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ちなみにこの部分、円地文子さんは「所詮、私は私」と訳されていて、私もそれに従ったのですが、与謝野晶子の訳を見てみたら「良人は良人である」となっていて、まるきり逆になっています。文脈からいってこの「我」を良人(おっと)とするのはちょっと無理があるように思えるのですが、ひょっとすると底本が違うのかもしれません。口語訳というのは、マジメにやりだすと、何やかやと大変だと思いますよ。 いずれにしても、これは今まで「須磨流遇」のような生き別れがあっても、光源氏と空気のような一体感(夫婦というより親子)で過ごしてきた紫の上が、初めて源氏を他者として見つめた場面なので、彼女の人生はここから始まったと言っていいでしょう。他者とは源氏と我が身を、社会の中に配列しなおして、相手を客観的に見つめる眼を持ったということです。 いつになく食い下がる紫の上に、多少驚いて源氏は、― 「何とか。心憂や。 誰れにより世をうみ山に行きめぐり 絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ いでや、いかでか見えたてまつらん。命こそ、かなひ難かべいものなめれ。『はかなき事にて、人に心おかれじ』と思ふも、たゞひとつ故ぞや」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「何ですって。それは心穏やかじゃないですよ。 誰のために世を捨て海山を行きめぐり 流れる涙とともに浮き沈みした我が人生だと思っているのです 出来ることなら、何としても私の真心をお見せしたい。でも命ばかりは、意のままならぬものでしょう。『つまらないことで、人に恨まれまい』と思うのも、ただあなたゆえの事なのに」 流遇で苦労したけれども、それでも我慢してきた理由は、すべて紫の上のためだったと(まあ多少はあったとしても)、これまた苦しい弁解で何とか収めようとするが、彼女のご機嫌はなかなか直らない。― いと、おほどかに、美しうたをやぎ給へるものから、さすがに、執念き所つきて、物怨じし給へるが、なかなか愛敬づきて、腹だちなし給ふを、「をかしう見どころあり」と、おぼす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) たいへん、おおらかで、美しく穏やかな様子でいらっしゃりながら、さすがに、意地っ張りな性格も出てきて、あれこれ怨み言をおっしゃるのが、かえってけっこう愛敬があって、腹を立てていらっしゃる姿も、「可愛くて魅力的じゃないか」と、源氏の君は思われる。 世の女性方には怒られそうですが、自分が手の内にしたと思っている女性を、怒らせて面白がるという悪い習性というのが男=オスには確かにあるのですが、ここではむしろ光源氏はまだ紫の上の大人の感性への脱皮に充分気付いていない、と見ることができます。できればまだ当分は、子供でいてほしいということでしょうか。 それもそのはず、目下のところ彼の最大の関心事は本妻の紫の上ではなく、明石の方とその姫君にあるのでした。それが今の紫の上には、昔と違ってありありと分かるのです。― つづく ―
2009.05.31
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このあとしばらく、源氏と紫の上のちょっと緊張したやりとりが描かれます。― とし頃、「あかず恋し」と、思ひ聞こえ給ひし、御心のうちども、をりをりの御文の通ひなど、おぼし出づるには、「よろづの事、すさびにこそあれ」と、思ひけたれ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (紫の上は「須磨流遇」の間)この年頃、「飽かず恋しい」と、いつも思っていらっしゃり、また源氏の君の気持も、折々のお手紙などを通じて、(その優しい心づかいに)思い当たるので、「いろいろな好き事も、たんなるお遊びなのだろう」と、考えて打ち消しておいでになった。― (源氏は)「この人を、かうまで思ひやり、言問ふは、なほ思ふやうの侍るぞ。まだきに聞こえば、又、ひが心得給ふべければ」と、のたまひさして、 「人がらのをかしかりしも、所からにや、めづらしうおぼえきかし」など、かたり聞え給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の君は「この人のことを、こうまで思いやり、いろいろ尋ねさせるのには、しかるべき理由のあってのことなのです。早々にお話しすると、(あなたは)また、間違ってお取りになるから」と、それ以上仔細は言わずに、「(明石の方の)人柄に惹かれたのは、(寂しい田舎という)所柄によって、出てきたのかもしれないな」などと、話していらっしゃる。 しかしここで何やかやとしゃべっている源氏の言葉は、どうも紫の上の耳には入っていないらしい。いったん生じた疑いは、源氏があれこれ説明するごとに、かえって深くなっていく。もともと光源氏という男、我が行いについて、あまり相手の気持を忖度するところなく、しゃべりすぎるところがあるようで、むしろそれが自身の大様さのように思っているところがあるのです。 須磨流遇の折の手紙にも、明石の方のことをくわしく記し、ここでまたいろいろ語るということは、― … 御心とまれるさまに、のたまひ出づるにも、(紫の上は)「我は、又なくこそ、『悲し』と、思ひ嘆かれしか、すさびにても、心を分け給ひけむよ」と、たゞならず思ひ続けられて、「我は、われ」と、うちそむきながめて、「あはれなりし、世の有様かな」と、ひとり言のやうにうち嘆きて、 「思ふどちなびく方にはあらずとも 我ぞ煙にさきだちなまし」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) … (源氏の君の)お心にとまったように、いろいろ語られるのには、「私が、この上なく、『悲しい』と、思い嘆いていた時、たとえ戯れではあっても、(明石の方と)心を分け合いなさったからなのだわ」と、穏やかならず思いつのられて、「私は、わたし」と、ふと顔を背け物思わしげに、「情けない、世の中だこと」と、独り言のように嘆きながら、「相思う人たちのなびく方でなく 私は煙になって先に死んでしまいたい」 いったん火がついた疑念が、紫の上の頭をいっぱいにして、たちどころに「我は、われ」の言葉につながって行く。それにしても平安時代の姫君の用語に「我は、われ」という言葉があるとは驚きですね。― つづく ―
2009.05.30
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乳母を迎えた「明石の入道」が、子供のように泣いて喜ぶのは当然として、明石の方は、それでも源氏の大いなる庇護を歌で問いかける。山のような贈り物ではなく、「心」が欲しいということでしょう。源氏のほうは、明石の噂が先に知れることを恐れて、まず本妻の紫の上に根回しをします。― 「さこそあなれ。あやしう、ねぢけたるわざなりや。「さも、おはせなん」と思ふあたりには、心もとなくて、思ひのほかに、口惜しくなん。女にてあなれば、いとこそ物しけれ。たづね知らでもありぬべき事なれど、さは、え思ひ捨つまじきわざなりけり。呼びにやりて、見せたてまつらん。にくみ給ふなよ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「と、こういうわけなのです。ホントに、意のままならないのが世の常で、『ぜひとも、欲しい』と思う方には、気配もなくて、思いがけない方に出来てしまうというのは、残念でしょうがない。それに女の子だということで、おおいに気が抜けた感じです。構わずに放っておいてもいいような事かもしれませんが、そうとは、さすがに捨て置くわけにもいきません。呼びにやって、あなたにお見せしようと思うのです。お憎みなさいませんように」 ずいぶん都合のいい出まかせで、明石の方が聞いたら、それこそ顔から火が出そうな内容ですが、さしあたって源氏には紫の上をなだめる必要があるのです。しかし最後に口が滑ったので、たちまち今度は紫の上の顔が赤くなる。― 「あやしう、常に、かやうなる筋のたまひつくる、心のほどこそ、我ながら、うとましけれ。もの憎みは、いつ習ふべきにか」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫)「おかしな様子で、いつも、このような分けあり話に取り繕っておっしゃるけれど、私の気持ちをそんなふうに見られていると思うと、我ながら、情けないです。人をあれこれ憎むなどという心は、いつ誰に習ったのでしょう」と、いつになく難詰する気配。源氏のほうは、そ知らぬ顔で、とりあえず笑い飛ばして、― 「そよ。たがならはしにかあらん。思はずにぞ、見え給ふや。人の心よりほかなる思ひやりごとして、物怨じなどし給ふよ。おもへば、かなし」とて、はてはては、涙ぐみ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「そら来た。誰に教わったのですか。私にはまるっきり想像もつかないことを、おっしゃる。(あなたは)人が誰も思いつかないようなことにまであれこれ気を回して、あげくのはてにいろいろ(このような)怨み言をなどなさるのです。考えてみれば、悲しくなる」と、とうとう今度は、涙ぐんでみせていらっしゃる。 笑ったり、泣いてみせたり、いろいろ懐柔を試みる源氏ですが、さすがの紫の上も以前よりは大人になって、事柄の理非曲直も何となく分かるようになっている。彼女は光源氏のもとで、女の嫉妬や恨みを抱かないような「純粋培養」的教育を受けてきた身ですが、もともと利発な人で勘が利く、さらには多少意地っ張りな性格もようやく明らかになってきたので、上のような通りいっぺんの「すぐバレる」説明では納得しない。 このあたりから、ようやくこの姫君は物語の本筋に入ってきた感じで、考えてみればずいぶん後回しになってしまいましたね。― つづく ―
2009.05.29
