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2002年11月09日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 アメリカの大学からホームページ(英語版)にアップロードしたファイルをコピーして配付することの許可を求めるメールが届いた。検索して探し当てられたようだが思いがけずも役立つとしたらうれしい。
 野口悠紀雄の『「超」文章法』(中公新書)。読者に伝えたいメッセージ(テーマ、主題)を明確にすることが文章作成の核心である。文章が成功するかどうかは8割方メッセージの内容に依存する。これを見つけるには考え抜くしかない。メッセージが見つかった時のことを野口は「天使が立っていた」という比喩で表現している。書くことが見つかればコンピュータを使えるから執筆と構成を考えることは平行して進めることができる。
野口のいうようにメッセージが明確に見つからない時はなかなか書き進めることができない。論文を書き上げた時の快感、達成感は何にも代えがたいものだが、そこに至るまでの苦しみも大変なものである。
 テレビでルルドの泉の話。フランスのピレネー山脈北麓にあるルルドの羊飼いの少女、少女ベルナデットが聖母マリアを目撃し、奇跡が起ったという泉があり、ここには世界各地からたくさんの人が巡礼に訪れる。医学から見放された人も治癒することがあるという。ルルドに以降と思い立ったその日から病がよくなることもあるようだ。
 番組ではルルドに湧き出る水を日本に持ち帰って分析し、通常の水の60倍も含まれているという活性水素とプラシーボ(placebo)効果から奇跡の説明が試みられた。これだけでは解明できず番組ではさらに死後も腐敗していないというベルナデットの遺体を見せていた(一回は、番組のスポンサーの名前が画面一面にあってほとんど見えず、二回目は一瞬)。
 アドラーもルルドに言及している(『人はなぜ神経症になるのか』p.53)。アドラーは精神医学の他の学派が神経症の治療に成功を収めてきたことは否定しないが、治癒はその方法によるというよりは、むしろ、たまたま患者と医師がよい人間関係を持ったこと、あるいは、とりわけ、患者を勇気づけたからである、と説明している。そして、ルルドを訪ねることが「人の生きる姿勢をかなり改善させること」が時々あり、「ルルドを訪ねることが、同じことを引き起こすかもしれない」といっている。
 アドラーは奇跡を必ずしも否定はしないが、「より骨の折れるものであるとしても、患者に自分自身の誤りを理解してもらうという、より単純なプロセスのうちにあることを確信している」という。「単純なプロセス」であってもより骨が折れるというのはよくわかるが、ルルドに行かなくても治癒するなら救われる人は多いということはできるだろう。 番組で取材に行った若者が何気なくルルドの水を飲んでいたが水の効果を期待しない人にも効果があるのか。検定しようとする薬物と対照用の偽薬とを医師・患者ともに知られないように投薬する二重盲検法でも効果は見られるのだろうか。そうとは僕には思えないのだが神のはかりごとは人知を超えるから断定的なことはいえない。





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最終更新日  2002年11月09日 21時31分29秒
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Re:ルルドの泉(11/9)  
「ルルドの泉」
この言葉は小学校の頃からよく耳にしてました。というか、賛美歌まであったのです。”やさしいベルナデット、イェス様と~♪”
私はそもそもシスターという職業はとっても不思議に思います。それこそ、マザーテレサのような人もいれば、私の高校・大学等の教育機関で教えてたくさんのお金をもらっている人もいるのです!シスターの存在は私にとって、不思議なのです。
ジャンヌダルクの時代も司祭というのは”神聖"という名の仮面をかぶってあくどい事をやっていたという風に思います。つまり、現在のシスターというのも”教育を通してイェス様の教えを広めること”みたいな仮面をかぶって、本当のその人が見えないことがよくあります。どうして宗教の信仰者というものは少なからず、価値基準が”神様・仏様"になるのかよく分かりません。人を信じることは素晴らしいことですが、価値基準を”神様・仏様"に当てはめると、自分は無くなってしまうような気がします。他人の思想は他人のものでしかなく、他の人の思想をどのように考え、自分で試す、努力するし、結果として自分の考えとして確立させる。というのが本来の目的であるように思います。
ルルドの泉はそれなりの奇跡の効果があり、シスターの中には、ペットボトルいっぱいにルルドの水をいれて日本に持ち帰ってくるそうですよ! (2002年11月11日 00時34分11秒)

Re:Re:ルルドの泉(11/9)  
Ichiro_Kishimi  さん
なまけもの0228さん
 個人的な考えですが、宗教も、人がよく生きるためのものであって、教えをそれが教えであるがゆえに信じるのではどこか無理が生じ、場合によっては犠牲的な生き方を強いられることがあるかもしれないと考えています。前にここの日記にも書いたかもしれませんが、イエスはユダヤ教の律法主義に反対しました。守るべきことは全部守った、この上天国に行くには何をすればいいかという若者を前にイエスは顔を曇らせます。イエスはしかし律法主義を批判しても、律法の精神を否定したわけではありません。他方で私がきたのは律法の一点一画をも成就するためだといっているからです。形だけ守ればいいというわけではないのです。 (2002年11月11日 16時08分11秒)

Re:ルルドの泉(11/9)  
Ichiro_Kishimiさん

父の兄のお嫁さんはキリスト教信者で、日曜日ごとに教会にいっているようです。彼女は、私がキリスト教の学校に行っていると知っていると、「一緒に○○しましょう」といってくれるのですが、その彼女を見ている限り、私の一番いやなタイプ(常に神様は・・・という基準で物事を判断する)だったのと、信者にはなる気は無かったので、お断りしました。すると彼女は「なんで?神様きらいですか?」っていってくるのです(笑)なので、きっぱりと私は、「教えは面白い(考えさせられる)けども、信仰する気は無い。」といったら分かってくれたようですが。
宗教は人生の逃げ道ではないですよね?私が小学校から習ってきて、カトリックの印象とは、先生のおっしゃるようなものの考え方ではなかったのです。もっと表面的で、”何をすればいいか”というものの考え方はなく、ひたすら、神様=信仰という構図をもとに教えられていたような気がします。
この先生のコメント、すごく教えられた気がします☆ありがとうございました!! (2002年11月12日 06時21分05秒)

Re:Re:ルルドの泉(11/9)  
Ichiro_Kishimi  さん
なまけもの0228さん
 僕が学んでいる哲学であればどこまでも理性的に考えていきます。もちろん限界はあるのであり、人間の知の及ばない領域はあります。しかしその限界まではどこまでも粘り強く考え抜くぞというところがあるのですが、宗教はそこに至るまでのところでひょいと飛び越えるようなところがあると理解しています。神の存在は思弁で知られるものではなくて信仰なのです。どちらに優劣があるというわけではありませんが個人的には宗教者にはなれないところがあって揺るぎのない信仰をお持ちの方には到底足元にも及ばないと思うこともあります。信仰を勧めてくださる人たちにはありがたいけれどもう少し自分でがんばってみますというような言い方を僕はします。 (2002年11月13日 00時38分00秒)

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