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人間の欲望にはいろんなものがあります。ざっと挙げただけでも物欲、財欲、金銭欲、性欲、食欲、飲酒欲、名誉欲、出世欲、権力欲、独占欲、所有欲、睡眠欲、知識欲、完全欲、自己顕示欲、向上欲、自己実現欲、健康欲、生存欲、等があります。森田で言う生の欲望というのは、知識欲、向上欲、自己実現欲、健康欲、生存欲等のことを言っているのでしょうか。これらの欲望の実現に取り組むことによって、意欲を持ったり、やる気を持たせたりすることができます。欲望はなくてはならないものです。欲望のない人は無欲の人であり、無欲の人に生きる力は湧いてきません。でも過度の欲望の追求が過去に人間同士の争いをひき起こしました。人間を不幸に落としているのも過度な欲望の追求です。森田では欲望は必要不可欠のものであるが、欲望の暴走を阻止することは極めて大切だといっております。今日は欲望をどこまでも追い求めていくとどうなるのかについて考えてみたいと思います。1、 欲望は抑制しないと際限なく追い求めていってしまう。こういう状態は「妄執」とか「慳貪」(けんどん)といいます。他を顧みない自己中心的な欲望の追求は醜いものです。これはブレーキの効かない自動車に乗っているようなものです。安全運転は不可能です。いずれ事故を起こすことは目に見えています。これは人生を心豊かに味わい深くしたいという本来の目的を忘れて、欲望の実現そのものが目的にすり変わってしまったのです。経済学者は経済成長率が永遠に上昇してゆかないと日本が沈没してしまうかのようにいいます。我々はその考えに洗脳されてしまい、疑いさえもなくなってしまいました。成長神話というのは間違いないのでしょうか。私は違うような気がするのです。これは神経質でいえば強い生の欲望の発揮を忘れて、不安を取り去ることが目的になっている事と同じことだと思います。2、 欲望のあくなき追求は加速度がついてくる。森田の感情の法則の3に、「感情は同一の感覚に慣れるに従って、鈍くなり不感となるものである」とあります。欲望の追求も同じことが言えます。薬物、アルコール、浪費、美食過食、ネットゲーム、金銭欲等はそれを追い求めていくと、しだいに快感や刺激が薄らいできます。もっと強い刺激を求めないと以前の喜びは得られなくなってしまうのです。しだいに使用量や回数を増やして、以前と同様の快感や刺激を得ようとするのです。最後には加速度がついて、止めようとしても止まらなくなります。行き着くところまで突っ走ることになります。悲惨な結果が待っています。3、 欲望を追い求めていると失うものがたくさんある。他人への思いやり、分かち合い、人間愛、尊敬と譲り合い、心身の健康、物を大切にする心、小さなことを喜べる感受性、生の喜び、他人への感謝等。欲望への追求に偏ってくるとなんでもない日々の生活がつまらなくなってきます。人生のだいご味は、普段の日常生活の中でささやかな楽しみや喜びを数多く体験することにあるのではないでしょうか。欲望の追求と他人への感謝は相対関係にあります。つまり欲望が強いと感謝の気持ちは小さくなり、欲望が小さいと感謝の気持ちは強くなります。このように弊害がたくさんあるにもかかわらず欲望の暴走が止まりません。暴走を止めるためにはどうしたらよいのか。森田では欲望はほどほどに抑えることをお勧めしています。そのためには強い意志が必要です。森田理論学習によって欲望とその制御についてしっかりと学習していく。そしてバランス感覚を体得していくことです。欲望の暴走する場には身をさらさないのも一つの手です。次に欲望の充足は60%から80%満たされればOKという気持ちで生活することです。そのためには欲望の充足よりも制御することを先に考える。欲望には衝動的にすぐには飛びつかない。どうしても必要なものかどうかじっくり考えてみる。制御機能を働かせることによって欲望の暴走はある程度は抑えられるのではないでしょうか。私はそれを宴会の席で応用しています。最初のビールは多くの人が飲み干すまで待つことにしています。その間は料理を食べたり、我慢しています。そしてみんながお代わりをする頃から呑み始めるようにしております。すると不思議なことに、二日酔いで次の日が無駄になるという事は無くなりました。欲望を制御しながら生活することは難しいことですが、なんか満ち足りた持ちになることができます。
2015.03.31
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イチロー選手は40代、50代の人と会って感じることがあるという。なんか上からものをいう姿勢で来られる傾向がある。自分は世の中のことをよく知っている。いろんな経験を積み重ねてきた。だから、なんでも聞きなさい。私は教えてあげるよ、っていうようなスタンスなんです。そういうスタンスで来られると、「ああなんか、この人は限界なんだろうな」って思うんです。それとは逆に、輝いている人は、常にさらなる上を目指している。常にだれとでも対等。いくら歳が違っても、常に目線を僕らと同じところまで持ってきてくれる。そんな懐の大きさがあるんですよね。これに答えて、矢沢永吉さんは、人に教えてやろうといった段階で、その人はもう熱くないんですよ。そういう事を言っている人は、実はもう現場にはいない人なのかもしれませんね。僕、まだ現役なんですよ。自分にやるべきことがあるとか、今年はどういうテーマがあるとか、そういうものがある人は、上から言うだの、言わないだの、歳の差があるだの、ないだのってことすらもないでしょう。言い方は違いますが同じことを言っておられると思います。森田の生の欲望の発揮のことを言われています。特に夢や目標、課題をしっかりさせて、実現のために努力することの大切さを話されていると思います。森田先生も「人生の目的は、限りない進化発展であり、その目的に達する方法手段は努力である。従って、人生の目的は努力ということができ、人生の実際もこの努力である。そして、生物はみな快を求め、不快を避けようとして機能を発揮している。これが努力である。」でも今現在神経症で苦しんでいる人は夢のまた夢のことかもしれません。目線が外や上に向かわずに、内へ下へと向いて苦しんでいるのです。最終的にはそういう段階に進む方がよいとは思います。でもその段階に行くまでにはいくつもの段階があると思います。そのステップを踏んでいけばイチローさんや矢沢さんと同じような考え方になると思います。そのためには、まず生活を規則正しくすること。そして日常茶飯事を丁寧にしていくこと。なるべく人に頼らないで自分でこなしていくこと。イヤイヤ仕方なしでもよいので手や足を出していくこと。これが生活の土台になると思います。生きるという事の土台です。それができるようになったら興味のあることに手を出してみること。これは少し注意を向けてみればいくつでも発見できます。一つ見つかれば弾みがついてきます。また人間同士のつながりも生まれてきます。森田先生は鶯の谷渡りという宴会芸を持っておられました。即席で人を喜ばせるような一人一芸をお勧めしております。ちなみに私は、皿回し、剣玉、アナウンサーの実況中継、しばてん踊り、どじょうすくい、獅子舞等いくつも持っています。その先にイチローさんや矢沢さんの言われるような夢や希望、課題や目標があるのではないでしょうか。そういう段階を踏んでいくとボケることが少なくなり、天寿を全うできる確率が高くなります。
2015.03.30
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TPP(環太平洋経済連携協定)交渉に臨む各国の立場は、自国の有り余っているものを他国に買ってもらい、足りないものは輸入すればよいという考え方です。アメリカ、オーストラリアでいえば有り余っている農産物を日本に買ってもらいたい。日本としては自動車などの工業製品をどんどん買ってもらいたい。バランスをとるためには農産物、海産物は買いましょう。イヤ、買わざるを得ないでしょう。でも農家や世論を納得させるために少し時間をください。必ず説得して見せますからというスタンスだと思います。そういう意味で日本のTPP交渉は順調に展開しているのです。日本の農業の惨憺たる状況を見れば一目瞭然です。TPP交渉に反対という人の論調は、生きる源である食料を他国に依存していてよいのか。それでわが国の経済的、精神的自立は保たれるのか。経済封鎖、後進国の台頭、将来の世界の人口の爆発的増加よる食料の高騰に対応できるのか。確かにその点は当たっています。近い将来65億人の世界の人口は90億人を超えると予測されています。将来必ず食料の奪い合いの時代はやってくると思います。でもよく考えると、農協や知識人の言っていることは、自分たちの立場の既得権益を守るという姿勢が見え隠れしているような気がするのです。農家が生活をかけて訴えていくことは当然のことです。死活問題なのですから。でも問題の本質をそこに絞って政府に圧力をかけていくというのは、世論の後押しを得ることはできないのではないでしょうか。消費者は目先安全で安ければどこの国で作られた食料であってもかまわないはずです。では食料の生産を放棄することの本質はどこにあるのか。森田理論で考えてみれば明らかなことです。食料を他国に頼るというのは、森田理論でいえば雑事や日常茶飯事に手をつけないということです。そして余った時間で余暇を楽しむ。刺激を求めて快楽を追及していく。これこそ最高の生き方だという気持ちなのだと思います。でも実際はどんどんむなしく、味気ない生き方になってしまうのは森田理論でよく学習しているとおりです。森田では自分の身近な生活の必要事項は人に依存してはならない。自分のできることは自分で手を出す。日常茶飯事は自分自ら手を出して丁寧にこなしていくことをお勧めしています。実はこれは戦前の日本で当たり前に行われていたことです。それは人間が生きていくという事の土台であり、味わい深い生き方に結びつくものです。人間の本来の生き方の問題なのです。分かりにくいかもしれませんが、食料生産というつらくてめんどうなことに取り組むことによって、多くの感じが発生する。感じによって気づきや発見が生まれる。そして創意工夫によって生活を充実させていく。そういう生き方を基本にして生活していくことが本来の人間の生き方ではないのか。食糧生産からの撤退は日本民族の精神の荒廃を急速に加速するものではないのか。ここのところに焦点を当てて、真剣に議論する必要があるのではないでしょうか。上げ膳下げ膳。身につけるものすべてを人に洗濯してもらい、挙句の果てに着付けまでしてもらうような生活になんの意味があるのか。我々は先端技術で金を儲けて、そんなわずらわしいことをする必要はない。食料は他国から買えばよいではないか。これはあまりにも短絡的である。人間が活き活きと生きていくという事を無視したあまりにもお粗末な議論である。むしろ、自国の食料の生産に力を入れて、物質面での豊かさの追求は少しセーブをかけていく。つまり森田で言うバランスのとれた、思想の入った考え方をするべきではないのか。そういう意味で自分たちの食べるものを自分たちで作る。それも真剣に取り組んでいく。すると土作りを忘れ農薬や化学肥料中心の今の農業。輪作を考えずに単一作物による産地化を進めている今の農業。ハウス等で季節を無視した生産のあり方。なによりも命を再生産する食料生産ではなく、工業や資本の論理による食料の生産。根深くて深刻な問題が数多く存在していることに気が付く。
2015.03.29
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今日は6時に起きて、地域イベントでチンドン屋として参加した。30分のイベントが2回あった。私はアルトサックスでメロディー部分を吹いている。竹と雀、ちどり、オッぺケペ節、となりのトトロよりさんぽ、アンパンマンのマーチ、皆の衆、野崎小唄、島育ち、19の春、お富さん、同期の桜、ラバウル小唄、宮島さん、それいけカープ、広島天国、高校三年生、有がたや節、瀬戸の花嫁、さよなら港などを演奏した。ミスタッチはほとんどなかった。主催者から弁当と寸志が支給された。ありがたいことだ。その後、術科学校と5分咲きの桜を見に行った。見ごたえがあった。しばらく桜を見ながら海を見てのんびりと過ごした。その後帰宅してテレビで野球の観戦である。黒田選手の投球は一味も二味も味わいがある。負けても勝ってもどちらでもよいような気がしてきた。今日は天気もよくとても気持ちのよい日であった。日々の生活の中でこうしたアクセントはエネルギーの補給になる。
2015.03.29
