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古来、天皇が祖霊や皇祖神の御魂を振り動かし、自身の魂と治める国の生産力を、新たに賦活し更新するという祭政一致の統治形態は、神話的には例の「天の岩屋」や、儀式としては毎年の「新嘗祭」などにみられるのですが、それらの根底に死と再生という「成年儀式」の通過儀礼の様式が横たわっているだろうというのは、古代学者の指摘されるところです。 紫式部がこうした神話呪術的な構想を当初から抱いていたであろうことは、a系の「若紫」の帖で、すでに明石入道の話が予告されていることでも明らかなのですが、しかしよく考えてみると、仏教がすでに浸透していた当時の社会通念として、神社信仰なるものが一種罪深い行いと捉えられていたであろうことは、伊勢斎宮の話ですでに触れたように明らかで、ここにはこの物語の構造の根本的な矛盾が含まれているのです。 その矛盾の根っこは結局のところ、当時の今の話を古物語の様式で構想したことにあったように思え、しかも肝心なことは、彼女自身が実際に書き進めながら、どうもそれに気がついていたのではないかということです。先に私は紫式部という人は、自分の書くものについて真に共感する人がいなければ、共感できるところまで書きかたを変更することについては、処世のうえでも何ら違和感を抱かない人だったのではないか、という話をしたのはこのあたりのことで、当時考えられるもっともポピュラーな、万人に受け入れられやすい古物語形式を、当初の構想に置いたのは無理からぬことでありました。 しかしこの基本的矛盾は、彼女の仮借なき表現力で早晩破綻する危険を含んでいたので、彼女はこの話をするのに、ずいぶんいろいろな仕掛けを早くから施していたように思います。 まず先にも触れた「若紫」の帖で、良清という従者が源氏に語るには、明石入道という奇態な人物が、一人娘を鄙で育てていて、その娘に常に遺言するには、― 「わが身の、かく、いたづらに沈めるだにあるを、この人一人にこそあなれ、おもふさま、殊なり。もしわれに後れて、その心ざしとげず、この、おもひおきつる宿世たがはば、海に入りね」 ― 同上 「我が身が、このように、我から選んで落ちぶれてしまったのには、一人娘のお前にこそ、思うところが格別にあるからだ。もし私に死に遅れて、なおその志しを遂げることができず、私が思い信じ込んでいるお前の運命に違うのであれば、そのときは海に入って死ね」 というわけで、他の従者から「海龍王の后になるべき、いつき女なり」と笑い合うのですが、源氏としては大いに気が惹かれる話と記憶されるのです。 それにしても、ずいぶんムチャな遺言ですが、ここには謎賭けと、伏線が張ってあるのです。 謎賭けは、明石入道が言う「おもふさま、殊なり(思うところが格別にある)」の中味が語られていないことで、この謎はずうっと先になって、入道本人からの遺言状のような手紙によって明かされます。さらに「海に入って死ね」だの「海龍王の后」だの、すでに海にまつわる神仙譚のイメージが仄めかされていることで、私たちが「須磨」「明石」の帖に到ったときの違和感を少なくしようという作戦でしょう。 しかしこの挿話はa系の話の順としても、あいだにあまりにも重厚でリアルな帖が入っているために、何となく浮いてしまった感じがあります。せめてもう少し後ろにまわして「須磨」の帖に近づけてくれれば、この予告編はずいぶん効果的だったのではないかという気もするのですが、「若紫」の帖というのは、a系「源氏物語」全体をつらぬく女主人公たちの登場場面として、もともと設定していたらしく、明石の君、紫の上、藤壺の宮はここですべて出ているのです。 なかなか構想と現実はうまく合致しないようですね。― つづく ―
2009.04.30
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この二つの帖が、たんに海に近い須磨、明石を舞台にしているだけでなく、この中に出てくる海龍王だの住吉明神(海の神、航海の神)だの、紫式部がとかく海のイメージを引き寄せようとしているのには、古代からの日本人の海原に対する心象風景が控えているように思えます。 海にちなんだ神仙譚といえば、すぐにも連想されるのが「浦島太郎と竜宮城」伝説ですが、すでに大陸の道教由来の神仙思想の影響が顕著で、むしろここで取り上げたいのは、浦島伝説の元祖「海幸・山幸」伝説です。あらすじはご存知だと思いますが、Wikipediaを借りると火遠理命(ホオリノミコト、山幸彦)が、兄の火照命(ホデリノミコト、海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮(又は龍宮)に赴き、海神(豊玉彦)の女・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。 この弟(山幸彦)が豊玉媛(とよたまひめ)との間に生んだのが、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)で、神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコ、神武初代天皇)の父であることは、前にも触れたことがありますね。 話の筋はともかく、古代日本人にとって海原とはどういうイメージだったのか?折口信夫によれば、海原の彼方または海中にあるとされる「常世」=常夜、永世の国、死者の住まう異界であり、この世である現世(うつしよ)と対置さるべきものである、というのです。 この死者の国について、さらに考察を加えられたのが西郷信綱さんであり、「古代人の夢」などに詳しいのですが、「黄泉の国」と「常世の国」の違いについて、黄泉の国とは死者の魂がまだ他界とこの世の間をゆらゆらしている世界なのに対し、常夜とは死者の魂と祖霊が一体化した、静謐な一種の理想郷として捉えられていたのではないか、ということで、それが新たな死者を、しばらく喪屋に安置して、その霊を鎮めるとともに遺体の物理的変化を確認して(殯、もがり)から、墓に本葬したという古代の一連の葬送儀礼に通じるものであることを指摘されます。 「古事記」で描かれる黄泉の国のイザナミノミコトは、まさしく喪屋の中で腐乱しつつある遺体のイメージであり、はなはだ凶々しい印象があるのですが、そうしたケガレは禊ぎによって最終的に海へ祓われるので、海原とはその彼方にある「海坂(ウナサカ)」の斜面を落ちて「根の国」に通じていたのではないか、海宮(龍宮)とは祖霊に組み入れられた死者の魂が最終的に安んずる静謐の世界としてイメージされていたのではないか、とされます。 たしかに同じ他界であるのに「常世の国」と「黄泉の国」の著しい印象の差は、「古事記」を読んでいると、おおいに感じられるのですが、ではすでに仏教的考えかたがすでに浸透していた、この平安中期になぜことさらな古代神話的色どりを紫式部はここで出してきたのか? 私は、それは故桐壺帝の御魂を他界から呼び起こして、弱っている光源氏の魂(生命力)を賦活する、すなわち死と再生という「成年儀式」の通過儀礼を行なうための道具立てとするためだったと思うのです。― つづく ―
2009.04.29
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あまりにも当時の読者を評価しすぎている、と謗られてしまいそうですが、私は紫式部という人は、自分の書くものについて真に共感する人がいなければ、共感できるところまで書きかたを変更することについては、処世術としても何ら違和感を抱かない人だったと思うのです。それは同時に自身の表現意欲を、ある程度たわめることも厭わない姿勢でもあったわけで、それが藤壺や六条御息所と光源氏との、重要な最初の逢う瀬が省かれているといった結果に表れているのかもしれません。 で、さしあたって現実の宮中では渦巻いている嫉妬と欲望が、存在しない夢御殿の物語を、周囲の希望もあって構想したであろう彼女は、おそらく相当早く書き始めのころから、すでにそんな世界はこの世に存在しっこない、と思っていたのではないか、紫の上を嫉妬と無縁の、いわば純粋培養のヒロインとして登場させてみたものの、その取り扱いには他の生き生きした脇役たちに比べて、はなはだ精彩が欠けるようにみえるのは(私がなかなか彼女を取り上げないのも、そのせいですが)、あるいはその非現実的な設定にあったのかもしれません。 とはいえ、その非現実性を最初からあからさまにしてしまったのでは、彼女の宮廷社会での地位は保障されないので、同じような感慨を抱く読者が現れるまで、辛抱強く待っていたのではないか、というのが私の観測です。 前にも言いましたが、紫式部は一人孤高に立ち尽くして、時代を超越して天才の表現を試みたのではなく、同時代を深く取り込んで、それを体現しようとする表現者だったのです。 というわけで、彼女が「須磨」「明石」の帖を、ことさら書き割りふうに描いたというのは、ここまでこの物語をよく読んでいる読者の中から、そのころにはすでに出ていたであろう「こんなことありっこない」という声を意識しながら、さりとて凡庸な読者も満足させるための一工夫であったかとも思われるので、だからこそ貴種流離譚にあるべき主人公の大活躍は、ここでは意図的に省かれているのです。もし主人公が昔物語ふうの英雄的行動を、ここで発揮したら、当時でも数百年前の神話的英雄伝の再現にはなっても、同時代の英雄にはなりえないのでした(光源氏の当代の英雄としての振るまいかたは、その後次第に明らかになってきます)。 それならば、このあたりの帖は今の私たちにとって、小説的にはあまり読むべき値打ちのないところなのかと言われれば、限りなくそれに近いと言いたいところですが、実はそうでもなくて(と、またちゃぶ台をひっくり返すようですが)、途中から出てくる、例の「明石の入道」という希代の偏屈男が、なかなか面白いのです。 明石の入道とは、すでに「若紫」の帖で、その存在が予告されていて、その奇態なる振るまいゆえに、都を捨てて明石に籠もっている偏屈男として紹介されているのですが、このことからもa系の物語の筋にあって、当初から構想されていた人物であることが知られます。 「須磨」「明石」の帖が、他と比べて独特の印象を与えるとすれば、この鄙に住まう偏屈男の振るまいを中心として、さまざまに語られる神仙奇談の類で、そうした奇談を繰り広げるには、すでに文明化された(と思われている)都ではなく、まだ古層の文化が生きているらしい鄙(ひな、いなか)が舞台であることが、大事な条件だったのでした。この場合の鄙というのは、都から地理的にはるか離れているという意味ではなく、都人からみて、まったく開化されていない野蛮な地域すべてを指すので、山一つ隔てた大津の石山や横川、あるいは宇治も鞍馬も、彼らの感覚で云えば、すべて文明の及ばぬ野蛮な鄙として意識されていたでしょう。 このあたり、トンネルや橋で海山川を簡単に貫いている、今どきの地理感覚で当時の心象風景を捉えるのは、もちろんムリで、早い話、京都と大津を隔てる逢坂山だって、歩いて越えるのは一仕事だったろうし、山賤(やまがつ、山賊)に襲われる危険も大いにあったでしょう。 このたびの舞台が、そうした非文明地帯のなかで、「須磨」「明石」であるというのは、それらが海にまつわる神仙譚を語るにふさわしかったからでしょう。― つづく ―
