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キューリはどれもこれもひとつずつ形が異なっている。まっすぐなものもあれば、曲がったりひねくれたのも多い。土と水と太陽の中で、生まれたままの自由な形で自己表現を主張している。われわれ人間にも生来の素質があり、環境によっても性格に違いがあるように、植物にもいろんな差異と変形が生じるのであろうか。言わば遺伝的な性格の違いを、そのまま認めているのである。我々と違うのは、その曲がったまま、ひねたままで精一杯に堂々と成長しているところだ。無理にまっすぐなキューリになろうとはしていない。曲がったままで無心に生きている。私ども人間も生物の一員なのだが、そのかけがえのない資質や性格を排除したり無理に変えようとはしていないか。個性を埋没させ、矯正しようとしてはいないだろうか。生まれながらのありのままの性格を受けいれて、最大限に活かそうとしているだろうか。曲がったまま、ひねくれたままで「自然に服従し、境遇に従順に」生きていきたいものである。(1996年生活の発見誌 11月号より引用)これは平等観と差別観に関係がある話です。人間は誰でも目と耳は2つ、鼻や口は1つずつついています。その点では平等です。ところが一卵性双生児以外は一人として同じ顔の人はいません。人それぞれ固有の身体的特徴を持っています。それは個性というものです。よいも悪いもないはずです。その個性を認めて、個性のままに生きていけばよいはずです。しかし実際には、自分の物差しを使い、美醜の判定をしているのです。それは時代が変われば逆に判定されることもあります。その微妙な違いが時に優越感や劣等感をもたらしています。禿げだ、デブだ、ブスだ、身長が低い、見栄えが悪いなどと判定してしまうと劣等感に振り回されるようになります。神経質性格をよくない性格であると判定してしまうと性格改造を考えるようになります。そんな自分を生んだ親を責めるようになります。このことを森田では劣等感的差別観といいます。元メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男会長は、「人間には10の欠点があれば10の長所がある」と言われていました。自分が元々持っているものや強みで勝負していくことはできないものでしょうか。そのためには、他人と比較して違いをはっきりさせることが大事になります。但しその違いを是非善悪の価値判断に持ち込むことは問題です。そのときは「ちょっと待て」といって思いとどまることが必要です。次にその違いを両面観で見ることが大切になります。弱点や欠点は強みや長所と裏表の関係にあります。弱点や欠点に片寄ることは片手落ちです。神経質性格者はマネージメント力、対人折衝能力などは苦手という人が多いと思います。しかし反面、感受性が強い。好奇心が強い。生の欲望が強い。粘り強い。責任感が強い。物事をより深く考えることができる。分析力に優れている。など優れた性格特徴があります。芸術や創造力の発揮には欠かせないものです。ないものねだりをやめて、自分に元々備わっているものを活かして生きていくしかないと思います。
2024.05.18
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「いい加減」という言葉があります。「いい加減な人」とは、思慮が浅く、信念がない。一貫性がない人のことをいいます。あるいは時間やお金にルーズで、約束を守らない人のことを意味します。何事に対しても、中途半端で、すぐに他人の意見に流される人もそうです。「いい加減なことを言うな」という発言は、事実に基づかないで、先入観、決めつけ、思い込み、早合点の発言は慎みましょうということです。これらは、「いい加減」という言葉がすべて否定的な意味合いで使われています。「いい加減な言動をとる」や「いい加減な人」という場合は、次のような特徴があります。まず事実を自分の目できちんと確かめたうえでの発言ではないということです。つぎに、この傾向のある人は、深い洞察力のあるものの見方・考え方をしていない。これらは単なる思いつきや他人の受け売りで「いいかげんな発言」になっています。しかしこの「いい加減」という言葉は全く違う使い方をされる場合があるのです。お母さんが兄弟げんかをしている子供に対して、「あんたたち、いい加減にしなさいよ」と叱ることがあります。兄弟げんかが激しさを増して、罵りあい、手足をだすようになった時に、程よいところでやめておきなさいよと注意喚起を促す言葉になっています。また、「お風呂のお湯加減はどうですか」という場合は、熱くもなく、冷たくもなく、ちょうどよいお湯加減になっていますかという意味です。この場合は、「ほどよい加減に調整する」という肯定的な意味合いで使われています。この言葉は森田理論の調和、バランスという考え方に近いものがあります。神経症に陥ると生の欲望の発揮が蚊帳の外になり不安と格闘を始めます。森田では欲望と不安はコインの裏と表の関係にあるといいます。欲望と不安は表裏一体です。森田では生の欲望を前面に押し出しながらも、不安を活用して調整する必要があるといいます。バランスや調和を意識する必要があるのです。神経症に陥った場合は、不安はとりあえず横において、欲望の方に焦点を当ててバランスを回復させる必要があります。このことを別の言葉でいうと、偏りを修正して、「ほどよい加減に調整する」ということになります。神経症に苦しんでいる時は、不安過多に偏っています。不安と欲望を調整して、いい加減に戻してバランスの回復を図ることがとても大事になるのです。
2024.05.17
