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この五月中旬に「豊前国 修験道の中心」と題し、以下のリンクのように二部構成にて、福岡県豊前市の筑紫山地に属する「求菩提山(くぼてさん・標高782m)」の頂上付近にある修験の跡地を散策し、本来の祭神を考察する記事を書いた。実はその記事を書き上げた翌日、再度「求菩堤山」の近郊に訪れる機会があり、まず最初に参拝させていただいた神社は、大分県と福岡県の県境付近を流れる「山国川」の河口域に鎮座する「闇無浜神社(くらなしはま)」であった。そこで本日最初の掲載画像は、当社の社殿を映したものである。※関連記事・・・豊前国 修験道の中心(上)⇒ リンク※関連記事・・・豊前国 修験道の中心(下)⇒ リンク上の画像は、「闇無浜神社」の由来が記された掲示板を撮影したものだ。その由来書にある冒頭の祭神には、「豊日別国魂神」と「瀬織津姫神」とある。この男神の名称にある「豊日別(とよひわけ)」については、かねてより気になっていたので改めて調べてみると、驚いたことに「饒速日命(ニギハヤヒ)」の数ある別称の一つとされていた。・・・となれば、この冒頭の二柱神は、記紀以前の古文書とされる「ホツマツタヱ」等に記された夫婦神ということになる・・・。上に掲げたリンクの「豊前国 修験道の中心(下)」で、古来より「犬ヶ岳」と「求菩提山」に祀られてきた真祭神を、「饒速日命(ニギハヤヒ)」と「瀬織津姫命(セオリツヒメ)」に推定したわけだが、両山とはそれほど遠くない場所に鎮座する「闇無浜神社」にて、同名と思しき二柱神を確認できたことは、我が意を得たりの心境となった次第である。ちなみに、八世紀以降に「饒速日命(ニギハヤヒ)」という神名が改竄された別称の数々を挙げると、大国主、大物主、葦原色許男、日本大国魂大神、布留御魂大神、賀茂別雷、櫛玉、櫛甕玉、鴨大神、事解男、豊日別、金山彦、一言主、高龗神、闇龗神、等々であり、これらの神名は全国の神社に今でも祀られているので、祭神の正体が掴めないということになるようだ。いずれにしても、歴史に残すと都合の悪い神名や人物に多くの名前を与えて「正体を抹消する」というのが、「日本書紀」の編纂において常套手段であった模様である。次に向かったのは、求菩提山の修験道にかかわる豊富な資料を収蔵展示する「求菩提資料館」で、訪れるのは今回で二度目となった。その道中で「求菩堤山(標高782m・向かって右側の手前)」と、隣り合う「犬ヶ岳(標高1130m・向かって左側の奥)の二峰を映した画像が上である。惚れ惚れするような存在感のある修験の二大霊峰を前に、感慨無量の想いで撮影したことを憶えている。上の画像は、求菩提資料館から新緑に包まれた「求菩提山」を見上げて撮影したものだ。同資料館では、館長のお話を直々に伺うことができ、展示資料や文化財に関する見識を、より一層深めることができた。当日は急遽、「求菩堤山」から「英彦山」へ向かうことになり、その道中で見い出せた「犬ヶ岳」を映した画像が上である。その英彦山に至る「福岡県道32号」は、アップダウンも激しく風光明媚な景色が続くので、自然が好きな人には堪らないドライブコースと言えよう。まずは英彦山の「豊前坊 高住神社(標高約800mに鎮座)」に到着。当社の参道は、山頂へ向かう登山口の一つで、参拝だけなら5~6回目となろうか。これまで三回となる英彦山登拝は、当社前にある駐車場が出発地であった。上の画像の社殿が創建される前は、「豊前窟」という名前の49窟ある修行の場の一つだったとされ、神殿は画像左側の巨大な岩窟に潜り込むように建設された風情が印象的だった。そこで上の画像は、当社の由来が書かれた掲示板を撮影したものだ。主祭神は「豊日別(とよひわけ)」という豊前国と豊後国を護る神とされ、冒頭の山国川の河口域に鎮座する「闇無浜神社」のところで解説したように、この神は「饒速日命(ニギハヤヒ)」の別称ということから推察すると、英彦山を源流とする山国川流域はもちろんとして、おそらく豊前と豊後に分かれる以前の「豊国(とよのくに)」の時代においても、古代より「饒速日命(豊日別)」によって守護されてきたことが伺える。