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― うへ、「何事ならん。この世に、恨み残るべく思ふ事やあらん。法師は、聖といへども、あるまじき横ざまの嫉み深く、うたてある物を」と思して、 「いはけなかりし時より、隔て思ふ事なきを。そこには、かく、しのび残されたる事ありけるをなむ、つらく思ひぬる」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 帝は、「何事であろう。この世に、恨みが残るほど思うところがあるのか。法師というのは、聖の身であるといえども、あってはならぬねじけた嫉み心が深くて、うっとうしい所もある(らしい)」とお思いになって、「幼い頃から、分け隔てなく思っているのに。そなたの方が、このように、隠し事をしていたとは、情けなく思う」 ここで大事なのは、法要や加持祈祷などで表向き重用される僧都たちの存在が、宮廷の中で必ずしも信用されていなかったであろうと想像されることで、これは後の「乙女」の帖に出てくる、権威ぶった文章博士たちに対する貴族たちの反応にも露骨に表れているのですが、ここの場面での僧都の扱いは決して尊貴に対する筆致ではありません。冷泉帝の「あるまじき横ざまの嫉み深く、うたてある物」という思いは、彼が当時十四歳ほどであることを考えると、そうした宮廷一般の聖職やインテリに対する気持を反映したものかと思われます。 むしろおしゃべりな僧都という揶揄を含んだ語られかたをしているので、これは紫式部一人の見識ではなく、たぶんこの時代の宮廷社会に通有の気分であったでしょう。平安朝というのは奈良の平城宮の政務において、大徳たちの目に余る跋扈を嫌って、京都に遷都したという歴史がありますよね。 面白いのは、そうした「聖といへども、あるまじき横ざまの」僧都によって、秘密の暴露が行われる、という筋書きを考えついた紫式部の才にあるので、私たちは「そうした信用できない人物たちなら、さもありそう」と、ごく自然に、この突然立ち上がってくる場面を受け入れてしまうのです。 冷泉帝の問いに対して、 「あなかしこ。さらに、仏のいさめ守り給ふ真言の深き道をだに、かくしとゞむる事なく、ひろめ仕うまつり侍り。まして、心に隈ある事、何ごとにか侍らん。これは、「来し方・行く先の大事」と侍ることを、過ぎおはしましにし、院・きさいの宮、たゞ今世をまつりごち給ふおとゞの御ため、すべて、かへりて、よからぬ事にや、漏り出で侍らん。かゝる老法師の身には、たとひ、愁へ侍りとも、何の悔いか侍らん。仏天の告げあるによりて、奏し侍るなり。 … 」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「畏れ多いことで。何もかも、仏が戒め守りなさる真言の奥義の道さえ、隠し留めることなく、(帝には)お披露め仕つっております。ましてや、心に隠すようなことなど、何がありましょう。このことは、『来し方、行く末の重大事』と致すところ、(このまま私が語らず)過ぎてしまいましたなら、故桐壺院・故藤壺の宮、はては目下今の世の政務を執り仕切っておられる源氏の大臣のお為にとって、万事、かえって、良からぬ事などが、漏れ出てくるかもしれないのです。私のような老いた法師の身は、たとえ、禍を被ったところで、何の悔いがありましょう。仏天のお告げがあることとて、奏上致すのでございます。 … 」 と、ここまでは前口上で、いわゆる世の僧や学者など、権威の衣を身にまとうもの通有の、もったいぶったもの言いが、先の「古体(こたい)にうちしはぶきつゝ」といったしぐさも含めて、紫式部はずいぶん辛らつに描いていますね。爾来、聖職者とか学者あるいは警官など、その姿かたちで権威を着飾らないと、体面を維持できない人たちというのは、一般人にとって常に畏れとか尊敬のレベルと等価で、笑いや揶揄の対象とされるところがあって、その感情は今でも変わりがありません(チャップリンの映画を観てごらんなさい)。― つづく ―
2009.07.31
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藤壺の女院の仏事が一段落して、故女院の母后の代から仕えていた比叡山の僧都(そうず)が、冷泉帝や源氏の懇望もあって、七十歳ごろと高齢にもかかわらず御所に残ります。 そういえば藤壺の宮は桐壺帝の前の帝の娘ですから、貴種の血筋としては申し分なかったのですね。紫の上も藤壺の宮の兄に当たる兵部卿の宮の子ですから、やはり光源氏のこだわる「やんごとなき」血筋を引いていたのです。ただし彼女には子供が出来ませんでした。 さて引きつづく貴き僧都をめぐる話で、またしても紫式部は、駘蕩とした宮廷の風景の中に、いきなり爆弾を放り込むのです。初めて読んだときの印象を、今でもありありと思い出すのですが、眠っていたような宮廷物語の進行の中に、忽然とドラマが顔を出す、という体のものです。― 「今は、夜居など、いと堪へがたう思え侍れど、仰せごとのかしこきにより、古き心ざしをそへて」とて、さぶらふに、静かなるあかつきに、人も、ちかく侍はず、あるは、まかでなどしぬる程に、古体にうちしはぶきつゝ、世の中の事ども、奏し給ふついでに、 「「いと奏しがたく、かへりては、罪にもやまかりあたらむ」と、おもひ給へ憚る事多かれど、しろしめさぬに、罪重くて、天の眼おそろしう思ひ給へらるゝ事を、心にむせび侍りつゝ、いのち終り侍りなば、何の益かは侍らん。仏も、「心きたなし」とや、思し召さん」とばかり、奏しさして、え打ち出でぬことあり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「今となっては、夜居(終夜の勤め)などは、とても勤め難く存じますが、(他ならぬ帝の)仰せですので畏れ多く、(また故女院からの)引きつづいてのご恩の気持ちも込めまして」と言って、伺候していたが、ある静かな明け方に、人も、近くに仕えず、(普段、帝の側にいる)従者も、退出などした頃合いに、(僧都はいかにも)もったいぶった咳払いをしながら、世の中の事などを、(帝に)申上げるついでに、「『たいへん奏上しにくく、(申上げれば)かえって、罪も被ることにも』と、思い憚るところ多いのですが、(帝が、このことを)存じ上げないままであることは、(さらに)罪が重く、天の見る眼も恐ろしく思われる事柄で、心の内にむせび泣くまま、(このまま私の)寿命が果て申したなら、何の益がございましょう。仏も、『(それではおまえの)心は汚れている』とも、思し召されるとも(思いまして)」とばかり、奏上しかけて、それ以上は申上げかねていることがある。 この僧都の話を読んでいると、「おいおい、バラシてしまうのかよ」という思いが、当然読者に沸き起こってきて、目を覚ますという仕儀に相成ります。それにしても、なぜこの比叡山の僧都が、という印象が拭えないのですが、読む側の気持としては、そんなことを考えるひまもなく、引きつづく会話を読み進んでしまいますよね。― つづく ―
2009.07.30
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ところで、紫式部は彼女の死を桜の季節に充てました(御息所は三十六歳の秋でしたね)。藤壺の女院は享年三十七歳と、二人とも当時としても若いと思うのですが、桜の季節にしたというのには、やはりここに日本的な若死の美学のようなものを感じざるを得ません。 桜の花にいつごろから、なぜ日本人がことのほか美的要素を見い出すに到ったのか、については古来さまざまに言われ尽くして、今さらという感がないでもないのですが、私なりに別のところ(インテルメッツォ 42.)で触れたことがあります。梅でもなく桃の花でもない、桜にしか見ることのできない美とか真実というのは、「生きとし生ける物は、すべて逃れがたい時間の相のもとに存在していて、桜の花というのは、それを文字通り『華と散ってみせる』ことで、気鮮やかに我々に示してくれている」ということなのでしょうか。 我々日本人は、このいちばん美しい盛りの瞬間に、惜しげもなく散っていく桜に、古代以来の禊ぎに似た「命の蘇生」を感じるので、ここで肝心なことは、生命力の横溢した瞬間に「華と散る」、という一点です。こればかりは、盛りを過ぎてなお、しつこく咲いている梅の花にも桃の花にもない、桜の花だけに見られる振るまいなので、これは忙しくも気鮮やかに移ろって行く、日本の四季の変化を抜きにしては見い出せない美的感覚でしょう。 「移り変わり=時間」に美とか真実を見い出すというのは、「永遠=不死」を美や真実の極致と捉えたエジプトや大陸の文明感覚とはおおいに異なるのです。 さて前置きはこれくらいにして、紫式部はそうした日本古来の「生の盛りに華と散る」美意識を多分に意識して、藤壺の宮の死に対して(丸谷さん推奨の)、以下のような美文を書き記しています。― をさめたてまつるにも、世の中ひゞきて、「悲し」と思はぬ人なし。殿上人など、なべて、ひとつ色に黒みわたりて、物の映なき、春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴のをりなど、思し出づ。「今年ばかりは」と、ひとりごち給ひて、人の、見咎めつべければ、御念誦堂(ねんずだう)にこもりゐ給ひて、日一日、泣き暮らし給ふ。夕日、花やかにさして、山ぎはの木すゑ、あらはなるに、雲の薄く渡れるが、鈍(にび)色なるを、なにとも御目とまらぬ頃なれど、いと物あはれに思さる。 入り日さす峰にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる人聞かぬ所なれば、かひなし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) ご遺骸を葬送するにあたっても、世の中こぞって、「悲しい」と思わない人はいない。殿上人などのほか、皆、(喪の)一色に黒ずんでしまって、何事も映えることのない、春の暮れである。(源氏の君は)二条院の御前の桜をご覧になって、(かつて桐壺帝や藤壺の宮と過ごした)「花の宴」の折りのことなどを、(なつかしく)お思い出でになる。(古今集の)「今年ばかりは(墨染めに咲け)」という和歌を、一人口ずさまれて、人が、見咎めるのも憚れるので、念誦堂に籠りなさって、日がな一日、泣き暮れていらっしゃる。夕陽が、あかあかと射してきて、山際の木々の梢が、くっきりと姿を現すなかに、薄雲がたなびいて、鈍色(薄墨色)に染まっているのを、(普段は見慣れて)何ともお目に止まらぬ頃合いだけれど、(今日ばかりは)ひどく物あわれにお思いになる。― 入り日さす峰にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる ― (夕陽の射す峰にたなびく薄雲は 物思いに耽る私の袖の色に見紛えるようだ)誰も人が聴かない所で詠まれたので、甲斐のないことではある。 ちなみに、文中の「今年ばかりは … 」の元歌は、古今和歌集に出てくる上野岑雄(かむつけのみねお)が友人の死を悼んだ、― 深草の野べの桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け ―という和歌で、「深草の野辺に咲く桜よ もしお前に心があるならば 今年ばかりは墨染め色に咲いておくれ」といった意味でしょうか。そういえば京阪電車の「深草」駅の次は「墨染」でしたな。― つづく ―
2009.07.29
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ということで、光源氏の色好みというか、果てしない女性遍歴の基点ともなった、藤壺の女院は世を去るわけですが、さて源氏が母性原理の女性性に惹かれて、藤壺の女院を常に愛しく、ときには乱心して追い求めたのに対し、藤壺の女院のほうはどうだったのか。 結論から言うと、私の見る限り、藤壺の女院が死に臨んで、光源氏を男として強く愛していたとは思えないのです。彼女が真に愛していたのは、故桐壺院だったのではあるまいか。これは同じ年頃だった六条御息所の振るまいと、彼女を比べてみれば分かることで、御息所が源氏の懸想を受けるたびに、内心の決意がグラグラ揺れる、というより身体が暴走してコントロールが利かないのと、御帳台の内まで入ってこられて、その髪の毛さえ押さえられた藤壺の女院が、それでも体を許さなかった(「賢木」の帖)、というのと著しい対象をなしていますね。 何度も繰り返すように、この二人にかんしては源氏との最初の逢瀬が描かれてない(か、意図的に省かれている)ので、以下は推測にならざるを得ないのですが、これはたんに二人の性格の差ということではなくて、愛の拠り所が別だったことを示しているように思えるのです。 先に「賢木」の帖のこのあたりのくだりで、「女は弱く、母は強し」という古びた格言を持ち出して、藤壺の宮の拒否の理由を探りましたが、それを言うなら御息所だって娘がいるじゃないか、という反論を受けてしまいそうです。 しかし六条御息所は、桐壺帝の世の前東宮と十六歳で結婚して、姫君を得た直後に夫を亡くし(この物語ではその原因は語られません)、その後十年ほど一人で(周囲に女房が居たにせよ)子育てを余儀なくされたわけで、源氏との出逢いはひょっとすると、女としての歓びを初めて経験した出来事だったかもしれません。子育ても一応一段落して、我が身の行く末もふと想う時期に、ヨン様ならぬ光り輝く貴公子が眼前に立ち現われたわけで、彼女が身も心も千々に乱れるのには理由があったわけです。 対するに藤壺の宮といえば、その後の二回め(「若紫」の帖)三回め(「賢木」の帖)の逢う瀬の場面を見ても、いつも不意打ちで、余儀なき次第になった気配が濃厚で、決して最初から望んだ結果ではない。いわば自然災害が押し寄せてきたようなもので、地震や雷で起った事態を嘆いたり非難してもしょうがない、生じた結果は受け入れて、さてそれをどう始末するか、という方向に考えが向いているように見える。 彼女のこういう生きかたの姿勢というのは、そういう意味で一貫していて、私などおおいに好感を持つのですが、ひらたく言えば、光源氏にはちょっともったいないほどの、賢婦人の印象が強いのです。相対する光源氏が、この人の前の時だけ、なぜか幼児返りの風体を見せるのと対称的ですね。 ところでなぜ私が、藤壺の女院の真に愛した人にこだわっているかといえば、円地さんの「源氏物語」を読むかぎり、上のような印象は出てこないからです。円地さんは先に上げた、藤壺の女院の「心のうちにあかず思ふ事」の中味を、おおかた文庫本にして一ページになるかと思えるほどの字数を割いて、大胆な創作を挿入されていて、藤壺の宮がいかに光源氏を男として愛していたか、ということを強調されているのです。 これは一回めに読んだときに、何となく文体的に(露骨に過ぎて)違和感として感じていたものが、今回の読み直しで一段とハッキリしてきたことで、たしか川端康成が、この円地源氏を評して「これは現代訳ではなくて、創作である」と言ったそうですが、このあたりは正しくそのとおりで、円地さんの強い思念(光源氏が心底大好きという)が横溢した部分になっているのです。 これは逆に独立した一つの小説として読む場合には、みごとに一貫していているわけで、よく読んでみると「若紫」や「紅葉賀」あたりでも同じような挿入が、藤壺の宮にかんしてはあるようです。このあたり、なかなか考えさせられるところですね。 それはさておき、では藤壺の女院が光源氏をまったく疎ましく思っていたのかと言えば、そうではなくて好意は持っていたであろうし、立場が立場なら添い遂げたい、という想いもあり得たかもしれないのですが、基本的に彼女の源氏に対するスタンスは、子供に対するときの母親の態度に近いので、御息所のような愛欲の嵐に身を任せるというふうな仕儀には到りません。 余儀なく生まれた不義の子にかんして、親の不始末に子供本人の責任はないということで、最初からいかにしてこの子(冷泉帝)を無事守り育てるか、に彼女の行動は収斂されていくわけで、そのことが結局遠回りではあっても光源氏に対する愛の証にもなる(貴種の血筋を残す、という意味で)、ということなのです。 というわけで、彼女が女としての真に幸せを感じたのは、おそらく桐壺帝が退隠したあと亡くなるまで、ふつうの夫婦として過ごした数年間だったろうと想像されるので、それ以後の彼女の振るまいは、大きな子供(光源氏)と小さな子供(冷泉帝)をあやす母親の行動とみるべきでしょう。 さながら慈母を見るような、という意味で、藤壺の宮の人生はアッパレ!だったということになりますね。― つづく ―
