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さて思いのほか、例によっておしゃべりの長くなってしまった、この「玉鬘」の帖の話ですが、どうやら今回でおわりに出来そうです。 このブログの目的は、もちろん「源氏物語」の全面訳ではなく(それなら世に数多出ている名訳があります)、はたまた逐帖的な解説でもなくて(そんな学識はもちろん私にはありません)、この長い物語を今の時代にじっくりと読んでいけば、どのように読めるのか、どのような感じを抱かせられるのか、一般に出回っている「源氏もの」の概説書や入門書の類では、どうしても食い足りないようなところを、もう少し原文に近いところまで接近して読んで行ったらどんな感じがするだろう、というのが発端でした。 今年の初め、寂聴さんの訳で生まれて初めて完読して、思い至ったことをあれこれしゃべっているうちに、一ヶ月ほどで終わりにするつもりが、どうしても原文の響きを知りたい、実際のところ紫式部はどう書き記しているのか、といったことが気になり出して、山岸徳平さん校注の岩波文庫を読み始めたのですが、さらには今ふうの読み方をするのに円地さんの訳も参考にして読んでいるうちに、訳文すること自体の魅力が分かってきて弱っているのです。 前にも少し触れましたが、口語訳には「創作の模倣」という魔力があるようです。今どきの作家の方やそれ以外の人々で、「源氏物語」に取り付かれるようにして口語訳に挑戦される人が次ぎ次ぎ出てくるというのは、やはりそれだけテキストに魅力があるということであり、こうしたことは他の古典ではちょっとありえないでしょう。その魅力とは紛れもなく今に蘇る人の心の生々しさであり、訳者のほとんどの人が紫式部の生の声を聞いたような感じで、口語訳されているのではないか。この場合紫式部の生々しい声とは、たぶん創作の産声に立ち会える、という魔力であるでしょう。 私がそんな場面に遭遇できるとは、もちろん到底思っていませんが、それでも少しは今どきの世でも、読める「源氏物語」に少しでも近づきたいとは思っています。で、そうであるためには長編でよくやる急ぎ読みは最初から捨てて、むしろ長編であるがゆえにスローダウンして、できるだけゆっくり読んで行こう、というのがここ最近のこれまた少しひねくれた指向です。 しかし現状のペースをみてみると、一年かかってやっと「玉鬘」までですから(しかも厳密にいうと、最初の方のa系物語はほとんど触れてません)、同じような調子だとあと軽く三年くらいはかかってしまいそうな気配です。このかん他にもまとまって話したい本や話題があって、簡単には「インテルメッツォ」でいくつか触れてきましたが、話せずにとうとう年を越してしまいそうな本もあります。今年の初め予告していた科学ものの本なのですが、中味が思いのほか「宇治十帖」とコラボする印象があって、いつか取り上げようと思っていたのですが、いつになるか分かりません。ヘンに焦らすのもシャクなので、ここで題名だけ挙げておきます。― 橋元淳一郎著「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書) ―というのですが、いわゆる哲学者の時間論と較べて、何と明解なことか。相対性理論も量子力学もお手上げの文系人間として、それでも同じ文系の哲学的時間論よりはるかに腑に落ちるというのは、何か重大な問題を含んでいるような気もします。 まあそれはさておき、いつか「宇治十帖」の話をするときに、この本の時間論を使おうと思っていたのですが、ご覧の調子なのでいつになるか分かりません。「宇治十帖」がおそらく時間をメインテーマに据えた物語であろうことは、ごく始めのほうで少し予告しましたが、その話はとうぶんお預けになりそうです。 さて、この「玉鬘」の帖、初めて読んだときは、中味をまったく知らなかったということもあって、「紫式部もなかなかやるじゃないの」というぐらいの気分で、むしろ前半の筑紫での求婚譚を面白がっていたのですが、今回再読していて実はあまり面白くなかったのです。物語の味はどうやら後半の長谷寺霊験譚以降にあるようで、とすればこの帖のヒロインは右近ということになるでしょう。すっかり老女房になった右近と光源氏との微妙なやりとりの機微は、やはり紫式部ならではの筆致で、私たちを納得させるのです。 ところで、ここまで読んできて紫式部の文章で、一つクセらしきものを感じます。彼女はどうも自然描写はあまり得意ではなかったのではないか、あるいはさしたる関心を持っていなかったのではないか、ということです。時の移り行きを、花とか紅葉などで歳時記的にたくみに取り込んでいるのですが、それらはあくまで物語進行上の道具立てであって、たとえば「万葉集」のように雄大な自然美を、そのまま感動して生々しく書き記すということはしない。 「須磨」の情景とか、このたびの筑紫からの帰還の様子も、ハッキリ言ってお芝居の書き割り風で、読んでいて特異的な印象を残す、ということが無いのです。これはたぶん彼女が実際には須磨にも筑紫にも行ったことがなかったろう、というのが第一原因ですが(それに比較すれば、長谷寺の情景の具体的なことは、彼女が間違いなく実際に行ったであろうことを示しています)、たんに道行きの苦労ということであれば、もし彼女が父為時について越前に行ったことがあるのなら、彼女の想像力を持ってすれば、印象的な記述を残すことは、さして難しいことではなかったと思うのです。 これは彼女が実は越前には行かなかったろう、というような詮索をしているのではなく、彼女の指向性として人智の絡まぬ自然そのものの情景には、あまり関心がなかったのではないか。彼女の恐るべき好奇心は、突出して人の心の機微にだけ向けられていて、自然の風景に心が及ぶ暇は無かったのではないか、というのが今私の抱いている感想なのですが、さて。― 源氏1000年 「玉鬘」 おわり ―
2009.12.24
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とは言え、そうした源氏なりの「気働き」を、すでに紫の上は素直に受け取ることはできないので、彼女なりに一計を案じたりする。― かゝる筋、はたいと勝れて、世になき色あひ・匂ひを、染めつけ給へれば、「ありがたし」と、おもひ聞え給ふ。こゝかしこの擣殿(うちどの)より参れるものども、御覧じくらべて、濃き・赤きなど、つぎつぎを選らせ給ひて、御衣櫃(みぞびつ)、そのさまの御箱どもに入れさせ給ふ。おとなびたる上臈ども、さぶらひて、「これは」「かれは」など、取り具しつゝ入る。うへも、見給うて、 「いづれも、劣り勝るけぢめも見えぬ物どもなめるを。着給はん人の御かたちに、思ひよそへつゝ、たてまつれ給へかし。着たる物の、人ざまに似ぬは、ひがひがしうもありかし」と、のたまへば、おとゞ、うち笑ひ給ひて、 「つれなくて、人のかたち推し量らんの御心なめりな。さて、「いづれをかは」と、おぼす」と、きこえ給へば、 「それも、鏡にては、いかでか」と、さすがに、恥ぢらひておはす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (紫の上は)こうした(織物の染め色の)方面にも、大変お上手で、世にないような色合いや艶を、染め出しなさるので、(源氏の君は)「ありがたい(人だ)ことよ」と、お思いなさる。あちこちの擣殿(うちどの、絹などを砧で叩いて艶を出す所)から取り出させた物なども、(殿は)見較べなさって、濃い紫や赤色など、あれこれお選びになっては、御衣櫃(みぞびつ)や、しかるべき御箱などに入れさせなさる。