2009.04.28
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紫式部が宮中に伺候するにあたって、自身の立ち居振るまいにきわめて慎重だったというのは、もうすでに何度も触れたことなのですが、それは同時に彼女が「源氏物語」を書き進めていくにあたっての、執筆態度でもあったでしょう。 昔からよく知られた王朝夢物語を下敷きにしたというのは、当時考えられる物語の形式としてはそれしかなかったとはいえ、宮中の一般読者に受け入れられるには、それがもっとも容易な形式であったとも云えるので、当初は女房、上達部たちの反応を見ながらの手探りの執筆であったでしょう。早い話、「葵」や「賢木」にみられるような、きわめて緊張した仮借なき物語が、はじめから展開されたなら、誰しもすっかり戸惑ったと思われますし、場合によっては非難を浴びる危険もあったでしょう。 そういう意味で、彼女はとくにはじめは、常に読者を意識しながら、場合によっては彼らに摺りよった(舌触りが良くて抵抗感のない)、書きかたをすることもあったと思うのです。 この場合、彼女が道長のバックアップで、当時貴重とされた紙や墨その他、執筆に際しての潤沢な支援を受けていたということは重要で、もちろん今どきの(自己の表現意欲だけを、糧とするような)職業作家などとは、まるきり社会認識は異なっていたはずです。 このあたり、私は彼女の書斎というか、執筆の風景がどのようなものであったのか、いろいろと想像してしまいます。勝手な空想ですが、活版印刷の無かった時代、おそらく彼女の書いた原稿は、お側付きの字の綺麗な複数の女房たちによって、ただちに何部かずつ同時に清書され、巻物に製本されて、しかるべき人たちに献上されたと思われるので、「源氏物語」の最初の読者は、これら書写する女房たちであったでしょう。書写にはたんに字の美しさだけでなく、当然中味にかんして紫式部に確認する作業も含まれていたはずで、相当教養も読解力も備えた人たちだったでしょう。 彼女はあるいはこれら書写する女房たちの反応を観察しながら、書き進めていったかとも思われ、場合によっては彼女たちから感想を聞くこともあったのかどうか、元気な女房ならば、登場人物の誰それはどうなったかとか、あの話はその後どうなったとか、ああだったらよかった、こうだったらどうなった、といったことを、直言とはいわないまでも女房同士で、おおいにしゃべりあっていたでしょう。 はじめのころはともかく、「源氏物語」が宮廷の一定の評価を受けるようになって以後は、紫式部の部屋は一種独特の女房たちのサロンを形成していたと思われるのです。 私はこのサロンに集う女房たちの読解力というか、感受性というのは、我々が想像する以上に高かったのではないか、紫式部が物語の執筆に対して次第に自信を深めるにつれて、これら周囲の第一番めの読者のレベルも急速に上がっていったのではないかと思うのです。ここで言うレベルというのは、当時の一般教養である古今集その他詩歌管弦に通暁していたという意味ではなく(それらは当然として)、まさしく今ふうでいう読書力のことです。 紫式部が踏み込んでいった、仮借なき表現の世界というのは、それまでの古物語や歌物語ではありえなかった、当時の現代をくまなく表現する方法だったので、当代の社会的状況から、男以上に自意識に目覚めざるをえなかった女房たちには、驚くほどの共感を与えるものだったでしょう。 彼女たちは執筆する紫式部とほぼ同時歩行で、「源氏物語」を体験して行ったと想像され、おそらく最上の読者であったと思うのです。「葵」や「賢木」を通過した彼女たちにとって、当初の王朝夢物語という下敷きは予定されていたこととはいえ、あるいはあまりにも絵空事に見えてきた、ということもあったのではないか?― つづく ―
2009.04.27
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彼女がここへ来て、古代英雄的振るまいを光源氏から奪ったのではないか、という疑念は、逆にいうとそれを期待した読者の大半が、ここで追っ払われるという事態を招くわけで、「須磨源氏」とはよく言ったものですね。 というわけで、紫式部はなぜそれを避けて通ったか、という空想にまたまた駆られます。ごくまっとうな考えかたをするならば、彼女はそうした活劇を描く術を持たなかった、あるいは知らなかった、ということになるのでしょう。確かに道長との添い寝の折りふしに、彼から聴ける寝物語というのは、宮廷内の人間たちのやりとり、あるいは彼の(主として女の)自慢話や失敗談であって、いわゆる太刀を振るっての武勇伝など、彼からは考えられないことではあったのですが(この場合、彼女は道長の侍妾であったろう、という前提で話をしています)、かといって古物語や漢書に精通していたであろう彼女が、古代英雄的な人物像を知らなかったはずはないと思うのです。 とすれば、大立ち回りはムリとしても、せめてもう少し道行きの場面が克明に描かれたら、流遇の哀切さも勝ったのじゃないか、と思ってしまうのですが、それらに筆を惜しんでいるようにみえるのは、どうやら「須磨」=流遇という連想が、当時の読者には、数ある「歌物語」ではおなじみの一つの型として、あらかじめ織り込まれていた筋なのではないか、という気がするのです。つまりこのくだりは、今どきの小説と同じようなRealismの感覚で読んではダメなのです。 考えてみれば「源氏物語」は、何度も触れている古物語的な下敷きとは別に、伊勢物語のような「歌物語」という物語形式も継承しているので、それは宮廷に伺候する女房たちにとっては必須の教養でもあり、「須磨」というキーワードは和歌の世界にとって、最も好まれた題材の一つであったかもしれません。 このあと流遇先での感傷的な描写が続きますが、ここは話の筋ではなく和歌の題材を提供するためにおかれた、鄙(ひな、田舎)のExoticism(異国趣味)的な描きかたに主眼が置かれているような気がします。それが証拠に、このあたりは古来有名なくだりなのだそうですが、故事や和歌のやり取りが主体で、いわゆる小説的妙味で読み進むには、しんどいところがあるのです。ひと言でいえば、「葵」や「賢木」の帖で、私たちが経験したような、緊張したRealismでは書かれてなくて、かぎりなく型にはまった芝居の書き割りに近い、いわゆる美文体と言っていいでしょう。― 須磨には、いとゞ心づくしの秋風に、海はすこし遠ほけれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、よるよるは、げに、いと近う聞えて、またなくあはれなるものは、かゝる所の秋なりけり。 御前に、いと人少なにて、うち休みわたれるに、ひとり目をさまして、枕をそばだてて、四方の嵐を聞き給ふに、波、たゞこゝもとに立ちくる心地して、涙おつともおぼえぬに、枕うくばかりになりにけり。琴を、すこし掻き鳴らし給へるが、われながら、いと、すごう聞こゆれば、弾きさし給ひて、 恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらむ と謡ひ給へるに、人々驚きて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなう起きゐつゝ、鼻を忍びやかにかみわたす。 ― 同上 そういえば、何となく「伊勢物語」の、都を放擲した男達が旅先で嘆きあう「都鳥」のような場面を、ここは彷彿とさせますね。「源氏物語」が書かれた当初の計画には、女たちが宮中を生き抜くための、教育的要求もあったと思われ、その中にはもちろん中宮彰子も含まれていたでしょう。 さて、では紫式部自身は、それをどう思っていたのでしょう?― つづく ―
2009.04.25
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「貴種流離譚」といえば、多少神話や民話を知っている人ならご存知のとおり、「やむごとなき」血筋の王子様や英雄が、さまざまな試練を経て、美しいお姫様とその国(や財産)を手にするという、古代以来の「成年式」すなわち「死と再生の通過儀礼」を下敷きにしていて、日本では「古事記」の「スサノヲ」や「ヤマトタケル」などがこれにあたり、ギリシャ神話なら「オデュセウス」、さらに古代メソポタミアの「ギルガメッシュ」でも、典型的にみられる説話のパターンですね。 紫式部がこの物語を、当初こうした古来の英雄伝説のパターンで構想していたであろうことは、すでに何度か触れましたが、そちらの構造から眺めた場合に、a系十七帖の話の筋は確かにピッタリと収まるのです。何の前知識もなく読み進んで、後から挿入されたとおぼしきb系の話に入り込んで行くと、人物や時間が錯綜してきて、途中でしんどくなってくる、という仕儀に陥りがちなのですが、じつはそれとは別に、俗に「須磨源氏」と云われるように、「須磨」の帖あたりで挫折する読者が結構多いんだそうですね。 ここではその原因を、いらんおせっかいかもしれませんが、あれこれ考えています。 一つにはこの帖で描かれる光源氏というのは、いわゆる古代英雄的な意味でのダイナミックな振るまい、という描きかたはまったくされていなくて、せいぜい猛烈な嵐にあって危うく死にそうになる、という程度の試練で終わっているのです。ヤマトタケルやオデュセウスのような、能動的な大活劇を期待したら、とんでもない肩透かしを食らうことになります。 これはまあ作者が女性なのだから、活劇を期待するほうがムチャということなのかもしれませんが、それにしても「帚木」や「夕顔」あるいは「葵」「賢木」に見られた男=オスの微細な心理と振るまいの克明な描写からみて、彼女がこうした英雄的な行動をまるっきり描けなかったとは思えないのです。というよりこの「須磨」「明石」の帖での光源氏の行動には、彼自身の能動的な意志というものが、ほとんど感じられないということで、ここでの彼の魅力がはなはだ精彩を欠くというのは、どうやらこうした英雄的な意志の欠如にあるといえそうです。 むしろここでの主役は、例の明石入道という世にも奇態な人物にあるようですが、それは後に話するとして、彼女はひょっとすると、この下敷きたる英雄物語を、あえて避けて通ろうとしたのかもしれません。 さまざまな人たちとの別れのシーンが、ながながと描かれたあと、都を出てから須磨に着くまでの道行きは、あまりにもあっさりしすぎているのです。― 道すがら、面影につとそひて、胸も塞がりながら、御舟に乗り給ひぬ。日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着き給ひぬ ― 同上 道すがら、女君の面影がぴったり身に添っていて、胸もふさがりながら、源氏の君は船に乗られた。日の長い頃のことで、追い風さえ吹き添うていたので、まだ申の時頃に、須磨の浦にお着きになった。 (円地文子訳、新潮文庫) 厳密に移動の描写といえば、このたった二行で終わっているので、初めて読んだとき、私は何かの間違いじゃないかと思ったものです。オデュセウス的な大航海や、ヤマトタケルの失意の東征というのはムリとしても、「伊勢物語」という長い道行きのお手本があったじゃないの、と舌打ちしてしまうのは私だけでしょうか?― つづく ―
