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サッカーの監督が試合中に大声で選手に何か言っているような光景をよく目にします。でもあれは指示をしているのではないそうです。試合中にそんなことをするようではとても勝負に勝つことはできない。確かに試合中に、選手が監督の指示を気にしているようでは試合には集中できません。あれは監督自身のイライラ、ストレスを発散しているのだそうです。つまり胸のわだかまりを大声を出して発散しているのだそうです。精神衛生上大変効果があるそうです。だからストレス対策として大声出すことは、老廃物を体外に排出することと同じことになるのです。これに倣い、私たちもストレス発散のために大声を出して、胸のつかえを吐き出すようにしてみたらいかがでしょうか。でも毎日の生活の中で、大声を出してストレス発散する機会はあまりありません。どうしたらよいのか。私は以前ベートーベンの第九合唱団に加わって歓喜の大合唱を経験しました。思いっきり声をだして確かにストレス発散にもなります。またオーケストラと共演できて感動もあります。数千人の人との合唱はとても力強く、人間の底しれない力を感じました。みなさんも機会があれば1回挑戦してみてください。1回歌詞を覚えれば家の中でも伴奏に合わせて歌えるようになります。歌っている時には同時に思考することはできません。歌うことに専念することしかできません。つまり不安や恐怖、不快な感情から一旦解放されることになるのです。その他では手っ取り早いところでは、カラオケです。You Tubeの動画サイトではほとんどの曲が用意されていますので、別にカラオケルームに行く必要はないかもしれません。パソコンで再生して歌えばよいのです。うまく歌えなければ歌手の歌声に合わせて歌えばよいのです。私のような音痴なものでも手順を踏めばなんとか楽しめるようになります。コツとしては録音機を使うことです。お勧めはPCM録音機です。鮮明にダイレクト録音ができます。プロが歌唱しているものをYou Tubeからダイレクトに録音して、小節ごとにリピート機能を使って、歌い方が分からないところを繰り返し聞いてみることです。私はこれで「奥飛騨慕情」「夢追い酒」「君がすべてさ」「二人酒」「博多時雨」「還暦祝い唄」等を練習しました。毎日アルトサックスの練習もしています。最近はそれ以外に、カラオケを30分練習しています。歌詞も一番だけはすべて暗譜しました。バイクでの通勤途中はもっぱら暗譜したカラオケを順番に歌っています。楽しいです。多少なりともストレスの軽減に役立っていると思っています。また1年に2、3回あると予想されるカラオケの機会には、逃げずに歌ってみたいと思っております。あの音痴な人がと、みんなをびっくりさせてみようと思っています。
2015.05.31
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日常生活を規則正しく行うことについて書いてみたい。規則正しく行うとは毎日同じ時間帯に同じ行動・実践をするという事である。それも基本的に365日である。そんな無茶な事と思われるかもしれない。これは基本的なスタンスという事である。その際イチロー選手が参考になる。イチロー選手の睡眠は7時間から8時間。12時前に朝昼兼ねた食事をする。午後7時5分開始の試合のために、5時間も前の午後2時には球場に入る。マッサージやストレッチ、室内練習場での打ち込みなどを行って、午後4時半過ぎから全体練習に参加する。遠征先には、枕と足裏マッサージ機を必ず持っていく。枕が変わると首の位置が変わってしまうので、いつも一定にするためだという。足裏が冷たくなりやすいのでマッサージ機も必要だ。マリナーズいた時はシアトルに住んでいた。球場に向かう車のなかでかける音楽はいつも同じ。それ以外の音楽は聴きたくないという。同じものを繰返して大丈夫というのは食事に対してもそうで、自宅にいる時ときの朝昼兼用の食事は、いつも奥さんの作るカレーライス。それも味を変えるのではなく、毎日同じ味のカレーを食べる。遠征先で外食する時も、試合前に昼食を摂る店、試合後の夕食の店がそれぞれ決まっているという。イチロー選手は、シーズン中は試合開始の時間から逆算して、生活のリズムをつくる。その結果、余計な気負いもプレッシャーも感じることなく、普通の状態でグランドに立つことができる。そのために決まった時間に、決まったところで同じ行動をとりつづけることは大切なことなのだ。バッターボックスに立つしぐさも徹底したルーティンにそっている。それが10年連続200本安打達成の源の一つになっているのではなかろうか。我々も日常生活はルーティンどおりに進めてみてはいかがでしょうか。朝起きてから夜眠るまで、同じ時間帯に同じ行動・実践がくるように持っていくのである。仕事、学校、習い事などがある人は比較的実践しやすい。これは森田で言うと、「外装ととのえば内装自ずから熟す」という事だと思う。心の中がどんなに苦しくても、形を整えることに力点を置いていく。すると不安や不快な感情も時とともに薄まったり変化してゆきます。あるいは新たな不安や不快感の方に関心が移っていくこともあります。見方を変えると気になる不安や不快な感情を抱えたままなすべきことをなしていくという事でもあります。その日常生活に今一歩真剣になれば、何らかの気づきや発見があります。そんな感情が湧き起ってくれば自然の流れとして意欲ややる気が湧き起ってくるという仕組みになっているのです。(折れない心の作り方 齊藤孝 文藝春秋209ページ引用)
2015.05.30
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良寛さんの言葉である。人はそれぞれ、その場だけの自分の考えにこだわり、どこへ行っても互いに正しいとか正しくないとかきめつける。正しいのは自分の立場から正しいと判断するだけのことであり、正しくないのは自分が正しくないと判断することだけになっている。ただこのように、自分の主張だけを通していくと、どうして客観的な是非の基準が得られようか。(困った時の良寛さん 松本市壽 三笠書房 110ページ)森田先生も同様のことを言われている。人と比べてこちらがよい、こちらは悪いとかいう価値判断をしてはならない。この是非善悪、苦楽の価値評価の拘泥を超越して、事実そのものになりきっていく事がとても重要である。私たちは、何かにつけて、あるがままの現実の世界と観念の世界、他人のよいところと自分の劣っているところ、過去のよかったことと今の不遇な状態と比較しています。比較することは決して悪いことではありません。比較することによって、客観的に自分の今現在の置かれた状況がよく分かるようになります。あるいは得意な点や苦手な面もよく分かるようになります。むしろよく観察してその違いをはっきりと自覚することは大切です。自覚すれば自分の進むべき道が見えてきます。出来ないことはあきらめて、自分のできることに力を入れることができるようになります。でも比較したあとに、是非善悪の価値判断をしていくことは、自分を否定して苦しみや葛藤を引き起こしてしまいます。森田理論が最も敬遠するところです。価値判断しないで自分の存在価値そのものを正しく見ていく態度がとても大切です。するとどうなるか。例えば、2台の電車が同じスピードで同方向に走行しているとします。走行しているにもかかわらず、自分の電車は走行していないように見えます。実際にはかなりのスピードで走行しているにもかかわらず、走行している感じが無くなっているのです。その状態は、精神的には不安、悩み、不快感そのものになりきった状態です。自然や事実と一体化しているために、悩みとか苦悩を感じない世界です。是非善悪の価値判断へのこだわりから抜け出して、事実を事実のままに受け入れていくとても精神的に落ち着きのある世界です。是非善悪の価値判断をしないで生活をするというのは、森田理論の核心部分です。そのためには「かくあるべし」的思考から解放されて、事実本位・物事本位の生活に切り変わっていくことが不可欠です。この部分はどなたも難しいと言われます。確かに難しい。でも手掛かりはすでに明らかになっています。後は生活の中に取り入れて、試行錯誤しながら身につけていくことが重要です。
2015.05.29
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米倉斉加年さんという俳優がいる。好々爺の役をやらせるとなんとも言えない味をだす。この方は長い間宇野重吉さんから演技指導を受けている。宇野さんは役を演じるときに「普通に言いなさい」ということを言われたそうだ。自然体で演技しなさいということだ。役者は演技をするのだが、演技をしているということが見ている人に悟られるようではいけない。これは簡単そうで難しい。登場人物そのものにならないと、普通の喋りは出てこない。そもそも自分以外の人になりきることはできない。でもできる限り近づくことはできる。そのために宇野さんが言われた事は、台本を「逆なでして読め」ということだった。台本を深く読みとれないときは、逆から読んでみろということだった。つまりそこまで丁寧に読めということだった。役者は台本に書かれたセリフを手掛かりに人間をつかむ。その人間の内部構造が分からなければ役の表現もおぼつかない。事柄、事実の把握、そして推理。宇野先生は役者と探偵の仕事は似ているとも言われる。役者に限らず、物事、世の中を見るときに大切なことだろう。主人公が実在の人なら、成長した故郷に行ってみる。空気に触れてみる。足跡をたどってみる。その人物をよく知っている人に会って話を聞いてみる。その人が残したものに触れてみる。思想や考え方の特徴をつかむ努力をしてみる。役を演じる前にそうした地道な準備を積み重ねていく。その過程を踏んでいるかいないかで役作りは大きく違ってくる。どこまでもその人をつかみとろうとする態度が大切なのだ。そんな態度で仕事をしていると、こんなことが起きる。米倉さんが、宇野先生演出の「裸の大将放浪記」という芝居にでた。天才の放浪画家である山下清さんを育てた先生役だった。もうかなり公演回数を重ねたある日のことだった。ダメだと言われた。「斉加年、駅前食堂の場で主人夫婦が山下清君を天才だとほめたら、お前は大変うれしそうにそれに応じているね」「あの先生はそんな先生ではないよ」「山下清君のように知恵遅れで世間からバカにされている自分の教え子がホメられれば、それは先生としては大変うれしいだろう。そのことは間違っていないのだが、その喜びをお前のようにストレートに表現していては、あの先生の奥ゆかしい人柄が出なくなる。山下清君はわが子に等しい教え子で、いわば身内だ。身内を自慢しては奥ゆかしさがなくなってしまう。嬉しさを抑えなければ・・・」米倉さんはこの宇野先生の言葉を聞いてはっとしたそうである。役になりきっていなかったのではないか。先入観や思い込みが先に出てくるようでは、演技はおかしくなってしまう。奥ゆかしいということは謙虚であることでもある。多くを知っているからこそおさえることもできる。多くを知らない人はおさえることもできない。私生活でもこんなことがあった。古い劇団員の人が亡くなった。我々若いのがみんなで棺を持ち上げ、長い路地を足早に霊柩車に運んでいた。すると宇野先生は「ゆっくり歩け」と言われたそうだ。みんなは車まで運ぼうとしているだけだから、物を運ぼうとている。宇野先生にとっては戦友の死であり、戦前から一緒にやってきた人の野辺の送りだからその心がある。そういうスピードで運んでは、モノになる。だからゆっくり歩け。スピードがゆっくりとなると初めて、ちゃんとした野辺送りになるんですね。そういう悼む心があるとゆっくりになる。なにごとも指示された事だけを機械的にやっていてはダメなのだと思います。(いま、普通に生きる 米倉斉加年 新日本出版より引用)
2015.05.28