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仕事をしていて金曜日が一番ほっとするという人は多いようです。土曜日、日曜日は仕事や人間関係のわずらわしさやストレスから一挙に解放されるからです。休みには好きなところに行きたい、おいしいものを食べに行きたい。あるいは家でのんびりと過ごしたい。夢はどんどん広がります。でも日曜日サザエさんが始まるころから、急に気分が悪くなり憂鬱になります。明日からの仕事や職場の人間関係が気になりだすのです。そして月曜日を迎えます。気分が悪い、頭が痛い、腹の調子が悪い。こんな気持ちでは、とてもではないが仕事が手につきそうにない。上司や同僚と顔を合わせるのが苦痛だ。すると仮病や有給を使って休む人もいます。パジャマのままテレビを見たり、ネットゲーム、DVD、音楽等を聞いて過ごします。でも心の中は穏やかではありません。「どうして自分は弱虫なんだろう」「なんで自分は駄目人間なんだろう」自己嫌悪、自己否定の気持ちでいっぱいになります。人によってはお酒、過食、薬物、浪費、セックス、ネットゲームに依存してしまいます。こういうのは森田では気分本位といいます。一方、こんな自分ではダメだ。これでは社会に適応して、生き抜くことは不可能だ。性格を変えよう。心配性な自分を変えよう。精神科に救いを求めたり、カウンセリングを受けたりします。また精神修養として宗教、スポーツ、音楽演奏等にのめり込んでいく人もおられます。積極性が空回りして、強迫神経症へ突き進んでいく可能性があります。でも大部分の人は、つらい、しんどいと思いながらも反対の気持ちも湧き起ってきます。休みたいけれども自分が休むと他の人に迷惑がかかる。休むと生活費を得ることができなくなる。その気持ちに後押しされて、仕方なしに支度を始めます。そして後ろ髪を引かれるような気持ちで、イヤイヤ仕方なしに家を出ます。職場についても、仕事にエンジンがかかってきません。午前中は心と体が仕事に順応していないのです。ぼつぼつ仕事に手をつけています。昼過ぎになって徐々に心と体が仕事に適応してきました。この時になって休まなくてよかったという気持ちになります。そして、その後は金曜日までは仕事に順応して、仕事そのものになっていくのです。これはイヤイヤつらい気持ちを抱えたまま、仕方なしに行動を開始したことがよかったのです。行動を開始すれば新しい感情が生まれてきます。すると嫌なつらい気持ちは流れていったり、小さくなっていくのだと思います。つまり感情は変化流転するものなのです。最初は全開時の10%、20%のことしかできなくてもかまいません。行動には感じが発生して、気づきや発見があります。すると、意欲ややる気が高まります。このような過程を経て行動には弾みがついてくるという事を忘れてはなりません。
2015.03.28
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ソチオリンピックで浅田真央さんはショートで16位と出遅れました。この時点でライバルキム・ヨナ選手に大きく引き離されました。メダルの可能性もなくなりました。こうした場合あなたならどうするでしょうか。私ならあっさりとあきらめて、フリーは棄権するかもしれません。次の世界選手権に標準を合わせるでしょう。フリーを上手く滑れるわけもない。なんといっていっても、優勝候補といわれていたプライドに傷がつく。みじめな姿を全世界の人に見られるのはなんともやりきれない。浅田選手も寝つかれなかったことでしょう。でもみなさんご存じのとおり浅田選手は滑りました。それもフリーでは自己新の142.71の得点をたたき出しました。トリプルアクセル、その後フィニッシュまでの6種類8度のジャンプをすべて成功させました。総合順位は6位まで上げてきました。信じられません。この演技に世界中の人が感動しました。どういう心境の変化があったのでしょうか。きっとフリーは今まで準備したことをそのまま出しきることだけを考えていたのではないでしょうか。それにしても多くの人に勇気を与えました。それを称えた歌があります。DREAMS COME TRUEのAGAINです。失敗にくじけることなくもう一度立ち上がれというような意味でしょうか。この歌の歌詞にこんなことがあります。私の好きなところを紹介します。ショートで意気消沈した、浅田選手を励ますような歌です。風には負けて、雨には泣いて、転んで起きて、ここへ来たよねひとりで悩んだ時も、流されるしかなかった頃もその時やれる精一杯で超えてきたのをみんな知っている何にも考えず、ただ楽しかっただけの頃より今は何倍も強いから、迷ってその度、ぐっと進んでくる嵐に顔を向ける姿も、陰でこぼした涙も全部もう一度、今のあなたで、やりきった、あの涙をもう一度、今のあなたで、悔いなんてまるでない、あの最強の笑顔をAGAINこれは森田に通じる人生の応援歌ですね。
2015.03.27
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神経症やうつに陥ると思考方法が次のように偏ってきます。1、考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。2、マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。4、完全主義、「かくあるべし」思考に陥っている。こうなると事実から遊離して、毎日生きていくことがつらく、人に会うことが恐ろしくなります。これを脳科学で見てみましょう。大昔私たち人間は他の肉食獣と闘って生き伸びていかなくてはなりませんでした。絶えず周囲をうかがい、びくびくしながら生きていたのです。危険を素早くキャッチして戦うか逃げるかの決断をしなければなりませんでした。脳では五感、扁桃体、海馬、大脳新皮質の神経細胞のネットワークが強化されました。絶えず不安や恐怖にさらされながら生きていたのです。神経伝達物質としては、アセチルコリン、ヒスタミン、ギャバ、ノルアドレナリン等が多量に分泌されていました。その後人間の進化に伴い、側坐核、腹側被蓋野から大脳新皮質につながる快楽神経というものが生まれました。いわゆるA10(エーテン神経)といわれるものです。この神経が活性化されると神経伝達物質として、ドーパミン、セロトニン等が放出されます。ギャンブル、アルコール、セックス、覚せい剤などはこの神経を活性化させるものです。現代人は感情面では基本的にこの二つの神経系を備えています。ところが神経症やうつになると不安や恐怖に反応する神経伝達経路が強化されてしまいます。道路の拡張工事を行い幹線道路として存在感を見せつけている状態です。一方エーテン神経は町道等に格下げされてめったに車が通らない道になっているのです。つまりバランスが崩れているのです。あまりに不安や恐怖に偏って交通渋滞を起こしているようなものです。そういう場合は、今取り組むべきことは、二つの神経系のバランスをとることだと思います。SSRI等に頼ることも一つの方法ですが、基本的には生き方を変えるという事です。まずは自分の身体が喜ぶこと、気持ちが楽になることを生活の中に取り入れることです。酒を飲む、薬物に頼る、セックスをする、グルメ三昧、旅行三昧を楽しむことも一つの方法ですが、刹那的でつかの間の幸せで終わってしまいます。本来は日常生活の中で、ほんの些細なこと、ほんの小さなことに、ささやかな幸せを感じる方が長続きしますし、より安定してくると思われます。私は先日岡山の「心の健康セミナー」にスタッフとして参加しました。その後打ち上げがありました。宴たけなわになったころ世話係の人から余興を催促されました。そんな時、阿波踊りや自分の隠し芸を即興でできる人が何人もおられました。森田先生と一緒です。こうした一人一芸ができる人は普段からエーテン神経の活動が活発なのだろうと感じました。
2015.03.26
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「あるがまま」というのはどうにもならない自然な感情は事実を受け入れて、事実に服従していくこと。そして不安な感情を抱えたまま日常生活、仕事、勉強、家事、育児、夢や目的、目標に目を向けて行動・実践していくこと。つまり「あるがまま」にはこの2つの側面があるという事だと思います。どちらも大事なことです。今日は事実を受け入れて、事実に服従していくことを考えてみましょう。事実を受け入れずに、事実に反発しているとどうなるでしょう。イソップ物語に「ブドウと狐」の話があるそうです。この狐がブドウをとって食べようとしたが、何回挑戦しても手が届かない。この狐は負け惜しみで、あのブドウはきっと酸っぱくて食べられるようなものではないと自分の気持ちを欺こうとした。さらに、もともと自分はブドウなんか欲しくなかったのだと、欲しいという事実をごまかそうとした。またそのブドウをとる力のない自分に対して、劣等感を抱いたり、そのような自分を生み育てた親を恨んだりした。ブドウを欲しくない人間になろうとか、ブドウをすぐ手に入れられる超能力を得たいと考えました。これは迷いです。迷いのもとは、事実をあるがままにみないことです。「自分はブドウが欲しい」という事実と、「自分の力ではブドウをとることができない」という事実をあるがままに認めることができないのです。苦しい困難な状況に直面したとき、野生の動物でしたら、四方八方力を尽くして及ばなければ、そのまま事実に服従します。ところが人間は、事実をあるがままに認めようとせず、観念で事実を偽ったり、自分を欺こうとします。この態度が葛藤や苦悩を生み出しているのです。森田の学習で最も大事なことは、世の中の事実を如実にありのままに認めるということです。森田では事実を素直に受け入れるために、次のような学習をします。1、 実際に現地に足を運んで事実確認を行う。自分で実験してみる。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、いろ。これは小学校4年生の横山あやちゃんという子供が、自宅で飼っていた12匹の蚕につけた名前だそうです。一匹ずつ、わずかに違う顔の特徴をつかんでスケッチしているそうです。事実の観察の見本のような話ですね。我々大人には同じようにみえる蚕でも、よく観察していると違いが見えてくるということです。2、 事実はより具体的に話す。子どもが新聞に水滴が落ちた時のことを次のように書いています。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた。」できれば、この子のように観察したことを事実に即してありありと表現したいものです。3、 事実は先入観で判断しない。一方的に決めつけをしない。国立国語研究所で話題となった実話があります。ある一人の女性の事をAさんが、「目がぱっちりして、スリムだ」と言いました。ところがBさんは「目がぎょろっとしていて、電信柱があるいているようだ」と言いました。実際に彼女を見ないでいる人は、Aさんから話を聞いたか、Bさんから話を聞いたかでその女性の印象が全く違ってしまう。仮に事実を確認しないで、その人のイメージを作り上げて対応しているととんでもない間違いにつながります。4、 事実は両面観でみる。たとえば、顔色の黒い人はよく見られません。場合によっては肝臓でも悪いのではないか。酒の飲み過ぎではないのか。遊んでばかりいるのではないか。勉強してないのではないか等です。森田先生はそんなことではその人を見たことにはならないはずだといっておられます。逆に色の黒い人は多くの利点があるといっておられます。汚れが目立たない。健康相に見える。女難、男難除けになる。力が強そうに見える。威厳があるように見える。夜逃げする時に人の目にかからない。などです。5、 事実を是非善悪で価値判断しない。存在価値から出発する。他人と比較して違いを認識するのはよいのですが、よい悪いと価値判断をすることは慎まないといけません。また森田ではその人やそのものの持っている「存在価値」というものを大事にします。普通は、自分、他人、物を勝手に価値判断しています。そして人間にとって役に立つ利用価値があるかどうか、経済的にお金が儲かるかどうか、人から高い評価が得られるものかどうか。「利用価値」、「経済的価値」、「評価価値」でもって身の回りのものすべてを選別しているのです。森田では物にはどんなものにも「存在価値」がある。生きとし生けるものは意味もなく生きているのではない。その「存在価値」を見つけ出して高めてゆく方向で考えてゆきます。6、現実を肯定する。赤塚不二夫の天才バカボンの口癖は「これでいいのだ」です。私たちも「かくあるべし」で現実、現状を否定したくなった時、「これでいいのだ」と口ずさんでみることです。この言葉を口ずさむと、現実を認めて受け入れることになります。そして次に「これでいい」という理由を考えるようになります。
2015.03.25
