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「玉鬘」の帖は、冒頭次のように始まります。― 年月隔たりぬれど、あかざりし夕顔を、つゆ忘れ給はず、心々なる人の有様どもを、見給ひ重ぬるにつけても、「あらましかば」と、あはれに、口惜しうのみ、おぼしいづ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 年月を隔ててしまったとはいえ、(源氏の君は)諦め切れない夕顔のことを、ゆめお忘れになることはなく、おのがじし異なった女の人の様子などを、(さまざま)ご覧になるのが重なるに連れ、(むしろ)「(夕顔が)生きていてくれたらな」と、哀れにも、残念にばかり、思い出しておられる。 もし「源氏物語」が、今ある順番で世に出て来たとするならば、「夕顔」の話ははるか二十年前の出来事で、彼女がとても禍々しい死を遂げたとはいえ、普通の読者ならその後のさまざまな話に紛れて、誰の事だったかすっかり戸惑ってしまうでしょう。しかしこれが、さんざん話してきたようにb系物語として、「槿」の帖のあとに続けて語り始められたとすれば、読者の記憶は混乱することなく、夕顔の娘の話に入って行けるのです。 はたして続くくだりに、「夕顔」の帖で随身、惟光とともに活躍した夕顔の乳母姉妹、右近の話が出てきます。― 右近は、なにの人数ならねど、猶、「その形見」と、見給ひて、らうたき者に思したれば、ふる人のかずに、つかうまつり馴れたり。須磨の御移ろひの程に、対のうへの御方に、みな人々、きこえ渡し給ひし折より、そなたにさぶらふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 右近は、物の数にも入らない身ではあるが、それでも、「その(亡き人の)形見」と、(殿は)お思いになって、目を掛けていらっしゃるので、古参の女房の一人として、すっかりお仕え馴れしている。須磨への流遇の際に、(殿は)対の上(紫の上)の御方に、すべての女房どもを、お預けなさって、(以後、右近は)そちらに伺候していた。 乳母子というのは、前にも触れたように、主人と乳兄弟姉妹の関係で、同じ乳でいっしょに育てられるせいか、えてして実の兄弟姉妹より心理的な結びつきが強い。実の兄弟姉妹は、血は繋がっているとはいえ、とくに腹違いの場合、当時はそれぞれの母方の家で育てられたので、紐帯よりは競争相手であるという意識が強かったでしょう。惟光も光源氏の乳兄弟なので、通常の主従関係よりはるかに強い紐帯と、主人に対して遠慮のない振るまいがありました。右近も夕顔の死に際して、葬送の途中で身投げしようとするのを、惟光がなだめるというようなシーンがありましたね。 彼女は長く紫の上に伺候しながら、一連の源氏方の様子を見ているのですが、例の明石の方などについては、私の夕顔の君が生きていたなら、きっと同じように寵愛されただろうなどと、おおいに身びいきな感想も抱いているのです。― つづく ―
2009.10.31
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故あって、しばらく休んでしまいました。 さて、ここから「玉鬘(たまかづら)十帖」と後世呼ばれるところのスピンアウト(派生)系の物語が始まるのですが、ここは前も触れたように、極盛期を向かえつつある光源氏の様子を、できるだけゆっくりと読者に堪能してもらうために、彼女が考えついたエピソードとも考えられます。 当初の「桐壺」の帖で高麗の相人が言った「国の親となるべき相ではあるが、最高の地位につくと国が乱れるかもしれない。かといって、国の重鎮として政治を補佐する立場の人か、といえばそうでもない」という謎掛けのような予言に基づいた、a系物語をそのまま続けていくなら、すでに六条院という地上のパンテオンが完成して、この物語は何となく先が見えてきた、という感じがしますね(a系、b系の区分けは、くどいですが、源氏1000年 その二 32.の一覧表を見てください)。 しかし困ったことに六条院が完成したのが、源氏三十四歳末ごろとすると、彼女がおそらく予定していたであろう、源氏四十歳ごろの准太上天皇(天皇に准ずる位)への昇段にはまだ四~五年の時間があるのです。 丸谷さんが言われるように、今どきの作家なら、適当に端折って時間の経過を表現する、というのはよくあることですが、大陸風紀伝体を土台に据えた物語である以上、紫式部は律儀に暦年を辿ろうとします。 彼女が、天下に並びなき皇子の一代記を、昔風の「貴種流離譚」の古物語を下敷きにして、年代記的に語り始め、「槿(あさがお)」の帖まで語り継いできて、彼女の個人的必要から光源氏中心の物語をいったん休止し、あらためて別伝という形で、時系列をさかのぼって「帚木」以下のb系物語を語り始めたのではないか、という話はすでに「『乙女』の前に」で触れました。暦年ごとの事跡は外さない代わり、時系列をいったんさかのぼるという手法を考えついたのです(これは後に「宇治十条」で、もっと洗練されたかたちで出てきますね)。 その個人的必要というのが、おそらく源氏一人の物語としてこのまま押していくには、残りの数年間にこれ以上の展開や挿話を編み出すのが難しい、つまり話題に倦んできたのではないか、したがって今まで語ろうとして描いてこなかった彼周辺の物語を、今度は「求婚譚」を下敷きにした群像劇として語ろうとした。このa系物語の終盤に時間的空白が生じてくることに、おそらく彼女はかなり以前から気付いていて、それを埋めるために相当用意周到に、「帚木」以下の別伝を構想として準備していた。それが今あるb系物語なのではないか、ということなのです。 しかし従来言われているように、これらはこれから話する「玉鬘」で、a系の時系列に戻ってくるのではなく、その前の「乙女」の帖で戻ってきたのではないか、というのが前回までの私の妄想でした。 その根拠もすでに触れたように、1.「乙女」の中味が、b系物語と共通した群象劇足り得ている2.b系物語が、多かれ少なかれ内大臣(頭の中将)絡みの話である3.「乙女」の冒頭が、「槿」の再現部のような繰り返しになっていて、それまで話してきたb系物語が、ここでa系物語と時系列的に接続することを、読者に暗示しているの三点でした。 もともとの発想が、光源氏が准太上天皇になるまでの四~五年間の挿話として、もくろんでいたあろう「求婚譚」が、その前史を「帚木」や「夕顔」で語るうち、彼女自身が新しい表現の面白味を知って、思いのほかに話が長くなった。その結果、当時の読者に対して「ここから本編の時代に戻りますよ」という予告を入れた、それが「乙女」の帖だと思うのです。a系に出てきた主な人物を、ここにほとんど登場させているのも、おおいに示唆的ですね。 それで私は何となくa系物語の一本の直線が、いったん時系列的には初めのほうに戻って、別の地点からb系物語が始まり「乙女」の帖が結節点となって、いわばY字状にこれ以降この物語は一本になったように漠然と捉えていたのですが、今回UPするために再読していて、むしろX字状にここで交差して「真木柱」まで、別の話が展開しているように思えてきたのです。― つづく ―
2009.10.30
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先日三年ぶりの大学の同窓会に行ってきました。長らく大学の友人には、ご無沙汰していて前回二十数年ぶりに顔を合わせたのですが、その時の感想は前に書きました。今回再び顔を合わせて、前回何となく感じていたことが、より明瞭な感覚で頭をよぎってきます。 私たちの年代は、そろそろ還暦!も近くなり、会社勤めの大半の同級は、定年へのカウントダウンが始まったり、あるいは早期退職をして、すでに第二の人生を歩み始めている仲間もいます。出てくる話題はと言えば、お決まりの年金受給予定額と、人によっては孫の話、さらには病気の話題と仲間の消息といったことですが、私のように第一も第二も選択の余地なく、何となく人生の裏街道のみ!?を歩んできた人間には、はなはだ気が重くなる話題ではあります。 とはいえ、しばらく話していれば、前回と同様、学生時代の気分というか、当時全体を領していた特有の雰囲気のようなものが、わらわらと立ち昇ってきて、そう言えば「僕はここでは傍系の男だった」と、三十数年前の我が身の気分を、ありありと思い出してしまいました。 その後の人生で、さまざまの組織や人と絡み合って、そのつど別の衣装を身に着けて、それぞれの秩序に合わせてきたような数十年ですが、私は(そしてたぶん仲間も)本質的には本当に何も変わってないな、と実感するのはこういう時なのです。それは好かったとか、残念とかいった事柄ではなくて、もう少し生命秩序の実体の感覚に即したようなところがあるのですが、話が例によって長くなるので、これはまた別にしたいと思っています。 ところで、今年は台風が少ないせいか、例年より秋の訪れが早いような気がしますが、それにしても虫すだく夜道を歩いていると、ときに虫の音がどうも通常の物理法則を無視して、私の耳駄を打ち続けているような錯覚に陥ることがあります。ひらたく言えば、電車とか車に乗っていても、窓を開けて走っていると虫の音が聞こえてくるのですが、他の例えば遮断機とか救急車の音などは間違いなくドップラー効果で、私の前を過ぎれば音程が急速に下がるのに、虫の音だけはそのまま、ずっと耳朶の後を追って来るような気がする(たんに酔っ払って聴いているからかもしれません)。というわけで、自ずと様々な想念が浮かんでくるのです。 例えば、この虫の音は千年前も二千年前も、この地で日本人は間違いなく聞いたであろうとか、古代人はそれを音でなく、声として聴いていただろうとか、そしてその声を彼らはたんなる虫の知らせではなく、人やその祖先も含んだ時間的にも空間的にも、我が身を取り囲んだすべての息使いのようなものとして、認識していただろうといったことです。 これは一言で言ってしまえば、自然の振るまいすべてに人智を超えた霊力を見いだすアニミズムという言い方で概括されるのですが、今どきの日本人はこうした概念語をあまり深く詮索せずに、分かったことで済ませてきたのではないか? あまりにも有名なので気が引けますが、昔、和泉式部が― 物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂(たま)かとぞみる ―と謳ったように、夜空に点滅する螢の光を、彼女はあくがれ出ずる人の魂に仮託したのですが、私はむしろ虫の音こそ幾千幾万もの魂のさざめく声(この場合、魂とはかつての祖先のや、今生きている現世のや、来るべき未来のや、一切合財を含みます)として、古代人たちは聞いていたのではないか?と思うのです。 このうつつに確かに存在しているらしい我が身の背後に、幾千幾万もの数え切れない魂が飛び交っていて、古代人はその知らせとして虫の音を鳴いていたのではないか? そういえば、かつて虫の音を声というか、言葉として聴いているのは、世界的にみても日本人だけらしい、というまことしやかな話がかつて脳科学者のほうからありましたね。世界のほとんどの人たちが、雑音として右脳で聴くのに対し、日本人だけが言語野の左脳で聴いている、という例の話です。今どき、この論議は多少修正されるべき中身みたいですが、それでも一応近代化した文明国の人間の中で、こうした独特な認識の回路を、いまだに何とも思わず保持している我が身の特質というものに、我々はやはり多少でも思いを致すべきでしょう。 日本人の世界認識の仕方に、古代的なアニミズムの心象が未だに色濃く残っているというのは、たんに虫の音だけでなく、今どきの「ゆるキャラ」や「アキバ系」をみていても、そこはかとなく感じるのですが、もちろんこれらはこうしたことを意識して造られたものではないでしょう。私はできればこうした無意識に現れる、今どきの日本人の振るまいかたや感性の特質を、もう少し意識の上に上せたい、明らかにしたいという、密かな欲求があるのです、なんちゃって! 無意識とか野放図な感情や振るまいの出現というのは、片方で危険な一面を常に含むのであり、それはかつても今も退屈なくらいに繰り返されてきたことです。今どきの新政権もまたヘタをすると、そういう轍を踏むことになるのかもしれません。 言い換えれば、日本人は歴史を顧みないというか、歴史的なものの読み方を知らない国民性を、ずうっと宿しているかとも思えるのです。またまた少し難しい話になってしまいました、すいません。
2009.10.26
