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耐える、がまんするということを考えてみました。これには2つの側面があると思います。1、生の欲望の発揮にあたっては、さまざまな障害が待ち構えています。やる気が出ない。時間がない。資金がない。協力が得られない。等いろいろとあります。意志の弱い人は、それらに圧倒されて、とても無理だと判断して早々とあきらめてしまいます。そして暇を持て余すようになるのです。その時考えることは、「どうせ自分なんか」という自己否定のことばかりです。このやりきれない気持ちを抑えるために刹那的な快楽を追い求めるようになります。意志のしっかりした人は、そこで踏みとどまることができます。一つ一つ障害を乗り越えて目標に近づいてゆきます。その状態は苦しみやイライラに耐えていると言えます。こういう意味での耐えられる人、我慢できる人です。それを持ちこたえながら前進できる人です。2、不平、不満、不安、恐怖、怯え、怒り、憎しみ、悔しさ、悲しみ、嫉妬心、憂鬱、無力感等のネガティブな感情が湧き起った時、表情や言動に出さないで、じっと我慢して耐える。普通はこのような人が我慢強い人、社会的に望ましい人であると考えられています。言動に出さないのでトラブルにならないからです。でもストレスが蓄積されて心身症、神経症になります。これが子どもに表れるとどうなるか。意地悪されても、つらいと感じない。へらへらしているのでもっといじめられます。また、いじめにあって学校へ行くことが難しくなります。ところが家でその気持ちを親に出すと、叱られます。子どもは、その気持ちを封印して、イヤイヤしかたなく学校に通い続けます。そのような子どもは一見我慢強いようですが、本来の我慢強い子どもとは違います。このような子どもの注意は対人関係にばかり向いています。するといじめなどがあると強いトラウマとなります。トラウマになるということは、その時に封じ込められた不快な感情が、何かの刺激を引き金にしてフラッシュバックをおこすようになります。些細なことで突然きれてしまい、重大事件を引き起こしてしまうこともあります。大人の場合はどうか。会社で頼まれた仕事は何でも引き受けてしまう。自分が目一杯の仕事を抱えていても、断ることができない。あるいは、体がしんどいにもかかわらず有給休暇の申請ができない。用事があっても、みんなと同じ時間までサービス残業をしてしまう。その反面、ランチにお誘いがかからないと気が動転してしまう。ミスや失敗をするともう会社をやめてしまおうかと考えてします。一人で孤立しているとみられることは死ぬより辛い。これらは小さいころから、自分のネガティブな気持ちを封印して我慢したり耐えてきたつけが表面化してきているのです。その蟻地獄の中から抜け出ることは容易ではありません。完全には抜け出せないかもしれません。効果があるとすれば、森田理論学習を積み重ねて、実践していくことだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.31
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三浦雄一郎氏が人生後半を輝かせるために次の8点をあげておられる。1、 自分自身のエベレストを持とう――生きる目標を見つける。2、 攻めの気持ち、チャレンジ精神が日々を充実させる。3、 人生はいつも今から――今をいかに充実させて生きるかを考える。4、 「年だからダメ」といっていると本当にダメになる。5、 何が起こっても前向きに捉える。6、 できない理由を考えるのではなく、できることをやる。7、 どんな時でも可能性を信じて前進する。8、 夢を持ち、夢の実現のために全力を尽くす。三浦雄一郎さんは39歳から54歳までに世界7大陸最高峰からからのスキーの滑降に成功している。このなかにはエベレスト、南米のアコンカグア、北米のマッキンリー、アフリカのキリマンジャロなどが含まれている。ところがその後、燃え尽き症候群にかかり、不摂生を繰り返して、内臓を壊し、医師から余命3年と宣告された。人口透析も視野に入っていた。その頃は札幌の自宅近くの531mの藻岩山にも登れなくなったという。この山は幼稚園児がキャアキャアはしゃぎながらなんなく登れる山だそうだ。その後父親や息子から刺激を受けて、65歳からトレーニングを開始。70歳、75歳、80歳でエベレストの登頂にそれぞれ成功している。その間4度の心臓の手術をしている。特に4回目の心臓手術は80歳のエベレスト登山出発の2か月前だったそうだ。その他76歳の時には、骨盤と大腿骨骨折に見舞われた。普通の人は骨がくっつかないかもしれない。でもそのたびごとに乗り越えてこられた。三浦さんの人生は、決して順風満帆ではなかったのである。85歳の目標はチョ・オユというヒマラヤで6番目の高い山だそうだ。その山頂からスキーで滑ることだそうだ。後3年後だ。我々にはとてもまねはできない。でも最初に紹介した、後半の人生を輝かせるための8カ条はとても参考になる。夢や希望や目標は、心の健康維持にとってなくてはならないものなのではなかろうか。(65歳からはじめる健康法 三浦雄一郎 致知出版社より引用)
2015.07.30
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林公一氏はうつ病の見分け方を大まかに3つあげておられる。1、 毎日、24時間憂鬱でつらくて苦しい。2、 興味や楽しみ、喜びの気分が全く湧かない。3、 自責感が強い。自分が悪いという。他責の態度は見られない。またうつ病の診断にあたっては、不眠、食欲不振、自殺願望などを含めても、一部分だけを見て判定してはいけない。本人の生活や表情、態度全体を見ないと正確な診断は下せないと言われる。もちろん診断するのは精神科医である。しかし問題は、うつ病は本人の自己申告をもとにして判定するのであり、間違えてうつ病として診断してしまうこともあります。その前提に立って、最近はうつが社会的に許容されてきたせいか、本来うつとはいえない症状が、うつだと間違って取り扱われているという。これは大問題だ。例えば、新型うつ病である。林氏は、これは断じてうつ病ではないと言われている。なぜか。この病気の人は、自分がうつであることを積極的に主張する。本当のうつ病の人は自分がうつ病であることをなかなか認めない。また、今の自分の悩みは親などに責任があるという。さらに自分がうつ病になったのは会社でのいじめなどが原因であるという。これは3番に当てはまらない。さらに、平日は落ち込んでいたりするが、自由に過ごせる休日は人一倍謳歌している。これは2番に当てはまらない。林氏は新型うつ病は、本来のうつ病とは全く違う。「甘えの擬態うつ病」あるいは「適応障害」によく似ているという。それをマスコミが勝手に新型うつ病にしてしまった。その他、境界性人格障害、統合失調症、躁うつ病、仮病もうつ病として取り扱われることがある。表面上の症状が似ているからだ。しかし、この混同は、治療方法の混乱を招いていると言われる。決して本人のためにはならない。うつ病は本人がうつ病を認める。薬を飲む。休養をとる。周りの人は叱咤激励ない。重大な決定事項は保留にする。自殺に気をつける。等の治療方針をとる。ところが、うつ病でない「甘えの擬態うつ病」「適応障害」「境界性人格障害」「統合失調症」「躁うつ病」「仮病」等はうつ病とは治療方針が大幅に異なる。このなかで、神経症との関連でいえば、「適応障害」であろう。適応障害とは神経症のために、とらわれが発生して、本来なすべき仕事などが手につかなくなることである。神経症のために生活が後退して、支障が出ているのである。これは心因性で、人間関係や仕事のストレスや認識の誤り等が原因である。これは本人の資質と生活環境が大いに影響している。うつ病は脳内神経伝達物質のバランスの崩れが原因とされている。だから適応障害は、すべてではないが、うつ病とは対応がかなり異なる。適応障害の人は、うつ病ではないことをはっきりと認識する。薬にはあまり期待をかけない方がよい。休養は良し悪しである。かえって手足を動かす方がよい。ストレスの原因を取り除く必要がある。考え方の誤りを是正していくことが重要である。等の手立てをとっていくことが大切である。この点森田理論が役に立つ。集談会ではうつ病の人はすべて協力医の診断を受けてくださいと勧めている。でもよく考えてみると、重いうつ病の人は集談会に来られない。参加される人は、慢性的な抑うつ気分、気分変調性障害の人が多いように思う。どちらかと言えば、「適応障害」の人が多いのではないかと思う。その葛藤や苦しみのせいで抑うつ気分に陥っているのではなかろうか。そういう人たちには、ぜひとも森田理論学習をお勧めしたい。(擬態うつ病、新型うつ病 林公一 保健同人社参照)
2015.07.29
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小学校4年生のあるクラスで「心の教育」がありました。4名から5名のグループで、廊下にはってある絵を一人ずつ順番に見てきて、画用紙に描きだすという課題でした。一人ずつが、見てきたものを書き、全員で一つの絵を協力して仕上げるのです。その時あるグループで男子数人がけんかをはじめました。リーダー役の女子がけんかをやめさせようとしますが、収まりません。気持ちが荒れている男子は、いたずら書きをたり、まじめに取り組みません。リーダー役の女子は、イライラしながら一人で取り組みました。時間がきて、全員の前で発表の時間になりました。明らかにのグループは他のグループに比べて、未完成の状態でした。しかしこのリーダー役の女子は、発表では「みんなで協力してやれてよかったです」と言いました。心の中で思っていることとは違うことを発表したのです。こうして「心の教育」という授業は終わりました。波風を立てない建前の発表にはたして問題はないのか。私は問題が大ありだと思います。この女子の気持ちは「男子はけんかばかりして、協力してくれなくて、私はとても悲しくて残念でした」ではなかったでしょうか。この子のかなしい思い、悔しい思い、腹立たしい思いはどうなったのでしょうか。「心の教育」というからには、心にはネガティブな感情も湧き起ることもあり、その気持ちを抑圧しないで出し合う。そのことの意味を考えてみるということが大切なのではないでしょうか。そういう意味では格好の授業の題材になったはずです。先生は教室にいて見ておられるわけですから、そこに焦点を絞って授業を進めるべきだったのではないでしょうか。ただ単に共同作業を経験させることが目的なのでしょうか。そんなことをするとそのグループの児童を責めることになり、授業に悪影響をもたらすとでも考えられたのでしょうか。子どもを育てるということからするとどうも違うような気がします。ここで重要な点は、このネガティブな感情をどう取り扱っていくかということにあります。この点について、親、養育者、教師のみんながネガティブな感情は悪であり、憎むべき相手であると思っています。そしてその誤った思いを子どもたちに伝承しているのです。世代を超えてその悪循環が繰り返されているのです。先生はこの例を参考にして、ネガティブな感情を受け入れていくことの大切さを分かりやすく児童に説明していかなくてはなりません。文科省の教育の指導要綱にはそんなことは触れられていないのでしょうか。でもこれは人間が生きていくための必須の学習事項です。是非とも次世代を担う子どもたちに伝えてゆきたい学習項目です。そのためには、親、養育者、教師のみんなが、ネガティブな感情は生きていく中に当然出でくるものであり、逆らうことは自分を苦しめることになるのだという理屈を知ることが先決です。そして自分でもその方向で行動できる。それを子どもたちに伝えていく。すると、子どもの心の問題の大半は解決の方向に向かうのでないか。森田理論学習を続けている私たちはそのことを社会に認知させていく使命が課せられているのだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.28
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プロフェッショナルという番組で瀬戸内海の小島で時計の修理をしている人の話があった。この人は50年間この仕事に携わってきた。その間時計は安いクォーツ時計が主流となった。使い捨ての状況で仕事は激減した。確かな技術はあるのに、修理の仕事がなくなったのである。生活は切り詰めざるを得なかった。また島の若者は島での生活をあきらめて都会に出て行った。そういういう誘惑にかられた事もあった。ところが、自分の住んでいる古い街並みが観光案内として紹介されたとき、時計職人として紹介された。それからボツボツと仕事が舞い込むようになった。今は全国から修理依頼が舞い込み1年待ちという状況である。使い捨て時代とはいえ思い出の深い時計は修理して使いたいという人がいたのである。そんななかで大阪の人からの依頼があった。オメガの時計だった。その人は自営の仕事が軌道に乗った時にその時計を買い、以来大事に使ってきた。ところが突然脳梗塞をおこし半身不随になった。時を同じくしてこの時計が動かなくなった。修理依頼の手紙には、もし治らない場合は捨ててくださいと書いてあった。真意を確かめるため、電話をしてみると、この時計が治って戻ってくれば自分の病気も快方に向かうのではないかという希望を持っておられることが分かった。この時計はさびだらけであったが、心臓部は修理可能であった。この時計が修理されて戻ってきたとき、その喜びようは大変なものだった。数は少なくても、思い出の時計を持っている人は、なんとしても元に戻したいという気持ちは強いものを持っているのだ。そういう人の願いを叶えてあげる仕事は尊いことではないのか。一生時計修理にかかわる決意を固めておられる。私はこの番組を見て思った。対人恐怖で仕事もうまくいかない。人にも迷惑をかけてきた。自分も生きづらさを抱えて毎日つらい人生を過ごしてきた。そういう人は私をはじめとして全国にはたくさんおられるのではないか。そのために森田理論が役に立つことは分かっているが、世間には認知されていない。でもこの時計職人のように、いつか少なからず支持を集める時が来るのではないか。それまでは森田を信じて、神経症克服の道を極めておくことが大切なのではないか。私にはそれこそが、世の中に役に立つ仕事として、生きてきた証を残せる唯一の道ではないのかと思った次第です。