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「純な心」とは、理屈や理性、常識や「かくあるべし」から出発するのではなく、自分の素直な気持ちや感情から出発して行動したり、発言する事だと思います。分かりやすく言うと、物に接して最初に浮かんだ感情、直感、初一念などを重視して生活することです。この「純な心」の大切はみんな知っている。しかしこれを生活に応用することは難しい。それは「純な心」は一瞬で消えてしまうからである。湧き起ったことすら分からないほど早く通り過ぎてしまう。そういう自覚を持って初一念と初二念の見極めをしないといけないのではないでしょうか。たとえば中学生ぐらいの女の子が夜の10時ごろに帰宅したとします。親として瞬間的に湧いてくる感情は、「大丈夫だろうか、なにかあったのだろうか」と心配になります。ところが娘が帰ってきて出る言葉は、「今何時だと思っているんだ、遅くなるときは家に連絡しろ。家族に心配かけるのもいい加減にしろ。」などです。理由も聞かず親の不快感を一挙に娘にぶっつけてしまいます。こんな場合最初の瞬間的に湧き起こった感情を思い出して対応することが大切です。あとからでてきた感情は「かくあるべし」ですから無視することです。これを前面に出して叱責、強制、指示、命令することは将来大きな禍根を残すことになります。次に初二念を無意識に、初一念と間違って理解していることがあります。例えば交差点で相手が目の前で急に右折してきたとします。直進者が優先なのにという気持ちがあるので、相手の行動に腹が立ちます。この時腹が立ったというのは、初一念だと思っています。はたしてそうでしょうか。この時最初に感じたことは「危ない。ぶつかってしまう」でした。間一髪間に合って、「ああ事故にならなくてよかった」でした。でも腹が立った感情が強すぎて、初一念は跡かたもなくなっています。この腹が立ったことだけを初一念だと思って、怒りを相手にぶちまけたとしたら、大喧嘩になったでしょう。反対に相手に血の気が引くようなぞっとした気持ちを思い出して、びっくりした気持ちを相手に伝えたとしたら大喧嘩に発展することは少なくなるかもしれません。「純な心」を生活に定着させるためには、「私メッセージ」から出発することが有効です。「あなたメッセージ」から出発すると、人間関係はうまくいきません。自己弁護や言い訳、他者非難、指示、命令、叱責などの言動が多くなるからです。「あなたメッセージ」には「かくあるべし」が入っているのだと思います。例えば学校で生徒が脚立に立って展示物をとりつけている時に、足を踏み外して転落しそうになった。その時の先生の発言。「あなたメッセージ」では、先生が生徒に向かって「不注意にも程がある。すぐに降りろ」と叱った。「私メッセージ」では、「先生は君が転落するかと思ってとても恐ろしかった。」などの発言になります。「私メッセージ」は森田で言う「純な心」からの対応です。森田では、最初に感じた感情(「純な心」)から出発して、次に理知で調整して行動することを勧めています。このことも大切なことです。そうしないと欲望の暴走が起きて、欲望が欲望を生み続けることになります。欲望が独り歩きして、他人の都合や環境破壊等にお構いなしに突っ走ることになります。自己中心的な行動は車のブレーキを活用するように制御されてこそ自他ともに活かすことになります。ですから「純な心」の学習は、その前提として、精神拮抗作用を学んでまずは調和を図ることが大事だと思います。
2015.03.24
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仏門では典座(てんぞ)という職があるそうです。これは食の世話をする僧侶のことです。畑を耕して野菜を作ったり、食料を買い求めたり、料理を作ったり、後片付けをする役職です。他の僧侶のように念仏を唱えたり、座禅を組んだりすることはありません。他の僧侶の身の回りの世話を専門にする人のことです。修業をして悟りを開こうとしている人から見ると、頭の悪い、程度の低い僧侶として軽視されがちな人です。だから尊敬されたり、重要視されることはほとんどありません。どちらかというと修業には縁のないどうしようもない人だとみなされがちなのです。僧侶から落ちこぼれて縁の下の力持ち的存在とみなされているのです。道元禅師にしても、良寛禅師にしても最初はそう思われていました。ところが修業が進むと、典座の仕事の中にこそ求めていた悟りの真実が隠されていたといわれています。典座という仕事は、道心強固な、仏道を真剣に求める立派な人物が任じられてきた職であり、大切な自然の生命である食料を扱うという事は、修業のできたものでなければできない。悟りというのは観念で開けてくるものではない。日常生活、それも毎日のわずらわしい食生活の中にこそ人生の意義は見出されるといわれているのです。世間では、食料を買い求めたり、食事の支度をすることは、女性が担当する仕事であり、たいした意義のある仕事ではないと思われているが、とんでもないことである。食事の支度が実に骨の折れることであるかは言うに及ばず、この仕事は老若男女を問うことなく行われるべき大切な修業である。毎日の生活が退屈だという人がいます。そういう人をよく観察してみると、価値のある仕事、クリエイティブの創作活動、意味のある行動、人から称賛されることに大きな価値があると思っています。そして価値のあまりない仕事、金にならない仕事、人から拍手喝采されないようなことは軽視して手をつけない。いわゆる雑事とか雑用、雑仕事はわずらわしいものとして毛嫌いするのである。そうかと言って価値のある仕事はどこからどこにあるのかわからない。仮にあってもどこから手をつけていいのか、きっかけさえつかめない。つまりどちらに転んでも、何もしないので退屈になるのである。実践という言葉の「践」の右のつくりはわずかという意味があるそうです。「浅」はわずかな水深です。「銭」はわずかなお金です。実践というのはわずかに自分の足を使って動いてみるということです。日常生活の中でわずかな実践は数限りないほどあります。その連続が人生そのものです。それらに手を抜かないで、一心不乱にものそのものになりきって取り組んでみる。すると感じが発生して高まり、そのうち工夫や発見が次から次へと浮かんでくるようになります。それらに取り組むことによっていくらでも進歩発展があります。これこそ森田の基本的考え方です。(道元入門 角田泰隆 大蔵出版参照)
2015.03.23
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ヨガは呼吸法を大事にする。基本は吐く息を長くすることである。吸う息の4倍ぐらい長くする。この手法は精神衛生上にも応用できることである。ストレスをため込まないで吐き出す。できるだけ小さいうちに吐き出す。その方法について考えてみましょう。春日武彦氏によると、そのためにしゃべるということがよいそうだ。春日氏がロット占いをした時の話だ。春日氏は精神科医である。自分の努力だけではどうにもならない問題を抱えていた。そこで占い師のところに行った。女性の占い師だったそうです。春日氏は仕事内容や状況を手短に説明し、現在の対応について語り、何が不満なのか、納得がいかないのか、理不尽な思いであるかをとうとうと語った。こんな話、妻にも友人にも同業者にも語りたくない。その占い師から役に立つ助言をもらったわけではない。でも占いを終えて、結構スッキリしたそうです。春日氏はこの経験を振り返ってみておられます。自分の胸の「わだかまり」そのものを冷静に語るそのものに意味があったのではないか。まず相手に「ことの始まり」から、「ことの次第」をきちんと順序立ててしゃべるためには、事態を頭の中できちんと整理しなければならない。どの部分が大切で、どの部分が「取るに足らないこと」なのかも区別しなければならないし、自分の心に生じた感情についても正直に述べなければならない。そうした作業をしていると、一体問題はどこなのか、不自然な点はなんなのか、拘泥している本当の理由は何なのか、本心ではどう思っているのか等が自然にあぶり出されてきます。普通だったら、それ以上は自分にとって都合が悪かったり視線をそらせたい個所を、無視したりパスするわけにはいかなくなる。相手に対して説得力があるかどうかは喋りながらも実感できますから、自分で自分をごまかしたり偽ってもちゃんと自分で気づく。しゃべることの効用はほかにもあります。語るという行為自体に、毒抜きでもするような作用があるようです。自分の言葉を自分で聞き取る。自分の声を聞き取ることで、自分を相対化し、客観性を獲得する。不安や怒りや焦燥といったものが冷静にしゃべるということによって鎮静化されるというのは、口から耳という回路を介して客観的視点を持つことができるからなのでしょう。胸の奥にしまったまま煩悶すると、わだかまりは妄想的に膨れ上がるものです。カウンセリングの核心も患者に悩みを上手く喋らせるところにあり、そのプロセスにおいては占い師もカウンセラーも似たようなものです。(待つ力 春日武彦 扶桑社新書 108ページより抜粋)これはセルフヘルプグループである集談会の効用であろう。大いに活用してもらいたい。逆にいえばただ相手の話に耳を傾ける。そのこと自体に大きな意味があるということです。学習を積んだ人はついアドバイスをしたくなる。困った時のアドバイスは役に立つことがある。でもタイミングが悪いとほとんど役に立たない。反感すら覚えることがある。数多くすればよいというものではない。それはアドバイスした人がスッキリしたいたいためだからである。何もアドバイスはできないがじっと相手の話を聞いておしまいにする。この方がよい場合がある。相手にしゃべらせて、相手が自分の頭の中で整理できるようになればよいのである。自分がスッキリしなくても、相手がスッキリすればよいのである。このことは肝に銘じておきたい。
2015.03.22
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私の最近の森田理論の学習について書いてみたい。現在はブログの更新そのものが森田理論学習になっている。3年目に入ったところだが、毎日のように更新している。現在は50ぐらいの投稿候補の原稿を持っている。この活動で森田理論はかなり深耕できたように感じている。最低5年を目標にしているのだが、まだ半分も経っていない。という事は5年経過したときどんな自分に変化しているのか今からとても楽しみである。かなり森田理論学習が深まっていくことは予想できる。これは今までのありきたりの森田理論学習では叶えられなかった夢が実現に向かって歩きはじめているような感じがしている。森田の恩恵を受けていない人にと思って始めた活動ではあったが、結局自分が一番良い影響を受けたのである。本当は、投稿内容について集談会のように意見交換すればさらに深耕できるのにとつい思ってしまう。どうして毎日いろいろと投稿できるのかという質問が時々ある。それは森田の事を頭において日々生活していることが大きいと思う。世の中で起きる事件、自分の身の回りで起きる出来事などを森田先生が生きておられたらどう考えられるだろうか。いつも森田の視点で見たり考えたりする習慣が出来上がっている。生活の発見誌、森田関係図書を読んで森田全体像のどこのところを説明されているのであろうか。あるいは森田以外の図書を読んで森田理論との関連記事はないだろうかと常にリサーチしている。現在の投稿記事の7割から8割は森田以外の図書からヒントを得ている。先人や立場の違う人の話は森田理論を考えるヒントの宝庫である。森田理論から離れて、森田理論を見つめているというところである。客観的立場に立って、宇宙から地球を見つめているようなものである。図書は町と市の図書館から借りている。2週間借りられる。それぞれ5冊ずつだから計10冊は常時手元にある。本はより好みしない。借りる本は手あたりしだい。5分ぐらいで決めている。一応ジャンルは心理、哲学、教育、医療、人生観,伝記、エッセイ、脳科学、精神衛生等においている。県立図書館は10冊貸してくれるのだが現在利用していない。新品の本を買う事は全くない。気に入った本はアマゾンの中古本を買っている。さらにブックオフで格安の本を物色している。原則として一日1冊の本を読んでいる。参考にならない本、内容のない本は途中でもすぐに中断する。土日、祝日は全く読まない。だいたい2時間から4時間で読んでいる。速読である。森田と関係あるなと思ったところは付箋を付けている。それを後でページ数と内容を簡単に抜き書きしている。これは必ずおこなっている。そして森田理論を活用して頭の中で整理したり考えている。最後に投稿原稿を書いている。投稿原稿の作成は朝7時から7時50分までと決めている。仕事があるからである。投稿するのは原則として、前日作った原稿を翌日の朝6時40分から7時の間と決めている。日中は仕事中心でブログはやらない。仕事から帰ってからコメント等がないか見ている。ブログ自体に関わっている時間は毎日1時間30分というところです。後は仕事とネタ集めをしているというところです。今はあまり熱くならないようにセーブしながら継続することを心がけている。
