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森田理論の学習とその応用は車の両輪であるという。全くその通りである。理論の車輪が小さい時は、実践・行動の車輪は小さくてもよい。肝心なことは同じ大きさであるということだ。同じ大きさだと、前に向かって進むことができる。ところが森田理論学習は深まっているのに、森田理論の活用や応用面の進捗度合いが停滞すると問題が起きる。理論の車輪がトラックの大きさなのに、実践・行動・体得の車輪が自転車ぐらいだと想像してみてほしい。するとどうなるか。言うまでもないことである。前には進まない。自転車の車輪を起点にして、トラックの車輪がぐるぐるとその周りをまわり続けるようになる。こうした状態になると、症状が改善することはない。むしろ悪化の一途をたどることが十分考えられる。森田理論学習があだとなっているのである。またそれを自信たっぷりに吹聴するものだから、周りの人はたまらない。森田原著の学習に熱心なあまり、一字一句正確に理解しようとしている人は、この点十分に注意をしておく必要がある。また時々、「頓悟」と言って、急に目の前の深い霧が無くなり、視界が開けてきたと言って喜ばれる人がいる。これも理論と実践のバランス面からいって問題があるように思う。行動・実践・体得が「森田の達人」レベルに達している人が、森田理論を人間学的に深く研究していくことはとても意味がある。あるいはそう言う人が「悟り」の境地に達することは素晴らしいことだと思う。それでは、理論に見合った行動・実践・体得とは何か。これは神経症が治るというそれぞれの段階に対応していればよいのである。まず、初歩的な段階。規則正しい生活ができている。日常茶飯事、雑事を大切にしている。ものそのものになりって行動している。好奇心の発揮。一人一芸を身につけている。物の性を尽くしている。自分、他人、時間、お金等持っているものを活かしている。無所住心の生活をしている。変化対応の生活ができている。等である。次の段階。「かくあるべし」の弊害がよく理解できて、思想の矛盾が打破できていること。理想主義、完全主義、強いコントロール欲求、目標至上主義、自己嫌悪、自己否定の弊害がよく理解できていること。特に他人を自分の意のままにコントロールしたいという気持ちが乗り越えられていることが重要である。そして、行き過ぎたときでも、すぐに現実、現状、事実に立ち戻り、そこから再出発できる人。そして一歩一歩目標に向かって努力している人。さらに上の段階がある。自分、他人、出来事を是非善悪で価値判断しなくなった人。自然の流れのままに身をゆだねて、自然と一体となった生活を送っている人。そして、人の為に役立つ行動をとれる人。以上のように森田理論学習にあたっては、行動・実践・体得とのバランス、調和が大切なのである。それから外れていては「森田の達人」とは呼べないのである。
2015.12.31
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先日車を運転していた時のこと。前の車の人が信号待ちで止まっていた時に、中央分離帯の植え木の中に空き缶を投げ捨てていました。植え木の中を見ると空き缶がいっぱいありました。その他弁当のカラのようなものもあります。たまにタバコの吸いかけのようなものを、まだ火がついているのに車外に投げる人もいます。私の勤務しているマンションでも、タバコのぽい投げをする人がいる。解放廊下には塩ビのシートが張ってある。ポイ捨て場所は黒く変色している。直すことはできない。張り替えしかない。また壁に火のついたタバコを押しつけて消している人もいる。大規模修繕工事が終わったばかりなのにすぐに汚くなってしまう。またある人は、駐車場の死角になっているところに、弁当ガラ、飲物の空き缶、汚物等を巻き散らかしている人もいる。監視カメラにすべて録画されているのが分かっていても何食わぬ顔でやってしまうのである。先日のテレビ報道では、テレビ、冷蔵庫、クーラーなどはリサイクル料がかかり、大型ごみでは市役所が持って行ってくれないので山奥に持っていって捨てる人が後を絶たない。そう言えば富士山の世界遺産への登録が遅れたのも、ゴミの多さであったという。ヒマラヤでは世界各地の登山家の残していったゴミの山であるとも聞く。どうしてそんなことを無神経にできるのか。自分さえよければ、道路、マンション、山が汚れても平気なのか。親はどういう教育をしていたのか。親の顔が見てみたい気がする。これをどう考えていったらよいのだろうか。ポイ捨てをしても罪悪感が全く起こらないという人は、もうどうすることもできないのかもしれない。その人たちはポイ捨てによってゴミが片付いて自分たちがスッキリすれば、他の人に不快な思いをしてもなんとも感じない感性しか持ち合わせていないのである。一方その人たちのせいで、なんともいえない不快な気持ちになる私たちの方はどうか。その人たちのふるまいを決して許すことはできないと思っている。見つけると処罰しなければ気が収まらないと考えている。これを森田理論で考えてみたい。ポイ捨てする人とそれを苦々しく思っている人は価値観が全く違うのだと思う。ポイ捨てする人は、ゴミは我々が支払っている税金で業者が清掃すれはいいではないか。そんな小さいことで目くじらを立てるな。神経質で嫌味な奴だなと思っている。我々はしかるべき時に分別収集して出せば、税金も無駄にならないし、第一清潔で気持ちいいじゃないかと思っている。相方が全く反対の気持ちを持っているのである。こういう場合、まずポイ捨てする人には、環境破壊の現実を教える必要があると思う。次に、ポイ捨ての事実をよく見ることだ。そして、ゴミ箱、灰皿を設置する。あるいは喫煙場所も設置する。自動販売機のそばに空き缶回収箱を設置する。それでもポイ捨てする人はいるだろう。その場合は、その事実を認めるしかない。そして自分が片付ける。今でも年に2回は自治会主催のゴミ拾いの集まりがある。事実を認めると、相手を非難して対立関係になることは少なくなる。事実を処理する方に気持ちが向いていく。どんなに理不尽で、腹だたしいことであっても、価値判断しないで事実をよく観察して、事実を認めていくという態度が事態を好転させる。
2015.12.30
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対人恐怖症が治るということはどういうことか考えてみました。対人恐怖症の人は他人の思惑ばかり気にしています。他人が自分を大事に思ってくれているかどうが気になるのである。反対に拒否されたり、無視されたり、否定されることは耐えられないのです。では対人恐怖症が治るということは、他人の思惑が気にならないことだろうか。答えは否である。だいたいそんなことはあり得ない。そういう不安を問題にしてはいけない。それを抱えながら生活がどう変化しているかが判断材料になる。日常生活が規則正しく、きちんと送ることができているかどうか。あるいは仕事、勉強、家事、育児、介護などが曲りなりにでも出来ているかどうか。人と比較するのではなく、それを自分の過去と比較するのである。過去よりも多少でも活動的になっていれば、対人恐怖が改善できているのである。治ったかどうかというのはそこが問題である。決して不安が無くなっているとか、軽くなっているかいう問題ではない。気分の問題ではなく、生活が前進しているかどうか。ここが問題なのだ。決して不安という気分を物差しとして判定してはならないのである。例えば不安でビクビクハラハラしながら定年まで勤め上げました。こういう人は対人関係の苦しみが強くて、自分では納得できないかもしれないが、神経症を克服したと言えるのである。さらに趣味や目標を持って、一心不乱に打ち込むことができたという人。こういうことができている人はさらによくなっている人である。でもうつ状態が続いて、気分が悪く、死んだ方がましだと思っていても治ったと言えるのですか。そんなのはうそだと反発がかえってきそうです。確かにそれはきついです。これに対する答えです。治り方にはさらに上の段階の治り方があるのです。第一段階で不満足な人は、その段階を目指して行動すればよいのです。森田先生は、感情、自分、他人、自然を自分の意のままにコントロールしてはならないと言われています。自分の思い通りにならない事実を、そのままに認めて、受け入れるようにすれば苦しみはなくなると言われています。つまり「かくあるべし」で物事を上から目線で見るのではなく、どんなにか理不尽で我慢できないような出来事でも、事実を事実として受け入れていくということです。これを森田理論学習では思想の矛盾の打破といいます。事実をよく観察する。両面観で見る。方法としては「私メッセージ」「純な心」を使ったコミュニケーションを心がける。他人の話を傾聴し、受容と共感の態度を前面に押し出す等です。まだまだ良くなりたいと思われる人もあるかと思います。森田理論学習ではまだ上の段階の治り方も指導しております。森田理論では、事実はよいとか悪いとか、正しいとか間違いだとか価値判断をしてはならないと言われています。事実はよく観察する。細かく具体的に話す。両面観で見る。私たちに許されるのはそこまでです。その先、先入観や決めつけ等でいい悪い等の価値判断をしてはならないということです。価値判断をしない、事実唯真の態度です。こういうことが過去と比べて改善できているかどうかが肝心なところです。改善できていれば、神経症はほとんど良くなっているというわけです。決して気分的に楽になっているかどうかで判断してはいけません。行動や事実がどう変化してきているかが決め手となります。行動に重きをおいていると、次々と不安にとらわれることはあっても、次から次へと流すことができるのです。最終的にはその段階を経て、「生の欲望の発揮」に向かってものそのものになりきっている段階が理想です。
2015.12.29
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(学習テーマ) 感情の法則を生活に活かす(学習のねらい)この部分の内容は森田理論学習基礎編、「感情の法則」にあたります。(内容説明)感情の法則1 感情はそのまま放任し、その自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなしひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。感情は基本的には、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、やがて小さくなり、ついには消失してゆきます。ですから不安、恐怖、不快、怯え、悲しみなどの感情はそっとしておくことが肝心です。その感情を刺激しないいでやり過ごすことを心がけることでよい結果になります。感情の法則2感情は衝動を満足すれば、急に静まり消失するものである。不安、恐怖、不快、怯え等の感情を持ちこたえられなくて、そのまま相手に向かって掃き出してしまうことはよくあります。その時は少しだけ楽になります。ところが交通事故と同じようなもので、その後は長きにわたって償いをしなければならなくなります。それらの感情はイライラしてとても苦しいものですが、持ちこたえることが特に大切になります。感情の法則3感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである。この法則は実際に生活に応用していただきたいと思います。感情は同じ行動を長時間にわたり続けていると、体自体が疲れてきます。また飽きが来ることもあります。刺激が無くなって精神が弛緩してきます。マンネリ化して緊張感が無くなってしまうのです。それを回避するためには、時間を区切って、時間がきたら次の行動に移ることです。森田先生はそのことを「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われています。勉強していて眠くなってしまった時は、散歩したり、体を動かしたり、お風呂に入ったりすると、また頭が冴えてくるということがあります。岩田真理さんは30分おきに仕事の内容を変えていくという心構えで生活されているそうです。感情の法則4感情は、その刺激が継続して起きるときと、注意をこれに集中する時に、ますます強くなるものである。これは感情を強める場合の法則です。継続的に刺激を受ければ、必然的に意識と注意がそこに集中することになります。実際には、強く意識すればするほど注意が集中し、注意が集中すればするほど強く意識するという関係が成立して、両者が交互に作用しあって感情を強化することになりますが、森田理論ではその働きを「精神交互作用」といっています。たとえば、視野の中にある特定の部分だけを「見ないようにする」ことは、結果的に、そのものに注意を集中することになります。さらに進んで「見てはならない」ということになれば、ますますそのものを意識し注意を集中することになります。「絶対に見てはならない」ということになれば、絶えずそのものが見えることを恐れるようになります。そうなると、注意は常にそのものに向けざるを得ないのであって、こうして注意の固着が発生します。そうなりたくなければ、どんなに嫌でも「見えるものは見る」「感じるものは感じる」「聞こえるものは聞く」ようにすればよいのであって、素直にその時の事実に従っていれば、決して注意の固着などは起きないのです。感情の法則5感情は新しい経験によって、これを体得し、その反復によって、ますます養成されるものである。これも感情が強化される場合の法則です。新しい経験というのはプラスの経験とマイナスの経験があります。神経質の素質を発揮して小さい雑事を丁寧にこなしてゆくことによって、建設的な感情や社会的な感情も育ってきます。とらわれてきた人は、マイナスの経験を積み重ねているようです。森田先生は、神経質者はなにごとにも逃げ腰であり、また悲観上手であるといわれています。「思うようにできなくて悔しい」、小さい失敗をすると「ああ、自分はダメだ。