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昨日、吉永小百合主演の「てっぺんの向こうにあなたがいる」という映画を見てきました。吉永小百合の124本目となる映画出演作で、女性で初めて世界最高峰エベレストの登頂に成功した登山家・田部井淳子をモデルに、人生のすべてを懸けて“てっぺん”に挑み続けた女性登山家の姿を描いたドラマ。映画.com映画それ自体の質としてはいまいちでしたが、田部井さんのことを色々と知ることが出来て面白かったです。ということで、今日と明日で「人生は山登りだ」というテーマで子育てや遊びについて書いてみます。「オギャー」と産まれたところが登山口です。そして、人は「登山口」を選べません。私が住んでいる相模国(神奈川県)には「大山」(標高1252m)という美しい山があるのですが、登山口に三つのコースがあります。男坂コース、女坂コース、ケーブルカーコースの三つです。(裏の方から回る全く別コースもありますが、それはここでは除外します)簡単に予想が付くと思いますが、「男坂コース」が一番きついです。次に「女坂コース」。一番楽なのが「ケーブルカーコース」です。人生では登山口を選べませんが、ここでは登山口を選ぶことが出来ます。楽がしたい人、体力がない人、自分の足でゆっくりと山を登ることを楽しむ気のない人、急いでいる人は「ケーブルカーコース」を選びます。これは「みんな一緒、みんな同じ」という登り方です。問題は、このケーブルカーは山の途中にある「下社」までしか連れて行ってくれない、ということです。頂上を目指すなら、そこから先は自分の足で歩くしかないのですが、問題は、下社から先がかなり厳しいということです。ちょうど厳しくなる手前で降ろされてしまうのです。そのため、楽がしたい人、体力がない人、自分の足でゆっくりと山を登ることを楽しむ気のない人、急いでいる人の多くは頂上を目指さず、江ノ島、三浦の方まで見える展望を楽しんだり、下社でお参りをしたり、売店で買い物をしたり、美味しいものを食べたりしてそのまま下山します。(でも、人生では途中下山は出来ません。)「女坂」は、距離は長くなりますが、自分の足で登山を楽しみながら、のんびり登るのに適したコースです。「男坂」は最短コースですが、かなり厳しいです。でも、苦行をしたい人、達成感を感じたい人はこちらを選ぶのでしょう。問題は「人生」という山登りでは「登山口」を選べないということです。自分の足で山を登ることを楽しめない状態に育った子は、ケーブルカーコースに産まれた子を羨むでしょう。「親ガチャ」という言葉はそのような状態の子が言うのでしょう。でも、ケーブルカーコースに産まれた子でも、そのまま頂上まで行けるわけではありません。厳しくなる手前で降ろされてしまいます。頂上までこのまま行けると思っていたのに、ウォーミングアップも出来ないまま突然、降ろされてしまうのです。そこから先は自分の足で歩かなければなりません。でも、「親ガチャ」を羨むような子は、「楽」を好みます。自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の意思で判断して行動し、努力することが苦手です。そのため降ろされたところから動けなくなります。そしてそのまま日が暮れてタイムヤップになります。でも、幼いうちから野山で群れて遊び、自分の足で歩くこと、自分の足で登ること、自分の目で見て、自分の感覚で感じることを楽しめるようになった子にとってはケーブルカーコースは退屈でしょう。ケーブルカーで下社まで登っても、「さあここから自分の足で歩ける」と喜ぶでしょう。(続きます)
2025.11.24
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ここのところ「心とからだをつなげる方法」「からだの各部をつなげる方法」について色々書いてきましたが、問題はそのほとんどが現代人の生活から失われてしまっていることです。子ども達の「からだを使った遊び」にも「心とからだをつなげる働き」「からだの各部をつなげる働き」がありますが、それも「危険だから」と大人に止められたり、「遊びを伝承する群れ」が消滅することで、ほぼほぼ消えてしまいました。また、その状態に慣れてしまった子どもに、昔の「からだを使った遊び」を提示しても、興味を示さないか、やろうとしても出来ません。コマ回しなんかでも、最初は興味を持ってやろうとするのですが、まず、ヒモが巻けません。巻いてあげても、投げ方のイメージが掴めていないのでコマが飛んでいって危険です。当然、回りません。で、すぐに諦めます。「からだ遊び」や「群れ遊び」を大切にするような保育をしている幼稚園や保育園に通っていて、普段から「からだ遊び」をいっぱいやっているような子は、色々と工夫して結局回せるようになることが多いのですが、そういう保育をしている幼稚園、保育園は多くありません。ちなみに、そのような能力が育つために必要なのは「先生が指導してやらせる活動」ではなく「子ども達が自主的にやる活動」です。「先生の指導で体操をやらせたから育つ能力」では無いということです。自主性が必要なんです。「遊び」ってそういうもんですよね。それに、「からだ遊び」に興味がない子に、「からだ遊び」をやらせようとしても、からだの使い方の基本が出来ていないので非常に危険です。また、出来ないし、楽しめません。そしてすぐにふざけ始めます。以前、子ども会の依頼で異年齢の子ども達対象に「からだ遊び」をしようとしたのですが、上級生の子ども達がふざけ始めて危険な状態になってしまったので内容を変えたことがあります。運動会から、昔は普通にやっていた数人で組んでやる騎馬戦や棒倒しのような種目が減ってきたのもそのせいでしょう。先日、うちの教室の子が「友達が遊びに来ても、ゲームする時間がもったいないので断っちゃう」と言っていました。友達と遊ぶよりも一人でゲームをしている方が楽しい子が多いみたいです。その様な子は「言うこと」は立派なのですが、実際には何も出来ません。先日、以下のような記事を読みました。小学校低学年ほど暴力増加「登校した瞬間、友だちに殴りかかる」...大人が知らない校内暴力の今<小中学校での暴力・いじめが過去最多を記録。取材を進めると、驚きの実態、その要因が見えてきた。あなたの子どもは加害者になっていないか?>今年10月に文部科学省が発表したデータによれば、全国の小中学校で起きた子どもの暴力やいじめ事案は、過去最多を記録した。(ニューズウィーク)こういうことも、子ども達の「からだ遊び」や「群れ遊び」の喪失と密接に関係しているのではないかと思っています。それはみんな大人の責任です。今、大人達が真剣に「子どもの遊び」「子どもの環境」「大人の生活」について考え直してみなければ、日本の社会は大変なことになってしまうと思います。
2025.11.23
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私は30代の頃に太極拳を学んでいました。その時の先生から言われたのが「丁寧に動け」ということでした。そして実は、この「丁寧に」ということが「心」と「からだ」をつなげるためには必要なことなんです。これは「茶道」でも同じでしょう。利休は「茶の湯とはただ湯を沸かして茶を点てて飲むだけ」と言いましたが、「だったら好き勝手に、自由に飲んでもいいじゃないですか」と言う人もいるかも知れませんが、でもそれでは「丁寧に」がしにくくなってしまうのです。「型」があるからこそ「丁寧に感じ、考え、動く」という練習がしやすくなるのです。丁寧に感じ、考え、動くことが出来るようになった人にとっては「茶の湯とはただ湯を沸かして茶を点てて飲むだけ」でいいのですが、最初からこのような考えでやってしまうと、丁寧に感じ、考え、動く能力が育たなくなってしまうのです。これは太極拳でも、踊りのようなものでも同じです。型を学ぶことを通して丁寧に感じ、考え、動く能力が育った人は、自由に動いてもちゃんと道理に従って動けるのです。でも、現代人は「効率」や「結果」だけを重視して「過程」を重視しません。ですから、現代社会においては「丁寧に」ということを大切にしている人は本当に少数です。子育てや教育の場でも「丁寧に」は大切にされていません。だから、「心とからだのつながり」が不安定な人が増えてしまったのだと思います。そして、その様な人は精神的に不安定で、自己肯定感も低いです。「自己を支えてくれるもの」を持っていないのですから。「しつけ」という言葉は、「仕付け」と「躾」という二種類の漢字で表されます。これは私の理解ですが、「仕付け」という漢字には、「子どもが将来自立して生きていくために必要な能力を育てる」という意味が込められ、「躾」には「子どもの心とからだをつなげ、精神的な自立を支えるため」という意味が込められているのではないかと思います。でも、現代人は「素直に、親や大人の言うことに従うように訓練する」ことが「しつけ」の意味だと思い込んでしまっている人があまりにも多いような気がするのです。だから「しつけと称する虐待」が起きてしまうのでしょう。「ペットのしつけ」と「人間の子どものしつけ」の意味の違いが分からなくなってしまっている、ということなのでしょう。「躾」という漢字には「丁寧を伝える」という意味が込められているのです。丁寧に感じ、考え、行動する姿を「美しい」と感じる感性が「躾」という漢字を生みだしたのだろうと思います。そんな現代社会でも、「丁寧」が必要とされる活動があります。それが「手仕事」や様々な「芸術的な活動」なんです。簡単・便利が求められる現代社会でも、「手仕事」や「芸術的な活動」においては簡単便利が求められないのです。むしろ嫌われます。「手仕事」や「芸術的な活動」で求められるのは、効率や能率や合理性ではなく、丁寧に感じ、丁寧に考え、丁寧に動くことです。そして、これは時代や文化を超えて変わらない原理原則だと思いますだからこそ、「人間としての心とからだの基礎」が育っている最中の、7才前、9才前の子ども達にとっては「手仕事」や「芸術的な活動」が絶対的に必要になるのです。ちなみに、「知識を覚えさせる勉強」や、「簡単便利な機械」や、「ゲームでの遊び」は、「丁寧に感じ、丁寧に考え、丁寧に動く能力の育ち」を阻害し、子どもを精神的に不安定な状態にしてしまいます。でも、国のお偉いさん達は、このような活動を「不要不急の活動」だと思い込んでいます。困ったもんです。
2025.11.22
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「踊り」(ダンス)というものを見たことも、学んだこともない人に「自由に踊ってもいいよ」と言って踊って貰っても、手足がバラバラで、デタラメな動きにしかならないでしょう。その「バラバラ」が統合されるためには「イメージの働き」が必要になるのです。例えば、その様なとき「波のように動いてみて」「風のように動いてみて」と言われれば、「バラバラ」が「波」や「風」の動きのイメージ合わせて統合されるでしょう。その時、心とからだ、からだの各部も統合されているのです。昨日は「道具を使うことで心とからだ、からだの各部が統合される」ということを書きましたが、その道具もただデタラメに使うだけではその効果は薄いのです。確かに、ノコギリを使うだけでも「心とからだ」や「からだの各部」は統合されます。統合されない状態では、ノコギリで木を切ることは出来ないからです。でも、ただデタラメに切るだけでなく、「目的」(イメージ)を持ってノコギリを使うことでさらに統合が進むのです。それは例えば、板に線を引いて、その線通りに切ろうとするようなことです。その様な「目的」(イメージ)を持つことで「心」と「からだ」、「からだの様々な各部」がその目的に合わせて統合されるのです。ナイフを使うときも、ただ木を削るだけでなく「こういう形にしよう」というイメージを持って使うことで、「心とからだ」や「からだの各部」がさらに統合されるのです。でも、「自由」に慣れてしまっている最近の子ども達は、ノコギリを挽くときの「線」すら束縛と感じるようで、多くの子が、線も引かずに切ろうとします。線を引かせても、その線を無視して切ろうとします。その結果、サイズや形が合わなくなり、イスを作っても、箱を作っても、ガタガタになります。「定規で線を引いてから切りな」と言っても、「そう言われたからやっているだけ」の子は、自分の内側に「何のために定規を使うのか」という「目的」(イメージ)がないので、線自体がちゃんと引けません。そして、線を引いても線通りに切ることが出来ません。私が「道具を使うと心とからだが統合されますよ」というのは、道具には、その「形」や「使い方」自体の中に、「目的と使い方のイメージ」が内包されているからなんです。「ノコギリの使い方」は、ノコギリをよく観察すれば分かります。「箒の使い方」は、箒をよく観察すれば分かります。それが「道具」というものの特徴です。そしてその目的と使い方のイメージに従ってノコギリや箒を使うことで「心とからだ」が統合されるのです。でも、ノコギリを使わせることは強制できますが、自分の内側にイメージを持つように強制することは出来ません。本人がやる気にならないと、イメージは生まれないからです。「風のように動いてみて」と言っても、本人がちゃんと心の中に風をイメージ出来なければ「風のように」は動けないのです。その時に必要になるのが「風の体験」と「かっこいいお手本」なんです。「風」を体験したから風のイメージが分かるのです。そして、風のように動いている人を見て「本当に風のようだ」と感じることも出来るのです。だから自分自身もまた「風」をイメージ出来るのだし、また風のように動けるのです。かっこよくコマを回したり、木に登ったりするお兄ちゃんやお姉ちゃん、かっこよくナイフやノコギリを使う大人を見て、あこがれることで、イメージが生まれます。そして、そのイメージに合わせてからだを動かそうと思うときに、「心とからだ」、そして「からだの各部」が統合されるのです。これは武道でも同じで、イメージの働きを使うことで「心とからだ」、そして「からだの各部」がつながり、技が利くようになるのです。太極拳でも日本の武道でも、「型」と呼ばれるものには、その武道に合ったイメージを心とからだの中に創り出し、その活動に合わせて「心とからだ」「からだの各部」を統合する(練る)働きがあるのです。
2025.11.21