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ここからの話は、おおいに気をつけないと、セクハラのそしりを浴びせられそうですが(この物語にはその種の話が多い)、まあ余談ということで許してください。 前にも少し話したことがありますが、かつて私の上司であった営業部長、男の我々に対しては体育系の腕力で使いこなしながら、女性営業社員に対しては極めてキメが細かい。アメとムチの使い回しが絶妙で、誰も同じような管理術はマネ出来ないと思ったものでした。 数百人の女性営業社員を前に、すべての人に目標達成の火を燃え立たせるのは、管理者として並大抵ではないのですが、この人には不思議な力があって、相当キツイ中味でも女性たちは(嬉々として!)ついていくように見える(そして一仕事終わって、頭を冷やして考えてみると、彼女たちは、何てシンドイことをしたのだろう、と思うんだそうです。それでも翌日またついていくというのは、ほとんど一種の催眠術ですね)。 これは何も光源氏のような「たはぶれ」に由ったのではなくて(そういうのも少しはありました)、要は女性が直に感じる(理屈じゃないですよ)Sex Appealを、この部長は色濃く持っていたということです。例えばヨン様のような典型的な美顔ではなく、チョイワル系のG・クルーニーとか、チョイアブナ系のB・ピットみたいのが、それにあたるかとも思うのですが(ファンの皆さんゴメンナサイ!)、世間的に見てチョットいかがなものか、と眉を少しひそめる要素が、逆にとても(女性から見て)たまらなく可愛く見える、ということはあるようですね。 この種の男=オスの「可愛げ」なるものについては、いろいろ言いたいことがあるのですが、キリがないので別にしたいと思います。 これに近いパーソナリティーとして、すぐに思い浮かぶのが、司馬さん言うところの「人蕩し」豊臣秀吉なのですが、彼のようにたんに気配りがよく利くというだけでなく、フッと子供的媚態(甘え)を示して、相手の頭でなく子宮(理屈でなく感性)に訴える、「人蕩し」の術(人心管理術)として自身のSex Appealを嫌味なく駆使できる男=オスというのは、今どきの日本ではとくに少ないのかもしれません。 以上、ムダ話でした。 しかし、だから!平安時代がセクハラが蔓延し、爛れきった社会であったと決めつけるのは、これまた時代を閑却した暴論で、その決めつけによって取り逃がす、普遍的な人間心理のほうがはるかに多い。古典はそれぞれの時代の文脈の中で読まないと、その中味はなかなか立ち上がってくれません。 やっかいなのは今の私たちもまた、生きた時代の流れの中にあるということで、セクハラ論議がこれだけ蔓延した社会では、かの時代の人々のつき合い方とか、心の機微を想像するのはなかなか難しい。昔を見つめるこちらの視線も、常に流れている(変化して行く)のです。古典を読むとは、今を生きる私たちの思考態度や姿勢を、過去から試されているようなものです。何だか難しくなってしまいました。 とはいえ、「須磨」あたりまで二枚目的振るまいを、おおいに発揮してきた光源氏が、ここへ来て「人蕩し」の術を駆使する、いわば「大人の」振るまいを示すようになると、彼に夢の王子様を仮託してきた読者には、多少ともある種の幻滅感が生じるのは仕方がないのかもしれません。彼もまた若き貴公子から、世に長けた大人になっていくのです。 あの手この手で、女を「懐かせた」光源氏は、別れ際に歌を読み掛ける。これは女の器量を見定める最後のダメ押しのような歌ですね。 (源氏)「かねてより 隔てぬ中とならはねど 別れは惜しきものにぞありける 慕ひやしなまし」と、のたまへば、(女)うち笑ひて、 「うちつけの別れを惜しむかごとにて 思はむ方に慕ひやはせぬ」馴れて聞こゆるを、(源氏)「いたし」と、おぼす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の君が、「以前から 知らない間柄でもないものの 別れはやはり辛いものよのうそなたを慕ってついて行こうかな」と、おっしゃると、女はホホと笑って、「私との別れを惜しむ振りをして 本当は明石の方にお会いしたいのでしょう」物慣れたお返しに、殿は「なかなかのもの」と、思われた。 乳母や女房の心得として、主人などの懐柔を軽く受け流す、あるいは秘密をしゃべらない、といった気の利き方はたいへん大事なので(今でもそうですが)、源氏は最後のこの返歌で、女の優秀な器量を確信したでしょう。なんだか祇園や銀座の気の利いたホステスさんとのやりとりみたいですね、私は知りませんが!?― つづく ―
2009.05.28
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これは当時の一般的な読者に対して、予定調和的な安心感を与えるためのサービスであったかとも思われ、今どきの私たちにははなはだ憤懣モノのくだりなのですが、この物語の特徴は、古びた昔物語ふうの下敷きと、驚くほど今ふうの人間心理の克明な記述が、あたりまえの話ですが、何の前触れもなく庭石をころがしたように、混交して語られていくということにあるので、このあたりガマンのしどころかもしれません。 はたして次に描かれる明石に送る乳母と源氏のやりとりは、私にははなはだ面白いのです。 何しろ鄙で我が姫君を育てるのが不安で、源氏はしかるべき乳母を選んで、都から明石に送ることにします。故院に仕えた宣旨(宮中女官)の娘で今は落剥している女を見つけて、明石行きを勧めます。使いを出して意向を聞いたところが、「まだ、若く、何心もなき人にて」というわけで、あっさり「引き受けます」という返事。 しかし源氏としては、大事な姫君の乳母とて、もう一度確かめておこうということでしょう。お忍びでその女に直接会いに行く。すると案の定、受けはしたものの、何しろ都落ちですから、出立すべきか迷っている。 このあたり、源氏の人の心理や行動の確認など、何か事を成すに行き届いたさまがよく出ていますね。今どきの大人でも指示の出しっぱなしで、後の確認(本当に実行しているか、その気になっているか)をしないまま、仕事をした気になっている人って結構多いですよね。― (源氏)「あやしう、思ひやりなきやうなれど、思ふさま殊なる事にてなむ。身づからも、おぼえぬ住まひに、むすぼほれたりし例(ためし)を、思ひよそへて、しばし念じ給へ」など、ことの有様、くはしく語らひ給ふ。上の宮仕へ、時々せしかば、見給ふ折もありしを、いたう衰へにけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の君は、「いかにもひどく、思いやりのない仕業と思われるかもしれないが、私にはことさら考える事があってのことなのだ。私自身、思いがけず苦労した住まいで、侘しくしていた例にも、思いやって、しばらく我慢して下さらんか」などと、ことの次第を、詳しくお話なさる。女は宮中への宮仕えも、時々していたので、源氏の君もご覧になったこともあったろうが、ひどくやつれてしまっている。 時の移り変わりで、落剥している様子を、直接会って、家の様子などで瞬時に見抜き、さて彼女をどうやって安心させて、明石に向かわせるかというと、 ― 人のさま、若やかに、をかしければ、御覧じはなたれず。とかく、たはぶれ給ひて、「とりかへしつべき心地こそすれ。いかに」と、のたまふにつけても、(女)「げに、おなじうは、御身近うも仕うまつり馴れば、憂き身も慰みなまし」と、みたてまつる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (やつれてはいるが)女の様子は、若やいで、いかにも可愛いので、そのまま見過ごす気にもなれず、何やかやと、お戯れなさって、「何だかこちらに取り返したい気がしてきた。どうだい」と、おっしゃるので、女は、「なるほど、同じなら、源氏の君の近くでお仕えし馴じんで行けば、はかない我が身の上も慰められるかしら」と、お見上げしている。 ここのところ、いつもの源氏の好き心かといえば、どうもそうではなくて、一種の戦略としての「たはぶれ」があるので、大野さんや丸谷さんは、こうした場面での性的な「たはぶれ」というのは、当時は侍女に対する懐柔策として一般であったのではないか、少なくとも紫式部は光源氏をそのような男として認知していたのではないか、とされます(『光る源氏の物語』大野晋、丸谷才一対談 中央公論社1987)。 二十年ほど前にこの本が出たとき、ここの説明はよく分からなかったし、本文はもちろん読んでいなかったので、そのまま放ってあったのですが、今あらためて本文と、この本のくだりを読んでみると「何や、そんなこと今でもあるやん」という感じがします。 ひと言でいえば、これは人を使うにあたって、「手なずける」あるいは「懐かせる」手法としての「たはぶれ」だったのではないか?― つづく ―
2009.05.27
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上のパラグラフに続いて、すぐ語られることとは、― 宿曜(すくえう)に、「御子三人。帝・后、かならず、並びて生まれ給ふべし。中の劣りは、太政大臣にて、位をきはむべし」と、考へ申したりし、「中の劣り腹に、女は、出で来給ふべし」とありしこと、さして、かなふなめり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 宿曜の占いでは、「源氏の君には御子が三人生まれます。そこから帝と后になるべき人は、必ず、並び立って生まれるでしょう。三人の中で劣った方は、太政大臣になって、世の位を極められるでしょう」と、思案して申上げ、さらに「中で身分の劣った人の腹からは、女君が、生まれ出でましょう」とあったことも、このことを指しているのか、当たっているようである。 宿曜(すくよう)とは、星の運行によって、日の吉凶と人の運命との関係を占う術の由ですが、ご存知のとおり、この話は「源氏物語」冒頭の「桐壺」の帖で触れられていた事柄でした。幼い光源氏があまりに何事も秀でた才能を発揮するので、桐壺帝がひそかに高麗の相人(人相見)に源氏を合わせたところが、― 「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらん。朝廷のかためとなりて、天の下助くる方にて見れば、又、その相たがふべし」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「国の親となって、帝王の最高の地位につくはずの相をお持ちでいらっしゃる方で、そういう人として占うと、国が乱れ民の憂えることが起こるかも知れません。かといって朝廷の重鎮となって、政治を補佐する人として占うと、またその相ではないようです」という見立て。 そこで桐壺帝が思うには、― きはことに、賢くて、たゞ人には、いとあたらしけれど、親王となり給ひなば、世の疑ひ負ひ給ひぬべく物し給へば、宿曜の賢き、道の人に勘へさせ給ふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく、おぼし掟てたり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫、傍線筆者) 才能は格別聡明なので、臣下とするにはたいそう惜しいけれど、親王とおなりになったら、世間から東宮になる野心の疑いも持たれようかと思われて、宿曜の優れた道の相人に占わせなさっても、同様に申すので、源氏姓を名乗らせようと思っておられた。 つまり桐壺帝が源氏を臣籍降下させた経緯が語られているのですが、宿曜で語られた中味を、この「澪標」の帖で明かすことで、「桐壺」の帖で語られた謎かけの一つが解かれ、さらには今後の物語の展開の予告になっているのです。 このあたり、先の「須磨」「明石」の帖と並んで、古物語の枠組みをことさらに読者に伝えようとしているかのようです。「須磨」「明石」が、源氏にとって「貴種流離譚」であるとするなら、これは「致富譚」(しかるべきお告げがあって、そのお告げどおりにしていったところが、すべて夢が叶うというストーリー)であって、それもじつは先の帖で「明石の入道」という奇態なる人物を登場させて、さりげなく伏線を張っていたようです。当時おなじみの夢物語を今様に合わせるため、紫式部はずいぶん工夫しているみたいですね。― つづく ―