会社を辞めなくてはいけない」などと考えます。こうゆう態度や姿勢で生活していると、どんどん内向し、主観の世界にどっぷりとつかってしまいます。感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志よってコントロールできるものではありません。この部分の理解と実践は特に重要です。悪天候、台風や地震、津波、土砂災害等の自然現象を人間の意のままにしようとする人はいません。ところが自分に湧き起ってきた不安、恐怖、不快、怯え等の感情は自由自在にコントロールしようとするのです。イヤな感情はどうすることもできない。そのままに受け入れていくしかないということをしっかりと認識することが大切です。これができるようになると、自分に対しても、他人に対しても「かくあるべし」という考え方を押しつけて、自分の思うがままに、コントロールしようという気持ちが少なくなってきます。自分や相手の存在価値を認めて活用していこうという方向に変化してきます。森田でいう「あるがまま」の態度で生活できるようになってきます。感情は意志によってコントロールできないが、行動、実践することによって新しい感情を作り出すことができる。私たちは「発生してしまった感情は、意のままに変えることはできませんが、行動することによって、新しい感情を作り出すことができる」ということを、決して忘れてはいけません。新しい行動を起こすことによって、新しい刺激を作り出し、新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が発生してきますと、とらわれていた古い感情にいつまでもかかわっておられないという状況が生まれます。でも、気になることは、ふとした瞬間にまたぶり返すでしょう。その時、行動実践を怠らないで、イヤイヤ仕方なしでも手をつけていると、そのとらわれた感情は時がたつにつれてしだいに薄まってゆき、ついには森田先生のいわれる「無意識的注意」の状態になってきます。つまり症状から解放されてくるのです。(話し合うテーマ、課題)・感情の法則の活用方法で疑問点があったら出しあってみましょう。・自分の生活の中でどんなことを取り入れてみたいと思われましたか。
2015.12.28
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服たちのささやきを聞いてみましょうもう嫌になっちゃう。こんなに洋服ダンスにギュウギュウに押し込められちって。一睡の余地もない。満員電車並みなんだから。私なんか身動きが取れなくて、袖や襟もとなんかシワくちゃだらけなのよ。込み合い過ぎて息がつまりそうよ。でもね、私なんかまだいい方かもしれない。古くからいた人なんか引戸のタンスの中に、これでもかというぐらいに押し込められて、せんべい布団状態なのよ。それから洋服ダンスの下や段ボールに入れられている人もかわいそうよね。もう邪魔者って言うのが見え見えじゃない。もうあの人たちの顔を見ることは多分ないだろうと思っているのよ。私ね、あなたがうらやましい。ご主人にひいきにしてもらって。しょっちゅういろんなところに連れて行ってもらって。気持ちよい風にあたったり、お天とうさんにあたったりしてるじゃない。時にはクリーニングに出してもらって、その度ごとにますます磨きがかかっているじゃない。この家ではあなたが一番の出世頭だとみんなで話しているのよ。私なんか最初ここの家に来てほんとによかったと思っていたのよ。これからは精一杯ご主人さまのお役に立とうと思っていたのよ。2、3回ぐらい外に連れて行ってもらったかな。あの時はほんとに楽しかった。でもそのうち、お前はちょっと寸足らずだとか、スタイルが変だとか、顔色が悪いとか言われて無視されだしたのよ。だから最近ストレスがたまるばかりなのよ。特に梅雨の時期はしんどいよね。カビさんたちがよってくるのよ。私なんか木綿や麻でできているでしょ。カビさんに好かれるたちなのよ。そこからどんどんシミが広がっちゃうのよ。このままでは全身にシミが広がっちゃうわ。もう元には戻れないかもしれない。この間はネズミさんがやってきて、久しぶりに美味しいものが食べれるとかいうのよ。ウールさんが一番好みみたいよ。その次に私たち木綿、絹、麻が好みみたいなの。だからネズミさんの足音がするといつもびくびくしているのよ。そうそう、この前親戚の子どもたちがやってきて、ご主人さんが私たちの仲間をたくさん里子に出したのよ。10人ぐらい昔の仲間がもらわれていったのよ。多分、心機一転、頑張ってるんじゃないかと思っているんだけど。私は以前、バザーとかいうところに行ったことがあるの。一緒に行った仲間は喜んでもらわれて行っちゃった。別れるのはつらかったけど、働き場所が見つかってみんなで喜びあったわ。私たち服はご主人さまに着てもらって始めて価値があるんだからね。でも私は、「ちょっと今の時代に合わないわ」と言われてしかたなく出戻りしたの。その時はショックで落胆したわ。もうこれで私の人生終わったと思ったの。ご主人さまの友達に聞いたらね。四季に応じて服は収めたり、出したりしているんですって。そのたびごとに洗濯したり、天日干し、陰干しもしてくれているんだって。私もそんな家にもらわれたかった。今のご主人様では無理よね。わたしは一回ご主人に聞いてみたいことがあるのよ。私たちがいるのに、どうして、どんどん新しい服を買うんですか。私たち古株の服に対してあて付けをしているんですか。それで私たちがどんなに傷ついているのか考えたことがあるんですか。せめて1年に1回でもいいから外に連れて行ってほしい。私だけでなく、他のみんなも1年に1回でいいから外の空気を吸わせてあげてほしい。多分ご主人様はこう言うと思うの。「服の分際でご主人様に意見するのか」「そんな奴は資源ごみに出してしまうぞ」それがつらいよね。ご主人様が森田理論を学習してそのあたりのことを察してくれるといいんだけどね。
2015.12.27
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この12月は忘年会、懇親会などが5回もあった。今回気をつけたことは、調子に乗って二日酔いにならないこと。そして、みんなを喜ばす芸を最低3つは用意して参加すること。二日酔いはクリアできた。私のやり方は、最初は抑え気味に入ることだ。最初は海鮮サラダや先付け等、食べる方に重点を置く。そしてみんなの飲み具合をよく観察している。そしてだいたいみんなが飲み終えるのを待ってから、最後に飲み終えるようにしている。少なくともそういう気持ちは持って参加している。そのうち、弾みがついてくるが、最初に抑えているとそんなに酔わない。もう一つチャンポンはよくないと思う。飲み放題になると、ビール、お酒、冷酒、焼酎、ワイン、カクテル、サワーなどがある。2種類ぐらいにしておかないと、酔いが早く回るような気がする。それにしても、最近不思議に思うのは、お酒を飲まない人が多いのに驚く。自制しているか。それとも全く飲めないのか。全く飲めないと言われると、なかなかうちとけにくいように思う。次にみんなを喜ばす芸だが、今回用意したのは替歌、しばてん踊り、「お経」の口上、カラオケとして「ヨネスケの長生き音頭」であった。みんながやってくれればそれを楽しむ。自分がでしゃばらないように注意している。誰もやらないと、自分が音頭をとってみんなを喜ばしてあげればよいのです。替歌は、お座敷小唄の替歌で「ボケない音頭」です。セミプロに歌ってもらった録音をマイクを通じて流します。歌詞を模造紙に書いたものを掲示します。これを見てみんなに歌ってもらうのです。何もしないで ぼんやりとテレビばかりを見ていると 呑気なようでも歳をとりいつか知らずに ボケますよ・・・・・・・・6番まで続きます。「お経」の口上は次のようなものです。大きな数珠と袈裟は用意します。・・・・ニンジンゴーボー筑前煮がんもや卵はおでんにせい寒い冬はブリ大根暑い夏には生ビール飲み過ぎ食べすぎ即キャべジン精力減退養命酒疲労困憊アリナミン法事はたびたびひらけお布施はたくさん包め寺への寄付を忘れるな......チーン 一同合掌思わず手を合わせる人が何人かいます。ここがポイントです。その他、乾杯の音頭をとってくれと言われた時の為に、こんなあいさつも用意しています。これはパチンコ屋の店内放送を参考にしています。ありがとうございます。本日の懇親会ご参加誠にありがとうございます。主催者を代表いたしまして厚くお礼申しあげます。懇親会は普段の疲れを癒し、ストレスとうっぷんの捨て所。あなたの腕の見せ所。一曲二曲と歌を歌われれば、さらに盛り上がります懇親会。またとっておきの隠し芸などをお出しになれば、あなたウキウキ、見る人ハラハラ。どうぞ演目をお選びになったうえ、羽目をはずして、楽しくご演技下さいませ。・・・・・私は宴会芸に「ものそのもの」になって取り組んでいます。「宴会芸の達人」と言われるようになれば、そちらに全力投球しますので、神経症で悩むエネルギーが少なくなると思います。みなさまもぜひ挑戦してみてください。
2015.12.26
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12月の広島の100メーター道路の風物詩です。
2015.12.25
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久しぶりにユーモア小話を作ってみました。最近夫が夜遅く帰ってくる。もう何日も家で夕食をとったことがない。そしてアルコールの匂いをプンプンさせている。風呂からあがると、テレビを見ながらそのままソファーで寝てしまう。妻「ああイヤだ。いっそ離婚して自由に暮らしたい。でも将来の生活設計が立たない。どうしたらいいの」スナックのママをしている友人が、「私の接客法を試してみなさいよ」という。ママ「まず化粧は手を抜いてはダメよ。身なりも小奇麗にしておくの」そして夫が帰ってくるとこう言うのよ。「まあー、お久しぶり。首を長くして待っていたのよ」つぎに、すかさず「お絞り」と気のきいたビールのつまみを出すの。夫がビールを飲み干すと「まあー、いい飲みっぷり。ほれぼれしちゃうわ」カラオケ設備があればなおいいわね。夫に18番を歌わせて、「まあー、お上手ね。これならプロの歌手も真っ青よ」上司や得意先のグチを言い出したら、「分かるわ、その気持ち。つらいわね。出来ることなら代わってあげたいわ」旦那が「もう帰る」と言ったら、「水臭いわね。今夜は泊って行ってもいいのよ」と、その後に期待を持たせるのよ。妻「いまさらそんな歯の浮いたようなこと、冗談でも言えないわ」ママ「あなたなら大丈夫よ。だって、虫歯の治療で歯が浮いているじゃない」チャン チャン
2015.12.25
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盲目の津軽三味線の名人に高橋竹山(1910-97)さんがいた。北島三郎の「風雪ながれ旅」のモデルになった人だ。この方は若いころは生きるために「門付け」を行っていた。津軽の家々を回り玄関先で三味線演奏をしてなにがしかの施しをもらって生活していた。寒い雪の中を歩き、石を投げられたり、三味線を壊されたり、施しをもらえなかったりと苦労の連続でした。とくに戦争中が一番苦しかった。高橋竹山さん曰く。「目が見えなくて戦争にも行けん、役にも立たん、ゴク潰し、非国民と言われ、ひどい仕打ちを受けた」そうです。それでも、へこたれずに精進を重ねて演奏技術を磨いてこられたのでしょう。これこそ森田でいう「生の欲望の発揮」だと思います。50歳を過ぎてようやく認められるようになり全国のステージに立つことができるようになりました。さまざまな賞もいただきました。さらにフランスやアメリカ等で海外公演も行いました。厳しい評論で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずしてなんであろう」と最高の賛辞を贈ったそうだ。晩年は自分の人生などについて吶々と語りながらの演奏スタイルをとった。その中でこんな話をされた。「あの頃、誠に苦しい体験をしました・・・・叩かれ、蹴られ、石を投げられ、三味線を壊されました・・・・何も悪いことをしていない自分に、なぜそこまで・・・・つらかった、苦しかった、悲しかった・・・・でもその人たちに申し上げたい・・・・許してください」私はこの「許してください」という言葉に衝撃を受けた。普通なら、あんな理不尽な仕打ちは決して忘れることはできません。今でも憎み続けていますというのではなかろうか。また自分だけが病気で目が見えなくなった。どうして自分だけがこんな運命にもてあそばれなければならないのか。運命を呪ったとしても不思議ではありません。百歩譲ったとしても、「もうその人たちのことを恨んではいません・・・・そのおかげで今があるのですから・・・・きれいさっぱり忘れて許してあげたいと思います」というのが普通だと思います。それを聴衆に向かって「自分を許してほしい」と頭を下げられた。許してくださいというのは、自分が相手に何か悪いことをして罪悪を感じている。懺悔の気持ちを感じて膝まづいて心の底から詫びているのである。私はここに高橋竹山さんの、人間としての素晴らしさを感じます。森田理論で考える私の解釈はこうだ。高橋さんは、長らく自分は被害者という気持ちがなかなかとれなかったのだろうと思う。そして自分に対して理不尽な言動を繰り返す人たちは加害者である。つまり他人といつも対立関係にあったのだ。それは相手の言動を悪いことをしていると価値判断していたということだ。運命に対しても、過酷な運命に翻弄された自分は被害者だという意識だったのだろう。それを途中で気がつかれたのだろう。盲目というのも事実。人から理不尽な扱いを受けているのも事実。事実はそのままに認めるしかない。それを自分はいいか悪い、正しいか間違い、幸福か不幸というように価値判定をしている。事実をそのまま認めて事実そのものになりきって生きてゆけばいいのではないか。価値判断をしてしまうと相手に腹を立てたり、憎んだりする。また自己嫌悪、自己否定で苦しみや葛藤を作りだし、生きる意欲が無くなってしまう。価値判断は自分勝手な思いこみ、勘違い、とらわれ、錯覚、執着がもとになっている。他人には他人なりの思い、考え方があって当然だ。自分の思いや考え方とは全く違う。それが対立していてはけんかになるばかりである。価値判断を止めて事実だけを認めて生きてゆこう。どんな過酷な運命でも、どんな理不尽な言動でもそこを出発点にして少しでも上を目指して生きていくことにしよう。実際に高橋さんは人の魂を揺さぶる演奏を披露されている。「自分を許してほしい」というのは、今まで是非善悪の価値判断をして自分や他人に反発ばかりしていた。もう二度と価値判断をすることはいたしませんという強い決意の表れだったのではないでしょうか。この考え方は神経症が治るという点から見ると第3段階目にあたります。森田先生の言う大学卒業程度にあたります。この段階に到達することはとても難しい。竹山さんが理解して実践されていたということが驚嘆にあたいするのである。