2009.04.24
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光源氏二十五歳の夏から翌年の春にかけて、どうも宮廷内では右大臣派の政治的策謀があった由で、「須磨」の帖の冒頭、すでに彼は官位を剥奪されていて、さらにはこのまま放っておくと、菅原道真ならぬ「島流し」の憂きめに合いかねない状況に追い込まれています。というわけで、彼は先手を打って我から都を去り、政界への色気が無いことを天下に示して、これ以上の咎めを免れようと考えます。 前にも触れましたが、このかんの云わば生臭い政略や陰謀めいた話を、紫式部は厳密に省いていて、花散里(ともう一人?)との、のどかなやりとりだけが語られているのです。あとから考えてみると、紫の上の父である兵部卿の宮や、「宇治十帖」に登場する八の宮も、この陰謀劇に加担しているように思え、男の読者としては大いに関心をそそられる部分なのですが、彼女はこの種の政治向きの話については、いっさい触れません。これは当然、政治ごとは女が語るべきことにあらず、という当時の一般的な禁則に従っているので、彼女の主たる関心事からいっても、そちらの記述で時間を取るのは本意ではなかったでしょうし、またそちらのことで、余計な非難や噂の種にされては、彼女(と彼女の主たる読者)にとって、肝心のことが書けない(読めない)ということで、腹ふくれるところだったでしょう。。 ただ、だからといってそれらのディテールが、いいかげんかと言えば、もちろんそうではなくて、あれこれ詮索すれば上のような陰謀劇が容易に想像される、これは細目の点描が精確だからで、王朝夢物語ではあっても、それを古びた昔物語ではなく、同時代を生きる女房社会の気息で描こうとすれば、どうしても必要なテクニックなのです。 このあたり、少し話は別になりますが、映画「スター・ウォーズ」がSF映画はヒットしないという、それまでの映画界の常識をひっくり返して、空前の大ヒットを当時記録したというのは、もちろんストーリーの面白さもあったのですが、私に言わせると、SF映画におなじみの道具立ての細部がとても凝っていて、いわば玄人も納得させる出来だったからだと思うのです。荒唐無稽な空想科学に玄人って何やねん、と言われそうですが、マニアックなSF小説ファンにとっては、連星系の惑星だとかWarp Driveとか、SFではおなじみの道具立てがしっかりしていないとガマンできない、というところが必ずあって、「スター・ウォーズ」は当時としては、それらの要求を相当程度満足させるできばえだったのです。それまでのSF映画はそうした細目が(資金的技術的に未熟で)とにかくチャチすぎて、観るに耐えないものばかり、その結果一流のSF作家が敬遠して、B級映画ばかりが作られていたのでした。 本筋のストーリーが荒唐無稽な王朝夢物語でも、細部の記述が行き届いているので、知らないうちに中味に引き込まれてしまうというのは、この物語の大きな特徴ですが、その意味で、「源氏物語」が政治を語らないといっても、それが紫式部は政治を知らない、ということに結びつかず、むしろよく知っていただろうと思わせるのは、こうした細部の記述が、彼女の傑出した観察眼でしっかり描かれているからです。 すべてを書かなくても「知ってるぞ」という仄めかしだけで、この物語の表で語られる話の背景に、同時代の政治社会風景が大きく広がっている、と思わせるところはさすがですね。 というわけで彼女は、、このかんの時間の経過だけを、「花散里」の帖の挿入で示そうとしたかのようです。ただしその中味が、主人公の切迫した世俗的状況とあまりに懸け離れているので、あらでもの空想をしてしまいそうになるというのは、先にも書いたことでした。 さて、「須磨」の帖では、都を落ちて行く主人公の動きが描かれるのですが、読者としてはドロドロの愛憎劇を「葵」「賢木」の帖で、みせられた後ということで、公的にも私的にも主人公が都を離れるというのは、本人たちの気分とは別にちょっとホッとするところがあって、この後の旅先での冒険譚を大いに期待してしまうのですが、さて …。― つづく ―
2009.04.23
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このa系、b系の区分け論は、さらに発展して三十四帖「若菜」以下四十一帖「雲隠」までをc系、四十五帖「橋姫」以下をd系などとする議論もあるのですが、国文学者や国語学者あるいは歴史学者や文芸評論家まで巻き込んで、それぞれの専門とか考え方から議論されるので、キリがありません。 私たちにとって必要なのは、現実に今ここにある「源氏物語」を、どう読んでいけば、大過なく読み進めることが出来るかということなので、上のような構造がストーリーの展開や文体はたまた傍証資料などで、大いに指摘できるにしても、だから全体をバラしてa系、b系、c系、d系を別々に読む、ということは少なくとも(私のような)初心者は避けたほうがよさそうです。一応はじめから通読して、全体の感じをつかんだうえで、さらに深読みなどをする際に、こうした区分けはあるいは役に立つかもしれないのですが、なにしろ長大な物語ですから、初読者のほうが端折り読みの誘惑に駆られやすいのです。 かくいう私が、よけいな前知識で「宇治十帖」が面白いと、かってに決め込んでいたものですから、最初にそこを読み、次に「若菜」以下に手を出し、最後に「桐壺」から読み直すという失敗をやって、初読の楽しみをいささか減ぜられた印象があるのです。あたりまえの話ですが、「宇治十帖」はそれまでの光源氏一代記の長い物語があって、その独自性が光ってくるので、同じことは源氏物語最高の部分ともいわれる「若菜」以下の帖についても、いきなりそこから読み始めたら(つまりそれまでの光源氏の気息を、知らないまま読み始めたら)、案外その面白味を味わえないかもしれません(白状しますと、私は「若菜」から読んだとき、大して面白くなかったので、あやうく途中で放棄しかけたのです)。 その理由はいろいろあるかと思いますが、まずそれまで登場した人物たちのキャラクターを、ある程度理解していないと、語られる話の中味が理解できない、もっと言うと、今語られている中味が誰のことなのか分からない、ということが実際にあるのです。「若菜」冒頭に出てくる朱雀院の振るまいなど、それまでの光源氏との関係や、彼に対する屈折した思いを知っておかないと、なぜ娘の女二の宮を彼に降嫁させたのか、理解できません。 というわけで、これはあらでもの老婆心かもしれませんが、これから初めて「源氏物語」を読もうとされる皆さんには、最初多少しんどくても、冒頭の「桐壺」から順に読まれることをおすすめします。おそらくたいていの人は、次の「帚木」の後半、空蝉の登場あたりで、あっという間に物語に引き入れられるでしょう。そこで紫式部の話し上手に魅せられて「夕顔」あたりまではすぐに読めてしまいます。 じつはあまり話が面白いので、たいていの人は「桐壺」と「帚木」以下の文体の変化に気付かずに読み進んでしまいます。面白味にはちゃんと理由があるので、それはこのあたりの帖が、げんに面白く書けているからで、それに気付くのはたいてい以後の「若紫」~「花宴」あたりで、読むのに退屈してきたときです。この退屈する理由もハッキリしていて、要するに具体的な挿話が少なく、文体が「桐壺」と似て堅いのです。大野さんは「竹取物語のような、紋切り型の漢文口調だ」と言われます。 ところが例の「葵」「賢木」に到ると、それまでの堅さがウソのようにとれて、仮借ない記述が人物の心理や行動の細部にわたって語り尽くされる。物語的面白味から小説的妙味に中味が質的に変化していて、読む側は間違いなく魅了されるでしょう。 このあたりの面白味の変化について、中味の解析をしていけば、上のような区分け論がでてくるのは必然性があるので、実際あとからの挿入もあっただろうということは、ほぼ間違いないだろうとは思うのですが、もし初読者たちが、こうした区分け論を活用するとすれば、この物語を解体して読むのではなく、今読んでいる所が話全体のどの部分に位置しているかの参考にする程度にしたほうが良さそうです(そうすれば、とりあえず退屈な部分もガマンできて、途中で放棄、沈没という残念な結果も少なくて済むかもしれません)。 何だかこないだから、あらでもの話を続けていますが、実はこのあとの「須磨」「明石」以下の帖に入るにあたって、どうしても上の区分け論の補助線が必要だったからです。― つづく ―
2009.04.22
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「花散里」の帖の話は別として、この物語の成立については古来諸説があって、ここ最近では例の「源氏物語」の第一帖「桐壺」から、源氏が准太上天皇(太上天皇に准ずる待遇)になる第三十三帖「藤裏葉」までの内容にはa系とb系があって、本筋のa系列の話に、後から並びの巻とも称されるb系列の話が、しかるべく挿入されたのではないか、というのです。 この話には出来るだけ深入りしないでおこうと思っているのですが、それが「源氏物語」の成立論と密接にかかわってくることから、まるっきり無視というわけにもいきません。この場合a系とは、もともと構想されたであろう、英雄の誕生と試練、そして復活とこの世の天国の実現を描いた昔物語。b系とは、この主人公にまつわる失敗談も含めた世話もの的な逸話集。この仕分けは、例えば中国の史書に従えば、本紀と列伝にあたるもので、漢書に通じていた紫式部なら、大いにやるだろうというのが、もともとの根拠でしょう。 煩雑になるので、図示しますと、 a系 b系 1 桐壺 12歳 2 帚木 17歳夏 3 空蝉 17歳夏 帚木の並びの巻 4 夕顔 17歳秋-冬 帚木の並びの巻 5 若紫 18歳 6 末摘花 18歳春-19歳春 7 紅葉賀 18歳秋-19歳秋 8 花宴 20歳春 9 葵 22歳-23歳春 10 賢木 23歳秋-25歳夏 11 花散里 25歳夏 12 須磨 26歳春-27歳春 13 明石 27歳春-28歳秋 14 澪標 28歳冬-29歳 15 蓬生 28歳-29歳 澪標の並びの巻 16 関屋 29歳秋 澪標の並びの巻 17 絵合 31歳春 18 松風 31歳秋 19 薄雲 31歳冬-32歳秋 20 朝顔(槿) 32歳秋-冬 21 少女 33歳-35歳 22 玉鬘 35歳 以下玉鬘十帖 23 初音 36歳正月 玉鬘の並びの巻 24 胡蝶 36歳春-夏 玉鬘の並びの巻 25 螢 36歳夏 玉鬘の並びの巻 26 常夏 36歳夏 玉鬘の並びの巻 27 篝火 36歳秋 玉鬘の並びの巻 28 野分 36歳秋 玉鬘の並びの巻 29 行幸 36歳冬-37歳春 玉鬘の並びの巻 30 藤袴 37歳秋 玉鬘の並びの巻 31 真木柱 37歳冬-38歳冬 以上玉鬘十帖 32 梅枝 39歳春 33 藤裏葉 39歳春-冬 a系 計十七帖 b系 計十六帖 合計三十三帖 このa系、計十七帖を続けて読むと、筋立てだけからいうと、非常にすっきりとしたストーリーが見えてくるので、もともと構想され書かれたであろうa系列の話に、後になって何らかのわけがあって、b系列の挿話が適宜挟み込まれたのだろう、というわけです。この話は戦後に武田宗俊という先生が、各帖の文体まで含めて論じられているために、この仕分けかたそのものには反対でも、物語成立論としては無視できないものになっていて、例の大野晋先生も強く支持されているようですね。― つづく ―