2015.07.27
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第2の対応です。それはネガティブな感情を放置できる人です。森田的に見て好ましい対応です。森田ではどんなに危険、醜悪、好色な感情であっても自然現象である。台風、地震、雷、ゲリラ豪雨等の自然現象と同じである。私たちに不利益を与えるものではあるが、基本的にどうすることもできない。コントロール不可能であるものは、謙虚に受け入れるしかない。こういうことがよく理解できている人だと思います。理解できているとともに、そのように対応できている人だと思います。つまりネガティブな感情を抱えたまま、次に進むことができる能力を獲得している人です。つらい感情に耐えたり我慢できる力を身につけている人です。そういう人は自然に逆らうことがない。たとえて言えば、風や水の流れに逆らわないようなものです。気流に乗って上昇してどこまでも飛ぶことができる。また水の流れに乗って、川下りを楽しんでいるようなものです。岩にぶつからないように微調整するだけで、あとは何もしなくても自然に任せておけばよい。ゆっくりと変化する景色を楽しんでいればよいのです。自然を受け入れる。自然に服従することは万事うまくいくようになっているのです。こういう生き方は葛藤がない。苦しみは次から次へとやってくるが、大きな苦悩にまで膨らむということはありません。これは注射を打たれるときは、ちっと痛いが、針が血管の中に入ってしまえば痛みがなくなるようなものです。その後我慢して注射に耐えてよかったという気持ちになります。こういう仕組みを理解して生活に応用できるようになるとよいわけです。できていない人はこれからその能力を獲得していけばよいのです。その方法は、森田理論がいくらでも教えてくれています。あと大事なことは次世代の子どもたちにもその仕組みを、養育者が身を持って教えていくことです。特段難しいことではありません。子どもの近くにいて、ネガティブな感情を読み取り受容して共感していくことです。そのためには、大人がまずネガティブな感情を受け入れることができる段階に到達することが大切です。第3の対応は、ネガティブな感情を放置できない人です。まずいい対応です。まず養育者がネガティブな感情の取り扱い方が理解できていない。つまり感情は人間がいくらでも操作可能であると信じて疑わない人である。あるいは理屈は分かっていても、今までの習慣でつい抵抗してしまう。それをもとに間違った対応をしているのです。子どもを叱る。怒る。けなす。存在自体を否定する。無視する。拒否する。抑圧する。等です。こういう人は、無鉄砲にしけの中に船を出して悪戦苦闘しているようなものです。あるいは自分の力を過信して積乱雲の中に飛行機を突っ込ませるようなものです。エスカレーターに乗って逆走しているようなものです。自然の流れに抵抗しているので大きな無理があるのです。最後には心身症になり、精神を病んでしまうのです。そういうふうに養育されると、自分でもネガティブな感情はいかようにも取り扱いが可能であるという錯覚を持ってしまうのです。そして骨の髄まで、ネガティブな感情をやりくりする。はからい続ける。あるいは、直面することを避けてすぐに逃避するようになるのです。最後には、ネガティブな感情、予期不安が湧き起ること自体を恐れるようになるのだと思われます。不安や恐怖の対応にはこのように3つの方法があるということを理解していただきたいと思います。その先どの方向を目指せばよいのかは自ずから分かることです。
2015.07.26
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理不尽な出来事、不本意な出来事に遭遇したとき、私たちにはネガティブで不快な感情が湧き起ってきます。不平、不満、不安、恐怖、怯え、怒り、憎しみ、悔しさ、悲しみ、嫉妬心、憂鬱、無力感等です。この感情をもとにして3つの異なる対応が生まれると考えています。順番に見てゆきましょう。第一の対応です。これは子どもの対応です。あるいは子どもみたいな大人の対応です。子どもは、すぐにキレてしまって、不快な感情をすぐに態度に出します。ぐずって泣く。暴言を吐く。暴力を振るう。でも子どもだから仕方ありません。成長するに従って改善されてきます。しかし大人がこんなことをすると大変です。後先を考えないで衝動的な行動は、反社会的な行動として厳しく責任追及をされます。一旦そういう烙印を押されると、危険人物とみなされてしまいます。そして社会から排除されてしまいます。それなのにどうして衝動的な行動をしてしまうのか。断っておきますが、決してその人のパーソナリティに問題があるわけではない。これは脳の機能不全にあります。普通、私たちはある欲望が湧き起ると、それを抑制する反対の感情も同時に湧き起るようになっています。森田では精神拮抗作用と言います。心理学ではアンビバレンス、両価性と言います。その機能をもとにしてバランスをとりながら生活してゆけばよいのです。この機能の獲得は親や養育者の教育のたまものです。抑制力が働かないのは、十分に成長を促すことができないで、置き去りにされてしまったのです。この脳の機能が十分でないと、社会に適応することが非常に難しくなってきます。本人のせいではなく、養育者の教育のせいで一生苦労を背負っていくということは大変残念なことです。対応方法は別途考察する必要があります。この点に関しては2015年5月9日の「理知」とは何かも参照してください。次に進みます。
2015.07.26
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最近の投稿で参考にさせていただいている「怒りをコントロールできない子の理解と援助」という本の紹介をさせてもらいます。副題は「教師と親のかかわり」です。この本はカウンセリング学校教育部門でベストセラー1位の本です。重版を続けています。隠れた名著です。著者は大河原美以氏です。出版社は金子書房です。大河原氏は臨床心理士で、子供の心理療法、家族療法の専門家です。193ページの本ですが、私が注目しているのは61ページまでの部分です。それ以降は子どもへの対応方法が具体的に書いてあります。61ページまでには「感情はどのようにして育つのか」が書いてあります。第1章 感情のプロセス1、 感情と言葉2、 感情はどのようにして社会化されるのか3、 親子のコミュニケーションと感情の発達4、 思いやりという感情を育てるには第2章 いまどきの親子の関係1、 理想的な子供を求める子育て2、 他者から見て「よい子」であることを強く願う時――叱ることをやめられない3、 親に対して「よい子」であることを強く願う時――叱るのがこわくて叱れない4、 子ども自身が本当の意味で「よい子」に育つことを願うには第3章 怒りをコントロールできない子どもたちの感情の発達1、 ネガティブな感情が社会化されないとき2、 子どもの心の脆弱性と易トラウマ性3、 著しい情緒不安定による攻撃的な子ども――小学校低学年4、 突然きれてパニックになる子ども――小学校高学年5、 思春期の危機6、 大人になってからの危機7、 感情を育てるために必要なこと8、 「しつけ」の誤解9、 「(よい)心の教育」の落とし穴大河原氏は殺人事件を起こした少年少女は、一般的な子どもとほとんど変わらない。その根本には、ネガティブな感情を受け入れられず、いびつな形で成長してきた足跡がある。そのつけが重大な事件へと発展している。子どもたちはどんな状況におかれても、生きつづけようと格闘する。その生きようとする力は、時に激しすぎて、嵐を巻き起こす。親や教師が子どもに対する関わり方を変えていけば、子どもは素直に育っていくと言われています。これは森田理論学習でいう、感情は自然現象であり人間の意思の自由はない。親、教師、子どもたちすべての人が、不安や恐怖等のネガティブな感情を受け入れていく。感情の事実に服従していくということと同じことであると思う。それを親と子ども、教師と子どもの人間関係の在り方から説明されている意味のある本だと思います。関心のある方は森田理論を深めるために是非一読願います。
2015.07.25
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幼い子供はたいてい海水浴に行っても水が怖いと言います。だから最初は泳ぎを覚えるどころではない。でも親が近くにいることで安心して浮き輪から出て泳ごうとします。溺れそうになると親が助けてくれるからです。つまり最初は親のサポートが必要なのです。親に見守られているということで、安心して泳ぎを覚えることができるのです。何回も挑戦していくうちに泳ぎを覚えてしまいます。もし親が近くにいなかったとしたらどうでしょうか。おぼれて死んでしまうかもしれないという不安や恐れが出てくるのではないでしょうか。親が海岸にいて口でいろいろと指導する。あるいは子どものぎこちない動作を見てくすくすと笑っているとするとどうでしょうか。多分足がつかない沖合では浮き輪から出ることができなくなるのではないでしょうか。安心、安全、信頼という後ろ盾がないので、不安や恐怖心がなくならないからです。その結果行動が停滞し、泳ぐ能力を獲得して自信をつけることがなくなります。頭の中では不安や恐怖心の悪循環が始まります。幼い子供は不安、恐怖、怒り、悔しさ、憎しみ、悲しみ、嫉妬心などのネガティブな感情から、すぐに泣きわめいたり、暴力的になったり、自暴自棄になります。そんな時の親の対応は、子供の心の成長に大きな影響を与えます。どうすればよいのか。泳ぎの例で見てきたように、まず親は子供の近くにいて見守っていることが大切です。次に、そういうネガティブな感情に対して共感して受容してあげることです。否定しないで、見守っていてくれるおかげで、安心感、安全感、信頼感が生まれてくるのです。そういう後ろ盾を信頼して、思い切って挑戦できるのです。たとえ失敗しても親が温かい気持ちで見守っていることが大きな安心感につながっているのです。不安や恐怖に翻弄されて怯えたままではありません。反対に親が近くにいない。あるいはいても、ネガティブな感情や行動を見て、叱ったり、否定したり、批判したりされているとどうでしょうか。ネガティブな感情をずっと抱えたままになります。そしていつまでも自分で受け入れることができなくなってしまうのです。閉塞的で苦しい状態です。そのうちネガティブな感情を異物視してなんとか取り除こうとします。つまり不安や恐怖心に翻弄され続けていくことになるのです。これは神経症発症の原因となります。さらに悪いことに、こういう人が大人になって、子供を育てることになった時、子供がネガティブな感情を表出したとき、親と同じような対応をとってしまうのです。世代を超えて悪循環が始まるのです。どこかで断ち切らないと子供も親も苦しくなります。現在子育て中の人、これから子育てをする人と、それにかかわる人は是非頭に入れておいてほしいところです。また、不幸にしてそういう大人になってしまった人は、自覚を深めて、対人関係の改善に役立てていただきたいと思います。つまり、他人のネガティブな感情に寄り添い、受け入れていくということです。試行錯誤するでしょうが、意識して取り組めばできないことはありません。すると、自己嫌悪、自己否定する度合いが低下してくるものと思われます。
2015.07.24
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幼い子供ががけっぷちで鬼ごっこをして遊んでいるとします。崖に柵がなければ子どもたちが落ちてしまうかもしれません。そこで柵を作ります。普通の親は「柵の向こうは危ないから超えてはだめ」と注意します。子どもは「イヤだ」と言いました。そこで親はどう振る舞うか。例えば、1、 そんな自分勝手なことをしてはいけません。わがままな子供を厳しく叱ります。2、 分かったよ。じゃ柵を1m向こうにずらしてあげる。これだったらいいでしょ。3、 柵の向こうで遊びたいんだね。残念。がっかりだね。柵の向こうに行かれないのよ。子供が泣きやむまで泣かせておく。そして泣きやんだ時「よく我慢できたね」とほめる。1の対応は、子供のネガティブな対応を否定する対応ですが、一般的にしつけとはこのように理解されています。2の対応は、子供との葛藤に耐えられない場合にとられる妥協策です。一見民主的な親子関係に見えますが、子供のことよりも自分の不快感を収めることを重視している関わり方です。3の対応は、子供のネガティブな感情を大事にしながら、しつけの枠をくずさない対応です。本当のしつけとは、枠をまげないでいられる落ち着きのある安定した強さと、子供のぐずぐずをよしできるゆとりのあるやさしさで、成り立っています。つまりしつけとは安定した大人が子供を愛することなのです。普通しつけとは、一般的な生活習慣、社会習慣を子供に教えて子どもの健康や安全を守っていくための教育です。そのために間違った行動に対して、叱りつけて強制していくということが前面に出てきます。この例を見るとしつけに当たってはまず子どものネガティブな気持ちを受け入れてあげることが大切です。でも大人の意向を冷静になってしっかりと子供に伝えていくことだと思います。ここは首尾一貫していないとまずいところです。一度約束したのに、後でなし崩し的に子供の要求を叶えてあげることはあってはならないことです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.23