2015.12.24
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再び伊丹先生の本から引用してみよう。東京都在住の42歳の女性は、近くのがん拠点病院で卵巣ガンの化学療法を3種類の組み合わせで次々と行い2年間経過したが、あるとき「標準治療では効果が限界です。これ以上の治療法がないので、あとはホスピスに行ってください」と言われ、都内の緩和医療施設の一覧表を渡された。これはこの病院は手術、抗がん剤、放射線の初期治療は行います。しかしそれでもガンが治らなかったり、再発するようなことがあると、基本的には我々としてはお手上げなのです。これ以上の治療は行いません。だからこの病院から出ていってもらわなければなりません。そういう場合は潔く治療を続けることはあきらめてください。痛みを取り除いてくれる病院を紹介しますから楽になって死を迎えてください。なんとも腹立たしいことである。つぎにホスピスでのこと。50代の女性が「最近食欲がなくて心配です。食欲が出るというヒスロンHという薬を処方してほしい」とお願いしました。すると担当医が言うことは、「あなたがまだ生きたいともがいているなら、ここには来なくてよろしい。ここは生の執着をなくして清らかな気持ちになって、死を受け入れるように誘導するためにある病院です」なんと不人情な医師であろうか。こんな人は生まれ変わったら二度と医師にしてはならないと思う。患者さんの生きたいという気持ちに寄り添うのが医師の仕事ではないのか。関西在住の57歳の女性は、5年前に乳がんが再発し、腰痛が激しくなりホスピスに入院した。その時ご主人がホスピス長に会い、まだ未承認のホルモン療法剤、化学療法剤、骨移転の特効薬ゾメタの投与を希望したところ、「ホスピスの入院料は定額制で、どんな治療をしても1日37800円の収入にしかならないので、抗がん剤のような高い薬を使うと赤字になってしまう」と言われた。医療費と患者の命を天秤にかけているのである。病院の経営を盤石にすることを唯一で最大の目標にしているのである。森田先生は臨終のとき、担当医に「もうどんな治療をだめだと見捨てないでくれ。なんとか治してくれ」と懇願されたという。それは森田先生に限らずだれでもそうではないか。たとえ無駄になっても、最後まで生きる努力はしてゆきたい。生の欲望を発揮し続けたい。それを応援していくのが医師という人の使命なのではないか。我々は普段からガンにそなえて信頼できる医師を選別して、いざという時に備えていないと手遅れになってしまう。そういう医師はガンの拠点病院にいるとは限らないのである。(絶対にあきらめないガン治療30の可能性 伊丹仁朗 三五館参照)
2015.12.23
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ガンになって抗がん剤治療を受けると免疫力が低下する。伊丹医師によると免疫増強の優れた良薬があると言われる。PSK、レンチナン、OK-432、Z-100等である。詳しくは「絶対あきらめないガン治療30の可能性」136ページからを読んでもらいたい。これについて伊丹医師は次のような話をされている。これらはガン拠点病院では併用されないことが多い。例えば、地方の国立ガンセンターでMさん(73歳の男性)が大腸がんの手術を受け、抗がん剤治療を受けた。2年半後に腹膜播種の再発診断を受け化学療法を再開された。その半年後に伊丹先生のところにセカンド・オピニオンを求めて来院された。伊丹医師は、「手術直後の化学療法にPSKを併用していれば再発リスクは半分に減っていたはず。PSKを投与しなかったことが再発防止につながったと考えられ、今後の化学療法にあたっても、PSKの併用は不可欠である」という意見書を出された。これに対して、同がんセンターの担当医より、伊丹医師のもとに「PSKの併用は当院の治療方針ではありません。院内処方に登録された治療法以外は行わない方針となっています。貴院でPSKを処方され、当院で化学療法を行うことも認められていません」という返事が返ってきた。私はこの話を聞いて憤りでいっぱいである。このガンセンターの医師は、ガンを治すということに真剣に取り組んでいない。国民2人に1人がガンになる時代である。あなたがガンになった時、自分の病院だけの治療で納得できるのかと聞いてみたい。ガンセンターで決められたことだけを機械的に処置して、その結果ガンが悪化すれば仕方ないではないか。ガン患者のガンを治したいという気持ちを逆なでにして、ガン患者を金儲けの手段として取り扱っているように思う。だいたいセカンド・オピニオンを受けたこと自体快く思っていないのかもしれない。患者の立場に立った医師は、抗がん剤治療を行った後も経過観察を行い、免疫力の回復や再発防止にまで気を配るものである。この医師のように言われた事、限られた治療だけしかしないというのは、仕事に誇りを持つことはできないだろう。森田ではものそのものになって仕事に取り組むと、気づきや発見がどんどん出てきて、創意工夫ができるようになる。そういう人はどんどん進歩発展ができる。そこに人生の生きる意味を提唱しているのである。森田先生は言われた事しかしない人は、神経症は10年経っても治らないと言われている。このような医師の場合はもっと始末が悪い。人の命を預かっておきながら、うまくいかないと放り投げてしまうのである。その人はその病院を信頼している限り、ガン難民となり死を待つことしか残されていない。その態度は殺人とたいして変わりないと思う。人命の尊重ということをもっと真剣に考えてもらいたい。そして我々は、伊丹医師のような良質な医師を探し出すことが大変重要になる。
2015.12.22
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不安対処法には2種類あります。一つ目は、不安に学び、積極的に手を出して問題解決のために動かなければいけないもの。二番目に、手を出して動いてはいけないものがあります。そのまま受け入れることが必要なものです。森田で主に扱っているものはこちらの方です。そのおおよその割合は、松下幸之助氏によると、動かなければならないもの1割、動いてはならないもの9割です。圧倒的に動いてはならないものが多いのです。それを見きわめる智恵を身につけることが大切です。不安を察知したら積極的に動かなければ生命にかかわるものの一つに地震対策があります。先日講習会に出かけてきました。避難場所の確認、家屋の耐震化工事、家具の転倒防止等は、あらかじめ対策を立てて実施しておくことが安心につながります。東京消防庁が実施した近年の地震被害調査では、負傷者の3割から5割の方々が、屋内における家具の転倒・落下によって負傷していることが分かっています。阪神淡路大震災ではタンスなどの下敷きになり亡くなった方も多かったようです。予防措置をしていれば助かったかもと思うと、亡くなった方はとても無念だったことだろうと思います。最近は10階以上のマンションが多くなりました。高層階では長周期地震動により地震がおさまっても、1mから2mの幅で10分以上も揺れ続けることもあるようです。気味が悪いですね。思っただけでぞっとします。高層マンションに住んでいる人は、転倒防止だけではなく家具などの移動にも備えなければなりません。最近はホームセンターなどに行くといろんな転倒防止器具を販売しています。講習でポイントを教わりました。壁にL型金具などを取り付ける時は、石膏ボードに取り付けただけでは全く意味がありません。間柱というしっかりした柱がありますので、下地探知用センサーかプッシュピンなどでそれを探さなければなりません。間柱を見つけたらそこにしっかりと取り付ければ安心です。我が家でもL型金具やチェーン式金具を取り付けていましたが、「室内の地震対策」という講習を受けてみると、なんといい加減な対応をしていたのかと反省しました。つけてあるというだけで安心していたのです。あとタンスや食器棚などの引き出しが飛び出してケガをすることもあるようです。それから食器棚は二段になっていることが多いですが、連結金具をつけておく方がよいというのは初めて知りました。それからガラスになっているところは飛散防止フィルムを霧吹きで吹いて張りつけておくとよいそうです。冷蔵庫、大型液晶テレビ、ディスクトップ型パソコン、電子レンジ等の転倒も対策が必要なようです。小さな備えが大きな安心につながります。自分と家族の命を守ります。森田では不安は安心のための用心であると言います。不安に学んで、その都度対策を立てておくことが大事なのだなと思いました。私たち森田理論学習をしていると、不安はそのままにしておくことが一番だと思ってしまいますが、不安には別の面があるということもしっかりと認識しておきたいものです。
2015.12.21
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アドラー心理学では「すべての人間の行動には目的がある」という。他人を自分の思うように操りたいという目的を持っている人は、他人が自分の期待通りに行動してくれないと、腹が立って相手を攻撃したり、無視したりする。それは自分の目的を達成するために、怒り等の感情を手段としてうまく利用しているというのである。意識するにせよ、しないにしろ目的達成の為に怒りの感情は相手にとってはとてもインパクトがある。叱りつける。非難する。拒否する。無視する。否定する等という行動は他人をコントロールするという目的を達成するために、自分が選びとった方法なのだ。私は、怒りの感情について、そのような見方もあるのかと驚いた次第である。ここで会社に行く目的を考えてみたい。究極的には労働力を提供して、生活費を稼ぐことが目的である。この目的を見失ってはならないと思う。私のような対人恐怖症の人はしばしばその目的を忘れがちである。対人的なトラブルを起こすとすぐに会社を辞めたいと考える傾向がある。人間関係を良好に保つことが最大で唯一の目的になってしまうのだ。辞めてどうやって生活費を工面するのか。どのように家族の生活を支えていくのか全く考えていない。とりあえずこの不快な感情をなんとかして取り去りたいのだけなのである。後先のことを考えない向う見ずな気分本位の態度である。自分にとってだけではなく家族全体にとっても迷惑な話だ。よく考えてみてほしい。会社員になってしまえば、社会保険に入れる。健康保険に加入できる。家族も被扶養者として加入できる。厚生年金にも加入できる。それは将来の年金として跳ね返ってくるのだ。雇用保険にも労災保険にも加入できる。仮に退職すればすべてを失ってしまうのだ。そんなことを少しでも考えてみた後での決断なのだろうか。出来の悪い営業マンと言われようが、みんなの足を引っ張っていると言われようが必死になって生活費を稼いでくるという目標にしがみつくことだ。月給鳥という鳥になって、せっせと餌を運んで来る鳥はよい鳥だ。餌を運ばない鳥は、自分にとっても家族にとってもなんの役にも立たない。仕事は、会社に大きく貢献しなくてもかまわない。超低空飛行で墜落しない程度でもいいのだ。ましてや昇進などはあまり考えない方がよい。係長、課長、部長、取締役と出世することは男のロマンのように言う人もいるが私はそうは思わない。役職者になると権限もあるが責任も取らされる。せっかく課長になっても責任を果たすことが難しい課題を与えられているのだ。そして課長の資格なしと烙印を押された人はみじめだ。降格を許されることは少なく、そのまま責任をとらされて退職に追い込まれるか、出向の道を選ぶかどうかである。そういう人を数多く見てきた。私はある程度のところで引いて、退職金を満額ゲットできた。次に結婚の目的について考えてみたい。結婚の目的は育ちも考え方も違う男女が一緒になって子どもを産んで育てて、喧々諤々と言い合いをしながらでも、一人では得られないうるおいのある生活を楽しむことではなかろうか。自分とは全く違う人と力を合わせて1プラス1を2にするのではなく、3にも4にもして、自分ひとりだけでは味わえないような喜びを共有することではなかろうか。結婚するということは、ふたりの意見が違う時は、お互いの言い分をよく聞いて、譲ったり譲られたり、妥協点や落とし所を見つけていく作業を最後まで続けていくことに尽きる。そういう目的がしっかりしていれば、けんか別れして離婚したり、家庭内別居状態にはならないと思う。現実はどうか。結婚したときは趣味も考え方もよく似通っている。やさしい人だしこの人なら私を幸せにしてくれるはずだと思って結婚する。夫婦はいつも対立して険悪になることが多いいのに、最初からそんなことはないと思っているのである。あの人はいつも私の言うことは素直に聞いて、きっと私に合わせてくれるはずだと思い込んでいるのである。そんな考えはいつも裏目に出る。片方がそう思っているだけならまだ救いがある。双方がそのように思っていることは同居していること自体が重苦しくなってくる。夫婦のあり方や目的を誤っていると結婚生活は最悪となるだろう。アドラーにしろ、人間関係療法にしろ、一番大事な人間関係は家族であると言っている。それが破綻しているということは、人間関係の土台が崩壊の危機にあるということだと思う。
