人間にはみんな仏性があるのに、なぜ修行しないといけないのですか?
仏だからこそ修行ができる── のです。ということなのだ。
われわれは、優等生になるために猛烈な勉強をすると考えますが、そうではありません。
優等生だからこそ猛烈な勉強ができるのです。
われわれにとって大事なことは、仏になるそのことよりも、仏に向かって歩む姿そのものです。ということになる。
修行して仏になるのではなく、仏が修行している姿勢そのものが大事なのだ
[薪は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になるわけがない。
ところがわれわれは、灰は薪が燃えたのちの姿、薪は灰になる前の姿と見るが、とんでもない誤りである。
薪は薪としてのあり方において、先があり後がある。前後があるといっても、その前後は断ち切れていて、あるのは現在ばかりである。
灰は灰のあり方において後があり先がある。
薪が灰となったのち、再び薪とならないように、人は死んだのち再び生にならない。
だから仏教的な表現においては、生が死となったと言ってはいけないのである。
その故に不生と言う。
死が生になると言わないのが仏教の表現だ。
それ故に不滅と言う。
生は一時のあり方であり、死も一時のあり方だ。
たとえば冬と春のようなもの。
世間の人は、冬が去って春が来たと思い、春が去って夏になったと思うであろうが、仏教の考え方からすれば、それはまちがっている]
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