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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死満塁となり、一打逆転サヨナラのチャンスをつかんだ。一塁ランナーは平野光泰、二塁は吹石徳一、そして三塁には藤瀬史朗。打席に代打・佐々木恭介が立った。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■江夏豊が佐々木恭介に対し、第2球目を投げた。江夏が球を放った瞬間、捕手の水沼四郎は負けを覚悟した。水沼「うわっ、これで終わった! と、一瞬で思った。その球は、つい先ほど、羽田耕一に安打された力のないスルスルーと入ってくるストレート。コースはど真ん中。絶対にやられた。この場面であり得ない球だ」佐々木はピクリとも動かずに見逃した。<13球目>ど真ん中の速球。ストライク。カウント1-1。水沼は続ける。「『ストラ~イク!!』球審の声が響いた。あの球を見逃すとは、あの球に手を出さないとは、ど真ん中の力のないストレート。これは何かあるかも。近鉄ベンチを見わたし、ランナーの様子を探る。そしてバッターの佐々木を見つめる。あまりに信じられない見逃し方で、疑心暗鬼に陥ってしまった」ネット裏で観戦していた野村克也は、 「佐々木はカーブを待っていたのです。ストレートを待っていてカーブは打ってますが、カーブを待っていてストレートはなかなか打てません」と断言した。■西本幸雄監督は、この球を佐々木が見逃したことを悔やんだ。西本「問題はこの球よ。あれを佐々木は振らなかった。ランナーが三塁にいるときや、満塁の場面では、バッターには『引っ張らずにピッチャーに向かって打ち返せ』と、常々言うてた。実際にバットを振ってもヒットになったかどうか知らんけど、そういう気持ちだったら、バットに当たって、強い打球が飛んだはずや。この日の江夏の決め球は右バッターの膝元に落ちるカーブやった。追い込まれてその球が来る前に打てと言うたんやけどな」当の佐々木も、もちろん後悔だ。佐々木「あの場面、いかに江夏さんと言えども絶対にストライクが欲しいはず。なんで自分は待つ気になったんかな。自分に腹立たしさを感じる。もしあそこで打っていたら、あの2球目の悔いが野球生活のすべてではないですかね。もう1回何がしたいと言うたら、あの場面がしたいです」■この球を佐々木が打っていたら・・・、佐々木の技術なら、少なくともライトへフライを上げることはできたろうと解説する記事もあったが、ボクが一番疑問なのは、いったい佐々木は何をしたかったのか、どの球を待っていたのか? ということ。後に石渡茂の話に出てくるが、石渡は、西本監督の「3球全部振れ!」という指示を、どういうわけか「スクイズもあるかもしれないから、サインをよく見とくように」と言われたと証言している。佐々木の証言がないから推測でしかないが、佐々木と石渡は一緒に西本監督の指示を聞いていた。とすると、佐々木も石渡同様に「サインをよく見とけ」と指示を誤解して聞いていたのではないか。だから、どの球を待っていたというより、佐々木はベンチのサインを待っていた・・・?初の日本一を目前にして球場全体が盛り上がる中、冷静さを失って、西本監督と選手たちにコミュニケーション・ギャップが生じたのでは? ボクはそんな推測をしてみた。原因は「経験のなさ」とか「若さ」とか「未熟さ」だろうか(あ、全部同じ意味か)。いや、このことについて批判するつもりなど毛頭ない。そんなダメなことも全部ひっくるめて近鉄バファローズだったことを、ボクは知っているから。 1日1クリックお願いします
2012.12.25
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死満塁となり、一打逆転サヨナラのチャンスをつかんだ。一塁ランナーは平野光泰、二塁は吹石徳一、そして三塁には藤瀬史朗。打席に代打・佐々木恭介が立った。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■ベンチにいる西本幸雄監督の右手がせわしなく動いた。左の胸に触れ、そして肩に・・・。だが、そのサインはすべてダミーである。この9回、本当のサインは左手が右肩に触れた時のみ有効なのだ。だから、右手がどこを触ろうがすべての動きが偽装だった。広島の捕手・水沼四郎は、落ち着いて状況を見ていた。「打者は”左殺しの佐々木”だ。絶対に小細工はない」と読んだ。そして江夏にカーブを要求した。江夏豊が佐々木恭介に対して、初球を投げた。<12球目>カーブが内角低めに決まった。だがわずかに外れボール。カウント0-1。■野村克也はこう分析する。「膝元に球が来たのに、佐々木はあまり身体を動かさなかった。もし速球を待っていたら、もっと身体がのけ反るはず。しかしあまり身体が動かないということは、佐々木はカーブを待っていたわけですね。広島のバッテリーは、それを分かった。だから江夏は次の球に速球を選んだわけです」水沼「初球が外れて1ボールになった。2球目はストレートのサインを出す。そのサインに頷き、江夏が投球動作に入る。江夏から投じられた瞬間に、うわっ、これで終わった! と、一瞬で思った」。
2012.12.24
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死満塁となり、一打逆転サヨナラのチャンスをつかんだ。一塁ランナーは平野光泰、二塁は吹石徳一、そして三塁には藤瀬史朗。打席に代打・佐々木恭介が立った。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■ネット裏で観戦していた野村克也によると、西本幸雄監督は佐々木恭介と次打者・石渡茂を呼んで作戦を授けベンチに戻る時、珍しくニコッと白い歯を見せたそうだ。その時、野村は「西本さん、野球は最後でわかりませんぞ。笑っていていいんですか?」と思ったそうだ。いま見ているDVDにそのシーンは映っていないが、ボクも以前、別の映像で西本監督がニコッとする表情を見たことがある。1点差を追う9回裏、無死満塁の場面である。誰もが近鉄の優勝をほぼ確信していた。いかに西本監督であっても、白い歯を見せるぐらいに気分が高揚していてもおかしくはない。思えば西本監督の、この時までの半生も平坦ではなく、浮沈の連続だった。