2009.07.28
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ここの御几帳の周囲「親しきかぎり、さぶらひて」の中には、例の光源氏と藤壺の関係を最初から知っている王命婦もいたことでしょう。引きつづく藤壺の女院の源氏への最後の言葉は、これら側付きの女房を介しているのです。― 「院の御遺言にかなひて、うちの御後見、つかうまつり給ふこと、年ごろ、おもひ知り侍る事多かれど、「何につけてかは、その、心よせ殊なるさまをも、もらし聞えん」とのみ、のどかに思ひ侍りけるを、いまなん、あはれに、口惜しく」と、ほのかにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御応へも聞こえやり給はず、泣き給ふさま、いといみじ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(桐壺の)故院のご遺言にそって、主上(うえ)のご後見を、(源氏が)お勤めなさっていることは、年頃から、思い致すことかぎりなくて、『いずれの機会にか、その、感謝の気持の格別なことも、お知らせしよう』とばかり、のんきに考え申していたのですが、(このような)今となっては、まことに、残念です」と、絶え絶えにおっしゃるのが、ほのかに(御几帳の中から)聞えてくるので、(源氏の君は)ご返事もまともにお出来にならず、泣かれるご様子は、尋常ではない。 ここの「心よせ殊なるさま」の中味もまた、ことの次第を心得ている女房なら、表向きの解しかたと、裏に込められた真意の心映えも含めて源氏に伝えるでしょう。― 「など、かうしも、心弱きさまに」と、人目をおぼしかへせど、いにしへよりの御有様を、おほかたの世につけても、あたらしく愛(を)しき、人の御さまを、心にかなふわざならねば、かけとゞめ聞えんかたなく、いふかひなく思さるゝ事、限りなし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「どうして、このようにも、心弱いさまに」と、(源氏の君は)人目も考えて気を取り直そうとするが、はるかな昔(見初めた藤壺)のご様子に始まって、おおかたの時々を考えても、そのたびに愛しい、藤壺のお姿ではあったが、(人の命は)人智の及ぶ業ではないので、引き止めなさりようもなく、口に表わせないほどの嘆かれようは、限りがない。 ここの「いにしへよりの御有様を、おほかたの世につけても、あたらしく愛(を)しき、人の御さまを、」と、つづくくだりの意味がよく分からないのですが、「愛しき」を「惜しき」と書かせている本もあって、意味不明です。無理矢理上のように解してしまいました。引きつづき、源氏が女院に語りかけるには、― 「はかばかしからぬ身ながらも、昔より、御後見つかうまつるべき事を、心の至るかぎり、おろかならず思ひ給ふるに、太政大臣の隠れ給ひぬるをだに、世の中、心あわたゞしく思ひ給へらるゝに、又、かくおはしませば、よろづに心乱れ侍りて、世に侍らん事も、残りなき心地なんし侍る」と、きこえ給ふ程に、燈火などの消え入るやうにて、はて給ひぬれば、いふかひなく悲しき事を、おぼしなげく。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「はかばかしくない我が身ながらも、昔から、(主上の)御後見を司ることは、考えの到るかぎり、怠りなく心がけておりますが、(先般)太政大臣が亡くなられてさえ、世の中が、物騒がしくも存じ上げる折から、また(女院も)、このような(重篤の)お姿でいらっしゃいますと、(私こそ)千々に心が乱れまして、この世に居ることは、残り少ないような気が致します」と、おっしゃっているうちに、(藤壺の女院は)灯火などが消え入るようにして、お亡くなりになってしまい、(源氏の君は)言葉を失うほどの悲しい出来事に、心嘆かれる。― つづく ―
2009.07.26
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― 宮、いと苦しうて、はかばかしう物も聞こえさせ給はず。御心のうちに、思し続くるに、「高き宿世、世の栄えも、並ぶ人なく、心のうちにあかず思ふ事も、人にまさりける身」と、おぼし知らる。うへの、夢の中にも、かゝる、事の心を知らせ給はぬを、さすがに、心苦しう、みたてまつり給ひて、「これのみぞ、うしろめたく結ぼほれたる事」に、おぼしおかるべき心地し給ひける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 宮は、たいへん気分が悪くて、はかばかしくものをおっしゃることも出来ない。お心の中で、思い続けられるのは、「高い宿縁に恵まれて、この世の栄華にかけては、並ぶ人がいない程ではあったが、心に秘めて思い続けることも、人に勝って多い我が身であったこと」と、思い至られるのである。主上(うえ、冷泉帝)は、夢にも、このような、事柄の仔細をご存知でないのを、さすがに、心苦しく、お思いになって、「こればかりは、後ろめたくも解けがたい悔恨事であった」と、心残りなお気持がなさる。 この藤壺の女院の「心のうちにあかず思ふ事」の仔細が、源氏の君への密かな想いであるのか、冷泉帝の出生の秘密であるのか、紫式部は例によって判然とは書き記さないのですが、彼女はまるでそれによって読む者の心を試しているかのごとくです。 読む側の想像力の余地を残す、というのは、何もかも気鮮やかに書き記して、書いてあること以外の妄想は、いっさいテキストの解釈から捨像すべし、という近代のリアリズム的な考え方からいうと、散文というよりは韻文に近いのかもしれませんが、私はどうも紫式部が、このへんのボカシを意図的にやったような気がしてしょうがないのです。 前にも触れましたが、「物語」=モノを語るというのは、眼前の対象や現象に言葉を与える、あるいは表現しようとする、という意味で、ある種畏れ多いというか、不遜な行為という思いが、古代人にはあったかと思われ、まして「言葉」の本義が、古語辞典などを見ると「コトの端っこ」、つまり対象や現象の片端をかろうじてかすめるに過ぎない、と捉えられていたところをみると、古来から日本人の言葉に対する感覚は、散文、韻文といった截然とした振り分け以前のところに、その位置を占めてきたようにも思えます。 それはたぶん紫式部の韜晦癖の強い指向性に、おおいにフィットしていたので、人(の心)は言葉で語りつくせるものではない、コトの本質は書き記した言葉の上ではどっちとも取れる、まさにその隙間に存在する、ということを示唆するかのような筆致なのです。であるならここの「あかず思ふ事」の中味は、源氏と冷泉帝両方なのか、とも思ってしまいます。 しかし結論を急がずに、もう少し先に進みましょう。源氏のほうは、というと、― おとゞは、おほやけがたざまにても、かく、やむごとなき人の限り、うち続き亡せ給ひなん事を、人知れず思し嘆く。人しれぬあはれ、はた、かぎりなくて、御祈りなど、おぼしよらぬことなし。としごろ、おぼし絶えたりつるすぢさへ、いま一度きこえずなりぬるが、いみじく思さるれば、ちかき御几帳のもとによりて、御有様なども、さるべき人々に問ひ聞き給へば、親しきかぎり、さぶらひて、こまかにきこゆ。 「月ごろ、なやませ給へる御心地に、御行ひを、時の間もたゆませ給はず、せさせ給ふつもりの、いとゞ、いたう、くづほれさせ給へるに」「この頃となりては、柑子(かうじ、みかん)などをだに、触れさせ給はずなりにたれば、たのみ所、なくならせ給ひにたること」と、泣き、嘆く人、多かり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の大臣は、公けの立場からみても、このように、貴い人ばかり、(なぜ)引き続いてお亡くなりになることになるのかと、人知れず思い嘆かれる。ひそかな思いは、ことのほか、限りなくて、(ご回復の)お祈りなど、思い至らぬところはない。この年頃、想い絶えていらっしゃった切ない恋心も、今再び(藤壺の女院に)伝えることがついに出来なく終わるのが、ひどく残念に思われて、(女院の)近くの御几帳のもとに寄って、ご容態などを、しかるべき(近侍の)女房たちに問い質しなさると、親しい女房ばかり、近くに控えていて、細かく申上げる。「この数ヶ月、ご病気がちのご様子だったのに、ご勤行のほうは、片時も弛まれることなく、ご無理が重なって、一段と、ひどく、お弱りになってしまいました」「この頃となっては、柑子のようなものさえ、口に含むこともなさらないので、ご回復の望みも、難しくなってしまいました」と、泣き、嘆く人々は、多い。― つづく ―
2009.07.25
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さてここから、この「薄雲」の帖の本筋に入るのですが、光源氏の庇護者であり権勢を誇った左大臣が高齢で亡くなり、都内には何やら不穏な空気が流れます。今回はかつての右大臣派などとの政争ではなく、疫病その他、自然の現象にただならぬ気配が満ちて(皆既日食でもあったのでしょうか)、世間を騒がしているのですが、光源氏一人は、何となく思い当たる節があるのです。 はたして、藤壺の女院がこの春の初めから病にかかって、しかも三月になって重篤になられる。見舞いに来た冷泉帝に向かって、― 「『今年は、かならず逃るまじき年』と、思ひ給へつれど、おどろおどろしき心地にも侍らざりつれば、命の限り、知り顔に侍らむも、『人や、うたて、ことことしう思はん』と、はゞかりてなん、功徳の事なども、わざと例よりも、とりわきてしも侍らずなりにける。『まゐりて、心のどかに、昔の御物語も』など、思ひ給へながら、うつしざまなる折少なく侍りて、口惜しく、いぶせくて、過ぎ侍りぬること」と、いと弱げに、きこえ給ふ。三十七にぞおはしける。されど、いと若く、盛りにおはしますさまを、「惜しく、悲し」と、見たてまつらせ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「『今年は、逃れがたい(厄の)年で』と、思っておりましたが、ひどく具合が悪いということでもございませんでしたので、命の限りあるのを、知ったかのように振るまいますのは、『人様には、うっとうしくも、事々しくも思えるだろう』と、遠慮されて、(後世の)功徳の法会なども、わざとらしくいつもより、格別に執り行うということもしませんでした。『御所へ伺って、心のどかに、昔のお話も(帝にして差し上げたい)』などと、思っておりましたが、気分がハッキリしている時が少なくて、心にかかりながらも、思うに任せず、過ぎてしまいました」と、たいへん弱々しげに、おっしゃる。(女院は)三十七歳(の厄年)でいらっしゃる。とはいえ、(今でも)とても若々しく、女盛りでいらっしゃる御様子なので、(息子である帝は)「惜しいこと、悲しいこと」と、ご覧になる。 藤壺の女院、故桐壺帝の愛后として、中宮まで昇り詰めた人ですが、血筋は申し分ないものの、後見にかんしては世俗的な左右大臣家の威勢に押されて、桐壺帝亡きあと大いに不安がありました。入内間もない若いころに光源氏との密通があり、あまつさえその後、不義の子(冷泉帝)さえ宿した身ですが、結局我が後見の不安を失くすためには源氏との協力が必要だったわけで、「賢木」における源氏の乱心以降、出家してからの彼女の行動は首尾一貫したものを感じます。 源氏の懸想心を封じながらも、我が子の安泰を図るという一点では、彼と意図を共有して来たわけで、前斎宮(六条御息所の娘)を無理を承知で入内させて、左大臣派(弘徽殿の女御)の威勢を封じることに成功し、彼女の願いはほぼ一定の達成を得たようです。そのあたりの経緯は「賢木」や「絵合」の帖で見てきたとおりですが、では彼女ははたして光源氏を、本当に愛していたのかどうか。 ここはおおいに解釈が出てくるところで、それは何度も言いますが、読む側の品性を問われるところでもあるのです。最近、読んでいる私の品格を疑わせる文面が多くなっています。一言でいえば「下衆の勘ぐり」ということなのですが?!― つづく ―
2009.07.24