2009.05.26
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このあたりから、源氏のいわば大人としての政治手腕が、さまざまに語られるのですが、冷泉帝の代に変わってまず源氏が内大臣につき、政治の実務(摂政)については、繁忙で我が任に耐えずとして、前の左大臣に職を譲ろうとする。朱雀帝の時代、右大臣の専横に嫌気がさして退隠していた左大臣ですが、光源氏他の強い説得に折れたというかたちで、六十三歳という高齢にも拘わらず政界に復帰します。― (元左大は)「病によりて、位をかへしたてまつりてしを。いよいよ老の積りそひて、さかしき事侍らじ」 と、うけひき申し給はず。「人の国にも、事移り、世の中定まらぬ折は、深き山に跡を絶えたる人だにも、治まれる世には、白髪も恥ぢず、出で仕へけるをこそ、まことの聖にはしけれ。…」、おほやけ・わたくし、定めらる。さる例もありければ、すまひはて給はで、太政大臣になりたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 元の左大臣は、「病気ゆえ、官職をお返し申しましたのです。さらには老いも進んでおりまして、(摂政のような)重職は務まりますまい」と、容易に承知されない。「彼の国でも、時代が変わり、世の中が不安定な折は、深い山に身を潜めていたような人でも、世が鎮まった折には、白鬚も恥ともせずに、世に出て仕えるのが、それこそ本当の聖人であるとしています。…」、というような意見が、朝廷でも世間でも一般である。過去にそうした例もあるので、とうとう引きこもりきられずに、大政大臣になられた。 一度は断るが二度目の説得は受けるというのは、昔の中国の故事によくあった話で、このあたりはすべて仕組まれた予定を、芝居気たっぷりに進行させているに過ぎません。もし源氏に意図があるとすれば、世俗の実務はもともとの大ベテランである左大臣にまかせ、同時に左大臣一族を味方につけることにあったでしょう。光源氏の本当の目的は、世俗の実権を握ることではなく、まったく別のところにあったのです。― まことや。「かの、明石に、心苦しげなりしことは、いかに」と、おぼし忘るゝ時なけれど、おほやけ・わたくし、いそがしき紛れに、え思すまゝにも、とぶらひ給はざりけるを、三月朔日(やよひついたち)のほど、「このごろや」とおぼしやるに、人知れずあはれにて、御使ありけり。とく帰りまゐりて、 「十六日になん。女にて、たひらかに物し給ふ」 と、つげ聞ゆ。珍しきさまにてさへあなるを思すに、おろかならず。「などて、京に迎へて、かゝる事をもせさせざりけむ」と、くちをしう思さる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) そう言えば ― 。「あの、明石の君の、お産のことは、その後どうであったか」と、源氏の君は思い忘れることはなかったが、公私共々、忙しさに取り紛れて、気にはなっていても、便りもなさらなかったものの、三月一日ごろになって、「確か今ごろであった」と思いやられて、ひそかにあわれに思われて、お使いを出された。使者はすぐに帰参して、「十六日でございました。姫君にて、ご安産でいっらっしゃいます」と、ご報告申上げる。(女の子は、初めてなので)源氏は珍しくも思われて、喜びようも尋常でない。「どうして、都に迎えて、こちらで出産をさせなかったか」と、残念に思われた。 彼にとっての目下一番の関心事は、もちろん天下の政務ではなく、我が貴種の血筋を、いかにして守り、そして繁栄させるかということだったのです。― つづく ―
2009.05.25
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― 「どうして、我が御子を、儲けて下さらなぬ。今となっては悔しい思いばかりだ。『深く契りを交わしたあの人のためならば、今すぐにでも、子がお出来になるだろうに』と、思うだけでも、残念でならない。(源氏の君は)身分にかぎりがあるから、もしお子が出来ても、臣下の身として、お育てになるほかあるまいに」などと、朧月夜の君の将来のことさえ、心配しておっしゃるので、女君はひどく、恥ずかしくも、悲しくも、お思いになる。帝は姿かたちなど、優しく清らかで、かぎりないご寵愛ぶりも、年月重ねるごと、ますます深まっていくようなのに、源氏の君はこの上なく麗しい方とはいえ、ことのほか我が身を愛していらっしゃるわけではないということが、気配や心づかいなどで、何となく朧月夜の君にはようやく分かってきて、「どうして、我が心は、若気にまかせて考えもなしに、ああした大騒動を、引き起こし、自身の名は、もちろんのこと、あの方さえ巻き込んでしまうような事をしてしまったのかしら」などと、思い当たられるにつけても、まことに憂鬱なお身の上ではある。 ― まことに「いと憂き御身」であることは間違いないにしても、仕出かしてしまったことにかんして、今ごろになって「そうだったのか!」と、一人合点されても、他の人たち(源氏と朱雀帝)はちょっと困ってしまうところがあるのですが、この人はその辺については、わりと屈託するところがないようです。 むしろあれこれ鬱屈しているのは朱雀帝のほうで、彼女に対するもの言いには、あてつけや源氏に対するJealousyが色濃くて、「いと、なよびか」なる性格が丸出しですね。このあたり、同じ故桐壺院を父に持つとはいえ、父のいたって世俗的な処世術と、貴種としての高いPrideをハナモチならないほど受け継いだ光源氏と、弘徽殿の大后という、うるさ型の教育ママに育てられて、多少意志薄弱な気配のある兄の朱雀帝との性格的な違いは明らかで、それは次第に兄の弟に対する無意識の反発となって亢進していったようにも見受けられるのです。 いずれにしてもこの兄のBehavior(振るまいかた)は、基本的に女性的なので、何か六条御息所の鬱屈した魂が、ついに「あくがれ出で」て離人症的症状を示したように、彼の精神も内向することで、結果的に無意識の復讐を、弟に行なうことになったようにも見えます。まあしかし、それはずうっと先の話。 さて、このあと予定どおり朱雀帝は退位し、冷泉帝が位を継ぎ、源氏と左大臣派の世となるのですが、ご存知のとおり冷泉帝とは表向き桐壺故院と藤壺との子、で、実際は源氏と藤壺との不義の子であるわけですが、世間的には朱雀院と源氏、冷泉帝の三人は、すべて故院の腹違いの兄弟ということになります。 故院がなぜ源氏の君だけ臣籍降下させて、源氏姓を名乗らせたかについては、また別に話することになると思いますが、基本的には母方の血筋の高低ということがあったでしょう。彼のお母さんは名もなき更衣の身分で、弘徽殿の大后や藤壺の宮のような高貴な血筋の出ではなかったのです。 冷泉帝の秘密を知っているのは、主人公の光源氏と藤壺の宮(今は女院)、そして側仕えの命婦あたりだけということになるのですが、このあたり、今どきの小説や映画でも同様なのですが、読み手側の「秘密の共有」というのは、Story Tellingのもっとも基本的な技法なのかもしれません。読むこちらは安全地帯にいて、登場人物たちの知らない秘密を知りながら、それらに翻弄されて右往左往する人物たちを眺めて快感を得る、という仕儀になるのです。 考えてみれば、物語とか小説とかは、詩歌や管弦に比べて、昔からずいぶん俗なる(人の心理に媚びた)芸術形式だったのかもしれません。― つづく ―
2009.05.23
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― 朱雀帝は、ご退位の御心づもりが、日々立ちまさってくるが、それにつけても尚侍の君(朧月夜)が、ひどく心細げに、世の中を思い嘆いておられるのを、たいへん心配に思われるのであった。「 … あなたは以前から、私のことを人(源氏)より、思い貶しんでいらっしゃったが、私のあなたへの思いは、かつてなく強いものなので、だからこそあなたの行く末が、心配でならないのです。あなたにとってはるかに魅力的な人(源氏)も、あなたに御好意があって、いずれまた結ばれるのでしょうが、『私の消えることのない思いとは、とても比べようもないのだろう』と思うのさえ、辛くてならない」とおっしゃって、お泣きになる。女君は、お顔が、気鮮やかに赤く染まって匂いたち、こぼれるばかりの愛敬ある姿のまま、涙をはらはらと落すのを見るにつけ、それまでのさまざまな(女君の)罪も忘れて、「心配で、いとおしい」と、ご覧になっている。 ― この朧月夜、大后の年離れた妹君で、かつて光源氏との禁断の逢う瀬を重ねた間柄、朱雀帝もそれと知りながら、彼女に抗いがたい魅力を感じている女性なのですが、そのあたりの魅力は「賢木」その他で触れたので、ここでは触れません。さてこの人、何時ぞやと同じく、またしてもすぐに顔色が「いと赤くにほひ」で、表裏のない性格がよく出ているのですが、これがどうも男=オスにとってはたまらない。ましてその匂い立つ姿のまま、伝家の宝刀「女の涙」をあられもなく落として、男をオタオタさせてしまうというのは、本人が意識するしないに拘わらず(彼女は明らかに、自身のCoquetterieに気付いていません)、男心を常に虜にする若い魅力を、本来的に備えている女性のようですね。 もともとが陽気で華やかな性格のせいか、物事をいつまでもあまりくよくよ考えない、源氏を流遇の身に追いやった直接の引き金(原因ではありません)であったのに、その後許されて尚侍として参内するや、朱雀帝とのあいだにすでに子供もある承香殿の女御も上回るほどの寵愛を一身に受けて、結構ルンルン気分で過ごしていた気配があります。この人の持ち味は、いろいろ考えるより先に体験で物事を知るという、若さだけに許された身の軽快さだと、私など思うのですが、さて今どきの人たちは、こういう軽い身の振るまいかたをどうみるのでしょうか? とはいえ、さすがにこのたびは朱雀帝に我が後身の危うさを、ふと気付かされて思わず涙がこぼれてしまう、ここには帝の源氏に対する心理的な葛藤もあるのですが、何はともあれ、このあと続くやりとりを見ていても、この人は憎めないところがあるのです(私の好きな登場人物の一人です)。― (帝は)「などか、御子をだに、も給へるまじき。口惜しうもあるかな。「契り深き人のためには、今、見出で給ひてむ」と、思ふも、口惜しや。かぎりあれば、たゞ人にてぞ、み給はんかし」など、行く末の事をさへ、のたまはするに、(朧は)いと、恥づかしうも、悲しうも、おぼえ給ふ。御かたちなど、なまめかしう、清らにて、かぎりなき御心ざしの、年月に添ふやうに、もてなさせ給ふに、めでたき人なれど、さしも思ひ給へらざりし、気色・心ばへなど、物思ひ知られ給ふまゝに、「などて、わが心の、若くいはけなきにまかせて、さる騷ぎをさへ、引き出でて、わが名をば、更にも言はず、人の御ためさへ」など、おぼし出づるに、いと憂き御身なり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者)― つづく ―