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もう何度も触れて、その古代巫女的な豊饒すぎる感性を持っていた、六条御息所の特異性については、繰り返しませんが、紫式部もあるいはそれまで描いてきた数多くの人物の中でも、ことのほか彼女には思い入れがあったのかもしれません。今の中宮(秋好中宮)は、ご存知のとおり御息所と先の東宮との間の娘で、その東宮は若くして死に(その原因は明らかにされません)、朱雀帝が桐壺帝の後を継いだのでした。 その後の政変で、左大臣派と源氏方が巻き返し、藤壺の宮の東宮(実は源氏との間の子)が、右大臣派の陰謀を覆して帝位を継ぎ(現冷泉帝)、斎宮の女御(秋好中宮)は源氏と藤壺の宮の強力な後押しで、左大臣系の弘徽殿の女御を押しのけて、現帝の中宮の座を拝したわけです。これはしかし弘徽殿の女御が、頭の中将(内大臣)と右大臣系の四の君との間にもうけた、ごく政略的な娘であることを考えると、前にも言いましたが、左大臣系というよりは、右大臣派も含めた世俗勢力と、親王系の高貴な血筋を守ろうとする、源氏や藤壺の宮の間の争いであったとも言えるのです。 というわけで、ここに源氏を含めた親王系の世俗勢力に対する、壮大な勢力巻き返しの構図を想定して、新たな物語を創作されるような、今どきの作家もおられるようですが、それはさておき、高貴な血筋と格調ある趣味の家柄として、自他共に認めていた六条御息所の家系というのは、平安仏教が浸透しつつある都にあって、おのずから古代的な皇孫=神道系の色合いを、強く残した家であったでしょう。 光源氏が寵愛する姫君たちを、一同に会して住まわせることを思いついたとき、皇孫系の高貴な血筋を守ることを専願に考えたなら、秋好中宮の旧居、つまり故六条御息所の邸を守るように、取り囲む形で造営したのは必然なのでした。しかしそれは同時に御息所個人の、豊饒すぎる情感ゆえ、今だこの世とあの世の間をさまよっているらしい彼女の魂を、鎮める意味も当然あったはずで、六条院とは彼女ための鎮魂の神殿でもあったとも思えるのです。たんなる血筋ゆえでなく、御息所の個人的なパーソナリティーにも着目して、このパンテオンを想定したというのが、紫式部の独創であったと言うべきでしょう。 それにしても、六条御息所の話になると、なぜかこのブログは力が入りますね。 さて、光源氏や紫の上、花散里が数多くの車を仕立てて、夕霧も随員として従って六条院に入った後、数日して秋好中宮も里下りします。位階の上では彼女は源氏より上なので、源氏もことさらに気を使ったでしょう。 さらに、― 大井の御方は、かう、かたがたの御移ろひ定まりて、「数ならぬ人は、いつとなく紛らはさむ」と思して、神無月になん、わたり給ひける。御しつらひ、事の有様、おとらずして、渡したてまつり給ふ。ひめ君の御ためを思せば、大方の作法も、けぢめこよなからず、いと、ものものしく、もてなさせ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 大井の御方(明石の方)は、このような、方々のご移転が落ち着いたあと、「(私のような)ものの数でもない者は、いつとはなく目立たないように(移ろう)」と思われて、十月になってから、お引越しになった。(部屋の)しつらえや、引越しの次第なども、見劣りのないように、(殿は)段取り申し上げなさる。(明石の方の)姫君の先々をお考えになって、たいていの作法も、(ことさらに)差をつけずに、たいへん、ものものしく、お扱いになったのである。 久しぶりの登場ですが、明石の方はいずれ国母の母になるべき立場であるとはいえ、身分柄この御殿には最初から少し肩身が狭い感じで引き移ったのです。このあたり、本人が当初から危惧していた事柄ではあり、源氏がどうやってその辺を説得したのか、本来もう少し説明があってしかるべきですが、物語の本筋からは離れるということでしょうか、紫式部は筆を省いていますね。 というところで、「乙女」の帖はおしまいです。ここの話の最初に掲げた、数多くの登場人物が紛れることなく、各々明晰に描かれ、しかもそれらが絡み合って話を飽きさせない。その柔らかい語り口が、b系の「空蝉」や「夕顔」を経た筆致であるということを、明らかにするつもりで、ながながと「中継?」してきたわけですが、はたして上手く再現できたかどうか、いささか長蛇を逸した感があります。 それにしても、この地上の夢御殿の完成を、彼女がこの物語のa系物語の一区切りと考えていただろうことは、この帖でa系の主な人物をほとんど登場させていることからも明らかで、このあとは、少し本筋を離れたb系のいわゆる「玉鬘十帖」の話になるのです。 もしここでの主役をあげるとすれば、私は一も二もなく大宮を押しますね。息子や孫のゴタゴタに巻き込まれて、歳も忘れて若やいでいる感じが、その前の「槿(あさがお)」の帖に登場して、半ばボケたような妹の女五の宮と対称的に描かれて、私はこの人が好きです。つづいてその息子の内大臣、この親子の確執は、それぞれの性格が左大臣一族の気風まで感じさせて、今でも充分面白い。夕霧と雲井の雁は幼すぎて、何となく狂言回しのような役柄になってしまいました。しかしこの二人については、先々まだまだ話はつづくのです。― 源氏1000年 乙女 おわり ―
2009.10.22
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1000年前の女性が描いた空想上の夢御殿を、現代の建築の専門家たちが、このように詳細にわたって再現できるというのは、ひとえに原典のこの御殿にかんする記述が、間然するところないからで、ここにはやはり紫式部の相当なこだわりというか、独特な性格のようなものを認めざるを得ません。 先日省いた朱雀院行幸の折りの、詩歌管弦や舟遊びの克明な描写などは、宮仕えの女房であれば、いわば必須アイテムの教養として、当然必要であったろうと思えるのですが、ここの六条院にかんする詳細な記述には、そうした当時の常識の範疇を飛び越えたような、彼女の詮索好きというか、観察好きな側面が現れているので、それは同時に彼女の人や自然を、仮借なく観察する眼にも通じるものだったでしょう。 「季刊大林」の解説をみていると、「源氏物語」の各所に出てくる六条院の構造物の記述は、「乙女」の帖に描かれたはじめの構想図に、ほとんどすべて正確にピタリと収まるそうで、これは逆に言い換えると、おそらく彼女は六条院の図面というか、想像上の相当詳しい見取り図のようなものを横に置いて、これ以降の物語を描いていったと考えられるのではないか。これ以降の物語とは「玉蔓」から「若菜」を経て「雲隠」にいたる源氏一代の話で、ここからの物語はほとんど六条院の内部が中心となり、舞台が限られたぶん、各登場人物の心理の描きかたは、とくに「若菜」以降濃密になりますね。 さてこの六条院の造営は、夕霧の仕官した秋から翌年の八月という、わずか十ヶ月ほどの短い工期だったようで、残っている記録によると、実際に行なわれた御殿の工期といえば、「道長が新築した土御門邸は、約一年八ヶ月かかっている」(「季刊大林」より)ということですから、よほどの突貫工事を想定したといえます。そこでもまた光源氏の威勢を示す意味があったのでしょうか。― 八月(はづき)にぞ、六条院つくりはてて、わたり給ふ。「未申(ひつじさる)の町は、中宮の御古宮なれば、やがておはしますべし。辰巳(たつみ)は、殿のおはすべき町なり。丑寅(うしとら)は、東の院に住み給ふ対の御方、戌亥(いぬゐ)の町は、明石の御方」と、おぼしおきてさせ給へり。 … 彼岸の頃ほひ、わたり給ふ。「一度に」と、さだめさせ給ひしかど、「さわがしきやうなり」とて、中宮、すこし延べさせ給ふ。例の、おいらかに、気色ばまぬ花散里ぞ、その夜、そひて移ろひ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 八月には、六条の御殿が出来上がって、お引越しなさる。「未申(ひつじさる、西南)の町は、(秋好)中宮の古宮なので、そのままお住まいになるであろう。辰巳(たつみ、東南)は、殿(である私)の住まい、丑寅(うしとら、東北)は、東の院にお住まいの対の御方(花散里)、戌亥(いぬゐ、西北)の町は、明石の御方」と、お考えになっていらっしゃる。 … 彼岸の頃に、お引越しになる。「(皆)いっぺんに(移ろう)」と、決めておられたが、「仰々しすぎるから」ということで、中宮は、少し(引越しを)お延ばしになる。例によって、おとなしくて、気取ることのない花散里だけが、その夜に、(源氏や紫の上と)いっしょにお移りなさった。 ここで私が興味があるのは、なぜ光源氏は六条にパンテオン(神殿)を造営しようとしたか、ということです。物語の外側からのヒントとしては、先ほどあげたモデルの一人であるらしい源融の旧宅が六条京極にあった、という話も有力なのですが、私はできるだけ議論を拡散させないように、「源氏物語」の中身だけで話したいと思っています。 となると有力になってくるのは、やはりそこが「未申(ひつじさる)の町は、中宮の御古宮なれば、 … 」という記述で、これは明らかに亡き六条御息所を意識しているからでしょう。― つづく ―
2009.10.21
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このころ夕霧は、式部省の厳しい試験に合格して進士になります。― 秋の司召に、かうぶり得て、侍従になり給ひぬ。かの人の御事、わすらるゝ世なけれど、おとゞの、せちにまもり聞え給ふもつらければ、わりなくてなども、対面し給はず。御消息ばかり、さりぬべき便に聞こえ給ひて、かたみに心苦しき御中なり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 秋の司召では、従五位を得て、侍従におなりになった。かの姫君(雲井の雁)のことは、お忘れになる時とてないが、内大臣が、(姫を)ひたすら守っていらっしゃるのも情けなくて、(さしあたって)無理をしてまで、逢おうとはなさらない。ご消息文ばかり、それらしい折りを見計らってお送りになるのも、お互いお気の毒な御仲ではある。 ここで夕霧と乙女の、あえかな恋物語はおわりです。彼は結局一年足らずで進士になったということで、源氏の一族とあれば、向かうところ敵無しの感じですね。 さてこの帖のおしまいに、光源氏がいよいよ六条に大御殿を建設して、主だった姫君を全部そこに住まわせるという、地上のパンテオン(神殿)の造営の様子が語られます。源氏極勢期の舞台となる御殿ですが、― 大殿、静かなる御住まひを、「同じくは、広く見所ありて、こゝかしこにて、おぼつかなき山里人などをも、集へ住ません」の御心にて、六条京極のわたりに、中宮の古き宮のほとりを、四町をしめて、造らせ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の)大殿は、(新たに)閑静なご住居を、「どうせなら、広壮で見映えがする(御殿にして)、あちらこちらに(散らばって)、心もとない山里に住む姫君も、いっしょに住めるようにしよう」とのお考えで、六条京極のあたりの、中宮の古宮周辺、四町そっくりに、(御殿を)造らせなさる。 さてここの四町という広さ、あるいは六条京極という位置関係からいって、すぐ思い浮かぶのが今の東本願寺飛地境内の渉成園(別名、枳殻邸)ですね。ここのゆかりは― 平安時代初期(9世紀末)嵯峨天皇(786~842)の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)の遺蹟 (東本願寺渉成園)より ―とされるのですが、源融(822~895)が臣籍降下して源氏姓を名乗り、長く左大臣を勤めたということで、光源氏のモデルの一人ともされる人物であったことはよく知られています。さらにここを譲り受けた宇多上皇(867~931)の時代に、この六条河原院に源融の物の怪が出たという話が、今昔物語などに伝えられていて、紫式部の時代(978?~1016?)、この六条河原院というのは、すでにさまざまな伝説があったことが知られます。それは当然、この物語の六条御息所の生霊とも関連してくるでしょう。 とはいえ、さしあたってはこの夢の御殿が、いったいどのようなものであったのか、これまたさまざまな研究や詮索が古来なされていて、数ある文庫本にも、その詳細な図版まで載せているのがありますが、あれこれさがしていたら建設会社のWebにものすごいのがありました。六条院を想像するよすがとしては、これで充分と言うか、とても面白いので、ぜひ季刊大林を見てください(別に宣伝しているわけではありませんよ)。― つづく ―
2009.10.20