ベテランの上臈なども、(側に)控えていて、「これは(あちら)」「あれは(そちら)」などと、取り揃えては入れて行く。(紫の)上も、ご覧になって、 「どれをとっても、良い悪いの区別もつかぬお品のようですわ。(ここは)お召しになる方のご容貌に、思いを馳せられて、差し上げなさいまし。お召し物が、その方(のお姿)に似合わなくては、マズいことにもなるでしょうし」と、おっしゃると、(源氏の)大臣は、微笑まれて、 「(さては)何気ないふりをして、人々の器量を推し量ろうとされるのがご本心でしょう。では、『(あなたご自身は)どれを』と、思っていらっしゃる」と、お聞きになるので、 「そんなこと、鏡で(見ている)だけなのに、どうやって(選べますか)」と、さすがに、はにかんでいらっしゃった。 ここのやりとりのミソは、六条の大御殿が出来てからというもの、紫の上はじめ光源氏ゆかりの主な姫君(なぜか空蝉まで、いつのまにやら尼姿になって)を参集させて一年ほどになるのですが、各々姫君どうしは今だに顔を合わせたことが無い、ということです。しかるべき折りにお互いに挨拶を交わすような緊迫した場面が、今どきのドラマならおおいにありそうですが、この時代、彼女たちはお互いの顔容貌を知らない、知っているのは源氏の殿だけという図柄なので、紫の上が源氏が選ぶ織物で、各姫君の器量を判断しようとする。利発な彼女としての、ささやかな企みではありましたが、源氏にたちまちその意図を見抜かれて逆ネジを喰らった、ということでしょう。 一見とても華やかにみえる新年の着物選びの場面で、このあとたいそうなお召し物の品評が続くのですが、そのあたりは本文を読んでみてください。宮廷文化の華やかな雰囲気に浸るには、もってこいの場面ですが、今どきの小説読みとしては、その裏に流れる心理的な駆け引きのほうに、どうしても関心が行ってしまいますね。― つづく ―
2009.12.23
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話がますます脱線してしまいそうですが、 ― 「働く」ことの本質は、→「贈与すること」 ― という内田氏の命題と結論のあいだには、相当な説明が必要です。簡単ではないのですが、要は生物界において人間だけが、他者に対して関わることに、意味を見出して振るまう、ことの出来る生き物であるらしい。サルとかネコでは本質的に彼らの振るまいは、「我が事のみ」であって他者には無関心である(「セックスは違うじゃないの」と言われてしまいそうですが、我が子孫を残すという意味においては、これもまた「我が事」ですね)。 人間だけが、なぜかいつごろからか、他者と関わり合いのある振るまいかたを見出して、たぶんそのほうが我が身の生存に有利と判断したのでしょう。「働く」とは結局、他人と関わって他人がその意義を認めたとき、はじめて意味を成すので、純粋個人的な振るまいの中身というのは「趣味」のレベルでしょう(もちろん趣味が結果的に仕事に転化することはあり得ます)。 という意味で、人間というのはどうも他者に自身を認めてもらうことによってしか、自身の存在意義を見出し得ない生き物であるようで、「働くこと」とは自分(人間)が自分(人間)であるための「根源的な営み」ということになります。だから、と内田氏は「労働とは何か」というような、問いの立て方に疑問を呈されるのですが、今どきとくに若い世代の人たちに、これをマジメに考え悩む人が増えているのです。 一つには近代資本主義的な労働対価といった考え方があり、「働くこと」が「賃金を得ること」と等価になると、「それじゃあ、給与の高いところに」とか「安いなら楽で安定したところに」ということになってしまうのですが、この立て方で行くと、今どきのような不景気になってしまうと、たちまち労働意義というものが吹っ飛んでしまって、働く道義づけを見失った大群が世に溢れるということになってしまいます。 言うのも口幅ったい引用ですが、昔J.F.ケネディが、― 「国が国民に何をしてくれるかではなく、 国民が国に対して何を成し得るか」 それが肝心なのです ― と語った演説の意味するところは、国を会社組織、国民を従業員に置き換えれば、そのまま企業の標語であり得るし、またこれを家族と自分に置き換えて考えてみることも出来るでしょう。他者にどう関わっていけば意義あることに感じてもらえるか、を常に意識して振るまえる人、要は大人(養老さんふうに言うと「まともな人」)というのは、自ずと他人も放って置かない(無視できない)ものです。なぜならその人の振るまいに他者が意義(価値)を見出すからで、対価というのはそのあとに自然とくっついて来るものでしょう。 世の考え方はなべて世智辛くなって、自由主義とは、ひたすら「我が事のみ」を考えて振るまえばよろしい、市場(世間)は放っておいても落ち着くところへ落ち着く、とばかりに規制緩和が図られましたが、フタを開けてみればサルやネコの社会よりも殺風景な無秩序状態が現れてしまいました。「我が事のみ」とは人間の振るまいではないのです。 それにしても「贈与」行為というのは、要は「自分以外の用事をなす」ということであり、「働く」の原義が「与えること」なのであれば、これまた大反論が起きて来そうですが、光源氏はすぐれて「働く人」だったことになってしまいますね。「労働対価」のような意味合いで言えば、いかなる意味でも光源氏は「働いていない」のですが、例えば「気働き」というような言い方をすれば、彼は「よく働く人」だったでしょう。 彼がどうしようもなく鼻持ちならない貴種意識の塊りのような人間であったにしても、我々が少なくとも物語の中で彼と付き合っていけるのは、彼なりの作法で周囲に気を使いながら振るまっているのを、読む側は認めざるを得ないからであり、この一点でのみ私たちは彼の人間臭さを嗅ぎ取ることができるのです(私は、さらに彼の空白の思春期を重ねて、彼の個性を見て行きたいと思っています、なんちゃってね)。― つづく ―
2009.12.21
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さてお伽話的に始まった「玉鬘」ですが、右近が姫と長谷寺で出会ったのが、おそらくこの年の夏で、一行が六条院に入ったのが秋の暮れ、ひとまずこの話はいったん落ち着くのですが、源氏と紫の上の微妙な心内は年の瀬になっても続いているわけで、― 年の暮に、御しつらひあるべきこと、人々の装束など、やんごとなき御列に、おぼしおきてたり。かゝりとも、「ゐなびたることもや」など、山がつのかたに、おぼし侮りおしはかり聞え給ひて、調じたるをも、たてまつり給ふついでに、織物どもの、われもわれもと、手をつくして持て参れる、細長(ほそなが)・小袿(こうちぎ)の、色々さまざまなるを、御覧ずるに、 「いと、多かりける物どもかな。かたがたに、羨みなくこそ物すべかりけれ、この重ねども」と、うへに聞こえ給へば、御匣殿に仕うまつれるも、こなたにせさせ給へるどもも、みな、とうでさせ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) その年の暮れに、(玉鬘の部屋の)御調度や、(お側付き)女房たちの装束などは、(他の)高貴な御方たちと同列に、(殿は)お取り扱いなされたが、(姫の器量は)このようでも、「田舎めいたところもあろうか」などと、山里育ちのように、思いなし軽く(姫の好みを)ご推量なさって、用意したものを、差し上げなさる、(その折に)織物など、(職人たちが)我も我もと、技を尽くして(殿に)献上してくる、細長とか小袿の、色彩が様々あるのを、ご覧になって、 「よくまあ(これだけ)、たくさんの品物があることよ。