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なんとしても、新型コロナ禍から脱却しなければならない。このままでは人類は持たない。その兆候は随所に現れ始めている。①飲食や宿泊を伴う観光、エンタテインメント業界をはじめ、経済と生活の崩壊が随所で傷口を広げている。②人が社会的距離を広くとって生活し働くというのは、現代の資本主義経済の時空構造に対抗するスタイルであり、根本的には決して両立しない。 ブレーキ(感染症対策))とアクセル(経済)を同時に踏むということが言われるが、それは資本主義経済を前提とする限り、物理的に無理だ。③新型コロナウイルスは、感染力を保ち、変異を繰り返しながら、人類の胎内でそれを宿主化しつつあるように見え、④ワクチンはウイルスに対して一定期間の防御手段とはなるが、毎年の流行に対して対抗力になるワクチンを開発しては、新型ウイルスを生み出し、インフルエンザの流行とワクチンでの防御と似た「はやり病」と化しつつあるように見える。ワクチンの効力は明らかだが、人体での有効期限は6か月なので、6か月を経過して、いまだ流行がある場合、再ワクチン接種が必要となる。 感染を重篤化しないような方向で、集団免疫の形成が、ワクチンによって可能になるであろうことは、現にワクチンが様々な感染症に対して、一定の弊害を伴いつつも、有効であった歴史的経緯を考えれば明らかなことではある。インフルエンザ・ワクチンは、流行が見込まれる場合、「症状緩和」「流行防止」といった感染症対策の観点から、ごく普通に接種が行われている。 ワクチンによる集団免疫形成を「人工集団免疫」と呼び、「人工集団免疫」によらないで、閉鎖的な地域社会の内部で形成される免疫を「自然集団免疫」と呼んで、本稿では「自然集団免疫」の可能性と限界について、基本的な論点を考えてみたい。なお、筆者は経済学が専門であって、疫学、免疫学、ウイルス学、公衆衛生学、数理生物学、生理学等については、全くの素人であることをお断りしておきたい。 今次の新型コロナウイルスの流行の初期段階において、スウェーデンやイギリスが自然集団免疫をめざしたことは間違いであったのみならず、感染をパンデミックへと導いた罪は大きいと言える。しかし、果たしてそうであろうか? 風土病や感染症の、人や動物への感染と終焉を考えるとき、自然界にはこの自然集団免疫という生物機構が存在していることは事実であり、それは、ある意味で自然界の共生原理の基本的な仕組みではないかと、筆者は考える。資本主義的生産が、まだ全国展開していない、ましてやグローバル化していない段階では、経済の単位はチューネンの孤立国のような、閉鎖的な社会経済を構成していた。 相互に交流のない閉じた閉鎖的な地域社会において、あるいは開放的な地域社会間でも、人為的に交流を遮断し(ロックダウン)、閉じたチューネンの孤立国を作り出し、成員の6-7割の感染によって、同種の感染症が地域外からもたらされた場合でも、獲得した抗体によって感染が拡大しない状態を作り出すことを自然集団免疫と呼び、他方ワクチンの開発と接種によって人為的に集団免疫を獲得するのを人為(工)集団免疫と呼ぶこととする。チューネンの孤立国においては、人為的集団免疫によらずとも、自然免疫がその社会の完全崩壊を守る。 そこで、変異ウイルスが地域社会を席巻しているブラジル・マナウスの事例を踏まえてこの問題を考えてみたい。自然集団免疫の形成が、局地的風土病ならばいざ知らず、感染症対策としては誤りであることは言うまでもない。ブラジル大統領も、初期においては自然集団免疫を信じ、無策を貫いた。資本主義的生産様式が、社会の普遍的原理として成立する以前の仮想上の「チューネンの孤立国」では、集団自然免疫は感染症対策としては有効であるかもしれない。 しかし、資本主義的生産様式が確固たる地位を確立し、国境が事実上消滅したグローバル資本主義段階の現代では、自然集団免疫は対策として間違いであるだけではなく、時代錯誤、否、滑稽ですらある。イギリスのジョンソン首相は、初期の選択の誤りを涙ながらに認め、謝罪した。しかし、私はジョンソンに同情する。感染の初期、彼の脳裏にはチューネンの孤立国的な、レッセフェールという古典的な概念がもやもやと蠢いていたのだろう。スウェーデンもこの過去の亡霊の罠にはまっていたのだろう。ブラジルもそうだ。では、日本ではどうだったのだろうか? ここではこの問いに対する回答は留保する。 アマゾナス州マナウス市では、英国型や南アフリカ型の変異種と同じ遺伝子情報を持つ変異種の存在が確認されたが、医療体制がますますひっ迫している。テレ朝ニュースは、マナウスの感染者の85%が南アの変異型ウイルスだったと報じている。https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000205419.html (1月28日 2021年1月31日アクセス)同紙は、現地で旅行会社経営を営む人の話として、「去年の年末ぐらいから徐々に感染率がだんだん上がってきて心配だなと思った。病院の病床が足りなくなる状況になってきたのは、多分1月10日前後くらいからだと思う。それから感染者の数は増える一方。直接の知人の話だとあんまり『どこでかかったか正直思い当たらない』と言っていた。恐らく感染力が第1波より高いのではないか」と報じている。 感染者が急増し、酸素ボンベ不足で患者をピアウイ州に移送する事態まで起きている。ここから変異種が日本にも飛び火しているというが、詳細は定かではない。マナウス市の病院で、新型コロナ感染症の患者の入院数が急増しているが、重症患者の増加に伴い、人工呼吸器用の酸素ボンベの需要も急増。裁判所が企業に供給強化を命じ、空軍機によるボンベ輸送も行われている。それでも酸素ボンベが尽きて、患者を他州に移送しなくてはならない病院も出ているという。事態はまさに、地獄絵巻を見ているようだ。詳細は次のニュースを参照してほしい。https://news.yahoo.co.jp/articles/ad2398dfd4ef7b02c113d3ee46d5462d628c1de7(JORNALニッケイ新聞、2021年1月15日 2021年1月30日アクセス) コロナワクチンはどうなっているかというと、同じJORNALニッケイによれば、1月20日から始まると言われているが、詳細はまだ知らされていない。このように報じられていた。「現在、オズワルド・クルス財団(Fiocruz)が治験と国内生産を担当する英オックスフォード大学とアストラゼネカ社が開発したオックスフォード・ワクチン」と、サンパウロ市ブタンタン研究所が治験と国内生産を担当する中国シノバック社が開発したコロナバックの二つが緊急使用許可を申請中。国家衛生監督庁が17日に審査結果を発表することことになっている。それでゴーサインが出れば、20日から全国で接種が実施になる見込み」となっている。