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さて、大宮と夕霧の鬱屈した気分とは関係なく、年も明けて光源氏の勢威はいよいよ勝っていく。二月に朱雀院への行幸があって、源氏も召されるのですが、― 二月(きさらぎ)の廿日(はつか)あまり、朱雀院に行幸あり。 … 人々、みな、青色に、桜襲(さくらがさね)を着給ふ。帝は、赤色の御衣たてまつれり。召しありて、太政おとゞ、まゐり給ふ。おなじ赤色を着給へれば、いよいよ、一つものとかゝやきて、みえまがはせ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 二月二十日過ぎに、(帝は)朱雀院に行幸された。 … (行幸につき従う)供人たちは、みな、青色(の袍、ほう、公家の上衣)に、桜襲(さくらがさね、春の上着)を着ておられる。冷泉帝は、赤色の御衣をお召しになった。(とくに)お召しがあって、太政大臣(源氏)も、参上される。同じ赤色(の袍)を着ておられるので、いよいよ、同じように輝いて、見まがうばかりのご様子である。 行幸などの晴れの時、臣下は青色の袍、帝とその日の第一の上客は赤色の袍を着用するのですが、源氏は冷泉帝の第一の上客として、朱雀院に参上したのです。 このあとつづく、詩歌管弦、舟遊びの雅びな情景は、本文を読んでみてください。我々にとっては億劫なくだりですが、当時の読者、あるいは中世の落剥した公家たちにとって、こうした雅びな情景は、宮廷の豪奢な生活を知るよすがとして、なくてはならぬものだったでしょう。 ところで、朱雀院といえば帝位を冷泉帝に譲ったあと、母の大后や内侍の君(朧月夜)といっしょに暮らしているのです。宴が終わったあと、帝は同じ御殿に住まう大后にあいさつに上がる。光源氏も一緒について上がる。右大臣家の大后と言えば、かつての源氏や左大臣家の政敵で、彼らの位階剥奪、須磨流遇の首謀者とも目された人ですが、今は見る影もなく歳をとってしまいましたが、それにしても長生きですね。― おとゞも、さるべきさまに聞こえて、「殊さらに、さぶらひてなん」と、きこえ給ふ。のどやかならで、帰らせ給ふひゞきにも、后は、胸うち騒ぎて、「いかに思し出づらん。世を保ち給ふべき御宿世は、消たれぬものにこそ」と、いにしへを悔い思す。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の)大臣も、しかるべくごあいさつをなさって、「改めて、ごあいさつに(上がりましょう)」と、申上げられる。ゆっくりもなさらずに、お帰りになるご威勢につけても、大后は、胸が穏やかならず、「どのように思い出しておられるのか。(あの方の)世の政務を執っていく強い御運は、(結局)消すことなど出来なかったことよ」と、昔のことを後悔している。 さらにこのあと、朱雀院のいわば愛妾の内侍の君まで出てくるところを見ていると、紫式部はやはりこの「乙女」の帖を、前段の一つの大きな括りとして描こうとしているようで、a系で登場した主な人物を、次々登場させているのです。― 内侍のかんの君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること多かり。いまも、さるべき折、風のつてにも、ほのめききこえ給ふ事、絶えざるべし。きさきは、おほやけに奏せさせ給ふ事ある時々ぞ、御賜ばりの年官(つかさ)・年爵(かうぶり)、なにくれのことに触れつゝ、御心にかなはぬ時ぞ、「命ながくて、かゝる、世の末を見ること」と、とりかへさまほしう、よろづ思しむつかりける。老いもておはするまゝに、さがなさも勝りて、院も、くらべ苦しう、堪えがたくぞ、思ひきこえ給ひける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 尚侍の君も、しみじみと思い出しになると、哀れに切ないことが多い。今でも、しかるべき折々、風の便りにも、(ひそかに、源氏に文を)お送りになることが、絶えないようである。大后は、朝廷に奏上なさることのある時々、御下賜される年官年爵(つかさこうぶり、官職と位階)、何かにつけて、ご希望に叶わないたびに、「長生きをして、こんな、ひどい目に遭うとは」と、(昔の威勢を)取り戻したいのか、万事にご機嫌が悪い。老けられるにつれ、口やかましいのも勝ってきて、朱雀院も、持て余しぎみで、耐え難いほどに、思っていらっしゃる。― つづく ―
2009.10.19
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夕霧の泣訴の相手は叔母君ではなく、祖母の大宮であったわけですが、古代英雄たちのストレートな憎しみとか哀しみといったものとは、おおいに異なっていますね。夕霧の抱く、父であるべき光源氏に対する奇妙な違和感が、どこから来るものなのか、夕霧も大宮も想像の外だったのです。しかし読者はもちろんその秘密を知っているわけで、ひと言でいえば、その原因は厳密に源氏個人の問題から発しているので、彼の天下第一の掟破りは、誰にも共有されない種類の意志だったでしょう。 古代英雄の抱く悲哀は、これとは対称的に、誰もが共有できる感情(だから神話であり得ているのです)なので、逆に先ほどのタケルに対する倭比売命(ヤマトヒメノミコト)の、そのあとの毅然とした態度は胸を打ちますね。… 倭比売命、草那芸剣(クサナギノツルギ)を賜ひ、亦(マタ)御嚢(ミフクロ)を賜ひて、「若(モ)し急(トミ)の事有らば、茲(コ)の嚢(フクロ)の口を解きたまへ」と詔(ノ)りたまひき。 ― 「古事記注釈」西郷信綱(ちくま学芸文庫)より ()筆者… 倭比売命は、(タケルの泣訴には直接には答えずに)草那芸剣(クサナギノツルギ)を、さらに御嚢(ミフクロ)を下賜されて、「もし火急のことがあれば、この嚢の口を解くのですよ」と、申し下された。 これは言わば、死出の旅に持たせる葬送の品なのですが、古代英雄の叔母は、その意味を充分わかったうえで、彼にそれを渡す。英雄とは死ぬことによって、初めてその栄光に包まれるわけで、神話とは古代社会が共有する集団意志の要請によって成り立っているのです。 しかし源氏物語の時代、少なくとも都の宮廷内では、すでに神話的に社会に共有された感情というのは、とっくに失われていて、人は多かれ少なかれ秘密を蔵しながら、他人と対しているのです。祖母大宮はもちろん、夕霧の抱く父への感情的な違和感など想像も出来ないので、いったん大人の対応をしたものの、夕霧の泣き顔を見て、あっという間にその気丈な態度は崩れざるを得ない。― … 宮は、いとゞ、ほろほろと、泣き給ひて、 「母におくるゝ人は、程々につけて、さのみこそ、あはれなれど、おのづから、宿世宿世に、人となり立ちぬれば、おろかに思ふ人も、なきわざなるを。よろず思ひ入れぬさまにて物し給へ。故おとゞの、今、しばしだに、ものし給へかし。かぎりなき蔭には、おなじことに、たのみきこゆれど、思ふにかなはぬ事の多かるかな。内の大臣の心ばへも、「なべての人にはあらず」と、世の人も、めで言ふなれど、昔に変はる事のみまさりゆくに、命ながさも恨めしきに、おひさきとほき人さへ、かく、いさゝかにても、世を思ひしめり給へれば、いとなん、よろづ恨めしき世なる」とて、泣きおはします。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) … 大宮は、いっそう、ハラハラと、お泣きになって、 「母親に先立たれた人は、身分に関係なく、そのように、辛い思いをするものですが、(辛抱していれば)自然と、宿縁の導くまま、一人前の大人になって、蔑むような人も、いなくなるものですよ。何かにつけて(あまり)考え込まないようになさいまし。(それにしても)故左大臣が、今、少し、生きておいでになったら(こんなことにはなたなかったでしょうに)。とても大きな後ろ盾として、(源氏の殿を)同じように、頼ってまいりましたが、(なかなか)思うにままならないことの多い世ですこと。内大臣の性格は、「並みの人とは違う」と、世間の人々は、誉めているそうですが、(事、私に対しては)昔とはすっかり様子が変わってしまって、長生きするのも恨めしい気がするのに、(まして、そなたのように)行く末長い人さえ、このように、いささかでも、世の中をうっとうしくお思いになっては、まことに、何もかも恨めしい世だこと」と、泣いていらっしゃる。 倭比売命がタケルを、内心で愛おしく思っていても、集団的意志の要請によって、感情を殺して「草薙の剣」を渡すことが出来る(「死んで英雄になれ」と言う。戦争中の日本を覆った感情が、これだったのです)のに対し、ここの大宮は集団どころか、肉親であるべき内大臣や光源氏にもコケにされて、最後は完全に愚痴になってしまいました。まあ老人だったということもあるのでしょうが。― つづく ―
2009.10.18
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「何かは。「六位」など、あなづり侍るめれば、「しばしの事」とは、思ひ給ふれど、うちへ参るも、物憂くてなむ。故おとゞ、おはしまさましかば、戯れにても、人には侮られ侍らざらまし。もの隔てぬ親におはすれど、いと、異々(けゝ)しうさし放ちて思いたれば、おはしますあたりに、たやすくも、参り馴れ侍らず。ひんがしの院にてのみなん、御前近く侍る。対の御方こそ、あはれに物し給へ。親いまひと所、おはしまさましかば、何事を思ひ侍らまし」とて、涙の落つるを、まぎらはい給へる気色、いみじうあはれなるに、 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「(いいえ)そうではないのです。(人が)『六位だ』などと、蔑むのは、『しばらくのこと』とは、思っておりますが、(それでも、浅葱色の官服で)参内するのが、(やはり)億劫なだけで、故祖父左大臣が、ご健在であれば、冗談にも、人に侮られるようなことは無かったでしょうに。(父大臣は、本来)遠慮のない(実の)親ではございますが、ひどく、よそよそしく(私を)遠ざけるようになさって、(父上の)いらっしゃるあたりには、気安くは、参上も致せません。東の院にいらっしゃるときだけは、お側近くまで参っております。(東の)対の方(花散里)だけは、(私を)やさしく世話してくださいます。お母上(葵の上)が、生きていらっしゃったら、何を(このように)思い(悩む)ことがありましたろう」と、涙が落ちるのを、ごまかしていらっしゃる様子が、あまりに可哀想なので、 … 考えてみると、夕霧の母、葵の上は、ご存知のとおり、彼を出産直後に死亡していて、彼は母の面影を知らない、という点では、父源氏と同じような境遇にあるわけです。光源氏が記憶にない母親の面影に憑かれるようにして、ついに天下第一の禁止を破ったように、条件的には似たような立場の夕霧が、義理の母、紫の上に懸想する懸念というのは、当然父源氏にはあったわけで、ここはいわゆる一般的なエディプス・コンプレックス型の心理で理解されるべきではありません。 ところで、父子対立の構図といえば、「古事記」の景行天皇と倭健命(ヤマトタケルノミコト)の話に、似たような場面がありましたね。父景行天皇が、息子のすさまじいまでの荒ぶる闘争本能に恐れをなして、九州征伐から帰ったばかりのタケルを、休む間もなく東国平定に差し向ける。その意図をなかば以上意識したタケルが、伊勢斎宮である叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に泣訴する場面なのですが、― 「天皇(スメラミコト)既(スデ)に吾(アレ)を死ねと思ほす所似(ユヱ)にか、何(ナ)ぞ、西の方(カタ)の悪しき人等(ヒトドモ)撃(ト)りに遣(ツカ)はして、返り参上(マイノボ)り来し間(ホド)、幾時(イクダ)も経(ア)らねば、軍衆(イクサビトドモ)をも賜(タマ)わずて、今更に東(ヒムカシ)の方の十二道(トヲマリフタミチ)の悪しき人等を平(コトム)けに遣(ツカ)はす。此(コレ)に因りて思惟(オモ)へば猶(ナホ)吾を死ねと思(オモ)ほし看(メ)すなり。」とまおして、患(ウレ)へ泣きて罷(マカ)りたまう … ― 「古事記注釈」西郷信綱(ちくま学芸文庫)より ()筆者(2006年12月28日 Episteme 3.を見てください) 「天皇は、もう私など死んでしまえ、と思っておられるのでしょうか?どうして、西方の悪人どもを討ち取りに遣わして、(それを平定し)帰郷し参上して、ほとんど暇もないのに、(今度は)軍勢もつけて下さらずに、今また更に東方の十二方面にいる悪人たちを平定せよと(私を)遣わされるのです?こうしたことによって考えますに、やはり(天皇は)私など死んでしまえ、と思っておられるのでしょう」とおっしゃって、むせび泣きながら立ち去ろうとなさる … 父という存在を息子が乗り越えようとするとき(すなわち成人するとき)、必ず経なければならないであろう、心理的な「父殺し、子殺し」の典型的なパターンが、ここでは語られているのですが、一方の光源氏と夕霧という父子の心理的対立はかなりリファインされて、だいぶ違った印象を与えますね。ちょうど須磨流遇のときの「貴種流離譚」の印象が、古代神話的な海神(ワタツミ)のイメージであるより、よほど大陸的な海龍王という「神仙譚」のイメージに近いように。― つづく ―