2015.03.21
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2015年3月号の生活の発見誌の巻頭言に集談会に参加する方が、一人一人役割を担っていくことの大切さが述べられている。全く同感である。セルプヘルプグループが組織として活動を継続するためにはとても大切なことである。セルプヘルプグループは参加することで、同じ悩みを共有化して精神的に落ち着きを得ることができる。さらに問題解決の糸口をみいだして、生き方を学ぶことができる。等メリットは言うまでもなく数多い。でもその仲間意識だけでは、組織を維持発展させることはできない。いずれ衰退して跡かたもなくなるだろう。だからお互いが会員意識を持って組織に関わっていくことが欠かせない。集談会に継続参加している人に会員意識を育てることが大切なのだ。たとえば生活の発見会でいえば、非会員の人には是非会員になってもらいたい。それが組織の活動を支えていく。これは他のセルプヘルプグループでも同様である。最低限のグループを維持していくための活動である。これは発見誌を読むとか読まないとかいう以前の問題である。生活の発見会が役に立つとか立たないとかいう以前の問題である。グループの継続にかかわる大変重要な問題である。また集談会では会場づくり、運営会議、会の司会、記録係、会場予約、図書の販売、初心者対応、会計、お菓子係、お茶係、BGM、講師対応、リクリェーションなどたくさんの役割がある。6か月以上続けてきている人は是非とも役割を持ってもらわないといけないと思う。これを集談会で経験すれば社会でも役立つ。またつい退会したくなった時の歯止めにもなる。結果として集談会にとどまることになり、最終的に自分の人生観の確立に役立つ。そういう意味でセルプヘルプグループは、仲間意識だけでなく、会員意識も絶対に必要である。自助組織というのは、その2つが車の両輪として回ることによって存続できるのである。そのためには幹事、世話人の方はいつも会員意識を育てることを念頭に置いて行動してもらいたいと思うのである。そういう働きかけを常に心掛けないとセルプヘルプグループは早々と淘汰されてしまう。つぶれてしまえば、自分たちも後輩たちも受けられる利益を放棄せざるを得なくなる。その際、対人タイプの人は役割を引き受けてくださいというのはなかなかハードルが高い。そういう時は不安タイプの人を活用することである。不安タイプの人は断られた時の対応は大変上手である。ショックが後々まで残らないことが多いようだ。いろんな人がいるので適材適所で取り組みたいものである。
2015.03.20
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森田先生の森田療法と我々の取り組んでいる森田理論学習の違いについて考えてみました。森田先生は自宅を開放して神経症の人々の治療にあたられていました。診察費も入院費も高い時代でした。薬物はほとんど使われていません。自然療法とか自覚療法といわれていました。基本的には実際の日常生活の様々な場面のなかで行われていました。入院生には実践や実行のポイントを細かく、具体的に指導されていました。妥協という事はなく、厳しいものでした。一人の人に指導されるときは、他の人もその話を聞いているというようなやり方でした。内容としては、行動・実践によってそれぞれに感じを発生させて、感じを高めて、やる気や意欲を持たせる。創意工夫が次から次へと出てくるようになり、観念の世界から行動実践の世界にきりかわってくるともう退院です。その中で「かくあるべし」的な思考方法を、事実に基づいた事実本位の考え方も指導をされていますが、入院生にどの程度認知されていたのかは疑問だと思われます。とにかく神経症で生活が通常に行われていない状態を脱出するというのが目的でした。大正8年から始められた黎明期の森田療法はそういう方法をとられました。その後昭和4年から形外会が始まります。形外会では理論的解説がなされております。入院経験者は形外会や森田先生の書物、雑誌「神経質」等の学習によってしだいに理論的にも神経質者の本来の生き方を確立していったものと思われます。ですから実践・実行による体得が先で、森田理論は後で補強されていったのです。後を継がれた水谷啓二氏は啓心寮で同様の指導をされていました。現在では入院森田療法はほとんど行われていません。あっても薬物療法等と併用されています。そういう状況の中で、我々は現在森田理論学習をおこなっています。学習が先にあって行動・実践はその後に体験するという方法をとっています。この点黎明期の森田へのアプローチとは順序が逆になっています。これはいい悪いとかいう問題ではありません。指導者のいない状態ではそれしか方法が無いのです。でも森田理論の学習から入るというのは気をつけないといけません。我々は元々観念的、理知的です。観念で納得しないことには行動・実践に移れません。学習から森田にアプローチするという事はますますその傾向を助長することになってしまいます。そして森田を観念で理解することが目的になってしまいます。そこで留まってしまうと行動・実践がすっぽり抜け落ちてしまうのです。そういう状況極めて危険な兆候です。観念の空回りが起こります。森田理論を忠実に理解しようとして、森田理論をこねまわすようになります。思想の矛盾が起こり、葛藤や苦悩が発生します。むしろ森田理論を学習しない方がよかったという状況に陥ります。私は理論と実践は車の両輪だと思います。小さい車輪の時は両方とも小さい車輪でよいのです。すると前に進めます。バランスが大事なのです。ところが実践の車輪が小さくて、理論の車輪がとてつもなく大きいということになると大変です。前に進もうとすると実践の車輪を支点にして、理論の車輪がその周りをたえず空回りするということになります。学習するにあたってもう一つ付け加えることがあります。理論は筋が通っているから理論なのです。手あたりしだいに森田先生のキーワードを学習して納得するというのは、筋が通っていません。実際には森田理論の学習にはあまり役立たないと思います。ですから森田理論の基礎的学習が終わったあとは、森田理論の全体像(大きな4つの柱)をきちんと把握して、その深化と相互の関係を学習することがポイントとなると思います。このプログで声を大にして説明しているとおりです。さらに、それがある程度の段階に達すると、視線は理論から離れて、日常生活、仕事、家事、育児等に向いてこないといけません。生活への応用なくして森田理論学習は考えられません。
2015.03.19
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最近は栄養補助食品のコマーシャルが多い。これに疑問を投げかける人がいる。新谷弘実氏である。日本人は、何かが「体によい」というと、それ一つを大量に摂りつづけることで健康を維持すると考える人が多いのですが、人間の体というのはそんな単純なものではありません。カテキンにしても乳酸菌にしてもポリフェノールにしても、たしかに「体によい」面はあります。しかし、カテキンを多く含む緑茶も大量に飲み続ければ萎縮性胃炎から胃がんになりやすくなり、乳酸菌を含むヨーグルトを多量に食べつづければ、腸相は悪くなってきます。一時期、赤ワインに含まれるポリフェノールが体にいいからといって赤ワインを毎日のようにがぶ飲みする人もいましたが、そんなことをしていると毎日アルコール分解に大量のエンザイム(酵素)が消化されてしまい、ポリフェノール摂取のメリットよりもエンザイム(酵素)消耗によるダメージの方がはるかに大きくなってしまいます。運動も、適度な運動は健康維持には欠かせないものですが、過激な運動はエンザイム(酵素)を消耗するので、かえって体には毒です。体を清潔に保つことは健康維持に必要ですが、ゴシゴシこすり過ぎて角層を損なえば、皮膚のバリア機能を壊し、免疫力を低下させることになってしまいます。何度も言うように、人間の体は、何か一つよいものを摂ればいいというような単純なものではありません。むしろ、どんなによいといわれるものでも、一つのものに固着しそればかりを摂りつづけることは、全体のバランスを崩す原因になりかねません。体を健康に保つうえでは、必要なものの不足と同じくらい、過剰摂取や偏りも害となるのです。いくら健康によいといわれるものでも、それ一つに偏るというのは「過ぎたるは及ばざるよりも猶悪し」という事だと思います。バランスや調和を無視すると存在自体が危ぶまれるという事だと思います。(病気にならない生き方 新谷弘実 サンマーク出版52ページ引用)免疫学の権威である安保徹医師は、免疫をつかさどる白血球のバランスが崩れることによって、ガンをはじめとするほとんどの病気は発生するのだといわれています。ガン細胞は健康な人でも毎日数千単位で作られているそうです。これを処理しているのは白血球の中のリンパ球です。白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。顆粒球過多になっても、リンパ球過多になってもよろしくない。これは血液検査で簡単に分かります。この微妙なバランスを支えているのは自律神経です。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。するとバランスが崩れて病気になりやすくなります。だから病気にならないために過度のストレスのない生活を心がけることが大事になってくるのです。でもそうかといって、すべてが満たされて悩みやストレスがまったくない副交感神経優位の状態がよいのかというとそうではありません。花粉症やアトピーなどはリンパ球過多で、少しの刺激を敵とみなして攻撃するために症状化してしまうのです。また副交感神経優位によるがんもあるそうです。ですから健康面でも森田理論でいうバランス、調和が大いに関係しているという事です。
2015.03.18
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生活の発見誌の3月号に一人で仕事を引き受けて苦しんでいる人の話があった。その方は介護の仕事をされている方でした。他の職員の方は依頼を断ることができるのに、この方はすごくまじめで責任感が強くて断ることができないのだそうです。真面目に引き受けていましたが、つらかったそうです。そしてついにうつ病になりました。こういうことは対人恐怖症の人はよくあります。私も経験があります。他の人の依頼を断ると相手から非難されたり、拒否されたり、無視されるようになるのではないかと考えてしまうのです。これは事実とは違いますが、そういうマイナス思考が習慣となっているのです。だから本来は喜んで納得して引き受けていないのに、現実は自分の仕事を遅らせてでも引き受けてしまうのです。心と体がバラバラです。その結果苦しんでいるのです。依頼する人はあの人は断ることはないから依頼しやすい相手となって、たびたび依頼してくるのです。他の方は「私できません」等というので依頼しづらいのです。そういう意味では主従関係が出来上がっているのです。でも、もともとプライドの高い我々はどうして私ばかりにやらせるのだろうという被害妄想に取りつかれてしまうのです。我慢に我慢を重ねて耐えていても、最後にはダムが決壊するみたいに感情を爆発してしまうのです。これは自分の気持ちをごまかしているから起きることなのです。今は自分の仕事が手いっぱいだ。身体が休息をとりたがっている。この次にまた厄介な仕事が待ち構えている。等の事情を無視しているのです。森田的にいえば対人的な不安や恐怖に対してやりくりをしているという事なのです。そうはいっても自分の都合を優先してはっきり断れないのが対人タイプなのです。それがよいところでもあるのです。でもなんとかしないといけません。いつも我慢したり耐えたりしているとストレスだらけになるのですから。そこで提案です。依頼された時相手にこう聞いてみたらどうでしょうか。まず納期はいつまでにやったらよいのでしょうか。自分の仕事や都合を優先させてそのあとでも間に合うのでしょうか。どの程度の範囲の仕事で時間はどれくらいかかるのでしょうか。自分の能力で十分できる仕事でしょうか。身体への負担、精神的な負担はどの程度でしょうか。今抱えている自分の仕事との兼ね合いはどうでしょうか。他の人の仕事の量や能力、進行状況はどうでしょうか。他の人に分担してもらう事はできないでしょうか。何人かに分けることはできないのでしょうか。それらを自他ともに確認してみるのです。これはどうしようか揺れ動いている状態です。とにかくすぐにイヤイヤ引き受けるとか、すぐに断るというのはまずいのではないでしょうか。時と場合にもよりますが、それは極端だと思います。自分の正直な気持ちや都合、他人の状況をよく観察して考慮したうえでどうするのかを判断してみてはいかがでしょうか。状況を把握する態度を大切にするとその後の展開は少し変わっていくのではないでしょうか。これは森田理論で言うと、まず過不足なく事実を観察するということになります。