(https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/210115-13brasil.html 2021年1月15日 2021年1月30日アクセス) 今後、ブラジル全体の動向を見守らなければならないが、実は感染初期に、マナウスで自然集団免疫が形成されていた可能性があることが、感染症対策の足を引っ張ったのでないかという点がある。 さて、ここからが本題なのだが、昨年10月19日、日経新聞が現地の様子を次のように報じていた。少し長いが引用しておこう。省略した箇所がある。 「新型コロナウイルスの感染爆発が起きたブラジルのマナウス地域で『集団免疫』ができ、流行が下火になったとする研究論文が9月に発表された。」 「論文を公表したのはブラジルのサンパウロ大学や英オックスフォード大学などの研究チームで、別の専門家による査読の前の段階だった。現地の病院で、コロナ以外の検査などで余った血液を用い、抗体検査などで過去の感染を調べた。 2020年の3月中旬に患者が初めて報告され、社会活動を制限したが、感染爆発が起きた。新規感染者数のピーク時に、抗体保有率が44%に達した。その後、制限を緩和したが、新規感染者や死亡者が減り、流行は下火のまま。最終的に感染した人の割合は推定で66%という。 免疫を持つ人が人口の40~60%に達すれば、流行は自然に終息に向かうとされる。マナウス地域では集団免疫に必要な割合にほぼ達したことになる。数値は他国と比べても突出して高い。 9月に英医学誌ランセットに載った米国の透析患者の血液を解析した論文では、感染歴を示す抗体保有率は高い地域で27.6%、平均で9.3%、スウェーデン政府の調査では、ストックホルムが12%だった。日本の調査では東京や大阪でも1%未満だった。」https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65091910W0A011C2TJM000/ マナウスが果たして自然集団免疫の域に達していたかどうかは定かではないが、現に再感染拡大は変異ウイルスによって現実のものとなった。集団免疫形成は、新型コロナウイルスの場合、インフルエンザウイルス同様、有効ではないのだ。では、ここで無益な議論をしているようだが、果たしてそうだろうか。不十分な結論ではあるが、新しい知見をもとに、再度考察することを予定している。
2021.01.31
遠隔事業ということで、2020年の私の経験から、10分ぐらいお話ししてみたいと思います。「時事問題解説」ということで、授業とは別に、専門の政治経済学的な角度から、様々な政治・経済・社会・文化的な問題に関して、動画配信を5年くらいやっておりましたので、youtubeの動画配信を使うことに決めたのが昨年の3月でした。 大学は愛知県ですが、大学が用意してくれているteamsはマイクロソフト社ですが、使ってみたところでは、サーバの容量もあるんでしょうか、よく動かないということもありまして、また動画をアップロードしても時間がかかるとか、また学生さんがパソコンを使っていればいいんでしょうけど、ほとんどがスマホですので、見栄えが良くないというか、しっくりこないというかということがありましたので、また skype も少しやった事があるんですが、相手が画素数の少ないスマホとかタブレットを持ってると、見るのが疲れるというようなこともあり、これはお互い様なんですが、テレワークとはいえ、相当高額な機器を揃えてやらないと、途中で切れたりして、かえってストレスがたまったりで、ついていけないということがあって、動画配信はずっとやってましたので、youtube の動画配信でやろうということになりました。大学教員の中では、マイクロソフトのメールなどは使い勝手が悪いという評判があり、ナイーブな問題があるようです。 ですから、オンラインのリアルタイムではないんですが、遠隔でもオンデマンド型の配信のほうが、逆に学生さんはいつでも見れる、何回でも観られるというメリットがありますので、デメリットとメリットとの関係で、動画配信もいいんじゃないかと思って始めました。 授業が始まる昨年4月に、愛知県では緊急事態宣言がでて、4月の下旬ぐらいまで休校になりましたけれども、大学が再開し遠隔授業で何とか春学期は乗り切りました。秋学期になって感染が落ち着きを見せていたので、教室授業でスタートしたのですが、再び感染拡大して原則教室、場合によってはオンライン・遠隔・オンデマンドでもいいということで、秋を乗り切ることになりました。年末から年が変わって、1年間が過ぎました。 私は経済学で専門の4科目を1年間にもっていますので、その経験をちょっとお話ししてみたいと思います。目の前にあるカメラは、本当に安物で、キャノンの旅行に持っていくようなオモチャみたいなカメラなんですが、一応、ハイビジョンを選ぶことができますが、15分で切れちゃうんですね。1時間撮ろうと思えば、レベルを下げればいいんですが、下げるとちょっと画面が粗っぽくなるということで、画面を見ている人のことを考えると、綺麗な画像でお届けしないと申し訳ないということで、どうしても撮影時間が15分くらいに限られるわけです。それを2回、3回撮れば、90分授業もできるわけですが、なかなか面倒くさいということもあって、コンパクトな動画を作ろうということでやってきました。テレビのスタジオのようなわけにはいきません。 実は、話せば長くなるのですが、きちんとした自前の教科書をつくってやろうと思ったのが、一昨年のことで、何とか苦労してオンデマンドのものを作って、去年の春学期で大学院用のものと学部用のものを、4つの授業で1年間やったんですが、さあという時にコロナが襲ってきたのです。これもパート2でお話したいと思っておりますが、最近、教える側がプロジェクター使ったりで安易な方向に流れているということを反省してのことでした。 教材12回分がDVDで売られて利用できるわけですが、それを買ってきて学生に見せて授業が成り立つわけです。スクリーンに映るものを見せておいて、ところどころ解説してれば、授業が簡単にできちゃう。誰か言っていましたけど、「授業風景を覗いたら、DVDをただ流しているだけで、授業になってないと言った人がいました。パワポだってコピペでいくらでも作れます。そのくせ学生にはコピペをするなというのはどう考えても理不尽ですね。情報機器に頼ると、教える側が楽ですから、教育の質が下がってきたような気がするのです。もちろん、教員のオーバーワークという問題もありますが。 これに対して、「古き良き時代の授業」は、詰め込み式の授業もいいところで、分厚い函入りのハードカバーの教科書を買い、先生が「これを解説するからよく聞いてろ」ということで、大教室の教団に座って解説するわけです。先日、その先生の教科書を引っ張り出して、ところどころ読んで見ますと、よくもまあこんな難しい内容の授業を受けたものだと感心しました。学生にわかりやすい授業をすることは必要だけれども、わかりやすさと引き換えに「厳しさ」を犠牲にし、対学生満足と引き換えに、努力を犠牲にし、即結果と引き換えに、急がば回れを犠牲にしてきたように思うわけです。