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… おとゞ、御けしき悪しくて、 「こゝに侍ふもはしたなく、「人々、いかに見侍らん」と、心おかれにたり。はかばかしき身には侍らねど、「世に侍らむかぎり、御目かれず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなく」とこそ、思ひ給ふれ。よからぬものの上にて、「うらめし」と思ひ、聞こえさせつべき事の、出でまうで来たるを。「かうも思う給へじ」と、かつは思ひ給ふれど、猶、しづめがたく思え侍りてなん」と、涙おし拭ひ給ふに、宮、化粧じ給へる御顔の色たがひて、御目も大きになり給ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (ところが)内大臣は、ご機嫌が(おそろしく)悪くて、 「ここに(こうして)参っているのもはしたなくて、『女房どもが、どのように見ておるか』と(思うと)、気が引けてしまうのです。(母上のお心に叶うほどの)たいした息子ではございませんが、『生きております限りは、間遠にならぬようお目に掛からせていただき、(また)ご心配事などのないように』とばかり、思ってまいりました。(しかしながら、今回の)とんでもない娘の所業については、『(母上も)恨めしい』と思い、申上げざるを得ないことが、出来してしまいました。『そのようには考え致すまい』とは、何度も思いますものの、やはり、(この怒りは)ガマンできずにおりまして」と、涙までお拭いになるので、大宮は、(たいそうびっくりして)お化粧されたお顔の色が(あっというまに)変わって、お目を大きく見開けなさる。 読者は、ずうっと内大臣の怒りをみているし、彼の男臭い気質が大宮の前でどう出てくるか、ある程度分かる。何も知らぬは、対面している大宮だけなので、我々は大宮の大きく見開かれた御目を、鮮やかに想像することができるのです。 「いかやうなる事にてか、今更の齢のすゑに、心おきては思さるらん」と、きこえ給ふも、さすがに、いとほしけれど、 「頼もしき御蔭に、幼きものをたてまつり置きて、みづからをば、なかなか、をさなくより見給へもつかず、まづ、目に近きまじらひなど、はかばかしからぬを、見給へ嘆きいとなみつゝ、「さりとも、人となさせ給ひてん」と、頼みわたり侍りつるに、おもはずなる事の侍りければ、いと、口惜しうなん。まことに、天の下、並ぶ人なき有職には物せらるめれど、親しき程にかゝるは、人の、聞き思ふ所も、あはつけきやうになん、何ばかりの程にもあらぬなからひにだに、し侍るを、かの人の御ためにも、いとかたはなる事なり。 … さるにても、「かゝることなん」と、しらせ給ひて、殊更に、もてなし、少しゆかしげあることを、まぜてこそ侍らめ。をさなき人々の心にまかせて、御覧じ放ちけるを、心憂く思ひ給ふる」と、きこえ給ふに、 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「どのようなことでか、今さらこのように歳をとった(私を)、お恨みなさるのか」と、おっしゃるのも、さすがに、おいたわしくはあるが、(それでも内大臣は) 「頼りになる拠り所とも思って、幼い姫をお預けいたしまして、私のほうは、ろくに、幼少より面倒もみませず、取りあえずは、身近におります姫君(弘徽殿の女御)の宮仕えが、思うにならない成り行きを、見守りながら嘆いておりましたのが、『とは言え、(雲井の雁のほうは、大宮が立派な)大人に育ててくださるだろう』と、安心しておりましたのに、思いもよらぬ事が出来しまして、たいへん、口惜しいのです。確かに、(夕霧は)天下に、並ぶ者のない見識を養っていらっしゃいますが、(従弟という)親戚同士の結婚というのは、世間が、聞きもし思いもするというのは、(それはとても)浅はかなことと、いかほどの身分の者の間でも、考えることで、(これは)かの人(夕霧)のおためにも、はなはだよろしくない事なのです。 … それにしても、『このようなことが(ありました)』と、(母上から)お知らせいただいたなら、(この二人を)格別に、扱って、少しはゆかしげな間柄であるように、取り繕うことも出来たでしょうに。幼い子供らの気の向くまま、お育て甘やかされたのが、残念でなりません」と、おっしゃるが、 … 内大臣は、自身の目論見が外れた原因を、誰かに求めずにはいられない。さしあたって多少自分の方にも、雲井の雁を預けっぱなしにしていたという、負い目があるものの、むしろ実の母であるということで、不満の捌け口としては格好であったのでしょう。遠慮会釈なく難詰するところが、いかにも彼らしい。― つづく ―
2009.09.30
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― とのは、道すがらおぼすに、 「いとくちおしく、悪しき事にはあらねど、めづらしげなきあはひに、世の人も思ひ言ふべき事。おとゞの、強ひて、女御をおし沈め給ふもつらきに、『わくらはに、人にまさることもや』とこそ、思ひつれ。ねたくもあるかな」と、おぼす。とのの、御中の、大方には、昔も今も、いとよくおはしながら、かやうの方にては、挑み聞え給ひし名残も思しいでて、心うければ、寝覚がちにて、明かし給ふ。「大宮も、さやうの気色は、御覧ずらむものを」「世になく、かなしくし給ふ御孫にて、まかせて見給ふならむ」と、人々のいひしけしきを、「ねたし」と、おぼす。御心動きて、すこし雄々しく、あざやぎたる御心には、静めがたし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 殿が、(帰りの)道中お考えになるのは、 「(このことは)まったくやりきれないような、悪いことではないにしても、(ごく)ありふれたいとこ同士の結婚ということで、世の連中も思い言い立てもしよう。(源氏の)大臣が、強引に、(弘徽殿の)女御を圧し去ろうとなさるのが癪なところへ持ってきて、『(この子は東宮妃になって)ひょっとして、(運が)人にも勝ることも(あるかな)』とも、思っていたのだ。(何とも)口惜しくて仕方がない」と、お思いになる。殿(と源氏の君)の、御仲は、おおむね、今も昔も、たいへん好くていらっしゃるのだが、こうした方面にかんしては、(以前から)競い合いなさったのも思い出されて、(負けてばかりの記憶が)面白くなく、(その夜は)寝覚めがちで、明かしてしまわれた。「大宮も、このような気配は、ご覧になっていたはずなのに」「ありえないほど、可愛がっていらっしゃったお孫なので、(おおかた)甘やかして育てられたのだわ」と、女房たちが言っていた様子なのも、「頭に来た!」と、怒っておられる。(内大臣のこのような)お心ばえは、多少(貴族らしからず)雄々しすぎ、(何でも)ハッキリさせないと気が済まない気質では、(この怒りを)鎮めるのは難しいのである。 内大臣の体育会的な気質は、故父左大臣以来の処世術の血がなせるわざで、下郎どもが実力を肥している荘園管理では、そうした世俗の世界を治めるのに、こうした実務的突破力は絶対必要であったし、また父大臣はそれを是としたでしょう。 しかしそれは親王方から降嫁した母大宮から見れば、必ずしもなじめる風合いのものではなかったし、同じく臣籍降下した義理の息子(源氏)の感性の方に、より共感を覚えていたのも無理は無かったでしょう。― 二日ばかりありて、まゐり給へり。しきりて参り給ふ時は、大宮も、いと御心ゆき、嬉しきものに思いたり。御尼額ひきつくろひ、うるはしき小袿(こうちぎ)など、たてまつり添へて、子ながら、はづかしげにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ、みえたてまつり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 二日ばかりして、(内大臣は、大宮方へ再び)参上される。たびたびお出でなさるとなれば、大宮も、とてもご満足で、うれしく思っていらっしゃる。尼削ぎの御髪を整えなさって、きちんとした小袿などを、お召しになって、我が子ながら、気の置けるお立場の人なので、じかに顔を合わせないようにして、ご面会される。 怒りの収まらない内大臣は、二日と置かず大宮のもとを訪ねる。彼がカンカンになっていることを、邸内の女房たちは、恐ろしがって誰も知らせないので、珍しく何度もやって来る息子を、大宮は何となく可愛く思う。宮が何も知らずにいきなり会う以下のくだりは、そうした母子の気質や心理の違いが鮮やかに出ていて、見事ですね。― つづく ―
2009.09.29
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このあたり、紫式部は嵐の前の静けさというか、わざと読者を焦らしているような所があって、内大臣のご機嫌の好さを管弦の雅びな響きとともに、ことさらに強調する。しかしその中にも老い女房たちのささやき声で、ちゃんと伏線は張ってあるわけで、以下のくだりは言うなれば、一瞬の技決めの場面です。― おとゞ、出で給ひぬるやうにて、しのびて、人に物のたまふとて、立ち給へりけるを、やをら、かい細りて出で給ふ道に、かゝるさゝめき言をするに、あやしうなり給ひて、御耳とゞめ給へば、わが御うへをぞ言ふ。「かしこがり給へど、人の親よ」「おのづから、おれたる事こそ、出で来べかめれ」「「子を知るは」といふは、そら言なめり」などぞ、つきしろふ。「あさましくもあるかな。さればよ。思ひ寄らぬ事にはあらねど、いはけなきほどに、うちたゆみて。世は憂きものにもありけるかな」と、けしきを、つぶつぶと心得給へど、音もせで、いで給ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 内大臣は、外に出るような振りをなさって、忍びがてら、(さる)人と会おうかと、お立ちになって、やおら、身を細めてお出でになった通路で、何やらささやき声がするのを、あやしく思われて、ひそかにお聞きになっていると、(はたして)我が身のことを言っている。「賢そうにしておられるけれど、(しょせん)人の親よね」「ほっておいたら、とんでもない事に、なってくるだろうに」「『子(の心)を知るは、(親ばかり)』というのは、ウソみたいね」などと、ヒソヒソ噂し合っている。「バカな話もあったものだ。そうであったか。思い寄らないことではなかったとはいえ、子供だと思って、油断しておったことよ。(まったく)この世はうっとうしいものだな」と、(今までの二人の)様子に、こと細かく思い至られて、音もたてずに、(そっとその場から)立ち去られた。 ここの「人に物のたまふ」とは、内大臣のいつものお癖かとも思えますが、一つには大宮方の表には出てこない内情を、知っておきたいということもあったでしょう。世のリーダーとは、たいてい表向きの回路とは別に、裏のラインを持とうとするものです。実の母とはいえ、何となく敬遠しがちだった大宮の館ですが、左大臣家の統領として様子を知っておく必要はあったでしょう。 しかし、そこはプロのスパイではない悲しさ、ややこしい話は誰も恐ろしがって言わないので、結局、本人が盗み聞きするか、隙見するしかない。同じような話が、かつて右大臣家でも「賢木」の帖でありましたね。― 御さき追ふ声の、いかめしきにぞ、「とのは、今こそ、いでさせ給ひけれ」「いづれの隈に、おはしましつらむ」「今さへ、かゝるあだけぞ」と、いひあへり。さゝめきごとの人びとは、「いと、かうばしき香の、うちそよめき出でつるは、「冠者の君のおはしつる」とこそ思ひつれ」「あな、むくつけや。しりう言や、ほの聞こし召しつらむ」「わづらはしき御心を」と、わびあへり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 前駆けの先を払う声が、いかめしく聞えるので、(女房たちは)「殿は、たった今、お帰りになったようね」「どこの隅っこに、(隠れて)いらっしゃったのかしら」「今だに、このような好き事を(なさって)」と、言い合っている。噂し合っていた老い女房たちは、「とても、素敵なお香が、薫ってくるのは、『冠者の君がいらっしゃる』とばかり思っていたわ」「あら、いやだこと。(あの)陰口を、お聞きになったのかしら」「厄介なお気質なのに」と、閉口している。 とっくに帰ったと思っていた内大臣が、実はまだ館のどこかにいた。さてこそ老い女房たちのヒソヒソ話が、聞かれたかということで大騒ぎになる。ここの女房たちの会話は、ピーチクパーチク、何だかオペラの三重唱みたいですね。― つづく ―
2009.09.28
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とはいえ、内大臣は久しぶりに母にも娘にも会って、気分もほぐれたか、酒といっしょに歌も吟じたりして、すこぶる機嫌が好い。― … 秋風楽かきあはせて、唱歌し給へる声、いとおもしろければ、みな、さまざま、おとゞをも、「いと美し」と、思ひ聞え給ふに、「いとど、そへむ」とにやあらん、冠者の君、まゐり給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (琴の調子を)秋風楽に整えて、(内大臣も)唱和なさるお声が、大変見事なので、(その場に居合わせた者は)皆、それぞれに、内大臣をも「じつに美しい」と、お見上げ申していると、「さらに、(興を)添えよう」とでもいうことであろうか、冠者の君(夕霧)が、参上された。― 「こなたに」とて、御几帳へだてて、いれたてまつり、 「をさをさ、対面も、え賜はらぬかな。など、かく、この御学問の、あながちならん。「才の、程より余り過ぎぬるも、あぢきなきわざ」と、おとゞも、思し知る事なるを、「かく、おきて聞え給ふ、様あらん」とは、思ひ給へながら、かう籠もりおはすることなん、心苦しう侍る」と、きこえ給ひて、 「時々は、ことわざし給へ。笛の音にも、古事は、伝はるものなり」とて、御笛たてまつり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (内大臣は、夕霧を)「こちらへ」と、(雲井の雁とは)御几帳を隔てたところに、お入れなさり、「おちおち、(あなたに)お会いすることも、ままなりませんな。どうして、このように、こうした学問に、励んでおられる。『学才が、身の程に過ぎるのも、考えものだね』とは、太政大臣(源氏)も、よく知っておられることなのに、『このように、厳しくしつけなさるには、何か理由があるのか』とは、思い致しながら、ここまで籠もっていらっしゃるのは、(何だか)お気の毒で」と、おっしゃって、「時には、別のこともなさいませ。笛の音にも、いにしえからの道は、伝わっているものですぞ」と言って、(夕霧に)笛を差し上げられる。 内大臣としては、夕霧は左大臣家と源氏をつなぐ糸という意味では、大宮と同じ位置づけなので、時を得たりとばかりに大いに接待するのです。― 「大殿も、かやうの御遊びに、心とゞめ給ひて、忙しき御まつりごとどもをば、のがれ給ふなりけり。げに、あぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、過ぐし侍りなまほしけれ」など、のたまひて、御かわらけ参り給ふに、暗うなれば、御殿油まゐり、御湯漬・菓物など、たれもたれも、聞し召す。ひめ君は、あなたに渡したてまつり給ひつ。しひて、けどほくもてなし給ひ、「御琴の音ばかりをも、きかせたてまつらじ」と、いまは、こよなく隔て聞え給ふを、「いとほしき事ありぬべき世なる事を」と、ちかう仕うまつる大宮の御方のねび人ども、さゝめきけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(源氏の)大殿も、このようなお遊びには、ご関心が高くて、忙しいご政務の事からは、逃げておいでになるのです。まことに、つまらない世の中であるゆえ、興の沸くことばかりして、過ごすに越したことはありません」などと、おっしゃって、お杯を(夕霧と)交わしていらっしゃるうちに、暗くなったので、灯火をつけて、湯漬け、果物などを、皆で、お召し上がりになる。(内大臣は)姫君を、あちら(の部屋)に引きこもらせなさる。つとめて、よそよそしくお取り扱いになって、「(姫の)琴の音ばかりも、(夕霧には)お聴かせはすまい」と、ここに至って、(内大臣が)ことさらに隔てを置かれるのを、「(今に)お可哀想なこともおこりそうな気配だこと」と、近侍する大宮方の老い女房たちは、ささやきあっている。― つづく ―
