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この推理小説は、これから出版するもので、未完成(草稿)で予告なしに修正することがあることをお断りします。数字は漢数字、ルビは( )になっています。出版はnextPublishing を予定しています。この前編は四十へ続きます 令和元年七月一日、藤堂麻里矢は、横浜のホテルの窓から、パノラマのようにひろがる横浜港を眺めていた。「ディナーショーのお客様は、満足してくれたかしら」いつものように、湧き出てくる何気ない不安を鎮めようと、乾いた喉を赤ワインで潤わせながら自問自答した。午後からの二部構成のディナーショーは、隔月でこのホテルで催されており、一〇年にわたって開催されている。馴染みの客が多く、彼らは藤堂麻里矢の父親の藤堂輝彦のファンなので、娘の麻里矢を自然に贔屓(ひいき)に思うファンが多かった。でも、麻里矢にとっては、親の七光りは迷惑な存在でもあった。 自分自身の歌唱力を磨いてきたつもりではあったが、声帯が似ているのであろうか、ファンからはよく「お父さんを女性にしたみたい」と評価され、そのたびに複雑な心境になるのだった。こうなったら、親の歌唱の世界を引き継ぎたいと思うようになっていた。そんな素直な気持ちになれたのも、父親が癌を患ってからのことだった。レコード会社に所属している父親は、がん治療のために、しばらく一線から退いている。「皆さん、今晩はどうもありがとうございました。父の経過はとてもよくて、幸い転移もなく、体力がついたら、再び皆様方へご挨拶したいと申しております」麻里矢の報告に、こぢんまりとしたライブ会場の一同、「おーっ」と、感嘆のため息をついた。「親子のデュエットを待っているよ」 フロアから声が飛んだ。そして午後九時半、ディナーショーは盛況のうちに終わった。 九階の部屋から見える横浜港は、薄い霧のベールに包まれているようだった。はるか遠くに、風力発電機の赤い警告灯が見えた。真下に見える氷川丸のマストの赤い照明が煙って見えた。太平洋戦争の終了間近、ポツダム宣言受諾後、マッカーサー元帥が厚木飛行場へ到着し、飛行機のタラップを降りて投宿したホテル・ニューグランドの新館から、藤堂麻里矢は、充実した歌手生活の感動の余韻に浸っていた。 自宅へ帰ってもよいのだが、横浜でディナーショーがある時は、ここへ泊まることにしている。藤堂麻里矢テルが気に入っている。日頃迷惑をかけているマネジャーともゆっくり話がしたい。長い梅雨空のもと、滅入った空気も、このすばらしい夜景で一気に晴れていった。梅雨明けは間近だった。 眼下の山下公園には、ところどころ照明があり、ピンクや赤のバラの花がぼんやりと見えたが、人通りはなかった。湾内の波は、幻想的な絨毯のように泡立ってはいるが、静かだった。「こんな時刻に、変だな……」と、麻里矢は傘をさして歩く人影を見て思った。傘は二つのようだった。確か、黒と赤。向こう側の海のほうの人が黒の、こちら側の人が赤の様だった。麻里矢は、グラスに眠るワインを口にした。 二 赤い傘の女 藤堂麻里矢は、ホテル・ニューグランドの自室で、軽くシャワーを浴びて、テレビのリモコンに手を伸ばした。バラエティ番組をやっている。何か事件があったようだ。あまり見かけないお笑い芸人が、カメラの前で何か釈明している。興味がなかったので、旅番組に切り替えた。 若いレポーターが、住民にインタビューをしている。麻里矢の所属事務所にも、お笑い系の芸人が何人かいたが、あまり付き合いはなかった。そして、窓のカーテンの自動開閉ボタンを押すと、厚手のグレーのカーテンが、ゆっくりと閉じ始めた。何度か泊まるうちに、このカーテンの自動開閉ボタンの違和感が消え、開くとき昔の映画館の幕開きのように思えるようになった。しかし、期待通りにはいかなかった。グレーのカーテンの下地の白いレースのカーテンが、薄く赤色に染まっているのに気がついて、麻里矢はボタンから指を離して窓に近づいた。赤く染まって見えたのは、予想通り、車のランプの点滅だった。 下を覗き込むと、数台のパトカーが、赤色灯を点滅させて、道路の海側に停まっていた。車のテールランプの赤色かと思ったのだが、パトカーの警告灯だったのには驚いた。救急車、消防車までが来ている。麻里矢は、まさかと思って、岸壁の方に視線を移すと、懐中電灯を持った複数の黒い人影が蠢(うごめ)くのを認めた。麻里矢は、心細くなって、同じホテルの階下に宿泊しているマネジャーに電話をかけた。「まだおきているかしら」 相手はすぐに出た。「ああ麻里矢さん、起きてらっしゃったのですか? 大変ですよ」 幸田友里恵というそのマネジャーは、興奮して上ずった口調で答えた。麻里矢は、下の道路の歩道から上を見上げているのが幸田友里恵だと分かった。手を振っている。さっそく野次馬をやっているようだ。二〇代の彼女は、好奇心に満ちている。よく仕事のできる優秀なマネジャーだ。東京池袋の私立大学を出ている。 神奈川県警の夏光一郎警部は、現場検証をあらかた終えて、付近に集まっている数人に目撃情報を尋ねた。といっても、住宅のない地域なので、ホテルのフロント業務関係のスタッフたちだ。「男性の水死体が発見されました。通りかかったあの方が第一発見者なのですが、あなた方は何か見ませんでしたか? 背中をナイフで一突きにされています」発見者はホテルの宿泊者で、酔い醒ましに仲間と散歩をしていたところ、死体が浮かんでいるのを見つけてすぐに通報した。辺りには誰もいなかったという。夏警部は、近くにいた幸田友里恵にも尋ねた。「私は部屋でテレビを見ていたので、何も分かりません。窓から騒ぎを見つけて降りてきたのです」 そう答えたところで、ロビーのエレベーターから藤堂麻里矢が出てきた。「あ、麻里矢さん」と言って、幸田は麻里矢の耳元へ囁いた。「つい今しがた、岸壁で男性の水死体が上がったそうです」 夏警部は、見覚えのある藤堂麻里矢に驚いた様子を見せたが、早速質問に入った。「持っていた名刺から、仏さんは東京の芸能プロダクション関係のマネジャーをしています」夏警部は、芸能人である藤堂麻里矢が、偶然近くに居合わせたことに、因縁めいたものを感じた。藤堂麻里矢は、以前、ある事件で夏警部に世話になったことがあった。殺人現場で昔話は出来ないので、麻里矢は軽く会釈をして、早速見たことを答えた。「ディナーショーが終わって、今から三〇分か四〇分前ですが、九階の私の部屋から下を見ると、傘を挿した二人連れが歩いていました。それで、少したってからもう一度下を見たら、傘は一人だけになって、何か急いだ様子で消えていきました。それで変だなとは思ったのですが、そのあとは、シャワーを浴びました。まさかこんなことが起きていたなんて、想像もしませんでした」「二度目に見るまでの時間はどれくらいだったでしょうか」「ワインが空になったので継ぎに行きました。三〇秒くらいだったと思います」「傘の色は覚えていますか」 警部の問いに、「ええ、海側にいた人が黒っぽい傘で、こちら側の人が赤だったように記憶しています」「どんな様子でしたか。何か争っていたようなとか」「いいえ。ゆっくり前へ進んでいたような」「付近に人影はありましたか」「いえ、ありませんでした」 麻里矢は答えた。被害者の持ち物は、ビジネスバッグ一つで、スマホとスケジュール帳が見つからない他は、持ち去られた形跡はなかった。現金も少しばかりだが残っていた。スマホとスケジュール帳に、付き合いの形跡が残されているのだろうと、警部は考えた。「赤い傘の方は、何か特徴はありませんでしたか?」「真上から見ていたので、ただ、傘が動くのしか見えませんでした。背丈は、傘の位置からすると同じくらいだったと思います」 夏警部は、翌日、被害者の芸能プロダクションを訪ねることにして、家族に連絡を取り、現状を保存して引き上げた。被害者の芸能プロダクションは、ユニバーサル・プロダクションといった。家族は、神奈川県警の遺体安置所で死体が本人であることを認めた。 三 神奈川県警 翌朝、藤堂麻里矢は、朝食の時間になって、マネジャーの幸田友里恵に電話した。「お早う、よく寝られたかしら。昨日は大変でしたね」「お早うございます。ディナーショーの肩の荷がおりて、たっぷり寝ましたわ。麻里矢さんこそ、わたし余計なことをお知らせしたのではと」「そんなことないわ。県警の夏警部にしばらくぶりにお会いできて、亡くなったかたには気の毒ですけど、目撃提供できてよかった。また話しますけど、刑事さんとは知り合いなんですよ」 二人は、これからの打ち合わせをするために、階下の食事会場で落ち合った。バンドのメンバーたちは、別のホテルに投宿していた。高級ホテルに泊まれるほど余裕はない。「ところで幸田さん、わたし、昨日の事件のことで気になることがあるの」 麻里矢は、食事のあとのコーヒーに手を伸ばしながら言った。早朝のテレビニュースは、昨晩の事件について次のように報じていた。「昨晩一〇時半頃、横浜の山下公園岸壁で男性の水死体が発見され、神奈川県警は、背中の刺し傷から殺人事件とみて捜査を開始しました。死体は、持ち物から東京の芸能プロダクションに勤務するマネジャーの澤田研一氏、四一歳で、死体は登山ナイフにより一突きされ、海へ落とされたことによる溺死と見られています。第一発見者で、近くのホテルの宿泊者は、「散歩中に、岸壁下の海水に浮かんでいるのを見つけて、すぐに通報した。辺りには誰もいなかった。黒い傘が開いたまま逆さまに転がっていた」と、言っているとのことです。「幸田さん、あなたは先に事務所に帰ってちょうだい。私は、時間があるから、これから警察へ寄って昨日のことを少し話して帰るから」 藤堂真理矢の事務所は「かぐや姫」といい、横浜駅の近くにあった。幸田友里恵は、何か言いたげに麻里矢を見たが、「分かりました。事務所でお待ちしています」と言って、食事会場を出た。麻里矢は、携帯の夏警部の電話番号を探した。もう一年近く音信不通だが、番号を発信した。「もしもし、藤堂さんですね。昨晩はありがとうございました」の返事に、番号をとっておいてくれたことが分かった。「昨日のことで、何か思い出していただけましたか」と、昔ながらの丁寧な言葉が返ってきた。刑事らしくない話し方をする。「思い出したというほどのことではないのですが、ちょっと気になることがあって、これからお話にうかがいますが、よろしいでしょうか」 麻里矢は、単刀直入に切り出した。夏警部は、神奈川県警の玄関で待つと言って電話を切った。 捜査一課のソファーに案内されて、麻里矢は一課長の挨拶を受けたが、早速本題に入った。「実は、赤い傘のことが気になるのです」「と言いますと?」 夏警部は身を乗り出した。 四 赤の疑惑 藤堂麻里矢は、ホテル・ニューグランドで見たことを話した。「実は、わたくし、昨晩、警部さんにお話した赤い傘の人なんですが、ホテルで見たような気がするんです」「気がするとは?」 夏警部は興味を示した。「はい、赤い傘を持った女性が、ホテルのロビーにいたのを思い出したのです。ほんの一瞬だったので、自信がないのですが。傘はたたんでいました」「何時ごろでしたか」「ディナーショーの夕方の部が始まる前でしたから、午後四時前だったと思います」「その女性の特徴は?」「バンドのメンバーと話をしていたので、ちらっと見ただけですが、濃い色のジーンズに、上着は白っぽかったと思います。身長は高かったと思います。一七〇センチくらいはあったでしょうか」「ジーンズはズボンですね。一人でしたか?」「はい、その時は一人でした」「その女性を見たのは、その時限りですか?」「はい。傘が印象的だったので、そのあとで見ても、分からないと思います」「傘の目撃ですね」「そうですね。お役にたちませんね」「そんなことはありません。早速ホテルに問い合わせします。藤堂さんがその傘の女性を見かけたときには、まだ雨は降っていませんでした。天気予報は、夜は雨となっていましたから、傘を用意していたと言えばその通りでしょうが、折り畳みの傘ではなく、蛇の目の傘をわざわざ持っていたところに、不自然さを感じますね」と言って、警部は同席していた女性警部補に合図をした。女性警部補は、夏蜜柑といった。夏警部の娘だ。蜜柑警部補は席を立った。「ところで藤堂さん、その節はお世話になりました」「わたしの方こそ。警部のおかげで歌が歌えるようになりました」「山梨玲子さんは、お元気ですか?」 夏警部は、犯人逮捕に協力した私立探偵を思い出した。事件は、芸能界をめぐる利権争いのすえの殺人事件だった。 二年前のこと、藤堂麻里矢は、歌手生活に行き詰まりを感じ、極度のスランプに陥っていた。活動拠点である東京を飛び出し、まるでドサ回りの旅芸人のように徘徊し、「歌」の原点を求めてさ迷った。芸能界をめぐる犯罪に巻き込まれた藤堂を救ったのが夏警部と山梨玲子だった。その事件を通じて、藤堂麻里矢は、歌手としての新しい生命を獲得した。「警部、分かりました」と言って、部下であり娘の蜜柑が戻ってきた。「ホテルのフロントで、赤い傘の泊まり客があったのを覚えています。赤い傘が印象的だったそうです。でも、背の高い女性という以外は、記憶がないそうです。部屋へ案内した男性スタッフと、朝食会場のスタッフに当たってくれていますので、追って連絡が来ると思います」その時、蜜柑の携帯が鳴った。「はい、そうです」しばらく話し込んで、蜜柑は次のように言った。「予約は電話で申し込まれています。係りのスタッフも、背の高い女性という以外は記憶がないということでした。昨晩の事件の時刻に、鍵をフロントに預けた記録はないそうです。ということは、外に出なかったということになりますが。今日のチェックアウトは、午前八時となっています。その時は赤い傘は持っていなかったそうです。以上です」と、蜜柑は報告した。「ありがとう。赤い傘の女性は、鍵を預けなかった。つまり外に出なかった。外に出なかったはずの赤い女性が、黒い傘の男性、つまり被害者と岸壁を散歩している。変だな。鍵を持って出たということも考えられる。何か捜査を赤い傘に誘導しているように見えますね。犯行に、赤い傘を用意したのかもしれません。では、早速防犯カメラのリレー捜査を始めてくれ」警部は、部下の蜜柑に命じた。「おかげで犯人像に一歩近づきました。赤い傘の女性が鍵を握っています。鍵を預けないで、外へ出た可能性があります」と言って、警部は藤堂にお茶をすすめた。「ところで麻里矢さん、久しぶりにお会いできたのが、こんな物騒な事件と重なって申し訳ないのですが、今晩お時間がおありでしたら、お食事でもいかがですか? 蜜柑が喜ぶと思うのです」 警部はある算段を胸に言った。麻里矢は次のコンサートまでしばらく暇なので、申し出を受けて神奈川県警を出た。実際のところ、コンサートやディナーショーは、過飽和状態で、所属事務所としては頭が痛い。麻里矢の事務所は横浜駅の北にあった。約束の時間に、麻里矢と私立探偵の山梨玲子が、レストランに入ってきた。警部と蜜柑は、立ち上がって「ここです」と合図した。 五 お笑い芸人 山梨玲子は、スタッフ数人と探偵事務所を営んでいた。最初は自分とアルバイトの二人でやっていたが、信用を得ながら依頼件数を増やしていった。浮気、素行調査は極力減らしている。依頼主は芸能界が多い。山梨は、今この時点では、昨晩の事件の関係で、仕事の依頼が来るなど考えてもみなかった。「警部、その節はお世話になりました」と、山梨は挨拶した。「こちらこそ」と、娘の蜜柑が挨拶した。 被害者は、東京恵比寿のユニバーサル・プロダクションの社員で、澤田研一さんといいます。反社会的勢力との付き合いについては、厳しく対処しており、澤田研一さんについても、そのような事実は会社としては承知していないということでした」と、夏警部が切り出した。藤堂麻里矢は、警部が食事に誘った意味を解して言った。「聞いたことのあるような名前ですわ」と、藤堂は言った。「防犯カメラのリレー捜査を始めたのですが、原場付近のカメラ一台に、確かに傘をさした人物が写っているのですが、そのあとの追跡がまだできていません。傘を持った人物は、巧妙に防犯カメラをかいくぐったのかもしれません。周到な準備を感じます。引き続き映像の分析はします」夏警部は、運ばれてきたワインを手にとって乾杯の仕草をした。蜜柑もお気に入りのワイングラスを持っている。警察の捜査情報を、どこまで一般人に話題にできるかは難しいところだが、藤堂麻里矢は芸能関係者だ。夏警部は、何かヒントが得られないか期待している。意外と、藤堂の近くにいるかもしれない。刑事の勘だ。「澤田研一というかたですが、芸能雑誌で一度読んだことがあります」 藤堂麻里矢は、微かな記憶を辿りながら言った。「確か、芸人さんの発掘や育て方の上手なかたで、雑誌に顔写真入りで紹介されていました。その点は、うちのスタッフも話題にしていたことがあります、ただ、噂では反社会的勢力とのつきあいもあるみたいです。詳しいことは知りませんが」 麻里矢は、伏し目がちに言った。「ユニバーサル・プロダクションへ行ってきたのですが、澤田は、昨日は休暇をとっていて、会社では、トラブルや殺人に繋がることは、何も知らないということでした」と、蜜柑が言った。「赤い傘の女性と芸能プロダクションの社員、この二つの情報しかないのが現状です」と、夏は言った。「ネットではよほど注意しているらしく、悪い情報はとくに見られません」「麻里矢さんが見た赤い傘の女性は、果たして女性なのでしょうか」 山梨が、当然のことながら、男性の可能性を指摘した。夏警部と蜜柑が、顔を見合せた。 ホールの隅においてあるテレビが、お笑い芸人のトークショーを映している。昨晩の事件のことで、何か話しているようだ。四人は耳を済ました。「芸能プロダクションのマネジャーさんの事件なんて稀有ですね」と、男か女かわからないような芸人が言うと、「そうやね、わても聞いたことありまへんわ」「キョンさんはどう思いますか」 司会役のフリーアナウンサーが振ると、「マネジャーさんは、それこそタレントや芸人さんと一心同体のマネジメントをやっていますからね、いろいろプライベートな関係が充満していますよね。警察は、何を調べているかわかりませんが、芸人の不祥事続きの延長でなければいいと思います」と、キョンは薄笑いを浮かべて言う。「我々の業界は、仲良くやっているように見えて、仕事の奪い合い、足の引っ張り合いはざらで、日常茶飯事ですからね。警察は何を捜査しているのか知りませんけど、早く敵を討ってほしいと思います」 司会が引き取った。 六 白兎海岸の殺人 それから二週間後、鳥取県の白兎海岸を、若い男女が散歩していた。登りはじめた真夏の太陽を背に受けて、国道沿いのコンビニで買ったパンを、朝食がわりに食べながら、波打ち際を歩いていった。空は抜けるように青い。海鳥が大きな弧を描いて飛んでいる。遠い沖には、貨物船とみられる船が浮かんでいる。白い砂浜には、どこから流れてきたのか、朽ち果てるような流木が点在している。目に映るものはそれだけだった。「因幡の白兎のはなし、本当かしら」女性が、男性の右腕にぶら下がって言った。「神話だしね。でもロマンがあって楽しい」大阪の大学で、日本史を専攻している若い男が答えた。夏休みを利用して、鳥取県へ遊びに来ていた。山陰の空は抜けるように青い。「あら、何かしら、あれ」と言って、女性が目の前の岩肌のところを指差して言った。岩肌に大きな布切れが付着しているように見える。「なんだろう。行ってみよう」女性は、男性の後に従った。大きな円錐形の岩が三つ、波打ち際に聳え立つように浮かんでいるのだが、そのうちの一番沖の一つに、男性の死体らしきものが打ち上げられていた。死体を確かめた二人は、腰を抜かすほど驚いて、手に手をとって、何度も転びそうになりながら、コンビニに駆け込んだ。鳥取県警察のパトカーが到着したのは、一一〇番通報から三〇分くらいたってからだった。先に来ていた地元の派出所員が、県警の三村警部に発見者の学生を紹介した。死体は浜辺の砂の上へ降ろされていた。鑑識も数名やって来て、写真を撮っている。鳥取県では、めったに殺人事件など起きることはない。三村警部は興奮を隠せない。「あの大きな岩の途中に引っ掛かっていたんです」仰向けにされた死体の顔に、大きなアザができていた。着衣は乱れ、露出した肌は、ごつごつした岩の鋭利な刃によって切り刻まれていた。顔の判別もつかないほどに、死体は損傷が激しかった。押し寄せる波で、何度も岩にぶつけられたのだろう。背中に鋭利な刃物によるとみられる刺し傷が認められた。昨晩は風が強かった。死体はかろうじて男だと分かった。まだ、殺人事件と決まったわけではないが、三村警部は、部下に付近の住宅ーといっても国道沿いに数軒しかなかったがーへの聞き込みを命じた。道の駅と白兎神社があるのだが、収穫はなかった。道の駅は日が暮れると営業をやめてしまう。三村警部は、コンビニの従業員に聞き取りを始めた。深夜から早朝にシフトで入っていた学生アルバイトへ電話で聞くと、一一時半ころに駐車場の外れに一台の車が入り、夜食を買って出ていった二人連れがあったことを覚えていた。一二時以降は店を閉めるので、深夜の情報はそれしかなかった。学生アルバイトがシフトで入ったのは、午後八時で、数人の客は女性と高齢者ばかりであった。アルバイトの学生は、死体を確認しに来ると言って電話を切った。「確かにこのひとでした。焼き鳥を五本買って行きました。」学生は、変形した顔を直視しながら答えた。「だいぶ酔っていた様子で、焼酎を買って、もう一人の男性と店を出ていきました」「連れの男性はどんな風でしたか」「それが、確か男の人でしたが、自動ドアの外で待っていたので、よくわかりません」「すぐに車で出て行ったのですね」「それは分かりませんが、二〇分くらいして戸締りの準備で外へ出たときには、車はありませんでしたから、一二時までには、車はなくなっていたことになります」「何か喋りませんでしたか? どんなことでもいいんです」「ええ、酔っていたので、大丈夫ですか、と言ったら、あの、聞き間違いかも知れませんが、ハクトがどうとか、言っていたようでした」と、アルバイトの男は答えた。「ハクトって言ったのですね」「はい、確か。そう聞こえました」「その少しの時間の間に、連れの男が犯人だとすると、酔った男を殺害して、男は海で岩にたたきつけられた。そんな感じですか」三村警部の部下が言った。「この先に崖がある。そこから突き落とされたのかも知れない。とにかく、死因と死亡推定時刻の判定を待とう」鳥取県警は、明日の捜査を期して現場を引き上げた。翌朝、徹夜で科学捜査を担当した所員から、報告がきた。死因は溺死、死亡推定時刻は前夜の未明の一時前後。胃の内容物は夜食の肉類と未分解のアルコール、からだの傷は岩に打ち付けられた時に出来た傷と判明した。頭に固い棒状のもので殴られた痕が認められた。おそらくこれが致命傷だと考えられた。死体は持っていた免許証から、大阪のコンサルタント会社兼芸能プロダクション、君川俊夫、年齢は六五才。会社はドリームリサーチといった。大阪府警察の協力を得て、犯人割り出しに繋がる情報収集に全力を投入することとなった。七 山梨玲子は、依頼の女性にお茶を薦めてから言った。「ご依頼の向きは、お電話で概ね分かりましたが、お引き受けする前に、詳細をお聞かせください」 横浜、山下公園の殺人事件から一ヶ月が経過した。神奈川県警の捜査は進んでいるのだろうが、山梨玲子のもとへは、情報は一切ない。山梨は不安に包まれた思いで、依頼者の澤田淳子を迎えた。「主人の死について不審なことがあるのですが、警察ではなかなか言えなくて。それで内々に調べていただきたいと思って」「神奈川県警では、聞いてもらえないということですか」と、山梨は夏警部を思い浮かべながら聞いた。「いいえ、そういうわけではないのですが、非常にプライベートなことなので、なかなか言い出せなくて。捜査に協力しなければならないことは分かっているのですが、新聞や週刊誌に公になっても困りますから、内々、相談に来たのです」「何なりとおっしゃってください。私たちには、厳格な守秘義務がございますから、どうぞ安心なさってください」 山梨は、お茶を薦めてから言った。「主人は最近急に帰りが遅くなり、私に内緒のお金を、しかも、かなりの金額を持ち歩くようになって。以前はそういうことはなかったのですが」澤田淳子は、悔しそうな表情に涙を浮かべて言った。なるほど、と山梨は思った。