ですから、コロナ禍の中の授業の在り方は、こうした点を反省することとパラレルに進めないと、教育の質の低下を合理化することにつながりかねません。 こういうことを考え、一昨年の暮れにシラバスを作り、「さあいざ」というところへ、コロナが襲ってきたわけです。幸いかどうかわかりませんが、youtubeをやっていましたので、教科書中心というアナログの方針は変えないで、動画を作って教科書に沿ってやっていくわけです。教科書の内容を噛み砕いて、あるいは「もう少しここがわかりにくいので、こういう意味ですよ」というようなことも踏まえて、また急にニュースが入ってくることがありますから、それは教科書に書いてないけれども、最近、会社がこういうことをやりますよとか、こういうことが起きましたよということをyoutube にアップして、正直90分はやってないですが、長くて45分ぐらいで、学生は教科書をしっかり読むということと、それからプラス・アルファのこの動画をしっかりと聞く、何回も繰り返して聴くことによって授業が毎回進んでいく。もちろん、復習や予習もやって欲しいということで、教科書が核になって、僕の動画を聞いて分かるということですね。 毎回400字ぐらいの課題を、メールで、大学に共通のメールがありますので、このoutkookのメールへ毎回の課題を送らせます。teamsを使うと便利なこともあるのですが、過剰なサービスのためにかえって使いずらい、gmailのようなシンプルなメールのほうがいいわけです。秋学期の授業では、100人の環境経済学と大学院は10名です。100人というのは大変ですが、やっているうちに慣れます。 教科書が核となって、動画でしゃべったことも踏まえ、課題をきちんとこなし、わからないところを調べて、作成して出してもらう。もちろん質問も受け付け応えます。間違っているところは指摘し、よく整理されているところは褒めて、モチベーションを向上させます。既往症のある学生は教室に出てきませんから、そういう配慮をします。また、単位をほとんどとっている学生は、故郷でやっています。体調が悪ければ教務課を通さずに、遠隔でできます。「公欠」が極端に減ったのも特徴ですね。 こうして、大学院も含めて、毎週100人前後のレポートを読んでいると、昨年度までの授業とちがって、格段に学生の理解力が高くなってるんですね。これは、私の贔屓目かもしれませんけれども、徹底して教科書を読みなさい、動画はそれにプラス・アルファな「付加価値」を付け加えていますから、教科書の理解と動画でかなりのレベルのものが理解できるはずなんです。ここでちょっと内緒なのですが、動画は「基本的に公開」なので、一般の社会人も視聴可能なのです。この点に関しては、ナイーブなことを含んでいるので、パート2でできたらお話しします。 もちろん、課題(レポート)を適当に出していればいいという学生もいますが、それは、古今東西、いつの時代もそうですから、それは気にしません。この傾向は、中間を折り返して中間を過ぎたあたりから格段に内容が良くなって、全員ではありませんけれども、自画自賛になるかもしれませんが、効果が出ていたように思います。 遠隔の動画配信を、メリットデメリットを総合的に判断して、お話しなきゃいけないんですが、やっぱりやってよかったということは正直あります。教える側の力量が試されているということではないと思います。やってみて気が付いたのですが、youtubeでは、文字起こしができることを学生に知らせると、コピーして自分のワードで処理できますので、結構それでやっている学生がいますね。そのためには、正確に喋らなければいけないと言うことを反省してます。 それにしても、もうちょっといいカメラが欲しいと思います。去年の4月に「生活給付金」10万円をもらったのですが、全額このデジタルカメラとwebカメラ、マイク、 windows 10の新しいパソコン(中古でcore7)を買いました。おかげで処理速度が速くなり、イライラがなくなりました。自画自賛の遠隔授業でしたが、それなりにやれたかなというのが結論で、また4月以降の授業に備えたいと思いますが、皆様も、私の話をご参考になさって、使えるところがあれば使ってください。 この文章は、youtubeの文字起こし機能を使って作成しました。
2021.01.31
Yahoo知恵袋に投稿された「今はやりのエージェント契約とは何ですか?」の質問に対するベストアンサーはこうなっている。「メリット:やりたい仕事や仕事量を自分で決めることができる。ギャラが増える。デメリット:事務室(所)が勝手に仕事を持ってくるこれまでの契約とは違うので、自分自身でしっかりとしたビジョンがないと、仕事を継続的に続けられない。また人気・知名度がないと仕事が得られない。基本的にエージェント契約にする人は、自分がどんなビジョンを持って仕事をやるのかが分かっている、かつ自分自身の力で仕事をとってこれる能力がある人が結ぶと思います。」 契約の形式は、当該芸人さんと事務所との間で交わされるので、ケースバイケース異なるだろうが、伝統的な「専属マネジメント契約」とは違って、主体的に芸能活動をしたいという芸人さんにとっては、自主性を伸ばす契約形式だろう。これまでの、ベテラン芸人さんの独立事例を見た限りそう思える。「SMAの発表は、エージェント業務提携ということですが、どこまでの業務を行う契約になっているのか外部からは詳しくわかりません」と言っている人もいるようだ(THE PAGE 1月25日)。 しかし、仕事を選り好みできるほどマーケットは大きくはないので、コロナ禍の中でどれだけ有効かは、定かではないが、吉本興業が2019年に始めたこの選択的エイジェント契約は、極端に仕事量が減少した現在は、言われるほど芸人さん主導で進めるための切り札とは必ずしも思えない。下手をすると独立したものの、仕事が来なくなって干上がってしまうことになるかもしれない。 筆者は、芸能界全体のためには、エージェント化が望ましいと考えるが、旧来の専属マネジメントへ時計の針が戻るのか、ウイズ・コロナの時代にふさわしい方式として今後も増え続けるのか、しばらく見守らなければならないかもしれないと考えている。 芸能界で長きにわたり仕事を重ね、裏も表も熟知しているベテラン芸能人にとっては、実効性のある望ましい契約形態ではあろうが、2-3年マネジメント契約で仕事をもらって有名になり、給料が安いからと言って、エイジェントに切り替えても、事はそう簡単にはいかないだろう。大分県で中学時代にスカウトされ、高校時代は東京へ通う形で芸能活動を行い、有名になって「さあエイジェント」と、母子ともども上京してきたタレントの森七奈さんのケースでは、FRIDAYの1月22日号(森七菜 移籍の裏にあった「仁義なき争奪戦」の深層)がこのケースを取り上げてから、様々な意見が寄せられているようだ。日刊スポーツは、おおむね好意的に受け止めた記事を出している。 SMAの公式ホームページでは次のように掲載されている。「平素より大変お世話になっております。この度、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツは、森七菜さんに関しましてエージェント業務提携を行う事となりました。