本当の自分は不可知
なぜ生まれてきたのか。
なぜ死ぬのか。
どこから生まれてきて、死んだらどこにいくのか。
そのすべてに答えが出ない。
つまり、我々の存在にさしたる根拠も意味も見いだせない。
この耐え難い状況を、耐え難いゆえに「絶対神」や「霊魂」や「理念」で埋め合わせるよりも、この状況をあくまで直視して、なおかつ充実した生を求めていくのが仏教だと、ぼくは思う。
この姿勢は、ある意味で最もシビアだろう。
だから、ブッダは我々の存在をまず「苦」だと言い切るのだ。
自己とは何か、といった「根源的な問い」があるからこそ、「神」や「死後」が問われるのだと言うのだな。
そういうことだ。
しかし、さらに付け加えれば、この問いには答えられない。
それは人間の知恵や知識が今のところ足りないから答えられないのではない。
原理的に回答不可能なのだ。
死んだらどうなるのか、どうして生まれてきたのか、自分とは何かという三つの問いは、実は同じ問いの三つのバリエーションにすぎない。
その問いとは、「自分が自分である根拠とは何か」、言葉を換えれば「本当の自分とは何か」ということで、これはいかなる現実的な回答もナンセンスになる以外にない問いなのだ。
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