ところで、この神社の社名の前に「豊前坊」とあるが、かねてより気になっていたので、先に寄った「求菩提資料館」の館長に・・・英彦山は豊前国に入るのですか?・・・と尋ねてみた。すると館長から・・・英彦山は豊前国に存在する修験道の霊場として、広く九州全域の人々の信仰を集めた歴史があり、最盛期には俗に「彦山三千八百坊」といわれ、3,000人の衆徒と坊舎が800を数えたと伝えられる・・・等々の説明があり、やはり求菩提山とは別格との印象を受けた。※英彦山へ登山した時の関連記事(1)⇒ リンク※英彦山へ登山した時の関連記事(2)⇒ リンク英彦山には前述の「豊前坊 高住神社」の先に、修験と信仰の拠点であった「英彦山神宮(ひこさんじんぐう・福岡県田川郡添田町)」がある。通称は「彦山権現」とされ、熊野の大峰山や出羽の羽黒山とともに、日本三大修験の霊場として栄えた神社である。今回は時間の関係で参拝できなかったが、当社の入口となる第一の鳥居である「銅の鳥居(かねのとりい・国指定重要文化財)」を撮影したものが上の画像である。この高さ約7mの青銅製の大鳥居は、寛永十四年(1637年)佐賀藩主 鍋島勝茂公の寄進によるもので、霊元法皇の「 英彦山 」の勅額が往時の威勢を偲ばせていた。ちなみに「銅の鳥居」の左横に見える建物は、〔 九州西国三十三観音霊場 〕第一番札所 の「英彦山 霊泉寺(れいせんじ)」である。 英彦山山系の標高700~800mのところで、たまたま通りがかった道沿いで見つけたのが、上の画像の景色であった。その風情は、まさしく日本古来の「まつり」の原型・・・神聖なる樹木(ひもろぎ)と神聖なる岩石(いわさか)・・・が、互いに寄り添い抱き合う『 神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか) 』の、心に残る美しい光景であった。そして、本日最後となる下の画像において、遠方に見える山岳は「英彦山(ひこさん)」である。向かって右より、北岳(1192m)・中岳(1180m)・南岳(1199.6m)の三峰からなっている。また同画像の下方を流れる河川は、英彦山の東南麓となる中津市山国町を流れる一級河川「山国川」の上流である。
2016年05月29日

八合目の「御神所岩」から山頂に向かう道程は、それまでの高低差のある厳しさとは打って変わり、なだらかな尾根道を伝って歩き、頂上に辿り着くことができた。冒頭の画像は、その広い山頂部の片隅にあった「馬見山頂上」と掲げてある木版を映したものだ。少し霞んではいたが、山頂より見渡せた展望である。後で知ったのだが、この水流は北部九州最大の川である遠賀川(全長61キロ)の源流のひとつだ。流れる水は所々で集ってみては、また小さく枝分かれして下方に向かう。その綺麗さが際立つ粗目の白砂の上を、水はサラサラと気持ちよさそうに流れゆく。そして小さな支流は徐々に集合して、小川の佇まいを見せ始めた。道端で見つけた「銀竜草(ギンリョウソウ)」は、 首をもたげた白銀の龍の如き気高さがある。見事な緑色に苔むした丸い岩・・・陽光に照らされて美しく輝いていた。麓に降りてきて、ふと北の空を見上げると、あの「御神所岩」のような雲が出ていた。そして下の最後の画像は、向かって左から馬見山(978m)・屏山(926m)・古処山(859m)の三山を映したものである。思い返せば今回の馬見山登山は、この5月5日の「大根地山」への登山にて、山頂に近い神社から上記の三山を展望したところから始まっている・・・。今の私の心中には、その「大根地山」から東方に向かって「馬見山」・「英彦山」・「求菩提山」と、これまで登ってきた北部九州の「修験の山々」が走馬灯のように連なって観えており・・・これで、ようやく繋がったな・・・と、なぜか安堵の想いが浮かぶのであった。(了)
2016年05月26日