多少気分が高揚するくらい、当たり前と言えば当たり前だったかもしれない。■立教大の監督兼主将だった頃は、東京六大学リーグで2位になり、その後の明治神宮大会では優勝した。「よし、これで次のシーズンは六大学で優勝できる!」と確信したものの、折からの戦争が激化し、翌シーズンのリーグ戦は中止に。直後に繰り上げ卒業し戦地に赴いた。復員後、ノンプロの別府星野組に監督兼任選手として入団した。昭和24年の都市対抗で優勝したものの、経営難で給料の遅配が続いた。自分で選手の給料を立替払いしたこともある。そんな時、毎日新聞が職業野球に球団をもつことになり、毎日新聞との橋渡し役を買って出て、別府星野組の全選手を毎日球団に再就職させた。西本自身は職業野球に興味がなかったが、神様の悪戯か、選手として入団することになった。この過程はまったくの偶然であり、運命としか言いようがない。その後、故障に悩まされ現役生活はたった6年で終わった。この時、36歳。そして二軍監督を経て一軍コーチの頃、毎日は大映と合併し大毎オリオンズという新球団ができた。そんなある日、突然永田雅一オーナーから呼び出され、 「おう、きみか、西本ちゅうのは。新しい監督はきみがやれ!」と言われ、本人の意志とは無関係に、本格的な監督人生がスタートした。決して期待されて監督になったのではない。そもそも永田オーナーはスター監督を好み、水原茂、三原脩、鶴岡一人に声をかけたが全て断られ、しかたなく西本に監督の座が巡ってきたのが真相だった。そして昭和35年、ルーキー監督としてチームを指揮すると、「ミサイル打線」が爆発し、あれよあれよという間に勝ち進みパ・リーグ優勝、日本シリーズ出場を決めた。しかしその日本シリーズ(対大洋戦)で西本が采配した「スクイズミス」が永田オーナーの逆鱗に触れ、優勝監督でありながら、西本は自ら球団を去った(いわゆる「バカヤロー事件」)。昭和38年、今度は阪急ブレーブス監督に就任する。まったく弱い球団だったが、福本豊、加藤秀司、山田久志らを育て、ついにパ・リーグの常勝球団に育て上げるが、日本シリーズでは巨人と5度対戦し、全て敗れた。巨人に勝てないまま、日本一になれないまま、阪急の監督在籍期間は11年におよんだ。球団首脳からは暗にフロント入りを勧められ、 「事務所に机を置くが、一軍の試合は見ないでくれ」と言われた。事実上の退団勧奨である。西本は自分のおかれた立場を知り、辞任した。■近鉄の監督に就任したのは昭和48年秋である。自らを近鉄に売り込んだ。近鉄には井本隆、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、佐々木恭介ら、若くていい素材がたくさんいたのが魅力だった。西本は彼らの意識改革を地道に行いながら、一緒に地道に努力を積み重ねてきた。その結果が、この年(1979年)のパ・リーグ初優勝だった。そして今、手塩にかけて育ててきた選手たちが日本シリーズの大舞台に立っているのである。しかも日本一が目前である。西本にとっても、これまでの半生の集大成と思っていただろう。だから無死満塁になった時、抑えきれないほどの高揚感が身体中に湧きあがっていたとしても、まったく不思議ではない。 1日1クリックお願いします
2012.12.24
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死一・三塁になり、チャンスが膨らんだ。一塁ランナーの代走は吹石徳一、三塁には藤瀬史朗。そして打者は平野光泰、カウントは1-3。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■江夏豊が11球目を投げた。すでに捕手の水沼四郎は立ち上がったまま。<11球目> 高めに大きく外してボール。フォアボール。打者の平野光泰は江夏を睨みつけて、何か言葉を投げつけた。お互い高校時代から知る仲である、「江夏、なんで勝負しないんだ!」とでも言ったのだろうか。バットを投げつけて一塁へ向かった。近鉄は無死満塁になった。三塁走者・藤瀬史朗がホームを踏めば同点、二塁の吹石徳一が帰ってくれば近鉄の逆転サヨナラ勝ちだ。これまで日本一を逃し続けてきた西本幸雄監督が悲願を達成するのは、もう目前だった。■水沼は言う。「敬遠された平野は、よほど自分で試合を決めたかったのだろう、すごく怒っているのがマスクを通して伝わってきた。その時、負けを覚悟した・・・。1点で抑えれば御の字だが、そんなことは、この場面では不可能。大阪球場のすべてのファンが、近鉄ベンチの全選手が、その後訪れる歓喜の渦を想像していたに違いない。でも大声援の中で、私は不思議と落ち着きを取り戻していた」ここで広島ベンチはタイムを取った。マウンドにいる江夏を囲むように、一塁・衣笠祥雄、二塁・木下富雄、三塁・三村敏之、ショート・高橋慶彦らの内野手が集まった。■その時、西本監督は、代打に送る佐々木恭介と次打者・石渡茂を呼んだ。西本「9回裏、無死満塁の場面で、監督の俺がどうこうするケースやないと思った。後は打席に立つ選手が打つだけや。佐々木が打席に入る前にタイムがかかっていたから、佐々木と石渡の2人を呼んで、『全部振れ!』と言った」ただ、この言葉にある「監督がどうこうするケースでない」と「全部振れ!」の2点が、後に石渡が打席に入った時、齟齬が生じる。まずひとつ目は、西本監督が先ほど見た江夏のカーブの影響で、最後の最後に作戦を変更することになること。そして二つ目は「全部振れ!」と言った指示が、なぜか石渡に伝わっていなかったこと。悲願の日本一が目前に迫り、ファンだけでなく、近鉄の監督も選手も皆が舞い上がっていたようだ。最低でも同点を願ってテレビ観戦していたボクも、この時ばかりは逆転サヨナラを信じていた。1日1クリックお願いします
2012.12.23