それぞれの方々に、羨みなく(公平に)お分けしないとね、この織物などは」と、紫の上におっしゃると、(上は)御匣殿(みくしげどの 北の方の装束所)でご用意させたものも、こちらで仕立てさせたものも、皆、お取り出させになった。 権勢極める六条院には、自然とさまざまな阿諛追従が出てくるので、天下の職人たちの贅を究めた織物その他が、しかるべき筋を通して次々と集まってくる。光源氏としては余裕の表情で、それを御殿の姫君その他にどう分配すれば、公平か(効果的か)、何やかやと思案している、という図柄です。物品の贈与というのは(公式行事での立ち居振るまいと並んで)、当時権勢誇示のもっとも具体的な行為であったわけですが、同時にここには古代的な我が身の分与という感覚も含まれているかもしれません。「源氏物語」には贈り物をする場面が多いのです。 ところで話がまた逸れますが、古代経済が物品の贈与から始まった(交換ではありません)というのは、人類学者の指摘するところで、例の内田樹さんは最近のブログでさらに、― 「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。そのような根源的なものについては、それが何かを一義的な言葉づかいで語ることはできない。 ― (内田樹の研究室 2009.12.16「人間はどうして労働するのか」から) と、以下さまざま言葉を尽くされて、今どきの「労働の意義」という問い方に疑問を呈されますが、詳しくはぜひ本文をご覧になってください。 「働くこと」が人間の本源的な属性であり、その由って来たる本質が「贈与すること」なのであれば、光源氏のような「働かない人間(貴族)」というのは、どうも「贈与すること」によってのみ、その(人間としての)存在理由を維持し続けることが出来ているらしいのです。― つづく ―
2009.12.19
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ところで、ここまでの光源氏と紫の上のやりとりを見ていて、源氏ははたしてどこまで本当のことを言っているのだろう、と思ってしまうのです。夕顔の禍々しい死にざまはもちろん言わないにしても、玉鬘が源氏との子なのか、夕顔の連れ子だったのかということなのですが、どうもハッキリしない。 これはたぶん源氏自身が、紫の上にはそこのところを、あいまいにしか言ってないからではないかと思うので、実子であれば嫉妬の対象ではありえないのですが、連れ子ならなにしろ前科の耐えない殿ですから、おおいに疑って掛からざるを得ない、という仕儀に相成ります。ここまでの紫の上の不機嫌は、すでに亡くなった人とはいえ、深情け過ぎる源氏の夕顔への哀憐と、それを隠そうともしない光源氏の振るまいから来ていると読めるのですが、それは同時に玉鬘を遊びの道具立てのように見立てている、彼の無神経さにも繋がっていくわけで、それは煎じ詰めていくと、紫の上自身と源氏との過去の経緯にも絡んでこざるを得ない。 一言でいえば、「私は遊びの対象として、拉致されて来たのかしら」ということになるのです。利発な彼女ですが、明石の方とか朝顔の君とか、このところの様々な源氏に対する鬱屈は致し方の無い所ではありました。 しかしそこはもうすでに六条院の正妻として、彼女には公けの立場があるわけで、源氏との微妙な心理的関係は当面引きずったまま、表向き極めて華やかな王朝絵巻が、こののち繰り広げられることになります。― 中将の君にも、 「かゝる人、尋ねいでたるを。用意して、むつびとぶらへ」と、のたまひければ、こなたに、まうで給ひて、 「人数ならずとも、「かゝる者さぶらふ」と、まづ、召し数まふべくなむ侍りける。御わたりのほどにも、まゐりつかうまつらざりけること」と、いと、まめまめしく、きこえ給へば、かたはらいたきまで、心知れる人は思ふ。心のかぎり、つくしたりし御すまひなりしかど、あさましう、ゐなかびたりしも、たとしへなくぞ、思ひくらべらるゝや。御しつらひよりはじめ、今めかしう、けだかくて、親兄弟(はらから)とて、むつび聞え給ふ人々の御さま・かたちさへ、目もあやにおぼゆるに、今ぞ、かの三条も、大弐を、あなづらはしく思ひける。まして、かの監(げん)が息ざしけはひ、思ひ出づるも、ゆゝしきこと限りなし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (殿は息子の)中将の君(夕霧)にも、 「このような娘姫を、見つけ出したから、(しかるべく)気を使って、親しく挨拶するように」と、おっしゃったので、こちらへ、お出でになって、 「取るに足らないで者はございますが、『このような兄弟もいようか』と、すぐにも、呼びつけて下さればよろしいかと。(ここに)お引き移りの際にも、お伺い致しませんことで(申し訳ございません)」と、しごく、生真面目に、ご挨拶なさるので、(側で聞いているのが)居たたまれないように、(真の)事情を知っている女房達は思う。(筑紫の館は)思う限り、(贅を)尽くした御住居であったが、あきれるほどに、田舎臭かったことは、(今や)紛れもなく、思い較べられるのである。部屋の調度をはじめとして(六条院は)、今ふうに、趣味が良く、親兄弟として、親しく接する人々の容貌やお姿は、(何とも)眼も眩むような感じで、今になって、例の三条も、(帝よりスゴイわ!と思っていた)大弐が、たいした者ではないように思えてきた。まして、あの大夫の監の鼻息荒かった様子など、思い出すのも、鬱陶しいことおびただしい。 というわけで、玉鬘に付き従って来た侍女、従者たちも一息ついて、乳母の長兄である豊後の介も苦労の甲斐あって、六条院の家司に取り立てられる。さしあたって「玉鬘」の帖は、少なくとも姫を取り囲む人々にとっては、「めでたし」となっておわりに近づくのです。― つづく ―
2009.12.17
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それは、これまでの物語の中でも、従者や乳母あるいは下級の女房といった、いわば脇役がたいした字数も割いていないのに、ずいぶん鮮やかなキャラを示しているのに現れているので、彼女は何人もの人物を描き分けているうちに、その由って来たる理由を何度も考えたことでしょう。 ここで話しているのは、たんに対象が下級の人々だったから書きやすかったのだろう、といったレベルの話ではなく、生身のザラリとした人間の心の手触り感というのが、どういうところから出て来るのか、といったことです。紫式部がそうした人の心の奥底に潜むドロドロした何物かに、強い関心を持っていたであろうことは、すでに登場した六条御息所や藤壺の宮などの描き方に沸々と現れていたので、昔物語の意匠をまといながらも、ごく初期からさまざまに試みてきたことではありました。 しかし、そのテーマをハッキリと了解し真正面から立ち向かうには、彼女にはまだまだ時間が必要だったようです。すでに何度も触れましたが、六条御息所と藤壺の宮との最初の馴れ初めは、本編(光源氏の物語)の最重要の動因(その後の光源氏の行動=振るまいかたを決定している、という意味で)である、と思われるにもかかわらず省かれているので、いわば回避戦術でもって描かれたような印象がありましたね。 