そして、この度の馬見山(うまみやま)登山の目玉となる「御神所岩(ごしんじょいわ)」を、様々な角度から映したものが本日の掲載画像である。当山の八合目にある巨大な磐座は、前回の日記で紹介した磐座群とは別格で、その威容な存在感と荘厳な佇まいに、現地に立つ者は誰もが圧倒されてしまうであろう。それは、かつて訪れた「金山巨石群」(岐阜県下呂市金山町)を彷彿とさせ、あたかも肉食恐竜が天空に向かって吠えているかのような風情は、とても魅力的であった。※関連記事・・・金山巨石群(一)⇒ リンク以下に連続する画像では、特に磐座の下部となる「天空に開いた口の部分」にスポットを当てて撮影を試みた。その北西方位の上方に向かって、平らで真っ直ぐな切り口となる開口部は、上記のリンクで類似する磐座に関して解説しているように、年間でも特別な月日(おそらく夏至の頃であろう)の、夕日の陽光を取り込む場所となっていたはずである。いずれにしても、この巨大磐座の下方にある開口部は、おそらく一年間の太陽運行を正確に観測するために古代人が意図的に加工したものであり、そこに置かれた石祠がこの部分(開口部)の重要性を物語っているとも思われた。この上の画像は、「御神所岩」の上方に登って、馬見山は北方の麓を撮影したものだ。おそらく北北西の麓には、このシリーズの(1)で紹介した「馬見神社」が見えるだろうし、またその麓から「御神所岩」が確実に見える場所に馬見神社が建設されたことが伺えた。そして下の最後の画像は、三角形状に切り立つ「御神所岩」の最上部を映したものである。しかし・・・よくぞ、ここまでの『 人工的な巨石加工物(磐座)』が、現代まで残っていたものだ・・・とは、私の個人的な感想である。
2016年05月26日

日を改めて5月7日(土)、馬見神社の近くにあるキャンプ村沿いの車道空き地に車を停め、いよいよ馬見山(標高978m)登山へ・・・。冒頭の画像は、山道の入口にあった遥拝所と書かれた石碑を撮影したものだ。そして下に連なる画像は、八合目に存在する「御神所岩」に至るまでの道中にあった数々の巨石(磐座)群のなかで、自分なりに気に入ったものをピックアップしたものである。ここでは解説は必要あるまい・・・それぞれの磐座が、言葉を越えて物語ってくれるであろう。
2016年05月25日

前回の日記で取り上げた「大根地神社」にて、奉職の神主との語らいのなかで、ご神前の東方に広がる山々になかに「馬見山(978m)」があることを知った。そういえば・・・この馬見山の山中に「巨大な磐座」が存在すること・・・を微かに思い出したので、その足で馬見山の麓まで行ってみることにした。そこで冒頭の画像は馬見山の麓から、その美しい山並みの全体像を撮影したものである。この上の画像は、馬見山の山麓にある「馬見神社」の参道入口を、そして下の画像はその入口近くにあった由来書が記された立て看板を映したものである。ここから神殿までの道のりは、曲がりくねった上り道を含めて300m以上はあったと思う・・・その大木の林立する古式ゆかしき威厳のある参道を、心を引き締めつつ歩いたことを憶えている。最後の石段を登りつめて顕われた御神殿を映した画像が上である。今まであまり見たことのない社殿の造りや色合いに目を見張った。そして画像の位置から社殿の右側に目を向けると、木々の間に馬見山の山頂部が顔を覗かしており、参拝者の心を打つその見事な御神域の佇まいに感動した。下の最後の画像は、参拝後に入口近くで見つけた、馬見山と馬見神社の位置が分かる地図が描かれた看板を映したものだ。その地図には、馬見山と馬見神社を結ぶ山道の八合目あたりに「御神所岩」と記された地点があり、これがおそらく大根地神社から馬見山を見たときに思い出した、あの「巨大な磐座」だということが分かった。その三つの地点は、ほぼ一直線の関係にあり、またその方位は神社から見て真南から東に約20度の「シリウス信仰を示す方位」とわかり、ますます興味を抱くことに・・・。※参考記事・・・「シリウス信仰の痕跡」⇒ リンクそして、後日の登山を決意して神社を後にした。(つづく)
2016年05月23日