2009.09.27
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― 「女は、たゞ、心ばせよりこそ、世に用ゐらるゝものに侍りけれ」など、人のうへ、のたまひ出でて、 「女御を、「けしうはあらず、何事も、人に劣りては生ひ出でずかし」と、思ひ給へしかど、思はぬ人に、おされぬる宿世になん、「世は、思ひの外なる物」と、思ひ侍りぬる。「この君をだに、いかで、おもふさまに見なし侍らん。東宮の御元服、たゞ今のことになりぬるを」と、人知れず、思ひ給へ心ざしたるを、かう、いま、さいはひ人の腹の后がねこそ、又、追ひすがひぬれ。たちいで給へらんに、まして、きしろふ人ありがたくや」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「女というものは、ただ(ひたすらに)、その心がけによってこそ、世間からも重んじられるものでしょうか」などと、他の人(明石の方の身の上)にかこつけて、(内大臣は)話し出される。 「(娘の弘徽殿の)女御を、『(姿かたち)悪くなく、何事にも、人に引けを取ることは無いように生まれ育った』と、思ってまいりましたが、(斎宮の女御という)思わぬ人に、(彼女が)気圧されたという運命を(見るにつけ)、『世間とは、(我が)思いのままにはならぬものよ』と、思い知ったことでございます。『この君(雲井の雁)だけは、どうしても、(私の)望むところと致したい。東宮の御元服も、そろそろ間近になっているのに』と、密かに、思い目論んでいたところが、(今度は)このように、すでに、(例の)運の強い人(明石の方)の産んだ(源氏の君の)后候補が、また、(後から)追いすがろうとしています。(この人が、東宮に)入内なさった場合に、まして、競い合える人などおりましょうか」 多少、内大臣は自分のグチも聴いてほしかったのかもしれません。その相手として大宮は都合が良かったでしょう。― 「などか、さしもあらん。「この家に、さる筋の人、出で物し給はで、やむやうあらじ」と、故大臣の思ひ給ひて、女御の御事をも、居立ち急ぎ給ひしものを。おはせましかば、かくもてひがむることも、なからまし」など、この御事にてぞ、太政おとゞを、恨めしげに思ひ聞こえ給へる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「どうして、そのようなことがありましょう。『この家から、しかるべき筋の人(中宮)が、御立ちにならずに、終わるようなことは(よもや)あるまい』と、亡くなった左大臣(大宮の主人)も思いなさって、(弘徽殿の)女御の御事についても、(自ら)入内を急がせていらっしゃいましたのに。(左大臣が)生きていらっしゃれば、このように筋が狂うことも、無かったでしょうに」などと(おっしゃって)、(さすがに)この事だけは、太政大臣(源氏)を、恨めしく思っていらっしゃる。 大宮がじつは普段、実の息子である体育会系の内大臣より、義理の息子のヨン様ならぬ光源氏の方を好いているのを、あるいは内大臣は知っていたのかもしれません。この一件(弘徽殿の女御)にかんして、大宮の気持を確かめたうえで、東宮への入内について源氏との来るべきあつれきに際して、彼女の間接的な支援をもくろんでいたとも考えられるのです。 彼と光源氏の間柄は、すでに個人的な友誼の関係を離れて、公的には対立関係にある。気軽に合って話するということはできないので、場合によっては大宮に仲介を頼む場面も想定しているのです。もっともそんな話は、以下のくだりで吹っ飛んでしまうのですが。― つづく ―
2009.09.26
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自身の昇進を祝う宴などが終わって、少し暇ができたのか、内大臣は大宮のもとを訪ねる。 このあとのくだりは、けっこう長いのですが、内大臣の意図、大宮の気持ち、老い女房の立ち話からの秘密の露見、夕霧の闖入とふうに、話が次から次へと展開して、舞台劇さながら読む側のはやる気持を逸らさずに、一気に読ませる、実に上手いものです。どういうふうに、原文の雰囲気を壊さずに、このブログで再現していったものか、あれこれ思案しているのですが、まあ焦らずに入っていきますか。 さしあたって、夕霧が雲井の雁に幼い想い文などを送ったりして、それが側付き女房の目に入って、「どうやら~」という噂になっているのですが、彼女たちはわざわざ、そんなややこしい話を大宮や内大臣にはしません。― ところどころの大饗どもも果てて、世の中の御急ぎもなく、のどやかになりぬる頃、時雨うちして、荻の上風もたゞならぬ夕暮に、大宮の御方に、内の大臣(おとゞ)まゐり給ひて、ひめ君わたしきこえ給ひて、御琴など、弾かせたてまつり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) あちこちの(任官披露の)大饗の宴なども終わって、朝廷の御用事もなくて、のどかになったころ、時雨が降って、萩の葉の上に吹きつける風の身にしみる夕暮れに、大宮のもとに、内大臣は参上されて、姫君(雲井の雁)をお呼びになって、お琴などを、お弾かせになる。 内大臣の目的は、もう一人の娘、雲井の雁の様子を探ることでした。今回の人事で冷泉帝に入内していた弘徽殿の女御が、意外にも中宮の座を逸したので、彼としては現帝の外戚としての威勢は張れないわけです。そこで次の対策として、今の東宮(朱雀院と承香殿の女御の子)に、雲井の雁を入内させることを考えている。 大宮はさすがに皇族出身だけあって、管弦にすぐれ雲井の雁にも教えているのです。内大臣はまず琵琶の名人の話から切り出す。― 「女の中には、太政(おほき)おとゞの、山ざとにこめ置き給へる人こそ、いと上手と聞き侍れ。ものの上手の後には侍れど、末になりて、山賤(やまがつ)にて年経たる人、いかで、さしも弾き勝れけん。かのおとゞ、いと心殊にこそ思ひて、のたまふ折をり侍れ。 … 」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「(琵琶の名手としては、)女のほうでは、太政大臣(源氏)が、山里に囲っておられる方(明石の方)こそ、たいそうな上手と聞いております。その道の血筋とはいえ、時が経って、田舎住まいの長くなった人が、どのようにして、そのような弾き上手になったのでしょう。かの大臣も、大変格別に想い掛けておいでで、お話なさる折り折りもございました。 … 」 と、明石の方のことに話題を向ける。大宮はせがまれて、見事な琵琶の撥さばきを見せながら、― 「さいはひにうちそへて、猶、怪しう、めでたかりける人なりや。老いの世に、持給へらぬ女子を、まうけさせたてまつりて、身にそへても、やつしゐたらず、やむごとなきにゆづれる心おきて、「事も無かるべき人なり」とぞ、聞き侍る」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(その明石の方とは)ご幸運なばかりでなく、さらに、不思議なほど、よく出来たお方のようですね。(源氏の君が)年取られた今の世になるまで、なかなか授からなかった女君を、お産みなさったうえに、(低い身分の)我が身の側において、(姫が、世間から)卑しめられることのないように、立派な(紫の上という)方にお預けされたという見識など、『(まことに)申し分のない人である』と、聞いております」 大宮の明石の方に対する評価を聞いて、内大臣は本題に入ります。― つづく ―
2009.09.25
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これまでも何度か触れたのですが、一世(一代限り)源氏として世俗の世を渡っていくのに、彼の頼みとするのは、帝の子であるという貴種の血筋という威光だけであって、それは親王方のような所与(生まれつき)のものではなく、(親王の座を去って、臣籍に降りているので)常に意識して、飾りたてて行かねばならない質のものでした。政界復帰後の彼の威勢が、周囲に大いに畏れられたのは、もともと持っていた資質がそうさせるのではなく、彼のきわめて意識的な振るまい(例えば、兵部卿の宮に対する、ことさらな仕打ちなど)によって、なされていることを忘れるわけにはいきません。 しかしこうした多分に意識的な振るまいかたには、ある矛盾が含まれていることも紛れもないので、貴種の血筋とはその希少性を守る限り、みだりに俗の世に交わって子孫を残すわけにはいかないのです。彼が数多くの姫君と関係しながら、不思議なくらいに子供が出来ないのは、あるいは彼の無意識の禁忌が働いたかとも思え、その筋の専門家からいわせるとフノーだったんじゃないの、ということになるのですが、たぶんこの問題はもっと深い。源氏自身の意志はともかく、少なくとも紫式部は、彼に子沢山という俗なる幸せは与えませんでした。 内大臣が世俗の繁栄を何ら憚ることなく、我が世の春とばかり誇ることが出来たのと、ずいぶん対称的ですね。 さてここで再び、夕霧の登場となります。― 冠者(くわざ)の君、ひとつにて、おひいで給ひしかど、おのおの十に余り給ひて後は、御方異にて、 「むつましき人なれど、男子には、うち解くまじきものなり」と、父大臣、きこえ給ひて、けどほくなりにたるを、をさな心地に、思ふ事なきにしもあらねば、はかなき、花・紅葉につけても、雛(ひゝな)遊びの追従(つゐしよう)をも、ねんごろに、まつはれ歩きて、心ざしを見え聞え給へば、いみじう思ひかはして、けざやかには、いまも恥ぢ聞え給はず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 冠者の君(夕霧)は、(雲井の雁と、大宮のもとで)いっしょに、お育ちになったが、それぞれ十歳を超えてから後は、お部屋も別になって、「親しい仲とは言え、(女は、みだりに)男の子とは、打ち解けるものではない」と、父の内大臣も、おっしゃるので、離れて暮らすようになっていたが、幼な心に、(恋しく)想う心がないでもないので、(夕霧は)ちょっとした、花とか紅葉の折りとか、雛遊びの折りのご機嫌とりにつけても、熱心に、付いてまわって、(その)気持を現しなさったので、(しだいに、お互いに)深く想いを交わすようになって、(雲井の雁は)ハッキリとは、(男子である夕霧を)今になっても恥ずかしがるということはなさらない。 夕霧は、母の葵の上の出産直後の死後、そのまま母方の里方、祖母の大宮のもとで、他の左大臣家の子らといっしょに育てられたので、当然その中には按察使大納言から引き取った、雲井の雁も含まれているわけです。― 御後見どもも、「何かは、わかき御心どちなれば」「年頃、見ならひ給へる御あはひを」「にはかにも、いかゞは、もてはなれ、はしたなめ聞えん」と見るに、女君こそ、何心なくおはすれど、をとこは、さこそ物げなき程と見聞ゆれ、おほけなく、いかなる御仲らひにかありけん。よそよそになりては、これをぞ、しづ心なく思ふべき。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (雲井の雁の)お世話係の女房たちも、「何も、(こんな)幼いお心同士のことだし」「長年、見馴れなさった間柄なのだから」「いきなり、分けもわからないまま、引き離して、(どうやって)やかましく注意することなど出来よう」と思っていたのが、女君の方こそ、何とも思っていらっしゃらなかったのが、男君は、そんな一人前の年頃ではないとお見受けしていたのに、驚いたことに、(いつから)どんな御仲に(二人は)なっていらっしゃったのか。離れ離れになってからは、このことを、はなはだ落ちつかなく思っているらしい。 という経緯が述べられたあとで、いよいよ内大臣の登場ということになります。― つづく ―
2009.09.24