2015.03.17
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今日は「無所住心」を深めてみたい。30センチ目の前に人差し指を立ててみる。普通にその指を見てみる。指に焦点を合わせると当然指は1本に見える。次に、その指を含んだ景色全体を「うすらぼんやり」眺めてみる。しばらく「うすらぼんやり」眺めていると、指が2本に見えてくる。これはもともと左右の目に見えている2つの像が、「うすらぼんやり」することで統合されずに見えている状態なのである。焦点が合っていないのである。しかもその指の像は、よく見ると向こう側の物を透かして半透明になっていると気づく。精神がもしこのような状態の時、不安とか恐怖、不快な感情というのは、あっても強い感覚となって意識されることはないのである。それは、感情にともなった身体感覚が得られないから、感覚、感情は定着できないのである。しかもこの「うすらぼんやり」した状況で、なんとなく体がリラックスしている事にも気がつくだろう。一つのことにこだわりがないので精神的に満たされており、安定しているのである。注意や感覚が四方八方に分散して生命力にあふれている状態である。さらに「うすらぼんやり」した状態は、是非善悪の価値判断もなく、好き嫌いもない。元々とらわれた感情は、言葉によって確固たるものになり、さらに身体に変調をきたすのである。逆にいうと、迷いや苦しみが棲みにくい身体状況を「うすらぼんやり」と言っているのである。これは森田で言うところの「無所住心」の世界である。注意、感覚、意識が分散している状態である。分かりやすい例を出そう。意識が右の手1か所に集中すると我々はすぐに何かを考え始めることもできる。では次に意識を両手の手に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の4か所に意識を分散させたままにしてみてもらいたい。これができるようになると、注意や感覚は一点に固定されるという事はなくなる。これは我々が森田理論で学習していることです。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態である。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を楽しんだり、ナビを見たりしていても、車線変更も自由自在にでき、赤信号ではとまれる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。このコツを体得すれば、一つの不安、恐怖、不快感、違和感等に翻弄されることはないと思われる。森田先生が何回も説明されているとおりである。(禅的生活 玄侑宗久 ちくま新書より一部引用 48ページから53ページ)
2015.03.16
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先日面白いテレビがあった。フィギアスケートの羽生結弦さんの演技に入る前のパフォーマンスである。コーチと何やら話をする。屈伸運動をする。スタート地点に向かって滑りだす。手を広げる。手で十の字を組む。肩をひねる。手を合わせる。そしてスタート地点に立って構える。これを毎回同じ動作を、同じリズムで行っているというのだ。合成写真を作るとほぼぴたりと重なるのである。これはイチロー選手でもほぼぴたりと重なる。イチロー選手はバッターボックスまでの歩数、屈伸、バットで足を叩く、構え方等17ものルーティンがあるという。それらが流れるように同じリズムで行われている。イチロー選手は試合のある日は毎回奥さんの作ったカレーを食べるという。そこから流れるような行動パターンが続いていく。球場入りの時間、入ってからの試合が始まるまでのストレッチ、練習なども、同じ時間にルーティンどおりに行われているという。これをプレパフォーマンスと言うそうである。なぜ彼らはプレパフォーマンスをことさら重視しているのだろうか。私は無意識の行動を意識しているのだろうと思う。意識が入り込むと迷いやプレッシャが生じる。迷いやプレッシャが生じると練習ではできていたことができなくなる。行動が次々に連続していると、意識が入り込む余地がない。実際は感じが発生するのだが、次々と感じが発生するためにいちいち一つの感じにとらわれるということが無くなる。つまりとらわれ続けているために、実際には何にもとらわれていない状況が発生するのである。ここが大事なポイントである。普通は新しい行動によって感じが発生する。でも次の行動がなければ、その時発生した感じが頭の中に居座ることになる。しばらくの間その感じと交流することになるのである。これがとらわれである。とらわれは新しい行動によって薄められたり、流れ去ってしまう。新しい感情によって発生するとらわれにとって代わってしまうのである。ところが新しい行動が用意されないと、薄められたり、流れなくなってしまう。同じ感情が居座り強化されてしまうのである。それが精神交互作用によって泥沼化したものが神経症である。我々が彼らの行動から学ぶことは何か。毎日の生活をルーティン化することである。つまり規則正しい生活をおこなうことである。毎日同じ時間に同じ行動をしていくことである。無意識に体が動いていく生活をすることである。別の日の行動を重ね合わせてみると、同じ時刻の行動はぴたりと一致するという生活を送ることである。すると一つのことにとらわれることが無くなる。とらわれても比較的早く流れていく。神経症に陥ることが無くなる。また行動に集中してゆけば、新たな気づきや発見が増えていく。それに基づいて生活が充実してくるはずである。
2015.03.15
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私たちは新年になると初詣に行って神頼みをする。姓名判断をしてもらうこともある。甲子園球児たちは試合になると「とんかつ」や「鯛」を食べてゲンかつぎをする。広島では宮島のしゃもじを持ち込んで打ちならす。これは「相手を飯とる」というゲンかつぎだ。プロ野球の選手は球場入りする時、少々遠回りでも縁起の良い道を選ぶという。だいたいお守りを持っている人も多い。それから数字にこだわる人もいる。私は1、11、111がどうしても気になる。それは不幸な出来事が、この数字に関係していたことを意識したからである。人によっては7が一番苦手だという人もいる。これらは不安にこだわっているとはいえないだろうか。基本的に神経症のこだわりと同じである。神頼みしたり、数字、ゲンかつぎ、おまじないをするのはとても合理的とはいえない。でもこれらの儀式をおこなうことによって、不安をいくらかでも減少させて、安心感をもたらせている。こだわっているとはいっても精神衛生上役に立っていると思う。きっとうまくいくと自分に言い聞かせて、不安をふっきる役割がある。そしてこの人たちの目の付けどころは、日々なすべき日常生活、あるいは目的や目標に向けられている。儀式やゲンかつぎをおこなうことによって迷いを払しょくして、思い切って前向きに行動・実践しているのである。これに対して我々が問題にしている神経症的なとらわれはどうだろうか。特徴としては、ひたすら目や意識が、自分の不安や不快な心の状態に向いている。そしてぶるぶる震える身体に向いている。変調をきたした体の状態に向かっている。これらがあってはとてもではないが、本来の目的、目標は達成できないから早急に取り除こうと考える。つまり目的や目標がいつの間にかすりかわって、不安や不快感をなくすることに終始するようになる。それだけ目的や目標に対する燃えるような執着性はもともと存在しなかったともいえる。本末転倒である。手段の自己目的化が起こっているのである。そうならないためにはどうしたらよいのか。まずは自分のなすべきこと、目的や目標をしっかりと持っておくことだと思う。こちらがしっかりしていれば、「とらわれ」に振り回されることは少なくなると思う。思い迷ったとしてもまた元の道へと軌道修正できる。そのためにはまず、日々の日常生活を規則正しくきちんとこなしていくことだと思う。毎日日常茶飯事に全力で取り組む。これはわずらわしいことではあるが、人間が生きていく上において、最も基本的な課題である。つまり基本的な目的、目標である。最近はお金さえ出せば何でも人任せにして生きてゆける時代である。そういう依存的な生活態度が強い「とらわれ」を作りだすのである。なぜなら多くの空白時間を作り出すからである。空白時間が多いと、注意や意識は自分の心や身体向いてくる。他人と比較したり、昔と比較したり、未来を空想したりする。つまり今現在をないがしろにして生きていくようになる。自分の生活は人任せにしない。自分自ら手を出していく。とくに食べること、掃除すること、整理整頓すること、洗濯をすることはさぼってはならない。自分自身が手を出して、日々なりきって取り組むことである。これが必要不可欠である。この中で「食べる」ことは、基本的には手ぬかりは許されない。献立を作る。材料を自分で作る。調達する。料理を作る。加工食品を作る。後片付けをする。それも1日3回である。仕事が忙しくて余裕のない人もいるだろう。簡単な料理しか作れない場合もあるだろう。それでも構わない。そんな時は品目を減らしたり、ある程度の作り置きをしてもよいだろう。でも外食や出来合いの惣菜等で済ます人も、これは本来の生活とはかけはられているという意識は持っておく必要がある。するといつでもまた基本に立ち戻ることができる。次に好奇心に沿って目的や目標を持つということである。神経質者は強い生の欲望を持っており、好奇心が旺盛である。さまざまなことに手を出したり挑戦してみることである。何もないという人はあちこちの公民館に出かけてみてはどうだろう。現在いろんな習い事がある。料理、楽器、俳句や短歌、手芸、演劇、踊り、カラオケ、盆栽、菊作り、花作り、パソコン、ヨガ、ハイキング、文学、歴史の勉強、朗読、軽いスポーツなどなど。自分の興味があるものが見つかるかもしれない。私はアルトサックス、獅子舞、どじょうすくいなどを習っている。芸も上達し、人に喜ばれ、仲間作りができた。
2015.03.14
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落語に「長屋の花見」という古典落語がある。長屋の住民はとても貧乏な人が多い。桜の花見の時、卵焼きやかまぼこを持って行きたいけれどもない。そこでどうするかといえば、たくあんを卵焼きだと思っている。大根をかまぼこだと思っている。お茶をお酒だと思っていくわけです。そうすると面白いやり取りになる。「このかまぼこいいね。どこの産だろうな」「そりゃ、練馬でしょう」「このお酒おいしいですね」「どうしておいしんだ」「そりゃ、茶柱が立ってますからね」面白い落語である。こちらまで楽しくなってくる。普通の人間は、そういう貧乏の家に生まれると、運命を呪う。他人をうらやむ。自分で自分を否定する。自己嫌悪の塊となる。他人に対しては隠して取り繕うとする。つまり「かくあるべし」で現実、現状、事実を否定しているのである。否定するところから生まれてくるのは、息苦しさだけである。思想の矛盾で葛藤や悩みを抱えるようになるのである。つまり上から目線で現実を見ているのである。それに対して長屋の住人は違う。現状を認めている。現状から出発して力強く生きている。自分が苦しいから、人の気持ちがよく分かる。長屋の住民は人情豊かに助け合いながら生きている。その中でまったくあきらめているわけではない。お粗末だけれども創意工夫をしている。自分の不幸な運命を隠さずに、公開している。それをユーモアというオブラートに包んで周りの人を楽しませている。目線は下から上を向いているのである。そこには「かくあるべし」はない。どこまでも事実本位、物事本位の態度である。私たちはこういう場合、不幸の身の上を嘆く。そして目につかないように隠す。でも周りの人はお見通しなのだ。隠そうとすると、周りの人はその話題に触れないように、気を配る。そこに注意を払うからとても気疲れするのである。自然に人が離れていく。それが自分の欠点や境遇、ミスや失敗を隠さずに公表すると安心して付き合える。ユーモアというオブラートに包んで提供すると自然に人が集まってくるのである。ユーモア小話にして周囲を楽しませるというのは、すごい能力の持ち主だと思う。
2015.03.13