2015.12.20
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来シーズンも黒田博樹投手の雄姿がマツダスタジアムで見れること。私の母校広島県立世羅高等学校が、明日京都で行われる全国高等学校駅伝競走大会に出場できること。男子は優勝、女子は5位以内を目指しています。かなり確率は高そうです。ぜひ優勝して元気をもらいたいものです。今年も友人と冬の味覚「牡蠣祭り」を盛大に行うことができること。写真の牡蠣は小で1個95円です。8センチから10センチあります。大は120円です。それより大きな特大の牡蠣もあります。牡蠣は焼牡蠣が一番おいしいと思います。
2015.12.19
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人類が生き延びるために守らなければなければならないことが3つあると思う。1、 利己主義的な考え方や行動を控えて、共存共栄の考え方や行動に切り替えていくこと。自己中心的な生き方をやめて、他人の為に尽くす生き方である。2、 目先の利益にとらわれず、将来に展望が開けることのみを手掛けていくこと。子孫に難問の処理を先送りするようなことをしてはならないと思う。3、 個人は日常生活の中で目標や課題を持って、それが生きがいとなるような生活を続けること。努力するプロセスが幸せと感じるような生き方を目指すことである。この3つの視点で現状を見てみると実に問題が多い。まず世界各地で人間が人間を殺し合っている。動物は基本的に自分たちの仲間を殺めてしまうことはまれである。現代の人間は動物よりも始末が悪い。次に世界には一部の人が富みを欲しいがままにため込んでいる。富める人がいる一方で、飢餓や病気で苦しんでいる人がたくさんいる。特に未開発国の人たちである。また自分たちの生活を謳歌し維持するために、環境破壊、資源の枯渇を招いている。さらに核廃棄物等の処理を子孫に先送りしている。地球温暖化、オゾン層の破壊、有害汚染物質の拡散、酸性雨、熱帯林の減少、耕地の砂漠化、海洋汚染はもう待ったなしである。一線を越えると環境の回復は困難だと言われているのに、そのことについて真剣に心の痛みを感じる人は少ない。個人は本来自分でなすべきことを放棄して堕落してきた。便利で快適な生活を楽しむために、容易に他人に依存した生活に甘んじている。その結果、人間本来の生きがいを無くして、空虚でうつなどの精神を病んでいる人が多くなってきた。どうしてこんな深刻な状態になってきたのだろうか。私は欲望の暴走だと見ている。欲望が暴走して、さらに加速度が増してきている。森田でいうように本来人間は欲望が暴走すると、不安が制御機能として働くようになっている。でも一般的にはその不安を目の敵にして、取り除こうとしたり、目を背けたりしている。だから、不安は本来ありがたい役割を果たしているのだが、全く活用できていないのである。ブレーキのない自動車がそこら中を走り回っているのだから危険極まりないのである。そういう欲望にとりつかれた人間の特徴は何か。まず自分さえよければ人はどうなってもかまわないという考え方や生き方になってしまう。他人を自分の都合のよいように支配したりコントロールしようとする人間になり下がってしまう。でも他人が自分のいいなりになることはまれである。人間関係は絶えず軋轢を繰り返しぎくしゃくしてしまう。油の切れた歯車が不気味な音を出して回転しているような状態である。次に一つの欲望の充足は、次の欲望を追い求める。その果てしのない負のスパイラルに巻き込まれているのである。いったん弾みがついて勢いづくともう止めることはできなくなってしまう。航空機がある地点を過ぎると離陸を中止することができないのと同じことだ。本来人間の生活を豊かにするための欲望の達成が、蚊帳の外になり、欲望を追い求めることだけが唯一の目標となってしまっているのだ。ねずみが糸車を回し続けるようなものだ。はたから見るとなんの意味があるのだろう。少し頭がおかしくなっているのではないかと思えるのですが、本人は全く気がつかないようなものだ。つまり手段の自己目的化が起きている。何かにつけて欲深い人はとても見にくい人である。欲望の暴走のスパイラルにはまった人は、健康も害している。なにより欲望充足の為に仕事をしないと生活が回ってゆかなくなる。その仕事はたいてい、自分の生きがいには結びつかない。さらに、お互いに他人を自分の思い通りに操りたいという集団の中に入っていく以外にない。心と体がいかに蝕まれていくかということである。これから抜け出る道は、森田理論学習で学習する「不安と欲望の関係」であると思う。
2015.12.19
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お医者さんがガンを告知するかどうかは大変気を使われるそうだ。直接告知すると患者さんがショックを受けて生きる気力を無くしてしまうからである。現在は大分医療も進歩してきて、そうでもなくなってきたが、以前は、末期がんはガンの告知はすべきでないという医者が多かったようだ。しかし、自分の症状がガンということを知らないで亡くなるということは弊害が多い。告知をしないということは、森田理論でいえば事実と向き合わないで、事実を隠蔽するということである。自分の症状の本態が分からなければ、ああでもない、こうでもないと考えて疑心暗鬼になってしまう。そして痛みだけが強くなってくるので不安感がどんどん膨らんでいく。そして患者同士の会話の中で自分はガンだと分かると、医師や家族に対する不信感が芽生えてくる。反発するようになる。体の不調の原因がガンであるという事実が分かるとメリットが多い。伊丹仁朗医師によると、第一に、自分の意志で納得できる治療法を選択できる。第二に治療、闘病に全力投入できること。第三に家族、友人と隠し事なく心を通わせて闘病できることだと言われる。実生活の利益としては、生きているあいだにぜひしたいことを実行するチャンスを逃がさずにすむし、もしもの場合にそなえて遺書を書くなど、現実的な対処ができるという。Nさんはガンと知らないうちはタバコを吸っていた。妻はガンということができないから、タバコは免疫力を低下させると分かっていても、タバコをとめることができなかった。告知をしないことはこのような不利益もあるのだ。ガンという事実を突きつけられれば、いったんはまさか自分がガンになるなんてと思う。次にショックを受けて悲嘆にくれる。どうして自分がこんな目に合わなければならないのかと思う。そういう感情を十分に味わっていると次にどうするかという段階に移行することができる。心が落ち着いて自分のなすべきことがはっきりしてくる。事実に向きあわないと、そういうプロセスを踏まないので、意気消沈し、破れかぶれになって、ガンの進行を早めてしまうのである。ただ告知にあたっては十分な配慮が必要だと伊丹医師は言われる。医師にとって大事なのは患者が希望を失わないように援助することである。患者本人がガンに対する精神的抵抗力を身につけたうえでガンと知ることが大切だと言われているのだ。つまり機械的に告知をするのではなく患者を見て、患者への配慮も欠かせないと言われている。例えばあなたはガンですと言わずに、「ここに腫瘍のようなものがある」「現在の医療では決め手となる治療法がない」という言い方をすることもある。こんな煮え切らないいい方でも、患者さんにとっては単純明快で歯切れがよいという場合もあるということです。これは森田でいえば白か黒ではなく、グレーゾーンの告知ということだろうか。(モンブランに立つ 平尾彩子 リヨン社 108ページ引用)
2015.12.18
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森田理論の「生の欲望の発揮」を応用し、難病治療中の人たちに夢と希望を与えておられる、生きがい療法および生きがい療法ユニオンの人たちに敬意を表して、替え歌を作りました。セミプロ級の人に吹きこみを頼み、いずれ大きな場所で披露したいと思っております。また私がアルトサックスで伴奏もしたいと考えております。生きがい療法賛歌 (谷村新司のすばるの替歌)岡山の 新倉敷 降り立てば 名医がいる希望に向かう 光が きっと見えてくるはずだあーあ 消えていく ガン細胞たちよそして どんどんと 力がみなぎる我は行く あきらめず 前を向いてありがとう 生きがい 療法ありがとう 生きがい ユニオン恐ろしく 目がくらんで 悲しくて 立ちあがれず苦しみ抜いて この先 明るい希望は見えずあーあ もうダメだ 破滅の人生よ誰か 今すぐに この身を 助けよ大丈夫 あなたには 森田がある大丈夫 森田 療法大丈夫 森田 学習(元歌)目を閉じて 何も見えず 悲しくて 目を開ければ荒野に向かう 道より 他に見えるものはなしあーあ 砕け散る さだめの星たちよせめて ひそやかに この身を 照らせよ我は行く 青白き 頬のままに我は行く さらば すばるよ我は行く さらば すばるよ
2015.12.17
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(学習テーマ) 素早く変化に対応する(学習のねらい)森田先生は周囲の変化に自分を対応させて生活することを述べられています。どういうことでしょうか。森田先生の言動から考えてみましょう。この部分の内容は森田理論全体像の1、「生の欲望の発揮」に含まれています。(内容説明)森田先生のお話をいくつか紹介しましょう。★森田先生がよく臨済録から引用されている一文は次の言葉です。「心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂なり」とらわれのない心のままであるならば、万境にしたがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。不安、恐怖、違和感、不快感などにいちいち深く関わりあってはいけない。その時一瞬は関わりあっても、谷川を流れる水のように、絶えず流していくことが大切である。それが城のお堀の水のように淀んでしまうと、雑菌や藻が繁殖して、最後には魚の住めないような状態になってしまう。諸行無常、変化流転の世界観が森田の考え方なのである。★眠くなった時はケースバイケースで対応すればよい。時と場合に応じていろんなケースがある。その時と場合に合わせることが大切である。第1に、一人で用事もない時にはちょっと横になって寝る。第2に、お通夜とか説教を聞くとかいう時で眠い時は、周囲の人に無作法にならぬように、眠りながら起きているふりをする工夫をする。第3に、例えば電車を待つ時、急ぐ調べ物をする時などには、眠り込んでは都合が悪いから、外を歩き、その近辺を見物するなり何かをする。そうすれば気が変わって目が覚める。無理に座っていて目を覚ますことは難しい。★常に変化に対応できる姿勢をとる体操の時の休めの姿勢。片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。森田先生曰く。「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先で鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固着することがないからだ」休めの姿勢で立っていると吊皮などを掴む必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。★捨て身の態度で変化に対処する柔道では、相手に対して強いて突っ張るとか、自分の技を無理にかけにいくという態度ではなく、自分を投げ出して、いつでも相手の変化に応じて、臨機応変の処置がとれるというのが捨て身の態度です。心をどこにも固着していないので、その時々に、自由に心が働く。相撲でも、四つに組んだ時は、全身の力を抜いて、相手の身体にぶら下がっているというふうで、相手が押しても引いても自由にくっついていく。そうすると、自分よりずいぶん力の強い人でも、いつしかくたぶれて、根負けしてへとへとになり、自然に先方が負けるようになる。この時にしいて踏ん張ると、相手にその力を利用されて、自分が負されるようになるのである。★行動は周囲の状況に従って決める。自分の思いから動くのではない。強行軍の時には、どんなにヘトヘトになってもついていかなければならない。地震で津波が発生すれば、どんなに熱がでていても高いところへ逃げなくてはいけない。自分の行動は周囲の状況によって左右されるのであって、自分の都合によって決めるのではない。★森田先生は人間の感情について次のように言われている。人間の感情というものは、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。またそれは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。宇宙の営みも絶えず流動変化しています。変化しないで固定していることが、安定しているように考える人がいますが、変化しないで固定するということは、存在すること自体不可能なことです。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定するためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。 ★柿原美恵さんが森田先生の自動車に同乗させていただいたときのこと。森田先生曰く、「電車に乗っている時は、片足に体重を乗せて、他の片足の力を抜いておくと、電車の大きく揺れた時にも転ばない」森田先生は以前、人力車に乗っていて、何かに衝突して放り出されたけれども、柔術の心得があったから、飛び下りて怪我をされなかったとのことである。