swanee ribber, Far, far away ・・・・・・・・・ というぐあいで、私は英詩を楽しんでいるのだが、まだとても詩心をあじわうところまではゆかない。詩は小説とはくらべものにならないほど短いけれど、私にとっては詩のほうが読むに苦労する。それでも、なんとか翻訳ではなく、原詩の感覚を知りたくて読んでみるのである。【追記】 ‘'tis’‘e'en’‘o'er’は、黒人訛りではないと書いたので、その例を示しておく。(1)‘'tis’の例:エドガー・アラン・ポーの『大鴉』から、 “'Tis some visiter,”I muttered,“tapping at my chamber door・・・” 「誰ぞ訪う者が」私はつぶやく、「わが部屋の扉をたたいて・・・」(2)‘e'en’の例はすぐに出典がさがせないので、代りに‘never’の‘V’が省略された形‘ne'er’をシェイクスピアの『ソネット』から、 Such heavenly touches ne'er touche'd earthly faces. 「斯くのごとき至上の筆法に匹敵するものこの世の活字にいまだあらず」(3)‘o'er’の例は、ロバート・ブラウニングの『少年と天使』から、 O'er his work the boy's curls fell 少年が眠りにおちて彼の仕事を終える
Mar 16, 2008
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日曜日のきょう、午前中はわが町内の自治会の新旧役員による会議。来る30日の総会にむけての前哨戦みたいなものだ。新旧役員の事務引き継ぎもおこなった。ただいま帰宅して、紅茶(トワイニング・シュプリーム・ヴィンテイジ・ダージリン)を飲みながら休憩中である。 さて。 先日、フォスターの『夢見る佳人』の歌詞を突然思い出したことを書いた。すると、書いたあとで、ひきづられるように『オールド・ブラック・ジョー』も思い出した。この原曲はいつ覚えたのかは忘れてしまったが、私が「童劇プーポ」で『アンクル・トム物語』に出演したときに、個人的に副次資料としておぼえたのかもしれない。 フォスター(Stephen C. Foster; 1826-1864)の曲は、日本語に訳されて古くから親しまれている。作詞作曲、ともにフォスター自身であるところに彼の歌の特徴がある。私は以前このブログで、英詩における「韻」の問題について書いているが、フォスターの原詩はみごとにその規則性にのっとっている。そのことは、『夢見る佳人』を見てもわかるが、『オールド・ブラック・ジョー』も然りである。 Old Black Joe Gone are the days when my heart was young and gay, Gone are my friends from the cotton fields away, Gone from the earth to a better land I know, I hear their gentle voices calling 'Old Black Joe.' I'm coming, I'm coming, for my head is bending low: I hear those gentle voices calling, 'Old Black Joe.' Why do I weep when my heart should feel no pain Why do I sigh that my friends come not again, Grieving for forms Now departed long a go? I hear their gentle voices calling 'Old Black Joe.' I'm coming, I'm coming, for my head is bending low: I hear those gentle voices calling, 'Old Black Joe.' Where are the hearts once so happy and so free? The children so dear that I held upon my knee, Gone to the shore where my soul has longed to go. I hear their gentle voices calling 'Old Black Joe.' I'm coming, I'm coming, for my head is bending low: I hear those gentle voices calling, 'Old Black Joe.' これを見ると、作曲家フォスターは、文学的にも詩人として優れていたのだということがわかる。 