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阿部亨先生は、人間関係には「車間距離」が必要だと言われています。車を運転しているときに、前の車にぴったりとくっついていると、前の車が急ブレーキをかけたときに追突してしまいます。特に高速道路では、仮に前の車が急ブレーキをかけても、衝突を回避できるだけの車間距離をとることが必要です。(森田療法ビデオ全集 第4巻 悩める人への生きるヒント 阿部亨 参照)これを人間関係に応用すると、特定の人に絶えずぴったりと寄り添うというのは考えものだということです。おしどり夫婦、無二の親友という状態は、とても響きの良い言葉ですが、それぞれの人間が意志や欲望を持っている限り、対立することは頻繁に起こりえます。その時相手に追随してピッタリ寄り添っていると、相思相愛の人間関係が、顔も見たくないという犬猿の仲に変わってしまうことがあります。利害が一致するときは共に行動し、対立したときは距離を置くようにすることが大事になります。人間関係のコツは「人間」という字が教えてくれています。人と人の関係は「間」(ま)が必要だということです。これは自動車でいえば、ハンドルが過敏に反応しないように「あそび」があるようなものです。緩衝帯が全くないと事故につながるので危険です。人と人との関係はくっつきすぎても離れすぎてもうまくいかない。くっつきすぎると支配・被支配、過保護、過干渉、共依存の関係になりやすい。離れすぎると孤独になり、一人寂しく生きていくしかなくなります。この人間関係作りは、森田では「不即不離」といいます。桂歌丸師匠曰く。「間」のいい落語家は、つまらない噺をやっても受けるが、「間」の悪い落語家はどんな面白い噺をやっても受けない。厄介なことに、弟子に噺を教えることはできますが、「間」を教えることはできない。私なんか、本当に「間」ができたのは、40歳を過ぎてからでした。北野たけしさんは、人間関係で「間」をはずすと、「魔」がその場をぶち壊しにすると言われています。人間関係の車間距離をとることがとても大事になるということだと思います。人間関係は必要なときに、必要に応じて、必要なだけの人間関係を心がけることが肝心です。親しすぎる人間関係も離れすぎる人間関係もどちらも問題がでてきます。森田でいう「不即不離」を活用すると人間関係の悩みは軽減できます。
2024.05.16
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森田先生はやるかやらないか迷うときは、いったんイエスと引き受けなさいと言われています。本当にそうなのでしょうか。ある人が会社の採用試験を受けた。会社は経理に精通し決算書が作れる人を求めていた。その人は簿記の資格を持っており、やり方を教えてもらえれば、何とかなるだろうと思って、「できます」と答えた。そして運良く採用された。ところが決算時期を迎えて、目的が果たせなかった。結局は会計事務所に依頼することになった。その人は解雇されたという。この方は作成能力がないのに、採用されるために安請け合いをしたのである。入社後死に物狂いで、決算報告書の作成、税務申告書の作成方法を勉強すれば何とかなったのではないかと思う。入社できたことが最終目的地で、その後の努力を怠ったので経歴詐称を働いたと思われたのである。森田先生が今の慈恵医科大学の前身である慈恵医学校で、「精神病学」の講義をするようになったのは、東京帝国大学卒業後9か月目です。その当時、1時間の講義をするのにその準備に8時間も要したのです。この時に、「自分はまだ講義をする実力がないから、1年先に延ばしにしてもらいたい」といったところで、オポチュニティーは頭の後が禿げているから、決して後ろから、つかまるものではありません。(森田全集第5巻 535ページ 要約引用)森田先生はイエスと答えたあと、その期待に応えるために、必死に努力精進することが必要だと言われている。自信のない事、能力不足なことを引き受けるからには、責任を果たすための覚悟と努力が欠かせないということです。もしその覚悟がなかったとすると、軽はずみで、信頼のおけない人だと判断される。大きな行事に参加申し込みだけして、そのうち気が変わってドタキャンする人がいます。主催者は宿泊や食事の手配、交通費の手当てなどの準備をしています。ドタキャンは主催者に迷惑をかけ、無責任な行為になります。あるいは運よく仕事にありついても、与えられた仕事をこなさないでさぼりまくる人もいます。イヤな気分に振り回されて、なすべき事から逃げてしまう人です。こういう人は「迷った時はイエスと答える」を安易に実行すると、信頼をなくして相手にされなくなってしまいますので注意が必要です。
2024.05.15
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困ったときに他人の助けを借りることは悪いことではありません。反対に他人が困っているときは助けてあげる。人間社会は、助けたり助けられたりすることで成り立っています。自分の得意分野では人の役に立つことを実行する。それ以外は他人に頼ることで、豊かな生活を手にすることができます。ここで問題なのは、本来自分たちがしなくてはならないような、食事作り、雑事などから手を抜くようになることです。昔の生活は自給自足が基本でした。自分達が食べるものは自分たちで作っていた。旬のものを工夫して料理していました。加工食品もふんだんに作っていました。牛やニワトリなども飼っていました。生活に余裕が出てくると横着をするようになります。最近は田舎に住んでいる人でも、米、野菜を作らなくなりました。近くの工場で働き、近くの大型スーパーで好きなものを買ってくる。都会生活をしている人とあまり変わりません。年金が出るようになると、わずらわしい雑事からは解放されてきます。これからは趣味や旅行を楽しんで、今まで苦労してきた分を取り返えそうと思うような人が増えてきました。