Welcome to Ichiro’s Home Page

Welcome to Ichiro’s Home Page

PR

プロフィール

Ichiro_Kishimi

Ichiro_Kishimi

コメント新着

チワワ@ Re:受診/鷺草(08/29)  先生ご無沙汰しています。 ハンドル名…
Ichiro_Kishimi @ Re[1]:受診/鷺草(08/29) ちばちゃんさん  そんなふうに考えたこ…
Ichiro_Kishimi @ Re:鳥、翻訳、マラソン(08/26) ちばちゃんさん  敵意といっても意識的…
Ichiro_Kishimi @ Re:アドラーに学ぶ(08/23) ちばちゃんさん  フランクルは一時アド…
ちばちゃん@ Re:受診/鷺草(08/29)  写真でしか見たことがありませんが、坂…

フリーページ

仕事は誰のためにするのか


占いを恐れないということ


自己成就予言


いわなければ伝わらない


薔薇が咲いた頃に


あの時の声を知らなければ


何が二人に起こったのか?


負けてもいいじゃない


嫌われるのは恐い


愛された思い出


報いを求めない愛


人生は苦そのものである


シンプルで優しいこの人生


子どもたち~ゆるしと信頼


今は大丈夫


「邂逅」するということ


誰も支配せず、支配されないということ


言葉で頼んでみよう


自由に楽しく生きよう


きょうだい関係のこと


抑制のない人類はどこへ?


人間の「自然」への介入


落穂拾い(1)


息子との日々


娘との日々


歌をつくりたい


神話的時間を生きる


グライダーのように


人にはいえてもあなたにいえないこと


立ち直る神谷美恵子


生きかたの問題


その日を摘め


瀬戸内寂聴の法話を聴いて


若い人に何を教えるか


優越性、完全性の目標を具現する神


人との距離~二・五人称の視点


スポーツにおける”まとまり”と自立心


アンフェアだが関係をよくするためのヒント


目標にフォーカスするということ


自分を変える若干分量の勇気


向田邦子の恋


現実を超える力~「言葉の箱」


人を信じること


自由に生きるということ


証を求めない愛


村上春樹『海辺のカフカ』人名索引


滑稽な愛情のエゴイズム


親しいからこそ


二人の関係をよくするために


よい対人関係について


子どもをほめてはいけない


私に与えられた棘


「ありがとう」を期待してはいけない


このままの私でいいのか


努力することについて


おじ、おばの距離


My favorite songs


ページ内検索にあたっての注意


2004年07月23日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 今日は外出する必要がなかったが、身体がだるくて思う時間に起きることができなかった。カウンセリングに二人こられる。聖カタリナ女子高校から試験の答案が送られてきた。すぐに返送しなくてもいいので、ゆっくり読もうと思っている。授業の感想を欄外に書いてあったりする。

 藤澤先生が二月に亡くなってから、母のことをよく思い出すようになった。もちろんそれまで思い出さなかったということではないのだが。実際、本の中にも母のことは書いた。索引に「母」という見出しを立てることができなかったのだが、かなりの多くのページをあげることができるはずである。

 フロムが、母親の愛についてこんなことを書いているのを読み、母のことを思った。私は母親の子どもだから愛される。無力だから愛される。「私は今のような私だから愛される…私が私だから愛される」(p.66)。その愛は無条件であり、愛されるためにしなければならないことは何もない。しなければならないことといえば、生きていることだけである、そうフロムはいう。

 それなのに、僕はこの母親から愛されているというふうに意識していなかった。三十代の初めの頃、あることがあって、そのことに思い当たり、今さらながら母がいないことに思い当たり、数少ない僕の味方を失ったという強い喪失感におそわれた。

 父親の愛はこれとは違うという点については異論があって、今日は書けない。父親は母親とは違って条件をつけるというのである。僕は教師をしていても、あまりこの意味で父親的ではなかったかもしれない。できないからといって(そんな学生がいたとしての話だが)見捨てるなどということはなかった。しかし、他でもないこの学生にこそ、自分の考えを伝えたいと思うことは、たしかにあるので断言はできない。

 フロムのいうことを何気なく読むとそうかと読み過ごしてしまいそうだが、そしてフロムは触れていないのだが、子どもがしなければならないことといえば、生きていることだけであるということになれば、親よりも先に亡くなる、あるいは、この世に生まれる前、あるいは直後に亡くなる子どもは親不孝ということになってしまうだろう。

 しかしそんな状況に置かれた親とて子どもをそんなふうには見ないだろう。僕には生まれてすぐに亡くなった弟がいたが、母が泣き暮らしていたことはよく覚えている。

 哲学者の西田幾多郎が、子どもを亡くした時に詠んだ歌がある。
すこやかに二十三まで過ごし来て夢の如くに消え失せし彼



 生きているというのはいつもこんなぎりぎりのところで考えていかなければならない。亡くなった人を不孝者とは決していわないだろうし、まして、生きているのであれば、条件などつけることはないだろう。生きているということですでにどんなにありがたいことなのかと思う。だからこそ、いっそう、生きていることを(と文字で書くと大仰に見えるかもしれないが)確認して生きたいと思うわけであるが、こんなことを忘れては、それ以上のことを求めてしまっている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2004年07月24日 01時08分35秒
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: