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十七 夏警部の素性 早朝、夏の携帯電話が勢い良く鳴った。神奈川県警本部からだ。嫌な予感がしたが、夏は飛び起きて電話に出た。「警視庁に問い合わせた結果だが、昨晩ユニバーサル・プロダクション所属の光岡瑠偉というタレントが、世田谷八幡平の自宅付近で、ひき逃げにあったらしい。生命に異常はないようだが、うちの所管の殺人事件と同じプロダクションなので、詳しく問い合わせたんだ。まだ面会謝絶だそうだが、目立った外傷もなく意識もはっきりしているらしい。目撃者の事情聴取では、先行車がライトをつけず急発進し、横断歩道を通行中の光岡さんをはね、ブレーキも踏まずに走り去ったという。目下、目撃者のドライブレコーダを解析中だが、先行車がライトを消していたので、バックナンバーが写っておらず、車の詳細がわからないが、目撃者の証言では黒っぽい車で、セダン、大きな車だったそうだ。事故現場から先の防犯カメラを解析中なので、追って何かわかるかもしれない。警視庁は横浜港の事件の関連もあるので、合同捜査を提案しているようだ。さっそく病院へ行ってくれないか。ことが大きくなったのでというわけではないが、捜査一課から一人捜査員を増員する。西尾刑事がいいだろう。蜜柑さんと三人で捜査に当たってくれ。追って増員を検討する。いいか」と、一課の刑事部長、寺島逸郎がまくしたてた。「了解しました」と、夏が答えると、「県警のメンツがかかっている、心して当たってくれ」と、いつものことながら、大声で叱咤した。このやり取りを聞いていた蜜柑が、軽い朝食を準備しながら、「世田谷区のひき逃げでしょう?」と、冷静な顔つきで言った。「早いな」「snsで情報が流れているわ。警察学校の同期生で作っているグループじゃ、もう犯人のプロファイル予想までやっているわよ」と、父親をせかした。「まあ、ゆっくり食事くらいとらせてくれよ」夏が、タオルを肩に掛けて洗面所から出てきた。 ここで、神奈川県警・夏光一郎警部の殺人事件シリーズをはじめてお読みの方に、警部の紹介をしておこう。夏警部は大学卒業後、理科系の大学院修士課程まで行った秀才なのだが、ある事件がきっかけで刑事の道に足を踏み入れた。最初は生まれ故郷の静岡県警に入ったのだが、これまたわけあって人事交換制度で、神奈川県警に移動した。結婚相手の妻との間に娘が誕生し、蜜柑王国の静岡にあやかって「蜜柑」という名前にしたのだが、蜜柑が小さいころに、妻を病気で亡くしてしまった。もっと早く処置すれば「死」をまぬかれたはずなのだが、凶悪犯罪の捜査でろくに家庭を顧みることのなかった亭主を気遣いながら、妻は天国に召された。夏は、そんな苦い思い出の詰まった静岡を後にして、横浜に来たのだった。一人娘の蜜柑は、父親の後姿を追いかけて成長し、横浜の私立大学を卒業後、神奈川県警に入り、刑事課に移籍し、父親と二人三脚、犯罪捜査の道を歩み始めた。将来、国際刑事警察機構で活躍できることを夢見ている。 (続く)夏光一郎警部シリーズ(既刊)(既刊)『野獣の美学殺人事件』文芸社、2011年『リオの蝶殺人事件』文芸社、2011年『磯の香りの謎殺人事件 夏光一郎警部巨大地震と戦う』文藝書房、2011年『夏光一郎警部 猫の一分 美人博士とブッチーの活躍』Kindle版『夏光一郎警部 夏光一郎警部 湯河原発量子力学の女』Kindle版『連続僧侶殺人事件(上)夏光一郎の試練』Kindle 版『連続僧侶殺人事件(下)』Kindle版『夏警部 ブラック企業を追え 中国塩城に舞う鶴の化身』Kindle版『夢を売る女』Kindle版
2021.04.30