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私は、自宅では造形教室をしています。絵画、木工、電気工作、羊毛、染色、織り、縫い、何でもやっています。以前は窯(灯油窯)を持っていたので陶芸もやっていました。でも、住宅が建て込んできたので窯に火を入れることが困難になり、陶芸はやめてしまいました。粘土遊びはやっていますけど。当然、様々な道具を使います。特に木工ではトンカチ、ノコギリを使うのは不可欠です。でも、その道具の使い方がみんな悲惨な状態です。トンカチでもノコギリでも羊毛のニードルでも、みんな片手だけで扱おうとするのです。粘土を扱うような時も両手を協調させることが苦手です。また、道具やその対象と対話することなく、自分勝手に、力任せに道具を扱おうとします。ですから、ノコギリは曲がり、ニードルはポキポキ折れます。でも、疲れるだけで作業は進みません。でも当然、そんなやり方ではうまく出来ません。だからすぐに「先生持っていて」「先生押さえていて」と言ってきます。両手、両足、からだ、さらに感覚や頭の働きを使えば、大抵のことは一人でなんとかなるのですが、楽に、簡単に、利き手だけで何とかしようとするのでなんともならないのです。で、私はしょっちゅう「もっと頭を使え」と言っているのですが、その意味が伝わりません。そもそも一人で何とかしようとする発想自体がないみたいです。また、トンカチでは釘の向きに向かって真っ直ぐ振り下ろすことが出来ません。そもそも釘に当たらない子も多いです。当たらないのに、思いっきり叩くのです。だからすぐに曲がります。釘先が板の脇から出てしいます。また、釘を押さえている手を離して打とうとするので、釘の端にトンカチが当たって釘が飛ぶこともあります。非常に危険です。ノコギリはただ真っ直ぐに押して、真っ直ぐに引くだけです。下に向かう力はいりますが、左右への力はいりません。でも、その「真っ直ぐに押して、真っ直ぐに引く」ということが出来ない子が非常に多いのです。実は、ノコギリを上手に使うためには、腕だけでなくからだ全体を統合する必要があるのですが、それが出来ないのです。子ども達は腕だけで力任せにノコギリを挽こうとします。当然、左右へも力が入ってしまうので、ノコギリが曲がります。また、摩擦でノコギリが動きません。それでいて下への力は入っていないので、いくらやっても切れていきません。手は動かしていますが「切っている」という意識が働いていないのです。「今自分が何をやっているのか」ということを自覚していないのです。(子育てでも同じですからね・・・)当然、そんなことを繰り返しても木に傷が付くだけで全然切れません、そのためすぐに「ノコギリは嫌いだ」「ノコギリはやりたくない」「先生、切って」などと言い出します。また、ちょっと作業しただけで「肩が痛い」「腰が痛い」などと言い出します。まるで「ご老人」です。その様な状態の子ども達が多いのですが、昔からではありません。20年前、30年前の子ども達は、みんな普通にノコギリで木を切っていたのです。でも、いつの間にか、上に書いたような状態の子ども達が普通になってしまったのです。それでも、少なくはなってしまいましたが、いまでも道具の使い方が上手な子もいます。その様な子は幼いときから、思いっきりからだを使って遊んでいた子ばかりです。ちなみに、道具の使い方が上手な子は精神的に安定しているような気がします。また、構造を理解したり、論理的に考えることも得意なような気がします。道具の使い方が上手な子は、自分の感覚の働きとの対話が能力が高く、意識を「頭の中」だけでなく「からだの中」にまで広げることが出来るからなのでしょうか。
2025.11.20
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現代人は「心」と「からだ」のつながりが弱くなっています。特に「疲れやすい人」や「自己肯定感が低い人」はその可能性が高いです。実は、自己肯定感が低いのは「心の問題」ではなく、「心とからだのつながりの問題」なんです。だから、能力も才能も高いのに自己肯定感が低い人がいる反面、たいした能力も才能もないのに自己肯定感ばかりが高い人もいるのです。心とからだのつながりがしっかりとしていなければ、いくら成功体験を積ませても自己肯定感は高くならないのです。また、手と足、右手と左手、上半身と下半身、からだの右側と左側、からだと感覚の働き、五感などの様々な感覚の働きがバラバラになってしまっている人も多いです。そういう状態の子ども達はますます増えてきています。そういう子の感覚や思考は混乱しています。精神的にも不安定です。自己肯定感も低いです。それで感覚やからだを統合するための様々な方法が考え出されています。「感覚統合」と呼ばれるものもその一つです。以下はAIによる概要です。感覚統合とは、脳が様々な感覚情報(視覚、聴覚、触覚など)を整理して、外界の状況に対して適切に反応できるようにする神経学的なプロセスです。このプロセスがうまくいかないと、日常生活で様々な困りごとが生じることがあり、感覚統合の支援として、遊びを通して感覚を調整する「感覚統合療法」などが行われます。感覚統合とは、脳の働き: 視覚、聴覚、触覚、前庭感覚(平衡感覚)、固有感覚(体の位置)など、様々な感覚からの情報を脳が統合し、体や行動を適切にコントロールするプロセスです。役割: この機能によって、私たちは外界の状況を理解し、ボールを蹴る際に目でボールを見て、足の力加減を調整し、バランスを保ち、周囲の音を聞きながら行動することができます。比喩: 脳が感覚情報を「オーケストラ」のように調和させる「指揮者」の役割を果たしていると例えられます。偏りがあるとどうなるか感覚情報への過敏さ・鈍感さ: 周囲の些細な音に過敏に反応したり、触覚に鈍感だったりすることがあります。日常生活での困りごと: 揺れを怖がったり、力加減が強すぎたり、落ち着きがなかったりするなど、生活の中で様々な困りごとが生じることがあります。サポート方法感覚統合療法: 作業療法士などが、遊びや運動を通して感覚機能の未熟な部分や苦手な部分を発展させることを目指します。遊びを通して:前庭刺激: ブランコ、シーソーなど触覚刺激: 砂場遊び、粘土遊び、泡遊びなど固有受容覚: 荷物を持つ、体を使ったお手伝いなど日常生活: 遊びを通して感覚統合を楽しく促すことができます。(続きます)
2025.11.19
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もともと人間は、幻想の中で生きている動物なんです。問題は、その「幻想」を「現実」だと思い込んでしまっていることです。だから、現実の世界に様々な不具合が生じているのです。環境問題も、子育てや教育の問題も、出所はみんな同じです。「現実の世界」で生きている人間以外の動物達は、「子育て」で悩んだり、自分が生きている「環境」を破壊したりしないのです。私たちが思い込んでいることがもし「幻想」ではなく「現実」なら、時代や、年齢や、文化や、気質の違いによらずに、みんなが「同じもの」を見て「同じ音」を聞いているはずです。でも、実際にはそうではありませんよね。「主観」と「客観」という言葉があります。9才までの子ども達は「主観」だけで形成された世界を生きています。「客観的に物事を見る能力」が目覚め始めるのが9才~10才頃です。そのため、この頃子ども達が生きている世界が大変革します。それまで見えていなかったものが、急に見えるようになってしまうのですから。そして、不安を感じたり、混乱したりします。ただし、この「客観」は、科学で扱っている「物質的客観」とは異なります。幼児期の子ども達が生きている「主観の世界」も、子ども自身から観たら「客観的な世界」です。「主観的な世界」に生きているから妖精さんが見えたりするのですが、でも、子ども自身にとってはそれは「客観的な事実」なんです。だから「嘘を言うんじゃありません」などと言われると深く傷つくのです。この頃の子どもには「他の人にはどう見えているのか」という視点がないのです。だから、裸ん坊でも大丈夫なんです。でも、9才、10才頃から「他の人にはどう見えているのか」をいう視点が目覚め始めるのです。それが、上に書いた「客観的に物事を見る能力」ということなんですが、この「客観的」という言葉がくせ者なんです。確かに、この頃になると幼児期よりは「客観的に物事を見る能力」が目覚めるのですが、実はこの時期の「客観」は「人間社会で共有されている主観に気付き始める」ということに過ぎないのです。だから、時代や文化が違うと客観的な世界も違ってきてしまうのです。戦争をやっている社会の客観と、平和な世界の客観は同じではないのです。ですから、それは、本当の意味での客観的な世界ではないのです。個人にも主観があるように、社会にも主観があるのです。そして多くの場合、私たちが「客観的に見る」と言う場合は「社会的主観に立って見る」ということなんです。さらに言えば、人類が共有している主観もあります。その主観を持っていない宇宙人が地球人を見たら、「あの生き物は何か不思議な考え方をしている」と思うかも知れません。
2025.11.18
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もともと人間は、幻想の中で生きている動物なんです。問題は、その「幻想」を「現実」だと思い込んでしまっていることです。だから、現実の世界に様々な不具合が生じているのです。環境問題も、子育てや教育の問題も、出所はみんな同じです。「現実の世界」で生きている人間以外の動物達は、「子育て」で悩んだり、自分が生きている「環境」を破壊したりしないのです。私たちが思い込んでいることがもし「幻想」ではなく「現実」なら、時代や、年齢や、文化や、気質の違いによらずに、みんなが「同じもの」を見て「同じ音」を聞いているはずです。でも、実際にはそうではありませんよね。「主観」と「客観」という言葉があります。9才までの子ども達は「主観」だけで形成された世界を生きています。「客観的に物事を見る能力」が目覚め始めるのが9才~10才頃です。そのため、この頃子ども達が生きている世界が大変革します。それまで見えていなかったものが、急に見えるようになってしまうのですから。そして、不安を感じたり、混乱したりします。ただし、この「客観」は、科学で扱っている「物質的客観」とは異なります。幼児期の子ども達が生きている「主観の世界」も、子ども自身から観たら「客観的な世界」です。「主観的な世界」に生きているから妖精さんが見えたりするのですが、でも、子ども自身にとってはそれは「客観的な事実」なんです。だから「嘘を言うんじゃありません」などと言われると深く傷つくのです。この頃の子どもには「他の人にはどう見えているのか」という視点がないのです。だから、裸ん坊でも大丈夫なんです。でも、9才、10才頃から「他の人にはどう見えているのか」をいう視点が目覚め始めるのです。それが、上に書いた「客観的に物事を見る能力」ということなんですが、この「客観的」という言葉がくせ者なんです。確かに、この頃になると幼児期よりは「客観的に物事を見る能力」が目覚めるのですが、実はこの時期の「客観」は「人間社会で共有されている主観に気付き始める」ということに過ぎないのです。だから、時代や文化が違うと客観的な世界も違ってきてしまうのです。戦争をやっている社会の客観と、平和な世界の客観は同じではないのです。ですから、それは、本当の意味での客観的な世界ではないのです。個人にも主観があるように、社会にも主観があるのです。そして多くの場合、私たちが「客観的に見る」と言う場合は「社会的主観に立って見る」ということなんです。さらに言えば、人類が共有している主観もあります。その主観を持っていない宇宙人が地球人を見たら、「あの生き物は何か不思議な考え方をしている」と思うかも知れません。
2025.11.18
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私たちは、体に備わった「目の働き」でものを見ていると思っています。でも、実は「目」は外部の情報を提供しているだけで、その情報を認識して、その「もの」を見ているのは「心」の方なんです。その「心」には「頭の働き」と「からだの働き」と「感覚の働き」が含まれています。「心の目で見る」などというと、なにか武道の達人の言葉のように感じますが、実は私たちはみんな「心の目」で「もの」を見ているのです。というか、人間は「肉体に備わった目」だけでは「もの」を見ることが出来ないのです。「本」を見て「本」と認識するためには目の働き以外の働きが必要だからです。また、「肉体の目」では美醜を見ることが出来ません。「かわいいもの」も見ることが出来ません。まただから、同じものを見ているはずなのに、あとから、その「もの」について聞くと、みんな異なった記憶を語るのです。道の脇に一本の大きな木があったとします。道を歩いていれば必ず目に入るような大きな木です。でも、そんなにも大きな木であっても、「木」に関心のない人には「木」が見えないものです。網膜には映っていても、心の働きがそれを「木」として認識しないからです。そして「木」として認識しなければ「木」は見えないのです。「木」を見ても「あ、木か」とそれだけで終わってしまう人もいます。でも、その大きさに驚く人や、花や葉っぱの色や姿に面白を感じる人や、木漏れ日の美しさに気付く人や、木の種類に気付く人もいます。「空」はいつも頭の上に広がっています。でも、その「いつも見えているはずの空」をちゃんと見ることが出来ている人は少ないのではないでしょうか。人は皆「同じもの」を見ても、「同じように」は見えていないのです。人は皆、「自分の心とからだの状態」に合わせて、「自分が見たいもの」だけを見ているのです。「空」に関心がない人は、いつも網膜に映っているはずの雲を認識できないのです。嘘だと思ったら実験してみて下さい。お買い物や散歩の時に、「空」「色」「形」「花」「お店」などとテーマを決めて歩いてみて下さい。テーマを決めたとたんに、今まで気づかなかった「それ」が見えるようになりますから。今日は「色探しをしてみよう」という気持ちで外を歩くと、普段気付かない色が見えるようになり、「私たちのまわりはこんなにも多くの色があるのか」ということに気付きます。「子どもの笑顔」に意識を向けていると「子どもの笑顔」が見えるようになります。子どもが「ちゃんと勉強しているか」「ちゃんと片付けているか」ということばかり気にしている人には、「子どもがやっていること」「やっていないこと」は見えても「子ども」そのものが見えません。どんな表情で、どんな姿勢なのかも見えません。人間は「自分が関心がないこと」は見えないように出来ているからです。だから、身の回りの自然や美しいものに子どもたちの意識を向けさせることで、子どもが生きている世界を広げてあげることが出来るのです。それは子どもに「心と意識の自由」をもたらしてくれるでしょう。でもそのためには、大人がまず「心の目」を育てる必要がありますけどね。皆さんはお子さんの表情や、姿勢や、声の状態に気づいていますか。
