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おじ、おばの距離


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2004年01月24日
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 陸上自衛隊の先遣隊の二人がわずか一日半の調査で、イラク南東部の情勢は他地域に比べて安定しているなどと帰国して報告。なぜこんなに調査を急がなければならないのかわからない。「深刻な失業問題を抱え、住民の不満が反連合軍活動に結びつく可能性には留意が必要」という指摘もあり、給水活動などの「緊急人道支援活動」に加え、雇用対策、文化協力、環境対策などの支援策を掲げたという。これらは自衛隊がすることではないように思うのだが。また、何度も書くが、浄水場などを破壊したのは誰だったのか。イラクの学校の校舎の八割(!)が戦火の被害にあっている。サマワ市内アルムサンナ高校は昨年四月、アメリカ軍の爆撃で校舎の一部が破壊された。当時、学校は旧フセイン政権側の軍事拠点の一つになっていて、生徒にけが人はなかったというが、いくら軍事拠点になっていたからといって、生徒がいるかもしれないのに攻撃していいという理由はないだろう。インフラ整備は「緊急人道支援活動」かもしれないが、何度もいうように、破壊しなければ復興も必要なかったのである。

 アメリカのイラク調査団団長としてイラクで大量破壊兵器(WMD)の捜索に当たってきたデビッド・ケイ氏は23日に辞任したが、ロイター通信に対し、「イラク戦争が始まった段階で、イラクに生物・化学兵器の備蓄があったとは思えない」と語っている。このケイ氏の発言は、開戦時にイラクが核、生物、化学の三分野にわたるWMDのいずれをも保有していなかったことを強く示唆するものであり、イラク戦争開始の最大理由に掲げられた大量破壊兵器の信頼性をめぐる議論が、大統領選の争点として再燃することは必至と見られている。日本政府もまた大量破壊兵器の存在をイラク戦争支持の根拠にしていたのであり、自衛隊のイラク派兵まで決めてしまった政府の責任が問題にされることを強く願う。「フセイン大統領が見つかっていないからといってフセインが存在しなかったといえるか」という小泉首相の笑止な答弁を思い出す。そうだった首相はこんなこともいっていた。開戦前、アメリカを支持するかどうかは「その場の雰囲気」である、と。そんなふうに無責任に支持した戦争でどれだけ多くの人が殺されたか、殺されることになるか…

 南木佳士の小説には、印象的な患者さんたちがたくさん登場する。ある日、ホスピス病棟にやっていた「相川老人」の枕元の壁には四つ切り大のパネル写真があった。これは相川の家の写真ということだが、住宅というより文化財として保存されるべき明治時代の小学校のように見えた。相川の説明によれば、それは「奈良女高師」に似せて作らせたのだという。奈良女高師は今は僕が長く勤めていた奈良女子大学なので、すぐにイメージがわいた。 僕が撮った写真はこちら

 相川は、学生の頃、下宿していた家の娘に恋をする。母親を手伝ってい台所に立っている娘の笑顔を見た日は眠れなかった。彼女が奈良女高師に行ってしまうと不眠になり、食事ができなくなった。思い余って一度だけ奈良に行ったが、校門の前で二、三度往復しただけで帰ってきた。僕にはなつかしい光景である。

 ところがその年の冬、彼女は肺結核にかかり、半年で亡くなってしまった。後に隠居家を新築する時に、あの日奈良で見た校舎を思いだし、記憶を頼りにそれに似せて家を建てたわけである。

 相川は、ホスピス病棟に新しくきた医師が、若くして亡くなった彼女に似ていることを主治医に告げる。このことを語る時、「肉の落ちた相川老人の頬に、涙が筋を造っていた。閉じられたままの眼の縁から涙はあふれるように湧いていた」。相川は力強い声で「死にたくないぞ。なあ、死にたくないぞ。生きたいんだ。なあ、分かるか。もっと生きたいんだよ、ぼくは」自らすすんで延命治療を受けることを拒み、この病棟に入った相川の中に、ふいに蘇る強い生への意志を見た「ぼく」は困惑する。

 意識がまだはっきりしていた頃、死に行く母と長く話をした。肺炎になりやがて意識を失ったが、その直前、文字盤を使って母親との意志疎通を試みたことがあった。五十音の表を作ったのである。母は指を押さえていくのだがとうとう僕には母が最後に何をいおうとしたのかわからなかった。母も伝えたかったのかもしれない。生きたい、と。意識のなくなった母の脳裏には青春の頃の想い出が蘇っていたのだろうか。
少しずつ死に逝く母の側にいて人生の意味探しあぐねる





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最終更新日  2004年01月24日 22時55分30秒
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