十六 光岡瑠偉ひき逃げ事件 仲村輝彦が東京の西教大学に赴任して二年が経過した。新しい大学に慣れるのには苦労したが、常勤の教授職を辞して、特任という雇用形態に切り替えてもらうことで、自由な時間も増え、研究室での研究と授業に専念することができるようになった。原則週二日の勤務で済むことから、学外で過ごす時間が増え、考える時間が増えて、心身健康な毎日を送っていた。「特任」という雇用形態は、裁量労働制をベースに、ノルマの授業は、従来どおりこなさなければならないが、教授会への出席のみで、オープンキャンパスや、各種委員会などへのかかわりはなくなり、報酬はほぼ半減するものの、黄昏時を迎えた中村のようなものにとっては、理想的な働き方だった。 仲村の妻は、この働き方に変わったのを喜んだ。原則、週二日から三日は、自宅の静岡にたびたび帰ることができ、妻もこれを喜んでくれた。健康上そのほうが良いに決まっている。 仲村が大学二年生、真佐子が中学二年生の時に知り合い、しばらくつきあった後に、悲惨な交通事故で記憶を失い、仲村のことを忘れてしまった真佐子も、仲村が東京にいるほうが、遊びに来やすいと言って、この二年間に、山口県の湯玉から数回東京へ来て、買い物や食事をして楽しむようになった。真佐子の記憶は、いまだに戻ってきてはいないが、彼女が若いころに残した日記と、姉の記憶を復元して、消化不良の青春を取り返すのに忙しかった。なぜ、真佐子が中学を卒業した後、自分に背を向けたのかわからないまま、彼女が記憶を失い、永遠の闇の中に埋もれた青春の一コマを求めて、お互いの自由を尊重しながら付き合ってきた。その中で、二人の仲を切り裂いた事件は、どうやら真佐子が大阪へいた頃にさかのぼることが分かったが、次の記憶探しの旅は、お預けとなっていた。真佐子も、今では孫の世話をする年になっていた。でも、仲村の記憶の中に住む真佐子の天真爛漫さは、今も変わらなかった。今、二人を結びつけるものは、何が二人を引き裂いたかを突き止める執念だった。その思いは、いまだに記憶が戻らない、青春を失った真佐子のほうが強かった。真佐子が交通事故で記憶を失ったのは、彼女が二一歳の時だった。仲村とて、真佐子が自分のもとを去った真の原因を突き止めたかった。仲村は、東京勤務の時に利用するビジネスホテルの一室で、近くの居酒屋の店頭で買ってきた弁当をつつきながら、ビールを飲んでいた。名古屋から東京の大学へ移籍した時には、小さなマンションを購入したのだが、今年から週二、三日勤務の特任教授になったので、マンションを売って、授業のある日は、ホテルに投宿することにした。時計の針が午後七時を指し、ニュースに切り替わった。見慣れたアナウンサーが、神妙な顔つきで、次のように話し始めた。「昨晩、歌手でタレントの光岡瑠偉さんが、自宅近くの甲州街道の路上で乗用車にはねられ、怪我をした模様です。すぐに病院へ運ばれ、処置も早かったので、足と腕の打撲で済み、大事には至らなかったようです。はねた乗用車は、その場を立ち去り、後続の乗用車の運転手が一一〇番通報、救急車を呼び、対応が早かったのが幸いだったと、警察では言っています。ほかに目撃者はおらず、悪質なひき逃げ事件として、捜査を開始したようです。 ところで被害者は、今人気のミュージシャンでタレントの光岡瑠偉さんで、所属事務所のユニバーサル・プロモーションでは、今回のことに関しては、誠に残念なことではありますが、不幸中の幸い、大事には至らず安堵しております。関係者の皆様方にはご心配をおかけし、誠に申し分けございません。回復まで、時間の猶予をお願いしたく、お願い申し上げます、という談話を発表しました。」仲村は、最近テレビに時々顔を出すようになった、光岡瑠偉のことは知っていた。好感の持てる歌手だと思っていた。娘の蜜柑も、時々彼の歌を口にしていた。仲村は、「ひき逃げ」というのが気になって、神奈川県警の夏光一郎を思い出した。この七時のテレビニュースは、夏光一郎親子も横浜のレストランで見ていた。(続く)夏光一郎警部シリーズ(既刊)(既刊)『野獣の美学殺人事件』文芸社、2011年『リオの蝶殺人事件』文芸社、2011年『磯の香りの謎殺人事件 夏光一郎警部巨大地震と戦う』文藝書房、2011年『夏光一郎警部 猫の一分 美人博士とブッチーの活躍』Kindle版『夏光一郎警部 夏光一郎警部 湯河原発量子力学の女』Kindle版『連続僧侶殺人事件(上)夏光一郎の試練』Kindle 版『連続僧侶殺人事件(下)』Kindle版『夏警部 ブラック企業を追え 中国塩城に舞う鶴の化身』Kindle版『夢を売る女』Kindle版
2021.04.29
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