2009.10.17
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さてその年の暮れになって、夕霧は久しぶりに大宮邸を訪ねます。大宮の用件というのは、正月に着る夕霧の装束のことでした。― 年の暮には、正月(むつき)の御装束など、宮は、たゞ、この君一所の御事を、まじることなう、急ぎ給ふ。あまたくだり、いと清らに、仕立て給へるを見るも、物うくのみ、おぼゆれば、 「一日(ついたち)などには、かならずしも、内裏(うち)へ参るまじう思ひ給ふるに、何に、かく、急がせ給ふらむ」と、きこえ給へば、 「などてか、さもあらん。老いくづほれたらむ人のやうにも、のたまふかな」と、のたまへば、 「老いねど、くづほれたる心地ぞするや」と、独りごちて、うち涙ぐみて居給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 年の暮れになって、正月の御装束など、大宮は、もっぱら、この君(夕霧)だけのご用意を、かかりっきりで、急いでいらっしゃる。幾組も、たいへん見事に、お仕立てなさったのを見るにつけ、(夕霧は、それが六位の装束なのが)ただただ鬱陶しく、お思いになって、 「元旦などには、これといって特に、参内申上げるつもりはございませんのに、何でまた、このように、急がせなさるのです」と、お聞き申上げると、 「どうして、そのようにも(お考えなさいます?)。(まるで)年取って気落ちした人のように、おっしゃいますね」と、おっしゃると、 「老いぼれてはいないけど、(何だか)ヘコんだ気分がして」と、つぶやいて、涙ぐんでいらっしゃる。 若い夕霧にとっては、六位の官服というのは、それほどまでに屈辱であったわけですが、それと知らずに準備している大宮は、いちおう大人の対応をする。― 「男は、くちおしき際の人だに、心を高うこそ、つかふなれ。あまりしめやかに、かくな物し給ひそ。何事か、かう、ながめがちに、思ひ入れ給ふべき。ゆゝしう」と、のたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「男というものは、取るに足りない身分のものさえ、気位は高く、保つべきものですよ。あまりクヨクヨと、そのようにお考えなさいますな。どうして、そのように、物憂げに、考え込まれることがありましょう。縁起でもないこと(ですよ)」と、おっしゃる。 しかし夕霧の抱いていた不満というのは、たんに父源氏が、自分を六位という低い位から元服させ、また本意なく学問をさせているということではなく、もう少し根本的な気分であったのかもしれません。このあとつづく夕霧の述懐では、そうした彼自身のハッキリとは分からないけれども、通常の父・息子の微妙な感情のズレとは違った、モヤモヤした違和感のようなものが語られます。― つづく ―
2009.10.16
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というわけで、雲井の雁は内大臣の邸に引き取られ、惟光の娘は宮中に伺候するということで、夕霧にとっては、はなはだ鬱屈した日々がつづいていて、里方の大宮邸にも行く気がせずに、二条東院の勉強部屋にこもっている。 光源氏は、そのあたりの消息を知ってか、夕霧の世話を二条邸の西の対にいる花散里に依頼します。― とのは、この西のたいにぞ、きこえ預けたてまつり給ひける。 「大宮の御世の、残り少なげなるを。おはせずなりなん後も、かく幼きほどより、見ならして、後見おぼせ」と、きこえ給へば、たゞ、のたまふまゝの御心にて、なつかしう、あはれに、思ひ扱ひたてまつり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の)殿は、この西の対(の花散里)に、(事情を)お話になって(夕霧を)預かってもらうことになさる。 「大宮の御寿命も残り少なかと思われます。お亡くなりになった後も、(夕霧が)このように幼いうちから親しんでもらって、お世話してもらいたいのです」と、おっしゃると、(もとより花散里は)ただただ、(源氏の)お言葉のままの(従順な)お気質なので、可愛がって、優しく、お世話なさっていらっしゃる。 ここで、夕霧の花散里に対する見立てが語られます。源氏の須磨流遇の前に、唐突に現われた花散里、その後もこの物語全般を通じて、はなはだ存在感の薄い人で、随所に光源氏の便利屋さんとして登場するのですが、その人と成りが鮮やかに語られることはあまりないのです。― 「かたちの、まほならずもおはしけるかな。かゝる人をも、ひとは、思ひ捨て給はざりけりな」と、「わが、あながちに、つらき人の御かたちを心にかけて、『恋し』と、思ふも、あぢきなしや。心ばへの、かやうに、やはらかならむ人をこそ、あひ思はめ」と思ふ。又、「向ひて見るかひなからんも、いとほしげなり。かくて、年経給ひにけれど、殿の、今に、さやうなる御かたち・御心と見給うて、浜木綿(はまゆふ)ばかりの隔て、さしかくしつゝ、なにくれと、もてなし紛らはし給ふめるも、むべなりけり」と、思ふ心のうちぞ、はづかしかりける。大宮の、かたち、異におはしませど、まだ、いときよらにおはしまし、こゝにもかしこにも、「人は、かたちよきもの」とのみ、目馴れ給へるを、もとより勝れざりける御かたちの、やゝさだ過ぎたる心地して、やせやせに、御髪少ななるなどが、かく、そしらはしきなりけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「お姿は、たいしたことはなくていらっしゃる。このような人も、父上は、想い捨てにはなさらないのか」と、「自分が、もっぱら、つれない人の見映えばかり気にして、『恋しい』と、思っているのも、あじけないことよ。気立てが、このように、柔和な人こそ、愛すべきなのかな」とも思う。(しかし)また、「向かい合って見つめる気がしないというのも、気の毒だしな。このように、長年月を経ていらっしゃるが、殿は、今に到るも、そのようなご器量やお心を分かったうえで、浜木綿のように程好く隔てを置いて、直接目を合わさずに、何やかやと、紛らわせてお相手なさっているのも、もっともなことだ」、と、(いろいろ生意気に)考える(夕霧の)心の内こそ、(大人から見ると)恥ずかしいことである。大宮は、姿こそ(尼姿に)、変わっていらっしゃるが、まだまだ、清らかでいらっしゃって、(夕霧の)周辺では、「人(女)というのは、姿の美しいもの」とばかり、見慣れていらっしゃったので、もともと大したことのない(花散里の)ご器量が、(さらに)少し盛りが過ぎた感じで、痩せて、御髪も薄くなっているようなので、このように、難クセをつけたくもなるのである。 若いというのは(夕霧はまだ中一くらいですよ)生意気ではあっても、事実をまざまざと残酷に見てしまうので、夕霧の目を借りなければ、花散里のこのような造形は語れなかったでしょう。しかしその花散里がどのようにして光源氏の寵愛を受けているか、というのは夕霧にとってはまだまだ想像の外で、彼の年代が若さに任せて、美女の後ばかり追いかけるというのは、今も昔も男=オスの習性として、仕方のないことなのかもしれません。― つづく ―
2009.10.15
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このあと、夕霧の手紙をめぐって、姉弟とそこへふっとやってきた父、惟光とのやりとりが描かれます。― としの程よりは、ざれてやありけん、「をかし」と見けり。 … ふたり、見る程に、ちゝぬし、ふと寄りきたり。恐ろしうあきれて、え引き隠さず。「なぞの文ぞ」とて、とるに、おもて赤みてゐたり。「よからぬわざしけり」と、にくめば、兄、逃げていくを、よびよせて、「誰がぞ」と、問へば、「殿の冠者の君の、しかじかのたまうて、賜へる」と、いへば、名残なくうち笑みて、 「いかに、美しき君の御ざれ心なり。きむぢは、おなじ年なれど、いふかひなく、はかなかめるかし」など、ほめて、母君にも見す。 「この君達の、すこし人数に、思しぬべからましかば、おほざうの宮仕へよりは、たてまつりなまし。とのの御心おきてを見るに、見そめ給ひてん人を、御心とは、忘れ給ふまじきにこそ、いと、たのもしけれ。明石の入道の例にや、ならまし」などいへど、みな、いそぎ立ちにたり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (娘の五節は)歳のわりには、マセていたのであろうか、(夕霧の文を)「ステキだわ」と見ている。 … 二人で、見ているさなかに、父殿が、不意にやって来た。(娘は)怖いやらビックリしたやらで、(手紙を)うまく隠すことも出来ない。「何の文だ」と言って、手に取るので、顔を赤くしてすくんでいる。「怪しからんことをしやがって」と、叱り飛ばすと、息子の方は、逃げていくので、呼びつけて、「誰が出したのだ」と、詰問するので、「(源氏の)殿の冠者の君(夕霧)が、しかじかおっしゃって、渡されたのです」と、答えると、(父、惟光はウソのように)打って変わって笑顔になって、 「何とも、可愛らしい若君のお戯れであることよ。(それに引きかえ)お前さんらは、同じような歳なのに、どうしようもないくらい、頼りにならんな」などと、(夕霧を)ほめて、母君にも(手紙を)見せる。 「この(源氏の)公達から、少しでも(この娘を)一人前に、思っていただけるのなら、宮仕えさせるより、(いっそ、若君に)差し上げてしまおうか。(源氏の)殿の(今までの)お振るまいを見ていると、(あの方は、一度でも)見初めた人は、(決して)ご自分のほうから、想い捨てになさることが無い、というのが、とても、頼もしいのだ。(私も)明石の入道の例に、あやかろうかのう」などといっているが、(家人は、娘の宮仕えを)皆、忙しがって立ち騒ぐばかりである。 若かりしころの惟光を知っている私たちは、彼ならこんな考え方もするだろう、と思わず吹き出してしまうのですが、それに加えて、その家人もまた彼の性格を知りきって、誰もまともに相手をしない、というのがここのミソです。いずれにしても、全体として惟光の家の闊達な雰囲気が好く出ていて、点景ですがなかなか面白いですね。 それにしても、有能な従者として、献身的に須磨流遇にまで源氏に仕えた結果、今は摂津の守に出世している惟光、対するにその息子と夕霧、よくみるとこの二代目二人は、同じようなことをやっているのに、いずれも親たちに比べて、もう一つパッとしない(まあ、まだ子供ということもあるのですが)。紫式部は明らかにここで、似たような情景を描いて(五節もそうでした)、時の経過を表そうとしているのですが、時が下るに連れて新たな登場人物が、だんだん小粒に見えてくるというのは、それだけ光源氏が傑出していて、比較を絶した存在であった、ということも示したかったのかもしれません。― つづく ―
2009.10.14