そしてまた、いまから144年前に亡くなったアメリカ人の曲が、われわれ日本人に愛好され浸透していることにも驚く。 『夢見る佳人』『オールド・ブラック・ジョー』『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』『おお!スザンナ』『草競馬』『ドリーデ』『ネリーブライ』『バンジョー鳴らせ』『金髪のジェニー』『スワニー河(故郷の昔の仲間)』 これらの歌が、多くの場合日本語の歌詞でだとは思うが、きちんとフォスターの曲として認識されている。いや、認識されているのではあるまいか。 こんな人物はほかに思いつかない。 そして、わが日本なら、滝廉太郎か。 滝廉太郎は、フォスターが亡くなってちょうど15年後にうまれている(1879-1903)。亡くなって105年が経つ。しかし、『荒城の月』や『箱根八里』(別名『箱根の山』)や『花』は、彼の名前としっかり結びついている。『箱根八里』なんて、なかなか難しい。曲も難しいが詞も難しい(鳥居忱 ;トリイシン作詞)。しかし、ある年代以上の人なら歌えるのではあるまいか。 箱根八里 鳥居忱詞 箱根の山は天下の嶮 函谷関(かんこくかん)も物ならず 万丈の山 千仞の谷 前に聳え 後(しり)へに支う 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす 昼なお暗き 杉の並木 羊腸(ようちょう)の小径は 苔滑らか 一夫(いっぷ)関(かん)に当るや 万夫(ばんぷ)も開くなし 天下に旅する 剛毅の武士(もののふ) 太刀腰に足駄がけ 八里の岩根踏みならす 斯くこそ在りしか 往時のもののふ この難しい歌、しかし、箱根の旧道を歩くと、ついつい歌いたくなるのだ。詞の情景がまさに今もかわらず、難しいけれどもむしろこれだけの言葉でよくぞイメージを詠み込んだと感心する。 滝廉太郎は、フォスターのように作詞作曲をひとりで手掛けたのではないが、1曲ならず100年間もその名前と結びついて歌いつがれてきていることに、私はあらためて驚く。しかも、私の場合、『箱根八里』を学校で習ったことはないにもかかわらず、耳から覚えて、最初から最後までうたえるのであるから。 歌の力とはよく言われるけれど、100年前、140年前ということで、フォスターとわが滝廉太郎に乾杯である。
Mar 16, 2008
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今朝(15日)、新聞をとりに出ると、クロッカスが咲いていた。きのうは一日中、雨。濡れた草陰に美しいベルヴェット・ヴァイオレットの花がのぞいている。ふしぎなことに、昨年咲いていた場所とは少しちがう。20センチばかり離れている。昨年は花期がおわっても球根を掘りおこさず、そのまま越冬した。あたらしい球根がふえたのだろうか。 この時季、庭の植物の成長はわずか一日とも言えず、つぎつぎに土の下から顔をだしている。まもなく白桃も咲くだろう。樹高3メートルになったそれは、たくさんの蕾をつけている。 一つづゝ名草の芽や鉢の中 虚子 春雨や猫に踊をおしえる子 一茶
Mar 15, 2008
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今日は忙しかった。あしたはホワイト・デーとやらで、先日贈物を頂戴したレディーたちへのお礼のための買い物。爺チャン、なかなかもてるのじゃ。 もてるとなれば、健康を気づかって、午後はしばらくぶりに自転車で遠出をした。花の香に誘われて。まるで蜜蜂みたいに。 我家の近所、数キロの範囲には、個人の小さな梅林がいくつかある。それらはすでに散りはじめているが、通りには馥郁とした香りがただよっている。 花粉症の人達なのであろう、マスクをした姿もあちらこちらで見かける。その方たちにはお気の毒と申しあげて、私は胸いっぱいに花の香りを吸った。ふと口をついて出てきた歌が、フォスターの『夢見る佳人』だった。 