2009.05.22
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「澪標(みおつくし)」の冒頭、都に戻った光源氏と朱雀帝の位置づけが、完全に逆転しているさまが描かれます。― みかどは、院の御遺言を、思ひ聞え給ふ。ものの報いありぬべく思しけるを、なほしたて給ひて、御心地すゞしく思しける。時々、おこり悩ませ給ひし御目も、さはやぎ給ひぬれど、「おほかた、世に、え長くあるまじう。心細きこと」とのみ、ひさしからぬことを思しつゝ、つねに召しありて、源氏の君は、まゐり給ふ。世の中の事なども、へだてなくのたまはせつゝ、御本意のやうなれば、大方の世の人も、あいなく嬉しき事に、よろこびきこえける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 朱雀帝は、故桐壺院の御遺言を、常に気になさっていた。(遺言を違えた)報いが必ずあると思っておられたのが、こうして源氏の君を元の位に戻したことで、御気分もすっきりしたように思われる。時々、発して悩んでおられた眼病も、回復されたが、「なんとなく、この世には、長く生きられそうにないような気がする。心細いことだ」とばかり考えられ、自身の帝の世も長くはあるまいと思われて、しょっちゅうお召しがあるので、源氏の君は、参内なさる。世事のことなども、何くれとなく源氏の君と相談なさるのが、御本意にかなうことなのか、おおかたの世の人々も、ひたすら結構なことと、喜び申し上げていた。 ここで大事なのは、故右大臣や大后の後ろ立てがなくなってみれば、もともと「なよびたる」風情の朱雀帝が頼るべしは、腹違いの弟の光源氏だけなので、彼は何となく左大臣派からの圧力で、身の危険を感じているようにも見える。「おほかた、世に、え長くあるまじう」とは、たんに眼病にかかったことで気が弱くなっているのではなく、さるまじき罪でも着せられて流寓の身ともされかねない身を案じているのです。それはまさしく右大臣派のやった事柄の巻き返しなので、彼としては何としても我が身の保全と、愛する女たちの行く末を気にするという仕儀になります。 そこで彼が光源氏をしゅっちゅう参内させて、世事万端を相談するというのは、左大臣派をかわす狙いもあるのですが、それは同時に政治の主導権が完全に光源氏に移ることをも意味しているので、翌年すぐに退位という筋書きも、あるいは源氏のほうからの教唆があったのかもしれません。 このあたり、光源氏と朱雀帝の関係というのは、微妙な縁で結ばれているので、源氏とすれば左大臣派が世事を完全に牛耳る世というのは、貴種の血筋として決して好ましくないのです。考えてみれば彼もけっこう危ない政治劇の橋を渡っているわけで、それは後々、例の竹馬の友とも盟友とも思われた「頭の中将(左大臣の息子)」との確執となって現れてきます。今ふうに書けば、ずいぶんと生臭い政治劇が立ち現われてきそうな場面なのですが、もちろん紫式部はそんなことはおくびにも出しません。 描かれるのは公事ではなくまさしく帝の私事であって、朱雀帝愛顧の尚侍、朧月夜とのくだりは、彼の源氏に対する微妙な気持ちが現れていて面白い。― おりゐなむの御心づかひ、近くなりぬるにも、内侍のかみ、こころぼそげに、世を思ひなげき給へる、いと、あはれに思されけり。 「 …昔より、人には、思ひおとし給へれど、みづからの心ざしの、又なきならひに、たゞ御事のみなん、あはれにおぼえける。たちまさる人、又、御本意ありて、見給ふとも、「おろかならぬ心ざしは、えしもなずらはざらむ」と思ふさへこそ、心苦しけれ」 とて、うち泣きたまふ。女君、顔は、いと赤くにほひて、こぼるばかりの御愛敬にて、涙もこぼれぬるを、よろづの罪わすれて、「あはれに、らうたし」と、御覧ぜらる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫)― つづく ―
2009.05.21
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「澪標」の帖は、光源氏二十八歳から二十九歳の話で、成年になるための試練を経て、いよいよ政界に復帰し、壮年期の第一歩を踏み出すということになります。ここではそれとともに明石の君との姫君誕生や斎宮の入内などがあって、物語の大きな転換が図られているわけで、青少年期に光源氏が関係した女たちは、その思い出とともに次第に表舞台から去っていくことになります。 おおまかな筋は、許されて都に戻った光源氏は、同時に官位も元に戻されて政界に復帰する。さらに翌年になって、朱雀帝は東宮の元服に合わせて、にわかに退位し新帝(冷泉帝、実は源氏の子)の世となる。それと同時に源氏は内大臣となり、致仕の大臣(故葵の上の父)も源氏の強い所望によって左大臣に復帰、朱雀帝の時代と打って変わって、源氏と左大臣家の隆盛の世となる。 というわけですが、前にも触れたように罪を許されてから復位(権大納言)し、さらに翌年の代替わりに内大臣に昇進するという経過は、当時の世間的常識からみてちょっと不自然であったろう、と思わせるところがありますね。政治常識的には、公式の科を被った「流罪」なら六年、科なくことさらな「配流」にあった流人でも三年は役に就けない、という了解事項があったようなのですが(だからこそ大后は源氏の復帰に反対したのです)、この早すぎる復帰の裏には、相当政治的な陰謀劇があったことを想像させます。 表向き、故桐壺院の怨霊ないし祟りということを、菅原道真の例にも触れながら、朱雀帝が畏れて源氏の復位を急いだというふうに語られますが、たぶん実体はもっと生臭い政争が都で繰り広げられていたであろうことを、この物語は示唆しているので、そのあたり、基本的には先帝以前から続いているらしい、左大臣派と右大臣派の勢力争いの構図があるのですが、元の左大臣(致仕の大臣)の息子(頭の中将)が、「須磨」の帖で光源氏をお忍びで訪ねてきたというのが、たんなる旧交の情を温める機会ではなく、政略的な作戦会議の一面を持っていたのではないかということは以前にも触れました。 当時、「物語」というのは宮廷内外の文化教養的な位置づけとしては、今でいう「週刊誌」的な扱いであったごとくで、公式にいちばん重んじられたのは言うまでもなく漢籍であり、公文書はすべて漢文で書かれていたのです。次に来るのが詩歌管弦で、和文として認められていたのは、和歌がせいぜいのところでした。和歌が物語に陥入してくるとき、物語世界の時間が止まってしまう、という話を以前しましたが、その原因の一つはたんにそれが韻文と散文の違いというに留まらず、どうもこの和歌自身に付与された半ば公の要素というものがあるような気がしています。 まあ、それはさておき「物語」が政治を語るということは、「公け事」を駄文で語るということであって、さらに「物語」の読者対象が表向き女子供とされたということもあって、おおいに忌避され、もちろん注意深い紫式部も生々しい政治向きの話はしません。 しかしこの「澪標」の帖で語られている朱雀帝や兵部卿の宮の扱いをみていると、当時の読者はあるいは「物語」の裏に流れる生臭い政治劇のニオイを嗅ぎ取ったかとも思われます。露わに語られることがなくても、当時の主たる読者層(女房、上達人)の一部は気鮮やかにそれを感じ取っていたのではないか、というふうに想像したほうが、このあたりの話は面白くたどれるのではないか? それが同時に、紫式部自身の隠された大きな関心事であったことも、ほぼ間違いないような気がするので、表向き女子供向けの「王朝夢物語」で出発した「源氏物語」が、当時の今様の男女の心理や、世俗の動き表現する方法を取り込むに到って、すぐれて大人向きの(分かる人には分かる)文学に変身していったと思われるのです。― つづく ―
2009.05.20
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源氏の「澪標」の帖以降を、どういうふうに話しようかと思案しているうちに、何やらまたしても世の中が騒がしい。私はテレビやNET上での騒ぎについては、九割がた割り引いて、なおかつ本当のことが残っているかどうか、判断することにしているのですが、昨日今日例によって街をうろついていると、アッと驚くマスクの人たちの群れ、花粉の季節はとっくに終わったじゃないかと思っていたところが、新型インフルエンザ対策ということらしい。 ふだんスーパーにしても本屋にしても、透明人間のごとくすり抜けていくことを、本意としている私ですが、マスクをしていない私を見詰める周囲の目というのが、何となく気になって、うっかり大好きな本の立ち読みも出来ないありさまです(とくに奥様がたの目線がものすごいです)。うっかりセキ払いでもしようものなら、たちまちパニックが起こるんじゃないか、というような異様な雰囲気は、私たちがかつて来た道をまたまた繰り返そうとしているかとも思われ、大いに腹ふくれる思いで事務所に戻ってきたのでした。 美女!事務に聞けば、「今ごろ何を言うてんの!インフルエンザ用のマスクなんか、とっくに売り切れてどこにもありませんよ」という由、そういえばさっき通ったドラッグストアにも奥様がたが群がっていたな、と思いつつ、ああこれでマスクメーカーだの薬用石鹸だのの医薬品メーカーは、ウハウハだろう、しかしパニックを煽りに煽って引き起こされた社会的損失については誰も責任を取らないだろうな、とため息の一つも吐きたくなります。 「大体がやねェ!」と、どこかのおっさんみたいに怒鳴りたい衝動に駆られるのですが、実態的な新型インフルエンザの病理的な危険度と、社会風評的な危険度とどちらが大きいかと言えば、あきらかに風評によってもたらされる社会的損失のほうがはるかに大きい。スーパーも銀行も全員がマスク着用で(病院ならともかく)、お客に接したらどのような事態になるか、ちょっと考えればすぐ分かることなのに、今や事業者がいちばん恐れるのは実態より風評なのです。今世紀に入って風評による事業者の被害というのは顕著なもので、身近なところでは「赤福」だの「白い恋人」だの、一朝にして売り上げが吹き飛ぶという現象は今や珍しくなくなってしまいました。 