一日中テレビを見なから、食べたいものをスーパーで買ってきて、腹いっぱい食べるという生活習慣が定着してきました。傍から見ると心豊かに生活しているように見えます。果たしてそうでしょうか。私の亡くなった母は遺族厚生年金をもらい、田んぼを小作に出して、趣味三昧・旅行三昧の生活をしていました。年金をもらい米作りをやめて食事まで他人に依存した生活ぶりでした。その母がもう何も思い残すことはない、何時お迎えが来ても後悔はないなどと口走るようになりました。暇を持て余すようになり、その間隙を瞬間的、刹那的、享楽的な刺激で埋め合わせるような生活は精神的にはむなしくなってくるということだろうと思われます。規則正しい生活、凡事徹底、自立した生活、課題や目標を持った生活を放棄してしまうと、決して人間らしくは生きていけないということだと思います。いったん放棄してしまうと、元に戻ることは難しい。それは、やる気や意欲が骨抜きにされてしまうからだと思います。全ての面で依存することは、動物と同じように生きていくことになります。それは、人間らしく生きることを放棄しなさいと言われているようなものです。安楽な生き方のように見えますが、精神的には地獄の苦しみをもたらします。
2024.05.14
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株価は毎日上がったり下がったりしています。株の変動については、上値抵抗線という話を聞きます。これは株価が上昇していくときに、上値抵抗線に到達すると、跳ね返されて下がり始めるというものです。それが何度も繰り返される。ところが、何かをきっかけにして、その上値抵抗線を突破してしまうことが起こる。すると、今までの上値抵抗線は、驚くことに下値支持線に変わってしまう。下値支持線というのは、そこまで下がっても、そこから逆に反発するという抵抗線です。同じ場所にある抵抗線でも意味が全く違います。あるプロ野球の選手が次のように話していました。一旦乗り越えた壁は、今度はそれが自分を守る盾になる。この言葉の意味することを考えてみました。何度チャレンジしても失敗続きで跳ね返される。自分の能力では突破することは無理だ。自分は何をやっても失敗ばかりだ。世の中は自分に対して冷たいことばかりする。そのうち投げやりになって、端からあきらめてしまう。ところが、何回失敗しても、何回跳ね返されても、挑戦することをあきらめない人もいます。逆に益々闘志を燃やして果敢に挑戦する。そしてついには、どうにもならないと思っていた壁を乗り越えてしまう。乗り越えた人は一段階ステップアップした器の大きな人間に変身しています。ノウハウや自信をつかみ、さらに大きな目標に挑戦する人間に変身しています。小さな成功体験を蓄積していくと今度はその乗り越えた地点が出発点に変わるのだと思う。今まで目標でしかなかったところが、乗り越えた途端に自分を強力にアシストしてくれる盾のようなものに変身するということです。これはエベレストの登山をイメージすると分かりやすい。エベレスト登山ではベースキャンプを徐々に頂上に移動していく。ベースキャンプで準備万端態勢を整えて、そこを基点にして果敢に頂上にアタックしていく。神様は自分に乗り越えられないような課題は与えないと聞いたことがあります。神経症で苦しみ、のたうち回っている人は、きっと乗り越えることができる課題を与えられているのだと思います。私たちは幸運にも失意のどん底で森田理論に出会いました。同じ悩みを抱えて苦しんでいる仲間と知り合いになれました。神経質の執着性を活かして、仲間と協力しながら、森田理論学習を継続し、生活に応用するようにすれば、神経症はきっと乗り越えることができるはずです。また人生90年時代を自信を持って生きていくための人生観を確立できます。潮岬灯台
2024.05.13
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私はNPO法人生活の発見会の集談会に参加して37年が経つ。その間多くの仲間からいただいた印象に残っている言葉があった。いくつかを紹介いたします。・あなたは今波のどん底にいるが、波は必ず上昇してくる。それまで仲間で支えていくから安心して参加してほしい。・こんな非常事態なときに、仕事を辞めるとか、離婚するとか、死んでしまおうなどという重大な結論を出してはいけない。それは今の難局を乗り越えるまで待ってほしい。・時間を味方につけよう。時間の経過がきっとあなたを助けてくれるはずだ。時間は薬と同じくらいの効果がある。それを信じて破れかぶれな行動に走らないようにしよう。・「月給鳥」なったつもりで会社勤めをしなさい。自分と家族が生活するエサを獲りに行くという目的は忘れないようにしなさい。良好な人間関係作りは大事だが、それを最大の目標にしてはいけない。神経質者はもともとまじめで責任感が強いので、それでも普通の時の6割ぐらいはできています。それだけできればリストラされることはありません。これらの言葉をマジックで紙に書いて壁に張り付けて毎日唱和していた。結果的に仕事を辞めることも、離婚することも、自殺することもなかった。神経症で蟻地獄の底にいるときに、破れかぶれになって将来を左右する重大な決断をすると後悔するようになると思います。森田先生のところに入院していた人で陸軍大尉の人がいた。読書恐怖という神経症のために、職を辞し、その後根岸病院の看護人をされていたという。森田先生は、一番残念なことは、神経症のために職業を捨てる人だと言われている。神経症の患者で、私のところへ診察を受けに来る人には、私は職業を辞めさせない。これは私の大きな人助けだと思っている。普通の医者は、この同じ患者に対して、必ず休学させたり、職を辞めさせたりするのが常である。(森田全集第5巻 341ページより引用)
