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20時25分。きょうの制作を終りにする。背景の細密描写、ようやく105/1500。まだ一割にもならない。運筆の速度をスピードアップしようにもそれができない。しかし、描き終わったところを眺めて、一個7ミリ四方くらいの物が、ちゃんと描写が成立していることが視認できる。----よし、このまま進めよう。 小庭の2種の紫陽花が、なぜか昨年はまったく花を咲かせなかった。今年はどうやら咲かせるようだ。まだ胡麻粒ほどの莟のあつまりだが、元気な黄緑色をしている。この紫陽花はもともと東京・調布市の神代植物園で育てられたもの。植物園が株分けして販売したのである。買ったときの3倍以上の大きさになっている。 今年はナツグミも萬朶の花を咲かせた。もうすっかり落花してしまったが、その枯れ花が地面に薄く積もるほどだった。5月半ば過ぎには紅提灯のような実が生るだろう。ジャムが作れるほど生るかな?
Apr 30, 2018
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日本社会の問題など、書きたい事は多いが、軽々なつぶやきをするつもりはないので、資料を検討しながらじっくり書いている時間が現在の私にはない。とにかく作品を約束の期限までに完成させなければならない。 しかしながら、制作が進んでいるようには一向に見えないありさま。毎日描いているのだから進んでいるには違いないのだが、1ミリ、また1ミリという具合だ。なんというイメージを構想したことかと、われながら呆れる。いやいや、それだけに一層、どうしても描ききってやるぞ、と思う。これを称して「虚仮(こけ;バカ者)の一念」と言う。 ちょっと筆を置いて、民生委員としての仕事。さいわいほんの15分程で終わって帰宅。ふたたび筆を執る。 現在22時。目が疲れてきたので、きょうの制作は終了だ。山岡優子先生のピアノ演奏をYouTubeで何度も何度も聴きながら。
Apr 29, 2018
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土曜日。天気晴朗なれども---仕事場にこもって制作。先日書いたとおり、小さい小さいものを1,500個描くという、まあ単調といえばこれほど単調なこともない作業をつづけている。 それで音楽でも聴きながらと思い、手を止めなくてもよいように、音は悪いがYouTubeで探してみた。すると、なんと、懐かしい故山岡優子先生の録音がみつかった! どうやらラジオ放送を個人録音したもののようだが、雑音もない。---お亡くなりになってから、ただ1曲NHKアーカイヴからCD化したもの以外は私の手元に録音が残っていなかった。八代秋雄「ピアノ・ソナタ(1961年改訂版)」の57年前の初演録音である。YouTubeのショパンはいつの録音だろう。懐かしいやらなにやら、胸が熱くなった。 ----いや、胸が熱くなったのは懐かしさもあるが、それだけではない。私は72歳のいままで、内外の沢山の名ピアニストの演奏を生で聴いてきた。しかしピアノ演奏のその音が、私の体内で発熱するのは山岡優子先生の演奏のみであった。これはまことに不思議なことで、バイオリズムが合うというのか、とにかく音が私の血流をおだやかにし、春の陽をあびているかのようにホワ〜っと身体を温めるのである。 「山田さんは耳が肥えていらっしゃるから---」と、社交辞令と知りつつも山岡先生のお言葉は嬉しかった。 演奏姿勢がお美しかった。ピシッとしていらっしゃった。それでいて強弱自在な流麗なピアニズム。あのふっくらしたお優しい御手から、どうしてあんな強い音が出てくるのだろうと、讃嘆したものだった。 きょう見つけた録音は個人録音らしいので、もしかすると後日削除されてしまうかもしれない。山岡優子先生は生の演奏を聴かせることを信条としていられたのか、レコード録音が市販されていない。このYouTubeの演奏が、NHKアーカイヴのCDとともに誰でもが聴けるただ二つの録音かもしれない。どうぞ削除されませんように。https://www.youtube.com/watch?v=92vgwc17PYE
Apr 28, 2018