今後とも、変わらぬご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。 この度はファンの皆様、関係者の皆様にご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。感謝の気持ちを忘れず、皆様に笑顔を届けられるよう努力してまいりますので引き続き応援頂ければ幸いです。 今後ともよろしくお願いいたします。森七菜」 零細事務所から大手事務所(SMA)への移籍であるので、とりあえずは「おめでとう」と言いたいところだが、この業界については素人の私にも、この新たな船出が七奈さんの輝かしい未来を必ずしも保証していないことだけはわかる。サイゾーウーマンでは、七奈の母親が旧事務所から出演料を搾取されていたことなどの事情があって、様子見のエージェント契約になったという関係者の言葉を紹介している。 どうやら、母親がエージェント機能を担うのだろうが、コロナでパイが縮小している現下の状況の中、仕事を選り好みし、しかもお付きのマナジャーが離れることになれば、糸の切れた凧になりかねない。逆風の中、切れた凧が、試練に耐えて新たな境地を切り開き成長することを願う。(2021年1月26日 記)
2021.01.27
私はウイルス学者でもなければ、感染症学、公衆衛生や特定の医学分野に精通した医者でもない、あえて言わせていただければ、長い間大学で経済学を教えてきた一介の教師に過ぎません。いや、もっと遜って言えば、生活のための給与を受け取るために、諸規則に従順に従うことを生業としてきた、いち給与所得者に過ぎません。 長い間学生相手やや講演・研修での聴衆を前にして話をしてくると、上から目線で知識を見せびらかし、多少あやふやなことでも「見てきたようなうそを言い」、自分を尊大に見せるいかさま詐欺師に近いと、自虐的に思うことがある。 学生や聴衆を前にして話をする商売は、落語家や講談師に近い習性を身に着けており、舞台の上やカメラの前で気取って演技をする役者と言えば聞こえがいいが、見世物小屋の芸人に近い。昔の私の友人で、いま私立大学の学長をやっているA君は、退学教師は芸人だと常々言っていた。毎回の授業で、何回学生を笑わせるかが生きがいだと言っていた。 とすれば、皿回しの皿と棒を「本」に変えただけだ。現役の大学教授にはすまないが、本質的に大学教師は「芸人」に近い。テレビに出ることを生きがいとしている大学教授はごまんといるが、その目的はギャラと、自己顕示欲の自己満足的充足だ。また大学の管理者も、大学のPRになる教師を競って雇う。 2020年1月末から、自宅のテレビで、嫌というほどこれらの見世物小屋=大学教師の演じる舞台劇を見てきた。それでも、テレビは手っ取り早くコロナ情報を提供してくれるから、自分と家族の身を守るために、嘘と真実を問わず、メディアの情報を頼りに1年を過ごしてきた。 今から30年近く前に、中央アフリカで人類を席巻したエボラ出血熱感染を、経済学的視点から研究したことがあるので、今次の新型コロナウイルスに関しては、2020年初頭の武漢ウイルスの蔓延からの事態の推移を、ある程度系統的に追うことができ、山師的報道に惑わされることなく、自分の防護だけでなく、ワクチンの接種から集団免疫、経済の再建の課題を冷静に分析することが出たように思う。『新型コロナウイルスの影響を考える』を昨年4月、緊急事態宣言が発令されたのと同時に出版して、黙々と情報収集と分析を行ってきた。いかんせん、この道の専門家ではないので、とんだ間違いや早とちりがあったかもしれない。年が明けて2021年の年初、「ゆるい」緊急事態宣言が8日に発令された。解除の条件は東京都の場合500人を下回ること、医療施設のひっ迫状況などだ。 第2次緊急事態宣言が発令されて、1月23日(土)、東京に限れば、新規感染者数ではやや落ち着きを見せ始めた。政府は新規感染者が500人を切ったら「緊急事態」は解除すると言っている。 しかし、医療提供体制はひっ迫から崩壊への兆候を見せ始めている。命の選別(トリアージ)さえ行われていると言って過言ではない。いや筆者の目には「命の選別」どころか「命の切り捨て」が始まっていると映っている。 徹底したPCR検査と封じ込め(ロックダウン)で対応した諸国は再感染の波に対しても、多少暴力的だが、即座に減少に転じさせるすべを心得たように思えるが、日本ではいまだに、初動対応の失敗から何も学んでいないばかりか、だだらとした「感染対策と経済の両立の」予定調和世界から脱出できていない。犯罪の捜査に「初動捜査」が重要であることは誰もが認めることだ。しかし、現政権はこの初動対応の遅れを認めたがらないばかりか、打つ手を心得てさえいない。 太平洋戦争勃発直前、真珠湾攻撃の情報を察知され、ミッドウエー攻撃では暗号を解読され、南雲中将の空母を失ってからは、「飛び石作戦」によって、マッカーサーのフィリピン奪還を許し、フィリピン、沖縄と負け戦、それでもソ連の仲介によって講和へ持っていけるという判断ミスによって、広島と長崎への原爆投下を許してしまった、あの失敗を今も繰り返しているのが、今次、新型コロナへの対応だ。 ①情報戦・リスクマネジメントにおける失敗=科学的思考の欠落、②巨艦大砲主義の失敗=積極的疫学調査(クラスターへの執着)、③言論弾圧と④情報隠蔽改竄(コロナムラの利権構造)が太平洋戦争の失敗であり、敗戦へ導いた要因であるとすれば、カッコの中が新型コロナに勝てない日本的要因である。with corvid2019 というウイルスとの「講和」が可能であるかのごとく、能天気に感染沈潜化を期待しているのが現状だ。 一方、アメリカでは大統領選挙に敗北したトランプの挑発で、議会制民主主義のシンボル・ホワイトハウスに暴徒が乱入し、上院の17名が反旗を翻した場合、トランプは弾劾訴追を受け、公民権をはく奪されかねない事態になっている。この期に及んでもなおトランプを擁護する大学教授が多数いることは、コロナ禍の中で、限りなく芸人化する大学教授の、もう一つの一団を見ることができる。この場合の大学教授には、非常勤・客員講師等さまざまなタレント的肩書を持った大学教師を含む。一昔前のタレント教授とは性格特性が異なる、劣化した大学教員のクラスターを、いま画面の中に見ることができる。 特任、客員、特別招聘、非常勤などの肩書の教師は、弁護士や公認会計士と同じく、教師としての収入では食っていくことができないから、芸能事務所に所属し、メディアに登場する。「この世界で生き残っていくには、このはげー」くらいのことは言えないとだめだとMCに言われ、転落していった元政治家もいる。政治家がタレント・芸人化しているのは周知の事実だ。弁護士に国際の冠がついても、弁護士業務で食っていけるのはごく一握りの弁護士に過ぎない。こうして弁護士の芸人化が進む。(2021年1月25日)
2021.01.23