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森田理論では第一に感じる感情、直感を大切にしています。「純な心」というものです。初一念とも言います。引き続いて湧き起ってくる初二念、初三念に振り回されてはいけませんと言います。「純な心」の体得は森田理論では必須となります。将棋の羽生善治さんは、直感は過失が少ない。この手がよいとひらめいた直感はたいてい正しいと言います。でもこの直感というものは、ヤマカンやただ単なる思いつきというものとは違う。将棋では、一つの手に対して80通りぐらいの指し手があると言われています。その中から3通りぐらいの候補手を直感で選び出して、それについて検討しているのです。将棋の長考はそのような検討作業です。ということは直感が選ばなかった77通りの可能性は、即座にその場で捨てているということになります。最近のカメラには自動焦点機能が付いていて、カメラが自動的にピントを合わせてくれますが、直観の作用はあれによく似ています。直感は経験的なもので、とても構築的なものです。数多くの選択肢の中から適当に選んでいるのではなく、今までに経験したいろいろなことや積み上げてきたさまざまなものが選択する時の物差しになっています。その物差しは目には見えないし、無意識の作用によるものですから、当然、言葉にはしにくいものです。でも、それはまったく偶然に、何もないところからパッと思い浮かぶものではなく、経験や蓄積の層を通して浮かび上がってくるものなのです。ですから、研鑽を積んだものしか「いい直感」は働かないはずです。カンを研ぎ澄ませるのは経験や蓄積で、その層が厚ければ厚いほど、生み出された直感の精度も上がるのではないでしょうか。将棋の世界はともかく、われわれの生活で直感力がどう働いているのか検討してみましょう。例えば仕事でミスをしたときのことです。「しまった。取り返しがつかないミスをしてしまった。」まさに直感です。その時、すぐにことの重大さを認識して、関係部署にことの顛末をすぐに報告して一緒になって対応策に走ったこともあります。逆に、上司や得意先に「どうしてくれるんだ。いい迷惑だ」と叱りつけられた経験がすぐによみがえってきます。そして報告を先延ばしにしたり、ミスを隠蔽したりしたこともあります。何日も針のむしろに座らされて苦しい日々を過ごしたこともあります。これらのなんとか早期に手を打って、被害を最小限にとどめて、かえって災い転じて福となした数多くの経験。収拾に手間取り自分の築いてきた信頼を一挙に失った数多くの経験。もろものの経験や蓄積が走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。その数多い成功体験、失敗体験の中から、今度はなにを選択して、どう行動をするかここが大切です。この経験や蓄積が少ないと、すぐに気分本位となって楽な方に回避する道へと進んでしまうのではないでしょうか。一時は精神的に苦しいけれども、将来的にはこの道を選択した方がよいという方針を選びとるのは、実にこの雑多な経験と蓄積のたまものなのだと思われます。ミスや失敗しないという生活は、防衛的、受身であり、いろいろと気を使い苦しいと思います。それよりも早くミスや失敗の体験の数を増やして蓄積しておこうという態度の方がより精神的に安定するものと思われます。そしてミスや失敗の後の対応策を考えた方がよほど意味があります。その方が人間的にも一回り大きくなれると思われます。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 22ページより一部引用)
2015.05.27
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私は大福もちが好物なのだが甘過ぎるのには閉口している。もう少し甘さを抑えた小豆本来の味を出してもらえないものだろうか。先日お土産でいただいたものは甘さ控えめでこれぞ大福もちという気持ちだった。「いい仕事をしていますね」という言葉が自然に出てきた。草柳大蔵氏が「人は生きてきたようにしか死なない」(保健同人社)という本に、本来の蓬餅の製法について書かれていた。20ページである。それによると蓬餅は、まず、川の土堤に出て蓬を摘む。土堤のどのあたりの、どの程度の日当たりの、もちろんどのくらいの寸法のものがよいか、間違いなく見わけながら摘んでくる。餅を作る材料はモチ米とウルチの粉を半分づつ、別々に蒸かし、木臼の中で混ぜて搗く。搗きながら一升の餅に対して白砂糖を小さな盃に3杯ほど入れ、餅がやわらかいうちに徐々に蓬を入れて、餅がだんだん濃い緑に変わるようなテンポで搗きすすめる。次にアンの作り方だが、まずアズキを前の晩から水に浸し、一旦煮込んでから皮をすべてとる。この仕事でアズキのアクがなくなる。皮をとったアズキを鍋に入れ、熱を加えながら砂糖を入れるが、肝心なことは、できあがる頃合いを見計らって、ホンの少し手前で耳かきに2、3杯ほどの岩塩を加える。塩が甘さを抑制する。手間暇をかけて、丁寧に作り方の段階を阿吽の呼吸で踏んでゆくから人に感動を与えるような本物の蓬餅ができるのですね。たかが蓬餅、されど蓬餅だと思います。これをアンは甘ければ甘いほどお客は喜ぶものだというような先入観で作られては、食べる人はたまらない苦痛を味わうことになる。自分が食べる身になって作ってもらいたいものである。これに関連する話として森田先生はこんな話をされている。酒が嫌いな人がお酌をするとき「どうしてこんなものが飲めるのだろう」という気持ちで注ぐと、無理がゆかないで、酒すぎもうまく飲める。だが、「あの人は酒が好きだから」と自分の嫌いということを離れて考えると、加減なしにやたら追いかけ追いかけ酒を注ぐので、いくら酒好きでもたまらなくなる。自分の好き嫌いという感じから出発すると、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて思いやりということができる。相手と気持ちが通じる。同情心がでてくる。(森田全集第5巻696ページ)
2015.05.26
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宇野千代さんの「幸福の言葉」(海竜社)より、森田理論に関連する言葉をご紹介します。8ページ「人間とは動く動物である。生きることは動くことである。生きている限り毎日、体を動かさねばならない。頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである。私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。手を動かすことによって考えるのである。手を素早く動かすことが、そのまま、頭を素早く動かすことになる。」手考足考のことですね。だれでもやればいいなと思うことはいくらでもあります。でも思うだけで手を出さないのは、思わなかったことと同じです。思うだけでは能力があるとは言わない。小さな思いつきをメモ等に残してきちんとキャッチしておくこと。そしてできるかできないにかかわらずストックを増やしていくこと。そういうことができる人は能力がある人です。さらにできるところから手をつけることができる人は進歩発展してゆける。水谷啓二先生は、われわれ神経質者は風雲に乗じて成功を遂げるタイプではない。平凡なことを軽視しないで毎日の日常茶飯事に丁寧に取り組む。そういう生活を1年2年と続けるとその人はもはや平凡な人ではない。「平凡に徹した非凡な人になれる」と言われています。42ページ小説家である私は、毎日、だまって机の前に座ります。「小説は誰にでも書ける。それは毎日、ちょっとの時間でも、机の前に座ることである」これは私が作った格言なのですが、昨日は座ったが、今日は座らない、というのではなく、毎日、座っている中に、何か書ける、という教えなのです。倉田百三氏は、森田先生に、神経症がきつくて、作品を書こうという気が起こらないときでも、とにかく筆を持ちなさいと言われた。そんな状態で書いた「冬鶯」という作品は、あとから見直しても上等の作品であったという。53ページ「人間というものは、最後のどん詰まりになっても、一握りのしあわせにでも、しがみついて、生きていられるものなのです。その幸せとは何か。それは、自分にできる仕事があるということである。」私はこの「仕事」という言葉を、家事、育児、日常茶飯事、雑事、課題、夢、目標、問題点に読み変えてもよいのではないかと思います。98ページ誰の心の中にも、自尊心というものは隠れている。この自尊心があるために人と人の関係が、何となく、ぎくしゃくすることがある。自尊心というものが隠れている間は、何事も起こらないのに、一たび、ちょっとで頭をもたげてくると、面倒なことが起こる。そのことを知っている人は、そのとき、ちょっと自分の自尊心をよそへ持って行く。人の目のつかないところへ、隠しておく。自尊心なんか持っていなかったような振りをする。それにうまく成功すると、人と人との間には、案外、何事も起こらない。自尊心をちょっとどこかに隠す。というのは、何という便利なことであろうか。プライドをちょっと隠すと、言葉はやさしく顔はおだやかになる。私はここでいう「自尊心」「プライド」は、森田理論でいう「かくあるべし」であると思う。「かくあるべし」「プライド」を隠すにはどうしたらよいのか。これは一言でいうと事実本位・物事本位の生活をすることである。そのためには、事実をよく観察する。事実を具体的、赤裸々に話す。事実を両面観で見る。事実を是非善悪で価値判断しない。事実を受け入れ、事実に服従する。純な心を実践する。私メッセージの体得。等々の学習と体得が必要であると思う。これらについては数多く投稿してきた。気になる人はキーワード検索で学習してみてほしい。195ページ「幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人がいる」大きな幸福を求めていると、さらに大きな幸福が欲しくなる。無限にエスカレートしていく。そして幸福を追い求めること自体が人生の目標になってしまう。幸福を追い求めているのに、しだいに心は幸福から離れていく。しまいには疲れ果てて、むなしさ、空虚感でいたたまれなくなる。ささやかな小さな幸福が喜べる人は、自分のまわりに小さな幸福のかけらが数多く集まってくる。そういう人は小さな幸せに満足している。十分に楽しんでいる。大きな幸せが一つあるよりは、小さな幸せを数多く味わう方が自分の性に合っていると考えている。人生のだいご味はそこにあると感じている。そのためにこまめに手を出し、足を出している。
2015.05.25
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岡田武史さんの話です。日本のサッカー選手は指示を守ることにきわめて忠実です。ボールを持った敵の選手をふたりでマークする場合、一人は接近してプレッシャーをかけ、もう一人はプレスをかけた味方が抜かれたときに備えて、少し離れた場所でカバーリングに回るのがセオリーです。でも相手のボールの持ち方が不安定なら、二人が同時にボールを奪いに行ってもいいんですよ。その時々で選手が判断すればよいのです。そうしないとせった試合では、とてもではないが勝てない。つまり基本はしっかりと理解しておくことは必要ですが、状況に応じて基本は臨機応変に変化させていく方がよいのです。ところが、私がそれを指摘すると、「いろというところにいたんですが」「じゃあ、ミスをしてもいいんですか」という選手が多い。つまり、指導者から「ここにいろ」という確たる指示か、そうでなければ「ミスしてもいいから思いきっていけ」という保証を欲しがっているんです。慎重策にしろ積極策にしろ、失敗したとは指導者による指示によるものだという責任回避のための保証です。どちらにしても、そこに自分の判断と責任でリスクをとりにいく自主性は存在しません。いつまでもその殻から抜け出せないようでは困る。またサッカーの監督が、選手を指示でがんじがらめにして、ロボットのように忠実に動かすことだと考えている限りJリーグでは勝てても世界水準の試合では勝てない。勝つためには、選手個々が、その時々の突発的な気づきや発見をベースにした行動や判断が重要になるのです。基本あっての臨機応変な応用力が必要なのです。この話は森田理論を深めるうえでとても参考になります。仕事でも家事でも指示された事だけを機械的にこなしていけばよいと考えて、イヤイヤ仕方なしに取り組んでいる限り進歩や発展は望めないということです。そのうち興味を失い、仕事や家事を続けることが苦痛になってきます。ストレスがたまり続けてきます。そのうち仕事から逃げたりさぼることばかり考えるようになります。四六時中そんなことばかり考えていると、生きていくのが苦痛そのものになってきます。岡田武史氏は基本はしっかりと身につけないといけない。でも一旦見つけたあとは、その基本を打ち破っていく応用力が必要になる。そのためには「ものそのもの」になって取り組んでみる。なにもかも忘れて一心不乱になってみるということです。そうしていると何らかの感じが生まれる。気づきや発見がある。すると意欲ややる気に火がついてくる。失敗してもいいじゃないですか。その失敗が肥やしになってまた進歩成長できるのですから。そこまでの選手は見ていてもすぐに分かる。森田でいうとそこにこそ生きていく意義が隠されているというところでしょうか。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 81ページより一部引用)
2015.05.24