Beautiful dreamer, wake unto me, Starlight and dewdrops are waiting for thee; Sounds of the rude world heard in the day, Lull'd by the moonlight have all pass'd away! Beautiful dreamer, queen of my song, List while I woo thee with soft melody; Gone are the cares of life's busy throng. Beautiful dreamer, awake unto me! Beautiful dreamer, awake unto me! Beautiful dreamer, out on the sea, Mermaids are chanting the wild lorelei; Over the streamlet vapors are borne, Waiting to fade at the bright coming morn. Beautiful dreamer, beam on my heart, E'en as the morn on the streamlet and sea; Then will all clouds of sorrow depart, Beautiful dreamer, awake unto me! Beautiful dreamer, awake unto me! この歌、高校時代の英語の時間におそわった。授業の冒頭で、テキストに入るまえのウォミング・アップ、と先生は考えたのだろう。当時、私の学校は男子校だったから、ムクツケキ男どもが一斉に「ビューティフル ドゥリーマー~~~♪」とやったわけだ。あまりゾッとしない光景だったと思うが、それかあらぬか間もなくこの試みは頓挫した。 しかし、覚えているものだなぁ。いきなり口をついて出てきたのだから。 そしてついでにそのわが会津高校の学而会歌(一般的にいうと生徒会の歌)をくちずさむ。 緋威(ひおどし)鎧う若武者が 春紅(はるくれない)の花を浴び 黄金の甍(いらか) 銀鞍(ぎんあん)に 右手(めて)を翳して仰ぎけん 秋旻(しゅうびん)高し緑水に 血潮の色を漂わせ 巨塁(きょるい)に纏う 蔦葛(つたかずら) 嗚呼(ああ)如何にせん我が友よ 旧制会津中学校時代から歌い継がれてきた。今の生徒たちも歌っているのかどうか。母校は、近年の学校令で、男女共学になった。 夕方、6時ころ帰宅。コーヒーをいれて、たてつづけに2杯飲む。
Mar 13, 2008
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今朝、我家の小庭の桜草が咲いた。例年だと白桃が一番早く咲くのだが、今年は桜草だった。 桜草はまるで年がら年中、黄緑の葉をしげらせているように見える。が、じつは、やはり一度は枯れてしまうのだが、繁殖力が強く、枯れるころには飛んだ種がどこかで芽を出す。そうしてやがて野菜のチシャのような葉っぱを出して越冬する。過日、東京が雪にみまわれたとき、桜草も雪の下に埋もれてしまったので、ダメかと思った。ところが雪が溶けてしまうと、中から顔をのぞかせたのは小さな蕾のかたまりだった。その蕾が、ようやく今朝開花したのである。 ずっと寝たきりになっている老母に知らせると、「うれしい」と、ひとこといった。園芸店に何か花を買いにゆきたいらしいが、なかなかそれができなくなった。家の中の窓辺でそだてているシクラメンだけが、彼女の楽しみ。シクラメンは昨年の暮れから次々に咲きつづけている。 桜草の鉢またがねばならぬかな 虚子 おもしろい句だ。なんとも無防備だが、私はこういう句が好きだ。実際、桜草がどんどん殖えてくると、これは実感すること。虚子という男、なかなかいいね。
Mar 11, 2008
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先日亡くなった市川崑監督を追悼してその作品を連続放映するNHK・BSの番組が始まった。第一夜のきょうは、『ビルマの竪琴』であった。製作されたのは昭和31年(1956)だから、私はビデオ版もDVD版も所持していないので、じつに52年、いや、たぶん51年ぶりに再び見たことになる。 つまり私が12歳のときに観ているわけで、当時、私はすでに親許を離れて会津若松の学生寮に入り、第三中学校に通学していた。ただしこの映画を観たのは八総鉱山小学校の講堂兼体育館兼映画館であるから、母が上映プログラムを手紙で知らせてくれたにちがいない。土曜日、私は学校が終るとすぐに西若松駅から汽車に飛び乗って帰宅、その晩に家族そろって映画を観て一泊、翌日曜日の夕方5時頃に会津若松に帰ったはずだ。 私の映画好きは、言わず語らずのうちに母は察していて、私が興味をもちそうな作品が上映されるときは手紙で知らせてきたのだった。