今はもう過去のものになった、「鉄穴流し」「たたら」(鑪)といわれる製鉄技術。古くは西アジアから「アイアンロード(鉄の道)」を通じて東洋へもたらされたものだとされる。また、平和をもたらす交易品だったともされる。 それが、近代的な高炉技術の登場によって、アニメや過去の遺産になったわけだが、その歴史を紐解くことによって、資本主義的生産様式の登場の「本源的」な秘密が解読されると考えられる。 「ローマは一日にして成らず」というように、燦然とした輝きを放つ現代の資本主義的生産様式も、「産業革命」と「市民革命」によって、一夜にして成立したのではない。資本主義的生産様式は、人類が狩猟採集時代に別れを告げ、農耕を覚えてから気の遠くなるような時代変遷を経て獲得した遺伝的形質に違いないという理由から、まずは「火」と「砂鉄」、「水」と「木」という自然資源を使って、農耕(漁撈)生産力の発展のために生み出した製鉄技術の歴史を振り返ってみる。 この生産方法の改善と様々な製品の改良によって、農耕生産力は著しく上昇し、農耕の絶対的・相対的剰余価値生産が飛躍的に向上し、社会の進化の主要な原動力となった。それは封建的権力体を支え、商業を発展させ、物流や貨幣制度を作り出し、マニュファクチュアの資本―賃労働関係を作り出す基礎を創出していったと言えないだろうか。 鉄の歴史を紐解くこと、それはまた画期的な武器を作り、戦争によって強国を作り出しては、地球上の国家を分断し、植民地の分割と細分化を繰り返し、繁栄と貧困と、死者の上に築かれた血で彩られた金字塔を見ることができると言えないだろうか。 私たちは、こうして生み出された資本主義的生産様式を、人類史における永遠の存在形態だと考えるわけにはいかない。だからと言って、現存する「社会主義」を、次に来る社会様式の理想型と考えることもできない。では、いかなる社会様式が資本主義的生産様式の次に来る生産様式なのだろうか?それは「鉄」を理解したらわかるという単純なものでもないだろう。しかし、何かの手掛かりが得られるのではないかと思う。それは、今なお継続する「資本の本源的蓄積」を解明することではないかと考える。
2021.01.23
東海学園大学の共生文化研究所の2020年の研究で、表題にある大成山たたら遺跡を調査してきた。岡山から津山線で津山へ入り、そこからレンタカーを借りて、新見へ向かうという行程を取った。大成山たたら遺跡は、三室川に建設された三室川ダムの湖底深く沈み、静かに眠っていた。まなるの暑い空気が吹き抜ける高原は肌に心地よく、湖面を渡り古の人々の営みを偲んでいるようだ。管理棟のそばに残された遺構が、辛うじて今に過去の面影を伝えてくれる。 以下、たたら遺跡の説明を行いたいと思うが、「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書144 三室川ダム建設に伴う調査 岡山県教育委員会、1999年」の中の、「大成山創業の背景について」から部分的に引用しながら、説明をしていきたい。産鉄と精製、製品化、販売は古代社会から営まれてきたが、これが、「新見庄」における記録に残った、鉄経営の創業ということになる。この資料によると、「第2節 「大成山」操業の背景について」で次のようにまとめられている。 大成山たたら遺跡群の調査で、確認された製鉄炉、高殿たたらおよび大鍛冶場などのうち、遺構出土遺物などに基づいて操業時期を確定できたものは、 A区の製鉄炉と B区の裔殿たたらである。文献資料については、記録を留めるものが少ないが、幕末期から明治時代初頭にかけての「大成山」の操業について窺えるものがあり、それらを検討した結果に基づいて考察した。やや引用が長くなるが、詳細と出典は「報告書」を直接参照されたい。 明治新政府は民部、大蔵、エ部の三省において、各府県から通逹された鉱物資源の試掘や開坑の願書に許認可を与えていたが、明治 5(1872)年 5月「鉱山心得書」を定め、翌明治 6(1873)年に体系的な鉱山法である「日本坑法」を定めた。のち、エ部省鉱山寮にその管轄権を集中させることになったが、これによれば、金、 銀、銅、鉄などの鉱物の所有権は、すべて国家に存することと規定したため、同法の公布を受けて、改めて鉱山業の試掘や借区開坑の出願がなされた。 維新当時、油野村が属する岡山県の旧小田県に提出された借区願をみると、「油野村字大成山 一鑢壼ヶ所 木下昌平右者明治七 (1874)年参月借区願」および「嘉永六癸丑年九月同郡油野村字大成山 一錬鐵鍛冶登ヶ所 木下昌平」という記載が認められるので、大成山の「鑢」(たたら)が発掘 B区の高殿たたらを意味し、「錬鐵鍛冶」場はB6区あるいは E区の大鍛冶場を指すものと考えられるとしている。 そして、これら「大成山」の経営者は、借区願に見える木下昌平なる人物であった。ここが、考察の手掛かりとなる。さらに油野村からは、筆者が2020年の7月に現地調査(踏査)した「三室山」鑢、「鎌谷山」錬鐵鍛冶場、「宮ノ谷」鐵穴口などについて、木下三郎平の名義で借区願が出されている。新見の庄のたたらは木下家によって経営されていたのである。この木下三郎平と昌平とは兄弟であり、当時の同村の鉄山経営のに、この木下家が大きく関わっていたと考えられる。こうして、たたらの位置と経営者が特定された。 経営実態を示す資料としては、広島県比婆郡東城町の竹森、名越家の「銑売算用帳」に、文久 3(1863)年頃、「備中大成山」の半兵衛が数回銑鉄を買い付けに来たとされる記事がある (高木寛編 「阿毘縁のあゆみ」 阿毘縁郷土史編纂会 1972 )。 また、木下家と同郷で、大坂商業会議所副会頭で、のち鳥取県選出衆議院議員となる法橋善作が、慶応2 (1866)年から約 2年ほど支配人に命ぜられ、販売方を担当したとされる。一方、現阿哲郡神郷町油野の金蔵寺の『過去帳序』に、「明治1(1872)年 隻岳清雲信士、四月一七日 大成山村下長治良」、「明治八亥(1875)年長山恵久信士新五月廿九日 旧四月廿四日 大成山村下麦治良」などの記述が認められる。これは大成に居住していた木山長治郎と長男多治郎の親子を指しており、彼らが大成山の鉄生産の指揮を執っていたといえる (6)。なお、金蔵寺「過去帳」の記述をみると、「明治十四(1881)年林法慈源信士 四月廿九日 三月廿六日 大成山源七事」以降の居住地表記は、「大成山」からすべて「大成」となっている。つまり、この頃にたたらの操業が休止された可能性が高いと考えられる。 木下家と木下万作 戦国大名尼子氏の遺臣で、月山富田城落城後に備後に入り鉄山業に従事していたといわれる木下家は、元和(1615-1623)年間に、前述した伯者国日野郡阿毘縁村(現鳥取県日野郡日南町阿毘縁)に来住して、開墾や鉄山経営などを実施し、多数の人々を移住させて当所を開村したとされる。その後は、宗家大松田屋から小松田屋、中松田屋(中木)、西松田屋などに分家するが、それぞれが鉄山業や洒造を営み繁栄したとされる。日野郡におけるたたらの歴史は、「日野郡のたたらの歴史たたら研究会員・郷土史研究家 故 影山 猛 先生による論説」に詳しい。インターネットで検索可能なので参照されたい。 「大成山」操業の背景について 前述の昌平・三郎平の父親である木下万作〈寛政 (1792)年~慶応 3(1867)年〉は、この阿毘縁村で生まれ、製鉄業を主な家業とした小松田屋4代当主となる。