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前にも少し触れましたが、紫式部は男が何かショックな出来事があって、思い屈して寝込んだあと、次第に日常の生活に戻っていくのを現すとき、しばしば女性方への懸想という形でその経過を示すことがあります。光源氏で言えば夕顔の頓死のあとの空蝉とのやりとりとか、葵の上の死のあとの中将の君との戯れ合いといった具合です。 さらに言えば、宇治十帖の浮舟がいなくなって以降の、薫や匂宮の振るまいにも、似たようなところが認められるのですが、ここでの夕霧の振るまいについては、もう少したわいない感じがあるので、逆にそれは若さの特権というべきかどうか?それはひとえに、雲居の雁との哀切な別れのあと時間の経過が、短すぎることから出てくるので、天下の源氏といえども日常の感覚に戻るのに一、二ヶ月はかかっているようなのと、ずいぶん違う印象を与えます。もちろん片やは人の死がからんでいて、たんなるお別れとは意味が違うということはありますが。 というわけで、以下につづく夕霧の五節への想い掛けは本文を読んでいただくとして、さかんにチャンスを伺うけれども、五節のほうはいっこうに相手にしない。 今回の五節の舞姫、例の惟光(今は摂津の守)の娘なのですが、美女の評判はこの抜け目のない父にとっても期待の星であったわけで、親分の源氏を通じて冷泉帝の典侍に伺候させることを考えている。それを知った夕霧は、何となく口惜しくてあれこれ策略を練るのです。― 兄(せうと)の、童殿上する、常にこの君に参りつかうまつる、例よりも睦ましう、かたらひ給うて、「五節は、いつか内裏へは参る」と、とひ給ふ。「「今年」とこそは聞き侍れ」と、きこゆ。 「かおの、いとよかりしかば、すゞろにこそ恋しけれ。ましが、つねに見るらんも、うらやましきを、又見せてんや」と、のたまへば、 「いかで、さは侍らん。心にまかせても、え見侍らず。男兄弟とて、近くも寄せ侍らねば、まして、いかでか、君だちには、御覧ぜさせん」と、聞こゆ。「さらば、文をだに」とて、賜へり。「さきざきも、かやうの事は、いふものを」と、くるしけれど、せめて賜へば、いとほしうて、もていぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (惟光の娘の)兄弟で、童殿上して、いつもこの君(夕霧)に仕えている者に、(夕霧は)いつになく馴れ馴れしく、話しかけなさって、「(お前の家の)五節は、いつごろ内裏に伺候するのだ」と、お聞きなさる。「『今年中に』と聞いておりますが」と、お答えする。 「(五節の)顔が、あまりに綺麗なので、何となく恋しくなってしまった。お前が、いつも(彼女に)会えるのは、(何とも)うらやましいが、(私も)また、会わせてくれよ」と、おっしゃると、 「どうして、そんなことが出来ましょう。気安く、会うことなど出来ないのです。男の兄弟ということで、近くにも寄せつけないのに、ましてや、どうやって、若君に、お合わせすることが出来るでしょう」と、申す。「そしたら、(せめて)文だけでも」と、お渡しになる。「以前から、このような事(手紙の取次ぎなど)は(してはならん)と、(親にも)言われているのに」と、困ってしまったが、(夕霧が)強いてお渡しするので、すまない気がして、(五節に)持って行った。 ここのやりとり、何だか空蝉をめぐる光源氏と小君のやりとりに似ていますね。― つづく ―
2009.10.13
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さて、大宮邸でのすったもんだのあいだ、かんじんの光源氏は何をしていたのかというと、これまたまことに悠然としたもので、御所に伺候させる五節の舞姫の装束や人選にいそしんでいる。 五節とは、五節の舞姫の略で大嘗祭や新嘗祭に行なわれる童女の舞姫のことで、公卿の娘二人、受領・殿上人の娘二、三人が選ばれ、これはその家にとっては名誉なことであったようです。 はたして今回は源氏方からは、かつての一の手下で今は摂津の守になっている、惟光の娘が選ばれて差し出すことになる。これがまた噂の美人で、そこで源氏はかつて若かりしころ懸想した、五節の一人に文を送ったりもします。 このかん夕霧はずうっと二条の源氏の邸で学問をしていたわけで、ちょくちょく彼が大宮邸に通っているのは、父大臣も知っているはずですが、内大臣とのゴタゴタを源氏は知っていたのかどうか。私には何となく知っていて知らん振りをしていたように思えるのですが、夕霧としては不満はずうっと続いているわけです。― 大学の君、むねのみふたがりて、物なども見入れられず、屈じいたくて、文も読まで、ながめ臥し給へるを、「心もや慰む」と、たちいでて、まぎれありき給ふ。 … うへの御方には、御簾の前にだに、ものちかうも、もてなし給はず。わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、うとうとしければ、御達なども、け遠きを、今日は、もののまぎれに、いりたち給へるなめり。舞姫、かしづきおろして、妻戸の間に、屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りて、のぞき給へば、なやましげにて、そひ臥したり。たゞ、かの人の御ほどと見えて、いま少しそびやかに、様体などの殊更び、をかしき所は、まさりてさへ見ゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 大学の君(夕霧)は、すっかり胸が一杯で、食事もろくに摂る気もせず、ふさぎこんで、書物も読まずに、ボウッと横になっていらっしゃるが、「気も紛れようか」と、外出して、目立たないように(二条邸を)ウロウロなさる。 … (対の)上の御方(紫の上)には、(父大臣は)御簾の前にさえ、(夕霧を)側近くには、お寄せ着けにならない。(かつての)我がお心癖を省みて、どのように思し召すのか、(いかにも)他人行儀なので、(そちらの側付き)女房たちとも、疎遠なのだが、今日は、(五節の準備の)混雑に紛れて、(そちらに)入り込んでこられたのであろう。(ちょうど到着した)五節の舞姫を、(車から)大事に降ろして、妻戸の間に、屏風などを立てるが、取りあえずの仕立てなので、そっと近付いて、覗かれると、(舞姫が)疲れた様子で、(物に)寄り伏している。ちょうど、あの人(雲井の雁)のお歳くらいに見え、いま少し背は高く、姿かたちの際立った、美しさは、(むしろ)勝ってさえ見える。 鬱屈した大学書生(十二、三歳ですが)が勉強部屋で考えることといえば、今も昔もあまり変わりがないので、父源氏は、とくに紫の上と夕霧との間には、厳重な隔てを置いている。義理の母と息子の間柄というのは、源氏に限らず古代社会では危険な関係であって、権力闘争の一つの原因ともなり得るものではありました。しかし何よりも源氏にとっては、自身の犯した天下第一の掟破りがあるので、息子の振るまいも最初から見切っていたようなフシがありますね。 とはいえ、今回は五節の準備で混雑している隙を、夕霧はまんまと利用して、邸の対(紫の上方)に入り込む。禁止がより大きな好奇心と渇望を生むというのもまた、古代以来神話の中でも繰り返されてきたことですが、それにしても夕霧の場合、大宮邸からショボンとして戻って、まだそんなに日にちが経っていないのに、早くも他の女に懸想する。しかも相手は、どうも雲井の雁よりもスラッとして美人だ、とちゃんと比較までしているのです。 このあたり何ぼなんでも、ちょっと早すぎやしませんか?ということなのですが … 。― つづく ―
2009.10.12
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と、こう来れば、それから600年ほど後のイギリスの劇作家なら、完全に一大悲恋劇を仕立てあげるシチュエーションですが、紫式部はもちろんそんなことは、夢にも考えていません。 二人が切ない和歌を交わしている間にも、あわただしく内大臣は邸内に入って来る。― … との、入り給へば、わりなくて、わたり給ひぬ。 をとこ君、たちとまりたる心地も、いと人わろく、胸ふたがりて、わが御方に、臥し給ひぬ。御車三つばかりにて、しのびやかに、いそぎ出で給ふけはひを聞くも、しづ心なければ、宮の御前より、「まゐり給へ」とあれど、寝たるやうにて、動きもし給はず。涙のみとまらねば、嘆き明して、霜のいと白きに、いそぎいで給ふ。「うち腫れたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮、はた、召しまつはすべかめれば、心安き所に」とて、いそぎ出で給ふなりけり。道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空の気色も、いたう雲りて、まだ暗かりけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (二人が歌を交わす暇もなく)殿が、邸に入っていらっしゃったので、(姫は)どうしようもなくて、(部屋に)お戻りになった。 男君は、(一人)取り残されてしまった気分も、はなはだ居心地悪く、胸もふさいでしまって、ご自分の部屋に、横になっておられる。お車三輌ほどで、ひっそりと、急いで出て行かれる気配が聞こえてくるのも、落ち着かなくて、大宮のほうから、「(こちらへ)ご参上なさいませ」と言ってくるが、(そのまま)寝た振りをして、起きようともなさらない。涙が止まらないまま、嘆き明かして、霜の(まだ)とても白く降りている早朝に、急いでお出かけになる。「心なし腫れたような眼を、人に見られるのは恥ずかしいし、大宮も、また、お召しになれば(私を)離さないだろうから、心安い所へ(行こう)」と、急いで出られるのであった。道々、誰からというでなく、(一人)心細く思い耽っていらっしゃるが、(朝の)空の様子は、ひどく曇っていて、まだ暗かった。 子供同士の睦み合いなど、しょせん強がってみたところで、内大臣という怖ろしい威勢の前では、風のように吹き飛んでしまう。それにしても腹の収まらないのは、結局自分を浅葱色の六位という卑しい身分にした父大臣、夕霧は頭は悪くなくて、父の大学寮で学問せよという意向には、要領よく従っているのですが、身分の格差だけは雲井の雁の乳母にまでバカにされて、ガマンがならないのです。 ここで、夕霧と雲井の雁とのあえかな恋物語は終わります。しかし紫式部は二人を、このまま若やいだ悲恋物語として終わらせるつもりはなかったので、あとあと大人になった彼らの諸相は何度か出てきますね。 ところで映画やテレビドラマを見知った我々が、こうした昔物語を読んでいくとき、たんに習俗や道具だてが馴染みがなくて違和感を感じるのではなく、今どきのフィクションの慣用手法に馴れ切っている、というところから出てくることが多いので、紫式部はもちろん近代的なドラマトゥルギー(作劇法)など、ここから先も知る由はなかったのです。 それでなおかつ、ここのくだりに見られたような、驚くほど今ふうの風俗劇にも似た、人物間のやりとりや気息のようなものが、何の違和感もなく感じられるというのは、どこから出てくるのかというと、それはひとえに一人の空前絶後の天才という出現に帰せられるべきではなく、彼女の関心の先がたまたま今どきの我々と一致した結果であって、もちろん彼女は1000年先の読者を想定して、この物語を編んでいたわけではありません。 それでなおかつ、そこに今と同じ気息を私たちがみとめてしまうというのは、方法は知らずとも関心の方向が普遍的なものであれば、ある種の天才は独自に今の私たちにとって馴染みの表現や方法までも、自前で手に入れてしまうことがあるだろうということなのです。しかしそれは同時に、今の私たちがついうっかりそれに乗ってしまうと、あとになって自己同一化した心地好い期待を、すっかり裏切られる危険を孕んでいるので、さしあたってこの後につづく話も、その部類に入るのかもしれません。 彼女には一連のシーンの完結という、映画やテレビ的な作り事を構成することにはまったく関心がなく、事柄は常に実体的な人生の感触に戻っていくように思えます。 これは例えば、それまでの「めでたし」や「おそろし」で完結する、昔物語風の語り口とも異なっているので、ひらたく言えば古物語が「結婚」で「めでたし」となったのに対し、彼女はむしろ結婚後の諸相に関心が向かっている。そこに悲劇を見るか喜劇を見るか、結論から言うとどちらでもなくて、面白くも悲しくも見えるのは、観ている側(書いている側)の気分であって、実体的な人生の感触というのは、ほとんど自然と同じようなニュートラルなものなのではなかったか? まあしかし、これについてはあまり話を急がないことにしましょう。 とはいえ、ここまでみてきた一連のくだりの、やわらかな語り口(とくに会話)とか、プロットの巧みさなどが、先にみた「空蝉」や「夕顔」などに現われた源氏と空蝉に小君、夕顔と源氏に惟光と右近、といった描きかたとよく似ている事だけは、充分ご理解いただけたでしょう。― つづく ―
2009.10.10