もっとも、経済的に余裕があったわけではないので、帰宅するとしても月に一度、ないし三月に一度くらいだったけれど。 さて、そのようにして観た『ビルマの竪琴』だが、忘れていないものだなぁと、あらためて映像の力に感じいった。すべてのシーンを記憶していたとは言えないが、それでも大筋にそってまったく色褪せずに記憶していた。冒頭と最後とに二度字幕で出る、「ビルマの土はあかい。岩もあかい」という言葉はすっかり忘れていた。また、部隊の兵士たちによって繰り返される合唱曲のうち、『もずが枯木で』を歌っていたこともすっかり忘れていた。この曲は、日露戦争に出兵した兄さんのことを思い出している留守家族の歌である。「兄さは満州へ行っただよ。鉄砲が涙で光ってた。兄さの薪割る音がねぇ。バッサリ薪割る音がねぇ。」と。なるほど、停戦となり英軍の収容所に入れられた日本の兵士たちがうたうにふさわしい曲であった。 そのほかの場面は、完璧に覚えていた。北林谷栄が扮する奇妙な関西弁をあやつるビルマ人の物売り婆さんが始めて登場するところも、停戦後に三角山に立てこもって抵抗する日本兵を、井上隊長の命を受けて水島上等兵が説得におもむくシーン、三角山のシーン、ビルマの山河に散らばる無数の日本兵の屍体。それらの屍体に水島が顔をおおって走り去ろうとする茫漠としたイラワジ河岸のシーン。作業から帰る部隊と橋の上で遭遇する、今はビルマ僧の姿となった水島。その肩にとまるインコ。・・・私は12歳に還ってしまったようだ。八総鉱山小学校の講堂で、家から持っていった座布団にすわりながら・・・。懐かしさで胸がつまる。 俳優たちの顔がみないい。それはそうだろう、実際に戦争を経験した人たちも大勢いるのだから。西村晃氏は、たしか特攻隊の生き残りだったはず。浜村純氏のような顔の俳優は、現在ではもういないだろう。三角山立てこもり部隊の隊長に扮していた三橋達也氏の、信条にとりつかれた目の光のすばらしさ。三国連太郎氏は井上部隊長に扮し、音楽学校出という経歴のそのインテリ学士らしさをそこはかとなく滲ませるうまさ。 いやー、この頃の日本映画はおとなの映画だったなー。 それにしても惜しむらくは、劣化したフィルムのままDVD化されていることだ。欧米の昔の映画は、きっちりデジタル修整してDVD化されている。フィルムはフィルムできちんと保存することがのぞましいが、DVD化して発売するものは、それなりの金をかけて補正するほどの気位はないものかね、関係者のみなさんよ。文化、文化と、ごたくばかり並べてもしょうがないんだけどなー。
Mar 10, 2008
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北京オリンピック代表選考会を兼ねた名古屋国際女子マラソンがたったいまフィニッシュした。優勝したのは今回が初マラソンだという中村友梨香選手(天満屋)、タイムは2時間25分51秒。32キロ地点よりスパートをかけて飛び出した中村選手は、他をよせつけない圧倒的な力強さでそのままゴールした。2位はやはり初マラソンという尾崎好美選手。 この名古屋国際女子マラソンはベテラン選手が勢ぞろいするということで注目された。高橋尚子選手、坂本直子選手、弘山晴美選手、大南敬美選手、原裕美子選手。 なかでも高橋尚子選手は一昨年の東京国際マラソン以来となるレースで、年齢による衰えやレース感覚を疑問視されるなかで、「あきらめなければ夢はかなう」と元気に語ったと報道されていた。 しかし、残念なことに、彼女の夢はかなわなかった。私がテレビ観戦しながら「オヤッ?」と思ったのは、二回目の給水ポイントでのことだった。カップの水を口にふくんだのち、残りの水を右脚にかけたのだ。気温が上昇しているようだったので、そのような場合、選手たちが頭や脚に水をかけることは珍しくはない。だが、今日の高橋尚子選手は早過ぎはしないか。しかも、叩き付けるように水をかけた。 異変がおこったのは9キロ地点手前にさしかかったときだった。トップ集団31人のなかから脱落しはじめたのだ。70メートル遅れ、90メートル遅れ、100、150とたちまち引き離されてゆく。彼女の足元は、かけた水のため靴下がぐっしょり濡れているとバイク・レポーターが言う。唇が青褪めてきたとも。レポーターのマイクが高橋選手の荒い呼吸音を拾う。 もはやテレビ・カメラは彼女を追い掛けることもない。トップとの差は1.5キロにもなっていた。関係者さへ誰も予想しなかった事態だっただろう。 一方、32キロ地点から飛び出した中村友梨香選手は、視線をまっすぐ前方にすえ、ほほえんでいるのではないかとさえ見える生き生きした顔でぐいぐい走る。まったく後ろをふりかえることがない。 