2024.05.12
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「雑念」にとらわれて、家事や仕事に集中できないという悩みを持っている人は、勉強や仕事に集中して能率を上げたいという気持ちが強いのだと思います。普通の人は「雑念」に対しては無意識ですが、「雑念」を問題視している人はことさらそこに注意を向けています。もともと「雑念」は台風などと同じ自然現象です。台風などの自然現象は人間の力ではどうすることもできないということがよく分かっています。台風をコントロールしたいと考える人はいません。しかし「雑念」に対してはそのようには考えていないのです。普通は目の前の出来事に対応して、様々な感情が湧き起こるようになっています。とらわれている人は、「雑念」を忌み嫌っていると同時に、「雑念」を意志の力で自由自在にコントロールしようとしています。時間とエネルギーを投入して不可能を可能にしようとしています。仮に「雑念」がなくなって、目の前の家事や仕事に集中するどうなるのか。神経が一つのことに固着されるということになります。人間は心臓が停止して血液が流れなくなると死んでしまいます。また、水の流れを止めてしまうと、水が淀んで藻が生え雑菌が増えて異臭を放つようになります。これと同じように、感情の流れが止まってしまうと、観念と行動の悪循環が始まります。これを精神活動の面から見ると、精神の緊張状態から、弛緩状態に陥ってしまうことを意味しています。精神が弛緩状態になると精神活動が停滞し、覇気がなくなります。ですから、精神衛生上、「雑念」はむしろどんどん発生させたほうがよいのです。そういう状態を森田理論では「無所住心」と言います。集中したいときに「雑念」が湧いてくるのはどんな時でしょうか。まず、目の前のことに興味や関心が持てないときです。例えば読書をしているとき、興味や関心がない部分では、様々な「雑念」が湧き上がってきます。ところがそのまま読み進めていると、急に興味や関心があるところに差し掛かると「雑念」は霧散霧消してしまいます。つぎに、他のことで注意を引くようなものが現れたときです。または気になる問題や課題を抱えているときです。これは昆虫が触覚を使って四方八方に神経を研ぎ澄まして生活しているような状態となります。一時的にきちんと注意を向けて問題確認をおこなう。別段問題がなければ、すぐに次の気になることに注意を移していくことが望ましいのです。車の運転をする人は無意識のうちに、次々と注意を向ける場所を切り替えているはずです。緊張状態の中で、一旦注意を向けて、問題がなければ次の気になることに注意を移していくことを繰り返しています。雑念にとらわれて本来の目標や目的を見失ってしまうことは本末転倒となります。雑念はつきものと考えて上手に付き合うことが大事になります。そして目標や目的から目を離さないようにしたいものです。
2024.05.11
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森田先生のお話です。神経症を克服しても、犠牲心が発動しないで、自分の打ち明け話が恥ずかしい。人に知られては損害だという風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって本当に神経症が全治しているのではない。森田先生は神経症を克服した後、その人がどんな対応を見せるのかに注目しておられたことがよく分かります。一般的には森田でよくなったのだから、森田から離れていくのは自然の成り行きのように思われます。森田先生は犠牲心が発動しないのは中途半端な治り方だと言われています。森田理論は理論を学ぶだけではなく、自分の生活の中に応用・活用することが欠かせません。さらにその体験を今現在神経症で苦しんでいる人に役立てたほうがよいのです。これは森田理論の「物の性を尽くす」という実践につながります。ないものねだりではなく、自分が今現在持っている財産を最大限に生かすことが肝心です。そうすることで社会貢献ができます。また自分の生きがいが生まれます。この場合は「己の性を尽くす」ということになります。神経症で苦しんだ体験は貴重なものです。神経症で苦しんだおかげで森田理論に出会うことができました。学習に取り組むことで、森田理論をより深く学ぶことができました。また生活の発見会という自助活動に参画することで多くの貴重な仲間と交流できました。最終的には神経症を克服して、神経質性格者としての人生観も確立できました。これらをいま悩んでいる人たちに、包み隠さずすべてを開示していく。それは一見人のためのようではあるが、自分をとことん活かしていくことにつながります。自分が神経症から解放されればそれで目的は果たしたという考え方は、実は自分の掴んだ貴重な財産を眠らせてしまうことになります。せっかく身につけた森田的な考え方、生き方、活用の仕方が陽の目を見ないのはとても残念なことです。神経症を克服した人は、自分の貴重な体験を赤裸々に開示して自分の生きがいを見つけていきたいものです。
2024.05.10