日野郡や西伯郡を始め、遠くは土佐国に及ぶ数多くの鉄山を経営して販路を広め、大坂の豪商播磨屋仁兵衛と取引を続けて、大いに家を栄えさせたとされる。当時の鉄の流通が大阪市場へ向かっていた中で富の蓄積が行われていった。 また、大庄屋、代々苗字帯刀御免、七人扶持、一代限三人扶持郷士の資格を得て、その地位は鳥取藩中筆頭を占め、その権勢に並ぶものがなかったといわれる。まさに「鉄は国家なり」である。ところが、万作が還暦を過ぎた嘉永 6年に、分家した兄の藤四郎へ家督を譲って故郷を去り、一族共々に油野村に移り住んだ。文政 7(1827)年から、三郎平が「三室山」を経営していたとはいえ、なぜ鳥取藩の大庄屋であった万作が、油野村に移住する必要があったのかは不明である。 備中松山藩の財政改革 幕末期の油野村は、京都東寺の荘園経営からは離れて、備中松山藩の領地となっていた。荘園時代の油野村を含む「新見の荘」に関する産鉄の動向は、『新見の庄 生きている中世』(備北民報昭和58年)に散見されるところであるが、この小論では次の点だけを指摘しておきたい。時代を遡って南北朝時代(1336年から1392年までの57年間)、東寺と小槻家とが同庄の領家職をめぐって対立していた時、その争いは「鉄」を巡る利権のそれであった。その後、14世紀末に東寺が小槻家から領家職を獲得した時に、東寺は代償として、東寺が獲得する年貢・雑物の七分の一を与えるとした。(同書、72ページ)小槻氏は、平安時代から明治維新まで朝廷に仕えた下級公家の一族で、「小槻」を氏の名とする氏族。第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族で、太政官弁官局における事務官人の家柄として左大史を代々務め、そのほかに算博士・主殿頭といった官職を世襲したとされる。 幕末期に先行する新見の庄の産鉄に関しては、稿を改めて論ずるものとするが、ここでは、先に寺院経営から藩権力体経営に移行した幕末期の鉄山経営について論ずる。 この時期の同藩の財政状況は悪化の一途を辿っており、板倉勝静が藩主となった嘉永 2(1849)年頃には、藩の年間収人のほぼ 2年分にあたる 10万両もの借金を抱えていたとされる。勝静は財政改革の担当者として、儒者である山田方谷を吟味役兼元締役に起用し、嘉永 3(1850)年から諸改革を断行した。借財整理のうちでも、特に大坂商人に対する処理が急務であった。方谷は自ら大坂に出向いて、債権者を前にして藩の実情と財政改革の説明を行い、今後新たな借金を要請しない代わりに、負債は新旧に応じて10年期あるいは50年期で返済することで承諾させることに成功した。一方、藩内の財政再建策としては、収納米以外の収益を管理して富殖を図る撫育方(撫育銀方)が新設され、殖産興業が推進された。具体的には、備北(新見)の三室・吉田(いずれも油野村)や錆長山の鉄山を開掘して砂鉄を採取し、城下対岸にあたる近似村に鍛冶屋町を設け、出雲・伯者や諸国から鍛冶職人を集めて、農具、稲扱、 釘などを製造させた。また、北方・ 吉岡の銅山を買収し、製銅を回送して巨利を得た。山野では杉、竹、漆、茶や煙草を栽培し、また、柚餅子、植紙、陶器などの生産を行ったとされる。これらの産物は城下に集荷され、問屋を通じて玉島港から江戸に回送されて売却された。やがて政治経済の中心となり、日本資本主義の拠点となる江戸へのサプライチェーンを構築し、大阪・江戸から見た本源的蓄積を展開する下地を作っていったのである。売却代金は江戸藩邸の公費に充て、余剰金は大坂の負債返却と永銭兌換の準備に充てたとされる。こうした改革によって、すべての返済を終えるまでには 8年が経過したものの、同時に約10万両の蓄財を貯えることができたとされる。「こうして備中松山藩の財政改革は成功したが、なぜ大坂の債権者は借財返済を延引するという方谷の改革案を承諾できたのであろうか。それは、領地の備北地域がたたら吹き製鉄に必要な良質の砂鉄と木炭が豊富に人手でき、鉄の産出量が全国屈指である事を熟知していたからであろう。まさに鉄を投資対象と考えたのである。実際に方谷も撫育方により鉄生産に力を注ぎ、財政再建の一翼を担わせたことからもそういえる」と、前掲報告書「大成山」操業の背景について」では述べている。5「大庄屋ネットワーク」 次に、大都市の商人達に新たな借入れを要請せず、藩内の殖産興業を進めたことに関して同報告書から紹介する。幕末期の窮乏に貧した諸藩は、大庄屋や豪商に対して苗字帯刀御免の資格や恩賜品などを下賜したり、独占的営業権や販売権など特権を付与する代償として、多額の冥加や献納金などを納めさせ、借金の申し出や延納を要求した。これに対して大庄屋や豪商は、一家一族の経済発展と政治的地位を磐石にするために、支配階級との関係を重視しなければならず、そのためには各地域の有益な情報を正確に、かつ瞬時に入手して、効率的に資本を投人することが必要となってくる。そこで大きな影響力を有したのが、広域に血縁で強固に結ばれた「大庄屋ネットワーク」ともいうべき地下組織の存在であった。本源的蓄積にはこのような日本的なネットワーク形成が不可欠であったといえよう。 方谷に鉄生産の知識と資金を提供したのは、彼の私塾「牛麓舎」のかつての門下生であった、天領新見の大庄屋井村南矢吹家の矢吹久次郎注であったとされる。矢吹久次郎は、備中出身。明治6年小田県区長となり、小田県商社を創立して殖産興業に力をつくした。岡山県の玉島港と鳥取県の境港をむすぶ道路を計画するが、一部の完成をみたところで病にたおれ、明治7年に死去した。彼は、鉄山や酒造を家業とし、幕府の末年に献金の功により郷士格に列せられた。明治時代になって備北四郡の鉄山業山林取締役を、次いで小田県から哲多郡第十六区長を命じられ、小田県商社を創設して頭取となって殖産興業に尽力したという。また、中国地方の山林や田畑を広く所有していたといわれ、莫大な経済力と豊かな情報網を有していたとされる。方谷とは互いに藩政および国政にわたっで情報交換し、相往来して様々な計策を行なったいう。矢吹家と木下家の結び付きは、血縁関係の上で非常に強く、万作は方谷との交流から、修業に勉めて読書を楽しんだといわれ、方谷も鉄山の監督と称して油野村に度々足を運んでいたという。 以上大半が引用であるが、嘉永6年から木下昇平によって経営された「大成山」操業の背景には、備中松山藩吟味役兼元締役の山田方谷、天領新見上市大庄屋の矢吹久次郎、阿毘縁村大庄屋の木下万作の密接な関係が想起される。そして、血縁関係を基軸とする「大庄屋ネットワーク」と呼べる情報網の存在が注目されるところである。封建制の体内に芽生え、封建的生産様式を強固なものにした産鉄と鉄山経営と製鉄は、農耕の生産力発展によって、剰余生産物を拡大し、鉄の生産と流通・鉄製品の生産を通じて、封建的生産様式の体内で徐々に資本主義的生産関係の形成に不可欠な資本―賃労働関係関係を作り出し、本稿の課題である本源的蓄積を進めていったのである。製鉄関係資本主義的生産関係は、調査報告書が言う「地下組織」=前近代的な「大庄屋ネットワーク」によって推進された。これは明治維新以降高炉型製鉄によってとってかわられるまで、日本的な製鉄文化を形成したのであった。それは自然の恵みと共生し、地域社会の鉄ニーズを満たし、農地として転用され、いわば「たたら文化」とでもいうような歴史遺産を残したのであった。