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死一・三塁になり、チャンスが膨らんだ。一塁ランナーの代走は吹石徳一、三塁には藤瀬史朗。そして打者は平野光泰、カウントは1-2。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■敗因はほかにもあるが、それは追々書くことにする。走者が二・三塁になり、近鉄は一打逆転サヨナラの場面である。カウントは1-2、そして一塁が空いたことにより、江夏豊-水沼四郎のバッテリーは敬遠策を選択した。広島にとって守りやすい場面を作る当然の判断である。<10球目>大きく外角高めにはずしてボール。カウント1-3。この時、江夏は近鉄以外に、自チームのベンチとも戦っていた。広島のブルペンでは池谷公二郎に加え、北別府学も投球練習を始めていた。■これまで、江夏を抑えとしてマウンドに投入しながら、次のピッチャーを投入することはありえなかった。 それが今、現実となっていた。江夏にとって面白いはずがない。江夏「対バッター、対近鉄でなく、自分にとっては対ベンチ、対首脳陣の気持ちが強かった。何しとるんだ? たとえ負けたとしても自分は満足。悔いは残るかもしれんけど、ここまでやってきたんだという気持ちは持てる。なんで気分を害することをやるのかな、ベンチは。自分で蒔いた種は自分で何とかするから。だから、ベンチに動いてほしくはなかった。シーズン中は、古葉監督のボクへの信頼感を強く感じていた。だから、僕はすごく嬉しかったわけよ。それを最後の最後でこういう動きをしたというのは、寂しかったわけよ」一方、広島・古葉竹識監督の話。「この場面は自分しかいないと江夏は当然考えていたはず。それは分かっていた。ただペナントレースと違う。3時間で終わるわけではない。この場面は当然、同点を予想するケース。同点になれば、今度はうちのチームが攻撃するとき、チャンスになれば江夏に代打を送らなければならない。その時に慌ててピッチャーを用意しても遅い」■投手の代え時はいつも難しいものだ。しかも日本シリーズ第7戦9回裏の場面、投手はプライドの人一倍、二倍、三倍、いやそれ以上に高い江夏である。これほど難しい場面はない。広島はチーム内に感情のもつれがあった。近鉄・西本幸雄監督だってそのことは手に取るようにわかっていたはず。ならば、それを逆手にとる攻め手はなかったものか。かえすがえすもボクが後悔するのは、吹石徳一を二塁に走らせたことである。江夏の感情が高ぶっている間に、平野光泰のバットでケリをつけたかった。1日1クリックお願いします
2012.12.22
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死一・三塁になり、チャンスが膨らんだ。一塁ランナーの代走は吹石徳一、三塁には藤瀬史朗。そして打者は平野光泰、カウントは1-1。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■「かっ飛ばせー、平野。広島倒せぇ、オー」。近鉄ファンの大きな声援が続いていた。<9球目>速球、だが高い。ボール。カウント1-2。この時、一塁走者の吹石徳一がスタートを切った。広島の捕手・水沼四郎は二塁への送球を自重した。近鉄は無死二・三塁になり、一打逆転となるチャンスを広げた。■近鉄・西本幸雄監督は、この時の狙いを説明した。「このイニングに2点をとって一気にひっくり返す、この作戦のほうが相手を脅かすし、ベターだと思った」広島・衣笠祥雄は違う見方をしていた。「ぼくらにとっては、二・三塁になってくれてかえって良かった。一・三塁で攻められていたほうが苦しかった。一・三塁のほうがヒットエリアが広い。そして、二・三塁になることで開き直れたことが大きかった。この場面で一塁走者を走らせたことは、近鉄最大の誤算ではなかったか」■ボクはテレビ観戦しながら、チャンスが広がったことに歓喜した。ただその時、まったく迂闊なことに、一塁が空いてしまったことに気づいていなかった。この9回裏、近鉄が得点するためには、ポイントとなる打者は平野光泰をおいて他にいなかった。西本監督は広島バッテリーに対し、何が何でも平野と勝負させるよう仕掛けることが重要だった。だから、絶対に吹石を走らせてはいけなかった。走者が二・三塁になったことで、近鉄はみすみす平野の打撃チャンスを逃し、広島は平野を敬遠して一塁を埋める作戦に変更できた。繰り返すが、近鉄は平野のバットにすべてを賭けるべきだった。■水沼の悪送球で藤瀬史朗が三塁に達したことも、平野との勝負を回避される遠因になった。やはり、「結果オーライ!」というものは、後から思いもしない副作用がくっついてくるものなのだ。とまれ、吹石に二盗させた近鉄ベンチの采配が、最大の敗因である。1日1クリックお願いします
2012.12.22
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死一・三塁になり、チャンスが膨らんだ。一塁ランナーの代走は吹石徳一、三塁には藤瀬史朗。そして打者は平野光泰、カウントは0-1。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■ボクがもっとも期待する平野光泰が打席に立っていた。次打者は投手の山口哲治。当然代打が出るし、その代打は佐々木恭介であることは明らかだった。平野と佐々木の打撃力を比較した場合、ボクは平野のほうに期待した。ガッツを前面に出すタイプだし、勝負強い。佐々木は前年、首位打者を獲得していたものの、今ひとつ信頼できない打者だった。ぜひ平野の一振りで、日本一を決めてくれ! ボクはそう願っていた。<8球目>カーブを平野は中途半端なスイングをした。ストライク。カウント1-1。一塁塁審がスイングの判定をした途端、平野は怒った。塁審を睨みつけ「俺は途中でバットを止めた!」と主張していたようだが、テレビでスローモーションを見ると、明らかにスイングだった。■江夏豊にとっては、たまたま投げたカーブだった。この試合、これまでカーブはほとんど投げていなかったが、この時「おぉ、今日のカーブはよくキレているな!」と思った。スライダーのような鋭さはなく、かと言ってカーブのようなブレーキがかかるわけでもない。スライダーとカーブの中間の、いわゆる「スラーブ」とでもいうのか。このカーブが後々、近鉄から「初の日本一」を奪う武器になった。近鉄・西本幸雄監督はこの一球を見て、果たして自チームの打者たちがカーブを打てるだろうか? と考え、その後の判断を消極的にさせた。逆に自信をもった江夏はこの後、勝負どころでカーブを繰り出すことになる。■平野と江夏は高校時代に対戦したことがある。この試合で大阪・明星高の平野は、一学年上の江夏(大阪学院大高)からランニング本塁打を放った。江夏は高校3年間で打たれた本塁打は、この平野の一本だけである。余談になるが、近鉄・鈴木啓示も高校時代、練習試合で江夏と対戦したことがある。試合は延長15回スコア0-0の引き分けに終わったが、江夏は15イニングを投げて15三振を奪ったものの、育英高のエース・鈴木はさらに上を行く27三振を奪った。4番打者として打席に立った江夏は、速球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐し、この時以来、カーブを習得したい願望が芽生えたという。■江夏にカーブを覚えたいと思わせたのは鈴木だった。そして、そのカーブがおよそ15年の月日を経て、鈴木のいる近鉄から日本一を奪うのだから、まったく不思議な話である。1日1クリックお願いします