2009.04.21
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ところで、紫式部はおそらく、「葵」「賢木」の帖あたりで、登場人物が自由に呼吸し動き出すという、長編ロマンの気息というか、霊感を感じ取ったのではないかと私は思うのですが、人物を自由に呼吸させながら、なおかつさらに大きな物語世界を、意識して操ってみようという考えに到るには、まだまだ長い旅が必要なのでした。 というのも、おそらく当初の構想では、夢の王朝物語として、光り輝く皇子とお姫様が試練に会いつつも、夢の御殿をこの世に実現するという、神話を下敷きにした昔物語風の筋書きが、明らかに見て取れるのですが、実際に書き進めるうちに、その枠に収まりきれない欲求が、出てきたのではないかということです。 その第一の分岐点が、どうも「賢木」と「須磨」以下の帖の間にあるように、私には思われるのですが、なぜかその間に、今の文庫本なら5、6ページ足らずの「花散里」という帖が挟み込まれています。何やら政治的陰謀めいた動きがありそうな気配で終わった「賢木」の後にくる、この帖にはまるっきりそうした緊張感はなく、例の女遍歴の、新たな挿話にしか見えないので、はなはだ弛緩した印象を与えます。 私は初めてこのくだりを読んだとき、なぜこんな話がここになければならないのか、理解に苦しんだものです。話というより、ほとんどスケッチに近いような中味で、あとあと花散里の君が六条院の夢御殿で、結構重要な役割を果たすとはいえ、何もわざわざここで登場させる必要はないんじゃないの、という印象は今も変わっていません。 それをことさらに入れたというのには、何か予定変更めいた事柄があったのかどうか。 一つには彼女がいつもやる急―緩―急のバランスを取ったのではないか、という見かた。しかしここでの緩みかたは、その間源氏に起こっている境遇の変化との落差が大きすぎて、不自然すぎます(次の「須磨」の帖では、すでに彼は官位を剥奪されているのです)。 もう一つは、当初構想にあった花散里の役柄を、何らかの事情で変更する必要が生じたのか?その後の花散里というのは、はなはだ影は薄いながらも、さながら光源氏の「よろず便利屋さん」のような役回りで、あまり映える位置づけではない(げんに息子の夕霧が、彼女を見てビックリしている)のですが、結構それなりの存在感はあるのです。 これはまたまた私の妄想ですが、紫式部はこの役を、もともと朝顔の君で予定していたのではないか、と疑っています。彼女もまた、この物語では初めのほうから登場しながら、存在感の薄い人で、後に独立した帖で語られてもその印象は変わらない。げんに語られる花散里のような役をやって、ようやくバランスが取れるような気もするのですが、もちろんこれは完全な空想です。この空想にさらに尾ヒレを付け加えるとすれば、紫式部を取り囲む女房社会の中に何らかの変化があって、急きょ登場人物の変更を迫られたのではないか、とも思えてくるのです。それを裏付けるためには、朝顔の君と花散里のモデル探しをしなければならないのですが、もちろん私にはそんなヒマはありません。この「花散里」の帖を取り扱いかねて、あらでもの話をしてしまいました。― つづく ―
2009.04.20
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「葵」と「賢木」の帖で、ずいぶん手間をかけてしまいましたが、それは取りも直さず、この二つの帖がよく出来ているからで、しかもその面白味の中味が、例えば「空蝉」や「夕顔」に現われたような、物語上手という天賦の才から大きく飛び越えて、長編ロマンという別の才能への、質的な変化が感じられるからです。そのあたりを私自身がもう一度確かめたくて、例によって思い切り低空飛行で、ほとんど字句ごとに物語を追いかけてしまいました。 原典の逐字的な講釈というのは古典学や憲法学などで、ときに行なわれるのですが、その方法としての特色は、あらかじめの予断とか予想が、原文ないし本文によって、常に覆され更新される性質を持っていることで、読む側の頭をいつも更地にしておかないと、思わぬ自己同一化や独断の世界に入りがちになってしまいます。このブログなど、まさしく独りよがりの最たるものと、罵られてしまいそうですが、それでも世に出ている源氏物語解説本の中には、自己の予断に都合の好いパラグラフだけを取り出して、ずいぶん壮大な文学論を展開されているものもあります。 以前、このブログは初見の源氏物語の印象を、忘れないうちに書き記すために、始めたと言いましたが、この第二部ではもちろんその目的は放棄しています。その理由は何度も触れたように、ブログにUPしようとするたびに、新たな疑問や発見が出てきて、はじめの印象など、どんどん更新されて、わけが分からなくなってしまったからでした。 というわけで、ここでは慌てることはやめて、逆に出来るだけゆっくりと、しかも私の目に留まった解説本で、気に入ったものを参考にして、書いていくことにしたのです。第一部では自分の印象が妨げられないよう、基本的に参考文献は読まない、と決めていたのですが、ここではいろいろ(といっても数冊ですが)読んでみました。で、その中には上記のような本も混じっていたのですが、それはそれとして、ここに書いている内容自体が、何かとんでもない方向に入り込んでいるのではないか、という不安があったことも事実です。 結果からいうと、まるっきり見当はずれの世迷い言にはなってないような気がして、多少安心したところもあるのですが、ある程度分かっていたこととはいえ、逆にこれまでの数多くの碩学の奥深さには恐れ入るばかりで、このまましゃべり続けるべきか戸惑ってしまいます。しゃべる以上は、これまでの数多ある解説本や解釈などを、性懲りもなく繰り返すのはイヤですし、第一それではこれを読まれる皆さん(もしおられるとして)には、時間のムダを強いる、という意味で迷惑でしょう。 とはいえ、たかがブログという気楽さの上にワル乗りして、自分自身の感想を語りつくしたい、という希望は捨てきれないので、話は続くのです。 その前に、ここまで参考にした本をあげておきますと、まえにあげた西郷さんの本とは別に、 「光る源氏の物語」 丸谷才一・大野晋対談 (中央公論社、1987 のち文庫) 「源氏物語を読むために」 西郷信綱 (平凡社、1983のち平凡社ライブラリー) 「源氏物語論」 吉本隆明 (大和書房, 1985年9月、ちくま学芸文庫 1992年、洋泉社MC新書 2009年)の三冊です。 「光る源氏の物語」は、いま手に入りにくくなっているようですが、小説家兼文芸評論の雄と国語学の泰斗との対談で、お互いの専門を飛び越えて、源氏物語を語り尽くす読み物としてとても面白い。中味にかんして異論ももちろん出てきそうですが、潔い新論の展開には驚くばかりです。 「源氏物語を読むために」は、西郷さんがこれまで古代文学の研究者として、何度か触れられてきた源氏物語についての諸論をまとめたもので、私にとっては座右の書になるべき本です。 「源氏物語論」は希代の論争家の文学論で、例によって吉本流の専用語彙が出てくるのをガマンすれば、専門外の人が源氏を語るにはどうすればよいか、を知るにもってこいの本です(げんに多くの批判があったようですが、まともな批評はなされずに、たぶん無視されているのでしょう)。― つづく ―
2009.04.18
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「帝と云うたかて、昔からみんなでバカにしてからに、引退しはった左大臣かて、あんだけ可愛がった葵はんを、東宮やった今の帝に差しあげんと、源氏はんの嫁にしはったやないの。妹(朧月夜)にしたって、私は最初から宮仕えと思っとりましたのに、あないなみっともない始末になって、それでもだれが源氏はんを怪しからんて云いました?みんなあちらのほうに味方してからに、その当てが外れた云うて、女御とも呼ばれん身分で宮仕えさしてるんでしょうが。私かて、妹のことやし、何とかまともな身分にしようと思っているのに、あの憎たらしい源氏はんの手前もあるやないの。それが当の本人までが、私らの目盗んでからに、源氏はんと逢うとったやて! … 何にしても源氏はんのやらはる事は、今の帝のためには絶対なりまへん。どうせ前の帝(桐壺)の東宮の天下が早う来んかいな、と思てはるのや。絶対そうや!」 思わずこのくだりを、関西の井戸端会議ふうに訳してしまいましたが、言いつのるごとに過去の仔細な事例が、いくらでもありありと沸いて出てくるというのは、すぐれて女性原理のなせる業ではあります。― と、すくすくしうのたまひ続くるに、さすがに、いとほしう、「など、きこえつることぞ」と、思さるれば、 「さばれ、しばし、この事、もらし侍らじ。内裏にも奏せさせ給ふな。かくのごと、罪侍りとも、おぼし捨つまじきを頼みにて、あまえて侍るなるべし。うちうちに制しのたまはんに、きゝ侍らずば、その罪には、たゞ、みづからあたり侍らむ」 ― 同上 と、大后が次々とあまりにハッキリおっしゃるので、さすがに右大臣は鼻白んで「何で、(いちばん言ってはいけない相手であるこの人に、何も考えずに身も具も何もかも)しゃべってしもたんやろ」と、今になって後悔して、「まあ、ともあれ、しばらくこの事は誰にもしゃべりません。帝にも奏上なされますな。尚侍(朧月夜)は、こんな罪を犯しても、(帝は)たぶん許してくれるだろうと、それをあてにして甘えているのでしょう。(大后のほうで)内々にお諌め申上げて、なお言うことを聞かないようであれば、この罪については、私が直接あたりましょう」 と、右大臣はとりなしに入るが、大后の怒りはもう止まらないのです。― 「かく、ひと所におはして、ひまもなきに、つゝむところなく、さて、いりものせらるらんは、殊更に、かろめ弄ぜらるゝにこそは」と、おぼしなすに、いとゞいみじうめざましく、「このついでに、さるべきことども構へ出でんに、よき便りなり」と、おぼしめぐらすべし。 ― 同上 「このように、私らと同じ家に居て隙間もないくらいなのに、いっこう憚る気配もなく、源氏が尚侍の君に入りびったて来る、というのは、取りも直さず、私ども一族を、ナメてバカにしきっているからです」と思いめぐらして、大后の怒りは、かつてなく激しく燃えさかり「この機会こそ、しかるべき策略など仕掛けるとすれば、これは良い知らせだわ」などと、思案をめぐらせていらっしゃるようだ。 というわけで、「賢木」の帖は、大いなる風雲を予感させて終りとなります。― つづく ―
2009.04.15