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岡田尊司氏は子どもの教育という視点から、子供の特徴や能力を大まかに3つのタイプに分けておられる。「視覚空間型」「聴覚言語型」「視覚言語型」である。「視覚空間型」の人は、転がってきたボールをけったり、狭いスペースを自転車で通り抜けたりできる。巧みにタイミングをとって反応したり、バランスをとりながら体を動かしたりすることが得意だ。変化に即座に対応することができる。動いていないとテンションが下がる。じっとしているよりも手足や体を動かすことを好む。行動的、活動的、運動的、体感的で失敗してもやりながらどんどん修正していろんな能力を身につけていく。好奇心旺盛で、感性を大事にしていて、それをもの作りなどに活かせる。体で覚えていくタイプである。反面暗記中心の講義型の学校教育は苦手な場合が多い。人づきあいよりも、マイペースでわが道を行く傾向がある。典型的な人は長嶋茂雄氏である。長嶋氏が巨人の監督の頃こう指導していた。「たまがこうスッと来るだろう。そこをグゥーッと構えて腰をガッとする。後はバァッといってガーンと打つんだ」これを手振り身振りで選手に説明していくのだ。視覚空間型以外の人にはよく分からない。スティーブ・ジョブズ氏もこのタイプだった。コンピーターの知識はあまりなかったが、社会がどういう製品を求めているかという感性はすぐれたものがあった。次に「聴覚言語型」の人は人の話をよく聞く。会話言語に強く、言葉の感覚にも優れていて、会話を楽しめる。会話の機微を解し、聞いた言葉もよく覚えている。分からないことは誰かに教えてもらう方がよく頭の中に入る。相手の気持ちを理解したり、場の空気を読みとったりするのが得意である。したがって、コミュニケーション能力に優れ、特に相手の話に耳を傾けたり、共感したりすることに長けている。いつも人の輪の中にいる。取り巻きをひきつれている。よく人の世話をしたり、めんどうをみている。対人折衝能力、組織をまとめ上げる、人を使う、営業等で大きな成果を上げることができる。オバマ大統領、岡田武史氏、小泉純一郎元首相のようなタイプだろう。神経症でいえば不安タイプの人はこの方面の特徴を兼ね備えている人がいる。教師、監督、営業、指揮者、調教師、リーダー等に向いている人である。「視覚言語型」の人はどういう人か。これは神経症のタイプに多い。このタイプは文字言語には強いが、会話は苦手というタイプである。論理的な文章は頭に入りやすい。具体的なものよりも抽象的な概念を扱うのが得意で、物事を論理化や図式化して理解するタイプである。分析するのは得意だが、自分でオリジナルなものを作り出すのは苦手である。とりとめのない雑談などは苦手である。特に、何か自由に話してください等といわれると困ってしまう。論理的な手掛かりがないから、どう話を組み立てていいのか分からないのである。記憶力がよく、ペーパーテストは強いので、学校の成績はよいことが多い。活字の虫、本の虫の人も多く、自分の興味のあることはよく調べていて、知識も豊富である。分析力、執着性、こだわり、論理的、思考的、完全主義、法則やマニュアル作り等に長けている。こういう人は官僚、研究者、弁護士や税理士等のサムライ業等に向いている。対人関係は苦手でマイペースを好む人である。(子供が自立できる教育 岡田尊司 小学館文庫 32ページより一部引用)本来この3つの資質のバランスがある程度とれているとよいのかもしれない。手先が器用で、行動的である。人と上手にかかわっていける能力がある。理知的で物事をより深く掘り下げて考えることができる。しかし世の中を見渡せばそんなスーパーマンのような人はなかなかいないようだ。子どもの場合は、ある程度教育によって鍛え直すことは可能だと思う。それは子供にクロールを教えるとよく分かる。手足の動きや息継ぎを教えるとそれなりに様になってくる。ところが大人になってからクロールを習得することはとても難しい。だから子供のうちに社会に出たときに困らない程度に教育していくべきだと思う。でも大人になった人は、再教育は無理ではないだろうか。大人の場合は、再教育よりは、自分の特徴を自覚した方がよい。自分は3つのどのパターンに属しているのか。神経質者はどちらかというと「視覚言語型」が多いいようである。理知的であり、観念的であり、理想主義者が多い。考えることは得意だが、なかなか行動には移らない。また対人緊張が強く、良好な対人関係を築くのが苦手な人が多い。そういう自分を自覚すると、自分の得意な分野は磨きをかけて伸ばしていく。神経質者は細かいことによく気がつく。感受性が強い。何でも熟慮することができる。用意周到怠りなく準備をすることができる。粘り強い。責任感が強い。分析力が鋭い。反省する力がある。大きな目標に向かってコツコツと努力することができる。「視覚空間型」「聴覚言語型」の人にはないすぐれた特徴を持っている。そこに焦点を当てて生きていく。さらに磨きをかけて伸ばしていく。そして自分に不足している部分、苦手な分野は、「視覚空間型」「聴覚言語型」の人に任せる。どちらも一長一短あるのだから、持ちつ持たれつで助けたり助けられたりするのがよいのではなかろうか。結婚する場合も、仲間と仕事をする場合も同じ「視覚言語型」の人同士よりも、「聴覚言語型」あるいは「視覚空間型」の人と組む方がうまくいく可能性が高いのではなかろうか。そういうスタンスで生活していく方がお互いのためであると思う。
2015.05.23
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2010年内閣府が発表した全国実態調査の引きこもりの成人は70万人、その予備軍は150万人以上に上るそうだ。色々原因が考えられるが、一つは教育の荒廃が挙げられるだろう。岡田尊司の「子供が自立できる教育」から探ってみよう。岡田氏の思春期外来に20代の男性が訪れた。彼は有名大学の大学院生だ。大学院での研究テーマは、今花形とされているもので、その研究室に進めたということは、大学時代も成績優秀で、難関の大学院入試を突破できたということである。現在、修士課程の2年目で、修士論文に取り組んでいるという。検査の結果、知能指数、言語理解、動作記憶、知覚統合や処理速度はいずれもすぐれていて、バランスがとれていた。だが現実には、非常に困った問題に直面していた。それは修士論文が書けないということだった。一体何をどう書いたらよいのか分からない。それ以外にも人前でプレゼンテーションをしたり、スピーチしたりするのが極度に苦手だった。知識や言葉はあふれるほどあるのに、それを生きた言葉として他人に伝えることができないのだ。これでは大学院を卒業することはできない。仮に卒業できても指導教官として学生を指導することができない。岡田氏は、この青年の抱えている問題は、統合能力、つまり情報を組織化、系統化する能力に問題があるという。統合機能は、認知機能の一つだが、非常に高次な情報処理能力である。統合機能が弱いと、手際良くまとまりのある話をしたり、文章を書いたりすることが苦手になる。自由度が高いほど、書いたり、しゃべったりすることが難しくなる。このような発達障害ともいえる人は近年増加傾向にあるという。それが足かせとなり、劣等感にもなり、自己嫌悪、自己否定となって自立を拒んでいるのである。統合機能の発達を促し、その能力を高めるためにはどうしたらよいのか。それには子どもの頃に、いろんな子どもたちと雑多な遊びを数多く経験させることがとても重要である。例えば自然の中で自由に遊ぶこと。友達とブランコやトランポリン。ボール遊びや鬼ごっこなどである。多様な感覚や情報、知覚と運動の両方の要素、予測できない要素がたくさん盛り込まれれば、それは統合機能のよい訓練になると言われる。今の子どもは塾通い、おけいこ事は熱心だが、こうした遊びは苦手である。第一遊ぶ場所がない。外は危険がいっぱいである。勢い、テレビを見る、ネットケームなどで室内で一人で遊ぶことが増えてくる。これらが統合機能を衰退させている。統合機能を鍛えるにはそれ以外にもいろいろある。学校教育では「聞く」「読む」「書く」「話す」のモードを個別に使うのではなく、聞きながら書く、声に出して読む。会話する(聞きながら話す)、書きながら説明する等、いくつかのモードを併用しながら学習した方が統合能力の訓練になる。次に作文、レポート等を書くということである。文章を書くということは、非常にすぐれた統合能力の訓練なのだ。でもマークシート方式の試験が主流になってからおろそかにされてきた。さらに、自分の意見を発表したり、討論をしたりすることである。この場合も、ただ自分の主張をするだけではなく、相手の反応に対して答えるという相互的なかけ合いや対話、議論を学ぶことが、より高度な統合能力を鍛える。自己主張するだけではなく、対立を克服するという部分が重要なのである。最後に、チームワークの必要な集団の中で活動し、協調やリーダーシップを学ぶことが挙げられる。これは、自分の考えや葛藤だけではなく、集団の意思や対立を統合していく能力を鍛える。これらは現代の家庭教育、学校教育、社会教育ではあまり重要視されていないものである。自立した人間を作り上げるという本来の教育目標からすれば、決して避けてはならない項目である。(子供が自立できる教育 岡田尊司 小学館文庫 32ページより一部引用)
2015.05.22
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羽生善治さんのお話です。将棋は急に弱くなることはありませんが、少しずつ力が後退していくことはあります。その最大の要因は「リスクをとらない」ということです。リスクテイクをためらったり、怖がったりしていると、ちょっとずつですが、確実に弱くなっていってしまいます。将棋を長くやっていると、過去の成功体験、失敗体験が経験則として積み重ねられてきます。それは危険と安全の境界を見きわめる頼りがいある測定器である半面、安全策の中に自分を閉じ込めてしまう檻にもなります。経験を積むと、この戦法ではこのくらいのリスクがあるということがかなり正確に読めるようになってきて、リスクの程度や影響度が計算できるようになるのです。するとどうしても危ない橋は渡りたくなくなります。つまり勝ちたいがために、リスクをとるより、リスクから身をかわすことを優先するようになる。でも、周囲はいつも変化し、進歩もしていますから、安全地帯にとどまっていると、その周囲の変化にだんだんと取り残されてしまいます。結果、安全策は相対的に自分の力を漸減させてしまうのです。それがイヤなら積極的なリスクテイクをしなくてはならない。だから私は、経験値の範囲からはみ出すよう、あえて意図的に強めにアクセルを踏むことを心がけているつもりです。リスクをとらないこと大きなリスクになります。リスクをとることこそリスクから逃れる最高のすべです。だから、今リスクテイクをすることは、未来のリスクを最小にすると、私は自分に言い聞かせています。この話は対人恐怖症の人にも言えます。今までの対人折衝で嫌な思いをしたこと、ミスや失敗をしたこと、恥をかいたこと等がしっかりと記憶として蓄積されています。それらが次に行動実践をしようと思った時に強い予期不安となって働いてしまうのです。逃げて何も行動しなければその時は一時的には楽になります。でも逃避して何をしているのか。仕事をさぼって時間をつぶすことになります。そのとき考えることはむなしさ、空虚感、自己嫌悪、自己否定などです。観念上の悪循環が引き起こされます。しだいに生活が後退してきます。だから気分本位にならないで、思い切ってリスクをとることが大切です。でも神経質の人は分かっているけれどもできない。どうすればよいのか。羽生さんはリスクを少しずつとるようにされています。例えば、トータルでこれくらいのリスクをとると決めたら、それをいっぺんに引き受けるのではなく、その時の自分が消化できるサイズにまで小分けにして、毎回少しずつとっていくのです。いわば分散型のリスクテイク法で、一回一回は小さなリスクであっても、それを20回、30回と続けていくと安全性をある程度確保したまま、以前とは全く異なる場所へ出ていくことができます。少しずつリスクをとっていくと思いのほか力が増していくことがあるのです。これは不安神経症の人に認知行動療法がとっているやり方ですね。曝露療法といいます。不安の階層を何段階にも分けて、やりやすいところ、簡単なところから恐怖突入していくやり方です。羽生氏はリスクをとったからといって必ずしも成功するとは限らない。むしろ失敗することの方が多い。だからリスクテイクの是非を、成功、失敗という結果論で測らないようにした方がよい。そのリスクをとったことに自分自身が納得しているか、していないかを物差しにしています。後悔をするなら、リスクをとらなかった後悔よりも、とったことの後悔の方がはるかにましだと思います。そう考えることで、リスクテイクの恐怖感もかなり減らせるような気がします。これは心配性で臆病な神経質者の参考になる話だと思います。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版84ページ91ページから一部引用)
2015.05.21
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岡田武史さんの話です。以前、ライフル射撃の日本代表監督にうかがった話ですが、弾を的に当てるためには、銃の先端についている照準とずっと前方にある標的を一直線で結ばなくてはなりませんよね。そのとき、照準や標的だけを見ていると、銃の先をピタリと停止させることができないそうです。一点に集中しすぎると力が入って銃が停止しないんですね。どうするかというと、照準や標的の景色も視野に入れながら集中するんだそうです。つまり「全体に集中する」ことが大事なのです。普通頭の中で考えると、限りなく一点に注意を集中する方が、命中する確率が高いように思われますが実際は違うということです。この考え方は森田理論の「無所住心」の考え方です。神経症に陥った状態は「無所住心」の考え方から大きくかい離しています。森田先生曰く。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。森田先生が講義をしている時は、講義の内容にばかり注意を向けているのではない。演台の前におかれた水差しにも注意を払っている。時間も気にかけている。聴講している学生のしぐさにも注意を払っている。外でやかましい音がすればそれにも注意を払っている。つまり集中というのは目の前に現れる出来事に呼応して、次々に移りかわっていく感情に身を任せていくことである。そのほうが結果的によほど講義に集中できるのである。こういう考え方を「行雲流水」という。つまり雲や水のように、物事に執着せずに自然の流れに身を任せて、「あるがまま」に自然に行動・実践するということである。そこには一つのことにとらわれて停滞するということは考えられない。「無所住心」の生活態度の体得は森田理論実践編での課題となります。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 75ページより一部引用)
2015.05.20
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元サッカー日本代表監督の岡田武史さんの話です。コンサドーレ札幌の監督をされていた時は、当初単身赴任でホテル暮らしをされていたそうです。ホテルの部屋では試合のビデオを見ながら、ああでもない、こうでもないとサッカーのことばかり考えたいたそうです。それが監督の仕事ですから、食事をしている時も、風呂に入っている時も、バカみたいに考え続けます。でも、考え続けていると煮詰まってくるのだそうです。考えているわりには新しいアイデアや打開策は湧いてこない。そんなことを電話で家内にグチったら、「お父さん、マンションへ引っ越しなさい」と言われたそうです。引越せば、自分で掃除をしたり、洗濯をしたり、ご飯を作ったりしなくちゃいけない。それが気分転換になるというんです。引越したら家内の言うとおりでした。つまり、精神の安定に重要なのは生活なんですよ。メンタルコントロールには普通の生活が何より大事なんです。自分にとってサッカーは生きるか死ぬかの、厳しい気の抜けない世界だが、他の人間とってみたら、勝とうが負けようがどっちでもいいことだ。その事実の自覚は大切なことで、心をなごませてくれるシェルターにもなるし、自分の世界にのめり込みすぎないよう距離をとってくれる作用もあります。これに答えて将棋の羽生善治さんも、勝負とは無関係の日常生活が片方にきちんと担保されているということが、とても大切なんですね。将棋に勝っても負けても、家に帰ってくれば、普通の当たり前の生活、普通の時間が流れているということが、気分転換にもなり、心の停滞が防げることになります。心の中でどんなに大きな葛藤を抱えていても、できるだけ日常茶飯事は淡々と次々にこなしていく。それがいつまでも不安や不快感にとらわれないで、建設的、生産的、創造的な生き方につながるのだということだと思います。森田理論の考え方そのものですね。日常生活は決して手を抜かない。ものそのものになりきって取り組むんだという覚悟を決めることがとても大切なことです。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 132ページより一部引用)
2015.05.19
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万葉集等には200もの枕詞があるそうだ。枕詞は修飾語であり、内容を示すものではありません。でも枕詞があるなしでは歌のおもむきが全く違います。こういう遊び心は日本人独自のものです。枕詞を見れば、それに続く言葉が、日本人の共通認識として多くの人が分かっていたということがすごいことです。いかに日本人の感性がすぐれているのかを示すものだと思います。神経質者はさらに輪をかけて、するどい感性を持ち合せていることを自覚して、活かしていくべきだと思います。私の好きな歌をあげてみます。あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや君が袖(そで)振る 「あかねさす」は「紫」の枕詞です。美し(うまし)国そ 秋津島(あきづしま) 大和の国は 「秋津島」は「大和」の枕詞です。あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の長々し夜を ひとりかも寝む 「あしびきの」は「山」にかかる枕詞です。あおによし 奈良の京は 咲く花の にほうがごとく いまさかりなり「あおによし」は「奈良」の枕詞です。石走(いわばし)る 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌(も)え出(い)づる春に なりにけるかも 「いわばしる」は「垂水」にかかる枕詞です。春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山 「白妙の」は「衣」にかかる枕詞です。たらちねの 母が 手はなれ かくばかり なすべき事は いまだ為(せ)なくに 「たらちねの」は「母」にかかる枕詞です。ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 竜田川(たつたがわ)韓紅(からくれなゐ)に水くくるとは 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞です。居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも 「ぬまたばの」は「黒」にかかる枕詞です。ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ 「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞です。興味があれば現代語訳をネットで検索してみてください。万葉集や古今集を味わっていると自然を愛でて、家族や愛する人の思いやりにあふれている人々の多さに驚きを隠せません。さらに、さまざまな枕詞のなんともいえない語感がとても心地よいことに癒されます。人生にはこういうちょっとした楽しみ方もあるということです。神経質者がこういう楽しみを沢山持って、無上の喜びを感じることができるようになると、人間に生れてきたことの意義を噛みしめることができるようになります。私たち神経質者は、鋭い感性を活かして小さいことでもっともっと人生を楽しみたいものです。
2015.05.18
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子供や孫がこずかいが欲しいと言ってきたときに親はどう対応するか。ゲームセンター等では子供や孫に言われるがままに小銭を与えている人がいます。またおもちゃ売り場ではほしいというおもちゃを無条件に買い与えている人もいます。外食に行く場合も子どもの好みに合わせるという状況です。子供や孫が要求するがままにその都度与えているというのはどうなのでしょうか。私の小さい頃は、ほしいものも買ってもらえる経済的な余裕もありませんでした。ほしいのを我慢させられていました。こずかいをもらうということは全く考えられませんでした。今は子や孫に言われるがままに甘やかせていることが多くないでしょうか。末恐ろしい気がします。石川遼を育てた石川勝美氏は、遼君がこずかいが欲しいと言えば、家の手伝いをさせたそうです。その際1カ月とか、2カ月の期間を決めてやらせる。その決められた期間、決められた仕事をきちんとこなした時にはじめてこずかいをあげたというのです。労働の対価としてこずかいはもらえるのだということを小さいときから教えていったのだそうです。今度のテストで100点とったらあげると等というような、餌で魚を釣るようなことはしなかったそうです。これも一つの考え方だと思います。それからこずかいは小出しに与えるのではなく、まとめて与えるのがよいと言われています。月のこずかいをまとめて与えるのです。そしてこずかい帳のつけ方を教えて、自分で計画を立てて管理させるのだそうです。でもこずかいの範囲では自由に使わせる。こまごまと使い方に指示はしない。でもそれ以上の要求にはのらない。よほどのことがあれば家族会議で決める。そういえば、賞与がでた時、家族会議を開きその使用方法を家族全員で協議するという人もいるそうです。父親の稼ぎだから自由に使ってよいということにはならないのだそうです。祖父母、配偶者、子供、孫を含めてすべての人に利用権があります。すると家族のコミュニケーションにもなり、子供たちも自分の意見をはっきりと言えるようになります。そして他の家族に譲るところ、妥協すること、我慢したりすることも学ぶことができます。そして将来の人生設計も立てることができます。なによりもお金の性を尽くすことができます。それに反して言われるがままに与えていると、自由放任、過保護になって、子供の将来にとって何らよいことにはなりません。ちなみに私もパソコンでこずかい管理をしています。予算を立てて進行状況を月々管理しています。また将来のあらゆるリスクを想定して生活資金の増減のシュミレーションをしています。いわゆるライフプランをたてて、毎年正月には見直し作業をしています。それをもしもの時は家族に分かるようにまとめています。あれこれと家族と相談しながら考えることは楽しいものです。自分が亡くなるときには葬式費用と多少の蓄えを子供に残して、それ以外はすべて有効に使い切ることが目標です。
2015.05.17
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神経質な人は自殺はしない。ガン等の大病にはかからない。アルコール依存症、ギャンブル依存、薬物依存、セックス依存、ネットゲーム依存症にはならない。こうしたことを森田理論に詳しい人から聞くと妙に納得して信じ込んでしまう。しかし現実は違う。神経質な人でも自殺する人がいる。ガンにかかる人がいる。依存症に陥っている人がいる。言われている事と現実のギャップに愕然として、そういうことを言う人は信じられない等という。そしてことあるごとに反発する。どちらの意見も一理あるようだ。これについて私の見解はこうだ。神経質性格を持っている人は、心配性である。自己内省力が強い人である。こうしたいという欲望があっても取り越し苦労する。悲観的なことばかりが頭に浮かんで、逃避的になる。例えば、結婚適齢期になり、あの人だったら結婚してみたいなと思える人が現れるとする。でもその気持ちを打ち明けてあっさりと断られたら自分の面子が潰れてしまう。また共通の知人等におもろおかしく噂話をされたらたまったものではない。そんな思いをするぐらいなら、告白することはやめておこう。そうこうしているうちに、その人は他の人と結婚して永遠に自分のもとから去ってしまう。後に残るのは後悔ばかりである。これは、神経質者は夢や欲望は人一倍強いのだが、抑止力、制御機能がそれ以上に強いのが災いして行動できないのである。ある程度の抑止力や制御機能は生きていく上で絶対に必要である。それが自殺を押しとどめる。体の不調を察知してすぐに病院に行く。依存症に陥る前に手を引くことができる。等有効に作用することがある。だから一面では心配性、自己内省力というのはありがたいものでもあるのだ。先の話では、神経質者はその傾向が普通の人よりは強く働くということを述べられているのだと思う。反発する人は美しき誤解があるのではなかろうか。言葉は森田先生も言われているように誤解を招きやすい。その証拠に人はよく嘘をつく。言葉は役に立つものではあるが、100%信用することはできない。おおよその見当をつけるぐらいにとどめておく方が望ましい。そのことを自覚して使う必要があるのではないだろうか。ここで依存症について一言。依存症というのは本能的欲望に対する抑止力、制御機能が働かないことから引き起こされる。依存症に陥ってはならないということは、本人がだれよりも自覚しているのである。本来、動物も持っていると言われる本能的欲望に対しては抑止力、制御機能が自動的に発動して社会に適応することが大切である。ところが大脳で調整機能を担っている「眼窩前頭皮質」が機能不全を起こしているのである。詳しくは5月9日の投稿記事を参考にしてもらいたい。その結果、依存症を持ち合わせた神経質者はどういうことになるか。夢や目標の達成に向かっては強力に抑止力や自己内省力が働いて手も足も出ない。行動力や実践力が抑えられる。成果が上がらないので悶々とした生活に甘んじるようになる。反面動物的な本能的な欲望に対しては抑止力や制御機能がまったく効かないで欲望の暴走が起きてくるのである。本人は二重に苦しんでいるのである。相反する特徴が両極端に出ているのである。これはとても苦しい。どうすればよいのか。まずは依存症から取り組む必要がある。医療の力を借りる。自助グループのお世話になる。一瞬でも手を抜くと元の木阿弥なる可能性が高い。その上で神経症の克服に向かうことをお勧めしたい。本格的に森田理論の学習をすることである。この点に関しては、私が30年あまり学習をした経験から自信を持ってお勧めすることができる。
2015.05.16
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フランクルはユダヤ人虐殺というアウシェビッツ収容所から奇跡の生還を果たした人です。その時の過酷な状況を振り返っています。体が強い、要領がよい、智恵がある人が最後まで生き残ったかといえばそうとも言えない。愛する人や家族のことを思い、やりかけた仕事のことを思い、最後まで希望を失わなかった人が最後まで生き残ることができた。精神的にタフな人である。それはよく分かります。それ以外にもいくつかよりどころとなるものがある。そのひとつがユーモアであるという。ユーモアは「自分を失わないための魂の武器である」といっている。毎日ユーモアのある生活を心がけていたという。これは神経質者が真っ先に取り組むべき実践課題である。神経症になると笑いはほとんどなくなる。神経症で苦しみながらもダジャレを連発しているような人を見たことがない。森田全集第5巻の中には演芸、隠し芸、歌や踊りの話がよくでてくる。私が症状から離れることができたのはこれらを真似ていくことからであった。まずはお笑い番組を見て笑いを取り戻す。それから自分でも川柳やユーモア小話、一人一芸に取り組んでみる。これらは苦しいときでも比較的取り組みやすいことです。次にフランクルはある時ザルツブルグに沈む夕日を見てこんな美しい夕焼けがあったのかとしばし放心して眺めていたことがあるという。そういう体験は、極限状態の中で生きる力になるという。収容所ではドイツ兵によって音楽隊が組織されて音楽演奏がなされていたという。これは極悪非道な無差別殺人を繰り返しているドイツ兵の心のよりどころとなっていたのではないか。音楽も人間に感動と勇気を与えて生きる力になるものではないのか。拡大して考えれば、絵画、小説、せせらぎや紅葉等の自然の風景、ペットや他者との交流、生活の中のちょっとしたことへの関心や愛情を持てることが幸福感につながっていく。生きるエネルギーに転換していく。子どもの頃のそうした雑多な体験は貴重な懐かしい思い出であると同時に、その後の生きる力に転換していく。このことを忘れてはいけないのだと思う。五木寛之氏曰く。「私たちは日常の中で自分の好きなこと、そのことが自分にとってすごく気持ちがいいとか、自分が幸福感を感じることをもっと大事にしないといけない。そんな小さな幸福感も、こんなきびしい時代に、私たちに生きる力になっていくのではないか。」全くその通りだと思います。これらは子育ての参考にしないといけないと思う。(新・幸福論 五木寛之 ポプラ社参照)
2015.05.15
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芥川龍之介は昭和2年に睡眠薬自殺をしました。その原因はなんだったのか。一つの手がかりとして「ぼんやりした不安」があると手記に書いていたという。芥川龍之介はマズローのいう基本的生存欲求は満たされていたと思われます。衣食住、安全、金銭的にはまずまず保障されていたのです。中東やアフリカなど内戦で生まれ故郷を追われ、難民としてしか生きていくすべを持たない人から見ると、なんと贅沢な悩みかと見えることでしょう。日本で自殺者3万人を超えるというというのは信じられないと言います。五木寛之氏は、徹底的に絶望しているのなら、それはそれでいい。絶望の底には、必ず希望が潜んでいるからです。しかし絶望もなく、希望もないという状態。それが一番厄介なのではないか。「ぼんやりとした不安」というのはそういうことでしょう。昼でもなければ、夜でもない。日は沈んでも、あたりはまだ明るい。たそがれていくそんな時刻を昔の人は「逢魔が時」(おうまがとき)といいました。おそろしい魔物に出会う時、という感覚でしょう。「大禍時」(おおまがとき)ともいいました。禍の訪れる時間です。現代の日本人はまさにそういう状態におかれているのではないでしょうか。このまま夜になって真っ暗になっていくのでしょうか。あるいはこの時代閉塞時代からしだいに夜が開けて白々と夜が明けていくのでしょうか。私は森田理論の考え方を基本に据えれば、時代閉塞の壁を打ち破ることができると思います。どうすればよいのか。それは人間一人ひとりが自分の為に生きていくことだと思います。先日、人間は「遊ぶ」ために生まれてきたのだと書きました。裏を返せば人の為に尽くすために生れてきたのではありません。自分自身が自由にのびのびと生を謳歌して、楽しく生きていくために生れてきているのだと思います。そのためにこんな生き方はどうでしょうか。極端な話になりますが、例えば基本的に自分の能力や特技を活かして人の為に働くのは1日のうちの半分だけ。後の半分は自分と家族の生活を維持するために自分の為に働くという考え方はどうでしょうか。現代はどうなっているのかというと、ほとんどの人が、大半の時間を人の為だけに働いているのです。生活費を稼がないと自分と家族の生活が維持できないような社会の仕組みが出来上がっているからです。そして人のために働いて得た給料で、衣食住、家電、自動車、電気、ガス、水道等すべての生活必需品を賄っているのです。その方が合理的であると信じて疑うことはありません。でも本来はそうした基本的な日常生活は人に依存することなく自らが賄うものではないでしょうか。日本中の人が本末転倒した生き方になっているのです。特に食生活の堕落は人間の尊厳を奪っています。われわれはそういう社会の中に否応なしに引きずり込まれているのです。そういう意味では便利で快適で依存体質の社会の実現が私たち人間の生きがいを奪ってしまっているのです。自分たちの首を絞めているのです。本来の生き方は自分でできる自分の生活に必要な日常茶飯事は自分で手を出し、足を出してやることなのです。そんな生活は意味がない。面白みがない。わずらわしいことはお金を出して人に依存する。その方が楽だし合理的だ。自分は空いた時間でもっともっと生活を楽しみたい。もっとレジャーに力を入れたい、もっともっと物質的に豊かな生活をしてゆきたい。そういう生き方が絶対的、唯一の理想的生き方だと信じて疑わない人が多いのではないでしょうか。そうした考え方が「ぼんやりとした不安」を絶えず抱え、1億総うつ状態の社会を作り出しているのだという警鐘を鳴らしたいと思います。これは森田理論の「生の欲望の発揮」を学習するとすぐにはっきりと分かることです。意欲や情熱が持てない仕事そのものが苦痛の種となり、その中での人間関係で神経をすり減らし、ストレスや抑鬱で苦しむ人を大量に生み出している背景には、このような生活の在り方や考え方が背景にあるのではないでしょうか。(新・幸福論 五木寛之 ポプラ社参照)
2015.05.14
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金子みすずの「大漁」という作品がある。朝焼け小焼だ 大漁だ 大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。浜は祭のようだけど 海の中では 何万の 鰮のとむらい するだろう。金子みすずは明治36年に山口県で生まれています。大正時代に天才的童謡詩人として注目を集めました。地元の書店で働きながら、童謡を書き、後に結婚して娘を一人生んでいます。しかし、やがて離婚、26歳で自ら命を絶っています。この作品のすごいところは、自分の身を鰮に置き換えて、網でとらえられて死んでいく鰮のかなしさ、無情さ、無念さ、理不尽さを思いやっているところにあります。これを拡大していくと、自分の身の回りにある植物や花、あらゆる動物、自分以外の他の人間などに対しても深い愛情と共感の気持ちを持って接している人ということが想像されます。そして自分がそういう動植物の命を奪って生きていることに罪悪感を抱いておられたのでしょう。もともと人間にはミラーニューロンというものがあり、他人の気持ちに共感して相手を思いやる脳の仕組みが備わっていると言います。金子みすずの場合は、その働きが高度に発達してきたものと思われます。普通の人も共感や思いやりの気持ちがある程度備わっています。例えば、震災、土砂災害などで困った人がいると、すぐに援助金を出したり、ボランティアで復旧作業に参加したりします。でも金子みすずほどの共感や相手を思いやる気持ちは湧いてきません。江戸後期の国文学者、歌人の橘曙覧(たちばなあけみ)が詠んだ歌があります。たのしみは まれに魚烹て 児等皆が うましうましといひて食う時雪深い北陸の武士は贅沢は許されませんでした。子だくさんの家ではそんなに魚を食べる機会はなかったのでしょう。たまに食べる魚を子どもたちがはしゃぎながら食べている。そこでは魚は幸せをもたらす自然からの贈り物です。この歌は幸せを考える時にとても参考になります。でも金子みすずがふと思った、「魚が人に食べられてかわいそう」という気持ちは全く起こらなかったと思われます。最近は、海で釣ってきた魚の鱗を落とし、魚の腹を出して料理するということはありません。また鶏をひねって羽を落として解体して料理するということはありません。魚はほとんど調理済み。肉はきれいにスライスされて色鮮やかに照明の光を浴びています。子どもに魚の絵を書かせると缶づめの魚の絵を描くような時代です。そうして私たち人間は、他の動植物の命を頂戴して生き延びているのだという感じは持てなくなっています。このようにして愛情や共感や思いやりの気持ちは希薄になってきているのです。さらに人間同士は自分が生き延びるためや贅沢をするために、平気で他人を痛めつけてしまうような状態になっています。これらのことを森田理論で考えてみますと、自分が命ある限り「生の欲望」を追及することはまずもって一番大切なことです。人間はそういうふうに生きていくことがもともと宿命づけられています。でもそれが暴走することは自分たち人間が破滅することでもあります。人間の将来は暗澹たるものになってしまいます。欲望の暴走は歯止めをかけていくことが必要不可欠です。共感力、相手を思いやる優しさも同時に持ち合わせていないと大変なことになります。森田のいう精神拮抗作用は多かれ少なかれ人間にもともと備わっているものである。さらに子供の時から共感力、相手を思いやる気持ちを鍛えていかないといけない。「生の欲望」の追求は、その裏に相手を思いやる気持ちでもって制御していかないと大変なことになる。サーカスの綱渡りのように、バランスをとる物干し竿のようなものを使って注意深く目的地を目指して進んでいくという態度が必要なのだと思います。(新・幸福論 五木寛之 ポプラ社参照)
2015.05.13
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一流料理人になるためには何が一番大切か。下ごしらえだという人がいます。一流料理人は、気が遠くなるほどの下ごしらえの場数を踏んでいます。芋の皮一つむくにも、魚の鱗一枚落とすにも、心をこめて何年もやらないと一流にはなれません。料理人の世界では昔から、芋の皮むき3年、ネギの細切り丸4年などといわれて、来る日も来る日も一つのことをとことんやり抜いた。一日の仕事が終わって親方たちが帰ると、若い修業中の料理人たちは厨房を貸してもらい、料理の練習をしながらさらに下ごしらえを積んでいく。そんなことを繰り返しているうちに、彼らは素材の扱い方を知り、食べるという事の素晴らしさを学んでいき、堕落を振り払うのである。こう考えると、料理人の下ごしらえというのは、料理そのものの下ごしらえであると同時に、自分の人生の下ごしらえでもあると言えるのだ。下ごしらえの基本は、とにかく無駄を出さないことが基本だそうだ。大根の先っぽやネギの青葉、魚の粗なんて、今の年季の少ない料理人は捨ててしまうことが多い。昔の料理人は無駄を出すことをしなかった。だから真剣にならざるを得なかったのです。これは森田理論で言うと雑事、雑仕事を大切にして精魂こめて取り組むという事だと思います。神経質な人は、クリエイティブな仕事、人から賞賛を浴びるような仕事こそが価値のある仕事だと思っています。そして取るに足らない仕事にはそっぽを向いてしまうのです。ここで言われているのは仕事というのは、分解してしまえば単純な簡単な仕事ばかりである。そんな仕事が寄り集まって複雑で難しい仕事になっているのだという事だと思います。そんな仕事に真剣に取り組むことで仕事の土台ができてくる。また人間としての土台がでてくる。つまり仕事に取り組む姿勢がきちんと筋が通ってくる。そして生きがいというものが生まれてくるという事だと思います。(食の堕落と日本人 小泉武夫 東洋経済新報社 90ページより引用)
2015.05.12
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ブログの閲覧者が延10万人を超えることができました。熱心な読者の方に大変感謝しております。モチュベーションの維持に役立ちました。投稿によって自分自身、森田理論を大いに深めることができました。ちなみにブログ開設して2年5ヶ月目です。5年で10万人を目標としていたので少し驚いています。5年間、2500投稿、10万アクセスの目標をこのたび変更しました。新しい目標は5年間、2200投稿、40万アクセスの達成です。このままのペースですと、ほぼ問題なく達成可能と思います。あと2年7カ月はなんとか頑張りたいと思います。その後の新たな目標として、投稿記事を整理してみることです。4冊目のテキストにまとめたいと思っています。さらに将来的には森田理論学習を系統的に学ぶ学習会を主催できたらと考えています。ただ今の段階ではまだまだ雲をつかむような段階です。森田理論が役立つ人は1000万人はくだらないのではないかと思います。というのは、少なくても神経質性格を持っている人は、日本人の10人に1人はおられると考えているからです。もっともっと多いかもしれません。そういう意味でもっと森田を身近なものにしていく必要があります。本来は、森田は学校教育の中で、選択科目として取り入れていくことが有効ではないかと考えています。それによって多くの神経質者が人生観を見直すことができて、実り多いい人生へと踏み出すことが可能になります。これほど素晴らしい授業はないではありませんか。日本が世界に先駆けて心の教育を先導できる能力と下地は十分持っていると思っています。そのためには森田を知らない人や、森田と聞いただけで毛嫌いしている人にもっともっとその潜在価値を知らせてあげたいと思っております。今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。
2015.05.11
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森田では自分の考え方に固執することなく、刻々と変化する周囲の状況に合わせて、自らが変化していくことを目指している。一つ一つの悩みだけにいつまでもいつまでも関わり合っていることはできない。目の前に現れては消えていく今現在の課題や問題にフォーカスしていくことである。変化という波に上手に乗っていくことが森田理論実践編の課題の一つとなります。さて今日は変化とか何か。変化の特徴とは何かについてみてゆきます。森田先生はその変化は「リズム」を持っているという。われわれの人間の生活機能は、心臓の鼓動、呼吸、消化器の活動、筋肉の運動など、みんなリズム運動である。これは音楽で考えると分かりやすい。いろんなパターンがあるが、基本的に音楽には強弱がある。つまりリズムをきざんでいる。人生でも石原加受子氏によると、人生は6年周期で隆盛期と浄化期を繰返しているという。運が向いてくるのは隆盛期であり、肉親の死や不運なことが起きるのは浄化期であるという。「意識の法則と6年周期リズム」という本を参考にして、自分の人生を振り返ってみたとき、ほぼ一致していることに驚いた。森田先生は、われわれの精神機能もまたリズムであり、たとえば注意という機能も、しらずしらずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっているといわれる。われわれの心身の機能は、変化がなく無刺激である時は、いつとはなく弛緩して倦怠感を生じる。また、たとえ刺激は相当に強くても同じような刺激が長くつづくときには、いつの間にかそれに慣れて刺激を感じないようになる。だから、われわれの心身は、その機能が緩んでいる時には適度の刺激をあたえてそれを活動させ、またあまりに過敏になっているときには刺激を緩和して平静にするなど、よく生活機能を調節していくことが必要である。これは是非生活に取り入れてゆきたいものである。緊張と弛緩は上手にバランスをとって生活するという態度のことである。例えば休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にあるという。どんな仕事でも遊びでもずっと同じことをしていると注意力が散漫になり飽きがくる。そういう時は仕事を変え、遊びを変えていくのだ。家事などは30分おきにどんどん変えていけば意外に多くのことが片付く。風邪をひくというのはどういう時か。寒い野外にいて緊張した精神状態にある時は風邪などひかないものである。暖房のきいた室内に入り、こたつにもぐりこんで転寝をする時などに風邪をひきやすい。それは精神が緊張状態から急に弛緩状態になるからである。これは緊張状態から弛緩状態への変化が急激であり、体がその変化についてゆけないのかもしれない。これを知っておくと緊張感から弛緩状態に変化させる時は徐々に変化させることである。ソフトランディングさせることを心がけていれば風邪をひくことは少なくなる。馴れるというのは、外界の事物に自分の心が調和、順応するようになることである。はじめは少しも興味を感じないようなことでも、その内容をよく知るにつれて、しだいにそれをリズミカルに気持ちよく感じるようになるものである。隣近所のブリキに釘を打ちつけるようなやかましい音も、その打ちつける金槌の音に同化するようにすれば不快感はすぐに消えてしまう。船酔いをするというような人は、船が沈む時は自分の体も沈む。浮き上がる時は自分の身体を持ち上げるように持っていく。つまり船の揺れと自分の体の動きを一致させるのである。船のリズムと自分の体のリズムを調和させるようにすれば決して船に酔うようなことはない。ものごとをリズミカルにするときには、それによってわれわれの生活機能を引き立たせる効果があるものである。われわれが仕事の能率をあげるのには、複雑な事柄を分類、整理、統一してリズミカルにしておくことが必要である。これは生活を規則正しく次から次へとへとこなしていくことだろう。いわゆるルーティンである。意識を介在させずに無意識で体が自然に動いていく状態は、無駄がなく自然である。例えば車の運転などがそうである。無意識に外部の状況に応じて適切な行動がとれている。無意識に行う行動にはリズムがあるのである。ものを記憶するにも、不規則なものを調子のよいリズミカルなものに直して利用するとうまくいくことがある。例えば歴史の年代を覚えるなどに活用した覚えがある人も多いだろう。いい国作ろう(1192年)鎌倉幕府等である。その他にも、土地を突き固める人々が「エンヤコーラ」のかけ声で調子をとるとか、歩くときに両手を振るとか、字を書くときに口をまげるとか、音楽の伴奏で踊り、あるいは歌うとか、いろいろある。リズム感を養い、リズムある生活を送るということも森田理論実践編の一つの課題になると思う。(生の欲望 森田正馬 白揚社 106ページより一部引用)
2015.05.10
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森田では感じから出発して、理知で調整して行動するという。ここで感じから出発するとは酒を飲みたい、ギャンブルをしたい、ネットゲームをしたいなどの欲望のことを指しています。あるいは相手の言動にたいして腹が立つ。不安になる。恐怖心が湧いてくる。所謂好き嫌い、愛憎、嫉妬などの自然に湧きあがってくる感情のことである。森田では、まずはそういった欲望や感情が湧き起ってきたという事実を素直に認めていく。それが感じから出発するということです。しかし、だからといって、欲望や感情のおもむくままに行動していると大変なことになる。アルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症になっている人の現状を見てみると容易に想像がつく。あるいは最近すぐにキレてしまう子供がたくさんいるという。自分の感情が抑えられないで、すぐに爆発する。自己中心的で身勝手で、相手を思いやる気持ちはなく、暴言や暴力をふるい迷惑ばかりかける人間である。これらは欲望が暴走して、感情を抑えることができないのである。後で後悔をすることになる。罪悪感で苦しむ。責任をとらされることになる。罪を償わされることになる。等の事態に追い込まれることが分かっているにもかかわらず、我慢できないのである。これは理知で調整して行動するという機能が働いていない。自分の本当の気持ちとは逆につい本能的な行動をしてしまう。自分でもどうしてよいのか分からないのだ。では理知とは何か。理知の特徴はどうなっているのか見てゆきましょう。最近の脳科学によると、理知による調整機能は「眼窩前頭皮質」が担っていることが分かっています。眼球の後ろの方にあります。「眼窩前頭皮質」は強い欲望や衝動的な感情に対して、欲望を抑制したり、怒りなどの感情爆発を抑制して、直接暴力的な言動をとらないように自分をコントロールする役割を果たしています。「眼窩前頭皮質」がきちんと機能を果たしてくれれば、自己抑制力が適度に働いて言動が暴走することはありません。暴走していつも問題を起こしている人は、「眼窩前頭皮質」の発達や成長が不十分であると言えます。これは小さい時の育て方に問題があるのです。さらに問題なのは、「眼窩前頭皮質」の発達や成長は3歳までに完了してしまい、その後いくら発達させようとしても難しいとされています。このことから、まずは子供を育てる時の教訓として「眼窩前頭皮質」の発達や成長を考慮することが大切です。為末大さんは自分の行動やコミュニケーションに自己抑制力が働くかどうかは、身体的体験の積み重ねと深く関係しているという。「僕らは、そういう抑制をロジックで行っているのではない。無意識に蓄積してきた、さまざまな体感的データを統合して、制御しているのだ。教科書的な学習では、決して身につかない能力がある。僕はそうした能力の土台を、子供の頃に遊びの世界から獲得していった。僕にとっては遊びの時間が、身体的体験を積み重ねていくための通過儀礼だった。」(「遊ぶ」が勝ち 為末大 中公新書 186ページ)この点現代の子どもたちは、元気に外で走り回ったり、友達と自由に遊び回るという機会はどんどん無くなりつつある。つまり自己抑制力を身につける機会がないのである。それと子供を過保護に育ててしまうというのも、「眼窩前頭皮質」の発達や成長を阻害してしまいます。例えば、飲み物やおもちゃが欲しいと言えばすぐに買い与える等というのは考えものです。ショッピングセンターに出かける前から、今日は何も買わない、あるいは100円以内なら何を買ってもよい。それが守れるのなら買い物についてきてもよい。守れないのならお家で留守番をしていてほしいなどとあらかじめ話しておくことが大切です。つまり我慢をしたり、耐えるという教育も子育ての中に取り入れて工夫していくことが大切です。次にすでに未発達のまま大人になってしまった人はどうしたらよいのでしょうか。そういう人は制御不能の車を運転しているようなものです。あるいは調整不足の車をなんとか注意しながら運転しているようなものです。まずはそういう自分を客観的に眺めて自覚を持つということです。そして自分の自己抑制力はどの程度なのかをよく把握することです。全く制御できない人は場合は、制御不能な場所には立ち入らないということが必要です。あるいは同じような境遇の人の自助グループがありますので、気持ちを共有したり、学習によって相互に支え合うということが必要です。ある程度制御できる人の場合は、自己制御力を活用する方法を学習することです。森田理論学習もその一つです。幸い制御不能な欲望等は1つか2つに限られていることが多いようです。ということはそれ以外の部分では制御機能が働いているのです。その部分では社会に適応することは全く問題がない場合が多いのです。それを自覚することです。制御不能な部分を大人になってから修正したり、コントロールしようとするのは無謀ではないかと思います。子どもに立ち返って身につけることはできないのですから。それよりもそういう傾向がある自分を自覚して行くことが大切です。そしてできるだけ危険な場所には立ち入らないという態度を持つことが大切です。共存していくということです。それ以外の自分にそなわっている能力や性格を活かして、社会に適応していくという姿勢で生きていくということです。
2015.05.09