2012.12.18
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死一・三塁になり、チャンスが膨らんだ。一塁ランナーの代走に吹石徳一、そして打者は平野光泰。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■無死一・三塁になり、打席には8番・平野光泰が打席に入った。この試合は8番に入っているものの、本来は近鉄の切り込み隊長である。このシリーズはまったくの不調、この試合が始まるまで無安打だったため8番に降格していた。ただ5回裏には2点本塁打を放ち、平野本人はいい気分で打席に入ったはずである。代走は吹石徳一。ベンチ前に立つ西本幸雄監督は吹石を呼び、耳元で一言、二言囁いた。吹石は帽子を被るだけでヘルメットはない。手も素手で手袋をつけていない。ベンチ前にいるボールボーイの着たユニフォームの背中には「美津濃」と書かれていた。「MIZUNO」ではない。ま、そんな時代だった。■一方の広島ベンチも動いた。ペナントレースでは考えられないことだが、ブルペンでは池谷公二郎が投球練習を始めていた。ストッパー・江夏豊の後ろに、広島ベンチは別の投手を用意しているとは・・・?<7球目>高めに外れた速球は、明らかなボール。■ボクは近鉄の無死一・三塁のチャンスに興奮していた。思えば、小学校に入学して漢字を覚えた頃から近鉄ファンだった。この日本シリーズの時点で、ファン歴はすでに10年以上経っていた。ファンになりたての頃、投手では鈴木啓示、神部年男、清俊彦、佐々木宏一郎がいた。打者では土井正博、伊勢孝夫、永淵洋三らがいた。当時は負けてばかりで、お荷物球団と呼ばれていた。ボクは岩手に住んでいたから、遠く大阪から聞こえるラジオ放送をよく聞いていた。そんなものだからファンなのに、選手の顔、投球フォームや、ユニフォーム姿はほとんど知らなかった。たまに新聞の朝刊に近鉄選手の写真が掲載されたら、それが唯一の「ご対面」だった。なんで、そこまで近鉄に惹かれたのか? 不思議なことである。今にして分かるのは、いつも勝利する巨人も当時は好きだったけれど、その対極にある近鉄が愛おしかった、というか...、たぶんそんな気持ちだったと思う。そしてその後、かつてお荷物球団と呼ばれた近鉄が次第に力をつけ始めた。しかし優勝を狙える位置まで行っても、ここぞという時(天王山の藤井寺3連戦、もしくは西宮決戦などと呼ばれた)、いつも阪急ブレーブスが目の前に立ちはだかった。■そんな近鉄が、この年(1979年)、ペナントレースの終盤はヨレヨレになりながらもパ・リーグで初優勝し、さらに日本一が目前に迫ってきたのだ。冷静でいられるはずはない。そして、無死一・三塁のチャンスに、ボクが最も期待する打者・平野が打席に立っていた。1日1クリックお願いします ■
2012.12.17
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死三塁、願ってもいない大きなチャンスをつかんだ。打者・クリス・アーノルドのカウントは1-3。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■近鉄は同点のランナーを失いかけた最悪の場面、広島のミスに救われて、逆に無死三塁のチャンスを掴んだ。<6球目> 落ちる球が内角低めに外れた。ボール。四球。アーノルドが一塁に向かった。すぐさま、近鉄・西本幸雄監督は代走に吹石徳一を告げた。近鉄は無死一・三塁となり、チャンスがさらに膨らんだ。広島のミスで「流れ」が近鉄に傾き、いかに大投手の江夏豊であっても、その「流れ」を止めることは容易でないように見えた。■広島のバッテリーを組む江夏と水沼四郎。この時から15年ほど前、2人は報徳学園高のグラウンドで会ったことがある。水沼が報徳学園野球部の1年生捕手、江夏はセレクションを受けに来た中学3年生だった。水沼は言う。「各中学の有力選手が集まったグラウンド。そこに現れたのは、ひときわ体格のいいひとりのピッチャーだった。決してものおじせず、キャッチボールを続けていた。私はキャッチャーとしての本能だろうか、このピッチャーの球を試してみたくなった。私は座ってミットを構えた。さて、どんな球を投げてくるのか。”ズドン”という音とともに、ミットに吸い込まれた球は、とにかく速く、そして重い球だった。これは本当に凄いピッチャーかもしれない。このピッチャーとなら、甲子園優勝(日本一)も夢ではないかもしれない。本気でそう思った」■この凄いピッチャーが、実は江夏だった。結局、江夏は大阪学院大高に進み、報徳学園でバッテリーを組むことはなかったが。高校を卒業後、江夏は阪神に入団、その後、南海を経て、1977年オフに広島に入団した。一方の水沼は中央大を経て1969年、広島に入団した。水沼にしてみれば、8年のプロ生活を経て再び江夏と出会い、高校時代に果たせなかった日本一の夢を、江夏とともに目指すことになった。そして、つい先ほどまでその夢実現が手の届くところにあったが、無死一・三塁のピンチを招いたことで、今、それがとても危ういものになってきた。 1日1クリックお願いします
2012.12.16