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彼女の階級意識というのは、今どきの倫理観で裁断してはいけないのかもしれません。殿上人と受領層、はては平民と、当時の社会は截然とした階級社会をなしていたので、受領階級である父をみながら、彼女は宮仕えのやっかいさ加減をつぶさに見ていたでしょう。 それは同時に平民を観る彼女の眼もまた、当時の社会規範を大きく超えることは出来なかったことを現しているので、彼女の記述が平民に対しても公平な書きかたをしているといっても、それが時代を飛び越えた平等思想の先取りをしたかのような捉えかたは間違っています。彼女はあくまで受領階級の娘という自己規定の中で、社会と人間を観ていたので、それは同時に殿上人の中味を厳密に区別するという眼でもあったでしょう。 それが如実に現われたのが、この光源氏と右大臣の振るまいかたの違いとなって、余すところなく書き記されているので、その違いとは繰り返しになりますが、貴種の血筋と世俗の意識の差だと思うのです。「賢木」まで読み進んできて、あるいは気付かれる人もあるかもしれませんが、光源氏はこれほど多くの女どもと関係しながら、子供は今のところ藤壺の宮と葵の上の二人との間にしか出来ていません。六条御息所や朧月夜など、いつ子供が出来ても不思議ではないほど、逢う瀬を重ねているのですが、出来なかったということをもって、源氏は一種のフノーだったのではないかという議論もあるらしいのですが、実はこれをコントロールしているのは、あたりまえのことですが、紫式部の意志なのです。 貴種の血というのは、そう簡単に継承されるべきものではない、めったなことでは分けてもらえない(でないと貴種としての値打ちが下がる)、めでたい血筋という意識が、彼女には強くあったのではないか、と私には思えます。後々誕生する夢の御殿、六条院のパンテオンでも源氏の血を授かったのは「明石の上」だけで、最愛の紫の上といえども子供は授かっていませんね。 この物語の前段では、彼女に「やむごとなき」貴種の血筋の物語という、昔物語風の構想があったのではないか、というのが今の私の感想です。 しかし幾多の人物が描き込まれるにつれ、彼らが彼女のコントロールを離れて、かってに動き出して、当初の構想からはるかに離れた高みにまで達したのが、今我々が眼にする「源氏物語」でしょう。これも誰かがおっしゃってましたが、この物語を読むということは、神話時代に生まれた物語から、今どきの心理小説に到るまでの、人類史における文学という営みを、一度に追体験するという仕儀になるのです。何だか難しい話をしてしまいました。 さて、腹ふくれる思いを感情にまかせて、大后に思い切り並べ立てた右大臣に対して、― 宮は、いとゞしき御心なれば、いと物しき御気色にて、 ― 同上 大后はそうでなくてさえ憎くてならぬ御心なので、大そう御不快な様子で、(円地文子訳、新潮文庫) これまた、源氏に対する恨みつらみを、一時は朱雀帝の北の方とも考えた左大臣家の葵の上を、添い臥しの妻として光源氏に取られたことからはじめて、延々と語るのですが、語るごとによけい感情が昂ぶる、その大后の女性原理そのままの様子は、ぜひ本文を読んでみてください。― つづく ―
2009.04.14
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右大臣に見咎められたときの、源氏の振るまいというのは、まさしく貴種の血筋の矜持が、もっとも堕落した形で表わされているので、― 今ぞ、やをら顔引き隠して、とかう紛らはす。あさましう目ざましう、心やましけれど、直面(ひたおもて)には、いかでか、あらはし給はむ。目もくるゝ心地すれば、この畳紙をとりて、寝殿に渡り給ひぬ。 ― 同上()筆者 今になってやっと顔をひき隠して、何とか紛らしている様子である。 呆れはてもし、よくもわが面目を蔑ろにしたものと腹立たしくもあるが、何で正面から咎め立てすることが出来ようか。眼もくらむような心地で、この懐紙を持ってそのまま大后のおいでになる寝殿に行かれた。 (円地文子訳、新潮文庫) この期に及んで、なんらジタバタ逃げたり隠れたりせず、わずかに顔ばかり(衣か扇子で)覆ってみせるというのは、自身を別種の、あたかも異世界の存在と規定しているところから出てくる仕種で、今どきならWeb上にときに書き込まれるような、匿名性ゆえの全能感に囚われたコメントを書く人などと、共通した心理が働いています。これは顔を覆えば世界は消えるだろうという、透明人間願望のような一種子供っぽい心理で、それがどこから来ているのかというと、前にも触れましたが、おそらく桐壺帝のお側去らずとして寵愛された、幼少時代の育ちあったでしょう。 それは貴種の血筋という強い意識だけが、源氏が俗世を渡っていくうえでの、唯一の拠りどころであり、それをしかるべく周囲に示すための道具立てや振るまい方は、父帝から何度も繰り返し教え諭されたことでしょう。源氏の英雄的行動の裏には、あるいはそうした父帝の教えに対する無意識の反発もあったかも知れず(だから后の藤壺との密通を犯した)、かといって意識そのものは、我が身が貴種の血筋であるという、全能感に満たされているので、結果として上のような、人をバカにしたような仕種にも現れるし、その前の右大臣に対する嘲笑的な感慨にもなって出てくるのです。 要するに、基本的なところで現世を軽蔑している風が、このあたりの彼の行動には感じられますね。 対する右大臣が、軽蔑された風な取り扱いに対して、ごく世俗的に「目もくるゝ心地」で、弘徽殿の大后に会いに行った(言いつけに行った)というのは、確かに軽率のそしりは免れないにしても、彼の憤懣にはむべなるところがあるのです。 しかし紫式部の筆致は、右大臣に対して辛らつで、― おとゞ(大臣)は、思ひのまゝに、こめたる所おはせぬ本性に、いとゞ、老いの御ひがみさへ添ひ給にければ、何事にかは、とゞこほり給はむ、ゆくゆくと、宮にも愁へ聞え給ふ。 ― 同上()筆者 大臣はもとより思ったままを口にし、胸に畳んでおくというところのない御気質の上に、老年のひがみさえ加わっていられるので何の猶予がおありになろうか。ずけずけと見たままを大后にお訴えになる。 (円地文子訳、新潮文庫) このへんの紫式部、筆致は冴えに冴えていて、右大臣の行動に、その性格までもつぶさに書き込んでいるわけですが、この物語が光源氏が主人公である以上、多少のひいき目ということはありそうで、これはたぶん彼女自身の階級意識にも関係がありそうです。― つづく ―
2009.04.12
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このあとに続くすったもんだは、三人の性格をあざやかに描き分けていて、しかもそのキャラクターの持ち味が、話の展開を必然的に進行させているという意味で、とても冴えていると思うのですが、― かん(尚侍)の君、いと、わびしう思されて、やをらゐざり出で給ふに、面(おもて)の、いたう赤みたるを、「猶、なやましう思さるゝにや」と、見給ひて、 「など、御気色の例ならぬ。物の怪などの、むつかしきを。修法延べさすべかりけり」と、のたまふに、薄二藍なる帯の、御衣にまつはれて引き出でられたるを、みつけ給ひて、「あやし」と思すに、又、畳紙の、手習ひなどしたる、御几帳の下に落ちたりけり。「これは、いかなる物どもぞ」と、御心驚かれて、 「かれは、誰れがぞ。気色ことなる物のさまかな。賜へ。それ取りて、「誰がぞ」と、見侍らむ」 と、のたまふにぞ、うち見かへりて、我も見つけ給へる。 ― 同上()筆者 尚侍の君(朧月夜)はひどく当惑されて、そっといざり出られると、お顔の大そう上気せて赤らんでいられるのを、右大臣はまだ(わらわ病の)御気分がすぐれぬためとお思いになって、「どうして御様子が常のようでないのです。物の怪などはしつこいものだから、もっと御修法をつづけさせるのだった」 とおっしゃっていたが、ふと薄二藍の男帯が女君のお召し物にまつわりついて外へ流れ出ているのを見つけて、ぎょっとなさったのと一緒に、また字を書きすさんだ懐紙の几帳のもとに落ち散っているのにお目がとまった。これはまたどういうことかとお心も動転して、「あれは誰のです。見馴れぬさまのものですね。こちらに下さい。それを取って誰のか確かめましょう」 とおっしゃるので、女君は振り返って、御自分もそれと気づかれた。 (円地文子訳、新潮文庫()筆者) この場面、源氏と朧月夜の君は、外に出られないのをいいことに、どうも睦みあいの最中だったようで、「面の、いたう赤みたる」まま、おそらく薄衣をさっとはおって、立ち上がらないまま、あわてていざり出たようです。早とちりの右大臣は、てっきり熱病のなごりかと思うのですが、ふと目をやると娘の薄衣に、男帯がまつわりついているのを発見する、エッと思った瞬間、字などを書き散らした懐紙が、周囲に散らばっているのに気づく。 父に詰問されて、振り返ってようやく女君もそれに気づく、というのは、この父にしてこの娘といった感じで、右大臣一族の気質なら、さも起り得るだろう、と納得させられると同時に、そうした右大臣が仕切る世俗社会の雰囲気も、自ずと想像されてしまうのです。― 紛らはすべき方もなければ、いかゞはいらへ聞え給はむ。われにもあらでおはするを、「子ながらも、『恥づかし』と、おぼすらむかし」と、さばかりの人は、思し憚るべきぞかし。されど、いと急に、のどめたる所おはせぬおとゞ(大臣)の、おぼしもまはさずなりて、畳紙を取り給ふまゝに、几帳より見入れ給へるに、いといたうなよびて、つゝましからず、そひふしたる男もあり。 ― 同上()筆者 取りつくろう術もないので、どう御返事なされようか。われにもあらぬ風情でいられるのを、わが子ながらも恥ずかしいと思われるに違いないと、右大臣ほどの方ならば心を配られるはずであるが、この方は大そう気ぜわしく、深く思案するというところのない人柄なので、前後の分別も消え失せて、懐紙を手にされるなり几帳の内を覗かれると、まことにしどけない姿で、わがもの顔に添い臥している男もいる。 (円地文子訳、新潮文庫()筆者) そもそも分別なく娘の部屋に闖入した結果、みずから招いた騒ぎなのに、自身が凍りついているあいだに、あられもない映像が次々と眼に入ってくるので、ますます騒ぎが大きくなる。その映像とは、「いといたうなよびて、つゝましからず、そひふしたる男」とは、他ならぬ源氏の君なのですが、どうも状況からいうと、このとき光源氏は素裸で、のんきにまだ女の横に寝そべっていた、ということで、このくだりを読んだときの当時の女房たちの笑い声が聞えてきそうです。― つづく ―
2009.04.11