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森田理論の感情の法則の3の活用について考えてみたい。感情は同一の感覚に慣れるに従ってにぶくなり不感となるものである。具体的な例で説明してみましょう。寒い冬場に風呂の湯船に浸かることを考えてみてもらいたい。最初はちょっと熱いなと思う。外で緩めのお湯で体を慣らす。中には、水で熱さを加減してから入る人もいるかもしれない。よい気持ちでしばらく暖まっていると、今度はちょっと冷たいと感じるようになる。そこで今度は熱湯を入れて、お湯の温度を上げようとする。つまり湯船に浸かっているうちに、体が最初のお湯の熱さに慣れてきたといえる。最初は少し熱いようだと感じても、少し我慢していれば、その環境に慣れてきて、熱さを感じなくなる。これはプールに入る時にも同じことが言えます。プールに入る時は、反対に飛び上がるほど冷たい感じがする。身震いします。何ともいえない不快な感じがします。ところがしばらく泳いでいると、慣れてきてちょうどよい水温と感じる。体が水温に適応して、不快感が跡形もなく消え去ったのである。そのうち、このプールの水温は、やけに暑苦しいと感じることもある。不快感をそのままにしていると、そのうち慣れて不快感はなくなってしまうということである。あるいは反対の感情さえ湧いてくるのである。不快感がなくなるということは、刺激がなくなり、無意識状態に変化するということです。別の言葉でいえば、慣れてくると精神は緊張状態から弛緩状態に変わってくるのです。精神の弛緩状態というのは、日常生活の中では注意しなければならないと森田理論は教えてくれています。次にこれをどのように活用すればよいのかを考えてみましょう。神経質性格の人は、感受性が強く他人が気づかないような小さなこともよく気がつきます。他人も気持ちもよく思いやることができる。この神経質性格をプラスとして認識し、最初の気づきをきちんと掴まえることが大切になります。これこそが宝物と認識することが大切なのです。最初の気づきをきちんとキャッチして風化させないことが大切になる。そうしないと、最初の気づきはしばらく経つと、すぐに忘却の彼方へと飛び去ってしまいます。活用するためには、今すぐにできることや時間のかからないものはすぐに手をつける。億劫だ、気が進まないなどと言っていると、慣れてしまって、せっかくの気づきという宝物が存在したことさえ思いだせなくなってしまう。今すぐにできないことは、忘れないようにすぐにメモして残しておく。時々メモの内容を確認する。とにかくストックをたくさん溜めていくことだ。神経症からいち早く立ち治っていく人は、このメモを大事にしている。真剣に凡事徹底に取り組んでいます。
2024.05.09
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登山家の野口健さんのお話です。ヒマラヤは感覚の世界だ。登山中にいちいち理屈で物事を考えていたら遭難してしまう。1ヵ月間もヒマラヤにいると、雪崩や落石、氷河などの崩壊の危険に絶えずさらされているためか、音に敏感になる。また湿度や温度など、微妙な変化まで全身の毛穴や肺胞で感じとれる。厳しい環境の中で生き延びるために五感が研ぎ澄まされていく。ヒマラヤにいる時の自分の表情を写真で見て、その眼光の鋭さに驚いたことがある。人はなぜ、あえて危険な冒険に魅せられるのか。時に五感をフルに働かせ、生き延びることだけに必死になりたいのかもしれない。人間も動物だって同じことだ。(自然と国家と人間と 野口健 日経プレミアシリーズ 16ページ)野口健氏は、精神が緊張状態から弛緩状態になると、五感の機能はしだいに衰えてくると言われています。その日食いつなぐことに必死に生きている開発途上国の人たちを見ていると、第一目つきが違う。眼光鋭く、うつろで憔悴した目つきをした人はいない。身の危険を感じることがない。食べることに困らない。安心・安全で不安やストレスのない世界に身を置いていると誰でも五感は鈍化してきます。感性や感受性が廃用性萎縮現象を起こしてしまうのである。有り余る時間を、刹那的で刺激的な快楽で穴埋めしようとしている現代人は、緊張感がなくなり、五感は正常に機能しなくなっているのだろう。精神を弛緩状態から緊張状態に切り替えることは可能であると言われています。それは置かれた境遇や環境を変えてみることです。また行動を変えることによっても可能となります。そうかといって、我々はヒマラヤで登山をするわけにはいかない。開発途上国で暮らすことなど考えられない。ではどうするのか。それは森田理論が教えてくれている。それは、今この瞬間に集中して、ものそのものになって生活することである。日常生活に丁寧に取り組むことだ。凡事徹底を心がけることです。まずは食べること。食材を自分で作る。買いだしをする。下ごしらえをする。料理をする。味わう。後片付けをする。加工食品に挑戦してみる。あとは洗濯、清掃、整理整頓などである。そんな生活の中から、興味や関心、工夫や発見が見つかり、ささやかな幸せを感じる。生活のルーティンワークを確立してていねいに取り組むようになれば、緊張感が生まれて、様々なことに気づき工夫ができるようになります。すると精悍な顔つきに変わり、眼光も鋭くなります。
2024.05.08
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アドラー心理学の中に目的論というものがあります。人間は目的を達成するために行動しているのだという考え方です。日々取り組むべき目標や課題を持たないで、惰性で生きていくことは精神的にも身体的にも大きな苦痛をもたらします。絶えず目標や課題を持って生活しているのが普通の人間です。この生き方は、常に努力精進していくことが不可欠となります。森田では雑事や雑仕事に丁寧に取り組むことを目指しています。しかし、日々の生活を丁寧にこなしていくというのは案外しんどいものです。油断しているとすぐに楽な方向に流されてしまうことになります。そうなりますと、目標や目的が蚊帳の外になり、その隙間を埋めるように「かくあるべし」がでてきます。今まで現実に立ち位置を決めて、下から上目線で目標や目的を目指してきたのですが、努力することを放棄した途端に、上から下目線で現実批判を始めてしまうのです。目標や目的の存在が、自己否定のための材料に変わってしまうのです。