2021.01.22
「馬鹿な大将敵より怖い」という本が出版されている。著者は武井正直氏で、amazonの著書の紹介では、「強力なリーダーシップを発揮し、『小が大をのむ』北海道拓殖銀行からの営業譲渡を成功させ、北海道の再生自立をうったえ続けた、元北洋銀行頭取の先見性に富む経営哲学」とされている。 私は、まだこの本は読んではいないが、スタジオ1930のキャスターが、安倍晋三内閣総理大臣を継いだ菅総理の評価に際して引用した格言である。格言といったが、この言葉の語源ははっきりしておらず、筆者の推測では、戦国時代あたりに、誰かが使用したものが、今に伝えられているのだろう。 類似の著書に「馬鹿な首相は敵より怖い」というのがあり、これは旧社会党議員の佐高信氏の筆になるものである。この著書の場合、「馬鹿な首相」は言うまでもなく安倍晋三元首相である。馬鹿という言葉は、関東では「お馬鹿さん」というフレーズにある通り、ユーモアを込めた表現であるのに対して、関西では侮辱したと受け取られるとは、つとに指摘されてきたことではあるが、「アホ」はもう少し柔らかい響きを持っている。大阪では「アホちゃうか」と言われても怒る人はいない。「馬鹿と鋏は使いよう」とは、人を使うときは、その人の能力をいかせるように、うまく使うべきであるという教え。 実は、昨年末のある報道番組で、コメンテーターが、首相を「馬鹿な大将敵より怖い」という表現で評していたが、この評価は、上に紹介した書物を受けての評価であろう。語源が戦国時代にまでさかのぼるとすれば、当時の「戦」における「負け戦」や、明らかな「判断ミス」による馬鹿な大将の事例を分析する必要があるが、残念ながら、私はそのような知見を持ち合わせていない。 しかし、太平洋戦争における「馬鹿な大将」によって、戦局を著しく悪化させた事例や、そもそも開戦の判断ミスなら、容易に挙げることはできるだろう。しかし、このような検証を行うことは、ここでの課題ではない。情報収集の欠如、危機管理能力の欠如、大本営による改竄情報の発信、巨艦大砲主義の固執など、「馬鹿な大将」が敗戦へと導いたとはいえるであろう。決定的な判断ミスは、潮時(引き際)の見誤りだ。コロナに打ち勝つことができるかどうかは、機微に通じた宰相次第だ。このままだと自分の身が危ないと判断した時、部下は宰相を見限ることになる。「馬鹿と鋏は使いよう」とは実に面白い格言ではある。英語のプロバーブで言うと、Even fools and blunt scissors can be useful in the hands of a clever person.というところか。肯定的な意味で、経営学や人的資源管理にも通じる興味深い表現である。 では「馬鹿な大将」でも使いようによっては、切れ味鋭い鋏のように役立てることができるのだろうか。類似した格言に「かみそりとほうこうにんはつかいよう」というのがあり、「剃刀は使い方によってよく切れるし、奉公人はうまく使えばよく働くものであるというのがあり、使い方の上手下手でその効果が非常にでる。「嫁と鋏は使いよう」というのもある。要するに馬鹿や奉公人、嫁など使い勝手が悪くても、それらを活かすも殺すも使い側の資質次第だということになるということなのだろう。洋の東西を問わず、人的資源管理は同じ原理が働くようである。 しかし馬鹿な大将の場合、うまく使えと言われても、往々にして取り巻きにも馬鹿なイエスマンが集まってしまって、うまく使おうにも使いようがないというのが実情で、このブログの賢明な読者は日々、会社組織などで経験し、苦い思いをしておられることだろう。鯛が頭から腐るというのはこういう現象をいうのだろう。こうなってくると、もう頭と胴体を切り取らなければしようがないわけで、国民は真剣にこのことを考えないと、コロナ禍の中で、本当に命を奪われないかねない窮地にいることを、強く認識すべきではないだろうか。著者の既刊(学術)書一覧『森友加計疑惑はこうして始まった』Kindle版、2018年『地域と自治の50年 高度成長から失われた20年へ』Kindle版、2015年『昭和平成史研究所説 時代の連続と非連続』Kindle版、2014年『地域福祉の源流を築いた仏教者たち』Kindle版、2014年『森友加計疑惑 全容解明は本丸へ迫る』Kindle版、2018年『戦後議会制民主主義の破壊 森友加計問題』Kindle版、2017年『新型コロナウイルスの影響を考える』Kindle版、2020年『太平洋戦争終結69年 フィリピン・ルソン島の激戦地を行く』Kindle版、2014年『環境と経済 経済学をガイア理論によって構成する初めての試み』Kindle版、2015年『はじめての環境経済学』Kindle版、2019年『エボラ出血熱 史上最強の殺人ウイルス』Kindle版、2014年『花開く水素社会 変わる産業構造と国民生活』Kindle・オンデマンド版、2020年『はじめての環境経済学』Kindle版・オンデマンド、2019年『自給自足ガーデン』Kindle版、2013年年『地球温暖化と戦う 再生可能エネルギー&環境技術ビジネス』Kindle版・オンデマンド、2020年『現代公共部門と地域の理論』Kindle版、2013年『我レルソン島プンカンニテ玉砕ス 日本兵の物語』Kindle版、2019年『法然上人生誕の地 美作国に関する研究』Kindle版、2017年『環境と人にやさしい地域経済の構想』Kindle版・オンデマンド、2021年『大学50年の軌跡 英知と正義の巨塔を求めて』Kindle版、2018年『漂流する人工島 小池百合子の挑戦』Kindle版、2017年『漂流する人工島 小池百合子の挑戦 Ⅱ』Kindle版、2017年『就活入門 豊かな人生を切り拓くために』Kindle版、2014年『明治大正昭和 社会事業に命を懸けた宗教家たち』Kindle版、2017年『漂流する豊洲人工島 Ⅲ 誤魔化しの環境アセスメント』Kindle版、2017年『津波列島 海と人の共存を求めて』Kindle版、2014年『青空が輝くとき 太平洋戦争を生きた人びとの物語』2013年『法然上人 赤気の果てに 誕生の地に吹く朱色の風』2018年『躍進する風力発電』大学教育出版、2011年『世の中が透けて見える方程式』セルバ出版、2012年
2021.01.20