「ご主人に、そういう変化が出たのはいつ頃でしょうか」「半年ほど前からです。それに」と、澤田諄子は続けた。「帰りが遅いときに限って、シャツに香水の臭いがするのです」「問い詰められたのですね」「ええ、女の勘で。でも、所属の芸人やタレントさんたちの世話をする機会が増えて、何もやましいところはない、芸人は濃い香水をつけるから移るんだろう、というので、それ以上追求することはできないし、うやむやになっていたのです」「香水の匂いは、今回が初めてですか」「いえ。主人が言うように、タレントさんを車に乗せて撮影現場へ行くこともありますから、たまにはありましたけど」「それで、奥さんはそのことが事件と関係があると考えていらっしゃるのですね」「はい、そうです」「ご主人のパソコンは、どうなさいましたか」「ええ、県警の警部さんからも同じことを聞かれたので、主人は、スマホで何でもやっているので、パソコンをやっているのは、あまり見たことがありません、とお答えしておきました」「では、まだ誰もパソコンは見ていないのですね」「はい、私は、パソコンは使えませんし。そのままになっています」山梨は、まだまだ聞きたいことはあったが、とりあえずパソコンを手がかりにして進めることにした。契約は、生前の澤田研一の素行で、人から殺意を抱かれるほどの理由があったかどうかの調査であった。ポイントは女性関係だ。非常に変則的な依頼内容だった。期限は特に設定しなかった。「ではこれから契約書を作成して、明日にでもお持ちしますから、パソコンを拝見させて下さい」と言って、澤田淳子を見送った。 翌朝一〇時に、山梨玲子は澤田淳子のマンションを訪ねた。マンションは、山手線の恵比寿駅の近くにあった。芸能プロダクションは、渋谷や恵比寿、それに青山に集中している。遺影に手を合わせてから、ノートパソコンの電源を入れた。ログインにパスワードは設定していなかった。保存用のホルダも作ってなく、最新版のウインドウズが、あまり使われた形跡はなかったが、インターネットでは、観光地やグルメなどのサイトがブックマークされていた。クロームchromeがインストールされていた。気になるサイトもあったが、あとでゆっくり見ることにして、スルーした。 メールはchromeで共有されており、フリーメールが使われていた。ざっと送受信メールを見ると、会社の仕事関係のものが多かった。個人的な連絡には、スマホのメールを使っていたのだろう。芸能事務所のマネジャーが仕事だったと分かった。メールと閲覧されていたサイトは、一括して、持参したUSBに保存して、持ち帰ることとした。なくなっていたスマホは、家中を探したが出てこなかった。犯人が犯行後に持ち帰ったに違いなかった。山梨は、犯人が沢田のスマホを処分せずに持っていることを期待した。山梨は、夏警部の娘の蜜柑との待ち合わせ場所へ向かった。藤堂麻里矢も来ることになっていた。山梨は二人が来るまで、USBをノートパソコンに差し込んで、送受信メールを見ていた。メールのアカウントとパスワードは、ワードに記録してあった。山梨のノートパソコンは、通信衛星に対応できた。八 ドリームリサーチ・プロダクション コンサルタント会社のドリームリサーチは、大阪の道頓堀にあった。三村警部は部下の瀧川を伴って、社長の死について、息子の君川翔に悔やみの言葉を述べた。「ご面倒とご心配をかけました」 若い息子は気落ちした面持ちで、社長室の父親の写真に目をやった。「ご心中、お察しします。早速ですが、今度のことについて何か心当たりはありませんか?」 三村警部は、鳥取訛りの言葉で聞いた。「ずっと考えてはいるのですが、皆目見当がつかないのです。おやじ、君川俊夫は人から恨みを買うような人物ではないのです。息子の私が言うのも変ですが、実に良くできた経営者でした」息子で、経営コンサルタントの資格を持つ君川翔は答えた。「お父さんは、白兎海岸で殺害されたようなのですが、白兎海岸については、何かお心当たりはありませんか」「従業員といっても、三人しかいないのですが、聞いてみても、白兎海岸に行った理由が分からないのです。仕事の関係は、ほとんどが大阪とその周辺で、鳥取県の仕事は、最近はなかったです」「お父さんの仕事のマネジはどなたが?」「僕がやっていました。事件のあった日は体調が悪くて、自宅にいたはずなんですが。なぜ鳥取なんかに行ったのか」「心当たりは?」「ありません」「お車は?」「普通車を持っていますが、自宅に置いています。普段からあまり乗りません」「鳥取へは電車で行かれたのですね」「はい、確か第三セクターの急行で行ったはずです」「男性の従業員は」「二人ですが、二人とも会社にいました」三村警部は、何とか手がかりを得ようと質問を続けたが、とりあえずここまでとして、ドリームリサーチ社をあとにした。 平日だが、道頓堀は賑わっていた。「おい瀧川、大阪は久しぶりだな。お日様はまだ高いが、一杯やって行くか」「いいですね。先輩」 よれよれのズボンにワイシャツの二人は、居酒屋の暖簾をくぐった。「あの息子の君川翔、先輩はどう思いますか? なんか歯切れがよすぎますね」 瀧川は生ビールの三分の一くらいを一気に飲んで言った。「俺もだ。答えを用意していたみたいだな」「先輩もですか。これからどうしますか」「予定通りビジネスホテル泊、明日は君川俊夫の周辺を当たろう」「先ずは君川の妻ですね」「明日は忙しくなるぞ。あ、おねえさん、生ビールのおかわり」 三村警部は手を高く上げた。これ幸いとばかり、出張を楽しんでいる。九 細君へのメール 鳥取県警の二人は大阪府警へ寄ってから、君川俊夫の自宅を訪問した。息子の君川翔は会社へ出かけていたが、細君は在宅していた。三村と瀧川は遺影の前に線香をあげ、手を会わせてから用件を告げた。「主人も息子も、会社や仕事のことは、家ではめったに話しませんから、いったいどうなっているのか全然分かりませんし、息子に聞いても同じことで、ただただ、途方にくれています」「ご主人は、ご自宅でパソコンはなさいますか」 瀧川が聞いた。「いえ、主人はタブレット端末を持っていて、それで何でもやっていました。パソコンはご覧の通りで、埃をかぶっています。私が時々使うくらいです。」 妻は、応接間の片隅にあるノートパソコンを指さした。「息子さんは使いますか?」「いえ、パスワードが違うとかで。私は使えるようになっています」「ちょっと開いていいですか」 若い滝川が腰を浮かした。「どうぞ、検索をして買い物の情報を得ているくらいですが」 滝川は慣れた手つきで、電源を入れインターネットを立ち上げ、履歴を一瞥し、ダウンロードやホルダをチェックしてみた。メールはフリーメールを使っており、いくつかの受発信履歴を見た。「ご主人は、鳥取市内のビジネスホテルに宿泊なさっていましたが、何か心当たりはありませんか」 三村が続けた。「仕事関係のことは一切口にしませんでしたし、でも、ビジネスホテルに泊まるとは申しておりました」 ご主人は、以前に鳥取へ行かれたことがあるとか、ご自宅で鳥取のことを話題にされたことはありませんか」 君川敏夫の妻は、しばらく考えてから、「鳥取市で人に会って、それからいい機会だから松江の方を回って帰る、と申しておりました。それでお泊まりはと聞くと、松江市内だと申しておりました」と答えた。「鳥取と松江のホテルは分かりますか?」「いえ、主人はいつもネット予約で取っていましたから」「奥さんは、ご主人とはメールのやり取りはなさっていましたか」「はい、ショートメールですが」「差し支えなければ、見せていただけませんか」 妻は訝しげな表情をしたが、いったん下がってケータイを持参して、「どうぞここをクリックしてください」と言って、ケータイを三村に渡した。メールは専用のホルダに保存されており、若い瀧川が操作した。二人の目線が、あるメールに釘付けになった。滝川は、パソコンをもう一度ゆっくり見る必要があると感じた。十 神奈川県警へドリームリサーチ代表、君川俊夫が鳥取の白兎海岸で殺害され発見された日の前日に、妻あてに送ったメールには、次のように記されていた。君川が白兎海岸の岩場へ打ち上げられた格好で発見されたのは、梅雨明けが間近に迫った七月二〇日の朝、ユニバーサル・プロダクションの澤田研一が、山下ふ頭の氷川丸の近くの海で、水死体で発見された七月一日から二〇日たってからのことだった。メールの日付は、七月一九日、時間は午後四時となっている。「昨日は、鳥取市内のホテルに一泊した。久しぶりの旅行で、鋭気を養っている。こんど、一緒に山陰を旅行したいね。ところで、うちでとっている関西新聞の七月二日の朝刊に、横浜で起きた芸能プロダクション関係者の殺人事件の記事が載っているはずなので、探して切り抜きを作っておいてくれないか。そのあとの新聞も見ておいてください。明後日は遅くならないうちに帰るつもり。土産は何がいいかな」 滝川刑事は声を出してメールの全文を読んだ。「奥さんは、この旦那さんのメールにある新聞記事をご存知ですか」 三村刑事が聞いた。「はい、メールを受け取ってすぐに新聞を探しましたら、三面に出ていましたので、切り抜いておきました」 と言って、ファイルを取りに行った。「横浜の事件のことは新聞で読んだが、まさか君川俊夫が、何で、鳥取からわざわざ奥さんに知らせたのか」 三村は、部下の滝川に小声でしゃべった。「鳥取へ行ってから、横浜の事件について、何らかの事情で、詳細を知る必要ができたのだろう」 ここで、君川の妻が記事の切り抜きを持ってきた。「この記事が、うちの主人の件と何か関係があるのでしょうか」 君川の妻は、落胆した表情で聞いた。記事に一通り目を通した三村が言った。「同じ業界関係の事件なので興味を持ったのか、それとも特別に事件の内容を知る必要があったのか、何とも言えませんが。ご主人は、横浜の事件のことについて何か話しておられませんでしたか」 気落ちした妻に、気を使いながら聞いた。「いえ。何も話しておりませんでしたし、切り抜きを作るまで、事件のことはちっとも知らなかったのです。あの、そのことが、うちの主人のことと何か関係でも?」 妻は、何か、ただならぬものを感じたように聞いた。「私どもも、実は、横浜事件のことは詳しくは知りませんので、少し状況を把握してから、もう一度出直してくることにします」 と言って、鳥取県警の二人は、君川宅を後にした。「東京の芸能プロダクションのマネジャー殺人事件と、君川俊夫社長の鳥取への旅行と何か関係があるかもしれないな。どうだ、これから急きょ予定を変更して、神奈川県警へ行かないか」 三村は、滝川に打診した。「そうですね。一気に核心に迫りましょう。その代わり、中華街へ連れて行ってくださいよ」 若い滝川は、笑いながら言った。実際、今回の捜査出張は、あまり鳥取から外へ出る機会のない若い滝川にとって、仕事以上の楽しみであった。君川宅のパソコンのメールに、気になるものがいくつかあったが、また後でゆっくり考えようという誘惑が勝っていた。中華街が目に浮かぶのも無理はない。三村は鳥取県警の刑事課宛連絡を入れ、許可を得てから、神奈川県警へ電話で面会を求めた。新大阪から、のぞみで名古屋まで行き、ひかりに乗り換えて新横浜につくと夕方になっていた。なれない地下鉄に乗って県警に到着した二人を、夏警部が出迎えた。十一 論争・反社勢力 神奈川県警の夏警部と蜜柑は、県警の食堂で昼食をとりながらテレビを見ていた。ちょうど昼の報道番組が始まったばかりで、あまり興味はなかったが、最近、ニュース番組などで話題になっている、お笑い芸人の反社勢力との癒着問題を扱っていたので、肩を並べて見ることにした。蜜柑は横で食後の紅茶を飲んでいる。 山下公園岸壁の殺人事件の被害者が、芸能プロダクションのマネジャーであったので、自然とテレビにひかれたのだった。刑事課では、芸能人の刑事事件というのは、なぜだかほとんど案件がない。それだけ、芸能プロダクションの人材管理が徹底しているということだろう。芸能プロダクションにとって、タレントはドル箱であり、「金のなる木」、商品であるから、商品管理は徹底的に行わなければならない。恋愛が禁止という事務所もある。それにしては、世間をお騒がせする痴情関係の事件は絶えない。夏警部には、芸能界の知識はほとんどなかった。 数年前に、歌手の藤堂麻里矢が、歌に行き詰まりを感じ、ある殺人事件に巻き込まれて、失意のうちに放浪の旅を繰り返すうちに、事件の真相を知る麻里矢が、あわや犯人の手にかかりそうになったのを、間一髪で救出したことがあった。夏警部にとって、これが初めての芸能界の絡んだ事件の解明であった。 今回の殺人事件は、正直なところ、何が手掛かりになるのかすらつかめずにいる。利権争いか、事情のもつれか、もっと派手な縄張り争いか、はては政治が絡んだ一大スキャンダルか、捜査勘が働かないのだ。被害者が所属していたユニバーサル・プロダクションと、交友関係への聞き込みによって、澤田が人に恨まれるような事実は一切出てこないのだ。捜査は難航していた。その点、藤堂麻里矢は芸能界そのもののひとである。もう一度会って、参考になることを聞きたいとは思っていた。そんなもやもやとした頭の中に、番組の声が入ってきた。「反社勢力との交遊がもとで、彼らと一緒にうっかり写真を撮ってしまったことで、Yさんはついに芸能事務所の逆鱗に触れ、謹慎処分となってしまったのですが、Aさんいかがですか」と、司会者が男か女かわからないようなタレントに振った。「そりゃ自業自得いうもんちゃいますか。いくら面識がない言うたかて、腕の入れ墨や目つきを見りゃわかるでしょうが。謹慎処分で済むわけないんとちゃいますか」とまくし立てた。「ちょっと待ってください。あなたも経験があると思いますけど、我われ芸人は、街を歩いているときだって、ちょっと写真いいですかと言って頼まれれば、ファンサービスなんで、断れないですよ。その人がたまたま反社勢力のひとだったからと言って、咎めるのはかわいそうですよ。穏便に扱うべきですよ」と別のコメンテーターBが弁護した。「しかしですね。Yさんはその席で多額の現金を受け取ったというじゃありませんか。最初はこれを否定していたのですが、どうも受け取ったらしい。これ、どう思いますか」 司会者が、また別のコメンテーターHに振った。H女性弁護士は、最近この昼の報道番組によく出演するようになった。「この芸能プロダクションでは、専属マネジメント契約が結ばれているだけで、芸人さんの権利義務関係があいまいなんですね。それに、闇営業、闇営業って言いますが、正確には事務所を通さない直営業なんですね。契約で事務所を通さない仕事は禁止されているだろうから、それは契約違反なんで、それで『闇営業』っていう。芸人さんを丸抱えにしている建前上、勝手なことをするなと言うのが本音で、契約違反に腹を立てているというのが現実ではないですか。直営業が悪いという法はない」と言えば、「では、反社勢力との直営業は違法じゃないとおっしゃるのですか。暴対法がありますよ」司会者が反論する。「そうは言いません。芸人さんの人権を無視した、あいまいな契約なので、こういうことが起きると言っているだけです。アメリカのようにエージェント契約にもっていくべきだと言っているのです」そこへ、「無契約の芸人さんが、すべてエージェント契約を結ぶとなると、六千人、七千人のタレントを抱えている大手のプロダクションだと、契約にかかる費用も莫大になり、必要な弁護士さんもおびただしい数になります。現実的に無理ですよ」と、CMで稼いでいる男性の芸人Dが割って入った。このお笑い芸人は、某政治家に取り入っており、その妻とも懇意にして、その豪遊ぶりはたびたび物議を醸しだしている。「アメリカでは、ハリウッドのあるカリフォルニア州で、アーチストの人権擁護のために法律を制定しているところもあります」と、女性コメンテーターが論戦に参加した。夏警部は、この女性タレントをどこかで見たと思ったが、すぐには浮かんでこなかった。「彼女は、最近売り出し中の評論家で、確か東京の令和大学の先生じゃなかったかしら」と、蜜柑が助け舟を出した。そういえば、いつだったか、ある政治討論番組に出ていたのを思い出したが、急に鳴った携帯電話の音で記憶はかき消された。夏警部は、電話に出た。面識のない鳥取県警の刑事からだった。「はい、あの事件ですね。承知しています。たしか、白兎海岸で発見された死体の件。大阪の芸能プロダクションの社長でしたね」 夏警部は、新聞で得た知識をもとに応答した。神奈川県警には何も照会は来ていなかった。「はい、夕方の四時半に。結構です。お待ちしています」 夏は、電話を切った。 鳥取県警の二人の刑事は約束の時間に神奈川県警に到着した。三村と滝川刑事は、白兎海岸殺人事件の概要を伝えたうえで、社長の君川俊夫が妻の携帯に送ったメッセージに、山下公園殺人事件の記事の切り抜き依頼があったことを伝えた。「すると、ドリーム・リサーチ・プロダクションですね。そこの社長さんは、誰かと鳥取県の白兎海岸で会うことになって、山下公園事件のことを知る必要が出てきた、そういうことですね」 夏警部は単刀直入に聞いた。「その通りですが、鳥取県の事件と横浜の事件との間には何かつながりがあるような気がして、それでやってきたと言うわけです」 若い滝川刑事が言った。蜜柑も興味を示して身を乗り出した。十三 推理の進展「会う約束した場所は白兎海岸でしょうか」「君川社長の携帯は奪われているし、判断ができないのですが、社長の車は自宅に置いてあることからすると、鉄道で鳥取方面へ向かったと思われます。岡山から津山線、因美線で鳥取です。奥さんには、ホテルでくつろいでいるというメールを送っていることから、さっそく署のほうで、鳥取市近辺のホテルを当たらせています」 三村が答えた。「目撃情報があるということでしたね」「はい、その通りです。夜中近くですが、白兎海岸のコンビニで、君川社長が焼き鳥と焼酎を買っているんです。君川社長は酒が好きだったようです。アルバイトの店員の証言です。外に男を待たせていたようなのですが、残念ながら顔は見ていません。顔を隠したのでしょう」「その男が犯人だとすると、警戒して暗闇に潜んでいたのでしょうね」「それ以外には、全く目撃情報がないのです」「君川さんの会社、ドリーム・リサーチでしたか、会社では何か?」 夏が聞いた。「君川俊夫社長の息子の翔さんが、会社でマネジャーをしているのですが、何もわからないと言っているのです。何か隠しているような雰囲気ではあるのですが。奥さんも、急に鳥取に行く用事ができたということだけで、あとは、横浜の事件の切り抜きを作っておくように、メールが来ただけだというのです。鳥取に親せきがあるわけでもありません」 若い滝川が答えた。「君川社長が鳥取から切り抜きを作るように奥さんにメールをしたということは、鳥取で犯人から横浜の事件のことを聞かされて、大阪に帰ってからゆっくり横浜の事件のことを考えようということで、まさか殺されようなどとは考えなかったのでしょうね」 蜜柑が割って入った。「私の娘ですが、一課の刑事を勤めています」と、夏警部は改めて紹介した。「蜜柑さん、犯人のプロファイルはいかがでしょうか」 若い滝川が聞いた。「いえ、そういうつもりでお聞きしたのではないのですが、横浜と大阪の同じ芸能プロダクションの関係者が殺害された。横浜では東京のユニバーサル・プロダクション、大阪はドリームリサーチ・プロダクション、何か見えない関係性があるような気がしたのです」 滝川刑事が相槌を打った。夏警部と三村警部は、他人事のような表情になっている。「ずばり、横浜の事件の犯人が、大阪の君川俊夫社長を呼び出した。殺害目的で」 滝川刑事が、蜜柑刑事の推理に同調していった。「おい、滝川」と、三村が制したのを見て、「横浜のマネジャー殺しの犯人が、なぜ、大阪の君川さんを呼び出す必要があったのでしょうか。あるいは逆かもしれませんが」と、推理を一歩進めた。「その辺を伺いにやってきたのですが」と、滝川が頭を掻きながら弁解した。すると、夏が、「君川俊夫社長には、犯人にとって何か都合の悪いことを握られていたか、あるいは……横浜の事件と鳥取での殺害事件は別の事件で、君川社長が横浜の事件に関心を示したのは偶然だったかもしれませんね」と、蜜柑と滝川の推理に水を差した。「横浜の事件では、赤い傘の女性が、被害者の澤田研一の背中を一突きにしたうえで、海へ突き落したという手口です。近くのホテルの窓から、この様子を目撃した人がいます。この赤い傘の女性は、同じホテルに宿泊していたのです。目撃した女性は、私と面識のあるシンガーソングライターの藤堂麻里矢さんです。それから、この事件の被害者の澤田さんの奥さんが、内々探偵社に事件解明の依頼をしています。山梨という女性です。どうでしょう三村さん、せっかく横浜までおいでになったのですから、藤堂さん、山梨さんと食事でもご一緒にいかがでしょうか」と言って、蜜柑に目配せをした。蜜柑が笑うと、若い滝川刑事の目が輝いた。滝川にとって都会の神奈川県警の若手女性刑事は、アイドルか女優に映ったに違いない。 携帯で連絡を取っていた蜜柑が、携帯を折りたたんで言った。「藤堂さんはオーケーです。山梨さんはメッセージを入れておきました。藤堂さんからも誘っていただけるそうです。それから、もしかしたら事務所のマネジャーを連れていくとのことでした。所属のかぐや姫という事務所です」 夏警部は、遠方の刑事をもてなす軽い気持ちで夕食を誘ったのだが、ここから推理が進むなど考えてもみなかった。しかし、予期せぬ第三の殺人事件が着々と準備されていたなど、刑事たちは知る由もなかった。若い滝川刑事と蜜柑が、何やらこそこそ話をしている。 十四 横浜中華街の料理店 三村と滝川刑事は、慣れない場所へ来たせいか、何ともぎこちなくそわそわとした様子で、約束した中華料理屋へ入ってきた。ホテルは中華街の近くに取った。先に来ていた夏と蜜柑が、手招きをすると、鳥取県慶の二人は、「やあ」と手を挙げて、人懐こい顔で予約された席へ来た。個室が用意されていた。店長は神奈川県警の夏と知って、一番奥の個室を用意した。「どうぞお座りください」 夏が勧めると、二人は恐縮した表情で、「ありがとうございます」と言って、神奈川県警の二人の対面に座った。「遅れて来る人は待たない主義で」と言って、夏が瓶ビールを勧めると、「それじゃ」と言って、鳥取県警の二人は、受けたグラスをかざして、遠慮がちにビールを口にした。「早速ですが、鳥取から電話が入り、君川社長は鳥取駅前のステーションホテルへ泊まっていたことがわかりました」「ほう、で、どんな具合でしたか」 夏は、やんわりと聞いた。「はい、君川社長は殺害される日の前日、一八時にステーションホテルへチェックインしています。八月一日ですね。殺害されたのは翌日二日の深夜です」「翌日はどうしたのでしょうか」「それがどうしたことか、翌二日にチェックアウトしているのです。時間は午前九時です」「その後の足取りは」「わかりません」と、三村刑事が答えたところで、藤堂麻里矢と山梨玲子、それに中年の男性が入ってきた。藤堂麻里矢が私立探偵の山梨と、事務所のマネジャーを紹介して席についた。夏が娘と鳥取県警の二人を紹介して、飲み物のオーダーを取った。コースの料理が来るまでの間、夏が中華街やミナトミライのことなどを鳥取県警の二人に案内して、これまで横浜と鳥取で起きた事件の概要を説明して言った。「なかなか話せないこともあるのですが、今度のことに関して、業界筋のことを教えていただければ幸いです」と、話を切り出した。藤堂麻里矢の所属事務所はかぐや姫と言ったが、麻里矢のマネジャーを勤めてもう一〇年にもなる谷田敬一郎が、「ご紹介いただいたばかりで僭越ですが、ユニバーサル・プロダクションの澤田さんは、私もお付き合いをさせていただいておりまして、仕事上のことに過ぎないのですが、仕事熱心でまじめな方でして、人から恨みを買うということは考えられないのです。しかしながら、芸能界というのはルールがあって無きに等しい業界でして、ご存じのとおり、世間の常識が通らない、いわば別世界のようなところがあります。藤堂から事件のことは聞きましたが、澤田さんの交友関係は調べましたか」と、いきなり突っ込みを入れてきた。おそらく麻里矢のプッシュが入っているのだろう。「それが、澤田さんは仕事一筋というか、友人関係はあまりないようで、事務所で二、三尋ねてはみたのですが、手掛かりになるような情報は得られませんでした」と、夏が答えた。 谷田敬一郎が続けた。