地域的な紐帯が外れた結果、風評はメディアとNETであっという間に蔓延するようで、仮想現実に浸りきった今どきの社会というのは、それが現実にマスクをしたおっちゃんおばはん(失礼!)に、街なかで出くわしたとたん、いっせいにある一つの方向に向かって走り出す、といったとても脆弱な社会なのです。これは保健医療体制がどうの、タミフルの備蓄がどうのといった問題ではなく、人間の振るまいかたとか文化の問題で、アメリカやヨーロッパがすでに新型インフルエンザが早くから侵入しているにもかかわらず、ヒステリックな煽りやパニックが起こっていないのと対称的ですね。 このあたり、私は以前から日本のマスメディアの報道姿勢や、物事の捉えかたの浅はかさを多少でも取り上げてきたつもりですが、それにしても毎日流れるニュースショーに登場するキャスターたちのレベルの低さは眼を覆いたくなるばかり、しかしよく考えてみるとこの人たちというのは、多くがタレント(このタレントにはアナウンサーとか天気予報士も含まれます)や元?俳優で、言ってみれば仮想を演技として生業(なりわい)としているわけですから、表現が芝居がかってしまうのはあたりまえなのかもしれません。嘆かわしいのは、それにつられるように本来芝居とは関係のないメディアの人たちまでが、その報道姿勢に影響を受けていることです。 これらを観ている視聴者とは、それこそ今や仮想の空間をブログとかメールでおおいに跋扈して、自己を演技するのに長けた人たちですから、実態社会が以前に比べてヒステリックになるのはどうしょうもないのかもしれません。そういう人たちは、やがて皆さん防毒面に防護服をまとって街を歩くことになるでしょう。これぞ私の想像する究極の無名性の社会の姿であって、昔アメリカ人がレイバンのサングラスをかけて歩いている姿を見て感じた無名性の社会が、日本でもいよいよ現れつつあると思ったりもします。 と言うわけで、私は近所の薬局のおっさんの話を信じて、1. 人込みにはなるべく出ない(出るべきときは、普通に出る)2. インフルエンザ用のマスクなんかしても(お金の)ムダ(どうしてもしたいなら、せいぜい花粉用で充分)3. 家に帰ったら、うがい、手洗いが基本(石鹸で充分)4. それで罹ったと思ったときは専門家に頼る(医者にかかる) これでいいんじゃないか、と思ったりもするのです。防毒面と防護服(ここでは今日見てきたマスク顔)で守るべきものっていったい何なのでしょう?我だけ助かって、何かそんな良いことってあるのでしょうか。「パンデミック」だの「フェーズ6」などといった、折り知り顔のコトダマに躍らされないためにも、そんなことは専門家に任せておけばよいと思うのですが、さて …
2009.05.18
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大いなる不安を明石の一家に残したまま、源氏の一行は都に戻って行くわけですが、彼らにとっては過ぎ去った明石より、来るべき政界復帰のほうに頭が行ってしまうのは無理からぬことではありました。しかし本人たちの不安と期待とは関係なく、この須磨流遇からの帰還以後、源氏一門や左大臣一派の政界への復帰は、とんとん拍子に進んでしまうので、はなはだAnti‐climaxな印象を与えます。 こうした印象というのは、この流遇譚が「貴種流離譚」を下敷きにしながらも、今様のヒーローであるべき光源氏に昔物語風の英雄活劇を期待するわけにもいかず、あらたに「神仙譚」の味つけを加えて、軽く済ませようとしたための結果なのです。もとより物語の筋としては、鄙で美しい姫君と合い子供をもうけた、という出来事があれば、a系冒頭「桐壺」の帖に出てくる高麗の相人が語る「帝王に昇るべき相ではなく、かといって朝廷の重鎮となって政務を仕切るわけでもない」という予言に呼応する話としては充分なのでした。 もともと無理な設定の話を進めるために、いろいろ仕掛けを施したり、中国の故事をさかんに引いたりしていますが、さて同じような怪奇譚として「夕顔」や「葵」で描かれたような「物の怪」話に比べて、ここの「神仙譚的貴種流離譚」が面白いかと云われれば、何度も言いますが退屈なのです。その理由もすでに何度か触れましたが、「物の怪」話が光源氏の内心の恐怖の投影として、今の私たちの心理にも、とても生き生きとよみがえるのに対し、こちらはさまざまな道具立てが、王朝夢物語というa系の筋書きの展開のためにしか、使われていないために生じたのでしょう。 これは言い換えれば、紫式部自身が「夕顔」や「葵」のとき、ほとんど彼女自身が戦慄しながら「物の怪」を描いて、当時の風俗であった「物の怪」を、登場人物の心内の恐怖として見事に再創造したのに対し、ここでは彼女の登場人物たちへの心理的な共感というのがまったく感じられないので、それがひいては明石の君の、はなはだ月並みな印象にも繋がっているような気がします。六条御息所は言うに及ばず、軽いノリで源氏との逢う瀬を楽しんだ朧月夜に比べてさえ、今のところ彼女ははるかに魅力に乏しいということになってしまいました。 ちょっと、くさし過ぎなのかもしれませんが、「葵」「賢木」の帖を経た読者なら、当時から同じような印象を受けた人もきっといただろうというのが、私の相変わらずの妄想で、だからこそ、ここでガッカリする人が多くなったせいで、いつしか「須磨源氏」なる言葉が生まれたのではないかと思っています。期待がふくらみ過ぎて、反動も大きかったというところでしょうか。 というわけで、この「明石」「須磨」の帖の魅力は、繰り返しになりますが、明石入道に見い出される「夢を信じた人々」と、それを取り囲む家族や従者などとのやりとりにあるので、結局私が取り上げたパラグラフも、そっちばかりが中心になってしまいました。面白がって我流で訳したりしているのですが、これはもちろん碩学の先達の向こうを張るというのではなく、私流に読めばこう読めるという意味で、間違ってもこれを現代訳などと思ってはいけません(一種のシャレですから、仮にも受験の解答に使ったら、エラいめに合いますよ。もちろんそんなことはないと思いますが)。 さて夢をひたすら信じて、その実現のために結局世間的な地位を放擲し、ことと次第でその志が遂げられない場合には、娘に「海に入って死ね」と言い放って憚るところなかった明石入道という人物像、西郷さんは当時の社会認識としてそうした人物もありえただろうとされますが、ここでの描かれかたは、先に見たように一種の滑稽譚になっていて、その滑稽さの本質は、物語中の奥さんや乳母、従者たちに少々バカにされて見られていることでも明らかなように、超俗と世俗の相克にあるのです。 つまり当時としても、この種の志し頑ななる人は、恰好の物笑いの種となるべきキャラクターであったわけで、そのあたり、あるいは今も昔も世俗の眼(世間的常識)的振るまいというのは、あまり変わってないのかもしれません。世俗は常に超俗の足を引っ張ることで、溜飲を下げたいらしいのです。 大事なのは、それを描く紫式部の筆致が、入道にきわめて親和的で、例の八の宮のように、残した娘たちを最終的に破局に導くというようなことをしない(どころか、彼の大願はすべて成就する)ので、その根拠が話の中では、彼の経済的裏づけにあったことは前にも触れました。このあたり彼女の指向性を推し量るうえで、何となく参考になるのです。 さてこの話も、またまた例によって長くなってしまったので、いったんお休みということにし、退屈さを軽減する意味でも、光源氏が都に帰ってからの話は、多少書きかたをリニューアルして再開したいと思っています。この山はあまりにも大きい。だからこそ、こちらもあせらずに思いっきりスローダウンして、話して行きたいと思っているのですが … 。 ― 源氏1000年 その二 おわり ―
2009.05.14
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この故桐壺院の霊験は強力で、夢で故院と目を合わせたと思った朱雀帝は眼が悪くなり、例の口さがない母大后は体調を崩し、はては俗世を牛耳っていた祖父の右大臣が亡くなるに及んで、帝は早急に光源氏を流遇先から呼び戻し、復位させようと考えます。 もともと「なよびか」に過ぎ、大后や右大臣に遠慮して、何かと意のままならなかった朱雀帝ですが、ここでおそらく生まれて初めて自ら決断を下します。まあ、もともと彼と源氏は腹違いとはいえ、故院の兄と弟の関係であって、むしろその気質の違いから、個人的には気が合っていたような節がありましたね(後々、感情的には少し微妙なことになるのですが)。 年が明けて七月二十日過ぎに、帝より帰京の宣旨が下り、源氏の一行は喜びに包まれるわけですが、微妙なのは明石入道の一家です。入道の「頑ななる志」によって、ようやく光源氏と明石の君は契りを結んだとはいえ、何しろ身分の上では受領風情と天上人の差ですから(かつての空蝉の立場と同様ですね)、奥さんや娘本人があれこれ気を揉むのは当然の成り行きでした。で、これまたタイミングというか、よくある話ですが、明石の君はどうやら懐妊した気配である。 やむごとなきお方の落し胤を残して、このまま一家は明石に捨て置かれるのか、もちろん源氏は「心配するな」とは言うけれども、しょせん別れの「あいさつ代わり」と取れなくもない、というわけで、このあたり入道本人も自信はないわけです。娘が打ち萎れているのを見て、― 母君も、なぐさめわびて、 「何に、かく心づくしなる事を、思ひそめけむ。すべて、ひがひがしき人に従ひにたる、心のおこたりぞ」 といふ。 「あなかまや。思し捨つまじき事も、ものし給ふめれば、さりとも、おぼす所あらむ。おもひ慰めて、御湯などをだに参れ。あな、ゆゝしや」 とて、片隅によりゐたり。 ― 同上 母君も、娘を慰めかねて、「どうして、こんなしんどい事を、思いついたのでしょう。それもこれも全部、この偏屈な人の言う事を聞いたからで、これは私の心の油断でしたわ」と言う。「やい、うるさい。思い捨てになるはずのないこと(懐妊)も、ご承知なのだから、帰京されても、しかるべきお考えがおありだろう。気持ちを引き立てて、お薬などを飲ませて上げなさい。あ~ぁ、ろくでもないことを」と言って、隅に引きこもっている。 と、意気まいてみたものの、内心の不安は隠しようもなくて、― 乳母、母君など、ひがめる心を言ひ合はせつゝ、 「「いつしか、いかで、思ふさまにて見たてまつらむ」と、年月を頼み過ぐし、今や、「思ひかなふ」とこそ、たのみ聞こえつれ」「心ぐるしき事をも、もののはじめに見るかな」と、なげくを、みるにも、いとほしければ、いとゞぼけられて、昼は日一日、寝をのみ寝暮らし、夜は、すくよかに起きゐて、「数珠の行方も知らずなりにけり」とて、手をおし摺りて、あふぎ居たり。弟子どもにあはめられて、月夜には出でて、行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。由ある岩の片側に、腰もつきそこなひて、病み臥したる程になむ、少し物まぎれける。 ― 同上 乳母と母君は、入道の依怙地な気性を謗りあって、「『いつかは、何としても、思いどおりの婿君を拝めるのかしら』と、長年あてにして過ごしてきて、今やっと、『願いがかなった』と、頼もしくも思っていたのに」「気がかりなことに、ご縁のしょっぱなから会ってしまったことで」などと、嘆きあうのを、見ていて、娘があまりに可愛そうに思われたか、入道ははなはだ頭がボケられて、昼は日がな一日寝て暮らし、夜になると、ゴソゴソ起きてきて、「数珠をどこへやったのかも分からなくなった」と、手だけすり合わせて、空を仰いだりしている。弟子たちにもバカにされて、月夜に外に出て、行道(ぎょうどう)していたところが、遣り水に足を踏み外して倒れてしまった。けっこうな形の岩の片側に、腰を衝いて痛めてしまい、病み臥している間くらいは、少しは気が紛れたか。― つづく ―