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鎌田實医師のお話です。24歳の女性が目の病気にかかった。ぶどう膜炎だそうだ。ぶどう膜とは、眼球の内部をおおっている脈絡膜と毛様体、虹彩の総称。目のほかの部分よりも血管がたくさんあるため、炎症を起こしやすい。炎症の場所や程度によっては網膜剥離、白内障、緑内障につながり失明することもあるという。この方の場合はその中でも原田病という病気だ。体内に侵入した細菌やウィルスをやっつける免疫システムに異常が生じ、自分自身を攻撃してしまう自己免疫疾患の一つ。白血球がぶどう膜を破壊していく病気である。この方は徐々に視力が無くなり35歳で全盲になった。この方がこんなことを言われている。全盲になったら案外しんどくないんですよ。それまでがえらかった。子どもは小さいし、自分の障害を認められなくて、相変わらず隠そうとしているし、杖をつくのもめちゃめちゃ恥ずかしかった。だから、知り合いに会うのがイヤですね。必ず言われるんですよ。「若いのにかわいそうにねえ」って。同情されるのが嫌いやったから、あの言葉が一番きつかった。母親や知り合いに連れられて、神様参りをやったのもその時分でした。眼病に効く、霊水で有名な京都の柳谷観音に参った。ひょっとしたら狐か狸でもついてるんとちゃうかと、テレビで見た霊能者のところへ月に2回ずつ半年通った。目が治ると言われたらどこへでも行った時期が3年から4年はあった。全盲になってそんな状態を抜け出すことができた。覚悟を決めることができたからだ。私はこの体で生きていくしかないのだ。だったらウジウジせずに、前向きに明るく生きて一度きりの人生を思い切り楽しんでやろうと気持ちを切り替えた。今は盲導犬を連れて外出し、音声パソコンを使いこなしているという。この話は神経症で苦しんでいる人には、勇気を与える話である。この人のように症状を治すことをやめる。症状を抱えたまま地獄に家を建ててそこで精一杯生きてゆこう。神経症は苦しいけれども、それを持ったまま生きてゆこう。そして自分の持って生まれた神経質性格を活かしてできることに目を向けていこう。プラスに活かして生きていこう。そのように考える方が、はるかに意味がある人生を送ることができるように思います。(なげださない 鎌田實 集英社参照)
2015.05.08
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私たちはどんな状態の時を「幸せ」というのだろうか。私は4種類あるのではないかと思う。1、 アルコール、セックス、ギャンブル、過食、薬物などによる「つかのまの快楽」を味わうことによる「幸せ」。これらは適度な節度を保つことができれば、生活を活性化してアクセントとなる。でも刹那的な刺激を求めることばかりに偏っていると、依存症に陥って生活そのもの、健康や人間関係を破綻させてしまう。こういうものは森田理論でいう、精神拮抗作用で制御機能を働かせるということが大切である。成長の過程で制御機能は元々獲得してくるようになっている。ところが制御機能が働かない人がたまにいる。制御機能が元々働かない人は、そういうものには近づかないことが肝心だと思う。2、 つぎに宝くじに当たった。親の遺産が転がり込んできた。生命保険が転がり込んできた。土地の収用で大金が入ってきた。株や投資信託、FXの値上がり益により大金が入ってきた。親や知り合いの紹介により大手企業に就職することができた。生まれた時代、家、国に恵まれていた。日本に生まれたということは、ある意味「幸せ」なことである。こういう「幸せ」もある。運がよいのである。これらは、自分の努力によって「幸せ」が達成されたというわけではない。外部環境の状況によって幸運が偶然に転がり込んできたのである。しかし、宝くじで高額当選金を手にした人のその後の生活は、必ずしも順風満汎とはいかないようである。土地収用で大金が入った人がギャンブルに凝ってすべてをなくして、体調も悪くなった人もいる。投資でも一度でもよい思いをすれば、再投資して最後には大切な財産を失う人も多い。自分の努力ではなく、ラッキーな幸運が天から降って湧いて来たような場合は、自助努力がない分、逆な面に振れてしまう恐れがあることは心しておきたいものである。3、 自分が目標や夢に向かって地道な努力を重ねて、設定目標を達成することができた。困難な目標であればある程、得られる喜びは大きい。また自分の行動によって多くの人を勇気づけたり、利益をもたらすことができたというような「幸せ」。マズローの欲求5段階説によると、最高位にランクされている「自己実現」の欲求である。これは異論をはさむ余地はない。「生の欲望の発揮」に邁進している時は、自己実現の欲求そのものである。森田理論の行くつく先も同じところである。4、 大病をして健康のありがたさが分かる。会社が倒産したりリストラされてはじめて仕事を持っていた幸せに気づく。窮地に陥った時支えてくれた人の親切さが分かる。つつましい生活ながら、生活する中に小さな喜び、楽しみをひしひしと感じながら生活していることによる「幸せ」。例えば、道端に咲く名もない花に心動かされる。あるいは他人のちょっとした思いやり、心遣い等に対して自然と感謝の気持ちが湧いてくる。これらは最低限の生活を経験することによる幸せではなかろうか。私は1、2、3に比べてはるかに幸せ度は高いのではないかと思う。そのためにはまず、小欲知足、我唯足知という生活態度を維持していることが必要であろう。我々神経質者の特徴は、心配性である。裏を返せば感受性豊かな人である。感受性を高めるためには小欲知足、我唯足知という生活態度を堅持することがとても有効である。次に、いつも投稿しているように、日常茶飯事、雑事を大切にして「ものそのものになりきる」という生活態度を維持することだと思う。感じの発生、気づきや発見、意欲ややる気の高まりという段階を踏んで生活していくこと。これが幸せに生きること言うことだと思う。実現できると「幸せ」の質が全く違うものになると思う。
2015.05.07
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プロスポーツ選手はよくスランプに見舞われる。プロ野球ではホームランどころかヒットさえ出ない。登板するたびに打ち込まれる。スランプに陥ると余裕が無くなる。早くなんとか立て直そうと焦りがでてくる。ところがあの手この手を尽くせば尽くすほど空回りする。最初は練習量で抜け出そうとする。うまくいかない。次に技術的に問題があるのではないか。自分のフォームを見直したりする。コーチなどに助言を求める。それでもうまくいかない。それからスランプであるということを考えないようにしようと考える。しかし思えば思うほど注意がスランプに向いてしまう。そうこうするうちに長くて暗いトンネルの中に入ってしまう。これは神経症に陥る過程とよく似ている。不安や恐怖を早くなんとか取り除こうと格闘すればするほど思いとは逆に深みにはまってしまうのだ。このことを精神交互作用と言う。最終的には蟻地獄の底に陥ってしまうのだ。プロの選手はどうしてスランプを脱出しているのか興味は尽きない。陸上の為末大さんはこんなことを思いついた。ボールを使ってみた。ボールはよく動く。足で上にあげたり、止めると言った動作を課題にする。すると、ボールの動きに気持ちが集中して「これからどうしよう」という余計なことを考えなくてすむ。次に鈴を使った。足音に集中するようにした。次に腕の動きに神経を集中した。紐を持って走ることもしてみた。すると少しずつ体が動き始めた。これらはスランプ脱出ばかりに向いていた注意や意識を緩めていくという行動ではなかろうか。別の行動を起こせば新しい感情が湧き起ってくる。するとスランプの克服ばかりに向いていた注意と感覚が弱まってくるということだと思う。為末大さん曰く。「考えない」ということは、人間にとってものすごく難しい。そんな「忘我」状態になることへのヒントがある。子供が遊んでいるのを見ると、何も考えずに遊びの世界に没頭しきっている。自分が遊んでいるということすら忘れてしまって、ただワクワク楽しい時だけを過ごしている。自分だって昔はそうだったのだ。スランプ脱出にはまずスランプを過度に意識している状態を緩和していくこと。これが何よりも重要なことだ。そのためには忍がたいことだが、スランプには手をつけない。スランプ以外のことに目を向ける。感じてみる。行動してみる。一心不乱に取り組んでみる。神経症で苦しんでいる人も同じことです。つらいけれども神経症の苦しみはそのままにしておく。目の前の日々の生活に目を向けていくこと。日常茶飯事を丁寧に、規則正しくこなしていく。その中で気づいたことをどんどんストックしていく。行動に弾みがついてくる。後で振り返ってみれば、神経症の苦しみが軽くなっていた。あってもなくてもどちらでもよくなっていた。というように変化していくのだと思います。(「遊ぶ」が勝ち 為末大 中公新書参照)
2015.05.06
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為末大さんのお話です。2001年と2005年の世界陸上で銅メダルをとった人だ。競技は400メートルハードル。為末氏は小学生のころ50m徒競争に出場した。独走だった。見物人の驚きと注目を一身に浴びた。自分が走るだけでこんなにも人を驚かせるというのはすごいことだと思った。この風景は為末氏の走る原点となった。その後走れば走るほど記録がでた。毎日毎日走るのが楽しくて仕方がなかった。中学3年生の時には100mと200mの短距離走で日本一になった。勝てた、喜びがある。みんなが賞賛してくれた。自信になった。その時代は走ること自体が楽しい、嬉しいという状態だった。走りたいから走るという状態だった。ところがそのうち「走ると女の子にもてる」「走ると進学ができる」「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になれる」という世界に変わっていった。そしてとうとう、そうした「手に入れたものを失うのが怖い」と言う心境になっていった。世界陸上で銅メダルをとったあと「徹子の部屋」に呼ばれた。次もまたメダルを期待されるようになった。今度は金だ、銀だと周囲の期待はどんどん膨らんでいった。すると為末氏の心の中に「勝ってほしいと言われるとその声に答えなくては」「勝つために確実な練習をしなくては」と言う気持ちが湧いてきた。日の丸を背負って勝ってメダルをとることが自分の使命だ。それが僕に与えられた責任だ。どんなことがあっても、何が何でも勝たねばならないという悲壮な状況に追い込まれた。最初は欲もいささかの邪心もなかった。とにかく走ること自体が楽しい。どんどん成績が伸びてみんなを喜ばすことがうれしい。そして「走ると女の子にもてる」「走ると進学ができる」「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になれる」と考えた。多少の邪心がでてきた。でもこれはまだよい。その気持ちを「てこ」にしてさらにモチュベーションを高めることができたのだから。ところが「手に入れたものを失うのが怖い」という気持ちは、手に入れたものを失ってはならないという「かくあるべし」からの発想である。その後何が何でもオリンピックでメダルをとらねばならないに結びついてしまった。走ることが楽しくなくなったのである。この点アメリカの選手は自分自身が中心軸だから、オリンピックでもとことん楽しむことができる。「私がアメリカを代表しています」という責任感は、日本人に比べると格段に少ないという。自分が普段練習してきたことを100%出せばよい。それで負けるのなら相手が1枚上手だったということだ。正直に負けを認めて、相手を称えてあげよう。つまりオリンピックでは適度な緊張感の中で、自分の実力以上の力を出せる要素があるのだ。それに引き換え日本人は「国の代表である」という意識に圧倒されてしまい、100%の力をそのまま出し切ることは難しい。練習ではよい成績を出しても本番では70%、80%の力しか出せなくなってしまうのだ。競技をする前から自分に負けてしまっているのだ。「かくあるべし」はスポーツの世界にも弊害をもたらしているということだろう。我々は森田理論で「かくあるべし」という世界から「事実本位」の世界に転換することをめざしているのである。森田理論の体得でその方向へ向かうことができるので是非本気になって取り組んでもらいたい。(「遊ぶ」が勝ち 為末大 中公新書参照)
2015.05.05