2025.11.17
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私たちは、体に備わった「目の働き」でものを見ていると思っています。でも、実は「目」は外部の情報を提供しているだけで、その情報を認識して、その「もの」を見ているのは「心」の方なんです。その「心」には「頭の働き」と「からだの働き」と「感覚の働き」が含まれています。「心の目で見る」などというと、なにか武道の達人の言葉のように感じますが、実は私たちはみんな「心の目」で「もの」を見ているのです。というか、人間は「肉体に備わった目」だけでは「もの」を見ることが出来ないのです。「本」を見て「本」と認識するためには目の働き以外の働きが必要だからです。また、「肉体の目」では美醜を見ることが出来ません。「かわいいもの」も見ることが出来ません。まただから、同じものを見ているはずなのに、あとから、その「もの」について聞くと、みんな異なった記憶を語るのです。道の脇に一本の大きな木があったとします。道を歩いていれば必ず目に入るような大きな木です。でも、そんなにも大きな木であっても、「木」に関心のない人には「木」が見えないものです。網膜には映っていても、心の働きがそれを「木」として認識しないからです。そして「木」として認識しなければ「木」は見えないのです。「木」を見ても「あ、木か」とそれだけで終わってしまう人もいます。でも、その大きさに驚く人や、花や葉っぱの色や姿に面白を感じる人や、木漏れ日の美しさに気付く人や、木の種類に気付く人もいます。「空」はいつも頭の上に広がっています。でも、その「いつも見えているはずの空」をちゃんと見ることが出来ている人は少ないのではないでしょうか。人は皆「同じもの」を見ても、「同じように」は見えていないのです。人は皆、「自分の心とからだの状態」に合わせて、「自分が見たいもの」だけを見ているのです。「空」に関心がない人は、いつも網膜に映っているはずの雲を認識できないのです。嘘だと思ったら実験してみて下さい。お買い物や散歩の時に、「空」「色」「形」「花」「お店」などとテーマを決めて歩いてみて下さい。テーマを決めたとたんに、今まで気づかなかった「それ」が見えるようになりますから。今日は「色探しをしてみよう」という気持ちで外を歩くと、普段気付かない色が見えるようになり、「私たちのまわりはこんなにも多くの色があるのか」ということに気付きます。「子どもの笑顔」に意識を向けていると「子どもの笑顔」が見えるようになります。子どもが「ちゃんと勉強しているか」「ちゃんと片付けているか」ということばかり気にしている人には、「子どもがやっていること」「やっていないこと」は見えても「子ども」そのものが見えません。どんな表情で、どんな姿勢なのかも見えません。人間は「自分が関心がないこと」は見えないように出来ているからです。だから、身の回りの自然や美しいものに子どもたちの意識を向けさせることで、子どもが生きている世界を広げてあげることが出来るのです。それは子どもに「心と意識の自由」をもたらしてくれるでしょう。でもそのためには、大人がまず「心の目」を育てる必要がありますけどね。皆さんはお子さんの表情や、姿勢や、声の状態に気づいていますか。
2025.11.17
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実は私たちは日常的に「目には見えないもの」を観て、「耳では聞くことが出来ない音」を聴いているんです。これはオカルト的な怪しい話ではありません。「食べ物の色」が、「食べ物の味」に影響を与えているのはよく知られている事実ですよね。色が変わるだけでは機械が分析する味は変わらないですが、人間が感じる味は変わってしまうのです。映画などでは、「音」をうまく使って「見えないもの」を見せるように工夫されています。黒板を爪でひっかく音は、耳だけでなく皮膚にも不快な感覚を与えます。「小さなつぶつぶ」がいっぱいあるのを見ると、見ただけなのに自分の皮膚にも不快な感じを覚えて「ゾワッ」としますよね。暗いところに入った時、見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえたりしたことはありませんか?「共感覚」と呼ばれる特殊な感覚を持った人がいます。共感覚とは、ある刺激に対して、通常の感覚に加えて別の種類の感覚が同時に引き起こされる知覚現象です。例えば、文字に色が見えたり、音を聞いて味を感じたりするなど、複数の感覚が混合して体験されます。この現象は病気や障害ではなく、人口の数%程度の人にみられると考えられており、文字に色を感じる「色字」などが代表的です。AI による概要これだけを読むと特別な感覚のように感じますが、私は、普通の人でもみんな無意識の世界では「共感覚的な感覚能力」を持っているのではないかと思っています。(自閉症の子はこれが弱いのではないかとも感じています。)幼い子ども達は、「意識」と「無意識」の間の壁が薄いので、簡単に「見えないもの」が見え、「聞こえない音」が聞こえてしまうのです。それは「空想」とは違うものです。その子にとっては、実際に自分の感覚で感じている現実です。大人でも意識の状態を変えると、このようなことが起きます。統合失調症の人は、意識と無意識の間の壁が弱くなってしまっているため、この能力が暴走してしまっているのでしょう。頭では「そんなことあり得ない」と思っていても、心とからだはそんな「あり得ない世界」に存在しているのです。だから、こんなにも医学が進歩したのに、「心の悩み」も「心の問題から来るからだの不調」も医者や薬では治せないのです。
2025.11.16
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実は私たちは日常的に「目には見えないもの」を観て、「耳では聞くことが出来ない音」を聴いているんです。これはオカルト的な怪しい話ではありません。「食べ物の色」が、「食べ物の味」に影響を与えているのはよく知られている事実ですよね。色が変わるだけでは機械が分析する味は変わらないですが、人間が感じる味は変わってしまうのです。映画などでは、「音」をうまく使って「見えないもの」を見せるように工夫されています。黒板を爪でひっかく音は、耳だけでなく皮膚にも不快な感覚を与えます。「小さなつぶつぶ」がいっぱいあるのを見ると、見ただけなのに自分の皮膚にも不快な感じを覚えて「ゾワッ」としますよね。暗いところに入った時、見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえたりしたことはありませんか?「共感覚」と呼ばれる特殊な感覚を持った人がいます。共感覚とは、ある刺激に対して、通常の感覚に加えて別の種類の感覚が同時に引き起こされる知覚現象です。例えば、文字に色が見えたり、音を聞いて味を感じたりするなど、複数の感覚が混合して体験されます。この現象は病気や障害ではなく、人口の数%程度の人にみられると考えられており、文字に色を感じる「色字」などが代表的です。AI による概要これだけを読むと特別な感覚のように感じますが、私は、普通の人でもみんな無意識の世界では「共感覚的な感覚能力」を持っているのではないかと思っています。(自閉症の子はこれが弱いのではないかとも感じています。)幼い子ども達は、「意識」と「無意識」の間の壁が薄いので、簡単に「見えないもの」が見え、「聞こえない音」が聞こえてしまうのです。それは「空想」とは違うものです。その子にとっては、実際に自分の感覚で感じている現実です。大人でも意識の状態を変えると、このようなことが起きます。統合失調症の人は、意識と無意識の間の壁が弱くなってしまっているため、この能力が暴走してしまっているのでしょう。頭では「そんなことあり得ない」と思っていても、心とからだはそんな「あり得ない世界」に存在しているのです。だから、こんなにも医学が進歩したのに、「心の悩み」も「心の問題から来るからだの不調」も医者や薬では治せないのです。
2025.11.16
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実は私たちは日常的に「目には見えないもの」を観て、「耳では聞くことが出来ない音」を聴いているんです。これはオカルト的な怪しい話ではありません。「食べ物の色」が、「食べ物の味」に影響を与えているのはよく知られている事実ですよね。色が変わるだけでは機械が分析する味は変わらないですが、人間が感じる味は変わってしまうのです。映画などでは、「音」をうまく使って「見えないもの」を見せるように工夫されています。黒板を爪でひっかく音は、耳だけでなく皮膚にも不快な感覚を与えます。「小さなつぶつぶ」がいっぱいあるのを見ると、見ただけなのに自分の皮膚にも不快な感じを覚えて「ゾワッ」としますよね。暗いところに入った時、見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえたりしたことはありませんか?「共感覚」と呼ばれる特殊な感覚を持った人がいます。共感覚とは、ある刺激に対して、通常の感覚に加えて別の種類の感覚が同時に引き起こされる知覚現象です。例えば、文字に色が見えたり、音を聞いて味を感じたりするなど、複数の感覚が混合して体験されます。この現象は病気や障害ではなく、人口の数%程度の人にみられると考えられており、文字に色を感じる「色字」などが代表的です。AI による概要これだけを読むと特別な感覚のように感じますが、私は、普通の人でもみんな無意識の世界では「共感覚的な感覚能力」を持っているのではないかと思っています。(自閉症の子はこれが弱いのではないかとも感じています。)幼い子ども達は、「意識」と「無意識」の間の壁が薄いので、簡単に「見えないもの」が見え、「聞こえない音」が聞こえてしまうのです。それは「空想」とは違うものです。その子にとっては、実際に自分の感覚で感じている現実です。大人でも意識の状態を変えると、このようなことが起きます。統合失調症の人は、意識と無意識の間の壁が弱くなってしまっているため、この能力が暴走してしまっているのでしょう。頭では「そんなことあり得ない」と思っていても、心とからだはそんな「あり得ない世界」に存在しているのです。だから、こんなにも医学が進歩したのに、「心の悩み」も「心の問題から来るからだの不調」も医者や薬では治せないのです。
2025.11.16
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この四月に、小田原に新しく出来た「YES International School Odawara」のARTの授業を短期ですが受け持たせて頂いています。以下の写真は、「形で遊ぼう」というテーマで自由に描いてもらった時の絵です。みんな素敵な絵を描いたのですが、この子の絵はちょっと特別でした。(他の子がどんな絵を描いたのかは「YES International School Odawara」のInstagramを覗いてみて下さい。)どう特別なのかというと、算数の計算式を描いて、それを青く塗っているのです。その子曰く「算数は青」だそうです。それが面白かったので先日FBにこの写真を載せたら、「やっぱり算数は青ですよね」とコメントを入れて下さる方が何人もいて驚きました。私たちは算数の数式にさえも色を感じているみたいです。気質の勉強会の時にもやるのですが、「この人は何色が似合うと思いますか?」と聞くと、多少の違いはありますが、なんとなくみんな同じような色を選ぶのです。でも、これって不思議ですよね。色に色を取り合わせるのなら分かります。色と色は並べて比較できますからね。でも人間と色も取り合わせることが出来るみたいなのです。私たちは何を基準にして色を選んでいるのでしょうか。また、「○○さんを色に例えると」と問いかけても、ちゃんとその人を特徴付けるような色が見えてくるのです。肌が赤いわけでもないのに「赤」を感じたり、肌が青くないのに「青」を感じたりするのです。先日「カラーモンスター」という絵本を買いました。著: アナ・レナス訳: おおとも たけし「怒りとか悲しみなどという感情を、色として感じて気持ちを整理してみよう」というような内容の絵本です。「感情に色がある」というのも不思議ですよね。でも、多くの人が「怒り」に赤を、悲しみに青を、苦しみに黒を感じるのではないでしょうか。私たちはいったい何を見ているのでしょうか。「意識できるもの」だけでなく、「意識できないもの」まで見ているのではないでしょうか。意識には「意識できるものだけ」しか見えませんが、無意識は「意識できないもの」まで見えているのではないでしょうか。そして、「意識できるもの」は頭に、「意識できないもの」は、ダイレクトに心とからだの中に取り込まれているのかも知れません。実は、パウル・クレーという絵描きや、彼と共にバウハウスという美術学校にいた仲間達も「色や形の不思議」について研究していました。大分昔に読んだので、あまり記憶が定かではないのですが、「○は何色が合うか」、「□は何色が合うか」などというようなことや、色や形についての様々な研究をしていたようです。<続きます>
2025.11.15