鉄づくりは、産鉄から精製、製品化、流通、販売まで、古くから地域社会と一体となった、共生のネットワークの中で行われていた。明治維新以降は、周知のとおり産業革命の要請によって高炉方式へと切り替えられ、大量生産の原理にしたがうべく、巨大マニュファクチュアへと変化し、地域社会ネットワークは姿を消してしまった。本稿は、前資本主義的生産関係の下での、鉄づくりを考察し、資本主義的生産様式における、いわゆる「本源的蓄積」過程の研究の一助とするものだ。あわせて、古き良き時代の面影をしのぶことを狙いとしている。 皆さんは、「村の鍛冶屋」という歌をご存じだろうか。昭和23年生まれの筆者には、どこか頭の隅に残っている歌の一つだ。「村の鍛冶屋」は、作詞・作曲者不詳の文部省唱歌(尋常小学4年 1912年 大正元年)だ。まず、作者不詳のオリジナルの歌詞を紹介しよう。この歌詞の中に、古い鉄づくりの真髄が込められている。 なにせ古い歌なので、掲載は可能だろう。著作権の残存している歌詞は、転用できないことになっている。口語体のママ乗せたので、多少の違和感はあるだろうが、意味を把握することは、若い世代にもできるだろう。( )の中に読み方をつけておいた。一番から五番まである。一暫時(しばし)も止まずに槌打つ響飛び散る火の花 はしる湯玉ふゐごの風さへ息をもつがず仕事に精出す村の鍛冶屋二あるじは名高きいつこくおやぢ早起き早寝の知らず鐵より堅しと誇れる腕に勝りて堅きは彼が心三刀はうたねど大鎌小鎌馬鍬に作鍬(くわ) 鋤(すき)よ鉈(なた)よ平和の打ち物 休まずうちて日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)注の敵と四稼ぐにおひつく貧乏なくて名物鍛冶屋は日日に繁昌あたりに類なき仕事のほまれ槌うつ響にまして高し注 怠けること、怠惰 筆者は、1月末までに「たたら製鉄」に関する小論を学術書に書かねばならず、毎日構想を練っていたところ、子どものころに聞いたこの曲を突然思い出した。面白いもので、最近30年も40年もこの曲は聞いたことも歌ったこともないのに、突然ひらめくように脳裏に去来したのだ。 この歌は繰り返すが、作詞者、作曲者ともに不詳。初出は1912年、大正元年12月「尋常小学唱歌(四)」と言われている。とすれば、私の母はこの歌を聞いて歌ったことがあるに違いないが、今はコロナ禍で、会うことすらできない。 歌詞は、当初のものから時代により書き換えられながら、長く全国の小学校で愛唱されてきたと言われるが、昭和30年代頃から農林業が機械化するにつれ、野道具の需要が激減し、野鍛冶は成り立たなくなって、次第に各地の農村から消滅していった。鍛治町という地名は、日本各地にある地名で、江戸時代に各藩の城下町で鍛冶職人を住まわせた町であることが多いとされており、鍛冶町と書く場合もあり、静岡県浜松市に存在する。鍛治町は、封建権力のいわば殖産興業政策の工業専用地域的特区であった。岡山県の法然上人の菩提寺の誕生寺では上人没後、津山市の鍛冶職人や周辺の百姓の協力で梵鐘づくりが行われた記録が残っている。(参考文献 田中祥雄、袖山榮眞『美作誕生寺古記録集成』山喜房佛書林、2017年) 岡山県津山市東新町というところには、かつて城下町時代に存在した末裔の鍛治屋が22軒あったと言われ、同地出身の筆者の記憶にも、かすかながら残っている。(参考文献 島津邦弘『山陽山陰 鉄学の旅』中国新聞社、1994年257ページ)過年、東海学園大学の学園学監を勤められていた田中祥雄氏と津山市を訪問した折に、氏の豊田市の寺院の墓地の草を刈るのに、この作州鎌を買い求めておられたのを記憶している。作州鎌は長らく全国ブランドの地位を継承していた。 話を「村の鍛治屋」に戻そう。作業場で槌音を立てて働く光景が、児童には想像が難しくなった昭和52年には、文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除された。以後、教科書出版社の音楽教科書から消えはじめ、昭和60年にはすべての教科書から完全に消滅した。道具屋で販売する刃物を製造する工場はあり、町の鍛冶屋は非常に少なくなっているが、それでも日本各地に残っており、地元の農家を支えていると言われる。 1903(明治36) 年4月、小学校令の改正により定められた小学校用の国定教科書「尋常小学讀本」には次のような記述がある。(資料は国立公文書館のアーカイブで閲覧できるhttp://www.archives.go.jp/)「第十 かぢ屋 僕の近所に年よりのかぢ屋があつた。せが高く、目がするどくて、ちよつと見ると、おそろしいが、いたつて氣だてのやさしい老人であつた。『トンテンカン、トンテンカン』と、毎朝早くから弟子を相手につちを打つ音が聞える。一日も休んだ事がない。僕は時々其の仕事場の前に立つて見てゐた。ある時は釘をこしらへてゐた。ある時は鎌をきたへてゐた。又車のわを打ってゐた事もあつた。僕の家で一度つるべの金たががこはれた時、つくろひを頼んだ事があつたが、翌日すぐにこしらへてくれた。夏のどんな暑い日でも、あせを流しながら、暮方まで働いてゐた。仕事をしながら、僕に色々な話をした事もある。ある時の話に、 『自分は今こそこんな小刀や釘などを造ってゐるが、元は少しは人に知られた刀かぢで、若い時から何十本となく大太刀・小太刀をきたへた。刀は武士のたましひといはれたものだから、きたへる時は身を清めて、一心不亂に打つたものだ。』といつた。 何時も丈夫さうな老人であつたが、去年の暮に死んでしまった。其の時分までよそへ奉公に行つて居つた若いむすこが、今では其の後をついで、朝から晩まで相かはらず、『トンテンカン、トンテンカン』と働いてゐる。」 岡山県津山市には「作州鎌」(津山鎌)が残っているが、これも鍛冶屋の伝統的な遺産であろう。津山市には鍛治町という地名が残っているが、これは、城下町時代(森藩)に計画的に配置された鍛冶職人の作業場で、周辺の産鉄地域から鍛冶職人を集めて住まわせたという。生産された鉄製品は城下の需要にこたえたばかりでなく、周辺の農家の需要にも応え、農耕生産力の発展に寄与したことは寄って知るべしであろう。農耕生産力の発展は剰余労働の絶対的・相対的増大につながり、剰余生産物の増大を意味し、耕作地の拡大と貢納を拡大させ、農産物を原料としたの小商品生産物したがってまた地域市場を拡大させていったことは容易に想像できる。資本主義に先行する本源的蓄積に不可欠な「資本」の蓄積が進行したのである。 この歌の主人公である老職人は、農具など野道具や山道具を製作する職人で「野鍛冶」と呼ばれた。彼らは歴史に名が残るような刀鍛冶ではなく、地域の農民とともに生きる無名の野鍛冶であり、武勇のための兵器ではなく、民衆が平和時に生産に励むための農器具を鍛える自己の職業を誇りとしていた。しかし、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)3月刊の「初等科音楽(二)」に収録されたときには、三番以降の歌詞の後半(平和のうち物 休まずうちて)が、戦時下の国策に不適当として教科書から削除され、今に伝えられている。音楽が戦争に利用されてきたことは周知の事実だが、歌詞まで書き換えていたことは誰も知らないだろう。「鉄のふるさと ー失われた鍛冶屋と地域とのつながりー」というタイトルにしては、いささか内容が貧弱ではあるが、別の機会に論じたいと考えている。
2021.01.20
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