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このあとしばらく、若君若姫の悲恋めいた物語が繰り広げられます。ここでもまた、例の乳母が何やかやと手引きしているのですが、― 冠者の君、ものの後に入りゐて、見給ふに、人の咎めんも、よろしき時こそ、苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭ひつゝおはする気色を、御めのと、心ぐるしう見て、宮に、とかく、聞こえたばかりて、夕まぐれの、人のまよひに、対面せさせたてまつり給へり。かたみに、物恥づかしく、胸つぶれて、物も言はで泣き給ふ。 「おとゞの御心の、いと、つらければ、「さはれ、思ひやみなん」と、思へど、恋しうおはせんこそ、わりなかるべけれ。などて、少しひまありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらん」と、のたまふさまも、若う、あはれげなれば、 「まろも、さこそはあらめ」と、のたまふ。 「「恋し」とは、おぼしなんや」と、のたまへば、すこしうなづき給ふさまも、幼げなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 冠者の君(夕霧)は、ものの後に隠れて、(雲井の雁を)ご覧になっていると、人が見咎めるのは、常のこととはいえ、つらいのに、(今日が最後かと思うと)ひどく心細くて、涙も拭っていらっしゃるご様子を、(例の)御乳母は、気の毒に思って、大宮には、何やかやと、言い取り繕って、夕暮れの、人が取り紛れている折りに、(姫に)お合わせ申した。お互いに、何となく恥ずかしがって、胸が一杯で、何も言わずに泣いていらっしゃる。 「内大臣のお心が、あまりにつらく、『(いっそ)そうであるなら、想い諦めようか』とも、思ったけれど、恋しい姿でいらっしゃるのは、どうしようもないこと。どうして、多少でも(逢える)チャンスがあったころに、会わずにいたのかしらん」と、おっしゃる姿が、若やいで、悲しげなので、(雲井の雁)「私も、それと同じ思いなの」と、おっしゃる。「『(こうして別れて後も、私を)恋しい』と、思ってくれますか」と、(続けて)お聞きになると、わずかに頷かれるご様子が、(これまたいかにも)幼げである。 いかんせん、子供同士の睦み合いですから、他愛ないと言ってしまえば、それまでですが、本人たちは大マジメなのです。 ― 御殿油まゐり、との、まかで給ふけはひ、こちたく追ひのゝしる御さきの声に、人々、「そゞや」など、怖ぢ騒げば、「いと恐ろし」と、おぼして、わななき給ふ。「さも、さわがれば」と、ひたぶるに、ゆるし聞え給はず。御乳母まゐりて、もとめたてまつるに、けしきを見て、「あな、心づきなや。げに、宮、知らせ給はぬことにはあらざりけり」と、おもふに、いとつらく、 「いでや、憂かりける世かな。とのの、おぼしのたまふ事は、さらにも聞こえず。大納言殿も、いかに聞かせ給はん。めでたくとも、物の初めの、六位宿世よ」と、つぶやくも、ほのきこゆ。たゞこの屏風のうしろに、尋ねきて、なげくなりけり。をとこ君、「われをば、『位なし』とて、はしたなむるなりけり」と思すに、世の中うらめしければ、あはれも、少しさむる心地して、めざまし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (日が落ちて)御殿油が灯され、殿が、ご帰宅なさる気配が、ものものしく言いののしる先払いの声でして、(大宮邸の)女房たちは、「それ、それ(お帰りなさった)」などと、恐ろしがって騒ぐので、(姫は)「何て怖い」と、お思いになって、わなないていらっしゃる。(夕霧のほうは)「そんなに、騒ぐのなら(どうとでもなれ)」と、ひたすら、(姫を)つかまえてお離しにならない。(姫の)御乳母が参って、お探ししていたところが、(この)様子を見て、「まあ、何てこと。やっぱり、(これは)大宮も、ご存知ないことではなかったのだわ」と、思うと、ひどくつらくて、 「いやいや、(ほんとうに)情けない世の中だこと。殿が、(不愉快に)お考えなさるのは、今さら申すまでもない。(義理の父の)大納言殿にも、どのように申上げたものか。(夕霧は、見た目)ご立派でも、ご縁の最初が、六位という(低位の)定めの婿君ではね」と、つぶやいているのも、ほのかに聞えてくる。わざわざこの(二人のいる)屏風の後ろまで、やって来て、(聞こえよがしに)嘆くのである。男君は、「私のことを、ことさら『位なし』と、バカにしていやがる」と思うと、世の中が疎ましく、(姫を)慕う気持も、多少は覚めるような気がして、(すっかり)頭に来てしまった。― つづく ―
2009.10.09
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しかし面白いのは、つづく以下のくだりで、― をとこ君の御乳母、宰相の君、出で来て、 「「おなじ君」とこそ、頼み聞えさせつれ。くちをしく、かく渡らせ給ふ事。とのは、ことざまに、おぼしなる事おはしますとも、さやうに思し靡かせ給ふな」など、さゝめき聞ゆれば、「いよいよ恥づかし」と、おぼして、物も、のたまはず。 「いで、むつかしき事、な聞こえられそ。人の御宿世宿世、いと定め難く」と、のたまふ。 「いでや、「ものげなし」と、あなづり聞えさせ給ふに侍るめりかし。さりとも、「げに、わがきみや、人に劣り聞えさせ給ふ」と、きこし召し合はせよ」と、なま心やましきまゝに言ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (そこへ)男君(夕霧)の御乳母の、宰相の君というのが、(御前に)やって来て、 「『(若君と)同じご主人様』と、(雲井の雁を)お頼り申し上げておりましたのに。残念でなりません、このようにお移りなさるのは。内大臣様が、別の事(縁談)を、お考えになるような事がございましても、(決して)そのようにお考え靡いたりあそばしますな」などと、(姫に)ヒソヒソ耳打ちするので、(姫は)「ますます恥ずかしいこと」と、お思いになって、ものも、おっしゃれない。 (大宮は)「これ(お黙りなさい)、ややこしい事を、申すでない。人(それぞれ)の運命は、どうにも(自分では)決め難いのだから」と、おっしゃる。 (対する乳母は)「いいえ(黙りません)、『(殿は、若君を)物の数でもない』とでも、蔑んでおいでなのでございましょう。(今は)そうでも、『本当に、我が君が、他人に劣りなさっていらっしゃるか』と、(どなたにでも)お聞きになればよろしいのです」と、腹の立つままに言い放つ。 この乳母の点描、確かにこういう勝気な女がいただろう、という存在感があるので、おそらく同じように姫や殿に食ってかかる女房、乳母というものが、実際に宮廷にはいて、紫式部もそれを見る機会もあったのでしょう。 とくにこの乳母という存在、今どきの我々には想像しにくいですが、殿上人であっても、その乳母や乳母兄弟姉妹に対する振るまいは、たんなる身分的上下関係を越えた、強い紐帯でつながれているように見えるときがあり、それは逆に口さがない乳母たちからの、遠慮のない物言いともなって現れているようにも見えます。 乳母、あるいは乳母兄弟姉妹と殿や姫との特別な心理的関係については、西郷信綱さんが「源氏物語を読むために」 (平凡社ライブラリー 2005)の中で、つとに指摘されていることで、大変興味深かったのですが、ここでは長くなるので、しないことにします。この問題はさらに宇治十帖に到るまで、あるいは源氏物語を読み解く一つの大きなキーワードかもしれず、改めて徹底的に考えてみたいと思っているのです。― つづく ―
2009.10.08
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今夜じゅうに迎えに来る、というふうに期限が区切られることで、物語は急速に展開します。― 宮の、御文にて、 「おとゞこそ、うらみもし給はめ。君は、さりとも、心ざしの程も知り給ふらんを、わたりて、みえ給へ」と、きこえ給ひつれば、いと、をかしげに引きつくろひて、わたり給へり。十四になん、おはしける。片生(かたなり)に見え給へど、いと巨めかしう、しめやかに、美しきさまし給へり。 「かたはらさけたてまつらず、あけくれのもてあそび物に、思ひきこえつるを、いと、さうざうしくもあるべきかな。残りすくなき齢の程にて、「御有様を見果つまじきこと」と、命をこそ思ひつれ。「今更に、見捨てて、移ろひ給ふや、いづちならむ」と思へば、いとこそ、あはれなれ」とて、泣き給ふ。ひめ君は、はづかしきことを思せば、顔も持たげ給はで、たゞ、泣きに泣き給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 大宮は、御文で(雲井の雁に)、 「内大臣は、(ことのほか私を)お恨みなさっているようです。姫君は、であっても、(私の)気持のほどは(じゅうぶん)お分かりでしょうに、(こちらへ)お出でになって、お顔を見せてくださいまし」と、差し上げなさったので、(姫は)たいへん、美しげに装えられて、お出でになった。十四歳で、いらっしゃる。(まだ)未熟とお見受けするが、たいへんおっとりと、落ち着いていて、美しいお姿である。 「お側を離し申さず、明け暮れの慰めにと、お世話してまいりましたのが、(このように)とても、寂しいことになってしまったこと。残り少ない歳の頃ゆえ、『(姫の将来の)お姿を見届けることはあるまい』と、(我が身の)寿命だけを心配しておりました。『今となっては、(あなたが、私を)見捨てて、お移りになる先は、いかなる所か』と思うと、まことに、哀れに存じまして」と言って、お泣きなさる。姫君は、恥ずかしいこととお思いになって、お顔も上げなさらず、ただただ、泣きに泣いておられる。 大宮としてはこの内大臣の調子だと、姫君の顔を拝めるのは今だけだろう、と思って文を寄こす。雲井の雁はこのころ十四歳で、夕霧より二つ上なのですが、そこは深窓育ちのお姫様ですから、何となく事態がもう一つ分かっていないようなところがある。「泣きに泣き給ふ」のも、何となく大宮につられて、泣いているようなところがあって、この姫は(今どきと比べても)若干オボコい感じがありますね。 これはあるいは大宮の育みが、はたして本人が内大臣を逆に恨むほど、しつけを伴ったものであったのかどうか(「あけくれのもてあそび物」の色合いが濃かったのではないか?)、少し疑問を抱かせるくだりでもあるので、若干十二歳の夕霧がいやにマセているのと、ずいぶん対称的ではあります。 普通常識的には、十四歳といえば中二、十二歳は小六といった年頃で、私の記憶をたどっても、むしろ女の子のほうが、はるかにマセているというか、小六の男の子から見ると、ずいぶん大人に見えた記憶があるのですが、ここは紫式部も意識的に姫を幼い感じに仕立て上げたようですね。紫の上の十二歳といえば、ずいぶん大人びて描かれていたわけですから、いわゆる上流社会の姫君に対する多少の揶揄を込めたのかもしれません。― つづく ―
2009.10.07
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しかるべきたてまえで押し通して、いんぎんな受け答えに終始する息子に対して、その性格や真意を知り尽くしている母大宮は嘆息せざるを得ない。 そんな中、またしても夕霧が大宮邸にやって来る。雲井の雁の側付き女房や乳母が、内大臣に言い含められてガードが高く、ろくに文さえ交わせないのがやりきれないのです。― 折しも、冠者の君、まゐり給へり。「もし、いさゝかのひまもや」と、この頃は、しげう、ほのめき給ふなりけり。内の大臣の御車のあれば、心の鬼に、はしたなくて、やをら隠れて、わが御方に入り居給へり。 … とのは、 「今の程に、内裏に参り侍りて、夕つかた、むかへに参り侍らん」と、出で給ひぬ。「いふかひなき事を、なだらかに言ひなして、さてもやあらまし」と、おぼせど、猶、いと心やましければ、「人の御程の、少し物々しくなりなんに、かたはならず見なして、そのほど、心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、ゆるすとも、殊更なるやうに、もてなしてこそあらめ。せいし諌むとも、一所にては、幼き心のまゝに、見苦しうこそあらめ。宮も、よも、あながちに制し給ふ事あらじ」と、おぼせば、女御のつれづれにことづけて、こゝにも、かしこにも、おいらかに言ひなして、わたし給ふなりけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (そこへ)ちょうど、冠者の君(夕霧)が、お出でになった。「ひょっとして、多少の隙も(あれば)」と、このところ、さかんに、顔をお出しになるのである。(しかし今日は邸内に)内大臣のお車が停めてあるので、心の内に何となく、気が引けて、そのまま隠れるようにして、ご自分の部屋に入っておられる。 … 殿は、 「今のうちに、御所に参りまして、夕方には、(雲井の雁を)迎えにあがりますから」と(おっしゃって)、お出かけになる。