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死三塁、願ってもいなかった大きなチャンスをつかんだ。打者・クリス・アーノルドのカウントは1-3。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■広島は守備陣のミス、近鉄はサイン見落としのミス。両チームともにミスを犯したが、近鉄は無死三塁のチャンスをつかみ、「流れ」はこの瞬間、近鉄に大きく傾いた。まさに「結果オーライ!」である。この時、広島の江夏豊、水沼四郎のバッテリーは「同点やむなし」と腹を括った。江夏「走られた、セーフになった。動いて来ることを自分がマウンドで見つけられなかったことに悔いが残るね。あっ、痛ぁー、やられたかと。キャッチャーの暴投は二の次。自分が走られた、自分の責任。あ~ぁ、と思った。こりゃ1点取られるなと思った、サードまで行ったからね」水沼「とりあえず、同点は覚悟でバッターに集中しよう。この場面では、まずスクイズはない」ただ面白いことに、水沼はもうひとつ別のことを考えていた。この試合の6回、近鉄を突き放す2点本塁打を放っていたため、 「これでMVPは消えたな・・・」一方、近鉄・西本幸雄監督。「こういうケースでは、単独スチールはあまりに無謀だ。カウントが0-2になった時にヒット・エンド・ランを決めた」■テレビ観戦していたボクも、この場面は大喜びした。これで併殺もなくなるし、最低でも同点に追いつくに違いない。そんな確信をもった。ただ、後から考えてみると、藤瀬が三塁に達したことが、後々、近鉄に暗い影を落とす。なぜなら、近鉄打撃陣にあって、この時もっとも期待できる打者は、この試合で8番に入っていた平野光泰だった。広島バッテリーと平野がガチで勝負する状況が近鉄にとってベターだった。だから高橋慶彦が言っていたように、最低限、ボールを後ろに逸らさなければ、藤瀬は二塁に止まっていた。三塁に行かず二塁に止まっていたほうが、近鉄にとって有利な展開になっていたとボクは思う。詳しくは後述するけれど、表面的に見える「結果オーライ!」というのは、後々、思わぬ副作用がくっついてくるものなのだ。(写真)1979年、パ・リーグ初優勝祝賀会1日1クリックお願いします
2012.12.16
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死走者一塁のチャンスをつかんだ。打者・クリス・アーノルドのカウントは1-2。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■江夏豊の右足が上がった時、一塁走者の藤瀬史朗は二塁に向けて走り出した。<5球目> 速球がわずかに外角へはずれてボール。カウント1-3。捕手の水沼四郎は藤瀬のスタートを見るや、すぐさま二塁へ送球した。藤瀬のスタートが遅れたため、タイミングは完全にアウト。ところが、高橋慶彦の少し手前で中途半端にショートバウンドしたため、高橋は捕球できない。ボールは跳ねてグラブの上を通過し、センターの山本浩二まで達した。藤瀬は頭から二塁ベースに滑り込んだ。その時、高橋が取り損ねたボールは、ちょうど藤瀬の目の前を通過した。二塁に達した藤瀬は体勢を立て直して、悠々と三塁を陥れた。一塁側近鉄の応援席から、また大きな歓声が上がった。応援旗が大きく振られ、紙テープが近鉄ベンチ前で舞った。有田修三がベンチ前で手を叩いて喜んでいる。それに応えるように関口清治コーチ、栗橋茂、村田辰美らが何度も何度も手を叩いて喜んでいた。近鉄ベンチはまるでお祭り騒ぎだ。西本幸雄監督が乱れ飛ぶ紙テープの奥から姿を現した。そして打席にいるアーノルドに向かい握りこぶしを作って見せた。「いいか、しっかりやれよ」と。1点差を追う9回裏、無死三塁。近鉄にとって願ってもいなかった大・大・大チャンスが訪れたのだ。「流れ」は完全に近鉄に傾いた。■実はこの場面、近鉄に重大なミスがあった。藤瀬の単独スチールに見えた走塁は、実はヒット・エンド・ランのサインによるもので、この大事なサインをアーノルドが見落としたのが真相だった。藤瀬「いやぁ、これはダメやと思いましたね。自分のスタートが遅れたし、アーノルドはも逃したし。走っている途中で、こりゃダメやと思いました」。水沼「藤瀬のスタートが遅れたのが見えました。これなら刺せる!そう思った瞬間、ボールを握り損ねたまま二塁に放ってしまった。家でもこの場面を何度も見ましたよ。なんで、こんな大事な場面でいい球を放れなかったんだろうと・・・」。高橋慶「難しいバウンドだったんですよ。でも最低でもボクは止めなければいけなかった。あれでアガるっていうんですか、完全にビビってしまいました。責任がぜんぶ自分に降りかかってきたような気がしました」 1日1クリックお願いします
2012.12.15
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死走者一塁のチャンスをつかんだ。打者・クリス・アーノルドのカウントは0-2。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■西本幸雄監督がクリス・アーノルドにかけた言葉は、きっと「ベンチをよく見とけよ、サインをちゃんと見ろよ!」だったと思う。その声を聞くアーノルドの背中がテレビ画面に映ったが、とても固かった。側に駆け寄り、ボクがマッサージして肩や背中の凝りをほぐしてあげたいくらいに。近鉄ベンチと江夏豊・水沼四郎のバッテリーの心理戦が続いた。江夏「(アーノルドへの)2球目は、打ってくれればいいという、これも外し球。全然打つ気がないようだった。アーノルドもウェイティングに入っているみたいなんですわ。藤瀬が走るのを待っているなんですわ。藤瀬が走るのを待っている。ヒット&ランはないと思った。アーノルドは空振りが多いからね」。■この時、試合の主導権を握っていたのは、100%近鉄だった。その理由は、一塁走者・藤瀬史朗の存在にあった。江夏を中心に語られるこの試合、しかしもう一方の”主役”は間違いなく、藤瀬だった。 藤瀬史朗。彼の野球歴は変わっている。大阪体育大時代は野球部でなく、陸上部に在籍していた。ただひょんなことをきっかけに近鉄の入団テストを受け、足が速いことだけが理由で1976年、ドラフト外で入団した。昔ロッテにいた飯島秀雄を彷彿とさせる。入団後は「足のスペシャリスト」として、ほとんど代走として起用され、実働7年間の選手生活で117盗塁を決めた。(盗塁失敗は7年間で28、盗塁成功率は80.7%という高率、うち代走で決めたものが105を数え、通算代走盗塁数のプロ野球記録保持者である。この年(1979年)も、ペナントレースで27盗塁を決め、盗塁死はたったの3、成功率90%という脅威的な数字を残している。■一塁側スタンドの近鉄応援席が大いに盛り上がる。そして、<4球目> ど真ん中のストライク。カウント1-2。明らかにウェイティングである。カウントは1-2。近鉄にとっては、なんでもできる絶好のカウントである。広島バッテリーの緊張が一層高まった。江夏は執拗に一塁に牽制球を放った。そして、ついに近鉄が仕掛けた。藤瀬がスタートを切ったのだ。 1日1クリックお願いします