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若いときから何かにつけて、光源氏と競い合い張り合って、源氏に対して物怖じしない数少ない人物であった内大臣(頭の中将)ですが、貴種の血筋でいえば彼に負けるとはいえ、実のお母さんは例の大宮で故桐壺帝とは兄弟姉妹の関係ですから、負けん気の気概にはちゃんと理由があったのです。さらに父の故左大臣は、世俗的な政略にも「心用ひ」にも秀でた人でしたから、実際的な政務ではおそらく内大臣のほうが、源氏より長けていたのではないか? そういえば、源氏は貴種の血筋として、大いに政界で威勢を保っているのですが、政務の実務的な処理となるとちょっと自信がなかったのではないか、と思わせる場面がかつてありましたね。須磨から戻って後、冷泉帝の後見として振るまうとき、退隠していた左大臣に三顧の礼を尽くして、太政大臣への復帰を依頼したりしているのです。 さて、内大臣の家族といえば、― 腹々に、御子ども十余人、大人びつゝ物し給ふも、つぎつぎになり出でつゝ、劣らず栄えたる御家のうちなり。女は、女御と、いまひと所なんおはしける。わかむどほり腹にて、あてなる筋は、おとるまじけれど、その母君、按察使(あぜち)の大納言の北の方になりて、さしむかひたる子どもの数多くなりて、「それに、まかせて、後のおやにゆづらんも、いとあいなし」とて、とりはなち聞え給ひて、大宮にぞ、あづけきこえ給へりける。女御には、いとこよなく、思ひおとし聞え給ひつれど、人がら・かたちなど、いと美しうぞおはしける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (あちこちの女君の)腹々に、(お産ませになった)御子たちは十数人もなって、(いずれも)立派に成人され、次々と出世して、(源氏方と)負けず劣らず栄えている御一族である。娘は、(弘徽殿の)女御と、もうお一人方いらっしゃる。(その娘、雲井の雁は)母が皇族系で、高貴な血筋ということでは、(何ら弘徽殿の女御と)劣るところないのであるが、この母君は、(その後)按察使大納言の北の方になって、そちらの方の子供の数も多くなったので、(内大臣は)「そのまま、成り行きに任せて、あとの父親に(我が娘を)委ねるのは、やっぱり不都合なことだ」と思って、(母子を)引き離しなさったうえ、大宮のもとに、お預けなさった。(弘徽殿の)女御に比べれば、ずいぶん軽く、思い扱っていらっしゃるが、(本人の)人柄や容貌などは、とても美しくていらっしゃる。 前にも言いましたが、この内大臣(頭の中将)、世俗の代表として源氏の君と対抗するに、もっぱら女の数で若いころ勝負したので、本妻の右大臣系の四の君とは別に、あちらこちらの女君に手をつけて、しかもそれぞれに子供が出来ている。娘は四の君との間に出来た弘徽殿の女御とは別に、皇族系の姫君との間に出来た「雲井の雁」という子がいるのですが、この母君が後に按察使大納言に嫁いだので、娘のほうは内大臣が引き取って、ほかの大勢の息子たちといっしょに、母の大宮に預け育てた、という構図なのです。 子沢山というのは、現世の世では一族の繁栄の証しであり、内大臣はそのいちいちを家中に集めて、威勢を誇って得意になっているようなところがある。のちのち、それがためにエライ騒ぎが起こるのですが。 この内大臣家の子沢山については、前に光源氏が須磨流遇を許されて、左大臣家とともに政界に復帰したとき、その子供たちもオセロの駒をひっくり返すようにいっせいに昇進して、子供の少ない源氏が(表向き夕霧と明石の姫君の二人、実際は冷泉帝と三人)、大いに羨むという場面がありましたね。 ここで彼が抱いた羨望というのは、一世(一代限り)源氏という立場では、絶対手に入らない禁止された類のものだったのではないか?― つづく ―
2009.09.23
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頭の中将、源氏十七歳のころから、無二の親友として登場し、時にライバルとして女性を張り合ったりするのですが、この人、ずうっと位階だけの呼称で呼ばれるので、昇段するごとに呼び名が変わる。煩雑なので、これまで最初の「頭の中将」の名で、ここでは呼んできましたが、冷泉帝の中宮が決まったことに関係したのでしょうか、源氏は太政大臣に、頭の中将は内大臣に昇段したので、以後、彼を内大臣と呼ぶことにします。 今回、このブログをUPするために、再読を繰り返しているのですが、前に、紫式部の個人的必要によって、「乙女」の帖に入るまえに、いわゆるb系物語というのが「求婚譚」を下敷きにして、順次書かれ始めたのではないか、という話をしました。これらは主として後につづく「玉葛十帖」を念頭にしているのですが、ここへ来て一つの視点が浮かび上がってきます。 それはb系といわれる物語全体が、どうも内大臣(頭の中将)系の話に属するのではないか、ということです。で、いつぞやと同じく、いったんb系とされる「帚木」以下、「空蝉」「夕顔」「末摘花」をはずした場合に、彼がいつ初登場するのかというと、「若紫」の帖で光源氏が北山の何某の寺で静養していたのを、左大臣家の供人達と一緒に迎えに行った時からいうことになります(訂正 あとでもう一度調べたら、最初の「桐壺」の帖で、すでに蔵人少将という名で紹介だけされてました、すいません)。 ここでの彼の登場の仕方は、先に見たa系に出てくる御息所や朝顔の出て来かたに比べると、全然不自然ではなく、また紫の上や明石の方、あるいは藤壺の宮といった、その後の主要なヒロインがこの帖で登場していることを見ても、彼が当初からこの物語の主要な登場人物の一人として、想定されていたのは間違いないでしょう。とはいえ、今ある順序で読んだ場合の内大臣(頭の中将)の肖像と比べると、いささかその印象が霞んで見えるのは、まあしょうがない。 もうだいぶ前になりますが、彼については(源氏1000年 22~25)で、光源氏の貴種意識に対する世俗の代表としての彼の位置づけに言及したので、できるだけ繰り返しにならないように話していきたいのですが、さて振り返って今度はb系物語だけを拾い上げて「帚木」から「玉葛十帖(~真木柱)」まで読んでいった場合、通底するのは、すべてが内大臣(頭の中将)絡みの話なのではないか?ということなのです。注意しないといけないのは、これらが内大臣が主役の物語ということではなく、陰に陽に彼が関係した人物たちの物語なのではないか。 であれば、「槿(あさがお)」の帖のあと、いったん時系列をさかのぼって傍系の話をし、再び本編の時代に戻ってきて、この帖の後に連結した、という前回話した仮定をこれは補強する論拠になるのではないか。このあとの物語が「玉蔓十帖」と一般に称せられたことで、何かこれら傍系物語は玉蔓が主役の物語と捉えられてしまったきらいがあります。そうなると「帚木」から「玉葛十帖(~真木柱)」までのb系物語は、a系「桐壺」以下、光源氏が准太上天皇に昇段する「藤裏葉」までの物語が完結してから、まとめて書かれてしかるべく挿入されたということになってしまいます。 しかしいずれ「玉葛十帖」でも話していくわけですが、これらの物語は内大臣や夕霧や若き柏木まで含んだ群像劇なので、決して彼女と源氏の二人が主役の物語ではありません(まあ、そのぶん話の展開が冗長になったり、散漫になったりしているのは否めないのですが)。 これらを内大臣系の物語と捉えれば、「帚木」から始まったb系物語は、まさしくこの「乙女」の帖でa系と交差し、もとの時系列に戻ってきたと思えるのですが。― おとゞ、太政大臣にあがり給ひて、大将、内大臣になり給ひぬ。世の中の事ども、まつりごち給ふべく、ゆづり聞え給ふ。人がら、いと、すくよかに、きらきらしくて、心用ひなども、賢くものし給ふ。学問を、たててし給ひければ、韻塞(ゐんふたぎ)には、まけ給ひしかど、おほやけごとに、かしこくなむ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の君は、太政大臣に昇段なさり、大将(頭の中将)は内大臣におなりになった。(源氏の君は)世の万端の、政務を司られるように、(内大臣に実務全般を)お譲りなさった。(内大臣は)気質が、たいへん、真っ直ぐで、(いくぶん)派手派手しいが、気配りも、如才なくこなされる。学問も、しっかりなさっているので、(かつての)韻塞(の競い合い)では、(源氏に)負けなさったが、(世俗の)政事に関しては、(ことのほか)優れていらっしゃる。― つづく ―
2009.09.22
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さてこのあと、しばらく政治向きのことが語られます。― かくて、后ゐ給ふべきを、 「斎宮の女御をこそは、はゝ宮も、「御後見」と、ゆづりきこえ給ひしかば」と、おとゞも、ことづけ給ふ。源氏の、うちしきり、后に居給はん事、世の人許し聞えず。「弘徽殿の、まづ、人よりさきに参り給ひにしも、いかゞ」など、うちうちに、こなた・かなたに心寄せ聞ゆる人々、おぼつかながりきこゆ。 … とりどりに、おぼし争ひたれど、猶、梅壷、ゐ給ひぬ。御さいはひの、かくひきかへ、すぐれ給へりけるを、世の人、おどろき聞ゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) さてそろそろ、(冷泉帝の)中宮を決めるべき時期ではあるが、「斎宮の女御こそは、母宮も、『(帝の)御世話役として(もっとも相応しい)』と、(私に)言づけておいででしたから」と、源氏の君は、(藤壺の宮の御遺言に、かこつけて)ご推薦なさる。(しかし)皇族系の血筋が、(藤壺の宮に)引き続いて、中宮にお立ちになるのを、世間の人々は納得しない。「弘徽殿の女御こそ、まず、他の誰よりも早く入内なさったのだから(相応しいのでは、と思いますが)、どうでしょう」などと、内々に、こちら方、あちら方に心寄せなさる人々は、気を揉んでいらっしゃる。 … (双方)さまざまに、策して争われたが、結局、梅壷(斎宮の女御)が、立后されることに決した。(御母、故御息所に比べて)ご幸運の、このように打って変わった、お強さに、世間の人々は、驚き入るばかりである。 このかん、紫の上の父で故藤壺の宮とは兄弟であった兵部卿の宮(今は式部卿)が、やはり皇族系の娘を入内させていて、立后を策したりするのですが、結局源氏と故宮の思惑通り、斎宮の宮が中宮になる。このあたり、紫式部は筆を多くは割きませんが、間違いなく相当の駆け引きや政争があったはずなのです。 兵部卿はかつて右大臣派からの源氏の官位剥奪の陰謀や、冷泉現帝の東宮であったとき、その廃絶と新東宮擁立に加担ないしは容認した疑いがあって、源氏の怒りをかっていたのですが、今はそれでも式部卿に昇段してしかるべく遇されている。とはいえ、ここへ来てまたしても、皇族系ということなら、わが娘を、とばかり立后を画策するというのは、自身の顔が見えない人間のつらさと言うか、浅ましさを示していて、要はこれが殺伐たる世俗の世界の権力闘争であるということが分かっていない。 ここの立后争いで、斎宮(源氏派)と弘徽殿(左大臣派)の関係というのは、皇孫と世俗世界の争いの構図なので、光源氏と頭の中将は、それぞれのアイデンティティー(存在理由)をかけて争わざるを得ない。かつての盟友であっても、立場が一族とか組織とか集団の代表となったとき、私情は差し置いても相手は蹴落とさないといけないのです。このあたりの人間の気組みというのは、式部卿のように皇孫であることを所与の前提でしか、捉えることの出来ない人には、しょせん想像外のことであったでしょう(源氏にとって、貴種の血筋というのは、所与のものではなく、日々の振るまいによって、その都度維持されるものだったのです)。 紫式部が、ことさらにここの争いごとを語らないというのは、もちろん女は政事に口を出さない、という不問律を守ったからですが、最後の「 … とりどりに、おぼし争ひたれど、猶、梅壷、ゐ給ひぬ。御さいはひの、かくひきかへ、すぐれ給へりけるを、世の人、おどろき聞ゆ」という一行で、この斎宮の立后が、世間的に見ても相当意外な結果であったことを暗示していますね。意外な、ということは、とりもなおさず、源氏側からの相当生臭いプッシュがあったことを示しているので、この物語が源氏方の女房たちが聞いた話、として語られる以上、その本体が明かされることはありません。 そういう意味で「源氏物語」というのは、お側付きの女房が身も具も語った客観的な物語というよりは、大幅に光源氏側に肩入れした物語なので、彼の振るまいで中味がヤバそうな部分は、厳密に筆が省かれるという仕儀に相成ります。これがもし「頭の中将物語」であったら、たぶんここの部分はまったく別の語られかたをしたことでしょう。 以下話する中味は、頭の中将(現右大将)の話で、この左大臣派の若き統領、ここの「乙女」の帖ではずすわけには行きません。― つづく ―
2009.09.21
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しかしこうした教育パパのスパルタ教育は、夕霧本人にははなはだ不可解で、腹の立つ指図であったわけで、1000年前の「親の心、子知らず」のさまが描かれます。― 大宮の御もとに、をさをさまうで給はず。「夜昼、うつくしみて、なほ、児のやうにのみ、もてなし聞え給へれば、かしこにては、え物習ひ給はじ」とて、しづかなる所に、こめたてまつり給へるなりけり。 「一月に三度ばかり、まゐり給へ」とぞ、ゆるし聞え給ひける。つと、籠もりゐ給ひて、いぶせきまゝに、とのを、「つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位にのぼり、世に用ゐらるゝ人は、なくやはある」と、思ひ聞え給へど、大方の人がらまめやかに、あだめきたる所なくおはすれば、いとよく念じて、「いかで、さるべき文ども、疾く読みはてて、まじらひもし、世にも出でたたん」と、思ひて、たゞ四五月のうちに、史記などいふ文は、読み果て給ひてけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (それ以来、夕霧は)大宮のもとには、ほとんどお出かけなさらない。(源氏の君は)「(大宮は)夜昼いとまなく、(夕霧を)可愛がって、(まるで)まだ、子供のように、お取り扱いなさっているので、あちらでは、とても(まともな)勉強はお出来になるまい」ということで、静かな(二条院の)勉強部屋に、お籠もらせになったのである。「月に三回ばかりなら、(大宮のところへ)参ってもかまわないよ」と、(源氏は夕霧に)お許しになった。(しかし、夕霧は)ずうっと、籠りっきりになって、腹ふくれるままに、殿に対して、「ひどいことをなさるものだ。こんな苦しい目をしなくても、高位に昇って、世に重んじられる人は、(いくらでも)いないわけではないだろうに」と、お思いになるが、(そこは)もともとの気質がマジメで、浮ついたところがないお人柄であったので、ことさらよくガマンして、「とにかく、しかるべきテキストを、早くマスターしてしまって、人とも付き合い、世間にも打って出よう」と、思って、そこそこ四、五ヶ月のうちに、史記のような漢籍を、読んでおしまいになった。 先日の大宮との会見で、源氏は彼女の夕霧に対する溺愛ぶりを、すっかり見切っているので、上のような夕霧への指示となるのです。 息子のほうは左大臣家の大宮(祖母)のもとで、大勢の頭の中将の息子たちといっしょに育てられていたのですが、大宮は取り分けて源氏と故葵の上の子、夕霧を可愛がってきたらしい。居心地のいい大宮のもとから離されて、自分だけがなぜ他の人と違うことを、と思っていても、父たる光源氏の眩いばかりの威光に、息子は逆らえない。しかしであるなら、とにかく面倒くさいことはサッサと済まして、一刻も早く娑婆に打って出よう、という発想は、いかにも恵まれた家庭の家庭教師つき私学の秀才という感じで、今どきでも一部富裕層に多く見られるタイプですね。 この夕霧というタイプ、後々才覚もあり気配りもよく利くということで、世間的には絶対失敗しないだろうエリートの人生を歩むのですが、その分どうしても父の光源氏のような、眩くも危ない光彩は感じられない。出来はいいけれども、物語的にはまるで面白味のない人物なのです。まあその先にはすごいドラマが待っているのですが。 父の期待通り、夕霧は大学への寮試も一発で合格して、いったん話は落ち着きます。― つづく ―