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日野市民生委員合唱団「かしの木」が出演する次回のステージです。お出かけ下さい。
Apr 27, 2018
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きょうは半日、民生委員の年度始めの協議会やら合唱団の練習。現在20時45分を過ぎたところだが、30分前に帰宅したばかりだ。 出かける前に、腰痛悪化防止の例の厚板を背に入れてスーツを着てみた。姿見鏡に全身を映して後ろを見ると、ハハハ、壊れたロボットみたいだった。いくらなんでも、これじゃーなー、と止めにした。 協議会も終りにきて、先月の合唱コンサートのDVDが巨大スクリーンに上映された。自分たちのステージ映像を初めて見、初めて歌を客観的に聴いたのである。 私は、客席で、担当地区の同僚たちに個人的に、「いつもより元気が無い」と指摘された。いやはや良く見ているというか良く聴いているというか、観客の恐ろしさをまざまざと知った。腰の激痛をこらえながら、姿勢を保っているのがようようの状態で歌っていたのだったから---。腹を締めると痛みがはしる。観客はそんなことは知らなくとも、少なくとも普段の私の歌声を知っている同僚は、なんだか弱々しいなと感じたのだ。私自身も、アップになった自分の顔の映像を見て、元気がないと思った。痛そうな顔をしているわけではない。姿勢が崩れているわけでもない。しかし、表情が固い。 6月3日(日曜日)の午後、「童謡と唱歌のフェスティバル」に出演する。私たち民生委員合唱団「かしの木」はトリをつとめる。私はとにかく、腰の痛みをとらなければ。それが先決。
Apr 26, 2018
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新作の描写に入り、連日、長距離レースのような遠いゴールをめざしてコツコツとやっている。 小さな小さな物をおよそ1,500個描いている。2ヶ月ほど前にミニアチュールを制作したが、それは今回の作品のための練習だった。7ミリ四方くらいの物をどのていど描写できるかを試していたのである。そして、いよいよそれを1,500個描きはじめた。 一日中仕事しても、幾らも描けない。しかも、それは背景にすぎない。まったくコツコツと、コツコツと、である。 ----また過日のように背骨と腰が痛み出したので、大事にいたらないうちにと、厚さ1センチの長方形の板を背中に入れ、ベルト2本できつく身体に縛り付けた。市販のコルセットでは長時間の執筆に耐えない。身体を維持しえない。40年間の経験からあみだしたのが、厚板を背中から腰にかけて括り付ける方法だ。 まあ,身体はそんなであっても、いたってエネルギッシュなのである。
Apr 25, 2018
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きょうは完全休養。何もしないというのも、ちょいと辛いが、明日からのかなりハードな制作進行を考えて、ベッドに身体を横たえていた。
Apr 22, 2018
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多忙のため4日間、この日記を書かなかった。そのなかで18日と今日21日、医療クリニックで美術講義。きょうは午後1時30分開始で、さきほど20時30分に帰宅した。みな熱心に聴講してくださり、ありがたい。 院長先生が、私の話しを「主観」と「客観」の二分を突き抜けて構築する世界観と称された。たいへん嬉しい。我が意を得たりの感。 さて、秋に予定している次回講義をどんなテーマにしようか----
Apr 21, 2018
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昼前に美術講座を主催する医療クリニックに行き、18日当日のプロジェクターやスクリーンのセッティングを確認。 まもなくニューヨークにおいてアート・フェアが始まる。初日の19日はトレード・パーティ。あした私のエイジェントの日本スタッフが渡米する。さきほど電話があった。私は秋の韓国展のための作品制作。
Apr 16, 2018