「この業界は、芸人さんやタレントさんの関係もさることながら、芸能プロダクション同士の関係もありまして、横の関係が密なのです」「タレントさんの融通みたいなことですか」 夏が、乏しい知識で聞いた。「その通りです。ほかにもありますが」「大阪のドリームリサーチと、東京のユニバーサル・プロダクションに、仕事上の関係があったと」「はい。うちのスタッフに聞いてみたのですが、とくに濃密な関係というほどではないのですが、いくつか、共同で仕事をしているということでした」「君川社長は、鳥取の白兎海岸でユニバーサル・プロダクションの関係者と会っていた可能性が……」と、滝川が返した。「その絞り込みは、早すぎるかもしれませんが、可能性はないとは言えませんね」と、夏が引き取った。「そういえば」と、山梨玲子が思い出したように言った。「澤田さんの使っていたノートパソコンを調べているのですが、いくつか仕事に関係するメールが残っていて、今話のあったドリーム・リサーチ・プロダクションの代表メールと思われるメールが受信されているのです。私の事務所にノートパソコンがあるので、帰ったらもう一度確認しますが、確か「例の件ではお世話になりました」というようなメールを受信しています。info-dream_researchというメールでした」「やはり」と、夏が納得した。「そうすると、横浜港殺人事件の犯人かまたはその関係者が、君川社長を亡き者にしなければならない事情があって、それは君川社長が犯人を脅したか、口止め料を要求したような何かが」と、鳥取の三村が推測した。「それは、赤い傘の女に違いはないのですが、この赤い傘の女が女性だとして、君川社長を殺害したのは男だと思われますが、この男と赤い傘の女との関係はどうでしょうか?」 蜜柑が核心に迫る疑問を投げかけた。「愛人関係にある男」と、若い滝川がズバリ指摘した。「絞られてきましたね」と山梨玲子が言った。「澤田さんはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか」 藤堂麻里矢が疑問を挟んだ。やり取りが進んでいるうちにも、第三の殺人計画が密やかに進行していた。十五 居酒屋の歌手 タレントとして最近売れてきた光岡瑠偉は、自宅近くの場末の居酒屋で焼酎をやりながら、昼間の疲れをいやしていた。この二、三日、忙しくて、ろくな睡眠時間が取れず、食べるものもワンパターン化して食傷気味であったが、時間に余裕ができて食欲が出てきた。この店はたまに来るのだが、メニューが豊富なので、食欲に任せて口に合うものなら何でも注文した。暴飲暴食はマネジャーからきつく注意されているので、アルコールは控えめにした。 光岡瑠偉はもともとバンド出身で、大学のころから組んでいたロックバンドで、今のプロダクションに売り込んで活動していたのだが、芽が出ずに、バンドは解散しソロの歌手兼タレントに転向した。売れてきたとはいえ、ライブハウスでの前座やCMの引き立て役、クイズ番組のその他大勢のような、目立たない起用ばかりでは、知名度は知れたものだ。それでも、懐具合は依然と比べれば格段に豊かになり、時たま預金通帳を見て驚くほど残高が増えて、仕事を実感することがある。 ラジオ番組の収録を終えて、電車で自宅のある郊外の私鉄の駅に着いたのが、午後十時だった。自宅は、新宿から私鉄で至近距離の八幡平にある。時たま、生まれ故郷が恋しくなることもあったが、このままでは帰るに帰れない、大げさだが死んでも死にきれないという思いで、必死に夢にしがみついている。都落ちは絶対にしたくなかった。 専属マネジャーもいるにはいるが、別の売れっ子タレントにつきっきりで、光岡瑠偉にはお構いなしだ。そのほうがありがたい面もあったが、連絡はほとんどメールで送られてくる。居酒屋の店内は結構混んでいて、大きな笑い声がところどころに聞こえる。光岡は、最近自由になるカネが増えたこともあって、売れない芸人の友だちを連れて、ちょくちょくこの店にやってくる。かと言って、光岡に気付くものはほとんどいない。女友だちはいなかった。所属事務所は、東京のユニバーサル・プロダクションで、澤田研一がマネジャーについていたが、事件に巻き込まれた澤田が死亡したことで、別の女性マネジャーに世話になるようになった。ほろ酔い気分で、光岡は澤田マネジャーが殺された件を思案していた。「いい人だったのに。俺が有名になったのも、あの人のおかげと言っていい。小さな仕事でも、手抜きをしないように頑張れば、きっといい仕事が来る…」 光岡は葬儀に参列した時の無念さを思い出して、グラスを高くかざした。「澤田さん、天国で見ていてくださいよ。オレ、きっとあなたの描いたような立派なアーチストになりますから。それにしても、一体誰だろうな、あんないい人を殺すなんて。きっと人に言えない事情があったに違いない…」 そこへ、若い女性が入ってきた。光岡も顔なじみの常連客だ。「あら瑠偉さん」 と、年上らしい女性が声をかけた。「こんばんは、久しぶりですね。お元気そうで」と、ファンサービスというわけではないが、光岡は愛想を言った。「瑠偉さん、あの歌お願いしますよ」と言って、年上の女性が壁にかけてあるギターを指さして言った。マスターが、「やりますか」と言って、クラシックギターを光岡に手渡した。「ギャラ、お支払いできませんけど」と言って笑う女性ファンに、「今作っている歌でいいですか。ちょうど聞いてくれる人を探していたんです。歌詞を間違うかもしれませんけど。自信がなくて、変なところがあったら言って下さい。直しますから」と言って、絃を調整した。「えー、素敵。私たちが初めて聞けるのね。記念に写真いいですか」 二人の女性ははしゃいだ。 これを聞いていた客の中に、光岡に気づくものがいて、「やあ、光岡さん。しばらくだね」と言って、拍手をしている。この店は、音楽好きが集まる店で、カラオケはないが、カウンターの横に小さなステージが用意してあり、シンセサイザーとギターの伴奏で歌が歌えるようになっている。Youtubeのカラオケで歌う客もいる。これは、店のオーナーが、もともとミュージシャン志望であったことからの発案で、客の希望で、たまにマスターが歌を披露する。マスターの喉は、もう賞味期限が切れてはいるが、聞かせるものを持っている。昭和の曲のファンは多い。光岡が、この店の贔屓になったのも、そういういきさつからだった。 光岡の歌唱が始まると、客は私語をやめ、光岡の歌に聞き入った。女性ファンはうっとりして聞いている。光岡は、ソロミュージシャンの夢を捨ててはいなかった。 歌い終わると、拍手が店内に響いた。光岡は照れながら頭を下げ自分の席に戻った。「光岡さんの歌声、切なくなっちゃうわ」と二人連れの女性の年下のほうが言うと、「うちのマネージャがどう言うか。次のライブでお披露目にできるかどうか」と言って、光岡は頭を掻いた。「あらもう絶対決まりよ。だめなんて言わせるもんですか。没にしたら、あたし、事務所に押しかけていくから」 年上のほうが、光岡からギターを奪って弾き語りを始めた。古い演歌だった。光岡は、その歌が好きだった。 光岡はマスターに礼を言って、帰ることにした。明日も朝早くから仕事の打ち合わせがある。光岡は居酒屋を出た。エンターテインメント業界は活況を呈していた。 自宅の賃貸マンションに帰るには、大きな通りの信号を渡らなければならない。光岡は、いつものように横断歩道を渡ろうとして、押しボタン式の信号が青に変わるのを待った。家に着いたら、作りかけの曲の続きをやらなければならなかった。居酒屋で歌っていて、ちょっと気になるところがあった。少しアルコールが入ったほうが、スムーズにメロディーが湧いて流れてくる。ライブで発表する予定の曲だった。 信号の右手の方向に、一台の車が、ハザードランプもつけずに停車していた。反対の信号が黄色に変わると、その車は勢いよく発信し、加速していった。ライトはつけていない。電気自動車だろう、音はほとんどしない。光岡はあまり気にすることなく、横断歩道を渡り始めた。右手に異変を感じた光岡が、車の急接近に気付いた時はすでに遅かった。 かろうじて体をかわすことができたのが、不幸中の幸いだったが、光岡は車のボンネットに乗り上げ地面に叩きつけられて意識を失った。後続車がこれを発見し緊急停車し、一一〇番通報した。すぐにパトカーと救急車が現場に到着して、光岡瑠偉の応急処置をして、猛スピードで救急病院へ向かった。時刻は、横浜の中華街で、神奈川県警と鳥取県警の民間人を交えた情報交換会がお開きになったころだった。 十六 仲村輝彦 仲村輝彦が東京の西教大学に赴任して二年が経過した。新しい大学に慣れるのには苦労したが、常勤の教授職を辞して、特任という雇用形態に切り替えてもらうことで、自由な時間も増え、研究室での研究と授業に専念することができるようになった。原則週二日の勤務で済むことから、学外で過ごす時間が増え、考える時間が増えて、心身健康な毎日を送っていた。「特任」という雇用形態は、裁量労働制をベースに、ノルマの授業は、従来どおりこなさなければならないが、教授会へ出席する必要もなく、オープンキャンパスや、各種委員会などへのかかわりもなくなり、報酬はほぼ半減するものの、黄昏時を迎えた仲村のようなものにとっては、理想的な働き方だった。 仲村の妻は、この働き方に変わったのを喜んだ。原則、週二日から三日は、自宅の静岡にたびたび帰ることができ、妻もこれを喜んでくれた。健康上そのほうが良いに決まっている。 仲村が大学二年生、真佐子が中学二年生の時に知り合い、しばらくつきあった後に、悲惨な交通事故で記憶を失い、仲村のことを忘れてしまった真佐子も、仲村が東京にいるほうが、遊びに来やすいと言って、この二年間に、山口県の湯玉から数回東京へ来て、買い物や食事をして楽しむようになった。 真佐子の記憶は、いまだに戻ってきてはいないが、彼女が若いころに残した日記と、姉の記憶を復元して、消化不良の青春を取り戻すのに忙しかった。私たちは、過去の記憶を手掛かりにして生きている。苦い記憶は、二度同じ過ちを繰り返さないためのシグナル、良い思い出はそう生きるべきだという教訓だ。過去の記憶がガイダンスとなって、未来の道が作られていく。 真佐子には二十歳になるまでの記憶がない。青春の記憶がないということは、その時代特有の愛や情緒、情念や失望、怒りの感情の蓄積がなく、大人になってからの分別のある平凡な記憶が真佐子の生活の道しるべとなっている。真佐子は、知人からあなたの言葉には感情がないとよく言われる。 なぜ、真佐子が中学を卒業した後、自分に背を向けたのかわからないまま、彼女が記憶を失い、永遠の闇の中に埋もれた青春の一コマを求めて、これまで、仲村は真佐子と付き合ってきた。出会いは偶然だった。島根県の鳴砂の浜辺で、真佐子が話しかけてきたのが始まりだった。二人の仲を切り裂いた事件は、どうやら真佐子が大阪へいた頃にさかのぼることが分かったが、次の記憶探しの旅は、お預けとなっていた。 真佐子も、今では孫の世話をする年になっていた。でも、仲村の記憶の中に住む真佐子の天真爛漫さは、今も変わらなかった。今、二人を結びつけるものは、何が二人を引き裂いたかを突き止める執念だった。その思いは、いまだに記憶が戻らない、青春を失った真佐子のほうが強かった。真佐子が交通事故で記憶を失ったのは、彼女が二一歳の時だった。仲村とて、真佐子が自分のもとを去った真の原因を突き止めたかった。記憶のない真佐子の口から聞けない以上、過去を探る旅を通じて確かめるしかない。過去を失い今を不安定に生きる女と、その失われた過去に明日の生きる希望を見つけたい男の葛藤だ。 仲村は、東京勤務の時に利用するビジネスホテルの一室で、近くの居酒屋の店頭で買ってきた弁当をつつきながら、ビールを飲んでいた。二五年間勤めた名古屋から東京の大学へ移籍した時には、小さなマンションを購入したのだが、今年から週二、三日の勤務になったので、マンションを売って、授業のある日は、ホテルに投宿することにした。 時計の針が午後七時を指し、つけていたテレビがニュースに切り替わった。見慣れたアナウンサーが、神妙な顔つきで、次のように話し始めた。 「昨晩、歌手でタレントの光岡瑠偉さんが、自宅近くの甲州街道の路上で乗用車にはねられ、怪我をした模様です。すぐに病院へ運ばれ、処置も早かったので、足と腕の打撲で済み、大事には至らなかったようです。はねた乗用車は、その場を立ち去り、後続の乗用車の運転手が一一〇番通報、救急車を呼び、対応が早かったのが幸いだったと、警察では言っています。ほかに目撃者はおらず、悪質なひき逃げ事件として、捜査を開始したようです。 ところで被害者は、今人気のミュージシャンでタレントの光岡瑠偉さんで、所属事務所のユニバーサル・プロダクションでは、「今回のことに関しては、誠に残念なことではありますが、不幸中の幸い、大事には至らず安堵しております。関係者の皆様方にはご心配をおかけし、誠に申し分けございません。回復まで、時間の猶予をお願いしたく申し上げます」という談話を発表しました」 ニュースはコマーシャルに切り替わった。仲村は、「ひき逃げ」というのが気になって、神奈川県警の夏光一郎を思い出した。この七時のテレビニュースは、夏光一郎親子も横浜のレストランで見ていた。夏警部は、最近テレビに時々顔を出すようになった光岡瑠偉のことは知っていた。好感の持てる歌手だと思っていた。娘の蜜柑も、時々歌を口にしていた。十七 夏警部の素性 早朝、夏の携帯電話が勢い良く鳴った。神奈川県警本部からだ。嫌な予感がしたが、夏は飛び起きて電話に出た。「警視庁に問い合わせた結果だが、昨晩ユニバーサル・プロダクション所属の光岡瑠偉というタレントが、世田谷八幡平の自宅付近で、ひき逃げにあったらしい。生命に別常はないようだが、うちの所管の殺人事件と同じプロダクションなので、詳しく問い合わせたんだ。まだ面会謝絶だそうだが、目立った外傷もなく意識もはっきりしているらしい。でも、脳への障害を心配しているようだ。 目撃者の事情聴取では、先行車がライトをつけず急発進し、横断歩道を通行中の光岡さんをはね、ブレーキも踏まずに走り去ったという。目下、目撃者の社内カメラを解析中だが、先行車がライトを消していたので、バックナンバーが写っておらず、車の詳細がわからないが、目撃者の証言では黒っぽい車で、セダン、大きな車だったそうだ。事故現場から先の防犯カメラを解析中なので、追って何かわかるかもしれない。警視庁は横浜港の事件の関連もあるので、合同捜査を提案しているようだ。さっそく病院へ行ってくれないか。ことが大きくなったのでというわけではないが、捜査一課から一人捜査員を増員する。西尾刑事がいいだろう。蜜柑さんと三人で捜査に当たってくれ。追って増員を検討する。いいか」と、一課の刑事部長、寺島逸郎がまくしたてた。「了解しました」と、夏が答えると、「県警のメンツがかかっている、心して当たってくれ」と、いつものことながら、大声で叱咤した。このやり取りを聞いていた蜜柑が、軽い朝食を準備しながら、「世田谷区のひき逃げでしょう?」と、冷静な顔つきで言った。「早いな」「snsで情報が流れているわ。警察学校の同期生で作っているグループじゃ、もう犯人のプロファイル予想までやっているわよ」と、父親をせかした。「まあ、ゆっくり食事くらいとらせてくれよ」 夏が、タオルを肩に掛けて洗面所から出てきた。 ここで、神奈川県警、夏光一郎警部の殺人事件シリーズをはじめてお読みの方に、警部の紹介をしておこう。夏警部は大学卒業後、理科系の大学院修士課程まで行った秀才なのだが、ある事件がきっかけで刑事の道に足を踏み入れた。最初は生まれ故郷の静岡県警に入ったのだが、これまたわけあって、人事交換制度で、神奈川県警に移動した。 結婚相手の妻との間に娘が誕生し、蜜柑王国の静岡にあやかって「蜜柑」という名前にしたのだが、蜜柑が小さいころに、妻を病気で亡くしてしまった。もっと早く処置すれば「死」をまぬかれたはずなのだが、凶悪犯罪の捜査でろくに家庭を顧みることのなかった亭主を気遣いながら、妻は天国に召された。 夏は、そんな苦い思い出の詰まった静岡を後にして、横浜に来たのだった。一人娘の蜜柑は、父親のうしろ姿を追いかけて成長し、横浜の私立大学を卒業後、神奈川県警に入り、刑事課に移籍し、父親と二人三脚、犯罪捜査の道を歩み始めた。将来、国際刑事警察機構で活躍できることを夢見ている。 十八 真佐子の憂鬱 仲村から手紙を受け取ったのが、真佐子には、ついこの前のように思い出されるのだが、もうかれこれ、一年も手紙が来ていなかった。真佐子は、机の引き出しを引いて、一年前に受け取った手紙を取り出した。白い洋型の封筒から取り出した、白い三つ折りにたたまれた便箋を開くと、何か懐かしい、ふんわりとしたものを感じる。仲村は、いつも洋型の二号の封筒を使って手紙を送ってくる。理由はわからないが、今度聞いてみようと思っている。 いつものように季節の挨拶から始まって、自分と家族そして周囲の者を気遣う文章から始まる。真佐子が中学生で仲村が大学生のころ、月に二、三度は手紙のやり取りをしていたと、仲村から聞かされて、失われた記憶の数年に育んだ、仲村との心の通いがよみがえってくるかのような錯覚を覚える。「早いときは四-五日で返事が来たこともあるよ」と教えてくれた。いくら何でもと、頬が染まる思いがするが、実際にそうだったのだと信じるようになった。仲村は、真佐子の失われた記憶が戻ってくるようにと、仲村の記憶に残っている、四〇年以上も前の出来事を再現するように、手紙を書いてくれるのだった。「僕が、今、ホテルを借りているのは、君が手紙を送ってくれた、僕の学生時分の住所―世田谷区上北沢―に最近出来たビジネスホテルです。東京都世田谷区上北沢〇〇××と君は書いたはずです。二、三日たって返事を書いたので、一週間くらいで、君は僕からの返事を受け取って読んだはずです・・・」 真佐子は仲村の優しい心遣いにため息をついた。それらの手紙は、もう真佐子の手元にはない。真佐子の姉の景子が、記憶の攪乱を気遣って、交通事故の直後に燃やしてしまった。しかし、一通だけは保存してあって、姉から真佐子へ手渡され、大事にしまってある。仲村の筆跡は、姉の景子から渡された手紙の筆跡と同じだった。大学生のころの筆跡と、いまの仲村の筆跡は少しも変わっていなかった。真佐子は、仲村が何か邪悪な意図をもって、自分に近づいてきたのではないことに安堵した。仲村は決して字はうまいほうではないが、丸みを帯びたふっくらとした感じの字を書く。真佐子はその字体に何か親しみを覚えるのだった。「新しい大学の仕事は、だいぶ慣れてきました。もう大学の中で迷子になり、学生に場所を聞くこともなくなりました」 真佐子はくすっと笑った。「いやな話ですが、大学の授業は、またまた遠隔(オンライン)授業になり、これで三回目です。ハイブリッド授業というのもあります。学生も教職員もうんざりしています。緊急事態宣言だの蔓延防止等○○××だの言葉の遊びばかりです。真佐子さんの町は、きれいな空気と、人もまばらで安全ですが、くれぐれも注意してください。ウイルスの運び屋がいますからね。下関は要注意ですね。二年前に東京へ来てくれた時は、コロナの感染前で、居酒屋で大騒ぎをして楽しみましたが、まだ、ちょっとだめですね」「どうですか。完全武装で東京へ来ますか?」ここで手紙は終わっていた。真佐子は迷っていた。春は瞬く間に往き、梅雨がやってきた。新型コロナウイルスは、いくつかの変種を生みながら、いまだに世界中で猛威を振るっていた。会いたさが、感染に対する恐怖を打ち負かすことはわかりきっていた。母親は東京行きに反対するだろう。でも、「島根の姉のところへ行ってくる」と言えば心配させないですむ。嘘をつくのは心苦しいし、もし何かあったら「村八分」に合うかもしれない。「飛行機で行けば大丈夫だわ。きっと何かあるに違いない」真佐子は、鏡の中の自分につぶやいた。十九 芸能プロダクションの倒産 夏警部は、膠着状態に入った「横浜港殺人事件」を、今なお執拗に追いかけていたが、それは気持ちの焦りばかりで、犯人のプロファイルすら描けていない状況に、長期戦を覚悟していた。二〇一九年の年の夏に起きた事件が、すでに2年近くが経過し、殺害された澤田研一がマネジャーをしていたワールド・プロダクションの経営が、コロナ不況の影響で行き詰まり、会社は解散してしまった。捜査はますます困難になっていた。 一方、鳥取県の白兎海岸で、死体で波打ち際の岩に打ち上げられた、大坂の芸能プロダクション兼コンサルタント会社ドリームリサーチ・プロダクションの社長殺人事件の捜査も、進展がなかった。確かに、この二つの事件は、芸能プロダクションという点で共通性はあった。もしも、この二つの事件に、何らかの関連があるならば、それは芸能界に関連した何かということになる。 しかし、この「何か」がわからない。そして、手がかりらしき事件が、コロナ感染が起きる前の、二〇一九年の暮れに、東京の世田谷で起きた。交通事故のひき逃げ事件で被害者となった光岡瑠偉が、澤田研一のプロダクションに所属していたことだ。事故後の光岡瑠偉への聞き取りでは、澤田研一が殺害されたことに関しては、何も心当たりはないということだった。光岡瑠偉の口からは、模範的マネジャーとしての澤田の人物像しか浮かんでこなかった。 澤田の残された妻からも、手掛かりになることは何も出てこなかった。もしも、横浜港殺人事件と白兎海岸殺人事件の間に関連があるとすれば、それは芸能界特有の関係だろう。夏光一郎は、何度もその命題から推理を巡らせてみた。そして、殺害されたマネジャーの澤田研一が可愛がっていた歌手の光岡瑠偉が、夜遅く甲州街道を渡ろうとして、黒っぽいセダンによってひき逃げされた。では、なぜ光岡瑠偉は狙われたのだろうか。しかし、その前に、光岡は狙われたのだろうか。このひき逃げ事件の捜査も進展していなかった。横浜港殺人事件が起き、そして、その後を追うように白兎海岸殺人事件が起き、ひき逃げ事件が起きてから二年が経過していた。 部下の蜜柑とも、次第に事件に関して捜査方針が出ないまま、別の事件に駆り出されることが多くなり、先行き迷宮入りかと懸念される雰囲気が漂っていた。 自宅に戻りテレビを見ていると、蜜柑がエコバッグを抱えて玄関のドアを開けた。今日の夕食はテイクアウトにしようと相談していた。 五階にある夏のマンションの部屋からは、横浜港がよく見渡せる。つい最近、観光用のロープウエーができ、まだ営業をやっているようで、タワーの明かりが宵闇の向こうにかすんで見える。「パパ、おなかすいたでしょう。遅くなってごめんね。買ってきたわよ」自宅に戻ると、蜜柑は警部、ではなく「パパ」と呼んだ。「例の件どうだった?」 夏は恐る恐る聞いた。「私は対象から外れたわ」 まもなく始まる東京オリンピック・パラリンピックの警護に当たる人選の件だった。おおむね決まってはいたが、神奈川県警から出す人員の最終選考結果が発表されることになっていた。殺人事件が未解決であることにかんがみて、刑事課長からは蜜柑を外すよう調整してもらっていたが、案の定、すんなりと外された。 オリンピック開催に関しては、反対を唱える集団の中で不穏な動きもあり、危機管理を強化する方向で対策班が組織されてきた。膠着した事件解明に何も妙案もなく、オリンピックと新型コロナワクチン接種の強引な進行の狭間で、横浜港殺人事件と白兎海岸殺人事件は、もうすでに記憶もほとんど風化しようとしていた。国策としての感染対策とそれと矛盾する超高密オリパラの強行とが、あたかもどす黒いスモッグとなって首都圏の上空を覆っていた。 夏警部にとっては、過去の事件で何かと世話になり、犯人逮捕の現場にまで 来てもらったことのある仲村教授の顔が眼前に浮かんだ。蜜柑も同じことを考えていたらしく、「仲村先生はどうしていらっしゃるかしら? 真佐子のおばさまも」「僕も同じことを考えていたところだ。東京の大学へ変わったことは、挨拶状が来たけど、とにかくコロナで会うこともままならずだ」「そうね、私も、おばさまのことが気になって、一度、山口県のほうへ電話をかけてみたけど、収まったら会いましょうね、ということで、もう一年以上もたったわ。この前の事件からもう三年もお会いしてないわね」とため息交じりに行った。蜜柑は茶箪笥にキープしてあるワインをグラスに注ぎ、テイクアウトしてきた中華料理をつつきながら、懐かしんだ。夏はビールをやっている。