「(いまさら)言っても仕方のないことだが、(事を)穏便に言いなして、そのように(望みどおりに)させてやろうか」とも、お考えになるが、やはり、とても気持が収まらないので、「相手(夕霧)の位階が、そこそこ高くなって、不釣合いでなくなり、(なおかつ)その時に、(姫への)愛情の深さ浅さの具合も確かめたうえで、(たとえ)許すとしても、(やはり)きちんと、(正式の婿として)迎え入れることに(しよう)。(いくら)押しとどめ諌めても、同じ邸内では、幼い心のままに、見苦しいことも起こるだろう。大宮も、よもや、何が何でも(姫を)押し留めなさることはあるまい」と、お考えになって、(当初の目論見どおり)弘徽殿の女御の寂しさにかこつけて、こちら(大宮)にも、あちら(北の方)にも、穏便に言いなして、(姫を)お連れなさることにする。 内大臣の車をみとめて、夕霧はやはり気が引けて、馴れ親しんだ自分の部屋にこもっている。「心の鬼」という用語、この物語にはちょくちょく出てくるのですが、「ふと心に思い当たる良心の呵責」とか、「心の奥に潜んでいるよこしまな考え、邪心、煩悩」(Yahoo 大辞泉)といった字義よりは、もう少し広い用いられかたであるようです。 ここで面白いのは、その日じゅうに迎えに来るといって、御所に向かうときの内大臣の心理で、ブッチャケた話、別に雲井の雁を夕霧に与えてもよいとも思っているのです。げんに、父の故左大臣は、源氏に葵の上をごく政略的に添伏しの妻として、元服の時に与えているのです(招婿婚とは左大臣一族の資産を、源氏に相続させるという意味合いも含んでいます)。 しかし内大臣がそうする気になれないというのは、むろん直接には若いもの同士が、マセたことを勝手にしやがって、というのや、東宮妃にしようかといった政略もあるにせよ、一番のわだかまりは、やはり光源氏に対するかつてのライバル心を超えた、一族の統領としての敵愾心に近いものが、底に巣食っているからで、彼自身も表向きそう思わないようにしているけれども、母大宮に対する一方的な恨み節は、絶大な権勢を誇示しつつある源氏に対して、じかに向けられない自分の気持を、思うがまま母にぶつけている感じがあって、親子というのはなかなか難しいですね。― つづく ―
2009.10.06
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弘徽殿の女御は、左右大臣家の政略結婚であったらしい、内大臣と故右大臣の四の姫君との間に生まれた子で、冷泉帝とは年齢も近く(共にこのころ十五歳前後、ちなみに新中宮は二十四歳ぐらい)、とても相性が好かったのです。今回の中宮争いに敗れたことで、本人が落胆したのは当然として、立后争いが帝自身の意向にも反して行なわれたらしいのが、上のくだりで分かりますね。 内大臣はさしあたって、弘徽殿の女御を里下りさせて、以下のようなことを目論んだのです。― 「つれづれに思されんを。ひめ君わたして、もろともに、遊びなどし給へ。宮に、あづけたてまつりたる、後やすけれど、いと、さくじりおよすけたる人たち交りて、おのづからけ近きも、あいなき程になりにたればなん」と、きこえ給ひて、にはかにわたし聞え給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(里住いでは)退屈に思われることもおありでしょう。(妹君の)雲井の雁を引き取りますから、いっしょに、お遊びなどなさって下さい。大宮のもとに、お預けしておけば、(何かと)安心なのですが、たいそう、小賢しくマセた男たちも(あちらには)いっしょにおりまして、何かと親しくなるようなのも、困った年頃になりましたので」と、おっしゃって、にわかに(雲井の雁を)お引き取りなさる。 雲井の雁を次の東宮妃候補とするために、さしあたって夕霧が出入りする大宮邸から引き取ろうとするのですが、その大義名分のために立后に失敗した弘徽殿の女御を使う。女御の里下りもずいぶん強引な感じがしますが、内大臣は聞きません。 当然、大宮は抗議するのですが、以下の親子のやりとりは、内大臣の性格をよく示していて、今どきの家庭でも見られそうな会話ですね。― 宮、「いとあへなし」とおぼして、 「ひとり物せられし女、亡くなり給ひて後は、いと、さうざうしく、心細かりしに、嬉しう、この君を得て、「生ける限りのかしづきもの」と思ひて、「明暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めん」とこそ、思ひつれ。思ひの外に、へだてありて、おぼしなすも、つらくなん」と、きこえ給へば、うちかしこまりて、 「心に、あかず思ひ給へらるゝ事を、「しかなん、思う給へらるゝ」とばかり、きこえさせしになん。ふかく隔て思ひ給ふる事は、いかでか侍らん。「内裏にさぶらふが、世の中うらめしげにて、この頃まかでて侍るに、いとつれづれに思ひて屈し侍れば、心苦しう見給ふるを、もろともに、あそびわざをもして、なぐさめよ」と、思う給へてなん、あからさまに物し侍る」とて、「はぐくみ、人となさせ給へるを、おろかには、よも、思ひ聞えさせじ」と、申し給へば、かう、おぼし立ちにたれば、とゞめ給ふとも、おぼしかへすべき御心ならぬに、いとあかず、口惜しう思されて、 「人の心こそ、憂きものはあれ。とかく、をさなき心どもにも、われに隔てて。うとましかりける事よ。又、さもこそはあらめ、大臣の、物の心を深う知り給ひながら、我を怨じて、かく、ゐてわたし給ふ事。かしこにて、これより後安き事もあらじ」と、うち泣きつゝのたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 大宮は、「何と、理不尽なこと」とお思いになって、 「ただ一人授かった娘(葵の上)が、お亡くなりになって後は、ひどく、寂しく、心細かったのが、嬉しいことに、この姫君を預けられて、「生きている限りはお世話をしよう」と思って、「朝な夕な、老いの憂さも慰められよう」とばかり、考えておりました。(あなたは)思いの外に、(私とは)心隔てを置かれて、事をなされるのが、心外で(なりません)」と、おっしゃると、(内大臣は)少しかしこまって、 「心の内に、日ごろ思い致していたことを、『このようにも、考えております』とばかり、お聞かせ申しあげただけです。深く心隔て致すところが、どこにございましょう。『(弘徽殿の女御が)内裏に伺候していたのが、世間が疎ましく、最近里下りしまして、ひどく所作なげに思い屈しているのが、気の毒にお見受けしましたので、(雲井の雁と)いっしょに、遊び事などして、慰めてあげよう』と、存じまして、しばらくお連れしようと致すのです」とおっしゃって、「(雲井の雁を)育てていただき、一人前になさって下さったのを、おろそかには、よもや、考えておりません」と、申し上げなさるが、(内大臣は)このように、思い立たれると、(いくら)お止めなさろうと、思い直されるお気質ではないので、(大宮は)ひどく止めどなく、残念に思われて、 「人の心映えこそ、嫌なものだこと。あのような、幼い子供心にさえ、私に隠し事をして。残念この上ないです。また、(子供らには)そんなこともあるのでしょうが、(あなた)大臣は、ものの道理を充分分かってらっしゃっるくせに、私を恨んで、このように、(姫を)連れて行っておしまいになる。あちら(内大臣の自邸)が、こちらより安心だということもあるまいに」と、涙ぐんでおっしゃる。― つづく ―
2009.10.05
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さて事態を知った夕霧が、このあと雲井の雁を恋焦がれ、さてこそ内大臣にきつく指示された女房どものガードが厳しくなって、なおのこと想いが高まるというくだりは、できれば本文を読んでみてください。期せずして平安版「ロメオとジュリエット」のバルコニーめいた場面の出現に立ち会うことになるでしょう(ここの場合は、錠のかかった中障子をはさんだやりとりですが)。 ずいぶん本文の再現に言葉を費やしてきましたが、その目的はもちろんこの物語の復元ではなく、この物語を読むという面白みを、思いっきり細かく、かつ多面的にしゃべってみようということでした。筋を追うばかりでは、この物語をこれからもう少し意識的に読んでみよう、と思っている方々にとっては、かえって読むという楽しみを奪うことになりかねず、さらには口語訳の手間といえば、そもそもすでに立派な現代訳が何冊も出ているじゃないか、と少し反省しているのです、なんちゃって! 私のここでの当面の目的は、前にも言いましたが、b系物語「空蝉」や「夕顔」で顕著に見られる、物語中の三人目の登場という面白味が、この「乙女」の帖でも多分に意識的に使われているのではないか、ということを仔細に見ていくためでした。 それと原文の下に附した意訳は、私の場合は例えばこう読んだ、という足跡みたいなもので、ここはこうであるとか、こう読むべしといったことを意図しているわけではありません。いかんせん翻訳とか口語訳というのは、突き詰めていくと翻訳者(読み手)の一つの解釈にならざるを得ず、本来の字義でいうと、原典の逐語訳といった表現は自己矛盾を含むことになりかねないのです。 今どき、まとまった古典の話をしようとすると、ごく一部の専門家や好事家は別として、普通の人は大抵口語訳に頼らざるを得ないでしょう。で、そうしたとき隔靴掻痒(かっかそうよう)とした、もどかしくも、何となく臆した感じになるというのは、結局自分は本当に古典を読んでいるのか、確信を持てないというところから来ているのではないか?というわけで吉本隆明氏のように、与謝野晶子の口語訳で十分とばかり、現代訳だけで難しい源氏論を展開されたりもするのですが、そこまで開き直っていいものかどうか。 ここでの私のおしゃべりは、それでも我が国の古典を、素人がどこまで原文に入っていって、確かに読んだという気がするかという、なかばドンキホーテのような無鉄砲な試みなのです、とまたまた、なんちゃって!? このころ、夕霧は元服したての十二歳、雲井の雁は二つ上の十四歳で、恋だの何だのといっても、やはり児戯めいて見えるのは致し方がないのです(しかしモンタギュー家とキャピュレット家の相剋の中から生まれたロメオとジュリエットの二人も、確か十五、六歳どうしだったですから、世の古今東西を問わず、おマセな男女はどこにもいるようです)。 わたしは、やはり大宮と内大臣の、大人同士の相克のほうに興味が向きます。― おとゞは、そのまゝに参り給はず、宮をも、「いとつらし」と、思ひ聞え給ふ。北の方には、「かゝることなん」と、気色も見せ給はず。たゞ、おほかた、いとむつかしき御気色にて、 「中宮の、よそほひ殊にて、まゐり給へるに、女御の、世の中思ひ湿りて物し給ふを、心苦しう胸痛きに、まかでさせたてまつりて、心安くうち休ませたてまつらん、さすがに、上に、つとさぶらはせ給ひて、夜昼、おはしますめれば、ある人々も、心ゆるびせず、苦しうのみわぶめるに」と、のたまひて、にはかに、まかでさせたてまつり給ふ。御暇も許されがたきを、うちむつかり給ひて、うへは、しぶしぶと思し召したるを、しひて、御迎へし給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 内大臣は、あれ以来(大宮邸に)参上することもなさらず、(ひたすら)大宮こそ、「ほんとうにひどい」と、思っていらっしゃる。北の方(弘徽殿の女御の実母)には、「こんなことが … 」とは、気配にもお見せにならない。ただ、おおかた、ひどく不機嫌なご様子で、「中宮(斎宮の女御、秋好中宮)が、装いも新たに、御所に参上なさったので、(娘の)女御が、世の中を悲観して滅入っていらっしゃるのが、気の毒で胸が痛むので、お里下りさせ申して、心安らかに休ませたく(思っておりまして)、何しろ、帝は、ずうっと(女御を側に)侍らして、夜昼、いっしょにいらっしゃるので、伺候している女房たちも、気の休まることもなく、しんどがっていましたので。」と、おっしゃって、にわかに、ご退出させなさる。(帝への)お暇願いは難しかったろうが、(内大臣は)無理を押しなさって、帝が、しぶっておられるところを、強いて、(自邸に)お迎えなさった。― つづく ―
2009.10.04