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映画監督ミロス・フォアマン氏が亡くなった。享年86。 チェコ生れ。ソ連がチェコに軍事介入した「プラハの春」直後の1968年にアメリカに移住。 ハリウッドでの第1作は、1971年の『Taking off (邦題:パパずれてるゥ!)』(日本の映画配給会社は、うまい邦題のような、しかし風刺コメディーにしても俗っぽくて、なんとなく、ずれてるゥ!;山田)。 そしてフォアマン監督を一躍有名にしたジャック・ニコルソン主演の『カッコーの巣の上で』(1975年)、ベトナム戦争に反対する若者たちヒッピーのミュージカル映画『ヘアー』、『ラグタイム』(1981年)、16年ぶりに祖国で撮影した『アマデウス』(1984年)、『ヴァルモント』(1989年)、そして『ラリー・フリントン』(1996年)。 決して多作ではない。むしろ寡作である。しかし、脚本が非常に緻密だ。社会を見る目が鋭い。『カッコーの巣の上で』『ヘアー』『アマデウス』など、私にとって忘れられないすばらしい作品である。 ミロス・フォアマン監督の死を悼みます。 (フォアマン監督の逝去を知らずに、じつはまったく偶然なのだが、きょう私はヨーロッパの劇場建築史を調べていて、映画『アマデウス』が撮影されたプラハのスタヴォフスケー劇場のことを思い浮かべていた。モーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』が実際に初演された劇場である。)【私が所蔵するDVD】
Apr 14, 2018
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午後2時から4時まで民生・児童委員会議。市役所会議室にて。 強い南風。どこに行っても花粉症の話し。突然発症する人もあるようだ。以前、学生らしい人がティッシューペイパーをボックスごと抱えて歩いているのを見かけた。
Apr 13, 2018
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1週間後の第4回美術講座のための原稿400字詰め53ページとスライド63ページを照合し、最終的な校訂をする。途中休憩をいれて2時間ないし2時間半でやれるかどうか。 質問のある人は、その後プラスαの時間。私は4時間でも5時間でも、そのくらいの話しする体力はある。むしろそんな熱意の方がいて議論できると嬉しい。来週、同一内容で2回、2日間。
Apr 12, 2018
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午前中、雑用。午後から執筆。 昨日、私の5歳前後について少しばかり触れたが、そういえば、と、同じ頃に旭川に博覧会を見に行ったことを思い出した。 しかし、住んでいた羽幌町と旭川市とでは当時としては随分遠距離だったはず。そう思いながらインターネットで検索してみると、なんと、1950年(昭和25年)7月15日から8月23日まで旭川市で「北海道開発大博覧会」が開かれたとあった。 私の記憶に間違いなかったのだ。しかもまさしく私は5歳になったばかり。検索した資料によれば会場には「こどもの国」が設けられたとある。---67年前のことだが、いま目前によみがえってくるビックリ・ハウスの長椅子に座って、天地がさかさまになったような驚天動地の光景、ひとびとの阿鼻叫喚は----その時の映像なのだ! 51万4309人の入場者だったという。その一人が私だ。 記憶が良いといっても、やはり子供。ビックリ・ハウスの他はまったく憶えていない。 そうだ、このことも書いておかなければ。 当時、進駐軍列車が羽幌町に停車したのは、たぶん羽幌炭鉱が活況あったからだろう。その炭鉱労働者たちがときどき町に出て来ると我家に寄った。昼食を食べる場所として使うように両親が招いたのだ。 そのひとたちは、多くが女性だった。男たちは戦争に行き、まだ帰らないか戦死していて、いなかったのである。 婦人労働者たちの昼食が、私をびっくりさせた。赤ん坊の頭程の大きさの麦飯のおにぎりだった。----あるとき、その方々から私は贈り物をもらった。「いろは積み木」である。4cm四方、厚さ1cmほどの正方形の板に1字1字「いろは」がペンキで書いてあり、うらに関連の絵が描いてあった。 これをもらったのは、4歳くらいのときだっただろう。というのは、5歳のときには文字が読め、芸者の京子さんからもらった絵本『虫のいろいろ』も自分で読んでいたからだ。 