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源氏の君は、明石の方から子供を奪ったことを、気持ちとしてはおおいに悪いとは思っているけれども、自身の血筋と権勢を維持するのに、これは止むを得ない処置だという基本路線は、ここから先も崩していないわけで、しかたがないと割り切っているところがある。 これと似た振るまいが、まえに前斎宮(六条御息所の娘)の冷泉帝への入内をめぐって、兄の朱雀院との間でありましたね。年格好からいって、朱雀院と前斎宮はいっしょになっても少しもおかしくなかったのですが、源氏は同じような主旨で、まだ年端のいかない冷泉帝の後見と称して、藤壺の女院と協力して御所に送り込んだのでした。「悪いことをした。私はなぜこんなことをしたのだろう」と後になって思いつつ、感情よりも論理を優先し、なおかつ沈殿するわだかまりを解くのを決しておろそかにしない、というのは優れて大人の振るまいだと思うのですが、明石の方については、取りわけ彼女の気持ちの修復に意を注いだように見えます。 その年の暮れに、源氏の君が大堰の邸に出かけるのを、― 女君も、いまはことに、怨じきこえ給はず、美しき人に、罪ゆるしきこえ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 女君(紫の上)は、今のところは取り立てて、お怨みされることもなく、可愛い姫君に免じて、大目に見ていらっしゃる。 しかし年明けて、公けの行事が済むや、またまたイソイソしているのを見て、さすがに心穏やかではいられない。しかし源氏としては、さしあたって明石の方の心の修復が優先したようです。― かしこには、いと、のどやかに、心ばせあるけはひに住みなして、家の有様も、やう離れ珍しきに、みづからのけはひなどは、見るたびごとに、やんごとなき人々に劣るけぢめ、こよなからず、かたち・用意、あらまほしく、ねびまさりゆく。 「たゞ、『世の常のおぼえに、かき紛れたらば、さる類(たぐひ)なくやは』と、思ふべきを、世に似ぬ、ひがものなる親の聞こえなどこそ、苦しけれ、人のほどなどは、さてもあべきを」など、おぼす。― (山岸徳平校注、岩波文庫) こちらのほう(大堰の邸)は、まことに、もの静かで、心映えある風情で暮らしていて、邸の様子も、並みとは異なって見え、お方自身の姿に到っては、見るたびごとに、高貴な人々に劣るようなところは、ほとんどなく、姿も心用意も、非の打ち所なく、立ち勝っていく。「たんに、『世間並みの(受領の)身分で、紛れているようなら、このような例も(あろう)』と、思われるであろうに、(なにしろ、あの)世にも稀なる、変わり者の親という評判が、問題なので、身分のことなど、たいしたことではないのに」などと、(源氏の君は)お思いになる。 どうもこのあたり、たんに悪いと思って(つき合いで)大堰に行っているのではなく、実際のところ明石の方のすごい美貌と、魅力的な立ち居振るまいに惹かれて通っているみたいですね。紫の上の予感は当たっていたのです。― 女も、かゝる御心のほどを、見知りきこえて、「過ぎたり」と、おぼすばかりのことは、し出でず。又、いたく卑下せずなどして、御心おきてに、もて違ふ事なくて、いとめやすくぞありける。おぼろけに、やむごとなき所にてだに、かばかりに、うちとけ給ふことなく、け高き御もてなしを、聞きおきたれば、「ちかき程にまじらひてば、なかなかいとゞ目馴れて、人あなづられなることどももぞ、あらまし。たまさかにて、かやうに、ふりはへ給へるこそ、たけき心地すれ」と、思ふべし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) お方も、このような(源氏の君の)お心の内を、見知りなさって、「出過ぎたことだ」と、(君が)お思いになるようなことは、しない。かといって、ひどく卑下することもなく、(君の)お心の掟に、違うところがなくて、まことに見苦しくない様子である。ほのかに(聞けば)、高貴な身分の(姫君の)所でも、(源氏の君は)このように、リラックスなさることはなく、その気高いご様子を、崩さずに居られるということで、「(君の)側近くに立ち混じったら、案外目が馴れてしまって、他の人たちに侮られることも、あるかしら。たまさかでも、このように、立ち寄ってくださる方が、かえって心強いというものだわ」とも、思っているようである。 この場合、明石の方が思う「やむごとなき所にてだに、かばかりに、うちとけ給ふことな」い相手とは、紛れもなく二条の邸内のことで、目下源氏は紫の上と会っているとき、いちばん緊張を強いられているのです。このあたり明石の方も、どうやらたんなるお人形さんではなく、なかなか生活の知恵も備えているようで、これは「ひがもの」の評判がありながら、領民の経営では決して無能ではなかった、父入道の血を色濃く受け継いでいるのかもしれません。 とはいえ、さしあたって明石の方の問題は、ここでいったん落ちつくことになるのです。― つづく ―
2009.07.23
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というわけで、このあと明石の方と、若姫君、乳母の別れの愁嘆場が延々と続くわけですが、いささか感情過多で食傷気味の感があって、端折ることにします。しかし以下のようなくだりは、今どきの日本映画でもよく出てきそうなシーンですね。― この雪とけて、わたり給へり。例は、まち聞ゆるに、「さならん」と、思ゆることにより、胸うちつぶれて、人やりならず思ゆ。「わが心にこそあらめ。いなびきこえむを、強ひてやは。あぢきな」と、おぼゆれど、「かるがるしきやうなり」と、せめて思ひかへす。 … よそのものに、思ひやらむほどの心の闇、おしはかり給ふに、いと、心苦しければ、うちかへし、のたまひ明かす。 「何か。かく、口惜しき身のほどならずだに、もてなし給はば」と、聞こゆるものから、念じあへず、うち泣くけはひ、あはれなり。姫君は、何心もなく、御車に乗らんことを急ぎ給ふ。よせたるところに、母君、みづから抱きて、出で給へり。片言の声は、いと、うつくしうて、袖をとらへて、「乗り給へ」と、ひくも、いみじうおぼえて、… ― (山岸徳平校注、岩波文庫) この雪が解けたころ、(源氏の君は、大堰に)お出でになる。普段ならば、待ち焦がれているところ、「(引き取りに)来られたのだろう」と、思うと、胸もつぶれる心地だけれど、(結局は)人のせいではないと思う。「(所詮は)私の心一つなのだわ。(私がどうしても)お断り申したなら、(源氏の君も)強いては(引き取ることは、なされまい)。詮の無いこと(をしてしまった)」と、悔やまれるが、「(今となって、とやかく言うのは、いかにも)軽々しいような気もする」と、強いて思い直す。 … (源氏の君は、手放して)他所ながらに、(子を)思いやる(親の)心の底を、推し量りなさって、ひどく、心苦しいので、(納得するまで)繰り返し、(明石の方と一夜)語り明かされる。「どうして(悲しいことがあるでしょう)。このように、口惜しい身分の子でないようにさえ、お扱い下さるならば」と、(明石の方は)申し上げるものの、ガマンできずに、すすり泣く気配は、あわれである。姫君は、何心もなく、お車に乗ろうと急ぎなさる。(車を)寄せたところまで、母君は、自ら抱いて、お出でになる。(姫君のまだ)片言の声は、たいへん、可愛らしく、(母君の)袖を捉えて、「(いっしょに)乗りましょう」と、袖を引くのも、ひどく悲しくて、… という調子で、あいかわらず紫式部は、小道具(ここの場合は子供)の使い方がうまいのですが、平安時代の女房たちはさぞかし感動したでしょうね。こののち今に到るまで、日本ではこうした「お涙頂戴」シーンは必須の道具立てになりました。 さて、若姫君を迎え入れた二条の邸では、― しばしは、人々求めて、泣きなどし給ひしかど、おほかた、心安く、をかしき心ざまなれば、うへに、いとよく、つき睦びきこえ給へれば、「いみじう美くしき物得たり」と、おぼしけり。異事なく、いだきあつかひ、もてあそび聞え給ひて、乳母も、おのづから、ちかう仕うまつり馴れにけり。又、やむごとなき人の、乳ある、そへて、まゐり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) しばらくは、(母君ほか)あの人この人を求めて、泣きなどしなさったが、(若姫君は)全般に、素直で、愛敬のある気立てで、紫の上に、たいへんよく、懐いてしまわれたので、「またとなく可愛らしいものをもらったものだわ」と、お思いになる。他のことは差し置いて、抱いてお世話し、遊び相手もなさったりするので、乳母も、自然と、近くに仕えるのに馴れてしまった。また(源氏の大臣は)、高貴な身分の人で、乳の出る人を、(新たに)加えて、お抱えになる。 よくある新参者の悲哀は、この若姫君の愛らしさで、心配するほどのこともなく、例の乳母もすぐ二条の邸に慣れた、とあるのですが、最後に「やむごとなき人の、乳ある、そへて、… 」とあるのは、それでもしかるべき儀式の折り(さしあたっては御袴着の式)には、高い身分の近侍の人が必要だったのです。このあたり紫式部の目は、ことの本質を外しません。― つづく ―
2009.07.22
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それにしても今回、比較のために空蝉にかんする記事を、あらためて「帚木」の後半分から「夕顔」にかけて読み直してみたのですが、ここのくだりは本当に良く出来ていますね。語り口が絶妙で、筆が伸びやかで冴えていて、紫式部の短編作家的才能が、最もよく現れた部分であると思い知らされるわけですが、このいわゆる「並びの巻」と称される部分は、はたして何時ごろこの物語に挿入されたのだろう、と思ってしまいますね。 文体そのものが手馴れていて、伏線や登場人物それぞれの心理の腑分けも、自信たっぷり、しかも強烈な皮肉も込められている。こうした語り口は「桐壺」や「若紫」などa系物語の初めのころには、決して見られない筆致で、「葵」あたりでやっと追いついたか、という感じがしないでもないのですが、今の印象を言うと、これらb系の話は、もっと後になって書かれたかもしれないと思っているのです。 それというのも、目下の明石の方の造形は、決して面白味のある描き方ではない、と私が感じているからで、彼女については、まだ当分のあいだガマンしなくちゃしょうがない、と思っているのですが。 それはさておき、明石の方の惑いはつづくにしても、若姫君の二条行きはすでに既定の路線として、進行しているわけで、源氏は引き取りの準備を指図する。― 日など、取らせ給ひて、忍びやかに、さるべきことなどのたまひ、掟させ給ふ。はなち聞えん事は、なほ、いと、あはれにおぼゆれど、「きみの御ために、よかるべき事をこそは」と念ず。 「乳母をも、ひき別れなんこと。あけくれの物思はしさ、つれづれをも、うち語らひて、慰めならひつるに、いとゞ、たつきなき事をさへ取り添へ、いみじく思ゆべきこと」と、君も泣く。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の君は)日柄などを、選ばせて、内々に、(お引き取りになる)しかるべき準備のことなどおっしゃって、指図なされる。(明石の方は、若姫を)手放し申し上げることは、やはり、ひどく、辛いこととは思うけれど、「姫君の御ためさえ、良くなるであろうことであれば」と(ひたすら)念じている。「乳母(のあなた)とも、別れることになるとは。明け暮れのもの思わしい事がらも、日頃、話し合って、慰めあうのが常であったのに、(これからは)いっそう、寄る辺ないことばかりまさって行って、たまらないほど不安なこと」と、お方は泣く。 例の乳母は、当然といえば当然ですが、若姫君について行くのです。明石派遣の使者として、源氏から密命を帯びたこの乳母は、晴れて目的を達成して、ひと仕事を終えるのですが、さすがに明石の方には情が移ったか、このあと悲しい別れの言葉を交す。そのあたり心底と取るか、あいさつ程度と取るかは、読む側の品性で変わってきそうですね。― 乳母も、 「さるべきにや、おぼえぬさまにて、見たてまつりそめて、としごろの御心ばへの、忘れがたう、恋しうおぼえ給ふべきを、うち絶えきこゆる事は、よも侍らじ。「つひには」と、たのみながら、しばしにても、よそよそに、思ひのほかの交じらひし侍らんが、安からずも侍るべきかな」など、うち泣きつゝ、過ぐすほどに、十二月(しはす)にもなりぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 乳母も、「どういうご縁でか、分からないままに、お仕え申し始めてから、年頃の(お方の)お気遣いは、忘れ難く、恋しくもお思い致しているところ、(このままご縁が)打ち絶えてしまうことなど、よもやあり得ません。「いずれは(お方を、姫君の側に)」とばかり、頼みにして、しばしの間、他所で、思いの他の奉公を申し上げるのが、心安からずも思い致すところで」などと、しんみり泣いては、過ごしているうちに、師走の季節になった。― つづく ―
2009.07.21