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このあたり、大宮も決して黙って引き下がっている性質の人ではなかったので、むしろ親王系の気位の高さを鮮やかに示しています。よくみると内大臣は、こうした大宮の強い性格と、左大臣の俗なる性格を両方、正確に受け継いでいるので、このへんは親子だけが、何となく共有する心理のやりとりで、繰り広げている厄介なあつれきなのです。それにしてもこの大宮、「槿(あさがお)」の帖に登場し、この帖のはじめにも出てきた桃園邸の女五の宮のお姉さんなのですが、なかば呆けかけた妹に比べて、何と若やいだ雰囲気なのでしょう。 さて、こうしたややこしい雰囲気になっている大宮邸に、そんなことはつゆ知らない、ご当人の夕霧がやって来る。例の三人目の登場ということになります。― かく、さわがるらんも知らで、冠者の君、まゐり給へり。一夜も、人目しげうて、思ふことをも、え聞こえずなりにしかば、つねよりも、あはれに思え給ひければ、夕つ方おはしたるなるべし。宮、例は、言ひ知らずうち笑みて、まち喜び聞え給ふを、まめだちて物語など聞こえ給ふついでに、 「御事により、内の大臣の、怨じて物し給ひにしかば、いとなん、いとほしき。いと、ゆかしげなき事をしも、思ひそめ給ひて、人に物思はせ給ひつべきが、心苦しき事。「かうも聞こえじ」と、思へど、「さる心も、知り給はでや」と、思へばなん」と、きこえ給へば、心にかゝる事の筋なれば、ふと思ひよりぬ。面赤みて、 「何事にか侍らん。しづかなる所にこもり侍りにし後、ともかくも、人にまじる折なければ、「うらみ給ふべき事、侍じ」となん、思ひ給ふる」とて、「いと恥づかし」と思へる気色を、あはれに心苦しうて、 「よし。今よりだに、用意し給へ」とばかりにて、異事にいひなし給ひつ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) このように、騒がれているとも知らずに、冠者の君(夕霧)が、お出でになった。先の夜は、人目が多くて、(雲井の雁に)思うことも、よう言えなかったので、いつもより、恋しく思いなさったか、夕暮れ時にいらっしゃるようである。大宮は、いつもなら、何ともなく微笑んで、待ち焦がれていらっしゃるのに、(今回は、打って変わって)真面目に話などをなさるなかに、「(そなたの)御事で、内大臣が、(あなたを)非難しておいでなので、大変、お気の毒で。(殿は)とても、みっともないことを、考えつかれて、私に苦労を掛けなさるのが、辛くてなりません。『こんなことは聞かせまい』と、思っていたのですが、『そうしたことを、ご存じなくては(やはりまずい)』と、思いまして」と、おっしゃると、(夕霧は、かねて)心に掛かっていた事柄なので、すぐに気付かれた。顔を赤くして、「何事がございました?(学問所の)静かな場所に籠もりましてからは、とにかく、人と立ち交じる折りもありませんで、『非難されるようなことは、ない』としか、思い到りませんが」と言って、「ひどく恥ずかしい」と思っている様子なのを、(大宮は)可愛そうで気の毒でもあるので、「(まあこの話は)よろしい。今日からさえ、心用意して下されば」とばかりおっしゃって、他の話に言い紛らわせておしまいになる。 大宮の邸が、なんとなく変な感じになっているのを、知らずにやって来た夕霧とはいえ、そのてん末にどうも自分が関わっているらしいということを、この子はすぐ気がつく。しかしそのことを、ただちに大宮に認めるつもりもさらさらないので、まるで知らぬ振りを取りあえずしてみせる。顔が赤くなったのはさすがに、まだまだ年若い証拠ということになりますが(父の源氏は、こんな時でも顔色一つ変えなかったでしょう)、ウソをつくのに何ほども臆したところがないのは、父譲りというか、インテリの典型的な振るまいかたでしょう。― つづく ―
2009.10.03
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向かってきた矛先を、何とか避けようというのは人の心で、乳母、女房たちはああでもない、こうでもないと言い取り繕う。内大臣としてはピーチクパーチク、女たちのおしゃべりはやりきれないので、― 「よし。しばし、かゝる事もらさじ。隠れあるまじき事なれど、心をやりて、「あらぬこと」とだに、言ひなされよ。いま、かしこに渡したてまつりてん。宮の御心の、いとつらきなり。そこ達は、さりとも、「いと、かゝれ」としも、思はれざりけん」と、のたまへば、いとほしきなかにも、「嬉しくのたまふ」と、思ひて、 「あな、いみじや。大納言殿に聞き給はん事をさへ、思ひ侍れば」「めでたきにても、たゞ人のすぢは、何の珍しさにか、思ひ給へかけん」と、きこゆ。ひめ君は、いと幼げなる御さまにて、よろづに申し給へども、かひあるべきにもあらねば、うち嘆き給ひて、 「いかにしてか、いたづらになり給ふまじきわざ、すべからん」と、忍びて、さるべきどちのたまひて、大宮をのみ、恨み聞え給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「よし(わかった)。しばらく、このことは漏らすでないぞ。(ずうっと)隠せおおせることではないが、注意して、『あり得ないこと』というように、取り繕っておくのだ。(姫は)しばらくしたら、私の邸にお引き取り申そう。大宮のお考えは、まことにひどい。そこもと達も、いくらなんでも、『こんなふうに、なって欲しい』などとは、(まさか)思っていなかったであろう」と、おっしゃるので、(乳母たちは)困った事になったとはいえ、「(殿は、自分たちを責めずに)優しくおっしゃって下さる」と、思って、「まあ、とんでもございませんわ。按察使大納言殿(姫君の義理の父)のお耳に入ることを、考えますと(こんなみっともないことはありません)」「(夕霧は)立派なお方とはいえ、ただの臣下という立場であってみれば、(こうしたことを)どうして結構なことと、思ったり致しましょう」と、申上げる。姫君は、たいへん幼い感じで、(内大臣が)あれこれご説明申上げても、理解できるふうでもないので、ため息をつかれて、「どんなことがあっても、(姫が)ややこしいことにならないような対策を、やっておこう」と、そっと、(乳母や女房たちに)何やかや指図なさって、(結局、もっぱら)大宮ばかりを、恨んでおいでになる。 最初に凄んでおいて、そのあと少し優しくして手なずけるというのは、何となくヤクザの手法ですが、それにしても内大臣にお追従する話の中味を、夕霧の現在の低い位にかこつけるのは、その場しのぎとはいえ、ちょっと罪深いですね。これは後々、夕霧本人も耳にすることになるわけで、彼を大いに傷つけることになるのです。 対する大宮は、― 宮は、「いと、いとほし」と、おぼすなかにも、をとこ君の御かなしさは、勝れ給ふにやあらん、かゝる心のありけるも、うつくしう思さるゝに、なさけなく、こよなき事のやうに、おぼしのたまへるを、「などか、さしもあるべき。もとより、いたう思ひつき給ふ事なくて、「かくまでかしづかん」とも、おぼし立たざりしを、わが、かく、もてなしそめたればこそ、春宮(とうぐう)の御ことをも、おぼしかけためれ。とりはづして、たゞ人の宿世あらば、この君よりほかに、まさるべき人やはある。かたち・有様よりはじめて、ひとしき人、あるべきかは。『これより及びなからん際にも』とこそ思へ」と、わが心ざしの、まさればにや、おとゞ、うらめしう思ひ聞え給ふ。御心のうちを、みせたてまつりたらば、まして、いかに、うらみ聞え給はん。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 大宮は、「(二人とも)たまらなく、可愛い」と、思っておられるなかでも、男君(夕霧)に対する御愛情は、格別なのであろうか、このような(夕霧の雲井の雁への)恋心があるというのさえ、可愛らしいことのように、お思いになっていて、「どうして、そんなことがあるものですか。そもそも、(この姫を、殿は)さして可愛がっておられたわけでもなく、『ここまで大事にしよう』などとは、思ってもいらっしゃらなかったのに、私が、このように、お世話し育てたからこそ、東宮(妃)のことも、思いつかれたのであろう。(かりに入内が)叶わなくて、臣下との縁組があるとしたら、この君のほか、(どこに)勝れる人がいるというのでしょう。お姿、物腰をはじめとして、(この君に)匹敵する人が、(他に)おりますか。『この姫君も及ばないような高位の方とも』とさえ思っているのに」と、ご自身の(夕霧への)期待が、(飛び抜けて)高いせいであろうか、(こちらも)内大臣を、恨んでいらっしゃる。(この)お心の内を、お見せしたならば、これまた、どれほどに、(殿は)お恨みなさるであろう。― つづく ―
2009.10.02
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さてこのところのくだりは、紫式部もずいぶん高揚して描いているので、くだくだしいコメントはできるだけ控えて、しばらく筋だけを追うことにします。スポーツの中継でも肝心なところでは、解説者のおしゃべりが煩わしいときって、あるじゃないですか。 しかしさすがの大宮も、内大臣の自己都合過ぎる言いぶんに、色をなしたか、― … 夢にも知り給はぬことなれば、あさましう思して、「げに、かうのたまふも、ことわりなれど、かけても、この人々の下の心なん、知り侍らざりける。「げに、いと口惜しき事」とは、こゝにこそ、まして、嘆くべく侍れ。もろともに、つみをおほせ給ふは、うらめしき事になん。見たてまつりしより、心殊に思ひ侍りて、そこに思し至らぬことをも、「勝れたるさまに、もてなさん」とこそ、人知れず、思ひ侍りつれ。「物げなき程を、心の闇にまどひて、いそぎものせん」とは、思ひ寄らぬ事になん。さても、誰かは、かゝる事は聞こえけん。よからぬ人の言につきて、きはだけく思しのたまふも、あぢきなく、空しき事にて、人の御名や汚れん」と、のたまへば、 「何の、浮きたる事にか侍らん。さぶらふめる人々も、かつは、みな、もどき笑ふべかめるものを。いと口惜しく、安からず思う給へらるゝや」とて、立ち給ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (大宮は)夢にもご存じないことだったので、びっくりなさって、 「まことに、そのようにおっしゃるのは、もっともですが、(私は)誓って、この子らの(そうした)隠れた心など、夢にも思い至りませんでした。『まことに、口惜しいこと』と(言われて)は、私のほうこそ、いっそう、嘆かわしい。(この二人と)いっしょくたにして、(私を)非難なさるのは、(それこそ)恨めしいです。お世話をさせていただいた時から、(二人には)格別に気を遣いしまして、そなたが思い至らぬことまでも(気を使い)、『(人並み)優れた人柄に、お育てしよう』とばかり、人知れず、思ってまいったのですよ。『(いまだ)幼い者たちを、(私の可愛さあまりな)心の惑いにまかせて、急いで結婚させよう(とした)』などとは、思いも寄らないことです。それにしても、誰が、このような事を申したのです。下郎の輩の噂を真に受けて、ことごとしく物をおっしゃるのは、あじけなく、空しい事で、(かえって)姫君の御名に傷がつきますよ」と、おっしゃると、 「どうして、根も葉もないことなのでしょうか。(母上に)お仕えしている女房たちも、事あるごとに、皆、バカにして哂っているようですのに。こんなに口惜しいのに、のんきに考えてじっとしていられますか」と(言い放って)、お立ちになった。 こうしたやりとりを、当然側付きの女房たちは、陰でハラハラしながら聞いている。はたして内大臣はそのまま引き上げるのではなく、姫君の様子を見に来るのです。 心知れる人は、いみじういとほしく思ふ。一夜のしりう言の人々は、まして、心地も違ひて、「何に、かゝる睦物語をしけん」と、思ひ嘆きあへり。ひめ君は、何心もなくておはするに、さしのぞき給へれば、いとらうたげなる御さまを、あはれに見たてまつり給ふ。 「若き人といひながら、心をさなく物し給ひけるを知らで、いと、かく、「人なみなみに」と、思ひける我こそ、まさりて、はかなかりけれ」とて、御乳母どもを、さいなみ給ふに、きこえん方なし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 事情を知っている女房どもは、(二人のことを)とても気の毒に思っている。(例の)あの夜ヒソヒソ話をした老い女房たちは、ましてや、気もそぞろで、「どうして、あのような密か話を(あんなところで)したのだろう」と、思って後悔しあっている。(肝心の)姫君本人は、何も知らずにおられて、(内大臣が)覗かれると、とても可愛いお姿でいらっしゃっるので、(かえって)哀れを感じてご覧になっている。 「若い人とはいえ、心が幼いままお振るまいになるのを知らずに、まことに、こう、『人並みである』と、思っていた私こそ、もっと、バカであった」と(思って、今度は)、御乳母たちを、(さかんに)責め立てられるので、(彼女たちは)たまったものではない。― つづく ―
2009.10.01
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