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「みかんていいな」という言葉をキャッチフレーズにして、自分の気持ちを相手に伝える方法があるそうです。みかんの「み」は、見たこと、客観的な事実・状況を話す。「かん」は、自分の感じたこと。自分の思いや気持ちを話す。「ていいな」の「てい」は提案のことです。「いな」可否を尋ねて否定された場合の対案のことです。例えば共働きの妻が何か悩みがあって、疲れ気味の夫に相談する時のことです。あなたも疲れていると思うけど(客観的事実・状況)、私の話を聞いてほしいの(自分の気持ち)。仕事のことでとても困っているから、あなたに聞いてもらえるだけで気持ちが楽になるから、お願いできないかしら(提案)。もしあなたが今疲れているようならいつがよいか教えて(対案)。これはアサーティブな自己表現の手法だそうだ。これには森田的な考え方が含まれている。まずは事実や状況を正しく把握する。ここがまずもって大切になる。見つめていると、何らかの感情が湧き起ってくる。ここで大切なことは自分の感情を我慢したり、抑えつけたりしないことだ。湧き起った感情を素直に感じとることだ。決してすぐに相手のことを考えないことだ。自分の内なる感情を感じとること。その次に自分が相手に期待する気持ちを整理する。この段階になって、その気持ちを素直に相手に伝える。「○○してくれるとうれしいんだけど」「○○してほしい」等。でも相手には相手の都合がある。だから相手が受け入れてくれるかどうかは神様のみが知るところである。まあ5分5分ぐらいに考えておいた方が無難だ。つまり相手の気持ちを察してあげるのだ。「今すぐというわけではないよ」「いつだったらいいかな」「ここではまずいいかな」「食事でもしながらというのはどうかな」「喫茶店ではどうかな」「時間的に無理だったら教えてね」相手がどうリアクションしてもそれは相手の自由な裁量に任せてしまうことが重要となる。(はじめての認知療法 大野裕 講談社現代新書 138ページより一部引用)
2015.07.22
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5歳の女の子の話です。この女の子は、スーパーでお母さんの立ち話が長くなると「怖い、怖い」というのだそうです。また、レストランで食べられないものが出てくると、同様に「怖い、怖い」というのです。怖いと言いながら、近くに恐ろしいものがあるわけではないのです。この心理を考えてみましょう。目の前に恐怖心を起こさせるものがないわけですから、怖いというのは言葉だけのことではないのかと考えられます。実際に自分の体の中で感じていることは違うのではないか。多分じっと待っているだけなので、退屈だ。つまらないという気持ちなのではないでしょうか。もし、女の子が「ママ、つまんない。早くいこうよ」と言ったとしたらどうでしょうか。お母さんは、きっと「もう少し待ちなさい」「大事なお話をしているのだから、がまんしなさい」等ではないでしょうか。退屈だからといってグズグスした態度をとられると大変だからです。女の子は、こんな時お母さんは、いつも私の気持ちを分かってくれない。いつもお母さんは自分の言いたいことを私に押し付けてくる。その気持ちに耐えられない。そんな態度をとるお母さんはイヤだ。許せないと思っていた。ところがある日、「怖い」といったところ、お母さんは飛んできて、私の気持ちに寄り添ってくれた。めんどうをよく見てくれた。そこでこの言葉は魔法の言葉だと思ったのです。怖いという言葉を使えばお母さんは、私の後ろ向きの感情も適切に受け止めてくれるのだと学習していたのだと思います。それ以外の言葉で自分の気持ちを表現するとすぐに否定されてしまう。すると私は気分が悪くなる。こんな心理が働いたのでしょう。この奥には、日頃から娘の悲観的、マイナスな感情は認めてこなかったという経緯があったのです。お母さんとしては、子供に怖いと言われると、娘に何かあったら大変だ、助けてあげなければと思って、娘のいいなりになってしまいます。ところが、「たいくつだ」「つまんない」等と言われると違います。そんな言葉に従うと、娘がわがままに育ってしまうと思ったのです。こういう時は厳しくしつけをしなければならないと考えたのです。だから娘に厳しく対応するのです。お母さんが娘の気持ちに寄り添って、一旦はどんなネガティブな感情でもきちんと受け止めてみる。そしてお母さんの言葉で娘さんの気持ちを代弁してあげる。受容する気持ちがあると、娘さんはどんどんネガティブな感情も否定したり隠さないで表現するようになる。このことが子育てでは肝心なことです。これは大人の良好な人間関係作りにも応用できる考え方です。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.21
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5歳のあやちゃんとみかちやんが公園の砂場で楽しそうに遊んでいます。たくさん、お山や川をつくって、水を運んで、全身でダイナミックに夢中になって遊んでいました。4時になってお母さんが迎えに来ました。二人ともスイミングスクールの時間なのです。「お時間だから手を洗ってらっしゃい」と二人のお母さんが声をかけました。あやちゃんは「はーい」とすぐに遊ぶのをやめて、水道で手を洗い、お母さんと一緒にスイミングスクールに行きました。ところがみかちゃんは、「いやだ。もっとお砂場する。ママ、みて、これすごいでしょ。スイミング。いい…きょうは行かない」といって、お砂場遊びからもどってきません。私たちはどちらの子どもの態度が好ましく思うでしょうか。たいてい素直に親のいうことに従う子供を好ましく思うのではないでしょうか。しかし感情の育ちから見ると、みかちゃんの方が望ましいのではないでしょうか。楽しみのエネルギーが全身を流れているときに、それを急に中断するというのは難しいことです。子どもとしては「イヤだ。もっと遊びたい」と思うのは当然な成り行きであり、もっともなことです。むしろ心配なのは、あやちゃんです。あやちゃんは、それまで自分の身体の中を流れていた楽しみのエネルギーを、お母さんの声を聞いただけで、ピタリと止めることができてしまっているのです。自分の身体からあふれてくるエネルギーの流れを、ピタリと止めて、お母さんの指示に従うことができるということは、感情の育ちを考えたとき問題です。一般的にみると親の言いつけをよく守る理想的な子供のように見えます。しかしその裏では、自分のほとばしり出る感情を抑えつけたり我慢したりしているのです。あるいは、なんの抵抗もなくできるということは、すでにそういう思考パターン、行動パターンが習慣化されているということです。自分の意思や希望を我慢したり、耐えたりするようになっているのです。普段お母さんが子どものネガティブでマイナスの感情を受け止めてあげていないので、そういう感情を表出することができなくなっているのです。自然にわき出る負の感情を抑圧、拒否、無視、否定していると、ストレスがたまり続けて成長するにつれて大きな反動として表面化してくるのです。あるいは自分自身生きづらを抱えて、生きていくことが苦しくて仕方がなくなるのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.20
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私たちは神経症に陥ると早くこの苦しみを取り除きたいと考えます。例えば、対人恐怖症になると何かと人の思惑が気になる。人が自分をどう見ているか、あるいはどう扱おうとしているのかが気になって生きた心地がしないのです。人から無視される。からかられる。バカにされる。批判される。叱られる。冷遇される。能力のない奴だと思われる。等ということがあってはならないと考えているのです。それを感度のよいレーダーでいつも監視しているようなものです。寝る間も惜しんで監視活動ばかりしているのですから疲れます。しかしそれほど、注意して気をつけていてもそういう悪い出来事に絶えず出くわすのです。また神経が過敏になっていますから、普通の人はどうということがないようなことにもひどく動揺するのです。また錯覚もよく起こります。人が笑っただけで自分をバカにしている。雑談しているのを見ると自分のことをバカにしているに違いない。自分の方を見ている人を見つけると、欠点や弱みを見て軽蔑しているに違いない。等とネガティブに推測して決めつけるのです。こういうことはなぜ起こるのでしょうか。それは無意識に人から常に重要視され、羨望のまなざしで見られなくてはならないという「かくあるべし」があるのです。しかし、頭でいくら考えていても、容姿、性格、能力、生まれてきた環境が、完全、完璧ということはありません。だから、次善策として自分は完全ではないけれども、せめて人からは不完全で欠点やミスの多い人間に見られないようにやりくりして隠してしまおうと考えるのです。そしてさらに、人から無視される。からかられる。バカにされる。批判される。叱られる。冷遇される。能力のない奴だと思われるような感情が湧き起ってくると、そういう感情自体を拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定するようになるのです。つまりネガティブでマイナス感情が湧き起っているのに、そんな事実はないというような態度をとるのです。自然現象である感情を自分の意思でコントロールしようとするのです。これが悩みのもとです。そんな悩みを解決する方法を提案いたします。それは、一言でいうと、他人の悲観的、マイナス感情を受け入れてあげるという方法です。自助努力で自分を変革しようとしてもとても難しいことだと考えています。骨の髄まで染みこんでいる体質を変えることは大変困難な作業なのです。でも他人の場合は、比較的客観的になれるのです。何度も言いますが、これは自分自身に対して行うのではないのです。実施する相手は、自分の子ども、親、職場、学校の友達などに対しておこなうのです。どうすればよいのか。具体的に話しましょう。まず相手の話をよく聞くことです。話してくれない場合も、相手の態度、表情、しぐさをよく観察してください。そして相手が今どんなことを感じているのかを察知することに全神経を集中させるのです。ある程度わかったら、相手になり変わって相手の今の気持ちや感情を話してみるのです。私は今あなたがこう感じていると思いますがそれで間違いありませんかと聞いてみることです。このことに全力で取り組んでみることです。多分今までは、そんなことは無視していた人が多いのではないかと思います。反対に相手に対して、自分の気持ちや意見を一方的に話すことが多かったのではないかと思われます。つまり相手の悲観的でマイナス感情を共感的態度で聞くことはなかったかと思います。ましてや相手の感情を受容するということは思いもよらなかった。逆に一方的に否定してきたということです。これを改めて、悲観的、マイナスの感情を受け止めてあげるということです。こう方向で努力してみるということです。これは子育ての際、最も注意しなけばならないことなのです。ここで肝心なことは、受け止めてあげるだけで相手の感情に対していいとか悪いとかの価値判断はしないということです。こうしたことが自分の身近な人に対して実践できるようになることが大切です。これができるようになったあかつきには、自分の悲観的でマイナス感情も受け入れることができるようになるのです。これはコインの裏腹の関係にあります。自分の場合に適応して実践することは難しいわけですから、まず他人のマイナス感情を価値判断しないで受け止めてあげるという方向で努力してみるということが大切だと思います。この話を聞いて、自分は相手の悲観的でマイナスの感情を否定しないで、じっくりと聞いて共感し、受容してきたと思われている人もおられると思います。そういう方は必然的に、自分の悲観的でマイナスの感情もきっと否定しないで受け入れることができる人だろうと思います。そういう人は対人的な葛藤も少ないでしょうし、神経症にも陥ることはないだろうと考えます。
2015.07.19