ここにはこのテーマそのものを、もっと見究めるという難題とともに、彼女の置かれた公的な立場もまた影響していたはずで、すでにこのころ希代の物語上手として、宮廷内で名を成していたであろう彼女は、ときには読者への口当たりの良いサービスの必要も感じたでしょう。「玉鬘」以下の数帖はそうした難儀なテーマに対する試行錯誤と、読者サービスの過剰が重なった部分であるような気が私はしています。 いずれにしても生身の人間のザラリとした深層心理の触感を、上級貴族の殿や姫で「あまりなるまで」描き切るには、ある種の覚悟が必要だったはずで、いわゆる「玉鬘十帖」の終りのほうは、その見事な一つの結実をなしているようにも見え、ようやくそこに来て彼女の腰は完全に据わったのではないか、と今は思っているのですが。 それはさておき、紫の上のはなはだノリの悪い応答に対して、今や得意の絶頂期である光源氏はまったく意に介するところが無い(かの)ように振るまってみせる。― 「まことに、君をこそ、いまの心ならましかば、さやうに、もてなして見つべかりけれ。いと、無心に、しなしてしわざぞかし」とて、笑ひ給ふに、おもて赤みておはする、いと若う、をかしげなり。硯ひき寄せて、手習に、 恋ひわたる身はそれなれど玉鬘 いかなる筋をたづねきつらん「あはれ」と、やがて、独りごち給ふ。「げに、深く思しける人の名残なめり」と、見給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「ホントは、あなたをこそ、今のような気持であったなら、この(玉鬘の)ようにも、お世話して(周囲を騒がせて)みたかったものだ。(若過ぎて)たいした、考えもなしに、(あなたとは)一緒になってしまったことよ」と、お笑いになるので、(紫の上は)お顔を赤らめていらっしゃる、(それがまた)とても若やいで、美しい。(殿は)硯を引き寄せて、手習いのように、 ― 恋ひわたる身はそれなれど玉鬘 いかなる筋をたづねきつらん ― (夕顔を)ずうっと恋い慕ってきたわが身ではあるけれど(玉鬘よ、御身は)どのような縁を辿って(ここへ)来たのだね(と書かれて)「哀れなことよのう」と、しばし、独り言ちていらっしゃる。「やはり、(とても)深情けを掛けられたお方の忘れ形見なのだわ」と、(紫の上は)推量なさった。― つづく ―
2009.12.16
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光源氏は嬉しくなって、玉鬘のことを紫の上に話する。紫の上はとっくに昔風のお姫様としてのヒロインの役を降りているので、彼女の応えは決して源氏の話に気安く同調するものではありません。― めやすく物し給ふを、うれしく思して、うへにも、かたりきこえ給ふ。 「さる山賤のなかに、年経たれば、「いかに、いとほしげならむ」と、あなづりしを、かへりて、心恥づかしきまでなん見ゆる。「かゝるものあり」と、いかで人に知らせて、兵部卿宮などの、この籬(まがき)のうち好ましうし給ふ心、乱りにしがな。すき者どもの、いと、うるはしだちてのみ、このわたりに見ゆるも、かゝる、物のくさはひ、なきほどなり。いたく、もてなしてしがな。なほ、うちあはぬ、人の気色、見集めむ」と、のたまへば、 「あやしの、人の親や。まづ、人の心励まさむことを、先に思すよ。けしからず」と、のたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (源氏の君は、玉鬘が)無難に振るまっておいでなのを、嬉しく思われて、紫の上にも、お話しなされる。 「あのような田舎内に、長年居たのだから、『どれほどか、見苦しかろう』と、見くびっていたのが、かえって、気恥ずかしいくらいの様子でしたよ。『(ここには)こんな(妙齢の)姫君が居るぞ』と、思い切り世間にも触れ回って、(義弟の)兵部卿の宮のように、この(我が六条の)御殿方に好意を持つ(方々の)お気持を、(さらに)掻き立ててやろう。(このような好色心を解する)風流人が、いやに、取り澄ましたまま、この御殿に出入りしているのは、このような、うわさの種になるような(姫君の)話が、ないからでしょう。(ここはヤッパリ、玉鬘を)おおいに、大事に世話するとしよう。そうやって、平静でいられない、人々の様子でも、見較べてやるか」と、言われると、 「(それはまた、ずいぶん)妙な、娘親(のしわざ)ですこと。何をさておき、人の心をそそることを、先にお考えとは。ありえませんわ」と、(紫の上は)おっしゃる。 源氏としては、できるだけ御殿内に波風を立てず(とりわけ正妻の紫の上とは)に、わざとらしく遊び半分のような話を仕立てたのですが、今の紫の上はもうそうした源氏の「いつものあの手」に、ハイハイと素直には乗らない。彼女の「あやしの、人の親や。 … けしからず」という応答には毒気というか、すご味がありますね。 こうした会話は、やっぱり王子と姫君ではなく、リアルな夫婦の間ではじめて出てくる会話なので、長いことお姫様のままで影の薄かった紫の上も、次第に生身の存在感を示してくるのです。 前にも触れましたが、彼女たちの存在感とは、深窓のお姫様の座を捨て去って、人間一般の嫉妬や情欲に立ち会うとき、はじめて発現してくるので、そういう意味でも正妻の役というのは、少なくとも近代小説的には損な役回りではありました。そこでは正妻は常に嫉妬と疑心暗鬼に暮れて、正気を失うか、不倫に走るしか、己が存在を示すことが出来ないのです。 それに比べて、十九世紀小説に描かれた娼婦とか下女の存在感の高いこと、彼女たちはその役回りからして、すでに小説の中で自足しているのです。「源氏物語」はもちろん近代小説ではないし、紫式部もそんな手法を知る由も無かったのですが、この無類の話し上手と想像力に富んだ天才は、物語を書き進めるうちに、そうした機微にも何となく気付いたことでしょう。― つづく ―
2009.12.15
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しかし源氏はあくまで、実の親であるという立場を演じ続ける。これは同時に玉鬘にも娘としての役を演じよ、と言っているので、真実を知っている玉鬘方の女房達(兵部や右近など)は別として、都で新たに雇った下女下郎達(とは公的には、ということです)を意識しなくてはならないのです。 (源氏の君は、玉鬘に)少しも、他人のように、よそよそしい様子で、お話なさることなく、たいそう親らしく振るまって、 「年頃、(あなたの)行方が分からぬまま、気懸りで無かった時はなく、嘆いておったことよ。(それが)このようにお会いできるとなると、(まるで)夢のような感じで、過ぎ去った日々の事も皆、耐え難く(思い起こされて)、よう、お話も致せません」と、御目をお拭いになる。まことに悲しくも、(殿は、亡き夕顔のことを)思い起こされるのである。(姫の)お歳を、数えなさって、 「親子の対面が、このように長年月無かったという例は、(世に)あるまい。(そうした)巡り合せの恨めしいことよ。今となっては、ただ初々しく、若やいでいらっしゃるお歳でもないのだから、(そなたの)長年月の話なども、お伺い致したいのだが、どうして、(そのように)黙っていらっしゃる」と、恨みがましくおっしゃるが、(姫は、ただもう)お答えするのも、恥ずかしくて、 「足立たずして、(筑紫に)身を沈めましてからは、何事も、あるか無きかの(夢の)ようで(何も、ようお話致せません)」と、(やっと)かすかにお答えになる声が、かつての(母であった)人と、よく似て、若やいだ感じである。(殿は)微笑んで、 「(そなたが)流浪なさっていたのを、『哀れ』とも(思うのは)、今となってはもう、(私をおいて、他に)誰がいよう」と(おっしゃっりながら)、 「たしなみは、悪くはない返答ぶりだな。」