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この四月に、小田原に新しく出来た「YES International School Odawara」のARTの授業を短期ですが受け持たせて頂いています。以下の写真は、「形で遊ぼう」というテーマで自由に描いてもらった時の絵です。みんな素敵な絵を描いたのですが、この子の絵はちょっと特別でした。(他の子がどんな絵を描いたのかは「YES International School Odawara」のInstagramを覗いてみて下さい。)どう特別なのかというと、算数の計算式を描いて、それを青く塗っているのです。その子曰く「算数は青」だそうです。それが面白かったので先日FBにこの写真を載せたら、「やっぱり算数は青ですよね」とコメントを入れて下さる方が何人もいて驚きました。私たちは算数の数式にさえも色を感じているみたいです。気質の勉強会の時にもやるのですが、「この人は何色が似合うと思いますか?」と聞くと、多少の違いはありますが、なんとなくみんな同じような色を選ぶのです。でも、これって不思議ですよね。色に色を取り合わせるのなら分かります。色と色は並べて比較できますからね。でも人間と色も取り合わせることが出来るみたいなのです。私たちは何を基準にして色を選んでいるのでしょうか。また、「○○さんを色に例えると」と問いかけても、ちゃんとその人を特徴付けるような色が見えてくるのです。肌が赤いわけでもないのに「赤」を感じたり、肌が青くないのに「青」を感じたりするのです。先日「カラーモンスター」という絵本を買いました。著: アナ・レナス訳: おおとも たけし「怒りとか悲しみなどという感情を、色として感じて気持ちを整理してみよう」というような内容の絵本です。「感情に色がある」というのも不思議ですよね。でも、多くの人が「怒り」に赤を、悲しみに青を、苦しみに黒を感じるのではないでしょうか。私たちはいったい何を見ているのでしょうか。「意識できるもの」だけでなく、「意識できないもの」まで見ているのではないでしょうか。意識には「意識できるものだけ」しか見えませんが、無意識は「意識できないもの」まで見えているのではないでしょうか。そして、「意識できるもの」は頭に、「意識できないもの」は、ダイレクトに心とからだの中に取り込まれているのかも知れません。実は、パウル・クレーという絵描きや、彼と共にバウハウスという美術学校にいた仲間達も「色や形の不思議」について研究していました。大分昔に読んだので、あまり記憶が定かではないのですが、「○は何色が合うか」、「□は何色が合うか」などというようなことや、色や形についての様々な研究をしていたようです。<続きます>
2025.11.15
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この四月に、小田原に新しく出来た「YES International School Odawara」のARTの授業を短期ですが受け持たせて頂いています。以下の写真は、「形で遊ぼう」というテーマで自由に描いてもらった時の絵です。みんな素敵な絵を描いたのですが、この子の絵はちょっと特別でした。(他の子がどんな絵を描いたのかは「YES International School Odawara」のInstagramを覗いてみて下さい。)どう特別なのかというと、算数の計算式を描いて、それを青く塗っているのです。その子曰く「算数は青」だそうです。それが面白かったので先日FBにこの写真を載せたら、「やっぱり算数は青ですよね」とコメントを入れて下さる方が何人もいて驚きました。私たちは算数の数式にさえも色を感じているみたいです。気質の勉強会の時にもやるのですが、「この人は何色が似合うと思いますか?」と聞くと、多少の違いはありますが、なんとなくみんな同じような色を選ぶのです。でも、これって不思議ですよね。色に色を取り合わせるのなら分かります。色と色は並べて比較できますからね。でも人間と色も取り合わせることが出来るみたいなのです。私たちは何を基準にして色を選んでいるのでしょうか。また、「○○さんを色に例えると」と問いかけても、ちゃんとその人を特徴付けるような色が見えてくるのです。肌が赤いわけでもないのに「赤」を感じたり、肌が青くないのに「青」を感じたりするのです。先日「カラーモンスター」という絵本を買いました。著: アナ・レナス訳: おおとも たけし「怒りとか悲しみなどという感情を、色として感じて気持ちを整理してみよう」というような内容の絵本です。「感情に色がある」というのも不思議ですよね。でも、多くの人が「怒り」に赤を、悲しみに青を、苦しみに黒を感じるのではないでしょうか。私たちはいったい何を見ているのでしょうか。「意識できるもの」だけでなく、「意識できないもの」まで見ているのではないでしょうか。意識には「意識できるものだけ」しか見えませんが、無意識は「意識できないもの」まで見えているのではないでしょうか。そして、「意識できるもの」は頭に、「意識できないもの」は、ダイレクトに心とからだの中に取り込まれているのかも知れません。実は、パウル・クレーという絵描きや、彼と共にバウハウスという美術学校にいた仲間達も「色や形の不思議」について研究していました。大分昔に読んだので、あまり記憶が定かではないのですが、「○は何色が合うか」、「□は何色が合うか」などというようなことや、色や形についての様々な研究をしていたようです。<続きます>
2025.11.15
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あと、子ども達の表現能力を育てるために必要なのは「手本」と、その表現を「見て聞いて楽しみ、反応してくれる人」です。このどちらが欠けても子ども達の表現能力は育ちません。言語能力も育ちません。でも今、子ども達の周囲にはこのどちらも存在していません。「教えようとする人」はいても、「手本になってくれる人」がいません。機械やデジタル機器を相手に一人で遊んでいることが多い今時の子どもが手本にしているのは「実際に存在している人間」ではなく、「映像の向こう側にいる虚像」ばかりです。また、現代人の生活環境の中には、「大人が手本を見せることが出来るような場」もありません。また、自己肯定感の低い人は「手本」になることを嫌がります。子どもの様々な表現に対して、それを無視したり、大人目線で批評する人は多いですが、子どもと感情を共有して、ただ素直に見て聞いて楽しみ、反応することが出来る人は少ないのです。そのため、多くの子ども達が、「自分を表現する方法」も、「自分を表現する喜び」も知らないまま育っています。また、表現を通して他者と出会い、自分と出会うことも出来なくなってしまっています。そのため、「他者との出会い」を通して育つ「人間らしい心とからだ」や、「自分との出会い」を通して育つ「自分の生き方を支える精神」が成長出来ない状態になってしまっています。今、子ども達が出会うことが出来るリアルな大人は、基本的に「親」と「先生」だけです。でも、親も先生も教えようとするばかりで「お手本」になろうとはしていません。また多くの人が、子どもの表現を減点法で評価はしても、子どもの感情に共感し、素直にその表現を見て、聞いて楽しみ、反応を返してあげることもしていません。テレビやyoutubeなどで「大人」を見る機会は多いですが、画面の向こうの大人は、子どもと同じ時間と空間を共有していません。また、自然な状態でもありません。それは、皆さんが見る「鏡の中の自分」のような「不自然な姿」です。皆さんは、鏡を見ることで「自分の姿」を確認しようとしますが、でもそれは、「鏡を見ている自分の姿」であって、「他の人が見ているあなたの姿」ではありませんよね。他の人は「鏡を見ているときのあなた」とではなく「鏡を見ていないときのあなた」を見ているのです。そして子どもは「鏡を見ていないときのあなた」から影響を受けて育っているのです。子どもに何か教えているときのあなたではなく、あなたが普通にやっていることを見て学んでいるのです。ですから、子どもをいくら叱っても、説得しても、説明しても、子どもは「お母さんが言っていること」など聞いていません。でも、お母さんが日常的に言ったり、やったりしていることはよく見て模倣しようとしています。「お母さんが言ったこと」は覚えていなくても、お母さんの声や叱り方は覚えているのです。それはつまり、「優しくしなさい」と怒鳴っていれば、「優しい子」にではなく「他の人に怒鳴る子」に育つということです。自分は勉強していないのに、子どもにばかり「勉強しなさい」と怒鳴っていれば、子どもは「勉強しないお母さん」を模倣して、自分も勉強しなくなります。
2025.11.14
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「自己を表現する能力」と似たものに「プレゼンテーション能力」と呼ばれるものがあります。いわゆる「説明能力」と呼ばれるようなものです。そして、学校では「自己表現能力」を育てるようなことはしていませんが、「プレゼンテーション能力」を育てるようなことはしています。みんなの前で、自分が調べたことや考えたことを発表するような活動です。それはビジネスなどの場でも必要な能力だからなのでしょうか。その「プレゼンテーション能力」は、「他者を納得させる能力」であり、「言語能力」に依存しています。また、伝えるのは「自分」(自分の心やからだの中にあるもの)ではなく、情報として「頭の中にあるもの」です。そのため、プレゼンテーション能力」が高い人は、「嘘」でも「本当のこと」のように話すことが出来ます。でも、幼い子ども達は言語能力も未熟で、相手の立場に立って考えることも出来ないので「(自分視点からの)自己表現」は出来ますが「プレゼンテーション」は出来ません。まただから、幼い子どもは「相手をだますための嘘」がつけないのです。お母さんに問い詰められてつくバレバレの嘘は「自分を守るための嘘」です。それは「お母さんが言わせている嘘」です。また、「自己表現」は「自分視点」で表されるため、他の人がその意図や意味を読み解くためには、相手の心やからだの状態に対する理解と、体験に基づく技術が必要になります。実際、同じ絵を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ踊りを見ても、同じ言葉を聞いても、多くのことを感じ取ることが出来る人もいれば、何にも感じ取れない人がいますよね。子ども達は、絵や、言葉や、行動や、からだの状態や、表情や、姿勢や、声などを通して常に自己表現しています。ただし、これらは「無自覚的自己表現」です。泣くのも、いたずらや問題行動も「子どもの無自覚的自己表現」です。子どもの周囲に居る大人が、子どものその「無自覚的自己表現」の意味をちゃんと読み解くことが出来れば、子どもとの意思疎通が可能になります。子どもも安心します。そして、大人達が子どものその「無自覚的自己表現」を、子どもの「心とからだからの言葉」として受け入れ、理解し、対応してあげていると、子ども達は「無自覚的自己表現」を「意識的自己表現」に変えることが出来るようになります。絵でも、歌でも、踊りでも、他者と共有できるような表現になっていきます。子どもの「言葉にならない言葉」に大人達が耳を傾け、その「言葉にならない言葉」に「大人の言葉」で返してあげているうちに、子どもは自然と大人の言葉を理解し、話すことが出来るようになりますよね。それと同じです。赤ちゃんがニコニコしていたら「嬉しいんだね」と「ニコニコ」を返してあげていると、子どもは「ニコニコ」を自分の感情表現として使えるようになるのです。でも、大人がその「ニコニコ」に反応しないと、子どももニコニコしなくなるそうです。そういう研究を読んだことがあります。じゃあ、「自己表現」にはどんな意味があるのかということですが、実は「自己表現」は「自己を確認する方法」でもあるのです。子どもたちは絵を描いたり、走り回ったり、大きな声を出したり、踊ったりすることで「自己の確認」を行っているのです。それは赤ちゃんが色々なものを口に入れてしまうのと似たような行動です。赤ちゃんや幼い子どもたちは、様々な「無自覚的表現活動」を通して「自分が生まれてきた世界」と関わろうとしているのです。「自分が生まれてきた世界」のことを知り、同時に、それらを鏡として、自分のことを知ろうとしているのです。自分で自分のことを知ろうと思ったら、自分が感じていること、考えていることを表現してみる必要があるのです。それをしないと「内側から見た自分」は分かっても、「外側から見た自分」のことが分からないのです。その「外側から見た自分」とは「社会的な自分」のことです。でもだから、自己肯定感が低い人ほど、自己表現活動を嫌うのです。
2025.11.13
