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古き良き時代の出欠管理 勤め人ならば「出退社管理システム」は当たり前のことであり、毎日やっていることなので何ら違和感はないし、仕事をしている最低限の証になるので、必要だとか不必要だとか、さして意見はないだろう。そう断定できない面もあるにはあるが、ここではそれは問わない。 さて、学生が大学に来ているかどうか、具体的に授業に出ているかどうかの把握を「出欠管理」ということにして、この出欠管理業務ーと呼んでよいかどうか疑問は残るがーの管理主体は、夫々の授業の実施者、つまり教師の基本的な仕事である。もちろん、筆者が大学生だったころー昭和40年代前半という古い時代だがーは、一部の少人数の語学やスポーツの授業以外は出欠確認などはないのが普通であって、「出ても出なくても自由」だった。代返(だいへん)なんてのも当たり前で、先生から特に咎められた記憶はない。要は試験にパスすればいいわけで、すべては自己責任、体よく言えば「性善説」に基づく学生の側の「自主管理」で事が進んでいたように思う。単位を取らなければ卒業できないから、毎年度期末試験が近づくと急に教室がいっぱいになり、「ノートを見せろ」とか「どこが出るんだ」とか、試験情報の収集がかまびすしくなるのはいわば古き良き時代の風物誌であった。 性悪説による管理方式 ところが、世の中に大学の数が増え、本来ならば高校を出て工場や商店、職人親方のもとで仕事を覚え、職業生活における自立と自主性を涵養していった階層までが、大学という高等教育の門をくぐることによって、性善説に基づく出欠の自主管理システムでは、教育システムにおける単位認定に不具合が生じてきた。平気でさぼる学生が増え、勉強はせずバイトにうつつを抜かし、試験の答案用紙は白紙で出す、ゼミでは堂々と寝ている学生が目に付くようになり、出欠管理がやかましく言われるようになった。「出欠管理が徹底され、学生にわかり易い」授業が表彰され、「学生に評判の良い授業を行った経験のある人物」が大学に採用される時代なのだ。 大学の教師が、まずもって頭を悩ますのが、この出欠管理業務であろう。シラバスや教科書を準備し、課題を出して評価し、定期試験を実施して単位を付与する前に、この出欠管理業務で神経をすり減らしているのが、大方の教師の実情ではないだろうか。筆者も、もちろんその中の一人である。 ただ出欠を確認するだけではなく、出欠確認と教室管理が密接に関連しているから、この業務は複雑でナーバスな作業となる。しかし、ここでは「出欠管理」は、ただ教室に学生が来ているか否かの確認作業という、物理的側面に限定して考察する。 そこで、どうやっているかであるが、授業の態様や人数、教科の内容によって一概には言えないであろうが、①座席指定、②出席票の提出、③点呼による確認、④小テストの提出、⑤公欠願いの提出(就活を含む)といった方法で出欠確認を行い、期末に「失格者」を確定して、受験資格をはく奪するといったやり方が一般的なのであろう。筆者はいくつかの大学の授業を担当しているが、おおむねこんなやり方だと理解する。 excel(表計算ソフト)管理が主流 ところで、15週の出欠確認と試験による成績の入力工程の最終工程は、どの大学でもそうだが教務課で束ねられ、通常excel(エクセル)など、表計算ソフトで集計された成績を、成績入力システムにインプットすることで完結する。私の大学の場合は、CSVファイルによって教員に提供される履修者名簿を、excel形式に変換して、教師が所持・利用して出欠管理に利用し、成績を作成する。そしてこの作成された成績一覧は、成績表に一括変換されるので、非常に省力化されてはいる。しかし、この一括変換するまでの工程に非常に多くの時間が必要で、教員の「ストレス」の原因になっている。「働き方改革」は叫ばれるが、以上に指摘した業務改善の方策については、教員に任されているのが現状である。したがって、教師は紙にいちいち手書きで記入する場合は別として、このexcel表に出欠状況と試験の結果を入力し、自身の授業の評価基準に従って受講者の成績ランクを確定するわけである。ランク付けは通常、秀(S)、優(A)、良(B)、可(C)、不可(D)、失格(F)で表記される。そこで以下、大学教員の過重業務負担が取りざたされ、「働き方改革」の重要性にかんがみて、筆者が考案した出欠管理システムの基本的な概念を考察してみた。 過重な業務負担を緩和する 筆者は、複数の大学で、年間5つの講義形式の授業と4つのゼミ(大学院は除く)を受け持っており、その年間受講総数は多い年度で600名に達する。年度によって受講者数は異なるが、概ね500~600名の学生を対象に、出欠管理業務をこなさなければならない。受講者には、毎回「ミニレポート」と称して、出欠確認のための課題提出を義務付けている。座席指定で回収は後ろの席から前へ送らせるので、各席番号順にそろっており、これを授業ごとのexcel表に入力している。 一人当たりにかかる時間は、おおむね1分である。いったん入力してしまえば、集計は計算式を入力しておけば、合計点は自動的に結果が出てくるので、あとは成績が良い順に自動的に並べてくれる。優良可の入力も、コピー機能を使えば、必要業務時間はおおむね無視しうるので、問題は毎週、毎週のこまめな入力業務時間ということになる。 上に示した総受講者数500名、一人当たり所要時間を1分と前提して、毎週の必要労働時間を計算すると、1分×600人=600分=10時間となる。一人に2分をかけるとすると20時間になる。400字のミニレポートを丹念に読むと2分は必要だろう。私と同じことをやっているある女性の先生は,もっと時間をかけているという。私が研究室の明かりを消して帰宅するころ、その先生の研究室にはまだ明かりがともっている。 この時間には、授業の準備や学生に対する様々なサービス提供に必要な時間は含まない、あくまでもキーボードをたたくのに必要な単純労働時間である。休憩や確認のための時間も必要だから、実際はこの10時間を超えることは明らかだが、今はそれを問わない。授業のある日は週4日なので、一日当たり2.5時間、キーボードをたたく時間労働を充当していることになる。この時間が教師の精神状態におよぼす影響は個人差があり一概には言えないが、筆者の聞き及ぶ範囲ではかなりのストレスになっている。 改善策 さて、筆者は、今このストレスを改善し、かつ学生へのサービスを質的に向上させる方策として、来年度より新しい試みを行う予定である。次にこのアウトラインを示す。もちろん、この改善策は、教務規程の示すところと矛盾してはならないが、もし矛盾するところがあれば、対学生サービスの向上を優先する形で考案していることをお断りしておきたい。どうするか? それは端的に言って「性善説」に基づく出欠管理である。 毎回、出欠票やミニレポートの提出を求めて回収し、それを入力するという方式を、思い切って断念する。ここで、ミニレポートの提出をやめたらどうかという提案が出そうだが、出欠票だけだと「ニセ」の出欠票が出るので、代返と同じで、実効性を伴わない。ミニレポートを作成させ提出させる「課題」は、毎回の授業進行に必要なアイテムであり、シラバスでも記入を勧められている項目なので、削除できないから、これをノートに書かせるか、後で説明する各自の「自己出欠管理表」に記入させる。性善説による改善策は、この学生の自主的に行う「自己出欠管理」をコアとして進める。 自己出欠管理表 文科省が定めている15回の授業に関して、学生自らに、出欠と学習の自主管理を作成させることはそんなに難しいことではない。出席票やミニレポートによらない出欠の確認には、メール送信、HTMLのお問い合わせ機能、出欠確認用アプリ、学生証や顔認識ができるシステムなどが考えられるが、これだと「紙」というアナログ機能を使う場合に比べてかえって時間がかかってしまうし、教室にいなくても送信できるから確認にならない。学生証と顔認識による本人確認は効果があるが、excelに収れんさせる方式とは整合性が取れない。かえって業務を複雑にする。何かキーワードを指定して、それを記入して送信させるとしても、不在学生には容易に伝わってしまう。 そこで、このような方式によって、学生自らの自主申告の内容と期末試験の内容とが一致するような仕組みを考え、期末試験の結果の判定時点で、シラバスに明記した学習と到達度が正確に評価できるようにする。学生に作成させる「出欠管理表」に「学籍番号・氏名・授業名」を記入させ、日付ごとに、「その日行った授業の概要」(メモ程度)「課題に対する簡単なネット検索結果」(以下ミニレポという)(200字程度 引用http://)を入力させる。欠席した場合はその理由(公欠の場合は就活会社名・対外試合名など)を記入させ保存させる。ミニレポは初回と最終回、それと中間時点で行う中間試験の時には課さず、合計12回とし、この12回のミニレポ記入が学習の重要なポイントになるように設定し、期末試験の評価につながるようにする。従って、授業への出席と、まじめな受講態度とミニレポ作成が、単位取得につながるインセンティブになるように、授業を展開する。 まとめ 以上が「性善説」に基づく学生による学生のための「出欠自己管理システム」である。これまでの大学の大人数講義での出欠管理システムは、学生は本来授業をさぼるもの、嘘をつくものということを前提として、そうさせないために「管理」という、いわば性悪説の目線で出欠管理を行うものであったように、筆者は解釈している。 そうではなくて、学生は本来的に自己を向上させるために向学心を持っており、自己を磨き発達させるために授業に出るのだという信頼を学生に向けるべきだと思う。さぼり癖がついて、授業に出ていないくせに出席したように装うものがいたとしても、それで受験機会を得たとしても、それでは満足のいく結果を出すことはできない。毎回のミニレポを実際にこなしていなければ、期末試験で到達目標を達することができないように、授業を組み立てていけば、たとえ学生が出席を偽装しても、評価は必ずDランクになることは確実だ。 そのことを授業でよく周知徹底させて、それでも欠席を繰り返すものがいたら、それはそれで本人の責任なのである。教師は、学生の自己向上心と自主的な出欠管理、というよりもアルバイトや課外活動も含めて、日常の学生生活の自主管理を適切に行うよう指導することに、もっと意を用い注意を払うべきだろう。 おそらく、15回目の授業で提出させる、メールかwordの出欠自己管理の本文には、このような授業の学習成果が満載された記録が、教師のもとに届けられるだろう。教師は、試験を採点し学生が送ってきた自己出欠票を見ながら、総合的に成績を入力し、教務課に提出することになるだろう。こうして、日常の不毛な出欠確認作業から解放されて、質の高い授業を展開することができると確信している。以下に、自己管理表のひな形を記す。(参考)自己管理表のひな形自己出欠管理フォーマット:各自スマホメールの本文(word可)に記入し、提出まで保存してください。学籍番号・氏名・授業名曜日・時限・授業担当者名1回目(月・日)・授業の内容(項目だけ簡単に。口頭や板書による説明は教科書やノートに書きこんでください。以下同じ)2回目・授業の内容・ミニレポ(テーマ名)スマホのgoogleで検索し200字程度~400字で書いてください。教科書を読んで書く場合もあります。その場合、巻末の索引を見てください。(経済学の授業では教科書を使います。)検索したhttp://3回目 ・ ・ ・13回目:提出 メールアドレス 学内LAN15回目:授業終了後、各自完成した自己管理表を印刷し提出する。 以上、まだ100パーセント固まったわけではないが、4月以降出欠確認を行おうと思います。(2019年1月31日)
2019.01.30
大学の破綻の定義にはいろいろな考え方があり、まず研究教育機関としての大学とは言えないような状態になることとし、学生が勉強しない、教授が研究教育に専念しないことがそれに該当すると主張するのは、ネットのホームページで自説を展開する教授だ。池田光穂(いけだ・みつほ)という方で、大阪大学COデザイ ンセンター(CSCD)の「社会イノベーション部門」教授で、同センター・副センター長(2016年7月~)をしていらっしゃる。一番下のパラグラフまでは、同氏の意見なので、まずは混同なきようお断りしておきたい。 次に、経営的な破綻で、大学に入学する学生が少なくなること。学校は授業料収入と、経営に対する補助金と、自己資産の運用と いう3つの収入から運営されています。これらのひとつないしは複数の運営がうまくいかなくなると大学は破たんする。マスコミ報道における大学の破綻は、こちらのほうの定義による、とするも、実際の破綻は前者と後者の複合的なものによっているとする。学生の人気がなくなり、大学に活力がなくなると経営が悪化し、大学全体の研究教育の活力を下げ、いよいよ学生の人気がなくなる、つまり、これらの作用が相乗的に作用して、急速に破綻を迎える、としている。 そして、文部科学省は破綻にいたるシナリオを、次の5パターンにあると考え、①学生募集を停止して閉校、②破産法に基づく精算、③債権者との話し合いによる私的整理、④民事再生法の適用、⑤危険性のある大学同士の統合(救済合併)、大学破綻の救済方法には、それぞれ①~⑤が相当するという。 さらに、「大学破綻」をテーマにしたこの先生の考えは、文科省が明らかに大学を作りすぎて、需要と供給のミスマッチが拡大しているにもかかわらず、大学経営が破たんしないのは、「学校経営そのものが高い収益性をもち、また国家や自治体(=地方政府)による助成や優遇政策により、生き残っている可能性が」あり、「国民のあいだに根強くある、大学教育への信頼も、なかなか、大学を通常の企業のように容易に破綻させるようなメカニズムが働いていない可能性」があると指摘している。 