また、「僕は冬の寒い時でも、決して右手の手袋は使わない。右手に手袋をはめていては、とっさの場合に右手を十分活用できないからだ。だからこの通り、右手は洋服のかくしに突っ込んでおく。ほれ、右手の手袋は一度も使ってないだろう」と言って見せてくださってから「柿原さんにやろう」といって記念に私に下さった。この2つのエピソードから学ぶことは、森田先生はいつもこれから予測される事態に備え準備されていたということである。いつも変化に対応した生活を心がけておられたということです。自分の思いどおりにならない出来事に対して、悲観したり、恨んだりするのではなく、自分から先にその変化を予測して、変化に合わせていこうとする態度です。これは「かくあるべし」を押し進めるのではなく、事実に積極的に従おうとする態度です。こんな身近なことから森田理論の本質に迫っていくことができるのです。こうしたことが自然に実践できるような態度を身につけてゆきましょう。★風邪をひくということを森田先生が説明している。風邪をひくというのは、必ず常に気のゆるんだときで、周囲の事情とこれに対する自分の反応が適応性を失った時に起きる。周囲と自分との釣り合いが取れていれば、そんなシクジリは起きない。暖かいところではゆったりし、寒いところでは気が引き締まっておればよいけれども、暖かいところから急に寒いところに入り、寒いところから暖かいところへ入る時に、これに対する心の変化が適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。ゆえにうたたねのようなことがよくない。しかし精神が自然になれば、うたたねでも風邪をひかないようになる。(森田正馬全集5巻59ページ)ここで森田先生が言わんとしていることはなんであるか。これは周囲の状況に合わせて生活することを言われているのだと思う。寒いところから、こたつに入ると急に手足が暖かくなる。するとぶるぶる震えていた体が緩みほっとしてくる。収縮してきた血管が拡がり緊張状態が取れてくる。ふつうはここで心身ともにリラックスしてくる。ついうたたねもしなくなる。つまり心身の緊張状態が、急に弛緩状態に変化しているのである。こたつに入ったのだから、それでいいのではないかと思う人が多いのではないかと思う。それは自分のいるところはそうかもしれない。でも外は寒い。トイレに立つときも寒い。風呂に入る時も服を脱ぐと寒くてたまらないのである。そういう周囲の事情はお構いなしに、全くの弛緩状態に入り込み、リラックスしすぎてはいけないといっているのである。武士が轡の音にもすぐに目を覚ますのは、自分の置かれた周囲の状況に敏感になり対応しているからである。そんな時はうたたねをしても決して風邪をひくようなことはないといわれている。(話し合うテーマ、課題)どの話が一番興味がありましたか。自分が生活に応用するにはどんなことから始めますか。
2015.12.17
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私はマンションに住んでいる。私の家で先週土曜日に水漏れ事故が発生した。最初はキッチンの床に水がしみていた。蛇口の下のU字管の不具合だろうと安易に考えていた。でもそのうちリビングの絨毯に水が浮いてきた。知り合いが業者に頼むとすぐに来てくれた。ちょっと見ただけで配管の不具合による漏水事故だとすぐに判断された。多額の修復費用が発生する重大な事故だと言われた。その被害は私の家だけではなく階下に及んでいるはずだと言われた。それからすぐに漏水診断の業者を手配してきてもらった。その業者は、給水配管と温水配管の2つを水圧計で診断された。すると温水配管に異常値が出た。とりあえず、温水配管はバルブを閉めて復旧工事までは使用不可とすることになった。今週の月曜日、温水配管のどこから漏水が起きているか位置を特定する作業が行われた。その業者は凄腕の持ち主だと知り合いの業者が話していたがまさに神業であった。温水給湯は室外の給湯機からキッチン、風呂、トイレなど壁の中に銅管として張りめぐらされている。難工事だと思った。その業者の見立ては漏水状況から判断してキッチン周りの銅管のピンホールと判断された。そして水圧ポンプなどを使ってたちどころのうちに損害個所を見つけられた。そして損害個所の銅線の交換修理が短時間のうちに滞りなく終わった。私はその見事な仕事ぶりに感心した。よくテレビで神の手を持つ外科医などが紹介される。その人も一歩も引けをとらない仕事ぶりであった。以前読んだ本に稲盛和夫氏が柔道で一本背負いが得意な人は相手が極端に警戒する。でもその警戒をかいくぐって技を決めることができる技を磨きあげることができることが大事なのだと言われていた。これが仕事の切れ味というものだろう。私も神経症の人の症状を的確に判断する能力と解放の為の援助方法を見つけて切れ味鋭い援助者になりたいと思った次第である。また対人恐怖の人はこういう仕事につけば葛藤が少なくて、お客さんからは感謝されて、とてもやりがいが持てるのではないかと感じた。それからもう一つ勉強になったことがあった。火災保険のことである。漏水事故は火災保険でもカバーされるということだった。これには2つあって、マンション自体が加入している火災保険と私が個人で加入している火災保険がある。マンションの火災保険は、破損個所の診断と階下の被害を保障してくれる。自宅の漏水個所の復旧、居室内の復旧修理工事は個人の火災保険を使用するということだった。個人の火災保険に加入していなかったらすべて自腹で修理することになる。私は運よく共済の火災保険に加入していた。但し家具や布団などの保険にまでは加入していなかった。でも躯体部分の修理は保険が出るので助かった。生命保険、医療保険、障害保険、自動車保険、火災保険、地震保険は万が一に備えて加入しておくべきだと感じた。また保険というのは、業者と保険会社が双方で折り合いをつけて損害賠償が行われるというのも初めて知った。実害だけを領収書をもらって請求するというものではないのである。そこには当然過不足が生じる。それが保険というものなのだそうだ。私はファイナンシャルプランナーとして「保険とリスク」の学習をしてきたのだが、その道の専門家になろうとすると実務がとても大切なのだと感じました。そうでないとクライアントに対してなんの役にも立たない。
2015.12.16
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(学習テーマ) 感じを発生させる、感じを高める(学習のねらい)感じを発生させて感じを高めることの意義とその方法について考えてみましょう。この部分の内容は森田理論全体像の1、「生の欲望の発揮」に含まれています。(内容説明)森田先生曰く。ここでの修養の出発点は、物事に対する「感じ」を高めてゆくことである。我々は、見るもの・聞くものなにかにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ずなにかの「感じ」がおこる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを推し進めてゆけば、そこにいくらでも進歩がある。手をだすことが億劫だと思っても、イヤイヤながら仕方なく手をだしてみる。目の前のことに手をだしてみる。部屋の掃除、風呂の掃除、靴磨きなど。そこに何かの感情が生まれる。しばらく経つとどんな感情も流れてゆく。我々はすでに起きてしまった感情はやりくりすることはできませんが、手をつけることによって新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が次から次へと生まれてくるようになれば、一つのことにだけこだわってはおられなくなります。感じの発生はやる気、意欲、モチュベーションの高まりのきっかけとなります。本来人間の行動は、まずそのきっかけとなる外部の出来事があり、次にそれに対して感情が湧いてきて、最終的に自主的、積極的な行動へとつながります。たとえば、1「火事になった」、2「身の危険を感じた」、3「急いで逃げる」という流れになります。また、1「腹が減った」という出来ごとに対して、2「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから3「食事を作るか食べに行く」という行動が発生します。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「自分の感情の発生や意志の力」が介在しているのです。人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」はとても大切なのです。自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の力もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。感じを発生させるためには、日常茶飯事のことに手をだすのが基本ですが、仕事や勉強、自分のやってみたと思っていること、趣味やスポーツ、芸事などに拡がってくるとよいでしょう。その時森田先生は「ものそのものになりきる」と言います。この態度が大切です。わしは風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時は医者になりきり、将棋をさすときには将棋さしになりきる。つまりなにをやっても全力をつくすのだ。この心構えが大切です。さらに感じを高める方法について考えてみましょう。四字熟語に「少欲知足」「吾唯足知」という言葉があります。あまりにも欲をかき過ぎてはいけないということです。食べ物も腹いっぱい食べてはいけない。欲しいものも多少我慢する方がよい。お金も多少不足するくらいがよい。仕事も不満がある方がよい。住むところも冷暖房完備の至れり尽くせりの家でなくてもよい。容姿も二枚目でなくてもよい。少し心配事がある。少し不安がある。少し腹が立つ。もう少し眠たい。少し病気がある。テストでもっとよい点数をとりたい。もう少し楽しみたい。もう少し飲みたい。もう少しゲームをしたい。そういう気持ちを持っていてもよいが、ほどほどのところで我慢することである。すると元々持っている感性や感受性が強まります。満ち足りた人が感じないような微妙なことを鋭くキャッチできるようになります。さらに意欲、気力がでてきます。そして困っている人のことを思いやる気持ちも自然に湧いてきます。このほどほど道という考え方は感性を鋭くさせる効果があります。(話し合うテーマ、課題)・感じを発生させ、感じを高めるとどんな効果があると思われましたか。・自分の生活の中に活かすとすると、どんなことに取り組んでみたいと思われましたか。
2015.12.15
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神経症が治るということはどういうことですか。神経症を克服した人はどう変化しているかという視点から5つのパターンを紹介したい。1、不安と欲望の相互関係をよく理解して実践している。不安は取り去ることはできない。取り去ろうとしてもいけない。不安と欲望はコインの裏と表の関係にある。不安をなくするためには、欲望を無くすればよいが、人間である限りそんなことはできない。でも、不安を利用して自分の欲望を見つけ出そうとしている人。次に、不安は大きな役割を果たしていると思っている人。つまり不安は欲望の暴走を制御していることが分かっている人。欲望の暴走が起きると人類は破滅に向かいます。だからもっともっと有意義に不安を活用しようとしている人。不安と欲望の関係についてよく分かっている人。例えばサーカスの綱渡りの芸を思い浮かべてください。長い棒のようなものを持って常にバランスをとりながら、恐る恐る目的地に向かっている。棒の両端を欲望と不安に置き換えてみましょう。目的地を生の欲望と置き換えてみましょう。人間が生きるということは、不安と欲望のバランスをとりながら、常に欲望や目的や目標に向かって歩み続ける中にあるということが分かっている人。2、神経症に陥った人は、客観的で正しい考え方や見方ができなくなっています。物事をよく見ていない。先入観が強すぎる。思い過ごしが強い。マイナス思考一辺倒である。否定的である。無茶である。極端である。飛躍しすぎである。自分勝手に決めつけている。希望的観測が強いなどです。こういう偏ったものの見方が修正されて、森田でいう両面観でバランスよく物事を見れる状態になっている人は、神経症を克服している人です。3、神経症に陥った人は、強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、すぐに「かくある」という事実に立ち戻ることができる能力を獲得した人は、神経症を克服した人です。4、過去と比較したり、人と比較して現状や事実を出来るだけ正確に把握することはとても重要なことです。でも私たちがしてもよいのはそこまでです。こちらがよいとか、悪いとか、正しいとか、間違いだと価値判断をすることはしてはならないことです。物や他人にはそれぞれ違いがあり、かけがえのない存在価値を持っているのです。それぞれの持っている存在価値に焦点をあてて、それを活用していこうと思っている人は神経症から立ち直っている人です。この反対はすべての物や人を自分の思い通りにコントロールしようとする人です。5、 最後に困難な問題や苦しみをたくさん抱えながらも、「生の欲望を発揮」して日々奮闘努力している人です。こういう状態が、神経症克服の最終目標となります。はたから見て、以上のどれかに当てはまる人は神経症を克服した人だと判断することができます。この5つの視点でよく人を観察してみてください。治った人と治らない人はすぐに分かります。また、たまには森田の達人という人も発見できるでしょう。そういう人を見つけるとこちらの方もうれしくなってきます。
2015.12.14
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今日は広島集談会の忘年会でした。18名参加でビンゴゲーム、カラオケ、余興の数々で盛り上がりました。私は、青い山脈の替歌で、「森田とともに」をみんなで歌う段取りをしました。中には歌詞をカメラに収める人もいました。そして極めつけは、高知県で伝わる「しばてん踊り」でした。私は神経症克服には一人一芸が大いに役立つという立場をとっております。ここは森田理論学習の空白地帯です。皆さんに早く気付いてもらいたいと切に願っております。
2015.12.13
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1987年生きがい療法実践会の人たちがモンブラン登山に挑戦した。その中に末期肝臓がんの椚聰さんという方がおられた。医師から余命4カ月と言われながら4年以上も生きぬいた椚聰さんの言葉に感動した。椚さんの生き方は、脊椎カリエスでのたうちまわりながらも、死ぬまで創作活動に打ち込んだ正岡子規を思い出した。椚さん曰く。治る可能性があってガンと闘っている人たちと、私のように何をしても治らない者とでは違う。私は、自分と同じ状態にある人に、こういう生き方をすれば最後までガン恐怖に悩まされずに生きられるのだということを知ってもらいたかった。そういう状態になった人は、僕みたいに元気を持って生きてもらいたい。例えば僕の行動を見て、あの人はもう駄目だと言いながらヨーロッパ最高峰の山へ登った。すごい人だなと思うでしょう。そう思った時に、患者さんは自分も何かしてみようという気持ちがかならず起きると思う。具体的に何をしようかということはその人が考えることだが、一つの見本を見せることが勇気を引き出すことだと思う。山へ行けない人だったら、川へ行ってもいい、野に行ってもいい。寝たきりの人だったら、日記を書いてもいい。友達に手紙を出すのもいい。そういうことをするときに、もう死んじゃう人があれだけのことをしたと思えば、手紙だって明るい手紙が出せるし、会話だって明るい会話ができる。先がないとなるとその分だけ暗くなるけれども、そうじゃなくて生きているということがすばらしいんだと思ってほしい。生きるということは、何かするということなんだと思ってほしい。椚さんは、自分と同じような恐れや不安を経験している人たちに、自分が闘っている姿を見てもらい、みんなもこのように闘ってほしいと言いたいのだ。対人恐怖の人は社会的な死を日々恐れながら生活している。そういう人たちも恐怖に怯えながらでも、生の欲望を発揮しながら生きていってほしい。椚さんはガンの痛みに耐えながらそのことを、多くの人に知ってほしかったのだろう。(モンブランに立つ 平尾彩子 リヨン社 229ページより引用)
2015.12.13
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本日の土曜日(12/12 13時30分より)は、大阪にて第147回心の健康セミナーを開催 します。テーマは『外来森田療法についてー森田正馬の神経質概念とは』 と題して、顕クリニック院長の岩木久満子先生にお越しいただき、ご講 演いただきます。 ▼尚、当セミナーは同時生中継も行ないます。関西圏以外の方や当日参加で ない方は、インターネットを通じてこの講演会を無料で視聴できます。 お手持ちのPCかスマホがあればどこでも視聴可能です。 <心の健康セミナー> http://www.mental-health.org/seminar5.html <スマホ> http://www.mental-health.org/mobile/seminar5.html 別件です12月31日までオンデマンド配信があります。中村敬先生の「森田療法」です。時間は20分とちょっとです。森田療法の要点がよくまとめられております。URL http://msd-web.jp/psyIDはMSD04PWはMSD04
2015.12.12
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生きがい療法では、ガンなどの命にかかわる病気にかかった時の対処法を、5つにまとめておられる。ガンになり自分がこの世から永遠にいなくなってしまうという不安、恐怖に対してどう対処していくのか。1、 自分が自分の主治医のつもりでガンと闘う。2、 今日一日の生きる目標に全力投球をする。3、 他人の為になることをする。4、 死の恐怖と共存する訓練をする。5、 もしもの場合に備えて必要な現実的な準備をしておく。私はこの話を聞いて、対人恐怖症の人になんとかこの考え方が応用できないだろうかと考えてきた。対人的な不安や恐怖を抱えている人は、社会から見捨てられ孤立することを極端に恐れているのだ。つまり肉体的な死ではなく、社会的な死を極端に恐れているのだ。1、 まずは対人恐怖症という神経症に陥っているということを認める。そして森田理論学習で克服するのだという方向性を決める。そして先輩会員の援助を受けながら学習を始める。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、認識の誤り、森田全体像、森田理論の基本となる4つの柱の学習等である。2、 まずは日常生活に丁寧に取り組む。規則正しい生活を心がける。次に、仕事、勉強、家事、育児、介護等に一生懸命に取り組む。これは生の欲望の発揮である。3、 自分のことよりも、他人の役に立つことを優先する。どんな小さなことでも実行に移す。一人一芸を身につけて人を喜ばすことなどもよい。他人を自分の意のままにコントロールしようとする態度をやめる。まずは、相手の話をよく聞く。共感と受容の態度で接する。4、 これは対人不安、恐怖と欲望の関係をよく理解することだと思う。つまり不安は欲望とコインの裏腹な関係にあり、取り除くことはできないことをしっかりと理解する。不安を利用して自分の欲望についてよく自覚すること。そして不安は欲望が暴走しないように制御機能という重要な役割を担っていることを認識すること。最後に不安と欲望は、サーカスの綱渡りのように、バランスをとりながら目標に向かって前進していくという視点をしっかりと自覚していくこと。5、どんなに頑張っていても、いじめ、リストラ、退職勧奨、倒産、離婚、死別などで社会的に孤立してしまうことはよくある。最悪の状況を想定して、それを引き受ける覚悟を決めておくこと。そして対策を立てておくこと。最低限自分の命を守り、生き抜いていくこと。家族の生命を守る。そのためには自分ひとりの殻に閉じこもらず、有効な他人の協力を得る。
2015.12.12
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怒りという感情は掃き出すと楽になります。行き場がなくなり溜まっていたものを解放するわけですから一旦は楽になります。でもいつも怒りを解放させていると人間関係はめちゃくちゃに壊れてしまいます。それは境界性人格障害の人を見ているとつくづくと感じます。怒りの感情は相手との人間関係を悪化させる厄介者だと考えておられる人が多いと思います。今日は怒りという感情を湧きあがらないようにすることについて、野田俊作氏が興味深いことを述べておられますので見てゆきたいと思います。怒りを発散させれば、怒りという感情はなくなるという考え方は、怒りが行動の原因だと誤解している考え方ですね。原因だからそれを無くせばいいだろうと。つまり怒りという感情だけを見て、憎むべき相手であり、取り除こうとしたり我慢したり耐えたりしている。怒りそのものを目の敵にして対症療法的に対応しようとしているのです。でもこの考え方は間違いです。ほんとうは、怒りは原因ではなく結果なんですよ。相手を自分の思うように支配したいという目的があって、その目的が達成できないから出てくる感情なのです。目的があってそれが叶えられないから怒りが発生してくる。結果として怒りが湧き起っているのです。つまり自分が上か下かというタテの人間関係に固執して、その中で自分が上に立とうとする考え方から必然的に出てくる感情なのです。だから、誤った目的に向かって生きているという根本的な原因を取り除かなかったら、次から次へと怒りはでてきます。このように考えることが重要です。怒りがどんどん湧き起こってくると、私たちの心身はどんどん不健康になっていきます。その怒りは普通内向化して、胃潰瘍になったり、心臓が悪くなったりする。以上をまとめてみると、怒りという感情は人間関係の持ち方の間違いから起きてきているものなのです。人間関係の考え方の誤りから引き起こされている。怒りが自然発生的に湧きあがってくるといいますが、他人を自分の意のままにコントロールしたいという誤った目的があるから出てくることが多いのです。ここが問題なのです。こういうのをタテの人間関係といいます。タテの人間関係では、他人を否定し、ぞんざいに扱う。相手を信用していない。過保護、過干渉に陥っている。自分の善悪良否の基準を相手に押し付ける。対立的、攻撃的になり、力の強い相手からは逃げまくる。自分から人間関係を悪くする原因を作りながら、それによって自分が苦しんでいるのです。そういう他人をコントロールしたい欲求。他人を自分の意のままに動かしたいという欲求。是非善悪の価値判断をする生き方。これらは百害あって一利なしです。別の考え方に取り換えなければなりません。アドラーはこれをヨコの人間関係作りといっております。そのカギとなるキーワードは、相手を尊敬する。相手を信頼する。競争をやめて、お互い同士協力すること。共感すること。理性的に問題解決を図っていくこと。上手に自己主張していくこと。真の意味での平等観に目覚めて、個人の個性を認めていくこと。完全主義をやめて寛容であること。私たちはまずはそういう生き方もあるのだという理解から始めないといけないと思います。これを身につけると配偶者、子供、会社、学校での人間関係ですぐに腹が立つ、怒り狂うことが随分少なくなるのではないでしょうか。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.12.11
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相手と意思の疎通を図ろうとコミュニケーションをとったとしても、普通は両者には大きな隔たりがあります。それをそのまま放置しているとストレスになることがあります。これは人間関係の悪化の原因となることがあります。今日はそれを解消する道を考えてみたいと思います。その隔たりをどう埋めていくのかを、人間関係療法では教えてくれています。いくつかの改善が必要ですが、前提としては、相手との間にズレが生じていることを認めることです。ここが出発点です。ここでつまずいている人が多い。もともと日本では、会議などでも手をあげて積極的に発言すると、でしゃばりのように思われます。指名されて発言する方が奥ゆかしいというような風潮があります。いつもこんな状態では困ります。人間関係療法のコミュニケーション分析では、「沈黙は破壊的な可能性を持っている」とされています。直接言葉に出して相手に伝えなければ、自分の気持ちは相手に伝わりません。また、私のため息や態度を見れば、私がなにを言いたいか相手には分かるはずだというのも誤解を生む元になります。相手と面と向かって自分の気持ちを素直に話すことが一番です。もしそれが難しければ、次善の策として手紙、メール等があります。でもそれには注意が必要です。その際、森田理論をフル活用することです。まずは私メッセージです。例えば具体例として、夜勤明けの夫に、実父から至急実家に来てほしいと電話が入った。妻が、急ぐ用事でなかったら少し休んでいった方がいいんじゃない。(あなたメッセージ)夫は、うるさいな。俺が行くんだからほっといてくれ。妻は、そうね。でも一晩中寝てないで車を運転するのは危険だと思うの。事故でも起きたら私や子供たち、とても困るの。(私メッセージ)夫 そうだな。2時間休むからあとで起こしてくれ。「私メッセージ」は自分の感じたことや要望を相手に伝えていくということです。それを受けて、相手がどう感じて、どう行動するかは相手に任せているのです。私はこうしてほしい。私はこのように思います。私はこのようにしたい。常に主語は私です。相手を非難したり、コントロールしようとすると人間関係はますます悪化します。相手を否定したり、指示や命令をするのではなく、自分の気持ちを相手に伝えて分かってもらうということが大切です。「純な心」では、感情にはまず第一波が発生するといいます。それはほんの小さなもので軽く見逃してしまうことが多いものです。その次に第二波の感情が襲ってきます。これは、「かくあるべし」で装飾された感情です。普通は第二波の感情で相手とやり取りをしていることが多いのです。森田理論では、そんな時は第一波の感情を思い出して、そこから相手とのコミュニケーションをとりなさいと言っています。手紙やメールで交流する場合には、特に私メッセージと「純な心」は考慮する必要があります。次に「あの人は自分勝手で私の話を聴くような人ではありません。話するだけで対立が深まります。」などと、最初から決めつけていることがあります。私たちは、先入観が強く、事実を確かめることなく勝手に決めつけてしまうことがあります。相手と心が通い合うことがありませんので、対人関係が改善に向かうことはありません。相手をよく観察したり、相手の気持ちを確かめて事実を正確につかむという態度にならないといけません。次にそのズレの段階を見きわめることが大切です。3つの段階があります。ズレの解消に向かって再交渉が可能な段階。コミュニケーションに問題があって交渉自体が行き詰まっている段階。例えば沈黙しあってコミュニケーションが全くない等といった場合です。逆に一刻も早く人間関係を清算した方がよい段階。ズレの解消に向かって再交渉が可能な場合は、相手への期待を見直したり、コミュニケーションの方法を見直したりします。コミュニケーションに問題があって交渉自体が行き詰まっている段階では、コミュニケーションのやり方を改善してゆきます。一刻も早く人間関係を清算した方がよい段階では、否認、絶望、脱愛着のステップを踏んで楽になってゆく道を進んでゆきます。これらについては日を改めて詳しく見て行きましょう。(自分でできる対人関係療法 水島広子 創元社参照)
2015.12.10
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本の紹介です。伊丹仁朗医師の「絶対あきらめないガン治療・30の可能性」(三五館)という本です。ちなみに伊丹医師は、週刊現代によると「日本のガン治療の名医100人」に選ばれておられる方である。現在ガン治療は手術、放射線治療、抗がん剤治療が中心である。それらは初期治療として行われるが、その後再発予防、再発治療はほとんど行われていない。ホスピスに送られると安楽死を勧めている状況にある。本格的な治療は行われていない。もしお医者さん自身がガンにかかった時、自分の治療法としてそんな治療を望むだろうか。そのような患者に寄り添わないありきたりの治療だけで満足するのだろうか。多分ガンに良いとされる最善の治療法を試してガンを克服したいと思うだろう。ガンになると多くの人はお医者さんにすべてを任せてしまう。私はガンにかかると三大治療を受けるか、安保先生の免疫療法に頼って、ダメならあきらめて死ぬしかないなと思っていた。この本を読んで、それは間違いだということがよく分かった。ガン治療法としてそれ以外にも30もの道があることが分かったのだ。自分に合ったものを伊丹先生の援助を受けて自分で選ぶことが大切だということがよく分かった。この本を読むと目から鱗である。私の印象深かったところを紹介してみよう。まず84ページの温熱療法である。ガン細胞は熱に弱い。ただ問題はこの治療器を設置している拠点病院が全国で16か所しかないそうだ。次に152ページの高濃度のビタミンCの点滴である。この中の過酸化水素がガンを攻撃するそうだ。144ページには丸山ワクチンの紹介がある。これはコラーゲン繊維を増殖させてガンを閉じ込めてしまうというものだ。その他にも自家ワクチンと樹状細胞療法、漢方薬、歩く気功も紹介されている。そして生きがいを持ってガンに立ち向かうということを勧めておられる。生きがい療法ユニオンの活動である。伊丹先生は患者のガンを治したいという目線に立たれたお医者さんである。そのためには現代の医療の問題点を余すところなく指摘されている。良いとされる療法はほとんど現地に出向いてその効果を確かめられている。そして治療に取り入れられている。このやり方は森田正馬先生のやり方と同じである。私のイメージとしては、現代に生き返ったシュバィツァー博士のようだと思っています。ぜひガンにかかっておられる方はもちろんのこと、今は健康だという人もぜひ読むことをお勧めしたい本である。ちなみに伊丹先生は森田療法にもとてもよく精通しておられる。かってガン患者とモンブラン登頂に挑戦されたのも、森田理論でいう「生の欲望の発揮」であった。
2015.12.09
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水戸黄門の主題歌は「ああ人生に涙あり」である。人生楽ありゃ 苦もあるさ涙のあとには 虹もでる歩いていくんだ しっかりと自分の道を 踏みしめて人生涙と 笑顔ありそんなに悪くは ないもんだなんでもしないで 生きるより何かを求めて 生きようよ私は人生苦があるから、楽しみがあるのではないかと思う。現代、苦痛は寄ってたかって摘み取ろうとする。苦痛は悪である。すぐにつぶして、快適、安全、快楽ばかりの生活を追い求める。でも苦がないから、あまり楽を感じない。不感症になってしまった。そして無気力、無感動、無関心な人が増えてきているように思う。冬山登山なんて、苦痛以外の何物でもないと思う。でも登山家にとっては、苦しみが大きいからこそ挑戦のし甲斐があるのだろう。人間は苦しいことや不安が周りにたくさんあって、それに向き合って生きていないと、生きることにむなしさを感じてしまうのかもしれない。水戸黄門の主題歌では、「人生そんなに悪くはないもんだ」と言っている。絶望して早々と人生に見切りをつけてしまう人もたくさんいる。そういう意味ではたかが人生、一生懸命になったって何の意味があるんだということなのだろう。反対に、たがが人生、されど人生という人もいる。そういう人は、自分の夢、目標に視線を合わせている。仮に達成できなくても充実感に満ちて一生を終えることができる。森田理論でいう努力即幸福ということだろうと思う。私は森田理論学習を続けて約30年。親へのわだかまりもなくなり、対人関係でつまずいてもとらわれることがなくなった。そして100歳ぐらいまでは生きて、人の役に立ちたいと思うようになった。
2015.12.08
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野村章恒先生の「森田正馬伝」より家系図を作りました。森田先生の著作を読まれるときの参考になると思います。
2015.12.07
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12月5日6日に心の健康セミナーで高知県に行きました。ホテルから太平洋を望む。肌がつるつるになる温泉とカツオのたたきが最高でした。
2015.12.07
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不快な感情はいろいろある。イライラする、腹が立つ、絶望的な気持ちになる、悲しい、つらい、苦しい、怒り、恨み、憎しみ、不安、恐ろしいなどなど。これらに対して、しみじみとその感情を味わっている事はあるだろうか。神経症に陥っている人は、とらわれを取り去ろうと格闘したり、逃げたりすることが多いのではなかろうか。水島広子氏によると、イヤな感情は十分に味わうことをしないと、いつまでもつきまとわれて、抜け出すことが困難になるという。イヤな感情は、最初は否認しますが、どうにもならない感情は絶望に変わります。ところがイヤな感情にきちんと向き合わないで、ごまかしたり逃げたりしていると、十分に絶望の時期を経過していない。そして絶望を乗り越えることができなくなってしまう。これが大問題だと言われているのです。私たちが不安にとらわれて神経症に陥ってしまうのは、イヤな感情に対する向き合い方に問題があるのかもしれません。Aさんは結婚を約束していた人をバイク事故で亡くした。彼の父親から連絡があったが、ショックのあまり自室にこもりきりになり、顔を見に行くこともできなかった。お通夜、葬儀に参列できなかった。その後やっと1カ月過ぎて普段の生活に戻ったが、半年経っても気持ちが晴れることはなかった。それどころか、食事がとれなくなり、明け方目覚めては彼のことばかり考える。不眠に悩まされ、受診した病院でうつと診断された。水島氏は、彼女が、彼の死に直面するための儀式をすべて避けてしまったことが問題だと言われています。お通夜やお葬式というのは、形式的なようでいて、案外重要な儀式です。そこに行けば、嫌でも相手が亡くなったという現実に直面するからです。また、親しい人同士でともに悲しみ合う場としても重要です。「お葬式に行ったところで彼が生き返るわけでもない」と、儀式を避けていると、悲哀のプロセスが「否認」のところで止まりかねません。Aさんは、彼との思い出のものをすべて避けて暮らしていました。これも同じように問題です。彼との思い出の場所を見ては、「ああ、彼はいなくなってしまったんだ」ということを改めて認識する。彼にもらったものを見ては「ああ、彼がこういうものをくれることはもうないんだ」ということを改めて認識する。そして、思い出の品を整理して処分したり、別の場所に位置づけたりする作業を通して、少しずつ現実に直面していくのです。。これらは、心の中での小さなお葬式の積み重ねということができるでしょう。悲哀のプロセスを「否認」から「絶望」へと進めていくためには、不可欠の儀式です。この時期、悲しいのは当たり前だとして、むしろ積極的に悲しみに直面していくことが大切です。そうすることで、悲しみという感情から抜け出すことが可能となるのです。(自分でできる対人関係療法 水島広子 創元社 56ページより引用)
2015.12.07
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(学習テーマ) 精神拮抗作用について(学習のねらい)ここでは日々の生活の中に調和、バランスが崩れるとうまくゆかないということを学んでいただきたいと思います。森田理論の基本の考え方は、生の欲望の発揮です。でも欲望が暴走すると大変なことになります。普通は不安が欲望の暴走を止める抑止力として働いています。欲望と不安はどちらも大切なものです。欲望と不安はバランスをとって前進することが大切になります。この部分の内容は森田理論全体像の「欲望と不安の関係」に含まれています。(内容説明)森田先生は次のように説明されています。精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。例えば、時間がたてば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。これが純な心である。その時、今日は下痢をしているから人前で行儀を悪くすると笑われると考えるのが理知である。この純な心と理知の調整によって人はその行いが正されて、初めて理想にもかなうようになる。今日誰かの日記に「先生に叱られて、非常に恐ろしかった」と書いてある。ちょっと見ればなんでもないが先生に対する反抗気分と不従順を表している。先生に叱られて恐ろしいのは、当然であり、人情である。この純なる心そのままであると同時に、一方には、森田先生に接近し、話を聞き、指導を受けたいという心が対立している。この恐ろしくて逃げたいと、近づいて幸福をえたいという二つの心が相対立するときに、我々の心は、微妙になり、臨機応変、最も適切になり、いわゆる不即不離の状態となるのである。神経質者の考え方というものは、先生は恐ろしいという心を否定、圧迫し、一方には近づきたいという心に、いたずらにむち打ち、勇気をつけようとして、無理な努力を工夫し、その結果は、かえって神経の働きが萎縮し、偏りたるものになる。私の場合でゆうと、呉先生は私の恩師であるから当然最も恐ろしい人であった。もちろん取り入って先生に一目置かれたいと思うことはあったが、私から積極的に働きかけるというようなことはなかった。先生がお出かけのとき、車へ同乗を頼むことはなかったが、先生の方から「誰か一緒に乗らないか」といわれるときには、蜘蛛の糸にかかった昆虫に蜘蛛が飛びつくように、決してその機会を逃すようなことはなかった。患者とともに4、5人で町を歩いていると、私は息切れがするので、きわめてノロノロと歩いているのに、患者はいつまでも、ぴったり後ろからくっついてくる。私はじれったくて「いつまでも、僕のあとへくっついて来る人の気が知れない。」といったら今度は私の方からすっかり離れてしまって5、6間の間隔をおいてソロリソロリと歩いている。私はまた私の付き添いの娘をやって「離れてしまうような気のきかないものは、なんとも仕様がない。」と言わしてやった。患者はどうしてよいかまごついてしまう。私の話が始まる。犬を連れて散歩するときに、犬は主人のそばにばかりくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰ってきて、主人の足元に絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる不即不離の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失ないはしないかという事が気にかかるから決して離れてしまうことはない。しかるに君たちは先生の先に追い越してしまうと無礼になるという理屈にとらわれ、反対に離れてしまえばまったくよりつかない。(話し合うテーマ、課題)精神拮抗作用について気づいたことをお話しください。自分の生活の中でどういうふうに活用したいと思われましたか。
2015.12.05
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(学習テーマ) なすべきことに手をつける(学習のねらい)森田では神経症を治すためには、不安には手をつけないで、日常生活に注意を向けて「なすべきこと」を丁寧にすることを勧めています。どんなことに気をつけて取り組んでゆけばよいのでしょうか。この部分の内容は森田理論全体像の「生の欲望の発揮」に含まれています。(内容説明)レベル1 気が進まなくてもイヤイヤ、仕方なく手足を動かしていく。森田では月給鳥という鳥になったつもりで会社に出かける。家事では超低空飛行を心がける等といいます。レベル2 実践課題を作って取り組んでみる。布団あげ、部屋の掃除、靴磨き、風呂の掃除、トイレの掃除、車の洗車、ペットの世話、花等の手入れ、家庭菜園、地域の活動、趣味、運動等課題を作って取り組んでみる。レベル3 気づいたことを逃さないようにメモして課題のストックをためていく。できることから手をつけていく。雑仕事、雑事を大切にする。コツはものそのものになりきって行うということです。注意点は、今できることは一つしかない。完全にこなそうと思わず、6割できればよしとする。変化に臨機応変に対応して、優先順位を意識する。これは、森田では無所住心の考え方です。レベル4 規則正しい生活を心がける。自分の不安や心配事よりも仕事、勉強、家事、育児に力を入れていく。レベル5 物、自分、他人、お金、時間をできるだけ有効に活かして使う。森田では「物の性を尽くす」といいます。レベル6 人の役に立つことを見つけて行動する。レベル7 好奇心を活かして、やってみたい趣味等に取り組んでみる。仲間との交流の体験を持つ。一人一芸を身につける。レベル8 大きな目標、課題を設定する。コツコツと地道な努力を重ねていく。目標達成に向けてチャレンジしてみる。注意点があります。症状を治そうと思ってする行動は、かえって症状を強化してしまうということです。森田先生は言います。「便所が汚れたのを見かねて掃除するのは修養だが、修養のために便所掃除をするのは邪道である。」高良先生は言います。対人恐怖の患者さんが、作業用の竹を買いに行った時のことを日記に書いている。「竹を買いに行ったけれども、今日の竹買いは失敗であった。」なぜかというと「途中で対人恐怖を強く感じたから」だいたい竹買いが成功であったか失敗であったかは、思い通りの竹を買えたか、しかもよい竹を安く買えたかどうかであって、この患者は竹買いのことは全く没却されて、対人恐怖がでたかどうかが重点になっている。これらの事例は、行動することによって自分の苦痛を回避したいという野心があるのです。野心があると注意が症状に向いてゆく。症状に注意が向けば、ますます感覚が強まり症状が強くなるのです。「わしは風呂を焚くときには、風呂焚きになり切る。どうしたらゴミの整理がうまくできるか。どうしたら少ない燃料でもっともはやく風呂をわかすことができるか、真剣に研究し、工夫する。風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時には医者になり切り、将棋をさすときは将棋さしになり切る。つまり何をやっても、自分の全力をつくすのだ。そこには価値批判はなく、風呂焚きも診察と同じように興味があり、張り合いがある。これがもし、下手な価値批判にとらわれ、風呂を焚くより原稿を書いた方が得だ、原稿を書くより診察のほうがもうかる、診察よりも病院の経営をやった方が利益が多い、という具合に損得を基準にして考えてゆくと、しまいには何もすることがなくて手をこまねいているか、あるいは詐欺をやった方が早道だ、というようなことにもなりかねない。風呂焚きでも、飯炊きでもなんでもよい。価値批判を抜きにしてとにかく手をつけさえすれば、いつとはなしに興味がでてきて研究と工夫を重ね、仕事はそれからそれへと発展して、社会に役立つ働きができるようになるのだ。」(話し合うテーマ、課題)あなたは今どんな段階ですか。できたらそこからランクアップさせてみましょう。行動することについて気がついたことを発表してください。「ものそのものになりきる」ためにはどうしたらよいと思われますか。
2015.12.04
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アドラー心理学では人間の行動にはいつも目的があって、人間はその目的に向かっていくと考えているのです。これは、今現在の行動は、過去とは一切関係が無くて、これから先どうするか、どうしたいかという、その人の将来の欲求、希望、目的とだけ関係があるということです。つまり、自分がある感情に基づいて行動をしたら、心の中に、ある欲望や目的があって、その欲望や目的を達成するために、感情を作りだして使っているんだというように考えるのです。感情は欲望や目的を達成するための手段になっているというのです。森田では感情は自然現象でどうすることもできないものだと言います。でも、もし相手を自分の思い通りにしたいという欲望や目的がなかったとしたら、怒りの感情は発生しないようになっているというのが不思議です。このように、アドラーは、怒り、恨みというような感情は、自分の目的を達成するために利用しているのだと考えているのです。例えば、子どもが朝なかなか起きてこなくて、お母さんがイライラして、感情的に叱っちゃいけないと思っていても、やっぱり叱っちゃた。でも、あれは感情がそうなったんだからしょうがないわと思っちゃう。私は本当はいい人で、その時だけたまたま感情的になっちゃった。だから私のせいではなくて、感情のせいだと考える。これは違うんです。本当は子どもを思うがままにコントロールしたいんです。子どもをコントロールする時に感情的になると、相手を威圧できるし、また自分自身に「今は感情的になっているから、何をしても許されるんだ」って言い訳ができるでしょう。そのために感情を作りだすわけです。だから、感情というのはある目的のために作り出される手段にすぎない。よくよく考えれば感情を使わなくてもいいんだけれども、ごまかしのために、われわれは感情を作りだす。だからそこのところを、われわれ自身がきちんと見抜いていれば、人間関係をこわすような破壊的な感情は出てこない。子どもを叱る時、この子を思えばこそということがあります。部下を叱る上司も同じです。これは違います。子どもが気にくわないから、部下が気にくわないから叱っているんです。自分の好みに合わせたい、相手を自分の好きなように支配したい、自分の好む相手に変身させたいから。でも、あからさまにそう言うと道徳的に体裁悪いじゃない。でも心の奥底には、私は私の好みどおりの子どもにしたい、好みどおりの亭主に改造したい、お姑さんを全く私の思うとおりに動かしたいと思っているんです。でも現実には自分の思うように相手をコントロールできないでしょ。相手を自分の思うように動かすことはできないでしょ。ほとんどの場合そうです。相手は一人一人自分とは違った意思を持つ人間なのですから。仕方なく自分の指示、命令に従ったとしても、心の中で反抗しているのです。すると人間関係がぎくしゃくしてきます。森田でいう「思想の矛盾」に陥ってしまっているのです。自分の考えと相手の考え方にどうすることもできない解離がある。だからイライラして悩む。そしてうつ状態で苦しむということになるわけです。最近自己主張の大切さをよく耳にします。アサーション訓練などがそうである。でも根本的に相手に対して、支配欲求、コントロール欲求が強く、いつも前面に出ていては、アサーション訓練は相手と対立を深めるだけになってしまう。ただ単に相手とのコミュニケーションのテクニックを磨いたとしても、相手と支配、被支配関係の態度ではうまくゆかない。このことはまずもって自覚しておくことが大切だと思う。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 74ページ参照)
2015.12.03
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私は台風接近時にバスで渡りました。とても怖かったです。
2015.12.02
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先日の生活の発見会の支部の研修会の中で講師の方が次のように言われた。森田では不安は受容しなさいと言われる。そして、不安はヨコにおいて「なすべきことをなす」に取り組みなさいと言われる。これは不安の受容モデルだが、私にはそんなことはできません。とても無理なことを押し付けられているように思うと言われた。その上で、講師の方の言われるのは、不安の「悟りモデル」だった。悟りといっても高僧のような立派な人になることではありません。不安についての理解と気づきを深めていくことだと言われた。私もまったく同感だった。不安の正体、不安の役割、不安と欲望の関係、不安の活かし方を理解しないでそんなことを言うと混乱してしまう。そういう学習をして、十分わかった上で、不安は受容するしかないのですよという自覚を持てれば問題は発生しない。不安の十分な説明なしに、不安は無条件に受け入れて、日常生活に視点をおいて生きてゆきましょうというだけでは、あまりにも森田理論を乱暴に扱っていることだ。自分が神経症を克服したからといって、途中の過程を無視して、結果だけをアドバイスしても相手にはなんの効果もないのだと思う。むしろ弊害の方が大きい。要は正しいステップを悩んでいる人が、自らの力で歩いていくことが必要である。もう一度おさらいをしておこう。不安というのは欲望とセットになっている。欲望がないところに不安は発生しない。欲望が小さいと不安も小さい。欲望が大きいと不安も大きい。だから不安は不快だから取り去ろうということは元々できない。だから不安を多少軽減させましょうというのは構わないが、完全に不安を取り去ってあげようという療法は間違いである。こういう心理療法が多いので注意する必要があるのだ。次に不安と欲望はコインの裏表の関係にある。不安の裏を見れば欲望が分かる。ここが肝心なところだ。不安を利用して自分の欲望を探ることができる。これは大いに利用する価値がある。森田理論の土台は「生の欲望の発揮」にあります。その欲望から目をそらすことは片手落ちとなる。不安を自分の欲望の発見の手がかりとして利用するのである。欲望と不安のバランスが崩れると、健全に生きていくことはできなくなる。このこともよくよく理解してほしいところだ。次に欲望というのは、際限がない。一つの欲望はまた新たな欲望を生み出す。それが高じると最悪人間同士の殺し合いに発展してくる。不安は欲望の暴走を制御するという重要な役割を持っているのだ。これは車のアクセルとブレーキの関係にある。アクセルだけでブレーキが無ければ車を走行させること自体不可能である。だから不安を持たない人間というのは社会に適応することはできないのである。森田では精神拮抗作用でこのことを説明している。不安と欲望のバランスをとりながら生活することは大変重要であるがとても難しいことでもある。イメージとしては、サーカスの綱渡りである。長い物干し竿のようなものを右に左に揺らせて微調整しながら注意深く進んでいく。つまりしっかりと自分の進むべき方向に視線を向けて、あとは墜落しないように微調整することに全精力を傾けているのである。この態度を意識づけるために机の上に「ヤジロベイ」をおいて置くことを勧めているのである。不安と欲望の単元はとても重要な単元である。まだまだ説明していない部分も含めて、何度でも学習して自覚を深めてほしいものである。
2015.12.02
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一昨日森田理論の学習会に参加した。とても参考になることがあった。入院森田療法は4期で構成されている。第1期臥褥である。約1週間は何もしないでじっとしている。第2期は軽作業期である。無理しないで散歩程度から始める。第3期は重作業期。日常生活で気がついたことにどんどん手を出していく時期である。第4期は日常生活訓練期である。環境に柔順、純な心、臨機応変、創意工夫できるような時期です。この4つのサイクルは日常生活にも応用できるという話しでした。まず注目してほしいのは第1期の持つ意味である。神経症のきついとき、あるいはうつで気力が全く起こらないとき。普通は自分を「こんな自分ではダメだ」と自己否定して、叱咤激励してなんとか動こうとする。それが楽になる道だと考えている。それは間違いだということである。そんな時は何もしないでごろごろして休んでいたほうがよい。家庭で休息できないときは入院してでも体を休めることだ。動物でも大けがをすると、ほら穴のようなところに身を隠して、じっとして傷がいえるのを待っている。その間食事もとらない。これは血液中に白血球の食べる材料を少なくして、侵入してきた病原菌を食うということで体の回復に役立っているそうだ。それを人間の場合は、栄養をとらないと病気はよくならないのだと勘違いしているのである。そうすると血液中に栄養がいっぱいになり、白血球の免疫機能は十分に働かなくなるのである。何もしないで心身ともに自然治癒力に期待することを基本に据えないとならない。だから心身ともにつらい時は体を休めてくださいという自然のサインなのである。それに素直に対応することが大事である。森田ではなすべきをなすということで、3期、4期を重視しているが、それと同様に1期、2期も大きな意味を持っているのである。次に、この4つのサイクルは、自分たちの生活を考えた場合、一方的に1期から2期、2期から3期、3期から4期へと一方通行で硬直したものではない。この考え方を生活に活かすとすれば、逆の道を歩むこともあるのだ。状況に応じて変化させる必要があるのだ。この考え方をよく理解してほしい。つまり生活していて心身が疲弊して、しんどいなと思うことはよくある。例えば過労がある。仕事をしている人は、サービス残業は当たり前。土日出勤しないと仕事が回らないという人がいる。有給休暇などは取ったこともない。かっての私がそうだった。そういう人は3期、4期の段階でキャパオーバーになっているのだ。そういう場合はその前の段階に戻る。最悪第1期に戻る必要があるのだ。そしてそのうちに回復してきたら2期にあげていく。前の段階に戻ることは、決して恥ずべきことではない。自分の現在の心身の状態に行動を臨機応変に変化さているということなのです。考えてみれば私たちの1日の生活もこのサイクルで動いているのです。夜になると寝て心身ともに休んでいます。朝起きて朝日を浴びて、洗面、身支度、トイレで用を足したり、朝食をとったりして、屋外に出ます。これは第2期の軽作業期にあたります。それから徐々に本格的に仕事、勉強、家事などに取り組みます。そのうち弾みがついてどんどんと気づきや発見が出てきます。そして創意工夫してものそのものになりきって行動できるようになります。これがまさに4期の状態です。でも日が落ちてくる頃には、心身ともに疲れてきます。おなかが空いてきます。だから今日の仕事をクールダウンさせて家に戻ります。さらにお風呂に入って疲れた体と心をケアしていきます。また1期の段階に戻っているのです。日常生活は第1から第4期までを一日のうちで繰り返しているということなのです。これを第1期の心身を休める時間帯に、夜遅くまでネットゲーム等にはまっているということは、自然なサイクルを自ら壊し、心身の不調を手招きしているようなものです。
2015.12.01
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