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「自己を表現する能力」と似たものに「プレゼンテーション能力」と呼ばれるものがあります。いわゆる「説明能力」と呼ばれるようなものです。そして、学校では「自己表現能力」を育てるようなことはしていませんが、「プレゼンテーション能力」を育てるようなことはしています。みんなの前で、自分が調べたことや考えたことを発表するような活動です。それはビジネスなどの場でも必要な能力だからなのでしょうか。その「プレゼンテーション能力」は、「他者を納得させる能力」であり、「言語能力」に依存しています。また、伝えるのは「自分」(自分の心やからだの中にあるもの)ではなく、情報として「頭の中にあるもの」です。そのため、プレゼンテーション能力」が高い人は、「嘘」でも「本当のこと」のように話すことが出来ます。でも、幼い子ども達は言語能力も未熟で、相手の立場に立って考えることも出来ないので「(自分視点からの)自己表現」は出来ますが「プレゼンテーション」は出来ません。まただから、幼い子どもは「相手をだますための嘘」がつけないのです。お母さんに問い詰められてつくバレバレの嘘は「自分を守るための嘘」です。それは「お母さんが言わせている嘘」です。また、「自己表現」は「自分視点」で表されるため、他の人がその意図や意味を読み解くためには、相手の心やからだの状態に対する理解と、体験に基づく技術が必要になります。実際、同じ絵を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ踊りを見ても、同じ言葉を聞いても、多くのことを感じ取ることが出来る人もいれば、何にも感じ取れない人がいますよね。子ども達は、絵や、言葉や、行動や、からだの状態や、表情や、姿勢や、声などを通して常に自己表現しています。ただし、これらは「無自覚的自己表現」です。泣くのも、いたずらや問題行動も「子どもの無自覚的自己表現」です。子どもの周囲に居る大人が、子どものその「無自覚的自己表現」の意味をちゃんと読み解くことが出来れば、子どもとの意思疎通が可能になります。子どもも安心します。そして、大人達が子どものその「無自覚的自己表現」を、子どもの「心とからだからの言葉」として受け入れ、理解し、対応してあげていると、子ども達は「無自覚的自己表現」を「意識的自己表現」に変えることが出来るようになります。絵でも、歌でも、踊りでも、他者と共有できるような表現になっていきます。子どもの「言葉にならない言葉」に大人達が耳を傾け、その「言葉にならない言葉」に「大人の言葉」で返してあげているうちに、子どもは自然と大人の言葉を理解し、話すことが出来るようになりますよね。それと同じです。赤ちゃんがニコニコしていたら「嬉しいんだね」と「ニコニコ」を返してあげていると、子どもは「ニコニコ」を自分の感情表現として使えるようになるのです。でも、大人がその「ニコニコ」に反応しないと、子どももニコニコしなくなるそうです。そういう研究を読んだことがあります。じゃあ、「自己表現」にはどんな意味があるのかということですが、実は「自己表現」は「自己を確認する方法」でもあるのです。子どもたちは絵を描いたり、走り回ったり、大きな声を出したり、踊ったりすることで「自己の確認」を行っているのです。それは赤ちゃんが色々なものを口に入れてしまうのと似たような行動です。赤ちゃんや幼い子どもたちは、様々な「無自覚的表現活動」を通して「自分が生まれてきた世界」と関わろうとしているのです。「自分が生まれてきた世界」のことを知り、同時に、それらを鏡として、自分のことを知ろうとしているのです。自分で自分のことを知ろうと思ったら、自分が感じていること、考えていることを表現してみる必要があるのです。それをしないと「内側から見た自分」は分かっても、「外側から見た自分」のことが分からないのです。その「外側から見た自分」とは「社会的な自分」のことです。でもだから、自己肯定感が低い人ほど、自己表現活動を嫌うのです。
2025.11.13
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「自己を表現する能力」と似たものに「プレゼンテーション能力」と呼ばれるものがあります。いわゆる「説明能力」と呼ばれるようなものです。そして、学校では「自己表現能力」を育てるようなことはしていませんが、「プレゼンテーション能力」を育てるようなことはしています。みんなの前で、自分が調べたことや考えたことを発表するような活動です。それはビジネスなどの場でも必要な能力だからなのでしょうか。その「プレゼンテーション能力」は、「他者を納得させる能力」であり、「言語能力」に依存しています。また、伝えるのは「自分」(自分の心やからだの中にあるもの)ではなく、情報として「頭の中にあるもの」です。そのため、プレゼンテーション能力」が高い人は、「嘘」でも「本当のこと」のように話すことが出来ます。でも、幼い子ども達は言語能力も未熟で、相手の立場に立って考えることも出来ないので「(自分視点からの)自己表現」は出来ますが「プレゼンテーション」は出来ません。まただから、幼い子どもは「相手をだますための嘘」がつけないのです。お母さんに問い詰められてつくバレバレの嘘は「自分を守るための嘘」です。それは「お母さんが言わせている嘘」です。また、「自己表現」は「自分視点」で表されるため、他の人がその意図や意味を読み解くためには、相手の心やからだの状態に対する理解と、体験に基づく技術が必要になります。実際、同じ絵を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ踊りを見ても、同じ言葉を聞いても、多くのことを感じ取ることが出来る人もいれば、何にも感じ取れない人がいますよね。子ども達は、絵や、言葉や、行動や、からだの状態や、表情や、姿勢や、声などを通して常に自己表現しています。ただし、これらは「無自覚的自己表現」です。泣くのも、いたずらや問題行動も「子どもの無自覚的自己表現」です。子どもの周囲に居る大人が、子どものその「無自覚的自己表現」の意味をちゃんと読み解くことが出来れば、子どもとの意思疎通が可能になります。子どもも安心します。そして、大人達が子どものその「無自覚的自己表現」を、子どもの「心とからだからの言葉」として受け入れ、理解し、対応してあげていると、子ども達は「無自覚的自己表現」を「意識的自己表現」に変えることが出来るようになります。絵でも、歌でも、踊りでも、他者と共有できるような表現になっていきます。子どもの「言葉にならない言葉」に大人達が耳を傾け、その「言葉にならない言葉」に「大人の言葉」で返してあげているうちに、子どもは自然と大人の言葉を理解し、話すことが出来るようになりますよね。それと同じです。赤ちゃんがニコニコしていたら「嬉しいんだね」と「ニコニコ」を返してあげていると、子どもは「ニコニコ」を自分の感情表現として使えるようになるのです。でも、大人がその「ニコニコ」に反応しないと、子どももニコニコしなくなるそうです。そういう研究を読んだことがあります。じゃあ、「自己表現」にはどんな意味があるのかということですが、実は「自己表現」は「自己を確認する方法」でもあるのです。子どもたちは絵を描いたり、走り回ったり、大きな声を出したり、踊ったりすることで「自己の確認」を行っているのです。それは赤ちゃんが色々なものを口に入れてしまうのと似たような行動です。赤ちゃんや幼い子どもたちは、様々な「無自覚的表現活動」を通して「自分が生まれてきた世界」と関わろうとしているのです。「自分が生まれてきた世界」のことを知り、同時に、それらを鏡として、自分のことを知ろうとしているのです。自分で自分のことを知ろうと思ったら、自分が感じていること、考えていることを表現してみる必要があるのです。それをしないと「内側から見た自分」は分かっても、「外側から見た自分」のことが分からないのです。その「外側から見た自分」とは「社会的な自分」のことです。でもだから、自己肯定感が低い人ほど、自己表現活動を嫌うのです。
2025.11.13
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「自己を表現する能力」と似たものに「プレゼンテーション能力」と呼ばれるものがあります。いわゆる「説明能力」と呼ばれるようなものです。そして、学校では「自己表現能力」を育てるようなことはしていませんが、「プレゼンテーション能力」を育てるようなことはしています。みんなの前で、自分が調べたことや考えたことを発表するような活動です。それはビジネスなどの場でも必要な能力だからなのでしょうか。その「プレゼンテーション能力」は、「他者を納得させる能力」であり、「言語能力」に依存しています。また、伝えるのは「自分」(自分の心やからだの中にあるもの)ではなく、情報として「頭の中にあるもの」です。そのため、プレゼンテーション能力」が高い人は、「嘘」でも「本当のこと」のように話すことが出来ます。でも、幼い子ども達は言語能力も未熟で、相手の立場に立って考えることも出来ないので「(自分視点からの)自己表現」は出来ますが「プレゼンテーション」は出来ません。まただから、幼い子どもは「相手をだますための嘘」がつけないのです。お母さんに問い詰められてつくバレバレの嘘は「自分を守るための嘘」です。それは「お母さんが言わせている嘘」です。また、「自己表現」は「自分視点」で表されるため、他の人がその意図や意味を読み解くためには、相手の心やからだの状態に対する理解と、体験に基づく技術が必要になります。実際、同じ絵を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ踊りを見ても、同じ言葉を聞いても、多くのことを感じ取ることが出来る人もいれば、何にも感じ取れない人がいますよね。子ども達は、絵や、言葉や、行動や、からだの状態や、表情や、姿勢や、声などを通して常に自己表現しています。ただし、これらは「無自覚的自己表現」です。泣くのも、いたずらや問題行動も「子どもの無自覚的自己表現」です。子どもの周囲に居る大人が、子どものその「無自覚的自己表現」の意味をちゃんと読み解くことが出来れば、子どもとの意思疎通が可能になります。子どもも安心します。そして、大人達が子どものその「無自覚的自己表現」を、子どもの「心とからだからの言葉」として受け入れ、理解し、対応してあげていると、子ども達は「無自覚的自己表現」を「意識的自己表現」に変えることが出来るようになります。絵でも、歌でも、踊りでも、他者と共有できるような表現になっていきます。子どもの「言葉にならない言葉」に大人達が耳を傾け、その「言葉にならない言葉」に「大人の言葉」で返してあげているうちに、子どもは自然と大人の言葉を理解し、話すことが出来るようになりますよね。それと同じです。赤ちゃんがニコニコしていたら「嬉しいんだね」と「ニコニコ」を返してあげていると、子どもは「ニコニコ」を自分の感情表現として使えるようになるのです。でも、大人がその「ニコニコ」に反応しないと、子どももニコニコしなくなるそうです。そういう研究を読んだことがあります。じゃあ、「自己表現」にはどんな意味があるのかということですが、実は「自己表現」は「自己を確認する方法」でもあるのです。子どもたちは絵を描いたり、走り回ったり、大きな声を出したり、踊ったりすることで「自己の確認」を行っているのです。それは赤ちゃんが色々なものを口に入れてしまうのと似たような行動です。赤ちゃんや幼い子どもたちは、様々な「無自覚的表現活動」を通して「自分が生まれてきた世界」と関わろうとしているのです。「自分が生まれてきた世界」のことを知り、同時に、それらを鏡として、自分のことを知ろうとしているのです。自分で自分のことを知ろうと思ったら、自分が感じていること、考えていることを表現してみる必要があるのです。それをしないと「内側から見た自分」は分かっても、「外側から見た自分」のことが分からないのです。その「外側から見た自分」とは「社会的な自分」のことです。でもだから、自己肯定感が低い人ほど、自己表現活動を嫌うのです。
2025.11.13
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表現する能力を育てるために必要なのは「知識」ではなく「物語」です。「教える人」ではなく「聞いてくれる人」です。絵でも、音楽でも、感じたことや考えたことでも、何かを表現するためにはそれを「物語化する能力」が必要なんです。「物語化」しないとそれに触れた人の心やからだに響くような「命」が吹き込まれないからです。人が何かに「命」を感じるのはそこに「物語」を感じるからなのです。人が音楽を聴いて感動するのは、楽譜通りに正確に演奏できているからではないですよね。音の一つ一つ、言葉の一つ一つに「物語」を感じるからですよね。「演奏者が紡ぐ物語」に、私たちの「命」が共鳴するのです。動画のように動くことはないのに、名画と呼ばれる絵をズーッと見続けることが出来るのは、良い絵は物語を語っているからです。一方、物語のない絵は、いくら上手に描かれていてもすぐに見飽きてしまいます。「音楽」も「物語」も「時間の流れ」の中に存在しています。そして、人の「心」も「命」も「時間の流れ」の中に存在しています。だから人は「時間の流れの中に存在しているもの」に触れると、「心」や「命」を感じるのです。「命」とは「人が一生を使って紡ぐ物語」そのものなんです。「命を大切にする」ということは、「自分らしく一生懸命に生きる」ということなんです。ただ単に「殺さない」「死なない」ということではないのです。学校で教えている「知識」は、その「時間の流れ」から切り離された「物」に過ぎません。そんな「物」をいくら詰め込んでも、子どもの心や命は育たないのです。解剖によって取り出された胃や、腸や、脳を見せても「生きている人間」について教えることは出来ません。またそれらを元通りにつなぎ合わせても、「生きた人間」にはなりません。まただから、科学では「命」をそのままの状態で扱うことが出来ないのです。「科学」は観測によって成り立っています。でも、観測するためには時間を止めなければならなりません。何時何分にはこうだった、その5秒後にはこうだった、さらに5秒後にはこうだった」という観測結果をアニメーションのようにつなげて、全体の動きを推測しているのです。でもそれは解剖した人体をつなぎ合わせているのと同じことです。まただから、医学がこんなにも進歩したのに病気は一向に減らないのです。病気についての知識は増えたのですが、「時間の流れから切り離された病気」ばかり見て、「時間の流れの中で生きている人間と病気の関係」を見ることを忘れてしまったため病気が増えたのです。解剖によって得たバラバラの知識をつなげて「からだの全体像」を推測するためには、「バラバラの知識」を時間の流れの中でつなげてあげる必要があるのです。それが「物語化する」ということです。そしてそれは、「人の心」にしか出来ない作業なんです。ですから、「心育て」を伴わない科学や医学は危険なんです。教育においても同じです。学校の先生は「知識を教えているだけ」という意識かも知れませんが、先生は「子どもの人生の物語」に大きな影響を与えているのです。先生の一言が「子どもが生きている物語」の流れを大きく変えてしまうこともあるのです。<続きます>
2025.11.12