2009.05.13
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古代人が「夢」をもうひとつの「うつつ」と考えていたというのは、要は意識がコントロールしている「この世」という「うつつ」に対して、意のままならぬ「他界」を写し出す回路として「夢」を捉えているという意味で、科学的合理性云々は別として、そこにキチンとした論理性があることが分かるでしょう。 「他界」とは、かつては農耕共同社会の人智の及ばぬ、周囲の自然(その中に女性性も含まれていることは、先に触れました)全体を指していたのですが、ここでは「死者の国」つまり故院の住まう「あの世」の意で、ここと「この世」の回路は「夢」で開かれている、という図式になります。この回路によって、亡き故院を「この世」に呼び戻し、憔悴した源氏を蘇生させるとともに、都では朱雀帝の夢に現れて、おおいに帝を叱るというわけで、ことがらはすべて「死と再生」という成年儀式の予定調和によって進行するのです。 さらに大事なのは、故院が光源氏の前に現れるのに「海に入り、渚にのぼり、いたく困じにたれど、… 」とあるように、「あの世(他界)」は海原の彼方にあると考えられていたということで、これが「龍宮伝説」や「常世の国」あるいは大陸由来の「神仙譚」を下敷きにしているのは、明らかでしょう。 しかし、このあたりの神話的意匠は紫式部のような明晰な頭で、「あまりなるまで」一から見直されて語られると、かえって何となく「神話的有りがた味」というか、Mysticな神々しさが感じられないように思えてしまうのは私だけでしょうか? すべては「貴種流離譚」の運行表にしたがって、流遇先での結婚という話に進むのですが、先にも触れたように、おそらく紫式部自身や、周囲のすでに目の肥えた読者は、その絵空事のような筋立てに気付いていたかに思われ、それは必然的に「貴種流離譚」の一方の主人公である、お姫様の造形にも影響したかと思われます。彼女は「紫の上」と並んで、ここから「明石の君」を丁寧に書き込んでいくのですが、この二人は紙数を多く重ねて描いてあるのも拘わらず、(今のところ)あまり生きた個性が感じられず、その意味で魅力的とはいいかねるところがあるのです。 これは前にも言いましたが、今様の生きた人間を、嫉妬のない夢御殿の実現とか、古代神話的舞台で描こうとした当初の構想に無理があるからで、彼女の筆力はこうした書き割り風の下敷きをはるかに凌駕しているのです(しかし彼女が実際に当初の構想を壊しにかかるのは、ずっとあとの「若菜」以降になりますね)。 というわけで、この二つの帖の面白味は、何度も言いますが、明石入道の奇態なる個性でもっているので、先に挙げたような二、三の挿話でもすでに充分魅力的でしょう。 光源氏が「夢」に導かれて明石へ赴き、あれこれのやりとりがあって、結局「明石の君」と結ばれるのですが、都では例の春の嵐のあと、朱雀帝の枕辺に桐壺の故院が現れて、― その年、おほやけに、物のさとししきりて、物騒がしき事多かり。三月十三日、神、鳴り閃き、雨・風さわがしき夜、みかどの御夢に、院のみかど、御前の御階(みはし)のもとに渡らせたせ給ひて、御気色いと悪しうて、にらみ聞えさせ給ふを、かしこまりておはします。きここえさせ給ふ事ども多かり。源氏の御事なりけむかし。 ― 同上 その年、朝廷では、不吉な前兆がしきりで、物騒がしいことが多かった。三月十三日には、雷が鳴り閃めいて、雨風が激しい夜に、帝の夢に、故院の桐壺帝が現れて、御前の階の下に立たれて、たいそうお怒りの様子で、帝を睨みなさるので、帝は畏まっておられた。故院からは様々仰せになることが多い。源氏の君のことであったろう。 三月十三日とは、もちろん源氏の夢枕に故院が現れ、明石入道が夢の告げに従って、源氏を舟で迎えに来たのと同じ日なのです。― つづく -
2009.05.12
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さきに物の怪の話で、魂と心は古代人にとって別のものと捉えられていた、という話をしましたが、「あくがるなる魂」がさまざまな精神の抑圧状況によって、身体からフワフワと離れ、コントロール不能の状態となる、こうした離人症的現象は「うつつ」のときにおこるわけですが、抑圧されてない状態であっても、意識がコントロールできない知覚現象を、私たちは日常的に経験しています。それが毎夜見る「夢」ということなのですが、西郷さんは古代人は「夢」を荒唐無稽な非現実ではなく、もう一つの「うつつ」と捉えていたのではないか、と指摘されます。 今どき夢を現実と考える人はもちろんいないわけで、実は古代人もすべての夢を本当のこととは思っていなかったらしいのですが(そうなると日常生活が成り立たなくなるので)、しかるべき手順や手続き、あるいは状況設定によって現れた「夢」にかんしては、現代人の想像を超えた信じられかたがあったのではないか、とされるのです。しかるべき手順とは、我が身を荘厳してお堂などにこもって見る夢とか、状況設定はと云えば、さきほどのように二人(ないし複数名)が、同時に同じ夢を見るとかいう場合です。こうしたとき古代人は、かなりの確信を持って夜目に現れた「夢」を信じ、また、その後の「うつつ」の振るまいかたを決定したのではないか。こうしたことを非科学的とか不合理とかいって済ませてしまっては、実際にそれを信じて行動したり、物事を決定したりした古代人の振るまいとか、社会行動には、永遠に近づけないことになるし、となると古典の読みかたとしても片手落ちなのではないか。古典は可能なかぎり古典の書かれた時代の文脈で読まれなければ、真の意味で享受することにはならないだろうし、真に私たちの前に立ち現れるということもないだろう、さらに言えば、逆に私たちが真に古典を今と対置して、そこから決別する(対自化)こともできず、手前味噌な自己同一化を繰り返すことになるだろう、と思われるのです。それが、ひいては逆に永遠の古典嫌いを生み出すという、どうどうめぐりにつながりかねない、ということは前にも言いました。 と同時に、二十世紀に入ってユングやフロイトが「夢」などに絡めて、無意識世界が人の意識世界の行動に影響を与えていること明らかにしたので、どうやら我々自身も「夢」をまるきり「うつつ」の意識世界と切り離して考えることはできないみたいですね。 と、少し難しいことを言ってしまいましたが、非科学性とか不合理性を今どきの人たちが、はたしてどれほど対置して決別できているのかどうか(というより、元よりそんなことできるのか)というと、かつての精神分析学や今はやりの脳科学、はては夢占いや運勢判断などの隆盛を見ていると、不合理的な思考や振るまいの跳梁は、むしろ繁くなっているようにも思えます。 実は同じような精神の危機が、平安中期のとくに女房社会にあったのではないか、と西郷さんは言われます。 都市的社会(都)の出現が、身体に付着した固有の「心」と、共同体に繋がっていると考えられた「魂」の分離を引き起こし、その結果、逆にしきりと遊離魂が強く意識されだしたのだろう、というのは前にも触れました。同時にかつては「夢見」で世継ぎも決めていたような、「うつつ」と「夢」の古代的な結合は失われていったのですが、失われつつあるからこそ、逆にそれを強くことさらに意識しようというな精神構造もあるので、今どきの科学的合理性が万能と受け取られて、世の中からすっかり真の闇が失われたようにみえる社会のほうが、かえって不合理な宗教やエセ科学、はてはB級ホラー映画の跋扈を許したりするというのと似ているのです。 この「須磨」「明石」の帖には、そうした個人の「意識に目覚めた」女房たちから見つめた「夢」が語られているので、神話時代の「夢のお告げ」と同様の理解のしかたでは、片手落ちになってしまいます。紫式部によって仕組まれた「神仙譚」は、たぶんに都市的なSophisticateされた「夢」物語なので、そこには大陸由来の神仙思想や、百年ほど前の菅原道真の祟りのエピソードなども、明らかに盛り込まれ、「古事記」にみられるような牧歌的な共同幻想は、望むべくもありません。 これらの話を都でない「鄙(ひな、いなか)」に持ってきたというのも、すでに共同幻想が解体した都市であるよりも、魂も夢もまだ生々しい(と考えられた)鄙のほうが、持ち出しやすかったからに他ならず、これは私たちが異国に抱くところのExoticismと同じ心理であったでしょう。― つづく ―
2009.05.09