2009.09.20
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しかしよく考えてみると、この夕霧に字(あざな)をつける儀式を企画し、臆する博士たちに「なだむることなく、きびしう行へ」と指示したのは他ならぬ源氏であって、並み居る上臈たちに馴れない儀式の相伴をさせたのも彼でしょう。 このあたり何となく、光源氏の上臈たちに対するスタンスも感じさせるので、学問を軽んじて何の痛痒も感じず、既得権益に浴している上達部、殿上人たちは、彼から見れば文章博士と同様に哂うべき存在なのです。その点では彼は紫式部の思いを体現しているわけで、彼女は光源氏といっしょに「御簾のうちにかくれて」博士たちを笑う上臈たちを哂っているのです。 紫式部が漢籍に通じていたことは周知の事実で、彼女がそれらを世俗の道具としてではなく(それらはむしろ女には有害とされていました)、いわば純粋な好奇心と楽しみで親しんでいたというのは、かえって漢籍をさまざま目的化せずに読めたということで、その面白味や思想的な奥行きを相当程度つかんでいたのではないか。 1000年前の日本にとって、大陸とは(今どきの西欧文明と同様の)世界文明そのものであり、しかもそれは大和政権誕生以前から国家としての自意識に、少しずつ目覚めてきた日本にとって、おそらく600年以上お付き合いしてきた文明なのです。我々が西欧文明に親しんで200年に満たないことを考えると、この世界文明の圧倒的な奥行きと幅広さというものが、現状の平安の世で簡単に太刀打ちできるような代物でないことは、聡明な頭をもって漢籍に親しんだ人であれば、すぐ気付いたことでしょう(道真の遣唐使廃止というのは、そういう意味でも文明史的な鎖国ということではなく、ひらたく言えば「費用対効果」の計算から行なわれたのでしょう)。 そういう彼女から見れば、漢籍のような基本の学問を(今どき英語教育が、ほとんど学習の必須科目であるように)ないがしろにする上臈たちも、古びた権威だけにすがる文章博士(外人に通じない英語をしゃべる英語教師?)と同様に、笑い飛ばすしかないのです。ここのくだりに、そうした皮肉が込められているのに気付いた上達部、殿上人などがはたしていたのかどうか? 彼女が先に、源氏に夕霧の教育方針について「才を本としてこそ、大和魂(やまとだましひ)の、世に用ゐらるゝ方も、強う侍らめ」と語らせた「大和魂」の意味するところは、皮相な国風に浸っている摂関家の現在では、とてももともと持っている日本人の資質というものは、磨かれない。「和魂洋才」ならぬ「和魂漢才」のススメを示唆しているようにも思えるのですが? ― 思わぬ深読みになってしまいました。 さてそうして、内心文章博士たちをバカにしているふうな光源氏ですが、表向きはきわめて政治的に振るまって、それまで干されてきた彼らを手厚くもてなす。世俗の世で子孫が繁栄できる体制作りに、手を抜くことはしません。― うちつゞき、入学といふことを、せさせ給ひ、やがて、この院のうちに、御曹司つくりて、まめやかに、才深き師に、あづけ聞こえ給ひてぞ、学問せさせたてまつり給ひける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 引き続いて、入学の礼を、おさせになって、そのまま、二条院(源氏の自邸)の内に、御曹司(勉強部屋)を造って、学識深い師に、(夕霧を)預けなさって、(厳しく)学問をおさせになる。― つづく ―
2009.09.19
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こうした情景は、あるいは紫式部自身も宮廷で見たのかもしれません。それにしても彼女の文章博士たちに対する筆致は辛辣で、滑稽めかして書いているのは明らかで、ここには彼女の意図がありそうです。博士たちが咎めたて、こき下ろすというのは、― 「おほし、垣下(かいもと、相伴の客)のあるじ、甚だ非常(ひざう)に侍りたうぶ。」「かくばかりの、しるしとあるなにがしを知らずしてや、おほやけにはつかうまつりたぶ。甚だをこなり」などいふに、人々、みなほころびて、笑ひぬれば、また、「鳴り高し。」「鳴り止まむ。はなはだ非常なり。」「座をひきて、立ちたうびなん」など、おどし言ふも、いとをかし。 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「だいたいが、相伴役の主たち、はなはだ無作法でござるぞ」「これほど、著名な私を知らずして、朝廷に仕えなさるとは。まったく笑止千万でござる」などと(文章博士が)言うので、人々が(ガマンできずに)、皆吹き出して、笑うと、また(別の博士が)、「喧しいですぞ」「静粛になされい。まったくもって無礼でござる」「座を立って、出て行かれませい」などと、偉そうに言うのも、本当に面白い。 … ここの「おほし」だの「甚だ」「非常(ひざう)」「たうぶ(給ぶ)」などという言い回しは、当時でも文章博士たち(儒者)のみが使った言いかたである由(山岸徳平校注より)で、見物に来た満座の上達部たちの爆笑を買う。 今どきのお役人がやたらと専門用語を振り回したり、かつてはお医者さんがカルテをわざわざドイツ語で書いたのと似ている気もしますが、ここでの用法はむしろ業界用語的うさん臭さを感じさせないでもない。彼女はそのあたりの精神の貧しさを見逃しません。 … 見ならひ給はぬ人々は、「珍しく、興あり」と思ひ、この道より出で立ち給へる上達部などは、したり顔にうちほゝ笑みなどして、「かゝるかたざまを、おぼし好みて、心ざしたまふが、めでたき事」と、いとゞ限りなく思ひ聞え給へり。いさゝか、もの言ふをも制す。なめげなりとても、とがむ。かしがましうのゝしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか、いま少し、掲焉(けちえん)なる火影に、猿楽がましく、わびしげに、人悪ろげなるなど、さまざまに、げに、いとなべてならず、様異なるわざなりけり。おとゞは、 「いと、あざれ、かたくななる身にて、喧騒(けうさう)し、惑はされなん」 と、のたまひて、御簾のうちにかくれてぞ、御覧じける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) … (日頃)見馴れなさってない人々は、「珍しくて、面白いな」と思い、こうした(大学寮の)コースから立身された上達部などは、得意気に微笑みなさって、「(源氏の君が)このような(学問の)道を、ことのほか好まれて、(息子の夕霧を、入学させようと)思い立たられたのは、結構なこと」と、ますますご敬服なさる。(博士どもは)ほんの少し、私語をしても制止する。無礼とばかり、咎め立てる。(そうして)やかましく罵っている(博士どもの)顔は、夜になって、かえって、いま少し、際立って灯る火影で、猿楽のお面のように、貧相で、人品の悪そうな様子など、それぞれ、本当に滅多とない、例のない仕儀である。(源氏の)大臣は、「まことに、(私は)不体裁なうえに、頭の固い人間なので、(そのように)騒々しく言われては、まごつくだろうから」と、おっしゃって、御簾の内に隠れて、ご覧になっている。 というわけで、人々をこき下ろす文章博士たちを、紫式部はさらに徹底的にこき下ろしているのです。辛辣さ加減では、この前の「薄雲」で登場して、冷泉帝に出生の秘密をチクッた、僧都を描いたときの筆致にも似ていますね。― つづく ―
2009.09.18
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ところで、ここのくだり、私は何となく紫式部云うところの学問、すなわち漢学に対する思いを込めたようなニュアンスを感じるのです。 彼女より100年ほど前の寛平六年(894年)、例の菅原道真が遣唐使を停止して以後、いわゆる国風文化が繁栄したとされるのですが、実体的には大陸との交流がいっさい遮断されたわけでもないし、道真以前が必ずしも大陸風一辺倒ではなかったことも知られています。この国風文化というのは藤原一門の摂関政治と一体で、天皇の外戚たるに血筋の娘を入内させることが重要だったため、いわゆる女房文化が花開いたわけで、その手段としての仮名文字の普及というのはとても重要だったのでした。 律令制の機関のひとつとして奈良時代(728年)に設置された式部省のもとに、大学寮が置かれ官吏養成に関する教育と事務を管掌したのですが、そこに属した文章博士(もんじょうはかせ)とは、もっぱら漢詩文と史書を教授した教官で、当然宮廷内でも古体な大陸風を重んじていたでしょう。 ところで遣唐使停止後も、仮名文字は正規の文字とは認められずに、表向きの公用語としては真名文字(漢字)が重用された宮廷ですが、摂関家の支配が100年にも及ぶと、当然制度疲労のようなものが出て来てきたのではないか、と考えられるのです。摂関政治とは文字通り血筋と権威によって権勢を振るう政治形態であり、道真のような英明であっても政治の枢要に携われないということであれば、当然大陸の文化や制度を教える大学寮の位置づけは軽くなったでしょう。血統やそれに追従する政略が幅を利かせる世であってみれば、貴族たちの学問に対する態度が軽くなっていくのは必然で、以下語られる文章博士の描き方や、彼らを見る殿上人の目は形骸化した制度を、強烈に戯画化していて興味深いのです。 光源氏は夕霧に、大学寮の規則にしたがって、字(あざな、漢学を学ぶ際に、名前につける良い字、例えば文屋康秀なら文琳 山岸徳平校注、岩波文庫による)をつける儀式を行なうのですが、もの珍しい儀式とあって上達部、殿上人などが我も我もと見物にやってくる。源氏は臆する博士どもに、― 「憚るところなく、例あらんにまかせて、なだむることなく、きびしう行へ」と、仰せ給へば、しひてつれなく思ひなして、家より外に求めたる装束どもの、うち合はず、かたくなしき姿などをも恥なく、おもゝち、声づかひ、むべむべしくもてなしつゝ、座につき並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。若き君達は、え堪へず、ほゝ笑まれぬ。さるは、「物笑ひなどすまじく過ぐしつゝ、静まれる限りを」と、選り出だして、瓶子(へいじ)なども取らせ給へるに、すぢことなりけるまじらひにて、右大将・民部卿などの、あぶなあぶな、かわらけ取り給へるを、あさましく咎め出でつゝ、おろす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「遠慮せずに、しきたりに従って、容赦なく、厳しく行なえ」と、(源氏の君が)おっしゃっているので、(文章博士どもは)強いて何気なく装って、よそから借りてきた装束を、様にならないまま、ぎこちないのも気にせずに、顔つきや、声使いなども、しかめつらしく振るまって、着座して居並んだ様子は、(本当に)見たこともない雰囲気である。(見物している)若い君達は、ガマンしきれずに、笑ってしまう。であるから、「(軽率に)笑ったりせずにガマンできるような、落ちついた(年配の)人だけを」と、選び出して、(儀式の)酌も取らせなさったのだが、(なにしろ)いつもとは勝手の違う席なので、右大将(頭の中将)や民部卿などが、危なっかしく、盃を受けなさるのを、(文章博士どもは)あきれるほど咎めて、こき下ろす。― つづく ―
2009.09.17
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さて、源氏の大宮への述懐めいた長話は、まだまだ続くのですが、教訓めいた道徳話なので端折ることにします。ただその話のおわりに、― … 猶、才を本としてこそ、大和魂(やまとだましひ)の、世に用ゐらるゝ方も、強う侍らめ。さしあたりては、心もとなきやうに侍れども、遂の、世のおもしとなるべき心おきてを、ならひなば、侍らずなりなん後、うしろやすかるべきによりなん。 … 」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) … 結局、(しっかりした)学問の土台があってこそ、もともとの資質が(生かされて)、世に用いられることも、大いに出てくるのでしょう。さしあたって、心もと無いようにも思うかもしれませんが、将来、世の重臣となるべき心がまえを、(今)習っておけば、(私が)亡くなって後も、向後の不安を抱くことなく(過ごせるでしょう)。 … 」 ここの「大和魂」という用語は、史料的に認められる、この用語が使われた最初の例なのだそうです。しかし意味するところは今とだいぶ違って、山岸さんの校注によれば、「常識的な判断、良識」の意となっていますが、ちょっと私なりの解釈を加えました。なんとなくこの用語に、紫式部がニュアンスを込めたように思うからですが、その話はもう少しあとにします。 源氏の整然とした話に、大宮はため息を付きつつ、― 「げに、かくも、おぼしよるべかりけることを。この大将なども、「あまり引き違へたる御事なり」と、傾(かたぶ)け侍るめるを。この幼心地にも、いと口惜しく、大将・左衛門の督の子どもなどを、「われよりは下臈」と、思ひ貶(おと)したりしだに、みな、おのおの、加階し昇りつゝ、およすげあへるに、浅葱(あさぎ)を、「いとからし」と、おもはれたるが、心苦しう侍るなり」と、きここえ給へば、うち笑ひ給ひて、 「いと、およすげても、恨み侍るなりな。いと、はかなしや。この人の程よ」とて、「いと、うつくし」と、おぼしたり。 「学問などして、すこし物の心も得侍らば、その恨みは、おのづから、解け侍りなん」と、きこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「なるほど、そこまで、お考えになっていらっしゃったのですね。(しかし)うちの大将(頭の中将)なども、『(それは)あまりにも例の無いなされようだ』と、首を傾げておいででした。(他ならぬ夕霧自身も)子供心とはいえ、大変口惜しくて、大将や左衛門の督の子供など、『自分よりは身分が下』と、思い貶めていたのが、(その子達は)皆、それぞれ、昇段し、大人びているのに、(我が身だけは)浅葱色(という六位の低位)なのを、『本当に辛い』と、思ってらっしゃるのが、可愛そうでなりません」と、おっしゃるのを聞いて、(源氏の君は)微笑なさって、「ずいぶん、生意気な、怨みごとを言ったものだな。あ~あ、たわいないことよ。この子の歳頃というのは」と云い、「(それでもそれは)とても、可愛いことだけど」と、思われる。「学問などをやって、少しでも物の道理も心得たなら、そんな恨みごとなど、自然と、消えて無くなるでしょう」と、おっしゃる。 源氏は落ちついたものです。― つづく ―
