道元は、自らの修行によって獲得したものを、「悟り」ではなく「 身心脱落」と表現した。
この言葉は、一般に言う「悟り」と極めて近い状態を示している。
菩提樹下における七日七晩の禅定の後、八日目の明星を見て発言した、「私と世界全体の生きとし生けるものが成道した(我と大地の有情と同時に成道せり)」という言葉である。ということに通ずる(なんと尊大な私…)。
すなわち、釈尊は自らの成道によって、「この世界は、すべて仏としてある」と宣言した
ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って) も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可欠であり、その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。
仏道の実践は、それを導く師の正と邪によるに違いない。
才能は良い材料のようなもので、師は、それを加工する 匠(技術者) のようなものである。
どのような良い材料であっても、良い匠を得なければ、そのすばらしさは表れてこない。
たとえ曲がった材木であっても、もしも優れた技術にあったならば、そのすばらしさがすぐさま表れる。
師の正邪によって、悟りが偽物であるか真実であるかが決まることを、これで理解すべきである。
歩行禅 2024.05.11
図解早わかり!道元と曹洞宗 2024.05.09
自分をみつめる禅問答 2024.03.26