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世間というよりは、当時の都人の常識を代表したような母尼君の発言は、腰の決まらない明石の方の背中を押すような役割を負っていたので、あるいは源氏の密使のような役柄だった、乳母の教唆もあったのかも知れません。以前、「明石」の帖の話で、父入道と母尼君の「愚直なまでの正直さ」という二人に共通した特異的な性格について触れましたが、こうした両親に育てられた明石の方というのは、どのような性格をなして行ったのか、ふたたび空蝉と比較して考えさせられます。 空蝉が早くから両親と死に別れて、自己形成を自身で自覚的に行なわざるを得なかったのに対し、明石の方というのは、これまでみたように、一つの啓示にどこまでも正直であろうとする父入道と、世間の常識を疑問の余地なく体現したような母尼君の影響を、色濃く受けないはずが無いので、彼女からは結果的に生身の声が聞こえてこないというか、両親の理念だけを素直に体現した、お人形さんのような姿に見えてしまうのです。 彼女が「親王(みこ)たちといはむにも足りぬべ」き、絶世の美女という紫式部の描きかたは、何となく皮肉な感じも含まれているようにも思え、だからこそ前の帖での、源氏の「あまり上衆めかし(上品ブリッ子)」という感想になるのでしょう。という意味で、このあたりの明石の方のイメージは、見た目・挙作動作まことに麗しいけれども、生身の質感に乏しい今どきのスーパーモデルや、売れっ子タレントを思い起こさせます。計算された美しさとは、悲しいかな、正確にその作り物としての本質を、世間に見透かされてしまうので、彼女が自覚的に自身の声を発するのは、ずうっと先の話になりますね(彼女の家系は、両親も含めて長生きなのです)。 何だか明石の方を、ことさらに貶める話になってしまいました。これは彼女自身のせいではなく、まことに愚直な正直者の両親の養育がなせるわざなので、極論すればあまりにも完璧に、育みが上手く行き過ぎた結果なのかもしれません。彼女はその素直さゆえに、自身の生き方や両親の考え方にかんして、疑問の持ちようがなかったのです。というわけで子供の教育というのは、親にとってなかなか厄介だ、という月並みな感想が出てくるのですが、ある意味適当に(生活その他の振るまいにかんして)抜けた親の方が、子にとっては批判の目を育てるという意味で、対自化のチャンスがあるのかもしれません。明石の方には間違いなく、反抗期というのは無かったでしょう。 さて、源氏は心内では明石の方に「悪いことをした」!?と思いながらも、若姫君の引取りを粛々と行なおうとします。― とのも、しか思しながら、おもはむ所のいとほしさに、しひても、えのたまはで、 「御袴着のこと、いかやうにか」と、のたまへり。御返りに、 「よろづのこと、かひなき身にたぐへ聞こえては、げに、おひ先も、いとほしかるべく思え侍るを、たちまじりて、いかに人笑へにや」と聞こえたるを、いと、あはれに思す。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の大臣も、そうしょうとは思われるが、(明石の方の)気持もいとおしくて、強いては(直に)、おっしゃることも出来ず、「(姫の)御袴着の事は、どうされます」とばかり、便りを寄こされる。ご返事には、「何かにつけて、不甲斐ない私のもとに居られては、まことに、(姫君の)生い先は、可愛そうに思えますが、(かと言って、そちらへ移って、高貴な人々と)立ち混じっては、どんなにか物笑いに(なることやら)」と申されるのを、(大臣は)たいへん、あわれに思われた。― つづく ―
2009.07.20
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明らかに違うのは、明石の方の両親が健在で、しかもなかなか魅力的であるということなので、したがって彼女の性格をみるうえで、この父入道と母尼君のパーソナリティーを欠かすことは出来ません。 さてそこで、母尼君の登場となります。父入道に負けず話が長いのですが、明石の方が相変わらず嘆いているのをみて、― 尼君、思ひやり深き人にて、 「あぢきなし。みたてまつらざらむことは、いと胸いたかりぬべけれど、遂に、この御ために、よかるべからむことをこそ、思はめ。あさくおぼしてのたまふことにはあらじ。たゞうち頼みきこえて、わたしたてまつり給ひてよ。母方からこそ、帝の御子も、きはぎはにおはすめれ。このおとゞの君の、世に二つなき御有様ながら、世に仕へ給ふは、故大納言の、いまひときざみ、なりおとりたまひて、更衣腹といはれ給ひしけぢめにこそ、おはすめれ。まして、たゞ人は、なずらふべき事にもあらず。また、親王たち・大臣の御腹といへど、なほ、さし向かひたる劣りの所には、人も思ひおとし、親の御もてなしも、えひとしからぬものなり。まして、これは、やむごとなき御方々に、かゝる人、出でものし給はば、こよなく、消たれ給ひなん。ほどほどにつけて、親にも、一節もてかしづかれぬる人こそ、やがて、おとしめられぬ初めとはなれ。御袴着のほども、いみじき心をつくすとも、かかる深山隠れにては、何の栄かあらん。たゞまかせ聞こえ給ひて、もてなし給はむ有様をも、きゝ給へ」 と教ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 尼君は、思慮深い人であって、「(そういうふうに思い悩むのは)味気無いことですよ。(姫君を自ら)お育て出来ないことは、たいそう胸の痛むことではあるけれど、結局、この(姫の)御ために、(いちばん)良いことだけを、考えるべきです。(源氏の君は)浅はかな考えで(このことを)おっしゃっているのではありません。ひたすら(君を)お頼み申して、(姫君を)お渡し申上げることです。母方(の身分)からこそ、帝の御子といえども、差がお出来になるものです。この(源氏の)大臣も、世に二つと無い(高い器量の)お姿ながら、臣下となって(帝に)お仕えなさるのは、故大納言が、今一段、位が低くていらっしゃって、(御母君が)更衣(という低い位)の子とされた、その結果でいらっしゃるのです。まして(私どものような)平人など、比ぶべくもありません。また、御子や大臣の血筋とはいっても、なお、母方の係累が劣っている姫は、世間も低く見貶めるでしょうし、親からのお取り扱いも、公平とはいかないでしょう。まして、この姫君は、(他の)優れた係累の方々から、(同じような姫君が)お生まれになった場合には、たいそう、気圧されておしまいに(なるかもしれません)。身分柄によって、(そうした)親たちにも、ひと際格別にお取り扱いされる人こそ、先々、貶められぬ基ともなるのです。御袴着の儀式についても、(どれだけ)盛大に心を砕いたところで、(大堰の)このような山深いところでは、何の映えがあるでしょう。(ここはもう源氏の君に)ひたすらお任せ申して、(君と紫の上が、姫君を)お世話なさるご様子ばかり、お聞きなさいまし」と、教え諭す。 この母尼君、明石の鄙にいる時から、けっこう都の消息に詳しくて、光源氏の動静などにも通じていました。もともとが都の出身であるうえに、一つにはダンナの入道が桐壺更衣の従兄弟で、その子の光源氏の噂を聞く機会があっただろうと思われるのと、もう一つは彼女自身も、祖父(中務宮)が宮家の係累を引いていたらしいこともあって、都の人たちとの交流があったのでしょう。 ここの母尼君の話は、前に引いた父入道の恐ろしく情念が先走った話しかたに比べて、非常に冷静かつ論理的で、かつてダンナとは口ゲンカでも負けない応対をしていましたが、そうした印象よりもずうっと聡明な感じがしますね。もちろんそこには、大堰の屋敷で光源氏と直接会ったときに、おおいに懐柔されたこともあるのですが。― つづく ―
2009.07.19
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いくら光源氏が気を遣っているとはいえ、対する明石の方の心内は、理と情の間で揺れに揺れる。若姫君のことを考えれば、理屈としては分かっていても、何といっても気持が納得しない。このかんの彼女は自身の気持を落ち着かせるために、思い悩んでいるかのようです。― 「 … わが身は、とてもかくても、おなじ事、生先とほき人の御うへも、つひには、かの御心にかゝるべきにこそあめれ。さとならば、げに、かう、なに心なきほどにや、ゆづりきこえまし」と、思ふ。又、「手をはなち、後めたからんこと。つれづれも慰む方なくては、いかゞ、明かし暮らすべからむ。なににつけてか、たまさかの御立ち寄りもあらむ」など、さまざまに思ひ乱るゝにも、身の憂きこと、限りなし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「 … 我が身は、どうなっても、同じこと、(しかし)生い先長い人(若姫君)の御身上は、結局、かの(紫の上の)お心にのみ掛かっているのだわ。であるなら、確かに、(源氏の君が)あのようにおっしゃるように、(若姫の)物心がつかないうちに、お譲りしてしまおうか」と、(明石の方は)思う。(しかし)また、「(姫を)手放したら、(後々さぞかし)後ろめたく思うことは(かぎりないだろう)。日頃を慰める方法もなくて、どう、明かし暮らしていけばよいのだろう。(源氏の君も、若姫がいないのであれば)何にかこつけてか、たまさかお立ち寄りになることがあるだろう」などと、さまざま思い乱れて、我が身の憂さは、限りがない。 それにしても明石の方、いずれ国母の実の母となるべき人ながら、その腰の決まらなさかげんは、たいていの読者がサジを投げ出してしまいたいぐらいのもので、そうでないのは源氏の君だけじゃないか、という気がしてしまいます。 そういう感じを抱いてしまうというのは、察するに彼女の心内の状況が、明石で登場の折りから繰り返し記述された内容から、一歩も踏み出していないところから来るので、社会的身分差や女としての不安定さを勘案しても、これまで彼女は我が身の運命を、自身で決めたことが一度もないのです。降りかかってくる運命に対して、ただただ見守るばかりで、ひたすら思い悩むばかり。あれほどブレにブレた御息所でさえ、源氏を振り切った伊勢下向の決断は自分で行なったのですが、この人は大堰行きにかんしても親の意向が強い。 かの紫の上でさえ、ここのところ自我意識に目覚めて、おおいに存在感を増しているのですが、この人は決して頭も器量も悪くない(どころか大変な美人で、琴その他楽器の名人で、立ち居振るまいの優雅さは、高貴な人と変わらない、と描かれている)のですが、自身の意志と行動がまったく出てこないということで、依然として影が薄いといわざるを得ませんね。 どうもこのあたり、物語や小説の読者は(私だけかもしれませんが)光源氏と違って気が短いので、「いったいこの人は、何を考えてんのやろ」と思ってしまいます。私はここで、似たような境遇だった空蝉の振るまいを、彼女と比較したくなってきます。光り輝く貴公子に強く惹かれる自分を発見しつつも、我が身の立場を考えて、すんでの所で身を引いた空蝉と、明石の方の違いはどこから来ているのか。 以前空蝉の話をしたときに、彼女がもし成り上がりの受領の妻であれば、ひょっとしてその身分差を受け入れてへりくだりつつ、あえて光源氏の想い者の一人になったのではないか、という話をしたことがあります。彼女をしてそうさせなかったのは、止むを得ない事情で落剥して、うだつの上がらない中年男の妻となった(しかも単身赴任中)とはいえ、自身のもともとの出自に対する高い矜持が、へりくだることを許さなかったのではないか、ということだったのですが、では明石の方はどうなのでしょう。― つづく ―
2009.07.18
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野暮用が入って、少し休んでしまいました。それにしても祇園祭の時期は、たいてい暑いと分かっていても、ヤッパリ暑いですね。私は暑いのは好きな方ですが、この人いきれの混じった濃密な湿度は何とも言えません。エアコンのない平安時代、都人はどう過ごしていたのでしょう。彼らは何よりも衣装が濡れるのを嫌ったと言われるのですが(衣装の色が身分の証しなので)。 さて、さしあたって紫の上の内諾を得た光源氏は、ふたたび明石の方に二条の自邸近くに移ることを勧めます。― 「なほ、かくては、え過ぐさじ。かの、ちかきところに思ひ立ちね」と、進め給へど、つらきところ、おほくこゝろみはてむも、のこりなき心地すべきを、「いかに言ひてか」などいふやうに、おもひ乱れたり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の君は)「やはり、このようなことでは、つつがなくは過ごしていけないでしょう。前にも言ったように、近いところに(移ることに)心を固めなさい」と、おすすめになるが、君の側近くに移って、(かえって今まで以上に、間遠なお心を)いとまなく見はててしまって、情けない心地しか残らないのなら、「どう言って(我が身をなぐさめることができよう)」などというふうに、思い乱れるのであった。 光源氏の方は、この明石の方の心組みを、あらかじめ予想していたかのごとくで、つづけて、― 「さらば、このわかぎみを。かくてのみは、便なきことなり。おもふ心あれば、かたじけなし。たいに、聞きおきて、つねにゆかしがるを、しばし、みならはさせて、「袴着のことなども、人知れぬさまならず、しなさむ」となん、おもふ」と、まめやかに語らひ給ふ。「さ、おぼすらむ」と、おもひわたることなれば。いとゞ胸つぶれぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「では、(あなたがお出でにならないのなら)この若姫君だけでも(およこしなさい)。(このままでは)よろしくないでしょう。(かねてから私には)考えるところがあって、申し訳ないとは思うのですが。二条の対に(いる紫の上)は、以前から聞いていて、いつも会いたがっていらっしゃることだし、しばしの間、馴染んでもらって、『袴着のことなども、晴れて立派に、あげさせたい』と、思っているのです」と、細やかに相談なさる。「(前からたぶん)そのようにも、お考えだったのだろう」と、思いつづけていたこと(であった)。(明石の方は)いっそう胸がつぶれる思いである。 源氏は明石の方が、ことさらな身分の意識ゆえ側近くに、まみえるのをためらっているのは、先刻承知。だからこそ若姫君の袴着のことを持ち出して、いわば理を取るか、情を取るか迫るのです。ひじょうに「まめやか」とはいえ、相手の出かたをある程度読んで、最大の懸案をさりげなく持ち出す。このあたり光源氏は何度も言いますが、気配りを最大限利かせながらも、当初の目的は外さないのです。― つづく ―
2009.07.17