今日のブログタイトルにある「大根地山(おおねちやま・標高652m)」は、福岡県筑紫野市にある修験の山と伝わり、かねてより気になる山の一つだった。そして今年のGWを前に、福岡県の那賀川町近辺を2~3回探訪する機会があり、その過程で冒頭画像の「天御中主神社」(福岡県那珂川町片縄)から見て、「大根地山」が真東に存在することを知り、俄然登る意欲が沸いてきたのだった。ちなみに、この「天御中主神社」の鎮座地は、かつては那珂川地域はもとより博多湾岸を含む広域の中心に位置付けられていた模様で、この社地を中心にして四方八方に主要な神社が配置されたことが注目され、なかでも真東にある「大根地山」が強く意識されていたことが確認できる。次に上の画像は、その「天御中主神社」と「大根地山」を結ぶ東西の軸線上の、神社側にある「日拝塚(ひはいづか)古墳」(春日市下白水南地区)から真東方面を撮影したもので、画像中央部の遠方に霞んで見える神奈備山が「大根地山」である。この「日拝塚古墳」は、6世紀前半(古墳時代)に造られたとされる前方後円墳で、墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある「大根地山」から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになったとのことだ。さていよいよ連休中は快晴の日に、「大根地山」の山頂に向かって(旧)長崎街道の冷水峠からの山道を登ることに。そこで上の画像は、(旧)長崎街道と登山道(大根地神社の参道)との合流点にある鳥居を映したものだ。この合流点は、旧山家宿(筑紫野市)と旧内野宿(飯塚市)のちょうど中間地点に位置しており、上の画像にあるように数多の歴史的著名人がここを通って"冷水越え"をしたそうである。ここで改めて「大根地山」を簡単に紹介すると、「英彦山」や「宝満山」と並ぶ福岡県を代表する"修験山"の一つで、山頂近くに鎮座する「大根地神社」を目指して、古くから多くの山伏達が登山してきたとのことだ。上の画像は、その「大根地神社」の拝殿を撮影したものである。そして「大根地神社」を参拝して後ろの正面を振り返ると、上の画像のように素晴らしい景色が広がっていた。この画像中央の遠方に聳える山岳は、北部九州における修験道の総本山たる「英彦山」であり、まさしくこの神社は東方の「英彦山」を意識して建立されたことが分かる。その中央部の「英彦山」から向かって右には、馬見山(978m)・屏山(926m)・古処山(859m)の三山が並んでいる。最後となる下の画像は、「大根地山」の山頂から北方を映したものだ。(神社から徒歩10分位で登頂)山上では五月晴れの心地よい風に癒されつつ、南方には東西に山並みが連続する耳納連山を展望できた。
2016年05月21日

求菩堤山の広い山頂部が、かなりの規模となる巨石群で形成されていたことに感動の余韻に浸りながら、次は少し降った南側の八合目を取り巻く岩壁に寄り添うように歩き、往時は山伏の修験の場とされた「求菩提五窟」と称される五つの岩窟を巡っていくことに。まず冒頭の画像は、岩窟を巡る最初の頃に出会った、近隣河川の源流に数えられるであろう大岩壁の天辺から流れ落ちる微かな水流を映したものだ。それぞれの岩窟には立て看板があり解説も記されているのだが、ただただ次々に現れる巨大な岩壁の数々に圧倒されつつ移動していったのを憶えている。中でも上の画像の「普賢窟」(直下に祠あり)は、そのふくよかな岩肌の女性性に感銘を受け、下方の岩の割れ目に耳を近づけると、その奥に流れる水のたおやかな音が聞こえてきたので、とりわけ強く印象に残っている。そして、この岩窟の割れ目から発掘されたという銅版法華経と経箱は「国宝」に指定されており、それは山麓の「求菩提資料館⇒ リンク」に数々の修験道における信仰の証とともに常設展示してあるのも素晴らしい。以前この資料館を訪れた際に、この国宝(レプリカ)を拝見したのだが、今まで見たことのない魅力に溢れる文化財だったことを憶えている。それはそれとして、実はこの普賢窟(胎蔵窟)は「求菩提五窟」のなかで最重要の霊窟とされ、その普賢窟に祀られた「岩瀧宮」の祭神に関して、明治期初頭の求菩提山に伝わる史料には「岩瀧宮 瀬織津姫命」と明記してあるそうだ。