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幼い男の兄弟が家の中でそれぞれのおもちゃで遊んでいます。お兄ちゃんが弟のおもちゃが面白そうだったのか、横取りしてしまいました。弟は、ワーンと泣き叫び、地団駄を踏みながら、握りこぶしを作ってお兄ちゃんを殴ります。どこにでもある兄弟げんかです。その時お母さんはどんな対応をするでしょうか。お兄ちゃんには、「弟が遊んでいるおもちゃを勝手にとってはダメじゃない」「喧嘩するんだったらおもちゃは片付けるよ」「お兄ちゃんなんだから弟と仲よくしなさいよ」なかにはお兄ちゃんが悪いといってぶったりする人もいます。弟には「いつまでもワンワン泣かないの。泣きやまないんだったら家の外に出て泣きなさい」などといいます。この対応は如何なものでしょうか。これは兄弟げんかという現象を見て親の価値判断を押し付けているような対応です。また親の不快感を払拭するだけの対応にも見えてきます。森田理論学習をしている人はこんな対応はできないでしょうか。泣きわめいている弟に向かって、「おもちゃをとられて腹が立ったんだよね。さぞかしくやしかったんだよね」これは泣き叫んで大暴れするにいたった子どもの気持ちを察して、子供になり変わって言葉に出しているのです。すると子どもは「そうだよ。お兄ちゃんはずるいよ」などというかもしれません。こういう対応ができると、子供はとても素直になると思います。なぜか。腹が立つ、悔しいという感情はどちらかというと、ネガティブでマイナスの感情です。そのような感情を母親が無条件に受け入れてくれたということが肝心なことです。子どもになんともいえない安心感を与えると思うのです。親は子供の感情を否定しないでそのまま受け入れてくれているのです。こういう体験が積み重なると、子供はネガティブでマイナス感情も、親を信頼して安心してストレートに出すようになります。隠さなくて、親の前で素直に出すことが習慣化されてきます。ネガティブでマイナス感情には、不安、恐ろしい、悲しい、腹が立つ、嫉妬する、恥ずかしい、イヤだ、イライラするなどいろいろとあります。こんな感情を親がダメ出しをしないので安心して出せるのです。これを身につけると、ストレスや葛藤がなくなりとても楽に生きてゆけるようになります。生きる土台・基礎がしっかりと出来上がったようなものです。でも残念ながらこんな親はあまりいません。子どもを叱る。非難する。押さえつける。否定する親はたくさんいます。それが一般的かもしれません。すると子どもはネガティブでマイナス感情は、親には決して受け入れられないのだと思ってしまいます。そのうち、友達にも受け入れられない。社会にも受け入れられない。精神的に不安定な状態になります。ビクビクハラハラしていつも何かに怯えているようになるのです。心が休まることがありません。これが悪い感情を抑圧して、我慢したり、耐えたりすることの弊害です。そういう状態で生きていくことはとてもつらいことなのです。生きていることの楽しさや意義は見つけることができなくなります。森田では感情にはいいも悪いもない。自然現象である。だから抑えつけたり、拒否したり、無視したり、否定しなくてもよい。どんなに醜い感情でも自分に責任はないし、自由自在にコントロールすることはできないと言います。私たちにできることは、そのまま味わうことだけです。意味づけをしたり、価値評価をする必要は全くないのです。親はそのことを後押ししてやればよいのです。つまり自分の価値観を口に出す前に、子供に湧きあがってきた感情の交通整理をしてあげることです。すると子どもは、あらゆる生活場面で、ネガティブでマイナス感情を抑圧しなくなります。イヤな感情を隠す必要がなくなる。いい訳をしなくなります。迷いがなくなり、他人に気を使わなくてもよくなります。疑心暗鬼の気持ちがなくなります。余分なエネルギーを使わなくてすみますからとても楽な生き方ができるようになります。これが子供を育てるためにはとても重要なことです。あらゆる感情を素直に認めて味わうということはとても意味のあることだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.18
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幼児期に両親が子どもとどうコミュニケーションをとってきたかということは、その後の子どもに大きな影響を与えている。例えば弟や妹が生まれる。自分ひとりのときはみんながかまってくれてその愛を独り占めできた。ところが弟や妹が生まれると、そちらの世話にかかりきりになる。自分のことは以前ほどかまってもらえなくなる。するとどんなことが起きるのか。「やきもち」をやくようになるのである。嫉妬するようになるのである。二歳のあきら君に弟が生まれた。あきら君は、お母さんに抱かれた弟を見るとやきもちをやき嫉妬するようになってきた。あきら君はその気持ちに突き動かされて、弟に蹴りを入れるようになりました。お母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんがケガをするのではないかと気が気ではありません。必死に言葉で教えます。「赤ちゃんは弱いんだから、絶対に蹴ってはいけません」「あなたはお兄ちゃんなんだからやさしくしてあげてね」両親が何度話して聞かせても、あきら君の弟への攻撃は止みませんでした。しだいに両親は、弟への危険を回避するために、あきら君を叩くようになりました。両親はきちんとしつけなければと焦って、たたかれて泣き叫ぶあきら君を「ごめんなさい」が言えるまで、風呂場に閉じ込めてしまうようになりました。そのうちなかなか「ごめんなさい」が言えないあきら君がかわいいと思えなくなりました。あきら君は、お母さんが他の人との会話で「あきらのやきもちがひどくて、こまっているのよ」という言葉を聞いて、自分の身体を流れている感情はやきもちだということが分かります。でも同時にこの「やきもち」という感情は大人にはけっして受け入れてもらえないマイナスの感情なのだということも学習します。嬉しい、楽しいといった感情はいくら出してもよい。でもマイナスの感情、ネガティブな感情は決して人前に出してはいけない。そのような負の感情は抑圧し、決して表出させてはならないのだということも学んでしまっているのです。頭では弟をいじめてはいけないと思っても、実際には弟がお母さんに抱かれていると嫉妬心が自然にあふれだしてしまう。自分ではどうすることもできない。あきら君は二つの気持ちの狭間で混乱状態に陥ってしまっているのです。普通子どもたちはこういう接し方を絶えず受け続けて成長していくのです。するとマイナス感情、ネガティブな感情を自分では受け入れることができない人間になります。抑圧し、無視し、拒否し、否定するようになるのです。また他人のそういう感情も許すことができない。八方ふさがりの状態です。これがもし両親があきら君の身体の中にやきもちや嫉妬心がめらめらと燃え盛っていると認めてあげることができるとどうでしょうか。つまりあきら君の気持ちに寄り添うようにするのです。なにはさておき、あきら君の気持ちを汲んであげるようにするのです。あきら君の気持ちが分かると、弟と同じくらいあきら君も抱っこしてあげるようになるのではないでしょうか。「あきらも今度生まれてきた弟と同じくらいかわいいのよ」と言葉をかけてあげることができたのではないでしょうか。少なくともあきら君を叱る、叩く、閉じ込める、嫌いになるという方向には向かなかったのではないか。子育てではここがとても大切だと思います。これは子育てに限りません。マイナス感情、ネガティブな感情も否定しないで、受け入れていくということが人間の成長過程ではとても重要なのだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.17
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大人になってから次のような癖がある人がいます。爪を噛む。指を口にくわえる。髭を抜く。髪を抜く。白髪を抜く。私も無意識のうちにそんなことをしている時があります。ビデオなどを見ていると子どものように見えます。この心理を調べてみました。爪を噛むというのは「自傷行為」だとありました。無意識のつもりでも、自分を傷つけようと脳が命令をおくっているのだそうです。そういう心理が働いていることが不気味です。「自傷行為」の代表的なものに、リストカットがあります。これは命にかかわる大変な行為です。周りの人は本人を責めます。でも問題の核心はそこにはありません。本人は、命に引き換えにしてもかまわないほどの苦しみを抱えている。誰でもいいから助けてくださいというメッセージを発しているのです。そこに焦点を当てないと問題解決にはなりません。爪を噛む、指をしゃぶる等は命にかかわることはありませんが、心理的にはそれに近いものがあります。他者との人間関係、夫婦、親子の人間関係、仕事や勉強、進学や就職、健康、経済的な問題などで自分の思い通りにならないという問題を抱えているのです。何らかの心の苦しみ、ストレス、不平不満、イライラ感、情緒不安定等を抱えています。爪を噛む、指をしゃぶるというのは、不衛生である。見苦しい。等ということはありますが生活に支障があるというわけではありません。ですからどうしても治すということは必要ないのではないかと思います。でも、その行為に学んで自覚してほしいことが2点あります。これは私自身に言い聞かせていることです。第1はそのストレスは、自分が作り出して自分で勝手に苦しんでいるだけではないかということです。自分を抑圧して他人中心の生き方をしていて苦しい。「かくあるべし」思考方法で現実との葛藤を生み出している。あるいは「完全主義」「白か黒といった極端な二分法的思考」このパターンにはまり込むと途端に葛藤や苦しみが出てきます。この点、私は森田理論学習と実践を心がけている関係で多少なりとも改善できていると思っています。改善できるのに、ストレスの生成原因を知らないで苦しんでいるのはもったいないと思います。第2にイライラの原因はせっかちであるということが関係していると思っているのです。例えば本能的な欲望が湧き起ってくるとすぐに欲望を充足させたい。そのために衝動的になることもある。食欲、性欲、物欲、睡眠など少し我慢する、ちょっと耐えるということが苦手なのである。自制心が働かないで、欲望の暴走が起きているのである。この場合後で後悔することがよくある。また不安や恐れがあると一刻も早く取り除きたい。取り除くことができないとすぐに逃避する。逃避するから、ますます注意が向いて悪循環に陥る。つまり気分本位で行動しているのである。動物と同じ行動パターンである。これは、欲望の不安の調和がとれていない。森田でいうバランスが崩れている。白か黒といった極端な二分法的思考に翻弄されている状態です。バイク、スキー、ヨットでも右に曲がろうとすると、遠心力に抵抗するために右側に体重をかけていくではありませんか。すると遠心力とのバランスがとれてきてスムーズに曲がれる。これを反対に、左に体重をかけると目的の達成は困難となります。大事故につながります。運動ではよく分かるのですが、心の問題となると、よく分からないのか全くバランスがとれていません。私が「やじろべい」で、欲望と不安のバランスの意識付けを常に心がけて生活しましょうと提案している真意はここにあります。
2015.07.16
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集談会にはうつ病、うつ状態の人がよくお見えになります。かくいう私もうつで薬を飲んでいたことがあります。町沢静夫医師がそういう人に対するアドバイスをされている。我々にも参考になるのでご紹介します。1、 安心感を与える。たとえば、「今はトンネルの中にいるようなものです。暗闇が続いて、なかなか出口が見えてこない。でも所詮トンネルなのですから、じきに明るいところに着くものです」「今までの経験からすると、うつ状態いうのは、ある限られた期間しか続かないものです」「うつ病というのはエネルギーのなくなった状態です。」「もしエネルギーがないならば、あなたは普通の活動ができないことは当然でしょう。でもしばらく休めばエネルギーが蓄積され、どんどんよくなっていくのです。だから自分は治らない、等といった考えを捨てるべきであり、あまりくよくよすべきではありません。うつ病が改善すれば、あなたはすぐにもエネルギーが取り戻せるのです」2、 うつ病患者は、特に自尊心の低下や自己不確実感で悩んでいる。自己嫌悪、自己否定している。集談会ではしつこくならないように温かい言葉をかけて受け入れてあげることです。うつ病患者は、自分がうつ病にかかってると自覚することで、うつ病そのものを嘆き、ますますうつ病を増悪させている面があります。この点について指摘しています。また自虐的な面を持っています。その傾向を緩和するように助言しています。「あなたは自分にあまりにも厳しい。それはあなたが考えている目標が、あまりにも理想的すぎるからかもしれませんね」3、 うつ病患者は自分の無力感に打ちひしがれている。無力感を救うためにも、ある程度依存して甘えを受け入れてあげることも大切です。4、 うつ病は何らかの喪失体験が引き金になっている。肉親や知人の死、財産の喪失、仕事の喪失等です。このような喪失や失敗を自分のせいにして、自分を責めているのです。そのことを指摘して、公平な見方に是正してあげることが大切です。5、 うつが改善していく過程について患者さん自身は気がつきにくい。うつ病が改善していく兆候を知らせてあげることは、患者さんにとって大きな力づけとなるものです。6、 家族の協力が必要です。家族は、時には患者を「怠け者」と見ることがあります。これを改め、うつ病のことを家族に分かってもらい、協力してもらうことです。家族全体が抱えている問題が、家族の中の特に弱い人に症状となって現れていることを分かってもらう。7、 医師としては薬の説明をきちんと行う。最近の抗ウツ剤の進歩は目覚ましい。副作用のことは特によく説明する。最初は眠気、ふらつき、便秘、口渇といった副作用があります。2,3週間後に抗ウツ剤の効果が出てくるが、その以前には副作用が先に出てくることを説明する。(日本人に合った精神療法とは 町沢静夫 日本放送出版協会 84から88ページ引用)集談会でうつの方の話を聞く場合、こうした予備知識をもって聞くことは役に立つと思います。特に集談会に参加されるような方は、薬が効かない、長期にわたって軽度のうつ状態が慢性化している人が多いようです。そういう場合、医療だけに頼らずに、軽めの森田療法を応用することで効果があると考えます。
2015.07.15