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以前、ある横浜の保育園に指導に行って、子ども達と色々な造形遊びをしていたのですが、ある時、「絵を描く」というテーマで活動しました。朝、子ども達に「今日は絵を描くよ」と言うと、一斉にブーイングが来ました。多くの子が、「絵は嫌いだ」「絵が下手だから描きたくない」と言って拒否しようとしたのです。それで「てん」という絵本と、てん [ ピーター・レイノルズ ]訳: 谷川 俊太郎出版社: あすなろ書房ピカソや、ミロや、クレーの画集を持って行って見せました。そして、「今日は下手な絵を描く日です」「上手に描いてはいけません」「絵本のように点だけでもOK」「ただ色を塗るだけでもOK」と言って紙を渡したら、さっきの言葉が嘘のように、みんな描くわ描くわ、30秒に一枚ぐらいの猛スピードで描く子もいました。ちなみに紙は、紙問屋をやっている友人から「半端物」を大量にもらっていたので好きなだけ使わせました。みんな夢中になって描き始めました。「絵は嫌いだ」「絵が下手だから描きたくない」というのは本音ではなかったのです。みんな絵を描くのは大好きだったのです。ただ単に、先生の期待に合わせて描くこと、描いた絵を評価されること、他の子の目を意識しながら描くことが嫌いだっただけなんです。2,3才頃までの幼い子どもはみんな絵を描くことが大好きです。でも、成長と共に絵も進歩して「何を描いてあるのか」が分かるようになってくると、大人達は色々と批評し始めます。友達の目も気になるようになります。幼稚園や保育園でも「自分らしく」ではなく、上手に描かせようとします。それで嫌いになってしまうのではないかと思います。だから、上に書いたような本を見せて、「今日はこんな風に好き勝手に描いていいんだよ」と言われると「描きたい」という本音が表れるのでしょう。ただし、このような形で本音を引き出せるのは9才頃までだろうとおもいます。昨日は、「日本人は自分を表現するのが苦手だ」「自分を表現するような活動には参加したがらない」というようなことを書きましたが、これは本音ではないのです。本当なみんな表現したいのです。発言したいのです。でも、表現の仕方を知りません。発言の仕方を知りません。そんなこと学んだことがないからです。だから、自分を表現したり、自分の考えを言うような場は避けようとするのです。でも、顔が見えない匿名になると、急にみんな饒舌になります。お酒を飲みながら本音トークをするような場でもみんな饒舌になります。でも、顔が見える公の場になると、みんな無口になります。おとなしくて従順な日本人になります。みんな本音を隠して生きているのです。だから自己肯定感が低くなってしまうのです。「○○ガチャ」という言葉は「ねたみ」から出ています。どうして他の人をねたむのかというと、自分が自分らしく生きていないからです。
2025.11.11
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これは11/10のブログです。楽天の不具合で昨日アップできなかったので。noteの方にも同じ記事をアップしています。https://note.com/morinokoe/n/n0760c4ee65c2**********************日本では、子育てでも教育でも、あまり子どもに意見を求めません。対話も少ないです。積極的に自分を表現するような活動もやらせないし、そういうことが出来るような場もあまりありません。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動はありますが、そのような場ですら「みんな一緒、みんな同じ」を求められます。自分らしく感じ、自分らしく考え、自分らしく表現し、自分らしく行動することはあまり肯定されません。また、子どもも大人も、「みんな一緒、みんな同じ」という状況なら、絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動にも参加しますが、「自分らしさ」を前面に出さなければならないような活動は避けようとします。私のワークなどでも「次回は絵を描きます」とか、「次回は自己表現をやります」などと言うと、「えー」と言ったり、参加しない人も多いです。私は30才の頃、絵の勉強をするためにスペインのマドリッドにある美術研究所に通っていたのですが、そこにはスペイン人の他に日本人も多くいて、みんな頑張っていました。面白かったのは、デッサンが終わった後みんなで集まって自主的に講評会をするのですが、日本人は「どこが良くないのか」という欠点を指摘するように求める人が多かったのに対して、スペイン人の子たちは「どうだすごいだろ、今日はよく描けたんだ」とみんなに見せる子が多かったことです。日本人にとっては「自分らしさを表現すること」よりも、「どれだけ正解に近づけるか」ということの方が大切なんでしょう。これは絵を描くときも、歌を歌うときも、踊りを踊る時も同じような気がします。また、子育てや気質の勉強会などで「あなたの考えを聞かせてください」と聞いても「自分の考え」ではなく、「社会一般の常識」的な答えを言う人が多いです。「社会の常識」を「自分の考え」のように思い込んでしまっているのでしょう。そのため、「どうしてそう思うのですか」と聞き返しても答えることが出来ません。「だって、みんなそう思っているでしょう」というような反応しか返ってこないのです。どうして勉強するのですか?どうして学校に行くのですか?どうしてワクチンを打つのですか?どうして自分の意見を言わないのですか?と聞いても、ちゃんと「自分の感覚で感じ、自分の体験で学んだことを元にして自分の頭で考えた自分の考え」を言える人は少ないのです。そのような人に、「どうしてそう思うのですか?」「どうしてそう考えたのですか?」と聞き返すと、答えに窮してしまうのです。でも、たった一回きりの自分の人生を自分らしく生きたいと願うのならば、「自分の心と感覚で感じ、自分の体験を通して自分の頭で考え学んだこと」を大切に生きるしかないのです。死ぬ時になって「自分の人生空っぽだった」と気付いても手遅れなんです。「後悔しない生き方」をしたいのなら、「自分を表現すること」から逃げてはいけないのです。
2025.11.11
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これは11/10のブログです。楽天の不具合で昨日アップできなかったので。noteの方にも同じ記事をアップしています。https://note.com/morinokoe/n/n0760c4ee65c2**********************日本では、子育てでも教育でも、あまり子どもに意見を求めません。対話も少ないです。積極的に自分を表現するような活動もやらせないし、そういうことが出来るような場もあまりありません。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動はありますが、そのような場ですら「みんな一緒、みんな同じ」を求められます。自分らしく感じ、自分らしく考え、自分らしく表現し、自分らしく行動することはあまり肯定されません。また、子どもも大人も、「みんな一緒、みんな同じ」という状況なら、絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動にも参加しますが、「自分らしさ」を前面に出さなければならないような活動は避けようとします。私のワークなどでも「次回は絵を描きます」とか、「次回は自己表現をやります」などと言うと、「えー」と言ったり、参加しない人も多いです。私は30才の頃、絵の勉強をするためにスペインのマドリッドにある美術研究所に通っていたのですが、そこにはスペイン人の他に日本人も多くいて、みんな頑張っていました。面白かったのは、デッサンが終わった後みんなで集まって自主的に講評会をするのですが、日本人は「どこが良くないのか」という欠点を指摘するように求める人が多かったのに対して、スペイン人の子たちは「どうだすごいだろ、今日はよく描けたんだ」とみんなに見せる子が多かったことです。日本人にとっては「自分らしさを表現すること」よりも、「どれだけ正解に近づけるか」ということの方が大切なんでしょう。これは絵を描くときも、歌を歌うときも、踊りを踊る時も同じような気がします。また、子育てや気質の勉強会などで「あなたの考えを聞かせてください」と聞いても「自分の考え」ではなく、「社会一般の常識」的な答えを言う人が多いです。「社会の常識」を「自分の考え」のように思い込んでしまっているのでしょう。そのため、「どうしてそう思うのですか」と聞き返しても答えることが出来ません。「だって、みんなそう思っているでしょう」というような反応しか返ってこないのです。どうして勉強するのですか?どうして学校に行くのですか?どうしてワクチンを打つのですか?どうして自分の意見を言わないのですか?と聞いても、ちゃんと「自分の感覚で感じ、自分の体験で学んだことを元にして自分の頭で考えた自分の考え」を言える人は少ないのです。そのような人に、「どうしてそう思うのですか?」「どうしてそう考えたのですか?」と聞き返すと、答えに窮してしまうのです。でも、たった一回きりの自分の人生を自分らしく生きたいと願うのならば、「自分の心と感覚で感じ、自分の体験を通して自分の頭で考え学んだこと」を大切に生きるしかないのです。死ぬ時になって「自分の人生空っぽだった」と気付いても手遅れなんです。「後悔しない生き方」をしたいのなら、「自分を表現すること」から逃げてはいけないのです。
2025.11.11
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日本では、子育てでも教育でも、あまり子どもに意見を求めません。対話も少ないです。積極的に自分を表現するような活動もやらせないし、そういうことが出来るような場もあまりありません。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動はありますが、そのような場ですら「みんな一緒、みんな同じ」を求められます。自分らしく感じ、自分らしく考え、自分らしく表現し、自分らしく行動することはあまり肯定されません。また、子どもも大人も、「みんな一緒、みんな同じ」という状況なら、絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動にも参加しますが、「自分らしさ」を前面に出さなければならないような活動は避けようとします。私のワークなどでも「次回は絵を描きます」とか、「次回は自己表現をやります」などと言うと、「えー」と言ったり、参加しない人も多いです。私は30才の頃、絵の勉強をするためにスペインのマドリッドにある美術研究所に通っていたのですが、そこにはスペイン人の他に日本人も多くいて、みんな頑張っていました。面白かったのは、デッサンが終わった後みんなで集まって自主的に講評会をするのですが、日本人は「どこが良くないのか」という欠点を指摘するように求める人が多かったのに対して、スペイン人の子たちは「どうだすごいだろ、今日はよく描けたんだ」とみんなに見せる子が多かったことです。日本人にとっては「自分らしさを表現すること」よりも、「どれだけ正解に近づけるか」ということの方が大切なんでしょう。これは絵を描くときも、歌を歌うときも、踊りを踊る時も同じような気がします。また、子育てや気質の勉強会などで「あなたの考えを聞かせてください」と聞いても「自分の考え」ではなく、「社会一般の常識」的な答えを言う人が多いです。「社会の常識」を「自分の考え」のように思い込んでしまっているのでしょう。そのため、「どうしてそう思うのですか」と聞き返しても答えることが出来ません。「だって、みんなそう思っているでしょう」というような反応しか返ってこないのです。どうして勉強するのですか?どうして学校に行くのですか?どうしてワクチンを打つのですか?どうして自分の意見を言わないのですか?と聞いても、ちゃんと「自分の感覚で感じ、自分の体験で学んだことを元にして自分の頭で考えた自分の考え」を言える人は少ないのです。そのような人に、「どうしてそう思うのですか?」「どうしてそう考えたのですか?」と聞き返すと、答えに窮してしまうのです。でも、たった一回きりの自分の人生を自分らしく生きたいと願うのならば、「自分の心と感覚で感じ、自分の体験を通して自分の頭で考え学んだこと」を大切に生きるしかないのです。死ぬ時になって「自分の人生空っぽだった」と気付いても手遅れなんです。「後悔しない生き方」をしたいのなら、「自分を表現すること」から逃げてはいけないのです。
2025.11.10
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日本では、子育てでも教育でも、あまり子どもに意見を求めません。対話も少ないです。積極的に自分を表現するような活動もやらせないし、そういうことが出来るような場もあまりありません。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動はありますが、そのような場ですら「みんな一緒、みんな同じ」を求められます。自分らしく感じ、自分らしく考え、自分らしく表現し、自分らしく行動することはあまり肯定されません。また、子どもも大人も、「みんな一緒、みんな同じ」という状況なら、絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするような活動にも参加しますが、「自分らしさ」を前面に出さなければならないような活動は避けようとします。私のワークなどでも「次回は絵を描きます」とか、「次回は自己表現をやります」などと言うと、「えー」と言ったり、参加しない人も多いです。私は30才の頃、絵の勉強をするためにスペインのマドリッドにある美術研究所に通っていたのですが、そこにはスペイン人の他に日本人も多くいて、みんな頑張っていました。面白かったのは、デッサンが終わった後みんなで集まって自主的に講評会をするのですが、日本人は「どこが良くないのか」という欠点を指摘するように求める人が多かったのに対して、スペイン人の子たちは「どうだすごいだろ、今日はよく描けたんだ」とみんなに見せる子が多かったことです。日本人にとっては「自分らしさを表現すること」よりも、「どれだけ正解に近づけるか」ということの方が大切なんでしょう。これは絵を描くときも、歌を歌うときも、踊りを踊る時も同じような気がします。また、子育てや気質の勉強会などで「あなたの考えを聞かせてください」と聞いても「自分の考え」ではなく、「社会一般の常識」的な答えを言う人が多いです。「社会の常識」を「自分の考え」のように思い込んでしまっているのでしょう。そのため、「どうしてそう思うのですか」と聞き返しても答えることが出来ません。「だって、みんなそう思っているでしょう」というような反応しか返ってこないのです。どうして勉強するのですか?どうして学校に行くのですか?どうしてワクチンを打つのですか?どうして自分の意見を言わないのですか?と聞いても、ちゃんと「自分の感覚で感じ、自分の体験で学んだことを元にして自分の頭で考えた自分の考え」を言える人は少ないのです。そのような人に、「どうしてそう思うのですか?」「どうしてそう考えたのですか?」と聞き返すと、答えに窮してしまうのです。でも、たった一回きりの自分の人生を自分らしく生きたいと願うのならば、「自分の心と感覚で感じ、自分の体験を通して自分の頭で考え学んだこと」を大切に生きるしかないのです。死ぬ時になって「自分の人生空っぽだった」と気付いても手遅れなんです。「後悔しない生き方」をしたいのなら、「自分を表現すること」から逃げてはいけないのです。