「電話をかけてみようか?」と言って、夏はスマホに指をかけた。(続く)二十 青いミニスカート 仲村は浅い眠りから目覚めようとしていたが、もうすこし夢の成り行きが知りたかった。セピア色をした風景と木造の建物の中に真佐子が正座をして座っている。建物の懐かしいたたずまいから、真佐子が中学生のころにいた中学校の校舎だと分かった。男子生徒も数名いるのがわかる。仲村は真佐子に声をかけたかったが、中学生に大学生の仲村が声をかけるのは風紀上許されない。仲村は真佐子の挙動を見つめるしかなかった。真佐子は横顔をこちらに見せて、凍り付いていて拒否反応を示しているように見えた。 やがて、真佐子は田んぼのあぜ道を歩いていき、川の土手まで来ると振り返り、仲村に手招きしている。川は、吉井川という。河原には数人の真佐子の友だちが遊んでいて、手を振っている。仲村は、真佐子がこれからどうするか尋ねようと思い、近づいていったが、急に真佐子は「だめよ」と言い、土手の坂を駆け上がり、橋を渡って逃げていった。振り返りざま「東京に会いに行くわ」と叫んだように聞こえた。「飛行機でおいで、迎えに行くから」と、仲村は大声でかえしたが、もう真佐子は見えなくなっていた。 ホテルの仲村の部屋の窓からは、カーテン越しに早朝の明るい日差しが入り始めていた。天気予報では、まもなく梅雨が明けるといい、その兆しかと思った。二日前に受けたワクチンの左肩が痛かったが、倦怠感も消え、さわやかな目覚めだった。明るい未来が待っているような感じもあった。 枕元に置いたスマホが軽快なメロディーを奏で、起床の時間を告げた。火曜日は二限と三限が授業で、月曜と火曜の授業の出席や提出レポートの採点などをするために、もう1日水曜日に勤務する。 仲村はスマホのメールを開いた。画面には小さな字で、「羽田に一七時に着く便で行きます。昨日、あなたが、昔、私との約束を破って、別の女性とデートに行ってしまった夢を見たわ。悔しいからとっちめに行きます」という文字が見えた。開くと、続きに「ごめんなさい。何か胸騒ぎがするのよ。東京で何か良くないことが起きて、あなたが危なくなる夢を見たの。わたし、助けに行きますからね。一七時二〇分着です。いつもの国内線出口でお願いします」相も変わらぬ、一方的な約束取り付けメールだ。これで、都合が悪いなどというと仕打ちが怖い。「はい、はい。わかりましたよ。実は僕も相談したいことがあります」と、真佐子の独断をたたえる返事を返した。「とてもよい心がけです。でもハイは一回です」 と返事が来た。仲村は笑った。 羽田空港で、真佐子の姿をとらえた仲村は、驚いたというよりびっくりした。水色のショルダーバッグを肩にかけ、手提げかばんをぶら下げているのはいつもの通りだが、何と、濃い青色のミニスカートに、中ヒール、白のブラウスに真っ黒なサングラス、水色のハンカチーフで長い髪を覆っている。スカートは新しいものではない、太い革のベルトが巻き付けられている。仲村は動じないふりをして、「やあ真佐子さん、マスクがお似合いですね」と言って、重そうなバッグを取った。「来てくださって嬉しいわ。何か用事があって来てくれないかと心配したのよ」と言って、サングラスを外した。「お元気そうで何よりです。急に暑くなりましたね。ちょっと冷たいものでもいかがですか」と言って、仲村はレストランを指さした。東京は四たび緊急事態宣言が出され、空港は閑散としている。 パーティションで仕切られた席が一つあった。まだ日は高く、ビールの注文は可能だった。中ジョッキを軽く合わせ、のどを潤わせた。真佐子は青色のマスクをしている。青色で統一しているところが、何かのメッセージなのだがよくわからない。夕食はホテルの部屋でゆっくり取るというので、飲み物の注文だけにした。そこへ、仲村のスマホがなった。神奈川県警の夏警部からだった。出たのは若い女性だった。よく通る声だ。「はい、仲村です」 真佐子が強い目線で仲村をにらんだ。「横浜の事件ですか? ええ、知っています。世田谷のひき逃げ事件、ええ。ずっと気になっていました」 真佐子が会話に聞き耳を立てている。二十一 羽田空港「ああ、蜜柑さん。ご無沙汰しています。お元気ですか」 神奈川県警の蜜柑からと分かって、真佐子の怖い顔がほころんだ。「ええ。元気ですよ。実は、今一緒にいるんですよ。はい。警部はお元気ですか?」 仲村は、真佐子に目配せしながら、警部にかわる様に言った。用件はわかっていた。「ええ、真佐子さんと羽田空港にいます。事件の件は私も気になっていて、こちらから連絡しようと思っていたのですが、新型コロナ騒動で、なかなか出る気になれず・・・ええ、もう二年になりますね。光岡瑠偉さんがひき逃げされた件はいち早く知りましたが、現場は私が住んでいたマンションから至近距離のところなんです。そうです、見通しのよいところで、夜といっても横断している人に気が付かないということは考えられませんよ。光岡さんは駅前の居酒屋に時々寄るようです。私も見かけたことがあります。・・・鳥取県の事件も知っています。ええ、存じています。三つの事件の共通項は芸能界ですね。僕もそう思います。・・・・・・ご覧になりましたか。ええ、お恥ずかしい話ですが、興味半分でやっている研究で、お役に立ちますかどうか」 真佐子は無視されていると思い、割りばしで仲村の腕をつついている。真佐子は、よくこんないたずらをする。中学生の頃もそうだった。「明日ですか? とくに用事はないのですが、真佐子さんを連れて氷川丸でも見学に行こうかなと。ロープウエーができたみたいですね。彼女はもう二回目のワクチンをうっていますので、マスクは外せませんが。はい、彼女はまだ横浜を知りません」 真佐子の機嫌がよさそうになった。電話を渡せというしぐさをしている。「あの、真佐子さんが蜜柑さんと話がしたいと」 仲村は、スマホを真佐子に渡した。「おばさま、しばらくです。いつぞやの事件では、本当にお世話になりました。アガサクリスティ顔負けの推理でしたわ」 蜜柑も真佐子の扱い方を覚えてきたようだ。「寂しい漁師町にいるとすることもないし、人のうわさがとりえのいなかにいると、本当に知的レベルが低下して、仲村さんを頼って出てくるんですよ。この人、私のリサイクル工場なんです。今度の事件、なかなか進展しませんね。私、女の勘で、今度の事件の陰には女がいると思うんです」と、勝手なことをまくしたてているが、仲村は笑いながら、女の影がいるという点には、なるほどと思った。犯罪の陰に女ありだ。電話の向こうでやはり笑っていた蜜柑が、「おばさま、明日横浜港の見学が終わったら、どこかで待ち合わせしませんか。県警も暇だし、コロナの暑気払いということで、おばさまの名推理をお聞きしたいわ」 蜜柑も真佐子の扱い方がうまくなった。というよりも、母親を早くに亡くした蜜柑にとって、真佐子は母親のような存在なのだ。蜜柑は、夏警部を見た。警部は大きくうなづいている。遊びと食べる話はすぐにまとまる。最近エンタテーメント産業を研究しているという仲村から、何かヒントが得られるのではないかと、夏は期待した。 夏は、ある経済雑誌の中で、仲村がこのようなことを書いていたのを思い出した。雑誌は、県警で定期購入している。「梅雨のさなか、横浜の山下公園の桟橋付近で、殺人事件と思われる事件が起きた。深夜に同海岸を散歩していた人が発見した。偶然近くのホテルに投宿していた人が、目撃しており、赤い傘をさした人が、現場を立ち去っていくのを見ていたそうだ。殺害されたのは、東京の芸能プロダクションのマネジャーで、聞き込み捜査では、殺されるような理由は見当たらないということだった。 それから一〇日くらいたって、今度は鳥取県の白兎海岸で、大坂の芸能プロダクションの社長(六五)が背中を一つきにされ、海に突き落とされて、岩に打ち上げられたところを、大坂から遊びに来ていた大学生によって発見された。殺人の手口は似ている。 鳥取県警の捜査では、こちらも手掛かりがつかめないという。この後しばらくして、山下公園のふ頭で殺害されたS氏と同じユニバーサル・プロダクションに所属する歌手の光岡瑠偉さんが、自宅へ帰る途中、甲州街道を渡ろうとして、乗用車にはねられ大けがをした。光岡さんはすでに回復し、近く歌手活動を再開するが、この三件の事件に共通するのは、言うまでもなく最近世間を騒がせている芸能界だ」二十二 記憶の撹乱「芸能界の浮沈が激しいことは、誰でも知ってのことと思うが、今回の事件もそのような離合集散、弱肉強食、競争激化の業界事情に加えて、事件後、世界を恐怖の坩堝に陥れたコロナ禍が災いして、当該事件の被害者のSさんが所属していた芸能プロダクションも倒産の危機にさらされ、最近閉鎖に追いやられた。 会社は個人経営の事務所で、多少の清算があっただけで、今は事務所の跡形もないという。マネジャーのSさんが欠けたことと、事務所閉鎖との関係は推測でしかないが、売れっ子タレントを育ててきたSさんがいないでは、タレントの他の事務所への移籍や引き抜きが大きな要因だろう。突然の閉鎖は、今回の事件と何か関係があるかもしれない。 私の大学での経済分析は、芸能・スポーツ分野の分析へ軸足を移しており、今後も検討を続けるが、今度の事件との関連では、同事務所の関係者を徹底して洗うことが必要だろうと考えている。所属タレントは五〇名を数えたが、ざっと調べたところでは、他の事務所へ転籍したものがほとんどだ。 マネジャー、アシスタント、それから当の会社代表者の動静がどうなっているのか、捜査当局は十分承知していることだろうが、その解明の中に事件解決の手がかりがあるように思えてならない。大阪のドリーム・リサーチ・プロダクションとの関係もそうだ」(西教大学 教授 仲村) おそらく神奈川県警の夏警部は、この線での捜査に方針を切り替えようと考えているのだろう。真佐子は、「それでは、明日を楽しみにしていますね。今夜は、仲村さんのホテルに泊まりたいのですが、彼、だめだというので、ちょっと離れた原宿にとってもらいました。そう、嫌な人でしょ。別々の部屋なのにね。ははは」と勝手なことを言っている。こういう純真さは昔とちっとも変っていないと仲村は思っている。「それでは明日の夕方ね。時間が決まったら連絡ください。中華街はまだ駄目ですけど、安全・安心なレストランを予約しておきます」と言って、蜜柑は電話を切った。「それでは、原宿まで送っていきます。1時間くらいで着きます」と言って、仲村は伝票をつかんだ。外国のメディア関係者らしい一行が、大きな荷物を引いて通り過ぎた。オリンピックの開幕も目前に迫った。スポーツ・芸能界の動きも活発になってきた。どこかで不安が付きまとう。中国はゼロコロナを原則として、徹底したPCRで隔離封鎖を行い、制御できた地域で緩めるウイズ・コロナへ切り替える。日本ではこうした縛りをかける法が整備されてないからできないと、無能な政治家たちは繰り返す。 緊急事態下の原宿は、さすがに人通りは少なかった。といっても一回目から三回目の波の時のような効き目はないらしく、肩がぶつかり合うほどでもなく、かといって閑古鳥が鳴いているという寂しさでもなかった。テレビでよく言う「慣れ」や「緩み」が出てきたのだろう。ワクチン接種も急速に進んできている。周りに抗体を持った人が増えてくると、「まあ大丈夫だろう」という雰囲気になってくるのもうなずける。明治通りを右に曲がると、つい今しがた予約したホテルがあった。「無断外出はだめですよ。朝食が終わったころ迎えに来ますが、それでいいですか?」 仲村はバッグを真佐子に渡した。「あなた、私が中学生の頃も、こんなに冷たい扱いをしたのね」と、いつもの攻撃を仕掛けてくる。いくつかの背の高いビルの合間から白い月がこちらを見ている。世界がコロナで割れそうなのに、月はいつも同じ顔をしている。「気のない素振りのあなたの気を引こうと思って、わざとそうしたかもしれません」「嘘おっしゃい。ほかにいい女がいて、わたしになど気が回らなかったんでしょ」ビジネスホテルの前で、言い争いをしている男女を、通行人がいぶかしげに見て通り過ぎる。「あなたに首ったけで、気持ちをうまく伝えられなかっただけだと思います」 学会での答弁のようなことを言っている。「そう、ならいいけど。今回はそういうことにしておきます。おやすみなさい」と言うだけ言って、真佐子は手を振った。パトロールの警官が二人、新しくなった駅のほうへ歩いて行った。時計の針は午後八時を指していた。 翌朝、遅い梅雨明け宣言が出て三日目。真佐子は、旅の疲れからか、久しぶりに熟睡し、枕もとの腕時計を見ると六時半を指していた。昨日の仲村の言葉を思い出していた。中学生のころ、仲村が実際にどのような姿でどのような言葉で、どのような会話をしたか、記憶を失った真佐子には、思い出すすべはなかった。しかし、たびたび仲村に会い、仲村の癖に接することで、若かった仲村のイメージを自分の脳裏に刻むことができ、それを実際にあった記憶として、積み重ねていくことが、とても楽しくて、失われた記憶の空虚な空間を埋めていくのだった。この「記憶の復元」が真佐子の生きがいになっていた。亭主を亡くした後の空虚な心のうちに入り込んできたある種の「誘惑」ではあったが、仲村の心遣いがうれしかった。満ち足りた心は、真佐子に空腹感を満たした。ご飯のお代わりをして、デザートもしっかり食べた。真佐子の携帯が鳴った。 二十三 弱肉強食 神奈川県警では、蜜柑が同僚の婦人警官と食堂で昼ご飯を食べていた。「横浜港の殺人事件、進展がないみたいね」 婦人警官は言った。「コロナ騒動に入って、自由な捜査が出来にくくなったのが大きいかしら。言い訳になるけど」「不要不急の捜査以外は控えるようにって、訳の分からない方針が出たしね。オンライン捜査ってのも流行ってるわ」「コロナ不況で、芸能界がアップアップしていることもあるわね。実際、渋谷のワールド・プロダクションもタレントや芸人の自宅待機が続いていて、マネジャーの死について関心を払う人なんか皆無だわ。それで、結局、事務所は閉鎖になったけど」「確か芸能界のマネジャーが殺害された事件って、はじめてじゃないかしら?」「薬や痴情がらみの事件は山ほどあるけど、殺人事件となると先例がなくてどこから手を付けていいのか、パパもわからないのが本心よ」 蜜柑がテレビを見ながら言った。食堂のテレビが次のような報道を始めた。「いよいよ東京オリンピックの開会式が行われ、一部、すでに競技が始まっていましたが、昨晩の開会式によって、正式に30日間のオリンピックが始まりました。8月23日の閉会式まで熱戦が繰り広げられます。ところで、昨晩の開会式では、IOCバッハ会長のあいさつに続いて、天皇陛下が開会宣言を行いましたが、真後ろに座っていた菅総理大臣と東京都知事が座ったままで、大変な失礼があったと、各メディアが一斉に報じました。JOCによると、台本では天皇陛下の宣言の前に『ご起立ください』の進行アナウンスがある予定だったのが、バッハ会長が『次に天皇陛下の開会宣言です』と、早とちった発言をしてしまったので、東京都知事の目配せで、慌てて起立するという不手際になったものです。昔なら不敬罪だ、などとする厳しい見方もあるようですが、それにしても知事から促されるまで、椅子にふんぞり返っていた総理大臣は一体何を考えていたのでしょうね」と、キャスターが嫌みたらしく言った。「例の、横浜港殺人事件だけど、赤い傘の女、芸能関係の可能性が大きいという噂で持ちっきりよ。女の細腕じゃ、もみ合いになったら、逆襲されるから、赤い傘をさした男じゃないかって。歌手の藤堂麻里矢さんがホテル内で目撃した赤い傘の女も女装していたんじゃないかって」 婦人警官は、興味半分で言った。「あなた、芸能通だったわね。芸能マネジャーが殺害されたということになると、動機はどんなことが考えられるかしら?」 蜜柑は、警察に入る前に芸能プロダクションに所属していたことのある婦人警官に聞いた。婦人警官は向坂といったが、今でも暇を見ては、オーディションに出ている。「これは私の考えだけど、芸能界って足の引っ張り合いが多いのよ。まあ、どの世界にもあるでしょうけど、芸能界はジャンルにもよるけど、テレビ、映画、ライブ会場、劇場、寄席、ネットなど軒並みオンラインでやっとこさ息をつないでいるわけ。まあ、パイが極端に小さくなって、競争が激化しているようよ。足の引っ張り合いと言えばかっこいいけど、実は血で血を洗う生き残り戦が繰り広げられているのよ。表に出ないだけよ」 向坂は、芸能界通の知識で推理して見せた。「売れっ子タレントを押しのけて、のし上がるための権力闘争っていうと、大げさかしら。マネジャーの仕事は芸人さんのスケジュール管理、私生活にも踏み込むことがあるって聞いたけど」「そうね、最近はあまり私生活の面倒まで見るというのは聞かないけど、あるわね。殺人犯が赤い傘の女だとすると、殺された澤田マネジャーの担当芸人かタレントかもしれないわね。問題は直接的な動機だけど」 婦人警官の向坂は言った。「ひき逃げされた歌手の光岡瑠偉さんも、確か澤田さんがマネジしていたわね。光岡さんは何かを知っているのではないかしら」「パパの聞き取りでは、光岡さんはまったく思いもよらないということだったの。ただ、事件直後光岡さんも気が動転していたことのことなので、何かを思い出してくれるのではないかと、期待はしているんだけど。もう少し焦点を絞って聞いてみる必要がありそうね」 蜜柑がため息をつきながら言った。 原宿のホテルでのさわやかな目覚めに、真佐子は電話の相手を確信して、「はい、真佐子です」と言って、仲村の声を期待した。ところが出たのは蜜柑だった。「今夜、横浜のレストランでお食事する件ですが」と言って、蜜柑はその場所と名前を告げた。「仲村先生がよく知っていると思うので、ご一緒にいらしてくださいね」 用件だけ告げて、蜜柑は電話を切った。すると今度は仲村から電話が入った。真佐子は気を取り直して、原宿の駅前で待つという仲村の言葉を事務的に聞いた。仲村の声のトーンが妙に事務的だった。二十四 アガサ・クリスティ― 仲村は、真佐子と会う時間を利用して、ミュージシャンの光岡瑠偉と会うことを考えた。と言っても光岡とは面識がなく、いわば、いちファンに過ぎなかった。しかし用件を正しく伝え、誠実に申し出れば、面会を拒否するようなことはないと確信した。事件の直後に、光岡のフェイスブックにアクセスし、フォローして友達申請をしたら、礼儀正しく「よろしくお願いします。新曲を聞いてくださいね」といった返事が来ていたから、いまとなって時間が経過しているけれども、思い切ってメッセンジャーにメッセージを送ってみることにした。メッセンジャーは、会話内容を他人に知られることはない。「個人的な会話ですみません。私、西教大学の仲村と申します。単刀直入にご用件を申します。甲州街道でのあなたの事故のことです。心配していましたが、復帰できて何よりです。新曲も気に入っています。ところで、神奈川県警の夏警部と娘さんの蜜柑さんは親友です。少々伺いたいことがあるのです。あなたや事務所に決して迷惑がかかるようなことではありません。もう一人の女性のファンとお目にかかりたいのですがいかがでしょうか。東京都内におります。」 仲村は率直に用件を告げた。すると、すぐにメッセンジャーに返事がきた。「仲村先生のことは存じ上げております。エンタメ関係の研究をされているということで、雑誌記事を拝見し恐縮しております。こちらこそお会いして、ご指導賜りたいと思います。最近、事故のことで思い出すことがあります。時間と場所を指定ください。」 誠実な人柄が出ている。仲村はさっそく会うことにした。「お忙しい中、ありがとうございます。それでは新宿京王線の改札口でいかがでしょうか。午前11時では」善は急げと返信した。「はい、事務所の打ち合わせで渋谷へ行きますので、ご指定の場所と時間で承知しました。何なりとお尋ねください。」 若者らしい屈託のないメッセージだ。夏は、このミュージシャンは伸びると確信した。 真佐子に電話を入れた。「はい、よく寝れたわ。あなたの夢も見なかったわ。ぐっすりよ」と、相変わらず減らず口を聞いている。若いころからそうだったが、言葉に棘はない。「十一口駅前で光岡瑠偉さんと会います・・・その通りです。夏警部にはお世話になっていますから。ひと肌脱ごうかと思って。真佐子さんにも知恵を絞ってもらいたいと・・・」「そんな予感がして、母にうそをついて東京へ来たのよ。いよいよ私の出番ね」 蜜柑の、アガサクリスティ―顔負けというお世辞が利いている。「アポは十一時なので、十ルへ行きます。チェックアウトを済ませておいてください。」 仲村は電話を切った。「いよいよ事件解明の方向へ舵が切られたわ」 真佐子は満足げに微笑んで電話をしまった。二十五 赤いイヤリングの夢 真佐子は何を着て行こうか迷った。昭和レトロな感じで仲村の前に現れたのには理由があったが、今のところ仲村には分かっていない。事件の捜査に関心が向いてしまったので致し方ないが、昭和四〇年代の初め、自分がまだ一五、六歳の頃に流行った服装を着れば、何か記憶が戻ってきはしないか、仲村が何か思い出しはしないか、過去の事実に向かう何かのきっかけになりはしないかと、古いファッション雑誌を古本で調べてしつらえたいでたちに、今のところ仲村は反応しない。というよりも何か好奇心の目で見ている。真佐子は苛立たしかった。しかし、ここは事件の方を優先することにした。しかし、「真佐子さん、お似合いですよ」 つり革を一つ空けてつかまり、仲村は新宿へ向かう山の手線の中で言った。真佐子は黙っていた。「あの頃流行っていた服装ですね。なんだか懐かしいです。あなたも制服じゃない時は、ちょうど今くらいの丈のギャザースカートでした。上はいつも白色のブラウスだったと思います。でもこれまで何度も話したように、あなたが就職してからは知りません。会社へ行っても会ってもらえなかったので」 仲村は真佐子と距離を取って言った。「気づいてくれたのね。嬉しいわ」 真佐子は景色を見ながら答えた。男はすぐには反応はしないが必ず見ていてくれる。亡くなった亭主もそうだったが、仲村もそうだだと分かって安心した。田舎の漁港で日々を送っている真佐子の目には、首都の見るもののすべてが珍しい。東京は人の住むところではないと日頃思ってはみても、こうして大都市の人たちと一体になってみると、不思議なもので、住んでいる人たちの目線になる。 仲村は、新宿駅へ着くと見慣れた京王線の改札口の方へ真佐子を案内した。光岡瑠偉との約束は十一時だった。少し時間があったが、改札口で待つことにした。「やあ、仲村先生ですね」と、長身の若い男性が声をかけてきた。やや長めの髪に、ラフなカジュアルに身を包み、軽快なスニーカーを履いている。テレビで見る光岡瑠偉その人だった。感染対策がしっかりした喫茶店があるというので、真佐子と仲村はしたがった。「夏警部から事故のあとに事情聴取を受けて、特に思い当たることはないとお答えしたのですが、実は僕も気になっていて、あれから事故の、いやひき逃げの夢を見るようになって、運転手の顔がぼんやり浮かび上がって来るのです。もちろん夢の中のことです」 光岡は、注文したアイスコーヒーをストローで吸って言った。「そうなんですか? 夢とはいえ、光岡さんはぶつかった瞬間に運転手か助手席にいた人を見たのかもしれませんね」 仲村が先を促した。「ええ、そうかも知れませんね。あの横断歩道はいつも通るのですが、割と明るい照明があって、新宿方向つまりセダンが急発進して向かって来た方向を照らしていたのです。僕はボンネットにはね上げられ、車の屋根の上を転がり、後ろへ落ちたのです。着地がちょうど柔道の受け身のような格好になったので、比較的軽症で済んだのですが、打ちどころが悪かったらと思うとゾッとします。」「人の顔に何か特徴は?」 仲村は手がかりを引き出そうとした。「残念ながらどういう顔とか、男か女かとかそういうのではなくて、ただ夢の中の冷たく凍りついたようで、薄気味の悪い顔が夢に出て来るのです。赤いイヤリングが揺れているのです。夢なんですが」「このことは警部に話しましたか?」「いえ、夢のことなんで、捜査を撹乱してもと思い、しかし、今になって気になってきて、それで仲村先生からメールをいただいたというわけです」 光岡は、不安げな表情を浮かべて言った。