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さて「松風」につづく「薄雲」の帖は、引き続き明石の方の姫君をめぐる話と、左大臣、藤壺の女院の死があって、話が大きく展開するとともに、光源氏の振るまいを中心として語られて来た前半部が、このあとの「槿(あさがお)」の帖とセットで、何となく締めくくられている感じで、「乙女」の帖以降、夕霧や玉蔓その他さまざまな人物が登場する中間部は、あきらかに物語の趣きが変わっているのです。 この帖で、源氏物語冒頭から登場して、光源氏の振るまいの原点ともなった藤壺の女院が世を去り、左大臣も死ぬということは、須磨流遇という試練はあったとはいえ、光り輝く貴公子がいよいよ世の中心に躍り出るというa系の物語の筋として、源氏が成熟していく経過の時の流れを表わすのに、あらかじめ組み込まれたストーリーだったでしょう。この「薄雲」と「槿」の帖は、二度と戻らない時の流れを表わす物語として、なかなか感慨深い印象を与えてくれる帖です。 ところで、これまで触れてこなかった話題として、この物語の各帖に付されたタイトルのことなのですが、これは誰がいったい何時付けたのでしょう。紫式部に決まっているじゃないか、と言われそうですが、一概にそう決め付けるわけにもいかないのではないか? 彼女自身が付けたとして、それを付けたのは何時なのか、と言えば、もちろんいちばん自然なのは、各帖の物語を書き終えた時、ということになるのですが、おおむねそれで大過ないとはいえ、たとえばこの「薄雲」にかんしては、ちょっと待てよ、という感じがしないでもないのです。 基本的に、各帖のタイトルは、その中で詠われた和歌から取られていることが多く、またそれぞれに、はなはだ雅趣の深い命名が多いのですが、ときに物語の内容を暗示する場合もあって、代表的なのが「雲隠」ですが、これは最初から彼女が意図して、命名だけで中味を省いたかどうか、いろいろ議論が出てくるところですね(中味を最初から書かなかったのは、ほぼ間違いないでしょう)。 さてこの「薄雲」という帖の名にかんして、今話をするというのは、この命名がたんに、この帖の中味を暗示しているだけでなく、その後ずうっと先の話の展開を前提に、付けられているように思えるからで、この帖の話の中味だけから判断すると「薄雲」どころか「暗雲」であってもおかしくない要素があるからです。 その中味の話はこのあとしていくのですが、相当な不安要素が発生しても、結局それが大きな話には展開せず、あくまで「薄雲」のままで「暗雲」には至らなかったというのは、a系の昔物語の帰結が光源氏の夢御殿の実現と、准太上天皇という帝に準じる栄転という、予定調和の筋立てで組まれているので、あまり事件化するわけにはいかなかったからでしょう。 とすれば、この帖の名は、すでにa系物語の帰結を知っている人が後から付けたか、あるいは紫式部本人が最初から事件化する気がなくて書いたのか、どっちかだということになります。 実をいうと、源氏物語には事件化しそうで、結局何も起らない、今どきの小説読みなら、当然次に来るべき衝突とか展開を「こう来たら、こうなるだろう」と予期して読み進むところ、結局何も起らずに(まるで何もなかったかのように、肩透かしのまま)、別の話がすまして進行していくということが、けっこうあるのです。何だか泡粒のような小宇宙が生まれかけては、はじけ飛んで消えてしまう今どきの最新宇宙論のイメージのようで、どうかするとその中の一つの泡が、途方もなく膨らんで大きな宇宙に実体化する、何かそんな感じがしますね。 こうした物語の手法(というか手法以前)というのが、源氏物語だけなのかどうか、小説作法とか文学理論など何もなかった時代の物語の概念というものを、やはりもう少し調べなくてはならないのですが、もちろんそんなことは私の手に余ります。 というわけで各帖の命名の話から、ずいぶん思わせぶりな前置きをしてしまいましたが、そのわけは中味の話でゆっくりすることにしましょう。― つづく ―
2009.07.14
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「源氏物語」のヘタなコメント付きの実況中継のような、おしゃべりをつづけているのですが、我ながらこのまま同じように続けて行ったものか、思案しています。この調子で続けていくと、いつ終わるか分からない、ということがだんだん明らかになっているからで、それでも続けるには、しかるべきキチッとした根拠を持っていないと、たんなる自己満足になってしまうでしょう。 ブログだからそれでイイじゃん、という考え方も一方で強い誘惑としてあるわけですが、独りよがりな自己満足というのであれば、それほどの労力を費やす必要はあるまいという気もします。まあ今でもそんなにオタク的に時間を割いているわけではありませんが、それでも原文と口語訳の照合には、それなりにやっぱり気を遣います。 原文から立ち昇る気息のような雰囲気が、今の言葉でキチッと嵌まるということはありえないのですが、それでも原文に刺激されて新たな言葉を生み出す、というのは白状しますと、一種ジグソーパズルに似た、創作の模倣という楽しみが実はあるのです。それならいっそ全文訳をやったら、という話になりかねないのですが(現にそれをブログでやられている方が何人かおられて、頭が下がるばかりですが)、私の志向はやはりそれともちょっと違うので、「源氏物語」の全体像を見ようとしたとき、全体訳をすれば見えてくるかといえば、たぶん見えてこないだろうというのが、今の私の観測なのです。 では今やっていることは何なのか、ということになるのですが、以前別のところでコメントしたことがあるのですが、例えば多少「源氏物語」の知識を持った外国人がいたとして(京都に来る外国人の九割は持っているでしょう)、こちらが概説的な通りいっぺんの解説ではなくて、物語の具体的な中味にかんして相手と対等に議論を楽しみ、ひいてはその中味が今の日本人としての私の考え方として、相手に伝えることが出来るようになりたい、ということです。 外国人の多くは、すでに「源氏物語」の教科書的な知識は持っていて、中にはしかるべき登場人物について、それなりの好みや批判を持っている人もいるわけで、「明石の方の生きかたは理解できない」といった議論が出てきたときに、適当にお茶を濁さずにまっとうな反論をする、それくらいの知識は持っておきたい、というのが、ひそかな狙いなのです、なんちゃって! それにしても、こうした外国人に対して、教科書的な答えしか出来ないというのは、相手に対して失礼なばかりか、たいていの外国人はそこで、すでに「こいつは自分の意見を持たない、つまらない奴」と判断してしまいそうです。多少は独りよがりな部分があったとしても、自分の意見を持っている、あるいは説明できるというのは、語学力というよりは、自身の古典とか歴史に対する畏敬をともなった知識(妄信せよとかではありません)によるところが多いので、理念や思想をともなわない語学力というのは、私に言わせればむしろ無いほうがマシなのです。 ちょっと興奮していますが、だから私は軽薄な英語の早期教育とか、Debateの訓練というのには反対なのです。理念のない英会話や論争力が、どれほど今どきの日本を貧しくさせているか、東大進学率を売り物にする中高一貫の有名私学の経営者たちは、とくと考えた方がよい。そこから生み出された他者を慮る心を失った東大生は、この国を荒廃させることはあっても、本当の意味でのエリートの気概はここから先も生まれてこないでしょう(エリートというのは本来、栄誉はあってもしんどくて、割りの合わない身分柄だと思いますよ)。 我がことのみに走る秀才などいくら生産しても、何もそこから真に価値あるものは生み出しません。形作られるのは牢固とした偏頗な特権意識だけでしょう。敗戦後60年以上経て、むしろこの閉鎖的特権階級は、見事なピラミッド構造を(私学と塾と予備校という網で)日本社会に張りめぐらせて、ビクともしないシステムを仕立て上げたように見えます。 実はそれは戦前からずうっと続いてきた日本の歴史そのままなのではないかと、最近の私は思っているので、今どき巷をにぎわす世間的なニュースは良くも悪くも、ここ100年ばかりの日本という社会に通有の現象の退屈な繰り返しに過ぎず、変わった変わったと浮かれ騒いでいるのは、あるいは敗戦後の政策的な眼眩しではなかったか、と疑ってもいいのではないか。 これらを突き崩し、まともな日本という国と社会をRestructuringするには、もっと我が歴史と古典を振り返り、それと真摯に対面して最終的にはそこから決別する、つまり対自化するのが、一番大切だと思っているのです。 と、まあ、またまた偉そうなことを口走ってしまいましたが、我がひそかな楽しみにも、多少でも書き記すべき理由があるとすれば、これぐらい高いところに目標を置いておけば、そう簡単に放り出すこともなく続けていくことが出来るかな、とも思ったりしているのですが、さて?
2009.07.13
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ここの紫の上の本心は本当はどうであったのか、男の私ならずとも、やっぱりよく分からないところだと思うのです。大野さんは研究室の女子学生?たちに聞いたところが「自分に子が無ければ、きっと可愛いと思う」という意見を引いて、案外そういうものなのか、という話をされている(ついでに丸谷さんも同意見)のですが、私はやはりそれでは納得できないのです。彼女がたんに子供好きだったという理由で、夫の妾腹の子を引き受けるなんて、到底本心とは思えないでしょう。 ここでまたまた私の人品骨相が出てしまうのですが、要は紫の上は、少なくとも表向きの気持の持ちようとして、光源氏の言うことに我が心を同化させたかったのではないか。源氏の主たる関心が本当に幼姫君にあるなら(その可能性は高いのです)、その子を手元に置いておけば、少なくとも大堰に出かける大義名分はなくなる。まったく止めることはなくても、しょっちゅう出かけるということはなくなるでしょう。 してみれば、ここの「すこしうち笑み給ひぬ」という紫の上の表情は、恐ろしい「氷の微笑」!ということになりますね(E・マーフィーとS・ストーンの対決ですか?)。したがって彼女の子供好きという記述は、ここの心理の本筋とは関係ないということになります。光源氏の人を懐柔する手法を、それこそ子供のときから、いちばん親しく見てきた紫の上が、上のような思考回路で、あえて夫の妾腹の子供を引き受けることを承諾した、というのはおおいにあるように思えてくるのですが。 はたして、その後の源氏の思いは、― 「いかにせまし。むかへやせまし」と、おぼし乱る。わたり給ふこと、いと難し。嵯峨野の御堂の念仏など、待ち出でて、月に二たびばかりの御契りなめり。年の渡りには、たちまさりぬべかめるを、「およびなきこと」と、おもへども、なほ、いかゞ、物思はしからぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「どうしたものか。ここに迎え入れようか」と、(源氏は)お心が乱れる。(大堰に)お出かけになるのは、(遠くて)たいへん難しい。嵯峨野の御堂の念仏などの行事に、かこつけても、月に二度ばかりの逢う瀬であろう。(七夕のような)年に一回の逢う瀬よりは、マシであろうとはいえ、「(それ以上は)叶わぬことだわ」と、(明石の上は)思うが、それでも、どうして、(それが)物思いの種にならずにおれよう。 自ら仕掛けた話に、紫の上が応じたことで、よく考えてみると明石の方との逢う瀬が難しくなっていることに気がつく。というわけで、「いかにせまし。むかへやせまし」となるわけですが、さしあたって彼としても、第一優先は紛れもなく幼姫君で、この子をいずれどうやって、今の東宮(冷泉帝の次の帝)の后として宮廷に送り込むか(つまり自身は、次帝の外戚になる)、ということが大事だったのです。その点では子供の出来ない紫の上とも思惑を共有していたわけで、心理的葛藤として肝心なのは結局、紫の上も明石の方も源氏の「気持が欲しい」ということでしょう。 というわけで、着々と宮廷での威勢を確立していく光源氏ですが、身内の方では何やら鬱々した感じを残したまま「松風」の帖はおわります。 はじめにも言いましたが、この帖はどちらかというと話の筋というよりは、人物それぞれの心の葛藤を克明に描くのが中心になっていて、変な比較ですが映画的というよりは、舞台的あるいは明石の入道のようにオペラ的なゆっくりした抑揚の変化と場面を見るような印象でしたね。 アメリカ映画流に善玉悪玉に分かれて、派手なドンパチを繰り広げて決着をつけるという流儀は、この物語には全編通してどこにもなく、心理的な衝突は眼に見えるガチンコ勝負でなくて、おおむね女の方の心理的な破裂となって、ときに「物の怪」となったり、主人の頭に灰をかけたり、宇治川に姿を消す、という現れかたで描かれる。これはたんに紫式部の流儀だったのではなく、おそらく平安貴族社会に共有された美学だったのでしょう。気色ばんで相手を難詰したり、反発するというのはハシタナイ、というのが京の洗練、雅な振るまいというものでした。― 源氏1000年 松風 おわり ―
2009.07.12
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もうすっかり古くなった映画で、私はE・マーフィーの「星の王子 ニューヨークへ行く」(1988)というコメディが大好きで、大金持ちのアフリカの王子が嫁さん探しにニューヨークへやって来きて、そこに住まうアフリカ系、ユダヤ系などなど、要するに一般に差別された階層の人々を、そのさもしい振るまいゆえに思いっきり笑い飛ばすという、奇想天外な発想が無類に面白く、また皮肉が利いていて、しかも役者が芸達者ぞろい。今もって美女に近づこうとする時のマーフィーの「うち笑み給へる」表情が忘れられません。E・マーフィーは、絶対笑わない喜劇役者だったP・セラーズと並んで、私のもっとも好きな俳優の一人です。 まあこれは余談ですが、この場面の源氏の表情を想像すると、思わず吹き出してしまいそうになります。― さし寄り給ひて、 「まことは、らうたげなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとて、物めかさむほども、はゞかり多かるに、思ひなん煩ひぬる。おなじ心に思ひめぐらして、御心に、思ひ定め給へ。いかゞすべき。こゝにて、はぐくみ給ひてんや。蛭の子が齢にもなりにけるを、罪なきさまなるも、思ひ捨てがたうこそ。「いはけなげなる下つかたも、まぎらはさむ」など、おもふを、「めざまし」と、おぼさずば、ひき結ひ給へかし」と、きこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) つつと(紫の上に)摺り寄りなさって、「本当は、かわいい幼姫君を見たくて(会ってきたのです)、浅い縁とは思われず、かと言って、晴れ晴れしく扱うのも、憚りが多くて、思い煩っているのです。(あなたも、私と)同じような気持になって考えて、ご自身で、考えをお決め下さらぬか。どうしたらいいでしょう。こちらで(養子にして)、育てていただけますか。三歳になるのですが、罪のない様子も(見るにつけ)、思い捨てることは(とても出来ません)。「頼りなげな腰つきも、(袴着をして)、取り繕って」などと、思うのですが、「怪しからんこと」と、お思いでないなら、(幼姫の裳を)引き結んでいただけますか」 袴着(はかまぎ)とは幼児が初めて袴をつける儀式、今で言う七五三のことですが、その儀式を母代わりとして紫の上がやってくれれば、晴々しく源氏の姫として世に出せるということです。まわりくどいですが、それは同時に大堰行きが明石の方に会うことではなく、我が幼姫が目的であることを強調する(ウソか本当かは別として)ことになる。どうするかを相手に相談しているようにみせて、じつは相手が(表向きでも)納得できる答えを用意しておく、というのが彼のやり方でした。だぶん政治向きでも同じような手法を用いたでしょう。 この場合、紫の上には心のうえでの大義名分が必要でした。彼女は源氏に子供のときから育てられたせいか、この相手に負けず利発で、その考えかたを先読みするところがある。意地悪い見かたをすれば、要は自分が(本意なく、拉致されて)源氏に育てられたことを、今度は逆に源氏の子にするということです。であるなら、物心のつく前に早めに連れてきてもらった方が好いのではないか。我が身のつらい体験を思い出して、紫の上はそのように考えたのかもしれません。― 「思はずにのみ取りなし給ふ、御心の隔てを、「せめて、見知らず、うらなくやは」とてこそ。いはけなからん御心には、いとよう、かなひぬべくなむ。いかに美しきほどに」とて、すこしうち笑み給ひぬ。児(ちご)を、わりなう、らうたきものにし給ふ御心なれば、「得て、抱きかしづかばや」と、おぼす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(私が)思っても見ないようなことを(あなたはあれこれ誤解して)お取りになる、そういう見当違いなお考えを、『あえて、知らない振りをして、何事もなく過ごすことは(あるまい)』と思っていただけですわ。(その姫君の)幼いお心には、きっとよく、かなうように致しましょう。どれほどか可愛らしくなって(いらっしゃるでしょう)」と、少し微笑まれる。(紫の上は)幼児を、ことのほか、可愛がられるご気性なので、「(ここに)引き取って、抱くばかりに(大切にして)育てたい」と、お思いになる。― つづく ―