2012.12.15
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死走者一塁のチャンスをつかんだ。打者・クリス・アーノルドのカウントは0-1。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■一塁に足のスペシャリスト・藤瀬史朗がいた。単独スチール、ヒット・エンド・ラン、攻め手はいくつもある近鉄。一方、広島・江夏豊、水沼四郎のバッテリーは、近鉄がどんな攻めを仕掛けてくるか読めなかった。様子を見るためにウエストしたが、アーノルドはピクリとも動かない。藤瀬もスタートを切る気配はなかった。水沼「何か動きがあるか探ってみたが、近鉄は動かなかった」江夏「1球目はバントを警戒して外した。バントの気配は全然なかったね。全然打つ気がないようだった。藤瀬が走るのを待っている。ヒット・エンド・ランはないと思った。アーノルドは空振りが多いしね」■カウントが0-1になり、一塁側・近鉄応援席の声援がさらに大きくなって球場内に響いた。「かっ飛ばせー、クリス。広島倒せー、オー」。大小無数の応援旗が右に左に大きく揺れた。観客席をぎっしり埋めたファンたちの頭には一様に白・赤・青の近鉄の帽子が載っている。また、一塁ベンチからライト線にかけてグラウンドには、スタンドから放り込まれた黄、赤、青の無数の紙テープが横たわっていた。■このシリーズ、アーノルドはまったくの不調だった。ペナントレースは.289の打率を残していたものの、シリーズの成績はここまで15打数1安打、打率はたったの.067。ボクは岩手・花巻にある実家でテレビ観戦していた。アーノルドに期待することはあまりなく、なんとか併殺だけは避けてくれ、最低でも藤瀬を二塁に進めてくれと願っていた。アーノルドよりも、ボクは次の8番・平野光泰の勝負強さに期待を賭けていた。前に突き出した腹にグラブを乗せ、セットポジションの江夏。幾度となく、一塁走者・藤瀬に目を配る江夏。そして水沼のサインに頷き、左腕を上げた。<3球目> 高めの明らかなボール。速球。カウント0-2。■ベンチ前に乱れ飛んだ紙テープをかき分けるように、西本幸雄監督が足早にベンチを飛び出して、アーノルドに一言、二言、声をかけた。西本の声に、打席に立ったままアーノルドが頷いた。(写真)西本幸雄監督今日も1クリックお願いします
2012.12.10
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死走者一塁のチャンスをつかんだ。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■江夏豊は安打を羽田耕一に安打を打たれ、ガクリと膝を落とした。バッテリーを組む広島・水沼四郎捕手は、江夏のこの1球目を悔いた。「スルスルーと入ってくる、力のないストレート。やばい!と思った瞬間、打球はセンターへ。江夏にはひとつだけ欠点があった。それは一発の可能性が低い打者に対し、ごくたまに、打ちごろのストレートを投げてしまうこと。この球もそうだった」と。この江夏の1球目は、近鉄に願ってもないチャンスを呼び込んだ。しかも走者は足のスペシャリスト・藤瀬史朗である。送りバント、盗塁、ヒット・エンド・ラン、バスター、なんでもできる場面。近鉄の揺さぶりが始まった。広島の内野陣はマウンド付近に集まり、投球、そしてポジションの確認をした。■近鉄・西本幸雄監督が打席に向かうクリス・アーノルドを見上げて、強い口調で話しかけた。後になってわかったことだが、これはヒットエンド・ランのサインの確認だったに違いない。通訳を介して西本の指示を聞くアーノルドの表情は硬い。■江夏豊「まず送りバントで同点を狙ってくるだろうと思った。ただアーノルドはバントが得意か? もしくはヒットエンドランか? 閃きというか考えが一瞬のうちに頭の中をまわったよね」。さらに「藤瀬の足はたしかに速いよ。オレの癖も見抜かれてるやろ。そんなら走ってもかまへん。そう思った。それよりバッターに集中したほうがいい」。水沼四郎「9回のこの場面、盗塁の可能性はあるのか。近鉄は危ない賭けをするのだろうか。近鉄ベンチを見渡し、ランナーを見て、何か動きがあるかを探ってみることにした」三度、四度、五度、アーノルドは素振りを繰り返した。<2球目> 外角高めに大きく外れたシュート。ボール。カウント0-1。広島バッテリーは近鉄の動きを見るために初球を外した。アーノルドは平然と、そのボールを見送った。(写真)打者はアーノルド。投手・江夏、捕手・水沼『近鉄バファローズ球団史』ベースボール・マガジン社刊■クリス・アーノルドは、1980年に近鉄退団後、米国選手を日本球界に紹介する代理人に転身した。タフィ・ローズの近鉄入団も、アーノルドの仲介による。今日も1クリックお願いします
2012.12.09
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■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズの攻撃が始まった。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■作家の山際淳司氏は『江夏の21球』に書いた。「(9回表)高橋慶彦が三振に倒れると、江夏はマウンドへ向かった。それから26分間、江夏は大阪球場に立ち尽くし、「勝者」と「敗者」の対角線上を激しく往復する。そしてその間に江夏の1球1球を巡って広島、近鉄両ベンチ、そしてグラウンドに立つ選手のあいだを様々な思惑が交錯した。野球とは、あるいはこの様々な思いが沸き立ち浮遊し交錯するゲームであるのかもしれない。・・・江夏がマウンドに歩いていく」。この日の天候は雨、試合途中から降りだした。デーゲームにかかわらず、試合開始後まもなく照明が灯っていた。■近鉄最後の攻撃に、1塁側応援席は無数の応援旗が振られ、笛の音が鳴り響く。ベンチの西本幸雄監督は、椅子にかけたり立ったり落ち着かない様子である。