と、(殿は)お思いになる。右近に、しかるべき事々を、指示なさって、お立ちになった。 ここまで、玉鬘と光源氏の初対面の様子を、しつこく追って来たというのは、他ならぬ本帖の主役であるべき玉鬘の生の声を、源氏といっしょにじかに聞きたかったからでした。しかし残念ながら源氏が感じたほどには、我々には玉鬘の「心ばへ、いふかひなくはあらぬ御応へ」の感じは伝わってこないので、それもこれもここまで、彼女はほとんど目立ったキャラを発揮していないからです。 爾来、どうも深窓のお姫様というのは、自ら行動を起こすというような場面は設定しにくいので、どうしてもお伽話的な理想化された(それだけ抽象的な)人物にならざるを得ません。ここの時点で玉鬘は例のかぐや姫のような「求婚譚」のヒロインを一歩も出ていないわけで、気分を変えるために紫式部が設定した一連の傍系(b系)物語は、かんじんの主役が登場したとたん、何となく昔物語に逆戻りした感があります。 これがはたして紫式部が意図したものであったのかどうか。夕顔や右近や惟光、はたまた乳母とか豊後の介まで含めて、主役を取り囲む脇役達の活躍が、あまりにも鮮やかなので、なおさらこのヒロインの造形が難しくなってしまいました。そのあたりは引き続く帖々で見て行こうと思っているのですが、彼女もちょっと相当苦心したというか、迷った感じがあるような気もします。 まあしかしそれは後の話。― つづく ―
2009.12.14
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― その夜、やがて、おとゞの君、わたり給へり。兵部など、昔の、光源氏などいふ御名は、聞きたてまつりしかど、年頃のうひうひしさに、さしも、思ひ聞えざりけるを、ほのかなる御殿油に、御几帳の綻びより、はつかに見たてまつる。いと、珍らかに、恐ろしうさへぞ思ゆるや。わたり給ふかたの戸を、右近、かい放てば、 「この戸口に居るべき人は、心殊にこそ」と、うち笑ひ給ひて、廂(ひさし)なる御座に、つい居給ひて、 「火こそ、いと、懸想びたる心地すれ。親の顔は、ゆかしき物とこそ聞け。さも思されぬか」とて、几帳、すこし押しやり給ふ。わりなく恥づかしければ、そばみておはする様体など、いと目やすく見ゆれば、嬉しくて、「いま少し、光見せんや。あまり心にくし」と、のたまへば、右近、かゝげて、すこしよす。「おもなの人や」と、すこし笑ひ給ふも、「げに」と思ゆる、御まみの恥づかしげさなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (玉鬘一行が、六条院に入った)その夜、さっそく、源氏の君は、お出でましになる。兵部(かつての「あてき」)など(の女房)は、昔から、光源氏などといった(たいそうな)御名は、お聞き申し上げていたけれど、長年の田舎暮らしで、それほどとは、思い到らずにいたが、(今こうして)ほのかに御殿油(の光)にさす(源氏の君のご様子を)、御几帳の隙間から、わずかにお見上げ申し上げる。(そのお姿は)まことに、この世ならず、恐ろしいほど(のお美しさ)に思えるのであった。お出ましになるほうの妻戸を、右近が、(掛け金を)外して開くと、 「この戸口から入るような人は、(恋人に逢いに行くようで、何だか)胸がときめくことよのう」と、微笑まれながら、廂の間の御座所に、お着きになると、 「灯りが(ほのか過ぎて)、あまりにも、艶めいた感じがする。親の顔は、(キチンと)見ておきたいというものだ。そうは思わないかな」と、几帳を、少し押しのけられた。(玉鬘が)たいそう恥ずかしがって、顔を背けていらっしゃるお姿など、わずかの難もなく見えるので、(源氏の君は)嬉しくなって、「もう少し、(灯を)明るくしてくれないか。(これでは)あまりに思わせ振りすぎるよ」と、おっしゃるので、右近は、(灯を)掻き立てて、すこし(姫に)近寄せた。「遠慮しない人だからね(私は)」と、少しお笑いになって、(さらにご覧になると)「なるほど(夕顔とそっくりな)」と思える、(玉鬘の)眼もと恥らうようなご様子である。 源氏が形上の親としての立場を利用して、ずうずうしく玉鬘のお顔を拝見する場面です。恋人じゃないのだから、もっと灯を明るく、とはよく言ったものですが、さすがに自嘲して「おもなの人や」と思うものの、目はしっかりと玉鬘に向けられている。見つめられる玉鬘の恥ずかしさは、たぶん生まれて初めてのもので、まして源氏は実の親でも何でもない、他所の男なのです。― いさゝかも、他人と、へだてあるさまにも、のたまひなさず、いみじく親めきて、 「年ごろ、御ゆくへを知らで、心にかけぬ折なく、なげきつるを。かくて見たてまつるにつけても、夢の心地して、すぎにし方の事もとりそへ、しのびがたきに、えなむ、きこえられざりける」とて、御目おし拭ひ給ふ。まことに悲しく、おぼし出でらる。御年のほど、かぞへ給ひて、 「親子のなかの、かく年経たるたぐひは、あらじものを。契りつらくもありけるかな。今は、ものうひうひしく、若び給ふべき御ほどにもあらじを、年頃の物語なども、きこえまほしきに、などかは、おぼつかなくは」と、うらみ給ふに、聞えん事もなく、恥づかしければ、 「足立たず、しづみそめ侍りにける後、何事も、あるかなきかになん」と、ほのかに聞こえ給ふ声ぞ、むかし人に、いとよく思えて、若びたりける。ほゝゑみて、 「しづみ給ひけるを、「あはれ」とも、いまは又、たれかは」とて、「心ばへ、いふかひなくはあらぬ御応へ」と、おぼす。右近に、あるべき事、のたまはせて、わたり給ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者)― つづく ―
2009.12.12
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このところ少し「源氏読み」の進行が滞り加減というのは、仕事の関係ではなく私事があったためで、先日義理の父が享年七十七歳で他界したのです。日本の男のほぼ平均年齢とはいえ、二十年前に心筋梗塞を患って九死に一生得てからは、定年を待つことなく退職して悠々自適の生活を過ごされてきたのですが、先般のダメージはゆっくりと進行していたようで、このたびの再手術は難しかったようです。 私はこの義父との付き合いは、必ずしも多くはなかったのですが、今回の術前術後の経過や、その後の取り扱いなど、きわめて考えさせられるというか、感動するところさえあったので、差し支えの無い範囲で書き記しておきたいと思います。 一言でいうと、身の処しかたがとてもサッパリしていて、残された家族の気苦労や悲しみを最小限に止めるというか、結果的にそうなったと言われればそうかもしれないのですが、何となく意地でも寝たきりとかボケて死ぬようなマネはすまい、という強い意志を感じさせられてしまうのです。検査入院から手術まで、医者の方から「ほとんど機能しないほどに痛んだ冠状動脈を、今までどおりカテーテルで血管をステントして騙し運転するか、脚の静脈の一部を移植して、より正常な状態に心臓機能を戻すか」という選択を迫られた時に、「移植手術をするとすれば、年齢的に今が最後の機会でしょう」と言われて、決然と手術を選ぶ。 通常ふつうの人なら、この種の選択には大いに逡巡するところがあって、医者の方も当然幾日かの余裕を考えていたようですが、義父はその場で「手術をお願いします」と答えたそうです。 