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映画監督の小津安二郎の作品に「東京物語」というのがあります。老夫婦が広島県尾道市から東京に出てくる。久しぶりに子供たちに会うのを楽しみにしているのである。ところが子どもたちはそれぞれに忙しくて、まともに相手になってくれない。こんなシーンがあった。息子が医院を開業している。息子が日曜日「せっかくいらっしてくださったのですから、東京見物に行きましょう」と約束している。しかし、そこに急患が来て、すぐには行けなくなる。孫たちは、「行くって言っていたのにひどいよ」といって暴れる。おじいちゃんは、その孫たちをなだめたりしている。息子が「すいません、せっかく東京見物に行こうと言っていたのに」と謝っている。おじいちゃんは「まあ、いいよ、いいよ」「仕事が大事だから」と柔らかく応じている。結局東京見物はキャンセルとなる。息子は仕事にかこつけて本当は行きたくなかったのではなかろうか。少し考えると、出発時間を遅らせるか、仕事が終わったあと後から合流すればなんとかなったのではないか。でもおじいちゃんは、不平不満はあっただろうが一言も文句を言わない。これはなぜか。場面が変わって、尾道の自宅でおばあさんが亡くなった。子どもたちが東京から帰ってきた。お葬式の後、子供たちが好き勝手なことをいう。形見をくれ。遺産を分けてくれ。明日野球の試合があるから、もう今日は帰る。不人情なものである。とにかく言いたい放題、やりたい放題とはこのことだ。その時、おじいちゃんはにこにこ笑いながら「そうかい、もう帰えるのかい」といって、一人で静かに酒を飲んでいる。極めて穏やかである。心の奥底でそのように思っていたのであろうか。実はそうではなかったのだ。この映画の中で、東京で広島時代の友人と酒を飲むシーンがあります。その時、おじいちゃんは友人に心のわだかまりをちらっと垣間見せている。「もうちょっと息子がなんとかなっていると思って、東京に出てきてみたら、それがあんた、場末のこまい町医者でさ」息子を徹底的にけなしているのである。息子に対する不平不満がこういうところで出ているのである。この東京物語は、老夫婦と子どもたちの心理描写を描いたものである。おじいちゃんは子供たちの自分たちに対する仕打ちにやりきれない不満を抱いている。気の短いおじいちゃんなら怒りを子供たちにぶちまけていたことだろう。すぐにでも田舎に帰ってしまうことだろう。でもこの老夫婦は決して心の奥底を見せることはなかった。表面上は非常に穏やかであった。はたしてこれでよいのだろうか。この映画は、森田理論を深める上でとても参考になる。森田理論では、直観や第一に湧いてきた感情から出発しなさいという。「純な心」での対応である。この場合普通は、子どもたちの思いやりの無さ、勝手きわまる言動に腹が立つのではなかろうか。あるいは、なんともいえないむなしさ、悲しみが湧いてくではないだろうか。これはまぎれもない「純な心」である。普通は森田ではそこから出発しなさいということになる。でもおじいちゃんがそういう態度に出れば子どもたちと険悪な関係となる。子どもたちにうっとうしがられる。それを知ってか知らずか、おじいちゃんは子供たちに対して不平不満はたくさんあったが、好々爺を演じていた。おじいちゃんは人情を優先していたのだと思う。人情とは人間同士に生じる自然な感情である。これも「純な心」なのである。人情について森田先生はいう。「親父が博打をしていてもそれを警察に届けるような子どもは低能である。どんなに悪いことをする親でも、子供は父親をかばうことから出発しなければならない。それが人情である。」悪を憎むというのもいいが、それよりも人情を優先しないと言われているのである。ここで大事なことは、子供たちへの不平不満があるのも「純な心」である。また子どもたちと険悪な関係になりたくないというのも「純な心」である。「純な心」というものは一筋縄ではないのである。この2つの感情(純な心)の間でどっちつかずの居心地の悪さを感じて揺れ動いている。ここが「純な心」の大事なポイントである。「純な心」は2つの感情のどちらかに大きく片寄った言動として表面化させてはいけないということである。森田理論で言えば精神拮抗作用が働いて、バランス、調和を図ってゆかないといけない。その結果としてのおじいちゃんの言動であったのだ。おじいちゃんの対応は森田的に見て申し分のない対応である。ここは難しいところではあるが、「純な心」それだけを深めていくべきものではないのだろう。「純な心」は精神拮抗作用と関連づけて学習を深めていかないと、迷路にはまってしまう。横道にそれてしまって実生活には役に立たないものになってしまうのではなかろうか。小津安二郎監督の「東京物語」は山田洋二監督も絶賛している。私は森田理論の奥深いテーマを、具体的な映画として提供しているということが素晴らしいことなのだと思う。
2015.03.12
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司馬遼太郎さんの言葉です。男には女に対してふたつ型がある。猟師型と農夫型である。猟師型は女色家といっていい。絶えず未知なものにあこがれ、獲物を一つ得ては、「さらに他に大きなものが」と思い、あこがれ、冒険心をかきたて、ふたたび山に分け入ってゆき、次々とあくことを知らない。女好きというのは、決して道徳感覚が欠如しているということではない。普通以上に、未知へのあこがれが強く、冒険的行動欲がさかんというだけのことである。農夫型は、そうではない。10年1日のごとくわが畑をたがやし、くわ先にあたるその土のきめ、においになじみきり、その定着的生活になんのうたがいも示さぬばかりか、もし土地を変えて他村へ移れと言われれば目の色をかえていやがる。概して男には農夫型がすくないが、それでも男とは猟師型ばかりではない。(人間というもの 司馬遼太郎 PHP研究所 215ページ引用)欧米人は狩猟型で日本人は農耕型であるという分析も同じようなことだ。これを森田理論で分析してみよう。この際男とか女、欧米人や日本人という分類は無視してみたい。森田理論では日常茶飯事、雑事をことのほか大切にする。生活を規則正しく、ものそのものになりきって進めていく。日常生活をないがしろにして森田理論は成り立たない。そういう意味では農耕型と言えないだろうか。生活していくなかで気づきや発見があり、創意工夫の中で生きがいが生まれてくる。助け合いの生活の中で思いやりの気持ちも育っていく。これは生きていく土台のようなものだと思う。この土台をしっかりと作らないで、狩猟生活に重きを置くというのはどういうものだろう。好奇心、刺激、欲望、興味のままに手を出していくということだ。これを森田理論では生の欲望の発揮という。この方法で生きがいが持てればそれでいいではないか。一見よいように思えるがとても危険なやり方である。これはたとえてみれば砂浜に家を建てるようなものである。よい家を建てても波に洗われてすべてが破壊されてしまう。まず衣食住、睡眠、身の回りのこと、安全など基本的な生活基盤を固める。これらは基本的には自分自ら賄っていくという態度が大切である。この部分はいくら経済的に余裕があっても他人に依存してはならない。出来ることは自分でするという基本姿勢を崩してはならないと思う。基本がきちんとできていると、土台ができてくる。家で言えば4本の柱がきちんと建つということである。その段階で余裕があれば、自分のやりたいこと、夢や目標に向かってどんどん手を出していけばよいのだ。生の欲望の発揮ということである。その際欲望というアクセルを踏み続けるのではなく、不安というブレーキを十分に活用していくことである。だから農耕型、猟師型と分類することはあまり意味がないと思う。どちらも大切なのである。農耕型の生活が基礎にあって、その上に適度な猟師型の欲望を追及していくという生き方がまともな生き方であると思う。
2015.03.11
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適度な自己内省力は必要である。しかし現実には、自己内省力が全く働かない人がいる。欲望が暴走して自ら窮地に陥っている人である。また反対に自己内省力が強すぎて自分の身体や心にばかり注意が向いている人がいる。神経症で苦しんでいる人はみんなそうである。本来は生の欲望の発揮を前面に押し出していく。これが基本である。その次に欲望が暴走しないように自己内省力で制御していく。こうすればうまくいく。つまりバランスを意識して生活していくことである。サーカスの綱渡りを思い出してほしい。長い物干しざおのようなもので微妙にバランスを取りながら注意深く前進していく。もしかしたら落ちるかもしれないという気持ちが湧き起ってくると失敗する。たちまち落下してしまう。目的をしっかり持って前へ前へと進んでいくこと。バランスを崩さないように神経を集中していくこと。これしかない。欲望が暴走気味な人はどうすればよいのだろうか。こういう人は過保護で育てられた人が多い。なんでも欲しいものは自由に手にすることができた。だから欲しくても我慢する、耐えるという力が育っていない。また雑多な経験が不足している。例えば子どもの頃友達と遊んだ経験が少ない。だから大人になって言い争いとするとき、調整や妥協ということができない。ある程度まで抑圧していたかと思うと、突然大爆発したりする。こういう人は大人になって再教育というのは無理ではないかと思う。出来ることは、欲望が暴走しそうな場には近づかないということである。例えばパチンコなどのギャンブルである。調整機能が働かないのだったら最初からやらない。薬物依存、アルコール依存などもそうである。自分は途中で制御機能は働かない。ブレーキの効きの悪い車を運転しているようなものだという自覚を持つことだと思う。自己内省力の強い人はどうしてバランスをとっていったらよいのだろう。これは森田理論学習をすることである。生の欲望の発揮の仕方をいろいろと学んでいくことができるだろう。ちなみに私の場合は一人一芸を磨くこと。メモを活用して雑事を丁寧にこなしていくこと。好奇心に沿っていろんなことに手を出してみること。規則正しい生活を続けることなどであった。すると比較的早くバランスがとれるようになってきたように感じている。
2015.03.10
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2006年にイチローと矢沢永吉が対談している。イチロー 音楽というのは日々変わっていくものですよね。野球という世界もそうです。そのあたりを考えるに、仕事への取り組み方っていうのは、どのようにお考えですか。矢沢永吉 いやあ、やっぱりねえ、音楽は「生もん」っていうかな。この「生もん」っていうのは、しょっちゅう動いている、変わっているっていうこと。まあ、日々、変化していくものなんですよ。だから右のほうに変化すれば、右に変化したことに対応できるように、こちらも考えなくちゃならない。だからこそ、面白いんじゃないですか。だから自分にやるべきことが生まれてくるんですよ。やるべきことがあるし、対応のしかたを変えなきゃならんしね。だからやり続けられる。だから、これがねぇ。変化もなくなって、パターン化してしまったら、つまんないじゃないですか。うんつまんない。もう変える必要もなくなってきたときには、ひょっとしたらもう熱くもない。ほんとうにもう、終わっちゃうんじゃない。だから、こうやってずーっと、どうなんだどうなんだともがいているうちは、そんな上から下に教えてやるような態度なんかしてる場合じゃないし、できないよね。だからどこまで歌えるかわかんないけど、「もういい」なんてときは、ないかもしれないね。「もういい」ってときがないまま、それで終わるんじゃないかな。(イチロー、矢沢永吉 英雄の哲学 ピア132ページ引用)これは森田理論と同じ考えだ。森田は変化する自然や世の中に、自分の方から対応しないといけないと教えている。留まっている事はできない。不安や問題があってもそれらをいちいち解決して次に進むという態度ではない。それよりも変化対応能力が大事なのである。森田先生は変化に対応するには、体操の時の休めの姿勢で分かりやすく説明されている。つまり、片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。例えば電車の中でも、休めの姿勢で立っていると、吊皮などを掴む必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。また人間の感情というものも、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。それは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。
2015.03.09