そしておもむろに腰かけると、まず右手を口にあて、次に帽子のツバ、そして胸、最後に左腕に触れた。だがこのサインは何の意味ももたない。この時、西本監督と三塁コーチ・仰木彬のサインの取り決めは、9回は左手が右腕に触れたときのみ有効だった。西本の左横に座る梨田昌孝が、横目でチラチラと西本監督の動きを見やる。■打席に6番・羽田耕一が立った。このシリーズ第2戦では、江夏豊から適時打を放っている。江夏は、初球に直球を選んだ。<1球目> 外角へのシュート or 直球。羽田は迷わずにバットを振り切った。江夏が慌ててグラブを上に出したが追いつかず、打球はライナーで飛び、二塁ベース後方でバウンドし、ゴロになってセンター達した。一塁側スタンドから紙テープが飛んだ。近鉄にとって、願ってもない絶好のチャンスである。そして、代走に足のスペシャリスト・藤瀬史朗が送られた。江夏豊の話「あいたー、と思った。この回を放ればもう休めると思っていたね、もう今年は野球をしなくてもいいと思っていた。簡単にシュートでストライクを取りに行った。1点リードされていて、9回、先頭打者はふつう初球から打ってこないと思っていたしね」羽田耕一の話「外の真っ直ぐですよ。初球から真っ直ぐを狙っていましたからね。バットはすんなり出たという感じです。まぁ、会心の当たりというところですね」■羽田にとってはしてやったり!の最高の気分だったろう。代走が送られてベンチに戻る時は、 「戻ってこいよ(本塁に生還しろよ)」と藤瀬に声をかけた。だが羽田は、「和製大砲」「大器」と呼ばれ、背番号「3」を背負いながら、未完のまま選手生命を終えた感がボクには強い。チャンスでもピンチでも飄々とした表情で、まるで闘志というかやる気が見えず、結局凡打を繰り返した印象がある。だから、ボクはファンとして、いまひとつ信用できない選手だった。この時から9年後、「10・19」第2試合の最後の打者になったのも(二ゴロ併殺)、この羽田の無気力に見えたバッティングだった。江夏はさらに、こんなことも言っていた。「羽田には第3戦の時の印象があったんだね。こっちが1点リードしているときの9回やったな。ノーアウト・ランナー・セカンドで出てきた羽田が、カウント1-2からじつに簡単にフライを打ち上げた。もうちょっと工夫して打てばいいのにと、オレが思ったくらいだった。あんまり賢こうない奴だなと思った」。ま、そのことはいい。1点差を追う9回、近鉄は無死一塁の絶好のチャンスを作ったのだ。しかも一塁走者は藤瀬だ。でかしたぞ、羽田!※出典はすべて、最終回に書きます。今日も1クリックお願いします
2012.12.08
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■ボクは、これまで何度も書いてきたとおり、今はなき近鉄バファローズの大ファンだった。好きになった理由は他愛ないことだったけれど、次第に近鉄の魅力に引き込まれていった。なぜだったんだろう? ボクにとって、いったい近鉄の何が魅力だったのか。その答えを、いまだにうまく説明できないでいる。ただ言えることは、1988年10月19日のロッテ・近鉄戦、いやゆる「10・19」と、1979年の日本シリーズ(対広島戦)で天国と地獄を魅せた、いわゆる「江夏の21球」に、近鉄の魅力すべてが凝縮されていたのではなかったろうか、今になってそんな予感がある。 ■「江夏の21球」については、これまで様々な記事が書かれている。でも、どの記事も「なるほど!」と思うものの、まだ自分の気持ちとは少しズレている気持ちがある。たぶん近鉄が好きなんだぁ~、という一心で書かれたものがないことがその理由なんだろう、そんな予感が頭にある。だから自分なりに、そのズレを埋める作業を勝手にやっていけたらいいなと、そんなことを漠然と考えるようになった。■最初から、あまりハードルを上げたくないけれど、このブログを通して、自分なりにまとめていきたいと思う。 ボクは以前も「江夏の21球」について書いたことがある。ただそれはまったく体系的にまとまった代物ではなかったから、今後、何度も何度も取材メモ風に書き加えて(上書き)いけば、自分なりに近鉄バファローズの魅力を整理できるんじゃなかろうか。そんな思いをもちながら、「江夏の21球」を1球ずつ、ゆっくりゆっくりと書いていきたい。 (写真)『近鉄バファローズ球団史』ベースボール・マガジン社刊今日も1クリックお願いします
2012.12.07
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前回の続き。■3たび甲子園で激闘を繰り返した、浪商高・尾崎行雄(後に東映)と法政二高・柴田勲(後に読売)。この2人以外の選手たちも凄かった。浪商が三度目の正直で勝利した、1961年夏の両校メンバーを以下に記載する。<浪商>1 (6) 金井 義彦2 (5) 大熊 忠義3 (4) 住友 平4 (3) 前田 周治5 (1) 尾崎 行雄6 (2) 大塚弥寿男7 (7) 高田 繁8 (9) 脇田 政治9 (8) 岸本 満<法政二>1 (8) 的場 祐剛2 (9) 五明 公男3 (1) 柴田 勲4 (5) 是久 幸彦5 (7) 内田 宏行6 (3) 原田 忠男7 (4) 増山 光洋8 (2) 関根 誠二9 (6) 長島 武光■まず浪商のメンバーから。大熊忠義(後に近畿大中退-阪急、現・野球解説者)阪急の黄金時代、福本豊が1番に定着後は、主に2番打者としての福本の足をアシストするためバントや右打ちを徹底し、チームの勝利に貢献した。住友平(後に明治大-阪急)指導者としては上田利治監督の懐刀としても活躍した。また現役時代は、大熊とともに阪急の黄金時代を主力選手として支えた。高田繁(後に明治大-読売)甲子園優勝した1961年夏はまだ1年生だった。初回、法政二が先制点を挙げたのは、レフトを守っていた高田の緩慢なプレーが原因と言われている。それを見逃さず生還したのは柴田。読売V9戦士の柴田と高田が高校時代に対戦していたこと自体、とても面白い。なお、浪商には、尾崎の2年先輩に張本勲がいた。■そして法政二のメンバー。五明公男(後に法政大-法政大監督)法政大監督時代は江川卓、金光興二らを率い、法政の黄金時代を築いた。なお、1961年夏の浪商戦に出場しなかったが、エース・柴田の1年後輩に村上雅則がいた。■写真は、雑誌『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社、2007年刊)より引用した。 (写真)浪商時代の尾崎行雄投手(写真)法政二時代の柴田勲投手 今日も1クリックお願いします