今の医療技術というのは、やはりものすごいので、ここでは触れませんが、私の実父も心臓ペースメーカーを二年前に挿入して、九十歳を超えてもいたって元気なのです。義父の場合は二十年前の心筋梗塞で、心臓の七割ほどが機能停止していて、残り三割をどうやって維持していくか、という方法の選択になるわけで、内科的にはステント、外科的には血管移殖ということなります。ここで私などは、ついつい義父の世代というものを考えてしまいます。昭和七年生まれということは、敗戦前後がちょうど身体の成長期にあたり、子供が大人の身体になる時期だと思うのですが、この云わばいちばん栄養を摂って運動もして、身体機能が大人になっていく時期に、決定的に栄養が不足していたのではないか、という思いに捉われます。 これより上の世代は、実際に戦場に駆り出されて、それこそひどい目にあったわけですが、少なくとも身体の成長期に決定的な栄養不足ということはなかったのではないか、という気がします。早い話、生き残って帰還した人たちは案外長生きしているでしょう(かつてある地方の村々を、仕事で訪ね歩いたことがあるのですが、八十代九十代の老人は元気なのに、六十代七十代の初老の方に、寝たきりや痴呆が多いという話を聞いたことがあります)。まあこのあたりは実際に統計的な根拠を取ったわけでもなく、たんなる私の妄想かもしれませんが。 義父の決断というのは、自身の身体の感じからいって、今までと同じ治療では持たないだろう、というあるいは予感があったのかもしれません。しかしその選択に際して「絶対に家族に迷惑は掛けまい」という意志が働いたのは間違いないので、これは実は出来そうで案外出来ないことなのではないか。 執刀から一ヶ月あまり、ICUの中で繰り返し襲ってくる危機を乗り越えながら、この人はひょっとするとまたしても二十年前の時と同じように、奇跡の生還をするのではないか、とのんきな私など期待していたものです。しかし後になってのことですが、ずうっと寄り添っていた義母によれば、この一ヶ月というのはあるいは家族に対して覚悟を促す期間だったかもしれず、だとすれば見事な締めくくりというほかありません。本人も意識のあるときは、いたって正常でいつものユーモアを交えた話をしようとする。義父にとっていちばん残念だったのは、おそらく気管や食道に通された管のおかげで、ものを自由にしゃべれないというもどかしさだったのではないか、あのしゃべり好きの義父ならたぶんそうだったろうという気がします。 さて亡くなってのちのこと、近所でも病院でも周囲を和ませて、すこぶる常識人としての振るまいを見せていた義父ですが、死後の取り扱いについて、これまた私を驚倒させる出来事がありました。これは生前から夫婦で相談していたことのようですが、死んだら遺体は全部他に使ってほしい、というのです。簡単にいえば、「使える臓器は全部使ってくれていいよ」、ということなのですが、残念ながらすっかり痛んだ身体で使えるのは眼球だけでした。そこで残りは献体に出すこととなったのです。 葬儀屋さんには悪いですが、亡くなるとただちに臓器摘出の手術が待っています。搬送だけさせて(遺体の搬送は救急車では出来ないのです)、お棺には入れずにストレッチャーに乗せたまましかるべき病院に移す。摘出が済んだら本来は献体のために、これも別の医学部教室のある病院に直行するのですが、何しろ夜なので朝まで受け入れ体制が整ってない、ということでいったん自宅に引き取ることになりました。 思わぬことですが、ここでの自宅での一夜が故人とのお別れとなりました。献体に出すと五年ほどして遺骨になって戻って来るそうです。翌朝まで義母やわが妻はいっしょに家で過ごしたわけですが、本人たちも言っていますが、まだ何となくピンと来ていないところがある。朝になって再びストレッチャーに乗せられて運ばれていくのを見送ると、何だか義父は別の病院に入院したような気になって、さしあたって家を留守にしたような感覚にさえ陥る(献体との同行は認められていません。おそらく途中で遺族の気が変わるのを怖れるのでしょう)。 さてここからが、私の驚倒したことなのですが、通常ならばおそらく遺体無しでも葬儀を執り行なうべきところ、故人の強い希望もあったのでしょう、一切の公けめいた儀式は行わないのでした。義母とすれば故人と家人との別れはすでに昨夜で済んでいる、それで充分という考えで、あとはしかるべき事務手続きを粛々と済ませる、という感じで、世間的な常識に囚われている私などすっかり戸惑ってしまいました。 私が関与したのはこの時からで、区役所その他への届けや手続きなどは、手間さえ厭わなければ別にどうという事も無いのですが、要は世間的な常識であふれている近所や親戚縁者をどうするか、という問題です。普段いたって疎遠であっても、こういう時やたらと非難めいた声を立てる人も中には居るのではないか、後々お付き合いしていくのにヤッパリまずいのではないか、という私の心内の不安が頭をよぎります。しかしそうしたモヤモヤは、あれこれ手続きに走り廻っているうちに(まあその中にはビックリという話もあったのですが、ここではしません)、だんだん「それこそがお前が世間に囚われている証拠じゃないか」と、故人に言われているような気がしてきて、改めて義父の身の処し方に舌を巻く、という仕儀になってしまいました。 日頃このブログのとおり、大いに世間に対して斜に構えている風を装って、何となく悦に入っている私ですが、一皮向けば何の事はない、いちばん物事に囚われて身を処しているのが私で、一見何の変哲もなくごく地味な人生を送ってきた義父のほうこそ、すべての事柄に対して「囚われ」がない、「自由」ということで言えば、これほど自然な振るまいとしての「自由」を備えていた人はいなかったのではないか、とさえ思ってしまいます。そしてその「自由」さから来る周囲への「優しさ」もまた、等しく故人と接した皆が感じていたことで、これらは決して所与のものでなく、間違いなく努力して身に着けられたものであったでしょう。 私事ですが、あらためて義父に合掌。
2009.12.10
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光源氏の殿は、東の御方(花散里)に、(玉鬘を)お預けなさった。 「『(昔)愛しく思っていた人が、気落ちして、はかない山里に身を隠しまして、(その人には)幼い姫君がおりましたので、年月、人知れず尋ね探しておったのですが、よう探し出せずに居るまま、(年頃の)娘に成るまで(時が)過ぎてしまいました。『(ところが)思いがけない所から、聞きつけまして今からでも(お世話をしよう)』ということで、(こちらへ)お引き取り申したのです。母君は、(すでに)亡くなりました。(あなたには、息子の夕霧)中将を、お世話いただいており、(この人の娘の世話を、またお願いしても)不都合はございませんでしょう。(中将と)同様に、ご面倒みて下され。田舎で生い育ちましたので、鄙びたことなど、多いと思います。しかるべき事々に触れて、躾けてやって下さい」と、ずいぶん、丁寧に、お頼みになる。 「まことに、そのような方がいらっしゃるとは、存じ上げませんでした。姫君が(明石の若姫)お一人でいらっしゃるのが、お寂しいと(思っておりましたので)。(それは)好かったこと」と、(花散里は)屈託なくおっしゃる。 「この(姫の)親御であった人は、気立てが、世にないほど素直でした。(あなたの)ご気質も、(とても)心安く、思っておりますので」などと、仰せになる。 「(今は)格別お世話申し上げる、事柄も多くなく、暇でございますゆえ。(こちらこそ、それは)嬉しいことでございますわ」と、(花散里は)お答えするのであった。