「それからもう一つ、ワールド・プロダクションが事件の直後に倒産したことはご存じでしょうが、僕は実はそのことを察知していて、前から声をかけてくれていたSyouwa-retro プロダクションへ移籍したのです」「ええ、存じています」「で、その新しい事務所で聞いた話なんですが、閉鎖したワールド・プロダクションは、新装オープンしているのです。アジア・エンタテーメントという名前です。社長以下事務スタッフはそのままで、所属芸人・タレントは大幅に入れ替わっているのです。これだけならよくある話なのですが、大坂のドリーム・リサーチプロダクション、社長さんが確か鳥取の海岸で殺害された、ここから数名移籍したタレントがいるようなのです。誰なのか、確認はしていないのですが、聞けばわかると思います」「そうですか、いや驚きました。ドリームの社長は殺害される前、横浜港の事件を気にしていて、奥さんに新聞の切り抜きを作るように、鳥取からメールを送っています。」「やはりそうですか」 光岡は宙を見るようにして言った。「これだけなんですが、なにか参考になるでしょうか」 光岡は真剣な表情で言った。「私も、実は若いころにバスの事故で大けがをして、人の顔が浮かんでは消え、悪夢にうなされていたのですが、その夢が手掛かりになって、バス事故を引き起こした過激派の犯人が、三〇年以上も経過して逮捕されたのですよ。赤いイヤリングはきっと手掛かりになると思いますわ」 と言う真佐子のほうを気にしていた光岡が微笑んで、「ああ、自己紹介が遅れてすみません。光岡です。ええ、僕もそう思います。何か手掛かりになるようなことがわかったらすぐに連絡します」と頭を下げた。返す返すも、律儀な青年だ。「私こそご無礼を、私は仲村の幼馴染の真佐子と申します。コロナが終わったらライブを聞きに行きますから、招待状をくださいね。本物のライブですよ、四角い箱の中じゃなくて。」と、言いにくいことを平気で言う。「ええ、きっとご招待します。今新曲を作っていて、こじんまりとした発表会をやろうと思います」光岡は、はははと笑った。仲村は苦笑いをしている。「花束を持っていきますからね」と、真佐子は調子に乗っている。二十六 ヨハネの黙示録 横浜中華街の個室のある店に全員が集合したのは、午後六時半だった。外はまだ明るい。相次ぐ緊急事態宣言の影響で、シャッターを下ろしている店もある。夏警部と蜜柑、仲村と真佐子は、二回のワクチンを接種していた。歌手の藤堂麻里矢と私立探偵の山梨玲子、それに麻里矢のマネジャーの幸田友里恵は、まだ一回の接種だった。この中華料理店では、検温と簡易検査を行っており、まず先に食事をして、マスクをつけてから会話に入る。油断は禁物だ。 真佐子は、私立探偵の山梨玲子と藤堂麻里矢、マネジャーの幸田友里恵を知らない。飲み物が来るまで簡単な自己紹介をした。真佐子は、都会の人間ばかりが集まった会合に、気が引ける思いがした。仲村をちらちらと見ている。 仲村が新宿で、今しがた会ったばかりの歌手の光岡瑠偉の近況と、彼が最近夢に見るという、彼をはねた車の中の赤いネックレスの女性のこと、光岡の移転先の事務所の情報で、被害者の澤田研一マネジャーがいたワールド・プロダクションが、名前をアジア・エンタテーメントと変えて再出発したこと、そこには、大阪のドリームリサーチ・プロダクションから、数人の移転があることを紹介した。そして、その三人が山城、倉橋という女性タレントと江島という男性芸人だと分かったという、光岡からの情報を紹介した。 山城は大学教授でありながら、テレビ出演も行ういわゆる「タレント教授」、倉橋はモデル出身のタレントで、転籍のいきさつについては、調査中なので、いましばらく待ってほしいということだった。夏警部からは、特に捜査の進展はないが、ワールド・プロダクションからの移転者について調べている旨の説明があった。捜査情報の詳細は、つまびらかにはできない。 鳥取県警からは、その後の捜査で、殺害された大阪のドリーム・リサーチプロダクションの社長の君川敏夫が泊まったビジネスホテルで、品川ナンバーの車が目撃されており、中年の男女が目撃されていた連絡があり、殺人事件と関係がないか調べているとのことであった。白兎海岸の近くのコンビニに、ドリーム・プロダクションの社長が酒に酔って立ち寄った時に、目撃されたのは男性だということであったから、品川ナンバーの車の二人が事件にかかわっていたとしたら、重要参考人ということになるが、慎重に痕跡を隠している。 この車は、ナンバーが防犯カメラには写らない位置に止めてあった。チェックイン・アウトでのホテル側の記憶はあまり定かでなく、背は高かったというくらいだ。電話予約で、チェックイン時の住所氏名はおそらく架空のものだろうということであった。 山梨玲子は、被害者の澤田研一マネジャーの妻・淳子からの依頼で、彼が使っていたノートパソコンを調べていて、手がかりになるような痕跡はなかったが、澤田の妻からの連絡で、彼の遺品の本の間から、ボールペンで「黙示録 人形」と書かれたメモが見つかり、つい先日預かってきたと言うことだ。一同、山梨がファイルから取り出した小さなメモに注目した。蜜柑が、克明にメモを取っている。 ここで、食事が出されはじめ、一同食事に専念することにした。食前に示された様々な情報を各自が各様の推理を働かせ、相互の関連をつかむために質問を考えていた。その核心は、言うまでもなく山梨が、故人の妻から差し出された「メモ」で、「黙示録、人形」だった。 長い沈黙の時間が流れた。その静けさは「黙示録 人形」という、とりようによっては怪奇、スリラーの世界を彷彿とさせるもので、鳥肌が立つ感触を掻き立てるものであった。黙示録がこの世の終わりに際して、キリストの弟子のヨハネによって書かれた警告の書であるくらいは、全員に分かっていた。それと人形がどうかかわっているのか? 長い沈黙を破って仲村が発言した。全員がマスクを着用している。「このメモが挟んであった本のタイトルはわかりますか?」山梨が答えた。「はいこの本です。お回しします。奥様にお断りして借りてきました」と言って隣の蜜柑へ差し出した。「ヨハネの黙示録」と蜜柑が言って、順に閲覧に回った。メモは挟んである。四六版のハードカバーで、読んだ形跡が認められる。「澤田さんはなぜこんな本を読んでいたのでしょうか? それと、黙示録と人形は何かつながりがありましたか?」 夏警部が自問自答したように言った。「ええ、私も奥様に何かこのメモのことで心当たりはないかとお聞きしたところ、そういえば事件の直前のことで、仕事で使うかもしれないというようなことを言っていたということでした。人形については皆目見当がつきませんと言われました」と、山梨玲子が答えた。「事件の直前というと、昨年の7月以前のことですね」 夏警部が過去を振り返る様に言った。「唐突なようですが、澤田さんの仕事の関係で、なにか新しい企画が出て、それをメモに書いておいたのではないでしょうか。本を買っているところから、澤田さんは進んでこの企画を理解するとか、進めるために読んでいたとは考えられないでしょうか?」 藤堂麻里矢が思い付きで言った。「マネジャー仲間に聞いてみましょうか?」と幸田友里恵が言って、スマホを取り出し席を外した。この会話の中断したすきに、真佐子が、「人形って、鳥取県に人形峠という山があるわね。関係あるかしら」と、仲村の耳元にささやいた。「僕も同じことを考えていたんだ。でも、なんで黙示録なんだろう?」と、周りに聞こえないようにささやいた。この時、仲村の電話が鳴り、光岡からと分かって席を立たずに電話に出た。「いま、横浜に関係者が集まって話をしています。はい、ドリーム・リサーチ・プロダクションから、アジア・エンタテーメントへの移籍組についてどうでしたか? はい・・・はいそうなんですか・・・それで・・・そうですか。では詳しいことがわかりましたら。警察の捜査に任せたほうがいいかもしれませんね・・・ありがとうございました」 仲村はスマホをしまい、要点を伝えた。「失礼しました。光岡さんからなんですが、大坂のドリームから、東京の再起出発したアジア・エンタテーメントへの移籍3人は、江島という男性タレントと倉橋というモデル上がりのタレントは、以前から待遇面でドリームに不満があり、移籍を希望していたが、ちょうど山城が転籍するときに誘われるようにして、そろってアジア・エンタテーメントへ移籍したそうです。山城はフランス留学から帰国し、大坂の大学へ学位論文を出して、それが評価されて大学へ収まったらしいのですが、中央の晴れ舞台を目指していろいろ運動をやっていたらしく、どういう縁があったのかはわからないらしいのですが、新規再出発のアジア・エンタテーメントへ移籍ということになったらしいのです。光岡君は自分にも責任があるので、もう少し調べてみるとのことでした」 一同は、思い思いの推理を巡らしている。 メモを取っていた蜜柑が口を開いた。「とにかくこのコロナ禍で芸能界は仕事が減って困っていると聞いています。あらぬスキャンダルを捏造して売れっ子タレントを貶めると言ったこともあると聞いています。根拠はないのですが、今回の事件にもそういう影が見え隠れするのですが、飛躍でしょうか?」 蜜柑が控えめな発言をした。二十七 仮説の仮説 会食の席を離れて、電話で「黙示録 人形」のことを業界通に聞いていた幸田友里恵が、テーブルに戻ってきて言った。「黙示録というのは、大坂のテレビ局が、3年ほど前に動かそうとしていたバラエティ番組の企画で、何と当時のワールド・プロダクションに声掛けが行われていたそうなのです。ワールドプロダクションでは、正式に社の方針として、この企画の具体化のため、人選も含めた検討をしていたというのです。詳細はテレビ局とワールド・プロダクションの企業秘密ということですから、部外者にはわからないのですが、こういう話はどうしても漏れてしまうのですね。 うちの事務所のかぐや姫の社長の話ですが、なんでも予算は破格で、惜しみなくつぎ込むといった景気のいい話だったそうです。よほど有力なスポンサーがついたのでしょう。コロナ感染の前の話ですから。だった、というのは、何らかの原因で、この企画がとん挫してしまったからだろうと社長は言うのですが、詳しいことは再出発したアジアエンタテーメントの社長に聞けばわかるのではないかということでした。」 幸田友里恵が緊張した面持ちで言った。「ありがとうございました。ひとつ聞きたいのですが、一つは大阪の何というテレビ局か、もう一つは、そういう場合、企画を検討していけるとなると、人材を募集したり、他社からの応援を依頼するといったようなことはあるのですか?」 夏警部が聞いた。よい質問だった。幸田友里恵はちょっとためらったが、「大阪第一テレビです。人材の募集のことは、一般論ですが、具体的になるとオーディションの開催などで、発掘することもありますし、お尋ねのように他社への協力依頼ということも考えられます」と答えた。藤堂真理矢が相槌を打っている。「ワールドプロダクションが大阪のドリームプロダクションへ協力依頼の話を持っていった可能性はありますか?」 夏警部がさらに聞いた。しかし、これはあまり良い質問ではなかった。根拠のない仮定のうえの質問だからだ。幸田友里恵は、「何か依頼しなければならない理由があれば、考えられると思います」という答えを引き出してしまった。しかし、夏警部の脳裏にはある仮説の仮説がよぎった。娘の蜜柑も同じことを考えていた。「光岡瑠偉さんの夢に出るという女性の赤いイヤリングですが……」と言って、真佐子は途中でやめてしまった。「田舎者」という引け目を感じる。「真佐子さんは若いころに交通事故にあって、回復してからよく夢を見たそうなんですが、その夢に出てくる人が、交通事故の相手だったんです。一時的な記憶喪失になって、でも脳裏のどこかに残っているんですね。その夢の中に出てくる人相などが手掛かりになって、警察が協力して犯人が見つかったのですよ」と、仲村は少しぼかして、真佐子の言おうとしたことを一同に伝えた。真佐子はほっとした。「私も同じことを考えていたのです。女性で赤いイヤリング、何か手掛かりになるかもしれませんね。横浜のホテルの前の海岸で事件が起きた時にいた女性は、赤い傘をさしていましたし、この人が女性だとしたら、車の中にいた人も女性で、好みの赤のイアリングをしていたと考えることはできます。一致していますね」と、二人をフォローした。「赤色の傘、女性、赤のイアリング。この女性がカギを握っていることは間違いないと思います。ただしこの女性が本物の女性だとして」 夏は、事件の解明に薄日が差した思いがした。「それにしても、澤田研一さん、光岡瑠偉君と、ドリームの君川俊夫さんはなぜ狙われたのでしょうか?」 夏は、深いため息をついた。誰もが同じことを考えていた。 二十八 巨大な陰謀 夏と蜜柑は、仲村と真佐子をJR石川町の駅まで送っていった。時計は8時を回っていた。「今日はいろいろ収穫がありました。私たちもコロナ感染にかまけてさぼっていないで、一気に攻めようと思います」と夏が言い、「黙示録、赤いイヤリングの女、タレントさんたちの移籍、鳥取のホテルに品川ナンバーの謎の中年男女、移籍組は名前まで判明しました。いろいろ糸口が見えてきました。鳥取県警にもはっぱをかけます」 蜜柑が言った。「そうですね。ヨハネの黙示録は私も持っているので、さっそく読んで見ます。私のつたない知識では、黙示録は、西暦95年ごろですか、ローマの迫害下にある小アジアの教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書というか、小説みたいなものではなかったかと記憶しています。確か、大学の授業で習ったように記憶しています。この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利といった、預言的内容が象徴的表現で描かれていると。破滅的な状況や世界の終末などを示したものでした。本にも出てくるハルマゲドンは、地下鉄サリン事件を起こした麻原彰晃がでっち上げた終末論でしたね。でも、なぜこんなものが芸能界で取りざたされるんでしょうね」 仲村は、真佐子のほうを見ながら言った。「大阪のテレビ局に聞くと分かるわ。私、大坂に行きたいわ」と真佐子が言った。「これは警察の仕事ですよね」 仲村が制すると、真佐子は仲村の脇腹をつねった。「もう、せっかく大阪を案内してあげようと思ったのに」 真佐子の機嫌が傾いた。「真佐子さん。ここは私たちに任せてください。危険が及ばないとも限らない。蜜柑をさっそく大阪府警に行かせますよ」と、夏警部が仲村の顔を伺うように言った。「僕は、しばらく黙示録をじっくり読んで見たい。いまインターネットで検索したら、ヨハネの黙示録の主要舞台のバビロンについてこのような説明がありました。事件に関係はないかもしれませんが、読んでみます。バビロンは、イラクにおけるユダヤ人コミュニティーの起源ともなったが、このように、ユダヤ教の成立過程に深く関わったバビロンは、ユダヤ教やその系譜を引くキリスト教において正義の対抗概念のイメージであり、さらにイザヤ書とエレミヤ書の預言と新約聖書のヨハネの黙示録(ヨハネへの啓示、啓示の書)の故事から、ヨーロッパなどのキリスト教文化圏においては、退廃した都市の象徴(大淫婦バビロン、大娼婦バビロン)、さらには、富と悪徳で栄える資本主義、偶像崇拝の象徴として扱われることが多い。以上ですが、大変なことですね。まさか、東京が現代のバビロンだというのではないでしょうね。テレビ局の企画がわかったら、何か、澤田さんがなぜわざわざ本を買って、メモを挟んでおいたかわかるような気がします」「意外とそんな世界が背景にあるのかもしれませんね。だとすると危険が伴います。くれぐれも慎重にお願いします」と夏が言うと、真佐子は、「あら、あなた方私たち女をばかにしているのね。漁船で日本海の荒波と戦ってきた女の底力を見せてくれるわ」と、不満をあらわにする。 仲村が、JRの乗車用のプリペイドカードを取り出した。真佐子が蜜柑の耳元へ何かをささやいている。真佐子と仲村は階段を上りホームのほうへ消えていった。手を振っている。 原宿の昨晩と同じホテルが取れたので、仲村はホテルまで送っていった。「私明日帰るわね。あなたに迷惑がかかってもいけないし。今回はたまたま軽い気持ちできたし・・・」 真佐子は別れ際に言った。「せっかく来てもらって、どこか楽しいところを案内できればよかったのですが、つまらないことに巻きこんでしまって、申し訳ないです」 仲村は腕時計を見ながら言った。「そんなことないわ。私とっても楽しいの。蜜柑ちゃんが大阪へ連れて行ってくれるっていうし、大坂じゃきっと有力な手掛かりがつかめると思うわ」「まさか、大阪府警へ?」「そうよ。明日品川駅で待ち合わせになってるから、見送って頂戴ね」「え、もうそんな約束まで?」「そうよ、女同士、遊ぶ計画はすぐにまとまるのよ」「遊びじゃないですよ」「わかってるわ。その足で湯玉へ帰るから安心して頂戴」「真佐子さんにはまいるなあ」「一人にしてごめんね。私がいないと寂しいでしょうけど、お利巧しててくださいね」 また勝手なことを言っている。しかし、仲村はいつか真佐子が中学校の3年を終わるころ、どこかできっとこんなことを言っていたような気がした。一つ一つの会話や場所を思い出せるほど、記憶は明瞭さをとどめてはいなかった。流れた時間の川は、一つ一つの記憶のシーンを大海へと流していったのだ。そんな薄れた記憶の集積に、何か見えない楔のようなものが、強引に撃ち込まれたのだとも思ってみたりした。自分も真佐子もその楔が何であったか知りたいのだと思った。 二十九 愛の遊びごっこ 翌日、仲村は真佐子を品川まで送ったが、仲村もまた静岡へ帰ることにした。『ヨハネの黙示録』は、静岡の自宅に置いてあった。大学は夏休みに入り、少し骨休めをしたいとも考えた。静岡に停車する新幹線が来たので、蜜柑と3人で自由席に乗り込んだ。満席とまではいかないが、大勢の人が乗っている。 前日、真佐子に知らせておいたので、蜜柑も承知で、真佐子と仲村を窓側に座らせ、蜜柑は通路側に座った。ワクチン接種を二回終わったものでも感染するケースが増えており、外国では3回目の接種が行われるようになってきていた。ブレクスルー感染にブースター接種というらしい。 新型コロナがはやりだしてから、感染症対策の後進性からくるのだろうか、やたら英語が出てくる。パンデミック、ステイ・ホーム、ウィズ・コロナ、ロックダウン、アナキラーゼ、ブースター、コバックス、ブレイクスルーなどなどだ。パラオキシメーターに至っては舌をかむ。ファイザー、モデルナ、シノバック、ジョンソン&ジョンソン、スプートニクVなどのワクチンに至っては、覚えきれない。敵国語を使ってはいけないという太平洋戦争時の国策が嘘のようだ。 二回打っても重症化はしないものの、感染したら人に移す可能性もある。未接種の若年者への感染が急速に広がっている。病院もひっ迫してきており、東京には酸素ステーションも設置され、医療体制を必死で防衛しているかに見えるが、明らかに「命の選別」が行われている。ある往診専門のクリニックの医師に言わせれば、高齢者は回転が速いから、看取りのために優先して入院でき、酸素濃度が低下した若い人が後回しになる。 三人とも不織布のマスクをして、必要なこと以外は会話はしない。蜜柑が携帯のメモ帳に用件を入力している。すかさず真佐子もメモで答えている。犯人と戦うには、こちらがまず健常でなければならない。うとうとしている仲村の耳元に真佐子がささやいた。「あなたと道頓堀りを散歩したいけど緊急事態じゃ無理ね。今度つれてってね」「収まったらね」と、仲村が面倒くさそうに答えると、またわき腹をつねっている。「君が中学生のころ、よく腕や腹をつねった。すね毛を引っ張ったこともあったよ」と言うと、調子に乗ってやる。蜜柑が笑っている。蜜柑は幼いころ母親を亡くし、父親の手ひとつで育てられたものだから、夫婦仲というものを実感としては知らない。結婚願望がないのも、過去の記憶のせいかもしれない。目の前の二人は、いろいろわけあって「幼馴染」だという。とはいえ、恋人同士のような二人を見ていると、なぜか心をくすぐられる。 蜜柑にもつき合っている男性はいるのだが、こういう時、なぜかその男性のことを思い出す。優柔不断なところは仲村に似ている。真佐子とて、二十歳までのもっとも多感で波乱に満ちた青春時代の思い出が事故で消えていることが口惜しい。「愛」に対する応答と「愛」の発露の所作が記憶から消えているから、ぎこちない遊びごっこのような触れ合いになる。仲村が快く受け入れてくれるから、これでよいとは思うが、本当は違うのだと思う。 新幹線は、静岡駅のホームで、列車追い越しのためしばらく停車していた。真佐子が、列車から降りて何か世話を焼いている。ミニスカートと、髪の毛を束ねたイスラム教徒の女性のようなスカーフと、太いベルトにタイトな白いブラウスは、まるで昭和のストリートガールのようだ。 ドアが閉まるといけないからと、仲村が真佐子を列車に押し込む。座席に戻り、子どものように大げさに手を振っている。周りの人たちは、この二人を一体どういう関係だと思うだろうか。蜜柑は手を振りながらそう思った。 大阪府警に出向いた蜜柑は、刑事課であいさつをした。真佐子を県警の資料課アシスタントと紹介した。神奈川県警からとあって、刑事課長が応対し、捜査のあらましを説明した。鳥取県警とは連絡を取っているとのこと。鳥取県警の若い滝川刑事が、ドリーム・プロダクションの君川俊夫社長が投宿した鳥取市内のホテルに、君川が殺害された日の次の日に停まっていた、品川ナンバーの車の目撃があり、足取りを追っているとのことだった。 ナンバーがわからず、白いセダンだということだけで、今まで情報は限られてはいたが、山口県と島根県との県境辺りのコンビニに、品川ナンバーの白い車が停まっていたという情報を得たという。乗っていた人物はわかないが、「コロナ禍で移動が自粛されている中、遠くからきている」と記憶にとどめている人がいたというのだ。それ以外のことはわからないという。ちょうどその駐車場で撮った記念写真の日付から、7月12日だと分かり、この日は白兎海岸の事件の翌日にあたる。滝川刑事はこの車だと確信したという。 島根県警の手を煩わせるのもはばかられるので、目下、滝川刑事が捜査範囲を拡大して、更なる情報がないか調べているということであった。社長が殺害されたあとは、息子の君川翔がプロダクションを切り盛りし、コロナ禍の中、経営は厳しいものの、何とか回しているということだった。ドリーム・プロダクションから、三人が東京のワールド・プロダクション改め、アジア・エンタテーメントへ移籍した件は、府警としても承知しており、ドリーム側へ捜査の攻勢をかけたが、明確な手掛かりはないということであった。「横浜港で殺害されたマネジャーの澤田さんの黙示録という本から、黙示録、人形と記したメモが出てきたのですが、何か手掛かりはないでしょうか」 蜜柑が訪ねたが、「初耳です」という答えだった。「山口県と島根県の県境のコンビニですが、道の駅 ゆとりパークたまがわではないでしょうか? 県境と言っても、だいぶ山口県に入ったところですが」と、真佐子が聞いた。真佐子は山口県の湯玉に住んでおり、県境の日本海側は自分の庭のように知っている。亡くなった漁師の夫と、遊びでよく行ったところで、海は漁で連れて行ってもらったことがある。「おっしゃる通りです。申し訳ございません。駐車場に品川ナンバーの車があるので珍しく思い、スタッフが覚えていたらしいのです。滝川刑事の調べでは、防犯カメラからは距離がありすぎて、ナンバーは確認できないということでした」「横浜の殺人現場もそうなんですが、犯人はカメラには注意しています」 蜜柑が言った。 大阪府警は、大阪城の西にあった。二人は確かな手ごたえを感じて府警を後にして、ドリームプロダクションへ向かった。アポは取ってあった。府警の女性警官が車で案内してくれた。感染に神経を使っている。「デルタ株は怖いですね。マスクをしていても、電車の中では簡単に感染してしまいますから」と、婦警は大げさに言ったが、蜜柑も真佐子もその通りだと思った。 三十 視線の乱れ ドリーム・プロダクションは、大阪府警から車で15分くらいのところにあった。近くにはテレビ局があり、ほかでもない大阪第一テレビだった。情報を固めてからテレビ局を攻める作戦だ。蜜柑は胸が高鳴るのを覚えた。