私はその「いろは積み木」で文字を覚え、家族で汽車旅行する折りの駅名標札でアルファベットを覚えた。つまり、覚えた「いろは」文字と、まだ知らないアルファベットを対比し、駅ごとに記憶に蓄積される対比関係によって「A=あ」「I=い」「U=う」「E=え』『O=お」---と判断した。結果を両親に告げて、正しいと、ほめられて喜んでいた。 婦人労働者といえば、行商の婦人たちが大勢いた。彼女たちもまた、たいてい戦争で夫を亡くした人たちだった。鰊漁の季節になると背負子いっぱいの鰊を担って売りに来た。 その季節、人手が足りない漁師の家に両親は手伝いに行ったものだ。私も連れられて、浜辺で一人遊びをしていた。船が帰ってきて、浜に引き上げるのを見ている私に、船の上から漁師さんがヒトデを投げてよこし、私はびっくりしながらも、おもしろがっていた。そんな光景もよみがえってくる。 同年齢の子供が一人もいず、したがって友達もいず、私は部屋のなかで窓から通りをみながら、「あのこはだーれ、だれでしょね」と歌っていたのを思い出しもした。記憶の頭陀袋の口が、風神の風袋のように開いて、遠い遠い昔の私を吹き出している。まるで死に際にうかびくる回想の走馬燈のように。ハハハハハ----
Apr 11, 2018
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朝から勘違い。スケジュール表の誤記入だったのだろう、幼稚園入園式出席を2時間も早く出向いてしまった。幼稚園に到着して初めて勘違いと気づいた。出直して来ますと言って一旦帰宅した。 じつは昨夜、きょうのスケジュールを確認したときに、随分早く式典が始まると思ったのだが、子供は早起きだからなーと、不審もいだかず勝手に納得していた。で、今朝は5時半に起床したのだった。 幼稚園のお式は、先生方の工夫で楽しいし短いし、なにより可愛らしい。来賓として招かれて喜んで出席させてもらっている。始まる前に園長先生と話していて、新入園児たちにとって、同年齢の大勢の子供たちの集まりのなかに加わるのは、生まれて初めてのことなのだと言われ、なるほど、それはちっとも意識しなかったと、ヘンな感心をした。また、昨年の卒園式では拭っても拭っても涙がこぼれる子がいたことを話すと、友達とすごすわずか1年間の幼稚園生活のなかで情感が豊かに育つのだ、と。 私の4歳5歳というと、北海道の羽幌町に住んでいたころだ。進駐軍列車を見(後に間違って家族で乗ったが)、米軍兵士から赤い小さな本を何冊ももらい、レッドパージ(共産主義者追放)のときは父の話から「クビキリ」という言葉をおぼえ、つづく朝鮮戦争勃発時には落下傘部隊の降下を目撃した。食糧統制の「米穀通帳」があり、商店には売り物が何もなく、私は母の言いつけで小麦粉を持って製麺所に行き饂飩にしてもらったものだ。製麺機から饂飩が簾のように出て来るのがおもしろかった。間もなく、ラジオからは外地からの引揚者の「尋ね人」が放送されだした。戦争で家族は散りぢり、生死さへ分からなくなっていたのだ。 ----私は幼稚園を知らない。昭和23年から25,6,7年時代の地方の小さな町。幼稚園がなかったのだろう。それに、近所には、私より1,2歳下の女の子がいただけで、同年齢の幼児がいなかった。一人もいなかった。私は終戦3ヶ月前に生まれたが、他家では父親となるべき人はまだ戦地にいたのかもしれない。私は野球の川上哲治選手をまねた赤バットを買ってもらい、母がどこからか調達した布で手作りしてくれたユニホームを着て、たった一人で得意になっていたものだ。 きょう、園長先生が「友達とすごすわずか1年間の幼稚園生活のなかで情感が豊かに育つ」と言われたが、たしかにそうなのであろう。私はくらべることができないながら、自分自身を思い出して、4,5歳ころからの記憶が映像とともに鮮明だ。 上記の事もそうだが、羽幌町大火の記憶がある。後年、それが昭和27年の南大通りの20棟38世帯全焼の火災であることを知った。床の間の窓を父と伯父と下宿していた高校生とが占領して望見し、私は三人の大人たちの脚の間にまとわりついて、見えない悔しさに地団駄踏んでいたのだ。そのときの大人たちの話しさえ、よく憶えている。再建された羽幌映劇の2階席で能に材をとった舞踊「土蜘蛛」と「ジャガタラお春」の芝居を見た。巡業の大相撲で、弓取式に使う弓を我家に借りにきた。その弓で力道山さんが弓取りをした。料亭「丸た」に入り浸っていた父を母といっしょに迎えに行き、父のなじみの芸者京子(名前も忘れていない!)から、講談社絵本『虫のいろいろ』をもらった。それは私の大切な本となった。私の昆虫好きの因となったかもしれない。「丸た」の玄関先にぶらさがっていた名入りの軒灯も憶えている。----- 「みんなでなかよく、元気にあそんでちょうだいね!」と私は思わず口から出て挨拶したが、豊かな情感が育ってほしいものだ。----日本の今の社会、ほんとうにそれが必要だと、私は日々痛感しているのである。