(六条院の)御殿内の人々は、(殿の)姫君であるとも知らずに、「どんな方を、今度また、探してこられたのかしら」「(例によって)ホントに、厄介な古物いじりをなさるものだわね」と、(いろいろ)言っている。 ここはしかし御殿内の噂のほうが、正しかったのですが、源氏の建前としては田舎から娘を探し出した、ということで公けにするのです。 それにしても玉鬘の世話を頼む花散里、地味ながら六条院に住まわせたというのは、何度も言いますが、こういう時の「よろず便利屋さん」だったのですね。紫の上はもちろん明石の方もこうした世話を頼むのは、源氏としてはちょっと虫が好すぎて難しいところがあるのです。花散里のほうも、そのへんの気組みというか、源氏の心を充分わかって応対しているところがある。当然彼女には対価としての我が身の生活保障ということがあるでしょう。 というわけでその晩、光源氏はさっそく玉鬘を見に行くのです。自分の娘ということであれば、お顔を拝見するのは別にルール違反ではない、ということですか。しかし右近も玉鬘本人も、そうでないことは知っているのですが。― つづく ―
2009.12.08
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紫の上としては、過去のこととは言え、身も具も全部何となく自慢げに話してしまう、源氏の気質というのが疎ましい上に、この中で明石の方が出てきたのは許し難い、ということでしょう。明石の方は過去でも何でもなくて、今まさしく六条の御殿の北の方に住んでいるのです。 それにしても、「あなたとは気心も何もすべて許しあった仲じゃないか」とばかりに、自身のおのろけを臆面もなく話してしまう源氏のふてぶてしさ。相手の心に取り入ろうとして、自身の恥や秘密をわざと曝してみせる、というのは阿諛(あゆ)の一種で、権力を手にした者が手下を懐柔する時に、よくやる「甘えの擬態」なのですが、彼女とともに読者もそうした源氏の振るまいに、そろそろウンザリしてくるところではあります。 この話が持ち上がったのは九月のことでしたが、いよいよ実際に玉鬘が六条院に入るとなると、何やかや準備があって結局十一月になる。― 右近が里の五条に、まづ、忍びて渡したてまつりて、人々えり整へ、装束つくろへなどして、十一月にぞ、わたり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (姫君を、九条の仮住まいから)右近の居宅である五条に、とりあえず、密かにお移し申して、(仕えるべき)女房達を選抜し、装束なども選り繕って、十一月になって、(六条院に)お移りになられた。 九条からいったん右近の家に入ったのは、口さがない宮廷社会で生きていくために、できるだけ田舎びた印象を消すためでした。この当時都人にとって田舎人とは、ほとんど野蛮人と等価に捉えられていただろうことは、すでに何度も触れましたね。 いっぽう源氏のほうは、預け先の花散里に事情を話す。― おとゞ、東の御かたに、聞こえつけ給ふ。 「「あはれ」と思ひし人の、物鬱じして、はかなき山里に隠れゐにけるを、をさなき人のありしかば、年ごろも、人知れず尋ね侍りつれど、え聞き出ででなむ、女になるまで過ぎにけるを。「おぼえぬかたより、聞き出でたる時にだに」とて、うつろはし侍るなり。はゝも、なくなりにけり。中将を、きこえつけたるに、あやしうやはある。おなじごと、うしろみ給へ。山がつめきて生ひ出でたれば、ひなびたることなど、多からむ。さるべき事にふれて、教へ給へ」と、いと、こまやかに、きこえ給ふ。 「げに、かゝる人のおはしけるを、知り聞えざりけるよ。ひめ君の、一所おはするが、さうざうしきに。よきことかな」と、おいらかにのたまふ。 「かの親なりし人は、心なん、ありがたきまでよかりし。御心も、後安く、思ひ聞ゆれば」など、のたまふ。 「つきづきしく後見んなども、事多からで、つれづれに侍るを。うれしかるべき事になむ」とばかり、きこえ給ふ。とののうちの人は、御むすめとも知らで、「何人を、又、たづねとり給ふならむ」「よく、むつかしき御古物扱ひかな」と、言ひけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫)― つづく ―
2009.12.05
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というわけで、玉鬘は源氏のいる六条院に入ることになります。部屋は例によって、いちばん角の立たない花散里の住まう丑寅(東北)の館の一部を使うことにする。さてそうなると問題は、正妻の紫の上にこれをどう説明するか、ということですが、― うへにも、今ぞ、ありし昔の世の御物語、きこえいで給ひける。かく、御心にこめ給ふ事ありけるを、うらみきこえ給ふ。 「わりなしや。世にある人のうへとてやは、問はず語りも、聞え出でむ。かゝるついでに隔てぬこそは、人よりは殊に、おもひきこゆるなれ」とて、「いとあはれ」と、おぼし出でたり。 「人のうへにても、あまた見しに、いと思はぬ中も、女といふもの、心深きを見聞きしかば、「更に、すきずきしき心つかはじ」と、思ひしを、おのづから、さるまじきをも、あまた見し中に、「あはれ」と、ひたぶるにらうたきかたは、又、類なくなむ、おもひ出でらるゝ。世にあらましかば、北の町にものする人の並には、などか見ざらまし。人の有様、とりどりになむありける。かどかどしう、をかしき筋などは、後れたりしかど、あてはかに、らうたくも、ありしかな」など、のたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 紫の上には、今初めて、(夕顔との)ありし昔の恋物語を、お話になるのであった。(それを聞きながら、紫の上は)そのようにも、お心深く想い込めていらっしゃった事もあったのかと、恨めしく思われた。 「(それは)無茶ですよ。生きている人について、問わず語りに、(このような恋物語を)申し上げるのなら(ともかくも)。このような折に隠し事しないのは、(あなたを)他人とは格別に、想い申し上げているからなのに」と、「とてもなつかしい」と、想い耽っている様子である。 「人の身の上を、さまざま見ていると、それほど(深く)慕っているわけでもない人の中にも、女というものの、心の奥深さを思い知らされて来たので、『(自分は、決して)これ以上は、好き心を抱くまい』と、思っておったのが、なかなか、そういうわけにも行かない場合も、あった中で、『(夕顔ほどに)恋しい』と、ひたすら可愛いかった人は、これまた、(他に)類がなかったように、思い出されるのです。(もし彼女が)生きていたならば、(この六条の)北の町にいらっしゃる(明石の)方と同じぐらいに、どうして扱わないことがありましょう。人の有様というのは、(本当に)さまざまです。(その方は)才走って、気が利くなどという面では、大したことはなかったけれど、(なにしろ)雅びて、可愛かったなあ」などと、おっしゃっている。 夫の昔のおのろけをくだくだ聞かされる、紫の上の気分が好いわけがないので、― 「さりとも、明石の並には、たちならべ給はざらまし」など、なほ、北のかたのおとゞをば、「目ざまし」と心おき給へり。ひめ君の、いと美しげにて、何心もなく聞き給ふが、らうたければ、又、「ことわりぞかし。こよなき、人の宿世ぞや」」と、おぼしかへさる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「そうはおっしゃっても、明石のお方と同列に、お扱いになることはなさいませんでしょうよ」などと、やはり、(紫の上は)北の御殿のお方を、「目障りだわ」と心の内では許しておられない。(しかし預かっている明石の)若姫君が、とても可愛げに、邪気無く(側で)お聞きになっているのが、いじらしくて、これまた、「しかたのないこと。(これこそ)どうしようもない、人の世の運命ということなのかしら」と、思い直しもされるのである。 ここはやはり、圧倒的に紫の上に理がありますね。― つづく ―