祭神の「瀬織津姫命(セオリツヒメ)」は宮号に「岩瀧」とあるように滝の神でもあり、つまり求菩提山信仰の内部では、普賢窟の霊神・岩瀧大明神が、滝神・水霊神を本質とする「瀬織津姫命」と伝えられていたということである。上の二つの画像は、本日のこれまでの画像のように、あまりに巨大な岩壁のため写真の枠に収まらないので、それぞれ天を仰ぐようにして映したものである。そして下の画像は、最後に訪れた「禊場(みそぎば)」を撮影したものだ。求菩堤山の修験者は修行を終えて帰るとき、この冷泉で身を清めたということである。ところで、古代より「求菩堤山(標高782m)」は、隣り合う「犬ヶ岳(標高1130m)」とともに、一対の霊峰として栄えてきた経緯があるとのこと。ここで興味深いことは、この二つの山の関係が「犬ヶ岳が神の山で、求菩提山がそれを拝した山であろう」と古文献に記され、求菩提山は犬ヶ岳の遙拝山、つまり犬ヶ岳は求菩提山の奥宮的聖山とみなされているところだ。実は求菩提山の南方に聳える犬ヶ岳には、封印された「深秘の尊体」が存在し、それゆえに犬ヶ岳が絶対的な「神の山」とされ、山上に踏み込むことが許されず、求菩提山より遙拝するものとされてきたらしいのだ。その「深秘の尊体」と深く関わる霊神の名が、上に記したように求菩提山の普賢窟に祀られた「瀬織津姫(セオリツヒメ)」である。それでは、犬ヶ岳の「深秘の尊体」とは・・・となるのだが、ここで鍵となるのが求菩提山は国玉神社の境外社「豊照神社(明治以前は毘沙門堂)」であろう。(上の画像は、国玉神社の北方に鎮座する豊照神社を撮影したものだ。)この豊照神社の祭神は、物部氏の祖「饒速日命(ニギハヤヒ)」とされている。そこで思い出したのは、記紀以前の歴史書『ホツマツタヱ』によると、「饒速日命(ニギハヤヒ)」と「瀬織津姫命(セオリツヒメ)」が、夫婦神として記述されていることであった。 それはもしかすると、「犬ヶ岳」と「求菩提山」の一対の関係をあらわしているのかもしれない・・・。※関連記事⇒ リンク
2016年05月13日

先月の4月下旬、豊前国は修験道の中心として名高い「求菩提山(標高782m)」(くぼてさん・福岡県豊前市)を初めて登拝した。冒頭の画像は、その求菩提山の特異な山容を遠望したものである。求菩提山は古くより豊前国の中心と位置付けられ、多くの山伏(修験者)たちが山内に住んで厳しい修行に挑み、英彦山(ひこさん)と共に北部九州修験道の中心を担ってきたそうだ。※英彦山に纏わる関連記事⇒ リンクこの山の信仰の歴史は古墳時代にまで遡ると考えられ、近世の求菩提山文書によると、継体天皇二十年(526)の猛覚魔ト仙による開山、大宝四年(704)の役行者の入山、養老四年(720)の行善による求菩提山護国寺の建立などを伝えている。しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により、求菩提山護国寺は国玉神社と改称され、さらには明治五年(1872)の修験道廃止令によって、求菩提修験道は終焉の時を迎えることになったそうである。まずは山の7合目あたりに相当する、座主坊園地の駐車場(山頂に一番近く綺麗なトイレもある)に車を停めて登り始めた。苔むした緩やかな石段が続き、途中の岩屋坊跡や安浄寺跡などの数々の旧跡を経て、山上に鎮座する国玉神社の立派な石鳥居を映したのが上の画像である。この上の画像は、国玉神社の中宮を経て、鬼が一夜で築いたと言われる「鬼ノ鐙(おにのあぶみ)」の入口辺りで映したものだ。かなりの急坂に850段もの石段が続き、一見すると今にも崩れそうな雰囲気なのだが、長年の風雨や修験者(登山者)の踏み締めに耐え抜いた頑丈な石段であった。ふうふう息を吐きながら、いよいよ山頂へ・・・。上の画像は、その山頂部に鎮座する国玉神社の上宮を、これに向かう下方の石段から映したものである。次の画像は、上宮の左横にあった山頂を示す木標を撮影したものだ。この国玉神社(上宮)は、まさしく求菩提山の山頂に建立されていた。そして、神社の裏手に廻って驚いたのは、上の写真のように累々と巨石が積み重なるように広がり、また繁茂する巨樹と共に山頂部を形成していたことである。