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私はカラオケが嫌いでした。懇親会の後でカラオケということがよくあります。お誘いがあっても何かと理由をつけて逃げていました。恥をかきたくないというのが正直な気持ちなのです。でもそこは神経質です。負けず嫌いなのです。なんとか人並みに歌えるようになりたいのです。最近安いテレビ接続のカラオケマイクが手に入り本格的に挑戦してみることにしました。曲は「奥飛騨慕情」「夢追い酒」の2曲に決めました。歌ってみると80点台の点数しかつきません。カラオケファンはお分かりと思いますが、これは相当下手な方です。そこでPCM録音機に録音して聞いてみました。歌になっていないなと思いました。特に高音がでていない。低音も苦しい。音程が悪い。そこで「カラオケを楽しむ」(芳賀邦比庫 ドレミ楽譜出版)という本を買ってきました。この本はCDがついており実際に芳賀先生が指導しておられました。この本を読んで分かったことは、腹式発声で声をしっかり前に出すこと。「おうあえい」と言う母音の基礎発生を繰返す必要があるということ。声量を増やすトレーニングをする必要があることなどでした。これらを一日15分から30分ぐらい指導項目に従ってやってみました。始めて2カ月ぐらいです。もっとやる必要があるのですが、発声練習する場所がないのが悩みの種です。それから楽譜を研究してみました。楽譜を見ていると音程の高いところと低いところがすぐに分かります。楽器では半音違うと全く演奏にはなりません。歌唱は音程の高低がよく分からないのが難しいところです。また音の長さもしっかり意識しないといけないことも分かりました。次にプロが歌唱しているものをYou Tubeから録音して、小節ごとにリピート機能を使って繰り返し聞いてみました。すると母音を大切に歌っているということがよく分かりました。特に高音部や伸ばすところは母音をきれいに出していたのが分かりました。例えば奥飛騨慕情です。「かあぜのお うわさに ひいとりきてえ ゆうのかあ こいしい おおくうひだじ みいずのお ながれえもお そおのまあまあにい きみはあ いでゆのお ねおん花・・・」母音のところは、伸ばしたり力を入れて歌っていたのです。これはすぐに意識して歌うことができました。それとウォーミングアップなしでいきなり歌うと調子が悪いことにも気がつきました。5分から10分ウォーミングアップをすると全然違うようです。いろんなことに気がつき、発見があり工夫していると、あれほど毛嫌いしていたカラオケに夢中になっていました。私はリズム感などの歌唱テクニックは天性のもので私には縁のないものと思っていました。ある人からそれは認識が甘いと言われました。努力不足だと言われました。歌唱が上手な人は意外なことによく訓練しているのだそうです。私は天性のもので努力なんかは関係ないと思っていたのです。声の質はどうにもならないが、歌唱は誰でも基礎をしっかり学べばそれなりに楽しむことができる。その証拠に森進一や桂銀淑などは美声とはいえません。ガラガラ声です。普通は歌唱には向いていないとあきらめやすいところです。でもかすれたようなガラガラ声を逆手にとってその特性をプラスに活かして、人生の悲哀を歌ってゆけば普通以上に共感を得ることもできる。私の声の質も普通の人とだいぶ変わっています。最初からできないものと決めつけて、カラオケを「食わず嫌いの一品」にしていたのだなと思いました。最近この2曲はなんとかたまに90点台がでるようになりました。まだまだばらつきがあります。自信を持って歌った曲が90点以下だとがっかりです。でも練習を積んでこの2曲を無難に歌えるようになりたいものです。歌っていると自分にはもっとあった曲があるのではないかと思ってしまいます。でも当分は、あれもこれもと欲をかかずにこの2曲を十八番にして歌っていこうかなと思っているところです。話は変わりますが、桂銀淑の「花のように 鳥のように」を聴いてみてください。「あるがまま」の生き方が幸せに近いと歌っています。森田そのものだなと思っています。
2015.05.04
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みなさん、ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしょうか。まとまった時間をいかに充実させるか。森田理論の活用のしどころです。森田先生は100円を1000円に、1000円を10000円に活かして使いなさいと言われました。時間でいえば1時間を2時間に、1日を2日に活かすということだと思います。実はゴールデンウィークをいかに有効に過ごすかは、ゴールデンウィーク前の準備にあります。この準備なしでゴールデンウィークに突入すると多分悲惨な結果に終わることになると思います。場当たり的でぶらぶらして過ごすことになります。みなさんも、メモ用紙や携帯のメモ欄、スケジュール表にやりたいことややるべきことを沢山メモされていると思います。これを5月2日、3日、4日、5日、6日に割り振っていくことです。あるいは森田ではこんなことを言います。日常生活は普段から、毎日のルーティン、仕事、家庭、家事、趣味、森田学習、健康、地域社会等に分けてやるべきことを整理しましょうと言われています。まとまった休みが取れた時は改めて整理し直すことが必要でしょう。私の例で説明しましょう。まずルーティンをきちんとこなしていく。毎日のブログの更新。読書。健康体操。剣玉、皿回しの練習。どじょうすくい、獅子舞の練習。カラオケの練習。アルトサックスの練習。風呂の掃除。部屋の掃除。鉢植えの植物の手入れ。等々。休みの間に必ずやっておくことしては次のことです。車検の予約。車やバイクの洗車。冬服の収納。夏服との入れ替え。田舎に帰り田んぼの草刈りをする。家の掃除、窓磨き。墓掃除。芝生と植木の剪定。趣味としてフラワーフェスティバルのパレードを見る。フラダンスフェスティバルに行ってみる。地ビール試飲会に行ってみる。吹奏楽、弦楽器、打楽器演奏会に行ってみる。いずれも無料。これは毎月発行のイベント情報誌を活用している。9日の集談会の森田理論の学習担当になっているので資料の準備。話の整理。次に娘夫婦が孫2人連れてくる。4日と5日である。お目当てのプロ野球の券はとれそうもないのであきらめた。その代わりシャボン玉10連発、子供マジックショー、折り紙飛行機飛ばし大会などがある。その他交通博物館もよいかもしれない。娘たちが特に行きたいところがなかったら提案してみる。食事は外食も含めてどうするか決めておく。孫はこま回しに凝っているようなのでこまを用意しておく。これらを2日から6日に割り振ってみた。全部埋まってしまった。忙しくなりそうだ。ちなみに2日は1時間半かけて田舎に帰り、庭の芝生の手入れ。田んぼの畦草刈り。家の掃除などをした。とんぼ返りで帰り、市民の吹奏楽の演奏を聴きに行った。知っている曲ばかりで楽しかった。その他ルーティンも怠りなくすべて完了した。3日はフラワーフェスティバルが楽しみだ。なにしろ20か所以上も別れていろんな場所で歌や踊りのステージがあるのだ。スケジュール表を見てどこに行くか決める予定。ただ雨が心配だ。地ビールを飲むのを楽しみにしている。みなさんもいろいろと予定を立てられている事と思います。森田を活用して充実した休暇をお過ごしください。
2015.05.02
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平安時代に後白河法皇編で「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という歌謡集がある。その中に「遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけむ。遊ぶ子どもの声聞けば我が身さえこそ動がるれ」というのがある。現代に生きる我々にとってハッとさせられる言葉である。我々は毎日生きていくことが苦しい。神経症でのたうちまわっていると、自分はなんのために生れてきたのだろうか。生きていても何の楽しみもない。苦しみ、苦悩するために生れてきたのだろうか。生きることになんの意味があるのだろうか。ついこのように考えてしまう。徳川家康は人生の本質は、重い荷物を背負って坂道を上っていくようなものだという。それに対してこの歌謡集では、人生とは遊ぶためにあると喝破している。人間は遊ぶために生れて来たのだ。純真無垢な子どものように精一杯遊びを楽しもうではないかといっている。そんな生き方がはたしてできるのだろうか、疑心暗鬼である。さて、遊びをよく考えてみるとさまざまな特徴がある。1、 遊びは他人には大変そうに見えてもやっている本人は楽しくて仕方ない。2、 自発的である。次々と意欲ややる気がでてくる。気づきや発見が湧き起り、創意工夫するようになる。次々と好循環が生まれる。3、 遊びの目的は遊ぶことそのものにある。遊び三昧の人は、遊びそのものになりきることができる。その時「私」自身へのとらわれはない。目の付けどころは遊びの対象へ向かって外へ上へと向かっている。4、 束縛から離れて、自由に動き回ることができる。是非善悪という価値観に縛られることがない。5、 友達と一緒に遊ぶと人間関係の距離が急速に縮まる。6、 遊びは義務化した途端に、遊びではなくなる。苦悩の基となる。7、 遊びは予測不能で、意外な方向、あらゆる方面に展開していく。現代人は遊ぶこと自体がタブーとされている。いい大人が遊んでばかりいないで少しは仕事に精を出しなさいなどと言われる。仕事をしていない風来坊に対する世間の風当たりは強い。本人は経済的に安定していればやりたくない。生活の為、生きていくために仕方なしに仕事をしている。その仕事は、今や自分の意思とは無関係に義務化しているのである。自分の内部からほとばしるような情熱や意欲がない状態で、イヤイヤしかたなく手をつけている。しかも人間関係に悩みながら苦痛以外のなにものでもない。仕事は遊びとは対極のものである。人間が生きていくということが、遊びのような状態になれば楽しくなると思われます。そのためには遊びの特徴にあげたような生き方を身につければよいのではないでしょうか。仕事でいえば、最初はイヤイヤ仕方なしでもかまわない。仕事をよく見つめる。少しでも仕事に一心不乱になってみる。すると感じがでてくる。気づきや発見があり、創意工夫点がみつかる。実際に手足を出してみる。ここに仕事が遊びに近づいてくる極意があります。これは仕事だけではありません。生活自体がこういう状態になれば、生きること自体が遊び三昧の境地に近づいてくるのではないでしょうか。生まれてきたことを心から喜べる人間になりたいものです。これは森田理論学習の「生の欲望の発揮」で学習する項目です。
2015.05.02
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子供がよちよち歩きを始めて、屋外で遊ぶようになると、母親は近所の児童公園に子供を連れていく。公園には、それより前から遊んでいる母子たちのコミュニティが存在するので、上手に「デビュー」してその一員として認められなければならない。デビューに失敗し、ママ友から仲間はずれにされれば、公園はもちろんのこと、近所でも居場所がなくなってしまう。公園で親子で遊ぶということは戦場にいるようなものなのだ。自分がうまく「ママ友の輪」に入ることができても、まだ安心はできない。自分たちが仲よくするのは当然のことで、同様に子どもたちも「子供たちの輪」にうまく溶け込み、喧嘩することなく、仲良く遊ぶ義務がある。母親は、いざ公園に来て、ママ友とそつなく会話しながらも、横目で「ウチの子はちゃんと仲間に入れてもらえているか」「よその子を叩いたりしていないか」と、ずっと目をひからせていなければならない。神経を酷使するばかりで、休まる瞬間はない。実際、ちょっと子供がじゃれあった程度で、母親たちは、すごい剣幕で飛んで来る。だから、子供たちも、母親の顔色をうかがいながら遊んでいる。親同士のみならず、子供同士で何かトラブルが起きたら、大問題に発展する。問題がこじれば、その親子は公園に「出入り禁止」となってしまう。そこでそれを回避するために、自宅のすぐ近所に設備の整った公園があるのに、わざわざ車や電車に乗ってまで、遠くの公園に出張する親子がいる。また公園で遊ぶこと自体を子供に禁止する親もいると言う。(なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか 和田秀樹 祥伝社 49ページから引用)これは、母親自身が仲間から無視される、排除されてはならないという価値観が強いのだと思います。仲間に受け入れられないと生きている心地がしない。だから相手の気に触るようなことは正当な理由があっても決して言動に出してはならない。言いたいことがあっても我慢する、耐えるという姿勢を貫いているのだと思います。人間関係という荒波を無難になんとか切り抜けてゆかないと自分の人生はまっ暗闇だ。そういった考え方が染みついているのだと思います。そしてそうした価値観を小さいときから自分の子供たちに教え込んでいるのです。子どもたちは母親の一挙手一動を敏感に受け取っています。そして子どもたちもみんなと仲よくすることが一番大切なことなのだ。人を傷つけても、自分が傷つくこともどちらも許せないのです。集団から排除されるということは、自分に問題があるのだ。そんな大人になってはいけない。そういう価値観を絶対的で唯一のものとして刷り込まれてしまったのです。それは実に不幸なことです。人間関係の全くない仕事はありません。仙人のように一人で生きていくことはできません。そういう子供が考えることは、人間関係に気を使わなくてもやってゆけるような仕事を探すようになるのです。動物や植物を扱うような仕事。機械を作ったり、機械を操作するような仕事。指示命令をされないような仕事。ノルマの無いような仕事。研究職など自分ひとりでできる仕事。職人や芸人、俳優のような仕事。反対にチームを組んでする仕事。上下関係のある仕事。対人折衝のある仕事。営業の仕事。人とかかわるような仕事は敬遠されるようになります。そういう人間関係のみの価値観に凝り固まり、翻弄されることとてもつらいことです。せっかく人間に生れて来たのです。なんとか打開策を見つけたいものです。そのために、まずはそういう状態にあることを自覚すること。そして多様な価値観を知ること。さらに森田理論を学習して、「生の欲望の発揮」について理解していくこと。自分の生活を少しずつ森田的な生活に転換していくこと等が大切なのではないかと考えています。
2015.05.01
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