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さて、偉大なる藤壺の宮に、何となく母性的度量で、手なずけられてしまった源氏ですが、宮廷では右大臣派の専横で彼と左大臣一族は、ますます中心からはじかれて鬱々の日がつづきます。こうした中にあって、すでに朱雀帝の内侍として参内している、朧月夜との逢う瀬は相変わらず続いているわけで、これは前にも触れましたが、あきらかに右大臣派へのあてつけの意味も含まれているでしょう。 そうは言っても、わらわ病み(マラリア?)で里下りした彼女を、実家にまで忍んで逢いに行くというのは、そこに弘徽殿の大后や右大臣本人が居ることを考えれば、ムチャクチャというしかないので、彼はほとんど「見つかっても、いいわい」というくらいの捨てばちな感じがあったのかもしれません。 「賢木」の帖の最後は、そうした源氏と右大臣のいくぶん滑稽なやりとりで終わっているのですが、その結果は光源氏にとって過酷なものでした。しかしこの道筋は、試練を経ての再生と復活という、昔物語の語り口を土台にしているせいか、あまり深刻な雰囲気は感じられません。そのあたりは、次の「須磨」「明石」の貴種流離譚の帖で触れたいと思います。 さて連日、朧月夜の君の実家に忍んでいた源氏ですが、ある明けがた、激しいにわか雨とともに、雷が鳴るなどして、女房たちが怖がって女君の御帳台近くに集まってくる。源氏が這い出る隙もないままに、とうとう夜が明けてしまう、という仕儀になります。― 神鳴りやみ、雨少しをやみぬる程に、おとゞ(右大臣)、渡り給ひて、まづ、宮の御方(大后)におはしけるを、村雨のまぎれにて、え知り給はぬに、かろらかに、ふとはひ入り給ひて、御簾ひき上げ給ふまゝに、 「いかにぞ。いと、うたてありつる夜のさまに、思ひやり聞こえながら、まゐり来でなん。中将、宮のすけなど、さぶらひつや」 など、のたまふけはひの、舌疾に、あはつけきを、大将は、物の紛れにも、左の大臣の御有様、ふと思しくらべられて、たとしへなうぞ、ほゝ笑まれ給ふ。げに、入りはてても、のたまへかしな。 ― 同上()筆者 雷が鳴りやんで雨も小やみになった頃、右大臣がこちらにお出でになって、まず大后の御座所に伺候されたのを、大雨の音に紛れて女君も大将の君(源氏)もお気づきにならなかったのであった。大臣は腰軽にふっと入っていらっしって、御簾をお上げになるなり、「いかがでした。昨夜はどうにもえらい天気模様だったので、心配はしていながら来られないで … 中将や宮の亮(近侍の女房たち)はお宿直していましたか」 などとおっしゃる御様子の口早に軽はずみなのを、源氏の君は、こんな忍び逢いの間にも、左大臣の落ちついた態度がふと思い較べられて、あまりの違いように思わず微笑まずにはいられない。まことに右大臣ほどの御身分なら、せめて部屋の内に入ってしまってからでも、ものをおっしゃればよいものを。 (円地文子訳、新潮文庫()筆者) 娘の寝屋に、つかつかと入ってきて御簾を上げるなり、早口に声をかける、この右大臣の軽さ加減を、源氏はこれまた現場を押さえられているにもかかわらず、左大臣の重々しさと引き比べて思わず吹き出しそうになる、このシレッとした、ふてぶてしさ。 とはいえ、この右大臣、なんぼ実の娘だとはいっても、いきなり部屋に入って声をかけるなどというのは、今どきの父親でもアウトですよ。― つづく ―
2009.04.10
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藤壺の宮のこの物語における、ほとんど唯一の出番といっていい「賢木」のこの場面を見ていると、彼女の母親としての賢さというか、気丈ぶりが際立つので、「東宮のため」とはいえ、彼女の源氏に対するしかたも、母性のなせる振るまいとして理解するほうが早い。もちろん女としての源氏への想いも記されていますが、私には何となく、それは紫式部のお愛想に過ぎないような気がしています。 そのお愛想の眼くらましに引っかからないように、本文を読んでいると、彼女が実際に愛していたのは、桐壺の故院であって、はたして本当に源氏への想いがあったのかどうか。というのも、私たちはその前に六条御息所という深情けの女性に出会っているからで、いくら中宮という位階の高い女性とはいえ、女としての歓びのような心性は彼女からは感じられないのです。 してみれば、この本文に書き記されていない藤壺の宮と源氏の最初の逢う瀬というのは、ひょっとすると我々が想像するよりは、はるかに「すさまじい」ものだったのではないか、という疑いが頭をよぎります。平安時代に普遍的な通い婚、ないし招婿婚という婚姻形態(恋愛形態)は、男が夜間女の家に忍んでくる、という意味で、常に今で云う婦女暴行の危険も孕んでいたので、これは源氏に限らず、友人の頭の中将や、孫の匂宮の振るまいかたを見ていても、少なからず指摘できそうです(またそれゆえに、後に出てくる夕霧や薫のような律義者の振るまいが、逆に眼立つのですが)。 というわけで、「世間の禁止を、軽々と飛び越える」という、光源氏の英雄としての振るまいの中にあって、藤壺の宮との逢う瀬は、宮にとっては過酷なものだったのかもしれないのです。源氏が世間にまたとない名声と容姿を誇っていたがゆえに、身分としては格上の宮としても、ムゲに拒否するわけにもいかず、彼の異常なまでの子宮希求願望だけが先走って、二度目の過ちを犯さざるを得なかった。その結果としての妊娠が、彼女に与えた苦痛は、桐壺院に対する愛情が本物であればあるほど、地獄の様相を呈したことは想像に難くないので、この帖における彼女の出家の決意というのは、きわめて論理必然的に読者の我々にも納得できるのです。 早い話、この後何人も出てくる登場人物たちの出家行動というのは、いくつかの例外はあるとしても、はなはだ世俗の流儀に収まった振るまいと思えるものが多くて、本当に真から仏道の道を望んだものかどうか、疑いたくなる人もいますね。 紫式部が、源氏と藤壺の宮の最初の逢う瀬を、描かなかった、あるいは描いたが後で省いたのではないかというのは、前にも触れましたが、丸谷さんが指摘されるように、パトロンである道長の思惑があったのかも知れないのですが、この「賢木」の帖に描かれた、宮と源氏の(とくに御帳台の内の)詳細なてん末をみていると、それ以上に彼女自身が、周囲に気兼ねして注意深くはじめを端折って、ここにきて露わに描き出したのではないか、という気が強くします。 彼女はすでに空蝉や夕顔、朧月夜などで、「閨房」での男女の気息の表現については、自信を持っていたはずで、書いても安全だと確信した場合は、むしろ「あまりなるまで」の仮借なき記述のできる人だったのですが、先にみた「草子地」を使った二重三重の安全網を張った描きかた、あるいは初めて宮中に伺候した彼女が、三日もしないうちに里帰りして、しばらく出てこなかったという話があるのをみても、聡明な彼女が宮廷社会における処世術のやっかいさ加減を、正確に見抜いていただろうことは容易に想像がつきます。 というわけで、「なぜ光源氏と藤壺の宮、そして六条御息所との最初の逢う瀬のシーンが省かれたか」という、このブログの一つのテーマは、おそらく彼女自身が、道長その他周囲の思惑を先読みして、我が身の安全のために省いたのだろう、というのが結論です。 とはいえ、主人公の世にも稀なる色好みの英雄的性格は、この二人との逢う瀬なくしてはありえないので、すでに済んだ過去の話として、後から小出しにほのめかすという、トリッキーな筋立てとなったのでしょう。読者としてははなはだ腑に落ちなかった展開といえども、「賢木」まで来れば、何となくそれはそれで納得させられてしまう、というところはあるのです。― つづく ―
2009.04.09
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今年はことのほか冬が暖かくて、このままでは桜の咲くのが、ずいぶん早くなるのではないか、とも言われていたのですが、結局開花直後の花冷えで、私の周辺では例年通り、小中学校の入学式や新学期に合わせたように、満開を競っています。 今どきの日本で季節を感じさせる風物や行事というのは、テレビでみる以外、ほとんどじかに接触することが失くなってしまいましたが、なぜか桜だけは日本中どこへ行っても、直接見ることができますね。春の一週間ほどをのぞけば、桜というのは虫はつくし、枝ぶりにしてもそんなに美しいとはいえないのに、その一週間ほどだけに限りない価値を見い出して、そこらじゅうに桜を植える。花といえば桜の代名詞であるように、よほど日本人の感性にFitするところがあるとみえて、さまざまな分析がなされます。 そこでよく言われるのが、満開から散りはじめまでの時間の短さで、そこにはかなさや仏教的な無常観を持ち込んで把握する向きもあるようですが、私はもう少し穿った見かたをしてしまいます。おそらく外国人(西欧人も東洋人も)は咲いてすぐ散ってしまう桜より、梅や桃の花のほうを愛でるでしょう。花として映像で切り取ってみるかぎり、その色彩的な美しさには変わりがないわけで、であるならば少しでもその美しさを長く咲かせる梅や桃の花のほうに、より価値を見い出す、というのは、価値の本質に「永遠なるもの」「不滅なるもの」への願望があるからで、エジプトのピラミッドやヨーロッパの大聖堂、あるいはまた中国の兵馬俑などを持ち出すまでもなく、あきらかに「不変性」や「不老不死」への異常なまでの、強い執着を感じざるを得ません。 対するに日本人というのは、「不変性」や「不老不死」という観念からは、もっとも縁遠い感性を備えているがごとくで、むしろこの世を普遍的に支配しているのは、「変わることなき有為転変」ということになります。寸分の間もなく移り変わってゆくのが、この世の定め(普遍性)であるとすれば、それをもっとも端的に示してくれるのが、桜の花に象徴される「時間」というものでしょう。 日本人というのは、おもしろいので、この考えようによっては残酷な時間の推移というものを、桜の花という美の精華に見ようとするのです。したがって、日本人は得てして道徳的判断を、美的価値基準で下す心性があるので、「あの人は、心が汚い」とか、「潔い振るまい」などという言いかたは、今でもふつうに使われる言葉です。 このあたりの指向性というのは、どうも仏教的な無常観以前の、はるか古代的心象から来ているように思われ、しかもそれは現代日本人にとっても、ほとんど無意識のレベルにまで浸透していて、それが日本人同士だけにしか通用しない価値判断だと意識されることはほとんどないのです。 ここまでは、これまでのさまざまな日本人論でも言われてきたことでした。 さて最近私が、考えに耽っていることというのは、この桜の花に見ている日本人の生命観のようなことで、とくにその散りぎわの美学というのは、どこから来るものなのか、かつては「散華」というふうに神風特攻隊を賛美した感性というのは、たんに時間短く、潔く散るという美学ではなく、「若くして散る」という心根が隠されていたのではないか、と思っているのです。 このあたり説明が難しいのですが、「若い」とは「新鮮である」とか「生き生きしている」と同義であり、「生き生きしている」まさにその頂点で「花と散る」ところに、この美学の根本がありそうです。早い話、桜の花はまだ新鮮な花びらのまま、惜しげもなく散っていくから美しいので、梅や桃のようにしおれきって(老いさらばいて)散るのでは、誰もその美を認めないでしょう。 してみれば、これはあるいは「若く新鮮な」肉体を神に捧げて、種族全体の生命力を賦活(ふかつ、活力を与えること。物質の機能・作用を活発化すること)するという、古代人の心性の隠されたなごりであるかもしれないのです。近所の公園の桜を見ながら、由し無しことを考えてしまいました。
2009.04.08