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2015年7月の「生活の発見」誌に、名文発掘というのがある。今回は長谷川洋三氏の「不安を活かす」である。これは不安と欲望の関係についてとても分かりやすく説明されている。私はこの部分をコピーして永久保存版とした。私たちは不安に対して2つの態度をとる。一つは不安を取り除いたり、逃げ出すという行動をとる。もう一つはそれをごまかしたり、紛らわせたりする。いずれの道に進んでも不安はどんどん増悪していく。不安が強ければ強いほど、不安も強いのです。欲望と不安は形と影だというふうに考えたらよい。欲望と不安は影と形で一つのものなのです。それなのに私たちはこの不安があってはならない。邪魔者扱いして、影を取り除こうとしている。自分の影が地表に映っていて、その影を竹ボウキで一生懸命掃こうとする。しかし、掃けども掃けども影を取り除くことはできない。神経質者は「生の欲望」が強く努力家なわけで、10年も20年も自分の影を掃くために、一生懸命やっているわけです。不可能を可能にしようとしている。その努力は無駄になり、エネルギーの消耗につながる。精神上の不安とか恐怖感というものは、用心しなさいというサインなのです。不安や恐怖、あるいは身体上の違和感というものは、私たちが生存していくための、社会に適応していくための警戒サインであり、防衛反応であるということを知らなければならないのです。私たちは認識の誤りから努力方向の大きな誤りが生じたわけですが、まずは認識を正すことです。影を掃くことをやめて、この不安という影を通して、自分の本当の欲求はどこにあるのか、本当の欲望はどこにあるのかをしっかりと見極めてほしい。一言付け加えると、欲望と不安のバランスをとるためには「やじろべい」を机の前に置いたり、天井からぶら下げて意識付けを行うことが効果をあげる。絶えずバランスの意識付けを行わないと、欲望のことはすっかり忘れて不安との格闘に向かいやすいのではないかと思う。一方的に不安に振り回される前に、バランス、調和をとることに多少注意を振り向ける。また現に神経症の症状で苦しんでいる人は、欲望なんてありませんという人がいる。それは不安に注意が向き過ぎて隠れてしまっているのだ。不安があれば大なり小なり欲望がある。思いつかない人は子どもの頃を思い出してほしい。大人になったらこんな生活をしたい。こんな仕事をしたい。こんな夢を実現したい。こんな家庭を作りたい。こんなところに住んでみたい。一つや二つはあったことと思う。それが自分の欲望を探る手がかりとなるかもしれない。
2015.07.14
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酒は言うまでもなく大きな効用があります。適度に飲めばこんなに人生を楽しくしてくれるものはありません。「酒の十得」にはこうある。1、 一人淋しいとき、酒は自分を励ましてくれる。2、 仕事で疲れた体を安らかにしてくれる。3、 イヤなことを忘れさせてくれる。4、 心の愁いを払ってくれる。5、 体に活気をみなぎらせる。6、 お祝いやお見舞、土産などに持っていくと喜ばれる。7、 健康を保ち、延命の効果がある。8、 人間関係を打ち解けさせる。人の心を開く。9、 素晴らしい人との出会いがある。10、 寒い時に体が温まる。しかし、酒は飲みすぎると害になる面もあります。1、 肝臓などの内臓を痛める。血管を痛める。脳細胞を破壊する。2、 早死にをする危険がある。3、 散財の危険性がある。すると経済的に苦しくなる。4、 二日酔いになると、次の日無駄に過ごすことになる。5、 酒の席での無礼講は、あとあと問題を起こす。6、 けんか騒ぎを起こすことがある。7、 家族の軋轢を生むことがある。8、 好色になって、人に迷惑をかけることがある。9、 飲酒運転で重大事故を起こす人がいる。10、 意識が無くなり、物を紛失したり、記憶喪失に陥ることがある。昔から、酒のことを「狂水」「地獄湯」「狂薬」「万病源」等ともいいます。ここでなにが言いたいかというと、よいところばかり挙げて褒めまくるのも、悪いところばかり並べ立ててけなすのもどちらも間違いだということです。大事なのは両方を過不足なく見て調和をとるということである。どちらかに大きく片寄るという事は厳に慎まないといけない。森田理論では両面観、精神拮抗作用に結びつく考え方である。
2015.07.13
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7月5日の投稿記事は下記の投稿に替えてください。この方が分かりやすいと思います。「認識・認知の片寄りの修正手法」についてみてゆきましょう。作業1不安や不快の感情のもとになった出来事、事件について詳しく書き出してみましょう。作業2自分の物の見方、感じ方、考え方の癖についてありのままに書き出してください。また、他者にどんなことをしゃべったのか。どんな行動を起こしたのか。具体的に書いてください。作業3自分の認識・認知の片寄りを見つけましょう。この手法は、自分のものの見方、考え方、行動の仕方は、認識・認知の片寄りやゆがみがあるのではないかという前提にたつことが大切です。色眼鏡をかけてみているのではないかと考えてください。その自覚に立ってこそこの手法は成り立ちます。できるだけ多くの片寄りやゆがみ見つけることが大切です。その時に、手掛かりとなるのは次の項目です。参考にしてください。a、 事実を無視したり、軽視していることはありませんか。b、 先入観で一方的に決めつけるようなことはありませんか。c、 論理的に整合性はとれていますか。とるに足りないようなことを、極端に大げさに考えてはいませんか。d、 よいか悪いか、白か黒か、100か0かといった二分法的な思考方法をとっていませんか。e、 第一の感情、直感、森田でいう「純な心」を十分に味わっていますか。f、 「かくあるべし」という視点から見ていませんか。g、 完全主義、完璧主義で見ていませんか。h、 悲観的、ネガティブ一辺倒な見方になっていませんか。i、 気分に振り回されて、やるべきことからすぐに逃げ出したり、あきらめたりしていませんか。j、 弁解、自己擁護、自己否定、他者否定、社会批判をしていませんか。作業4認識・認知の修正をしてゆきましょう。別の見方、逆の考え方、反対の視点を思いつく限り考え出してください。選択肢を広げて思いつくまま書いてみてください。マイナス面だけでなくプラス面も書いてください。ネガティブな考え方にはポジティブな考え方も書いてみてください。また、悲観的な状況が現実となった場合、最悪の事態を想定してみてください。このようにして、自分の考え方、ものの見方の癖を自覚していくのです。一つの見方しかできなかったものが、2つ、3つと多面的に見れるようになることが大切です。一つ例を載せておきます。森田先生の入院生の実例です。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入った時、突然猛犬が飛び込んできて、一羽のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった。誤った考え、行動(物の見方、考え方の癖を見つける)その方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになったと弁解された。自分のせいではない。だから自分のことを叱責しないでほしい。寛大に許してほしい。問題点(認識・認知の片寄りに気づく)この方は、とっさに目の前でウサギがかみ殺されて、ぞっとした戦慄が走ったことだろう。でも次の瞬間、そんな目を覆いたくなるようなおそろしい感情は無視しました。そして、責任を転嫁して自分が叱責されたり、軽蔑されたりすることから身を守ろうとされました。どうすればよかったのか(認知の修正)事実から目をそらさないこと。出来事に対しても湧き起ってきた感情に対しても。この方は猛犬のことは何ら触れられていない。普通なら棒きれでも持って犬を追いかけるのではなかろうか。そしてウサギを取り戻すことを考えるのではなかろうか。そして湧きあがってくる感情と向き合う。自分の不注意によってウサギが命を落とした。かわいそうなことをした。無念だ。ここに焦点を合わせるべきだった。事実に向きあっていれば、犬の飼い主に放し飼いの責任追及をする。さらに野犬対策について取り組むことになるかもしれない。また、森田先生に報告する。説明をして謝る。今度はこんなことが起こらないように内鍵をとりつける。殺されたウサギの始末をする。益々創意工夫するようになる。言い訳ばかりに注意を向けていると、自分が許してもらいすればよい。それ以外のことは、どうなってもかまわない。自分の関知するところではない。そして、もう二度とこんな目に合わないように、ウサギの世話は一切しないという態度になってしまうのではないか。この作業は一人でやる方法もあります。一人で行う場合は、ノート等に書き出して、反駁をしてゆきます。物事を客観的に両面観で見ることができるようにもってゆきます。次に人から反駁をしてもらう方法があります。その場合は、素直になって聞くことです。反発したくなっても、まずは我慢して聞いてみることです。さらによい方法があります。具体的な事例を出し合って、何人かで検討してみることです。集談会などの学習の場を利用するとよいでしょう。さまざまな反駁が出て、多くの気づき、発見が生まれる可能性があります。最終的には、自分の普段の生活の中で、自分の考え方は一面的ではないか。短絡的で投げやりになっていないか。ネガティブ、悲観的ではないか。先入観や決めつけで判断していないか。「かくあるべし」で自分を追い込んでいないか。自己検証ができるようになる能力を少しずつ獲得してゆきます。認識・認知の誤りは数多くありますので、一つ一つ先輩会員の協力を得て検討してゆきましょう。課題・最近のあなたの不安や恐れの感情が湧き起った出来事を詳細に書き出してみてください。・それに対して相手や自分に対してどんな対応、言動をとりましたか。・その中に認知の誤りはありませんか。上記aからjにあげたところを参考にして考えてみましょう。・もし認知の誤りがあれば、別の見方、逆の考え方、選択肢を増やして考える。プラス面も見る、ポジティブ面も見る。等で認知の修正を行いましょう。・集談会などでもこれにそって取り組んでみましょう
2015.07.12
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この映画に樹木希林がでている。樹木さんは全身ガンだそうだ。とてもガンを患っているようには見えない。樹木さんの孫娘も出ている。父親の本木さん似と見た。樹木さんの役どころは、若いころにらい病にかかり一生療養所暮らしの老女を演じている。監督の河瀬直美監督は、撮影期間中ずっと役になりきってくださいと言われていたそうだ。休憩時間などもその姿勢を求められて大変だったようです。この老女はどら焼きに入れる「あん」作りにはこだわりを持っているのだ。小豆に語りかけように、手間暇をかけて「あん」作りをする姿に胸をうたれた。ものそのものになりきるというのはこのことだなと思った。おかげで行列のできるどら焼き屋になった。最後にこの老女の言葉を紹介する。人間見るものがあって生まれてきたのだ。その見るものを見ただけでも生まれてきた価値がある。みんな何らかの苦悩、運命を背負って生まれてくる。らい病になるのもそうだ。私たちの神経症もそうだ。それに出会っただけでも、生まれてきた価値があるということであろうか。感動した映画の紹介でした。
2015.07.11
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私たちの所属している森田理論学習の自助組織は、役員さんのご努力にもかかわらずどんどんと縮小している。自助組織の今度の展開を考えてみたい。自然の流れに任せておくと、10年後には参加者はかなり減っているだろう。会は解散しているかもしれない。そうなると全国的な活動はできない。連絡協議会ぐらいで統一性を保っているかもしれない。でも安心してほしい。全く無くなるということは考えられない。森田理論学習の潜在的能力はかなり高いものを内蔵しているからである。このブログでも毎日300人程度の閲覧者がいるということは、期待の大きさを感じている。神経症に限っては他の心理療法に比べて格段に優れている。そんなものが根絶やしになることは考えられない。そんな中でも変化に早期に対応した集談会は確実に残っていけるだろうと思う。そんな集談会が全国に点々と残っていくだろうと思う。そこには先導するすぐれた人もおられるだろう。でも森田理論を集団学習したくても、地方では参加が困難になる。年に何回かは時間をかけて生き残った集談会に参加することになる。後はネットを利用したオンラインでの学習会。ネット掲示板などで交流を続けていくことになるのではなかろうか。そして一年に1回ぐらいは親睦会を開催するようになるかもしれない。今月号の月刊機関誌「生活の発見」に、毎月18名から20名の参加者がある集談会が紹介されていた。驚いた。時代を先取りした集談会が出始めているのである。この集談会も以前は5名から6名だったという。どこが違うのか。この集談会の特徴は、仲間内の集談会から外に開かれた集談会へと変身してきたという。一集談会の活動を超えた学習や交流をしているのである。そのひとつはこの集談会に所属している人が、ネットを使ったオンライン学習会の主催者になっていることだ。オンライン学習会は全国規模の森田理論の学習会である。このオンライン学習会は、私もインストラクターとして参加しているが、受容と共感のもとで親密な人間関係が生まれる。その学習を終えた人たちに自分たちの集談会の掲示版を解放してフォローしている。オンライン学習会後にも交流が継続しているのである。また全国規模の機関誌を独自に発行している。つまり近隣の人たちだけの集まる集談会ではないのである。いわばネットを利用して、全国規模の学習と交流の仕組みを作り上げているのである。こんな活動を行っているのは、全国広しといえどもこの集談会以外にはない。素晴らしい仕組みを作り上げられたものだ。しかしこれは献身的な世話人が継続的に努力しているからこと成り立つものである。かなりの精力をつぎ込んでおられることと思う。参加されている方は大変感謝されていると思う。でも仕事や家庭、健康上の理由によって世話人の数名がリタリヤするような事態になると元の木阿弥になる可能性も考えられる。今後はさらに強固なバックアップ体制を考える必要がある。それは一集談会を超えてのバックアップ体制も考慮する必要があるかもしれない。また今そこに参加されておられる人は多分仲間意識だけで参加されているだろうと思う。仲間意識だけではいつでも容易に崩壊する可能性を秘めている。仲間意識の中から会員意識を育てることがこの次に必要になってくるのだろうと思う。常に役割意識を育てることが大切なのである。いずれにしても、森田理論学習の自助組織としては、既存の学習方法、交流方法だけでは通用しないということである。さらに一旦作り上げた仕組みも絶えずイノベーションを図ってゆかないと、必ず行き詰まりが出てくることを心しておきたい。集談会の運営も一度うまくいったからといって、同じことを続けているとマンネリになって人は寄り付かなくなっていくのである。
2015.07.11
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事例3森田先生の入院生の実例です。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入った時、突然猛犬が飛び込んできて一羽のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった。誤った考え、行動その方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになったと弁解された。自分のせいではない。だから自分のことを叱責しないでほしい。寛大に許してほしい。問題点この方は、目の前でウサギがかみ殺されて、ぞっとした戦慄が走ったことだろう。でも次の瞬間、そんな目を覆いたくなるようなおそろしい感情は無視しました。そして、責任転嫁して自分が叱責されたり、軽蔑されたりすることから身を守ろうとされました。どうすればよかったか事実から目をそらさない。そして事実から湧きあがってくる感情と向き合う。自分の不注意によってウサギが命を落とした。かわいそうなことをした。無念だ。ここに焦点を合わせるべきだった。すると、今度こんなことが起こらないように内鍵をとりつける。森田先生に報告する。陳謝する。殺されたウサギの処理。野犬対策について取り組むことになるかもしれない。言い訳ばかりしていると、自分が許してもらいすればよい。後のことは、どうなってもかまわない。自分の関知するところではない。そして、もう二度とこんな目に合わないように、ウサギの世話は一切しないという態度になってしまう。事例4一旦停止の場所に車で通りかかった。でも車がきていないようだったので、徐行しながら通り過ぎた。すると、パトカーがけたたましい警報音を鳴らして、「そこの車すぐに停止しなさい」といって停止させられた。誤った考え方、行動極悪な犯人扱いされて、無性に腹が立った。人の弱みに付け込んで許せない。警察は他にやることはないのか。切符を切って検挙件数を競い、人に経済的負担をかけて、平気でいられる神経が分からない。またいい訳をする人もいる。私は確か一旦停止した。間違いないと言い張るのである。でもよく考えると悪意で事実を捻じ曲げる警察官がいるだろうか。南米ではともかく、ここは日本なのだ。問題点自分が交通法規違反したという事実は蚊帳の外になっている。警察が監視しているからこそ、抑止力が働き、交通事故が防げている。そうした面は全く考えていない。自分の不快な感情のみを問題にして、そのイライラ感を払しょくすることにばかり神経を向けている。どうすればよかったか。事実を直視すること。事実を素直に認めれば、反発する理由はなくなる。いい教訓として、今後の運転に活かせれば、安い授業料を払ったようなものだ。一旦停止するところは分かっていた。それを車がいないので事故は起こらないはずだ。勝手に決めつけていた。またこういうところは警察が重点的に警備を強化しているという考えが抜けていた。ここでは初一念から出発すべきであった。「しまった。うっかりしていた」自分を否定することはない。車を常時運転している人で、交通違反キップを切られた事のない人は極めてまれなケースだという。初一念から出発すれば次に活かせる。気分本位になると、警官に悪態をつく。なかには違反キップを丸めて投げ捨てたりする人もいる。すると公務執行妨害で警察署まで出頭しなければならなくなるのである。
2015.07.10
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7月7日の「不安・恐怖の受容手法」に記載漏れがありました。ステップ5の部分です。追加のほどよろしくお願いいたします。
2015.07.09
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認知の誤りについて具体例で見てゆきましょう。事例1森田先生が大切にされていた皿を落として割った。誤った考え方、行動きっと先生に叱られるだろう。そうなると怖い。だから自分はこの件は全く知らなかったことにしておこう。この皿を隠しておこう。ゴミと一緒に出してしまおうか。それとも正直に告白して、弁償してしまえばよい。それを見ていた人にも、見ていなかったことにしてもらおう。お願いしてみよう。それにしても自分はいつもそそっかしくて失敗ばかりをする。軽率な行動をとった自分が許せない。森田先生もこんな時は寛大になり、慰めて許してくれればいいのに。問題点この人は責任回避のことばかり考えている。割れた皿が壊れておしいことをしたという気持ちはない。自己防衛ばかりで見苦しい。事件が発覚しなければいい。分からなければよい。自分の責任追及を免れればいい。その結果、事実を隠したり捻じ曲げようとしている。また自己嫌悪に陥り、他者批判をしている。どうすればよかったのか初一念で行動する。しまった。取り返しがつかない。どうしようか。なんともいえない気まずい思いを十分に感じてみる。そのうち、割れた皿を片づける。先生に正直に報告する。そして謝る。なんともいえない感情を味わっていないと、次の行動には移れない。事例2自分の職場の同僚たちが女子社員全員を連れて居酒屋に繰り出した。ところが後でわかったのだが、自分だけのけものにされていた。謝った考え、行動無性に腹が立った。どうにも腹の虫が収まらない。どういう料簡なのだ。なぜ自分を無視するのだ。仕返しをしないと気がすまない。次の日の朝、同僚に悪態をついてしまった。そしてもう同僚たちとは口をきかないと決めて、だんまり戦術に出た。問題点爆発して一時的に楽にはなったが、人間関係がますます悪化してしまった。だんまり戦術も職場の雰囲気がますます悪くなった。一人孤立してしまった。そのうち、もうどうにでもなれという気持ちになった。こんな会社いつでもやめてやるという気持ちになった。自分の生活を左右するような大問題に発展した。実際には、こんなことで退職すると家族が路頭に迷うことになる。どうすればよかったのか自分だけのけものにされたというのは事実だ。どうしてのけものにされたのかその理由を知りたい。自分で思い浮かぶ理由はないか。ないことはない。考えてみれば、同僚や部下のことを思いやることが少ない。自分の思ったように仕事をテキパキとしていないと嫌味を言うことがある。また真面目だけが取り柄で、ジョークの一つも言えない。パチンコ、競馬、マージャンの話で盛り上がっている時に知らん顔をして仕事に取り組んでいるかのような態度をとっている。煙たがられているのかもしれない。考えられるのはそんなところだ。でも、自分の推測ばかりでは間違っているのかもしれない。後日分かったことは、飲み会は関連会社の営業マンから提案があったそうだ。関連会社の接待だったのだ。その時私には声かけをしないでほしいと言われたそうだ。仕事でお互いに険悪になったトラブルを抱えており、今は一緒に飲もうという雰囲気ではないと釘を刺されたそうだ。同僚たちもやむなく提案を受け入れて、こっそり出かけたそうだ。同僚たちには自分に対する悪気はなかったのだ。何だ。それなら自分もよく分かる。自分だってその人とは今は一緒に飲もうとは思わない。その事実が分かっていたら、同僚にあたり散らすことはなかった。でも後の祭りだ。かえってお誘いが無い方が好都合だったのに。それなのに、真実を知る努力をしないで、憶測で事実を作り上げ、それに基づいて行動してしまった。事実をつかまないうちに、見切り発車で行動してしまった。取り返しのつかない失態を演じてしまった。前提が間違った上の行動は、見当違いの方向に向かってゆきます。事実こそが神様だと思います。事実を軽視してはいけないのだと思います。蛇足ながら、寛大な同僚たちのおかげで会社はやめずにすみました。私は一旦嫌いになった人とは絶対に縁りを戻そうとは考えないのです。普通の人は、その時は嫌いになっても、後日また仲直りができるようです。融通がきくのです。うらやましいです。また私の考え方には、気分本位である。論理的飛躍があるというのも問題だと思いました。
2015.07.09
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7月3日の投稿記事の「療法」を「手法」に変えて再度説明します。集談会で森田理論学習をする目的はなんでしょう。神経質性格を持った人は、心配性で何かにつけてとらわれやすい。とらわれてしまうと日常生活に支障が出てきます。最悪神経症に陥ってしまいます。またとらわれているときは、慢性的な抑うつ状態になり、生きづらさを感じるようになります。とらわれの強い人はとらわれを無くしたい。できるだけ小さくしたい。生きづらさを抱えて苦しんでいる人は、その苦しみを無くしたい。できるだけ苦しみを軽減したい。これらの問題解決のために次の4つの手法を提案いたします。これは森田理論、認知的アプローチ、行動的アプローチを組み合わせたものです。問題解決のためには、これらをそれぞれ単独で学習・体得するのではありません。それぞれ各手法のすぐれたところを取り入れて、バランスよく学習・体得するのです。いわば、4つの手法の総合力で神経症のとらわれや生きづらさを改善していく方法です。その4つの手法とは次のものです。1、欲望と不安のバランス回復手法2、実践・実行手法3、認識・認知の誤りの修正手法4、不安・恐怖の受容手法簡単に言うと、「バランス手法」「実践手法」「認知手法」「受容手法」の4つです。これをイメージするために大きな円を鉛筆で書いてください。円の一番上に「実践手法」と書いて丸で囲んでください。一番下に「受容手法」書いて丸で囲んでください。円の左に「バランス手法」と書いて丸で囲ってください。円の右に「認知手法」と書いて丸で囲ってください。不要な線は消してください。4つが四方に書けましたか。この中に、神経症のとらわれ、神経質者の生きづらさが入っていると思ってください。最初は円に目一杯膨らんでいます。でも、この4つの手法を用いて、学習を積み重ね、体得を繰返してゆけば、とらわれや生きづらさはどんどん勢力を失ってしぼんでゆきます。4つの手法がそのふくらみを突き破って空気が抜けていくようなイメージです。完全にはなくならないでしょうが問題にならない程度に小さくなっていくでしょう。さてこの4つの手法は頭で理解しただけでは不十分です。実際に生活の場に応用してこそ意味があります。ポイントを説明します。欲望と不安のバランス回復手法・現在あなたは不安と格闘していますか。不安を抱えたまま生活ができますか。それともまだ無理でしょうか。・ところで、あなたの今現在の欲求や欲望はなんですか。・欲望と不安のバランスは意識していますか。バランスはとれていると思いますか。実践・実行手法・今のあなたはどの行動レベルにありますか。自分の行動レベルに精一杯取り組んでください。認識・認知の誤りの修正手法・最近の不安や恐れの感情が湧き起った出来事を詳細に書き出してみてください。・それに対して相手や自分に対してどんな対応、言動をとりましたか。・その中に次のような認知の誤りはありませんか。(事実の軽視、「かくあるべし」的思考、完全主義、悲観一辺倒、先入観での決めつけ、大げさに拡大している、気分本位、自己否定、他者否定など)・もし認知の誤りがあれば、別の見方、逆の考え方、選択肢を増やして考える、プラス面も見る、ポジティブ面も見る。等で認知の修正を行いましょう。不安・恐怖の受容手法・現在5つのステップのうちどれに力を入れていますか。自分の重点を決めて取り組んでみましょう。これらを、期間を決めて振り返ってまとめてみてください。例えば日記に書く。一週間に一回、あるいは集談会の前に振り返ってみる。そして経過を集談会で発表してみる。あるいは先輩会員に聞いてもらう。そして気づいたことを教えもらう。また、他人の体験もよく聞いて参考にする。また、この4つの手法を集団で学習すると効果があります。特に「認識・認知の誤りの修正手法」等です。こういう学習と実践を続ければ、1年もすれば顕著な効果が現れてくると確信しています。
2015.07.08