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論語の中に「学ぶ」ということに関して次のように書いてある。「学びて思わざれば則ちくらく、思いて学ばざれば則ちあやうし」学ぶだけで、それを自分の身に即して深く考えなければ、漠然としてとりとめのないだけのこととなり、その知識は身につかない。さりとて、いくら自分があれこれと考え、思いつめたりしていても、学ぶことがなければ危うい。思い、学び、そして再び考え学ぶ。それが真に「学ぶ」ことなのである。(老いを生き抜く 森本哲郎 NTT出版 39ページ引用)なかなかうまいこと言うものである。本を読んだり、偉い講師の話を聞いて感心するだけでは「学ぶ」ということではない。その話を自分なりに考え、整理して消化しないと身につかないと言っているのである。森田先生は「修養」という事で次のように言っている。「修養とは、ともかくも実行である。私に接近し、私の気あいに触れねばならぬ。この感化を受けることを薫陶と言います。この気合いで神経症が治るのであります。」(森田正馬全集5巻191ページ)理屈を言う前に森田先生の言われるように行動・実践しなさいと言っておられます。また「修養という事は、実行の復習であって、思想の規定ではない。撃剣のようなもので考えると、最も分かりやすい。これは相手の隙間に打ち込み、受け止めるには、こうするとか思想判断する余地は少しもない。打つもはずすも、そこに間一髪もない。いわゆる電光石火の機がそれであります。つまり思想を排し、直覚と実行とから出発するという事を強調したい。」(同5巻70ページ)ここで言う思想というのは理屈、観念優先で頭で考えることだと思います。森田の修養とは、理屈や観念優先ではない。実行が伴わないといけない。行動・実践によって精神の働きや動きを体得することを言うのである。つまり森田理論を学ぶという事とそれを生活の中で応用して検証してみる。そして体得していく。この2つがセットにならないと森田理論学習はほとんど意味をなさない。そのためにわざわざ「修養」という難解な言葉を使っている。森田を深めておられる、ある方は「学修」という言葉を使われる。こちらの方が分かりやすいかなと感じている。そのものずばり、森田理論の学習と行動・実践による体得を意味しているのである。でもこの言葉を聞いた人が、そんな造語を勝手に作って学習会の場に持ち込んでは困ると言われた事があるそうである。そういう発言をされた方は、言葉にとらわれてその先の学習に進むことができないのだろうと思う。森田先生は、言葉は符牒と言われている。言葉はコミュニケーションをとるには便利なものである。でも言葉は反面いい加減なものである。その証拠に人間はその言葉を使って平気でうそをつく。心にもないことを平気で口にする。そういう面が多いという事を認識すれば、言葉は100%信用できない。おおよその見当をつけるぐらいにとどめておいた方がよい。言葉はその後事実を検証することによって真実となる。だから言葉そのものにとらわれるよりは、その奥に隠されている真意を探る方が、よほど意味があると思うのである。
2015.03.08
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2008年6月青森県弘前市のリンゴ園に「ひょう」が降った。リンゴはピンポン玉ぐらいの大きさだった。大きくなって出荷すれば、表面の傷は小さくなり、中身の味はまったく変わらないのだという。だが、表面に少しでも傷のあるリンゴを都会の消費者は買わない。そうなるとジュースにしかならない。ジュースにするリンゴは二束三文となる。それによって得られる収入は、冬の暖房費にしかならない。生活できない。農協への借金が返せない。工藤貴久さんもそんなリンゴ農家だ。工藤さんの農園では328本の木すべてに「ひょう」が降った。甚大な被害だ。このままでは3000万の借金を抱え込むことになる。この困難な状況に、工藤さんはどう立ち向かっていったのか。工藤さんはこれまで土作りをしておいしいリンゴを作って、それを消費者に直接販売していた。その消費者に向けて宣伝用チラシを作った。工藤農園は周囲の農家の中でも被害が大きかった。つまり「ひょう」の的中率が高かった。それを逆手にとって「予想的中リンゴ」と名づけて、年末ジャンボ宝くじを一枚入れて販売したのである。「予想的中リンゴ」はすべて完売したそうである。正直なところお客さんに泣きついて「助けてください」とすがりつきたいくらいだったという。しかし相手はお客さんだ。泣きつくわけにはいかない。売り手と買い手という距離を保ちつつ、自分の窮状を訴える方法はないものかと考えた。そんな中で「予想的中リンゴ」は縁起がよさそうだとひらめいたのだという。これはまさにピンチをチャンスに変えたのである。ピンチの隣にはチャンスが眠っている。そのいい例である。普通は悲観的になり、自暴自棄になるのではなかろうか。事実自殺者が何人もでたそうである。神様は自分が乗り越えられないような困難や問題、運命は与えないという。そんな厳しい状況の中でも常に前を向いて打開策を見つめていく生き方。口で言うほど簡単ではない。いつもそんなことはできない。何回失敗しても、くじけそうになってもよい。悲観して人生を嘆く期間があってもよい。でもいつかここに戻ってくることが分かっていればよい。森田を学習するとそのことが分かってくると思う。森田が目指している「生の欲望の発揮」を放棄すると、すぐに「かくあるべし」人間に陥ってしまう。「かくあるべし」人間は自分を苦しみの人生へと引きずりこんでしまう。森田理論学習で理解してほしいところである。(こころが折れそうになったとき 上原隆 NHK出版参照)
2015.03.07
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五木寛之氏は仏教には「対治」と「同治」という考え方があるという。例えば高熱を出した時に、氷で冷やして熱を下げるようなやり方を「対治」という。これに対して、十分に温かくしてあげて汗をたっぷりかかせ、そうして熱を下げるようなやり方を「同治」という。また悲しんでいる人に、「いつまでもくよくよしていてはだめだよ。気を持ち直して頑張りなさい。さあ、元気を出していこう。」というふうに励まして、悲しみから立ち直らせるのが「対治」的な対応です。これに対して、黙っていっしょに涙を流すことによって、その人の心の重荷を少しでも自分のほうに引き受けようとする、その態度が「同治」なのです。つまり「対治」は、その状況を否定することから出発し、「同治」は、その状況を引き受けるところから出発する。西洋医学は、まさに「対治」の思想でした。病気と闘うというつよい意志をもつことで、がんや病気を克服できるという一面は確かににあるでしょう。それを認めたうえで、対立と抗争以外に医の思想はないと考えるのです。否定から出発するのではない。新しい肯定の思想、病とともに生きていくという「同治」の思想が、今必要なのではないでしょうか。(自力と他力 五木寛之 講談社 90ページより引用)この「対治」と「同治」の考え方は森田理論と極めて近い考え方だと思います。「対治」というのは、不安や恐怖、違和感、不快な感情を敵とみなしてなんとしても取り去ろうとする態度のことです。とれないどころか、どんどん泥沼化してくることはみなさんよくご存じのとおりです。これでは神経症から解放されることはない。さらに実りある人生を送ることもできない。出発点からして間違っているからである。「同治」というのは不安等を役に立つものとし認識し、その役割を生活の中で活用していこうという態度です。邪魔者として排斥しようとしていない。不安は腸の中に住む細菌のようなものです。人間には約1キロの細菌が住みついているそうです。気持ちが悪いように思うけれども、この細菌がないと人間は生きていくことができない。同じように不安等は生きていく上になくてはならない大切なものです。いわゆる不安常住、不安感謝の態度こそが大切なのです。また不安などは、欲望の存在を教えてくれています。自分の本当の欲望をさぐりあててその方向で努力することは大切です。努力即幸福、唯我独尊が森田の進むべき方向です。また行動は一本調子になって突っ張り過ぎてはいけない。不安などを活用して慎重に行う必要がある。五木氏は森田理論を仏教の立場から説明しておられるのだと思います。
2015.03.06
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森田理論を応用して仕事を楽しくする方法について考えてみたいと思います。仕事が苦痛であるというのは、人から指示された仕事を生活のためだから仕方がないと割り切って、イヤイヤしかたなく手をつけている時に湧きあがってきます。反対におもしろくて、楽しい。弾みがついて仕事三昧になると仕事を苦痛だと思う事は無くなります。どうせ仕事をするのだったらこちらの方がよいとは思いませんか。そのためにはどうしたらよいのか。最初は仕事はイヤイヤしかたなく手を出していくという事です。次に仕事をよく観察するという事です。確かめる。五感をフルに活用してみる。よく見る、聞く、味わう、臭う、触れてみることです。さらに人から依頼された事は、依頼された事だけやるという気持ちではなく、今一歩踏み込んでみることです。すると自然発生的に何らかの感情が起こります。簡単だと思っていたが以外に時間がかかる。とても自分の能力だけでは難しそうだ。難しいと思っていたが意外と簡単だった。いろんな気付きや発見が湧いてくるかもしれません。さらに問題点や課題が見つかるかもしれません。これを森田では見つめよ。すると感じが発生して、感じが高まると言います。仕事がおもしろいというのは、そのきっかけとなる外部の出来事がある。それに対してなんとかしたいという感情が湧いてきる。しだいにやる気や意欲、モチュベーションが高まる。最終的に自主的、積極的、生産的、創造的な行動へとつながります。例えば、1「腹が減った」という出来ごとに対して、2「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから3「食事を作るか食べに行く」という行動が発生します。このステップを確実に踏んでいけば仕事はおもしろいものになるのです。他人からいきなり行動を押し付けられるとそのステップを踏むことができません。つまり感情の高まりもない、意欲ややる気もない状態でいきなり行動することを求められているのです。これはこの意欲の高まる行動のステップを無視しているから苦しくなるのです。最初は他人から依頼された嫌な仕事でも、仕事そのものになりきることができれば、そこに自然に感じが湧いてきます。すると気づきや発見があります。するとやる気や意欲がでてくるのです。すると最初はイヤイヤ始めた仕事が楽しくなるのです。そうなると進歩発展があります。だいたい仕事というものは会社の方針が示され、目標必達のために努力することが求められます。つまり仕事は基本的に無理やりやらされることが多いものです。その状態で与えられた仕事だけをこなしていこうとすると苦痛になります。あたりさわりのない仕事をしていると、感じの高まりもない、意欲もやる気もわいてこない。成果も上がらない。よい評価も得られない。つまり負のスパイラルに陥ってしまうのだと思います。そんな状況でも仕事になりきって取り組み、問題や課題を自ら設定して行動している人は仕事が楽しくなります。上司からも、同僚からも評価される。十分な報酬も得ることができる。プラスの好循環が始まるのだと思います。会社の多くの構成員がそうなれば戦う集団へと変身します。どんどん変化して、成長企業になります。ここで注目していただきたいのは、人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」はとても大切なのです。森田理論で学んでいるとおりです。自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。ところが「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の力もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。仕事をおもしろくして、ますますやる気にさせるにはこれを応用すればたちまち解決すると思います。
2015.03.05