2009.09.16
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ピカレスク小説(Picaresque novel)とは、悪漢小説、悪童物語とも訳され、閉塞化した大人の社会を初心な若者ないし少年が、大人の側から見れば不道徳極まりない方法で、快刀乱麻その矛盾を暴きたてて行く、といった文学的手法の一つで、今でもよく書かれますね。 その淵源をたどると、例えばスサノヲノミコトのような天地の秩序破壊者(Trickster)に行き着くかとも思われ、スサノヲの場合は明らかにヤマト政権誕生の前提として、古い混沌世界を破壊しつくして、新しい秩序を創生するという「死と再生」の社会的ダイナミズムが、根底に働いているのですが、もちろん1000年前の平安の都も60年ほど前のニューヨークも、すでに神話が生きていた古代社会ではないので、彼らはピカレスク的振るまいにならざるを得ない。言い換えるとスサノヲがいわば社会的要請によって秩序破壊を試みるのに対し、光源氏やコールフィールドは厳密に個人的必要によって、偽悪的振るまいを繰り返すのです。 もともと体制批判とか、社会風刺の色合いが濃かったピカレスクの手法が、いつしかむしろ鋭敏すぎる主人公の振るまいかたのほうに、関心が移っていったというのは、どうもその時々の社会や文化の成熟度に関係しているようで、社会の成熟の極みは同時に精神の閉塞感を生み出すのです。 紫式部が、今の世の秩序破壊者であり得るという、光源氏の本質をどこまで意識していたかどうか。あるいはそのかすかな点滅だけでも、彼女は見止めていたのかもしれません。もし彼女が今どきと同じような批評的な目を鮮明に意識していたなら、我々は光源氏という怪物的振るまいの人物が、どのようにして出現したか、という現場に立ち会うことが出来たのかもしれないのです。 前にも少し触れましたが、「光源氏」という命名は、すこぶる普通名詞に近い語感があって、この人物が一種の典型化された(したがって現実には存在しない)人物像であるのは、当時の読者も知っていたでしょう。ただしそれが古物語に出てくるような夢物語の主人公ではなく、まさしく平安の今の世に現れた怪物であるということに、どれほどの読者が気付いていたか?昔風のカッコイイ王子の意匠を施されて、一見そのままで読み了せてしまいそうな語り口の裏側に、一世限りという源氏姓を許された男の、物狂わしい心の葛藤があったかもしれないことに、どれほどの読者が気付いていたのでしょう? 十七歳以降、克明に描かれた彼の振るまいには、少年期の悪童ぶりの余韻が、親友の頭の中将などとのさまざまなやりとりで読み取れるので、「若紫」(十七歳)以降、須磨流遇の憂き目にあう「賢木」(二十五歳)までの話は、見ようによっては、あり得るべきだった悪童物語の後日譚のような感じがしないでもないのです。それによってあぶり出されて来る宮廷秩序の本質のようなものは、現実が牢固として動かしようのない身分社会であっただけに、当時の宮廷詰めの女房や下郎にとっては、拍手喝さいものの話ではあったでしょう。 とはいえ、彼がなぜ最終的に義理の母を犯すことになったのか(丸谷さんは、それを「帚木」の冒頭、物忌みで御所に宿直で籠もっていた前の日だろう!?と喝破されますが)、その淵源をたどっていくと、どうしても父桐壺帝に対する少年時代の、内心の葛藤に行き着かざるを得ず、これはやっぱり彼女にとっても語り難いことではあったのかもしれません。 以上、空白の五年間をあれこれ推測して、ヨタ話でした。― つづく ―
2009.09.15
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どういうこだわりかと言えば、彼は故桐壺帝に対して、父としても主上としても、かぎりなく畏敬は払いながらも、こと我が身に対する帝の取り扱いに対しては、教育その他について、決してすべてを納得していたわけではないのではないか、ということです。 先に挙げた「絵合」の帖の、光源氏の述懐の中にある、故帝の「品高く生まれ、さらでも、人に劣るまじき程にて、あながちに、この道、な深く習ひそ(身分高く生まれて、才学によらないでも、人に劣らないで居られるのなら、強いては、この(学問の)道を、深く究めようとはするな)」という教えで、そこでも触れましたが(絵合 10.)、これは王家の考えかたなのです。臣籍降下して親王の立場を去った光源氏にとって、世間を渡っていく唯一の寄る辺といえば、我が血筋の高貴さしかなかったわけで、その演出というか芝居染みたと言えば、ちょっと源氏がかわいそうですが、彼の振るまいには、おそらく相当な苦心があったと思われるのです。 で、そうした高貴な血筋という演出が通用するのが、源氏姓一代限りであることも彼は良く知っていたので、息子が産まれた時以降、彼は相当早くから、言ってみれば市井の人になるべき、我が子の世間を生き抜くための振るまいかたについて、いろいろ考えていたのかもしれません。これは見かたを換えれば、自身の振るまいかたは我が身一代で終わりということであって、そこにはまことに漠寂とした孤独感のようなものが、あったかもしれませんね。 話は別ですが、ずうっと先に出てくる、彼の直系の孫である匂の宮は、この点を最後まで理解していませんでした。一代目はどんな成功も失敗も、結果はどうであれ、すべて本人のオリジナル(どんな恥さらしな話でも)ですが、二代目以降がその血筋だの権威だのをなぞって、同じような振るまいをし出したら、それらは仮に成功したとしても、すべて結局周囲からは、まやかしにも滑稽にも見えてしまうのです、しかしまあこれは先の話。 夕霧には当然こうした父の計らいの真意など、理解できるわけもなく、若さの特権でしばらく恨んだりもするのですが、これは一種の反抗期でしょう。私はここを読んでいて、むしろその反射程としての光源氏の十代というか、青春が逆に浮かび上がってくるような気がするのです。彼の元服から十七歳あたりまでの、いわば人間形成期というのは何度も云うように、なぜか空白になっているので、ついつい想像をしたくなります。 もうすでに十七歳ごろに、彼が六条御息所や朝顔の宮に懸想し、なかんずく父妃である藤壺の宮に天下第一の禁止を破って、強引な契りを結んだであろうことは何度も触れました。しかし彼をして、このようなアブノーマルな振るまいに駆りたてたものが何であったか、源氏物語は一言も語っていないのですが、このあと語られる夕霧と雲井の雁との、本人たちには悪いですが多少児戯じみた恋愛劇に比べれば、おそろしく反社会的な、あるいは肥大化した誇大妄想、律しきれない情念の噴出のようなものが、帝側去らずで育まれた光り輝く御子にはあったはずなのです。 この部分がもし描かれていたとするならば(想像ですよ)、ひょっとすると1000年前の宮廷を舞台とした、一大ピカレスク物語が出来上がったのではないか?ホールデン・コールフィールドが十六歳の傷つきやすい心で、大戦後のニューヨークを彷徨したように。― つづく ―
2009.09.14
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「わが心にまかせる世にて、しか、ゆくりなからんも、なかなか、目馴れたる事なり」とは、源氏自身の現在の立場と気持を現しているので、「今の自分の権勢ならば、いつでも好きなように出来るが、私はそれを敢えてしない」と言っているわけです。当然周囲の人たち、なかんずく夕霧の育ての親である左大臣家の大宮は、すっかり戸惑ってしまう。 以下、彼女の泣訴に対する源氏の答えは、須磨流遇からの復帰後、政界での権勢を深めていった彼が、いつぞやの「絵合」の競い合いで大勝したあと、祝宴で弟の師(そち)の宮に語った、我が身の述懐を思い起こさせるものですが、長いので四つほどに分けますと、まず夕霧の教育方針について、― 「たゞ今、かう、あながちにしも、まだきに老いつかすまじう侍れど。思ふやう侍りて、「大学の道に、しばし習はさむ」の本意侍るにより、今二、三年を、いたづらの年に思ひなして、おのづから、おほやけにも仕うまつりぬべき程にならば、今、人となり侍りなん。 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「今、このように、急いで、無理無理大人びさすこともないのですが(あえて元服させました)。(というのも、私には)思うところがあって、(息子には)『大学の道を、しばらく習わせよう』という願いがございまして、ここ二、三年は、位階には縁のない期間とみなして、そのうち誰が見ても、朝廷に伺候できるほどの器量になれば、その時こそ、一人前になったということで(しょう)。 … 大学寮というのは、山岸さんの校注によると、入学年齢が九歳から一三歳までで、光源氏は夕霧を、今このまま元服させて、大人として世俗の道に入らせるまえに、しばらく専門的な漢籍の知識を習わせようとしたのです。本来は就学期間は九年間らしいのですが、夕霧はあくまで特別扱いで、「今二、三年」と源氏は考えているようです。元服を急いだのは、入学年齢の上限が迫ってきたからでしょうか。 つづいてその真意に絡めて、自身の受けた教育や考え方を語り、めずらしく自身のことを長々としゃべっていますね。― … 身づからは、九重(ここのへ)の内に生ひ出で侍りて、世の中の有様も知り侍らず、夜昼、御前にさぶらひて、わづかになん、はかなき文なども、習ひ侍りし。たゞ、かしこき御手より伝へ侍りしだに、何事も、広き心を知らぬほどは、文才をまねぶにも、琴・笛の調べにも、功足らず、及ばぬところの、おほくなん侍りける。はかなき親に、賢き子の、勝る例は、いと難きことになん侍れば、まして、つぎつぎ伝はりつゝ、へだたたりゆかむほどの行くさき、いと、後めたきによりなん、思ひ給へおきて侍る。 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … 私自らは、九重の宮中で生い育ちまして、世間のことも知り申さず、昼夜、御前に仕えておりましたので、わずかに、漢籍の端くれも、学んだばかりでございました。もっぱら、畏れ多き(故桐壺帝の)手ずからお教えいただいたのですが、何につけても、世間を広く見知らぬ間は、学問を学ぶにも、琴・笛の(ような管弦の)奏法についても、努力が足りず、至らないところが、多くございました。つまらない親と言えども、出来の良い子が、(その親に)勝るという例は、(学問なしでは)まことに難しいことでございまして、ましてや、次々代を重ねて、時が隔ったような行く末は、たいへん、気がかりで、(だからこそ、こうして息子には、きちんとした学問をさせよう)と心に決めていたのでございます。 … ここの源氏の話は、何となくどこかの漢籍の故事をなぞったような、道徳臭いところがあるのですが(彼に道徳は、あまり向きませんね)、それでも自身の育ち方を省みて、息子の育て方に関しては、以前からある種のこだわりがあったようです。― つづく ―
2009.09.13
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「ヲトめ」とは、もともと「ヲトこ」に対応する古代語で、「乙女」という漢字は後からの当て字です。「ヲト」は、動詞「ヲ(復)ツ」と同語源で、若々しさを意味するらしいのですが、同じような古語で「ムスめ⇔ムスこ」のような用法があり、この場合の「ムス」とは「草ムス」とか、古事記の「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」のように、自然の生産力を言祝ぐ言葉の後ろに、男女の性別語を充てているのです。 この帖が「少女」と記されることもあるように、「ヲトめ」には年の若い女、未婚の女性、処女といった意味があるのですが、この帖では左大臣家の娘、雲井の雁のことを指していますね。それは同時に息子や娘がどんどん成長して、時代が進んでいく様も暗示しているのでしょう。 さて、光源氏の一人息子夕霧(実際は冷泉帝と二人ですが)は、左大臣家の葵の上との間に生まれて、彼女が出産直後死亡した後、そのまま母の里方の祖母(大宮)のもとで、育てられていたのですが、十二歳になって元服を執り行なうことになります。このあたり、平安時代というのは表向き大陸伝来の男系社会でありながら、実体的な社会の仕組みは、まだまだ古代以来の母系制の色合いを残しているので、子供の養育とか資産の相続とかは母方の家で行われたようです。 このへんは大陸の律令制が、儒教的思想に基づいた男系社会を目指していたのと矛盾するのですが、日本人というのは昔から建前(外面)としての仕組みと、実際の運用(内実)とを分けて考える指向性があるようです。朝鮮半島などでは、思想は完全に人の生活レベルの振るまいにまで浸透していて、私たちは今だにお互いの指向性の、基本的な違いに充分気付いているとは言えません。それがどのあたりから生じてきたものなのか、おおいに一考する値打ちがあるのですが、ここではその話はしません。 とはいえ、一人息子に対する光源氏の対応というのは、実は今までまったく語られていなくて、むしろ一人娘の明石の若姫の扱いについて、あれだけすったもんだしたのに比べると、ずいぶん距離があるような気がしますね。これは古代以来の日本の父と息子の、ある種緊張関係をも暗示しているような気もするので、父親は将来ライバルになり得べき息子に対して、ことさらな隔てを置いていたとも見ることができるのです。 光源氏の判断とは、― 大殿腹の若君の御元服のこと、おぼし急ぐを、「二条院にて」とおぼせど、大宮の、いとゆかしげに思したるも、ことわりに、心苦しければ、なほ、やがて、かの殿にて、せさせたてまつり給ふ。 … 「四位になしてん」と、おぼし、世の人も、「さぞあらん」と思へるを、「まだ、いと、きびはなる程を、わが心にまかせる世にて、しか、ゆくりなからんも、なかなか、目馴れたる事なり」と、おぼしとゞめつ。浅葱(あさぎ)にて、殿上に帰り給ふを、大宮は、「あかず、あさましきこと」と思したるぞ、ことわりに、いとほしかりける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の大殿の若君(夕霧)の御元服のことを、(殿は)お急ぎになっていて、「二条院(の自邸)で」と思っておられたが、(左大臣家の育ての親である)大宮が、(夕霧の元服を)たいへんご覧になりたく思っていらっしゃるのも、もっともなことだし、お気の毒でもあるので、結局、しばらくして、そちらの御殿(左大臣家)で、執り行なうことになさった。 … (源氏は、元服に際して、夕霧を)「四位の位になそう」と、思われ、世間も、「当然そうだろう」と思っていたのが、「まだ、とても、幼い歳であるのに、(今が)我が意のままになる世とばかり、このように、高位に叙すのは、かえって、月並みで(いかがなものか)」と、思い止まられた。(夕霧が)浅葱(あさぎ、六位)色の衣で殿上にお戻りになったのを(見て)、大宮は、「なんと、あさましいことよ」とお思いになるのは、もっともで、お気の毒なことではあった。― つづく ―