テレビで瀬古利彦さんと共に解説していた有森裕子さんが、中村選手の走行についておもしろいことをおっしゃった。中村選手はペースが落ちると、沿道よりにコースをとる。こうすると、視界に入る景色、つまり人垣が早く行き過ぎるようになる。それで自分のペースを修整しているのだ、と。 言われれば、なるほどと思う。車の窓から見る景色が、遠くはゆっくり流れるが、近景はすばやく流れる。人垣の顔がどの程度明瞭に見えるかによって、自分のスピードが経験的に認知できるというわけだ。多くのマラソンを経験した有森裕子さんならではの解説である。 沿道の観客は三重四重の人垣で、身をのりだしての応援だ。先導白バイの警察官が、ひっきりなしに観衆に注意を呼び掛ける。ガンバレ、ガンバレという声援は、しかしその後に、「あれは誰?」というざわめきに変る。今回が初めてのマラソン競技だという中村選手の顔を、沿道の観衆は知らないのだった。彼女から遅れること150メートル、二番目をひた走る尾崎選手もまたマラソン競技の新人だった。 国際的なレベルでのマラソン選手に、もしかしたら確実に世代交替がおこっているのかもしれなかった。 中村友梨香選手がゴールしてから10分後、高橋尚子選手は残り2.5キロ地点を走っていた。彼女に対する沿道の声援が、彼女を走りつづけさせていた。テレビ中継は、高橋選手のゴールをまたずに番組を終了してしまった。 後の報道によると、高橋尚子選手は27位。北京への夢は潰えたが、マラソン競技への挑戦は「まだつづける」と語って、笑顔で競技場を去ったそうだ。それでこそQちゃん、と誰もが思ったことだろう。 ところで、同じ日の夜、NHk・TVが特別番組「人類最速9秒74! パウエル奇跡の肉体を特撮」を放映した。パウエル選手のスタート時からゴールまで、100メートルの間に彼の肉体に何がおこっているのかを、最新機器を使って綿密に調査した記録である。同じ100メートル・レースのゲイ選手や日本の朝原選手の協力もえて、彼等との比較もおこなわれた。ただし、ゲイ選手とパウエル選手は、すでに北京五輪へ向けての互の心理戦に入っており、同じトラックで顔をあわせることはないそうで、映像は特殊合成されている。 カメラはつぎつぎにパウエル選手の肉体(筋肉)の秘密をあきらかにしてゆくが、最後に、パウエル選手自身が大変興味深いことを言った。それは「心の弱さ」の告白だった。 パウエル選手は、いまだ人類が到達したことがない100メートルを9秒74で走り抜いた記録を保持し、しかも彼自身によってその記録は塗り替えられてもいるのだが、じつは最も大きな試合で優勝したことがなく「無冠の帝王」と言われている。そのことについて、彼は言う。ライバルが気になって、走っている最中に、並んでいるゲイ選手の脚が目にはいってくると、負けまいとして緊張してしまうのだ」と。 そのことはたしかに映像にもとらえられていた。走っているとき両の掌は指をおおきく広げていると肩の筋肉がリラックスして、よりスピードが出るのだそうだ。パウエル選手の走りは、事実そのようなのである。しかし、彼が告白したような場面では、握りこぶしになっていて、肩から上腕にかけてが明らかにガチガチに緊張している。・・・つまり、パウエル選手は心で負けてしまっているというわけだった。 「世界最速記録を維持してゆくことが、どんな意味があるのだろう」というパウエル選手の言葉が胸を打つ。それは、誰にもわからない、彼一人だけの悩みである。
Mar 9, 2008
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住宅街を歩いていると、空気のなかにそこはかとなく梅の香がただよう。行き交った御老人が、小声で歌をくちずさんでいた。日射しが明るく、気持がよい。 私はといえば、今晩も町内自治会の定例会議があるので、それに間にあうように回覧用の5ページの書類を30部つくらなければならない。今月は、土曜日がすべて、自治会の予定が入っている。普段の私自身の画家としての仕事とはまったくかけ離れたことなので、たいしたことをやっている訳ではないのに、気持の切り替えがやっかいだ。 そういう仕事を俗事といってしまえば語弊があるが、絵描きが仕事のなかで考えていることは、やはりどこか浮き世離れしているところがあるかもしれない。われわれの「生産」は、とりあえずの衣食住に関係がないので、一層その感が強い。その点に、自己の内部で、意義を見いだしているところもあろうけれど。 「日々の暮らしは、やって来るけど、静かに笑ってしまおう」と、岡本おさみ氏は書いた(『襟裳岬』、作曲:吉田拓郎、歌唱:森進一)。この一行の詞だけで、けだしこの歌謡曲は名作だと私は思っている。 