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最後に「現実や事実の受容療法」に見てゆきましょう。その前に確認しておきたいことがあります。自分の身の周りに起きることをすべて受容するということではありません。不安に学んですぐに手を出して対策を立てなければならないこともあるということです。例えば自分の不慮の事故に備えて生命保険に加入して家族の生活を保全するなどといったことです。また、地震に備えて家具を固定しておく。耐震化工事をしておくといったことなどです。私たちの身の回りに起きる出来事の中にはそういう部分も含まれているということです。それらは不安を受け入れるのではなく、不安に学んで早急に対策を立てることが必要です。それ以外で、手を出すと事態がますます悪化すること。人に大きな苦痛や迷惑をかけること。どうすることもできない不安や不快感、恐れや違和感などは手を出さないで受け入れてゆきましょうということなのです。前提として事実は4つに分けて考えてみましょう。その方が整理しやすいと思います。1、 自然に湧き起こってくる感情のことです。台風が来たり、雨が降ったりする自然現象と同じです。私たちに意思の自由はありません。ですから、どんなに醜悪な感情が湧き起っても責任をとる必要はありません。2、 自分の容姿、性格、素質、能力、境遇等です。また自分たちの引き起こしたミス、失敗、過失などです。3、 他人の自分対する仕打ち等です。また相手の容姿、性格、素質、能力、境遇等です。自分の思い通りに変えること難しいですし、むしろ素直に認めることの方が大切です。また他人の引き起こしたミス、失敗、過失などです。いかに理不尽なものであっても、最終的にはその事実を受け入れることが大切だと思われます。4、 台風、地震、火山活動等の自然災害、経済的な危機、紛争、伝染病の蔓延等です。できる限りの備えをしておくことは大切ですが、どうにもならないことは最終的には受け入れていくしか手の打ちようがありません。その上で、不安や不快感などはどう受け入れていくのがよいのか。第1ステップ 事実をよく観察する。比較してもよいので、比較して違いをよく把握する。事実を両面観で見ていく。私たちは自分の周りに起こった出来事をよく観察しないで、いままでの経験の記憶をもとにして、先入観を持って決めつけてしまいがちです。そして、安易に思いついたことを絶対だと思って行動してしまうという特性があるのです。ここでのキーワードは、出来事をよく観察しましたか。観察内容を森田の先輩等に話してみましょう。第2ステップ 事実は隠さない。事実は決して捻じ曲げたりしない。具体的話す。赤裸々に話す。ここでのキーワードは、話が抽象的になってはいませんか。「みんながそう言っている」「いつも失敗する」「絶対に間違いない」「もう手のうちようがない」「もうダメだ」「うまくいくはずない」「自分が悪いんだ」「こうすべきだった」等という言葉が出るときは要注意です。事実を捻じ曲げているので、どんなにとり繕っても事実からどんどん離れていく。悪循環が続く観念の世界に入っていってしまうのです。あなたは、不安や不快感が起こった時、事実を具体的に詳細に話していますか。第3ステップ 事実はよいとか悪いとかの価値判断を持ち込まない。事実を正確に把握することだけに注力する。価値判断を自分や他者に押し付けることは失礼なことです。自分に対しても相手に対しても、説教、批判、禁止、叱責、怒り、指示、命令などで対応することはありませんか。お母さんは子供に対して、「そんなことをしてはいけません」「グズグスしないで早くしなさい」「もっと頑張らないとダメじゃない」ということはありませんか。これらの言葉は要注意です。自分の価値観、「かくあるべし」を他人や子供に押し付けているのです。自分勝手な価値判断を自分や他者に押し付けないという態度をとれるようになることは容易なことではありません。でもそうした態度をとれるようになると、自分の気になることにとらわれ続けるということは急速に勢いを失ってくるものなのです。第4ステップ 「純な心」を体得する。初一念から出発するとも言います。分かりにくい言葉ですのでたとえ話をあげてみます。たとえば中学生ぐらいの女の子が夜の10時ごろに帰宅したとします。親として瞬間的に湧いてくる感情は、「大丈夫だろうか、なにかあったのだろうか」と心配になります。ところが娘が帰ってきて出る言葉は、「今何時だと思っているんだ、遅くなるときは家に連絡しろ。家族に心配かけるのもいい加減にしろ。」などです。理由も聞かず親の不快感を一挙に娘にぶっつけてしまいます。こんな場合最初の瞬間的に湧き起こった感情を思い出して対応することが大切です。あとからでてきた感情は「かくあるべし」ですから無視することです。こういう事例研究を集談会などで行いながら、自分でも行動として実践出来るようになることが重要です。第5ステップ 私メッセージの発信ができるようになる。これは親業での重要な学習項目です。森田理論学習も他のよいところは積極的に取り入れてゆく方がよいと思います。例えば学校で生徒が脚立に立って展示物をとりつけている時に、足を踏み外して転落しそうになった。その時の先生の発言。「あなたメッセージ」では、先生が生徒に向かって「不注意にも程がある。すぐに降りろ」と叱った。「私メッセージ」では、「先生は君が転落するかと思ってとても恐ろしかった。」などの発言になります。「私メッセージ」は森田で言う「純な心」からの対応です。感情の事実を受け入れるとは、こういうことが実践できるようになるということです。
2015.07.07
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次に「実践・実行療法」についてみてゆきましょう。この療法は他の療法に比べると即効性があります。これについてはみなさんよくご存じだと思います。注意点としては、この療法だけに偏っては、考えているような効果は得られないということです。4つの療法の一つだと認識することです。バランスよく学習、体得する必要があります。この療法では目標とするレベル、段階に違いがあります。順序を追ってレベルを高めていくことが重要です。レベル1 気が進まなくてもイヤイヤ、仕方なく手足を動かしていく。仕事では月給鳥という鳥になったつもりで会社に出かける。仕事の目的は生活費を稼いで来ることです。目的を見失わないようにしましょう。家事では超低空飛行を心がける等といいます。必要最低限のことだけを心がけることです。レベル2 実践課題を作って取り組んでみる。布団あげ、部屋の掃除、靴磨き、風呂の掃除、トイレの掃除、車の洗車、ペットの世話、花等の手入れ、家庭菜園、地域の活動、趣味、運動等課題を作って取り組んでみる。レベル3 気づいたことを逃さないようにメモして課題のストックをためていく。できることから手をつけていく。雑仕事、雑事を大切にする。コツはものそのものになりきって行うということです。注意点は、今できることは一つしかない。完全にこなそうと思わず、6割できればよしとする。変化に臨機応変に対応して、優先順位を意識する。これは、森田では無所住心の考え方です。レベル4 規則正しい生活を心がける。自分の不安や心配事よりも仕事、勉強、家事、育児に力を入れていく。レベル5 物、自分、他人、お金、時間をできるだけ有効に活かして使う。森田では「物の性を尽くす」といいます。レベル6 人の役に立つことを見つけて行動する。レベル7 好奇心を活かして、やってみたい趣味等に取り組んでみる。仲間との交流の体験を持つ。一人一芸を身につけるなど。レベル8 大きな目標、課題を設定する。コツコツと地道な努力を重ねていく。目標達成に向けてチャレンジしてみる。以上大まかに分けてみました。これ以外にもあるかもしれません。まずはレベル1からはじめてレベル4までに力を入れましょう。この段階までを軌道に乗せることが大切です。実施にあたっては、森田理論に詳しい先輩などに日記指導してもらうと効果が増します。
2015.07.06
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次に2番目の「認識・認知の誤りの修正療法」についてみてゆきましょう。神経症に陥った人は、客観的で正しい考え方や見方ができなくなっています。そこにとらわれたり、逃避していると神経症を引き起こしてしまいます。物事をよく見ていない。先入観が強すぎる。思い過ごしが強い。マイナス一辺倒である。否定的である。無茶である。極端である。飛躍しすぎである。自分勝手に決めつけている。希望的観測が強い。完全主義である。理想主義である。などです。具体的な例で考えてみましょう。1、 ミスや失敗などをしたとき、「自分の人生はもう終わったも同然だ」と考える。たとえば、会社で事務処理の間違いを起こし、上司に叱られた。すると、みんなから、無能力者扱いされて、もうこの会社での居場所はない。くびになるだろうなどと飛躍して考える。これは考え方がものすごく飛躍しています。論理的に整合性が取れていません。2、 一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないはずだと決めつける。また、私は人と付き合っても、最後にはいつも嫌われて、飽きられてしまうと思ってしまう。自分勝手に悪い方に考えすぎています。3、 物事には完全かゼロしかないというような極端な考え方で結論を出す。白か黒と決めつけてしまう考え方。この友人は自分にとって役に立つ人かそうではないのかどちらかに決めつける。役に立つと思えればべったりと引っ付き、そうでないと思うと全く寄り付かなくなる。その中間をとった付き合い方は考えられない。4、 データの裏付けもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えたりする。それに振り回される。5、 自分の先入観で些細なことやネガティブなことばかりを気にする。物事を両面観でバランスよく見ることができない。テストでおおむねできているのに、間違ったところばかりを気にして落ち込む。職場での考課表でプラスの面があるのに、マイナスの評価ばかりに目が向き、劣等感に陥る。6、 自分の周りで良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合でも、自分のせいにしてしまう。罪の意識を抱く。罪を償わなくてはいけないと考える。たとえば学校や会社で物がなくなったと友達や同僚が騒いでいるとき、自分が盗まれたと思われているのではないかと気にしてしまう。7、 確たる根拠もないのに、悲観的な結論を出してしまう。たとえば、あなたが大学の先生で、とても素晴らしい講義をしたとしましょう。しかしあなたは居眠りをしている学生を見つけました。実際にはこの学生は前の晩はコンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは、「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と考えてしまうようなことです。8、 自分の感情を根拠に決めつける。自分の感情が現実を証明する証拠であるかのように考えてしまうことです。たとえば、「自分が何をやっても、うまくいかなくダメな人間のように感じる。その感情が湧くことが何よりダメな人間の証拠だ」や「私はあなたに対して腹を立てている。これは、あなたは価値のない人間であることの証拠のようなものだ」などのように考えてしまうことです。9、 自分や他人に対してレッテルを貼って決めつけることです。たとえばスポーツで失敗をしたとき、「私は何をやってもいつも失敗する」と思ったり、他人が失敗をしたとき、「あの人は能力のない人」と決めつけてしまうことです。そういう先入観ですべてを判断してしまう態度のこと。10、 「かくあるべし」的思考をする。自分に対して、他人に対して「○○しなければならない」「○○してはならない」と規範で行動を規制しようとすること。現実、現状、事実を無視しています。理想と現実が違うことを思想の矛盾といいます。森田では、この認識の誤りが神経症の発症に大きく絡んでいると考えています。この療法は、自分の物の見方、考え方、行動の仕方は、認識・認知の誤りやゆがみがあるのではないかという前提にたつことが大切です。その自覚に立ってこそこの療法は成り立ちます。この修正療法では、別の見方、逆の考え方、反対の視点を思いつく限り考え出して、反駁をしてゆきます。その場合、一人でやる方法もあります。一人で行う場合は、ノート等に書き出して、反駁をしてゆきます。物事を客観的に両面観で見ることができるようにしてゆきます。次に人から反駁をしてもらう方法があります。その場合は、素直になって聞くことです。反発したくなっても、まずは我慢して聞いてみることです。さらによい方法があります。具体的な事例を出し合って、何人かで検討してみることです。集談会などの学習の場を利用するとよいでしょう。さまざまな反駁が出て、多くの気づき、発見が生まれる可能性があります。最終的には、自分の普段の生活の中で、自分の考え方は一面的ではないか。短絡的で投げやりになっていないか。ネガティブ、悲観的ではないか。先入観や決めつけで判断していないか。「かくあるべし」で自分を追い込んでいないか。自己検証ができるようになる能力を少しずつ獲得してゆくことです。認識・認知の誤りは数多くありますので、一つ一つ先輩会員の協力を得て検討してゆきましょう。
2015.07.05
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それでは、簡単に1番目の「欲望と不安のバランス回復療法」から見てゆきましょう。それでは最初の質問です。現在のあなたの不安に感じている事、とらわれていることはなんですか。できるだけ具体的に詳しくお話しください。次の質問です。もし症状を克服したとしたら、どんなことをしてみたいですか。夢とか希望があったら教えてください。今はそれどころではありませんという方もおられると思います。そういう方は、子供の頃、大人になったときこんな仕事をしてみたい。こうゆう家庭を作りたい。こんな生活にあこがれる。こんな人の生き方にあこがれた。あるいはこんなことに挑戦してみたいということはありませんでしたか。よく思い出してみてください。きっと多かれ少なかれあったと思います。是非思い出してみてください。ここで森田的レクチャ不安は欲望の裏表だと言います。コインの裏表の関係と同じです。欲望を本体とすれば、不安はその影です。欲望が10あるとすると不安も10となります。欲望が5とすると不安は5です。正比例しています。薬物療法をはじめとして、他の療法は不安を目の敵にして取り除くことに力を入れています。森田では欲望と不安は一心同体であるので、取り去ることはできないし、取り去る必要もないという立場です。不安の見方が変わるまで、しっかりと理解しましょう。次の質問です。いまあなたの不安、とらわれの苦しみを10とすると、欲望はどれぐらいですか。もし10以下だとするとバランスが崩れていますね。もしこれがサーカスの綱渡りをしているとすると、すぐに落下してしまいます。どうして、バランスが崩れてしまったのでしょうか。考えてみましょう。森田的レクチャ不安があっては、欲望の達成の障害になってしまう。障害あっては欲望が達成できない。だからまず、目の上のたんこぶである不安を取り除こうとした。でも、不安はしつこくてなかなか取り除くことができなかった。そのうち欲望の達成は蚊帳の外になり、不安を取り除くことばかりに注意が向いてきた。ミイラ取りがミイラになったようなものです。このことを森田では、手段の自己目的化が起きていると言います。そのうち精神交互作用により、もがけばもがくほど蟻地獄に落ち込んでしまいました。そしてついに神経症として固着してしまいました。不安は意味もなく存在しているのではありません。不安には大きな役割があります。不安がないと、欲望が暴走することがあります。不安は欲望が暴走しないようにブレーキの役割を果たしています。アクセルばかりで、ブレーキがないと重大な事故を起こしてしまいます。このこともしっかりと理解してゆきましょう。欲望と不安はどちらも必要です。でも欲望が暴走すると大きな問題を生じさせます。反対に不安にばかりとらわれてしまいますと、神経症に陥ってしまいます。特に私たちは不安を邪魔者扱いしています。これは厳に慎む必要があります。不安と欲望は常にヤジロベイのように、右に傾けば左に、左に傾けば右へとバランスをとることが必要です。それでは最後の質問です。欲望と不安のバランスをとるためにどうすればよいと思われますか。ご一緒に考えてみましょう。森田的レクチャ不安にとらわれる人は欲望と不安のバランス感覚が働いていません。症状が表面化している時は、不安の解消ばかりに注意が向いています。その場合、バランスを回復させるためには、不安は放置しておいて、「生の欲望の発揮」に目を向けていくことです。そのためにすることは何か。まず、意識付けとして目につくところに「やじろべい」を置いておく。生活面では、規則正しい生活を回復させる。雑事に取り組む。軌道に乗り始めたら、3番目の「実践・実行療法」に本格的に取り組む。神経症の方は不安に大きく振れることが多いという自覚を深めていくことが大切です。最終的には、臨機応変に欲望と不安のバランスがとれるような能力を獲得することです。何回も手を替え、品を変えて十分に学習して、対応力を身につけましょう。不安と欲望のバランスを回復するための学習と実践は、森田理論に詳しい先輩会員からのアドバイスが有効だと思います。
2015.07.04
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精神療法にはいろんなやり方があるようです。思いつくだけでも、行動療法、認知療法、論理療法、精神分析療法、内観療法、ゲシュタルト療法、交流分析療法、来談者中心療法、家族療法、遊戯療法、ピアカウンセリング療法、サイコドラマ等です。はたして、どれほどの効果があるのでしょうか。この中で森田療法は、行動療法、認知療法、論理療法、内観療法、来談者中心療法、ピアカウンセリング療法には比較的なじみが深いのではないかと思います。そこで森田療法を独自の視点で分析してみました。まず森田療法の目的をはっきりと示す必要があると思います。森田療法は神経質性格を持った人に効果があります。その人たちが不安、恐怖、不快感にとらわれて、多かれ少なかれ生活に支障をきたしている。あるいは生きづらさを抱えている。そういう問題を多少なりとも解決するための療法である。不安の受け入れの許容度によって、人それぞれ目指す目標は異なります。分かりきったことですが、まず目的をはっきりすることが出発点です。次に私の分析結果です。1、 欲望と不安のバランス回復療法2、 認識・認知の誤りの修正療法3、 実践・実行療法4、 現実や事実の受容療法森田療法は以上4つの療法を組み合わせた療法である。とらわれから抜け出して楽になるためには、この4つの療法のすべてをまんべんなく学習して、体得することが必要である。例えば、森田でよくいわれることですが、症状は横において「なすべきことをなす」だけで、とらわれから抜け出すことは難しい。他の療法がおろそかにされて、偏りがあるために所期の目的を達成することは難しい。これだけやってもだめです。レベルが低い段階では低いなりに4つすべてに取り組む必要があります。これは植物の成長や収穫は、必要とされる栄養素のうち、与えられた最小の栄養素に影響を受けるというリービッヒの法則通りのことが起こるのだと思います。療法の名前が長ったらしいがいまのところ適当な言葉が見つからない。おいおい修正していくつもりだ。しかし、私が常日頃考えていることは根本的なところが変わることはない。1と2は、考え方を見直したり、間違いに気がつくための療法である。認知療法、論理療法に近いものがある。でも全く同じというわけではない。1については、森田では一番重視しているのは「生の欲望の発揮」です。でも欲望があると必ず不安や恐怖が出てくる。不安や恐怖を決して邪魔者にしてはならない。このことをしっかりと理解すること。ほとんどの療法は不安を悪者にして、取り除こうとしています。ここが森田理論と大きく違うところです。2については、神経質者は、完全主義、全か無かの思考方法、「かくあるべし」の思考方法等たくさんの認識の誤りを身につけています。これらを修正していくことが大切です。3と4は、行動を変えていく。実際に動いて体得していく療法である。行動療法に近いものがある。これも全く同じというわけではない。3については、認知行動療法では不安階層表を作り、エクスポージャ法(曝露療法)を行っています。森田でいう恐怖突入と似たところがあります。しかし森田理論の実践・実行療法はもっともっと奥深いものが含まれております。これらを整理してピックアップして一つ一つ段階を追って身につけていくことが大切です。4については、森田理論の核心部分です。基本的には、つらい現実、事実を受け入れて、服従していくということです。これも大変奥が深いものがあります。これも段階を追って身につけていく必要があります。人により不安の許容度が違うので、各療法では目標を何段階にも分類していくつもりです。そして事前に来談者中心療法の無条件の肯定、共感的理解の立場に立って相互にある程度の目標を共有していく。これらは森田理論学習の場で活用できる程度ににまとめ上げたいと考えています。そのあかつきにはみなさんに直接配布してゆきたいと考えています。森田療法とはどんな療法ですかと聞かれた時に、他の療法のように、簡潔にきちんと説明できるものを作るのが目標です。今までバラバラに考えていることを整理分類するだけですから、そんなに難しい作業ではありません。
2015.07.03
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集談会で苦しんでいる人にどう援助していくか。どうかかわってゆけばよいのか。難しい問題です。でも避けて通ることはできません。この問題を考えてみましょう。その前提として、最終的に神経症を克服していくのは悩んでいる本人です。考え方の誤りや行動の誤りを自分で気づいていく。発見していくのは本人です。たとえて言えば、馬を水飲み場までは連れていくことはできますが、水を飲むのか飲まないかは本人次第です。ですから私たちの役目としては、その人の気づきを促していく。きっかけ作りをしてあげることだと思います。そのためにはいろんな手法があります。数多くの刺激を提供してあげる。できることはこれだけです。またそれ以上のことをしてはならないと思います。まず森田先生はどうされていたのか。神経症者を入院させていた。一週間の臥褥ののち、生活に必要な身の回りの作業させていた。作業の中で気がついたことをその場で指摘されていた。そして夜になると日記を書かせていた。その中から考え方の誤りや行動の誤りを指導されていた。実際の作業や行動の中で、神経症克服のための物の見方、考え方、実践の仕方を教えられた。入院生は40日ぐらいの入院生活の中で、考え方の誤りに気がつき、神経質者の本来の生き方を身につけていった。今はネット時代です。それを利用しての援助が考えられます。つまり普段の生活ぶりや実践・行動ぶりをメールで送り、相談者に折り返しコメントをつけてもらう方法です。コメントの中に、気づきや発見があれば神経症の克服に役立ちます。ただ、顔が見えない分注意が必要です。事前に1回は直接面談していないと、感情面のトラブルが発生する可能性があります。いま私たちが行っているセルプヘルプ活動ではどうか。同じ神経症の人たちが1月に一回一堂に会して交流しています。これは癒し効果があると思います。同じような苦しみを持ちながら生活している仲間を目のあたりにすることができます。また、どん底から這い出して、社会適応力を身に付けた人も目にすることができます。これも大切な気づき、発見ですね。交流が進めば、それが後ろ盾となって神経症の改善に役立ちます。さらに集談会では森田理論学習を行います。学習の要点を読んだり、その他森田関連の図書も読みます。そして意見交換したり議論します。また他の人の体験談を聞いたりします。森田理論に詳しい人の講話も聞きます。これによって、自己洞察を深めていくきっかけ作りをしているのです。ですから、それらの活動から、気づく力、発見する力があるかどうかはとても重要です。効果を上げるためには、学んだことを、自分にあてはめて考えてみること。自分の場合はどうなのか、自分としてはどうしたらよいのか。絶えず自分と向き合いながら学習に取り組むことが重要です。そのためには学習内容、講話内容をノートに整理してみる。そして自分に引き寄せて考えてみる。考えたことをみんなの前で発表してみることです。このようにして相互学習を積み重ねていく。そういう人はどんどんよくなります。症状の克服だけにとどまらず、人生の指針も合わせて獲得することができるでしょう。私たちはそういう人たちに対して、コーチ、伴走者としての役目があると思うのです。自分の掴んだ森田理論を人に強制することは本意ではありません。それは闇夜に鉄砲を放つようなものです。努力は水の泡に帰してしまいます。指示的助言をする場合は、相手が困り果てて救いを求めてきたときは、大きな効果が期待できます。その時だけに限ることだと思います。私たちのできることは、気づきや発見を促すための機会をより多く作ること。そしてその中身を充実させていくことです。今一番気になっているのは、学習内容です。考え方の誤り、認識の誤り、認知の誤りの部分です。これにはべックの認知療法。エリスの論理療法を取り入れることを考えています。また森田理論の理論化を進めて分かりやすい学習内容にすること。以上2点は森田理論学習を進めていく上で、早急に手をつけるところだと思います。この2点を補強することで森田理論はかなり強固なものとなります。他の心理療法に比べて引けをとらなくなると考えています。そういう共通認識を育てること。そうすれば、苦しみにとらわれている人に、気づき、発見する選択肢が増えることになると考えているのです。
2015.07.02
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私の主訴は人の思惑が気になるということです。集談会には私のようなタイプの人がおられます。時には参加者の半分、あるいは大半がそうだということもあります。集談会に参加できるような人ですから、会社や学校にはなんとか出かけることはできている。主婦の人でしたら、なんとか家事や育児をこなしている。でも、人間関係に悩んでいる。雑談が苦手。いつも人間関係でビクビク、ハラハラしている。いつも対人的に鋭いアンテナを立てて防衛的になっているので苦しい。抑鬱状態で苦しい。仕事でもミスや失敗することが多い。それらの葛藤や不安を取り除きたい。少しでも精神的に楽になりたい。こういう状態で藁をもつかむ思いで参加されているのです。私はそういう方に対して、こう問いかけます。今の苦しみを100%とした場合、どの程度その苦しみを軽減したいと思われているのですか。10%ですか。20%ですか。50%ですか。80%ですか。それとも100%ですか。100%だという人は、自分の経験からそんなことはあり得ない。また治り過ぎの弊害を説明します。もっと現実的な目標にしませんか。ある程度の不安は受け入れることはできませんか。今よりも少し肩の荷が下ろした状態でも、かなり適応力が出てきますよ。自信がついて、生活できるようになりますよ。その前提として、森田理論学習を最低1年は取り組んでみてください。1年はできるだけ集談会に参加してみてください。そして仲間をよく観察してください。その上で、20%ぐらいでいいという人には、実現の可能性は大です。アドバイスしたことを素直に実施するだけで実現します。それは規則正しい生活をする。「なすべきこと」に丁寧に取り組むことです。そのためには生活の中での気づきを逃さないようにメモしていくことです。まずは気づきのストックを増やしていくことです。そして、できることから手をつけてみることです。全部できなくてもかまいません。むしろできないことが残るぐらいのほうがよいということもあります。さらに、自分の興味のあることにも手を出してみましょう。これらに真剣に取り組めば目標は達成できます。50%ぐらいは楽になりたい。そしたら50%の苦しみは耐えられますという人に対してはどうアドバイスするか。まずは今しゃべったことを引き続き継続すること。その上で認識の誤りを修正していくこと。考えることがマイナス思考である。ネガティブである。先入観で勝手に決めつけをしている。無茶でおおげさである。自己嫌悪、自己否定をしている。「かくあるべし」で物事をみてしまう。これらを修正していくことです。これには少し時間がかかります。ノウハウがありますので、それを身につけていくことも大切です。行きつ戻りつ、ラセン階段を上るような試行錯誤を繰り返して体得できます。でも体質が変われば、50%ぐらいは楽になると思います。そのための援助はできるだけさせてもらいます。80%ぐらいの改善を目指している人にはどうするか。今からそんな段階を目指すのは現実的ではありません。ハードルが高すぎます。この段階は、是非善悪の価値判断をしないようにする。どんな苦しい状況でも事実を受け入れるような人間になれる。いわゆる事実本位、物事本位の生き方ができるようになるということです。今はそんな段階もあるのかなと思うだけでよいのです。それは50%の状態が達成された時に考えればよいことです。このように、ある程度具体的な目標が見えていないで、やみくもに森田理論学習を続けるということは、途中で挫折することになるかもしれないと考えています。
2015.07.01
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