2009.09.12
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さて、「乙女(をとめ)」の帖に入るまえに、長々とおしゃべりをしたというのは、すでに話したように、その前の「槿(あさがお)」や「薄雲」の帖に比べて、文体や構成の印象がずいぶん変わった気がしたからで、私はその理由を紫式部が「槿」のあと、いわば個人的必要に迫られて、そのまま時系列にそった物語を続けることはいったん休止して、気分を変える意味で、傍系の物語を「求婚譚」を下敷きにして書き始めたのではないか。さらに彼女周辺からさまざま出ていたリクエストにも答える必要が出てきたのではないか、ということで、よけいな推測までしてきたわけです。 本来、話の筋としては、もし「求婚譚」を下敷きにしたというのなら、それは次の「玉鬘」の前こそ自然ではないか、という理屈は当然成り立つし、b系論者の方々にはa系物語完結後(「藤裏葉」まで)、これらはまとめて書かれた、という考え方が一般なようです。たしかにb系の物語は、単独で続けて読んでも(a系と同じく)、一つの長編(出来ばえは別として)と見なすことが出来るのですが、私は先にも触れたように、「乙女」の冒頭に朝顔の宮の話が再現されている点、それと「乙女」の文体や構成が「槿」までとずいぶん変わっている点を挙げて、あえてb系物語が「乙女」の前から書かれ始めたのではないか、と考え続けているのです。 もう少し突っ込んで言えば、少なくともb系物語のうち「帚木」「空蝉」「夕顔」のワンセットだけは、この時期に書かれたのではないか?(白状しますと、そのあとのb系とされる「末摘花」や「蓬生」「関屋」は、自信がないのです。これらこそ「玉鬘」十帖と並行して、周囲のリクエストに応じて、適宜書かれたのではないか、と今は思っているのですが)。 それらを考えていく意味でも、早く「乙女」の本体に入りたいのですが、その前にもう一つ「帚木」以下の三帖にみられる文章の印象で顕著なのは、前にも触れたような柔らかくて明晰な筆つきということの他に、プロット(場面構成)の巧みさが挙げられると思うのです。 どういうことかというと、a系が物語を進めていくついて、人と人とのもつれ合いを、もっぱら一対一の関係で描いていたのに対し、b系の物語はこの一対一のあいだに、もう一人の人間を放り込むことで、物語の展開に多様性を与えているように思えることで、その事例はこの前の引用の、光源氏と空蝉と小君のくだりを見ても明らかです。 これまでのa系の話で似たような場面がなかったか、いろいろ探してみますと、「紅葉賀」の帖での源典侍をはさんでの光源氏、頭の中将のすったもんだが思い出されますが、これは話の本筋とはあまり関係してこないですよね(関係がないのに、ここの場面が面白くて印象に残るのは、三人の人物の心理が錯綜して、その必然の結果として、それぞれの振るまいが描かれているからです)。それともう一つ、「賢木」の帖のくだり、例の朧月夜と光源氏の閨に、父の右大臣が闖入する場面がありました。ここもa系の話の中では、飛び切りそれぞれの個性が、気鮮やかに描かれて、とても印象に残りますね。 このときは期せずして用いられた(であろう)、こうしたプロットの面白味を、彼女は気分を変えたb系を描くにあたって、相当意識して使っているのではないか?「夕顔」の帖では、源氏と夕顔の主役のあいだに、惟光だの右近だのが参入して、主人公たちとほぼ同等の存在感で活躍しますね。どうも彼女の物語上手の秘密の一つは、この「三人め」の登場にあるようで、これはたんにいわゆる男女の三角関係だけでなく、物語の進行に拡がりと臨調感を与えるとともに、ある種の社会性を持たせることにもなっているような気がするのです。 家族を考えた場合に、兄弟が三人以上だと、子供同士のやりとりというのは、自ずと社会性を帯びざるを得ないでしょう。二人が対立したとき、三人めというのがキャスティングボート(決定権)を握っているように、そこには交渉だの予測だの威迫だのといった、いわば世間ではおなじみの、他人との付き合いの原型が詰まっているのです、今どきの少人数家庭(核家族)では望むべくもないのですが。 とはいえ、次回から見ていこうと思っている「乙女」の帖に、はたしてどのようにそうした(「帚木」以下の三帖のような)社会性が入ってきているのか?これをきちんと示さないと、私がくだくだしく話してきた仮定は、最初からすべて吹っ飛んでしまうことになりますね。― つづく ―
2009.09.11
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このあたりの議論というのは、ひとえに「帚木」以下の「空蝉」「夕顔」のほか「末摘花」や「蓬生」「関屋」といった、いわゆるb系の物語があとから書かれて、しかるべき時系列順に挿入されたという前提に立っています。しかし何度も言うように、これらがあとから書かれたであろうことは、たんに文体の問題だけでなく、かなり強力に論証できるので、要はそれがいつ頃から書かれ始めたのか、という最初の疑問に戻ってきてしまうのです。 というわけで、このプライミーバル的亀裂というか、時間の矛盾が、本当に実際に生じているのかということで、私はまたしても「桐壺」の帖から「葵」あたりまでを、b系を跳ばして走り読みしてしまうことになりました(ヒマですね!)。a系の「桐壺」「若紫」「紅葉賀」~のなかで、六条御息所と朝顔の宮がいつからどのようにして登場しているか、ということを確認したかったのです。a系の物語が語られる中で、この二人が不自然でない登場のしかたをしていれば、上のような時間の矛盾は生じないことになるからです。 で、実際にa系だけを読んでいて、面白いことに藤壺の宮、紫の上、明石の方の三人は「若紫」までにすべて登場していて、御息所と朝顔の宮については「葵」まで、一言も語られていないということでした。しかしこの二人については先のb系と同じく、その登場の仕方は唐突で「葵」の帖では、すでに周知の人物という語り出しなのです。それは「葵」の帖、始まってすぐ、― まことや。かの、六条の御息所の御腹の前坊(前東宮)の姫君、斎宮に居給ひにしかば、 … というのが、a系で御息所に触れた最初で、同じく朝顔の宮は、引きつづくくだりで、そうした御息所と源氏とのスキャンダルのうわさを聞いて、― かゝる事を聞き給ふにも、朝顔の姫君は、「いかで、人(御息所)に似じ」と、深う思せば、 … というのが最初になっていて、いずれもここで初めての登場とはとても思えない書きかたでしょう。 現在の私たちは、すでにb系の「帚木」以下の「空蝉」「夕顔」で、ヘンな登場のしかたと思いつつ、朝顔も御息所も知っているので、まあそんなものかと読み進んでしまいますが、もし仮に当時の読者がa系だけを初めて読んだとしたら、これではすっかり戸惑ってしまうでしょう。なにしろ今まで一度も語られていなかった人物が、いきなりもうすでに光源氏と深い関係があって、かたやは源氏の薄情けに愛想が尽きて、娘について伊勢下向しようかと迷っている。もう一方はそうした源氏の御息所に対する仕打ちを見て、極力彼からの想い掛けを避けようと考えている、というのですから。 となると、私たちはまたしても、かつて書かれて今や失われたとする「かかやく日の宮」という帖が、「桐壺」と「若紫」の間にあって、そこにはきっと藤壺、御息所、朝顔と光源氏の最初のアヴァンチュールが、描かれていたのだろう、という話に戻ってこざるを得ないのです。これはa系 b系関係なく、現在残っている「源氏物語」を読んでいても出てくる問題で、すでに何度も触れてきましたね。 あたりまえのことですが、紫式部は近代リアリズムの作法など知らなかったわけで、昔物語の作法であればそんなこともあったんじゃないの、と言われるかもしれませんが、a系物語が厳密に時系列に添って、ほぼ編年体式に描かれていて、さらにはb系の物語も後から書かれたとはいえ、厳密に時系列に挟み込まれるように書かれていることを見れば、彼女がこうした語り口における時間の矛盾を放っておくわけがない、という気がします。早い話、失われたとされる「かかやく日の宮」という帖の中味が、そこまで具体的に推測できるということ自体が、彼女の物語構想時の堅牢な論理性を感じさせるので、やっぱりそれはあったという意見に加担したいですね。 とはいえ、何度も言いますが、げんに無いものの中味を、ああだこうだと言っても、話はちっとも進まないので、この議論は今度こそここでおしまいにして、早く「源氏読み」の実況中継のほうに戻りたい、と思っているのですが、さて ― 。― 源氏1000年 「乙女」の前に おわり ―
2009.09.10
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軒端の荻(すごい命名ですね)というのも、描きかたによっては悲劇のヒロインになるべき立場なのですが、この帖の軽い感じを反映して、はなはだおおらかな性格を付与してあるので(ちょっと朧月夜の姫に似てますね)、私たちは安心して(バカな男=オスの)主人公を笑うことが出来るのです。このあと紫式部はちょっとワル乗りしたか、いささかビロウな話も出てくるのですが、そのあたりは本文を読んでください。 それにしても、古典もこういうテキストであれば、若いときもう少しマジメに取り組んだかもしれないのですが(しかるべき専門用語を、図書館のありとあらゆる辞典類で調べまくったように)、教科書というのは、どうしても古典だけでなく、一般に文章そのものを嫌いにさせる特性があるのかもしれません。まあ、だからと言って、上のようなパラグラフは、やはり教科書に載せるにはちょっとマズイのかもしれませんが。 さて、このように物事を自在に多面的に描き分けていく作法というのは、どうもこのb系の話をしだしてから顕著というか、自覚的に彼女は用いるようになったので、これまでも悲劇と喜劇を交互に書き分ける、というようなことはあったにせよ、物語の進行の中に悲劇と喜劇が、渾然と共存するような描きかたというのは、「空蝉」を中心とするb系の話から始まっているように思えます。片一方で軒端の荻との喜劇を描きながら、「帚木」「空蝉」全体のヒロインである空蝉にとって、ここの一連の話は悲劇なんですよね。 さて、私はここまで「帚木」以下の「空蝉」「夕顔」を、あとから挿入された光源氏の別伝という前提で話してきました。そしてさらにこの三つの帖が、a系「槿」の帖のあと書かれたのではないか、と仮定しているのですが、そうなるとちょっとヘンなことが起こってきますね。 もしそうだとすると、時系列的な並びかたは今ある「源氏物語」で、いちおう辻褄が合うものの、当時世に初めて出た「源氏物語」を読み続けていた人たちは、この物語(特にb系の話)をどんな印象で読み進んだのだろう、ということです。これを一種新聞小説や雑誌の連載小説のように、全体が完成するのを待たずに、順次同時進行で書かれていったものとして見た場合(その可能性は高い)、時系列がいったん光源氏の若いころに戻って、今まで伏せられていた裏話をする、ということは分かるにしても、「槿」までのa系物語の記憶は、当然しっかりと読者に留まっているわけです。 とすれば、「空蝉」につづく「夕顔」の帖冒頭、「六条わたりの御忍び歩きのころ、 … 」で始まる語り出しで、当時の読者はただちに六条御息所を連想したでしょう。と同時に、彼女が「葵」の帖で、凄まじい生霊(いきすだま)の劫火に焼かれた存在であったことも思い出すわけで、この一句だけで、ここの物語がただならぬ話になることが了解できたはずです。 しかしそうなると、私たちは今まで抱いてきた「源氏物語」の印象や構図がガラリと変わるのを、少なからず感じざるを得ないので、早い話、西郷信綱さんなどは、一回めの「夕顔」で仄かに、二回めの「葵」で気鮮やかな御息所の「物の怪」の登場のさせ方に、紫式部の天才を指摘されているのですが、当然それも(恐れながら)修正を迫らざるを得ないという仕儀になってしまいます。 ついでに言ってしまうと、空蝉の話で、彼女の居る中川の邸内の女房たちが、源氏のうわさ話をしている中に、朝顔の宮に源氏が送った歌の話が出ていて、今ある順番でこのくだりを読むと、ここで唐突に朝顔の宮がすでに源氏の想い者として語られるのは、これはどうみてもおかしい、という指摘は以前からあったのです。しかしこれまでみたように、いったん時系列をはずして、当時実際に読まれた(であろう)順番で読めば、朝顔の宮は、すでに「槿」他で、読者には既知の人物であったということになります。 しかしこれって、ひょっとすると「プライミーバルじゃん!」ということになってしまいますね。未来で知った出来事を、それをさかのぼった過去で既知のこととして描くというのは、少なくとも近代リアリズムの視点で言えば、ルール違反ということになってしまいます。― つづく ―
2009.09.09