絵描きになりたかったけれど、なれなかったと述懐する人に会うことがめずらしくない。生活の必然性に駆り立てられて絵を修練する時間がなかった、いつかいつかと思っているうちに人生の再出発ができなくなってしまった、と言うのである。こういう述懐に、私は何も返す言葉がないし、興味もないのだが、ひとつ言えることは、どんな状況に置かれようと絵を描くことも「才能」なんですよ、と。 自身を画家と称している人は、多かれ少なかれ、出発前後にそのような身の置きどころについての鬩ぎあいと闘っているはずだ。私自身、仕事場の扉をぴたりと閉ざして、誰ひとり入れぬ、覗かせぬ、声をかけさせぬ、いわばタブーの空間的状況をつくるのにどれほど激しい闘いをしたことか。それでもなお、「日々の暮らしは、やって来る」のである。 此の村を出でばやと思ふ畦を焼く 虚子 閑話休題 先日、NHK・BS2でエド・ハリスが監督・主演した映画『ポロック 二人だけのアトリエ』を放映していた。私はDVDを所持しているのだが、TVで最後まで見つづけた。ポロックとは、アメリカ現代アートで画期的なことをやってのけた抽象画家ジャクソン・ポロックのことである。この作品、いわゆる実在の人物をモデルにした映画というわけだ。 良くできた映画だと思った理由は二つある。一つは、ポロックが彼を世に広く知らしめることになったドリッピング(絵具の滴れ描き)を発見する以前、周囲からは天才といわれながらも、彼自身は美術的に真にオリジナルなものを発見できずに、「ピカソがすべてをやってしまった!」と慨嘆する。ここがおもしろい。 じつは美学の問題としては、ピカソとポロックは対極にあり、それゆえにポロックが重要なのだが、ドリッピングの手法を発見したとき、ポロックは、イメージから離脱できた、と思う。実際それはそうなのであって、彼のドリッピングによる作品は偶然ではなく、彼の意志によって統御されている(少なくとも彼はそのように主張している)のだが、なんらかのイメージを追求しているわけではない。また、ひとつの行為としてのドリッピングによって生じた「形体」が、イメージとして影響して次のドリッピング行為を招来するのでもない。つまり、形体は一切の意味から自由で、ただ形体として存在するのである。抽象という漢語は、厳密にいえば、現象を抽出するということで、さまざまな現象のプロパーの表現という意味である。具象とは現象の具体的な表現ということだ。いま、なぜそんなことを説明するかというと、ポロックのドリッピング作品は、抽象絵画といわれるけれど、哲学的な意味での抽象ではないからだ。いや。これは私の個人的見解としてもいいのだが、私に言わせれば、ポロックの真に独創的なことは、何も意味しない形体、まったく純粋美学としての形体を創造したことにある。 ところでピカソだが、彼はポロックとは対極にあり、ピカソ自身が「抽象には近寄らない」と言っていたように、イメージの創造者であった。ピカソの作品は古典絵画の研究と引用にみちており、それらのイメージを借りながらその意味を破壊し、新しい意味を追究していたといえる。ピカソの厖大な作品群は、すべて具象なのだ。無意味なものはひとつもない。意味にあふれ、意味を付与されることを望んでいるのだ。 映画『ポロック』は、その点を、きっちり押さえていた。監督・主演のエド・ハリスは、ファインアートの学士だそうだが、なるほどと私はうなづいたのであった。 さて、もうひとつ私がおもしろかったのは、ドリッピングで製作している場面が数多くあるのだが、それが実におもしろいし、描かれてゆく作品がポロックの実物を彷佛とさせる出来ばえなのだ。これには感心した。短いカットの積み重ねではなく、ドリッピングの連続する過程をワン・ショットでとらえている。映画の最後のクレジットに、美術製作指導という役目を担った人物があったので、やはりポロック研究家の監修がきびしく付いていたのだと納得した。ニューヨークのグッゲンハイム美術館も協力していた。 私はこのブログの別サイト『山田維史の画像倉庫』で、「映画の中の絵画」と題して執筆しているが、映画の中にセット・デコレーションとして登場する名画の模作が、必ずしも良質の出来とは限らない。たとえば、デレク・ジャーマン監督『カラヴァッジョ』は、小道具にタイプライターなどが登場したり、部分的に現代の服装だったり、それによってイタリア・ルネッサンス末期の異端的な画家の行動を現代風俗と重ねあわせてみる意図は理解できるが、肝心のカラヴァッジョ作品の数々が、あの緻密な描写の厚い画肌とはほど遠い現代のいわゆるヘタウマ絵画(ニュー・ペインティング)では、見ているこちらは興醒めしてしまう。レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記的な映画で、『モナリザ』を現代的なオカチメンコに描いたとしたら、映画として成立しないだろう。『ポロック』は、その点がじつに見事なのだ。 いや、よくよく考えてみると、この映画は、ポロックがドリッピングで製作する場面をおおきな見せ場にしていることが分かる。一度か二度、おざなり程度にそのようなシーンがあるのではない。何度も何度も、かなりのロング・ショットででてくる。余ほど自信がなければできることではなかろう。そのエド・ハリスの自信も、私にはおもしろかった。