黙示録のことを知っている仲村教授がいればいいのにと思ったが、いざとなったら真佐子に連絡を取らせればよい。「鳥取県警と同じことを聞くかもしれませんが、お父様が殺害されるに至った理由に、本当にお心当たりはありませんか。どんな些細なことでもいいのです。この間、新型コロナの感染拡大で、エンタテ―メント業界が苦境に立たされている中で、東京のドリームプロダクションは、社名をアジア・エンタテーメントに変更し、御社から3人のスタッフを受け入れて再出発しました」 ここで、新社長の君川翔の表情がやや変わった。「3人の移籍に関しては、かねてより移籍の希望があり、話し合いにより円満に移籍手続きか終わりました」と、社長は平静を装って言った。「理由はどういうことでしたか」と聞くと、「前々から東京で活躍したいと思っていた、ということだったので、こちらも引き留めもせず退職になったと、先代の社長から聞いています」と、やや動揺した感じで答えた。蜜柑は何かあると思った。「ところで」と、蜜柑が詰め寄った。「ヨハネの黙示録に関して、何かご存じではないですか」 社長は明らかに動揺しているが、「ええ、テレビの企画で、確かコロナ感染の前の年に、地元のテレビ局から、当時のワールド・プロダクションへ持ち込まれた企画と承知しています」と、平静を装った。「どうしてご存じなんですか?」と、蜜柑が聞くと、「先代の社長から聞いたのですが、何かわけのわからない企画らしい、終末の世の中でもないだろうと、こんなに景気がいいのにと笑っていました」 移籍した山城さん、倉橋さん、それと江島さんはどんな方でしたか?」「どんなと言いますと?」 新社長は、わざとらしく聞き返した。「質問がよくなかったですね。素人なので、得意な分野とか将来めざしていたような役柄と言いますか」「山城さんは大学教授なので、政治・社会時評を主に担当していただきましたが、大阪にいるとやはり生の情報が入手しずらいので、本業の研究もそうで、霞が関の生の情報を取材したいのだと、つねづね言っていました。倉橋さんは月並みなのですが、モデル出身なので役柄が自分の体に集中して、もっと幅広い演技力を身に着けるためには、仕事の幅を広げなければいけないということでした。歌手の江島さんは、雰囲気が昭和を連想させるものを持っており、所属する事務所に心当たりがあるというようなことを言っていました。移籍先のアジア・エアンタメのホームページに紹介がありますが、だいたい同じようなことです」 と淡々として、意外に丁寧な説明をした。引き抜きに関しては、あまり、わだかまりはないのだろう。落ち着きのなさは、ほかに原因があるのだろう。「先代社長さんの殺害は、ご存じだと思いますが、横浜港での澤田研一さんの殺害と関係はないでしょうか?」と、ズバリ核心を突いた。案の定、新社長の目線が左右に揺れた。刑事はそのような瞬間的な心の動きを見逃さない。しかし、相手の脳裏を走る実像までは覗けない。虚像から推測するしかない。横浜港殺人事件について何か知っている、と蜜柑は思った。鳥取県警の聞き取りに対しては「何も思い当たるところはない」と答えている。先代社長の妻も同じように答えている。しかし、鳥取の白兎海岸で犯人と車で一緒にいたことが、横浜港殺人事件と何らかの関係があることは、妻にこの事件の新聞の切り抜きを作らせているところから明らかだ。「お父様は、横浜港の事件の関係者をご存じだったのではないでしょうか。あるいは何か重要な事実をご存じだった?」 蜜柑は吹っ掛けてみた。「私もその点はずいぶん考えて、社内のスタッフや母親に聞いてみたり、遺品の整理で何かないか注意したのですが、何もないのです」と答えるが、視線が微妙に乱れている。蜜柑は、鳥取県警の滝川刑事と同様、何か隠していると確信した。「先代の社長さんは、横浜港の犯人に心当たりがあって、・・・それでその犯人はお父さまを呼び出した。そしてお父さまは何かを要求した。犯人は困りますよね」と、真佐子が思いつきを言った。若社長の表情が変わった。「いったい何を根拠に。わが社は、ドリームプロダクションとは何の関係もありませんよ」 新社長は怒った。蜜柑は、真佐子が言い返そうとするのを制した。「いえ、警察はあらゆる可能性を考え、その背景を探るのが仕事なんです。これまで、御社とドリームは一緒に仕事をしたりということはありませんでしたか?」と質問を変えた。「ええ、その点はご指摘の通りで、このパンフレットに共同作品が載っていますからご覧ください」と言って、蜜柑に分厚いカラーのパンフレットを差し出した。 三十一 Nホテル「すごいですね、真佐子さん」「え、何が?」「若社長、たじたじでしたね。両芸能プロダクションの間には何か関係があって、殺された社長と東京のワールドとの間には、今回の企画の件では、何か争いがあった。マネジャーの澤田さんの殺害に関しても、君川社長なりの推理で、ワールドが怪しいとにらんでいた。社長が奥さんに切り抜きを作るようメールで頼んだのは、事件の確認だったのではないかしら。白兎海岸へ呼び出したのがワールド・プロダクションだとして、では、なぜ君川社長を殺害しなければならなかったのか。真佐子さんの推理のように、何か法外な要求を突きつけるなり、殺されねばならない何かを仕掛けたのか、この辺が焦点になりそうですね」 蜜柑は、真佐子の推理に肉付けをして言った。「あら、私の推理は三文推理小説の受け売りで、思いつきですよ」と、真佐子は照れた。「そんなことはないですよ、真佐子さん。神奈川県警の採用試験を受けて、私たちと一緒に悪を懲らしめませんか」と、蜜柑は笑いながら言った。「あら年齢制限をはるかに超えてます」「特別枠というのはどうでしょう」と、蜜柑が言えば、「特命刑事というのはどうでしょう」 運転手の大阪府警の女性警察官が笑いながら言った。 車は、大阪第一テレビ局の玄関前についた。パトカーに気が付いて、受付の女性が飛び出てきた。三人は応接に通された。応対に出たのは報道局長と番組制作室担当者だ。「確かに当時黙示録という企画があって、ドリームプロダクションに相談した経緯があります。当時私は番組制作を担当していなくて、局内で共有されていたことの範囲を出ないのですが、確か、ここ大阪のドリームへもっていったと思います」「ドリームでは知らないということでしたが。もちろん息子さんの話です」「そうですね、先代の社長ならよく知っていたはずですが、いまとなっては・・・」と、一つ一つ思い出すように言った。「ドリームで検討する中で、この企画はなかなか重いところがあり、東京のワールド・プロダクションと共同企画になったというところまで私どもは承知しています」 当時の報道局長は言った。現在は参与の閑職にあるという。「なぜ、東京と共同になったのでしょうか」真佐子が訪ねると、「なんでも、企画が企画だけにドリームのスタッフでは限界があるというようなことだったと思います。そして、2020年に入り、新型コロナが流行し始め、企画は一時凍結されたといういきさつになっています」 番組制作担当者が言った。「この企画は、まだ生きているのですか?」 蜜柑が聞いた。「警察がお見えになるというので、当時の担当のものに聞いたのですが、企画の進行にやむを得ない理由で支障が生じた場合は、両者協議のうえ中止または継続を協議するとなっており、継続扱いになっているということです」と番組制作担当者が言った。「それでは再開ということになると、あなたのもとで共同企画が動き出すということですね」「その通りです。しかし、目下、東京も大阪も新型コロナの緊急事態宣言が出ていて、すぐにでも動かせる状態にはありません。今後の感染者数の動向次第だとは思いますが」 担当者は慎重に言った。「どのような企画内容なんですか?」 真佐子が思い切って聞いてみた。「ええ、こちらの意向としては、ヨハネの黙示録にある終末観、あるいは仏教の末世に照らして、現代日本をどのように見るかという、たいそれた企画となっておりました」 真佐子は、仲村がいてくれればと思い、ため息をついた。「お恥ずかしい話なのですが、いま申し上げた企画内容で、正直なところ突っ込んだ企画は、両プロダクションと詰めていく中で具体化しようということでした」 番組担当者は、頭を掻きながら言った。「この企画の発案は、前任の番組制作担当者ですが、実はある大学の文学部教授と懇意にしており、その大学教授、鮫島と言いますが、その方に聞くと何かわかるかもしれません。蛍雪大学の文学部で、まだ教授職にあると思います」 蜜柑と真佐子が立ち上げってから、部屋を出る間際に言った。「ありがとうございます。ワールド・プロダクションは、今、アジア・エンタテーメントに社名変更していますが、まず、ここをあたってから、鮫島ですね、教授からも話を伺います。我々のことを話しておいていただけると助かるのですが」 蜜柑は礼を言って、二人はテレビ局を出た。 大坂へ宿泊することは、総務課の許可を取っていた。「もしもし、パパ、大阪第一テレビの話では、やはり黙示録の話は、最初ドリームへもっていき、話し合いでワールド・プロダクションとの共同企画になって、そのあと感染症が急拡大したので、企画は事態収束まで延期ということになったみたい。山城、倉橋、江島の三人は、前々から移籍の希望があり、円満移籍となったそうです。はい、それと、この企画が第一テレビで出来た時に、担当者は同席していなかったのですが、蛍雪大学文学部の鮫島教授からいろいろとアドバイスを受けたようです。ええ、調べてください。仲村先生にも聞いてみます。ええ、真佐子さんにも質問してもらって、ドリームプロダクションは大慌てでした。ええ、何かを隠していると思います。……はい、ありがとう。こんばんは息抜きさせてもらうわ。真佐子さんは新幹線の駅の近くにホテルを取ってあるので、これから送っていきます。大丈夫よ食事はお部屋でするから。パパもね。はい、また連絡します」 蜜柑は、婦人警官にNホテルまで送ってもらうことにした。時計の針はもう6時を指していた。緊急事態宣言下とはいえ、新大阪駅前の人通りは帰宅通勤者で多かった。ワクチンを二回接種しているとはいえ、二回目から日がたつにつれて免疫力が低下することはわかっていた。また感染しても症状は重篤化しないとはいえ、他人に感染させる可能性がある。 真佐子は、山口県の湯玉で年老いた母親と息子夫婦、それに二人の孫と同居している。孫は小学生と保育園児だ。新型コロナウイルスのアルファ株は、もうほとんどデルタ株に置き換わっており、若年者への感染率が高く、症状も重篤化しやすい。新型コロナウイルスの感染は、高齢者や基礎疾患のある人たちから、若年者のステージへと変化した。 大阪の雑踏の中で、ウイルスを拾うわけにはいかない。予約したホテルでは、近所のレストランからテイクアウトの夕食を取ってくれるサービスがあり、蜜柑と真佐子は、チェックイン時に夕食を受け取って、ツインの部屋に入った。シャワーを浴びて遅い夕食をさあ、という頃はすでに午後7時半を回っていた。その頃仲村は自宅で「ヨハネの黙示録」に目を通していた。真佐子からメールが入った。「蛍雪大学文学部の鮫島教授が、ドリーム・プロダクションが大阪第一テレビから受けた黙示録の企画を手伝うように依頼されています。この企画は、感染拡大前にワールドへ委託されましたけど、ドリームと共同企画ということになって、いまは凍結状態で、感染が収まれば再開されるとのこと。山城以下二名の、ワールド・プロダクションへの移籍は、合意のうえということでした。ワールド・プロダクションとドリームプロダクションは、何か悪しき関係で結ばれていたか、ドリームプロダクションの社長が、ワールド・プロダクションの弱みを握っていたかもしれないです。女二人で、成果がありましたよ。私、刑事になろうかしら。真佐子さんと、これからお食事して事件のなぞ解きをするのよ。あなたも頑張ってね」と、いつもの調子で、仲村を苦笑いさせる。しかし、真佐子は母親の味を知らない蜜柑を思い、また蜜柑は仲村に代わって、昔の話を聞くことで、真佐子の記憶を手繰り寄せようという、やさしい思いやりがあった。一口の缶ビールは二人を母子にした。 三十二 恋愛談義「羨ましいわ」 缶ビールを、部屋に備え付けのグラスに移し替えて、蜜柑は真佐子に言った。「何が?」と、真佐子は一応聞き返して、グラスの半分を空けた。蜜柑は、あまりアルコールを嗜まない父親にはにずに、瓶ビールなら中瓶2本は軽く空ける。コロナ禍の中、アルコールを出す飲食店は皆無で、ここは捜査に便乗して、ストレスを発散させようと企んだところだ。「だって、真佐子さん、仲村先生と仲がいいんですもん」 眠くなったら、ベッドに潜り込めばいいし、明日の朝食は定食だけど、自炊をする必要もない。「私ってわがままでしょ、あの人、私に合わせてくれるんですよ。私っていい気になっているかしら?」 真佐子は、テイクアウトで取った餃子を、大事そうにつついている。「蜜柑さんも、いい人いるんでしょ?」 真佐子は、宿泊に誘ってくれた蜜柑の真意を察して聞いた。「ええ、まあ、いるにはいるんですけど、本気かどうかもわからないし」「どちらが?」「もちろん」「わたし」「当たり」 二人はどちらからともなく笑い出し、大声で笑った。「わたしも同じよ」 真佐子が続けた。もう、缶ビールの大瓶が空になっている。冷蔵庫から2本目を取り出して、並々と注いだ。「でもね、蜜柑さんと違うのは、ごめんなさいね、私たちの間には、明日がないの」 蜜柑には、この真佐子の「明日がない」という言葉が理解できなかった。でも理解できないままにした。「わたしには、仲村さんの家庭に踏み込む権利もないし、その資格もないの。そのつもりもないわ。でも、わたしが失った過去の一部を知っているのは、仲村さんだけなの。わたしにしつこく付き纏って、勤めていた会社の社員旅行のバスを爆破した犯人を突き止めてくれたのは、仲村さんです。わたしが14から15歳まで、恋人ごっこみたいなことをしていた頃のことを、彼は包み隠さず教えてくれるのよ。もしかして、記憶を取り戻すのではないかと。その度に、わたし人間らしくなっていくの。女らしくも・・・「羨ましいわ、それでみずみずしいのね」 蜜柑は口を挟んだ。「でもね、仲村さんは、大袈裟ですけど、なぜ、私たちが別れなければならなくなったのか、言ってくれないの」「真佐子さん、その秘密をわからないままにしておきたいのでしょ」「図星かもね」「分かってしまうと、お二人は会う必然性がなくなりますものね」「仲村さん、私の弱みを握っているのかしら」 真佐子は不安げな表情をした。「仲村先生は、そんな人ではないと思います。きっと真佐子さんの幸せを考えて」 蜜柑は、ふと脳裏に優柔不断な彼氏の顔がかすめた。「島根の海辺で偶然再会されて、鳥取砂丘でお互いを確認されたとか、パパから聞きました」「ええ、それはもう、半信半疑というか、心臓が飛び出るようでした」「でも、記憶は失われていたのでは。よくわかりましたね」「仲村さんのことは、姉から聞いていましたので。もしやと思い、私のイニシャルの編んであるハンカチを渡したのです」「再開する運命だった?」「そうかもしれませんね」「蜜柑さんも、出会いは神様がくれたものと思って、大事にしてくださいね」「はい、私もハンカチを渡します」「ハハハ」 真佐子と蜜柑が、酔いに任せて、おのろけを言っている間に、第三の殺人事件が実行に移されようとしていた。真佐子と蜜柑の会話は、深夜まで続いた。 三十三 路上殺人 風吹翔馬はCMの収録を終えて、自宅への帰路を急いでいた。マネジャーの車で、近くのコンビニまで送ってもらい、夜食を買い込み、自宅のマンションへ向かった。NHK放送センターの入り口が近くにある。コロナ禍のこういうご時世、途中、道草を食わないように、マネジャーからきつく言われている。感染でもしようものなら、契約によって進められているドラマの収録も中断し、放映予定のテレビ局に迷惑をかけてしまう。 半年連載のこのドラマには、風吹翔馬のこれからの俳優人生がかかっていると言っても過言ではない。大学在籍中から芸能界に首を突っ込み、いろんなことをやってきたが、目指すは俳優としての道だ。一時的な快楽よりも、長い人生の成功の道を選んだほうが良いに決まっている。コロナ禍に突入して1年半、中年の域に差し掛かった彼の年輪は、慎重な行動をとらせるに十分だった。 彼はダイヤモンド・エンタテーメントに所属していたが、近く、今の倍もある企画の話が舞い込んでおり、余計に慎重な行動が求められていた。彼はフリーエージェント宣言をしており、自分で仕事を取ってくることも可能だった。 コロナが、ワクチンの普及もあって、やや下火になってきたこともあって、近く新企画を動かすチーム会合が開かれることになっていた。苦労して手に入れたこの新企画へのチャンスを、逃すことはできなかった。中心はタレント、俳優、アーチスト総勢10数名で、毎週金曜夜のゴールデンタイムに、1時間のテレビドラマの企画が動き出す。「新黙示録 天国から愛をこめて」 というのが、企画段階の名称だった。この企画を我が物にしようと、もともとは関西のテレビ会社・大阪第一テレビ会社の企画なのだが、これを取り込もうと、地下でタレントの猛烈な売り込みが行われていた。その中に風吹翔馬がおり、強引な手口で主演の座を得るところまで食い込んでいたのだった。 風吹はこれから『黙示録』を読まなければならなかった。目の前の角を曲がり細い道を少し進むと、風吹のマンションがある。風吹はそのマンションの5階に住んでいた。細い道に入りかけた瞬間、濃い色のセダンが彼の背後から近づき、パワーウインドーを開けたかと思うと、拳銃の鈍い発射音がした。消音ピストルの弾丸が、風吹翔馬の心臓を貫通した。彼は路上に倒れ、抱えていた食料品などがあたりに散乱した。車は音もなく走り去った。 あたりに人影はなかったが、角の一軒家の二階の暗い窓に明かりがつき、住人が窓を開けて、鈍い音の方向を見た。街路灯の下に、人がうずくまっているのに気づいて、その住人は恐る恐る玄関を出て街路灯の下の物体に近づき、そして大声を上げた。 偶然通りかかった乗用車を止め、「人が銃で撃たれた」と叫んだ。運転手は車を降り、状況を飲み込むと、驚いてスマホを取り出した。五分もたたないうちにパトカーが駆け付けた。 渋谷道玄坂上の殺人事件は、朝刊で報じられた。蜜柑と真佐子は、新大阪駅前の、ビジネスホテルの朝食会場のテレビを見て、食事の手がとまった。「大変な事件です。詳細は分かりませんが、芸能人が殺害されたことと、テレビの字幕に出た黙示録の意味するところは、私たちが捜査している横浜港と白兎海岸の殺人事件との関連は明らかですね」 蜜柑は刑事の顔に戻った。仲村に会いに来たところが、素人探偵になりきり、捜査の一翼を担うことになり、真佐子は心ときめく思いがして嬉しかった。 今日は思い切って、第一テレビに「黙示録」の進言・助言をしたという、蛍雪大学・人文学教授の鮫島研究室を訪ねる決意を固めた。もしかしたら、第一テレビから連絡が入っているかもしれない。「寝込みを襲う」のが有効なことは、父親から「捜査の常道」と教えられたことであった。「真佐子さん、ここは一度ご自宅に戻って、また機会があったら仲村さんと一緒に横浜においでください」 真佐子と蜜柑は朝食を切り上げ、ビジネスホテルを出る準備に取り掛かった。真佐子には大胆な算段があった。新大阪の駅には徒歩で向かった。コロナ騒動どころではない、何かが動き出したと蜜柑は直感した。「この事件は、どうも大阪第一テレビが発案した黙示録が絡んでいて、最初にこの企画が持ち込まれた大阪のドリーム・プロダクションの社長が、白兎海岸で殺害された。どちらも神話や伝説めいた世界で、何か得体のしれないものを感じるわ。島根へ行くと鳴き砂伝説があって、平家と源氏の壇ノ浦の合戦で、危うく難を逃れた平家方のお姫様が、小舟で流れ着いた鳴き砂海岸があります。白兎海岸も因幡の白兎の伝承ですが、社長を殺害した男女は、島根県から山口県の県境まで足を延ばしています。私その場所に行ってみます。中年の男女が立ち寄ったとされる道の駅には、私の知り合いがいますから、何かわかるかもしれません」 真佐子の独り言のような言葉に、「おひとりでは危険が伴いますね」と、蜜柑が案じると、「大丈夫よ。仲村私立探偵を呼ぶから。どうせあの人は、大学は夏休みだし、静岡から飛行機で出雲空港へ飛んで、私が車で待ち受けるという方法があるわ。いつももったいぶって偉そうなことを言っているけど、私がいないと何もできないんだから」 真佐子は、自分に言い聞かせるように言った。蜜柑は吹き出しそうになった。蜜柑は遠い空を眺めるような目つきで言った。「捜査のほうは無理をなさらないでくださいね」 引き留めてもやめるような真佐子ではないことが、だんだんわかってきた蜜柑は、新大阪の改札口で手を振った。 三十四 捜査協力 渋谷道玄坂では、翌朝、本格的な現場検証が行われた。警視庁の刑事は、当然のことながら第一発見者の男性に対して事情を聴いた。わかったことはと言えば、午後10時過ぎ、消音銃のような鈍い音とともに、道路で人が倒れる音に気付き、もしやと思い外に出て、通りかかった車を止めて警察へ連絡してもらったということだけだった。ただ、その通りかかった車の運転手は、この上り坂の上からやってきた関係で、犯行後と思われる黒っぽい乗用車とすれ違ったというのだ。その乗用車はかなりスピードを出していたと答えた。 付近には防犯カメラはなく、幹線道路に設置されているカメラをリレー解析するしかなかった。担当者はさっそく作業に通りかかったが、深夜でもあり、バックナンバーの映像には期待できなかった。 被害者の心臓を貫いた拳銃の弾丸の特定を急いだ。警視庁では、この殺人事件が芸能人であるので、横浜港の殺人事件と関係があるのではないかと判断し、急拠、神奈川県警の夏警部を呼び、広域捜査の提案をした。アジア・エンタテーメントの光岡瑠偉のひき逃げ事件との関連もあった。 現場検証を終えて、警視庁に入った夏警部は、これまでの事件の展開と捜査のあらましを担当刑事に披露した。警視庁の刑事の関心を引いたのは、当然のことながら社名変更前のワールド・プロダクションのマネジャーで、殺害された澤田研一が黙示録のメモを書き残し、本まで買っていたことと、この黙示録が、大阪第一テレビから最初ドリーム・プロダクションに提示され、さらにさかのぼると、蛍雪大学の鮫島教授から提案があったという経緯であった。 ワールド・エンタテーメントの澤田のひき逃げと、大阪のドリームプロダクションの社長・君川が殺害されたのは、おそらくこのテレビ企画をめぐる何かが原因になったためであろうという夏警部の推理だった。さらに、夏は、この間、大阪のドリーム・プロダクションから、東京のアジア・エンタテーメントへ、タレント3人が突然移籍したことを付け加えた。今回、ダイヤモンド・エンタテーメントの風吹が拳銃で殺害された件に関して、夏の見方はこうであった。「おそらく、黙示録の企画が再浮上する中で何らかの利権が絡み、その主導権争いのようなものが、犯行への引き金になったのではないか?」 夏警部は、警視庁の刑事たちに説明し、さらに続けた。「目下、鳥取白兎海岸での殺人に関して、お隣の島根県で中年男女の目撃情報があり、民間人の協力で当たっているところです。拳銃の出どころと、風吹の身辺をあたるところで操作願えれば幸いです」 警視庁の刑事部長はこれを了承した。 三十五 鮫島研究室 蜜柑は真佐子を見送った後、蛍雪大学へ電話を入れ、鮫島教授への面会を申し入れた。総務課の職員は、警視庁からの面談と聞いて驚いたが、緊張した声で、「鮫島先生なら、今日は2限に授業があり、授業終了後昼休みに研究室にいらっしゃいます。ご案内しますから、総務課にお立ち寄りください」と答えた。構えられると困るので、「先生の専門的なお知恵を拝借したい」と、申し入れた。夏からは、「思い切って核心をつけ」と指示があった。ただ、総務課を通したのは、神奈川県警から教授に面会申し入れがあったことが大学側に知られるわけで、波紋が広がることを読んだからであった。その波紋の中から思わぬ手掛かりが出てくることがある。 蜜柑の頭の中には、ドリーム・プロダクションから東京のワールド・エンタテーメントへの3人の移籍者、山城、倉橋、江島の三人の中の、教授をしている山城に注目した。山城は中東の歴史が専門で、イスラム教に関する歴史的考察で、パリの大学から博士号を授与されている。