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そもそも「帚木」以下の三帖は、玉蔓の前史譚として構想されたかと思われ、げんに例の「雨夜の品定め」のくだりで、頭の中将が夕顔とその子(玉蔓)について仄めかしているのです。しかしその話を男どものヨタ話の一つとして入れたので、紫式部としては飽き足らなかったのか、新たな挿話を思いついた。ところがその話が思いのほか筆が進むので、結局おまけのようにして引きつづいて「空蝉」の帖を編んだということでしょうか。 「空蝉」の冒頭は、完全に前の「帚木」の帖を受けて始まるのです。「帚木」の終りで、小君を使って再度空蝉に懸想する源氏ですが、相手は厳重に警戒してままならず、結局小君を相手にして一夜を過ごすことにする。― 寝られ給はぬまゝに、「我は、かく、人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、はじめて、「憂し」と、世を思ひ知りぬれば、はづかしくて、ながらふまじくこそ思ひなりぬれ」など、のたまへば、涙をさへこぼして臥したり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) お寝みになれないままに、(側の小君に)「私は、ここまで、人に嫌われた事は今までなかったが、今夜ばかりは、本当に生まれて初めて、『うっとうしいな』と、世の中を思い知ったので、恥ずかしくて、生きていくのも出来ないような気がするよ」などと、おっしゃるので、(小君は)涙さえ流しながら(側に)臥せっている。 このくだり、丸谷さんは光源氏と小君が同性愛を営んでいる、と喝破されますが、ここでは触れません。このあとつづく、すったもんだの経緯はぜひ本文を読んでみてください(できれば、原文のほうで)。話し上手な彼女の才能が横溢して傑作ですよ。 あえて一番面白そうなところを挙げますと、三たび小君の手引きで空蝉の家に忍んだ源氏ですが、たまたま空蝉の寝屋に、宵まで彼女と碁を打っていた、伊予の介の先妻の娘(軒端の荻)が、いっしょに寝ている、― わかき人は、何心なく、いとようまどろみたるべし。 かゝるけはひの、いと、香ばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、単衣(ひとへ)うちかけたる几帳のすき間に、暗けれど、うちみじろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひわかれず、やをら起き出でて、生絹(すゞし)なる単衣一つを着て、すべり出でにけり。きみは、入り給ひて、たゞ一人臥したるを、心安くおぼす。 … 衣をおしやりて、より給へるに、ありしけはひよりは、ものものしく思ゆれど、おもほしうもよらずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはし給ひて、あさましく心やましけれど、「『人違へ』と、たどりて見えんも、をこがましく、『あやし』と、思ふべし。本意の人をたづね寄らむも、かばかり逃るゝ心あめれば、かひなく、をこにこそ思はめ」と、おぼす。「かの、をかしかりつる火影ならば、いかゞはせむ」に、おぼしなるも、悪き御心浅さなめりかし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 若い人(軒端の荻)は、何の屈託もなく、グッスリよく眠っているようである。 妙な気配が、鮮やかに、(源氏の衣に焚き染めた)香で匂い立ったので、(空蝉は、ふと)顔をあげたところが、単衣を掛けた几帳の隙間から、暗いけれど、(源氏が)少しずつ身じろぎしながら這い寄って来る気配が、ハッキリと分かる。我にもあらず、ともかく無我夢中で、やおら起きると、生絹の単衣一枚だけはおって、(床から)這い出てしまった。(源氏の)君は、寝屋に入りなさって、(女が)ただ一人で寝ているので、心安くお思いになる。 … (女の)衣を押しやって、側へお寄りになったところが、いつぞや逢った時より、物々しいような気もするが、お気づきになるわけもない。しどけない寝姿などが、あまりにも(前と)変わっているので、ようやくお気づきになって、情けなくも口惜しくもあるが、「(いまさら)『人違いだった』と、(他人に)感づかれるのも、バカバカしいし、(第一、この人が)『(何だか)変だわ』と、思うだろう。肝心の人を追い求めても、このように逃れる気持ばかりなのであれば、どうしようもなくて、(結局、私は)笑い者にされるだけだろう」と、お思いになる。「あの、(先ほど宵まぐれに母屋で)灯をともして(空蝉と碁を打っていた、ちょっとかわいい)女か、(であるなら)どうしたものか(ままよ! … )」と、お思いになるのは、怪しからん(男=オスの)お心の浅はかさと言うべきか。 と言うわけで、抜け殻(空蝉)になった寝屋で、別の女(軒端の荻)と契りを交わすことになるのですが、ここのくだり、「雨夜の品定め」で、男どもの怪しからん女談義を克明に描いたのを、すっかりひっくり返して、今度は女のほうから徹底的に笑い飛ばす、という構造になっていて、これは「竹取物語」のような「求婚譚」の男の失敗話のパロディーになっているのです。― つづく ―
2009.09.08
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実際b系の文書がどんな感じかというと、「帚木」の帖の後半、源氏がまんまと単身赴任中の受領(伊予の介)の妻、空蝉をものにした後、弟の小君をたくみに言い含めて、彼女にあいさつの文を持たせる場面、少し長いのですが、― 「かゝることこそは」と、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼心地に、深くしもたどらず、御文を、もて来たれば、女、あさましきに、涙も出で来ぬ。この子の、思ふらん事も、はしたなくて、さすがに、御文、おもがくしに広げたり。 … … またの日、小君召したれば、「まゐる」とて、御返り乞ふ。「「かゝる御文、見るべき人もなし」と、きこえよ」と、のたまへば、うちゑみて、「違ふべくも、のたまはざりしものを。いかゞ、さは申さん」といふに、心やましく、「残りなく、のたまはせ、知らせてける」と思ふに、つらきこと限りなし。「いで、およずけたる事は、言はぬぞ。よし、さば、なまゐりそ」と、むつかられて、「めすには、いかでかは」とて、まゐりぬ。 … 君、めし寄せて、「昨日、待ち暮らししを。猶、あひ思ふまじきなめり」と、怨じ給へば、顔うち赤めて居たり。「いづら」と、のたまふに、「しかじか」と、申すに、「いふかひなのことや。あさまし」とて、又も賜へり。「あこは、知らじな。その伊予の翁よりは、さきに見し人ぞ。されど、「たのもしげなく、頚細し」とて、ふつゝかなる後見まうけて、かく、あなづり給ふなめり。さりとも、あこは、わが子にてあれよ。かの、たのもし人は、行く先、短かりなむ」と、のたまへば、「さもやありけむ。いみじかりける事かな」と、思へるを、「をかし」と、おぼす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (小君が)「そんなこともあるのか」と、何となく分かったようで、思いの他ではあったが、(そこは)子供のこととて、たいして考えもせずに、(源氏の)御文を、(そのまま預かって)持ってきたので、女(空蝉)は、情なくて、涙もこぼれる。この子が、(あれこれ)想像することは、(考えるだけでも)恥ずかしいけれど、さすがに(源氏からの)文は、顔を隠すようにして広げている。 … … 次の日、小君に(源氏から)お召しがあったので、「参上しますので」と言って、(空蝉に)返事を催促する。「『そんな御文は、見る人もおりません』と、ご返事しなさい」と、言うので、(小君は)微笑んで、「間違いないことなのだから、と(殿は)おっしゃったのに。どうやったら、そのように申せますか」と言うので、(空蝉は)憂鬱そうに、「(さては源氏の君は、この前のことを)何もかも(この子に)おっしゃって、知らせてしまったのだわ」と思うと、悔しくてたまらない。「そのように、マセたことは、言うもんじゃありません。わかった、それなら、(源氏の君の所へは)もう出向かなくてよろしい」と、(おそろしく)機嫌が悪いが、「(でも)参れと言われているのに、どうして行かないわけに(いくか)」と思って、(小君は)参上する。 … (源氏の)君は、(小君を)お呼びになって、「昨日は、(日なが一日)待っておったぞ。やっぱり、(お前は、私が)見込んだほどのことはないのかのう」と、恨みがましくおっしゃるので、(小君は)顔を赤らめている。「(返事の文を)出せよ」と、おっしゃるが、「これこれで(ございません)」と、申すので、「(あ~ぁ)頼りないことよ。参った」とおっしゃって、またしても御文を託される。 「お前は、知らんだろう。(私は)伊予のじいさん(空蝉の夫)より、前から(お前の姉さんとは)見知った仲なのだぞ。けれども(お前の姉さんは)、『(私のことを、若すぎて)頼りなく、当てにならないわ』と言って、とんでもない後見人を立てて、このように、(私を)お見捨てなさったのだ。それでも、お前は、私の子のようにしておればよろしい。あの、頼りになるらしい主人は、(どうせ)生い先、短いのだから」と、おっしゃるので、「そんなこともあったのか。えらいことだったのだなあ」と、(小君が)真に受けているようなのを(見て、源氏は)「面白いな」と、思われる。 ここのくだり、筆つきが柔らかくて、それぞれの会話が各人の性格を表わし、しかもそれが次の振るまいや事件に自然につながっていくので、こうした語り口は、いささか重厚な(つまり固めの)a系の文章には見られなかったものです。― つづく ―
2009.09.07
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「求婚譚」とは、一人の姫君をめぐって、数多くの殿方が求愛し競い合って、多くの場合滑稽な失敗で終わる、というパターンで、日本では「竹取物語」が有名ですが、たとえばギリシャ神話に出てくるオデュセウスの妻、ペネロペに対する嫁争奪の話もこの類に入るでしょう。 「源氏物語」の根底に、古物語の構造が横たわっているという話は、特に源氏専門家からは嫌われるらしいのですが、今どきの小説でも古代神話や古物語に霊感を得て、作品を生み出す作家というのはいるわけで、別にそれが、ことさらに「源氏物語」の作品としての価値を貶めることにはなりません。要はそこで得た霊感をどこまで優れた作品に昇華できたか、ということが肝心なのでしょう。 で、「槿」の帖まで「貴種流離譚」の構造をヒントにして、書き進めてきた紫式部が、ここへ来て何か他の物語を始める必要が出てきたときに、同じく「竹取物語」のような「求婚譚」を下敷きにした物語を構想するのは、おおいに有り得ることだと思うのです。彼女はおそらく「槿」の源氏三十二歳から、准太上天皇に昇進して「貴種流離譚」の一応の完結をみる源氏四十歳までの八年間をつなぐエピソードの一つとして、こうした「求婚譚」を考えついたので、「玉蔓(たまかづら)」とはまさしくそのヒロインとして設定されたものでありました。 ところが、そのヒロインの閲歴を語るにあたって、その前史とも言うべき話を編む必要が出てきたのですが、今読むとかえってこの「帚木」以下の三帖のほうが、はるかに出来が好いというか、要するに面白い。 私はこの「源氏1000年」の話を、変なきっかけで取りとめもなく始めたのですが、当初はこのような長話を予定していなかったので、冒頭の「桐壺」とか「帚木」以下の話は、「夕顔」の帖を除いてあまりしていません(原文を舐めるような今の話しかたになったのは、「葵」くらいからでしょうか)。理由は簡単で、高校の教科書の嫌な思い出が、とくに「桐壺」には張り付いていたからです。 で、つづく「帚木」も、例の有名な「雨夜の品定め」、世に喧伝されるほど面白くも何ともないので、たいていの人はこのへんで古典嫌いになって、サヨナラという仕儀に相成ります。しかし実際はこの「雨夜の品定め」直後の、空蝉とのやりとりから話は俄然面白くなっているわけで、しかもその面白味の出来ばえは「源氏物語」全体の中でも、白眉の一つといっても好いのではないか。しかしその面白味が、実は今までみてきたように、「源氏物語」本系の話ではなく、後から入ってきた傍系の話であるのを、当然ですが初めての読者は気づきようがないのです。 今回、三たび「帚木」以下の三帖を読み直して、あらためてこの部分の面白味を痛感しているのですが、その由って来たる主な原因は、紫式部自身が大いにリラックスして、物語を書くのを楽しんでいるからではないか。最初の「雨夜の品定め」の部分は、いささか道長以下の男=オスのヨタ話を、安直に使った感じがしないでもないのですが、さっそく中の品の女を求めて出かける源氏、それを手引きする小君や従者の惟光、その他男も女も上臈も下郎も、等分にキャラクターが鮮やかなうえに、少しおかし味も交えて、とても話の流れが快調ですね。 実をいうと、ここのテンポの良さ、というか、今ふうに云えばノリの良さというのが、「乙女」と「玉蔓」の帖の雰囲気とよく似ている気がする。で、その共通した気分というのは、たぶん光源氏のキャラが他の登場人物と等価になって、いくぶんか軽くなっているという点です。「薄雲」「槿」で、光源氏と紫の上の夫婦の家庭劇に収斂して重たくなりかかった中味が、宮廷を中心とした群像劇に転換していることで、読む側もずいぶん気が軽くなった感じがするのです。― つづく ―
2009.09.06