これでは目標や目的を持っていなかったときの方が、精神的には楽だったということになりかねません。ここで大切なことは、目標や目的から決して目を離してはいけないということです。目標や目的から目を離すと、暇を持て余すようになるとともに、精神的には地獄の苦しみをもたらすようになります。このアドラーの目的論に近いことを森田先生は次のように言われています。川に架かった丸木橋を渡るとき、向こう岸の目的物をしっかりとらえて思い切って渡ることが大切です。足元の安全を確かめたり、川に落ちたらどうしようかなどとネガティブなことを考えていると、挑戦することを躊躇してしまいます。その結果目的が果たせなくなります。また仮に破れかぶれで行動すると川に落ちてしまう。森田先生は、神経症のとらわれから抜け出す方法は2つあると言われています。ひとつめは、自分の心がとらわれから離れない時には、そのとらわれのままにとらわれていることである。これは不安になりきるということです。もうひとつは、決して目的物から目を離さないことであると言われています。苦しいので目をそらして、他のことを考えて気を紛らわせるようなことをしてはいけないと言われています。
2024.05.07
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私たちは過去のミスや失敗、失態や恥ずかしいことを後悔することがあります。歳をとるとそれらが悪夢となって現れて苦しむこともあります。過去の不祥事は取り消すことはできません。では過去の嫌な記憶にどう対処すればよいのでしょうか。今後二度と同じような間違いはしないように反省材料として活用すればよいと思います。神様は、過去の不祥事を反省して次に活かす人を高く評価されるだろうと思います。逆に言うと、後悔して悪夢にうなされるという人は、同じような過ちを何回も繰り返しています。これでは貴重な経験として活かしているのではなく、自己嫌悪、自己否定を深めているだけです。具体的にはどうすればよいのでしょうか。後悔している自分にきちんと向き合うことが大切です。忌まわしい事実を事実としてきちんと認めることです。どうしようもない、ダメだ、取り返しがつかない、救いようがないなどと責めないことです。落ち込んでいる自分に優しく寄り添うことです。自分の味方は自分しかいないわけですから。いつも後悔をして自己嫌悪、自己否定している人は、「今、ここ」の意識が希薄な人です。過去の不祥事に振り回され、将来のことに取り越し苦労ばかりしている人です。もっと「今、ここ」に注意や意識を向けることが大切です。マインドフルネスは「今、ここ」に意識して注意を向け、それを客観的に眺める手法だと聞いております。日常生活では、森田で言うように「ものそのものになりきる」ということが大切だと思います。ぼんやりとして、他のことを考えながらうわの空で行動するのは考えものです。抑うつ状態や後悔はその隙間を狙って心の中に侵入してくるのではないでしょうか。また、悪夢にうなされて苦しいという人は、普段の生活の中で、目標、目的、課題、希望、夢を持っていない人です。つまり生の欲望の発揮が蚊帳の外になっています。日常生活の中で、問題点、課題、改善点、改良点、楽しみ、喜びを見つけようと心がけて生活している人は、意識が前向きで外向きになっている人です。注意や意識が外向き・前向きになっているときは、後悔で苦しむことはありません。
2024.05.06
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日常生活にはコントロールできるものとコントロールできないものがあります。コントロールできないものは次のようなものがあります。・自然に沸き起こってきた様々な感情・神経質性格、容姿、能力、境遇など・他人を自分の意のままに操ること・現実に目の前で起きた事件、自然災害、経済の変動などコントロールできるものはどんなものがあるでしょうか。・コントロールできることとできないことをきちんと区別するということ・目の前の現実に対応して必要なときに必要な行動をとるということ・様々な感情や事実をそのまま受け入れるということ・良い悪い、正しい間違いなどの是非善悪の価値評価をしないということ・他人の話をよく聞くこと。対立点を話し合いで解決するようにすること・どうすることもできない出来事を素直に受け入れるということコントロールできないものはあるがままに受け入れて、コントロールが可能なものには積極的に取り組むことが大切です。ところが現実ではそれがあべこべになっている人がいます。つまりコントロール不可能なものに積極的に取り組み、逆にコントロールできるものにはなかなか手を付けようとしない人です。神経症で苦しんでいるときはまさにこれが当てはまります。どうしてこのようなことが起きてしまうのでしょうか。コントロールできないものは、上から下目線で、よいか悪いとか、正しいとか間違っているとか、正義か悪かなどの価値判断をしています。自分の立ち位置を雲の上のようなところに置いて、現実や現状を自分の物差しを使って厳しく裁いているのです。この場合は積極的に行動していないので努力は必要としません。観念優先で行動がおろそかになり、消極的な生き方になります。コントロールできるものは、積極的に行動することですから、エネルギーを消費します。努力することが必要不可欠です。ある意味苦しいです。しかし、この方向を目指すと、問題や課題に果敢に挑戦する積極的な生き方になります。本来の人間の生き方になります。ただし、敢えてリスクをとって挑戦しても、必ずしも成功するとは限りません。そのために行動することを躊躇して、気分に流されて、静観するほうを選んでしまう。