2009.07.11
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二泊三日の外泊の約束が、止む終えず三泊四日になって、ただでさえご機嫌の悪い紫の上に対して、源氏はおおいに分が悪い。このあとに描かれる光源氏の振るまいは、人を懐柔する彼一流の気遣いが出ているのです。― 例の、心とけず見え給へど、見知らぬやうにて、 「なずらひならぬほどを、おぼし比ぶるも、悪きわざなめり。「我は我」と、思ひなし給へ」 と、をしへ聞え給ふ。暮れかゝる程に、内裏へまゐり給ふに、ひきそばめて、急ぎ書き給ふは、かしこへなめり。そばめ、こまやかに見ゆ。うちさゞめきて、つかはすを、御達など、にくみきこゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (紫の上は)例によって、機嫌が悪くお見受けするが、(光源氏は)見知らぬような振りをして、「比較にならないほど(低い身分)の者を、(我が身と同じレベルで)お考えになったり比べたりするのは、つまらない仕業ですよ。『私は私(で関係ない)』と、思い致してください」と、教え諭される。夕方になって、内裏に参上される折り、(気を遣って)こそこそと、急いでお書きなさる(お手紙)は、例の(明石の方の)ところへであろう。ちょっと見ても、細やかに(心を込めているように)見える。ヒソヒソささやいて、(大堰へ)使いを遣るのを、(紫の上お側付きの)女房たちは、憎さげに見ている。 「我は我」とは、以前、紫の上自身が「澪標」の帖で独りごちた言葉で、源氏はそれをそのまま彼女に返しているのです。 ところで、明石の方への手紙を使いに持たせる場面、紫の上方の女房たちが、小面憎く見守っているというのは、当時の女房社会と主人の位置関係が見えて面白いですね。別のところで、光源氏が夜這いのあと自邸に戻ったところが、女房たちが門を閉めて入れなくした、という話がありますが、天下の光源氏といえども、配下であるべき女房どもにも、しかるべく気を遣わなければならなかったのです。― その夜は、内裏にもさぶらひ給ふべけれど、とけざりつる御気色とりに、夜更けぬれど、まかで給ひぬ。ありつる御返り、もて参れり。えひき隠し給はで、御覧ず。ことに憎かるべきふしも見えねば、 「これ、破り隠し給へ。むつかしや。かゝる物の散らむも、今は、つきなき程になりにけり」とて、御脇息によりゐ給ひて、御心のうちに、いとあはれに、恋しう思しやらるれば、火をうち眺めて、殊に物ものたまはず。文は、広ごりながらあれど、女君、見給はぬやうなるを、 「せめて、見隠し給ふ御目じりこそ、わづらはしけれ」 とて、うち笑み給へる御愛敬、所せきまでこぼれぬべし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) その夜は、内裏に宿直なさる予定のところ、(紫の上の)解けそうにないご機嫌をとりなそうと、夜更けになったが、お帰りになった。出した手紙のご返事を、(明石の方から、ちょうど)持って来た。すぐお隠しになるわけにもいかず、(しかたなく、その場で)ご覧になる。ことさらに怪しそうな中味でもないので、「これは、破って捨ててください。(女からの手紙は)厄介なことよ。このような手紙が人目に触れるのも、今は、不似合いな歳になってしまった」と言って、御脇息に肘をもたせていらっしゃるが、お心の内では、おおいにあわれにも、恋しくも思っておられるので、明りの灯をぼうっと眺めて、とくに物もおっしゃらない。手紙は、拡げられて置いてあるが、女君は、ご覧になる様子でもないので、「強いて、見ようとなさらない(あなたの)目つきが、おおいに気になることよ」とおっしゃって、微笑みなさる愛敬たっぷりのご表情を、(お顔から)吹きこぼれんばかりにお見せになる。 えてして、気になることがあって予定を変更すると、最悪の結果を来たすということが多いのですが、この場合は帰宅した頃合いに、ちょうど愛人からの手紙が届いて、はなはだ言い訳がしづらいという設定です。紫式部は近代小説家と同じく、こういう状況設定を作り出すことと、小道具(この場合は手紙)の使い方がうまい。 さっと目を通して大丈夫と見るや、手紙を拡げたまま置いておく。こうなると紫の上は沽券(こけん、体面・品位)にかけても、見るわけにはいかないので、あっちを向いている。このあたり文学の世界では、正妻という役回りは、おおむね損というか敵役のように(本来悪いのは源氏なのに)なってしまって、割に合わないことが多いですね。 というところで、「うち笑み」ながら、紫の上に摺り寄る光源氏の姿は、何だかE・マーフィーみたいですね。― つづく ―
2009.07.10
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ここで明石の方が、なかなか見送りに出てこないのを、源氏が「あまり上衆めかし」と、思ったという意味が、どうもピンとこなくて、あれこれ考えてみたのですが、ひょっとすると「夕顔」の帖で六条御息所との熱い一夜のあと、御息所が頭をもたげるのが精一杯で、寝床から出ずに源氏を見送った、という有名な(大野さんも寂聴さんも指摘されるところの)くだりがあって、であれば、御息所は誰しも認める格式高い人でしたから、源氏から見れば、ここでの明石の方の似たような(?)振るまいは「上品ぶりっ子」すぎる、ということになるのでしょうか。ちなみに円地さんはここを「あまりに貴人めかした態度」と訳されています。 いずれにしても、このあたりに明石の方に対する、源氏たちの見なしがどの程度であったかを、想像するよすがが出ているのではないか。ともあれ私はむしろそれにつづいて紫式部が、ようやく出てきた明石の方を「いみじうなまめいて由あり、たをやぎたるけはひ、親王(みこ)たちといはむにも足りぬべし」というふうに描いたことに興味があるのですが、しかしこの話は次の「薄雲」の帖で、まとめてしたいと思います。 どうもこの明石の方という人、明石での源氏との出会いから始まって、けっこう丁寧に描かれているのですが、私の見るかぎり、いっこうに生きた像を結んでこないのです。読んでる私の性格が悪いから見えてこないのだ、と言われればそれまでですが、爾来、紫の上も最初の頃そうだったので、あせらずに今まで、この人を俎上にのせることはしてきませんでした。しかし先ほどの記述と、これまでの父入道及び母尼君のはなはだ魅力的な人物像を見てきて、どうやらこのあたりに、明石の方の人品を測るヒントがあるように思っているのです。 さて大勢の殿上人を引き連れての、桂院での大饗宴の様子(今どきの私たちにとって、読むのが一番しんどい部分の一つですね)は本文をみていただくとして、ここでハッキリしてきたことは、宮廷での光源氏の威勢が、本人の意志とは関係なく大きくなっていっていることで、だからこそ彼に阿諛追従(あゆついしょう、相手に媚びへつらうこと)する殿上人たちは、人伝てに聞いてまで大堰の邸まで押しかけてくるのです。 饗宴の最中に、冷泉帝から忌明けの出仕はどうしたのか、との消息があるが、一応畏れ入ってはみるものの、途中で切り上げるわけにも行かず、むしろ夜になっていよいよ興が深まっていく感じ。源氏としては客人に対する威光もあって「この際だから、いてまえ!」ということでしょうか。土産の用意がないということで、急いで大堰から取り寄せたりもする。 複雑な気分なのは大堰の人たちで、上級貴族たちの歌舞管弦の騒ぎを近くに聞きながら、下級である我が身分を振り返らざるを得なかったことでしょう。ここのくだり、何となく「宇治十帖」の対岸の饗宴シーンと似ているのですが、まあその話はずうっと先です。 さてその翌朝、源氏はいったん二条の館に戻ります。― 殿におはして、とばかり、うち休み給ふ。山里の御物語など、きこえ給ふ。 「いとま聞こえしほど過ぎつれば、いと苦しうこそ。この好色者どもの、たづね来て、いといたう、強ひとゞめしに、引かされて。今朝は、いと悩まし」 とて、大殿籠もれり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の大臣は、二条の)自邸に戻って、少しばかり、お休みになる。(紫の上には、桂の)山里のお話などを、なさる。「おいとま申しておった日頃を過ぎてしまって、誠に申し訳なく(すいません)。あの好き者たちが、(私の居場所を)尋ね当ててやって来て、すごく無理矢理に、強いて留めるものですから、(ついつい)引かされてしまって。今朝は、たいへん疲れて」と言って、寝床に入ってしまわれた。― つづく ―
2009.07.09
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「将を射んと欲すれば、まず馬~」とばかりに、源氏は明石の方への難儀な用事の前に、その周辺を固めていく。都から送った乳母が彼の腹心であったのは当然として、この尼君に好感を持たれたことは、はたして次の「薄雲」の帖で彼女の重要な発言となって現れることになります。 人とのやりとりの最中に、一瞬にして相手の器量を測り、それを確認し、さらには味方につける、というのは、大将としての必須の技量だと思うのですが、彼はそれを腕力でも弁舌でもなく、いわば平安時代の貴族の意匠で振るまっているわけで、今どきの風俗と違うからといって、彼に将器(人の上に立つ者の器量)がなかったわけではありません。その器量の現れかたが、ときの風俗習慣によって変わっていくだけで、しょせん人としての根っこのありようは、あまり変わっていないのではないか。ただしそれを理解するには、こちらももう少しこの物語の時代に歩み寄ったり、(呑まれない程度に)想像を逞しくする必要があるのかもしれません。 厳密にいうと、これらの技量も貴種の血筋だけを取り得にして、おそらく必死で身に付けた光源氏だけが具有できる振るまいで、同時代の他の貴族、あるいは別の時代の武将や殿様が、同じことをなぞることが出来るわけではありません。傑出した人物というのは、基本的にきわめて独創的な思想や振るまいを身につけるもので、それはときに他人に対して仮借ないものに映るときもあります(頼朝とか信長を見てごらんなさい)。 このあとの源氏の振るまいについても、あるいは今どきの倫理観を持ち込んだら、戦わずしてすべてをモノにしていく彼一流のやり方に、違和感を感じる人もいるかもしれませんね。 さてこの日は大堰の邸から、ほぼ完成した桂の御堂へ行って、しかるべき務めを済ませた後、また大堰に戻ってくる。源氏としては明石の方と幼姫君をどうするか、まだ扱いかねていて、姫君だけを養女として二条に引き取ることも考えるが、お方にはまだ言い出しかねて、夜が更けていく。その晩はこの先どうなるか不明ということもあってか、どうも相当熱い愛の睦み合いがあったのごとくで、翌朝はというと、― またの日は、京へ帰らせ給ふべければ、すこし、大殿籠りすごして、やがて、これより出で給ふべきを、桂の院に、人々おほく参り集ひて、こゝにも、殿上人、あまた参りたり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 翌朝は、京へお帰りになるべきところ、少し、寝過ごされて、急いで、ここからお出でになられるところが、桂の院には、多くの人々が参上していて、(さらには大堰の)こちらにも、殿上人たちが、大勢参ってくる。 荘園の領民はともかく、こちらにいると聞いた殿上人たちが、あいさつがてら、大堰の邸にやってくるというのは、本来大堰のほうはお忍びであった源氏にとっては、腹ふくれる部分もあったでしょうが、しかるべき人たちを放って帰るわけにもいかず、結局また桂の院へ行って、大饗宴を行なうこととなります。 しかしその前に、先の決まらぬ明石の方と幼姫君との、しばしの別れがある。戸口に乳母が幼姫を抱いて、見送りに出てきたのを見て、源氏はさまざま乳母に話しかける。― わか君、手をさしいでて、たち給へるを慕ひ給へば、つい居給ひて、 「あやしう、もの思ひ絶えぬ身にこそありけれ。しばしにても、苦しや。いづら。など、もろともに出でては、をしみたまはぬ。さらばこそ、人心地もせめ」と、のたまへば、うち笑ひて、女君に、「かくなむ」と聞ゆ。なかなか、物思ひ乱れて臥したれば、とみにしも動かれず。「あまり上衆めかし」と、おぼしたり。人々も、かたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出でて、几帳に、はた隠れたるかたはらめ、いみじうなまめいて由あり、たをやぎたるけはひ、親王たちといはむにも足りぬべし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 幼姫は、手を差し出して、(源氏の君が)立ってらっしゃるのを慕っていらっしゃるので、(源氏は)ついそこに居られるまま、「不思議なほど、物思いが絶えない身であることよ。しばらくといえども、苦しいことだ。(明石の方は)出てらっしゃい。なぜ、いっしょに出て、(別れを)惜しみにならないのか。そうであってこそ、(私も)人心地がしようものを」と、おっしゃると、(乳母は)少し微笑んで、女君に、「この由なので」と伝える。(女君は)心乱れて臥せっていて、急には動くことも出来ない。(源氏は)「ちょっと上品ぶりじゃないか」と、思われた。女房たちも気を揉むので、しぶしぶ這い出てこられるが、几帳に、半ば隠れた横顔は、たいへん艶めいて気品があり、たおやかな気配は、親王たちと呼んでも差し支えないような様子である。― つづく ―