Mar 8, 2008
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敬愛してやまなかったピアニストの山岡優子女史が亡くなった。お近づきを得るようになって20年有余になろうか。以来、毎年、桜の花が満開になるころ、リサイタルにお招きをたまわった。サントリー・ホールで、イイノ・ホールで、津田ホールで、紀尾井ホールで、横浜美術館で・・・思い出すだけで胸が熱くなるような、素晴らしい演奏を聴いた。 艶やかだった。シルク・オーガンジーの鮮やかな赤や黄色のドレスが良くお似合いだった。ステージに登場すると、あたりがパッと華やかになった。 私は山岡さんのピアノ演奏に出会って、はじめて音楽が身体の内部で発熱するのだということを知った。さまざまなピアニストの名演奏を聴いてきたが、たとえばリヒテルのすばらしいラフマニノフを聴いても、それは起らなかったことだ。山岡さんのピアニズムと私のバイオリズムが合うのだろうか、私の身体は実際、しだいに熱くなり、顔が火照ってくるのだった。このメカニズムをどのように説明すればよいか分からないが、音楽に酔うとはこういうことかと、私はいつも思った。 「山田さんは、耳が肥えていらっしゃるから・・・」と、山岡さんは言ってくださったものだが、敬愛する音楽家にそう言われるのは嬉しかった。 山岡さんのピアノは、一音一音がきわだっているのだ。決して濁らず、曲の輪郭が明瞭なのだ。ピアニッシモも、フォルテッシモも。なんと、しなやかで強い指なのだろう! しかも、演奏姿勢は端正で決して崩れない。気品があった。 以前、音楽雑誌にお書きになっていたが、正しい姿勢で演奏するとピアニストは何歳まででも弾けるのだ、と。 あんなに御元気で、活力に満ちあふれて、お肌はつやつやと輝いていらしたのに、・・・その山岡さんが亡くなってしまったなんて・・・。私の手元には、いつか頂戴した美しいレースの敷物が一枚残った。さようなら山岡優子女史。ありがとうございました。【山岡優子】1952年、第20回日本音楽コンクール入賞。1956年、パリ国立高等音楽院を首席で卒業。1957年、日比谷公会堂において帰国リサイタル。10歳でソリストとしてNHK交響楽団と協演したのをはじめ、国内の主な交響楽団や室内楽団と協演、また、毎年のように国内外でリサイタルを開催してきた。チャイコフスキー国際コンクールの審査委員をはじめ、数多くの国際コンクールで審査委員を務めるなど、世界的な幅広い活動をつづけてきた。1985年、フランス政府よりシュバリエ芸術文化勲章1990年、横浜文化賞1998年、フランス・オフィシエ芸術文化勲章2004年、ブルガリア・ソフィア国立アカデミーより名誉博士号を受ける2007年、ブルガリア音楽舞踊家連盟よりモーツァルト大賞を受ける。元横浜市建設港都審議委員。横浜市教育委員。横浜市芸術文化振興財団理事。フェリス女学院大学名誉教授。フェリス女学院評議員。桐朋学園大学講師。日本ピアノ教育連名理事。国際音楽交流協会評議員。日仏音楽協会理事。神奈川フィルハーモニー管弦楽団理事。横浜山手ゲーテ座ピアノ祭代表。港北区芸術祭実行委員会会長。横浜市招待国際ピアノ演奏会企画委員長。2007年5月開催第7回国際パデレフスキ・ピアノ・コンクール日本予備審査会、及び、同時開催第1回横浜ピアノ・コンクール実行委員長。他。
Mar 4, 2008