イスラム教と言えば、その極端な思想にイスラム原理主義があり、アメリカニューヨーク貿易センタービルの爆破テロを企てた、オサマ・ビン・ラディンの背景思想だ。 蜜柑は、まさかとは思うが、山城に関してはその思想的背景も調べる必要があると思った。これは、仲村教授に頼んだほうがよい。いや、もう調べているだろう。当面は山城教授と鮫島教授との関係なのだが、ここは鮫島教授を直撃することで、明らかになると読んだ。「山城さんならよく知っていますよ」 鮫島教授は、銀縁の眼鏡をはずして蜜柑の質問に答えた。平然としている。「黙示録の企画については、別に私が提案したのではなく、人類学的な観点から感想を申し上げたくらいです。山城教授と大阪第一テレビのスタッフが、よく私の研究室に来て雑談をしたものです。ドリーム・プロダクションでしたか、社長さんが殺害されたことは、私も新聞で読みましたが、何も心当たりがありません。ただ・・・」と言って、鮫島教授は難しい顔になった。「社長さんが、一度研究室に来たことがあります。名刺を置いて行かれて、私は受け取った日付を書いておく習慣があるので、これですが、2019年3月となっています」蜜柑が身を乗り出した。「山城さんと二人で来たと記憶しています。彼女から紹介があったので、黙示録について私が知っている限りで、詳しく話してあげました。」 鮫島教授は、窓の外の木の葉を眺めながら言った。「山城先生が、元のドリーム・プロダクションから、東京のワールド・エンタテーメントへ移籍されましたが、ご存じでしたか?」と、蜜柑は意表をついて聞いた。鮫島教授の目線が一瞬乱れたが、平静を装って答えた。「いえ、その点は知りません。大学の教師と芸能プロダクションとの関係は、私にはよくわかりません」と、先手を打って答えた。「彼女は、東京の大学から招聘されて移ったと聞いています。優秀な方ですから」と付け加えた。「山城先生は中東の大学へは行かれていたでしょうか?」「はい、名前は忘れましたがイスラエルの大学に遊学されていたと聞いています。直接本人に聞いてください」「山城先生は赤色の傘をもっていませんでしたか?」「そこまではちょっと」「では、赤色のイアリングをしていませんでしたか?」 蜜柑は、歌手の光岡瑠偉が、彼をはねた車に赤色のイアリングをしている女性が乗っている夢を見ると言っていたのを、ぶつけてみた。「いえ、そのようなものは見たことはありません」と、鮫島は落ち着いて答えた。大学の女性教師が、授業や研究関係で、イアリングを飾ることはまずないだろう。鮫島は、私生活での付き合いを疑われたと思い、早々に否定したのだろう。蜜柑は、仮説ではあるが、鮫島と山城が私生活でつながっているのではないかという想定で聞いた。案の定、鮫島は否定した。それは、山城教授が赤い傘、赤いイアリングやネックレスを身に着けることがあることを警察が知っていると、鮫島に知らしめることになったであろう。だとすれば、警察が赤い傘、イアリングなどの着用に気づいていることを、山城に伝えることになるとの読みであった。警察が疑っていると、山城に必ず連絡がいくだろうと、蜜柑は確信した。それは、山城に会ってからの楽しみだ。 一方、真佐子は山口県の湯玉に戻り、勤務先の道の駅に顔を出し、秋野菜、果物までの端境期なので、引き続き休暇を取ることにして、仕入れの仕事もかねて、島根県境にある道の駅の友人を訪ねることにした。中年の男女が現れたこの道の駅周辺で、きっと情報が得られると考えた。大学は秋の授業が始まるまで、あと1週間ほどがある。感染が下火になってきたのでで、仲村を呼べばきっと来るだろう。いつか、仲村がこのあたりの海を眺めてみたいと言っていたのを思い出した。「もしもし仲村さん。蜜柑さんからの連絡で、大阪のドリーム・プロダクションと蛍雪大学の鮫島教授との関係が分かったし、山城教授との接点も見えてきたようなの。私、県境の道の駅に現れた中年男女の女性は山城教授ではないかと…」 真佐子は、仲村を誘い出そうと言葉を選びながら言った。まだ静岡にいた仲村は、「真佐子さん、僕も黙示録を読みながらいろいろ考えましたよ。実は、個人的な研究で出雲へ行くので、用事がすんだら、山陰本線で道の駅の最寄りの駅まで行きます。真佐子さんは車ですか?」「嬉しいわ。もちろん車よ。小さい車ですけど」「それでは、急な話ですが、明後日、出雲で用事をしますから、その次の日でどうですか?」「ええ、いいわ」と答えて、真佐子は胸がどきどきしてきた。 三十六 見えない絆 仲村もまた真佐子に会いたい気持ちになっていた。でもそれは、愛とか恋とかいう青いものではなかった。枯れたものでもなかった。むしろ色で例えるなら赤ーしかし恋の炎の赤ではなく、青春時代の燃える赤だった。誰にも青春はある。青春の血潮は青春時代に燃えて炎となり、完全燃焼をすれば、やがて加齢とともに沈下し、降り注ぐ加齢と年輪の雨によって鎮火し、炎は消えるか燃えてはいても、かつてのような輝きを失う。 燃え盛る炎の中で研究という仕事を見つけたのは、当時の社会状況もあったが、真佐子と付き合ったほんの2年間の出来事がそうさせたのだったが、いったん燃え始めた炎は、消えることはなかった。当時の社会状況を背景に、真佐子との出会いが上塗りをされて、その中で芽生えたものだった。 しかし運命のなせるいたずらとはだれが言ったか、言い得て妙なる表現だ。数年前、島根県馬路の海岸で偶然真佐子を見つけ、仲村が真佐子だと、また真佐子が大学生のころの仲村だと分からないまま、次の日に鳥取砂丘で会う約束をして、再開したその時、馬路の海岸で会った女性から渡されたハンカチに、真佐子という刺繡が縫ってあったことから、仲村は真佐子であると確信した。そして、真佐子も姉から聞かされていた仲村であると確信した。仲村が馬路の砂浜で鳴き砂の場所を探していると、背後から、「あっち、こっち」 と声をかけ、砂を踏んで鳴き砂の音を聞かせてくれた。仲村は、親切な人だなという以上のことを感じ、真佐子は何か懐かしいものを感じた。仲村は、その女性が乗っていた車のナンバーを頼りに山口県を必死になって探し、ようやく真佐子を見つけた。 その日からかれこれ3年が経過した。真佐子と仲村は鳥取、そして真佐子の生まれ故郷の島根の海岸で何度か会っていた。真佐子が中学3年、仲村が大学3年の頃であった。 島根と山口の県境にある海岸や道の駅は、仲村の記憶にない土地ではあったが、この見知らぬ土地で、もう一度過去を眺めてみることが、青春の灯を絶やさないように燃やし続け、真佐子の記憶を取り戻す機会になるのではないかと考えた。 真佐子は、二十歳までの記憶を失ったまま、早くに結婚し亭主と死別し、亭主の母親と子供、孫とともに暮らしているのだ。真佐子と別れなければならなくなった真の原因は何だったのか、真佐子にとってもそのことが命の炎を燃やしつづける証になるのだった。二人は別べつの理由から、秘密の解明に心血を注いでいるのだった。それが二人の絆だった。 三十七 背を向けた男女 仲村は、山陰本線を乗り継いで、JR江崎をめざした。まるで、異国の海岸線のように見える途中の初秋の風景は、その中に、過去をセピア色の記憶にとどめているパノラマが、車窓に流れていった。飯浦という名の小さな漁港から景色は海と別れ、しばらく走っていくと、右側の車窓に青色の小さな乗用車が見えた。仲村は進行方向左側に座っていたが、もしやと思い右に移動し、その車を見ると、運転席に青いブラウスを着た女性が見え、手を振っている。「まさか」とは思ったが、窓を開けて手を振ると、その人は左手で白いハンカチを振っている。真佐子はこういうことが得意だった。まるで失われた青春を楽しんでいるようだ。列車と乗用車はしばらく並行して走ったが、やがて山の陰に隠れて見えなくなった。すると再び乗用車が現れ、列車のすぐ右の至近距離を走っている。「よそ見をしたらだめだよー」と仲村は叫んだ。列車にはわずかな客しかいなかったが、われ関せずで、江崎での下車を待っていた。山陰本線とは名ばかりで、というと失礼だが、列車は江崎の駅に滑り込んだ。ジーゼルの焦げ臭いにおいが鼻を突いた。「道の駅'ゆとり′に私の知り合いがいるの。中年男女の目撃情報のことは、会ってから話すと言ってるわ」と、真佐子はきれいな標準語で話す。真佐子は就職してから、一度短期間だが、大阪の母親のところへ行っていたらしく、しかし、すぐに島根の実家に戻って働き大事故にあった。結婚後は湯玉の漁師の亭主と暮らしており、標準語を話すことが、仲村には不思議なことだった。一度聞こうとは思っていたのだが、今日までその機会がなかった。 道の駅で軽い昼食をとった。そこへ真佐子の知り合いで、この道の駅で東京ナンバーのセダンを見たというスタッフがやってきた。鳥取の白兎海岸の事件をテレビで見ていて、もしやと思い警察に電話をかけるとさっそく刑事がやってきた。ここらあたりでは、めったに東京ナンバーの車は見かけない。彼女は真佐子と楽しそうに話をしていたが、ひと喋りして満足したのか、仲村に会釈をした。「真佐子がお世話になります。この子はわがままでしょ、叱ってやってくださいね」と、少しなまりのある標準語でしゃべる。「二人の人物については、背格好、服装など何か特徴はありませんでしたか」 仲村は質問した。「鳥取県警の若い刑事さんがやってきて、確か瀧川さんと言いましたか、お話ししたのですが、遠くから見ただけなので、中年の男女としか記憶がないのです。背は、二人とも高かったです。服装はフォーマルな余所行きな感じでした。売り場のスタッフも、この二人連れのことは覚えていましたが、やはり中年の二人連れで、背が高かったとの記憶だけでした。」 道の駅のスタッフが答えた。「例の写真は?」と、真佐子はせかした。「ええ、その日は、白兎海岸の事件の翌日でしたが、私は出勤していて、訪ねてきた知り合いの写真を撮ってあげたのです。いとこがちょうど遊びに来ていて、記念の写真を何枚か取ってあげて、メール添付で送ってあげたのです。真佐子から連絡があって、恋人を連れて行くから話してあげて、というので、写真を見ていたら、偶然その中年の男女が写っていたのです。背中が写っているのですね。もうしかしたら、わざと背を向けたのかもしれませんね」 仲村が咳ばらいをすると、真佐子は、「余計なこと言わないで、スマホを見せなさいよ」とせかした。仲村はその写真の画面を指で拡大した。なるほど白い乗用車のそばに男女が立ち、談笑している。しかし距離があり、長身の男女で女性のほうが白っぽい服装、男性のほうが黒い服装としか判別がつかない。カメラに対して背を向けている。しかし、背格好の特徴は判別できる。女性は姿勢がよい。髪は肩までかかるくらいだ。男性は普通の背広姿で高温の夏なのに上着を着ている。写真を真佐子のスマホに転送してもらい、仲村は真佐子から転送してもらった。 写真のプロパティから、2020年の7月15日、午後4時過ぎと分かった。「ここから車で東京方面へ帰るのは無理だから、萩あたりへ泊ったのではないかしら。翌日山陽自動車道を走り、東名、新東名と走ればその日のうちには東京へ着く。行楽ならどこかへもう一泊するのかもしれない。行って調べましょ」と、真佐子は楽しそうに言う。道の駅の知り合いは、「それがいいわ。秘密にしておくから」と、笑っている。仲村は冷や汗が出る思いだ。しかし、白兎海岸の事件に関係する人物だとしたら、距離が狭まってきたと感じた。 三十八 コロナ感染の虚構 萩には、観光地だけあって多くの旅館とビジネスホテルがあった。地元の強みで、ここは真佐子に宿泊の予約を任せた。新型コロナ感染も、ここ山口県にあっては蔓延等防止に準じる扱いで、大都市のような緊張感は感じられない。出雲から山陰の海辺をJRで初めて旅をしてみて、コロナ感染の虚構のようなものを感じた。大騒ぎをしているのは、大都市だ。いつかテレビで見たが、頑固に感染が居座っているロシアでは、感染はサンクトベルグを中心とした、ロシア西部に限られている。山陰はとにかく人がまばらなのだ。でも、出会う人はすべてマスクをしている。 山口県へ来る前に、仲村は神奈川県警の夏警部に、中年の男女が萩へ宿泊した可能性があると伝え、鳥取県警の了解を得て、2019年夏の白兎海岸の事件の直後に、中年の男女が萩の旅館かビジネスホテルを利用していないか、紹介を求めていた。 いわゆる宿帳の記録から、中年男女を探そうという試みなのだが、推測通り萩の旅館から、品川ナンバーの男女が宿泊していた事実が浮かび上がり、仲村に電話が入った。「A旅館で多分偽名とは思うが、品川ナンバーの男女が利用しています。2年も前のことなので、人相や服装については記憶がないと言っており、ただ駐車場の利用記録にはナンバーは記載されておらず、宿帳には達筆で二人の名前と電話番号が記入されているということでした。男性の字で、達筆だと言っています。筆跡の写真を送るように頼んでおきました。」 夏警部は少し興奮気味に話した。「品川ナンバーというだけで、数字がわからないので、車の所有者と人物の特定は難しいのと、宿帳の記載事項はでたらめでしょう。営業記録に品川からの2名の書き込みが残されているので、道の駅で目撃された中年の二人づれが投宿したとみてほぼ間違いないでしょう」と続けた。「僕もそう思います。白兎海岸で、深夜、ドリーム・プロダクションの社長とコンビニに現れた男が、社長を殺害し、どこかで待っていた女と待ち合わせ、そのまま西へ逃走、萩で一泊、途中真佐子さんの友人に道の駅で目撃された。推測ですが」 仲村は答えた。そばでは、真佐子がうんうんと相槌を打っている。電話を切ると、「その品川から来たという男女が泊まった旅館へ行ってみましょうよ」と、真佐子が誘った。まだ夕食までには時間があった。「そうですね、その男女について何か手掛かりが残っているといいのですが」と、仲村は同意した。品川ナンバーの男女が泊まった旅館は、真佐子たちのビジネスホテルから歩いて10分くらいの海辺にあった。「少し冷えるわね。日本海の海辺は冬が早く来るのよ」 真佐子は、彼女の癖である後ろで手を組んで言った。仲村は腕組みをして歩きながら、「あなたが中学生のころ、友達と一緒でしたが、僕が前を歩き、あなたがこうして後ろ手に指を組んで散歩して歩いたことがありますよ」 仲村は遠くを見るような目つきで言った。「二人だけじゃないの?」 真佐子はつまらなそうに言った。「いつも複数でしたよ。そんなんじゃないもの」「……」 真佐子も遠くを見る目つきになった。「そんなことがあったのね。記憶にはないけど、わたし信じるわ、こうして歩いたのね」「真佐子さん、ひとつ聞いていいですか?」「ええ、何でも聞いてちょうだい」 仲村はためらったが、以前から不思議だった、真佐子の言葉遣いについて聞いた。「きれいな標準語を話しますね?」「ええ、でも気になりますか?」「ええ、島根県の鳴き砂の浜で、あなたと口をきいてからずっと不思議に思っていたのです」「そうですか、いつかお話ししなければならないとは思っていたのです」「ぜひ聞かせてください」「でもお仕事が済んでから」 真佐子は肩をすぼめて笑った。「そうですね」 二人は、中年男女が泊まったという旅館の前についた。高級そうな旅館だった。フロントで話すと、鳥取県警から連絡が入っており、話はすぐに通った。「予約記録と宿帳を見たのですが、確かに品川から御越しの二人連れの方です。もう二年も前のことで、記憶はないのですが、記録からしてお尋ねの通りです」とフロント係の男性は言った。仲村は、宿帳に記載した氏名の筆跡を見たいと言い、確認すると、この旅館の筆跡はあらかじめ連絡があった男性の筆跡だった。筆跡は意図的に変えた可能性がある。そうならば身元を隠すためで、作為が濃厚ということになる。仲村はこの筆跡の写真を夏警部に送るために撮らせてもらった。「ところで、芸能界に関係する事件をお探しのようなので、念のため、ほかの宿泊者を見てみましたら、やはり芸能関係の方が二人、同じ日に宿泊されていましたが、いかがでしょうか?」 フロント係は宿泊名簿を見ながら答えた。真佐子と仲村はびっくりした。「え、そうなんですか。警察には許可をもらっていないのですが、あとで了承を取ります。見せていただけますか」 今度は、真佐子が私立探偵にでもなった素振りで言った。眼鏡を取り出している。「はい」と言って、フロント係は付箋の貼ってある箇所を開いた。二人は、「えっ」と驚きの声を上げた。「光岡瑠偉さんと風吹翔馬だわ。二人は二年前に萩へ来ていたのね」 真佐子は興奮したのか、仲村の腕をつかんでいった。驚いた様子に担当者は、「その頃、ちょうど萩では観光協会主催のライブがあり、その関係で見えたはずです。有名人とあって、うちの女性スタッフもキャーキャー言って、サインをせがんでいたと思います。今日は非番ですが、呼べば来ると思います。すぐ近くですから」「お手数ですが、お願いします」と夏が言うと、すぐに携帯で連絡してくれた。「色紙を持ってすぐに来るそうです。瑠偉さんが、交通事故でけがをしたことを知っていますよ」 男性スタッフは笑った。真佐子は心臓がどきどきしてきた。光岡瑠偉がやってきていたとは知らなかった。以前に東京で会った時も、そのことは言っていなかった。また、風吹翔馬のことも言わなかった。隠していたのか、それとも言う必要がなかったのか。おそらく後者だろう。観光協会にはまだ人がいて、明日、午前中にライブのことで行くと、ホテルのスタッフから告げてもらった。 光岡は、二年前は、澤田がマネジャーをしていたワールドプロダクションにいた。澤田が横浜港で殺害されてから、アジアエンタテーメントへ移った。風吹翔馬はダイアモンドエンタテーメントにいたが、天国の黙示録の切符を、何らかの経由で手に入れ、「本」を読み、準備に余念がなかったが、道玄坂上の自宅近くで、つい最近銃で殺害された。蜜柑の聞き込みで、蛍雪大学の鮫島教授と山城教授の関係にも一定のメスが入っていた。 山陰の辺境の地に、車を使って悠長に旅などしていた男女は、一体誰なんだろうか。真佐子は、ホテルの女性従業員を待ちながら考えた。中年男女の女性が山城教授だとしたら、男性は一体誰なんだろう? 夏は山城教授についてもっと情報が必要だと感じた。念のため、ネットで山城を検索すると、顔写真が出ていた。大学教授なら大抵出ている。これをブックマークした。「お待たせしました」と言って、女性従業員が入ってきた。真佐子と仲村は立ち上がり、「わざわざすみません。翔馬君は残念なことになりました。瑠偉君と二人で来た時のことを教えてください」と仲村が切り出した。「真佐子さんには、いつもお世話になっています」と挨拶して、女性スタッフは話し始めた。真佐子は、このあたりでは顔が広いようだ。「翔馬さんのことは本当に残念です。刑事さんには、何としても敵を討ってほしいです。私はただ色紙にサインをもらっただけなのですが、翌日の文化会館のライブにいって、またお話しする機会があったのです。観光協会の仲間と談笑する形で、話の輪に入れてもらいました」 女性スタッフは一つ一つ記憶をたどりながら話した。「こんなことを言ってました。明瞭には聞き取れなかったのですが、瑠偉さんのほうが、教授もお見えなんですね、ほらあそこに。でも、なぜ来ているんだろうって。翔馬さんが、あれ本当にって、じっと見ておられました。なぜ覚えているかというと、後日の観光協会の会報の中に、大阪の蛍雪大学の山城教授の紹介が出ていたので、ああ、翔馬さんはその教授のことを言ったのだなって、これがその会報です」と言って、女性スタッフは仲村に会報を渡した。仲村と真佐子はその会報を食い入るように見た。山城教授は、萩のライブに来ていたのだ。「これが山城教授の写真です」と言って、仲村は今しがたダウンロードした山城教授の写真を見せた。一同、観光協会の会報の写真と見比べて、「間違いないですね。山城教授ですね」と言った。 三十九 山城教授「山城教授は蛍雪大学にいたんだ。ということは鮫島教授とは旧知の仲……」自分たちのビジネスホテルへの帰り道、仲村は真佐子に言った。山城が、現在は横浜の五条大学に在籍していることは、先ほどの検索ですぐに分かった。「でも、なぜ翔馬さんは殺されたのかしら。黙示録の役をもらったことと、何か関係があるのかしら」 真佐子が、当然ながら疑問に思ったことを言った。あたりは急に薄暗くなり、秋の到来を告げていた。季節は初秋から中秋へと移ろっていた。真佐子は口数が急に少なくなった。事件に深入りしてきたことを悔いているのだろうか。真佐子がそのような性格でないことはわかっていたが、仲村は聞いた。「真佐子さん、ここらあたりで少し事件とは距離を置いて、日常に戻ったほうがよろしいのでは」と、仲村はぎこちない言葉で言った。真佐子は意外にも、あっさり「そうね」とうなずいた。「あなたも授業が始まるわね。私淋しいわ」 弱気な言葉が口をついた。濃青色の日本海には、いつしか秋の風が吹き抜けるようになっていた。遠くに見える海の白波が心を揺さぶる。真佐子は自分がなぜここにいるのか、不思議に思った。この一週間、事件の捜査へと突っ込み、仲村と会える日が思いがけなくも長くなって、ぜいたくな旅行までさせてもらった。 仲村は迷惑をしているのではないだろうか? 見慣れたはずの沖に並ぶ漁火が、真佐子の心を動揺させた。亭主が亡くなってから漁に出たことはない。もうかれこれ3年になる。小さな漁船のエンジン音が懐かしい。「私は、なぜこうも仲村に付きまとうのだろうか? 自分の失った記憶を取り戻すためと割り切って、仲村に甘えてきた。仲村の本心が知りたくなった。仲村は何かを隠しているかもしれない。その何かを言い出す機会を探っているのかもしれない。仲村は真佐子にいつかこのようなことを言った。「あなたは、僕が就職先に面会を求めた時に、もう会いたくないと、受付を通じで回答しました。会いたくないという返事は、本心だとは思うのですが、会うことを禁じられたのではないかと思うのです。でも、あなたには記憶がないのだから、それが分かりません」 しかし、それを聞き、自分もまた心の内を開くことで、いまの関係が崩れることが怖かった。そのためらいが、いったん実家へ帰るように誘った。仲村は、会うことを禁じられたいきさつを、推測にしろ、分かっているのではないかーー真佐子はそう考えたが、それより先へは進まなかった。「なぜ、会わなかったのだろうか。会って結局、破局が来たとしても、納得がいくはずなのに」真佐子は自問自答した。「腹ペコペコよ。コンビニのでいいから買って部屋で食べましょうよ」 真佐子は悟られまいと、陽気な自分をつくろった。「萩の駅まで行ってみましょう。適当なレストランがあったら、そこで食事をしましょう」仲村の誘いに、「ええ、いいわ。お酒が飲みたいわ」と、いつもの真佐子に戻った。 駅の右手に、明るい照明を灯したレストランがあった。店内はすいていた。アクリル板で隣席と仕切ってある。入り口で消毒、検温をして、4人掛けのテーブルについた。軽食を注文して、「山陰は冷えますね」と、仲村は当り障りのないことを言った。大陸の冷たい空気が一時的に下りてきていた。注文したワインとフライドポテトが来たのでグラスを高くかざした。「明日は、途中あなたの湯玉へ寄りたいな」「山口まで送っていただけると、新幹線で帰りますから」「あら、もう帰ること考えてるの? 嫌な人、そんなに私が嫌なの?」 真佐子は酔ったふりをした。「いえ、あまり長居をすると、未練が残るから」「あら、女みたいなことを言うのね」 真佐子は、また箸で仲村の腕をつついた。「未練が残るほど、わたしに魅力があるのね?」「そうなんです。未練が張り付いて取れなくなっちゃう」「まあ、そんな言葉どこで覚えたの。奥さんに叱られますよ。どうせ、よその女に不渡り手形を乱発してるんでしょ」 真佐子は、今度はフォークの先で仲村の指をつついた。「僕は嘘は言いませんよ」「怪しいもんだわ」 真佐子は、ワインを一気に空けた。 スタッフが、注文したステーキを持ってきた。真佐子はステーキをほおばって、「でも許してあげる」と言って、ワインのおかわりを求めた。「何か恐ろしい組織があるような気がするわ」と、真佐子は話題を変えた。「僕も実はそう感じていたんです」「黙示録って、ただの興味本位のテレビ番組の企画じゃないような気がして」 真佐子は、ほろ酔いを感じてきた。 二人は飲食店を出てホテルへ向かった。明日は観光協会へ行かねばならなかった。二人の殺人事件と瑠偉のひき逃げ事件、これらの事件の背後に、「黙示録」の影がちらついてきた。仲村は、『黙示録』に一応目を通してきた。キリスト教者でイエスの弟子である作者が書いた本ではあるが、内容はバビロニアの崩壊に際して、痛烈な批判を書いている。バビロニアに蓄積された富によって、一部の富裕なものが贅沢三昧、淫行に更けるさまを描いては、これを痛烈に批判し、神の裁きによって神の王国が築かれることを切々と論じているのであるが、この神の黙示は、いま世界中へ警告として発せられているかのようであった。コロナのパンデミックに入ってから中断していた「黙示録」のプロジェクトが、だれの指示からはわからないが、動き出したようだ。でも、このことと殺人事件とは果たして関係があるのだろうか? 旅先でいろいろと話していると時間がたつのが速い。時計の針は九時を回って、眠気もさしてきた。「明日、目が覚めたら、あなたは隣の部屋にいるのね」と、真佐子は眠気眼をこらえて言った。仲村は、「早く休んでください。僕は瑠偉君に電話をかけてから寝ます。明日は観光協会へ乗り込みますよ」と言って、隣の部屋のキーを真佐子に渡した。仲村は自分の部屋に戻り、風呂に入ってから瑠偉に電話をかけた。「すみませんね、こんな時間に電話をして」と仲村が言うと、「とんでもない、実は僕も電話をかけようと思っていたところです」瑠偉は、あの歌う時の澄んだ声で言った。「風吹翔馬のことは本当にびっくりしました」「何かあったのでしょうか、その、命を狙われるほどのことが」 仲村は、明日萩の観光協会へ行くことを告げてから言った。「もうそこまでお分かりなんですね。仰せの通り、翔馬君と僕は二年前、仕事で萩の観光協会にお世話になりました。二人で歌を歌ったんですよ。もう観光協会へは行きましたか?」「いえ、明日午前中に行こうと思っています」「先生がお帰りになったら、詳しくお話ししますが、実は山城という大学の教授が来ていたと、翔馬君が言っていたのです。僕は山城さんは知らないので、ああそう、くらいでしかなかったのです。でも、翔馬君がああいうことになって、黙示録の企画のことをうちの社長に聞くと、山城教授が実質的に動かしているらしいと聞いて、先生に電話をしようと思っていたのです」瑠偉は、興奮して言った。 四十へ続く