さて、ここから瀬川の意見になります。私は、大学破綻の兆候に注目して、この「兆候」が現れたら加速度的に破たんの方向へ向かうと考えており、このことを示したいと考えています。それは、①学生が勉強しなくなり、バイトの傍らに大学に来るようになる、②授業が終わるとさっさとバイト先へと足を運ぶ。③大学,学部、学科の新設で教員が足りなくなり、教員の質の低下を引き起こしている。④大学間の高卒獲得競争が激化し、学生向けサービスの拡充が必要になり、教授の仕事が、ますます学生支援サービスに向けられるようになり、研究・教育のための時間が少なくなり、大学の停滞が進む。⑤文科省中心の大学の官僚的統制が進み、ガバナンスやコンプライアンスを隠れ蓑に、教員組織の分断が進み、大学事務組織の中間管理部門の権力強化が進み、教員組織の縦系列化が進む。大学教員の中に、従来の講師、助教(従来の講師)、准教授(助教授)、教授のほかに、特任教授(非正規の教授)、客員教授(PR効果を持つ非常勤講師)といった大学の教育に関心のない教員層が増し、非正規(任期制)の割合が増えて、大学組織に帰属感のない人材の割合が増えて、一部の教職員によるコンプライアンスや人事が濃厚になる。内閣府と同じ人事権の少数者への権限集中が進み、この出世の階段から踏み外れたものは、徐々に教育と研究への情熱を失っていく。⑥定年退職で大学を去る人は別にして、新天地を求めて、毎年度末大勢の教員が辞職するようになる。 以上のような前触れが進行して、上に引用したような激震が走り、一気に破たんの方向へ進むと考えられる。このシナリオは、今後10年の間に進行し、池田教授の想定する「大学破綻」が顕在化するのではないだろうか。私は、今後も考察を重ねてこのシナリオの検証を続けたいと考えている。出典:http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/medata.html?fbclid=IwAR3oZLQiQ_ax7oZ6RzbLi-hP5NfeMypEsXJUS_vxSREsGk3cpqop8XKWXFY
2019.01.28
地域振興の夢と現実 地域振興と言えばスポーツ、文化芸術と言えば地域活性化というくらい、地域の問題と活性化テーマは関係している。太平洋戦争後の歴史の中で、戦後復興を経て、臨海工業地帯形成と電源開発、内陸工業団地造成と高速交通体系の整備を中心とした列島改造、日米貿易不均衡を背景として内需拡大策を狙いとしたテクノポリス計画、これが一段落したと思いきや、今度はテニスとスキー場とリゾートホテルを三点セットにした金太郎アメ式のリゾート計画。そして戦略特区へと、地域の側は、中央諸官庁の思惑と政治家と官庁を得意先とするコンサルたちの誘惑によって、地域が翻弄されてきたのが地域振興の歴史だと言ってよい。そしてまたまた、ふるさと納税やら観光のインバウンドやら中央の発想による「地域振興」の夢がばらまかれている。地域は疲弊し、地域の進行で頑張っていると思えば、それは地域外からの移住(実は一時的な居候)組による地域振興の草刈り場となっているのが、地域振興の現実である。地方自治体は、こういう「芸人」たちの誘惑に弱い。そういう遺伝型を持っているのが「公務員」だ。 疲弊する地域 クラウド・ファンディング活用も悪くはないが、「右向け右、左向け左、回れ右」と言う式の地域振興の方式は、日本の中央からの発想の常套手段ということを肝に命じておいた方がよい。号令一つで動く地域政策は、大東亜共栄圏づくりを進めてきたお上の意志の忖度構造を引きずっている。野口悠紀男が定式化した「1940年体制」は今も生きている。 大分県の「一村一品運動」や中国山地の「過疎を逆手に取る会」のように、地域からの発想による地域振興もあるにはあったが、中央の資金と人材に依存せざるを得ない地域活性化は、地域が主体になって進めるとはいっても、どだい長続きはしないし、発想が土着的になって人を呼び込めない。よそから来たコンサルは、地域に夢をばらまくことを仕事としており、出来上がった色彩豊かなパンフレットを見て自己満足する担当公務員の笑顔は、地域住民のためというよりも役場の中での自分の生き残りを映すそれに過ぎない。補助金で美術館を建てて、これが地域振興だと自慢している自治体もある。そのような美術館にはただ閑古鳥が鳴くばかり。若者の流出は止まらない。 