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その朝、須磨の浦に小船をこぎ寄せるものがあるので、尋ねさせたところが、例の明石入道の一行である。入道が言うには、― 「いぬる朔日の日の夢に、様異なるものの、告げ知らする事侍りしかば、「信じがたきこと」と、おもひ給へしかど、「十三日に、あらたなるしるし見せむ。舟、よそひ設けて、必ず、雨・風やまば、この浦にを、寄せよ」と、重ねて、しめす事の侍りしかば、こころみに、舟、よそひを設けて、待ちはべりしに、… あやしき風、ほそく吹きて、この浦に着き侍りつる事、まことに、神のしるべたがはずなん。… 」 ― 同上 「去る朔日(ついたち)の夜の夢に、異形のものが、私に告げ知らせることがございまして、『信じがたいこと』とは、思いましたが、『十三日に、新たな証拠を見せよう。舟を、準備して待てば、必ず、雨風が止むので、その時はこの須磨浦に、舟をこぎ寄せるのだ』と、重ねて、告げ知らせることがあったので、試みに、舟を、準備して、待っておりましたところ、… 不思議な追い風が、一筋吹いて、何なくこの浦に着きましたことは、まことに、神の御標しに間違いございません。… 」 この入道の見た夢が、光源氏が最初に見た夢と、同じ日のよく似た内容ということで(二人同夢)、源氏は「など、宮より召しあるに、参り給はぬ」の中味、さらに今朝がた見た故桐壺院の「住吉の神の導き給ふまゝに、はや舟出して、この浦を去りね」の意味を理解して、入道の舟で明石に行くということになります。 この場合、自分の見た夢を信じてやってきて、初めて会った入道に、源氏が身を任せる根拠というのは、二人が同じような夢を、同じ日に見たという一点に尽きるので、入道を知っている良清ならずとも、ふつうの常識では考えられないですね。じつはこれ二人同夢ではなく、あとで明らかになりますが、朱雀帝を含めると三人同夢だったのですが、もちろん数が多いほど霊験もあらかただということでしょう。 このことにかんして、深くまとまった考察をくわえたのが、何度も触れている西郷信綱さんの「古代人と夢」(平凡社1972、のち平凡社ライブラリー)という本で、刊行当時けっこう話題になった本なのですが、その後こうしたアプローチを発展させた人はいないようで、国文学の範疇をはるかに超えて、学際的知識と詩心を必要とする点、なかなか難しいところがあるのかもしれません。 上の源氏物語のほか、今昔物語で、― ある村にやってきた浪人風情の侍が、村人に「お前は村人たちが、昨日夢で見た、とうわさしあっていた聖人だろう」と、口々に言われて、本人もその気になって、その場で刀を捨て、髪を下ろして僧になった ―といった話など、要するに「夢」という経験の、「うつつ」における位置づけが、古代人と現代人とではまるきり異なっていて、今どきの感覚でそれが実生活に与えていた影響を、想像することは簡単ではないということなのです(それにしても、この今昔物語の言ってみれば、たわいもない仏法説話と、紫式部描くところのずいぶん手が込んだ神仙譚の印象には、ずいぶん開きがありますね。これについてはもう少しあとで話します)。 ならば夢というものを、古代人はどのような捉えかたをしていたのか、ということを古代文学と神話伝説、あるいは長谷寺や法隆寺夢殿などを取り上げて論じられたもので、今読んでもすこぶる面白いのですが、私の理解力ではまだまだここで説明するのは難しい。 したがって「須磨」「明石」の話に絡めて、これから話すことは「古代人と夢」の間違った受け売り、ということになるかもしれませんが、しばらくがまんして下さい。― つづく ―
2009.05.08
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連日の嵐で、さすがの光源氏も困じ果てて、疲れが出たのか、物に寄りかかってウトウトする。そこでいよいよ故桐壺帝の登場となるわけですが、紫式部は例によって一回目は仄めかし程度に、二回目はごく気鮮やかに書きますね。 一回目とは、前日の晩に源氏の夢に現われた「そのさまとも見えぬ人」で、だから彼は「海龍王の使いか」とも思ったのですが、今回はハッキリと桐壺院であると分かります。これは「夕顔」のとき、ハッキリとは示されなかった物の怪の正体が、「葵」では六条御息所と名指しされて出てくるのとよく似ていますね。― 故院、たゞ、おはしまししさまながら、たち給ひて、 「など、かくあやしき所には、ものするぞ」 とて、御手を取りて、ひき起て給ふ。 「住吉の神の導き給ふまゝに、はや舟出して、この浦を去りね」 とのたまはす。 ― 同上 亡き桐壺院が、御在世の姿のままで、お立ちになっていて、「なぜ、このように怪しい所に、じっとして居るのだ」と、源氏の君の御手を取って、引き起てなさる。「住吉の神の導かれるままに、早く舟を出して、この浦から去るのだ」と仰せられる。 対する光源氏は、たちまち気丈な貴公子から、多少子供に戻って、本音が出てしまいます。― いと、嬉しくて、 「かしこき御影に、別れたてまつりにしこなた、さまざま、悲しき事のみ多く侍れば、今は、この渚に、身をや捨て侍りなまし」 と、きこえ給へば、 「いと、あるまじき事。これは、たゞ、いささかなる、物の報いなり。我は、位にありし時、過つ事なかりしかど、おのづから、犯しありければ、その罪を終ふるほど、いとまなくて、この世をかへりみざりつれど、いみじき憂へに沈むを見るに、たへ難くて、海に入り、渚にのぼり、いたく困じにたれど、かゝるついでに、内裏に奏すべき事あるによりなむ、いそぎのぼりぬる」 とて、たち去り給ひぬ。 ― 同上 君は、すごく嬉しくなって、「尊い父上の面影に、お別れして以来、さまざま悲しいことばかり多くございまして、今となっては、この浜辺に、身を捨てようと思っておりました」と、おっしゃると、「決して、あってはならんことだ。これは、ただいささかちょっとした、物の報いなのである。私は、位に在ったとき、過ちを犯したことは無かったが、それでも知らぬ間に、犯した咎があって、その罪を償うのに、忙しくて、この世を顧みなかったのだが、おまえがひどく難儀に落ち込んでいるのを見ていて、耐え難くなって、彼岸から海に入り、浜辺に上がってきたのだ、ひどく疲れ果てたが、この際、内裏にも奏すべきことがあるので、このまま急いで都に上るぞ」と言われて、立ち去られてしまった。― あかず悲しくて、 「御供に参りなむ」と、泣き入り給ひて、みあげ給へれば、人もなく、月の顔のみ、きらきらとして、夢の心地もせず。御けはひとまれる心地して、空の雲、あはれにたなびけり。 ― 同上 君は別れが悲しくて、「ご一緒に行かせて下さい」と、泣き出しそうになられて、ふと(目が醒めて)見上げられると、人の姿はなく、月の顔だけが、きらきらと輝いていて、夢とも思えぬ心地である。故院の気配がまだ残っている気がするが、空には雲が、寂しくたなびいているばかりである。 ここで大事なのは、怪しげな神仙譚が、すべて夢という回路を通して、語られていることです。― つづく ―
2009.05.06
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いったん収まりかけた春の嵐は、次の「明石」の帖にまたいで、まだ続いているというか、むしろ激しくなって、我褒めなどして余裕で対処していた光源氏も、さすがに不安を隠せません。 受験生時代、このくだりを読んだとき、春からこんな嵐などあるわけがない、きっと説話的に大げさに書いてあるに違いないなどと感じたものですが、昨今の気候変動をみていると、こうした荒っぽい気象というのが、実際にもあったのかなと思ったりします。 さていったんタガが外れたような嵐が続くと、人は(今でも結局そうですが)ひたすら、それが過ぎ去るのを息を詰めて待つしかないので、― 「かくしつゝ世は尽きぬべきにや」と、おぼさるゝに、その、又の日の暁より、風いみじう吹き、潮たかう満ちて、波の音荒き事、巌も山も、残るまじき気色なり。神の鳴りひらめくさま、さらに言はむかたなくて、「落ちかゝりぬ」とおぼゆるに、ある限り、さかしき人なし。 ― 同上 「このようにして、この世は終わってしまうのだろうか」と、思っておられると、その次の日の明け方から、風が激しく吹き荒れ、潮が高く満ちてきて、その波の音のすさまじさは、岩も山も、打ち砕かんばかりの激しさである。雷の鳴りひらめくさまは、さらに言い表すことも出来ないほどで、「今にもここに落ちてきそうだ」と思えるときには、誰も、正気ではいられない。 という中にあって、光源氏は努めて心を落ち着かせて、住吉明神に大願を立てたり、従者もいっせいに声を上げて神仏に祈る、という仕儀になります。― 又、海の中の龍王、よろづの神たちに、願を立てさせ給ふに、いよいよ鳴り轟きて、おはしますに続きたる廊に落ちかゝりぬ。ほのほ燃えあがりて、廊は焼けぬ。心だましひなくて、ある限りまどふ。うしろの方なる、大炊殿とおぼしき屋に、うつしたてまつりて、上下となくたちこみて、いと、らうがはしく、なきどよむ声、雷(いかづち)にも劣らず。空は、墨をすりたるやうにて、日も暮れにけり。 ― 同上()筆者 (源氏の君は)さらに、海の中にいるという龍王、その他よろずの神々に願をお立てになったが、ますます雷鳴は轟きわたって、御座所につづく廊に落ちかかった。パッと炎が上がって、廊はたちまち焼け落ちてしまう。生きた心地もせず、周囲のものたちは皆、気もそぞろである。君を後の大炊殿(おおいどの、炊事用の屋)に、お移しして、そこに従者たちも上下の関係なく皆逃げ込んで、またとなく、うるさく、泣き叫びあう声は、雷の音にも負けないくらいである。空は、墨を流したように真っ黒で、日も暮れてしまった。 このあたり、現代訳するまでもなく、嵐の移り行きと人々の立ち騒ぎかた、源氏の心内の動揺の描きかたが、とても巧みで、昔物語によくある、いわゆる月並みな描写ではありません。時代も場所も違いますが、人智の及ばぬ自然の振るまいと、それに対する人間の感情の動きを描いた、と言う意味で「田園交響楽」の第四楽章との相似に(ちょっと気恥ずかしい例ですが、いずれもそれまでの文学にも音楽にも、なかった表現だと思うのです)、私など驚いてしまいます。このあたりぜひ、原文も通しで読んでみてください。 そうしたとてつもない嵐の激しさがあったので、ようやく風が凪いで、雨脚もおさまったあと、光源氏の見る外の光景は、とても鮮やかですね。― 月さし出でて、潮の、近く満ち来たるあともあらはに、名残、猶、寄せかへる浪荒きを、柴の戸おしあけて、ながめおはします。 ― 同上 月がさし出てきて、高潮が、御座所の近くまで満ち溢れたあとも露わで、その名残りは、なお、寄せては返る波の荒さで残っているのを、柴折り戸を押し開けて、君はご覧になる。― つづく ―
2009.05.05