2021.10.18
「山城教授は蛍雪大学にいたんだ。ということは鮫島教授とは旧知の仲……」自分たちのビジネスホテルへの帰り道、仲村は真佐子に言った。山城が、現在は横浜の五条大学に在籍していることは、先ほどの検索ですぐに分かった。「でも、なぜ翔馬さんは殺されたのかしら。黙示録の役をもらったことと、何か関係があるのかしら」 真佐子が、当然ながら疑問に思ったことを言った。あたりは急に薄暗くなり、秋の到来を告げていた。季節は初秋から中秋へと移ろっていた。真佐子は口数が急に少なくなった。事件に深入りしてきたことを悔いているのだろうか。真佐子がそのような性格でないことはわかっていたが、仲村は聞いた。「真佐子さん、ここらあたりで少し事件とは距離を置いて、日常に戻ったほうがよろしいのでは」と、仲村はぎこちない言葉で言った。真佐子は意外にも、あっさり「そうね」とうなずいた。「あなたも授業が始まるわね。私淋しいわ」 弱気な言葉が口をついた。濃青色の日本海には、いつしか秋の風が吹き抜けるようになっていた。遠くに見える海の白波が心を揺さぶる。真佐子はなぜここにいるのか、不思議に思った。この一週間、事件の捜査へと突っ込み、仲村と会える日が思いがけなくも長くなって、ぜいたくな旅行までさせてもらった。 仲村は迷惑をしているのではないだろうか? 見慣れたはずの沖に並ぶ漁火が、真佐子の心を動揺させた。亭主が亡くなってから漁に出たことはない。もうかれこれ3年になる。小さな漁船のエンジン音が懐かしい。 私は、なぜこうも仲村に付きまとうのだろうか? 自分の失った記憶を取り戻すためと割り切って、仲村に甘えてきた。仲村の本心が知りたくなった。仲村は何かを隠しているかもしれない。その何かを言い出す機会を探っているのかもしれない。仲村は真佐子にいつかこのようなことを言った。「あなたは、僕が就職先に面会を求めた時に、もう会いたくないと、受付を通じで回答しました。会いたくないという返事は、本心だとは思うのですが、会うことを禁じられたのではないかと思うのです。でも、あなたには記憶がないのだから、それが分かりません」 しかし、それを聞き、自分もまた心の内を開くことで、いまの関係が崩れることが怖かった。そのためらいが、いったん実家へ帰るように誘った。仲村は、会うことを禁じられたいきさつを、推測にしろ、分かっているのではないかーー真佐子はそう考えたが、それより先へは進まなかった。「なぜ、会わなかったのだろうか。会って結局、破局が来たとしても、納得がいくはずなのに」真佐子は自問自答した。「腹ペコペコよ。コンビニのでいいから買って部屋で食べましょうよ」 真佐子は悟られまいと、陽気な自分をつくろった。「萩の駅まで行ってみましょう。適当なレストランがあったら、そこで食事をしましょう」仲村の誘いに、「ええ、いいわ。お酒が飲みたいわ」と、いつもの真佐子に戻った。 駅の右手に、明るい照明を灯したレストランがあった。店内はすいていた。アクリル板で隣席と仕切ってある。入り口で消毒、検温をして、4人掛けのテーブルについた。軽食を注文して、「山陰は冷えますね」と、仲村は当り障りのないことを言った。大陸の冷たい空気が一時的に下りてきていた。注文したワインとフライドポテトが来たのでグラスを高くかざした。「明日は、途中あなたの湯玉へ寄りたいな」「山口まで送っていただけると、新幹線で帰りますから」「あら、もう帰ること考えてるの? 嫌な人、そんなに私が嫌なの?」 真佐子は酔ったふりをした。「いえ、あまり長居をすると、未練が残るから」「あら、女みたいなことを言うのね」 真佐子は、また箸で仲村の腕をつついた。「未練が残るほど、わたしに魅力があるのね?」「そうなんです。未練が張り付いて取れなくなっちゃう」「まあ、そんな言葉どこで覚えたの。奥さんに叱られますよ。どうせ、よその女に不渡り手形を乱発してるんでしょ」 真佐子は、今度はフォークの先で仲村の指をつついた。「僕は嘘は言いませんよ」「怪しいもんだわ」 真佐子は、ワインを一気に空けた。 スタッフが、注文したステーキを持ってきた。真佐子はステーキをほおばって、「でも許してあげる」と言って、ワインのおかわりを求めた。「何か恐ろしい組織があるような気がするわ」と、真佐子は話題を変えた。「僕も実はそう感じていたんです」「ただの興味本位のテレビ番組の企画じゃないような気がして」 真佐子は、ほろ酔いを感じてきた。 二人は飲食店を出てホテルへ向かった。明日は観光協会へ行かねばならなかった。二人の殺人事件と瑠偉のひき逃げ事件、これらの事件の背後に、「黙示録」の影がちらついてきた。仲村は、『黙示録』に一応目を通してきた。キリスト教者でイエスの弟子である作者が書いた本ではあるが、内容はバビロニアの崩壊に際して、痛烈な批判を書いている。バビロニアに蓄積された富によって、一部の富裕なものが贅沢三昧、淫行に更けるさまを描いては、これを痛烈に批判し、神の裁きによって神の王国が築かれることを切々と論じているのであるが、この神の黙示は、いま世界中へ警告として発せられているかのようであった。コロナのパンデミックに入ってから中断していた「黙示録」のプロジェクトが、だれの指示からはわからないが、動き出したようだ。でも、このことと殺人事件とは果たして関係があるのだろうか? 旅先でいろいろと話していると時間がたつのが速い。時計の針は九時を回って、眠気もさしてきた。「明日、目が覚めたら、あなたは隣の部屋にいるのね」と、真佐子は眠気眼をこらえて言った。仲村は、「早く休んでください。僕は瑠偉君に電話をかけてから寝ます。明日は観光協会へ乗り込みますよ」と言って、隣の部屋のキーを真佐子に渡した。仲村は自分の部屋に戻り、風呂に入ってから瑠偉に電話をかけた。「すみませんね、こんな時間に電話をして」と仲村が言うと、「とんでもない、実は僕も電話をかけようと思っていたところです」瑠偉は、あの歌う時の澄んだ声で言った。「風吹翔馬のことは本当にびっくりしました」「何かあったのでしょうか、その、命を狙われるほどのことが」 仲村は、明日萩の観光協会へ行くことを告げてから言った。「もうそこまでお分かりなんですね。仰せの通り、翔馬君と僕は二年前、仕事で萩の観光協会にお世話になりました。二人で歌を歌ったんですよ。もう観光協会へは行きましたか?」「いえ、明日午前中に行こうと思っています」「先生がお帰りになったら、詳しくお話ししますが、実は山城という大学の教授が来ていたと、翔馬君が言っていたのです。僕は山城さんは知らないので、ああそう、くらいでしかなかったのです。でも、翔馬君がああいうことになって、黙示録の企画のことをうちの社長に聞くと、山城教授が実質的に動かしているらしいと聞いて、先生に電話をしようと思っていたのです」瑠偉は、興奮して言った。続く
2021.10.14
萩には、観光地だけあって多くの旅館とビジネスホテルがあった。地元の強みで、ここは真佐子に宿泊の予約を任せた。新型コロナ感染も、ここ山口県にあっては蔓延等防止に準じる扱いで、大都市のような緊張感は感じられない。出雲から山陰の海辺をJRで初めて旅をしてみて、コロナ感染の虚構のようなものを感じた。大騒ぎをしているのは、大都市だ。いつかテレビで見たが、頑固に感染が居座っているロシアでは、感染はサンクトベルグを中心とした、ロシア西部に限られている。山陰はとにかく人がまばらなのだ。でも、出会う人はすべてマスクをしている。 山口県へ来る前に、仲村は神奈川県警の夏警部に、中年の男女が萩へ宿泊した可能性があると伝え、鳥取県警の了解を得て、2019年夏の白兎海岸の事件の直後に、中年の男女が萩の旅館かビジネスホテルを利用していないか、紹介を求めていた。 いわゆる宿帳の記録から、中年男女を探そうという試みなのだが、推測通り萩の旅館から、品川ナンバーの男女が宿泊していた事実が浮かび上がり、仲村に電話が入った。「A旅館で多分偽名とは思うが、品川ナンバーの男女が利用しています。2年も前のことなので、人相や服装については記憶がないと言っており、ただ駐車場の利用記録にはナンバーは記載されておらず、宿帳には達筆で二人の名前と電話番号が記入されているということでした。男性の字で、達筆だと言っています。筆跡の写真を送るように頼んでおきました。」 夏警部は少し興奮気味に話した。「品川ナンバーというだけで、数字がわからないので、車の所有者と人物の特定は難しいのと、宿帳の記載事項はでたらめでしょう。営業記録に品川からの2名の書き込みが残されているので、道の駅で目撃された中年の二人づれが投宿したとみてほぼ間違いないでしょう」と続けた。「僕もそう思います。白兎海岸で、深夜、ドリーム・プロダクションの社長とコンビニに現れた男が、社長を殺害し、どこかで待っていた女と待ち合わせ、そのまま西へ逃走、萩で一泊、途中真佐子さんの友人に道の駅で目撃された。推測ですが」 仲村は答えた。そばでは、真佐子がうんうんと相槌を打っている。電話を切ると、「その品川から来たという男女が泊まった旅館へ行ってみましょうよ」と、真佐子が誘った。まだ夕食までには時間があった。「そうですね、その男女について何か手掛かりが残っているといいのですが」と、仲村は同意した。品川ナンバーの男女が泊まった旅館は、真佐子たちのビジネスホテルから歩いて10分くらいの海辺にあった。「少し冷えるわね。日本海の海辺は冬が早く来るのよ」 真佐子は、彼女の癖である後ろで手を組んで言った。仲村は腕組みをして歩きながら、「あなたが中学生のころ、友達と一緒でしたが、僕が前を歩き、あなたがこうして後ろ手に指を組んで散歩して歩いたことがありますよ」 仲村は遠くを見るような目つきで言った。「二人だけじゃないの?」 真佐子はつまらなそうに言った。「いつも複数でしたよ。そんなんじゃないもの」「……」 真佐子も遠くを見る目つきになった。「そんなことがあったのね。記憶にはないけど、わたし信じるわ、こうして歩いたのね」「真佐子さん、ひとつ聞いていいですか?」「ええ、何でも聞いてちょうだい」 仲村はためらったが、以前から不思議だった、真佐子の言葉遣いについて聞いた。「きれいな標準語を話しますね?」「ええ、でも気になりますか?」「ええ、島根県の鳴き砂の浜で、あなたと口をきいてからずっと不思議に思っていたのです」「そうですか、いつかお話ししなければならないとは思っていたのです」「ぜひ聞かせてください」「でもお仕事が済んでから」 真佐子は肩をすぼめて笑った。「そうですね」 二人は、中年男女が泊まったという旅館の前についた。高級そうな旅館だった。フロントで話すと、鳥取県警から連絡が入っており、話はすぐに通った。「予約記録と宿帳を見たのですが、確かに品川から御越しの二人連れの方です。もう二年も前のことで、記憶はないのですが、記録からしてお尋ねの通りです」とフロント係の男性は言った。仲村は、宿帳に記載した氏名の筆跡を見たいと言い、確認すると、この旅館の筆跡はあらかじめ連絡があった男性の筆跡だった。筆跡は意図的に変えた可能性がある。そうならば身元を隠すためで、作為が濃厚ということになる。仲村はこの筆跡の写真を夏警部に送るために撮らせてもらった。「ところで、芸能界に関係する事件をお探しのようなので、念のため、ほかの宿泊者を見てみましたら、やはり芸能関係の方が二人、同じ日に宿泊されていましたが、いかがでしょうか?」 フロント係は宿泊名簿を見ながら答えた。真佐子と仲村はびっくりした。「え、そうなんですか。警察には許可をもらっていないのですが、あとで了承を取ります。見せていただけますか」 今度は、真佐子が私立探偵にでもなった素振りで言った。眼鏡を取り出している。「はい」と言って、フロント係は付箋の貼ってある箇所を開いた。二人は、「えっ」と驚きの声を上げた。「光岡瑠偉さんと風吹翔馬だわ。二人は二年前に萩へ来ていたのね」 真佐子は興奮したのか、仲村の腕をつかんでいった。驚いた様子に担当者は、「その頃、ちょうど萩では観光協会主催のライブがあり、その関係で見えたはずです。有名人とあって、うちの女性スタッフもキャーキャー言って、サインをせがんでいたと思います。今日は非番ですが、呼べば来ると思います。すぐ近くですから」「お手数ですが、お願いします」と仲村が言うと、すぐに携帯で連絡してくれた。「色紙を持ってすぐに来るそうです。瑠偉さんが、交通事故でけがをしたことを知っていますよ」 男性スタッフは笑った。真佐子は心臓がどきどきしてきた。光岡瑠偉がやってきていたとは知らなかった。以前に東京で会った時も、そのことは言っていなかった。また、風吹翔馬のことも言わなかった。隠していたのか、それとも言う必要がなかったのか。おそらく後者だろう。観光協会にはまだ人がいて、明日、午前中にライブのことで行くと、ホテルのスタッフから告げてもらった。 光岡は、二年前は、澤田がマネジャーをしていたワールドプロダクションにいた。澤田が横浜港で殺害されてから、アジアエンタテーメントへ移った。風吹翔馬はダイアモンドエンタテーメントにいたが、天国の黙示録の切符を、何らかの経由で手に入れ、「本」を読み、準備に余念がなかったが、道玄坂上の自宅近くで、つい最近銃で殺害された。蜜柑の聞き込みで、蛍雪大学の鮫島教授と山城教授の関係にも一定のメスが入っていた。 山陰の辺境の地に、車を使って悠長に旅などしていた男女は、一体誰なんだろうか。真佐子は、ホテルの女性従業員を待ちながら考えた。中年男女の女性が山城教授だとしたら、男性は一体誰なんだろう? 仲村は山城教授についてもっと情報が必要だと感じた。念のため、ネットで山城を検索すると、顔写真が出ていた。大学教授なら大抵出ている。これをブックマークした。「お待たせしました」と言って、女性従業員が入ってきた。真佐子と仲村は立ち上がり、「わざわざすみません。翔馬君は残念なことになりました。瑠偉君と二人で来た時のことを教えてください」と仲村が切り出した。「真佐子さんには、いつもお世話になっています」と挨拶して、女性スタッフは話し始めた。真佐子は、このあたりでは顔が広いようだ。「翔馬さんのことは本当に残念です。刑事さんには、何としても敵を討ってほしいです。私はただ色紙にサインをもらっただけなのですが、翌日の文化会館のライブにいって、またお話しする機会があったのです。観光協会の仲間と談笑する形で、話の輪に入れてもらいました」女性スタッフは一つ一つ記憶をたどりながら話した。「こんなことを言ってました。明瞭には聞き取れなかったのですが、瑠偉さんのほうが、教授もお見えなんですね、ほらあそこに。でも、なぜ来ているんだろうって。翔馬さんが、あれ本当にって、じっと見ておられました。なぜ覚えているかというと、後日の観光協会の会報の中に、大阪の蛍雪大学の山城教授の紹介が出ていたので、ああ、翔馬さんはその教授のことを言ったのだなって、これがその会報です」と言って、女性スタッフは仲村に会報を渡した。仲村と真佐子はその会報を食い入るように見た。山城教授は、萩のライブに来ていた。「これが山城教授の写真です」と言って、仲村は今しがたダウンロードした山城教授の写真を見せた。一同、観光協会の会報の写真と見比べて、「間違いないですね。山城教授ですね」と言った。(続く)
2021.10.10
仲村は、山陰本線を乗り継いで、JR江崎をめざした。まるで、異国の海岸線のように見える途中の初秋の風景は、その中に、過去をセピア色の記憶にとどめているパノラマが、車窓に流れていった。飯浦という名の小さな漁港から景色は海と別れ、しばらく走っていくと、右側の車窓に青色の小さな乗用車が見えた。仲村は進行方向左側に座っていたが、もしやと思い右に移動し、その車を見ると、運転席に青いブラウスを着た女性が見え、手を振っている。「まさか」とは思ったが、窓を開けて手を振ると、その人は左手で白いハンカチを振っている。真佐子はこういうことが得意だった。まるで失われた青春を楽しんでいるようだ。列車と乗用車はしばらく並行して走ったが、やがて山の陰に隠れて見えなくなった。すると再び乗用車が現れ、列車のすぐ右の至近距離を走っている。「よそ見をしたらだめだよー」と仲村は叫んだ。列車にはわずかな客しかいなかったが、われ関せずで、江崎での下車を待っていた。山陰本線とは名ばかりで、というと失礼だが、列車は江崎の駅に滑り込んだ。ジーゼルの焦げ臭いにおいが鼻を突いた。「道の駅'ゆとり′に私の知り合いがいるの。中年男女の目撃情報のことは、会ってから話すと言ってるわ」と、真佐子はきれいな標準語で話す。真佐子は就職してから、一度短期間だが、大阪の母親のところへ行っていたらしく、しかしすぐに島根の実家に戻って働き大事故にあった。結婚後は湯玉の漁師の亭主と暮らしており、標準語を話すことが、仲村には不思議なことだった。一度聞こうとは思っていたのだが、今日までその機会がなかった。 道の駅で軽い昼食をとった。そこへ真佐子の知り合いで、この道の駅で東京ナンバーのセダンを見たというスタッフがやってきた。鳥取の白兎海岸の事件をテレビで見ていて、もしやと思い警察に電話をかけるとさっそく刑事がやってきた。ここらあたりでは、めったに東京ナンバーの車は見かけない。彼女は真佐子と楽しそうに話をしていたが、ひと喋りして満足したのか、仲村に会釈をした。「真佐子がお世話になります。この子はわがままでしょ、叱ってやってくださいね」と、少しなまりのある標準語でしゃべる。「二人の人物については、背格好、服装など何か特徴はありませんでしたか」仲村は質問した。「鳥取県警の若い刑事さんがやってきて、確か瀧川さんと言いましたか、お話ししたのですが、遠くから見ただけなので、中年の男女としか記憶がないのです。背は、二人とも高かったです。服装はフォーマルな余所行きな感じでした。売り場のスタッフも、この二人連れのことは覚えていましたが、やはり中年の二人連れで、背が高かったとの記憶だけでした。」 道の駅のスタッフが答えた。「例の写真は?」と、真佐子はせかした。「ええ、その日は、白兎海岸の事件の翌日でしたが、私は出勤していて、訪ねてきた知り合いの写真を撮ってあげたのです。いとこがちょうど遊びに来ていて、記念の写真を何枚か取ってあげて、メール添付で送ってあげたのです。真佐子から連絡があって、恋人を連れて行くから話してあげて、というもので、写真を見ていたら、偶然その中年の男女が写っていたのです。背中が写っているのですね。もうしかしたら、わざと背を向けたのかもしれませんね」 仲村が咳ばらいをすると、真佐子は、「余計なこと言わないで、スマホを見せなさいよ」とせかした。仲村はその写真の画面を指で拡大した。なるほど白い乗用車のそばに男女が立ち、談笑している。しかし距離があり、長身の男女で女性のほうが白っぽい服装、男性のほうが黒い服装としか判別がつかない。カメラに対して背を向けている。しかし、背格好の特徴は判別できる。女性は姿勢がよい。髪は肩までかかるくらいだ。男性は普通の背広姿で高温の夏なのに上着を着ている。写真を真佐子のスマホに転送してもらい、仲村は真佐子から転送してもらった。 写真のプロパティから、2020年の7月15日、午後4時過ぎと分かった。「ここから車で東京方面へ帰るのは無理だから、萩あたりへ泊ったのではないかしら。翌日山陽自動車道を走り、東名、新東名と走ればその日のうちには東京へ着く。行楽ならどこかへもう一泊するのかもしれない。行って調べましょ」と、真佐子は楽しそうに言う。道の駅の知り合いは、「それがいいわ。秘密にしておくから」と、笑っている。仲村は冷や汗が出る思いだ。しかし、白兎海岸の事件に関係する人物だとしたら、距離が狭まってきたと感じた。目次へ
2021.10.06
仲村もまた真佐子に会いたい気持ちになっていた。でもそれは、愛とか恋とかいう青いものではなかった。枯れたものでもなかった。むしろ色で例えるなら赤ーしかし恋の炎の赤ではなく、青春時代の燃える赤だった。誰にも青春はある。青春の血潮は青春時代に燃えて炎となり、完全燃焼をすれば、やがて加齢とともに沈下し、降り注ぐ加齢と年輪の雨によって鎮火し、炎は消えるか燃えてはいても、かつてのような輝きを失う。 燃え盛る炎の中で研究という仕事を見つけたのは、当時の社会状況もあったが、真佐子と付き合ったほんの2年間の出来事がそうさせたのだったが、いったん燃え始めた炎は、消えることはなかった。当時の社会状況を背景に、真佐子との出会いが上塗りをされて、その中で芽生えたものだった。 しかし運命のなせるいたずらとはだれが言ったか、言い得て妙なる表現だ。数年前、島根県馬路の海岸で偶然真佐子を見つけ、仲村が真佐子だと、また真佐子が大学生のころの仲村だと分からないまま、次の日に鳥取砂丘で会う約束をして、再開したその時、馬路の海岸で会った女性から渡されたハンカチに真佐子という刺繡が縫ってあったことから、仲村は真佐子であると確信した。そして、真佐子も姉から聞かされていた仲村であると確信した。私が馬路の砂浜で鳴き砂の場所を探していると、背後から「あっちこっち」と声をかけ、砂を踏んで鳴き砂の音を聞かせてくれた。仲村は、親切な人だなという以上のことを感じ、真佐子は何か懐かしいものを感じたと言った。仲村は、車のナンバーを頼りに山口県を必死になって探し、ようやく真佐子を見つけた。 その日からかれこれ3年が経過した。真佐子と仲村は鳥取、そして真佐子の生まれ故郷の島根の海岸で何度か会っていた。真佐子が中学3年、仲村が大学3年の頃であった。 島根と山口の県境にある海岸や道の駅は、仲村の記憶にない土地ではあったが、この見知らぬ土地で、もう一度過去を眺めてみることが、青春の灯を絶やさないように燃やし続け、真佐子の記憶を取り戻す機会になるのではないかと考えた。 真佐子は、二十歳までの記憶を失ったまま、早くに結婚し亭主と死別し、亭主の母親と子供、孫とともに暮らしているのだ。真佐子と別れなければならなくなった真の原因は何だったのか、真佐子にとってもそのことが命の炎を燃やしつづける証になるのだった。二人は別べつの理由から、秘密の解明に心血を注いでいるのだった。それが二人の絆だった。目次へ
2021.10.03
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