Apr 10, 2018
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午前中、中学校の入学式に出席。 さいわい好天気となった。親御さんたちが入れ替わり立ち代わり、校門を背景に我が子の晴れ姿を写真撮影していた。今年は桜が早く開花し、学校周辺の桜木はすっかり葉桜である。その代わりでもあるまいが、グラウンドを囲むフェンスの周囲に、いろとりどりのチューリップがみごと。まるでこの式日にあわせたかのようだ。 今年、新入生は70数名。非常に少ない。これは何を意味しているのか---。 他国のことだが,2日前のCNNニュースが、米自治領プエルトリコで財政危機が背景となって過去1年間の入学者が激減し、今夏までに283校を閉鎖すると同教育省が発表したと報じていた。ハリケーンによる甚大な被害から立ち直れず、自国で生活していけなくなった住民が流失しているのだという。 他国の学校閉鎖を我が町の中学校の新入生減少とむすびつけて考えはしないが、しかし、災害によって立ちいかなくなった故郷を捨て、学校を閉鎖する事態は、我が日本の問題でもある。 私は母校とする小学校が3校あり、中学校と高等学校それぞれ1校。そして大学がある。ところが、小学校1校は完全に閉校。他の2校は全面的に改築。中学校はまったく別の地に移転。高等学校は同地にあるものの焼失して、まったく新しく建て直した。いずれにしろ、母校と言っても名ばかりで、思い出が刷り込まれた建築的あるいはトポロジカルな懐旧の情は、持とうと思っても持ちようがないのである。 きょうの入学式で、校長も在校生も、新入生に贈ることばとして「思い出」と、何度か言っていた。それはたぶん、友情をめぐる何らかの事態をイメージしているのであろう。 ----それは良くわかる。しかし、私は自分の少年時代を回想してみて、学校時代の「思い出」は建築的あるいは地勢的(トポロジカル)でもあり、この時代の友情はそれと分ち難いほど密接だと思うのである。そういう物的な存在に寄りかかって、「思い出」も「友情」も一層濃密になっている。 生徒数が激減して学校が統廃合されれば(我が町ではすでに10年前頃に一度起っている)、おそらく子供たちの「思い出」は画餅のように或る種の虚しさが胸に巣くうことになろう。 ---この私の見解をセンチメンタルと言ってくださるな。私の描く絵が、無国籍、よくいえばコスモポリタン・アートなのは、地勢的(トポロジカル)な「思い出」の足許を掬われているからなのだ。
Apr 9, 2018
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落語の三題話みたいだが、時計をめぐる小さな話を書いて、もうひとつ「父の時計」があったことを思い出した。 昔、どこの家庭にもあったが、私が子供のころ、茶の間に柱時計が掛けてあった。丈50センチほどの扉の上下に仰々しいパルメット彫刻をほどこした古い箱時計で、何処の国か忘れたが、たしか外国製だったと思う。時を告げるボーン、ボーンという音が遠い記憶のなかで聞こえる。 「父の時計」と言ったのは、毎日決まった時間になるとネジを巻くのが、家庭内での父の役目のひとつだったからである。父は背が高かった。踏み台を使わず、手をのばすだけで事はすんだ。 その時計、私がめちゃくちゃに壊してしまった。 父がいないときに柱からはずし、ドライバーやペンチで分解したのである。完全に。そう、完全に分解して、ゼンマイを取り出し、引っ張ったり緩めたり。短針をはずし、長針をはずし、文字盤をはずし、----なにもかにも個々の部品にしてしまった。もちろん振り子もはずし、挙げ句は箱のガラスト扉まではずしてしまった。 