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人形(ひとがた、身代り、自身の禍いや穢れなどをこれに移す)を、船に乗せて海に流したりして、― 海の面、うらうらとなぎわたりて、行くへも知らぬに、来しかた・行くさき、おぼし続けられて、 八百よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。 ― 同上 うらうらと凪いでいた海が、光源氏が来しかた行く末を思って、八百万の神に事寄せて和歌を詠ったところが、にわかに風が舞い起こって、一転空がかき曇り、たちまちお祓いを済ませる暇もなく、ものすごい嵐となります。この時期、春三月巳の日とありますから、三月上旬、季節的には春の嵐がやってくる時期にあたりますが、このたびの嵐は少し趣が違って、台風並みの激しいものとなります。― 肱笠雨(ひぢかさあめ、にわか雨)とか降りきて、いと、あわたゞしければ、みな帰り給はむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹きちらし、またなき風なり。波いといかめしう立ちきて、人々の、足を空なり。海の面は、衾(ふすま)を張りたらむやうに光り満ちて、神、鳴りひらめく。 ― 同上()筆者 須磨の風景の描写が、何となく書き割り風だったのに比べ、このあたりの嵐の描写は、なかなか迫力があって、上手いですね。これはおそらく、都でも嵐は当然よく見られたわけで、紫式部はそのあたりをつぶさに観察していたでしょう。しかし須磨とか明石という地理は、はじめにも触れましたが、海の神仙譚に曳かれて出てきた地名なので、彼女はたぶん実際には、そこに行ったことはなかったと思うのです。須磨までの道行きや鄙の様子が、もう一つピンと来ないのには、そうしたことも関係しているのかもしれません。 それにしても、従者たちの「足を空なり」という用語法、この物語にはよく出てくるのですが、人々のあわて騒ぐ姿としては、浮世絵の広重のように、こういうとき庶民は足の裏を見せて、駆け回ってもかまわないのです。しかし貴人はそういう訳にはいきません。― 君は、のどやかに、経うち誦(ずん)じておはす。 ― 同上 源氏の君は、こういうときはことさらに落ち着いて、お経などを誦しているほかないので、下々といっしょに立ち騒ぐのは、もっともみっともない振るまいであったでしょう。 夜明けごろになって、ようやくいったん嵐は静まったとみえ、従者たちは眠りにつく。光源氏も少しうとうとしたところが、誰とも分からない人がやって来て、― 「など、宮より召しあるに、参り給はぬ」 とて、たどりありくと、見るに、おどろきて… ― 同上「なぜ、宮よりお召しがあるのに、参上されないのか」と、訪ね歩いているのを、見るうちに眼が覚めて、おどろいて…― 「さは、海の中の龍王の、いたく物めでするものにて、見いれたるなりけり」と、おぼす… ― 同上「さては、海の中の竜宮に居るという龍王とは、大変な物欲しがりなので、私のような美しい人に魅了されたか」と、思われて… 心中ぞっとして、耐え難くも思ったりした、というところで「須磨」の帖は終わりなのですが、この嵐はまだまだ続くのです。 それにしてもこのくだり、西郷さんに言わせると、光源氏のいわゆる「我褒め」にあたるのですが、こうした感覚は今どきの遠慮深い庶民の我々では、理解しにくい種類のものなのかもしれません。こうしたシレッとした感想が、けっこう危機的な状況にあっても、普通に出てくるというのは、まさしく貴種の意識のなせる技で、ひょっとすると謙譲の倫理にすっかり浸された日本人よりも、西欧の貴族や大陸のある種の特権階級などのほうが、ごく自然に受け入れやすい感覚なのかもしれません。― つづく ―
2009.05.04
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このくだり、偏屈男と黙っていない女房という、典型的な世話物めいた夫婦のやりとりで、まことに面白いのですが、明石入道の秘密の一端はここで少しだけ出てきているので、彼が桐壺更衣の従兄弟であることが明かされます。かといって、肝心かなめの彼が、なぜこれほどに世間と折り合わず、田舎に落ちぶれて平気でいられるのか、読者とともに、このごく普通の常識を身に着けた奥さんの疑問は解かれません。 このへんのやりとり、彼の秘密の中味のたわいなさ(今から見れば)を別とすれば、今どきの夫婦でもよくある出来事なので、恥ずかしくて奥さんにも、ちょっとよう言えないような夢とか、大望を持った男というのは、世間的常識を体現する古女房の指摘には、うまく反駁する術がなくて、ひたすら依怙地にならざるを得ない、という仕儀になるのです。 とはいえ、同じように「私が先に死んだら、入水して死ね」と言い放って、娘二人の行く末を省みることのなかった「宇治十帖」の八の宮に比べて、この入道が好ましく見えるのは、あまり知性的とは言いかねる人柄なのに、一人信じるに足ると思う事柄があると、誰に何と謗られようと、その志を曲げなかった、という愚直なまでの正直さなのかもしれません。対するにこの奥さんも、後々けっこう長生きするのですが、ついに最後まで夫の真意を、おそらく理解できなかったようなのですが、だからといって入道を見限ることはしなかったので、愚直な正直さという点では、この夫婦好い勝負ですね。 しかし、いくら偏屈とはいえ、そのあたり入道は家族の生計を切らすということがなかったから、この愚直さが通っているので、彼の人生的な不器用さとは、宮廷内での人事にかんするものでした。言うなれば左大臣家に見られるような、世俗的な付き合いと人脈抗争は、彼にとってもっとも不得手なものだったでしょう。 受領風情に落ちぶれたとはいえ、生計が立ったというのは、あるいは彼の所領が播磨という、物なりの豊かな土地であったためかもしれず、その点では彼は恵まれていたのかもしれません。 八の宮が、仏教その他さまざまな教えや思想に詳しくて、薫が心酔して通い続けたにもかかわらず、彼も薫も本当に人生に誠実であったかと言えば、これは相当怪しい。知的レベルが相当高くても、肝心の人としての誠実さのようなものが、この二人からは感じられないのです。しかしまあ、これはずっと先の話。 さて、ここで明石入道が桐壺更衣と従兄弟であったことが、明らかにされたことで、私たちはまたもやこの物語の貴種の血筋に対するこだわりに、付き合わされることになります。読者はこれによって、ああこれでおそらくまた源氏はその一人娘に惹かれるのだろうな、と見当をつけてしまうのです。 いったいに彼が人に惹かれる発端というのは、元をただせば顔が母の桐壺更衣に似ている、ということが大きな要因になっています。しかしよく考えてみると、彼は実際には母の顔は見ていないのであり、藤壺の宮は周囲が桐壺更衣に似ていると噂したので、そう思ったに過ぎません。写真とか写実性の高い肖像画がなかった時代、顔が似ているとか似てないという判定は、結局見ている本人の大きな主観にゆだねられているので、私たちはその背後に無意識にはたらいている、彼の貴種の意識を想定しなければなりません。 とはいえ、明石入道の一家の紹介が終わったあと、例の左大臣家の頭の中将が、お忍びで尋ねてきたりしますが、このことは前に触れたので、ここでは話しません。 さてそのあと、さまざま積もる物思いなど、御禊をすることになって、陰陽師などを呼んで浜辺でのお祓いとなるのですが、いよいよここから神仙譚の始まりです。― つづく ―
2009.05.03
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さて、次に明石入道が登場するのは、この「須磨」の帖後半で、光源氏に付き従って須磨までやってきた、例の好き者の朝臣良清が、明石の娘を思い出して便りを寄こすところから始まります。娘からの返事はもちろんないのですが、父入道からは直接お会いしたいといってくる。しかし成るか成らないのか分からない話に、のっても仕方がないと良清は放っておく。このあたり、入道のもくろみと良清の下心にズレがあって面白いのですが、ここから入道一家の現在が直接語られます。 源氏が須磨に流寓しているのを、良清からの手紙で知った入道が、奥さんに言うには、― 「桐壷の更衣の御腹の、源氏の光君こそ、おほやけの御かしこまりにて、須磨の浦に、ものし給ふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬ事のあるなり。いかで、かゝるついでに、この君にたてまつらん」 といふ。母、 「あな、かたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ち給ひて、そのあまり、忍び忍びに、帝の御妻をさへ過ち給ひて、かくも騒がれ給ふなる人は、まさに、かくあやしき山賤を、心とゞめ給ひてんや」 と言ふ。 ― 同上 「桐壺の更衣のお生みになった、かの光源氏の君が、公けの咎めを受けて、この須磨の浦にいらっしゃるそうな。これこそ我が一人娘の運命で、思いがけないこともあるものだ。何としても、この機会に、この君にさしあげたい」と言う。母君は、 「まあ、とんだことをおっしゃるわね。京の人の話を聞けば、源氏の君は、高貴な奥方を、たくさんお持ちになって、さらには、忍んで、帝の奥さんとさえ過ちをされたとか。そんな騒ぎをおこされた人が、まさしくこんな卑しい田舎住まいの者を、相手にされるはずがないじゃないですか」と、にべもない答えなので、入道はいたく怒って、― 「え知り給はじ。思ふ心異なり。さる心をし給へ。ついでして、こゝにもおはしまさせむ」 と、心をやりていふも、かたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひ、かしづきけり。 ― 同上 「どうせあなたは何にもお分かりにならんでしょう。私の思っていることは(あなたとは)違うのです。その心積もりでいらっしゃい。折をみて、源氏の君には、ここへ来ていただくつもりですよ」と、一人得意げに言うのも、いかにも頑固者らしく見える。邸を眩いほどに飾りたてて、娘を大事に育てていた。この様子を見て、母君は、― 「などか、めでたくとも、物のはじめに、罪に当たりて、流されておはしたらむ人をしも、思ひかけむや。さても、心とゞめ給ふべくはこそあらめ、戯れにても、あるまじき事なり」 ― 同上 「いくら高貴な人とはいっても、よりによって初めての相手に、罪を受けて流寓の身でいらっしゃるような方と、どうして縁組させようなどお考えなのですか。それは、心にとどめて下さるようならまだしも、浮ついた遊び心でも、そんなことなど、あるわけないじゃないですか」と、いっこうに承服する気配がないので、入道は非常に不満そうに、ぶつぶつと呟く。― 「罪にあたることは、唐土(もろこし)にもわが朝廷にも、かく世に勝れ、何事も、人に殊になりぬる人の、必ずあることなり。いかに物し給ふ君ぞ。故母みやす所は、おのが叔父に物し給ひし按察使(あぜち)の大納言の女なり。いとかく、警策なる名をとりて、宮仕へに出し給へりしに、国王、勝れて時めかし給ふこと、並びなかりける程に、人の嫉み重くて、うせ給ひにしかど、この君のとまり給へる、いとめでたしかし。女は、心高くつかふべきものなり。おのれが、かゝる田舎人なりとて、おぼし捨てじ」 など言ひゐたり。 ― 同上()筆者 「罪にあたるというようなことは、唐国でもわが朝廷でも、このように世に勝れ、何事も、人より抜きん出た人には、必ずあることです。この君をどういう方と思っていらっしゃる?かの母君は、私の叔父でおられた按察使の大納言の娘なのですよ。すぐれてこのように、容貌人柄とも秀でているという評判で、宮仕えに出られたところが、帝にもことのほか寵愛されて、並び立つ人のないほどだったのが、かえって人の妬みが激しくて、結局お亡くなりになったのですが、この源氏の君こそお残しになったのは、まことにめでたいことであったのです。(だから!)女というものは、志しを高く持つべきなのです。私が、こんな田舎人に落ちぶれているからといって、源氏の君が思い捨てることはあるまいに」 などと言ったりしている。― つづく ―
2009.05.01
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