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a系 b系の仕分けについては、(源氏1000年 その二 32.)の表を、ご足労ですが見てください。 さて、現在伝えられている源氏物語の「帚木」の帖は、冒頭の「桐壺」の帖の後におかれ、時系列的にもそこにしか置きようがないのですが、今どき初めて読んだ人は、この物語の前知識を多かれ少なかれ持っていますから、何となく「そういうものか」と、通り過ぎてしまいます。その語り出しというのは、― 光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎(とが)多かなるに、「いとゞ、かゝるすきごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむ」と、忍び給ひけるかくろへごとをさへ、語りつたへけん、人の物言ひ、さがなさよ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 光源氏といえば、名前こそ大層だけれど、(側付きの女房たちが)口をつぐんでしまうような罪深いお取り沙汰も多いのに、(源氏の君が)「どうしても、このような色恋沙汰というのは、末の世まで語り伝えられて、軽々しい浮名を流すことになるのだろうか」と、内緒になされた秘め事さえ、語り伝えようとした、人(女房たち)のおしゃべりの、意地悪なことよ。で始まるのですが、もし仮に「源氏物語」をまったく知らずに、「桐壺」につづけて、このくだりを読んだとしたら、どんな感じがするでしょう。「桐壺」では光源氏のことは元服した十二歳までしか描いてないのですから、ここの「光る源氏、名のみことごとしう … 」という、すでに色恋沙汰ですっかり有名であるような語り出しはヘンでしょう。 これは明らかに、読者がすでに光源氏の何たるかをよく知っていて、その前提で始める語りかたなのです。 で、この語り出しと、頂度、対をなす形で締めくくられているのが、第四帖に置かれた「夕顔」の結文で、― かやうの、くだくだしきことは、あながちに、かくろへ忍び給ひしもいとほしくて、みな漏らしとどめたるを、「などか、帝の御子ならむからに、見ん人さへ、かたほならず、ものほめがちなる」と、つくりごとめきて、とりなす人、ものし給ひければなむ。あまり、物言ひさがなき罪、さりどころなく。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) このような、煩わしいことは、(源氏の君は)何とか、ひた隠しに隠していらしたのがお気の毒で、誰も触れないでおいたのに、「どうして、帝の御子であるというだけで、(源氏の仕業を)見知っている人までが、非を咎めるでもなく、何でもかんでも褒めてばかりいるのか」と、(この物語を)作り話のように、受け取る方が、いらっしゃったので(遠慮なく、書いてしまいました)。あまりにも、無遠慮なおしゃべりの罪は、免れがたいことで(申し訳ありません)。 というわけで、「帚木」の語り出しと「夕顔」の結文は、明らかに一セットで、終りの「あまり、物言ひさがなき罪、さりどころなく。」という謝罪は、紫式部本人というよりは、本編(a系)のあまりに誉めすぎの語り口に不満だった別の語り手が、ついついしゃべりすぎてしまって、罪にも当たろうか、という体裁を取っているのです。 したがって、「帚木」「空蝉」「夕顔」の三帖が、まとまって構想され書き継がれて、後から「桐壺」と「若紫」の間に挿入された、という説は、ほぼ間違いないと思われるのですが、そもそもこの三帖はどういう構想で描かれたものなのか? 大野さんは、この三帖も含めた、いわゆるb系の物語を、ここの結文に書かれたように、源氏の失敗譚として描いたとされます。確かにb系物語の主要人物、空蝉、夕顔、末摘花、玉蔓の四人の姫君に対する源氏の想い掛けは、すべて失敗しているのですが、では逆にa系物語のヒロインたちに対してはすべて成功しているのかというと、とんでもない、他ならぬ朝顔の宮との関係はちっとも進展していないじゃないか、という反論が成り立つのです。つまり一連のb系物語を、源氏の失敗譚と一括してくくるのには無理があるので、別の視点がいるような気がします。 で、それは何かというと、おそらくそれは古物語の例えば竹取物語のような「求婚譚」が下敷きになっているのではないか?a系物語が「貴種流離譚」を土台にしているように。― つづく ―
2009.09.05
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紫式部は「槿」の帖まで、もっぱら光源氏の振るまいを、年代記的に克明に描いてきたのですが、ここへ来て、いささか話に倦んできたのではないか。 光り輝く貴公子の一代記を構想するにあたって、当然彼女はその性格からして、相当厳密な源氏の履歴表のようなものを横に置いて書き進めていったでしょう。十七歳以降、ほぼ暦年単位に描かれてきたこの物語ですが、「槿」の時が源氏三十二歳ですから、おそらく彼女の頭では源氏四十歳を目途に、最初の「桐壺」の帖で示された高麗の僧都の「帝になるわけではないが、かといって臣下に降るわけでもない」という予言の謎解きと、准太上天皇(天皇に准ずる位)になるという夢の実現を予定していたのでしょう。 しかし、ここ最近の「薄雲」「槿」の帖で、特に明らかになってきたように、話が光源氏と紫の上の二人の心理に偏し過ぎて、確かに時の経過という感慨深い印象を与えるとはいえ、話の内容が重くなっている、という感じもまた否めないのです。これは書いている紫式部本人も、そしておそらく周囲で最初に読んだであろう女房や上達部たちも、同じように感じていたのではないか。 とすれば、予言の成就までの、あと八年間ほどの物語を、今までと同じ調子で押していっていいものかどうか?彼女は周囲の評判も見ながら、相当思案したのではないか、という気がするのです。たしかにちょっと、このままの調子では、しんどい感じがしないでもない。 それともう一つ考えられるのは、このころには彼女はおそらく宮廷内で相当の評判をとっていて、表向き物語作家というのは漢学の文章博士などからは、ものの数にも入れてもらえなかった当時といえども(まして彼女は女性ですから)、しかるべき筋(なかんずく道長)からは、かなり一目置かれる存在になっていたであろうということです。 しかるべき筋とは、男性貴族たちの(隠れ)源氏ファンのことで、彼らはあるいはこの物語をもっと面白くするために、ああでもないこうでもない、と彼女に面白話をしたのではないか。道長など天下の好き者をもって任ずる男たちの中には「実際はそんなもんじゃない。こんなこともあった、あんな失敗もあった」など、彼女に得意気に話すこともあったろうと思うのです(因みに、ほんとうの色男というのは、自分の失敗談を得意になって話するそうですな、私は知りませんが!?)。 というわけで、紫式部はここでしばらく気分を変えて、同じ光源氏を中心とした宮廷物語ではあっても、視点を変えた別伝のようなものを書いてみようとしたのではないか、と思うのです。今までも彼女は、深刻な話と軽い話題を交互に描いて、気分のバランスを取っていたようなところがあり、ある局面を描くとき、常に正と負というような多面的なものの見方をする性向がありましたね。 そこで考えられるのが、こうした当時の物語の特色である、「草子地」(紙芝居の語り手のように、話を進めながら時に話の中味に意見を挟むといった語り口)の手法で、今までも近侍する女房たちの何某がしゃべったこと伝え聞いた、という形式を借りることで、普通ではまともにしゃべれない出来事も書けたように、別の仮の語り手を設定することで別伝を物語ることを考えついたのではないか?そういう気がするのです。 となると、ちょっと遠回りになりますが、b系最初の部分とされる第二帖の「帚木(ははきぎ)」を、覗いてみないといけませんね。― つづく ―
2009.09.04
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さて、本編では「槿(あさがお)」につづいて、「乙女」の帖が始まるわけですが、先日から再読をしていて、またしてもさまざまな疑問が沸いてきます。 「乙女」のあらすじは、源氏の息子である夕霧が元服するが、頭の中将(内大臣)の娘の雲井の雁との付き合いが露見して、中将(内大臣)の怒りを買う。一方、源氏方は入内させた斎宮の女御(梅壺)を、左大臣派や兵部卿の姫君を差し置いて中宮に立たせるのに成功し、さらには六条に造営していた大御殿が完成して、彼が関係する姫君たちを一括して住まわせることにし、いよいよ地上のパンテオンが出現して威勢がさらに高まっていく、といったところでしょうか。 内容としては、数多くの人物が登場し、また宮廷内外の様子もさまざまに描かれて、「源氏物語」全編の中でももっとも華やいだ帖の一つだと思うのですが、「槿」から引きつづいて読んでいると、その鮮やかさがあまりにも際立っていて、いったいこの違いは何なのか、と考えてしまうのです。 「乙女」の冒頭、なぜかまたしても朝顔の宮の様子が描かれます。例によって女五の宮と朝顔の宮のやりとりがあるのですが、この話もう前の帖で済んでるんじゃないの、という気がしてしかたがない。しかもこの話はそれ以後の物語の展開には、いかなる意味でも関係してこない(この帖だけでなく)ので、なぜまた動きようのない話をここでまた持ち出したのか?これが第一の疑問です。 さらに、夕霧の元服から始まる本編の語り口は、登場人物は上臈から下郎まで、年寄も男も女、子供も、さらには源氏のライバルたちまでと、驚くほど数多く、しかもそのそれぞれが簡潔な寸描ながら、とても鮮やかに描き分けられているので、読んでいて頭が混乱するということがない、要するにとても面白く書かれているということです。この前の「薄雲」「槿」までの帖との際立った読後感の違い、これが二つめの疑問です。 このあたりの違いについて、ひょっとして源氏読みのエキスパートの皆さんからは、すでに指摘されていることなのかもしれませんが、私は専門家ではなく時間もないので(すいません)、またしても妄想を膨ませる他ありません。 このもう済んだはずの話を、またぞろここで始めたというのは、この「乙女」の帖が、「槿」の帖のつづきであることを、暗に読者に知らせる目的で、意図されたのではないか。何度も言いますが、ここのくだりは如何なる意味でも、そのあとの話につながっていかないので、であるならその目的は時系列の整理ということ以外考えられないでしょう。 そこで考えられるのが、「槿」のあと紫式部はいったん本編の時系列を離れ、傍系の話を書く必要を感じたのではないか。いわゆる並びの巻と称されるb系の物語は、「槿」のあと初めて書かれ始めたのではないか? b系の話はあとから挿入されたという説が、その内容から見てかなり強力に論証できるとして、さてそれがいつ頃から書かれ始めたのか、ということについてはまだあまり論議されていないような気がします。大野さんは、a系の藤裏葉までが先に書かれ、そのあとb系の物語がまとめて書かれて、しかるべき場所に挿入されたとされますが、一概にそうと言い切れるかどうか。 内容というより、物語の語り口というか、文体とか構想の仕方からみて、私は、「乙女」が書かれる前にb系の物語が書かれ始めたような気がしてきているのです。そうするとb系の物語が、玉葛を中心とした一連の群像の物語であることが浮かび上がってきます。― つづく ―
2009.09.03
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総選挙の狂騒に煽られて、ちょっと休んでしまいました。前から言っているように、このブログでは政治向きの話はしない、ということを基本にしているのですが(その種の話題は、中身がすぐ古びるので)、それでもこれだけ見事に与野党がひっくり返ってしまうと、いろいろ思うことが出て来ますね。 これを外から眺めた場合、どういうふうに見えるかと想像すると、例えば伝統的な民主国家を自認するような英国とかアメリカとかからすれば、中国や朝鮮半島やフィリピンといった数あるアジアの一国家が、やっと50年以上の一党独裁から、政権交代を内包するまともな民主国家に一歩近づいた、というふうに見るでしょう。我々自身の意識はともかく、外から見れば日本人の国家や政治に対する向き合いかたは、外見的な意匠はともかく実質的な気分としては、多分にアジア的な事大主義に対して強い親和性を持っていて、それはとりあえず政権交代した今となっても、そう大きく変わってはいないだろう、と思うのです。おそらく政治的には初心な集団の民主党が、ここ二、三か月で目に見える歴史的な(100年ほどのスパンの)改革を出してこないかぎり、来年の参院選では手痛い揺れ戻しに合うでしょう。 これは民主党をくさしているのではなく、それほどまでに日本人の政治意識は受動的で、自ら責任をもって判断する、という西欧市民社会的な当事者意識が薄いところがあるので、お上が国民に具体的な当事者意識(例えば、増税とか兵役というような、直截な責任)を求めたとたん、たちまち民意は離れて微温的な江戸時代と変わらぬ、政治に無関心な平民の姿を露呈するでしょう。自民党は、その江戸時代以来変わらぬ日本人の習性を見抜いて、それをとことん利用してきたのです。それほどまでに日本人の政治参加意識というのは、その日常生活感覚から乖離しているので、これは敗戦後も戦前も変わりなく、さらに言えば明治以来の東京一極体制という事大主義的国家感が、今でも大して変わりなく強烈に日本を支配しているということを示しています。 そして、これはあるいは江戸時代以前にまで遡って考えなければならない日本人の振るまいかたなのかもしれません。私が「源氏物語」をながながと読み耽っているというのも、一つには今の日本人には到底ありえない心理的な振るまいかたの構造が、かつての日本にはあったかもしれないと思っているからで、1000年前の日本人の貴族意識や天皇に対する仕方は、今とは明らかに異なっているのです。 早い話、今の皇室を舞台にして「源氏物語」のような物語は、誰もよく書かないでしょう(あえて挙げるとすれば、三島由紀夫の「春の雪」がかろうじて入るのかもしれません)。それくらい明治以来の立憲君主制のくびきは重いし、それを書くには覚悟が必要なのです。 古典を読むというのは、考古学のように廃墟を発掘して、今の世に復活させるということではなくて、今という世を無前提な所与のものとしてではなく、歴史の中に相対化して批判的に見つめるということです。私など、そうやって、こうした人間像もありえた日本という歴史を想像して、少し安心するというか、悦にいっているところもあるのですが、なんちゃって。 例によって小難しい話をしてしまいましたが、光源氏のどうにもハナモチならない貴種意識の充満したシレッとした振るまいというのは、今の日本人の感覚には無いものであり、むしろ西欧の貴族階級や大陸の独裁者に普通に見られる感覚かもしれません。実をいうと、私はそういう感覚を臆面もなく開けっぴろげに示して、屈託するところがない光源氏という人物像が(今どきの日本人の男と、懸け離れている、ということで)、ある意味とても魅力的なのです。 しかし、よく考えてみれば、世の古今東西のヒーローだのヒロインだのとされる人物たちというのは、もし現実に我々の側に現れたとしたら、ちょっと引いてしまうようなキャラクターばかりでしょう。フィクションとは、その中に現実から切り取った典型化があってはじめて成り立つので、こうした濃いキャラというのは現実には存在しないか、ナポレオンやヒトラーのような、巨大化した妄想狂にならざるを得ない(彼らほどではないにしても、大小さまざまな巨大妄想狂の集団が、現実社会にコミットして国家を壟断するとき、理由もなく無辜の民が大勢死んだり飢えたり、はたまた迫害されたりするのです)。ということは、現実生活を営む我々にとっては、こうした人物たちは、はなはだハタ迷惑な存在ということになってしまいます。 それでも光源氏が我々を魅了して止まないというのは、それがフィクションの中でのみ光彩を放つからであって、この云わば、フィクションという形式を味わううえでの常識のような態度というのは、「作り物語」をよく読んでいた平安時代の読者は、案外今どきより、よく知っていたのかもしれませんね。
2009.09.01
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