な〜に、もとに戻せばいいんだ! で、戻らなかったんだなー! あまりにも徹底的に分解してしまったものだから、テンプもクランクも幾つもの歯車も、小さな小さなネジも----戻す順番もわからなく、なにがなんだか全然収拾がつかなくなってしまったのだ。 それからどうなったか全然記憶にないが、怒られた記憶も無い。父は、私を怒ったことが---そう、今あらためて思い返して、----一度もない!(ちょっとびっくり) かくして「父の時計」は失われ、以後、我家に柱時計も掛からなくなった。 ところで私の時計分解は、このときだけではない。 両親家族と12歳で離れ、中学生のときから高校生の学生寮に入れてもらって暮らすようになると、目覚まし時計が必要になった。その時計を、分解とまではいかないのだが、外側(ケース)をはずして機械だけの裸にし、凧糸などを使って、時間がくると自室の窓のカーテンが開いたり、ドアの掛がねがはずれたりする仕掛けをつくった。 とにかくなんでも機械そのものが剥き出しになっているのが好きで、他の寮生が誰も持っていなかった大型のラジオも外側を壊して、五極真空管が林立し、可変コンデンサーや周波数チューナーなどの機械部分だけになったシャーシーを机の上に置いて喜んでいた。もちろん危険なのだ。あるとき電気をいれたまま手に持って、途端に感電し、あっと言いざまシャーシーを床に落してしまった。 しかし、「三つ子の魂、百まで」と言うが、時計壊しは大人になってからもやっている。 私の表紙絵にディクスン・カー『死時計』(創元推理文庫)がある。これを描くために、私は安物の時計を二つ買い、分解してつなぎあわせたモデルを作った。もちろん絵ができあがってしまえば用無しである。しかし、描いているときも楽しかったが、二つの時計を壊して、ありもしない、それらしいオブジェを作っているときも楽しかった。36年も前の仕事である。
Apr 8, 2018
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きのうの日記に時計のことを書いた。書いたあとで思い出した事がある。 昔、展覧会のために1ヶ月ばかりニューヨークに滞在していたときだ。街を知るには歩くにかぎると、かなりの距離を歩き回っていた。あるとき、通りで一人の男が近づいてきて、「時計を買わないか」と言った。私は聞き間違いかと思って、「時計?」と聞き返した。すると男は着ていた上着のボタンをはずし、胸を開いた。上着の内側にさまざまな種類の腕時計がずらりと取り付けてあった。私は「オーッ!」とか何とか言ったかもしれない。それからすぐさま気をとりなおして、平然と、「ノー、サンキュー。アイ・ドント・ジャスト・ニーディット」と言った。「オーケイ」男は言った。そして「グッバイ!」と、立去って行った。 それだけのことだ。しかし、男が上着のボタンをはずしたとき、じつは私は内心ヒヤリとしたのだった。 そのときも、私は安物の玩具時計を腕にはめていた。
Apr 7, 2018
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腕時計の電池交換がすんだというので受取に行ってきた。 私は原稿締切など時間に縛られる職業なのに、体内時計ですませて、時計をさほど必要と感じずに30年間くらい腕時計なしでいた。還暦も過ぎて民生委員に就任後、日に数人の高齢者を訪ねなければならないこともあって、私の体内時計で事はすまなくなった。それで購入したのだが、貴金属としての時計にはまったく関心がないので、時間がわかればよいだけの玩具時計だ。それでも電池で動く以上、電池がきれれば交換しなくてはならない。 父が生前、自分の金張りの時計をプレゼントしてくれたことがあった。しばらく使っていたが、あるとき、チームを組んでいたデザイナーの故山本さんの銀座の事務所で打ち合わせをしていて、山本さんが私の金の腕時計に目をとめて「オッ!」と言った。私は恥ずかしくなり、帰宅すると、父に「いらない」と言って返してしまった。その時計、父は死ぬときまで腕にはめていた。入院先の病院で夜中に亡くなり、家族が駆けつけたときにはすでに霊安室に納められてい、後に遺物が返されたのだが、そのなかに時計はなかった。私は、父が功徳を施したのだろうと思うことにした。墓場に時計は必要あるまい。 さて、昼食後から制作にとりかかり、ただいま22時を少しすぎて一日の仕事を終りにした。来週は民生委員の仕事が4件、再来週は美術講義が2回。少しでも制作を進めておきたい。