2009.12.04
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相手の人品を判断するのに、手紙の素養というのはとても大事で、何度も触れましたが、たんに書かれている中味だけでなく、筆跡や紙や香の趣味なども含めて、見たことのない相手の評価をするのです。源氏は当然手紙だけでなく、さまざまな贈り物をつけて寄こす。 さてこうなると困ってしまうのは玉鬘本人で、彼女は光源氏のことなど、当然まったく知りようがありません。― さうじみは、たゞ、 「かごとばかりにても、まことのおやの御けはひならばこそ嬉しからめ、いかでか、知らぬ人の御あたりに、さては、まじらはん」と、おもむけて、苦しげに思したれど、あるべきさまを、右近、きこえ知らせ、人々も、 「おのづから、さておはしそめ、人だち給ひなば」 「おとゞの君も、たづね知り聞え給ひてん。親子の契りは、絶えてやまぬものなり」 「右近が、数にも侍らず、「いかでか、御覧じつけられん」と、思ひ給へしだに、仏・神の御導き、侍らざりけりやは。まいて、たれもたれも、たひらかにだにおはしまさば」と、みな、きこえなぐさむ。「まづ、御返りを」と、せめて書かせたてまつる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 本人は、ただもう、 「ほんの少しであっても、(これが)本当の親からのお気持であったなら(どんなにか)嬉しかったであろう、(しかし)何でまた、見も知らぬ人のお側へ、さて(私は)、行かねばならないのか」と、仄めかされて、つらく思っていらっしゃるが、(さしあたってこれが、今いちばん)望ましい処置であると、右近は、おすすめ申上げ、(側付きの)女房や乳母なども、 「ともかくも、ひとまずは(六条院に)入られて、一人前(の立派な姫君)になられたなら … 」 「 … 父内大臣様は、(自然と)お耳になさいますでしょう。親子の契りは、決して絶えるものではありません」 「右近めが、たいした身でもないのに、『何としても、(姫に)お会いしたい』と、(ずうっと)願っておりまして、(こうして、ようやく再会できたのが)仏や神のお導きで、ないということがありましょうか。ましてや、だれかれ(皆さんすべて)、ご無事でいらっしゃったのですから(私のおすすめするとおりになさいまし)」と、皆で、(口々に)お慰め申上げる。「とにかく、ご返事を(なさいませ)」と、(姫を)せかしてお書かせした。 こうしたとき姫本人の意向というのは、よほどの強い意志を出さない限り、無いも同然で、彼女に付き従って来た女房・乳母そしてたぶん豊後の介のような従者たちも、すでに右近に懐柔されているのです。右近としては、姫本人の意向より、その取り巻きと我が身にとって、いちばん得になるしつらえを優先しているので、彼女たち一行がこのまま内大臣家に行ったら、源氏方の右近の利得は何にもないですね。私はそれでもって彼女を仮にも非難するといった道徳を、ここに持ち込むのは意味がないと思っています。むしろ彼女の長い宮仕えという生き様の結果が、とても自然な一連の振るまいとして描かれているように思える。 というわけで、この「玉鬘」の帖の主役はどうやら姫本人ではなくて、このかつての夕顔の乳母子で、今は紫の上の老女房である右近のような気がしてきました。「夕顔」の帖では若くて一途な感じだった彼女ですが、二十年を経てすっかり世智に長けた姿を見るのは、とても印象的ですね。彼女は明らかに自身の意志を持って動いているのです。― つづく ―
2009.12.03
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しかしこれに対する右近の返事は、なかなかしたたかのものでした。― 「たゞ、御心になん。おとゞに知らせたてまつり給はむことも、たれかは、伝へほのめかし聞え給はむ。いたづらに過ぎ物し給ひしかはりには、げに、ともかくも、ひきたすけさせ給はんこそは、罪軽ませ給はめ」と、きこゆ。「いたくも、かこちなすかな」と、ほゝゑみながら、涙ぐみ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(それはもう)ひたすら、(殿の)お心のままに(なさいませ)。内大臣様にお知らせし申すとて、(殿以外に)どなたが、お耳にお入れすることが出来ましょう。はかなくもお亡くなりになったお方の代わりとして、本当に、とにもかくにも、(姫を)お引き立てなさいますことこそが、(夕顔に対する)罪滅ぼしでありましょう」と、お答えする。「ずいぶんと、(注文を)言ってくるじゃないか」と、(源氏は)笑いながらも、涙ぐんでいらっしゃる。 源氏と夕顔の禍々しい秘密を知っているのは、例の惟光と右近だけ。惟光は源氏の腹心ですから安心としても、右近はもともと夕顔の乳母子であって、本意なく付き従って今の運命があるといってもよい。ここは、「殿のお好きになさるがよろしい。ただし私はすべてを知っていますよ」と、クギを刺しているようにも取れますね。 源氏の泣き笑いは、もちろん亡き夕顔に対する想いがあるのでしょうが、右近の言葉付きに「痛いところを衝かれたな」という感じがあるのです。― 「「あはれに、はかなかりける契り」となむ、年頃思ひわたる。かくて集へたるかたがたの中に、かのをりの心ざしばかり、思ひとゞむる人しも、なかりしを。命長くて、わが心長さをも見果つる類、多かめる中に、「いふかひなき事」と、そこばかりを、形見にみるは、口惜しくなむ、おもひ忘るゝ時なきに、さてものし給はば、いとこそ、本意かなふ心地すべけれ」とて、御消息たてまつれ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「『(夕顔とは)あわれに、はかない縁であった』と、ずうっと思っておったことよ。こうして(ここに)集まっている女君たちの中でも、あの時のような一途な想いを、感じる人は、いなかった。生き永らえて、私の(変わらぬ優しい)心の長さを見届ける人も、多いのだが、『(夕顔だけは、ああいう死にかたをしたので)言うも甲斐の無いこと』で、お前ばかりを、形見のように見ているのは、残念なことだし、(彼女を)想い忘れる時はないのだから、さて(その娘である玉鬘を、ここに)引き取ることが出来れば、本当に心から、(長年の)願いが叶う気がするに違いない」ということで、(玉鬘に)お手紙をお出しになった。 多少遊び心めいた浅はかな言葉を右近に指摘されて、源氏は彼女が夕顔の腹心であったことを思い出す。それを取り成すために、あれこれマジメそうなことを言うのですが、基本的には彼は自分の方針を曲げません。右近もそのあたりの事情は分かっていて、それ以上追求するということはしない。このあたりの源氏と老女房の駆け引きは微妙ですが、紫式部はそのあたりの二人の心理を充分読み込んで書いていたでしょう。― つづく ―
2009.12.02
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