2012.12.02
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(前回の続き)■狭い店内の厨房に、元・東映フライヤーズの尾崎行雄さんはいた。一見、どこにでもいる普通のおじさんだけど、忙しそうに料理を作る両腕は、まるで丸太のようにぶっと(太)かった。元豪腕投手の名残なんだろうか?手の動きが止まるのを見計らって、テーブル席から声をかけた。ボク「マスター、誕生日は9月11日でしょ」尾崎さん「えっ、何で知ってんの? テロのあった日だよ」ボク「そうそう、リメンバー9・11...」こんな突拍子もない話題から始まった会話だったけど、掴みとしてはOKだった。その後、しばらく話は続き、ボクの興奮はなかなか収まらなかった・・・。内容は書かない。今後はこのお店に通い、じっくり話を聞いて、承諾を得た上でこのブログに書けたらうれしい。(写真)サイン色紙「耐えて勝つ 東映フライヤーズ 尾崎行雄 19」ボクは尾崎行雄さん(浪商高中退-東映)の現役時代をリアルタイムで見るほど年をとっていない。ただかつて豪腕と呼ばれるほど有名な投手だったことや、甲子園では法政二高と三度にわたる激戦を演じたことは日本野球史の名勝負であると知っている。また子供の頃「プロ野球選手名鑑」という本を読んで、尾崎さんの誕生日が9月11日だと知り、いまだにそのことを覚えている。理由は簡単、ボクも同じ誕生日だから。そんなどうでもいいことが会話の掴みになったのだから嬉しい限り。■いま手元に雑誌『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社、2007年刊)がある。この中に「スーパーライバル対決」という特集があって、見出しには「快腕と豪腕の追憶。1960年夏、1961年春夏―三たび激突した。史上最強の好敵手同士が語り尽くす、わが青春の甲子園」と書かれている。尾崎さんを語るとき、エース・柴田勲さん(後に読売)を擁した法政二高との三度にわたる対決は外せない。このふたりの対決を振り返る。(写真)『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社刊)≪アーカイブ≫「豪腕」浪商高・尾崎行雄と「快腕」柴田勲の最初の対決は1960年夏、甲子園2回戦だった。(1)1960年夏 2回戦(8月15日)法政二高 4-0 浪商高法政二 000 000 040 =4浪商高 000 000 000 =0(法)○柴田、(浪)●尾崎この時、尾崎は1年生、柴田は2年生だった。柴田「あの年、慶應高校に渡辺泰輔(慶應大‐南海)さんという剛速球投手がいてね。僕らはその渡辺さんを打てないと甲子園に行けないというんで、速いボールを打つ練習はかなり積んでいたんだよ。でも尾崎君の球は速かったよ。手元でピュッと伸びてたもの」尾崎「たしかに速かったかもしれないけど、僕の場合は速いだけ。その点、柴田さんのピッチングは、制球力といい配球といい、ほぼ完成されていましたものね」 (以上、前出の『忘れじのヒーロー』より引用)。補足のため、別の書籍から以下に引用。「スコア0-0で迎えた8回、カーブを多投し疲れの見えた尾崎を攻略するため、法政二高の田丸仁監督は打者に外角のストレートとカーブに的を絞らせ、一挙4点を奪い勝利を決めた。その後も勝ち進んだ法政二高がこの大会を制した」 (『甲子園-名投手物語』 鈴木俊彦著、心交社刊)(2)1961年センバツ 準々決勝(4月3日)法政二高 3-1 浪商高法政二 000 020 100 =3浪商高 010 000 000 =1(法)○柴田、(浪)●尾崎柴田「尾崎投手は前年の夏よりもさらに速球に磨きがかかっていた」尾崎「打倒・法政二高で燃えていましたからね(笑)。自分で言うのもなんですが、1回戦の日大二戦は17奪三振、2回戦の明星戦は14奪三振でともにシャットアウト。ほぼ完ぺきの状態で法政二戦を迎えたんですよ」柴田「うちとの試合でも最初から飛ばしていたんだよね」尾崎「たしか4回までノーヒットで毎回の7奪三振。味方も2回に1点取ってくれたんで、今度は行けると思ってたんですがね~」 (『忘れじのヒーロー』)「事実上の決勝戦とも言われたが、イレギュラー打球の不運などもあり、浪商高は再び法政二高の軍門に降った。その後、法政二高はこの大会でも優勝した」 (『甲子園―名投手物語』)(3)1961年夏 準決勝(8月19日)浪商高 4-2 法政二高浪商高 000 000 002 02 =4法政二 100 100 000 00 =2(浪)○尾崎、(法)●柴田尾崎「8回を終えて0対2と2点ビハインド。でも不思議と負ける気はしなかった。それは柴田さんが肩か肘を故障しているという情報が入っていたから」柴田「あの時はもう腕が上がらない状態。なんとかだましだまし投げていたんだけれど、9回表に一死からデッドボールを与えてしまって・・・。その後連打を喰らって二死満塁。迎えたバッターは5番・ピッチャー尾崎」尾崎「たぶん、あの打席まで柴田さんから一本もヒットを打ってなかった。でもあの打席は不思議と落ち着いていた。そしてカウント2-2からの5球目、ションベンカーブが肩口からスーッと入ってきた。変化球は苦手でしたが、さすがにアレは打てました」 (『忘れじのヒーロー』)「打倒・法政二、打倒・柴田が浪商ナインの合言葉だった。燃えに燃えて臨んだこの試合は延長11回の末、三度目の対決でやっと初勝利。そして浪商は決勝も勝利し、この大会の優勝を決めた」 (甲子園―名投手物語)「延長11回表、無死一・二塁から、併殺を狙った二塁手のエラーで1点を勝ち越し、さらに尾崎の犠飛で2点を奪い、法政二を4-2で破った。決勝戦では、森川勝年(慶應大‐松下電器)がエースの桐蔭高を3安打で完封して優勝した。2年生の尾崎投手は5試合で54奪三振をマーク、翌年の活躍が期待されたが、11月に高校を中退してプロ入りした」 (『高校野球 甲子園全出場校大事典』、森岡浩編、東京堂出版刊)次回に続く。今日も1クリックお願いします
2012.12.01
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