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今月は年度末ということもあって、わが町内自治会も会計監査や執行役員・地区委員の交替等々、月末まで週1回の会議がつづく。みな、1年間それぞれ家庭や仕事のスケジュールを調整しながら、町内のためにかなりシンドイ奉仕をしてきた。ここにきて、「もう少し、もう少し」といいながら、残りの分担仕事をこなしている。私も、今夜とどけられるはずの、「19年度事業・会計報告書」と「20年度事業・会計企画書」の印刷所への入稿原稿の校正を、一晩でやらなければならない。明朝、10時に印刷所へ入れることになっている。 まあ、この任務がすめば、私の地区の場合、16年後まで役員になる義務は免除される。前例に従えば32年後までだったのだが、私たち今年度の役員が規則改正案を提出することになっているので、それが承認されればというエクスキューズ付きなのだが、32年後にはもう私はこの世に存在していないだろう。16年後だと、79歳か。さて、生きていることができるや否や。 まさか、自治会の役員就任の順番をめぐって自分の余命を考えるとは思ってもみなかった。 桜の季節になると、ふと、「もしかすると、日本人は、花見の回数で人生を考えるかもしれないな」とは思うことがあった。つまり、70回、あるいは80回花見をすれば自分の命も終焉をむかえる、と。それを短いとみるか、長いとみるか。 亡くなった小説家の池波正太郎氏は、残り何回の食事とかぞえて、食事を大切にされたと聞く。俳優の中尾彬氏もテレビに出演されてまったく同じことを言っていた。おそらく池波正太郎氏の言に、ならってのことだろうと、私は思った。 私も、自分の口にいれるものは、それほど神経質にではないが、大切に考えてきた。40年以上にわたって食事を調理してきたのもそのあらわれ。ものを創るということの根本に、みずからの命を育むということを据えて料理をしてきた。料理というのは注意深い観察力が要求され、また仕事の手順(段取り)や手際の良さが必要なので、それらはみな絵画創造につごうよく働くと思っていた。 ともあれ、私の心のなかにも、「残り何回の食事」という思いがないわけではない。 父が亡くなる2週間ほど前から、固形物がまったく摂取できなくなった。家庭看護だったので、それ以後は、私が特別のスープをつくって飲ませた。1日3回、2週間。計40数回のスープ・メニューを毎日コンピュータ・ファイルに記録したが、亡くなってからすべてを消去してしまった。87年の生涯だった男の最後の食事の記録だったが、いつか私自身のために再現されるかもしれない。
Mar 3, 2008
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わが市の管理施設を破壊せずに別用途に転換することになり、文化・スポーツを中心とした地域コミュニティー・センターとして生まれ変わる。市が作成していた開設準備までの作業レジュメができあがったので、その説明会が本日午後1時から3時まで開催された。私は自治会の代理人として出席した。 私たちの自治会は、すでに専用の建物をもっているので(これも市の施設だが)、自治会として新たに会議室・防災用具倉庫その他として利用することはない。その点に関しては、私たちは早くに住民の了解を得ていた。 さて、文化・スポーツ施設としての利用は、個人使用ができないという難点があるが、たとえば陶芸窯をふくめて一切の水道・光熱費が無料なのだから、サークル使用に限るというのもいたしかたないかもしれない。カフェテリアの新設を検討しているが、ここにハンディ・キャップをもった方々の雇用ができないかと考えている。しかし問題はいろいろあって、たとえば、そのカフェテリアが利用者がある時だけ開店するというわけにはゆくまい。ハンディ・キャップをもった方々が自立することができるためには、毎日、相当数の利用者がなければならない。そのような活発な運営が、サークル単位の貸し付けで可能かどうか。カフェテリアを開いたはいいが、開店休業状態では、ハンディ・キャップをもった方々の生活はかえって不安定になる。はたして事業として成立するかどうか。 私が思い出していたのは、世田谷区成城の世田谷図書館だった。この図書館にはハンディ・キャップをもった方々が運営する喫茶室が併設されているのである。規模は小さい。4畳半ていどくらいか。しかし、なかなか気持が良いスペースで、サーヴィスも丁寧だ。かつてこの地に住んでいたとき、私は簡単な調べものをするためにしばしばこの図書館を利用した。そして疲れた頭を、この小さな小さな喫茶店でコーヒーを飲みながらひと休みするのが、何ともいえず楽しかった。めずらしいものがあるわけでもない。ただただ一杯のコーヒーを飲むだけだ。しかし何か、ホッとするものがそこにはあったのである。 4月には部分的に利用がはじまるこのコミュニティー・センターに、もし、世田谷図書館のようなカフェテリアが付設されたなら、寒々しい管理施設ではない、何か新しい優しい活気というようなものが生まれるかもしれない。・・・私は、自治会に報告するためのメモをとりながら思った。
Mar 1, 2008
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