玉野井幹雄氏は、「積極的な生き方をする人」は、善いものをさらに増やそうと努力しますが、「消極的な考え方をする人」は、善いものを積極的に増やそうとしないで、悪いものを減らすことによって、結果的に善い状態になろうとしていると言われています。(いかにして悩みを解決するか 玉野井幹雄 自費出版 252ページ)森田理論は神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感はコントロール不可能なものだと言われています。それらは、あるがままに受け入れて、コントロールできるものに積極的に取り組みましょうと教えてくれています。気分がどんなに行動することを拒否しても、必要なときに、必要に応じて、必要な範囲の行動を心がけていくことが極めて大切になります。そのためには、規則正しい生活習慣を確立して、頭であれこれ考えなくても、すっと体が動いていく状態を作り上げることが肝心だと思います。大きな目標を目指す場合も、この基本を無視していると、ザルで水を掬うようなことになってしまいますので注意したいものです。
2024.05.05
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キリンビールの社員でNKK活動と銘打った営業を展開した人がいた。それは1時間で25軒、2時間で40軒、何も(N)考えないで(K)行動する(K)というすさまじい訪問活動でした。「考えたら身体が動かなくなる。まず何も考えずにひたすらお得意様を訪問しよう」というものです。1時間25軒回るためには無駄話はしない。各得意先の訪問時間は約10秒。例えば、新商品のサンプルを置いてくる。リーフレットを置いてくる。情報を伝える。そんなシンプルなことを次々にやっていくのです。「どうもキリンです。新商品のサンプルです。お願いします」この営業マンの担当エリアは静岡だったのですが、「いちばん元気なビールメーカーは?」というアンケートに「キリン」と回答した割合が格段に増えた。活動前には18パーセントだったものが、1年後には40パーセントにも達した。常識的に考えると、得意先を訪問するときは、事前にしっかりと訪問計画を立てる。1軒当たり、ある程度の時間をかけて訪問し、信頼関係作りから始める。おのずと訪問件数は少なくなるが、それは仕方ないと考える。(キリンビール高知支店の軌跡 田村潤 講談社新書 要旨引用)この営業スタイルは、訪問営業のローラー作戦と同じものです。10件訪問すれば1件の成約が獲得できるという「大数の法則」に従って淡々と営業活動をこなしていくのです。断られたら自尊心が傷つくと考えている人にとって、実行は極めてハードルが高いのです。気分本位でイヤなこと、辛いこと、面倒なこと、気がすすまないことからつい逃避してしまう人も難しい。成約になることに確信が持てたときに営業活動をすると考えている人もハードルが高い。そんな無駄な訪問をするのは効率が悪い。時間の無駄だというのは考えものです。そう考えている人は失敗の経験が積みあがっていきません。営業能力の向上は、失敗の経験をいかに数多く積み重ねるかにあります。失敗することで成功のためのノウハウを身に着けることができるのです。ローラー作戦は優秀営業マンになるための登竜門となっているのです。さらに考える前に身体を動かすという営業スタイルが習慣化してくると、仕事をさぼることは居心地が悪くなってきます。周りで見ている人が、「そんなことがよくできますね。よく身体がもちますね」と言われてもピンと来なくなる。自分を鼓舞して、無理やり行動しているという気負いがなくなってくるからです。習慣化するということは、仕事がルーティン化しているということです。これはよい習慣だけでなく、悪い習慣も同様なことが起きますので注意が必要です。何も考えずに、同じ時間に、同じ行動が繰り返されるようになっているのです。気負いはありません。あくまでも毎日やるべきことを何も考えないで、淡々とこなしているだけなのです。平凡を積み重ねていくと、非凡な成果を生み出すということを忘れないようにしたいものです。
2024.05.04
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天は一人の人間にいくつもの才能、美点、強み、長所を与えることはない。一つの才能や能力に秀でている者は、往々にして大きな欠点や弱点を抱えているものだ。この言葉は裏を返すと、誰でも最低一つくらいは他人と差別化できる才能や強みや長所を持っているということではないだろうか。ただし、それをきちんと意識している人としていない人がいる。きちんと意識している人は、欠点、弱点、運命、境遇をそのまま受け入れて、自分に与えられている才能、強み、長所を伸ばそうとしている。意識していない人は、欠点、弱点、運命、境遇を目の敵にして失意の人生を送ることになる。私は幸か不幸か神経質性格者として生まれてきました。神経質者はリーダーや指導者として人の上に立って組織を動かすことは苦手です。行動力が旺盛であるとも言えません。問題解決能力が優れているとも言えません。どちらかというと気分本位で、困難なことからすぐに逃げてしまいます。人間関係の調整能力が優れているとも言えません。容姿が特別よいわけでもありません。運動能力もありません。しかし鋭い感受性を持っています。好奇心が旺盛です。分析力、思考力、創造力、創作力、深耕力、原因究明力、粘り強さ、生の欲望は目を見張るものを持っています。ないものをこれから身につけるよりも、すでに持っているもの、あるものを再評価して、伸ばしていくほうが理にかなっているのではないでしょうか。私は感受性、分析力、思考力、文章作成能力などが備わっていることが分かりました。ただそれに気づくのが少々遅すぎた感があります。もう少し早く森田理論の神経質の性格特徴を学習していたならばと思っております。
2024.05.03
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岡野雅行氏のお話です。仕事を長い時間、根詰めていると、物事のとらえ方に拡がりがなくなったり、融通が利かなくなったりするものだ。そうなると発想のパターンが同じになったりして、ひらめきというものが湧き出てこなくなる。忙しいとき、疲れたときでも、おれは、休憩はあまりしない。そういうときは、休むよりも、人と打ち合わせを入れたりするのだ。そうすることで精神的な勢いというか気持ちの張りが維持できるから、仕事の能率は下がらない。もし、仕事から、まったく離れて頭と精神のリズムを完全に止めてしまったら、再び、元のハイスピードのリズムを取り戻すのには時間がかかるものだからね。(試練は乗り越えろ 岡野雅行 KKロングセラーズ 52ページより引用)これは森田理論でいうと、「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にあり」のことです。私もこれを生活の中に積極的に取り入れています。昼間眠くなったときでも、頭を休めて、掃除や草花の手入れなどをしていると、気分転換になります。そして眠気もどこかに飛んでいき、様々なことが片付きます。逆に1時間以上も昼寝をすると、夜の寝つきが悪くなりますし、あとで後悔しますね。岡野氏は仕事を完全に止めてしまうのは、再びハイスビートのリズムを取り戻すのに多くエネルギーを必要とすると言われています。集談会では、症状でつらいときには、「超低空飛行」を心がけるとよいと聞いたことがあります。症状がつらいからといって、全く行動しなくなると、次に行動を起こすにはかなりのエネルギーが必要になります。ですから、仕方なく、ボツボツと日常茶飯事に手を出すことが大切なのです。行動には波がありますから、どん底はいつまでも続きません。どん底の次には波が次第に持ちあがってくるのが世の常です。ただし、完全に行動を中止してしまうと、どん底の下に次の底が口を開けて待っているということになります。つらいときでも必要最低限ことだけは手を出していくことが大事だと思います。
2024.05.02
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学校の黒板を作っているSAKAWAという会社があります。この会社がここ8年間で急成長しました。従来の黒板を作っている限りここまでの成長は望めなかったと思われます。この急成長の原因は学校用プロジェクター「ワイード」の開発にあります。この製品は黒板との相性がとても良い。すでに5000教室に導入している。これからもどんどん拡大が望めます。日本の黒板を大きく変えていく可能性があります。これは天井にあるプロジェクターから黒板に自由に画像が投影できます。先生はあらかじめ必要なことをパソコンなどで作っておいてすぐに投影できます。最初から黒板に書く必要ありません。図形などもあらかじめ作成します。メリットとしては、時間の使い方が格段に効率的になります。空き時間が無くなるので生徒が授業に集中しやすい。また写真などの映像を取り入れることで生徒の興味を引くこともできます。一番の特徴は、黒板に投影された映像上に自由に手書きができることです。映像と手書きのコラボが簡単にできるようになったのです。取り扱い方も簡単にできる。これを導入している先生の評判がよい。この会社は100年以上続いている会社だそうですが、従来の黒板だけを作っている限り成長は望めませんでした。売り上げが伸びない会社では情熱がなくなり、ますます悲観的な気持ちになっていたと思います。最悪廃業せざるを得ない状況に追い込まれていたと思われます。この会社が成功したのは現状を価値批判しないで素直に受け入れたことにあります。森田でいえば「かくあるべし」を押し付けないで、事実をあるがままに認めることができたということです。事実を認めることができるようになると、今の黒板の問題点が見えてきました。2009年以降教育業界では、電子黒板という製品が出回っていました。SAKAWAでも販売していましたが、たいして普及はしませんでした。学校現場では「使い方が難しい」「機材を置くスペースがない」「黒板との相性が悪い」「画面が小さい」等の問題があり、積極的な導入には至りませんでした。SAKAWAでは使い勝手のよい新たなプロジェクターの開発に取り組んだ。プロジェクターは天井に取り付けるものを開発した。つぎに教室では先生や生徒が自由に動き回ります。そのためスペースをとらない、影が映らない、配線ケーブルが邪魔にならない、1M以内で投影できる超短焦点機材の開発が不可欠であった。さらに縦1200㎜、横3000㎜のウルトラワイド16:6というアスペクト比に対応するプロジェクターを作る必要がありました。試作品を教育現場で見てもらったところ、決まったところにしか投影できないのは不便だという意見があった。自由自在に投影場所を移動できるものが欲しいということだった。例えば国語では右から縦に板書するので、投影は左にしてほしい。英語や算数は左から横に板書するので画像投影は右にしてほしい。これらの問題点を改善して2016年ワイードが完成した。この商品は画期的なもので教育現場で歓迎された。そのおかげで傾けかけていた会社が息を吹き返してきた。従業員の仕事に対するモチュベーションが上がってきた。働くことが楽しくなった。社内の人間関係がよくなってきた。さらに世の中で役立つ商品を開発してゆきたいということでした。この話は欠点や弱点を非難・否定するのではなく、そのまま受け入れて、課題や目標を持って生きることがいかに大切であるかを教えてくれています。
2024.05.01
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