2025.11.10
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昨日も小田原のインターナショナルスクールでの授業でした。テーマは「形で遊ぼう」です。最初に子どもたちと相撲をとったのですが、その後、ミロ、クレー、ピカソの画集を見せました。そして、「こんな絵だったらみんなも描けるよね」「これで何億円もするんだよ」と振ると、みんな「こんなの僕だって描ける」ということなので、「じゃあやってみよう」と始めました。最近、どうも楽天の具合が悪くてうまく編集も更新も出来ません。同じことをnoteでも書いているので、そちらの方をご覧になって下さい。https://note.com/morinokoe/n/n17ae622e70cf
2025.11.09
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多くの大人達が、子ども達を「子どもの世界」に閉じ込めて、「大人になるための学び」から遠ざけています。子どもを「子ども扱い」して、何でもかんでも世話を焼こうとするお母さんがいっぱいいます。その様なお母さんは自分で取ろうとしているのに、先回りして取ってあげる。転んで自分で立とうとしているのに、抱きかかえて立たせてあげ、「痛かったね 痛かったね」とケロリとしている子どもに言い続ける。子どもが何か言おうとしているのに、最後までその言葉を待つことが出来ずに、先回りして「こういうことね」と判断し、解釈してしまう。子どもが何かに挑戦しようとしていても、「危ないからやめなさい」と言ったり、お母さんが代わりにやってあげてしまったりする。お手伝いをさせず、勉強とゲームだけをやらせる。子どもに、親以外の大人と関わるような活動をやらせない。子どもが他の大人に叱られたりすると、叱った相手に「子どもなのに」と文句を言ったり、「あんたのせいで私が恥をかいた」などと子どもに文句を言ったりする。その様な子育てをしているお母さんは、子どもを「自分と対等な存在」として認識していないのです。子どもを「子ども扱い」しているのです。その結果、子どもは「大人になるための学び」が出来なくなり、親から離れて自立しなければならない年齢になっても、誰かに依存しようとするようになります。誰かに依存しないと生きることが出来なくなってしまっているからです。これは学校でも同じです。一般的な学校の先生は、子どもに知識を覚えさせることには熱心ですが、常に子どもを「子ども扱い」して指示や命令で動かそうとばかりしています。子どもの言葉に耳を傾けないし、子どもと対等の対話をしようともしません。 その結果、子ども達は「試験のための知識」ばかりが頭の中に入り、「一人の人間として生きていくための能力」が育たなくなってしまっています。多分、その先生もまた「子ども扱い」されて育ったのでしょう。だから、子どもと対等な関わり合いをすることが出来ないのです。子どもを「子ども扱い」ばかりしていると、子どもは「子どもの世界」から「大人の世界」に出て行けなくなってしまうのです。「子どもを守る」ということは、子どもを安心で、安全で、現実離れした「子どもの世界」に閉じ込めるということではないのです。ペットはそれでもいいのですが、やがて「一人の人間」として親から離れ、自立して生きていくことが出来る子どもを育てるためには、「自分で自分の身を守り、自分でつながりを作り、自分で学ぶ能力」を育てる必要があるのです。「免疫能力の育ち」においても同じです。子どもの周囲を過剰に清潔にしすぎると、子どもの免疫能力が育たなくなり、やがて、家庭の環境とは異なった環境に出て行くようになった時に、子どもは自分の健康を自分で守ることが出来なくなってしまうのです。子どもの健康を育てるためには、病気に罹っても重篤な状態になっていなければ、あまり薬や医者に依存することなく、自然に経過させるという体験も必要なんです。でも今、ちょっと具合が悪いだけで医者に連れて行く人ばかりです。その結果なのかは不明ですが、今、しょっちゅう病気をしている子が増えてきました。将来自立できるように子どもの成長を支えるためには、子どもを「子ども扱い」することなく、将来自分の後を継ぐ「後輩」として扱うような関わり方が必要なんです。 「お手伝い」は、お母さんの労働を肩代わりさせることではなく、「将来、自立して生きるようになった時に必要になる学び」を伝えるために必要なんです。 勉強とゲームしかさせてもらえずに大人になってしまった子は、自分の生活を自分で支えることが出来なくなってしまうのです。その様な子は、大人になっても親から離れることが出来なくなってしまいます。結婚しても、母親に対するのと同じように、奥さんに依存しようとします。奥さんが具合悪くて寝ているのに、「ご飯まだ」と催促するようなダメ亭主の話も聞きます。そんな「自立できない亭主」を持った奥さんは大変です。我が子がそうならないように子育てをするためには、「つかず離れず」という距離感が大事なんです。子育てにおいては、この「距離感」が非常に大切なんですが、これは言葉では伝えようがありません。
2025.11.07
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今日は、過去にアップしたものに一部加筆して再アップさせて頂きます。ここの所の「子どもを狭い世界に閉じ込めてはいけないのです」というテーマとつながっていると思ったので。*********7才までに「体験を通して学んだこと」は一生心とからだの中に残ります。だから記憶喪失になっても、痴呆症になっても、話したり、歩いたりすることが出来るのです。痴呆症が進むと幼児期以降に学んだことはどんどん消えてしまうのですが、「幼児期に身につけた感覚や能力」は最後まで残ります。それだけではありません。7才を過ぎると、今度はその「幼児期に身につけた感覚や能力」が、様々なことを体験したりするときの判断基準として働くようになるのです。それはつまり、「7才までに身につけたこと」が、7才を過ぎると、その子が様々なことを感じたり、考えたりするときの「物差し(基準、羅針盤)」として働くようになるということです。そのため、幼児期に虐待されたり、偏った体験ばかりを与えられ、「歪んだ物差し」「不安定な羅針盤」しか育てることが出来なかった子は、正しく感じ考えることが困難になってしまい、一生苦しむことになってしまうのです。物差しが歪んでしまった子には、「まっすぐ」が歪んで見え、自分の歪みに合ったものが「まっすぐ」に見えてしまうのです。そのため、周囲から「あなたの感覚や考え方は歪んでいるよ」と指摘されても、「歪んでいるのはそっちの方だ」と反発してきます。でも、周囲の人とぶつかり合うことが多かったり、色々なことに対して不思議を感じなかったり、物事が思い通りに行かなかったり、美しいものに触れても何にも感じないようなら、物差しが歪んでしまっている可能性が高いのです。また、遠くまで見通せるような広い空間で自由に遊んで育った子は、視野も広くなります。でも、近くしか見えないような狭い部屋の中だけで、同じものだけを相手に遊んで育った子の視野は狭くなります。人間は必要がない機能は育たないように出来ているからです。そしてその視野の広さの違いは物事を考えるときにも影響しているかも知れません。多様性に恵まれた環境で育っている子は、その違いを感じ分ける能力が育つでしょう。でも、いつも同じものばかり見て、同じ音ばかり聞いて育っている子は、多様な違いを感じ分ける能力が育ちにくいでしょう。だからこそ、幼児期には、人間によって歪められていない自然と関わり、自然の中で遊び、自然から学ぶような活動が必要になるのです。自然を通して身につけた物差し(羅針盤)には普遍性があるからです。そして「普遍的な物差し(羅針盤)」を持っている人同士なら、地域や文化や時代を超えた対話も可能です。「物差し(羅針盤)」が共通していなければ、対話が出来ないのです。「自然」と言っても遠くまで出かける必要はありません。私たちは自然の中で暮らしているのですから。食卓の上にも「自然の恵み」がいっぱい並んでいますよね。ただそのことに気づけばいいのです。その時に必要なのは「自然の物語」の物語を伝えることです。また、子ども時代の想い出にはなぜか道が多く現れます。ケンパやメンコなどをして遊んだ道。仲間と一緒に隣の町まで探検に行った時の道。学校の行き帰りの道。どこまでも歩いた野山の道。土手が黄色くなるほどに菜の花が咲いた川沿いの道。遠回りして帰った好きな子の家の前の道。遊園地などに行った時のことはよく覚えていないのに、ど-でもいいような道のことはよく覚えています。皆さんはどうですか?それは、子どもにとっては道が「日常と異世界をつなぐ不思議と発見の宝庫」だからなのでしょう。歩くたびに景色が変わり、新しい発見と出会いがあります。下を見れば綺麗な小石があり、虫がいて、お花が咲いています。上を見れば風に揺れる木々があり、飛行機や面白い形の雲が形を変えながら動いています。前を向けばパノラマのような空間が広がり、人が歩いたり、ジョギングしたり、犬の散歩をしている人がいます。友達もいるかも知れません。でも、自転車や車に乗ってしまったらこの出会いはありません。道を歩くと物語が生まれます。「歩く」という時間経過が物語を展開していくのです。道ばたにお花が咲いています。そのお花を摘んで歩いているとちょうちょやトンボがやってきます。そのちょうちょを見ていると青い空と白い雲が目に入ります。雲がモクモク動いています。そよ風の中にかすかなお花の匂いもします。何となく気持ちが良くなって来てスキップします。向こうから小さな子どもを連れたお母さんがやって来ます。その子と目が合います。知らない子です。何となく恥ずかしくなって下を見て、小石をけります。そしてまた歩き出します。しばらく歩くと橋が見えてきます。橋の上から下を見ると鯉が泳いでいます。川の土手にはタンポポが咲いて、昼寝をしている人もいます。鳥の声も飛行機の音も聞こえます。時々お母さんの「ちゃんと歩きなさい」という声も聞こえます。子どもたちは道を歩きながらこのような物語を体験しているのです。だから大人のようにちゃんとは歩かないのです。うちの子ども達も、大人が歩けば5分程度の通学路を、たっぷり30分もかけて歩いて帰って来ていました。しかもお約束の通学路を通らないでわざわざ遠回りして帰って来ていたようです。私は親子遊びや、子育てや、お母さん達の自分育てなどに関する講座やワークショップの講師をしています。そのワークショップでお母さん達に子どもの頃に遊んだ町の地図の絵を描いてもらったことがあります。最初は漠然としか想い出せないのですが、描き出してみると細かいことまで次々に想い出されてくるのです。「ここに空き地があって、ここでよく遊んだ」とか、「ここの家には犬がいて怖かった」とか、「この小川で遊んだ」とか。それで次第に地図が広がり何枚もの画用紙をつなげて大きな地図にしてしまう人までいました。「道の記憶」をたどっていくと、自分の子どもの頃の気持ちまでが蘇ってくるのです。そしてそのことで、忘れていた「大切なこと」を想い出すことが出来ます。それは「自然との出会いの記憶」であると同時に、「自分の人生の原点」の記憶でもあります。心の原風景です。でも、幼い頃に部屋の中だけで遊んでいた子にはその原風景がないのです。そのように育ったお母さん達に「子どもの頃」のことを聞いても、「子どもの頃のことは想い出せない」と言う人も多いです。逆に、子どもの頃のことを生き生きと想い出し、生き生きと語ることが出来る人が語るのは、草花や、虫や、自然の中で仲間と遊んだ記憶のような「自然とつながるもの」ばかりです。そのような人は、子どもの頃の「自然体験」が「心の原風景」としてしっかりと定着しているのでしょう。そしてその「心の原風景」が、子どもが大人になって苦しいことや、悲しいことに出会った時に、心からだが壊れないように守ってくれるのです。
2025.11.06