2009.07.08
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その者たちにも庭の手入れなどをさせていたところを、明石の方の母尼君がご覧になる。― 尼君、のぞきて見たてまつるに、老いも忘れ、もの思ひも晴るゝ心地して、うち笑みぬ。東の渡殿の下より出づる水の心ばへ、つくろはせ給ふとて、いと、なまめかしき袿(うちぎ)姿、うちとけ給へるを、「いと、めでたう、嬉し」と、見たてまつる …、 「尼君は、こなたにか。いと、しどけなき姿なりけりや」 とて、御直衣(なほし)めし出でて、たてまつる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 尼君が、(その様子を)覗いてお見上げしていたところが、老いの身も忘れて、物思いも晴れるような心地がして、微笑まれる。東の渡殿の下を通る遣水の具合を、修繕するとて、いかにも、なまめかしい袿姿で、くつろいでおられるのを、「何とも、めでたくて、嬉しいこと」と、お見上げしている …、「尼君は、こちらにおられたか。(こちらは)いかにも、しどけない恰好で」と、(脱いであった上着の)御直衣を取り寄せて、お召しになる。 このあと、母尼君とのやりとりがしばらく続くのですが、このあたりは先に乳母を明石に遣るときに、その人の器量を、会話や「たはぶれ」でさまざまに測ったのと同じような、光源氏一流の人心掌握術がうかがえると思うのですが、源氏の尼君と入道の苦労に対するねぎらいに対する、尼君の返答は、なかなか雅なものでした。― 「荒磯かげに、心ぐるしう思ひ聞えさせ侍りし二葉の松も、「いまは頼もしき御生ひ先」と、祝ひ聞えさするを、「浅き根ざしゆゑや、いかゞ」と、かたがた、心つくされ侍る」など、きこゆるけはひ、よしなからねば、昔物語に、みこの住み給ひける有様など、かたらせ給ふに、つくろはれたる水の音なひ、かごとがましう聞こゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(あの明石という)荒磯のそばに(お生まれになって)、心苦しくもお見上げしておりました双葉の松(幼姫)も、『今は(父君とも対面して)頼もしい往く末』と、お祝い申上げるところが、『(母方の)浅い身分のせいで、いかがなものか』と、かたがた、心がかりなことでございます」などと、お答えする気息が、たしなみがなければできないように感じて、(源氏は)昔の話、(すなわち尼君の祖父である)中務の親王が(ここに)住んでいらっしゃった頃の、話をおさせになると、修繕した遣水の音が、ことさらに喧しいように聞える。 尼君の返答のしかたに、かつての貴人の気息を感じて、ただちに源氏は昔物語を仕向ける。最後は結局、和歌の出来ばえで判断するのです。― 住み馴れし人はかへりてたどれども 清水ぞ宿のあるじ顔なるわざとはなくて、言ひ消つさま、「みやびかに、よし」と、聞き給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (尼君)住み慣れたかつての人が帰ってきて思い出をたどるけれども 庭の清水だけが主人顔で流れていることよさりげなく、(今は私はこの家の主ではないと、へりくだって)詠い収めるのを、「品があって、立派だ」と、お聞きなさった。― つづく ―
2009.07.07
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後になって明らかになるのですが、どうもこのときの光源氏は、物忌みの期間を利用して、大堰の邸に出かけるつもりだったようです(物忌みの間、宮中に参内できないので)。ところが、紫の上のご機嫌がことのほか悪かったので、グズグズしているうちに、忌み明けが迫ってきたので、姫君への説得はあと回しにして、とりあえず出かけた、というところでしょうか。― 忍びやかに、御前、うときはまぜで、御心づかひして、わたり給ひぬ。たそがれ時に、おはしつきたり。狩の御衣(おんぞ)にやつれ給へりしだに、世に知らぬ心地せしを、まして、さる御心してひきつくろひ給へる御直衣(なほし)姿、世になくなまめかしう、まばゆき心地すれば、思ひむせつる心の闇も、晴るゝやうなり。めづらしう、あはれにて、わか君を見給ふも、いかゞ浅くは思されん。今まで隔てける年月だに、あさましく、悔しきまで思す。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 忍びやかに、前駆(おさき)も、近しくないものは交えず、お心遣いして、お出かけになる。たそがれ時に、お着きになった。(昔、明石の折り)狩衣でやつれたお姿だったときでさえ、世に見たことがないほどの心地がしたのに、まして(このたび)、ことさらにお心なさって装いなさる御直衣姿は、うつし世とも思われないほど艶かしくて、眩い感じがするので、(明石の方は、それまで)想いむせんでいた心の闇も、晴れるような気がした。(源氏のほうも)めずらしくも、あわれにも思って、(若)姫君をご覧になるにつけても、(この二人との縁を)どうして浅く思われることがあろう。今まで離れて暮らした年月を、(あらためて)残念で、悔しくも思われた。 考えてみると、明石から離れてから三年が経っているわけで、源氏ならずとも(とくに赤子を見せられては)、感慨深いものがあったでしょう。ひそかに明石に送った、例の乳母とも再会します。― 乳母の、くだりし程は、衰へたりしかたち、ねびまさりて、つきごろの御物語など、なれ聞こゆるを、あはれに、さる塩屋のかたはらに、すぐしつらんことを、おぼしのたまふ。 「こゝにも、いと里離れて、わたらむ事も難きを、猶、かの、本意あるところに移ろひ給へ」 と、のたまへど、 「いと、うひうひしき程過ぐして」 と、きこゆるも、ことわりなり。夜一夜、よろづに契り語らひ、明かし給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 乳母も、(明石へ)下っていった頃は、やつれた姿だったのが、おおいに器量が好くなって、月ごろの出来事などを、親しくお話しするが、(源氏の命で)憐れにも、あのような(田舎の)塩屋の近くで、過ごしてくれたことを、(君は)忘れずにねぎらわれる。「ここも、(都からは)かなり離れていて、訪ねてくるのも大変なので、やはり、例の、(私が)本意とするところへ来て欲しいのです」と(源氏は、明石の方に)、おっしゃるが、「大変、慣れない時を過ごしていますので(慣れてから … )」と、おっしゃるのも、道理である。その夜は一夜、さまざまに契り語り合って、明かされた。 翌日は、朝から家司などに邸の修繕をさせるのですが、桂の御堂に集まっていた源氏の荘園の領民たちも、うわさを聞いてみんな大堰にやってくる。このあとの源氏の振るまいが面白い。― つづく ―
2009.07.06
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さて結局、母の尼君と源氏との姫君をつれて、明石の方は無事入京します。大堰川(桂川)のほとりの邸は、景色が明石と似ている(ちょっと無理な感じがするのですが、とりあえず目の前が嵐山あたりの水辺ということでしょうか?)ので、都がはじめての明石の方にとっても違和感が少ない。また母尼君としては、かつて一度は諦めた故郷に戻ってきたということで、何やら感慨深いのですが、知らせを聞いた源氏の君は、さっそくお祝いを贈る。 彼の本心としては、一刻も早く明石の方と我が姫君に会いたいのですが、なにしろ二条の自邸には本妻の紫の上が居て、以前多少悶着した明石の方の件は、Pendingの状態で決着していないので、いろいろと気を使うのです。― 「桂に、見るべきこと侍るを、いさや、心にもあらで、程経にけり。「とぶらはむ」といひし人さへ、かのわたり近く来ゐて、待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも、飾りなき仏の御訪ひすべければ、二、三日は侍りなむ」と、きこえ給ふ。「『桂の院といふ所、にはかに造らせ給ふ』と聞くは、そこに据ゑ給へるにや」と、おぼすに、心づきなければ、「斧の柄さへ、あらため給はむほどや。待遠(まちどほ)に」と、心ゆかぬ御けしきなり。「例の、くらべ苦しき御心。「いにしへの有様、なごりなし」と、世の人もいふなる物を」と、何やかやと、御心とり給ふほどに、日たけぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「桂に、しかるべき用事があるのですが、さてどうしたことか、心ならずも、日が経ってしまいました。『お訪ねしよう』と言ってある女の人も、そのあたり近くに来て、待っているので、(先方にもあなたにも?)心苦しくてね。嵯峨野の御堂も、まだ飾りつけの済んでない仏様の御供養をしなければと思っているので、二、三日は出かけることになるでしょう」と、(紫の上に)おっしゃる。「『桂の院(嵯峨野の御堂)という所を、忙しくお造らせになっている』と聞いたのは、(あるいは明石の方を)そこに迎え入れなさるため?」と、思いめぐらせて、(紫の上は)面白くなく、「斧の柄さえ、ふとご覧になれば(すっかり朽ち果ててしまっている、中国故事)、というほどの長い期間なのでしょう。待ち遠しいことだわ」と、はなはだご不快な様子である。「いつもの、気難しいお心でいらっしゃる。『昔の(私の)姿は、(今は)名残りも無い』と、世間の人たちも言っていることなのに」と、何やかやと、ご機嫌をお取りになっている間に、日が過ぎてゆく。 桂の御堂造営にかんしては、「澪標」の帖の終りに何となく触れてあったのですが、明石の方上京と連動しているのかいないのか、紫式部はわざと偶然のように描きますが、ここは何となく紫の上の邪推に肩入れしたくなります。 しかし結局ガマンできずに大堰の邸に出かけることになる。彼としては何としても会っておきたい、そして一番会っておきたいのは明石の方以上に、我が姫君ではなかったのか。― つづく ―
2009.07.05
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つづく語りは、この物語中でも最長に類するものかと思えますが、― 「 … 「その方につけては、よう思ひ放ちてけり」と、思ひ侍るに、君の、やうやう、大人び給ひ、物、思ほし知るべきにそへては、「など、かう、口惜しき世界にて、錦を隠しきこゆらむ」と、心の闇、晴れ間なく、嘆きわたり侍りしまゝに、仏・神を頼みきこえて、「さりとも、かう、つたなき身に引かれて、山がつの庵には、まじり給はじ」と、思ふ心一つを、たのみ侍りしに、思ひ寄りがたくて、うれしき事どもを、見たてまつりそめても、なかなか、身のほどを、とざまかうざまに、悲しう嘆き侍りつれど、わか君の、かう出でおはしましたる御宿世のたのもしさに、かゝる渚に、月日を過ぐし給はむも、いと、かたじけなう、契りことにおぼえ給へば、みたてまつらざらむ心惑ひは、しづめ難けれど、この身は、永く世を捨てし心侍り、君だちは、世を照らし給ふべき光しるければ、しばし、かゝる山賤の心を、乱り給ふばかりの御契りこそは、ありけめ。 … 」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「 … 『そのことについては、(我ながら)よく思い切ったものよ』と、思っておったのですが、あなたが、次第に、大きくなられて、さまざま、物心もお付きになるにつけ、『どうして、このような、不本意な(田舎の)世界に、(あなたのような美しい)綾錦を隠しておくことが出来よう』と、心の闇が、晴れることなく、嘆きとおしておるまま、仏神だけを頼りにして、『かといって、このように、至らぬ親の(私に)引かれるまま、山賤のような(このあたりの)田舎の家にだけは、立ち交わることのないように』と、思う一心で、祈っておりましたところが、思いもよらず、(源氏の君にお会いするという)嬉しい事などが、ございまして以後、なかなかどうして、(低い)我が身の程を、(逆に)あれこれ、悲しく嘆くこともございましたが、姫君が、このようにお生まれなさった宿世の頼もしさ(を見る)につけ、このような(田舎の)渚で、月日を過ごされるのはまことに、もったいなく、御運が高いように思われますので、(私が、姫のお顔を)お見上げできない心の惑いは、鎮め難いとはいえ、我が身は、(すでに)永く世を捨てる覚悟でおりまして、(さらに)この姫君は、世を照らしなさる光が眩いほどでいらっしゃるので、しばしのあいだ、このような(卑しい私の)山賤のような心をも、乱しなさるほどの御宿縁でも、あったのでしょう。 … 」 長いは悪文とは、小学校以来、やかましく言われつづけてきた事柄ですが、上の一文などまさしく悪文の代表のようなもので、意味をたどるという文章の基本的な機能だけにかぎって言えば、誰も推奨し随喜の涙を流すということはないでしょう。しかしここは言葉のもう一つの機能、話す中味でなく、そのように話しする気分を伝えるという要素と、そういう語り手の性格を表現するということについては、これは多量に宿しているようで、紫式部が果たしてそれを意識してやったのかどうか。 つづいて最後は短く、― 「 … 「天に生まるゝ人の、あやしき三つの道に帰らん一時」に、思ひなずらへて、今日、ながく別れたてまつりぬ。「命つきぬ」と、きこしめすとも、後のこと、おぼし営むな。さらぬ別れに、御心動かし給ふな」と、言ひ放つものから、「煙ともならむ夕べまでは、わか君の御事をなむ、六時の勤めにも、猶、心ぎたなく、うちまぜ侍りぬべき」とて、これにぞ、うちひそみぬる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「 … 『天上界に生まれ変わるべき人が、怪しい三つの途(地獄、餓鬼、畜生)に帰る一時がある』という、(苦の)教えに思い致して、(私は)今日、永のお別れをすることに致します。『(私が)死んだ』と、お聞きになっても、後の(法要などの)こと、かたがた営まれますな。避けがたい(親子の)別れに、御心を乱されますな」と、言い放ってはみたものの、「荼毘(だび)の煙となって消えてしまうだろう最後の夕べまで、姫君の御事だけは、(毎朝の)六時の勤行でも、なお、(悟り切れない)乱れ心を、交えたまま行なうことになるでしょう」と言うと、そこから先は、押し黙ってしまった。 この長い入道の独白は、まともに意味をたどるというより、むしろ終始、話し言葉特有の気分の高揚が全体を支配しているので、何だかオペラのアリアとか、詩の朗読を聴いているときのような、小説などの散文を読むときとは違った次元の読後感がありますね(どちらが好いとか、悪いとかの話ではありません)。私などまたまた唐突ですが、R・ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」終幕の神々の王ヴォータンと、その娘ブリュンヒルデの別れの場を思い起こしてしまいます。父娘の別れというのは、世の東西を問わずドラマになりやすいのでしょうか。― つづく ―
2009.07.04
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三人それぞれの別れの悲しみを描いたあと、いよいよ上京当日の情景となります。― 秋の頃ほひなれば、物のあはれ、とり重ねたる心地して、「その日」とあるあかつきに、秋風涼しく、虫の音もとりあへぬに、海のかたを見出だして居たるに、入道、例の後夜より、深う起きて、鼻すゝりうちして、行なひいましたり。いみじう事忌すれど、誰も誰も、いとしのびがたし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 秋の頃合いとて、物あわれな風情が、さまざま重なってくるような心地がして、「いよいよこの日だわ」という明けがた、秋風が涼しく、虫の音もせわしげななか、(明石の方は)海の彼方を見つめて座っているが、父入道は、いつもの早朝の勤めより、早く起きて、鼻をすすりながら、勤行している。(旅立ちに涙は、忌まわしいとて)ことさらに事忌みしているが、皆々、耐えがたいことであった。 この入道という人、変わり者とはいえ、口達者なところがあって、何かにつけてその振るまいを劇的(多少芝居じみて)にしてしまう傾向があるようで、このあと長い長い別れの言葉が続きます。 明石の方が、せめて見送りだけでも都までいっしょに来てください、とお願いするのに対して、入道が語る中味は、たんに分量が多いだけでなく、一センテンスが恐ろしく長い。全文をここにあげるか迷うところですが、一センテンスごと(この句点も山岸さんの判断なので、原文には区切りが無いのです)にすると、― 「世の中を捨てはじめしに、かゝる、人の国に、思ひ下り侍りしことも、たゞ、「君の御ため、思ふやうに、あけくれの御かしづきも、心にかなふやうもや」と、思ひ給へ立ちしかど、身のつたなかりけるきはの、思ひ知らるゝこと多かりしかば、さらに、都に帰りて、古受領の沈める類(たぐひ)にて、貧しき家の蓬・葎(よもぎ・むぐら)、もとの有様あらたむることもなきものから、公・私に、をこがましき名をひろめて、親の御亡き影を恥づかしめむことの、いみじさになむ、「やがて、世を捨てつる門出なりけり」と、人にも知られにしを。 … 」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「世間的な出世をあきらめはじめたころに、このような、(田舎びた)他国に、考えあって下り申したのは、ただただ、『あなたのおため、(私の)思うような、日頃の御養育も、望みのままに出来ようか』と、思い立ってのことでしたが、我が身の至らぬ運命を、思い知らされることも多く、この上さらに、都に帰って、元受領で落ちぶれた姿になり、貧しい家が蓬や葎が生い茂ったまま、もとの様子に改めることも出来ずに、公私とも、恥ずかしい名を広めて、親の亡き御姿まで辱めることは、絶対あってはならぬと(思っておったからで)、(それで)『(任国へ下ったのは)早く、世を捨てるための門出だったのだな』と、人にも知られることになったのです。 … 」 センテンスが長いというのは、この部分が話し言葉であるうえに、語り手が明石の入道という、希代のおしゃべり、しかもしゃべっている途中で、沸きあがってくる感情を抑えきれずに、その高ぶる気持をそのまま加えていくので、ますます際限なく続いていく、という仕儀になるのです。爾来、話し言葉は、気持の抑制が外れると、えてして意味不明に長くなるものです。 さらに付け加えるなら、もともとの「源氏物語」自体、しかるべき女房どもがさまざま宮廷で聞いたうわさ話を語り記した、という前提になっているので、基本的にセンテンスが長くなる性向があります。そのあたりから、源氏物語は当時、音読の読み合わせで読まれたのではないか、という議論が出てくるのですが、私はここは西郷さんと同じく、音読説には反対で、物語(少なくとも源氏物語)は一人で黙読して、はじめて享受できる性格の読み物だと思っています。物語という文体と物語の読まれかたは、分けて考えられるべきでしょう。― つづく ―
2009.07.03
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都から派遣されて鄙に行く受領とは、今でいう中央官僚のドサ回りみたいなものですが、当時の地方回りは、今よりはるかに役人個人の器量が、その後の人生に影響したようで、うまくやればとてつもない財を成して、都に錦の御旗を飾って戻ってくることが出来る、しかし不器用で管理がままならないと、在所の豪族などからは脅されたり、税の取り立てもうまくいかないとなって、都に戻れずそのまま鄙に骨を埋めるということもあったようで、そのあたりのよすがは「玉蔓」や「宇治十帖」に詳しいですね。 この入道の場合は、その鄙とはいえ明石の立派な邸構えからみても、決して在所の経営に疎かったのではなく、むしろ中央(上役)でのいわゆる政治的折衝が苦手だったのかと思われます。 とはいえ、入道はことの仔細を光源氏に伝えて、明石の方と姫君を大堰の邸に入らせることにする。源氏のほうも事情を納得して、例の腹心である惟光(これみつ)に大堰の様子を探らせて、邸の修繕を手伝わせたりする。で、次の引用となります。― 親しき人々、いみじうしのびて、くだし遣はす。のがれがたくて、「今は」と思ふに、年経つる浦を離れなむことあはれに、入道の、心細くて、一人とまらんことを、思ひ乱れて、よろづに悲し。「すべて、などかく、心づくしになり始めけむ身にか」と、露のかゝらぬたぐひ、うらやましくおぼゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の君は)親しく使っている部下を、ごく内々に、(明石へ)下し遣わせられた。(女君は)逃れがたい運命を、「今となっては」と思うにつけ、長年住み慣れた明石の浦を離れることがわびしく、父である入道が、心細くも、一人留まるだろうことに、思い乱れて、何事も悲しくなる。「何かにつけて、なぜこのように、物思いに沈む身になってしまったのだろう」と、(源氏の)懸想の露さえかからない人たちのことを、(かえって)うらやましくも思った。 ここでなぜ入道だけが明石に残ることになったのか、確たる説明がないのですが、晴れて源氏の嫁となって上京する以上、明石の領地は入道から源氏に移ったとも言え、あるいは領地経営の問題があったのかもしれません。入り婿が嫁方の財産を相続するというのは、前にも触れましたが、母系制社会の名残りとも見えるのですが、ここはハッキリしません。― 親たちも、「かゝる御迎へにて、のぼるさいわひは、年頃、寝てもさめても願ひわたりし心ざしのかなふ」と、いと、嬉しけれど、あひ見ですぐさむいぶせさの、たへがたう、悲しければ、夜昼、思ひほれて、同じ事をのみ、「さらば、若君をば見たてまつらでは、侍るべきか」と、いふより外の事なし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 親たちにとっても、「このようなお迎えがあって、都に上るなどという幸せは、年頃から、寝ても覚めてもずうっと願ってきた思いが叶った」とて、たいへん、嬉しいこととはいえ、(そうなると)家族がお互いに合わずに過ごすことになる辛さが、耐えられないほど、悲しいので、(入道は)夜昼、思い呆けて、同じことをのみ、「ということは、姫君をお見上げできないまま、(これからは、ここで)過ごすことになるのか」と、繰り返し言うよりほかなかった。 自ら頼むところがあって、家族にも無理を強いてきた入道ですが、大願成就のためには、自身が一番痛みを引き受けなければならないのです。しかし、― 母君も、いみじうあはれなり。年頃だに、おなじ庵にも住まず、かけはなれつれば、まして、たれによりてかは、かけとゞまらむ。 … もてひがめたる頭つき・心おきてこそ、頼もしげなけれど、また、さるかたに、「これこそは、世を限るべき住みかなれ」と、ありはてぬ命を限りに思ひて、ちぎり過ぐし来つるを、にはかにゆき離れなんも、心細し。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 母君は、とりわけ哀れである。年頃から、(入道は出家しているので)同じ屋根の下にも住まず、離れて暮らしていたのが、まして(娘が出ていったなら)、誰をあてにして、(一人ここに)留まることが出来よう。 … (入道は)我から世をすねたような顔つきや心の持ち方こそ、心許無いとはいえ、また、そうは言っても、「こここそは、終の住み家になるのだろう」と、いつまでもある命とは思わずに、心を決めて過ごしてきたのに、(こうして)にわかに生き別れになるのも、心細いことである。 この母君、結局明石の方といっしょに京に帰ることになるのですが、それは実質的にダンナとの永久の別れを意味するので、見かたによっては自ら選んだ人生でないぶん、痛み具合は入道よりも大きいかもしれませんね。― つづく ―
2009.07.02
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対する預りが答えるには、― 「身づから領ずるところに侍らねど、また、知り伝へ給ふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ、かくろへ侍りつるなり。御荘の田・畑などいふことの、いたづらに荒れ侍りしかば、故民部の大輔の君に申し賜はりて、さるべき物などたてまつりてなん、領じ作り侍るを」なむど、そのあたりの貯への事どもを、あやふげに思ひて、髭がちにつなし憎き顔を、鼻などうち赤めつゝ、はちぶきいへば、… ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「自分の土地というわけではございませんが、さりとて、以前からの領主の方が来られるわけでもなく、辺鄙なところということもあり、長年、人にも知られず暮らしておりました。御荘園の田畑などと言われるところも、すっかり荒れ果てておりましたので、故民部の大輔(みんぶのたゆう、役所の役人)の君に申上げ許しを得て、しかるべき物を差し上げて、(私の)領地として(田畑を)耕しておるのです」などと、その田畑から獲れる収穫の蓄えなども、(取り上げられるかと)不安に思って、鬚づらの無愛想な憎たらしい顔つきで、鼻などを赤らめつつ、ぶつくさ言うので、… 要は、打ち捨てられた私有地を許可を得て耕してきた、という既得権を主張しているのですが、それにしてもこの在所のいわば下人に過ぎない身分であるにもかかわらず、明らかに階層が上の元受領の入道に対して、主張すべきことはキチンと言う、この振るまいかたの源泉には、この預り個人の性格だけには帰せられない、当時の社会習慣というか風俗を連想させます。 紫式部は、この預りのことを「髭がちにつなし憎き顔を、鼻などうち赤めつゝ、はちぶきいへば … 」と、いかにも卑しんで書きますが、逆に彼女たちから見ればそれほど印象に残る、いわば大人しくない下人たちが実際にいたので、こうした具体的な記述が生まれたかと思えるのです。 ではそうした下人たちと彼女が接する機会があったのかと言えば、それはたぶん父為時に連れられて、越前の国で過ごしたときの記憶に基づくものであったかとも思われ、父と在所の豪族・下人などとの折衝は娘時代の彼女には大きな印象として残ったことでしょう。少なくとも道長その他、殿上人など京の都人から、この手の話が聞けたとは思えません。 入道が出した結論は、― 「さらに、その田などやうの事は、こゝに知るまじ。たゞ、年頃のやうに思ひて、物せよ。券などは、こゝになむあれど、すべて世の中を捨てたる身にて、年ごろ、ともかくも尋ね知らぬを。その事も、今、くはしくしたゝめむ」などいふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、そののち、ものなど多く受け取りてなむ、いそぎ造りける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(邸のことのほか)このうえ、その田畑などの(利用の)ことは、ここでは知らないことにしよう。かってに、いつもの年と同じように思って、耕せばよろしい。権利書などは、こちらにあるが、すべて世間を捨ててしまった我が身ゆえ、年頃から、何やかやと尋ね知ろうともしなかったことなのだ。この事も、今回、くわしくはっきりと書面にしておこう」などと言うあいだにも、源氏の大殿の気配を(入道が)盛んにほのめかすので、(預りは)煩わしくなって、そのあと、お代などを多く受け取って、取り急ぎ(大堰の旧邸)の修繕をする。 この入道の対応も、在所の下人を扱う術を、よく心得ている人の振るまいなので、まるきり上から目線で見下す、というふうでもない。「いと頑ななる、ひが者」と描かれる明石の入道ですが、このあたりのやりとりを見ていると、決して世間になじまない偏屈男だったのではなく、暮らしの生計にかんしては、けっこう世智に長けたところがあるので、だからこそ明石の鄙でも経済的には困ってはいなかったのでしょう。― つづく ―
2009.07.01
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