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アメリカのトーマス・D・ラッキー博士は「ホルミシス効果」という学説を発表しておられる。これは身体に有害なものでも微量なら、かえって身体にプラスに働いているという理論です。例えば放射能、紫外線、アルコール等です。普通はそうしたものはすべて身体の害になると思っています。実はそうではないと言われているのです。人間にとってなくてはならないものだといわれているのです。そう言われれば適度なアルコールは交感神経過多でイライラしている時に、精神を癒してくれます。もっとも呑み過ぎは身体に悪影響を与えますが。インフルエンザワクチンにしても弱いウィルスを体内に投入することによって、抗体を作り出すというものですね。ワクチン接種をしないよりもした方が、インフルエンザにかかりにくくなるのです。そういう有害なものが体内に入ると、身体の中で免疫システムが作動するようになっています。これはHSP(ヒート・ショック・プロテイン)というものです。これは別名ストレスたんぱくと言われています。働きとしては、異常なたんぱくが出来ないように制御したり、痛んだ細胞を修復したりするそうです。その結果細胞が強化されて、病気に強くなるのだそうです。病弱な人、けがをした後、手術後、ストレスを乗り越えた後などにはHSPというストレスたんぱくができて健康維持に役立っているというのです。病気やけがの時に集中治療室に入ることがあります。この状態は免疫機能が大変脆弱になっています。ですから無菌室で隔離しておかないとすぐに感染症等で重篤な生命の危機にさらされるという事です。これは特殊な例です。無菌状態が長引くことは免疫システムが作動しません。するとやがて死に至ります。普段人間はこれらのストレスに知らず知らずのうちに絶えずさらされています。そういう多少の危険な状態の中で生きているのが普通の状態です。一病息災という言葉があります。一つぐらいの持病を持っていたほうが長生きができるという事です。全く病気をしない人は健康に注意を払いません。気がついたときは手遅れであったという話はよく聞きます。我々はストレス、不安、恐怖、不快感、違和感はすべて除去しようとします。完全、完璧な状態は、最も不完全ということだと思います。ストレス、不安、恐怖、不快感、違和感は嫌なものです。でもある程度のストレスを抱えながら生きていくというのが、かえって一番安全な生き方なのでしょう。これは森田理論の「不安常住」の生き方と同じことだと思います。それよりも「生の欲望の発揮」に目を向けていくというのが大切なのだということだと思います。(病気がある人ほどなぜ健康でいられるのか 石原結實 三笠書房参照)
2015.03.04
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現在勤めている会社で不平不満を人事担当者にストレートにぶっつける人がいる。例えば有給休暇を自由にとらせてくれない。入社時に聞いていなかった仕事をさせられる。自分の立て替えた金銭の処理が遅い。正社員はよく休みをとりすぎる。そのしわ寄せは我々のところにくる。細かい事務書類でいちいち細かい指示をされる。間違えるとえらい剣幕で怒られる。等々。聞いているもっともとだなと感じることもある。少し彼の方から妥協してもいいのではないかと思う事もある。その人は現在64歳である。この会社の定年は65歳である。でもすぐに退職というのではなく、70歳まで嘱託として雇用延長が可能なのである。雇用延長は1年ごとの更新となっている。それには条件がある。今まで仕事を誠実にこなしている人。仕事に耐えうる体力がある人。人間関係のトラブルを起こさない人。自分勝手の事をしない人。等である。雇用延長にあたっては審査があるのです。それらに該当しないと判断されると退職勧告をされます。この方の場合は現状ではとても難しい。会社の推薦を得ることが困難なのである。でも本人は70歳まで雇用延長を希望している。それは年金が少ないのと、老後が心配なので多少なりとも蓄えを作りたいのだという。どうしたらよいだろうかと相談しに来られた。私の助言は森田理論をふまえて次のように話した。自分の意志や希望をもっと自覚する必要があるのではないか。現在はそれが希薄ではないのか。そのためにはどうするか。ライフプランを作ってみたらどうか。これから先せめて90歳ぐらいまで生きていくとして、はたしてどれくらいの支出が必要となるのか。生活費、冠婚葬祭費、固定資産税などの税金、健康保険料、介護保険料、その他医療保険、車両維持管理費、趣味や交際費、家電製品の買い替え、家の修理費、葬式費用等に分けてシュミレーションしてみる。老後は年金が主体となる。奥さんが専業主婦だったというから年金は生活するだけでぎりぎりだろう。後は退職金や貯蓄を切り崩す。不動産を処分することぐらいしかないだろう。そういった生活で90歳ぐらいまで食いつなぐことができるのかどうか。詳しく分析してみれば結論出るだろう。自覚すれば仕事の見方が変わってくる。現在は社会保険関係が会社によって保障されている。賞与もでる。恵まれているのである。仕事をすることで規則正しい生活ができる。健康にも役に立っているのである。そうなると、不平不満をストレートに会社の人事担当者にぶっつけるというのはよくないという自覚がでてくる。それでもあえて言うというのは、辞めさせてくださいと言っているようなものである。でもあなたの場合は我慢できることはできないだろうと思う。口に出すことによってストレスを発散しているからである。それが今までのやり方だった。さらに不満や不平は我慢したり耐えたりしないで、吐き出す方がよいという考えもある。一面では精神衛生上役に立っていると思う。でもそれによって仕事を続けられないというのは本末転倒である。あなたにとっても不本意なことだろう。そこで提案だが、吐き出す相手を変えてみたらどうだろうか。人事担当者の前ではとりあえず「はい、よく分かりました」と答える。絶対に矛先を人事担当者に向けてはならない。でもそこで不平不満があるのなら私宛に話してみたらどうだろうか。私に話せばストレスが発散できるのなら聞いてあげる用意がある。私はあなたの話を聞いて交通整理をしてあげてもいい。会社の理不尽さについてはどう交渉するかはお互いによく考えてみよう。またあなたが我慢して妥協した方がよいことはそれなりに教示させてもらう。またどうにもならないで不平や不満が解消しないこともなかにはあるだろう。そういう場合もあることは分かって欲しい。でもあなたが本当に望んでいる事は70歳まで元気に働いて、少しでも生活の足しにしたいということではないのですか。私はそのためには、少し物足りないけれども、あなたの力になるという覚悟を決めますよ。彼は性格上不本意な様子ではあったが、一応納得はしてくれたようです。幸運を祈りたいものである。
2015.03.03
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川崎市で中学1年の上村君が遊び仲間に首の頸動脈を切られて殺された。大変残忍な事件であった。主犯格は18歳の少年であると報道されている。事件の詳細は徐々に明らかにされていくであろう。18歳は少年法から外れて死刑判決になる可能性がある。そうして解決することを願っている人もいる。でも、仮にそうなって幕引きを図ったとしても、今後抑止力が働いて再発防止につながることは考えにくい。これは構造的な問題だからである。対症療法では再発防止はできない。私はこの問題は、事件の当事者が、命をかけて社会に問題提起をしているのだととらえている。子どもをどう育てるのか。子どもと社会の関わり方をどうとらえるのか。そこにこそ光を当てて取り組んでほしい。さて18歳と言えば1997年の生まれである。1990年代というのは社会が大きく変わった時代である。かつて経験しなかった時代の始まりだった。インターネットが急速に始まったのである。これは子どもの成長に多くの問題を投げかけている。子どもたちは外で友達と遊ぶよりは家でゲームをすることが多くなった。いわゆるひとり遊びである。外出するのは塾へ行く時、野球やサッカー、水泳などの習い事をするときである。人間関係を学ぶ機会はとても少なくなった。自然との触れ合いは見るべくもない。友達とのコミュニケーションは携帯やメール、LINE、ツィッター、フェイスブックのようなのに変わっています。人間関係は顔を突き合わせなくても、世界の人とつながるようになっています。子どもたちは、否応なしにこのような状況に巻き込まれて日々成長しているのです。そんな時代はまともとはいえません。テレビを見ていると現代の戦争は、ゲーム感覚だそうです。家の中でゲームで敵を倒すという遊びを続けてきた子供が大人になり、軍隊に入る。そして一旦戦争が始まると、今や主力は最前線に行くのではない。主力は空爆である。近くの自国の軍隊の基地に行き、ステルス戦闘機のような無人の攻撃機をGPS機能を利用して操作する。ピンポイントで正確に攻撃できる。自分の命を懸けて戦っているのではない。ゲームの延長として任務を遂行しているだけのことである。あるいは戦場からは遠く離れた航空母艦や潜水艦の中にいる。中東のイラクだろうとイラン、シリア、リビアだろうと遠隔操作できるのだという。まさに子供時代の遊びの延長である。恐ろしいことに、これでは爆破されて人が死ぬというリアルな実感が持てない。心が痛まないのである。これを拡大解釈すると、管理の甘いどこかの国で核ミサイルのボタンだって押すかもしれない。一旦ボタンを押すと後戻りはできない。反対攻撃を受けて双方とも全滅だ。ここで最も大きな問題は、子供時代にバーチャル世界の体験を積み重ねていると、人の痛みが分かるという健全な感情が育たないということである。そして一旦人の痛みのわからない人間が出来上がると、大人になって取り戻すことはできない。そういう人間として一生を生きていくしかないということである。そういう時代背景のもとで、さらに過干渉、過保護、言う事を聞かなくなると自由放任で無視するという育て方をされた子供たちを、我々大人が責める資格があるのだろうか。この事件は、こういう世の中だともっともっと凄惨な事件は多発しますよと訴えている。森田を学習している人の中には、将来大変な時代が来ると予測している人もいます。症状からある程度解放された人は、子どもたちをどう育てていったらよいのか。社会と子どもたちのあり方はどうすればよいのか議論する必要があるのではないでしょうか。これは実際に子育てをしていない人たちにとっても切実な問題であると思う。
2015.03.02
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森田先生は「すぐに解決できそうもないようなとき、疑問は疑問としてこれが解決する時節を待つしかない。すぐに衝動的な行動をしてはならない。態度を保留にすることが大事である」と言われる。例えば、赤ちゃんが夜鳴きをしてうるさくて寝れない。寝ないと明日の仕事に差し支える。こんな場合どうするか。うるさいと思うのも純な心である。子供のことだからしかたない。「我慢しなければいけない」と型にはまっていては少しも進歩はない。また一方叱りつけたり、懲らしめたり、菓子を与えて機嫌をとるなどの軽率な行動はもっといけない。神経者はどちらかに態度を決めなければいけないということが強い。白か黒かどちらかに決めたがる。どうしてよいか分からないようなときは、うるさいなあという純な心はそのままにして、態度を保留にすることである。ああうるさいどうしてやろうかと、ああも思いこうも工夫して、子供を観察したり、他の事をしていると、いつとはなしに、子供は泣きやんでくる。なるほど子供は泣くだけ泣けば泣きやんでくるものだという法則を発見する。(5巻676ページ)自分自身の不快な気分をすぐに解消しようとする態度は慎んだほうがよい。不快な感情をなくそうとすれば精神交互作用で最終的に神経症になる。イライラした気持ちのままに我慢しておくとその不快な気分は霧散霧消していくのである。森田先生は、他人が不快な気持ちになった時の対応について、こんな話もしておられる。このあいだ、5つになる女の子を熱海につれていった。感冒で熱が38度もあった。機嫌が悪くて、いろいろ駄々っ子をいう。寝ていなければならぬといっても抱っこしてくれといって泣く。抱っこしてやれば今度は「外へ行く、外へ行く」という。熱があって気持ちが悪いから、風にあたればよかろうと、子供ながらに考えるのでしょう。少し訳の分かった母親は、子供の駄々っ子は、いい加減あしらって、静かに寝かせておくが、気の軽い親は、別に深い思慮のなにもなく、子供のねだるままに、なんでもその通りにしてやって決して病のためにはよくない。(5巻459ページ)これは他人が不快感でイライラしている時の、自分のよくありがちな対応である。苦しんでいる相手に同情して、そのイライラを取り除いてやるという事は慎まないといけない。相手に不快感を十分に味わってもらわないといけない。どうにもならない不快感は受け入れてもらうことだ。自然に服従してもらうことだ。安易に救いの手を差し伸べることはあってはならないことなのだ。これが森田で勧めている正しい対応となる。こういう場合、無責任のようだが子供を適当にあしらっておくことが大切である。すると自分ひとりで不快感と向き合う体験ができる。反対に過保護にしていると、大人になっていつも我慢できない人間になる。欲望の暴走が起きるのである。また他方では、依存的で無気力、無関心、無感動、無作法な人間へと成長してしまう。これらは小さい時に、不安や不快感としっかり向き合って受け入れてこなかったつけが回って来たのである。
2015.03.01
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