Apr 6, 2018
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アメリカ野球、メジャーリーグのエンジェルスに移籍した大谷翔平選手の活躍がすばらしい。チームメイトへの積極的なとけこみかたも、チームメイトの大谷選手受け入れ方も、映像で見ていて、ほほえましいほど素晴らしい。 さて、今日の気温は昨日の夏日から一転して寒い。9℃の落差だったから、一層身に感じた。朝、昨日のことを思って薄着にしたのだが、仕事にとりかかる前にもういちど着直した。 午後から作品制作。【小品】 Tadami Yamada "Apples of Eve" Oil on canvas 2018 山田維史 『イヴの林檎』 油彩 2018年
Apr 5, 2018
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なんだ、この暑さは! 最高気温26.2℃だ。夏日じゃないか! 食後のアイスクリームが、みるみる融けた。 一日中、作品制作。頭に血がのぼる上に、暑さでモーっとしてきた。---------------------------- 昨日、4月3日、故マンデラ元南アフリカ大統領の元妻ウィニー・マディキゼラ・マンデラ氏が亡くなられた。享年81歳。反アパルトヘイトの象徴的存在で、獄中に在った夫マンデラ氏を支えつづけ、「国家の母」と讃えられた。 現在、世界のいたるところで人種差別、民族間憎悪、宗教間争い、そしてそれらに伴う非道残虐な殺戮---が、はびこっている。愚か者たちが世界を握り、人智は眠り、おそらく大暴発しなければ(カタストロフィー)、この狂気から人智はめざめないだろう。このときにあって、ウィニー・M・マンデラ氏の逝去は惜しみてあまりある。 生前の偉業を偲び、こころから哀悼いたします。
Apr 4, 2018
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朝日新聞夕刊の文化ページに、60年ぶり以上になる懐かしいといえば懐かしいお名前を目にした。素朴画家の丸木スマさん。原爆画を描いた丸木位里さんのお母様である。 私が「懐かしい」と言ったのは、私が小学校5,6年生の頃、母が購読していた婦人雑誌のグラビアページに、丸木スマさんの柿の木の絵が色刷りで掲載されたのだ。高齢になってから描き始めた、と紹介されていたのを記憶している。私はそのとき初めて丸木スマさんを知ったのだが、じつは迂闊なことに、その方が丸木位里さんのお母様であることを、今日の新聞で知った。もしかすると婦人雑誌の紹介記事のなかに位里さんとのご関係が書かれていて、しかし、私の記憶から位里さんはすっかり抜け落ちてしまったのかもしれない。 グラビアページの丸木スマさんの絵にことさら衝撃を受けたわけではないが、以来、すっかり忘れていたにもかかわらず、いま、私の記憶のはるかな奥から、たわわな柿の実の朱色があざやかに甦ってきている。床の間の横の押入れの襖に背をもたれて、私はその婦人雑誌の絵を見ていた----そんなことまで思い出した。 私は、或る種の---やはり「衝撃」というべきだろうが---、60年以上昔にたった一度、雑誌で見ただけの「素朴画家」丸木スマさんの絵が、私の記憶から消えずに、しかも色鮮やかに生きていることに驚いている。その絵の生命力について、なぜだ? なぜだ? と、思いながら。
Apr 3, 2018
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午前中にエイジェントに電話をいれる。 午後から制作。終日、仕事場に閉じこもりきり。
Apr 2, 2018
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墓参を予定していたが、亡父母には申し訳ないが、作品制作に専念することにした。 というわけで昨日のつづきの最下層となる下塗りをする。ようやく半分。この部分だけの描写に必要な日数を概算したところ約3ヶ月。それで全体の半分か----。なかなか大変な仕事になりそうだ。
Apr 1, 2018
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