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子どもの成長には順序があります。まず、オギャーと産まれるまでに生命維持機能が成長します。産まれた後は、視角、嗅覚、味覚、触覚、聴覚などの体の機能としての感覚の他に、快不快を感じる感覚、他者の気持ちを感じ共感する感覚、バランス感覚、からだを統合する感覚、美醜を感じる感覚などが育っていきます。ちなみに、シュタイナー教育では、五感の働きの他に熱感覚・運動感覚・平衡感覚・生命感覚・言語感覚・思考感覚・自我感覚というものを加え、人間には12の感覚能力があると説いています。私が上に書いた「他者の気持ちを感じ共感する感覚」や「からだを統合する感覚」のようなものは12感覚の複合体としての感覚です。一般的に、感覚は単独では働かないのです。味覚は視覚の影響を受けやすいし、視覚は聴覚の影響を受けやすいし、平衡感覚は視覚や聴覚の影響を受けやすいことは皆さん体験的にご存じですよね。共感覚と呼ばれる感覚を持った人には、音に色が見えたりすることもあるようです。産まれたばかりの赤ちゃんは、自分が産まれた世界とのやり取りを通して、自分が産まれた世界に合わせて自分の感覚やからだの状態の調整をしているのです。感覚能力自体は生まれつきですが、その感覚をどのような状態に調整するのかは産まれた後の生活環境に依存しているのです。そうしないと、自分が生まれて来た世界に適応することが出来なくなってしまうからです。それはつまり、寒さが厳しいアラスカに産まれ育った子と、一年中温かいハワイに産まれ育った子とでは感覚の状態が異なっているということです。砂漠に囲まれた所に産まれ育った子と、自然と水が豊富な所に産まれ育った子も異なった感覚を持っています。多様な色に満たされた世界に生まれ育った子は、多様な色を感じる能力が育ちます。多様な音に満たされた世界に生まれ育った子は、多様な音を感じる能力が育ちます。多様な形に満たされた世界に生まれ育った子は、多様な形を感じる能力が育ちます。多様な人間がいる環境の中に生まれ育った子は、人の違いを感じる能力が育ちます。日本語を話す人に育てられれば、日本語の音を聞き分ける能力が育ちます。英語を話す人に育てられれば、英語の音を聞き分ける能力が育ちます。でもだから、日本語対応の感覚の人には英語の音が聞き取りにくいのです。日本は自然に恵まれた国です。ですから、日本人は、「自然の色」や「自然の音」を感じる能力に優れています。ジャングルのようなところで育てば、「命の気配」を感じる能力が育つでしょう。日常的に「大きな音」にさらされて育っている子は、「大きな音の識別」は出来るようになりますが、「小さな音の識別」は出来なくなります。「音の小さな変化」にも気付きません。いつも機械を相手に生活している子は、機械を扱う感覚は育ちますが、機械が無いときにはどうしたらいいのかが分からなくなります。そして、このような「環境に合わせた感覚調節」は、3才、5才、7才と過ぎるうちに終了し、そのまま固定化していきます。特に3才までの感覚体験が、子どもの感覚の働きの中に大きく残っていきます。そして、それ以降はそれほど大きく変わらなくなります。「三つ子の魂百まで」ということです。今では「三つ子の魂百まで」という言葉を否定する人も多いですが、感覚やからだの育ちにおいては確かにその通りなんです。三歳までのことは「意識」の中には残らないのですが、「無意識」と「からだ」の中にはしっかりと残るのです。だから、子どもが幼いときには、変化のない狭い部屋の中に閉じ込めて、変化のない生活、変化のない遊び、物や機械だけに囲まれた生活に浸らせることなく、積極的に外に連れ出し多様な感覚体験を与えてあげて欲しいのです。多様な感覚を感じ取る能力が育てば、それだけ世界が広く豊かになるのですから。さらに、感覚育てには「言葉かけ」も重要です。ご飯を食べるときも、「美味しいね」「これはちょっとしょっぱいね」などと感覚を言葉化することで、感覚が意識化されるからです。
2025.11.05
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昨日は、毎日同じ空間の中だけに居て、同じ「あるもの」や「いるもの」と、「同じこと」ばかりを繰り返していると、「慣れ」が生じ、「感覚」と「思考」が停止してしまい、惰性だけで生活するようになり「成長」が停止します。と書きましたが、人間は「物質的な世界」だけに生きているわけではありません。「物質的世界」と同時に「言葉が創り出した世界」も生きているのです。というか、「物質的な世界」に意味と価値を与えているのも「言葉」です。「木」というものに意味と価値を与えているのも言葉です。「命」や「勇気」や「希望」といったものや「お金」や「権力」に意味と価値を与えているのも「言葉」です。「自分」という存在に意味と価値を与えているのも言葉です。「自己肯定感」と呼ばれるものも、言葉が創り出しています。そして、人間の心は「言葉」で出来ています。「言葉」は「人間の心」そのものなんです。時間、空間、論理、真・善・美、そういったものは「言葉の世界」の中にしか存在していません。ですから、言葉が育っていない子はこういうものを理解することが出来ません。そのため、言葉が育っていない子に倫理や道徳を説いても無意味なんです。「馬の耳に念仏」という諺通りです。人は誰でも「自分の心」を感じて生きています。でも、人が直接的に感じることが出来るのは「自分の心」だけです。「他者の心」は見ることも触れることも出来ませんからね。そのため、「他者の心」について知るためには、「心について語ることが出来る言葉との出会い」が必要になるのです。それはつまり、子どもの「人間としての成長」を支えるためには「環境としての言葉」のことも考えなければいけないということです。「命」を守るためには「物質的な環境」を整える必要がありますが、「人間らしさ」を育てるためには「言葉の環境」を整える必要があるのです。でも、現代社会においては「子どもを取り巻く言葉の環境」はひどい状態です。そもそも「言葉と出会う場」すら満足に与えられていません。そのため、多くの子どもたちが「自分の世界」の中から出ることが出来なくなってしまっているのです。最近の「普通の子」は、「言葉を介した仲間とのつながり」から切り離されて、言葉を必要としない「物」とばかり関わって遊び、生活しています。「言葉を介した家族のつながり」も希薄です。そのため「物の世界について語る言葉」は学ぶことが出来ているのですが、「心の世界について語る言葉」は学ぶことが出来ていないのです。だから、感情を表現する言葉が「ヤバイ」とか「むかつく」というような感覚的な表現になってしまっているのです。まただから「自分の心」とも向き合えないのです。また、「言葉の育ち」が未熟な子ども達には「他者の心に気を配る」ということが出来ません。そのため、相手が傷つくようなことを言ったり、やったりしても、心が痛みません。遊び感覚で他の子をいじめたりもします。そんな「心の世界について語る言葉」は、「心の世界について語る言葉」を知っている人と「言葉」を介して関わることでしか学びようがありません。それは「言葉」というものを学ぶときの大原則です。英語を学びたいのなら、英語を話せる人と英語を介して関わるしかありませんよね。それと同じです。あと、「お話」や「物語」を通しても「心の世界について語る言葉」を学ぶことが出来ます。その「心の世界について語る言葉」が語ることが出来るのは、「心が創り出している世界」の全てについてです。それは人間の精神性、歴史、文化そのものです。だから、もっと子どもたちと会話や対話をして欲しいのです。もっと、お話や物語を語ってあげて欲しいのです。もっと絵本を読んであげて欲しいのです。言葉の世界が貧弱になり荒れたら、社会も荒れます。言葉が消えたら、人類の未来も消えます。
2025.11.04
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子どもは、自分の周囲に「あるもの」や「いるもの」とやり取りしながら、学び、成長して行きます。ですから、毎日同じ空間の中だけに居て、同じ「あるもの」や「いるもの」と、「同じこと」ばかりを繰り返していると、「慣れ」が生じ、「感覚」と「思考」が停止してしまい、惰性だけで生活するようになり「成長」が停止します。特に、「家の中」や「公園」のような人工的な環境には変化や多様性が少ないし、大人によって「出来ること」に制限もかけられているので、すぐに慣れが生まれてしまいます。そして慣れてしまえば、後に残るのは「退屈」だけです。でも、成長過程にある子ども達は本能的に「退屈」を嫌うので、あれこれ「大人が決めたルール」以外のことを探し、やり始めます。滑り台を下から登ったり、滑り台の上から石や砂を落としたり、ブランコに石を置いたりとあれこれ「大人には想定外の遊び」を発見し、遊び始めます。仲間がいれば遊びがエスカレートして、さらに「大人には想定外の遊び」をし始めます。さらに、「困ったこと」をした時の大人の反応を面白がって、わざと「やってはいけない」ことをやり始める子もいます。「イジメ遊び」を始める子もいます。大人はこれを「困ったこと」と考えますが、それは、「子どもの成長」の表れでもあるのです。でも「子どもの成長」よりも安全や安心の方を大切にする大人達は、「事故やトラブルが起きてしまう可能性が高い遊び」を嫌います。そして、禁止し、叱ります。何かあったら責任を問われるからです。確かに、イジメは止めなければなりませんが、なぜ「イジメ遊び」をするのかというと「成長欲求」が満たされていないからなんです。このことはちゃんと認識しておいた方がいいです。家庭内にあるものや公園にある遊具のような「人間が作ったもの」は、みんな「使い方」が決まっています。「オモチャ」ですら「使い方」が決まっています。積み木は比較的自由度が高いですが、それでも積み木に絵を描いたり、切ったり、くっつけたり、何かを貼ったりしたら叱られてしまうでしょう。でも子ども達は、そんな大人が決めた「使い方」を知りません。興味もないし、知りたいとも思っていません。そんなもの守っていたら「新しい発見」がないからです。子どもが「遊び」に夢中になるのは「新しい発見」があるからなのです。そして「新しい発見」を通して「新しい感じ方」「新しい考え方」「新しいからだの使い方」に目覚め、成長していくのです。問題は、それらの「人間が作ったもの」は「使い方」を守っていれば安心・安全なように出来ていますが、「使い方」を守らなかった場合の安心と安全は保証されていないということです。また、自然物と違って高価でもあります。そのため、大人達は「使い方」を守らせようとします。でもその結果、子どもたちは「同じ感覚」、「同じ思考」、「同じからだの使い方」を繰り返すだけになってしまいます。そのため、すぐに飽きてしまいます。これは、お母さん達から良く聞く話なのですが、欲しがっていたオモチャを買ってあげても、直後は喜び、いっぱい遊ぶのですが、しばらくすると見向きもしなくなってしまうことが多いそうです。皆さんの所でもそうではありませんか。見かけがいくらかっこよくても、可愛くても、使い方が決まっていて、自由度が少ないオモチャはすぐに飽きてしまうのです。そして同じように良く聞くのが、布や、紙や、ガラクタや、森の中で拾ってきたようなものでは、飽きることなくズーッと遊んでいるということです。どうしてだと思いますか?「人間が作ったオモチャ」で遊ぶときには、子どもがオモチャに合わせなければなりません。リカちゃん人形を「花子さん」として扱うことは出来ないのです。言い換えると、使い方が決まっているオモチャは、子どもの興味や成長に合わせてくれないのです。でも、布や、紙や、ガラクタや、森の中で拾ってきたようなものは子どもの成長に合わせてくれます。子どもが成長して遊び方を変えても、遊び方の変化に合わせてくれます。だから飽きないのです。シュタイナー教育で使う「バルドルフ人形」も特定の個性を与えられていません。ですから、何人にも、赤ちゃんにも、子どもにも、お母さんにもなることが出来ます。
2025.11.03
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「天の川を見る会」から帰ってきて、あまりに眠かったからちょっと寝たら、二時間くらい寝てしまいました。二週間前くらいの予報では微妙な天気でしたが、夕べはばっちり晴れてくれました。星もよく見えました。でも、月が明るすぎたので、天の川までは見ることが出来ませんでした。でも、素敵な夜空を味わうことが出来ました。夕食後、全てのライトを消して、焚き火だけ光の中で夜空を見てみました。月の明かりが明るいので、しばらくするとライトがないのに普通の周囲の景色が見えるようになりました。「月で出来た影」に子どもたちに驚いていました。私がこのような会を企画したのは、現代人の生活、現代の子どもたちから失われてしまった「自分が生きている世界の本当の姿」を少しでも体験して欲しいと思ったからです。このような体験はタブレットでは100%出来ないのです。インドの映像を見て「インドに行った気」「インドを知っている気」にはなることが出来ます。でもそれは全て妄想です。でも、「現実の体験」のない子は、それは現実だと思い込んでしまいます。あと子どもたちに体験して欲しいこととして「真っ暗闇」があります。皆さん「真っ暗闇」って体験したことがありますか。私は二度ほど体験があります。一度は「ダイアログ・イン・ザ・ダークネス」というワークを通してと、伊豆の山の中でです。本当の真っ暗です。目を開けても、閉じても何も変わりません。タブレットの映像が暗くなっても、そこの写るのは黒い画面であって、それをいくら見ても「真っ暗闇」は体験出来ませんよね。私は2011年にネパールに行って、圧倒的なヒマラヤの大きさに驚きました。富士山なんて小さいもんです。2018年にインドのラダックに行ったときは標高4000m、5000mの世界で普通に生活している人たちと、その世界の自然と出会ってきました。私の出会いなんてちっぽけなものですが、それでも、私の中の何かが変わる体験でもありました。1980年~1981年とバックパッカーで世界を歩いたときにも、色々な驚きが毎日のようにありました。世界は広いのです。世界は不思議に満ちているのです。世界は面白いのです。でも、部屋の中や人間が作った環境の中だけで暮らしている子どもたちにはそのような「私たちが生きている本当の世界」と出会う機会がありません。ですから、「本当の姿」を知りません。でも、困ったことに知った気にはなってしまっています。もっとも私も、ちょっと触れただけです。ものすごく深い体験をしている人もいますが、でも、どんなにすごい体験、深い体験をした人でも、触れることが出来る、出会うことが出来るのは「私たちが生きている世界」のほんの一部に過ぎません。綺麗な夜空でした。ライトを消してみんなで夜空を見ています。
2025.11.02
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今日はこれから「天の川を見る会」のキャンプに出るので「からだ遊び」の写真を少しだけ紹介させていただきます。他にも色々あります。木登りです。これは初級バージョンです。上級になると、ただまっすぐに立っているだけの所を肩まで登ります。「生まれる」と呼んでいる遊びで、お母さん達が卵の殻で、中に子どもたちがいます。子どもたちが外に出ようとするのをお母さん達が邪魔しています。四つ足競争。私はこれで負けたことがなかったのですが、数年前・・だっこしてゴロゴロ「因幡の白ウサギ」(「因幡の白ウサギ」のお話をしてからやります)トンネル石渡り縄跳び。子どもをおんぶしたり抱っこしたりしても飛びます。お母さん達ヒーヒー言います。これで下のお母さんが動きます。私が、サーフィンと呼んでいる遊びです。みんなすごいでしょ。ゴロゴロは非常にいい運動なんです。でもお母さん達は一回転がっただけで目も回ります。
2025.11.01
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