この磐座群のことは事前に承知していなかっただけに、感動も一入であった。また下の画像は、その山頂部の巨石群の中で、最も異彩を放ち貫禄のある磐座を写したものである。特にこの磐座は次回の日記で述べることになる、求菩堤山の南方に聳える「犬ヶ岳」の山頂方面を示しているかのようであった。最後の下の画像は、この度の山上を巡った「求菩堤山・周回コース」が描かれた道標を映したものだ。画像の地図では(1)の位置が駐車場で、そこから右回りに黄色で示された山道を(11)~(19)まで廻って一周したということになる。
2016年05月12日

ゴールデンウィークの5月1日、かねてより気になっていた高倉神社(福岡県岡垣町)の南方にある神体山を訪ねた。これまで高倉神社には何度か参拝しているのだが、当社の神体山が「高津峰」という名称で、その山頂部が最初の宮地だと知ったのは、前日4月30日の夜だった。実は昨年の6月に尾張(名古屋市)の熱田神宮を訪れ、初めて境内社の八剣宮を参拝し、かつて八剣神社と呼ばれていた高倉神社との繋がりに思いを馳せたことがあった。※関連記事・・・2015年06月18日 「岩戸開き」に繋がる旅路(1)⇒ リンクそこで、もし高倉神社が熱田神宮の元宮だとすれば、御神体「草薙の剣」の本質たる「南十字星」は、高倉神社の南方にあるはずの神奈備山の山上に、往時は燦然と輝いていたのではあるまいか・・・。※関連記事・・・2012年06月09日 二本(日本)の御剣から・・・⇒ リンクということで当時、高倉神社の周辺地図を確認したときに、確かに当社のほぼ真南に神体山らしき御山が存在しているところまでは突き止めていたのであった。そしてこの度、初めて「高津峰」の麓に立ち、その新緑に輝く神体山を映した画像が冒頭である。図らずも、この「高津峰」には急遽行くことになったため、取り敢えず前日に下調べをしたのだが、当初はこの御山に登拝できるかどうかは定かではなかった。しかし現地に到着し「高津峰」を目指して歩みを進めると、なかなかの急斜面を経て山頂部に辿り着くことができた。二番目の画像は、その「高津峰」の山頂部を、そこに立つ二つの石碑とともに撮影したものである。その山頂部から北方を見ると、響灘の海原を遠く見渡すことができ、絶好の展望所でもあったことが分かる。さてこの画像は、行き帰りの山道で散見した、伸び盛りの「竹」を映したものだ。その高さは5~6mにもなろうが、未だ竹皮に身を包んだまま勢いよく伸長する姿に感動を覚え、またその垂直に立つ姿は「剣」にも観えて実に印象的だった。上の画像は、高倉神社の鳥居から、正面の本殿方面(東方)を撮影したものである。この鳥居の手前には、古い参道と思しき真っ直ぐな道があり、その方向は確実に南方の「高津峰」を示していた。ところで、高倉神社の鎮座する岡垣町の町誌によると、以下のように熱田神宮の伝承とよく似た「草薙剣盗難事件」の伝承が記されていた。(以下参照)・・・天智天皇のころ、新羅国の沙門(僧)道行という者が、尾張の国 熱田宮に祀られていた草薙剣を盗み取って、逃げようとした。筑前 博多まで逃げたものの、ここで取り押さえられた。このとき奪い返した神剣を送り返すまでの間は、再び盗まれるようなことがあってはという配慮から、高倉神社が清浄で、とくに堅固な土地だからということで、剣はこの神殿に安置された。それとともに鍛冶工に命じて、神剣と同じ剣を七振り作らせ、神社に別殿を建てて、八剣を納めた。そのため高倉神社のことを、八剣宮ともいったと書かれている。・・・(岡垣町誌より)余談だが、近年亡くなった名優の高倉健氏は北九州の出身で、名字の「高倉」はこの神社名から付けたそうだ。そして名前の「健」の「けん」という発音から、研ぎ澄まされた「剣」のような男気あふれる演技に繋がったのではなかろうか。観る者の心を魅了した健さんの息吹は、今でもこの高倉神社の御神域に残されているのかもしれない・・・。
2016年05月03日
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