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大勢の上達部や親王たちの驚きや嘆きを含んだ、ざわめきのなかで、源氏が一人呆然とたたずむ中、次第に人が去り周囲が静かになって、彼一人に視線がフォーカスされて藤壺と対面する。このあたりの進行は、なにか映画の画面を観るように劇的で、紫式部の筆は冴えてますね。― やうやう人しづまりて、女房ども、鼻うちかみつゝ、ところどころに群れゐたり。月は隈なきに、雪の光りあひたる庭の有様も、むかしのこと、思ひやらるゝに、いと堪へがたう思さるれど、いと、よう思ししづめて、 「いかやうに思し立たせ給ひて、かう、にはかには」 と、聞こえ給ふ。 「今はじめて、思ひ給ふる事にもあらぬを、物騒がしきやうなりつれば、心乱れぬべく」 など、例の命婦して、聞こえ給ふ。 ― 同上 ようやく人々の動揺も静まってきて、女房たちが鼻をかみながら、あちこちにかたまっている。隈なく照り渡る月の光が雪の白さに映えている庭の有様にも、昔のことが思いやられて、君は堪えがたくお思いになるが、ようやく心を鎮めて、「どのようにお思い立ち遊ばしてか、こうも急に御出家を …」 とおっしゃる。「今はじめて考えたことでもありませんが、とかく、皆に言い騒がれることになりますと、決心も鈍りそうに思われましたので」 と例のとおり命婦の君を取次ぎにして仰せ出だされる。 (円地文子訳、新潮文庫) というわけで、源氏は傷心のまま退出して、自邸で来し方行く末の考えに耽るのですが、おもしろいのは落飾してからの藤壺の宮(入道の宮)は、かえって気楽に源氏に声をかけるようになったことで、― まゐり給ふも、今はつゝましさ薄らぎて、御身づから、きこえ給ふ折もありけり。思ひしめてし事は、更に御心に離れねど、まして、あるまじき事なりかし。 ― 同上 入道の宮の許へ源氏の君が参られる折には、今は気兼ねをなさることも薄らいで、宮のほうからも、御自身でお言葉をおかけになることもあった。深くお心にしみ入っている思いはいっかなお胸を離れはしないが、宮が出家されての後は(懸想など)いっそうあるまじきことなのである。 (円地文子訳、新潮文庫、()筆者) 光源氏は、尼さんには生涯とうとう手をつけなかったので、さすがに仏教の権威というのは、希代のヒーローといえども、最大の禁忌だったのです(「宇治十帖」の薫は、出家した浮舟に懸想しましたね。紫式部の想像力は当時の禁止の極北まで達していたのです。まあしかしこれは先の話)。― つづく ―
2009.04.07
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東宮とのつらい別れのあいさつを、済ませてからの藤壺の宮の行動は、きわめて沈着かつ粛々としたもので、彼女の決意のほどが伺われます。 故桐壺院の一周忌のあと、法華八講(法華経八巻を一日二回、四日間かけて講説する法会)が、賑々しく執り行われるのですが、藤壺の宮主宰とはいえ故院の法会となれば、上達部なども右大臣派に対する憚りも、とりあえず差しおいて大勢集まってくる。当然、その中には源氏の君も含まれるのです。― 中宮は、院の御はてのことにうちつゞき、御八講(みはっこう)のいそぎ、さまざまに、心づかひせさせ給ひけり。… はての日は、わが御事を結願にて、世を背き給ふよし、仏に申させ給ふに、皆人々、驚き給ひぬ。兵部卿の宮(藤壺の兄)、大将(源氏)の御心も動きて、「あさまし」と思す。みこ(兵部卿)は、中ばの程に、たちて、いり給ひぬ。 ― 同上()筆者 中宮は院の一周忌の御法要につづいて、法華八講の御準備を何かとお心遣い遊ばされている。… 終りの日に中宮は御自分のことを最終の願として、世を遁れる由を仏に申し上げられたので、その座にある方々は皆、驚き呆れてしまわれた。兵部卿の宮や大将の君はお心が動転して、何とも言われぬお気持ちである。親王は中途で座を立って御簾の内に入られた。 (円地文子訳、新潮文庫) 自身の出家のことは(誰にも相談せず)、当日まで完全に秘して、しかるべき人々が集まった中で、いきなりその意思を明かす。これは云わば、いっさいの退路を断つやり方で、だからこそ、それを聞いた兄の兵部卿の宮も源氏の君も、すっかり気が動転しまうわけで、兵部卿のほうは居たたまれなくなって、御簾の内に入ってしまう、という仕儀になるのです。 この兵部卿の宮、藤壺の実兄であるとともに、紫の上の父でもあるのですが、右大臣派になびいたということで、後々源氏の怒りをかったり、親王という微妙な立場で、ときの政治勢力のあいだを右往左往、その判断や振るまいには、なかなかしんどい部分があります。― 心づよう、おぼし立つさまを、のたまひて、はつるほどに、山の座主めして、忌む事、受け給ふべきよし、のたまはす。… かねての御気色にも、出だし給はざりつる事なれば、みこも、いみじう泣き給ふ。 ― 同上 中宮は気強くもかたい御決心のほどを仰せられて、法会の果てる頃、叡山の座主を召し、戒をお受けになることを仰せになる。… かりそめの素振りにもお見せにならなかったことなので、御兄の親王もまったく思いのほかで、涙の溢れるのをどうにも出来ない御様子である。 (円地文子訳、新潮文庫) というわけで、この兵部卿の宮の涙というのは、我が身の行く末に対する不安も多分に含まれているのです。 さて、同じように途方にくれている光源氏のほうはというと、― 大将は、たちとまり給ひて、きこえ給ふべき方もなく、くれ惑ひて思さるれど、「などか、さしも」と、人、見たてまつるべければ、みこなど、出で給ひぬる後にぞ、御前に参り給へる。 ― 同上 源氏の君は一人そこに残られて、申上げようにも言葉も出ず、眼の前もかきくらすようにお思いになるけれども、何でまたそんなに愁嘆するのかと人が見咎めることもあろうかと、親王などの退出されてしまった後で、中宮の御前にお出でになった。 (円地文子訳、新潮文庫)― つづく ―
2009.04.06
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例のテポドン騒ぎ、触れるまいと思って我慢していたのですが、昨日今日のマスコミ報道を見ていて、やっぱりため息をつきたくなってしまいます。テポドンのことではありません。誤探知(ゴタンチ)なる言葉と、それを取り扱うマスコミの報道姿勢を、です。 昨日、「北朝鮮から飛翔体発射」という政府筋からの発表の直後、「ゴタンチ」なる言葉が飛び交って、マスコミの報道がそちらへ一斉に向いたあとの騒ぎかたを見ていると、ああまたやっているなという、嘆息とも怒りともつかぬ感情が沸いてきて、肝心のブログがUPできない。ここで、しゃべっておかないと堪らないというわけで、どういうことかというと、なぜこうしたエラーが生じたのか、誰がやったのか、どこの責任なのか、という議論から始まって、たちまち日本の監視迎撃システムの欠陥論に話が発展する。 で、日本の監視レーダー(通称ガメラ)の誤情報を、監視員が誤ってアメリカの情報と合わせて報告したため、その後のすべてのチェックを素通りして、Em-Netに流れた、という報道が仔細に流される。その報道の仕方を見ていると、いかに日本の危機管理システムが脆弱であるか、のごとき姿勢があらわで、要は政府防衛省の失態をあげつらうことを主眼としているとしか思えません。政府のほうも、早くもそのあたりの世論(マスコミの)を察知して、お詫びのコメントを出す。何だか情けないと思いませんか。ここで、しかるべき人たちの詫び言を聞いて溜飲を下げているのはいったい誰なのでしょう。 大事なのは、新しい巨大システムが実際に稼動したとき、そこに関与している膨大な人にも機械にも、必ず新しい事態が生じうるという、可能性に対する想像力が欠けていることで、私などはむしろ誤探知というエラーが生じたことで、このシステム全体の脆弱な部分が改善されたほうが、そのまま何の問題もなく(脆弱なまま)作動していくよりも、むしろ良かった、と思うほうです。 ここ最近の日本人というのは、何か「ものつくり大国」という幻影に取り憑かれているのでしょうか、出来あがったモノとかシステムは絶対完璧であらねばならぬ、初動から粛々と作動するのが当たりまえ、と信じきっているきらいがあります。 かつて日本製品の特色として、出来上がったときが最高で、以後日にちがたつにつれて、どんどん飽きが来る一方、対するに例えば英国製品は、最初欠陥や不具合が集中的に生じるが、一年ほどすると非常に具合が良くなる、という話を聞いたことがあります。だんだんとモノとしての磨きがかかってくるように思えるというのは、要は基本の設計思想やConceptが、非常に堅牢だということで、だから最初の不具合をクリアすると、恐ろしく長持ちするということなのです。しかし今の日本人は、買ったばかりの車が、すぐオイル漏れを起こしたり、ハンドルの片利きがある、などということは想像もつかないことでしょう。 まあ、この初動の完璧主義というのが、今の日本製品の信頼性に繋がったといえば言えるのですが、そこには次善の策というか、fail-safeのような思想が希薄に感じられるので、「次善の策」という言葉自体、何となく欠陥の取り繕ろい、要はとても良くないこと、あってはならないことのような語感がありますね。 しかし製品はともかく、組織とかシステムなどというのは、すぐれて人の集団が作り出すものですから、最初からそしてずうっと完璧などということはありえない。むしろエラーを積極的に洗い出して、常に練り上げていく体制のほうが、はるかにマシだと思うのですが、私たちはどうもこれが苦手なようです。それが証拠に、今回の騒ぎでマスコミは岩手や秋田の住民に、ご丁寧にインタビューなどして「ちゃんとやってもらわなければ困る」といったコメントをさかんに流す。住民の方々がそう思うのは当たりまえとして、それをそのまま垂れ流すマスコミの見識が極めて浅い。 エラーが出て良かったとは言わずとも、せめて巨大システムには(とくに初動時には)エラーが生じうる、というぐらいのコメントをなぜつけないのか。無定見な報道が、結果的に愚劣な世論を煽るという、退屈な繰り返しがまたまた演じられていると、やはり思わざるを得ないのです。 私など、それこそ不定見と謗られてしまいそうですが、この誤探知情報が出てきたとき、ひょっとしたら政府のしかるべき筋からの人為的な偽情報かな、と思ったりもしたのですが。実戦に勝る訓練はないのですから。
2009.04.05
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何だかずいぶん政策的な出家じゃないか、ととられそうですが、当時の社会制度や女の立場というものを踏まえたうえで、今の自分自身と東宮、そして光源氏の置かれた状況を、一挙に解決する手段として、これは最善の選択であったでしょう。とはいえ、それは藤壺の宮自身の犠牲という、個人的な痛みを伴うものでありましたが、それを乗り越えさせた動因とは何であったのか? それはたぶん、もっともシンプルな意味での「女は弱く、母は強し」という、古来からの女性性の特性に基づくものであったでしょう。若い源氏にはまだまだとても理解できないこと(というより、男=オスには理解できないこと)ではあっても、源氏との俗世の絆(ほだし)を遮断することが、結局彼を守ることになり、我が子である東宮の安泰を図ることになる、ということは、ひるがえって源氏と藤壺の間の貴種としての血筋を守ることになるので、それこそが彼女の源氏に対する、隠された愛の証であったでしょう。 こうした血統(表向き桐壺院との間の子)に対するこだわりというのは、今どきの日本では天皇家を除けば、ほとんど無いに等しく、感覚的に理解しづらい部分があるのですが、こののち主人公の振るまいかた、あるいは紫式部の振まわせかたには、貴種の血(選ばれし者)に対する独特な捉えかたが潜んでいるようにも思われ、あるいはむしろヨーロッパのハプスブルグ家のような、貴種の一族と共通する感覚があるのかもしれません。 前にも触れましたが、これは光源氏の行動パターンを形成している大きな要素の一つだと、私は思っているので、今結論を急ぐことはしません。ただ一つあげるとすれば、俗世の後ろ楯のない(左大臣家や右大臣家と違って)彼が、宮廷社会で勢力を維持しようとすれば、みずから恃むところは、結局我が身の貴種の血(血統)しかない、ということを彼自身、薄々理解していたであろう、ということなのです。 そのあたり、早くに実母を失くし、母の記憶のない主人公が、桐壺帝のお側去らずとして寵愛され、元服までは藤壺の宮とも親しく顔を会わせる関係であったことをみれば、藤壺の宮との密通というのは、上にみたような貴種の血という意識とは別に、擬似的な近親~(この場合は、母子~、~部分は禁則語句だそうです)の構図もまた浮んできます。げんにそれに言及した研究書もあるようですが、これは血統の問題と並んで、私たちのような並々の世界の人間には(つまり1000年後の人間には)、もっとも理解しにくい分野ではあります。 擬似的な近親~といえば、源氏と紫の上との関係も(この場合は、父子~)これにあたるので、彼の行動パターンの典型としての「世間第一の禁止を、軽々と飛び越える」という、古代英雄的な振るまいかたの奥には、これまた古代以来の「上通下通婚(おやこたわけ)」の罪を犯す、という掟破りも含まれていたのでした。 まあしかし、このあたりの話は、やはりその道の専門家にお任せするとして、ここで明記しておきたいのは、このような擬似的な近親~の関係も、たぶんその前に触れた、血筋の考えかたと関連し合っているだろう、ということだけです。 というわけで、いよいよ藤壺の宮が出家を決意し、忍んで宮中に東宮(実は源氏との不義の子)を訪ねる場面は哀切ですね。― (藤壺)「御覧ぜで、久しからむ程に、かたちの、ことざまにて、うたてげに変りて侍らば、いかゞ思さるべき」 と、聞こえ給へば、(東宮)御顔、うちまぼり給ひて、 「式部がやうにや。いかでか、さはなり給はむ」 と、笑みてのたまふ。いふかひなく、あはれにて、 「それは、老いて侍れば醜きぞ。さはあらで、髪は、それよりも短くて、黒き衣などを着て、夜居の僧のやうに、なり侍らむとすれば、見たてまつらむ事も、いとゞ久しかるべきぞ」 とて、泣き給へば、まめだちて、 「久しうおはせぬは、恋しき物を」 とて、涙の落つれば、「恥づかし」と、おぼして、さすがに背き給へる、… ― 同上()筆者(藤壺の宮が)「あなたとお目にかからないまま、日にちが過ぎて、私の姿が、変わり果てて、見苦しくなったとしたら、どう思われますか」と、おっしゃると、東宮は母君のお顔をじっとご覧になって、「それは式部のような顔になるということなの。どうして、そんなことになるの」と、笑っておっしゃる。(年若くて)説明のしようもないのが、あわれで、「式部は、年をとっていらっしゃるから見苦しいのですよ。そうではなくて、この髪が今より短くなって、黒い衣など着て、夜おそばに仕えている僧のような姿に、私が変わってしまったら、このようにお会いすることも、めったに出来なくなるのですよ」とおっしゃって、泣かれると、(東宮は)真顔になって、「なかなかお出でにならないのは、今でも恋しいのに」とおっしゃって、涙が落ちたので、「恥ずかしい」と、思われて、さすがにお顔を背けてしまわれる、…― つづく ―
2009.04.03
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「幼児返り」した光源氏を、いわば「大人の対応」で押し返した藤壺の宮ですが、その後若干すねた感じで消息文もよこさない源氏に対し、宮の下した決断はきわめて賢明なものでした。藤壺の宮の存在感が急に大きくクローズアップされてくる場面で、彼女はこの長い物語の主役を、ここで一回だけ務めたあと、その後は結局ほとんど登場しません。 その意味では、六条御息所と藤壺の宮という、十五歳ごろから二五歳ごろの約十年ほど、源氏の女遍歴の動機づけに大きくかかわったであろう、この二人の女性は、「賢木」の帖で表舞台からは、ほぼ姿を消すことになるのです。いわば彼の青春と幼年の記憶として残されたわけで、それはこの後につづく「須磨」「明石」の帖が流寓という英雄の試練と再生の話であるのと並んで、主人公が成年に到る最終段階に入っていることも示唆しているようにも思えます。 さてその藤壺の宮の下した決断とは、我が身の出家ということなのですが、寂聴さんが「源氏物語」は「出家物語」と指摘されるとおり、この物語に数多く出てくる出家遁世行動のなかで、彼女の出家はその嚆矢をなすものです。この「出家」という行動様式というか、人生の選択というのは、当時どのように一般に考えられていたのか、そして何より紫式部はそれをどのように捉えていたのか、というのは、この物語の一方の大きなテーマでもあって、ここで簡単に結論めいたことを出すわけにはいきません。 「出家」とはWikipediaによれば、― 世俗を離れ、家庭生活を捨てて仏門に入ることである。落飾ともいう。―とありますが、ひじょうに建てまえ的な考えかたをすれば、生きながらの一種の自死行為ともとれ、自分の過去のいっさい(家庭、財産、係累)を捨て、世俗を遮断してひたすら仏道に励む、ということを意味します。しかし当時でも、すでに「出家」行動というのが、一般にはなかば世俗化されて、後の引退や隠居とまでは云えないまでも、わりあい世間との断絶も緩やかであったというのは、その後の藤壺の宮の行動を見ていても明らかなので、登場人物たちが大騒ぎするレベルは、多少割り引いて考える必要があるでしょう。 で、紫式部は「出家」という行動様式についても、これまた他のテーマと同じく、白地からいちいち見直していったかと思われ、登場人物たちがさかんに口にする宿世だの出家だのという仏教用語と、彼女が捉えようとしていた「宿世」や「出家」の意味はおのずと異なるのです(それが証拠に、さかんに出家を口にしていた主人公の光源氏も、「宇治十帖」の薫も、少なくとも本文ではそれを許されません)。 さて、この藤壺の宮の「出家」行動は、彼女の聡明さを表すのに、充分な合理性が三つほどあるように思われるので、1. 光源氏のこれ以上の懸想を止める2. 中宮の座を降り、尼になることで、右大臣派の圧力をかわす3. そして何よりも、一人息子の東宮の安泰を図るといったところです。― つづく ―
2009.04.02
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それは、男がモノにしようとしている相手と場所の格が、まるきり違うということです。ここまでながながと、本文を引用してきたというのは、一つにはもちろん原文の気息を嗅ぎまわりたいという、私自身の願望もあるのですが、もう一つには光源氏が、中宮を相手に御帳台の内という、いちばんの禁断の相手と場所で、何をやったか、どう行動したかを、紫式部がどれほど赤裸々に「あまりなるまで」描いているか、をみるためでもありました。 紫式部が、主人公と藤壺の宮との最初の逢う瀬のシーンを、何らかの理由で省いたにもかかわらず、それこそがおそらく、やはり省かれた六条御息所との最初の逢う瀬と同じく、彼の果てしない女遍歴という行動の重大な動機をなしているであろうというのは、これまで何度も触れたことですが、それが上のような御帳台の内で演じられる半狂乱の源氏の姿なのであれば、さすがの紫式部といえども、このシーンを持ち出すまでに相当気を使ったでしょう。 ここで彼女の用心深さを、もう一度振り返ってみるのも一興かもしれません。 「源氏物語」は光源氏の話については、彼に近侍する女房たちの何某がしゃべったこと伝え聞いたことを、うわべの出来事だけでは、絶対分からない内輪の話として何某が書き記した(草子地と云うそうです)、という構成になっているのですが、ではその草子地が彼女本人かというと、もちろんそうではなくて、書き記した人もまた作中人物として扱われているのです。ときにこの語り手が、たんなる語り手を離れて自分の感想を述べ立てるという場面がありますが、これはちょうど紙芝居の語り手が、本来の絵の物語りをいったん休んで、作中人物の感想を述べたりする、というのに似ています。 彼女はこの物語を書き記すにあたって、何重にも安全網を張って、ひょっとして出てくるかもしれない「無礼だ!」とか「不謹慎だ!」とかいった周囲の批判をかわそうとしているかに見えます。しかしこれは逆に彼女本人の一人称語りでは、絶対に書けなかったような、おそらく当時でも破天荒な、人間の振るまいのディテールまで踏み込むことを可能にしたので、彼女は途中からこの手法を、むしろ意図的に操ったでしょう。「宇治十帖」では、語り手が近侍の女房とはもはや特定できないのです(早い話、ここでの主要な登場人物は複数で、もとより光源氏のような主人公は存在しません)。 それが上のような御帳台の内での半狂乱のシーンとなって現われたのでした。彼女は語り手の語り手の語り手という、それぞれ次元の異なる複数の視点を持ち込むことによって、御帳台の内を隈なく描くことが出来たのです。 で、まずここでの光源氏の振るまいかたですが、ひと言でいえば「幼児返り」していると云っていいでしょうか。希望が満たされずに、駄々をこねている子供の姿を彷彿とさせるので、亡き桐壺の更衣という母親への「子宮希求願望」の現われとして、「幼児返り」の振るまいは、まことにふさわしい。対するに藤壺の宮は、さながら子供をなだめる母のような立ち居姿で、ひょっとすると彼女は自分の子育ての記憶を思い出しながら、この場面を描いていたのかもしれません。 紫式部の描く人物たちの中でも、子供と老人の描きかたは、ひときわあざやかで、無理なく楽しんで書いているように思えます。これは、たんに彼女が子育ての経験があるというだけではなく、あるいは十二単や衣冠束帯で身を装うことのない子供と老人こそ、生物的なという意味で、人間の本性があらわに露出していると思ったのかもしれません。 そしてそれは当然、十二単や衣冠束帯で鎧った大人もまた、衣服を剥いでみれば、同じ人間としての本性が現われている、というものの見方に繋がっているわけで、彼女が「閨房の事柄」にことさらにこだわったのも、そこに格式も位階も関係のない人間の本質的な振るまいを見たからでしょう。― つづく ―
2009.04.01
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