止まらない「一億総白痴化」 全国総合開発計画、新全国総合開発計画、列島改造、リゾート、戦略特区、ふるさと納税、すべてがそうだった。地元の人たちよりも外の人たちがワーワー言っているにすぎない。結果、地方は都市側にいいようにされて衰退する一方。本当に地域をよくしようと思ったら、一度このような外から聞こえてくる雑音から耳を塞ぐことが必要だ。須崎みたいなゆるキャラの失態は、見ていて情けないを通り越して、馬鹿馬鹿しくもあり、それこそが地域のこれ以上落ちる先のない現状だろうと思う。 こういうことを平気でやる公務員しかいなくなった。地方自治体の現場は、政務活動費の問題、首長・幹部のセクハラなど失態続き。大学PRにも「ゆるキャラ」の時代が来た。学生が自主的に作成したもの、広報サイドの公式なもの、いろいろあるようだが、はてさて教える教師のPR用のゆるキャラなんてないのかなと思うくらい、活性化の漫画化・ゆるキャラ化・低俗化が進んでいる。昔、確か大宅壮一氏や松本清張氏などがこのような現象を「一億総白痴化」といったが、白痴化減少は今も進行しているのだろう。 (2019.1.21)
2019.01.21
新元号 平成を振り返る 平成はどんな時代だったか、また新しい元号のもとで、時代はどのように動いてゆくのかを考える前に、まず平成の時代にどんな出来事があったのかを振り返ってみましょう。年表風にまとめると以下のようになります。参考にした年表は、とりあえずは、<https://nendai-ryuukou.com/1980/1989.html> 仲村政則、森武麿『年表昭和平成史1926-2011』などです。 「時代」とは何か中島みゆきの「時代」という曲を聴くと分かるように、「時代」とは、人それぞれにあるもので「思い出」や「希望」の「器」と言ってよいでしょう。三省堂の大辞林によれば、「ある観点によって区切られたひとまとまりの期間。特定の事や物と結び付いて意識されている一時期。「明治-」 「学生-」「物のあり余る-」「青の-のピカソ」「 -は変わった」「一-を画する」」とされていますが、一般的にはこちらをさすことが多いのが事実です。だとすると「観点」が異なるごとに「時代」は成り立つわけで、社会科学的な多様性を秘めた概念であると言ってもよいのでしょうか。平成という時代を考察しようとすると、このような多様性に満ちた「時代」感覚を認めたうえで、組み立てねばならないことになります。生物学的、あるいは物理学的な時代概念もあるでしょうが、生命科学ではカンブリア紀、氷河期などと表現し、物理学では「時間」概念は「時空」という概念で表現され、また別の意味内容になってきます。「時代」を生命科学や物理学的に再構成するという課題は非常に魅力的なことだと思います。また、芸術や哲学で「時代」をどう表現するかは、確たる事例をひくことはできませんが、おそらく中島みゆきの「時代」感覚に近いものになるのでしょうね。また「時代」を経済学はどう表現するのでしょうか。Time is money 式に剰余価値の生産や利潤動機と関連付けるのでしょうね。「時代」と「時間」を混同することはできないでしょうが、「時間」の刻みが「時代」を形成することになるわけですから「時代」を時空概念の集積として表現することは本質をついているとは思いますが、これでは無味乾燥になってしまい。時代を生きている実感がわきませんが、あえて否定はできません。「時代」は左記の引用にあるように、人間の勝手な(恣意的である意味合理的な)解釈の産物ということもできましょう。平成は陰鬱で閉塞感に満ちた時代であったと言う場合も、それはそう感じる人の主観を色濃く反映していますし、子どもが生まれたり会社の仕事がうまくいった人には活力に満ちた良き時代という印象が生まれるでしょう。そこでアンケート調査の結果が援用されるのでしょうが、それはうわべの印象であって「時代」の本質を抉り出したものとは程遠いでしょう。そこでそのような恣意性を避けるために「政治」「経済」「社会」「スポーツ」「芸能」といったジャンルを絞り込み、時代の性格特性を絞り込んでゆけば、そこの客観的な「時代特性」が浮き彫りにされます。通常「時代」を語る場合に援用されるやり方です。でも、うちの猫には「時代」感覚はあるのでしょうか? ともあれ平成天皇退位のあと新しい天皇のために新元号が準備されている新年に、改めて「時代」とは何かを考えることは意味のあることであり、町内の新年会を終わり筆をとりました。(2019年1月1日)
2019.01.01
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